澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

ポケモン現象ー官邸に棲息するモンスターをゲットしよう

できるだけ、散歩をするよう心がけている。
幸い、近所の散歩コースには恵まれている。定番の行く先は上野公園。東大本郷キャンパスを赤門からはいって鉄門から抜ける。右に元キャノン機関があった旧岩崎邸を見ながら無縁坂を下って不忍池に至る。池は、巨大な蓮の葉におおわれ、華はそろそろ見納め。時間が許せば、清水寺から上野大仏、東照宮、彰義隊墓碑などを散策し、五條神社や湯島天神などを経て帰宅まで1時間余り。結構汗をかく。

上野公園ではすれ違う外国人観光客の嬌声に圧倒される昨今なのだが、今夏に異変が生じた。大人数の若者たちが、スマホを片手に特定地点に蝟集しているのだ。ときに、この集団が黙したまま同方向に走り出す。水鳥がいっせいに飛び立つようなあの雰囲気。みな、手にしたスマホを見つめながらの集団駆け足。やや不気味な光景。ポケモン・ゴー現象とやらだ。

はて、こんな場面をどこかで見たようなと記憶をたどって、ゾンビ映画に思いあたった。あるいはキョンシーだろうか。格別、こちらが襲われるような恐ろしい雰囲気はないのだが、スマホだけを見つめて、ひたすらスマホの指示に操られている印象の集団を目の当たりにするのは気持ちのよいものでない。大勢が、右を向けと言われれば挙って右を向く。左といえば左だ。目の前で繰り広げられる「操られ現象」が不気味なのだ。

もっとも、ポケモンゲットにうごきまわる人びとは象徴的存在に過ぎない。実は、誰もが操作の対象となって右往左往しているのが現代の社会。

経済生活では、大企業の宣伝広告が人びとを操っている。効きもしないサプリメントの宣伝に乗せられて大金をはたく。つくられた流行の衣装を身にまとう。うまくもない店に行列をつくる。株や先物やFXに誘い込まれて財産を失う。

多くの職場で、愚かなワンマン社長が労働者を操っている。ブラック企業の専横を不愉快と思っても、容易に逃げ出せないのがこの世の常。

政治では、圧倒的な保守メデイアが有権者を操作する。自らが主体的に選択したという錯覚のもとに、多くの人が、自らの利益に反する保守政党に投票する。民主主義が有効に機能すれば、多数の利益になる政治が実現するはずなのにそうはならない。多くの人が操られた結果だからだ。普通選挙実現以来の永遠の課題。

さて、ポケモンゴーとは、モンスターを探して捕獲するゲームだという。モンスター狩りをするハンターとして操られることを拒否して、自らの意思でリアルのモンスターを探索し、捕獲してみるというのはどうだろうか。最強にして最凶のモンスターは官邸にいる。政治や経済やメディアを操作する総元締めとして政権があり、そのトップにモンスターが棲息しているのだ。防衛省にも都庁にもこれに次ぐモンスターが巣くっている。

スマホの中の世界から一歩出て、官邸に棲息するモンスターを包囲して、駆逐できないだろうか。その手段は、市民と野党の結集による選挙ということになる。駆逐だけでは面白みに欠けるというのなら、官邸のモンスターを民衆が包囲してゲットし、ゲットしたあとは、民主的に再教育して改心させ、無害化したモンスターを再び世に放つ試みはどうだろうか。

照りつける中、スマホ片手に走り回るのもきっと面白いのだろうが、リアルなモンスター退治の方が、よっぽどロマンに溢れたものと思うのだが。
(2016年8月24日)

2020年「パンとサーカス」に喜々とする市民になるなかれ。

ようやく、リオ・オリンピックの狂騒が終わった。ところがメディアは、「さあ、次はいよいよ東京オリンピック」「この感動を東京につなげよう」という。この狂騒が、そっくり東京に来るのかと思うとやりきれない。2020年8月には、本気で東京疎開を考えなければならない。

もっとも、私はオリンピック全否定論者ではない。どんなテーマであれ、国際交流が相互理解と平和のために望ましいのは当然であるから。情報と資本と商品の流通だけでなく、人と人とが国境を越えて直接に行き来して、言葉を交わし、気持を通わせることは平和の礎である。

観光も、留学も、文化や学術の交流も、ますます盛んになればよい。それぞれが外国と外国の人や生き方を見ることが友好の第一歩だ。国際結婚ももっと増えて人種や民族の混交が進めば、差別意識もなくなってくるだろう。友情の絆や親族関係が国境を越えて張り巡らされれば、やがては国境そのものが不合理な存在となり、国際紛争も戦争の火種もなくなってゆくに違いない。

国籍や人種や民族、宗教の異なる人びとの大規模な交流の場として、オリンピックの意義がある。「堅固な平和の礎を築くことを目的とした交流の祭典」としての意義である。リオでの難民チームの結成は快挙というべきだ。自国の旗を背負うことを拒否するアスリートを束ねたチームの結成はできないものだろうか。国ごとのチーム編成を払拭できれば、さらに素晴らしい。

ところが、為政者もメデイアも、オリンピックをナショナリズム高揚の絶好の機会と捉え、あるいは国威発揚の場として利用しようとしている。これが、鬱陶しくてうんざりなのだ。メダルの数や色など、選手には関心事だろうが、はたが騒ぐほどのことではない。

オリンピックを取り巻く現実は、理想にほど遠い。日刊ゲンダイは次のように「五輪メリットは『国威発揚』 NHKが憲章と真逆の仰天解説」と報じている。
「ビックリ仰天した視聴者も多かっただろう。21日のNHKの番組『おはよう日本』。オリンピックを扱ったコーナーで、『五輪開催5つのメリット』としてナント! 『国威発揚』を挙げていたからだ。
 『リオ五輪 成果と課題』と題し、刈谷富士雄解説委員が登場。…驚いたのは次の場面だ。
『何のためにオリンピックを開くのか。その国、都市にとって何のメリットがあるのか』と投げ掛けると、五輪のメリットとして真っ先に『国威発揚』を示したのだ。」

戦時には、「日本勝った」「強いぞ我が軍」という記事こそが、新聞の部数を伸ばした。だから、各紙が挙って従軍記者を戦地に送った。無名のむのたけじだけでない。文名赫々たる岡本綺堂や石川達三も戦地に行って記事を書いた。あれと同じ構造。メディアはオリンピックで、ナショナリステックな感動を大売り出しして、シェアの拡大をねらう。そんな画策に乗せられてはならない。

