澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「天皇は日本国の言論不自由の象徴であり、この地位は保守政権の思惑と蒙昧な一部日本国民との合意に基づく」

今の日本に、はたして「表現の自由」の保障は機能しているものだろうか。とうてい、脳天気に肯定はできない。表現の自由の障害物を象徴するものが、天皇・皇室にほかならない。天皇・皇室についての「表現の不自由」が世にはびこっていることは、「あいちトリエンナーレ」でも証明された。

いっぱしの大人が、天皇に「陛下」という敬称をつけて語るという愚にも付かないことは、私の子どもの頃にはなかった。少なくも、私の周りにはなかった。それが、今は様変わりである。こんな復古の現象はいったいいつから,どのようにして生じたのだろうか。

まさしく今、天皇は日本国の言論不自由の象徴であり、日本国民の言論自主統制の象徴でもあって、この地位は、天皇を政治の道具として重宝に使おうという保守政権の思惑と、無批判無自覚に天皇を崇拝する蒙昧な一部日本国民との合意に基づく。」

この時代状況で、冷静に天皇や天皇制を語る人には敬意を表せざるを得ない。その代表の一人が、原武史だろう。

12月7日朝日「(歴史のダイヤグラム)変わらない『奉迎』のかたち」は、さりげなく天皇制の過去と現在を語ってその不易の本質をよく表現している。以下、抜粋しての引用である。

 1922年11月、皇太子裕仁(後の昭和天皇)は東海道本線を走る御召列車に乗って東京を出発した。目的は香川県で行われる陸軍特別大演習の統裁と四国4県などの視察。これは摂政として初めての本格的な地方訪問でもあった。
 病気で引退させられた大正天皇に代わる若くて健康な皇太子を、四国の人々は初めて見ることになる。そうした人々に対して、皇太子はどう振る舞うべきか。同行した宮内大臣の牧野伸顕は、11月12日にこう記している。
 「四国辺の如き質朴の民俗には相当すべき御態度可然。此方面にては只々玉体を拝する丈けにて無上の光栄とす。一々御答礼の如きは勿論ない。奉迎者間に最も多く聞く言葉は能くおがめたと云ふ事なり。此一言にて人心の一班[斑]を推知すべし」(『牧野伸顕日記』)

 坂口安吾は、48年に発表された「天皇陛下にささぐる言葉」で、「地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります」「天皇が人間ならば、もっと、つつましさがなければならぬ」などと述べている。安吾の言う「未開蒙昧」は、牧野の言う「質朴の民俗」と見事なほど重なっている。

 それはどうやら、天皇制イデオロギーなどというものとは関係がないらしい。このことが、11月10日に天皇と皇后が自動車でパレードした「祝賀御列の儀」でも証明されたのではないか。

 牧野伸顕とは、大久保利通の次男であり吉田茂の岳父に当たる、藩閥政治家の一人である。薩摩出身の牧野が四国の人民を馬鹿にしているのだ。

四国辺の如き質朴の民俗」「只々玉体を拝する丈けにて無上の光栄とす」「一々御答礼の如きは勿論ない」「最も多く聞く言葉は能くおがめたと云ふ事なり」。
「(裕仁において)一々御答礼の如きは勿論(必要)ない」とも読める一文を、原は「引用文中の『勿論ない』は『勿体ない』だろう」と解している。どちらにしても、「臣民は玉体を拝むだけのもの。拝むに任せておけばよい。いちいちの答礼などは不必要」という、天皇制権力の中枢に位置する人物の思い上がりがよく表れている。摂政裕仁は、この宮内大臣牧野の言のままに行動したのだろう。

他方、原が引用する坂口安吾の言はさすがに鋭い。「人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業」というのだ。今、なかなかこのように,ズバリとものが言いにくい雰囲気がある。

安吾の言う、「不自然・狂信・悲しむべき未開蒙昧」は今に続いている。11月10日「祝賀御列の儀」パレードに参加した,あの11万余の「質朴の民俗」こそ、「テンノーヘイカ・バンザイ」を叫ぶ政権に煽られた、「狂信者」であり「悲しむべき未開蒙昧」の輩。この輩が、天皇を「日本国の言論不自由の象徴」に仕立て上げているのだ。「政権」と「未開蒙昧の輩」。どちらが主犯で、どちらが従犯であるかは定かでない。
(2019年12月11日)

護憲派と保守派の会話の機会を歓迎する。

文京区民センターにはよく出かける。市民団体が主催する多彩な催し物があって、私は、ここを気取りのない市民運動のメッカだと思い込んでいた。

ところが、こんなツィッターが出回っていたことを教えられた。

「ジョン・レノンの命日である12月8日、都内で詐欺映画『主戦場』の上映会があります。場所はつくる会のおひざ元で、保守系イベントの聖地・文京区民センターという、実にアグレッシブな上映会。つきましては、『主戦場』被害者の皆さんと同映画を観るツアーを企画しています

へえ~。文京区民センターは「つくる会のおひざ元で、保守系イベントの聖地」なのか。そうとは知らなかった。それにしても、「詐欺映画『主戦場』」とは、実にアグレッシブな物言い。このツィッターは、文京区民センターの「主戦場」映画界への乗り込み宣言と読める。

12月8日(日曜日)午後、文京区民センターで企画されたのは、第54回の「憲法を考える映画の会」。映画 「主戦場」(上映時間122分)とその後のトークイベント。主催者は、企画の趣旨をこう語っている。

■あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止事件、KAWASAKIしんゆり映画祭「主戦場」上映中止事件…。次々と襲いかかってくる「表現の自由」妨害、私たちはそれらの動きの裏にあるものを見極めるためにも、あえて「市民の手でこの映画の上映を」という市民運動をしたいと思っています。

慰安婦たちは「性奴隷」だったのか?
「強制連行」は本当にあったのか?
なぜ元慰安婦たちの証言はブレるのか?
そして、日本政府の謝罪と法的責任とは……?

