澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

私に法曹としての生き方を教えてくれた、反面教師・石田和外

岡口基一裁判官を被申立人とする分限裁判に関して、東京新聞(「こちら特報部」)からコメントを求められた。
私にコメントを求めてくるのだから「その姿勢や良し」なのだが、若い記者に話しをしていて、こちらは共通の事実認識という思い込みが、実はそうでもないことに気がついた。1970年代初めに、司法の独立を守ろうという幅の広い市民運動ないしは民主主義運動があったことが共通の認識になっていない。だから、話しが長くならざるを得ない。

私は、1971年に司法修習を終えて弁護士になった。当時の最高裁長官が石田和外。「ミスター最高裁長官」(在任1969年1月11日~1973年5月19日)といわれた男。その名前を聞くだけで、いまだにアドレナリンの噴出を意識せざるを得ない。血圧も上がってくる。

この男、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。その象徴的人事が宮本康昭裁判官(13期)の再任拒否てあり、私と同期(23期)修習生の裁判官志望者7名の任官拒否であつた。さらに、最高裁は、これに抗議した阪口徳雄・司法修習生を罷免した。

司法行政がその人事権を行使して第一線の裁判官を統制し、その統制を通じて判決内容を後退させようという意図が目に見えていた。「憲法を守ろう、平和と人権を守ろう」という青年法律家協会に対する攻撃は、自民党(田中角栄幹事長)から始まり、続いた右翼メデイアに、司法行政当局が呼応したものだった。石田和外は、青年法律家協会攻撃記事を掲載した「全貌」(今なら「正論」だろう)を公費で購入して全国の裁判所に配布することまでしている。

石田和外が青年法律家協会攻撃に使った「理論的な武器」が、「裁判官には、客観的中立公正の姿勢だけでなく、『中立公正らしさ』が求められる」「国民からの中立公正に対する信頼が大切だ」というもの。いったい、裁判官に求められる、「中立公正」「中立公正らしさ」とはなにかという論争が巻きおこったが、はしなくも彼自らが決着をつけた。

何と彼は定年退官後に新設された「英霊をまもる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、「ミスター最高裁長官」のいう「中立公正」の実質なのだ。

もうひとり、定年退官後に公然と右翼活動に邁進した最高裁長官がいる。三好達(在任1995年11月7日 ~ 1997年10月30日)。彼は、2001年から2015年まで、あの「日本会議」会長の任に就いている。言わば、右翼の総元締めである。退任後、現在はその名誉会長。そして、靖国神社崇敬者総代でもある。最高裁とはこんな所だ。最高裁のいう「公正中立」の内実はこんなものなのだ。

当時20代の私は、最高裁当局という権力と対峙していることを肌に感じ、怒りに震えた。当時の多くの同期の法曹が同じ思いだったと思う。私は、学生運動の経験者ではない。修習生運動の中で、反権力の立場で法曹としての生きることを決意した。石田和外が、私の生き方を教えてくれたとも言える。石田和外は、若い私を鍛えた反面教師だった。最高裁は、青年法律家協会を弾圧したが、同時に多くの法曹活動家を育てたのだ。

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下記は、先月ある学習会で語る機会あって、作ったレジメである。目を通していただけたら、だいたいのところをお分かりいただけるのではないか。

                                  友愛政治塾講義レジメ 弁護士 澤藤統一郎

      「裁判を通した司法制度の問題点」・体験的司法制度論

第1 権力構造における司法の位置
 1 建前としての司法の役割
   (1) 権力の分立
           立法・行政とのチェック&バランス
      権力抑制のための分立というだけでなく、
      法の支配(法治主義)を前提とした政治・行政のサイクル
   (2) 人権救済を本来の使命とする司法
      「天賦人権」という根本価値の擁護
      司法・行政から独立して、これをチェックする役割
 2 所詮は国家権力機構の一部という本質(実態)
    国家権力からの支配・介入
    常にある社会的圧力
第2 司法の独立とその限界
 1 司法は独立していなければならない⇒が、それは至難の業である。
 2 司法の独立とは、公権力・政権与党・社会的多数派からの独立である。
 3 司法の独立の実体は、個々の裁判官の独立である。
第3 司法行政が司法の独立を侵害している。
 1 裁判官人事が、司法行政による司法の独立侵害の手段
 2 採用・10年ごとの再任・任地・昇進・昇給による差別と支配
 3  司法行政の主体が司法官僚。司法官僚制が諸悪の根源である。
第4 1971年 体験的司法反動論
 1 前史 1960年代の民主主義運動の高揚 労働運動・市民運動・学生運動
    ⇒裁判所の変化  憲法理解の深化と判例の良質化
    ⇒これに対する反動化 自民党・右翼メディア・旧時代裁判官の台頭
 2 石田和外体制の確立
    青年法律家協会攻撃(自民党・右翼メディア・最高裁)
    70年22期任官拒否2名・局付き判事補の青法協会員脱退届
 3 71年4月 23期任官拒否7名。宮本康昭13期裁判官再任拒否。
    修習修了式での抗議を理由に、阪口徳雄司法修習生即日罷免。
 4 全国的な抗議運動⇒「司法の独立を守る国民会議」結成。
        「司法の嵐」といわれた事態に。ヒラメ裁判官の跋扈。忖度裁判。
    ⇒「権力掣肘」「人権の砦」としての裁判所の後退
 5 市民の側からの反撃の課題
    司法官僚制をどう打破するか。
    重いテーマとしての法曹一元。全裁判官を弁護士経験者から。
    裁判官の市民的自由の保障。裁判官生活の閉鎖性打破の重要性。
     (寺西和史・分限裁判での戒告。そして今、岡口基一が)
    最高裁裁判官任用手続の改善。下級裁判所裁判官についても。
第5 幾つかの訴訟経験から
 1 岩手靖国訴訟
    最低最悪の一審判決を書いたのは、元訟務検事(仙台訟務局長)。
    公式参拝違憲の控訴審判決を書いた裁判長は、3日後に退官。
 2 市民平和訴訟
    高額印紙問題が示すもの
    司法の役割とはいったいなんだ。
 3 「日の丸・君が代」強制拒否訴訟
    どうして最高裁は違憲と言わないのか。
第6 韓国憲法裁判所訪問の衝撃
 1 遠慮のない違憲判決 市民のための裁判所を標榜する姿勢
 2 それでもなお、多々限界は見える。
 3 司法だけが民主化することはあり得ない。
第7 司法消極主義批判と(逆)司法積極主義批判
 1 これまでは、最高裁の憲法判断回避の司法消極主義を批判してきた。
 2 今や、司法消極主義がマシ。(逆)司法積極主義を警戒すべきの論調が台頭。

