澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)控訴理由書完成

弁護団を組んでの大型訴訟は、学ぶところが多いし面白い。弁護士の経験の伝承の場でもある。しかし、弁護団には特有のマネージメントの負担が大きい。これだけで一苦労だ。この苦労を一身に背負うのが弁護団事務局長。誰かが引き受けなければことが進まないが、「車輪の下」で雑務の山の重荷を支えることには、覚悟が必要だ。

そもそも大半の者の弁護士志望の動機が、マネージメントは不得手、やりたくない、というものだ。不得手でも、やりたくなくても、必要だから誰かがやらざるを得ない。心ならずも私もそんな役回りをいくつも引き受けてきた。が、もうこの齢では務まらない。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、一審判決の言い渡しがあり、今日(12月18日)が控訴理由書の提出期限だった。

先ほど、弁護団事務局長の平松真二郎弁護士から、「皆さまお疲れ様でした。控訴理由書無事提出しました。」との報告があった。ご苦労様、という以外に言葉がない。

議論して構成を考え、手分けして執筆し、執筆したものを持ち寄って討論してまた加筆し、ようやく完成した控訴理由書が、397ページの大冊となった。事務局長は、弁護団の校閲担当者とともに最後の調整を担当している。

東京地裁の原判決は、減給以上の全処分を取り消したが、戒告(9名についての12件)については処分取り消し請求を棄却した。不当であり無念というほかない。私たちはこの点を逆転したい。

本控訴理由書は何よりも違憲論を重視している。その違憲の根拠を、「客観違憲論」と「主観違憲論」に大別した。立憲主義に基づく憲法の構造上、そもそも公権力が国民に対して、「国に敬意を表明せよ」などと命令できるはずはない。また、憲法26条や23条は教育の場での価値多様性を重視しており、公権力が過剰に教育の内容に介入することは許容されず、本件はその教育に対する公権力の過剰介入の典型事例である。というのが、客観違憲論。誰に対する関係でも都教委の一連の行為は違憲で、違法となる。

そして、主観的違憲論(思想・良心の自由保障、信教の自由保障違反)では、宗教学の島薗進教授の説示を援用して、新たな主張を展開している。同教授には、宗教学の立場から鑑定意見書を作成していただく予定である。

控訴理由書は、以下の全10章からなる。
序 章 原判決の基本的な問題点
第1章 事実関係に関する問題
第2章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが公権力行使の権限の限界を踰越していること
第3章 通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが教基法16条1項の禁じる「不当な支配」に当たること
第4章 国歌の起立斉唱の義務付けが憲法19条に違反すること
第5章 国歌の起立斉唱の強制は憲法20条2項,20条1項に違反すること
第6章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが憲法23条,26条,13条が保障する教師の教育の自由を侵害すること
第7章 卒業式等における国歌の起立斉唱の義務付けが国際条約に違反すること 
第8章 本件各処分は裁量権の逸脱・濫用にあたる
第9章 国賠法1条1項に基づく慰謝料等請求が認められるべきこと

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本控訴理由書の目次を掲載しておく。この目次をよく読み込めば、控訴理由の大意が把握できるはず。

序章 原判決の基本的な問題点 9
第1 原判決の事実認定の問題点 9
第2 原判決の法的判断の問題点 11
第3 貴裁判所に望むこと 13

第1章 事実関係に関する問題 15
第1 原判決の事実認定の問題点 15
1 原判決の事実認定 15
2 10・23通達発出の真の目的を見極めるために必要な事実の認定が欠落している 15
3 職務命令と10・23通達の関連性についての認定が欠落している 17
4 卒業式等において教師に創意工夫や裁量の余地がなく画一的な儀式を押し付けられたことに関する認定が欠落している 18
5 小括 19
第2 1989年学習指導要領改訂と学校における「日の丸・君が代」の取り扱い 19
1 はじめに 19
2 学習指導要領改訂前の学校の日の丸・君が代実施の状況 19
3 学習指導要領改訂時の議論 22
4 学習指導要領改訂後の運用状況 24
第3 10・23通達発出に至る経過 25
1 学習指導要領改訂後の都教委の指導 25
2 国旗国歌法制定とその立法趣旨 27
3 1999(平成11)年通達 39
4 都教委の方針転換 43
5 教育委員や教育長らの考え 55
6 都議会議員らとの迎合的関係 61
7 対策本部の議論 66
第4 10・23通達から職務命令発出に至る経過 69
1 10・23通達につき校長の独自の権限はなかった 69
2 管理職への事前指導による「職務命令発出」の徹底 70
4 卒業式当日の異常な監視体制 83
5 服務事故報告書,校長への事情聴取 84
6 都教委による10・23通達完全実施体制 85
第5 10・23通達下の卒業式等の実施 89
1 教職員に対する強制 89
2 生徒への強制 94
3 障害児学校での卒業式の変容 107
4 通常学校における卒入学式への影響 121
第6 教育現場の変容 124
1 上意下達の結果~破壊された教育現場 124
2 かつての教育現場~教師集団による闊達な議論 125
3 都教委が10・23通達前後に行った「教育現場改革」と教育現場への介入 126
4 上意下達体制の貫徹による「沈黙の教育現場」 131
5 「お上が望む教育へ」~教育内容への介入 133
第7 小括 139

第2章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが公権力行使の権限の限界を踰越していること 140
第1 「職務命令」と「信念等」との対比では抜け落ちてしまう重要な側面 140
1 原判決では控訴人らの主張が理解されなかったこと 140
2 職務命令と「歴史観・世界観・教育観」との対比 140
3 何が捨象されてしまうのか 141
4 等閑視された「求めること」と「強制」との隔絶した違い 143
第2 「公権力行使の権限踰越」の意味と判例上の位置づけ 145
1 公権力行使の権限踰越が本章の主題 145
2 職務命令が違憲という従前の主張とは異なる 145
3 南九州税理士会事件最高裁判決とそれが依拠した大法廷判決 146
4 アメリカ連邦最高裁のBarnette(バーネット)事件判決 149
5 憲法判断の客観的アプローチ 150
6 「権限がない」の意味についての補足説明 153
7 「権限の限界の踰越」の意味についての補足説明 153
第3 原判決に対する批判 154
1 「公権力行使の権限踰越」の主張に対する原判決の判示 154
2 判示①について 154
3 判示②について 155
第4 「国家シンボルと個人」から画される「公権力行使の限界」 157
1 国家と対峙する個人 157
2 国家シンボルに対する敬意表明の強制は権限を踰越した公権力の行使 157
3 公務員に対しても強制はできない 160
4 根拠とする憲法の条項 162
第5 「生徒の精神的自由」と「教職員の職務」から画される「公権力行使の限界」 163
1 精神的自由の内在的制約 163
2 単に法律に根拠があるだけでは人権の制約はできない 164
3 一連の最高裁判決による制約の正当化 164
4 調整すべき生徒の人権は抽象的で希薄な「学習権」だけではない 166
5 生徒と教職員は別という議論 166
6 「不利益処分の制裁をもって」が重要なのではない 167
7 現に起立斉唱できないという思いをもつ生徒の存在 169
8 教職員による起立斉唱の率先垂範は生徒の自律的な思考と判断を損なう 172
9 教育的配慮として生徒の気持ちに寄り添うことは教職員の職責 173
10 教職員の職責と矛盾する行為を教職員に強制をする権限は行政にない 174
第6 結語 175