リオ大会の閉会式には、アベと小池の醜悪コンビが顔を揃えた。それだけで、もううんざりだ。

ところで、閉会式では信じがたい演出がなされた。画像に、ドラえもんが用意した不思議な「土管」が映し出される。この土管が、東京から垂直に下りて地球の裏側リオにまでつながる。マリオがこの土管を伝わって、東京からリオに移動するという設定。これは悪い冗談だ。見る人誰にも原発事故でのメルトダウンからチャイナシンドロームを想い起こさせる。しかも、閉会式会場に設置された土管から出たマリオの帽子と服を脱ぐとアベが現れるという仕掛け。2013年9月に、ブェノスアイレスでのIOC総会で、「福島第1原発の放射線は完全にブロック」「アンダーコントロール」と言ったそのアベが、チャイナシンドロームで開いた穴から出て来るというのだ。ブラックジョークのつもりか、あるいは悪意の当てこすりなのだろうか。アベは、どうしてこんな演出に喜々としていられるのだろう。

オリンピックのうさんくささは、ナショナリズムだけが原因ではない。「パンとサーカス」という言葉を思いださせるからだ。

かつてのローマ帝国における愚民化政策の代名詞が、「パンとサーカス」だ。権力者は市民を愚民に貶めておく手立てとして「パンとサーカス」を提供した。食料の配給は公衆の面前で物乞い行為に対する施しとして行われたという。そして、娯楽を求める市民の要求に応えて提供された見世物が「サーカス」。中でも剣闘士同士の闘いや、剣闘士と猛獣との闘いが人気を呼んだ。民衆はこのよう娯楽を十分に与える権力者を支持し従順となった。現代のオリンピックも恰好の見世物。ヒトラーは1936年ベルリンオリンピックを最大限利用した。アベも小池も、このことを十分に意識しているに違いないのだ。

戦後占領軍は日本の統治に意識的に3S政策を組み込んだといわれる。スポーツ、スクリーン、セックス(またはスピード)。これも、民衆の社会的な自覚や、政治への関心から目を逸らせるための愚民策。オリンピックはこれと重なる。

繰り返すが、私はオリンピックを全面否定はしない。しかし、アベや小池の愚民化政策に乗せられて、政権批判を忘れて「パンとサーカス」に喜々とする市民になるのは、まっぴらご免だ。
(2016年8月23日)

むのたけじ逝くー「おれなんか70より80と、ますます頭良くなってきた」

昨日(8月21日)、むのたけじが亡くなった。享年101。
戦争に加担した自分の責任を厳しく問い、再びの戦争の惨禍を招くことのないよう社会に発信を続けた、憲法の理念を体現するごとき人生。その良心の灯がひとつ消えた。この人の姿に励まされ希望を感じてきた多くの人々に惜しまれつつ。

東京外国語学校スペイン語科を卒業し、報知新聞記者を経て1940年朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となった。若い従軍記者として、つぶさに戦争の実相を見つめたのだ。そして、1945年8月15日敗戦の日に、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」として朝日を退社したという。戦後は、故郷の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊、一貫して反戦の立場から言論活動を続けた。

今年(2016年)5月3日、東京有明防災公園での「憲法集会」に車椅子で参加している。そのときの元気なスピーチが、名演説として記憶に新しい。これが公の場での最後の姿となったという。朝日による当日の演説要旨は以下の通り。これがむのたけじの遺言となった。

「私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。

 ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。

 国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。」

しかし、憲法9条はけっして安泰ではない。その後の参院選で、両院とも改憲勢力が3分の2の議席を占める危険事態となった。101歳の叛骨のジャーナリストは、壊憲に突き進むアベ政治に、さぞかし心残りだったろう。

朝日の秋田版に掲載された、「むのたけじの伝言板」というシリーズのインタビュー記事がある。92歳から94歳の当時のもののようだ。その一部を抜粋して紹介したい。

─むのさんは「高齢者」「老後」という言葉は使いませんね。
 高齢なんてのは、官僚の年寄りだましのお世辞だよ。老人は老人、年寄りは年寄り。それだけでいい。老後とは何だ。老いはあるけど、老いた後とは何なんだ。よけい者だというのでしょ。高齢も老後も、老人を侮った言葉。「敬老」じゃなく「侮老」だ。

─敬老会に誘われませんか。
 10年位前に3回行ったけど、本当に小馬鹿にしているよ。安っぽい折り詰めに2合瓶1本つけて、幼稚園の子供のダンス見せて、選挙に出る連中が挨拶して、それでおしまいだもの。年々予算削られるから、ごっつおうもない。なんも面白くね。

─でも喜んでいる人もいるでしょ。
 いるでしょね。それはそれでいい。喜んでいない人もいるということを理解してもらわないと。しかも相当の人数いるんじゃないの。もっと心を込めた、年寄りが長く生きていて良かったと思う行事、何かあるんじゃない。

─年金はもらってますか?
 初めから拒否しているから、ないんです。61年に制度ができたとき、「集めた銭を軍備強化に使う恐れがあるから入らない」と。
 そういう立場だけど、「若者3人が高齢者1人を支えている」というような言い方はおかしいよ。本当の社会福祉、社会保障から見れば、我々を支えているのは、個人じゃなく国家なのだから、みんなでみんなを守るの。社会保障とはそういうもの。
今は、年取ったら介護保険だ、施設だ、と老いることが人間のゴミ捨て場みたいじゃないの。それは間違いだ。おれなんか70歳より80歳と、ますます頭良くなってきた。変なことに惑わされない。頼るのは、自分の常識だよ。

─戦後すぐに平和運動は起きたのですか。
 すぐは、食うのに懸命だった。憲法9条なんて当たり前だから放っておいた。それがよくなかった。この戦争は何だったのか。だれが何のために計画したのか。自衛権まで否定していいのか。そういう勉強をやらなければならなかったのだが、開放感が先に立った。
そして60年安保闘争。国会を70万人が取り囲んだ。政党や労働組合が「平和な世の中を」と叫び、古い政権を倒して新しい政権を作ろうとした。が、これが三文の値打もなかった。

─平和運動の始まりとおもっていましたが。
 平和だ、戦争反対だというけど、スローガンだけになった。本気になって命をかけてなかった。平和運動で何が残ったかというと、「良心にしたがって平和運動に参加した」という自己満足だけ。実の詰まった平和運動ではない。

