澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

薀蓄オジさん花の下での歴史の講義

言うまでもなく、花と花見は別物である。
http://article9.jp/wordpress/?p=10136

上野は飽くまで花見の名所であって、花の名所ではないと思われがちだが、なかなかそうとも言いがたい。けっこう、多くの花があり珍しい花もある。上野の桜通りは封鎖されて今年の花見はできないが、今年も花は美しく咲いている。ソメイヨシノが主役の座を下りたいま、まばらな人影が、多様な花の美しさを堪能している。

上野の山には、56種の桜があるそうだ。ジュウガツザクラやオオカンザクラなど冬に咲くものもあるが、多くは今が盛り。不忍池の畔は、カンザン、イチヨウ、ウコン、シロタエ、コウカなど里桜の競演が見事である。ベニユタカの盛りは過ぎたが、ヤエベニトラノオ、エイゲンジ、バイゴジジュズカケザクラ、ギョイコウなど、珍しい品種もある。上野にこそふさわしいランランもあれば、かつてはソメイヨシノの片親と言われたコマツオトメ、あるいはアマノカワ、ソノサトキザクラ、フクロクジュなどという目を楽しませてくれる桜もある。イモセ、オモイカワ、マイヒメなどという小粋なネーミングのものも。

珍しい桜の多くは、この辺に出没する何人もの薀蓄オジさんに教わったもの。薀蓄を語るオジさんは桜に限らない。蓮の華の薀蓄を語る人、水鳥の生態について薀蓄をかたむける人、最近は立派なカメラを携えたカワセミの薀蓄おばさんにしばしば会う。教えを乞う姿勢さえあれば、この辺りは薀蓄に満ちている。

桜の下で究極の薀蓄オジさんに出会ったのはいつのことであったろう。真っ赤な夕日が本郷台のビルとビルの間に沈もうとしているころ。小柄で大きな帽子をかぶった、つよい東北なまりの雄弁おじさんに捕まった。薀蓄オジさんには、こちらから声を掛けての出会いが常で、向こうから声を掛けられたのは初めての経験。

客観的には明らかにアヤシいオジさん。それを意識してか、この方、「恥ずかしながら自分は文化庁の歴史審議官」と繰り返して名乗られた。そんな役職があるのかどうか、確かなことはいまだに分からない。最初はいいかげんに聞いていたが、いやいろんなことをよく知っている。ここ東叡山寛永寺の由緒から始まって、蕩々と江戸時代の各地の大名の内政外交、江戸の町の変遷、明治維新の経過、大東亜戦争の将官たちの評価、戦後の東京23区の成り立ち、NHK大河ドラマの裏話等々、語るところ面白く日はすっかり沈んで真っ暗になるまで桜の下での特別講義を拝聴した。

寒くなって来たのでお礼もそこそこに急いで帰ったが、翌日目覚めて以来、あれは本当にあったことなのか、桜に化かされたのではないだろうか。犬も歩けば棒に当たる。ときには、こんな薀蓄オジさんにぶつかることもあるのだ。もっとも、まだ、憲法を語る薀蓄オジさんにはお目にかかっていない。

(2020年4月9日)

良心的番組制作を妨害した森下俊三NHK経営委員長の辞任を求める署名(第1次分)提出

緊急事態宣言が発出された昨日(4月7日)のこと、醍醐聰さんと私と二人で代々木のNHK放送センターに署名簿を提出に出向いた。より正確に言えば、署名者を代表して醍醐さんがNHKに赴き、私が随行した。センターは、コロナ禍にロックダウンのたたずまいの不気味さ。当方も、応接する職員もマスク対マスクである。密着せずに、やや離れて位置をとる。後年、滑稽な場面だったと思い返すことになるのだろうか。

署名は、森下俊三NHK経営委員長の辞任を求める内容の第1次分。そもそも、彼の番組制作への妨害行為は経営委員としての資質に欠けることを物語っているとして、委員長のみならず経営委員の辞任を求めている。その署名内容については、下記URLを参考にされたい。

http://article9.jp/wordpress/?p=14502
http://article9.jp/wordpress/?p=14625

醍醐さんが、森下委員辞任を求める申し入れ書と、下記の賛同署名簿(第一次集約分)ならびに、ネット署名に添えられた賛同者メッセージを提出した。同時に森下経営委員長以下全経営委員12名の銘々に同旨の書類を手渡した。これを受領したのは、経営委員会事務局・松沢明次副部長。

本日持参の署名(4月6日集約第1次分)は、下記のとおりである。

  用紙署名  3,596筆
  ネット署名   435筆
   合 計  4,031筆

また、「クロ現+」のかんぽ番組制作担当者宛に、同旨の書類を用意し、これに署名運動の顛末説明書を添えたものを、同席した視聴者部の藤田、七尾両副部長にお渡しした。

醍醐さんから、あらためて署名内容についての若干の説明があり、その上で、次のような発言も。
「ネット署名に添えられたコメントには、かんぽ生命の不適切な商法の被害者家族からの切実な被害を訴えるものもあり、NHKOBからの現状を深く憂うるものもあります。きちんと意を酌んでいただきたい」「署名運動開始後に、経営委員会から厳重注意を受けた際に、当時の上田良一前会長が『NHKは存亡の危機に立たされることになりかねない』と強く抵抗していたことが判明しました。ところが、このことを国会で追及された森下氏は、事実は認めた上で、開き直って責任を認めようとしていません。経営委員としての不適格ぶりがますます明らかになっています。」

私も一言。
「経営委員会の番組妨害行為の悪質性はとても分かり易い。そのため、国民からのNHKに対する信頼は今地に落ちている。地に落ちた信頼を取り戻すために、今必要な手段は最も分かりやすいものでなくてはならない。そのためには、信頼喪失の責任者である森下さんの辞任以外には考えられない。公共放送への国民の信頼を回復するために、森下さんは辞任すべきだ」

この日の夕方。醍醐さんから連絡のメールが入った。某紙の記者からの問い合わせに報告を返したところ、その記者からこんな挨拶があったという。

「お世話になっております。ご連絡ありがとうございました。自粛の中、これだけの方が問題性を感じているというのは、取材する側としても重いものを感じます。」

民主主義と国民の知る権利を大切とお考えの皆さまに再度のお願いです。署名運動は、4月末まで継続します。
 下記URLを開いて、ネット署名をお願いいたします。
  http://bit.ly/2TM7pGj
 あるいは、http://bit.ly/33gfSETから、署名用紙をダウンロードしていただき、郵送での署名をお願いいたします。

(2020年4月8日)

《検事長の勤務延長に関する閣議決定の撤回を求め》《国家公務員法等の改正案に反対する》日弁連会長声明

 今夕(4月7日)緊急事態宣言という。これも重大事だが、コロナ禍での大騒ぎを奇貨としての安倍の諸疑惑逃れを許してはならない。桜疑惑森友文書改竄疑惑カジノ疑惑河井夫妻疑惑…。そして、そのすべてに関わるものが幹部検察官人事介入疑惑である。

ことの発端は、黒川弘務東京高検検事長についての違法な定年延長。露骨なえこひいき人事であった。これを指摘された安倍は反省するどころではない。いま開き直って検察庁法改正を含む国公法改正を強行しようとしている。今後は、「合法的に」内閣の裁量によって幹部検察官の人事に介入しようというのだ。