第3章 通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが教基法16条1項の禁じる「不当な支配」に当たること 176
第1 教育委員会が教育内容に関する具体的な命令の発出が許されるとした原判決は,旭川学テ事件最高裁判決の判断に反していること 176
1 原判決の判示 176
2 旭川学テ事件最高裁判決の判断枠組み 177
3 原判決は旭川学テ事件最高裁判決を誤読していること 185
第2 教育委員会は「必要性,合理性が認められる場合には,適正かつ許容される目的のために必要かつ合理的と認められる範囲内において,具体的な命令を発することもできる」と判断した誤り 186
1 原判決の判示 186
2 旭川学テ事件最高裁判決が示した教育委員会の権限行使の限界 187
3 具体的な命令を発しうる「特に必要な場合」はどのような場合か 189
第3 国歌の起立斉唱の義務付けが「適正かつ許容される目的のために必要かつ合理的であると認められるとした原判決の誤り 193
1 原判決の判示 193
2 具体的な命令を発する「必要」性を認めた原判決の誤り 194
3 起立斉唱命令の「合理性」を認めた原判決が判断を誤っていること 199

第4章 国歌の起立斉唱の義務付けが憲法19条に違反すること 205
第1 原判決は事案類型の把握が誤っていること 205
1 原判決の概要 205
2 控訴人らの主張 205
3 控訴人ら「教職員としての職責意識に基づく信条」の内容 207
第2 原判決は,「憲法が宗教儀式ならびにこれに準ずる世俗的儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過している 211
1 原判決の違憲判断回避の構造 211
2 「間接制約」論の誤謬 214
3 儀式・儀礼による集団規律と宗教及び全体主義との関わり 216
第3 起立斉唱行為の義務付けの必要性及び合理性がないこと 221
1 原判決の判断 221
2 控訴人らの主張 221
3 そもそも10・23通達発出の必要性及び合理性はなかった 222

第5章 国歌の起立斉唱の強制は憲法20条2項,20条1項に違反すること 227
第1 憲法20条に関する原判決の判断 227
第2 「日の丸・君が代」の宗教性 234
1 「日の丸・君が代」の宗教性 234
2 国旗・国歌(日の丸・君が代)の儀式における役割 236
第3 憲法20条2項違反について 237
1 憲法20条の構造 237
2 強制の契機 238
第4 憲法20条1項違反について 240
1 内心に限定された自由ではない 240
2 「間接制約」論の誤謬 241
3 剣道実技拒否事件最高裁判決の射程 242
第5 教員の信教の自由とその限界 244
1 人権制約における厳格な審査基準 244
2 日の丸・君が代強制と厳格審査基準 245

第6章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが憲法23条,26条,13条が保障する教師の教育の自由を侵害すること 246
第1 原判決は教師の教育の自由に関する旭川学テ事件最高裁判決に反していること 246
1 原判決の判断 246
2 普通教育における教師の教育の自由に関する旭川学テ事件最高裁判決 247
3 小括 252
第2 教職員に対する起立斉唱の義務付けが国旗国歌条項の趣旨に沿うとした原判決の判断は誤っていること 252
1 原判決の判示 252
2 教職員全員の起立斉唱が国旗国歌条項の趣旨にかなうものではないこと 253
3 教職員全員の起立斉唱を命じることはできないこと 258
4 教職員全員の起立斉唱は子どもの学習権を侵害すること 262
5 小括 263
第3 本件通達及び本件職務命令は,教育の自由を侵害すること 263
1 原判決の判示 263
2 原判決の判示は事実誤認に基づくこと 264
3 小括 原判決は事実を誤認したものであること 270

第7章 卒業式等における国歌の起立斉唱の義務付けが国際条約に違反すること 272
第1 原判決の判断内容とその基本的問題点 272
1 原判決の判断内容 272
2 原審判断の特徴と問題点 273
第2 原判決が自由権規約18条の解釈を誤ったこと 275
1 自由権規約,児童の権利に関する条約の裁判規範性 275
2 国際条約における一般的意見,総括所見の持つ意味 277
3 条約法条約による解釈規則 277
4 規約人権委員会の人権規約18条に対する一般意見 278
第3 原判決は,自由権規約委員会の日本政府の第6回報告に対する総括所見について誤った位置づけをしたこと 282
1 自由権規約委員会の日本政府の第6回報告に対する総括所見 282
2 第6回総括所見に至るまでの経過とその内容 283
3 第6回総括所見の意義 287
第4 原判決の自由権規約18条の解釈・適用の誤り 289
1 自由権規約18条の解釈の誤り 289
2 第6回総括所見の持つ意味 291
3 原判決の自由権規約18条の適用の誤り 292
第5 児童権利条約違反 301
1 原判決の内容とその問題点 301
2 控訴人らは,児童(子ども)の権利に関する条約違反の主張ができること 302
3 児童権利条約で保障された具体的権利の内容 304
4 10・23通達とそれに基づく卒業式等の実施が児童権利条約違反となること 309

第8章 本件各処分は裁量権の逸脱・濫用にあたる 312
第1 はじめに 312
第2 2012年1月16日最高裁判決は戒告処分の無条件容認ではない 312
第3 戒告処分が取り消されない限り,問題の解決は図られない 315
1 思想・信条,教職員としての職責意識を捨てない限り起立はできない 315
2 都教委は,教育現場で校長が教職員の思想・信条に配慮することを認めない 318
3 不起立による実害はない 320
4 懲戒処分を科すことにより発生する教育現場への弊害 321
5 まとめ 328
第4 本件の各戒告処分は取り消されなければならない 328
1 はじめに 328
2 本件職務命令は不当な動機・目的でなされたものであり違法である 328
3 戒告処分の裁量権の逸脱濫用を認めなかった原判決の誤り 333
4 都教委自身も認める戒告処分に付随する様々な不利益 349
5 標準的な処分量定との比較 364
6 国旗国歌をめぐる全国の懲戒処分の状況と東京都の突出 365
第5 結論 367

第9章 国賠法1条1項に基づく慰謝料等請求が認められるべきこと 368
第1 本件各懲戒処分に行った都教委には国賠法上の過失が認められること 368
1 原判決の判示 368
2 本件通達及び職務命令による起立斉唱の義務付けは違憲・違法であること 369
3 懲戒処分を行ったことにつき都教委に国賠法上の過失が認められること 370
第2 控訴人らに損害が生じていること 383
1 原判決の判示 383
2 処分の取消によっても慰謝されない精神的苦痛が残されること 384
3 懲戒処分による経済的不利益 389
4 結論 391   (付 別表)
(2017/12/18)

全国の消費者に、反省なきDHCへの制裁を呼びかける ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第115弾

今回の「ニュース女子」問題でのBPO決定にDHCがどう関与しているか。確認しておきたい。

☆DHCの子会社に、「DHCテレビジョン」という番組制作会社がある。旧商号は、「DHCシアター」。DHCのオーナー吉田嘉明が代表取締役会長となっている。
社歴の概要は、以下のとおり。
株式会社DHCテレビジョン/ DHC Television Co.,Ltd.
1995年11月22日 株式会社シアター・テレビジョン設立
2015年1月1日 株式会社DHCシアターに社名変更
2017年4月1日 株式会社DHCテレビジョンに社名変更
代表取締役会長 : 吉田嘉明

☆「東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)」は、2017年1月2日に沖縄の基地反対運動について特集した番組「ニュース女子」を放送した。これは「DHCテレビジョン」(当時は、「DHCシアター」)の持ち込み番組で、スポンサーはDHCであった。

☆この番組に放送倫理上の問題があるとして、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が2017年2月に調査を開始し、同年12月14日に下記の意見書公表に至った。
なお、BPOの放送人権委員会には辛淑玉氏が同番組によって人権を侵害されたとして救済の申立をし審理中だが、まだ結論に至ってない。