─むのさんは「地域社会が喜びと希望を持って、どんどん働く力が出てくるような平和運動」を提唱しています。どういうものですか。
 戦争は、国の経済、金もうけとつながっている。みんなが、ほどほどのところで満足していけば、戦争はいらない、やらないに変わっていく。平和運動はこれまで、自分の体の外だけでの運動だったの。デモ行進とか抗議文とか。威勢よくみえるけど、戦争を計画している人には痛くもかゆくもない。スローガンではなくて、生活そのものを変えないと。
戦争反対ならば、自分自身も暮らしぶりを変える。夫婦喧嘩しながら平和を学びたくもないでしょ。隣近所と朝の挨拶もしないで平和国家もないものだ。夫婦の関係、親子の関係をどうするか。そういうことから始めればいい。
 非常にまだるっこいように見えるけど、戦争をたくらむ人たちに決して動かされないような、そういう生活態度につながれば、予算を一つも使わずにできるじゃないの、平和な世界というものが。

これも朝日に掲載された、むのの意見。高市総務相の停波発言への批判だが、むのが戦時の経験から、今を見つめて危機感を持って警告を発していることがよく分かる。

「太平洋戦争が1941年12月に始まりましたね。それからまもなく、私は従軍のために日本を発ち、翌年3月1日にジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見ました。日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。私がいたそれから半年間、ほぼその通りに事態は進んだ。

 その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。ジャワ上陸より2年近く、太平洋戦争開戦より約1年半も前だったんです。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということです。

 もしもこの事実を開戦前に知って報道したら、国民は大騒ぎをして戦争はしなかったかも知れない。そうなれば何百万人も死なせる悲劇を止めることができた。その代わりに新聞社は潰され、報道関係者は全員、国家に対する反逆者として銃殺されたでしょう。

 国民を守った報道が国家からは大罪人とされる矛盾です。そこをどう捉えればいいのか。それが根本の問題でしょう。高市早苗総務相の「公平な放送」がされない場合は、電波を止めるという発言を聞いてそう思ったのです。公平とは何か。要綱を書くことは偏った報道になるのか。それをだれが決めるのか。

 報道は、国家のためにあるわけではなく、生きている人間のためにあるんです。つまり、国民の知る権利に応え、真実はこうだぞと伝えるわけだ。公平か否かを判断するのは、それを読んだり見たりした国民です。ひどい報道があったら抗議をすればよい。総務大臣が決めることじゃないんだ。そんなのは言論弾圧なんだ。

 報道機関は、自分たちの後ろに国民がいることをもう一度認識することです。戦時中はそのことを忘れておったな。いい新聞を作り、いい放送をすれば国民は応援してくれる。それを忘れて萎縮していた。

 戦争中、憲兵隊などが直接報道機関に来て、目に見えるような圧迫を加えたわけではないんです。報道機関自らが検閲部門を作り、ちょっとした軍部の動きをみて自己規制したんだ。今のニュースキャスター交代騒動を見ていて、私はそんなことを思い出した。報道機関側がここで屈しては国民への裏切りになります。

 「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが、安倍政権になってから世界61位まで下がった。誠に恥ずかしいことで、憂うべきことです。報道機関の踏ん張りどころです。」

心からご冥福をお祈りする。そして、私もその良心の灯を受け継ぐ一人でありたいと思う。
(2016年8月22日)

国民が「天皇を思いやる」という滑稽

昨日(8月20日)の「毎日」朝刊に、天皇の生前退位をめぐる70歳男性の投書が掲載された。続いて、今日(8月21日)は、「天皇陛下の『お気持ち』に感銘」(76歳男性)、「生前退位実現へ法律改正を」(89歳女性)と続いている。あるいは、毎日は本日の76歳男性の投書の中の「陛下が日ごろから日本国憲法を大切に思われ、守っておられる姿勢に心打たれます」に着目したのかも知れないが、いずれも天皇発言を憲法上問題とする観点や、天皇制批判の視点はつゆほどもない。

「産経」ではない、「毎日」にしてこうである。ここで黙って見過ごしていると、大きな潮流ができあがり、これにに呑み込まれかねないというやや切羽詰まった気分になる。

8月20日無職男性70歳(千葉県市原市)の投書全文を紹介して、説得は無理なことだろうが、せめて私の思いを対置して述べてみたい。

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「天皇陛下のお気持ちを聞いて」 (無職男性70歳 千葉県市原市)

 天皇陛下が、現在のお気持ちを述べられました。
 「全身全霊」をもって象徴としての天皇の務めを果たしてきた、というお言葉に、頭が下がる思いがしました。私たち国民は、象徴としての天皇陛下がおられることが、当たり前で、何も疑問を感じないで今日まで来たように思います。
 国民は天皇、皇后両陛下に励まされ、生きる希望や喜びを感じてきました。これも「全身全霊」、陛下の無私のお心によってなされた行いであり、感謝しております。
 国民は、今まで、国民の象徴である陛下のことを、どれほど、思いやることができたのでありましょうか。陛下のお気持ちをお伺いするまでは全く無関心であったように思います。
 「人間天皇」として老病死は避けられない現実であります。陛下のお気持ちは、よく理解できました。このお気持ちに応え、政府は、早く対応を検討し、元気なうちに皇位を、継承できるようにしていただきたいと思います。

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 投書を拝読いたしました。文面からは、温厚なお人柄とお見受けいたします。
 しかし、ご趣旨に賛同いたしかねます。むしろ、あなたと同じ世代に属する者の一人として、その内容に少なからぬ驚きを禁じ得ません。衝撃を受けたと言っても誇張ではありません。ご意見が70年以前のものであればともかく、今の世にこのようなご意見が新聞に掲載されることへの衝撃です。この70年で、日本の国民の心根はほとんど変わっていないのだろうか、と考え込まざるをえません。

 戦前、子どもはともかく、多くの大人たちはホンネとタテマエを使い分けて生きていました。新聞や雑誌をつくる人、議会の演説や学校で講話をする人たちは、天皇を尊崇しなければならないと説きながらも、ホンネのところではバカバカしいと醒めていたはずです。敗戦間近になればなるほどホンネを語ることがはばかられた窮屈な時代でした。そんな時代と縁を切ってもう70年。奇妙な時代の呪縛から脱するに十分な年月が経過した。そう思っていた私が甘かったようです。