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この続きは、ぜひ、11月17日(土)の日民協・司研集会にご参加を。

国策に加担する司法を問うーー第49回司法制度研究集会へのお誘い
http://article9.jp/wordpress/?p=11283
(2018年10月21日)

人は「日の丸・君が代」を押しつけられて生くべきものにあらず

「人はパンのみにて生くるものにあらず」は、古今を通じての出色の名言。
マタイ伝の文語訳では、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」となっているそうだが、これは凡人の一文。後半を切り捨てることによって、名言となった。

「人」の対語は、禽獣である。禽獣にとっては、生きるための糧を得ることが、生きることのすべてである。しかし、人はパンを糧にした肉体の維持でこと足れりとはならない。人が人たるには、そして自分が自分たるには、固有の精神生活が不可欠なのだ。

人の精神生活は本来的に極めて多様である。極めて多様な精神生活のあり方が、人の多様な個性を形作る。人それぞれに関心の対象も趣味も嗜好も異なる。思想も信仰も感性もさまざまである。歴史の知恵は、社会も国家も、可能な限り人の精神生活の多様性に寛容でなくてはならないことを教えている。

おそらく、「奴隷とはパンのみにて生くることを余儀なくされた者」である。奴隷には、パンを糧にした肉体の維持のみが保障され、精神生活の自由の保障がない。この点において、禽獣ないしは獣畜と同様の扱いである。したがって、奴隷は人でありながら人でない。人として扱われない人ということになる。

人の精神生活の基礎には自尊の心情がある。また、極めて多様な他人の精神生活に寛容であるためには、他の人の人格の尊厳を認めなくてはならない。寛容とは、人を差別せず、すべての人の人格の尊厳を認めるということである。

すべての人は、等しく人格の尊厳を有しているのだ。これが、この社会の公理である。人格の尊厳を否定する最も極端な行為が殺人である。他人を傷害し欺し盗むことも他人の人格の尊厳を損なう罪悪である。同様に人を差別することは、差別された人の人格の尊厳を損なう点において罪悪にほかならない。

人種・民族・性・心身の障害によって、また出自によって人を差別することは、人の先天的な属性によって、人格の尊厳を傷つける罪悪である。信仰や思想による差別も、深刻に人格の尊厳を損なう罪悪である。

差別の痛みは、常に差別される少数派にある。多数派の同調圧力が少数派の人権をないがしろにする。多数派には、少数派の思想や信仰を侵害することのないよう配慮が求められる。

さて、ここから具体的な問題について触れておきたい。
少数派に対する思想差別とは、多くの場合多数派の社会的同調圧力が少数派の人格を侵害するものであるが、社会的同調圧力が政治権力と結びつくときには、深刻な事態となる。ナショナリズムに関する思想問題がその典型といえよう。

最も警戒すべきは、愛国心の押しつけである。国民国家の多数派は、社会的同調圧力によって全国民に愛国心を強要するだけでなく、政治権力をもって愛国の行動を強制する衝動をもっている。愛国派は、無邪気ににも「愛国こそ正義」と信じて疑わないからである。

「日の丸・君が代」の強制は、そのようなナショナリズムの負の側面が強く表れたものである。これは、愚かというだけではなく、文明に反する野蛮な権力の行為というほかはない。

「人はパンのみにて生くるものにあらず」とは、すべての人に侵しがたい精神生活の尊厳が必要であることを喝破している。それゆえに名言なのだ。「日の丸・君が代」を受容しがたいという思想信条や信仰を有する人に、「起立せよ・斉唱せよ」と強制する為政者は、この名言を肝に銘じて反省しなければならない。
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明日(2018年10月21日(日))は、日本軍国主義による「学徒出陣」の日。また、「国際反戦デー」の日。「子どもたちを再び戦場に送らない」決意を新たにする日。この日に、学校に自由と人権を!10・21集会」が開催される。

時 13時15分開場 13時30分開会
所 千代田区立日比谷図書文化館(日比谷公園内 日比谷野外音楽堂隣)

 講演「経済を壊死させる下心政治~さらば闇軍団~」
    浜矩子(同志社大学教授・経済学・アベノミクス批判)
 講談「三面記事の由来」(明治の反戦ジャーナリストの物語)
    甲斐淳二さん(社会人講談師・香織倶楽部所属)
 特別報告「『君が代』訴訟と憲法」
      加藤文也弁護士(東京「君が代」裁判弁護団)
(2018年10月20日)

憲法の砦としての司法に対する信頼を損ねているのは、いったい誰なのだ - 岡口基一分限裁判批判

一昨日(10月17日)、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人最高裁長官)は東京高裁岡口基一裁判官に対する分限裁判で、同裁判官を戒告した。そのツイッター投稿が裁判所法49条にいう「(裁判官の)品位を辱める行状」に当たるとしたのだ。この決定全文は、下記のURLで読むことができる。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/055/088055_hanrei.pdf

これは看過し難い。何が問題なのか。司法行政が個々の裁判官を過剰に統制していることである。あるべき司法の独立とは、司法府が、立法府や行政府の圧力から独立しているだけでは足りない。司法の独立の神髄は裁判官の独立にある。個々の裁判官は司法府の上層部から、とりわけ司法行政から独立していなければならない。

司法行政は、裁判官の人事権を掌握している。個々の裁判官が、昇進・昇格・昇給・任地・再任等々への影響を懸念することなく、裁判官としての職業的良心にしたがった判断をなし得るよう保障されていなければならない。岡口懲戒は、この要請に反して、個々の裁判官の独立に水を差すものとなった。むしろ、最高裁は裁判官の萎縮という効果を意図してこの決定をしたものと考えざるをえない。

憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。司法行政からの独立が保障されているのだ。独立とは、統制からの自由ということだ。