☆東京メトロポリタンテレビジョン『ニュース女子』沖縄基地問題の特集に関する意見

2017年12月14日 放送局:東京メトロポリタンテレビジョン

放送倫理検証委員会は、「東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)『ニュース女子』が2017年1月2日に放送した沖縄基地問題の特集を審議してきたが、このたび委員会決定第27号として意見書をまとめ公表した。
当該番組はTOKYO MXが制作に関与していない“持ち込み番組”のため、放送責任のあるTOKYO MXが番組を適正に考査したかどうかを中心に審議した。

委員会は、
(1)抗議活動を行う側に対する取材の欠如を問題としなかった、
(2)「救急車を止めた」との放送内容の裏付けを制作会社に確認しなかった、
(3)「日当」という表現の裏付けの確認をしなかった、
(4)「基地の外の」とのスーパーを放置した、
(5)侮蔑的表現のチェックを怠った、
(6)完パケでの考査を行わなかった、
の6点を挙げ、TOKYO MXの考査が適正に行われたとは言えないと指摘した。そして、複数の放送倫理上の問題が含まれた番組を、適正な考査を行うことなく放送した点において、TOKYO MXには重大な放送倫理違反があったと判断した。

☆これに対して、TOKYO MXは、次の反省のコメントを発表している。

BPO放送倫理検証委員会決定について
1. 本日、BPO放送倫理検証委員会より、番組「ニュース女子」沖縄基地問題の特集に関し、審議の結果、委員会の判断として、以下の委員会決定が通知されました。
【BPO放送倫理検証委員会 決定内容(概要)】
本件放送には複数の放送倫理上の問題が含まれており、そのような番組を適正な考査を行うことなく放送した点において、TOKYO MXには重大な放送倫理違反があったと委員会は判断する。
2. 上記、BPO放送倫理検証委員会決定に対する当社のコメントは以下の通りです。
本日、BPO放送倫理検証委員会より、当社が本年1月2日に放送した情報バラエティ番組「ニュース女子」沖縄基地問題の特集について、審議の結果、重大な放送倫理違反があったとの意見を受けました。
当社は、本件に関し、審議が開始されて以降、社内の考査体制の見直しを含め、改善に着手しております。改めて、今回の意見を真摯に受け止め、全社を挙げて再発防止に努めてまいります。

☆ところが、DHCテレビジョンには、反省の色がまったく見られない。

朝日の報道では、
「DHCテレビジョン(旧・DHCシアター)」は14日、朝日新聞の取材に対し、「1月に出した見解と相違ございません」と回答した。
1月の見解では「(日当について)断定するものではなく、疑問として投げかけており、表現上問題があったとは考えておりません」「(基地反対派の取材をしないのは不公平との批判について)言い分を聞く必要はないと考えます」「今後も誹謗(ひぼう)中傷に屈すること無く、日本の自由な言論空間を守るため、良質な番組を製作して参ります」などとしていた。

毎日の報道では
DHCテレビジョンは以前から、公式サイトで「数々の犯罪や不法行為を行っている集団を内包し、容認している基地反対派の言い分を(取材で)聞く必要はないと考える」「今後も誹謗(ひぼう)中傷に屈すること無く、日本の自由な言論空間を守るため、良質な番組を製作していく」などの見解を公表。同社は14日の取材に「見解に変わりはない」と答えた。

☆ 最大取引先のDHCに疑義を唱えにくい環境
毎日新聞12月15日朝刊は、東京MXの本件不祥事の原因について、次のとおりの指摘をしている。

沖縄県の米軍基地反対運動を取り上げたバラエティー・情報番組「ニュース女子」に「誤解や偏見をあおる」などの批判が出ている問題で、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会(委員長・川端和治弁護士)が14日公表した、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)への意見書。BPO検証委の意見書によると、放送前に番組をチェックしたMXの考査担当者は、抗議活動をする側への取材がないことに疑問を全く感じず、内容をインターネットなどで確認しただけ。「反対派の連中」など、からかう表現にも意見をつけなかった。確認したのは制作中の段階のみで、完成品は見なかったという。

MXは検証委が審議入りを決めた2月、番組の「事実関係において捏造、虚偽があったとは認められない」とする見解を発表。検証委の一部委員からは「放送の自律の放棄じゃないか」との声まで上がったという。自社の放送番組審議会の要請を受ける形で、沖縄の基地問題の「報道特別番組」を制作、放送したが、今回の問題について検証する番組を「制作する予定はない」としている。

「ニュース女子」はスポンサーによる持ち込み番組で、しかもDHCはMXの売上額の11.5%(2016年度の有価証券報告書)を占める最大の取引先だ。関係者は「DHCに疑義を唱えにくい環境があるのでは」と指摘する。

民放テレビ局の幹部は「公共の電波を預かる放送責任を自覚してほしい」と語気を強める。7月に「考査部」を設置し、体制強化に努めているというMXだが、今後の再発防止策について、視聴者が納得できる説明をする責務があるはずだ。

☆MXのDHCからの広告収入額と全収入額に占める割合と順位の推移は、以下のとおり。

2009年.3月決算 1,458(百万円)18.4% 1位 なし
2010年3 月決算 1,044(百万円)13.9% 1位 なし
2011年3月決算  824(百万円) 11.0% 2位 1位は東京都(11.4%)
2012年3 月決算 1,803(百万円)19.2% 1位 なし
2013年3月決算 2,636(百万円)21.8% 1位 なし
2014年3月決算 1,592(百万円)12.5% 1位 なし
2015年3 月決算 3,303(百万円)21.0% 1位 なし
2016年3 月決算 2,359(百万円)14.3% 1位 なし

☆12月16日に朝日と東京新聞が、17日には毎日が社説で取り上げた。いずれも、きちんとした内容になっている。読み易く、分かりやすくもある。

☆問題放送を繰り返させないために。
*なによりも、DHCへの批判が必要だ。MXテレビは、曲がりなりにも反省の姿勢を示している。「今回の意見を真摯に受け止め、全社を挙げて再発防止に努めてまいります。」と言っている。しかし、DHCにもDHCテレビにも、反省の色はない。

MXテレビが反省しても、反省しないDHCの持ち込み番組を切ることができるか。大スポンサーの金の力が絡んでいるだけに、容易なことではない。これは、世論の風向き次第だ。

ところで、DHCは、脈絡もなく反日批判、在日批判を始める不思議な会社。
同社の公式ホームページに、「会長メッセージ」が2通掲載されている。下記のURLを開いて、ぜひ多くの人にお読みいただきたい。私(澤藤)も、「反日の徒」とされている模様である。また、恥ずかしげもなく民族差別を公にしている。DHC・吉田嘉明の人格をよく表している。
https://top.dhc.co.jp/company/image/cp/message1.pdf
https://top.dhc.co.jp/company/image/cp/message2.pdf
以下は、その一部である。

本物、偽物、似非ものを語るとき在日の問題は避けて通れません。この場合の在日は広義の意味の在日です。いわゆる三、四代前までに先祖が日本にやってきた帰化人のことです。
そういう意味では、いま日本に驚くほどの数の在日が住んでいます。同じ在日でも日本人になりきって日本のために頑張っている人は何の問題もありません。立派な人たちです。問題なのは日本人として帰化しているのに日本の悪口ばっかり言っていたり、徒党を組んで在日集団を作ろうとしている輩です。いわゆる、似非日本人、なんちやって日本人です。政界(特に民主党)、マスコミ(特に朝日新聞、NHK、TBS)、法曹界(裁判官、弁護士、特に東大出身)、官僚(ほとんど東大出身)、芸能界、スポーツ界には特に多いようです。芸能界やスポーツ界は在日だらけになっていてもさして問題ではありません。
影響力はほとんどないからです。問題は政界、官僚、マスコミ、法曹界です。国民の生活に深刻な影響を与えます。私どもの会社も大企業のー員として多岐にわたる活動から法廷闘争になるときが多々ありますが、裁判官が在日、被告側も在日の時は、提訴したこちら側が100%の敗訴になります。裁判を始める前から結果がわかっているのです。
似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう。