 投書の文中に、「国民は天皇、皇后両陛下に励まされ、生きる希望や喜びを感じてきました。」とあります。天皇や皇后の励ましが生きる希望や喜びとおっしゃるあなたの言葉は私には到底信じがたいものです。もし、これがあなたの本心から出たものだとすれば、それはまさしく信仰の世界の言葉です。天皇・皇后は、いくつかの「神」や「教祖」に置き換えて読むことができます。

「古代エジプトの民は、太陽神ラーに励まされ、生きる希望や喜びを感じてきた。」「イスラエルの民は、エホバに励まされ、生きる希望や喜びを感じてきました。」「イスラム教徒はアラーの神に励まされ、生きる希望や喜びを感じている。」「キリスト教徒は、天なる神とその子イエスに励まされ、生きる希望や喜びを感じている。」「オウムの信者は、尊師に励まされ、他にない生きる希望や喜びを感じてきた。」「我が国民は、敬愛する将軍様に励まされ、生きる希望や喜びを感じてきた。」…

信仰にもよく似た、あなたの心の持ち方はもとより自由です。しかし、私は、あなたが天皇や皇室を「敬愛」するというその気持ちが、為政者の思惑やこれに迎合するマスメディアに操作された結果としてのものではないかと危惧せざるをえません。国家や王室を敬愛する心情は、けっして自然には育ちません。戦前は、国家が意識的に学校教育において、天皇は神であり臣民を大御宝あるいは赤子として愛する慈父にも等しい敬愛すべき御方と教え込みました。富国強兵の国家をつくるため、天皇を中心に国民一億を一心とするためにそれが好都合だったからです。

70年前に、臣民はそんな迷妄から解き放されて、主権者になりました。しかし、いまなお、国民を支配するための道具として象徴天皇の利用に便益を感じている勢力が存在するのです。あなたのような、人柄優しい方は、利用しやすいとねらわれているのではないでしょうか。

「全身全霊」をもって自分の努めを果たし、そのことで社会に寄与してきた人は天皇に限らず無数にいます。障がいを持ち、貧苦の中で、あるいは逆境に耐えてきた方に対してではなく、衣食住に苦労せず、国民の税金で生計を立ててきた天皇に、特に頭が下がる思いというのは、どうしても私には解せないことです。

天皇家の私的な家計収入に当たる内廷費は今年度3億2,400万円です。天皇が天皇としての勤めを果たすための宮廷費は、55億4,558万円。宮内庁の運営のために必要な費用は、まったく別で109億3,979万円。そのほかに、皇族(4宮家)の生計維持のための皇族費が、2億2,997万円となっています。

天皇家の財政事情については、「天皇家の財布」(森暢平・新潮新書)があります。また、最新の予算額は、下記宮内庁のホームページをご覧ください。
  http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/yosan.html

内廷費や皇族費は、一切税金がかからない純粋な「手取り」です。もちろん住居も保障されていますから、天皇家も皇族も結構なご身分なのです。こんなに恵まれた天皇が、税金を負担している側の国民から、「どれほど思いやることができたのでありましょうか」と思いやりの声をかけられることは、滑稽ではありませんか。

世間には、万世一系続いてきた天皇家だけは特別という考え方も根強いようです。しかし、この世に生きとし生けるものすべてが祖先からの連綿たる血のつながりなしには、この世に存在しえません。オケラだって、ミミズだって、悉皆万世一系ならざるはなし、ではありませんか。

人間はみな平等。これは文明社会の公理です。誰の命も平等に大切。誰の人生も平等に価値あるものです。生まれながらの貴賤はありません。貴を認めるから賎なる観念も生じます。価値のない人生はない。まったくおなじように、家柄だの血筋だのの尊さもありえません。

「象徴としての天皇陛下がおられることが、当たり前で、何も疑問を感じないで今日まで来たように思います。」
それでよろしいのではありませんか。敗戦によっても天皇制が断絶せずに永らえたのは、日本を共産主義勢力からの防波堤とするためのGHQの思惑でした。「GHQに押しつけられた象徴天皇制」といってよいと思います。押しつけられたものにせよ、現行憲法にその存在の規定がある以上、存在自体は「当たり前」で、しかも普段は「その存在や天皇の言動に特に関心も疑問を感じない」というありかたこそが、憲法の想定するところだと思います。

最後に申し上げますが、天皇制とは、取り扱いに注意を要する危険なものです。その危険のみなもとは、天皇が政治的に使える道具であることにあります。国民が、天皇に肯定的な関心をもち、天皇を敬愛するなどの感情移入がされればされるほど、天皇はマインドコントロールの道具としての危険を増すことになります。あなたにとっては不本意でしょうが、あなたの投書も、そのような象徴天皇の危険性を増大することに寄与しているのだと、私は思います。
(2016年8月21日)

「辺野古・違法確認訴訟」ーはたして公正な裁判が行われているのか。

国が沖縄県を訴えた「辺野古・違法確認訴訟」が昨日(8月19日)第2回口頭弁論で結審した。7月22日提訴で8月5日に第1回口頭弁論。この日、判決までの日程が決まった。そして、決まった日程のとおりわずか2回の期日での結審。9月16日には判決言い渡しとなる。異例の早期結審・早期判決というだけではない。極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている。果たして公正な裁判が行われているのだろうか。納得しうる判決が期待できるのだろうか。

問題は、やや複雑である。まずは、どんな裁判なのか確認しておきたい。

国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。公有水面を埋め立てるには、国といえども県知事の承認が必要となっている。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。承認の是非は、主として環境保全の観点から判断される。

国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)仲井眞前知事が承認した。
(2) 翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。
(3)国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。

つまり、国にいわせれば、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」が正しく、(2)「翁長現知事の承認取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「承認取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、ということになる。

これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」はいい加減な審査でなされた不適法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。

以上の説明だと、新旧各知事の「承認」と「その取り消し」の適法違法だけが争点になりそうだが、現実の経過はより複雑になっている。それは、本件訴訟の前に、国から県に対する代執行訴訟の提起があって、その和解がなされていること、その和解に基づいて国地方係争委員会の審査があり、結論として「真摯な協議」を求められていること、である。

代執行訴訟の和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとする立場を明らかにしている。しかし、この間における国の協議拒否の姿勢の頑なさは尋常ではない。

