澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

風の神の心変わりー神風変じて逆風の冷たさ

おや、ご存じなかったのですか。この秋津島瑞穂の國は、八百万の神々がしろしめす神域なのですよ。山川草木のすべてに神々が宿りたまい、天が下の森羅万象はことごとく神様の思し召し。ほら、思い出してください。何代か前の首相が、ついつい秘密を漏らしたでしょう。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」とね。あれが、真実なのですよ。

もちろんこの国では、政治のすべてが神々の御手で動いています。民が国の主で、民の意思がこの国を動かしているなど思い上がってはいけません。ましてや、アベ一強がこの国を動かしているなんて傲慢この上ないことなのです。すべては、人の祈りと、その祈りを聞き届けた神の力によって、政治も行政も動いているのです。だから、「祈ります」という、あの首相夫人のメールの文章は意味のないことではなく、とても大切なことなのです。

人々の利害が複雑に絡みあっているように、何しろ神様の数も多い。神々の力関係も複雑で、難しい談合や駆け引きを経て神意が表れることになりますが、この過程は、一切人の目には見えません。だから、一見すると、神は気まぐれとも無責任とも見えるのですが、実は神々も苦労しているのです。その辺のことは「国民の皆さんにしっかりと承知して」いただかねばなりません。

神風を吹かせるのは、ご存じ風の神です。この神様、怠け者で普段は寝ているばかり。だから、滅多に神風が吹くことはありません。風の神を揺り動かし、目を覚まさせて、その気になって神風を吹かせるには他の神々の苦労が必要なのです。つまりは、風の神への積極的な働きかけがなければ無理なことなのです。

どうやって、風の神をその気にさせるかですって? それは、「ひ・み・つ」なのですが、人間の世界とそうは違いがありません。人も神も、何らかの利益なくして動くことはありません。どの神様も、その点はしっかりしていますから、その神様のほしいものを用意して提供しなければなりません。一般論として、神様の大好物はお賽銭です。「御神酒あがらぬ神はなし」というとおりでもあります。神様を脅かしたり強請ったりという手もありますし、揉み手や泣き落としの戦術も結構利きますよ。それから、なんと言っても有力な神様の口利きと、忖度です。今回森友に吹いた神風の原因には、口利きと忖度の両方があったと聞いていますね。どこからの情報かって? 実はよく分かりません。そりゃ神のみぞ知るってことですよね。

大事なことは、すべてが生身の人間の目には見えないことなのです。人知を超越した見えないところで風が吹き、見えない風が見えない力となって、その見えない力がものごとを成就させるのです。見えないことが、神風の神風たる所以。口利きがあったとか、忖度があったのでは、と見破られるようでは神風ではありません。見えないからこそ、風の神の仕業なのですが、実は風の神をその気にさせた原因は確かにあるのです。

それを、「口利きも、忖度もないことが明らかになった」などと言うのは笑止千万。愚かしいにもほどがある。身の程を知らない人間の分際での独断。

このたび、風の神になにがしかの働きかけをして、風の神に神風を吹かせたのは、よくは分からないのですが、神々の口に戸は立てられないということで、我々の世界でもうわさは飛びかっています。一番有力なのは、アマテラス以来の皇祖皇宗の神霊ではないかということ。もちろん確証はないのですが、なにしろ、教育勅語復活の小学校教育設立ですから、朕の皇祖皇宗が喜んで一肌脱いだのだろうという憶測。それに出世の神、保身の神、処世の神、へつらいの神なんぞが力を貸して、風の神に働きかけたのだろうと言うのが、もっぱらの風評。

では、なぜ急に風向きが変わって、神風が逆風となったか。こんなことが言われていますね。今や、八百万の神々の勢力関係に変化が生じているというのです。天つ神と国つ神との争いの骨格が古事記以来の伝統でしたが、今やこの構図が壊れそうになっている。アマテラスを筆頭とする天つ神の勢力はこのところ、衰退の一途なのです。ですから、一度は皇祖皇宗の霊の口車に乗せられた風の神は、途中で気が変わったのです。明らかに別の神の働きかけ。

どうも、「民の声は神の声」というのが今高天原のはやり言葉のようなのです。ですから、風の神も考えた。「アベの手下みたいなことをやっていて、私の将来は大丈夫なのか」と。こんな時代錯誤の教育のための右翼学校経営者と右翼政権のために、一肌脱いだことで後世批判の矢面に立つのはイヤだ。となったらしいのです。

で、捨てる神と拾う神がバトンタッチ。その結果風向きが真逆に変化したというのです。アベ政権への追い風が、完全にアゲンストの向かい風になった。森友で着いた火は、逆風に煽られて「加計学園問題」にも飛び火するでしょうし、さらには「順正学園問題」にも類焼しそうではありませんか。その同じ風が、稲田防衛大臣のボロを暴き出しつつあります。これこそが人知を越えた風向きの変化です。これを神のミワザと言わなくて、なんというべきでしょうか。
(2017年3月26日)

「法と民主主義」516号(『特集・象徴天皇制をめぐる今日の議論』)購入の再度のお願い

過日(3月19日)、当ブログで日民協機関誌「法と民主主義」の516号(『特集・象徴天皇制をめぐる今日の議論』)購読のお願いをしたところ、昨日(3月21日)までに21人の方から当ブログを契機の購読予約をいただきました。まことにありがとうございます。貴重な論稿をお寄せいただいた寄稿者にも、この場を借りて感謝申しあげます。

同誌は予定のとおり昨日(3月24日)発刊となり、夕刻ヤマト運輸宅急便での発送作業を完了しました。お申し込みいただいた方には、明日(26日)までには届くことになろうと思われます。

なお、「法と民主主義」4月号(№517)は、小澤隆一さんの責任編集で、特集は「日本国憲法施行70年ーその歩みと展望」(仮題)。執筆者とタイトルは以下のとおり確定しており、4月下旬に発行となります。
◆目本国憲法70年の歩みと対決点……和田進
◆.集団的自衛権一内閣法制局「想定問答」を読み解く……浦田一郎
◆核兵器禁止条約交渉の実現に向けて……梶原渉
◆.差別と分断を克服して市民的自由の実現を……志田陽子
◆憲法24条「個人の尊厳」の意義……中里見博
◆.民主的な選挙制度と議会制……小松浩

さらに、「法と民主主義」5月号(№518)は、海部幸造さんの責任編集で、原発被害訴訟特集。集団訴訟第1号判決(3月17日・前橋地裁)である群馬判決を素材に当該の弁護団や原弁連の主要弁護団からの寄稿を掲載します。巻頭論文は淡路剛久さん。これに、緊急小特集として共謀罪の審議の進行に応じたビビドな論稿を予定しています。6月18日が今国会会期末。それまでの共謀罪法案廃案を目指す運動に資する内容のものを。
引き続き、ご購入いただけたらありがたいと存じます。

ご注文は、下記のURLへ。どうぞよろしく。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin

さて、本日の記事は、「法と民主主義・516号」(『特集・象徴天皇制をめぐる今日の議論』)の再度のお薦めである。3月19日ブログのURLは、以下のとおり。もう一度ご覧になっていただけたらありがたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=8299

この特集は、昨年8月の天皇(明仁)生前退位希望発言をきっかけに、活発化した象徴天皇制のあり方をめぐる議論を整理して、日本国憲法の理念からの原則的な基本視点を提供しようとするものである。基調は、リベラル派の一部にある「公的行為拡大」容認論を採らない。天皇を神権的な権威と把握することを拒否するだけでなく、象徴天皇の国民統合機能の拡大をも警戒しなければならないことを当然とする立場を堅持している。

国政に関する権能をもたないはずの天皇が、生前退位の希望を発言することによって政府と国会を動かし、皇室典範という法の改正が実現しようとしている。これは、象徴天皇制への枠組みを揺るがす異常事態というほかはない。そのような問題意識からの特集である。このような問題意識を基調とする特集は他の雑誌には見られないものと思う。

7本の貴重な論稿のうち、憲法学者の2本の論稿が、議論を整理し憲法を原点とした原則的な視点を直接に提供するもの。そして、その余の5本の論稿が象徴天皇制を考える上での多様な視点を提供するものとなっている。人選がよかった。ユニークで、読み易く、面白い。

「日本国憲法における象徴天皇の位置─生前退位問題に関連して」(植村勝慶)は、錯綜した議論の基本視点を提供するものであり、「『天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議』論点整理を憲法学から読み解く」(麻生多聞)は、論争の整理を試みたものである。

「『生前退位』をめぐる断想─象徴天皇制の根っこを見つめながら」(田中伸尚)は、エッセイのかたちで象徴天皇制の問題の根源を抉っている。「生前退位に伴う天皇代替わり儀式の問題点」(中西一裕)は、1989年天皇代替わりに伴う儀式を政教分離違反と争った訴訟弁護団からの貴重な問題提起。「戦後天皇制と捏造『教育勅語』─森友学園事件と『愛国者』たちの欺瞞」(早川タダノリ)は、教育勅語論争における右派の論理の分析として有用な視点を提供するもの。そして、「安倍政権の天皇制利用─伊勢と靖国を通じて」(辻子実)は事情通の貴重な論稿。最後の「琉球沖縄から見た天皇・天皇制」(石原昌家)は、天皇と琉球沖縄との関わりを通史としてまとめ、その視点から沖縄と本土の現在の関係を再考する。