*DHC批判の手段としては、消費者がDHC商品を買い控えることが一番だ。
消費者運動は、消費生活における商品選択行動を通じて、よりよい社会を作ろうとする。単に、安くて品質性能のよい商品を求めるだけでなく、もっと広く民主主義的な選択を実践する。武器製造業者への牽制、環境の保護、ブラック企業の排除、歴史修正主義加担企業への制裁など…。
DHCがスポンサーとなり、その子会社が作った沖縄差別・民族差別丸出しのこんな放送を許さないためには、制裁のためにDHCの商品を買わなければ良いのだ。化粧品もサプリも、代替商品はいくらでもある。スラップ常習企業でもあるDHCへの制裁を、全国の消費者に呼びかけたい。
(2017年12月17日)

学術会議の「元号廃止 西暦採用について(申入)」決議の紹介

なんとなく、ものを言いにくい雰囲気ができつつある。安保条約批判、自衛隊批判、天皇制批判が典型3テーマ。現天皇の生前退位希望による法改正批判などは、その最たるものだろう。批判の言論の萎縮は、ものを言いにくい雰囲気醸成の悪循環を招くことになる。いうべきことを自己抑制してはならないと思う。

特に気になるのは、共闘に支障が生じるからと共闘相手の主張に媚びた言論萎縮、世論に支持を得られないからと無用に世論に諂った形での言論萎縮。堂々と自説を述べるべきだろう。でないと、言論の重心がいよいよ右に傾いていくことになる。

これから、2019年の天皇代わりまで、天皇制の存続や代替わり儀式のあり方、元号、祝日、そして政教分離原則についての議論が続くことになる。一人ひとりが、主権者として自覚をもって発言しなければならない。天皇やその親族に畏れいってはならないのだ。一言の遠慮することは、一歩の後退を意味する。一歩の後退が、その分だけ自分を発言の抑制に追い込むことになる。

まずは繰りかえし、元号問題を語りたい。「日の丸・君が代」・祝日・叙勲・元号が、天皇制護持の小道具4点セットである。中でも、国民生活に最も浸透しているのが、元号であろう。一世一元となって以来、元号は天皇の代替わりと連動してきた。元号こそは、天皇制を国民に刷り込む手段として、最有効な働きを果たしている。
その元号について、日本学術会議が、「元号廃止 西暦採用について(申入)」の総会決議を採択したことがある。1950年5月6日付。衆参両院議長と内閣総理大臣に当てたもの。新憲法制定3年後のことである。

これが、民主主義国家として再生した、戦後日本の知性のあり方というべきだろう。その後に元号法の成立(1979年6月)をみて、その限りでの事情の変化はあるが、そのほかはまったく変わらない。

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衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣

日本学術会議会長 亀山直人

元号廃止 西暦採用について(申入)

本会議は,4月26日第6回総会において左記の決議をいたしました。
右お知らせいたします。

 日本学術会議は,学術上の立場から,元号を廃止し,西暦を採用することを適当と認め,これを決議する。

理 由

1. 科学と文化の立場から見て,元号は不合理であり,西暦を採用することが適当である。
年を算える方法は,もつとも簡単であり,明瞭であり,かつ世界共通であることが最善である。
これらの点で,西暦はもつとも優れているといえる。それは何年前または何年後ということが一目してわかる上に,現在世界の文明国のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは、たんに日本だけにすぎない。われわれば,元号を用いるために,日本の歴史上の事実でも,今から何年前であるかを容易に知ることができず,世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつ頃に当るのかをほとんど知ることができない。しかも元号はなんらの科学的意味がなく,天文,気象などは外国との連絡が緊密で,世界的な暦によらなくてはならない。したがって,能率の上からいっても,文化の交流の上からいっても,速かに西暦を採用することか適当である。

2. 法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。
元号は,いままで皇室典範において規定され,法律上の根拠をもっていたが,終戦後における皇室典範の改正によって,右の規定が削除されたから,現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば,「昭和」の元号は自然に消滅し,その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは,全く事実上の堕性によるもので,法律上では理由のないことである。

3.新しい民主国家立場からいっても元号は適当といえない。
元号は天皇主権の1つのあらわれであり,天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し,統治者であってはじめて,天皇とともに元号を設け,天皇のかわるごとに元号を改めるととは意味かあった。新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない。

4.あるいは,西暦はキリスト教と関係があるとか,西暦に改めると今までの年がわからなくなるという反対論があるが,これはいずれも十分な理由のないものである。
西暦は起源においては,キリスト教と関係かあったにしても,現在では,これと関係なく用いられている。ソヴイエトや中国などが西暦を採用していることによっても,それは明白であろう。西暦に改めるとしても,本年までは昭和の元号により、来年から西暦を使用することにすれば,あたかも本年末に改元があったと同じであって,今までの年にはかわりがないから,それがわからなくなるということはない。

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蛇足だが、第1項は極めて分かり易く、説得力がある。学術振興の立場を前提とするする限り、反論は困難だろう。

第2項は、元号法制定によって事情が変わった。このことは、元号法制定の意図や法制定ない場合の保守派の危機感をあぶり出しているともいえるだろう。

第3項は、「新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない」。この結論に私は大賛成だ。

第4項は、言わずもがなというところ。「アンチ西暦派」への反論だが、いま「アンチ西暦派」はほとんど絶滅している。今対決しているのは、「西暦派」対「西暦・元号併存派」なのだ。もっと正確に言えば、「元号廃止の是非」が問題となっている。

不便で不合理な元号使用の押しつけは、まっぴらご免だ。後期高齢者に近い年齢で、どうでもよいようなものだが、自分の年齢を計算することに元号では煩瑣で混乱を避けられない。

学術関係者だけでなく、ビジネスマンも同じ意見だろう。「西暦・元号の併存」によって、どれだけのビジネス効率の低下を招いていることか。私は、天皇制ナショナリズムよりも、学術会議的で資本主義的な科学的合理性に与する。
(2017年12月16日)

BPOが、「DHCシアター」のフェイク番組に「重大な放送倫理違反があった」と公表したタイミングで。 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第114弾

たまたま、BPOの放送倫理検証委員会が、「ニュース女子」の放送に、「重大な放送倫理違反があった」とする意見書を公表したタイミングで、DHCスラップ2次訴訟の法廷が開かれた。以下に本日の毎日朝刊の記事を引用しておく。

《「対象となったのは1月2日放送の「ニュース女子」。沖縄県の米軍ヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)建設に対する抗議活動を「過激派デモの武闘派集団」と表現したほか、抗議活動で救急車が止められたなどと伝え、放送後に「事実関係が誤っている」と批判が出ていた。検証委は2月に審議入りを決めた。

「ニュース女子」は、スポンサーの化粧品会社「DHC」が番組枠を買い取り、子会社の制作会社「DHCシアター」(現DHCテレビジョン)などが制作した番組を放送してもらう「持ち込み番組」。意見書では、検証委が沖縄で現地調査し、救急車の運行妨害などの放送内容に十分な裏付けがないと指摘。取材の有無の確認や侮蔑的表現の修正を求めるべきだったとした。

 意見書は、放送前の考査を「放送倫理を順守する上での“最後のとりで”」とし、「とりでは崩れた。修復を急がなければならない」と厳しく批判した。

 MXは「今回の意見を真摯(しんし)に受け止め、全社を挙げて再発防止に努める」とのコメントを出した。

 DHCテレビジョンは以前から、公式サイトで「数々の犯罪や不法行為を行っている集団を内包し、容認している基地反対派の言い分を(取材で)聞く必要はないと考える」「今後も誹謗(ひぼう)中傷に屈すること無く、日本の自由な言論空間を守るため、良質な番組を製作していく」などの見解を公表。同社は14日の取材に「見解に変わりはない」と答えた。》