代執行訴訟の和解は今年の3月4日金曜日だった。誰もが、これから県と国との協議が始まる、と考えた。ところが、土・日をはさんで7日月曜日には、国は協議の申し入れではなく、県に対して「承認取消を取り消す」よう是正の指示を出している。国は、飽くまで辺野古新基地建設強行の姿勢を変えない。

「代執行訴訟における和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとしているではないか。県は一貫して国との間に真摯な協議の継続を求めており、不作為の違法と評される謂われはない」とするのが県の立場。

衆目の一致するところ、先行した代執行訴訟での原告国の勝ち目は極めて薄かった。この訴訟での国の敗訴で国が辺野古新基地建設を終局的に断念せざるをえなくなるわけではないが、国にとっては大きな痛手になることは避けられない。裁判所(福岡高裁那覇支部・多見谷寿郎裁判長)は、強引に両当事者に和解案を呑ませて、国を窮地から救ったのではないのだろうか。

国は敗訴を免れたが、埋立工事の停止という代償を払わざるをえなかった。以来、工事は止まったままだ。国は新たな訴訟での勝訴確定を急がねばならない立場に追い込まれている。裁判所の審理促進は、このような国の立場を慮り、気脈を通じているのではないかと思わせる。

裁判所が異様な審理のあり方を見せたのは、まずは被告となった県側が答弁書を提出する前に争点整理案を提示したことである。裁判の大原則は当事者主義である。裁判所は両当事者の主張の範囲を逸脱した判決は書けない。だからまずは両者の言い分によく耳を傾けてからでなくては争点の整理はできない。答弁書提出前の争点整理など非常識で聞いたことがない。これではまるで昔のお白州並みだ。原告の審理促進の要望に肩入れしていると見られて当然なのだ。

本日(8月20日)の沖縄タイムスは、「『辺野古訴訟』結審 異様な裁判浮き彫りに」と題する社説を掲げている。そのなかに次の一文がある。

「2回の口頭弁論で見えてきたのは裁判の異様さである。
 この日も国側代理人は翁長知事に「最高裁の判断で違法だと確定した場合に是正するのは当然だという理解でいいか」と繰り返し尋ねた。多見谷裁判長も「県が負けて最高裁で確定したら取り消し処分を取り消すか」とただした。
 審理中の訴訟について、県が敗訴することを前提に最高裁における確定判決に従うかどうかを質問するのは裁判所の矩を超えている。
 多見谷裁判長と国側代理人の示し合わせたような尋問をみると、3月に成立した国と県の和解は、国への助け舟で仕組まれたものだったのではないかとの疑念が拭えない。

 多見谷裁判長は昨年10月30日付で福岡高裁那覇支部に異動している。国が代執行訴訟に向けて動き始めていた時期と重なっていたため、さまざまな臆測を呼んだ。
 同裁判長と国側代理人を務める定塚誠・法務省訟務局長は成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた「成田訴訟」で、それぞれ千葉地裁、東京高裁の裁判官を務めていたことがある。定塚氏は和解条項の案文や和解受け入れにも深く関わっている。」

本来、裁判所は両当事者から等距離の第三者でなければならない。国の代理人が仲間の裁判官という構図で裁判が進行しているのだ。」

また、本日(8月20日)の琉球新報は、こう述べている。
「原発問題など地方自治体の民意と国益の衝突は全国にあり、今後、地方と国の対立が司法に持ち込まれる場面は増加するとみられる。不作為の違法確認訴訟は今回が制度創設以来初めてのケースだ。多見谷寿郎裁判長が、まだ煮詰まっているとは到底言えない議論をどう整理するのか。訴訟の判決は、司法が地方自治とどう向き合うかを問う試金石となる。」

そのとおりだ。試金石の意味を敷衍すれば、こうなるだろう。
9月16日判決で沖縄県が勝訴すれば、公正な司法が地方自治と真っ当に向き合ったことの証しとなる。しかし、もし国が勝訴するようなことがあれば、裁判の公正に対する国民の信頼は地に落ちることになる。司法は真っ当に地方自治に向き合っていないと評せざるをえないということだ。

そんな裁判で、仮に沖縄県が敗訴したとしよう。知事が、確定判決に従わざるをえないことは当然としても、そのことが「辺野古新基地建設を阻止する」手立てを失うことにはならない。訴訟は、「あらゆる手段を尽くして辺野古新基地建設を阻止する」という手立のひとつに過ぎない。しかも、法的手段がまったくなくなるというわけでもない。

民意が新基地建設反対という以上は、本来国は無理なことをやっているのだ。強引になればなるほど、傷を大きくするのは国でありアベ政権とならざるを得ない。自民党だけではない。国交相を出している公明党にとっても大きな打撃となるだろう。
(2016年8月20日)

憲法の理念に真逆の首相をもつ、ねじれた日本の不幸。

下記は、一昨日(8月17日)の赤旗7面(文化欄)に載ったエッセイ。タイトルは、「君をハグしていい?」というもの。筆者西川悟平(1974年生)はニューヨーク在住で、「7本指のピアニスト」として知られている人だという。印象に深い内容にかかわらず、赤旗のデジタル版には掲載なく、ネットでの紹介記事も見あたらない。まずはその全文を紹介したい。

 2年前の1月の寒い日、二ューヨークのマンションで2人組の泥棒にあいました。夜10時ごろ、ノックの音に、ルームメートの友達だと思いドアを開けると、黒人とラテン系の男が入ってきて、注射器を突きつけられました。中には透明な液体が入っていて、なんだか分からないままホールドアップ。1人が僕に注射器を突きつけている間、もう1人がクレジットカードやパソコンなどを盗みだしました。

 初めはすごく怖かったのですが、だんだんと怒りに変わり、その後「何が彼らをこんな行動に駆り立てたんだろう?」と好奇心に変わりました。アメリカの大学で心理学を学んだことがあったんです。
 恐る恐る「しゃべっていいですか?」と聞くと「うるせえ! 黙れ!」。「ごめんなさい! ただ君たちがどんな幼少期を過ごしたのか…なんでこんなことをしなくちゃいけなくなったのか…そう思っただけです!」
 するとラテン系の男が一瞬動きを止めて、「お前にあのクソ痛みが分かるか…俺の親父は俺が子どもの時から俺に性的虐待をしてきた。母さんは、俺が物を盗ってきたら愛してると言ってくれたんだ」。僕は涙が出てきました。「つらかったね…。あるものはなんでも盗っていいから! 君をハグしていい?」。彼は「俺に近づくな! 今センシティブな(感じやすい)気分なんだ!」。注射器を持っていた男は「お前は日本人か? お前らは、人を深く尊敬する文化があるから、俺は好きだ」と言いだしました。
 「日本から届いた緑茶があるけど飲みますか?」と聞くと、2人とも「飲む」と言うのでお茶を沸かし、3人で話しました。ラテン系の男が翌週に誕生日だというので、ハッピーバースデーをピアノで演奏しました。時計は明け方4時を指していました。