次々と浮上する疑問を胸にデザキは、櫻井よしこ(ジャーナリスト)、ケント・ギルバート(弁護士/タレント)、渡辺美奈(「女たちの戦争と平和資料館」事務局長)、吉見義明(歴史学者)など、日・米・韓のこの論争の中心人物たちを訪ね回った。

さて、主戦場へようこそ。

事後に、ネットにこんな報告が掲載されていた。

きょう(12/8)「憲法を考える映画の会」主催の『主戦場』上映会にいった。文京区民センターだが、満席で200は軽く超えていた。そこになんと出演しているケント・ギルバート氏と藤岡信勝氏がやってきた。その支援者も10名以上はいて、いったいどうなることかと不安もあったが、上映中はみんな静かに観賞していた。
その後の約1時間の「感想会」ではお二人も参加しての「大ディスカッション」になった。会場からの感想・質疑のあと、二人はこの映画のおかしいを含め、自分たちの主張を言いたい放題だった。会場全体で「大バトル」になったが、それぞれが短い言葉で必死に説得しようとしているので、勉強になったし面白かった。ヤジもあったりしたが、終始、ちゃんと議論したと思う。主催者の花崎さんも「とてもよかった」と語っていた。

…休憩時間に藤岡信勝氏が主催者に何やら申し入れをしていた。「発言の機会がほしい」という趣旨のようだった。…「一人3分の感想会」になり、会場からは次々に感想や質問が寄せられた。それを受ける形で、ケント・ギルバート氏と藤岡信勝氏がマイクを握った。ケント・ギルバート氏は「まずこの映画の評価をしたい」と切り出し「私はこの映画の前半は両者の意見がバランスよくでていたと思う。しかし後半の日本会議の話のあたりから一方的なプロパガンダになっている」と批判した。藤岡信勝氏は「私が映画のなかで『国家は謝罪しない』と述べているが、そこだけ切り取られていて真意が伝わっていない」「はじめから歴史修正主義者として極悪人扱いされた」と映画への不満を語った。

 会場と「保守系論客」との間で、映画の3つの争点となっている「慰安婦の数」「軍の関与」「強制だったのか」をめぐってやりとりが続いた。会場のある女性は「私は中国人慰安婦の万愛花さんに会って直接、強制連行・虐待の話を聞いた。あなたたちは直接慰安婦の話を聞いたことがあるのか?」と問いかけた。ある男性は「南京事件のレイプの酷さが慰安所設置のきっかけになった。その時の軍の書類は残っている。軍の関与は間違いない」と語った。

 ときおり激しいヤジも出る「大バトル」となったが、発言者はそれぞれが短い言葉で必死に相手を説得しようとして話すので、内容が具体的で勉強になったし面白かった。ある映画制作者の人は「ケントさんも藤岡さんも取材を受けたわけで編集権は制作者側にある。ここで何を言われてもしようがない。きょうは憲法の会主催の上映会。ここを乗っ取ろうということではなく、ご自分たちで上映会を開き思う存分話したらどうか」と語ると大きな拍手が起きた。

 最後に主催者の花崎哲さんが挨拶した。「休憩時間に藤岡さんから申し出があり質問に答える形ということで発言をOKした。きょうは活発な討論になってビックリしたが、お二人に来てもらってよかった。いろんな方が一緒に映画を見ていろんなことを話す。それが大事だと思う」と安堵した様子で語っていた。(松原明)

これは得がたい機会だった。残念、私も出席すればよかった。私はケント・ギルバートも藤岡信勝もまったく評価していない。しかし、アウエーに出てきて話し合いをしようというその姿勢は立派なものではないか。逃げの姿勢の安倍晋三より、ずっとマシではないか。

ご両人、今後も「憲法を考える映画の会」に出てきてはいかがか。憲法を護ろうとする側と攻撃する側の落ちついた議論ができれば、貴重な場となる。「大バトル」ではなく、落ちついた話し合いでよい。文京区民センターが、幅の広い市民の対話のメッカとなれば、素晴らしいことではないか。
(2019年12月10日)

権力を批判する人、おもねる人。

毎日新聞「松尾貴史のちょっと違和感」が、このところまことに快調。明晰な文章のテンポが小気味よいだけでなく、イラストも秀逸だ。羨ましいほどの才能が、日曜の朝刊を楽しいものにしている。

昨日(12月8日)は「『桜を見る会』疑惑 安倍政権こそ『悪夢』そのもの」というタイトル。冒頭と末尾だけを、引用させていただく。

総理大臣主催の「桜を見る会」の疑惑は、安倍晋三氏のもくろみとは裏腹に、一向に収束する兆しを見せない。違法薬物所持による芸能人の逮捕でニュースや情報番組は一斉にそちらに傾くと思いきや、まさかの検査陰性という事態になって材料が乏しくなったのか、あるいはそれが追い付かないほど次から次へウソと新たな疑惑が浮かび上がってきて、この騒ぎは来年まで尾を引きそうだ。…ウソで蓋(ふた)をしようとすればするほど、つじつまの合わないところが出てきて疑惑が数珠つなぎに引っ張り出される構造になっている。

ウソの上塗りを続けると、さらに大きなウソや滑稽(こっけい)な言い訳を繰り出さざるを得なくなる。しかし、ここまでくると見苦しく人ごとながら恥ずかしい。
そして、おなじみ「困ったときの民主党」も持ち出していた。鳩山由紀夫総理の時も桜を見る会をやっていたということらしい。もし私物化し、反社会的勢力や問題のある人物を呼び、後援会で取りまとめ、資料の隠蔽(いんぺい)などをやっていたのなら、一緒に責任を追及すればいいだけのことだ。日本を良き方向にかじ取りをして浮揚させてくれていればまだマシだけれど、7年間もほしいままにやらかしておいて、「悪夢のような民主党政権」はもう使えないだろう。あの頃より何を良くしてくれましたか。私にとっては「悪夢そのものの安倍政権」である。

彼の言うとおり、「『桜を見る会』の疑惑は、安倍晋三氏のもくろみとは裏腹に、一向に収束する兆しを見せない」し、収束させてはならない。徹底して追及しなければならない。安倍晋三が逃げるのなら、追いかけなければならない。年を越しても、国会の会期をまたいでも。もう少しまともな政権と交替させるまで。