このDHCの反社会的な姿勢には、国民的な糾弾が必要ではないか。このようなメディアの存在は、民主主義の土台を掘り崩しかねない。

 

本日の法廷での、光前弁護団長の反訴状の要旨陳述と、私の意見陳述は以下のとおり。この訴訟、十分に勝てそうな気がする。そして、閉廷後報告集会での木嶋弁護士の報告も、私たちにとって力強いものだった。

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平成29年(ワ)第30018号事件(本訴)

同年(ワ)第38149号事件(反訴)

反訴状の要旨

 東京地方裁判所民事1部 御中

   本訴被告・反訴原告 代理人弁護士 光 前 幸 一 他

第1 本訴訟の意義

本件は、政治資金規正法が国民に「不断の監視と批判」を求めている事項に関する言論を、裁判という手段で封じ込めることの是非を問うものです。おそらく、この裁判は、わが国において、一般市民の公共的言論に対する、経済的強者や権力者による裁判利用の限界、というテーマの司法判断において、エポックメーキングとなる筈です。

第2 請求原因

1 本件の概要

本件は、反訴被告らが、名誉毀損訴訟という手段で、公共事項に関する反訴原告の論評を抑圧しようとしたという事案です。すなわち、反訴被告吉田は、みんなの党の代表者であった渡辺喜美衆議院議員の政治姿勢を批判するため、週刊誌に、渡辺代議士に8億円を貸付けたがその一部が返済されていないという事実を公表したところ、反訴原告は、政治家へのこのような巨額貸付は、自己の利益のために政治をカネで買う行為であって許されないとの批判・論評を自己のブログに掲載しました。すると、反訴被告らは、反訴原告の批判・論評は名誉毀損であるとしてブログからの削除や総額2000万円の損害賠償を求め、反訴原告がこのような名誉毀損訴訟は「スラップ訴訟」として許されないと反論するや、さらに、この反論も名誉毀損だとして、賠償額を総額6000万円にまで増額したというものです。

2 本件における反訴被告らの責任原因

ア 勝訴の見込みへの熟慮を欠いた訴訟提起の禁止

憲法32条が保障する裁判を受ける権利とても、濫用はゆるされません。問題はいかなるときに濫用となるかですが、最高裁は、昭和63年1月23日の判決で、勝訴可能性についての熟慮を欠いた訴訟提起による敗訴を、裁判濫用の1つの指標としています。

イ 不当な目的での裁判利用の禁止

勝訴の可能性についての熟慮を欠いた訴訟提起は、勝訴以外の、他の目的での訴訟提起の意図を推認させます。そして、裁判の他目的利用は、その目的如何によっては、裁判濫用の典型的ケースとなります。

また、確認訴訟に即時確定の利益が求められているのと同様、名誉毀損訴訟の場合も、裁判まで起こして権利を回復するに足りるだけの紛争としての成熟性をもつものか、すなわち、事前交渉での解決の可能性を検討した上での提訴か否かが、裁判の目的を推し量る重要な要素となります。名誉毀損事件において通常行われる事前折衝を欠いた訴訟提起は、訴訟の目的が、権利の回復以外にあることを窺わせるものです。

ウ 裁判という手段による公正な論評の抑圧禁止

さらに、国民の主権利益に直結する公共性の強い言動に対する批判や論評を裁判で抑制しようする場合、論評の正当性(または違法性)をどちらの当事者に立証させるべきかという問題があります。民主主義社会における言論の自由の重要性を踏まえれば、公共性の高い事項の論評については、抑制しようとする側が、論評の違法性を立証できない限り、これを裁判では抑制できないという法理の存在を確認すべきです。

すなわち、民主主義の根幹をなす、高度に公共的な事項に関する公正な論評への裁判権の行使は、本来、抑制的でなければならず、これを無視した訴訟提起は、当該論評が違法であることを立証できない限り、「スラップ訴訟」として違法になると考えるべきです。

3 反訴被告らの違法行為、責任

ア 勝訴の見込みへの熟慮を欠いた訴訟提起

一般の読者が、反訴原告のブログを普通の注意力をもって読めば、これが、週刊誌に公表された渡辺代議士への8億円の貸付という行為の評価・論評、及び、反訴被告らの訴訟提起に関する評価・論評あると理解することは明らかです。このブログが、政治資金規正法の重要性と問題点を分かり易く解説し、政治家とカネについての監視と批判を怠ってはならないこと、この監視と批判を抑圧しようとする行為に屈してはならないことへの呼びかけを意図していることも容易に理解できるものです。このような意見表明が正当な論評となることは、わが国の判例法理においても既に確立しています。それにもかかわらず、反訴被告らは、勝訴についての十分な検討をしないまま、総額6000万円もの損害賠償請求訴訟を起こし、一審、控訴審、最高裁と敗け続けました。

イ 不当な目的での訴訟提起

反訴被告吉田が、週刊誌に渡辺代議士への資金貸付を公表するや、同被告の言動を批判する論者が多数現われ、反訴被告らは、反訴原告が知るだけでも、10件の名誉毀損訴訟をほぼ同時に提起しています。しかも、その提訴は、何の事前交渉もないまま、週刊誌が発売されてから、ほぼ3週間程度の期間内に実行されています。そして、その殆どが、敗訴判決と仄聞しています。これらの事実は、反訴被告らが勝訴の可能性を熟慮しないまま、勝訴以外の他の目的、すなわち、自己の言動を批判する言論は一切許さないという不当な目的で訴訟提起したことを十分に裏付けるものです。

反訴被告吉田が、自社のウェブに掲載した平成28年2月21日付「スラップ訴訟云々に関して」と題する記事(乙9の2)には、次の記載があります。

渡辺騒動の後、澤藤被告を始め数十名の反日の徒により、小生および会社に対する事実無根の誹謗中傷をインターネットに書き散らかされました。当社の顧問弁護士等とともに、どのケースなら確実に勝訴の見込みがあるかを慎重に熟慮、検討した上で、特に悪辣な十件ほどを選んで提訴したものです。専門の顧問弁護士が確実に勝てると思って行ったことです。やみくもに誰も彼もと提訴したわけではありません」。

この記事は、反訴原告に対する訴訟が、東京高裁でも敗訴となった直後に公表されたものです。この記事を読むと、反訴被告吉田も、裁判の濫用の何たるかを十分に認識していることを窺わせますが、しかし、その弁解は、弁護士に責任転嫁した、およそ、信じがたいものです。

反訴被告吉田は、別の記事(乙9の1)で、「私どもの会社も大企業の一員として多岐にわたる活動から法廷闘争となるときがありますが、裁判官が在日、被告側も在日のときはこちら側が100%の敗訴になります」と陳弁しているので、10件の関連訴訟の多数の敗訴という結果についても、同様な弁解を繰り返すのかもしれませんが、まともに取り上げる人はいないでしょう。

ウ 公正な論評の抑圧

反訴被告らの訴訟提起は、国民の主権利益に直結する事項に関する反訴原告の公益目的の論評(それは、政治資金規正法が国民に求めているものでもある)を、裁判という手段により抑制しようとしたものですが、反訴被告は、反訴原告の論評が違法であることを立証できていません。反訴被告らの訴訟提起は、反訴原告の公共性の極めて高い公正な論評を侵害、抑圧するスラップ訴訟として違法なものです。