昨日(4月6日)、日弁連がようやくこの問題に会長声明を発した。「法の支配と権力分立を揺るがすと言わざるを得ない」と踏み込んで批判している。各地の単位弁護士会のうち、既に22会がこの問題について、実務法律家の立場から反対意見を表明している。日弁連としてはやや遅きに失したという声もあるが、荒中新会長の決断に敬意を表したい。

声明も言うとおり、刑事司法の根幹を揺るがし、三権分立の大原則をも崩壊させかねない大問題である。安倍政権への国民の信頼がなくなることは些事であるが、刑事司法への国民の信頼が失われることは、憂慮すべき由々しき事態である。

なお、本年3月5日、日本民主法律家協会を含む法律家9団体が、「東京高検検事長黒川弘務氏の違法な任期延長に抗議する法律家団体共同声明」を公表しており、4月2日付けで日本民主法律家協会が、下記の「検察官の独立を侵す検察庁法改正案に反対する声明」を出している。これをご紹介しておきたい。
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検事長の勤務延長に関する閣議決定の撤回を求め、国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対する会長声明

政府は、本年1月31日の閣議において、2月7日付けで定年退官する予定だった東京高等検察庁検事長について、国家公務員法(以下「国公法」という。)第81条の3第1項を根拠に、その勤務を6か月(8月7日まで)延長する決定を行った(以下「本件勤務延長」という。)。

しかし、検察官の定年退官は、検察庁法第22条に規定され、同法第32条の2において、国公法附則第13条の規定により、検察官の職務と責任の特殊性に基づいて、同法の特例を定めたものとされており、これまで、国公法第81条の3第1項は、検察官には適用されていない。

これは、検察官が、強大な捜査権を有し、起訴権限を独占する立場にあって、準司法的作用を有しており、犯罪の嫌疑があれば政治家をも捜査の対象とするため、政治的に中立公正でなければならず、検察官の人事に政治の恣意的な介入を排除し、検察官の独立性を確保するためのものであって、憲法の基本原理である権力分立に基礎を置くものである。

したがって、国公法の解釈変更による本件勤務延長は、解釈の範囲を逸脱するものであって、検察庁法第22条及び第32条の2に違反し、法の支配と権力分立を揺るがすものと言わざるを得ない。

さらに政府は、本年3月13日、検察庁法改正法案を含む国公法等の一部を改正する法律案を通常国会に提出した。この改正案は、全ての検察官の定年を現行の63歳から65歳に段階的に引き上げた上で、63歳の段階でいわゆる役職定年制が適用されるとするものである。そして、内閣又は法務大臣が「職務の遂行上の特別の事情を勘案し」「公務の運営に著しい支障が生ずる」と認めるときは、役職定年を超えて、あるいは定年さえも超えて当該官職で勤務させることができるようにしている(改正法案第9条第3項ないし第5項、第10条第2項、第22条第1項、第2項、第4項ないし第7項)。

しかし、この改正案によれば、内閣及び法務大臣の裁量によって検察官の人事に介入をすることが可能となり、検察に対する国民の信頼を失い、さらには、準司法官として職務と責任の特殊性を有する検察官の政治的中立性や独立性が脅かされる危険があまりにも大きく、憲法の基本原理である権力分立に反する。

よって、当連合会は、違法な本件勤務延長の閣議決定の撤回を求めるとともに、国公法等の一部を改正する法律案中の検察官の定年ないし勤務延長に係る特例措置の部分に反対するものである。

2020年(令和2年)4月6日

日本弁護士連合会
会長 荒   中

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検察官の独立を侵す検察庁法改正案に反対する声明

2020年4月2日
日本民主法律家協会

第1 はじめに
2020年3月13日、政府は、検察官のいわゆる定年延長(以下、原則として勤務延 長と呼ぶ。)などを盛り込んだ検察庁法の改定を含む「国家公務員法等の一部を改正する法律案」(以下、法案という。)を閣議決定し、国会に提出した。
検察官について、法案は、
①検察官の定年を検事総長と同じ65歳に段階的に引き上げる、
②63歳に達した検事正、検事長、次長検事につきいわゆる役職定年制を導入する、
③役職定年を超える任用の特例を認める、
④定年年齢に達した検察官について「公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由」があると認める場合に勤務延長を認める、
というものである。
しかしながら、法案のうちとりわけ③④については、時の政治権力による検察人事への不当な介入、それによる検察行政への不当な影響をもたらすという危険を多分に有する。これは、法の支配・法治国家という近代国家の基本原則をゆるがせにすることでもあり、到底容認することができない。

第2 正当な立法事実の不存在と法案による違法な事実の追認
1 法案には、そもそも、正当な立法事実が存在していない。一般の公務員の場合、職務の内容、その執行される場所が多岐・広範であることから、いわゆる余人をもって代えがたいなどの状況もありうる。従って、それに対処するために定年延長が必要な場合があることは事実である。しかし、検察官の場合、検察事務・検察行政ないし法務行政のいずれであれ、その職務内容や執行の場所は一般の行政に比して限局されている。また、検察官同一体の原則に基づく事務委任・事務引取移転により、検察官の行う事務作業を円滑に維持することが可能で、現にそのように実施されてきた。戦前の裁判所構成法の下で一時期存在していた判検事の定年延長制度を、戦後の裁判所法・検察庁法が引き継がなかったのも、裁判所構成法の立法当初指摘された勤務延長を認める必要性が現実には存在しなかったことに由来する。ある検察官の定年退職によりこれらの事務が阻害されたとの事実ないしそのおそれの存在は、まったく示されていない。正当な立法事実の存在自体が、極めて疑わしい。2019年10月末に内閣法制局が一度了承した検察庁法改正当初案においては、勤務延長などに関する規定はなく、法務省が2019年10月にまとめた説明資料でも、「(検察官は)柔軟な人事運用が可能」で、「公務の運営に著しい支障が生じるなどの問題が生じることは考え難く、…(特例)規定を設ける必要はない」と明記している。

2 法案は、2020年1月31日に閣議決定された黒川弘務東京高検検事長のいわゆる定年延長問題に端を発したものである。黒川氏は現行の検察庁法に基づき2月に定年退職する予定であったところ、安倍政権は、「検察官は国公法の定年延長を適用されない」という従前の法解釈を変更し、これに基づいて黒川氏の定年が半年間延長された。これは、「首相官邸に近い」とされる同氏を次期検事総長に就任可能とする措置だとも言われている。しかし、このような解釈変更とそれに基づく勤務延長措置がきわめて恣意的であり、違法・不当であることは、われわれを含む法律家9団体が先に発表した2020年3月5日付「東京高検検事長黒川弘務氏の違法な任期延長に抗議する法律家団体共同声明」、各報道機関の論調をはじめ、各方面からすでに多数指摘されているところである。すなわち、国家公務員法の規定する勤務延長制度は検察官には適用されないとしてきた従来の解釈を、官邸の独断により正規の手続もなく変更するという違法手段によって、たった1人のためにだけ勤務延長が強行され、これにより政治権力による検察への介入に対する防波堤が崩されることとなった。これを契機として準備されたと思われるこの法案は、立法事実を欠くのみならず、上記のような違法・不当な措置を、立法という形をとって「合法化」するものである。社会状況の変化などで法解釈が変更されることはありうるとしても、法案はそのような要請に基づくものでない。きわめて不公正かつ邪悪な意図に基づくものである。