できあがったこの特集は、象徴天皇制を憲法原則の視点から、多面的に見つめ直すきっかけとなるものと思う。是非ご活用をお願いしたい。もう一度、目次だけを掲載し、ご注文のURLも、再掲する。どうぞよろしく。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin

◆特集にあたって     ………………………          澤藤統一郎
◆日本国憲法における象徴天皇制度の位置ー生前退位問題に関連して……植村勝慶
◆「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」論点整理を憲法学から読み解く……麻生多聞
◆「生前退位」をめぐる断想  象徴天皇制の根っこを見つめながら…………田中伸尚
◆生前退位に伴う天皇代替わり儀式の問題点…………………………………中西一裕
◆戦後天皇制と捏造「教育勅語」森友学園事件と「愛国者」たちの欺瞞………早川タダノリ
◆安倍政権の天皇制利用ー伊勢と靖国を通じて…………………………………辻子実
◆琉球沖縄から見た天皇・天皇制……………………………石原昌家
(2017年3月25日)

「朋友相信シ」の蜜月変じて、「朋友相食ム」の醜悪

ボクって愚かなんだ。あんなこと言わなきゃよかった。いつものことだが、もう少し落ちついて、言葉を選んでものを言うべきだったんだ。でも、ついついカーッとなって、「何をムキになっているんですか」なんて言われちゃうんだ。

あのときは、まさかこんなことになるとは思わなかった。籠池があすこまで肚をくくって逆襲するなんて思いもよらなかった。だって、ボクは総理大臣だよ。長期政権を目指して、アベ一強と言われてもいる。みんな、ボクには揉み手をして擦り寄って、忠義を売ろうとしているじゃないか。籠池もその一人だ。ボクは、擦り寄ってきた友だちをおろそかにせず、それぞれに処遇してやってきた。そのボクに、無名の民間人が食ってかかるなんて、考えられないことだろう。

だから、2月17日の衆議院予算委員会でのこと。森友学園疑惑がメディアに報じられて間もなくの頃だ。民進党の福島伸享議員から森友学園との関係について問われて言っちゃった。「私や妻がですね、認可あるいは国有地払い下げにですね、勿論事務所も含めて一切関わっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もし関わっていたんであればですね、これはもう私は総理大臣を辞めるということでありますから、はっきりと申しあげたいとこのように思います」「いずれに致しましてもですね、繰り返して申し上げますが私も妻もですね、一切認可にもですね、あるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして…繰り返しになりますが私や妻が関係していたとなればこれはもう、まさに総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申しあげておきたい」

あんまり、はっきりと言っちゃったんだ。あとさき考えないで。
条件節の主語は「私」「妻」「(安倍晋三議員)事務所」の3者。述語は、(私立小学校設立)認可あるいは(その敷地の)国有地払い下げに、関係していたこと。そして、条件充足の効果は、ボクが「総理大臣も国会議員も辞める」ということ。

ああいう世間知らずの危険な人物と付き合ってしまったのが、かえすがえすも残念だ。あ~あ、また、うるさい野党の連中やメディアに叩かれる。「総理を辞めろ」、「議員も辞めろ」とうるさいだろうな。デモ隊も、「アベは、やめろ」「議員をやめろ」「嘘つきはやめろ」なんて、「ヤメロ・ヤメロ、コール」が鳴り響く。頭が痛くなってきた。

こんなことにもなろうかと、籠池の参考人招致にはゴーサインを出さなかったんだ。もしかしてホントのことを洗いざらい口走ってしまいかねない危険を感じていたんだ。でも、ここまで開き直ることは思っても見なかった。もっと上手に繕って、ボクの窮地を救ってくれてもいいじゃないか。もとは肝胆相照らす同志だった仲じゃないか。それをあんな風に足蹴にされたんじゃ、こちらも惻隠の情を示しようがない。もう終わりだ。

昨日(3月23日)の証人尋問。案の定、証人になんか呼ぶんじゃなかった。だれが見たって、疑惑はいっそう深まった。偽証罪で脅かせばビビって口をつぐむだろうと思ったんだ。見事に思惑外れだ。あれで、内閣支持率は10ポイント下がったんじゃないか。

それにしても、与党担当者の無能力に呆れる。まあ、自分のことは棚に上げてのことだけどね。自民党の国対委員長は、「首相に対する侮辱だから」証人に呼び出す、としっかり言っちゃった。あれはひどい。マイナス5ポイントくらいになったんじゃないの。そして、「首相に対する侮辱だから懲らしめてやる」という姿勢が見え見えの尋問担当者。自民党も公明党も、そして維新もだ。

アベ政権と与党が悪役を買って出て、意地の悪い悪代官と木っ端役人を演じて、結局は籠池をいじめることもできなかった。

あの籠池の「100万円寄付」の証言は痛い。供述に生々しい信憑性がある。とても作り話とは思えない。あの証言を聞かされれば、だれだって妻が籠池に100万円を寄付したと信じるだろうさ。なんと言っても、描写が具体的で詳細だ。客観的な状況に照らして破綻がない。しかも、宣誓をし、偽証罪の制裁を科せられての証言だ。12名の尋問者の質問にほころびが出なかった。

いまさらながら、自民党の国対委員長は、開き直って「百歩譲って、首相夫人が100万円寄付していたとして、それがいったい何だというんですか」と言い始めた。だれだって分かる。「アベの妻は100万円出すくらいの熱い籠池教育支持者だった。ならば、忖度の条件も作ったろうし、口利きだってしただろう」。そのように国民が考えるだろうと言うことだ。

証人に呼び出して、かえってコチラが窮地に立った。野党が嵩にかかって「フェアに、同じ土俵で、首相の妻にも証人として証言をさせよ」と言っている。当たり前だが、そんなことをさせたらおしまいだ。だって、そんなことをさせたら、偽証罪で脅されて、本当のこと言っちゃうもん。

でもよく考えてみると、この話、もともとは妻とボクとが塚本幼稚園の教育に共感し共鳴したことが発端なんだ。なにしろ、幼稚園児に教育勅語を暗唱させ、五箇条のご誓文や軍歌を覚えさせる素晴らしい理想の教育。籠池夫婦もボクら夫婦も、ともに戦後民主主義を否定して、戦前の臣民の道を履践しようという右翼と右翼。言わば、妻も私も籠池の臣民教育に感動し、籠池夫婦はアベ極右政治姿勢に共鳴して、同志的な連帯感をもったということだ。籠池が、設立予定の学校に、安倍晋三記念小学校などと命名しようとしたのはその同志的連帯の証し。私も、右翼の支持者に手柄顔ができると思ったんだ。今は、勅語教育が攻撃の的になり、私が手のひら返したことで、右翼の諸君も私を裏切り者と言い始めている。

ボクは、こんなとき、教育勅語を読み直す。
爾臣民
父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ
夫婦相和シ
朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ
學ヲ修メ 業ヲ習ヒ
以テ智能ヲ啓發シ
徳器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ……

妻との間の「夫婦相和シ」も実は怪しい。「朋友相信シ」は完全に壊れてしまった。正直の徳目は、教育勅語にはない。「徳器ヲ成就シ」がこれに当たるだろうか。ともかく今はなんとしてでも、籠池を嘘つきの悪者に仕立てて、右翼政権の窮地を脱しなければならない。

妻を証人喚問させるなんて、そんな真実バレバレを許してはならない。そんなことをするくらいなら、総理大臣も議員もやめた方がマシだ。さりとて、証人喚問を拒否すれば、ますます疑惑がふくらんで支持率はますます下がることになる。疑惑が深まっても、拒否せざるを得ない。いい考えも出てこないから、ここしばらくユーウツなんだ。頭がイタイ…。
(2017年3月24日)

都教委よ、裁判官よ、教員の良心の叫びを聞け。

3月15日の東京地裁527号法廷で、東京「君が代」裁判第4次訴訟の第15回口頭弁論。この日の法廷で弁論は終結し、判決言い渡しは9月15日午後1時10分と指定された。この日、一審最後の法廷で、二人の原告が結審にあたっての思いの丈を、裁判官に語った。

今月15日の当ブロクで、渡辺厚子さんの陳述はご紹介した。
http://article9.jp/wordpress/?p=8281
本日は、もうひとりの原告である現役教員の意見陳述をご紹介する。

その陳述内容は、教師として徹頭徹尾生徒の立場を慮ったものである。教員の良心において生徒の思想信条の自由を擁護しなければならないという真摯さに貫かれたもの。私たちの社会は、このような良心的で良質の教員を受容し得ない狭量なものに変質してしまっているのだろうか。国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の可否は、社会の寛容の程度である。表現を変えれば、社会の柔らかさ、生き易さのバロメータではないか。

そのような目で、この陳述書をお読みいただきたい。そして、そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決を注視していただきたい。
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  東京「君が代」裁判四次訴訟  最終意見陳述  2017.3.15