4 反訴原告の損害

反訴被告らの訴訟提起、その後の請求額増額による応訴の負担は、経済的にも、精神的にも甚大でした。弁護士である反訴原告は、反訴被告の言論抑圧に屈してはならないという職業的使命から、反訴被告らの訴訟提起の問題性を、ブログに公表しましたが、反訴被告らは、これに対しても、請求額を6000万円にまで増加して、ブログの差止めを求めてきました。このような反訴被告らの裁判権行使の有りさまは、反訴原告のブログ(乙7)にあるとおり、石流れて木の葉が沈むに等しいもので、これによる反訴原告の損害は、家族ともども限界を超えるものでした。本裁判では、その損害の一部である金660万円の賠償を請求しています。

以上

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反訴原告本人として、澤藤から意見を陳述いたします。

3年前の5月。思いがけなくも、私自身を被告とする典型的なスラップ訴訟の訴状送達を受けました。原告はDHC・吉田嘉明。請求金額は2000万円。屈辱的な謝罪文の要求さえ付されていました。この上なく不愉快極まる体験。こんな訴訟を提起する人物か存在することにも、こんな訴訟を受任する弁護士が存在することにも、腹立たしい思いを禁じえません。

この請求額は、3か月後の同年8月に6000万円に跳ね上がりました。経過から見て明らかに、DHC・吉田は、高額な損害賠償訴訟の提起という手段をもって、私に「黙れ」「口を慎め」と恫喝したのです。

私の怒りの半ばは私憤です。私自身の憲法上の権利を侵害し言論による批判を封じようというDHC・吉田に対する個人としての怒り。しかし、半ばは公憤でもありました。訴訟に精通している弁護士の私でさえ、自分自身が被告となれば戸惑わざるを得ません。応訴には、たいへんな負担がかかることになります。

訴訟とは無縁に生活している一般市民が、私のようなスラップの提訴を受けた場合には、いかばかりの打撃を受けることになるか。このような負担を回避しようという心理が、言論の萎縮を招くことになります。結局は強者が提起するスラップが効果を発揮することで、この社会の不正を糾弾する言論が衰微することにならざるを得ません。私は、「けっしてスラップに成功体験をさせてはならない」と決意しました。

公憤としての私の怒りや不快の根拠は、私が考える訴訟制度や弁護士のあるべき姿とはおよそかけ離れた訴訟が提起されたことにあります。言うまでもなく、訴訟本来の使命は、権利侵害の回復にあります。法がなければ弱肉強食の社会、法がなければ強者が弱者の権利を蹂躙します。法がなければ、権利を侵害された弱者は泣き寝入りを強いられるばかり。法あればこそ、弱者も強者と対等の秩序が形成され、弱者の権利侵害を救済することが可能となります。その権利侵害を回復する手続として民事訴訟制度があり、裁判所があって法曹の役割があるはずではありませんか。

DHC・吉田の私に対する提訴は、この訴訟本来の姿とは、まったくかけ離れたものと言うほかはありません。権利救済のための提訴ではなく、市民の言論を妨害するための民事訴訟の提起。これこそがスラップなのです。

侵害された権利の回復を目的とせず、別の目的を以てする提訴は、必ず社会的経済的な強者によって起こされます。彼らには、訴訟追行に要する費用負担というハードルがないからです。勝訴の見通しがなくとも、提訴自体によって威嚇効果を見込めるのなら、費用を度外視した訴訟提起が可能なのです。これが濫訴を可能とする背景事情です。

DHC・吉田は私にスラップ訴訟を提起し、最高裁まで争って敗訴確定となりました。しかし、敗訴しただけでなんの制裁も受けていません。もともと勝訴の見込みのない訴訟を提起して敗訴したというだけのこと。提訴の目的であった、批判の言論を封じ込めようとする狙いに関しては、敗訴になっても達成していると言わねばなりません。いわば、やり得になっているのです。

一方私は、スラップ訴訟による攻撃を訴訟手続においては防御しました。しかし、応訴にかけた費用も手間暇も回復できていません。「DHC・吉田を批判すると、スラップをかけられる」という社会的な言論萎縮効果も払拭されていません。

このような不公正の事態を放置したのでは、経済的強者によるスラップは横行し、言論は萎縮することにならざるを得ません。本件の反訴請求は、そのような民事訴訟本来の制度の趣旨を逸脱したスラップを許容するのかどうかの分水嶺となる訴訟であることをご認識いただきたいのです。

裁判官の皆様にお願いします。まずは、スラップ訴訟においてDHC・吉田が違法と主張した私の5本のブログをよくお読みいただきたいのです。ぜひとも、細切れにせず全体をお読みください。その上で、この内容の言論を、「名誉毀損訴訟を提起されてもやむをえないものと考えるのか」。それとも、「こんな程度の言論を提訴して損害賠償請求の対象とすべきではない」と考えるのか、ご自分の憲法感覚に問うていただきたいのです。

通常の判断能力の持ち主であれば、DHC・吉田のスラップ訴訟の提起に、勝訴の見込みが皆無であることは、よく分かっていたはずなのです。それでも、あえて高額訴訟を提起したのは、自分に対する批判の言論を封じ込めようとする狙いをもってしたということ以外にはあり得ません。しかも、私が恫喝に屈せず、提訴自体批判し始めたら、4000万円の請求拡張です。ぜひとも、4000万円の請求拡張の根拠とされた2本のブログを吟味願います。自分に対しての批判を嫌っての請求の拡張以外にあり得ないことがよくお分かりいただけるものと思います。

そして、お考えいただきたいのです。もし仮に、本件スラップの提訴が違法ではないとされるとしたら、吉田嘉明を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が濫発される事態を招くことになるでしょう。社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行するそのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることにならざるをえません。この社会の言論は衰微し、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。

憲法理念に則った訴訟の進行と判決とを期待いたします。

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閉廷後の報告集会は、東京弁護士会の会議室で行われた。木島日出夫弁護士からの報告レジメを掲載する。

当日の木嶋弁護士報告レジメは、以下のとおり。

長野県伊那市細ヶ谷地区・太陽光発電スラップ訴訟報告メモ
2017.12.15 弁護士 木嶋日出夫

1 スラップ訴訟(恫喝訴訟)の提起から判決まで
①2014年2月25日 原告株式会社片桐建設が、被告土生田勝正に対し、6000万円の損害賠償請求訴訟を長野地裁伊那支部に提起。
提訴理由は、被告が科学的根拠のないデマで原告会社の名誉を毀損し、A地区に太陽光発電設備設置を断念させたというもの。その損害は2億4969万円と主張。
②2014年8月4日 被告は、原告会社に対し200万円の損害賠償請求反訴を提起。本訴提起が、被告に対する不法行為(スラップ訴訟)であると主張。要件が狭すぎることは承知の上で、昭和63年1月26日付最高裁判決の論理に拠った。
③2015年10月28日 判決。本訴請求を棄却。反訴請求のうち損害賠償50万円を容認。(判例時報平成28年6月11日2291号)原・被告とも控訴せず、判決は確定。

2 判決の要旨(反訴請求について)
①住民説明会において、住民が科学的根拠なくその危惧する影響や危険性について意見を述べ又はこれに基づく質問をすることは一般的なことであり、通常は、このことを問題視することはない。
②このような住民の反対運動に不当性を見出すことはない。
③少なくとも、通常人であれば、被告の言動を違法ということができないことを容易に知り得た。
④A区画への設置の取り止めは、住民との合意を目指す中で原告が自ら見直した部分であったにもかかわらず、これを被告の行為により被った損害として計上することは不合理であり、これを基にして一個人に対して多額の請求をしていることに鑑みると、原告において、真に被害回復を図る目的をもって訴えを提起したものとも考えがたい。
⑤本件訴えの提起は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く。