第3 時の政府による検察支配のための法案
1 検察官は、内閣に属する行政権を担う行政官であるが、その職務は司法権の行使と密接に関係する。このため、検察官が行う事務を統括する検察庁も、通常の行政機関とは異なる「特別の機関」(国家行政組織法8条の3)とされている。また、検察官は、いわゆる独任官庁として自己の良心に従った事件処理を行うべきことも要求されている。かかる特殊性から、検察官には、一般公務員よりも手厚い、裁判官に近い身分保障が付与され、停職・免職事由は法定の事由に限られる(検察庁法25条)。これらは、政治権力が検察に対して不当に介入することを防止し、検察官が自己の良心に従って独立した判断を行うことを可能とするためであるが、法律に事由を明定することによって検察官人事の客観性・透明性を担保する機能をも有する。法務大臣のいわゆる具体的指揮権の対象を検事総長に限った(同14条)のも、検察に対する政治的影響を極力排する趣旨からである。このことは、日本に限らず世界的な要請である。
各国の検察官が参加する組織である「国際検察官協会」(INTERNATIONAL ASSOCIATION OF PROSECUTORS)の策定した「専門職責任と検察官の基本的な権利義務に関する宣言の基準」(STANDARDS OF PROFESSIONAL RESPONSIBILITY AND STATEMENT OF THE ESSENTIALDUTIES AND RIGHTS OF PROSECUTORS)なども、検察官の不羈独立・公平を強く求めている。定年制も、人事の新陳代謝を確保しつつ、年齢という客観的基準のみで検察官の身分を失わせる点で、きわめて公正な制度であり、政治権力の検察への恣意的な介入を防ぐ機能を有している。日本において特殊な定年制を導入してきた官職の多くは、独立性・専門性の高い職種で、検察官の定年制も、そのような職務の特殊性に由来するものであった。司法権の地位と機能を強化した日本国憲法の下では、判検事の独立性はきわめて重要であり、定年制も、判検事の人事に対する政治権力の介入を防止するという趣旨から理解されるべきである。政治権力の検察への介入、あるいは検察権限の政治的利用が市民社会や国家の在り方にきわめて悪い影響を与えることは、大逆事件、帝人事件、造船疑獄事件をはじめとする多くの事件が示すとおりである。現在の検察庁法も、そのような弊害を引き起こさないことを重要な柱としている。しかし、法案による勤務延長や役職定年の延長は、以上の原則に逆行する。

2 検事総長などの検察最高幹部は、内閣により任免され天皇により認証される(検察庁法15条1項)。この点で、政治権力が検察官人事に関与することは事実である。しかし、免職は法定事由に限られ、任用も、具体的な検察事務などとは関係なく当該検察官の人格識見に基づくものである点で、恣意的な介入の度合いは相対的に少ない。これに対し、法案によれば、検事正を含む検事・副検事については法務大臣の定める準則、検事長・次長検事・検事総長については内閣の定めるところにより、当該検察官にかかる「公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由」を考慮して、それぞれ勤務延長や役職定年延長の措置を執るというものである。この点で、政治権力が具体的な検察事務などに踏み込んで勤務延長などの要否・当否を判断することが、可能となる。このことはまた、政治権力の絡む事件の捜査・公判について、いわゆる「忖度」などによる検察官の萎縮効果をもたらしうることとなり、検察の不羈独立や公平は画餅に帰しかねない。特に、検事総長などの検察最高幹部は、政治権力と接触することが多い地位であるだけに、一層の不羈独立・公平が求められる。にもかかわらず、法案によれば、内閣の意向でその地位を左右することが可能となる。検察は、権力者の番犬に成り下がることとなる。

第4 結論―法案は廃案とすべきである
以上のように、法案は、その必要性を欠き、むしろ、百害あって一利のないものというべきである。そして、法案が提起された背景をも見るならば、そこには、法の支配・法治主義という近代国家の原則を理解せず、むしろそれに敵対的で、絶対王政的な人の支配に親和的で、現にそのような政権運営をあらゆる方面で行ってきた現政権の姿勢を如実に表わしたものというべきである。従って、法案は速やかに廃案とされるべきであり、われわれはそのために最大の努力を尽くすものである。
以上
(2020年4月7日)

緊急事態宣言の発出がもたらす「副作用」

明日(4月7日)にも、インフル特措法に基づく緊急事態宣言の発出がなされるとの報道に気が重い。とは言うものの、宣言の効果として可能となるべきことの多くが既に前倒しで実行されてきたのだから、今さらの宣言で変わるところは小さい。

もっとも、宣言の法的効果は小さくとも、宣言自体がもつ社会心理的効果には大きなものがあるだろう。損失補償のないままに、民間諸団体への営業や興行への自粛の要請や指示が横行することになるに違いない。そして、危惧されることは、政府の要請や指示に従わない者に対するバッシングや同調圧力の強化である。それこそが、緊急事態条項のもつ最大の副作用である。

本来行政のなすべきことは医療態勢の充実でなければならないが、ここで露呈したものは、日本の医療の脆弱さである。にもかかわらず、行政はコロナ禍の蔓延を国民の行動に転嫁しようとしているのだ。行政も自治体も、これまでの医療行政の怠慢を率直に認めた上で、たらざるところに国民の協力をお願いするという真摯な姿勢を貫かねばならない。国民・都民からの信頼薄い安倍・小池である。至難の業であることを肝に銘じなければならない。

なお、この間の厖大なコロナ関連報道の中で見えてきたものがある。感染症予防策とは、臨床医療とはまったくの別物だということである。両者は、相補う関係であるよりは、どうやら相反するものであるらしい。専門家には常識なのかも知れないが、門外漢にはこのことの自覚が重要ではないか。

感染症予防が保護対象として関心をもつのは個人ではなく社会である。未罹患者も患者も、個人は統計上のサンプルとして扱われる存在に過ぎない。常に、社会防衛のためには個人の犠牲は甘受せざるを得ないと割り切られる危険を背負っている。政策としてのコロナ対策も、感染症予防に力点を置きすぎると、患者を切り捨てる弊害を招きかねない。安倍や小池のやることである。常に、批判の視点が必要なのだ。

感染症予防には、社会全体としての利益の最大化が大切なので個人の犠牲は些事であるという匂いを感じる。社会の多数者の生き残りと対処こそが大切なので、そのための施策で患者個人に不利益があったとしてもやむを得ないとする。

臨床診療は、医療従事者の目の前にある患者個人の生命と健康の救済が課題のすべてである。この患者を見捨てることは許されない。

今回のような緊急時に、両者の矛盾が露わとなる。
陽性患者となったあるタレントが、自覚症状発現後PCR検査を受けるまでの経過が次のように報道され、身近な人がこう語っている。
https://lite-ra.com/2020/04/post-5352.html(リテラ)