原告のKSです。第1回口頭弁論でも意見陳述しました。今回は現職の都立高校の教員として、原告らを代表して、10.23通達による生徒の被害について陳述します。

10.23通達のターゲットが生徒であるということがはっきりわかる出来事が今年ありました。都立高校では卒業式の3週間前までに卒業式の実施要項や式の進行表を都教委に提出しなければなりません。2008年から多くの学校で、進行表に「不起立の生徒がいたら司会が起立を促す」という文言が入れられるようになったのですが、これまではその文言がなくても都教委は受け取っていました。しかし今年から、進行表に生徒の不起立に対する対応が書かれていないと「司会は、生徒の不起立者多数の場合『ご起立ください』という」との文言を入れるよう、都教委から強い指導を受けるようになったのです。これは生徒への強制以外の何物でもありません。

10.23通達以前は、開式前に「内心の自由の説明」がありました。「内心の自由の説明を聞いて、安心して座ることができた」と喜んでいる生徒もいました。しかし、10.23通達以降は、内心の自由の説明をすることはできなくなりました。さらに都教委は2006年に「3.13通達」を出し、「適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう」通達しました。この通達は、教員が生徒に内心の自由の説明をすることを禁じたものです。

2005年の卒業式の前に、こんなことを作文に書いた生徒がいました。「間違っていることを『間違っている』と言えずに、従わざるを得ない先生たちは、どれだけ辛いだろうと思う。しかも間違っていると思うことを指導しなければならないのは、とても苦しいことだと思う。自分が通っている学校で、そんな風に間違ったことが行われ、そしてそれによって辛い思いをしている先生がいることが、私はとても悲しい。」
10.23通達発出当時、多くの生徒が教員に出された命令を「間違っている」と感じ、様々な形でその意思を表明しました。教員が苦しんでいる姿に接して、生徒たちも辛い思いをしていたのです。

「『君が代』を聞くと苦しくなる」と私に訴えてきた生徒がいました。彼は在日韓国人で、差別されているという思いを強く持っていました。私は彼の担任でもなく、特に私になついていたわけでもないのに、どうしてそんなことを私に訴えてきたのかわかりませんが、その気持ちには重いものがあると感じました。職員会議で、校長に「内心の自由の説明をしてほしい」と頼んだ時、この生徒のことも話しました。校長は「辛い思いをする生徒も実際にいるでしょう。けれど我慢してもらうしかないですね。」と答えました。生徒の入学や卒業を祝う喜ばしいはずの式で、その主人公の生徒が、どうして、何のために、苦しまなければならないのでしょうか。かけがえのない存在である一人一人の生徒を大切にし、一人一人の心の痛みに寄り添い、切り捨てないことが教育、特に公教育では重要です。毎年卒業式・入学式のたびに内心の自由を踏みにじられる生徒が確実にいるということを私たちは忘れてはならないと思います。

10.23通達は教職員に起立斉唱を命じるものですが、教職員が全員起立することは、生徒への圧力になります。先日、ある保護者が「子どもの入学式に参列し、国歌斉唱の時座ったが、周りは教員も含めてみんな立っていた。先生の中の一人でも座っている人がいたら、これからの学校生活にどれだけ希望が持てただろう」と話しているのを聞きました。内心の自由の説明もなく、会場にいる人全員が起立する中で立たないでいるのはとても難しいことです。それでもどうしても立てずに座っている生徒に対して司会が「ご起立ください」と言ったとしたら、その生徒は自分自身の思想信条の自由を守れなくなってしまうのではないでしょうか。起立するにしても座っているにしても、とても苦しい思いをするに違いありません。卒業式の進行表の問題は、生徒への強制がエスカレートしていること、10.23通達の目的が、教員に強制することを通して、生徒に強制することだということを示しているのです。

都立高校の生徒は自分たちの卒業式をとても大切にしています。10.23通達前は生徒たちは卒業式対策委員会を組織して、自分達の卒業式をどのように行うのか話し合って決めていました。卒業生と保護者が向かい合って座る「フロア形式」の式が行われたり、思い出のビデオを上映したり、5、6人の生徒が次々に自分たちの思いを語ったりと、生徒は自分たちの一生に一度の高校の卒業式を思い出深いものにしたいと一生懸命に考えて企画していました。けれど、10.23通達後は、こうした自由で創造的な卒業式は実施できなくなりました。画一的な卒業式しか許されなくなり、生徒が自分たちで決められることといったら、式歌を何にするかぐらいになったのです。

数年前に、式の最後にクラス代表の生徒たちで卒業式を感動的なものにするための企画を実施したいと生徒が言い出したことがありました。生徒の願いを叶えたいと思った担任は何度も何度も校長に交渉しましたが、校長は「厳粛な式にはふさわしくない」の一点張りで、生徒の願いをかなえることはできませんでした。一体卒業式は誰のためのものなのでしょう。10.23通達によって、画一的な式が押し付けられ、卒業式は卒業生のためのものではなくなったのです。

私は2007年卒業式の代表生徒の言葉が忘れられません。彼は「何かを大切に思う気持ち、愛する気持ちは自然にわき上がってくるものです。誰かにこれを大切にしなさい愛しなさいと強制されても心から大切にしたり愛したりすることはできません。」と語りました。愛する気持ちや敬意は自然にわき上がってくるもので、他から押しつけられるものではありません。

昨年アメリカではNFLのコリン・キャパニック選手が「人種差別がまかり通る国に敬意は払えない」として、試合前の国歌斉唱時に起立を拒否して話題になりました。オバマ大統領は、キャパニック選手は憲法で保障する意見表明の自由を行使しただけだと擁護し、「脇でただ座って何も気にかけないでいるよりも、若い人がもっと民主的手続きに則り議論に参加した方がいい」と述べました。

何かに対する敬意は強制すべきものではありません。敬意を表明したいと思えば表明すればいいし、敬意を表明できないと思えば表明しなくていい、それが許されるのが民主的な国家だと思います。有無を言わせず強制することよりも、生徒が自分の頭で考え、議論し、自分で判断すること、様々な考え方があることを知ること、異なる意見を認め合い尊重することを学ぶことの方が、教育の場では必要なのです。

国旗国歌に対する敬意は、生徒に対して強制できないのはもちろんですが、教員に対しても強制することは間違っています。都立高校の教員は公務員であり全体の奉仕者だから、上司の命令には従わなければならないと、再発防止研修では講義されましたが、私は全体の奉仕者だからこそ、間違った命令には従ってはいけないと考えています。教員には生徒の内心の自由を守る義務があるのです。また私は、生徒が主人公だったかつての都立高校の卒業式を取り戻すことも、教員の責務だと感じています。

10.23通達は、教育の自由や生徒の権利を守ろうとする教員を学校現場から排除するためのものです。物言わぬ教員を作るため、思考停止した教員を作るためのものです。物言わぬ教員、思考停止した教員は、物言わぬ生徒、思考停止した生徒を作り出します。10.23通達のターゲットは生徒なのです。10.23通達は、自分の頭で考えない、権力の言うなりになる生徒を作るためのものなのです。

裁判所におかれましては、どうか、10.23通達が生徒を苦しめていること、10.23通達を撤回することが日本のより良い未来につながっていることをご理解ください。そして、公正な判断をお願いします。
(2017年3月23日)

『共謀罪法案』社説ー朝日・毎日・東京は「反対」、日経は「慎重」、読売は「賛成」、産経は掲載なし

昨日(3月21日)政府は「共謀罪法案」を閣議決定し、国会に上程した。政府と自公両党は、4月中に法案の審議に入り、通常国会の会期末(6月18日)までに成立を目指す、としている。そんなことをさせてはならない。

「共謀罪」という罪名の犯罪を新たに作ろうというのではない。既にある277罪について、実行行為に着手する以前の「共謀」の段階で処罰を可能としようというのだ。政府の説明では、「共謀」だけでなく、実行に向けた「準備行為」への着手が必要とされているのだから、「何が犯罪となるか不明確ではない」というが、なんの説得力もない。実行行為への着手の有無が処罰の可否の分水嶺であり、刑事処罰と強制捜査のための権力発動の分水嶺である。『共謀罪』の創設は、その分水嶺のはるか手前の段階で、普通は犯罪とは言えない行為を処罰対象とするもの。まさしく、現行刑法の基本原則を根こそぎ覆す暴挙と評する以外にない。

日本国憲法下、日本の国民は自由主義を信奉してきた。自由をかけがえのない価値とする社会を作ろうとしてきた。戦後の国政をになった保守政権も、政党名に自由を冠し、自由をスローガンとして、反対政党の政策を「自由の寡少」と攻撃してきたではないか。自由とは国家権力から守られるべきもの。自由主義とは、国家権力の発動による個人の行動への制約を極小化すべきとする原則である。アベ内閣は、本気でこれに挑戦しようというのだ。

国家権力が犯罪を処罰し、そのことを通じて社会の秩序の維持を図る役割を果たすべきは当然である。しかし、その必要を超えて、権力の恣意による国民の自由の制約があってはならない。国民の行為への処罰範囲の拡大は、厳密な立法事実を踏まえてのものでなくてはならない。

当初は676罪とした共謀処罰対象を277罪に絞ったという手柄顔の説明は、それこそ立法段階における政府の恣意性を自白するに等しい。277罪の共謀処罰についての必然性はなく、国民は、犯罪実行行為とは無縁の、無定型な日常行為を監視され、強制捜査され、処罰される不安の中で生活を余儀なくされる。これは、自由主義国家のありかたではない。