しかし、司法行政当局は個々の裁判官を統制したいのだ。個々の裁判官の自由よりは司法府全体の秩序を望ましいとする。裁判官の統制を通じて、判決内容も、自ずから統制されることにならざるを得ない。その統制の方向は、国民の自由よりは国家や社会の秩序重視に傾いた判決である。

問題とされた岡口裁判官の判決批判は、市民的自由の範囲の言論に過ぎない。けっして、非礼でも、奇矯でもない。もちろん、没論理でも非理性的なものでもない。司法行政からの独立を保障されている裁判官として、矩を越えたものとは考えられない。また、そのように考えてはならないものというべきであろう。

司法行政当局は、敢えて岡口裁判官の市民的自由の行使を懲戒することで、裁判官統制の手段に利用した。岡口裁判官ではなく、裁判官全体に、「余計な発言をするな」と恫喝し、その萎縮効果を狙ったのだ。

個々の裁判官の独立のメルクマールは、裁判官の市民的自由保障の有無・程度にある。司法行政当局は裁判の市民的自由行使を嫌うが、裁判所とは、秩序維持の名のもとに自由や人権を侵害された国民がその救済を求める場である。その裁判所で、裁判官の自由や人権の保障が十分でなければ、それこそ裁判所は、国民の信頼を失うことになる。

さすがに最高裁と言えども、裁判官の市民的自由を否定することはできない。戒告の決定の論理構造も、「憲法上の表現の自由の保障は裁判官にも及び,裁判官も一市民としてその自由を有することは当然である」ことを原則とはしいる。しかしながら、「被申立人(岡口)の行為は,表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱したものといわざるを得ない」としている。

では、「一般市民とは異なる裁判官に許容される限度」たる一線はどこにあるのか、それを意識的に示して裁判官の発言の自由を保障しようというものになっていないところが歯がゆい。そして、誰もが関心を示していた、司法行政が個々の裁判官の独立の気概を損ねることになってしまいはせぬかという危惧に対する配慮は見えてこない。

大法廷決定はこう言う。
裁判所法49条…にいう「品位を辱める行状」とは,職務上の行為であると,純然たる私的行為であるとを問わず,およそ裁判官に対する国民の信頼を損ね,又は裁判の公正を疑わせるような言動をいうものと解するのが相当である。

キーワードは、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」であるごとくである。しかし、「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、裁判批判を封じた権威主義から生まれるものではあり得ない。「他の裁判官の結論にはものを言うな」とは、さすがに大法廷も言えない。だからこう言っている。「その内容を十分に検討した形跡を示さず,表面的な情報のみを掲げて,…一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えた」から非難に値するというのだ。

大法廷決定が、裁判所法49条を解釈するに際して、憲法76条3項を斟酌した形跡はない。最高裁大法廷は、裁判官が統制に服し秩序を保って社会的発言を控え、確定判決の批判もしないことが、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」に資するものと考えた。しかし、常にものには二面がある。「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、実は裁判官の独立あってのものではないか。果たして市民は、最高裁の顔色を窺うヒラメ裁判官ばかりの裁判所を、憲法の砦、人権擁護の府として信頼するであろうか。

残念だったのは、大法廷決定が、裁判官14人全員一致の意見だったこと。本来、これはあり得ない。寺西分限裁判では5人の反対意見が救いだったが、今回はその救いがない。最高裁大法廷は、全員一致で、国民の司法府に対する信頼を損なう決定をしたとも言えるのだ。
(2018年10月19日)

むき出しとなった権力の正体

1933年2月20日、天皇制警察は小林多喜二を虐殺した。文字通りの残虐ななぶり殺しだった。

陰惨極まりない拷問死の死体の解剖はどの病院からも拒否され、遺族に返された遺体を医師・安田徳太郎が検死している。権力批判のペンを握っていた多喜二の右人差し指は、手の甲の方向にへし折られていた。明らかにこの虐殺は、天皇制国家による作家多喜二の言論活動に対する報復であり、見せしめであった。

母親(セキ)は多喜二の身体に抱きすがった。「ああ、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

この母の慟哭を忘れてはならない。これが権力の本性だ。遠いどこかの世界のできごとではない。わが国に現実に起きた無数の類似の事件を象徴する最も知られた権力の犯罪。

ジャマル・アフマド・カショギは、メディアで「反体制派のサウジ人著名ジャーナリスト」と紹介される人。本年(2018年)10月2日、イスタンブールにあるサウジアラビア領事館の総領事室で殺害された模様である。これも、多喜二同様の陰惨な虐殺であったことが、次第に明らかになりつつある。

忘れてはならない。これが権力の本性だ。昔話ではない。まさしくたった今、現実に起きた、権力批判の言論活動への報復としての国家犯罪。

「有効な国民の制御がないところでは、権力は暴走する」というのは不正確な言い回しではないか。「権力は暴走する」のではない。「権力は本性をむき出しにする」のだ。多喜二もカショギも、その権力批判の言論活動のゆえに、権力の憎悪の対象となり虐殺された。

忘れてはならない。権力の正体の恐ろしさを。常に権力を監視し批判し続ける必要性を。そして、多喜二やカショギを虐殺した権力を支持する勢力は、今なお、わが国にも厳然として存在し続けていることも。
(2018年10月18日)

面従腹背は、悲哀か救いか

文部科学省の新事務次官に同省の藤原誠官房長が就任した。昨日(10月16日)藤原新次官は、職員向けのあいさつで「文科省の組織文化の形成過程をきちんと検証していかなければならない」と述べ、「面従腹背はやめましょう」と呼びかけたという。

これだけの報道なら分からんでもない。しかし、新次官が述べた「面従腹背やめましょう」の具体的内容が問題だ。
(1)仕事で議論すべきときは議論する
(2)大臣をはじめ上司が決めたことには従う
(3)いったん決めた後は議論のプロセスをむやみに外に漏らさない
の3つだという。いったい何だ、それは。

そもそも、ツラ(面)とハラ(腹)とは、違うぞなもし。ツラ(面)は世の中と向き合ってるとに、ハラ(腹)は自分自身と向き合っちょる。そやけん、ツラ(面)は世の中に合わせんばならんとに、ハラ(腹)までツラ(面)とおんなじにしたらば、自分ちゅうもんがないようになるぞなもし。次官はそこまで求めとるごつやね。