 僕自身アメリカではひとりきりで、指に病気を抱えながらピアニストで頑張ってると伝えると、「お前ならきっと1年後には笑って過ごせる日がくるさ」と応援してくれました。僕は「あなたたちは、人間としての素晴らしい価値があるから、お店で働くなり、アルバイトをするなり、何か必ずできる仕事があるはずだ」と伝えました。
2人は、僕のマンションの壊れかけた暖房設備を修理し、盗んだものをすべて返してくれ、「次から相手を確認するまでドアを開けるなよ」とお説教。明るくなりはじめた頃、出て行きました。1人ずつハグをして「お前に会えて良かった」と言って。
僕は翌年そのマンションを引っ越しました。彼らが元気で幸せであることを願っています。

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このエッセイに描かれたできごとは、憲法9条の理念を寓意している。
暴力に遭遇したとき、暴力での対抗が有効か、あるいは丸腰での対応が安全か。少なくともこのケースの場合、丸腰主義と友好的対応が成功している。

いつもそうとは限らないという反論は当然にあり得る。では、このピアニストが護身用の拳銃を所持していたとして、隙を見て犯人に発砲したとすれば…。強盗被害をはるかに超えた悲惨な結末となっていたに違いない。

暴力を振るう相手に対して、「君をハグしていい?」という対応のできる人格は稀有なものだろうが、暴力に暴力で対峙の危険を避けることは常識的な発想といえよう。この「暴力に暴力で対峙する危険を避ける常識的な発想」から半歩踏み出したところに、日本国憲法の平和主義の発想がある。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのが日本国憲法の立場である。「決意した」というのだ。非武装平和主義のリスクを引き受けるということだ。非武装の平和も、武力による平和もともにリスクはある。武力による平和を求める方策は、際限のない武力拡大競争と極限化した戦争の惨禍をもたらすという大失敗に至った。しかも、次の本格戦争には核が使われることになる。だから、非武装の平和を決意したのだ。

「決意した」は、安閑としてはいられないという認識を表している。平和のために国民が団結して、知恵を出し合い、多大な努力を重ねなければならないということなのだ。

憲法前文は、非武装平和主義を採用する根拠として、「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」としている。人間を、諸国民を、胸襟を開いて話し合えば理解しえる「ハグすべき相手」と見る思想である。

この対極にあるのが、「自国は正義」「隣国は悪」という国際観。「隣国は常に自国攻撃の邪悪な意図をもっている」「だから平和のためには可能な限りの軍備が必要」となる。もちろん核武装も厭わない。現実に核武装が困難であれば、核の傘に身を寄せる選択となる。

自国を攻撃する意図をもった邪悪な隣国と対峙している以上、自国の平和のためには可能な限りの強力な武力を。どんなときにも即応できる、いつでも使える武力を。先制してでも武力の行使を辞さない能力と戦意こそが平和の保障、と考える。

だからアベは、オバマの「核兵器先制不使用宣言」には反対なのだ。日本がよるべき「核の傘」(核抑止力)は、「先制しては使わない」などという切れ味の鈍いものであってはならない。常に、日本の隣国に睨みをきかして、恫喝し続けるものでなくてはならないのだ。

アベが、広島で述べた「核兵器なき世界に向け、新たな一歩を踏み出す年に…」なんて言うのは、真っ赤なウソ。アベは憲法9条が大キライ、核抑止力大好きなのだ。アベは、自宅にピストルが欲しい。できれば、機関銃も爆弾も欲しいのだ。強盗が押し入ってきたら、撃ち殺すぞ、爆殺するぞ。そう、脅かすことが安全と平和のために必要というのだ。

あらためて、強盗二人をハグしたピアニストに敬意を表する。あなたこそ、日本国憲法の理念の体現者だ。ひるがえって、アベの何たる愚かさ。

ああ、不幸な日本よ。憲法の理念に真逆の考えの首相をもつ、ねじれた国よ。
(2016年8月19日)

野田聖子と、その長男真輝君に声援を送る。

昨日(8月17日)の毎日新聞夕刊。鬱陶しいオリンピック報道の紙面に埋もれるような「特集ワイド」。野田聖子のインタビュー記事。

「相模原殺傷事件」「感じた嫌悪『いつか起きる…』」「長男が障害持つ野田聖子衆院議員」という見出し。もう一つ、中見出しが「命ってすごいんだぞ」。私はすっかりこの人に感情移入してこの記事を読んだ。この人なら信頼してもよいのではないか、政治家として大成して欲しい、とも思った。

「相模原殺傷事件」は、あまりに重い問を時代に突きつけている。私は、この衝撃を受け止めかね、どう整理したらよいのか考えあぐねている。そこに、野田聖子インタビューである。多くの人の共感を得たのではないか。下記のURLを開いて是非全文をお読みいただきたい。
  http://mainichi.jp/articles/20160817/dde/012/040/003000c

この人の物言いには気取りがない。飾り気もない。そして尊大さがない。上からの目線を感じさせるところが微塵もなく、障がいの子を抱えて、優生思想を肯定する世間の雰囲気に恐怖を感じ、差別意識丸出しの曾野綾子からの名指しの批判に慄然とする、弱い母親の立場を隠さない。

事件犯人の殺意は、身障者を社会の厄介者とするこの社会の差別意識の土壌から生まれたものだ。石原慎太郎や曾野綾子らは、その加害者側の差別意識を代表する立場。対して、野田聖子は被害者側の立場で、「私も息子も、いつ襲われるか分からないジャングルの中を歩いているような気分」という。それでも、懸命に闘おうという気概に「侠気」さえ感じさせる。

野田聖子発言の中の次の個所が特に目に止まった。

野田 逆にお聞きしますが、この事件でなぜ被害者の名前が報道されないのでしょうか。被害者が生きてきた何十年という人生が、ないことになっているのでは。その人生を失った悲しみは、これで分かち合えるのでしょうか?