一方に、「政府を信頼せよ」「警察も検察も裁判所も、けっして法の濫用を許さないだろう」という論調がある。しかし、戦争法反対のデモに対する政府・与党の対応を見よ。沖縄での平和運動への弾圧を見よ。堀越事件・世田谷事件などで表面化した常軌を逸した尾行張り込みの監視の実態を見よ。数々の違法捜査に目をつぶってはならない。「政府も捜査機関も信頼してはならない」それが、健全な自由主義国家の国民の態度でなくてはならない。

のみならず、我々は戦前の治安維持法の猛威を、苦い教訓として知っている。構成要件曖昧な治安法規は、権力に好都合で、国民の人権には甚だしい害悪を及ぼすのだ。「天子様に弓引く非国民の極悪人の結社を処罰するだけ」だったはずの治安維持法が、処罰対象を拡散して、政府に不都合なあらゆる思想や行動を制圧したことを想起しなければならない。

本日の各紙社説(6全国紙)に目を通した。朝日・毎日・東京が批判の立場を鮮明にしている。日経も慎重な審議を求めており、読売だけが政権に提灯をもつ論説となっている。批判と提灯の数は3対1。東京が熱のある社説になっているし、朝日・毎日の論調にも説得力がある。それに比較して、読売の論説はおざなりで説得力に乏しい。せっかくの政権への提灯社説だが、大した明るさの提灯とはなっていない。産経は社説を掲載していないが、産経といえば読売と兄たり難く弟たり難い間柄。推して知るべしであろう。

地方紙は、軒並み原則的な社説を書いているようだ。論戦のスタート時の状況としては、悪くないのではないか。以下、全国紙5社説の概要を紹介する。

☆朝日社説のタイトルは、「『共謀罪』法案 疑問尽きない化粧直し」。

「化粧直しのポイントは、(1)取り締まる団体を「組織的犯罪集団」に限定する、(2)処罰できるのは重大犯罪を実行するための「準備行為」があった場合に限る、(3)対象犯罪を組織的犯罪集団のかかわりが想定される277に絞る―の三つだ。だが、いずれにもごまかしや疑問がある。」

「旧来の共謀罪についても、政府は『組織的な犯罪集団に限って成立する』と言ってきた。だとすれば(1)は新たな縛りといえない。安倍首相の「今度は限定している。共謀罪との大きな違いだ」との国会答弁は、国民を誤導するものに他ならない。(2)の「準備行為」も何をさすのか、はっきりしていない。共謀罪は組織犯罪防止の国際条約に加わるために必要とされた。そして条約の解釈上、重い刑が科せられる600超の犯罪に一律に導入しないと条件を満たせないというのが、政府の十数年来の主張だった。(3)はこれを一転、半減させるというものだ。融通無碍、ご都合主義とはこのことだ。」

「犯罪が実行されて初めて処罰するという、刑法の原則をゆるがす法案である。テロ対策の名の下、強引に審議を進めるようなことは許されない。」

朝日社説の『共謀罪』法案批判のキーワードは、「化粧直し」「融通無碍」「ご都合主義」である。これからも、このキーワードが多用されそうだ。

☆毎日社説の表題は、「『共謀罪』法案 説明の矛盾が多過ぎる」と厳しいもの。

「政府はかつて『共謀罪』新設の関連法案を3度提出したが、廃案になった。名称を変えた今回の法案も、組織犯罪が計画段階で幅広く処罰可能となる本質は変わらない。」
「こうした処罰の規定は人の内心に踏み込む。捜査側の対応次第で国民生活も脅かされる。」「日本の刑法は、犯罪行為に着手した時点で処罰の対象とするのが原則だ。…今回の法案は従来の原則からかけ離れている。」

「それにしても、これまでの政府の説明には矛盾が目立つ。最大のほころびは対象犯罪数だ。条約が法整備を求める4年以上の懲役・禁錮の刑を定める犯罪数は676あり、選別はできないと政府は説明してきた。だが、公明党の意見をいれ、今回の法案では対象犯罪を277に絞り込んだ。これでは過去の説明と整合しない。」

「法案の再提出に当たり、唐突にテロ対策の看板を掲げたことも理解できない。条約はマフィアによる犯罪収益の洗浄などへの処罰を目的としたものだ。」「安倍晋三首相が、東京五輪・パラリンピックのテロ対策を理由に『法整備ができなければ開催できないと言っても過言ではない』などと発言するに至っては、まさに首相が批判する印象操作ではないか。」

毎日社説のキモは、「『共謀罪』提案はテロ対策」というアベの説明を、「まさに首相が批判する印象操作ではないか。」と言い放っているところ。

☆東京社説は長い。タイトルは「『共謀罪』閣議決定 刑法の原則が覆る怖さ」と本質を衝くものとなっている。

「政府が閣議決定した組織犯罪処罰法改正案の本質は『共謀罪』だ。277もの罪を準備段階で処罰できる。刑事法の原則を覆す法案には反対する。」

「共謀罪の考え方は、日本の刑事法の体系と全く相いれない。日本では既遂を処罰する、これが原則である。心の中で考えただけではむろん犯罪たり得ない。犯罪を実行して初めて処罰される。未遂や予備、陰謀などで処罰するのは、重大事件の例外としてである。
だから、この法案は刑事法の原則を根本からゆがめる。しかも、277もの罪に共謀罪をかぶせるというのは、対象犯罪を丸暗記していない限り、何が罰せられ、何が罰せられないか、国民には理解不能になるだろう。」

「安倍晋三首相は国会答弁で『東京五輪のために必要な法案だ』という趣旨の発言をした。これは明らかな詭弁というべきである。そもそも日本はテロに対して無防備ではない。テロ防止に関する13もの国際条約を日本は締結している。ハイジャック防止条約、人質行為防止条約、爆弾テロ防止条約、テロ資金供与防止条約、核テロリズム防止条約…。同時に国内法も整備している。例えば爆発物に関しては脅迫、教唆、扇動、共謀の段階で既に処罰できる。サリンなど化学物質などでも同じである。
むしろ、政府は当初、『テロ等準備罪』の看板を掲げながら、条文の中にテロの定義も文字もなかった。批判を受けて、あわてて法案の中に『テロリズム集団』という文字を入れ込んだ。本質がテロ対策でない証左といえよう。『五輪が開けない』とは国民に対する明白な誤導である。本質は共謀罪の創設なのだ。」

「危惧するのは、この法案の行く末である。政府は普通の市民団体でも性質を変えた場合には適用するとしている。米軍基地建設の反対運動、反原発運動、政府批判のデモなどが摘発対象にならないか懸念する。」

「英米法系の国ではかつて、共謀罪が労働組合や市民運動の弾圧に使われたという。市民団体の何かの計画が共謀罪に問われたら…。全員のスマートフォンやパソコンが押収され一網打尽となってしまう。もはや悪夢というべきである。実は捜査当局が犯行前の共謀や準備行為を摘発するには国民を監視するしかない。通信傍受や密告が横行しよう。行き着く先は自由が奪われた『監視社会』なのではなかろうか。」

東京社説のキーワードは、「監視社会化」である。

☆日経社説は、「十分な審議が必要な『共謀罪』」というもの。
「この法案の必要性や意義について、そもそも国民の間に理解が深まっているとは言いがたい。国会審議の場では成立を急ぐことなく、十分な時間をかけて議論を尽くす必要がある。」

「今回政府は国民が理解しやすいテロを前面に出して必要性を訴えてきた。」「当初の法案の中に「テロ」の文言がなく、与野党から指摘を受け慌てて盛り込むことになった。」

「テロも組織犯罪の一形態とは言えるが、国会審議ではまず、資金洗浄や人身売買、薬物取引など条約がうたう「本来」の組織犯罪対策のあり方などについて十分に議論すべきではないか。現に日本は暴力団犯罪など組織犯罪の脅威にさらされている。」

ともかく、日経も法案に賛成はしていない。慎重審議も、今は政権のやり方批判となり得ている。

☆そして読売社説である。「テロ準備罪法案 政府は堂々と意義を主張せよ」という、自民党広報紙並みのタイトル。興味深いのは、政権の肩をもちながらも、法案の問題点や弱点を問わず語りに告白していること。そして、このあたりが世論説得のポイントと教えてくれているところである。その意味では、貴重な資料というべきだろう。敢えて、全文を転載しておきたい。

「テロ対策の要諦は、事前に犯行の芽を摘むことである。政府は、法案の早期成立に万全を期さねばならない。
テロ等準備罪の創設を柱とする組織犯罪処罰法改正案が国会に提出された。2020年東京五輪を控え、テロ対策は喫緊の課題だ。改正案が成立すれば、国際組織犯罪防止条約への加入が具体化する。締約国間で捜査共助や犯罪人の引き渡しが円滑にできるようになるなど、メリットは計り知れない。
法案化の過程で、対象となる「組織的犯罪集団」が「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」に修正された。テロの文言がなく、与党の批判を招いたためだ。
組織的犯罪集団は「共同の目的が一定の犯罪を実行することにあるもの」と定義される。修正により、テロ対策という立法の趣旨は、より明確になったと言える。
「その他」に想定されるのは、暴力団や振り込め詐欺集団だ。犯罪の抑止効果が期待できよう。テロ等準備罪の成立には、犯行計画に加え、資金調達などの準備行為の存在が不可欠だ。要件を満たさない限り、裁判所は捜索や逮捕に必要な令状を発付しない。適用範囲が恣意的に拡大される、といった民進党などの批判は当たるまい。「一般市民も対象になりかねない」という指摘も殊更、不安を煽るものだ。