べらぼうめ、ツラ(面)とハラ(腹)とが違ってたまるか。ツラ(面)とハラ(腹)とを別々になんぞという芸当ができるのはろくろくッ首くらいのもんだろう。面従腹背やめましょうは、あったりまえのことだろう。

いんや、面従せにゃならんが宮仕えのつらいところ。世のしがらみはどもこもならん。せめて自分の腹のうちだけは自分のものにとっておこうということぞなもし。

なもしも菜飯もあるか。面従なんぞするから、腹背しなきゃならなくなる。最初から、面従よせばよい。まず、ハラ(腹)をきめる。決めたとおりのツラ(面)をしてればよいだけのことじゃないか。

それでも、「上司が決めたことには従え」ぞなもし。次官だって、「大臣の決めたことには従え」やし、その大臣も「総理の決めたことには従え」「上の上の考えを忖度しろ」ということぞな。

ウーン。「顔で笑って腹で泣く」。ほんに男はつらいよってことか。

いんや、「顔で笑って腹で泣く」のは面従腹背。そんなこつは許さんちゅうのが、「面従腹背やめましょう」ということぞなもし。
(2018年10月17日)

安倍晋三から自衛隊員諸君に朗報をお伝えする。自衛隊は「災害救助隊」に、防衛省は「災害救助省」に衣替えします。

観閲式に臨み、自衛隊最高指揮官内閣総理大臣安倍晋三から敬愛する自衛隊員諸君に対する訓示の機会を借りて、重大かつ慶賀な発表を申しあげる。

冒頭、この夏に相次いだ自然災害によりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りするとともに、被災された全ての皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。
その被災現場には、必ず、士気旺盛な自衛隊員諸君の姿がありました。民家が土砂に押し潰されている。土砂崩れの一報に、君たち隊員は、倒木を乗り越え、ぬかるみに足をとられながらも、休むことなく歩き続けました。体力の限界が近づく中、立ち尽くす御家族を前に、最後の気力を振り絞り、全員を救出した。
「さすが自衛隊」。被災者の方々にそう言っていただける能力、そして、何よりも、その志の高さを改めて証明してくれました。自衛隊の災害派遣実績は、これまで実に4万回を超えています。
自然災害だけではありません。悪天候で交通手段が断たれてしまう離島において、患者の命を救うには、一刻の猶予もない。こうした中での緊急輸送は、正に、君たち自衛隊員が国民の命綱です。
11年前。一人の女性の容態が急変し、危険な状態に陥っているとの一報が、那覇駐屯地に入電しました。建村善知一等陸佐率いる4人のクルーは、躊躇なくヘリに飛び乗り、鹿児島県徳之島に向けて、漆黒の闇が広がる空へと飛び立っていきました。
現地は、一面の濃霧が広がり、着地目標のグラウンドは、視界不良。垂れ込めた雲が進入を阻みました。
容態は一刻を争う状況の下で、建村一等陸佐は、これまでの4,800時間を超える飛行経験と自衛官人生の全てを傾け、着陸に挑み続けました。地上の管制官に、近くの徳之島空港への着陸調整を依頼するなど、最後まで決して諦めませんでした。これに応え、地上にいる隊員たちも、最善を尽くしました。
「ありがとう」
管制官への感謝の言葉が最後となりました。4人が再び基地に戻ることはなかった。建村一等陸佐は、かつて、部下の隊員たちに、こう語っていたそうであります。
「自分たちがやらなければ、誰がやる。」
全国25万人の隊員一人一人の、高い使命感、強い責任感によって、日本は、日本国民は、守られている。
事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える。諸君の崇高なる覚悟に、改めて、心から敬意を表します。
私は、自衛隊の最高指揮官として、諸君と共に、あらゆる災害から国民の命と安全を守り抜き、次の世代に引き継いでいく。そのために全力を尽くす覚悟です。

今や、国民の9割は敬意をもって自衛隊員に接するようになっています。自衛隊発足以来の60有余年、自衛隊は、憲法違反の存在であるとか、あるいは軍国主義復活の危険を宿しているなどと、国民からは厳しい目で見つめられてまいりました。
自衛隊員諸君はさぞかし肩身の狭い思いをしてこられたものと思います。しかし、そんな国民の疑心を次第に払拭してきたのが、災害派遣の実績です。

かつては、自衛隊法における隊の本務は、外国の侵略に対しわが国を防衛する防衛出動と、公共の秩序維持にあたる治安出動のみとされていました。それだけでは旧軍隊と大した変わりはありません。国民から胡散臭い存在とみられるのも故なきこととは言えなかったのです。いま、数次にわたる自衛隊法の改正を経て、災害・地震防災派遣、原子力災害派遣などが本務として追加されています。

防衛出動とは自衛のためとはいえ、戦争において戦闘を命じることです。戦争とは所詮大量殺人と大量破壊行為以外の何ものでもありません。治安出動とは、市民運動や労働運動を武力をもって制圧することにほかなりません。心苦しくも、これまで自衛隊員諸君には、日ごろ、この大量殺人・大量破壊、国民制圧の訓練に精進していただいてまいりました。君たち隊員諸氏も、たいへん不本意であったことと推察いたします。
しかし、君たちは歯を食いしばり、ひたすらに殺人と破壊・市民弾圧の訓練に明け暮れ、その技倆を磨いてきました。本当に御苦労さまでした。そう、ねぎらわずにはおれません。

そこで、新たな提案を申しあげたい。今般、自衛隊法を改正して、自衛隊の任務から防衛出動と治安出動を除外することとしたい。自衛隊の本務は、災害・地震防災派遣、原子力災害派遣のみとなる。
この際、その本務にふさわしく、自衛隊は災害救助隊に、防衛省は災害救助省に名称を変更して、隊員には存分にその誇りを胸に、果たすべき役割を全うできるようにしたい。

御家族の皆様。
大切な伴侶やお子様、お父さん、お母さんを、隊員として送り出してくださっていることに、最高指揮官として、心から感謝申し上げます。送り出していただいた隊員について、これまでは、戦地で人を殺したり殺されたりするのではないかというご心配をおかけしておりましたが、これからは、一切そのようなご心配は無用に願います。