記者 「遺族が公表を望んでおられない」と警察が説明していることもあります。

野田 優生思想的な考えを持つ人たちから、家族が2次被害に遭うからでしょう。変ですよね。だからこそ私は逆を行きたい。息子の障害や写真を公表したのもその思いから。国会議員にも家族の障害を隠す人がいるんじゃないかな。でも隠す必要はない。息子に誇りを持ってほしいとの思いもある。

人は人であるだけでなく、それぞれが固有名詞と個別の人生をもつ、ほかならぬ自分なのだ。人は人として尊ばれるだけでなく、個性をもった個人としても尊ばれなければならない。

野田聖子は障がいをもつ子の母として、被害者が名前さえ知られることなく、抽象的な人数の一人としてのみ処理されることが、耐えがたくも許しがたいのだ。もちろん、家族が2次被害に遭いかねない事情はよく分かる。だからこそ、政治家である自分は、そのような社会と闘って社会を糺さなければならない。そう自覚して、愛息の障がいや写真を公表しているのだ。

社会に巣くう差別の土壌で心ない加害者が育つ。教室でのイジメ、公園でのホームレス狩り、ヘイトデモ、ネットでの匿名民族差別の悪罵…。加害者は世間の顔色を窺いながら、悪質さをエスカレートしていく。このような差別言動の横行は、この社会が病んでいることの徴表にほかならない。

病んだ社会が生みだした差別言動の行く着くところが、「社会のムダを省く」という「論理」で行われた「相模原殺傷事件」ではないか。犯人は、「誰が私を裁くことができるのか」と薄笑いを浮かべて、そう世に問うているのだ。

社会の差別意識を嫌悪し、これと闘おうという野田聖子の真っ当な姿勢に声援を送りたい。曾野綾子や、これに煽動されたネット住民のバッシングを許してはならないと思う。万が一にも、孤立させてはならない。

初めて、野田聖子の公式ホームページを開いてみた。政策の中に、次のアピールがある。
■子供を産み育てたいと願う人々がさまざまな理由で苦しい思いをし、豊かな日本にありながら子供の貧困が進み、社会の基盤が蝕まれています。安全な生殖補助医療環境、無用な負荷のない育児環境、子供の権利と命を守るセイフティーネットを整え、子供の幸せな誕生と健やかな成長を約束します。
■高齢者のホームレス化、孤独死が増え、老々介護の厳しさもますます増しています。現行の健康寿命関連施策を一層充実させるとともに、人生の晩年を温かく見守り支える社会的な意識醸成に取り組みます。
■先端医学、医療技術の発展を後押ししつつ、女性の健康や終末医療などを活発に議論する場と法制度を整え、生命倫理問題に真摯に向き合う社会を築きます。

毎日の記事と併せて読むと、信用できそうだと印象を受ける。そして、こんな、自民党に対する抵抗とも読める政策もあった。
■思考停止につながる党議拘束のあり方や不透明な党内ルールを見直し、多様な議員人材を育て、国民に開かれ、国民の力を活かす自民党を目指します。

野田は、選択的夫婦別姓に賛成の立場を表明してもいる。同じ自民党でも、アベとは大違いだ。保守の幅広さを感じさせる。

野田聖子とこれを支えている夫(議員ではない)と、そして来年は小学校だという真輝(まさき)君に注目し、拍手と声援を送る。
(2016年8月18日)

「へそまがり宣言」

有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。

日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。

現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。

これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。

多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。

多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。

もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。

へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。

へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。

へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。

へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。

そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)

「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」ーこれが9条の神髄ではないか。

昨日(8月15日)の政府主催「全国戦没者追悼式」の最高齢参列者は、フィリピンで夫を亡くした東京都の101歳、中野佳寿さん。この人の言葉が、各紙に紹介されている。「戦争は絶対に駄目」というもの。何と力強い言葉だろう。その通り、「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。

どんなに理屈をつけて戦争を合理化しようとも、101歳の「戦争は絶対に駄目」の強さには敵わない。聖戦、正義の戦争、自存自衛の戦争、東洋平和のための戦争も、「ダメなものはダメ」。防衛環境の変化も存立危機事態も「戦争は絶対に駄目」に抗いえない。

人殺しは駄目。絶対に駄目。ダメなものはダメ。人殺しがダメなことに理屈は要らないのと同じように、戦争は駄目。絶対に駄目、ダメなものはダメなのだ。

この言葉の強さは、戦没者の痛恨と遺族の戦後の労苦への共感から生まれている。戦没兵士だけではない。沖縄地上戦での死者とその遺族、各地の空襲死者とその遺族、広島・長崎での原爆死者と遺族、そして多くの生存被爆者・生存空襲被害者の痛苦・悲痛。国民はそれを知っているから、「戦争は絶対に駄目」に心底共感するのだ。

ところで、憲法は「戦争は絶対に駄目」という思いへの共感が結実したものだ。「戦争は絶対に駄目」と9条1項に書き付け、「絶対に駄目」な戦争を再び起こさないための保障として、戦争の手段をもたないと9条2項で宣言したのだ。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」はそういう意味なのだ。

「戦争は絶対に駄目」の思想は、自衛のための戦争なら許すという例外を認めない。第90帝国議会(制憲国会)で、共産党の野坂参三は、日本国憲法案第9条を指して、「我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それ故に我が党は、民族独立の為にこの憲法に反対」との論陣を張った。これに対する吉田茂(当時首相)の答弁を想い起こそう。

「野坂氏は国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認めることが有害であると思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発する所以であると思うのであります。野坂氏のご意見の如きは有害無益の議論と私は考えます。」

また、吉田茂は戦争放棄に関する提案理由説明で次のようにも言っている。
これ(戦争放棄)は改正案に於ける大なる眼目をなすものであります。斯かる思ひ切つた条項は、凡そ従来の各国憲法中稀に類例を見るものでございます。斯くして日本国は永久の平和を念願して、その将来の安全と生存を挙げて平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであります。この高き理想を以て、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行かうと云ふ固き決意を此の国の根本法に明示せんとするものであります。

野坂の自衛戦争肯定論に対して、吉田は「自衛のための戦争も交戦権も放棄したものであると言明」したのだ。日本国憲法第9条を、「戦争は絶対に駄目」条項と理解した姿勢である。