ところが、こういうときには、政権御用達の「御用言論人」がしゃしゃり出て来てゴマを摺る。たとえば、小川榮太郎(2019年12月4日)。読むだに、こちらが恥ずかしい。

【安倍総理の先見の明】に感心している。桜を見る会の中止決断の事だ。余りに早かったので、私は判断尚早と考え、ご本人にもそう申し上げたしコメントでもそう書いた。モリカケに較べてさえ愚の骨頂のから騒ぎがそう続くはずがないと思ったからだ。ところがどうだ。

「やつら」は通常国会でもこのネタで延々と騒ぐつもりでいるらしい。従来の人類の基準では測れない「この人達」の知能レベルと行動パターンを身を以て知悉している安倍総理ならではの早期決断だったわけだ。総理の慧眼、改めて感服した次第。

あるいは、木村太郎。「『桜を見る会』問題は『終わったんじゃないか…審議拒否する野党もどうか』」という具合。

…木村氏は「桜を見る会なんて、もうやめちゃえばいいと思うんですよ、こんなもの。まったく意味のない催しだと思うんで。やめちゃえばいいと思うんですけど」とコメントした。
一方で「だからと言って、桜を見る会を理由に審議拒否する野党もどうかなと思って。特に日米貿易協定って、あんな大事な協定の承認の問題をほとんど審議しないで終わっちゃった。これから、いろんな意味で日本人の生活に影響がある問題をほったらかしにして、やる問題ではなかった」とした。(報知新聞社)

日米貿易協定の審議を実質行わないまま、国会通したのは与党じゃないか。こういうときに、人の中身が顕れる。自分の信念でものを言う人であるのか、政権に忖度して甘い汁を吸おうという人であるのか、と。

(2019年12月9日)

12月8日、あらためて平和の永続を願う。

78年前、1941年の12月8日も、今日と同じく寒気厳しく東京の空は抜けるように高く澄んでいたという。その日、午前7時のNHK臨時ニュースの大本営陸海軍部発表で国民は「帝国陸海軍が本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と初めて知らされた。日中戦争膠着状態の中での新たな戦線の拡大である。これを、多くの国民が熱狂的に支持した。

この日国民はラジオに釘付けになった。正午に天皇(裕仁)の「宣戦の詔書」と東條首相の「大詔を拝し奉りて」という談話が発表され、午後9時のニュースでの真珠湾攻撃の大戦果(戦艦2隻轟沈、戦艦4隻・大型巡洋艦4隻大破)報道に全国が湧きかえった。そして、この日から灯火管制が始まった。

戦争は、すべてに優先しすべてを犠牲にする。78年前には気象も災害も、軍機保護法によって秘密とされた。治安維持法が共産党の活動を非合法とし徹底して弾圧した。情報は大本営発表だけに統制され、宣戦布告を「大詔渙発」として天皇を国民精神動員に最大限利用した。こんな歴史の繰りかえしは、金輪際ごめんだ。

今朝は7時のラジオニュースを聞きながら、布団のなかでぬくぬくと「平和」を満喫した。軍機保護法も治安維持法もない。共産党も公然と政権の「桜を見る会」の疑惑を追及している。これが安倍晋三が脱却を目指すとしている「戦後レジーム」なのだ。

安倍晋三が取り戻そうとしている日本とは、「大本営発表の世界」ではないか。78年前のこの日の宣戦の詔書は、早朝の閣議で確認されたもの。その閣議には、安倍が尊敬するという祖父・岸信介が商工大臣(在任期間1941年10月18日~43年10月8日)として加わっていた。そんな日本の取り戻しなど許してはならない。

戦争は教育から始まる。戦争は秘密から始まる。戦争は言論の統制から始まる。戦争は忖度メディアの煽動から始まる。戦争は排外主義から始まる。戦争は民族差別から始まる。戦争は、軍備増強競争の悪循環から始まる。戦争は過剰なナショナリズムから始まる。ナショナリズムは「テンノウヘイカ・バンザイ」から始まる。戦争は議会制民主主義の堕落から始まる。

そして、新しい戦争は過去の戦争の教訓を忘れたところから始まる。「日の丸・君が代」を強制する教育、外交・防衛の秘密保護法制、そしてヘイトスピーチの横行、歴史修正主義の跋扈は、新たな戦争への準備と重なる。集団的自衛権行使容認は、平和憲法に風穴を開ける蛮行なのだ。

平和憲法を破壊しようという危険な政権、しかも、腐敗の極みの安倍政権をいつまでものさばらせてはおけない。12月8日の今日、改めて強くそう思う。
(2019年12月8日)

「安倍改憲スケジュール断念」という当面の勝利。

今朝(12月7日)の毎日朝刊が、大きく報道している。「改憲『20年施行』断念」「首相、任期中こだわらず」

 安倍晋三首相は憲法改正を巡り、自らが目指した「2020年改正憲法施行」を断念した。相次ぐ閣僚の辞任や首相主催の「桜を見る会」の問題で野党の反発が高まり、改憲の手続きを定める国民投票法改正案の成立が見送られ、20年施行が困難となったためだ。首相は自民党総裁任期が満了する21年9月までに国民投票実施を目指す目標に事実上修正する方針。任期中の施行にこだわらない姿勢を示し、野党の協力を得たい考えだ。複数の与党関係者が明らかにした。

 ニュースソースの「複数の与党関係者」が誰かは不明だが、毎日がこう書くのだから間違いはなかろう。また、毎日がこう書けばこのような流れになるだろう。2017年の5月3日に始まった「安倍改憲」の妄動は、とりあえず押さえ込んだ。ひとまずは、「バンザイ」と小さく叫ぼう。

今臨時国会の会期は12月9日(月)に会期末を迎える。野党は結束して、「桜疑惑」追求をテーマに40日間の会期延長を求めているが、与党は応じようとしていない。予定どおりに9日閉会となれば、またまた、改憲手続きは1ミリも進むことなく、次の会期に持ちこされることになる。

今国会では、参院憲法審査会での実質審議はなかった。衆院憲法審査会では、衆欧州各国調査議員団の報告を踏まえてのフリートーキングは3回開かれたものの、自民党改憲案の提示も、国民投票法の改正案審議もまったくできなかった。来年(20年)の通常国会での改憲策動に警戒は必要だが、安倍改憲策動に勢いはない。