 「3月21日に発熱があり医師の指導で2日間自宅待機、その後25日に仕事復帰。26日に味覚障害・嗅覚障害があったことから、以降仕事をキャンセルし自宅待機。その後4月1日にCTで肺炎の診断、ようやくPCR検査を受け、3日夜に陽性が確認された。」
〈先週、味がしない・匂いがしないの症状が出て、26日木曜日から仕事を休んでいます。〉〈そこから病院に診察に行っても、コロナ検査をしてもらえず。自分で保健所に電話しても、その症状だけだと検査してもらえなくて。でも、不安で、今週水曜日、いくつめかの病院で、頼み込んで頼み込んで頼み込んで、ようやく検査してもらえました。やっとです。発熱して、体温が高ければ検査してもらえたのかもですが、これが一番怖いです。検査してもらえない。〉

感染症対策は、大量患者の観察から検査規準を設定して、規準該当者だけを要PCR検査対象とし、この規準からはずれた者は敢えて検査対象としない。検査態勢が脆弱で数的限界があるからでもあり、あるいは、規準からはずれた厖大な者までを検査対象とすることは、コストパフォーマンスの視点から効率的ではないと割り切るのだ。

さらに、検査対象を拡大することによる陽性患者の大量輩出には診療態勢が追いつかないのだから、検査対象は絞り込まざるを得ないことになる。医療行政は得てしてこのような視点に立ちやすい。

ここには、近代社会が克服したはずの優生保護思想や社会ダーウィニズムと通底する反人権的な考え方がひそんでいる。社会として持続するに必要なだけの生命の確保は必須だが、その余の犠牲はやむを得ないとするものである。

医療従事者にも、感染症対策の専門家にも、そして医療行政にも政治家にも、決して国民の命の選別は許されない。今こそ、その当然の道理について、声をあげなければならない。
(2020年4月6日)

《惨事便乗型政治》に警戒を

「ショック・ドクトリン」《惨事便乗型資本主義》と訳される。「ショック=大惨事」が多くの人を震えあがらせる事態に付け込む経済政策を批判的にいう。権力が国民を震えあがらせてその意思を貫徹することでもあり、資本主義の歪みが大きな惨事の際に増幅されて顕在化することでもある。

多くの人の心理的な不安に付け込もうという輩は、この世に満ちている。惨事便乗型悪徳商法、惨事便乗型政治手法、火事場泥棒的な改憲提案や立法策動が絶えることはない。惨事が蔓延する非常事態には、常にも増して為政者に欺されぬよう警戒が必要である。市民の側に、「ショック・ドクトリン」への耐性が必要なのだ。

コロナウイルス禍は、今や陽性者が増加し、死者も増えている。多くの人に危機意識が募っている。これは、戦時を除けば、滅多にない惨事であり非常事態である。このようなときにこそ、身構えよう。この危機意識に付け込まれてはならない、非常事態宣言がなされたとして、すべてを行政に委ねてはならない。口を封じられてはならない。批判を続けなければならない。

一昨日(4月3日)の毎日新聞夕刊『特集ワイド』が、「この国はどこへーコロナ禍に思う」シリーズとして島田雅彦のインタビュー記事を掲載している。

彼の危機感は、こう整理されている。
<新型コロナウイルスの政治利用例
 1 検査をせず感染者数を抑え、対策は万全とアピール
 2 政府の無為無策隠し
 3 対策に乗じた関係企業への利権誘導
 4 経済政策失敗の隠蔽
 5 議員に感染即国会中止
 6 緊急事態宣言、大政翼賛復活 
服従は悪への加担。抗議するなら今のうち>

そして、島田はこうも言う。
「安倍政権は数の論理にあぐらをかいて、(自衛隊の中東派遣など)国の重要方針を閣議決定だけで決め、国家予算にしても私的な乱用が目立ちます。ナチス・ドイツや米ブッシュ政権もそうでしたが、政治が密室化し、限りなく独裁に近い状態です」。
《何をやってもヨイショしてくれるマスメディア、不正を常に不起訴にしてくれる検察、逮捕されそうな仲間を助けてくれる警察(中略)、これだけ揃えば……》

コロナ禍なくしてこのとおりなのだ。いま人びとの危機感高まりつつあるこの非常時には、「挙国一致」「国家総動員」などという国民統合への同調圧力が強まることになろう。その最悪の事態が、島田雅彦も言及する「緊急事態宣言⇒大政翼賛復活」である。

既に悪質な右派勢力から、「今、悠長に議論を重ねているときではない」「政党同士が角突き合わせている時期ではない」「政府が効率よく果敢なコロナ対策ができるよう環境を整えなくてはならない」という、大政翼賛型政治を望む論調が出始めている。

大政翼賛政治が政府の専横を許し、国の方針を誤らしめ、国民を塗炭の苦しみに陥れたことを忘れてはならない。

「ショック」たる事実を冷静に正確に受けとめて議論を重ねることで、政府の恣意的な専横を許容する「ドクトリン」を防ぐことが可能となる。「ショック・ドクトリン」の成果として、大政翼賛型政治を許してはならない。また、そのような議論と対決しなければならない。
(2020年4月5日)

再度のお願いです。森下俊三NHK経営委員長の辞任を求める署名にご協力を ー (転載・拡散のお願い)

放送法を踏みにじり、NHKの番組制作を妨害した
森下俊三氏のNHK経営委員辞任を求める署名運動
へご協力ください

民主主義と国民の知る権利を大切とお考えの皆さまに再度のお願いです。
下記URLを開いて、ネット署名をお願いいたします。
http://bit.ly/2TM7pGj

あるいは、http://bit.ly/33gfSETから、署名用紙をダウンロードしていただき、郵送での署名をお願いいたします。

 NHKこそは国内最大の影響力を誇るメディアです。かつては、天皇制国家の統制に服する存在として「大本営発表の伝声管」の役割を果たしましたが、戦後は国家や時の政権から独立し、資本の支配も受けないという、「公共放送」となりました。権力ではなく、主権者国民がこれを監視し育ててゆかなければなりません。

 しかし、問題だらけの安倍政権は、一貫して経営委員人事を通じてのNHKへの介入を画策してきました。ご存じのとおり、NHKの最高意思決定機関が経営委員会です。その12名の経営委員全員が安倍首相の任命によるもので、互選による経営委員長が森下俊三氏。NTT出身で阪神高速道路会長だった財界人。これがとんでもない人物。この人の経営委員辞任を求める署名活動を始めています。念のためですが、経営委員長辞任ではおさまらない。経営委員を辞めなさい、ということなのです。

辞任を求める直接の理由は、この人の露骨な番組制作の妨害行為。明らかな、放送法違反の違法行為です。この人の「クローズアップ現代+」の番組潰しが、到底経営委員としての資格を認めがたいのです。

「クローズアップ現代+」は2018年4月に、日本郵政の悪徳商法を番組に取りあげました。日本郵政は、職員に過酷なノルマを課し、詐欺同然のやり方でかんぽ保険等の不正販売を続けてきたのです。NHKの現場スタッフは、これ以上の消費者被害を出さぬよう、視聴者に警告を発する立派な番組を制作し放送しました。そして、その上で続編の制作に向けて取材を続けていました。