そして、隊員諸君。
諸君には、もう、殺戮や破壊のための訓練は不要です。ひたすらに、災害救助の訓練に邁進していただきたい。それこそが、全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整えるということであって、今を生きる政治家の責任であります。私はその責任をしっかり果たしていく決意です。
これまで君たちは、災害があれば被災地で被災した人々の救助のために働き、救助が終わると駐屯地に戻って、大量殺戮と大量破壊そして、デモ隊鎮圧などの訓練に邁進したきたが、こんな二重性格を強いられることはもうありません。

もちろん、隊の所有機材も災害救助隊にふさわしいものにしていく。まずは、迷彩服は止めて、災害救助に最も適切な目立つものにする。被災者や共同して働く誰からも鮮やかによく目立つ斬新な制服のデザインを募集することとしたい。

こうすることによって、もうけっして、君たちを「違憲の存在」と陰口をたたいたり、軍国主義復活のおそれあると疑ったりする者はなくなるだろう。
自らの職責の重要性に思いを致し、気骨を持って、国民生活の安全のために、ますます精励されることを切に望み、私の訓示といたします。

(近い将来のいつか、このような内閣総理大臣訓示を聞きたいものと思う)
(2018年10月16日)

イエス・ワコール、ノー・DHC

「『実習生の人権侵害ないか』ワコール、委託先に異例調査」「人権軽視は経営リスク…実習生制度に批判、企業も危機感」という本日(10月15日)の朝日デジタル記事。これは立派なものだ。まずは、ワコールに敬意と賞讃の意を示したい。そして、いち早くこのことに着目して記事にした朝日にも敬意を表さねばならない。

私はワコールという企業についてほとんど何も知らない。ブランドイメージの認識もない。しかし、外国人技能実習生の人権に配慮することで、ブランドイメージを維持し向上しようという、この企業の姿勢を好もしいと思う。ヘイト丸出しのDHCとは、月とスッポン、提灯と釣り鐘、それこそ雲と泥との差。民主主義国日本の消費者は、コンプライアンス重視のワコールの経営を順調に育てなければならない。また一方、在日差別を広言してスラップを濫発するDHCの経営に懲罰を与えなければならない。そのような消費者の企業選択の行動を通じて、よりよい社会の構築がはかられるのだ。

朝日はこう報じている。

 女性下着大手のワコールホールディングス(HD、本社・京都市)が、自社製品の製造工程にかかわるサプライチェーン(製品供給網)に、外国人技能実習生の人権を侵害している会社がないかどうかの調査を始めた。賃金不払いなどの不正行為があれば改善を求める。応じない場合は取引そのものを見直す。

 グループ会社にとどまらず、製品の調達元までさかのぼって外国人を人権侵害から守ろうという取り組みは日本の企業では異例だ。技能実習制度への批判が国内外で高まるなか、人権を軽視すれば企業ブランドに傷が付きかねないリスクが企業を動かしたかたちで、同様の動きが他企業に広がる可能性もある。

 調査は、ワコールHD傘下のワコールとルシアンが今夏から始めた。主力の下着ブランド「ワコール」「ウイング」の国内の生産委託先60工場のうち、外国人労働者が働く約40工場が対象で、計538人の技能実習生が働く。40のうち32工場はグループと資本関係がない取引先だ。

 ワコールHDの社員らが全国の工場を訪ね、「この3年間に労働基準監督署などから是正勧告を受けていないか」「実習生の労働時間はタイムカードなど客観的な記録があるか」「賃金は最低賃金額以上を払っているか」など約25項目をチェックする。

 工場側には、実習生との雇用契約書、労働条件通知書など約30の書類を用意してもらう。実習生の受け入れ窓口となっている監理団体が、企業を監査した結果を記した報告書もチェックする。同社は「現場の責任者に実習生の人権に関して意識を高めてもらうのが狙い」と説明する。

 調査は年度内に終える予定。不正行為があれば見直しを求め、隠したり改善指導に従わなかったりすればサプライチェーンから外し、取引を打ち切る場合もある。

さて、ワコールはどうしてこのような「異例の」決断をして調査に乗り出したのか。
今春、ワコールHDのグループ会社の生産委託先で実習生に対する賃金未払いの疑いが浮上。『人権重視』を掲げていた同社は、経産省の要請に応じて、先陣を切って大規模調査に踏み切った」のだという。

ワコールHDのコメントが引用されている。「ブランドに対する信頼は想定以上にもろい。サプライチェーンに、技能実習生受け入れ企業を迎えるリスクを認識する必要がある」(IR・広報室)というもの。

「ブランドに対する顧客の信頼」が「人権重視」にかかっているという認識なのだ。ワコールホールディングスのホームページを開いてみた。CSRのコーナーがたいへん充実している。
(CSRとは、corporate social responsibilityの略語。企業の社会的責任と訳される)
https://www.wacoalholdings.jp/csr/index.html

経済・環境・社会、
すべてにおいて、持続可能な未来のために。
社会から存在を期待される企業で
あり続けるために。

企業においては、商品やサービスをお客さまに提供するだけでなく、
環境への配慮、社会への積極的な貢献、そして法令遵守や人権尊重といった、
「企業も社会を構成する一員」であることを自覚した活動が求められています。

人権の尊重 人を大切に
「ワコールの行動指針」では、人権に関して次の方針を明示しています。
人権を保護し、個人を尊重します
安全、清潔、快適な職場環境を維持します
安全な商品を企画、研究・開発し、生産、販売します

個人の尊重
ワコールはお互いの人権を守り、人としての品格を備え、切磋琢磨し、深い人間愛に満ちた集団であることを目指します。個人を尊重し、従業員の持つ多彩な能力と多様性を、最も価値のある資産のひとつとして、自律型人間集団を作ることを目指しています。

職場での差別の禁止
職場においては、すべての人が公正に処遇されなければなりません。国籍、人権、皮膚の色、宗教、性、性的傾向、年齢、家系、出身地、知的および身体的障がい、健康上の問題、社内での地位、その他、人権に係わるすべての不当な差別や嫌がらせを絶対に許さず、厳重に処分することを定めています。
 
地域の活動に参加
京都人権啓発企業連絡会に加盟し、積極的に人権啓発運動に参加しています。また、京都人権啓発企業連絡会による「人権に関するビデオ」を用いて、新入社員教育を行っています。