2年前の5月3日、安倍晋三は日本会議幹部の口移しに、9条1項と2項に手をつけることなく、自衛隊を憲法に書き込む「安倍9条改憲」を打ち出した。彼なりに、「改憲実現のために大きく譲歩した現実性ある改憲案」のつもりであったろう。しかし、それでも国民から「改憲ノー」を突きつけてられたのだ。

安倍がぶち上げたのが「2020年施行」である。「東京五輪・パラリンピックが開催される2020年を日本が新しく生まれ変わるきっかけにすべきだ」というわけだ。五輪と改憲、どう関わるのかさっぱり分からぬが、「東京五輪・パラリンピック」がダシに使われ、結局は思惑外れとなった。

安倍晋三はようやく、自らの改憲提案実行の不可能なことを認めて、「20年施行断念」「首相、任期中こだわらず」となったわけだ。もちろん、彼は「改憲断念」とは言えない。言えば、彼を支えている右派・右翼から見離される。

毎日はこうも報道している。

 首相はスケジュールを見直し、時間をかけて野党の協力を得る方針に転換した。自民党幹部は「首相は改正憲法の施行までいかなくても、改憲の道筋を付けたいと考えている」と述べた。

 何げない書きぶりの記事だが、安倍晋三の改憲への執念が伝わってくる。国民が望んで憲法改正の論議が始まっているのではない。国民の改憲を求める声は極めて小さいのだが、首相だけが突出し、焦って改憲策動に必死なのだ。もとより、改憲は、首相の仕事ではない。首相は、主権者である国民から与えられた命令である憲法を、尊重し擁護すべき立場ではないか。気に入らない憲法は遵守せずに改憲するのだ、というのだから、まことに困ったアベ晋三なのである。

モリ・カケに続いての桜疑惑。そして閣僚辞任、入試問題、FTAに給特法である。改憲提案など、やれる状況であるはずもない。

さて、ここまでは、改憲阻止勢力の優勢で水入りである。改めて、仕切り直して、通常国会での取り直しの一番が始まる。先行きに安易な楽観は許されないが、見通しけっして暗くはない。ほのかに桜色さえ、見えるではないか。
(2019年12月7日)

そりゃ出せません、「桜を見る会」の出席者名簿。出せる内容じゃありませんから。

えっ? 「桜を見る会」の出席者名簿を出せって? 無理なこというなよ。常識で考えてもみたまえ。出せるわけがないだろう。政権批判の材料とするから出せっていう要求に、むざむざ、どうぞこの資料で存分に叩いてくださいって、そりゃあり得ないことはおわかりだよな。

行政には何が大切かって? 「国民の行政に対する信頼」が大切に決まっているだろう。信頼って、安心して任せておくってことだよ。国民は、政権に全部お任せてしておけばいいんだよ。余計な心配や詮索などすることはない。政府に対する厚い信頼こそが、民主主義の基本じゃないか。

えっ? 民主主義は「国民の忌憚のない権力に対する批判」によって成り立つって? 「批判のためには、国民には知る権利」が保障されなければならないって? なに言ってんの。政府のアラを探して批判しようという権利が国民にあるというのなら、政権の側には対抗して「隠す権利」がなければならない。これが公平というもの。安倍内閣はこの基本に基づいて政権を運営している。

だから、あらゆる資料は取捨選択する。都合がよいものは出す。政権に都合の悪いものは出さない。隠匿も改竄もありだ。政権維持のためには当然のこと。

今は、民主主義の世の中だ。民意に支えられて政権ができているんだよ。その政権が、出せないって言うんだから、出さないの。「桜を見る会」の招待者名簿が世に出てみろよ。政権が倒れかねない大事件になる。宮本徹議員からの資料提出要求あったとたんにシュレッダーにかけたのは、ヤバイから慌てて破棄したのさ。せっかく破棄したものだ。バックアップデータがあろうとなかろうと、都合が悪いんだから絶対に出さない。どんなことがあっても出すものか。

この名簿、うっかり出せばたいへんだ。鵜の目鷹の目で調べ上げられることになる。アキエ関連もいくつも出て来る。反社の皆様方の名もゾロゾロ。悪徳商法だってジャパンライフばかりじゃない。なによりも,安倍後援会・安倍選挙関係者の名が連なる。調べていけば、公職選挙法違反にも、政治資金規正法違反にも発展しうる。そりゃ、困る。なっ。こんな名簿、出せるわけのないことはお分かりだろう。

理屈は、どうにでもつく。たとえば、「個人情報の保護」だ。誰が「桜を見る会」に招待されたは、プライバシーに関わる厳秘の情報だ。「行政の透明性」より,個人情報の保護こそが大切じゃないかね。反社の皆様にも、アキエ夫人の友達にも、悪徳商法の方々にも、プライバシーというものがある。

そりゃあ、各界の功労者や代表者が招待されたわけだが、晴れがましく名誉ある立場と言えども、世間に知られたくないという奥床しい方は大勢いらっしゃる。そのような人びとの気持ちを考えなければならない。

勲章だって、褒賞だって同じことだ。もらったことを秘密にしておきたいという方もいる。そうだ。来年からは、すべての受賞者を秘密にしよう。

今は苦しいが、もうすぐ国会も終了だ。逃げ切れるかどうかは、世論次第。世論調査を見てみろよ。国民は賢い。野党とメディアがこれだけ叩いても、内閣支持率は40%を維持しているだろう。こういう、ものわかりがよくてもの言わぬ国民の支持に、安倍政権は支えられている。これが、民主主義というものだよ。
(2019年12月6日)

嗚呼! 中村哲さんの死を悼む。

ペシャワール会の中村哲医師が亡くなった。しかも、銃撃を受けてのこと。あまりにも突然のできごとを受けとめかねて戸惑いを覚えている。本望であったはずはない。無念の極みであったろう。心から、哀悼の意を表する。