ところが、あろうことか、当時NHK経営委員会の委員長代行であった森下俊三氏は、さらなる不正の発覚を恐れた日本郵政の不当な要求を取り次いで、「クロ現+」の番組の取材と編集に露骨に干渉し、続編の制作を妨害する発言をしたのです。信じがたい経営委員としての任務違背の違法行為。彼の頭の中のNHKとは、上命下服の指揮系統だけの存在で、政治的権力や社会的強者、あるいは不正不当を批判するジャーナリズムの神髄への理解は皆無なのです。

そもそも「放送法」は、番組の制作と経営とを分離し、経営委員が個別の番組の編集に関与したり、干渉したりする行為を禁じています。にもかかわらず、森下氏は「クロ現+」が続編制作のための取材を続けていたことを知りながら、経営委員会の席上その取材方法を公然と非難する発言を行い、上田良一会長(当時)への厳重注意決議を成立させるまでして、番組制作を妨害しました。

その森下氏が現在のNHK経営委員長ですが、当時の行為についての反省はありません。事実関係の大筋は認めながら、「放送が終わった番組について感想を述べたまでで、干渉はしていない」と開き直っています。ことここに至っては、森下氏の経営委員としての不適格は明らかであるだけでなく、このような郵政への忖度志向人物が、政権から独立したNHKの姿勢を堅持できるとは、到底考えられません。

以上のとおり、森下氏はNHK経営委員長としてばかりか、NHK経営委員としても不適格であることは明らかですから、私たちは、NHKの自主自律、番組編集の自由を守るために、森下俊三氏に、経営委員の辞任を求めます。

署名運動の要領は、以下のとおりです。
*署名の第一次集約日:2020年月4月5日(日)
第一次集約分を4月7日11時半に経営委員会事務局と面会し提出の予定です。
第二次集約日:4月30日(木)必着
*署名は用紙かネットのいずれかでお送りください。
・用紙の郵送先:
〒285-0858 千葉県佐倉市ユーカリが丘2-1-8
佐倉ユーカリが丘郵便局留
「森下経営委員の辞任を求める署名運動の会 醍醐 聰」宛て
署名用紙のダウンロードは→ http://bit.ly/33gfSET から。
*ネット署名: http://bit.ly/2TM7pGj
<以下はネット署名です>のところに記入して「送信」をクリック。
メッセージもお願いします。
*この署名に関するお問い合わせは、
メール:kikime3025-dame18@yahoo.co.jp へ
**************************************************************************
NHK経営委員長
森下俊三 様

放送法を踏みにじり、NHKの番組制作を妨害した森下俊三氏の
NHK経営委員辞任を求めます

呼びかけ団体
NHKとメディアを考える滋賀連絡会/NHKとメディアを考える東海の会/NHK問題大阪連絡会/NHK・メディアを考える京都の会/NHK問題を考える奈良の会/NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ/「日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える11.5シンポジウム」実行委員会/NHKとメディアを語ろう・福島/NHKとメディアを考える会(兵庫)/表現の自由を市民の手に 全国ネットワーク/NHK問題を考える岡山の会/NHK問題を考える会・さいたま/政府から独立したNHKをめざす広島の会/放送を語る会/時を見つめる会/NHKをただす所沢市民の会/NHKとメディアの今を考える会/NHKを考える福岡の会/NHKを考えるふくい市民の会

日本郵政は職員に過酷なノルマを課し、詐欺同然のやり方でかんぽ保険等の不正販売を続けてきました。2018年4月、NHKの「クローズアップ現代+」はこの件を取り上げて視聴者に警鐘を鳴らすとともに続編の制作に向けて取材を続けていました。
ところが、あろうことか、当時NHK経営委員会の委員長代行であった森下俊三氏は、さらなる不正の発覚を恐れた日本郵政の不当な要求を取り次いで、「クロ現+」の番組の取材と編集に露骨に干渉し、続編の制作を妨害する発言をしていた事実が明るみに出ました。
そもそも「放送法」は、番組の制作と経営とを分離し、経営委員が個別の番組の編集に関与したり、干渉したりする行為を禁じています。にもかかわらず、森下氏は「クロ現+」が続編制作のための取材を続けていたことを知りながら、経営委員会の席上その取材方法を公然と非難する発言を行い、上田良一会長(当時)への厳重注意決議を成立させるまでして、番組制作を妨害したのです。
現在、森下氏はNHK経営委員長に就任していますが、当時の行為についての反省はなく、「放送が終わった番組について感想を述べたまでで、干渉はしていない」と強弁し、居直っています。ことここに至っては、森下氏の経営委員としての不適格は明らかと指摘せざるを得ません。
そこで、私たちは森下俊三氏に以下のことを求めます。

森下俊三氏は直ちにNHK経営委員を辞任すること

私は上の求めに賛同し、以下のとおり署名します。
氏  名      住     所

(2020年4月4日)

専門家に対する信仰はやめ、その言を吟味しよう。

「コロナおたく」を志そう。「感染症マニア」になろう。その道の専門家になる必要はないが、専門家の説明を正確に理解する能力を身につけよう。それ丈でなく、専門家の言を問い質す力量を身につけなければならない。そのために、基礎的な知識が必要なのだ。誰かの指図を鵜呑みにし受け入れるのではなく、自立した主権者として自主的な判断をするためである。面倒でも「おたく」「マニア」となろうではないか。

コロナ蔓延のこの時期。安倍や小池に欺かれてはならない。タヌキにも狐にも化かされないためには、相応の心構えが必要なのだ。感染症のなんたるか、新型コロナのなんたるか、そして日本の医療体制や製薬業界事情についての基礎知識を身につけておくことが必要なのだ。面倒でも、ある程度の学習がどうしても不可欠なのだ。

私も、にわか勉強だ。そして考える。この難局を切り抜けるために何が必要なのか、この難局を奇貨としての為政者たちの逸脱した行動をどう抑制するか。そのために何が必要なのか。誰を頼ったところで、正解を得られるものでもない。自分自身で考えるしかない。

感染症法は、その対象となる感染症を 一類から五類に分類している。
(一類感染症)エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘そう、南米出血熱、ペスト、マールブルグ病、ラッサ熱、(二類感染症)急性灰白髄炎、ジフテリア、重症急性呼吸器症候群(SARS)、結核、鳥インフルエンザ(H5N1)、(三類感染症) 腸管出血性大腸菌感染症、コレラ、細菌性赤痢、腸チフス、パラチフス(以下、略)

「指定感染症」とされた新型コロナウイルス感染症は、これらの知られた感染症に比較して、感染力がとりわけ強いわけでも、致死率が特に高いわけでもない。しかし、これまでになかった感染症であることから、人類の誰もこの感染症に対する抗体をもっていない。もちろん、ワクチンも治療薬もないことから、恐怖の疫病となっている。

もっとも、この感染症がいかに猖獗を極めようとも、、人間集団に感染し尽くせば、自然の抗体を獲得した人類は、やがてこの感染症を克服する。しかし、それまでどれだけの生命が奪われることになるのか、計り知れない。何より大切なのは、これらの生命の損失を最小限に押さえることにある。

いま、感染患者に対する積極的な治療方法はなく、PCR検査で確認された患者には入院が義務付けられているが、入院の意味は感染防止のための隔離と自然治癒を期待しての対症療法を行うことしかない。