3 スラップ訴訟を抑止するために-本件判決の意義と問題点-
①最高裁判決の論理にとどまっていては、スラップ訴訟を抑止することは困難
判例時報の評釈でも指摘されているが「もっとも、その発言が、誹謗中傷など不適切な内容であったり、平穏でない態様でされた場合などには違法性を帯びるとの規範を示した」とされていることは、見逃せない問題である。
どこまでが違法性を帯び、どこまでが違法性がないといえるのか、本判決は、なんらの具体的基準を示していない。
本件事案は、その必要性がないほど、被告の行為や発言内容に違法性が認められなかったのであるが、この判決の射程は必ずしも明らかではない。
②反訴請求で認められた慰謝料50万円では、抑止力としてはきわめて不十分
反訴請求で認容される損害額は、経済力を持った企業や行政に対し、スラップ訴訟の提起を抑止させるほどの金額にならない。本件でも、原告会社は控訴せず、すぐに「損害」全額の支払いをしてきた。
本件判決は、地元のマスコミが報道し、建設業界の業界誌でも紹介されるなど、社会的に一定の広がりを見せた。地元伊那市において、太陽光発電設備についてガイドラインを施行し、緩やかな「規制」を始めた。しかし被告会社に真摯な反省は見られない。
③スラップ訴訟の提起を抑止するには、新しい法的枠組みが必要(2016年1月消費者法ニュース106号)
以上

元号命名権という発想

私にも、少数ながら顧問先というものがある。本日、その忘年会の席で元号問題が話題となった。元号の不便さを語り合ったあと、「年号の命名権はどうだろう」と奇想天外な発想を聞かされた。

提案は、値段は1兆円程度で、期間は4~5年ということだった。4~5年で年号を変えるのは短すぎるかも知れない。ならば、2兆円で期間10年ほどでは。買おうと名乗り出る、大金持ちや企業があるのではないか。複数希望者があれば、入札すればよい。国庫が潤うことになる。福祉予算が充実する。

その年号使用を民間に強制するわけにはいかないが、官庁や公的機関には義務づけることができる。なによりもNHKが律儀に使用するだろう。もしかしたら産経も。

もし、トヨタが名乗り出れば、「平成31年」が終わると「トヨタ元年」が始まることになる。トランプが金を出せば、「トランプ2年」。アラブの王族の場合はどうなるだろうか。

「明治以来は、一世一元。元号は天皇の代替わりと結びついている。天皇はどうする?」と投げると、「民主主義の世に相応しく、天皇も選挙で選べばよい」。なるほど。それなら、元号の存続期間と公選天皇の任期を一致させた方が分かり易いかも知れない。むしろ、元号の命名権と皇位をセットで売りに出してはどうだろう。資本主義時代の天皇と元号のあり方に相応しいではないか。

皆したたかだ。天皇の権威に、おそれいる空気はない。

ところで、元号は不便だ。西暦との二重表記は面倒きわまる。いずれ、西暦が元号を駆逐する。これを危機と感じる保守派が、元号法を作った。絶滅に瀕する前に、虚弱な元号を滅亡から救おうという感覚。

元号法が成立したのは1979年6月6日。当時は大騒ぎの対決法案だった。
同年4月20日が第87通常国会衆議院本会議での採決の日。この日、社会党・共産党が「元号法」に反対の議会演説をしている。気合いがはいっているし、格調も高い。そのさわりをご紹介しておこう。

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[山花貞夫] 日本社会党を代表して、ただいま議題となりました元号法案について反対の討論を行うものであります。
 元号法制化は、天皇を元首化、神格化しようとする思想的潮流に法的な保障を与えようとするものであり、主権在民を掲げる現憲法に明白に違反するものであります。わが党は、これを断じて認めることができません。

政府は、元号法制化の根拠を象徴天皇制に求めました。しかしながら、現憲法における象徴天皇制は、明治憲法におげる天皇主権と、統治権の総攬者たる天皇を中心として構成されている国家の統治機構の全体を否定したところから誕生したものであります。天皇支配の国家体制を象徴した一世一元の元号制は、国民主権の原理を掲げる現憲法下で認められる余地はありません。

政府は、この元号法案の今国会における成立を至上命令としてきました。委員会における審議も日程の消化だけが推し進められ、議論が尽くされないまま採決に持ち込まれたのであります。国民の間で意見が大きく分かれている元号法制化問題が、一政党内の派閥の調整に利用されてはなりません。また、多党化時代における政党連携の手段とされてもならないのであります。

国民の多数は、元号法制化に反対しているのであります。
最近のマスコミの調査によれば、政府の主張とは全く逆の世論が明らかにされています。各新聞社の調査によると、元号法制化賛成はおよそ20%前後にすぎないのであります。この世論の動向に照らせば、全国の自治体における法制化決議の正体もまた明らかであると言わなければなりません。(拍手)
多数の力による世論の捏造は、民主主義の危機をもたらすものであります。

次に、元号法制化賛成論は、元号が1300年以上も続いた国民的文化遺産であることを強調いたしました。時の権力者が、人民と領土を支配するとともに、その時代をも支配する象徴としてみずから権力的に決定した元号の制度をもって文化的伝統とするがごとき議論は、文化の何たるかを知らない議論であると言うべきであります。(拍手)仮にこれを文化的伝統と言うならば、それは権力者のための文化であり、国民とは無縁であります。文化は、国民の生活の中から生まれるものであり、国民の日常生活の中から創造されるものであります。文化を法律によってつくり出そうとする議論のごときは笑止と言わざるを得ません。

改元は、国民生活に大きな影響、混乱、損害を与えるものであります。この元号問題についての国民的合意が形成されていないのはもちろん、これに関する議論もいまだ未成熟な中で、未来に生きる子供や孫たちに法的な拘束力をもって元号を押しつげることは許されません。それは、歴史に禍根を残すものであると言わざるを得ないのであります。〔拍手〕

しかも、元号法制化は、思想、表現の自由など、国民の基本的人権を侵すものであります。政府は、この法律を国民には強制しないと強調いたしました。しかしながら、国会答弁においては、公務員にそれを強制することを通じて、官公庁の窓口では事実上国民に強制することが明らかになったのであります。

かつて、内閣は、原田実参議院議員の質問主意書に対し、こう言っております。もし元号の使用を国民に強制しようとするのであれば法律を必要とすることは当然であるが、そうでなければ必ずしも法律によることを必要としないものと考えられる、こう答えていたのであります。すなわち、元号の法制化は強制を伴うものであることを政府みずから認めていたのであります。

また、政府は、元号法制化はイデオロギーとは関係ないと繰り返し述べてきましたけれども、事の真相を押し隠そうとするものであると言わざるを得ません。元号法制化のねらいは、国民思想を天皇制のもとに統合しようとするところにあります。それは、君が代、日の丸、靖国、教育勅語、軍人勅諭などと深いかかわりを持って天皇制賛美の思想的渦流の中心にあるものなのであります。天皇主権の復活を目指す一部勢力の要求にこたえたものであります。

国民は、過日の防衛大学校の卒業式において、元号法制化実現国民会議議長石田和外元最高裁判所長官が軍人勅諭を賛美した事件…に不安を感じています。

わが党は、以上の立場から、大平内閣に対し元号法案の撤回を強く要求し、かかる反動的、反憲法的な法案を強行せんとする大平内閲の政治姿勢を強く糾弾するものであります。(拍手)

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[柴田睦夫]私は、日本共産党・革新共同を代表して、元号法案に断固反対するものであります。(拍手)