対象犯罪について、政府は当初の676から、組織的犯罪集団の関与が現実的に想定される277に絞り込んだ。「対象の団体を限定した結果、犯罪の絞り込みも可能になった」との見解を示す。公明党が「対象犯罪が多すぎる」と主張したことにも配慮した。理解を広げるために、一定の絞り込みは、やむを得ない面もある。政府は過去に「条約上、対象犯罪を限定することは難しい」と説明している。これとの整合性をどう取るかが課題だ。

今国会の審議では、共謀罪法案との違いを際立たせようと腐心する政府の姿勢が目立つ。共謀罪法案を3度も提出したのは、必要性が高かったからだろう。差異を付けることを優先するあまり、今回の改正案が捜査現場にとって使い勝手の悪いものになっては、本末転倒である。国民の安全確保に資する法案であると、堂々と主張すべきだ。

金田法相の答弁は不安材料だ。要領を得ない受け答えが多く、「成案を得てから説明する」と繰り返してきた。緊張感を持って、審議に臨んでもらいたい。」

読売社説を対象にしてこそ、説得力のある反論を組み立てられる。そのような目で、これを読み込みたい。
(2017年3月22日)

「アベ友疑惑学園疑惑」の構造ーだれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらぬ。

アベ友学園疑惑とは、アベの口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられたとの嫌疑である。

だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらない、のだ。

アベ友学園疑惑は、次々と小出しの事実が露わにされて目が離せない。明後日(3月23日)に衆参両院で籠池の証人質疑があって新段階を迎える。手負いの籠池が失うものは既にないとして真相をぶちまけるのか、あるいはブラフの切り札を温存しようと寸止めするのか。それは読めない。

情報が拡散し全体像が曖昧になりつつある「アベ友学園疑惑」だが、疑惑の追及は焦点を定めなければならない。いま、分かりつつあることから、何をもって疑惑の核心とし、何を標的に「疑惑解明」をなさんとしているのか、その視座と視点を明確にしなければならない。

☆アベ友学園疑惑の核心とは、現職首相の口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられ、国民が損害をこうむったことにある。もちろん、今は「疑惑」のレベルであるが、このことを「疑惑」ではなく、証明された事実として暴き出すこと、それが事件に関心をもつ者の共通の課題として確認しなければならない。このような課題を明確にすることなしに、迷宮の奥にある真実にたどり着くことはできない。

☆アベ友学園疑惑の構造は、右翼である現職首相の極右教育への礼賛ないし共鳴が底流にある。右翼首相と極右学校経営者との二つの合い寄る魂を、財務官僚と地方教育行政が支えた。校地取得の面では理財局と近畿財務局、そして私立小学校設立認可の面では大阪府知事と大阪府教育庁である。この4者の連携・協働の構造を骨格として確認しなければならない。

☆以上のアベ友学園疑惑の構造において、最重要の関係はをなすものは、右翼首相と極右学校経営者との二つの魂の遭遇であり親密な接近である。新設予定小学校の校名が「安倍晋三記念小学校」とされ、現職首相の名が寄付の勧誘に用いられた。
これほどの、現職首相とアベ友学園経営者の親密な関係の接点で、首相の妻が重要な役割を演じている。これが、「アッキード」という所以。学園の教育を褒めそやし、複数回の講演をし、新設予定小学校の名誉校長を引き受け、経営者の妻とのメール交換もしている。さらに、新たな100万円寄付疑惑である。寄付を受けたとする者が、「安倍晋三からです」との金の出所の口上まで詳細に語っている。これに寄付をしたと名指しされている者が、自らは口を閉ざして反論していないというのが現状。「民間人」は宣誓の上証言させ、首相の妻という「準公人」を糺そうとしない、この不公正。ここにも遠慮や忖度が見て取れる。

この100万円寄付疑惑は、事実が明らかとなれば、アベ側の右翼教育への共鳴・礼賛の証左として重要な意味をもつ。間接的には、口利き疑惑、少なくも忖度疑惑の有力間接事実となる。「100万カネを出すほどに思い入れが深かったのだから、理財局に口利きくらいはしたことを否定し得ない」との新たな疑惑推認の根拠になるということ。

☆「疑惑の3日」とは、2015年9月3日から5日までの3日。戦争法反対のデモの高揚期でのこと。9月3日午後に、首相は迫田英典理財局長と会っている。財務省の岡本薫明官房長も同席が確認されている。理財局長は国有地の管理や処分を管轄する最高責任のポスト。本件国有地の払い下げはこれ以後異例の進捗を見ているではないか。

その翌日9月4日午前午前中に、近畿財務局9階の会議室で近畿財務局幹部が「瑞穂の國記念小學院」の建設会社の関係者と、双方2人づつの計4人で会合を開いている。そして、4日午後には「テレビ出演」のために、首相が大阪入りしている。

そして、翌日の9月5日にアベの妻がアベ友学園で講演し、新設予定小学校の名誉校長に就任。就任の挨拶は、「こちらの教育方針は大変主人もすばらしいという風に思っていて、(籠池)先生からは、安倍晋三記念小学校という名前にしたいと…」まで述べている。100万円寄付疑惑は、その日のことだ。

☆国有地払い下げが異例ずくめだったことは疑いがない。まずは、異例の国有地についての借地契約がなされ、それに基づいて異例の認可適当との答申があり、さらに異例の超低価格での国有地払い下げがあって、しかも分割払いという至れり尽くせりである。その上、すべての交渉資料が破棄済みだというのだ。今のところ、アベの口利きがあったであろうと考えるのが、最も合理的な推認。その口利きの機会として考えられるのが、9月3日のアベ・迫田面談である。アベの選挙区出身で事件後異例の出世を遂げているというこの迫田英典(現国税局長官)が「疑惑のキーマン」にほかならない。

だから、言いたい。だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらぬ。

(2017年3月21日)

アベの「論理」ー「東京は世界有数の安全都市“だ・か・ら”、オリンピックは『共謀罪』がなければ開催できない」

「二度あることは三度ある」というが、さすがに「四度目もある」とは言わない。「仏の顔も三度まで」であって、通常四度目はない。

アベは、籠池を指して「非常にしつこい」と評し、「簡単に引き下がらない」「教育者としていかがなものか」という。が、アベのしつこさは、これに輪をかけてのもの。

政府は、「『共謀罪』こと組織犯罪処罰法改正案」を明日(3月21日)に閣議決定する方針だという。これは過去3度の廃案法案の蒸し返し。「なんとしつこい」「政治家としていかがなものか」と言わざるを得ない。

4度目の特徴は、テロ対策を金看板に押し出し、東京五輪成功のためと銘打っていることである。これで、世論を誘導しようとの思惑なのだ。昨日(3月19日)の東京新聞が、この点について真っ向からの批判記事を掲載している。その姿勢が小気味よい。

まずは一面のトップ記事。大きな見出しが、「政府の『治安対策戦略』」「テロ対策計画『共謀罪』触れず」「組織犯罪の章で言及」というもの。

これだけではやや分かりにくいが、この見出しに言葉を補えば、「政府の『治安対策戦略』を調べて見ると、《テロ対策計画》の章では『共謀罪』はまったく触れられていない。『共謀罪』に言及しているのは《組織犯罪》の章だけ」というもの。記者の言わんとするところは、「だから、政府自身の考え方が、共謀罪は《組織犯罪》とだけ関連するもので、《テロ対策》とは無関係としているのだ」「ということは、共謀罪法案提出を《テロ対策》として動機づけている政府の説明は、真っ赤な嘘ではないか」「あるいは、甚だしいご都合主義」ということになる。

リードは以下のとおり。「国連では、《国際組織犯罪》と《テロ》とは理論上区別されている」ことを意識して読むと分かり易い。

「政府はテロ対策として『共謀罪』法案が不可欠とするが、これまで策定してきた治安対策に関する行動計画では、テロ対策として『共謀罪』創設が必要との記述がないことが分かった。『共謀罪』はテロ対策とは別の組織犯罪対策でしか触れられていない。政府の行動計画を詳細にチェックすると、『共謀罪』法案がテロ対策とする政府の説明は根拠が弱いことが分かる。」

本文中に以下の指摘がある。
「政府は『共謀罪』について国際組織犯罪を取り締まるために必要と指摘してきたが、2020年東京五輪・パラリンピックの招致が決まったあとは、テロ対策に必要と指摘。『共謀罪』の呼称を「テロ等準備罪」に変更した。
だが、五輪開催決定を受けて13年12月に閣議決定した政府の治安対策に関する行動計画「『世界一安全な日本』創造戦略」では、東京五輪を見据えたテロ対策を取り上げた章に『共謀罪』創設の必要性を明確に記した文言はない。
この戦略で『共謀罪』は「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約締結のための法整備」として、国際組織犯罪対策を取り上げた別の章に記されている。例えばマネーロンダリング(資金洗浄)は組織犯罪対策とテロ対策の二つの章に記述があるが、『共謀罪』を示す法整備が登場するのは組織犯罪対策の章だけだ。」