何よりもワクチンの開発が求められている。ロイターの伝えるところでは、「米ピッツバーグ大学医学部の研究者は、開発中のワクチンに感染予防に役に立つ水準で免疫力を高める効果があることをマウスを使った動物実験で確認したと発表した」という。おそらくは各国の研究者が工業化にしのぎを削っていることだろう。が、その実用化は、早くとも来年の初めであろうという。

そして、治療薬である。幾つかの既存の薬剤が、新型コロナに有効と期待されている。たとえば、エボラ出血熱の治療薬として開発されていた抗ウイルス薬であるレムデシビル(米ギリアド)。抗インフルエンザウイルス薬として、200万人分が備蓄されているファビピラビル(富士フイルム富山化学の「アビガン」)。 気管支喘息治療薬として承認された吸入ステロイド薬シクレソニド(帝人ファーマの「オルベスコ」)など。

これらのワクチンと治療薬の開発を急ぐとともに、これが完成するまでの間に感染を可能な限り予防し、罹患患者を早期に確認して感染拡大防止のために隔離するとともに、対症療法を行う。とりわけ重症者への救命治療が中心的課題となる。

医療がなすべきことは、まずは可能な限り広範な検査である。主訴のある人、罹患の可能性の高い人を中心に、積極的な検査が必要である。

いま、東京の感染者数の拡大が大きな話題となっている。昨日(4月2日)までのところ、検査陽性者の状況(チャーター機帰国者、クルーズ船乗客等は含まれていない)は、以下のとおりである。

陽性者数(累計)  684 人
そのうち入院中 628 人
  軽症・中等症 610 人
  重症       18 人
そのうちの死亡  16 人
そのうちの退院 40 人

公表されている検査実施人数(累計) 3336人である。そのうちの陽性者が684人(20%)であり、その陽性者の死亡者と現在入院中の重症者は合計して34名(陽性者の5%)である。

この数値を眺めているだけでは、大きな危機感は出てこない。この患者数で、医療崩壊間近ということであれば、入院医療はICU設備の充実した専門病院に重症患者対応としてお願いし、あとの95%は症度に応じた隔離と観察ができるケアをすべきだろう。空き部屋となっているオリンピックの選手村の活用などを真っ先に考えるべきであろう。

問題は、公表されたこの数値のバイアスである。検査者数の極端な少なさが不自然である。意図的に検査者を少なくして陽性者数を抑えてきたとの疑惑は払拭できない。累計死者数(16人)も、極端に少ない。死因が肺炎とされる死亡者は全国で年間14万件にも及ぶ。東京だけでも1万人以上。実はこの間の肺炎死者の中に、コロナウイルス死者が紛れていたのではないか。

いずれにせよ、行政がこれから爆発的感染者拡大が起こると予測をするのであれば、その根拠を示してもらわねばならない。国民は、専門家という名の占い師を信仰しているのではない。
(2020年4月3日)

DHC・吉田嘉明 展望なき上訴 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第175弾

3月18日(水)に言い渡された「DHCスラップ『反撃』訴訟」の控訴審判決。その上訴期限最終日の昨日(4月1日・水)、DHC・吉田嘉明が最高裁に上訴した。控訴審判決の「連帯して165万円を支払え」とする命令を不服としてのもの。

高裁の控訴審判決に不服ある場合の上訴(上級審への不服申立)には、「上告提起」と「上告受理申立」の両手段がある。「上告提起」は、原判決に憲法違反や重大な訴訟手続の違法があることを理由とする場合、「上告受理申立て」は、原判決に判例違反や法令の解釈に関する重要な間違いがあることを理由とする場合に認められる。DHC・吉田嘉明は、両手段を併用して申し立てている。

「上告提起」も「上告受理申立」も最高裁宛となるが、上告状兼上告受理申立書の提出先は、原審の東京高裁第5民事部である。これから速やかに、同民事部から両当事者に「上告」「上告受理申立」の受理通知が送付される。その通知が到達後50日以内に、DHC・吉田嘉明は、「上告理由書」「上告受理申立理由書」を作成して同民事部に提出しなければならない。一件記録が最高裁にまわるのは、その後のことになる。

実務家の常識からは、このDHC・吉田嘉明の上告も上告受理申立も、無理筋の展望のない上訴というほかはない。最高裁が耳を傾けるはずもない。敗訴確定先延ばしに過ぎない無駄な努力。かくて、圧倒的な優勢のうちに、DHC・吉田嘉明と私との訴訟上の争いは、最終第6ラウンドを迎えることになった。

2014年4月16日 DHC・吉田嘉明は、私(澤藤)を被告とする訴状を東京地裁に提出した。その請求の趣旨において、私の3件のブログ記事の削除を求めるとともに謝罪を要求、さらに2000万円の損害賠償金を支払えとした。この訴状が私に届いたのが、同年5月13日。この日、私は初めてDHC・吉田嘉明から、無謀な宣戦布告があったことを知らされた。そして、DHC・吉田嘉明にその愚行を後悔させなければならないと受けて立つことを決意した。これが第1ラウンドの始まりである。

私はこの提訴を、DHC・吉田嘉明の「黙れ」「オレを批判するな」という野蛮な恫喝と理解した。絵に描いたような悪役登場の典型的スラップ訴訟である。まずは、黙ってはならないと決意し、ブログに「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズを書き始めた。

もちろん、私憤がエネルギーの原動力である。吉田嘉明ごときに、脅せば黙り込むだろうと舐められたのが腹に据えかねたのだ。もっとも、怒りは私憤ばかりでもない。スラップは表現の自由の敵である。その意味では、スラップとの闘いは大いに公共の意義をもつ。また、DHC・吉田嘉明はヘイトとデマの源泉であることも少しずつ分かってきた。この闘いのエネルギーには、私憤だけでなく公憤も加わった。

こうしてブログに「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズを書き始めたら、DHC・吉田嘉明の代理人弁護士今村憲から警告があり、続いて請求が拡張された。同年8月29日に、なんと請求額は4000万円跳ね上がった。あらためて、6000万円を支払えというのだ。DHC・吉田嘉明・今村憲が、一体となってこの訴訟提起の動機を自白しているに等しいではないか。

今は175弾に及んでいる「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズの最初は下記のとおりである。私のブログを検索していただければ、すべてを読むことができる。
http://article9.jp/wordpress/?cat=12

2014年7月
 13日 第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
 14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
 15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
 16日 第4弾「弁護士が被告になって」
 18日 第5弾「この頑迷な批判拒否体質(1)」
 19日 第6弾「この頑迷な批判拒否体質(2)」
 20日 第7弾「この頑迷な批判拒否体質(3)」
 22日 第8弾「グララアガア、グララアガア」
 23日 第9弾「私こそは『幸せな被告』」
 25日 第10弾「『表現の自由』が危ない」
 27日 第11弾「経済的強者に対する濫訴防止策が必要だ」
 31日 第12弾「言論弾圧と運動弾圧のスラップ2類型」
同年8月
  3日 第13弾「スラップ訴訟は両刃の剣」
  4日 第14弾「スラップ訴訟被害者よ、団結しよう。」
  8日 第15弾「『政治とカネ』その監視と批判は主権者の任務だ」
 10日 第16弾「8月20日(水)法廷と報告集会のご案内」
 13日 第17弾「DHCスラップ訴訟資料の公開予告」
 20日 第18弾「満席の法廷でDHCスラップの口頭弁論」
 21日 第19弾「既に現実化しているスラップの萎縮効果」
 22日 番外「ことの本質は『批判の自由』を守り抜くことにある」
 31日 第20弾「これが、損害賠償額4000万円相当の根拠とされたブログの記事」
同年9月
 14日 第22弾「DHCが提起したスラップ訴訟の数々」
 15日 第23弾「DHC会長の8億円拠出は『浄財』ではない」
 16日 第24弾「第2回口頭弁論までの経過報告」
 17日 第25弾「第2回口頭弁論後の報告集会で」
(以下略、現在175弾まで)