セクシャルハラスメント、パワーハラスメントへの取り組み
ワコールグループにおいては、「相互信頼」の精神のもと、従業員全員が、社内はもちろん、社会の人々に信頼される人間たることを、強く願い求めてきました。「個人の人格権に関わる基本方針と取り組みについて」通知をおこない、未然に防止し、排除する体制を整備しています。
個人としての尊厳を不当に傷つける社会的に許されない行為であるとともに、従業員の能力の有効な発揮を妨げ、会社にとっても職場秩序や業務の遂行を阻害し、社会的評価に影響を与える問題と認識しています。
禁止行為及び取り組み事項を定めるとともに、通報者である従業員のプライバシーを保護し、相談・苦情による不利益な取り扱いを受けることがないように十分配慮をしています。
各事業所には、相談・苦情窓口を設置しており、社内ホットラインの利用も含め、誰でも遠慮なく相談することができます。また、苦情や相談内容についての秘密やプライバシーは固く守られ、迅速で的確な対応がとられています。
人事部の相談・苦情窓口担当者が外部研修に参加し、対策立案に役立てています。
意識啓発と未然防止等を目的に、管理職層対象研修を実施しています。
年2回、「セクハラ・パワハラ防止体制について」の通知をイントラネット上で行い、周知を図っています。
 
安全な商品(消費者の権利)
お客さまの視点に立った安全性の高い商品は、ワコールにとって当然の責務であり、消費者の人権を尊重し、安全・安心を大切にし、また信頼される対応を心がけます。

これまで知らなかったが、ワコール立派なものではないか。これに比較する目で、DHCのホームページを眺めてみよう。
https://top.dhc.co.jp/company/jp/
みごとなまでに何にもない。IRも、企業倫理も、CSRもまったくないのだ。あるのは商品宣伝だけ。儲け以外には、なんの関心も示されていないのだ。

朝日よ。ワコール賞讃の記事を書くだけでは、不十分ではないか。きちんと、ヘイト企業DHCを取材して、その実態を報道してはどうだ。朝日が書けなければ、志あるジャーナリストよ、出でよ。
(2018年10月15日)

国策に加担する司法を問うーー第49回司法制度研究集会へのお誘い

日本民主法律家協会は、自らを以下のとおり紹介している。

 1961年10月の結成以来、一貫して憲法を擁護し、平和と民主主義と人権、そして司法の民主化を追求する運動の先頭に立ってまいりました。

協会がメインの守備範囲と定めている領域が、憲法と司法である。憲法の分野では、日本国憲法の明文改憲も解釈改憲も阻止して、平和と民主主義と人権を擁護すること。そして、「司法の民主化」とは、日本国憲法が掲げる憲法価値を顕現する司法の実現である。

1970年代の司法反動反対運動でも、2000年代の司法『改革』の時代にも、協会は司法の現実を批判して憲法が想定する司法像を追求し続けてきた。その舞台となったものが、毎年開催される「司法制度研究集会」である。今年は、その第49回目となる。

テーマは「国策に加担する司法を問う」という、かなり悲観的なものだ。これまで、われわれは司法消極主義を批判してきた。「逃げずるな最高裁」「憲法判断を回避するな」と言ってて来たのだ。

ところが、安倍長期政権の継続とともに、最高裁は変わってきたのではないか。むしろ、積極的に政権の政策実現に加担する姿勢を示し始めたのではないだろうか。つまりは、われわれが求めてきた「人権擁護の司法積極主義」ではなく、「国策加担の司法積極主義」の芽が見えてきているのではないかという問題意識である。これは重大な事態ではないか。沖縄・辺野古訴訟と、原発差し止め訴訟を具体的素材に、この問題意識を検証する。ぜひ、ご参加を。

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国策に加担する司法を問う
第49回司法制度研究集会へのお誘い

日時 2018年11月17日. 午後1時~5時 集会終了後、懇親会
会場 東京・永田町 全国町村会館ホールB( TEL 03-3581-0471(代表))
   有楽町線・半蔵門線・南北線 「永田町駅」3番出口徒歩1分
参加費 1000円(学生・院生・修習生500円)

最近、国の政策の根幹に関わる事件において、国の政策に積極的に加担するような判決が目立っています。
2016年には、厚木基地自衛隊機飛行差止を認める1・2審判決を逆転した最高裁判決(12月8日)、「普天間の危険を除去するには辺野古に新基地を建設するしかない」と断じて沖縄県知事による辺野古埋立承認取消を違法とした福岡高裁那覇支部判決(9月16日)を支持した最高裁判決(12月20日)。

そして今年は、大飯原発差止を認める1審判決を逆転した名古屋高裁金沢支部判決(7月4日)、君が代不起立による再雇用拒否を違法とする1・2審判決を逆転した最高裁判決(7月19日)、国に諫早湾開門を命じる確定判決を無効とした福岡高裁判決(7月30日)、伊方原発差止を認める仮処分決定を取り消した広島高裁決定(9月25日)等々が続いています。

憲法と人権が踏みにじられる政治状況の中で、司法には人権の砦としての役割を果たすことが期待されているにもかかわらず、「司法消極主義」をも踏み越え、国策に積極的に加担するような司法判断が増えていることは重大事態です。

今年の司研集会は、こうした近時の司法判断の概要とその原因を探り、これにどう対抗すべきかを論じ合う集会にしたいと考えています。
行政法の岡田正則教授の基調報告、辺野古関連訴訟の弁護団の中心を担う沖縄の加藤裕弁護士と、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富」という珠玉の大飯原発差止一審判決を書かれた樋口英明元裁判官から問題提起をしていただきます。ふるってご参加下さい。

●基調報告
【国策に加担する司法を問う】(仮) 岡田正則氏(早稲田大学・行政法)
早稲田大学大学院法務研究科教授。専門は行政法。著書に『辺野古訴訟と法治主義─行政法学からの検証』、『判例から考える行政救済法』(ともに共著)、『国の不法行為責任と公権力の概念史─国家賠償制度史研究』など。

●問題提起
【国策にお墨付きを与える司法──辺野古埋立承認取消訴訟を闘って】
加藤裕氏(弁護士)
1992年沖縄弁護士会に弁護士登録(司法修習第44期)。普天間基地爆音訴訟、辺野古埋立承認取消訴訟等、沖縄の基地関連訴訟を数多く担当。
2012年度沖縄弁護士会会長。2017年度日弁連副会長。著書に『憲法と沖縄を問う』(共著)など。