誰が見ても、「テロ対策を前面に打ち出したのは今回が初めてで、世論を意識した後付けの目的にすぎない」というべきなのだ。東京新聞は、品がよいからこの程度だが、私に言わせれば、「共謀罪はテロ対策に必要」という政府の説明は真っ赤な嘘と言ってよい。

さらに2面に、追い打ちをかける記事が載っている。いまはやりの「ファクトチェック」という趣向。見出しは、「首相の招致演説『ファクトチェック』」「東京は世界有数の安全都市⇒五輪『共謀罪』ないと開けぬ」

これは上手だ。見出しだけで、我が国の首相が嘘つきであることが、よく分かる。

「安倍晋三首相は世論の理解を得ようとテロの脅威を訴え、2020年東京五輪・パラリンピック開催には、(『共謀罪』の成立が)不可欠と主張しているが、3年半前の五輪招致演説では東京の安全性をアピールしていた。本紙の担当記者があらためて招致演説を「ファクトチェック」したところ、数々の疑問が浮かんだ。」
以上の問題意識から、ごく短い「アベ五輪招致演説」の4個所を、東京新聞の「共謀罪担当」、「原発取材班」、「東京五輪担当」記者がチェックしている。こんな短い文章中の4個所。中身は、ほとんど全部ウソと誇張であるといってよい。次のようにである。

ファクトチェック(1)
「首相は今国会で、『共謀罪』法案について「国内法を整備し、国際組織犯罪防止条約を締結できなければ東京五輪・パラリンピックを開けないと言っても過言ではない」「法的制度の中にテロを防ぎ得ない穴があれば、おもてなしとして不十分だ」と強調している。

ところが、首相は13年9月、ブエノスアイレスでの国際オリンピック委員会(IOC)総会で、東京は「20年を迎えても世界有数の安全な都市」と強調して招致に成功した。同法案が成立しなければ五輪は開けないという今の主張とは大きな差がある。」

ファクトチェック(2)
「首相の五輪招致演説といえば、東京電力福島第一原発事故について「状況は、統御されています」と訴えたことで有名。実際には汚染水の流出が続いていたため「根拠がない発言」と批判された。今でも、汚染水は増え続け、溶け落ちた核燃料の状況もほとんど確認できていない。」

ファクトチェック(3)(4)
「これだけではない。演説で首相は「ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアム」と「確かな財政措置」が、確実に実行されるとも訴えた。
現実には、演説時に決まっていた女性建築家のデザインは迷走の末、白紙撤回。

大会開催費も、当初を大幅に上回る最大1兆8千億円との試算が出て、分担を巡る話し合いが続いており、財政措置が裏付けられているとは言いがたい。」

なお、同日の東京新聞は、一面に、「辺野古反対派リーダー保釈」というキャプションで、支援者と抱き合って喜ぶ山城博治さんの写真を掲げた。よい写真だ。また、社会面トップで「抗議中に逮捕 山城議長」「拘束5カ月、保釈」「『不当な弾圧だった』」の記事を掲載した。「不当な弾圧だった」という山城さんの記者会見の批判を見出しに使った、その姿勢や大いに良しというべきである。だれがどう見ても、不当に長期の勾留。批判は当然なのだから。山城さんと支援の方々に心からの敬意を表し、声援を送る。
(2017年3月20日)

「法と民主主義」516号(『特集・象徴天皇制をめぐる今日の議論』)のお薦め

日本民主法律家協会(日民協)の機関誌「法と民主主義」(「法民」)は、年10回刊。2・3月と、8・9月号が合併号となる。2017年2・3月合併号が予定通りに校了し、3月24日に発刊の運びとなる。通巻第516号である。ぜひ、ご購入いただきたく、まず目次をお目にかけたい。

「法と民主主義」2017年2・3月号(通巻№516)目次 
特集・象徴天皇制をめぐる今日の議論
 ◆特集にあたって     ………………………          澤藤統一郎
◆日本国憲法における象徴天皇制度の位置ー生前退位問題に関連して……植村勝慶
◆「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」論点整理を憲法学から読み解く……麻生多聞
◆「生前退位」をめぐる断想  象徴天皇制の根っこを見つめながら…………田中伸尚
◆生前退位に伴う天皇代替わり儀式の問題点…………………………………中西一裕
◆戦後天皇制と捏造「教育勅語」森友学園事件と「愛国者」たちの欺瞞………早川タダノリ
◆安倍政権の天皇制利用ー伊勢と靖国を通じて…………………………………辻子実
◆琉球沖縄から見た天皇・天皇制……………………………石原昌家

連続企画●憲法9条実現のために〈11〉
・自衛隊南スーダンPKO派兵差止訴訟ー戦争に子をとられる母の思いと主権者の責任…佐藤博文
・「殺し・殺される」そんな流れをかえなければ  …………………………… 平 和子
◆司法制度委員会・公開研究会〈1〉
・厚木基地訴訟・辺野古訴訟最高裁判決からたみ司法制度の現状………………岡田正則
◆司法をめぐる動き
・共謀罪(テロ等準備罪)法案ここが問題だ………平岡秀夫
・1月~2月の動き ……………………  司法制度委員会
◆メディアウオッチ2017●《国会審議と報道)
森友、PKO、共謀罪のウソとデマ メディアにも事実を隠す………………丸山重威
◆あなたとランチを〈№24〉…ランチメイト・長谷川悠美・竹村和也先生×佐藤むつみ
◆BOOKREVIEW
前田朗著「黙秘権と取調べ拒否権ー刑事訴訟における主体性」三一書房……渕野貴生
◆委員会報告●司法制度委員会/憲法委員会……………………………米倉洋子/小澤隆一
◆資料●憲法違反の共謀罪創設に強く反対する共同声明……
共謀罪法案に反対する法律家団体連絡会
◆時評●原発被災6年を迎えた福島の課題………今野順夫
◆ひろば●福島放射能公害訴訟に思うー6年目の3・11をむかえて……………小野寺利孝

特集が天皇制をめぐる問題、これに、自衛隊南スーダン派兵問題、厚木・辺野古訴訟、共謀罪、森友学園疑惑、原発被災問題と盛りだくさん。是非ともご予約いただきたい。

毎号、特集は責任編集者を決めている。今号は、私(澤藤)が担当し、リードを執筆した。ご購入いただきたく、リードを掲載して勧誘の惹句に換えたい。

「特集・象徴天皇制をめぐる今日の議論 リード」
昨年8月の天皇(明仁)生前退位希望発言をきっかけに、象徴天皇制のあり方をめぐる議論が活発化している。しかし、その活発化した議論は未整理のまま昏迷しており、幾つかの「ねじれ」さえあることを指摘せざるを得ない。泥縄的に天皇の生前退位を認める法整備を目前にしたいま、原理的で原則的な象徴天皇についての議論の整理が必要と思われる。
本特集は、今日的な象徴天皇制をめぐる論争の状況を整理し日本国憲法の理念からの原則的な基本視点を提供しようとするものである。

従来オーソドックスな憲法学は、天皇を日本国憲法体系における例外的存在とし、国民主権論や人権論との整合の観点から、象徴天皇の行動範囲を可及的に縮小しようとしてきた。しかし、天皇自身は「象徴としての公的行為」拡大を意識し、そのような「象徴天皇像」を作ろうと意図してきた。そのため、天皇の生前退位希望発言は、明らかに象徴天皇の公的行為についての積極的拡大論とセットになっている。

もっとも、その公的行為拡大論には、世論の一定の支持があることを否定し得ない。これまでの天皇(明仁)の発言が憲法に親和的でリベラルなものと認識され、また被災地慰問や戦没者慰霊などの行為が世論から好感を持たれているという事情による。そのため、いまリベラル派の一部に「公的行為拡大」論を容認する論調が見られ、むしろ守旧派が「公的行為縮小」論を主張するという「ねじれ」た論争が展開されている。しかし、生前退位の可否と、公的行為容認の可否とは厳格に分けて論じられなければならず、あくまで天皇の存在感と行動可能範囲を極小化する議論こそが出発点でなければならない。

なお、旧天皇制の残滓としての象徴天皇の権威拡大は、ナショナリズムと結びつけての利用の危険を常に内包している。現政権はことさらにそのような意図を有しているものと警戒せざるを得ない。その危険性を、閣僚の靖国神社や伊勢神宮参拝、あるいは伊勢サミットなどの問題として直視しなければならない。それに加えて、「天皇制批判の表現の自由への抑圧、弾圧はなくならない。」という指摘を重いものとして受け止めなければならない。

また、生前退位に伴い、大嘗祭・即位の礼が行われることになろうが、厳格な政教分離を定めたはずの憲法をないがしろにしたこれらの動きを警戒し、問題点を指摘しておかなければならない。さらに、急浮上した森友学園疑惑に関連して、教育勅語論争が天皇制再考のテーマとして関心を集めている。