以上のとおり、私は怒りを持続して猛烈にDHC批判のブログを書き継いで本日に至っている。その怒りが訴訟にの経過にもみなぎっているはずだ。怒りこそが、エネルギーの源泉である。今、読み直すと、このブログはなかなかに読み応えあって面白い。吉田嘉明も読んでいるだろうか。未読であれば、ぜひお読みいただきたい。感想文などいただけたら、なおありがたい。

こうして、2015年9月2日 東京地裁での請求棄却判決言い渡しがあった。当然に私(澤藤)全面勝訴であった。これが第1ラウンドの勝利

DHC・吉田嘉明はこれを不服として控訴したが、2016年1月28日控訴審は控訴棄却判決を言い渡した。再びの私の全面勝訴である。第2ラウンドの勝利

DHC・吉田嘉明は、なんの成算もないまま無意味な上告受理申立をしたが、2016年2月12日最高裁はこれを不受理とした。第3ラウンドの勝利

さらに、2017年9月4日、DHC・吉田嘉明は私を被告として、債務不存在確認請求訴訟を提起した。つまりは、スラップ提起による損害賠償債務はないことの確認を求める訴訟。これが、第4ラウンドとなった。これに、澤藤から反訴提起を行い、これを前訴と区別して「DHCスラップ『反撃』訴訟」と名付けた。2019年10月4日、反訴について一審判決言い渡しがあり、明確にスラップの違法を認め、認容額110万円とした。第4ラウンドの勝利である。

これに、DHC・吉田嘉明が控訴し、澤藤が附帯控訴したのが、第5ラウンドである。2020年3月18日東京高裁511号法廷で、DHCスラップ反撃訴訟控訴審判決言い渡しがあった。DHC・吉田嘉明の控訴を棄却し、澤藤請求の認容額を165万円に増額した。第5ラウンドにおける、赫々たる勝利である。これで、5選5勝となった

さて、第6ラウンドがどうなるか。DHC・吉田嘉明は、控訴審判決を不服として上訴するのだが、控訴審判決は手堅い。唐突にこれまでと違うことは言いようもなく、さりとて同じことを述べて判決を覆すことなどできようはずもない。

控訴審判決の核心部分は以下のとおりである。

前示のとおり、
 被控訴人(澤藤)の本件各(ブログでの)記述が、いずれも公正な論評として名誉毀損に該当しないことは控訴人ら(DHC・吉田嘉明)においても容易に認識可能であったと認められること、
 それにも関わらず控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が、被控訴人(澤藤)に対し前件訴訟(DHC・吉田嘉明によるスラップ訴訟)を提起し、その請求額が、当初合計2000万円、本件ブログ4(「DHCスラップ訴訟を許さない・第1弾」)掲載後は、請求額が拡張され、合計6000万円と、通常人にとっては意見の表明を萎縮させかねない高額なものであったこと、
控訴人吉田が自ら本件手記を公表したのであれば、その内容からして、本件各記述のような意見、論評、批判が多数出るであろうことは、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)としても当然予想されたと推認されるところ⦅なお、前件訴訟の提訴前に、控訴人らの相談に当たった弁護士(今村憲)から、本件貸付が規制緩和目的のためなのか、私利私欲のためなのか分からない人たちから批判が出ることは当然あり得るとの意見が出ていたことが認められる(証人内海〔原審〕35頁)。⦆、

 控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が、それに対し、言論という方法で対抗せず、直ちに訴訟による高額の損害賠償請求という’手段で臨んでいること、
ほかにも近接した時期に9件の損害賠償請求訴訟を提起し、判決に至ったものは、いずれも本件貸付に関する名誉毀損部分に関しては、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)の損害賠償請求が認められずに確定していることからすれば、

……前件訴訟(DHCスラップ訴訟)の提起等は、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が自己に対する批判の言論の萎縮の効果等を意図して行ったものと推認するのが合理的であり、不法行為と捉えたとしても、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)の裁判を受ける権利を不当に侵害することにはならないと解すべきである。

 したがって、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)の前件訴訟の提起等は、請求が認容される見込みがないことを通常人であれば容易に知り得たといえるのに、あえて訴えを提起するなどしたものとして、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものということができ、被控訴人(澤藤)に対する違法行為と認められる。」

この判決は、以上の認定において、表現の自由保障についての貴重な一石を投ずる判決となり得ていると私は満足している。私の6年間の怒りは無駄ではなかったという充実感がある。

そのような圧倒的に優勢な状態で、第6ラウンド開始のゴングが鳴った。私は、もうしばらく余裕の怒りを持続しつつ、守勢に回らずDHC・吉田嘉明を攻撃し続けることができる。消費者問題としての観点から、あるいは忌まわしいデマとヘイト規制の観点から、また政治資金や選挙資金規正の視点から、そして何よりも表現の自由擁護の立場から、DHC問題・吉田嘉明問題を語ってゆきたい。
(2020年4月2日)

本日、「憲法日記」満7歳に。

コロナ風厳しい中での4月1日。当ブログの連載開始記念日である。「建国記念の日」命名の筆法に倣えば、「憲法日記記念の日」にほかならない。「この日記とともに憲法をしのび憲法をこよなく愛する心を養うべき日」なのだ。

「年齢計算に関する法律」を適用すれば、昨日(3月31日)の満了の時刻をもって、つまりは本日の午前0時をもって「憲法日記」は満7歳となった。2013年4月1日を連載第1回ととして今日まで、1回の欠落も一日の途切れもなく、続いてきた。

日齢では、昨日(18年3月31日)が、[365×7+2]=2557となり、本日が連続2558日目の毎日更新となっている。

当ブログは、第2次アベ政権の発足に刺激されて誕生した。当初は、日民協のホームページの一隅を間借りしての発足。

2012年12月16日の第46回総選挙。この選挙で自民党は第一党に返り咲き、総裁安倍晋三は、12月26日に第2次安倍内閣を組閣した。こうして、今なお続く悪夢の安倍政治が始まった。

安倍晋三こそは、歴史修正主義の権化であり、軍事大国化路線の主犯である。戦後民主主義を否定し戦前日本への復古を目指す勢力の頭目でもあり、日本国憲法の天敵である。アベが政権を去るまでは、憲法擁護のブログを書き続けようと開始したのが、2013年1月1日。その直後に窮屈な間借り生活から飛び出て、同年4月1日から今日の形での連載を始めた。以来、満7年。2558日になったのだ。