ここがぶれると、自衛のための戦争なら許される、となる。自衛のための戦争に必要な武力なら違憲の戦力ではないから持つことを許される。自衛のためなら核武装も違憲とは言えない。自衛のためなら敵の基地を叩く必要も認められる。攻撃こそ最大の防御なのだから自衛のための先制攻撃もあり得る。自衛のためなら海外での戦争もしなければならない。自衛のためなら同盟国の戦争を買ってもよい。そして行く着くところは、昨日(8月15日)明らかになった「核兵器の先制不使用政策は抑止力を弱体化する」というアベ発言にまで行き着くのだ。

あらためて確認しよう。日本国憲法の平和主義とは、頑固でぶれない「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。その平和主義の実現はけっして安易なものではない。国民に安閑としていることを許さない。国民は、勇気と知恵とを総動員して、武力によらない平和を実現すべく努力を求められているのだ。
(2016年8月16日)

8月15日は、「平和の日」。

8月15日である。この日を何と命名すればよいのだろう。連合国側や被侵略国側にとっては大いに意気上がる国民的な祝祭の日である。この日(あるいは降伏文書調印の9月2日)を「戦勝記念日」とし、「解放記念日」、「光復節」などとするのは分かり易いく、必然的な命名。我が国は、この日の意義をどう捉えて、どう呼称すればよいだろうか。

「終戦の日」ではごまかしのニュアンスがありインパクトが弱い。「敗戦の日」も直接に理念を語っていない。やや悔しさが滲んで、「臥薪嘗胆次は戦勝を」という底意も見え隠れしないか。

やはり、まずは「平和の日」であろう。戦争の時代に別れを告げた日。国民が平和な日常を取り戻した日。平和の尊さを確認し、戦争という愚行は繰り返さないと誓いを新たにすべき日。

バリエーションとしては、「恒久平和の日」「世界平和の日」「平和祈念の日」「不再戦誓いの日」「戦争放棄の日」「世界中の人びとと仲良くする日」「憲法9条の日」…。

次いで、「解放記念日」でもよいと思う。奴隷解放と同様に、日本国民が天皇に隷属する臣民の身分から解放された日という意味だ。「臣民解放記念の日」「国民主権確立記念の日」でもよい。悲惨な殺し合いにほかならない戦争の恐怖から解放された記念日にも通じる。

その法的根拠は、日本が受諾したポツダム宣言第10条後段「日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」(外務省訳)というところ。敗戦がもたらした平和であり、国民主権であり、基本的人権なのだ。

その「平和の日」の今日、恒例の政府主催「戦没者追悼式」が行われた。
天皇は、その式辞で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」と述べた。

「過去を顧み、深い反省」の文言は、昨年からのことだという。聞く人の受け取り方次第の曖昧な表現だが、戦没者と遺族に対して、戦争の責任を感じていることのアピールと読めなくもない。言葉を補えば、「侵略戦争と植民地支配の過去の歴史を顧み、誤った国策で国の内外におびただしい犠牲者を出してしまったことに関する深い反省」ということだ。

これに比してアベの式辞には、反省のカケラもない。朝日の報道では、「歴代の首相が踏襲してきたアジア諸国への『加害』と、それに対する『深い反省』や『哀悼の意』については、第2次安倍政権の発足以来、式辞の中で触れていない。安倍首相は昨年に続いて『戦争の惨禍を決して繰り返さない』との表現で不戦の決意を示した。」と解説されている。

アベ式辞が言う「戦争の惨禍を決して繰り返さない。これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。そのことが御霊に報いる途であると信じて疑いません。」は、かなり危うい。

実は、「戦争の惨禍に対する反省のしかた」には、二通りある。ひとつは、戦争をしたこと自体を反省し、いかなる戦争もしないという決意を固めること。これが日本国憲法の立場。もう一つは、「今度はけっして負けない。精強な軍隊をつくって、国民を守る」という、これがアベ流。

年来の危うい言行のアベである。政権に就いてからは、特定秘密保護法や戦争法を成立させ、よりにもよってイナダのごとき人物を防衛相に抜擢するアベの式辞であればこそ、次のように聞こえる。

「戦争の惨禍を決して繰り返さない。これからも、近隣諸国から侵略されることのないよう万全の国防に邁進し、万が一にも戦端が開いたときには絶対に敗戦の憂き目を見ることのなきよう、この決然たる誓いを貫き、我が国の誇り高き國体の歴史と謙虚に向き合い、自由世界の平和と繁栄に貢献し、日本国内の万人が固い国防によって心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望と国防の自覚に満ちた国民による国の未来を切り開いてまいります。そのことが皇軍戦没者の御霊に報いる途であると信じて疑いません。」

過去を省み何を反省すべきかを見きわめることなくて、将来を語ることはできない。「戦争の惨禍を決して繰り返さない」だけでは、維新以来戦争を繰り返してきた我が国の歴史を省みてはいない。何を反省するのか、真摯に突きつめる姿勢がない。だから、平和憲法に風穴を開けて、再びの戦争を辞さないということになるのだ。

日本国憲法は、「平和憲法」である。憲法はまさしく戦争の惨禍から平和を希求して生まれた。国が無謀な戦争に突入したのは、国民自身が国の主人公ではなかったからだ。国民が戦争を防げなかったのは国民に知る権利も発言する権利も保障されていなかったからだ。国民が、唯々諾々と天皇が唱導する戦争に動員されたのは、天皇を神とする信仰が強制されたからだ。平和を望む国民性を育てられなかったのは、国家主義・軍国主義を刷り込む国家主導の教育の仕業だ。産業界にも農漁村にも、家庭にも、民主主義が育たなかったからだ。

憲法制定時の国民の関心は、何よりも平和にあった。そのため、恒久の平和を構築するための憲法が構想された。そして、憲法9条と、前文に平和的生存権を明記した日本国憲法が誕生したのだ。

憲法の論理的な構造においては、基本的人権が主柱で、その芯は「個人の尊厳」である。民主主義も平和主義も、言わば手段的理念であって、目的としての理念は人権なのだ。それはそのとおりなのだが、国民の最大関心事として平和を希求した憲法は、9条と前文だけではなく、すべての条項が再びの戦争を繰り返さないための平和実現の体系として構築されていると言ってよい。

そのような平和憲法を生み出す国民の決意形成の出発点となったのが、71年前の8月15日であった。だからやっぱり、今日は「平和の日」なのだ。
(2016年8月15日)

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