今号の特集では、以上の観点から、7本の貴重な寄稿を得た。「日本国憲法における象徴天皇の位置─生前退位問題に関連して」(植村勝慶)は、錯綜した議論の基本視点を提供するものであり、「『天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議』論点整理を憲法学から読み解く」(麻生多聞)は、論争の整理を試みたものである。「『「生前退位』をめぐる断想─象徴天皇制の根っこを見つめながら」(田中伸尚)は、エッセイのかたちで象徴天皇制の問題の根源を抉っている。「生前退位に伴う天皇代替わり儀式の問題点」(中西一裕)は、前回天皇代替わりの際の儀式を政教分離違反と争った訴訟弁護団からの貴重な問題提起である。「戦後天皇制と捏造『教育勅語』─森友学園事件と『愛国者』たちの欺瞞」(早川タダノリ)は、教育勅語論争における右派の論理の分析として有用な視点を提供するもの。そして、「安倍政権の天皇制利用─伊勢と靖国を通じて」(辻子実)は事情通の貴重な論稿。最後の「琉球沖縄から見た天皇・天皇制」(石原昌家)は、天皇と琉球沖縄との関わりを通史としてまとめ、その視点から沖縄と本土の現在の関係を再考する。
この特集が、象徴天皇制を憲法原則の視点から、多面的に見つめ直すきっかけとならんことを願っている。(編集部・澤藤統一郎)

さあ、いかがか。「法民」は機関誌だから、会員配布以外の販売用の印刷部数はまことに少ない。(もっとも「残部僅少!!」は売り手側の常套作戦)。売り切れてしまえば、貴重な資料がお手許には届かない。お代は1000円と消費税。ハイとお声を上げていただいた方から、お早いが勝ちだ。

ご注文は、下記のURLへ。どうぞよろしく。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin

(2017年3月19日)

原発避難者訴訟ー「笑顔なき勝訴」から「笑顔に満ちた勝訴」を目指して

昨日(3月17日)、前橋地裁(原道子裁判長)が「福島第1原発事故 避難者訴訟」の判決を言い渡した。全国各地の原発事故損害賠償集団訴訟は20件を数え、原告総数1万2000人と言われる。その集団訴訟最初の判決として注目されていたもの。各地の訴訟への、今後の影響が大きい。

本日(3月18日)の毎日新聞朝刊社会面の見出しが、「原告、笑顔なき勝訴」「苦労報われず落胆」「認定137人の半分以下」というもの。「勝訴」ではあったが、各原告には「落胆」と受けとめられた判決。毎日が伝えるところを抜粋する。

笑顔なき「一部勝訴」だった。17日の原発避難者訴訟の判決で、前橋地裁は東京電力と国の賠償責任は認めたものの、命じられた賠償額は原告の請求からは程遠かった。古里を奪われた代償を求めて3年半。大半の原告が周囲に知られないように名前も伏せ、息をひそめるようにして闘ってきた。「もっと寄り添ってくれる判決を期待していたのに」。苦労が報われなかった。原告の顔には落胆の表情が浮かんだ。
 
「国と東電の責任を認めさせた。心からうれしいのは間違いない」。判決後の集会で壇上に立った原告の丹治(たんじ)杉江さん(60)はこう言った後、言葉に詰まった。「この6年間つらいことばかりだった。納得できるかな……」

「国と東電の責任が共に認められ、他の訴訟の追い風になる」と話す一方、「原告の主張すべてが認められたわけではなく、残念だ」とも述べた。
原告たちを突き動かしてきたのは「ふるさとを奪われた苦しみへの賠償が不十分」という思いだったが、判決で賠償が認められたのは原告の半分以下の62人だけだった。
「もっと温かい判決を期待していたのに」「私たちの被害の実態や苦しみが分かっていないのではないか。お金のために裁判をやっているのではないが、損害認定には納得できない」と不満をもらした。

損害賠償訴訟実務の論点は、「責任論」(被告に責任があるか)と「損害論」(損害額をどう算定するか)とに大別される。前橋判決は、責任論ではまさしく「勝訴」であったが、損害論では原告らに笑顔をもたらすものとならなかった。以下にその問題点を整理しておきたい。

判決書は、膨大なものだという。入手していないし、到底読み切れない。判決当日、裁判所が判決骨子(3頁。判決主文の全文が掲載されている)と、判決要旨(10頁)とを配布した。これで、必要なことがほぼ分かる。

裁判所が下記の【参考データ】を作成している。
1 判決文全5冊総数1006頁
2 当事者 原告提訴時合計137名
      うち、訴訟提起後死亡 3名
      本件事故時出生前   4名
  被告 東京電力ホールディングス株式会社
  被告 国
3 請求関係
 原告の請求は1名あたり1100万円(うち、弁護士費用100万円)
 請求金額合計15億700万円
 認容金額合計3855万円
 全部棄却72名
 一部認容62名
 避難指示等区域内の原告数72名 うち認容19名
  最高額350万円 最低額75万円
 自主的避難等区域内の原告数58名 うち認容43名
  最高額73万円最低額7万円
  (相続分を合算した者102万円)
4 弁済の抗弁等
 上記認容額は、被告東電が原告らに対して既に支払った金員(訴訟係属中の支払を含む。)のうち、裁判所が、本件訴訟における請求(平穏生活権が侵害されたことによる慰謝料)についての弁済に該当すると認めた金員を控除した金額である。
(1) 被告東電が主張した既払額総額12億454万3091円
  そのうち、被告東電が主張した慰謝料に対する既払額総額
   4億5830万5860円
(2) 裁判所が弁済の抗弁として認めた金額の総額
   4億2093万5500円

以上のとおり、原告総数137名の内、一部でも認容された者は62名、72名が全部棄却されている。請求金額合計15億700万円に対する認容金額合計3855万円は、認容率において2.5%、40分の1に過ぎない。「もっと温かい判決を期待していたのに」「私たちの被害の実態や苦しみが分かっていないのではないか。損害認定には納得できない」との原告らの不満も当然であった。

責任論では、原告に満足のいく内容だった。ということは被告両名(東電と国)には極めて厳しい判断となった。

判決は、「当裁判所の判断」の冒頭で、「被告東電に対する民法709条に基づく損害賠償請求の可否」と表題する項を設け、「立法者意思等に基づく原賠法3条1項の解釈からすると、原告らは被告東電に対し、原子力損害に係る損害賠償責任に関しては、民法709条に基づく請求はできない。」との判断を示す。

不法行為に基づく損害賠償請求の根拠が民法709条(「故意又は過失によって、他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」)で、被告に過失あることを要件に賠償責任を認めている。一方、原賠法(原子力損害の賠償に関する法律)3条1項は、「原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者(東電)がその損害を賠償する責めに任ずる。」と定めて、過失を要件としていない。

裁判所は、原発事故には、民法709条適用の余地なく、原賠法3条1項だけの適用ありというのだから、責任論において被告東電の過失の有無を検討する必要はないことになる。

ところが判決は、「原告らは、慰謝料算定における考慮要素として被告東電の非難性を挙げ、被告東電の非難性を基礎づける事情として、被告東電に、本件事故についての予見可能性及び結果回避可能性があったこと、を中心として主張していることなどから、被告東電の津波対策義務に係る予見可能性の有無及び程度について検討する。」として、「津波対策義務に係る予見可能性」を詳細に述べる。

民法709条にいう責任根拠としての「過失」とは、「注意義務違反」とされるが、注意義務は「予見可能性」のないところに成立し得ない。したがって、本件においては、「東電が3・11の規模の大津波の襲来を予見可能であったか」が、争点となる。予見可能なら、当然に防潮堤を嵩上げし、冷却水供給用の電源を浸水させぬよう処置するなどの、作為の注意義務の存在を認定できる、過失ありということになる。

だから通常、予見可能性の有無は責任論の範疇で論じられる。しかし、本件では、無過失責任を前提に、「被告東電の津波対策義務に係る予見可能性の有無及び程度についての検討」が、「慰謝料算定における考慮要素」として、損害論の範疇で論じられているのだ。

判決が予見可能性を認めた判断についての各紙の評価は高い。
「原発避難訴訟、国に賠償命じる判決 予見可能だった」「判決は津波の到来について、東電は『実際に予見していた』と判断。非常用ディーゼル発電機の高台設置などをしていれば『事故は発生しなかった』と指摘した。国についても『予見可能だった』とし、規制権限を行使して東電にこれらの措置を講じさせていれば「事故を防ぐことは可能であった」とした。原告の主張をほぼ認める判決となった。」(朝日)

「国の責任についても、『東京電力に津波の対策を講じるよう命令する権限があり、事故を防ぐことは可能だった。事故の前から、東京電力の自発的な対応を期待することは難しいことも分かっていたと言え、国の対応は著しく合理性を欠く』として、国と東京電力にはいずれも責任があったと初めて認めました。」(NHK

本件判決では、予見可能性の検討結果は、「東電には、本件事故の発生に関し、特に非難するに値する事実が存するというべきであり、東電に対する非難性の程度は、慰謝料増額の考慮要素になると考えられる」とされるのだが、それにしては認容金額は異様に低額と言わざるを得ない。