私の心の内で、中村さんこそは憲法の平和主義の体現者であった。紛争地に、自衛隊を派遣する愚を説いてやまない人であった。武力で人からの信頼を得ることはできない。丸腰で現地のために献身する人こそが信頼を得、平和を築く礎となり得る。その強固な意思を実践した人であった。

「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

患者を救う医師よりは患者を出さない社会の建設者たらん、そう志したのは魯迅と同じ発想。そして、その実践は偉大な成果を挙げつつあったのだ。私は、やがては彼がノーベル平和賞の受賞者となるものと考えていた。彼のような人に受けとってもらってこそ、ノーベル平和賞の権威も上がろうというもの。おそらく彼は、受賞を拒絶することなく、「授賞式には出席しませんが、賞金だけはいただきましょう。活動のためにはお金は幾らあっても足りないのですから」と笑うのではないか。

詳細は不明だが、その中村さんが現地武力勢力の銃弾に倒れた。あれ程の現地での信頼を勝ち得ていた人が、である。この人の遺志が、現地で継承され、花開くことを切に望むばかりである。
(2019年12月5日)
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なお、私は6年前(2013年)の6月に、中村医師のことを本ブログに書いている。改めて、再録しておきたい。

http://article9.jp/wordpress/?p=506
憲法9条の神髄と天皇の戦争責任
(2013年6月7日)

今の日本でもっとも尊敬すべき人物を一人挙げるとすれば、中村哲さんを措いてほかにない。アフガニスタン・パキスタンの医療支援・農業支援の活動を続けて30年にもなろうとしている。その困難に立ち向かう一貫した姿勢には脱帽せざるを得ない。宮沢賢治が理想として、賢治自身にはできなかった生き方を貫いていると言ってよいのではないか。

中村さんは、1984年から最初はパキスタンのハンセン病の病棟で、後にアフガニスタンの山岳の無医村でも医療支援活動を始めた。2000年、干ばつが顕在化したアフガニスタンで「清潔な飲料水と食べ物さえあれば8、9割の人が死なずに済んだ」と、白衣と聴診器を捨て、飲料水とかんがい用の井戸掘りに着手。03年からは「100の診療所より1本の用水路」と、大干ばつで砂漠化した大地でのかんがい用水路建設に乗り出した。パキスタン国境に近いアフガニスタン東部でこれまでに完成した用水路は全長25・5キロ。75万本の木々を植え、3500ヘクタールの耕作地をよみがえらせ、約15万人が暮らせる農地を回復した。

昨日(6月6日)の毎日夕刊「憲法よーこの国はどこへ行こうとしているのか」に、中村さんのインタビュー記事が載った。「この人が、ことあるごとに憲法について語るのはなぜなのか。その理由を知りたいと思った。」というのが、長い記事のメインテーマである。ライターは小国綾子記者。優れた記者によるインタビュー記事としても出色。

「僕と憲法9条は同い年。生まれて66年」。冗談を交えつつ始めた憲法談議だったが核心に及ぶと語調を強めた。「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた。インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。国益のためなら武力行使もやむなし、それが正常な国家だなどと政治家は言う。これまで本気で守ろうとしなかった憲法を変えようだなんて。私はこの国に言いたい。憲法を実行せよ、と」

ならば、中村さんにとって憲法はリアルな存在なのか。身を乗り出し、大きくうなずいた。

「欧米人が何人殺された、なんてニュースを聞くたびに思う。なぜその銃口が我々に向けられないのか。どんな山奥のアフガニスタン人でも、広島・長崎の原爆投下を知っている。その後の復興も。一方で、英国やソ連を撃退した経験から『羽振りの良い国は必ず戦争する』と身に染みている。だから『日本は一度の戦争もせずに戦後復興を成し遂げた』と思ってくれている。他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

あなたにとって9条は、と尋ねたら、中村さんは考え込んだ後、

「*******これがなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔。しかし同時に『お位牌(いはい)』でもある。私も親類縁者が随分と戦争で死にましたから、一時帰国し、墓参りに行くたびに思うんです。平和憲法は戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の位牌だ、と」。

窓の外は薄暗い。最後に尋ねた。もしも9条が「改正」されたらどうしますか?

「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊がアフガニスタンの農村に現れたら、住民の敵意を買います。日本に逃げ帰るのか、あるいは国籍を捨てて、村の人と一緒に仕事を続けるか」長いため息を一つ。それから静かに淡々と言い添えた。
「本当に憲法9条が変えられてしまったら……。僕はもう、日本国籍なんかいらないです」。悲しげだけど、揺るがない一言だった。

未熟な論評の必要はない。日本国憲法の国際協調主義、平和主義を体現している人の声に、精一杯研ぎ澄ました感性で耳を傾けたい。こういう言葉を引き出した記者にも敬意を表したい。

ただひとつ、ざらつくような違和感をおぼえる言葉に引っかかる。
*******とした7文字の伏せ字を起こせば、「天皇陛下と同様、これがなくては日本だと言えない」というのだ。9条と並べて、「天皇陛下」も「これがなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔」と読むことも可能だ。中村さんは本当にそういったのだろうか。

中村さんの「天皇陛下」を「これがなくては日本だと言えない」という文脈は、肯定否定の評価を抜きにした客観的な判断の叙述と読めなくもない。しかし、中村さんは9条を「お位牌でもある」と言っている。310万人と数えられている日本の死者、2000万といわれる近隣諸国の民衆の死者。その厖大な犠牲は、天皇の名による戦争がもたらしたものではないか。天皇こそは、最たる戦争責任者であり、人民を戦争に向けて操作する格好の道具だてでもあった。再び戦争を起こさないという位牌の前の誓いは、天皇という恐るべき危険な道具の活用を二度と許さないという決意を含むものでなくてはならない。これを、さらりと「天皇陛下」と尊称で呼ぶ姿勢に、私の神経がざらつくのだ。

私は忖度する。おそらくは、中村さんに計算があるのだろう。理想を実現するには多額の経費が必要だ。企業からも庶民からも寄金を集めねばならない。そのとき、反体制、反天皇では金が集まらない。憲法9条の擁護なら信念を披瀝できても、天皇の問題となれば、「天皇陛下」と言わざるを得ないのではないか。私には、そのような配慮の積み重ねこそが、現代の天皇制そのものであり、忌むべきものなのだが。
(2013年6月7日)