●問題提起
【大飯原発差止訴訟から考える  司法の役割と裁判官の責任】
樋口英明氏(元裁判官)
元裁判官。1983年任官(司法修習第35期)。福岡、静岡、名古屋等の地裁・家裁、大阪高裁等を経て、2012年4月より福井地家裁。2014年5月大飯原発差止判決、2015年4月高浜原発再稼動差止仮処分決定。2017年8月名古屋家裁で定年退官。『世界』2018年10月号に「原発訴訟と裁判官の責任」。

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お申し込み

下記にご記入のうえ、FAXで 03 – 5367-5431(協会本部事務局)まで送信ください。
※11月12日までにお申込みをお願いします。(当日参加も受け付けますが、準備の都合上、なるべくお申込をお願いします)
■第49回司法制度研究集会に
参加します。

■講演終了後の懇親会に
(会場:1階レストラン・ペルラン/ 会費:4,000円)
・参加します  ・参加しません

TEL FAX

お名前

 

 

日本民主法律家協会
〒160 – 0022 東京都新宿区新宿1-14 – 4 AMビル2F
TEL 03-5367- 5430 FAX 03-5367- 5431
Mail info@jdla.jp URL http://www.jdla.jp/
(2018年10月13日)

加計孝太郎独白

ワタシ、加計孝太郎。67歳、ビジネスマンです。教育関係の商売をやっています。時に、「教育者」と紹介されることもありますが、それはとんでもない間違い。画家と画商が違うように、博徒と胴元が違うように、そして政治家と政治屋が違うように、どの世界にもその道に精進する人とは別に商売が成立するのです。ワタシは教育を身過ぎ世過ぎの糧にしている商売人であって、高潔で尊敬されなければならない教育者ではありません。世間にそのあたりの誤解あることが、一連の問題をこじらせている原因のひとつかと思いますので、明確にしておきたいと思います。

私自身は、飽くまでも教育をネタにした商売人であることを自覚する者で、けっして自分を教育者だと言った記憶も記録もありません。記憶も記録もないのですから、教育者であるはずはないということです。ハイ。

この商売の要諦は、国や自治体に食い込んで、税金を引っ張って来ること。教育行政は、がんじがらめの認可行政ですから、無理をしてでも、手練手管を弄してでも、国や自治体の教育行政に食い込まざるをえないのです。それが、教育ではない教育ビジネスでの手腕の見せどころ。ワタシの経営する学園の存亡は、ひとえに政治や行政との緊密な関係構築の成否にかかっています。だから、どうしても無理もしなければなりません。ワタシは全力を上げてその仕事をやってきて、内閣総理大臣に食い込むことに成功しているのですから、商売上手だと自画自賛しているところです。

もちろん、ワタシや学園に高邁な理想があり、政治や行政に関わりなく、腹心の友など使わずとも、学問を志す者を惹き付けるだけの何かがあれば、話は別です。しかし、そんなものは何にもないのです。いまさら、ない物ねだりをしてもしょうがない。なにしろ、建学の精神がこんなレベルのでしかありません。

「ひとりひとりの若人が持つ能力を最大限に引き出し技術者として社会人として社会に貢献できる人材を養成する」

このありきたりの建学の精神に共鳴し惹きつけられて本学園での教育を受けようと志望する者があろうとは、公平な見地から申しあげて、ワタシ自身にも考えられないところです。とすれば、本学園の唯一の得意技である「寝技」を駆使するしか商売を続けていく方策はありません。つまりは、政治や行政との密接な関係を生かして、教育行政からの認可を得、補助金を取得するというビジネスモデルで生き残る以外に、執るべき道はあり得ないでありませんか。

こういう経営者の苦労を知ろうともせずに、教育者は勝手なことを言うのです。たとえば、本日(10月13日)毎日新聞朝刊の「みんなの広場」(投書欄)に、加計理事長は真摯な説明を」という徳島県の元校長の投書が掲載されています。ワタシの10月7日の記者会見を批判する内容です。

 加計学園の獣医学部新設を巡る問題で、学園の加計孝太郎理事長が記者会見を行い、愛媛県作成の文書に記載された、新設認定前の安倍晋三首相との面会など一連の疑惑を否定した。しかし、裏付けとなる記録の公表はなく、「記録にも記憶にもない」と従来の説明を繰り返すだけだった。
 私は小学校長経験者だが出張、会議、面談などは必ず記録していた。業種を問わず記録を残すのは社会人なら当然のこと。学校法人の理事長ともなれば、しかるべき部署が予定を管理していたはずで、愛媛県文書にある面会の日の記録を出せばよいことだ。わずか3年前のことである。
 また、安倍首相との面会は学園の事務局長の作り話かとの質問に対し、加計理事長は「よく存じ上げていない」と答えた。事務局長の虚偽説明であれば学園の信用を大いに失墜させることになるが、本人に問いただしていないのだろうか。加計学園には今後も多額の税金が投入される。国民への真摯な説明が必要である。(無職・喜島成幸・66・徳島県吉野川市)

諸般の事情からやむなく行ったワタシの記者会見です。元校長なら、「勇気を出してよくやった」と褒めていただいてもと思うのですが、結論は「国民への真摯な説明になっていないではないか。きちんと説明せよ」という叱責。せっかく時間を稼いで、腹心の友の総裁三選が済み、もうみんなそろそろ忘れるころだと思ったのに、誤算だったようでどうも旗色が悪いのです。

この投書者である元校長の喜島さん。ご指摘は2点ですね。
ひとつは、愛媛県が参院予算委員会に提出した同県の公文書の中に、2015年2月25日ワタシが安倍晋三さんと面会して学部新設を目指すことを説明し、首相が「新しい獣医大学の考えはいいね」と応じたとの記載があったという、例の件。これが本当だということになれば、安倍さんは失脚だし、加計学園もつぶれてしまう。

どうしたって、この文書の内容は嘘だと言い張るしかないじゃないですか。安倍応援団のネトウヨの皆様や右翼文化人諸氏は、「2月25日面会がなかったことを証明せよとは、悪魔の証明を求めるものだ」と仰ってくれています。お気持ちは有り難いのですが、ワタシから見ても説得力はない。