損害論について、判決要旨は下記のとおり述べているにとどまる。詳細は、判決書きそのものを読むしかない。

本件での請求は、すべて慰謝料(精神的損害の賠償)である。
※個々の原告が被った損害等(相当因果関係及、ぴ損害各論)総論
(1)個々の原告が被った損害については、平穏生活権の侵害により精神的苦痛を受けたかについて検討し、これにより精神的苦痛を受けた場合の慰謝料について、侵害された権利利益の具体的内容及び程度、避難の経緯及び避難生活の態様、家族等の状況その他年齢、性別等本件に現れた一切の事情を斟酌するのが相当と考える。
(2)健康被害に係る精神的苦痛に対する慰謝料は、請求の対象となっていないから慰謝料算定の考慮要素にはならず、上記苦痛に対する慰謝料についての支払いは本件請求についての弁.済とはならない。
(3)仮に.原告らが被ばく線量の検査を受けていなかったとしても、受けていないとの一事をもって、あるいは、被ばく線量の検査を受け原告の一部につき、検査結果が健康に影響のある数値とは認められなかづたことをもって、当該原告が本件事故により放出された放射性物質による被ばくについて、不安感を抱いていることを否定することにはならない。
(4)被告東電が、原告らのうち自主的避難等をした者に対して、合計12万円の支払をした場合には、そ.のうち4万円が精神的損害についての支払である。
※「個々の原告が被った損害等(相当因果.関係及び損害各論) 各論

「判決要旨」には、個々の原告が被った損害等(相当因果.関係及び損害各論)の掲載がない。何をもって慰謝料の算定要素とし、各原告をどのように分類して、各原告の慰謝料額を算定したのか、定かではない。

それでも、判決の評価は次のようにできるだろう。
責任論については、明るい展望を切り開いた判決である。各原告団・弁護団が抱える訴訟の責任論に自信を与えるものとなった。裁判所が無過失責任論を採るにせよ、過失責任主義を採るにせよ、被告東電の有責は揺るがない。

そして、損害論の課題が浮き彫りになった。裁判所を動かす論拠として足りないところを見極め、各弁護団内の議論と、弁護団の垣根を越えた意見交換で、原告らの「笑顔の伴った勝訴判決」を目ざすことになるにちがいない。
(2017年3月18日)

天皇退位問題の議論に、国会が萎縮してはならない。

天皇(明仁)の退位希望を可能とする法整備に関し、異例のこととして、衆参両院の正副議長が議論のとりまとめを行った。一昨日(3月15日)その成案が各会派に示され、本日(3月17日)午後、そのとりまとめによる提言書が、首相に手渡された。政府は、この提言を尊重して法案化を進め、5月の大型連休明けに国会に提出する方針と報じられている。これで、法案が今国会で成立するのは確実だという。何とも釈然としない。

こういうことではないだろうか。天皇の退位法制化という微妙な問題なのだから、できるだけ論争を避け、波風立てぬように、全会一致となるよう事前のとりまとめが必要と判断した。この姿勢は、天皇に関する問題を国会における議論の対象とすることは、遠慮すべきだとするものである。もしかしたら、天皇の明示の希望を拒絶するような議論を封じておこうという意図もあるのではないだろうか。

国民こそが主権者である。天皇は主権者国民の意思に基づいて、その地位にある。主権者の多様な意思・意見を忌憚なく述べ合い、主権者の合意を形成すべき国会が、こと天皇の問題となったら、何という腰の引けよう。

我が国の表現の自由の試金石は、天皇に関する批判の自由如何にある。天皇や天皇制に関しての批判を躊躇してはならない。そのことこそが表現の自由を放擲する萎縮の端緒にほかならない。

いったい、何のために両議院の正副議長が、天皇に関わる制度の論議を特別扱いとしたのか。予め各会派の合意をとりまとめ、このあたりなら議論を避けて、天皇や天皇制に対する批判の意見が表立つことなく、波風立たない審議が可能だと、内閣に申し出たのではないか。天皇や天皇制に関わる議論についても、遠慮することなく、国会論戦のテーマとすべきが当然ではないか。国会の天皇批判の萎縮は、国民全体の天皇批判の萎縮となるのだから。

本日、大島理森衆院議長は、「政府が法案提出前に骨子を各党に説明し、要綱を与野党代表者による全体会議に示すよう要請した」という。これも、天皇に関する法案だから波風立たぬように、という配慮である。そのような国会の配慮は、ますます「皇室タブー」を拡大し、我が国の表現の自由度を低下させることになるだろう。

報道では、自由党は提言案に反対を表明。共産党は、提言自体は容認したものの、「陛下のお言葉を各党が重く受け止める」との記述が憲法に抵触しかねないなどと指摘のうえ、「今後の国会審議を縛るものとしてはならない」と賛否を留保したという。全会一致でなかったのは、救いといえよう。

「『天皇の退位等についての立法府の対応』に関する衆参正副議長による議論のとりまとめ」の全文が報道されている。その中の釈然としない部分を引用しておこう。
1.はじめに-立法府の主体的な取組の必要性
「天皇の退位等」に関する問題を議論するに当たって、各政党・各会派は、象徴天皇制を定める日本国憲法を基本として、国民代表機関たる立法府の主体的な取組が必要であるとの認識で一致し、我々四者に対し、「立法府の総意」をとりまとめるべく、御下命をいただいた。

この考え方が、そもそもおかしい。「天皇の退位等」に関する問題に限らず、すべての国政の課題、国民生活に関する課題には、国民代表機関たる立法府の主体的な取組が必要であることは明らかではないか。どうして、「天皇の退位等」だけが特別な取り扱いをすべきなのか、どうして「天皇の退位等」だけが「立法府の総意」とりまとめの必要があるのか、説明は不可能だろう。

2.今上天皇の「おことば」及び退位・皇位継承の安定性に関する共通認識
その上で、各政党・各会派におかれては、ともに真摯に議論を重ねていただき、その結果として、次の諸点については、共通認識となったところである。
(1) 昨年8月8日の今上天皇の「おことば」を重く受け止めていること。
(2) 今上天皇が、現行憲法にふさわしい象徴天皇の在り方として、積極的に国民の声に耳を傾け、思いに寄り添うことが必要であると考えて行ってこられた象徴としての行為は、国民の幅広い共感を受けていること。
このことを踏まえ、かつ、今上天皇が御高齢になられ、これまでのように御活動を行うことに困難を感じておられる状況において、上記の「おことば」以降、退位を認めることについて広く国民の理解が得られており、立法府としても、今上天皇が退位することができるように立法措置を講ずること。
(3) 上記(2)の象徴天皇の在り方を今後とも堅持していく上で、安定的な皇位継承が必要であり、政府においては、そのための方策について速やかに検討を加えるべきであること。

「今上」「おことば」「重く受け止め」「御高齢」「御活動」の敬語使用は不要というべきだ。言うまでもなく、今は天皇主権の時代ではない。国民主権の時代の国会が天皇を語る際の用語には、もっと工夫が必要だ。
そして、「次の諸点については、共通認識となったところである」は、信じがたい。多数派による少数意見の切り捨て、ないし、多数意見への変更の押しつけ以外のなにものでもない。多数派による、「これが全体意見だ」という僭越な意見表明は民主主義社会にふさわしくない。とりわけ、国会がこんなことをしてはならない。

3.皇室典範改正の必要性とその概要
(1) さらに、各政党・各会派においては、以上の共通認識を前提に、今回の天皇の退位及びこれに伴う皇位の継承に係る法整備に当たっては、憲法上の疑義が生ずることがないようにすべきであるとの観点から、皇室典範の改正が必要であるという点で一致したところである。
(中略)
この規定により、①憲法第2条違反との疑義が払拭されること、②退位は例外的措置であること、③将来の天皇の退位の際の先例となり得ることが、明らかになるものと考えられる。

結論が、①~③にまとめられている。①に関しては、賛否両論あろう。しかし、「②退位は例外的措置であること」と「③将来の天皇の退位の際の先例となり得ること」の両者がならべられていることには、「そりゃいったいどういうことだ」と驚嘆せざるを得ない。いったい、どっちを向いた提言をしているのか、さっぱり分からない。こんなことで、国会の論戦を避けてはならない。

4.特例法の概要
特例法においては、以下のような趣旨の規定を置くことが適当ではないか。
(1)今上天皇の退位に至る事情等に関する規定に盛り込むべき事項
①今上天皇の象徴天皇としての御活動と国民からの敬愛
②今上天皇・皇太子の現況等
③今上天皇の「おことば」とその発表以降の退位に関する国民の理解と共感

以下は省略するが、「今上天皇の象徴天皇としての御活動と国民からの敬愛」「国民の理解と共感」と並ぶ言葉に、気恥ずかしさを禁じ得ない。こんな言い回しをしなければならない時代状況なのだろうか、そのことに考え込まざるを得ない。少なくとも、国民すべてが天皇を敬愛しているというのは事実に反する。このような事実に反する表現はやめていただきたい。

私は、憲法に規定がある以上、天皇という公務員職が設けられていることは否定しない。しかし、天皇への「敬愛」の感情は持っていない。「退位に関する理解と共感」の情もない。敬愛や共感の押しつけはおやめいただきたい。

国会・国会議員には、主権者の代表としての自覚と気概を堅持していただきたい。天皇制のかたちを決めるのは、国会の仕事である。議員は、忌憚なく遠慮なく十分な議論を尽くして、天皇制のあり方についての合意を形成されるよう切実に希望する。
(2017年3月17日)

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