もちろん、当時安倍政権がかくも長期政権となるとは思わなかった。何しろ、第1次政権を投げ出したみっともなさが際立っていたからだ。せいぜいが、2~3年の命運と思っていたのが、当てがはずれた。そのお陰で、「憲法日記」も長期連載となった。この間、護憲勢力はアベ政権を倒せなかったが、安倍改憲も実現していない。改憲の実現も許してはいない。一進一退、一喜一憂のせめぎ合いを繰りかえしながら、勝負のつかない7年間。だから、このブログが続いているのは、目出度くもあり、忌まわしくもあるのだ。

「当たり障りのないことなら書く意味がない。当たり障りのあることだけを書く」という方針で始めたブログだから、当ブログの連載が続く中で、相当の波風が立った。幾つか生じた波のうち、大きなものが「宇都宮君立候補をおやめなさい」であり、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズである。天皇制やその支持者に対する批判も、安倍の取り巻きに対する批判にも、波風はあった。これを、私は筆禍とも書き過ぎたともまったく考えていない。当然に言うべきことを言っただけのことではないか。

それでも、言うべきことを言うだけのことに、相当の覚悟が必要だということも、知ることになった。貴重な経験をした7年間である。

3週間ほど前のこと。知らない方からの電話をいただいた。落ちついた男性の声で、フランスのパリから国際電話を掛けているのだという。まったく思いがけないことだが、こんなお話しだった。もちろん日本語でのこと。

「パリで、「憲法日記」を愛読している。マスメディアでは得られない情報や意見を貴重なものと思っている。ところが、この数週間ブロックされて読めなくなっていることをご存知か。何らかの妨害工作があるのではないか」

まさか、政権や、公安調査庁・内閣調査室・公安警察がそんな工作をするはずもない。DHCも右翼も、そこまではやるまい。…あっ、そうか、もしかしたら…。

先日、「海外からのサイバー攻撃が頻繁に見られる」というサーバーからの連絡があって、海外数カ国からのアクセスを切ったかも知れない。その中にフランスも…。この電話を受けて数日後に、元に戻してフランスともつながったはず。

ひょんなことから、フランスにも読者がいることを知った。以前、韓国と中国からの反響は経験しているが、ヨーロッパにも読者。ありがたいとだ。

ありがたいことだが、安倍政権の継続がめでたくない。改憲を断念した状態で安倍政権が失脚すれば、当ブログも目出度く終了となる。

月1日は、その日の来たらんことを祈念する日でもある。

(2020年4月1日)

卒業式は、日の丸掲揚・君が代斉唱儀式ではない。

本日(3月31日)は、「日の丸・君が代」強制に抵抗する諸運動体による、恒例の「卒業式総括集会」だった。

悪名高い「10・23通達」が発せられて以来、17度目の憂鬱な春である。本来胸おどる卒業式・入学式の希望の季節が、日の丸・君が代強制と思想弾圧の季節と化して17星霜を数える。

当初は、極右の知事石原慎太郎の特異なキャラクター故の暴走と考え、この知事さえ交替すればと思っていたのが甘かった。石原後継の知事も、保守の中では良識派と見えたその次の知事も、そして、ダイバーシティを口にする自分ファースト現知事もこの異様な事態をなんとも考えてはいないのだ。精神の自由についても、教育が権力の支配に服してはならないとする基本理念にも、なんの関心もない。歴代の凡庸なお飾り教育委員たちも同様なのだ。

そうこうしているうちに、安倍晋三が国政に君臨するようになった。こういう歴史修正主義者であり復古主義者でもあり、憲法に敵意を剥き出しにする輩を国政のトップに押し上げる勢力が幅を利かせる時代なのだ。次第に、日の丸・君が代を強制している、われわれが闘う相手の大きさが見えてきた。

日の丸・君が代強制勢力にとっは、大きな抵抗にぶつかって、思うようにはその思惑の進捗はない。しかし抵抗するわれわれも、日の丸・君が代強制を阻止し得ていない。事態が膠着した状況で17年目の春を迎えている。

本日の集会での現場からの報告によれば、今年の都立校の卒業式はコロナ対応に追われたものだったという。それでも、知事と教委は、「国歌斉唱」の実行にこだわった。

2月26日に、各校長に対して、「新型コロナウィルス感染症に関する学校における対応について(通知)」が教育長名で出された。以下のとおり、卒業式に関しては、「参列者の制限及び時間短縮」が述べられている。

1 令和元年度卒業式の実施
(1)参列者の制限及び時間短縮
 ア 参列者の制限
   附属中学校、中等教育学校及び高等学校においては、保護者及び来賓は参加せず、教職員、卒業生及び式に関係する在校生とする。
   特別支援学校においては、来賓は参加せず、教職員、卒業生及び関係する在校生並びに介助を必要とする児童生徒等の保護者とする。
 イ 時間の短
   知事メッセージと都教育委員会挨拶は校内に掲示するとともに、卒業生に配布する。なお、卒業式の挨拶業務に係る都教育委員会からの派遣は行わない。
   祝電は掲示のみとし、祝電の披露は行わない。

翌27日には、都教委から各校に卒業式の式次第からカットする項目の例示がメールで送信され、各校では都教委からの指示に基づき、式次第の手直しがされた。

更に28日、都教委は「更なる感染防止拡大」のため卒業式は「参列者の制限や時間の短縮により実施」とする「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応(第49報)」を発表するとともに、「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施」に関わって、同日立て続けに二つの事務連絡を各学校長宛に出した。

この経過と「二つの事務連絡」については、下記の当ブログを参照されたい。

生徒たちへのコロナ感染防御よりも、「日の丸・君が代」強行が大切なのか。
http://article9.jp/wordpress/?p=14522(2020年3月19日)

国旗を「式典会場内掲揚せず」や国歌「斉唱せずメロディも流さず」を不適切な状況として取り扱わない」とした「事務連絡①」と、「都立高校における国旗国歌の取り扱いについては『国旗掲揚の下に、体育館で実施する。』『国歌斉唱を行う。』という方針に変更ありません。」という「事務連絡②」は明らかに矛盾している。コロナ対応に追われる中で、都教委の職員の間に認識の違いや混乱があったことは間違いない。

このような都教委の指示によって、都立高校では様々な式次第で卒業式が実施された。
保護者代表謝辞、都教委挨拶、祝電披露は全ての学校でカットされた。
校歌斉唱、卒業生代表答辞、在校生代表送辞、式歌(卒業の歌)斉唱については、各学校の判断に任された。
結局、①国歌斉唱、②校長式辞、③卒業証書授与だけは、カットを許されず、この3点のみに縮小して式を実施した学校が多くあった。中には、卒業証書授与の際の呼名までカットした学校もあった。

 コロナ対策としての飛沫感染防止を目的に校歌や式歌をカットしながら、国歌だけは斉唱するという異様な式が行われた。今年の卒業式は、生徒や教職員の命や健康よりも国旗掲揚や国歌斉唱を優先する都教委の異常さを浮き彫りにした。

卒業式は、国旗を掲揚したり国歌を斉唱したりするために行われるわけではない。生徒のための卒業式を取り戻すために、「10・23通達」を撤回させる取り組みを今後もあきらめず続けていかなければならない。そのような決意を新たにした集会だった。
(2020年3月31日)

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