喜島さんのように、「私は小学校長経験者だが出張、会議、面談などは必ず記録していた。業種を問わず記録を残すのは社会人なら当然のこと。学校法人の理事長ともなれば、しかるべき部署が予定を管理していたはずで、愛媛県文書にある面会の日の記録を出せばよいことだ。わずか3年前のことである。」と仰ることには、説得力を認めざるを得ないのです。「そりゃそうだ」思わず相槌を打ちたくもなります。

「裏付けとなる記録の公表のないまま、『記録にも記憶にもない』と従来の説明を繰り返すだけ」では確かに説得力がありません。改めて会見のビデオを見直すと、ワタシの自信のなさがありありで歯がゆいことこの上ない。

でも、ご指摘のことは重々承知でした。適切な資料があるかないか、事前に十分探しましたよ。当然、秘書が作成したワタシの行動に関する予定表や行動記録はありますよ。でも、それは出せるものではない。うっかり出したら、たいへんなことになる。出して有利にはならないものだから出さない。墓穴を掘るものにしかならないのですから出せるわけはない。疑惑は晴れないと言われても、真っ黒だと断定されるよりは、ずっとマシでしょう。

もう一点。「安倍首相との面会は学園の事務局長の作り話かとの質問に対し、加計理事長は「よく存じ上げていない」と答えた。事務局長の虚偽説明であれば学園の信用を大いに失墜させることになるが、本人に問いただしていないのだろうか。」というご指摘。

もちろん、渡辺良人事務局長には、根掘り葉掘り問い質して、事前の準備はしましたよ。その結果、記者に話せるものがあったら話しています。でもね、私と腹心の友に有利な材料は何も出てこなかった。だから、「渡辺良人は同席させない」「問題の文書は見ていないことにする」「虚偽説明の点は本人に問い質していないことにする」という方針にしたんです。

あとは、事前の準備のとおり。知らぬ、存ぜぬ、記憶にない、記録にない、記憶にも記録にもないのだから事実がない(と思う)、で押し通したんですよ。それしか、方法がなかったんだから。

人の噂も七十五日、もう国民は忘れているだろう。かたちだけの会見で済むと舐めたのが大きな誤算。また、腹心の友にお願いして、官僚の知恵を借りなけりゃ。あ~あ、気が重い。
(2018年10月13日)

東京南部法律事務所創立50周年記念レセプション

昨夕(10月11日)、東京南部法律事務所創立50周年の記念レセプションが開かれた。大田区産業プラザのコンベンションホールを一杯にした大勢の人々の温かい祝意に包まれたよい会合だった。

私は、同事務所の創立メンバーではないが、弁護士としての職業生活をこの事務所でスタートして6年余を過ごした。先輩弁護士の誰からも手取り足取りの指導を受けた覚えはないが、当時の「南部事務所」風の活動スタイルを身につけたと思う。

不正や横暴には、依頼者と一緒に心底から怒る。そして、誰が相手でも、どんな困難な事態でも、けっして怯まない。あきらめない。それが、私の理解した東京南部の「作風」だった。昨日のレセプションで、その6年を思い出した。

東京南部法律事務所の創立は1968年4月のこと。大田と品川を自らの守備範囲と宣言した「地域事務所」だった。原始メンバーは、小池通雄・市来八郎・向武男・松井繁明の4弁護士と事務局員2人。小池・市来・向の3名は既に鬼籍に入っているが、現在の弁護士数は18名の大所帯とのこと。

私がこの法律事務所に参加したのは、1971年の4月。既に原始メンバーの外に、亀井時子・大川隆司・坂井興一・船尾徹が活躍していた。所員はいずれも若く、草創の活気に満ちていた。なによりも、地域の諸団体や労働組合との結び付きがこの上なく緊密なものとなっていた。私は、修習生のころ幾つかの法律事務所を見学して、この事務所を選択した。ここならやりがいがある、そう思ったのだ。

東京南部法律事務所は自身の歴史をこう説明している。

 当事務所が設立された当時の蒲田周辺の地域は、大小の町工場が肩を寄せあいひしめき合っている街でした。周りには弁護士事務所など全くなく、霞が関や新橋といった裁判所近くの法律事務所に相談に行く時間もないような大田地域で働く人々の権利と生活、営業を守るお手伝いをするため、そしてこの国の平和や民主主義擁護に少しでも役立てるようにと、設立されました。

 その後、糀谷地域の工場群が移転や倒産によって減少する一方で、羽田空港や都心へのアクセスが良い立地から、巨大な流通拠点が出現するに至りました。さらに近年では、研究所や電子・情報管理といった先端産業が多く立地しています。大田区としても人口が増えており、林立するマンションや高層団地、チェーン店や飲食産業関係が増えています。当事務所が設立されてから40数年。大田区の産業、町並みは様変わりしていることがわかります。

 私たちの取り扱い分野も年ごとに拡大しつつあり、羽田に近い立地による航空労働者の労働事件を始めとした数多くの労働者側労働事件や、患者側医療過誤事件など専門的に取り組む分野もありますが、民事・刑事・家事事件を幅広く取り扱っています。しかし、働く人々の権利と生活、営業を守るという私たちの基本的なスタンスに変わりはありません。

 私が、入所したころ、蒲田の周辺はまさしく「大小の町工場が肩を寄せあいひしめき合っている街」だった。工場に、空港に、タクシー会社に、流通部門に、多くの労働組合が生まれ、労働運動の活動力を誇る地域だった。

私が弁護士を志したのは、消極・積極二つの理由がある。
消極的理由は明確だった。自分に、官僚や企業人としての勤めができるとは思えなかった。さりとて、学問や文芸の分野で独り立ちできる才能はない。そのように自覚した者に、自由業としての弁護士は魅力的な生き方に思えた。
積極的理由の方は漠然としていた。漠然としたものではあったが、資本や権力と闘う生き方を思い描いていた。弁護士なら、資本や権力と闘う働きができるだろうと思えた。資本と対峙する場としては労働事件を、権力と対決する場としては政治弾圧事件が頭にあった。労働者とともに闘い、政治弾圧被害者とともに闘う弁護士というイメージ。当時の東京南部法律事務所はまさしくそのような場であった。

あれから半世紀。昨日のレセプションでお目にかかれた懐かしい人は少なかった。あの頃現場で一緒に闘った労組の幹部の皆さんは、今80代から90代。時代は変わっているのだ。往時茫々である。
(2018年10月12日)

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