次期NHK会長は、政治権力に毅然と対峙できる人物を。

NHK経営委員会御中

「次期NHK会長選考にあたり
独立した公共放送に相応しい会長の選任を求める緊急要請」

2019年12月4日

呼びかけ人(五十音順。*印は世話人)      
梓澤和幸(弁護士)               
浮田 哲(羽衣国際大学教授)          
岡本 厚(元『世界』編集長)          
小林 緑(国立音楽大学名誉教授/元NHK経営委員)
澤藤統一郎(弁護士)              
杉浦ひとみ(弁護士)              
醍醐聡(東大名誉教授)

*田島泰彦(早稲田大学非常勤講師/元上智大学教授)
*服部孝章(立教大学名誉教授)  

 来年1月に上田良一会長の任期が満了するのに伴い、経営委員会は次期NHK会長の選考を進めています。
 現在の上田会長、石原進経営委員会委員長の体制の下で、かんぽ生命保険不正販売を報じた「クローズアップ現代+」(2018年4月24日)に対して、日本郵政からの理不尽異様な抗議を受け入れて、経営委員会が会長を厳重注意し、会長も日本郵政に謝罪することになりました。こうしたなかで、肝心の続編の放送は1年数か月も延期され(2019年7月31日)、情報提供のための2種4本(更新版も含む)の動画も削除されました(その後、1年以上過ぎた2019年10月18日から公開に)。
経営委員会や会長のこうした行動は、番組編集の自由をないがしろにし、ひいては視聴者・市民の知る権利を損なう深刻な事態に他なりません。この点で、石原委員長率いる経営委員会とともに、上田会長の責任も重大です。
 籾井勝人前会長も、「国際報道については政府が右ということを左とは言えない」、「原発報道はむやみに不安をあおらないよう、公式発表をベースに」など、NHKをまるで政府の広報機関とみなすような暴言を繰り返し、視聴者・市民の厳しい批判を浴びてきたことは、まだ記憶に新しいところです。

報道機関や公共放送の観点からすれば、先に記した現会長や前会長に窺われる姿勢や言動および資質を、私たちは断じて是認するわけにはいきません。以上のことなども踏まえて、次期会長の選考にあたって、私たちは次の諸点を強く求め、望みます。

1 ジャーナリズム精神を備え、政治権力や社会的強者に毅然と対峙できる資質をもつ人物を選任すること。
2 憲法と放送法に示される放送の自由、権力からの独立・自立、および公共放送の理念を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を選考すること。
3 選考について、透明な手続きと自由闊達な論議が確保されること、また、会長候補の推薦・公募制も含めて、視聴者・市民の意思を広く反映できるような回路と方法を用意すること。

[賛同者名簿 117名(略)]

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本日(12月4日)、上記の緊急申入書を代表者がNHK経営委員会に持参して提出し、その後衆議院第2議員会館で記者会見を行った。
記者会見出席は、田島泰彦・醍醐聡・小林緑・小田桐誠の各氏と私の5名。それぞれが自由発言して異例の長時間会見となった。

NHK会長の任期は3年である。現在の上田良一会長の任期は、来月(2020年1月)24日で切れる。その後任人事は、経営委員12名が決める。単純多数ではなく、9人以上の賛成が必要。

放送法(第3章)が公共放送NHKの設立と運営の根拠法である。その法は、経営委員の選任を最重要事としている。「第31条 委員は、公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。この場合において、その選任については、教育、文化、科学、産業その他の各分野及び全国各地方が公平に代表されることを考慮しなければならない。

会長の資格については何の定めもない。政府も議会も関与しない。本当は、会長を選出する権限をもつ経営委員の選任にこそ、人を得なければならない。これが、「元安倍晋三の家庭教師」だったり、「安倍晋三応援団」を自称する長谷川三千子だったり。とうてい、公正・公平な選任となってはいない。

12名のうち6名が財界から出ている。労働界からは一人もない。ジャーナリストも、市民運動活動家も、弁護士もない。反権力・在野の立場で知られる人は、一人もいない。

現経営委員会委員長は、石原進。元九州旅客鉄道相談役・元日本会議名誉顧問で、籾井勝人前会長を推薦した人物として知られる。NHKの「クローズアップ現代+」による「かんぽ生命不正販売」報道が問題とされるや、加害者日本郵政の側に立って、こともあろうにNHK会長を厳重注意とした元兇。

経営委員の選任に目を光らせなければならない。石原進や長谷川三千子などを経営委員にしてはならないのだ。

その石原の任期が、今月10日である。その前日、9日に経営委員会の会長指名部会が開かれるという。誰が、会長候補にあがっているのか。どんな選考の議論が進展しているのか、まったくの闇の中である。

NHKこそは,国内で影響力最大のメディアである。その放送番組の内容の傾向や質はけっして一色ではない。しかし、これまでNHKは総体として民意を操作し誘導して腐敗した安倍政権を支えてきた。政権とNHKとの関係は、NHK上層部が政権におもねっているだけではない。官邸が積極的に経営委員会人事に介入することで、支配・被支配の関係を作っている。さらには、総務省による監督・指導を通じての日常の締めつけが存在する。

そのような政権とNHKの腐れ縁であればこそ、会長人事は「ジャーナリズム精神を備え、政治権力や社会的強者に毅然と対峙できる資質をもつ人物」でなくてはならない。憲法と放送法に示される放送の自由、権力からの独立・自立、および公共放送の理念を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物」でなくてはならない。しかも、その選任過程は、「透明な手続きと自由闊達な論議が確保されること、また、会長候補の推薦・公募制も含めて、視聴者・市民の意思を広く反映できるような回路と方法を用意すること」が必要なのだ。

(2019年12月4日)

「浜の一揆」訴訟控訴審結審の法廷で

仙台高等裁判所第1民事部御中

控訴人ら訴訟代理人弁護士 澤 藤 大 河

 H30年(行コ)第12号 サケ刺網漁不許可取消請求等控訴事件の結審に際して、最終準備書面に当たる準備書面(7)における主張の骨格を要約して、以下のとおり意見陳述をいたします。

第1 何がどのように問われているのか
1 漁民がサケを獲ることは基本的権利である
海洋を回遊するサケは無主物であって、これを捕獲することは、本来誰もが自由になしうることです。漁民が生計を立てるためにサケ漁を行うことは、憲法上の基本権(営業の自由)として保障されなければならず、その制約には、厳格に合理的な必要性が要求されます。この点の認識が、本件を考察する出発点でなくてはなりません。

2 サケ採捕に対する制約は2点の根拠ある場合に限られる
法と岩手県知事規則は、沿岸の刺し網漁を県知事の許可漁業とした上で、漁民からの刺し網漁許可の申請に対しては、許可すべきことを原則にしつつ、「漁業調整の必要」と「資源の保護培養の必要」がある場合に限り、これを不許可とすることができると定めました。従って、本件各許可申請を不許可として、控訴人らのサケ採捕によって生計を維持する権利を制約するには、この2点の具体的な根拠を行政庁において明確にし、挙証し得た場合に限られることになります。そのいずれも、成功してはいません。

第2 「漁業調整の必要がある」とはいえない
1 法が予定する漁業調整の理念
二平章氏の意見書(甲22)は以下のとおり述べています。
「漁業調整とは、漁業主体間の利害対立状況の調整ですが、次の理念のもとに行われるべきです。
第一は漁業者の優先です。他人を使用して事業として漁業を行う者よりも、実際に漁業を行う者を優先するということ。
第二に弱小零細漁民の保護です。大きな漁業者の事業的な利益よりは、零細漁民の生存権的な利益を優先させるべきです。
一方的にどちらを勝たせるとか、すべての利益を一方に独占させるという意味ではなく、利害の対立や摩擦を調整するための指針としてこの二つの理念があるのです。」
これが、戦後の経済民主化立法として、農地改革と軌を一にする、漁業法の理念であり、漁業の「民主化」を目的に掲げた漁業調整のありかたなのです。

2 現実はどうなっているのか
その法の理念に照らして、岩手県沿岸におけるサケ漁をめぐる漁業主体間の利害対立状況の現実は、「サケは大規模な定置網漁業者だけに捕らせる。刺し網を希望する小型漁船漁業者には一匹も捕らせない」という、不公平の極みではありませんか。漁業者優先の理念も、零細漁民の保護の理念もまったく無視されています。無理無体,理不尽がまかり通っているとしか言いようがありません。
強者を保護するために、弱者の権利を奪い取る、この倒錯した政策に納得できるはずはありません。しかも、このような不公平による軋轢、不平・不満は1980年代から顕在化しているのです。司法が、この偏頗な行政の不見識に加担するようなことがあってはなりません。

3 誰と誰との利害の調整なのか
定置網漁業者に優先権はありません。しかも、被控訴人提出の資料によれば、岩手県沿岸には82ケ統の定置網があります。そのうち、個人経営が12ケ統、漁業生産組合経営8ケ統、有限会社経営6ケ統、漁協・個人共同経営10ケ統となっています。その余の46ケ統が、海水面漁協の単独経営です。
つまり、漁業調整において、控訴人らと対峙している業者の半数近くが純粋に私人なのです。私的な事業者の利益確保のために、控訴人らが譲らねばならない理屈はありえません。

4 孵化放流事業の振興策は刺し網禁止を合理化しない
浜の有力者たちは、個人として、生産組合を形成する形で、あるいは、有限会社を作って、「自らは孵化事業に関わることなく」、定置網漁による利益を得ています。
また、孵化事業のサイクルは、母川に稚魚を放流した時点で完結します。この稚魚は無主物で、孵化放流事業者が優先して採捕する権利などまったくありません。
さらに、控訴人らはすべて漁協の組合員です。漁協が経営する孵化事業の成果である成鮭の採捕という「直接の利益」を等しく享受すべき立場にもあります。
なお、各孵化事業の経費は、いずれも公的資金の投入と漁獲高の7%に当たる分担金の拠出によってまかなわれています。刺し網も同一の条件になるものと考えられ、そのような運営で何の支障も生じようがないのです。

5 形式的な民主主義手続は刺し網禁止を合理化するか
県内漁業者の総意でサケの固定式刺し網漁が禁止に至ったという経緯はありません。そもそも県漁連や海区漁業調整委員会は、実質において、一部の県内有力漁業者の利益実現のための機構で、県内漁民の意見の集約機能を持つものではありませんでした。サケの孵化事業は、県内の有力漁業者が、自らの持つ大規模定置網漁業の利益をもたらすものとして発展させたものです。従って、固定式刺し網漁業によるサケの採捕全面的禁止は、県漁連や海区漁業調整委員会の幹部を兼ねた、有力業者が自らの利益のためにしたもので、提出の陳述書や書証のとおりなのです。
控訴人らは、長く漁民個人のサケ漁の解禁を求め、その実現のための手続的変革の努力もしてきました。現在の岩手県海区漁業調整委員会の公選委員に、原告らのうちの2人を当選させて送り込んでもいます。しかし、それでも事態はまったく変わりません。その本来の権利実現のためには、司法手続によって、本来の権利を実現するしかない事態なのです。

6 漁協の自営定置は刺し網禁止の理由になり得ない
被控訴人のこの点の立論は、定置網漁業者がすべからく漁協だという前提において既に誤っています。また、控訴人らは、漁協の自営定置を止めよと主張していません。「自営定置の漁獲減少の恐れがあるから、組合員の漁業許可を許さないというのは水協法4条に照らして本末転倒だ」と言っているのです。漁協が、組合員の漁業経営を圧迫する恐れのある事業をできるはずはありません。

7 隣接道県との協議の必要も刺し網禁止の理由になり得ない
隣県宮城でも、岩手同様、孵化放流事業もあり、定置網漁も行われている。しかし、刺し網も許可されています。仮に、協議の必要があれば、許可の上で協議をすればよいだけのことで、隣接道県との協議の必要があることが、刺し網禁止の理由とはなり得ないことが明白です。

8 親魚確保のためとする刺し網禁止の理由はなり立たない
井田齊意見書と証言に詳細ですが、採卵のための親魚としては,河川親魚の確保が重要であって、海産親魚に頼るのは邪道なのです。河川親魚の確保のためには、しかるべき時期に複数回河口を開けて、成鮭が母川を遡上する機会を作ることになります。その点において、定置も刺し網も本来的な優劣はありません。
また、控訴人らは定置網漁を止めよとの主張はしていなません。飽くまで共存しようという態度で一貫しているのですから、仮に何らかの事情で海産親魚の捕獲が必要な場合は、定置網漁が引き受ければよいだけのことで、刺し網を禁止する理由になり得ないことは明白なのです。

第3 サケ資源の保護培養上の必要性があるとはいえない
1  固定式刺し網漁は、サケを取り尽くさない
被控訴人は「刺し網が漁獲効率が高い漁法であり、それゆえにサケ資源を取り尽くす」と言います。しかし、その主張自体が具体性を欠けるものとして失当であること、そもそも「漁獲効率の高い漁業」は許可できないという発想が間違っていること、なによりも「漁獲効率の高い漁業の解禁は,サケ資源の確保に悪影響が大きい」との主張が、サケに関しては、間違いというよりは虚偽であることは明らかというべきです。

2  固定式刺し網漁は、孵化放流事業に支障をきたさない
次いで、「刺し網では、親魚として利用することができないこと」が挙げられますが、これも苦し紛れの弁明でしかありません。河川親魚としての確保こそが重要であって、そのためには、定置も刺し網も本来的な優劣はありません。井田意見書と、井田証言に明らかなところです。

3 控訴人らへの刺し網漁の許可は際限のない参入者を生まない
本件各申請に許可を与えた場合、これに続いて他の漁民からの許可申請があるか否か、申請があるとしてどの程度の人数になるかは、分からないというしかありません。これを予測する合理的な根拠も資料もないからです。
しかし、「分からないから不許可」というのは基本権をないがしろにした不合理極まる結論というほかはありません。判断すべきは、処分時点での当該申請を許可すれば、サケ資源の保護培養に支障が生じるか否かの一点であって、将来の不確実な事情を許可申請者に不利益に考慮することは許されません。現実には、多くの漁船がこぞって参入することなどあり得ないことは、数字を挙げて反駁したところです。
合理的で必要な最小限の規制はあって然るべきですが、現状の全面禁止を維持する合理性はありません。

4 判断の基準点を動かしてはならない
なお、判断の基準時は本件不許可の時点です。その後の事情を,行政が恣意的に考慮すべきではありません。また、三陸大津波や台風の被害は、控訴人らにも深刻な影響を及ぼしています。
だからこそ、控訴人らのサケ刺し網漁の解禁要求は切実なものであることをご理解ください。

  以上のとおり、漁業調整の必要も、サケ資源の保護培養の必要もあるとはいえないに拘わらず、本件各申請を不許可とした各処分はすべて違法として取り消されなければなりません。原判決を破棄して、請求認容の判決を求めます。

(2019年12月3日)

「私も、ホテルでのDHC製品排斥の声をあげた」― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第166弾

11月28日付で、下記のブログを掲載した。
ホテルでのDHC製品不使用のお願い― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第165弾
http://article9.jp/wordpress/?p=13858

その内容は、私が宿泊した「KKRホテル博多」の備品にDHCの製品が使われていたことを不快として、同ホテルの支配人宛にDHC製品ボイコットを要請した依頼文である。

これに早速の反応があって驚いた。ホテルの支配人からの返答ではなく、「同様のことを同時期に私もしました」という、なんとも嬉しい下記のご連絡をいただいたのだ。

澤藤 統一郎様
突然のご通知をお許し下さい。これまで、澤藤さんの東京地裁でのDHCスラップ裁判のほとんどを傍聴してきた者です。

さて、私も2019年11月28日付けの「憲法日記」のブログの内容と同じことをしました。
11月25日大阪梅田の大阪東急REIホテルに1泊したのですが、女性客への特典アメニティとしてDHCのモノが配られていました。このホテルのアンケートにDHC吉田がやってきたことを書き、今後DHCのモノは配らないように、使わないようにと書いておきました。
ホテル業界からDHCを葬ってやりたいものと思います。東急ホテルズが、あの『ゴートーケイタ』と呼ばれた五島慶太の悪辣さを今も引きずっているなら、このままかもしれませんが、DHCは使わないようにと声をあげることは大切なことと思います。
少しでも安ければそれだけでよいという業界も業者も数多くあります。私の居住地に展開している「地域生協」でも、これまで『DHC製品2割引』などという販促キャンペーンを繰り返しやっていましたが、その都度、DHCの悪行を強く本部に伝えてきました。そのためか、最近はDHC販促キャンペーンがチラシに載らなくなった気がします。

あらゆるところからDHCを駆逐するように、声を上げたいと思います。多くの日本人は、自分が感じる、『おかしい』、『へんだ』、『それは悪いことだ』という思いを、表に出しません。おそらくは、その場の空気を読むように巧妙に作られてきた教育システムと社会慣習のシステムによるものでしょうね。
感じたこと、言いたいことを素直に口に出せば、『発達障害』とされてしまいかねないこの日本では、声をあげることが一苦労ではあるのですが。

ところで、この度の「アベ桜」の問題。今度こそはアベ政権を蹴散らしたいと思っています。「森友」と「加計」と「桜」、二重にも三重にも、懲らしめなければなりません。とにかく、アベを辞めさせなければなりません。

お騒がせしました。November 30,2019

私は、ブログにアップした文章をプリントアウトして郵送した。この方は、ホテルのアンケートに対する回答に、「DHC吉田がやってきたことを書き、今後DHCのモノは配らないように、使わないようにと書いておきました」というのだ。

このようなDHCを糾弾する顧客の声を、ホテルというサービス業者が無視することはできない。「デマとヘイトとスラップのDHC」を追い詰める手段は裁判だけではない。自分が感じる、『おかしい』『へんだ』『それは悪いことだ』という思いを、日々率直に表現していくことこそが大切なのだと思う。
(2019年12月2日)

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