反対理由のまず第一は、本法案が、現憲法の主権在民原則に逆行するということであります。元号制度が中国でつくり出され、その後、わが国を含む東アジア諸国を中心にして使用された君主体制に固有の政治制度であり、明治になって一世一元が制度化されて以降のわが国の元号制度、が、天皇主権、天皇の統治権と不可分の政治制度であることは、政府みずからが委員会審議で認めたところであります。

戦後、主権在民の現憲法施行と同時に、一世一元の元号制度の法的根拠が失われ、元号制度がなくなったのはきわめて当然であります。元号制度が現憲法の主権在民原則に逆行することは、新しい皇室典範から元号制定の項が削除されたことや、1946年の元号法制化の企てが、準備中の現憲法の精神に逆行するものとして断念された経過などによっても全く明白であります。

天皇の在位期間に応じて年号を変える一世一元の元号を制度として復活させ、恒久的に固定化することは、現憲法の主権在民原則に逆行する、まさに時代錯誤の非文化的愚行と断ぜざるを得ないのであります。(拍手)

第二は、本法案が、天皇元首化、憲法改悪を目指す法制化推進派の反動的な企てと不可分であり、軍事ファシズムの路線に立った重大な政治・思想反動の一環をなすものであるということであります。

本法案は、まさに、戦時立法、君が代国歌化、教育勅語や軍人勅諭の礼賛、靖国神社問題などとともに、対米従属下の軍国主義復活の路線に立った重大な政治・思想反動の一環をなすものであり、断じて認めることができないのであります。(拍手)

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便利・不便もさることながら、元号問題は天皇制問題にほかならない。元号の存続は天皇制の存続でもあり、象徴天皇制の変質の問題として捉えられていたのだ。
あらためて、元号使用を社会から廃絶たいものと思う。
(2017年12月14日)

 

 

 

 

 

多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重されるべき社会でなくてはならない。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。

以下は、私の担当部分(憲法20条(信教の自由)違反)の原審での主張の一部の要約である。あらためて読み直して、紹介するに値するものと思う。原判決は、基本的にこれを反駁する説得力をもたない。
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☆公務員にも教員にも信教の自由が保障されなければならない
原告らは、訴状請求原因において、違憲判断手法における客観的アプローチと主観的アプローチを意識的に区分したうえ、主観的アプローチの典型として、原告らの信教の自由侵害(憲法20条1項・2項違反)を主張した。

その主張の根底にあるものは、個人の尊厳が尊重されるべきことであり、そのための個人の精神生活における自由が保障されなければならないとするものである。国民のすべてに、それぞれの生き方を自分で選び取る自由が保障され、選び取った生き方に従って生きることを最大限可能とすることの保障の必要でもある。そのため、公権力は、国民の精神生活の分野に立ち入り、これを侵害してはならない。
そのような、保障されるべき精神生活の典型分野として信仰がある。人格の中核をなすものとしての信仰の選択が保障されなければならず、いかなる形においても、公権力がこれを侵害することは許されない。

社会には多様な宗教が存在し、多くの人が信仰を自己の人格の基礎ないし中核として精神生活を送っている。多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重されるべきことが、社会の正常なありかたであり、憲法上の理念でもある。信仰を持つものが、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることがきわめて自然な社会のありかたであり、公務員にも、教員にも、当然に多様な信仰を持つ者が存在することが想定されている。公権力は、これを受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をすべきであり、これを侵害することは許されない。

ところが、このような原告の主張に対する被告(都教委)の反論に接して、公権力がかくも憲法理念に無理解であるばかりか、挑戦的ですらあることに一驚を禁じ得ない。
被告の主張は、公務員も国民の一員として信教の自由を持つことに理解なく、公務員に対しても可及的に信教の自由を保障しようという観点はない。信教の自由に抵触する虞のある職務命令を控えなければならないとする配慮は皆無である。むしろ、国家主義を受容し得ない信仰を持つ者は公務員である資格がない、教員として不適格である、と言っているに等しい。

信仰を持つ者が信仰にしたがいつつ公務員や教員として社会生活を送ることができるのか、それとも自分の信仰を殺して公権力に迎合せざるを得ないのか。400年前に踏み絵の前に立たされたキリスト教徒と同じ深刻な問題が、信仰を持つ教員に突きつけられている。

☆原告らの信仰とその侵害
原告らの内、すくなとも2名は、自分が信仰を持つ者であり、信仰ゆえに起立・斉唱をすることができないことを表明している。
ことの性質上、以下のとおり、事情はきわめて個別性が高い。

その内の一人は、自分にとって、信仰者(クリスチャン)であることの信念は、あるべき教員としての理念と一致し、教育活動のあり方の指針をなすものと認識している。信仰者としての信念とは、「隣人愛」「少数者・弱者への愛」「神の愛」ということである。その信念が、教育者として、生徒一人ひとりを大切にすること、とりわけ少数者や弱者を尊重する姿勢で生徒と接し、人格的な信頼関係を形成すべきこと、愛情溢れる教育活動をなすべきことの基底をなしている、との自覚である。

同原告にとっては、現在の教育行政は、到底クリスチャンとしても教員としても受け容れがたい。「日の丸・君が代」強制は、その顕著な具体例である。同原告にとっては、「日の丸」に向かって起立させ、一律に「君が代」を歌わせる行為は、国家神道と「神なる天皇」への賛美を強制するものであり、服従を強いるものでもある。それは、クリスチャンにとって禁忌とされている偶像崇拝に通じる行為として従うことができない。しかも、「神の子イエス・キリストが身を呈して私達の罪を償って下さったことを思えば、例え処分されようとも、いかなる不利益を受けようとも、最高裁がどのように判断しようとも、自分の信仰に照らして、私は従えない、従ってはならない」という強固な信念なのである。

もうひとりの原告は、カトリック信者として、偶像崇拝を避けるために、神道の象徴である「日の丸」の前で「君が代」とともに起立することはできない、との信念を有している。この信念は、かつての戦争で、「日の丸」「君が代」が多くの人を死に至らしめた役割を演じたことからの、平和を希求する思いと一体をなすものとの認識である。

また、同原告は、信仰を捨てなかったために火あぶりの刑に処せられた聖人の名を洗礼名として持っている。にもかかわらず、たった一度だけ、卒業式前の予行の際に、精神の不調から起立してしまった経験がある。このとき、激しい自責の念に駆られ、通院を余儀なくされるほど精神的に傷ついている。

以上のとおり、真摯な信仰者にとっては、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、深刻な信仰への侵害であり、耐えがたい精神的苦痛をもたらすものである。憲法は公権力に対して、このような信仰に対する侵害を禁止し、信仰を持つ者の権利を保障している。

☆ 憲法20条2項違反
「憲法は、『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。』(20条1項前段)とし、また『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。』(同条2項)として、いわゆる狭義の信教の自由を保障する規定を設けている。

注目すべきは、同条2項が、判例上明確に狭義の信教の自由を保障する規定に、つまりは政教分離という制度的保障とは区別された、人権保障規定そのものとされていることである。
この規定は、同条1項前段の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」の一部ではあるが、戦前に神社参拝や宮城遙拝などの宗教上の行為や、国家神道上の諸儀式に国民が強制動員されたことの苦い経験から、信教の自由侵害の典型事例として特別の規定を置いたものと解されている。

信仰をもつ原告らは,自己の信仰にしたがって「日の丸・君が代」を位置づけ,自己の信仰に背馳し抵触するものとして「日の丸・君が代」を受け容れがたいと主張しているのであって,それで20条2項の該当要件は充足されている。したがって,信仰をもつ原告に関する限りにおいて,被告が「日の丸・君が代」は一般的,客観的に宗教的意味合いがない,と反論することはまったく無意味である。問題は,「日の丸・君が代」が一般的客観的に宗教的意味合いを持つか否かではない。飽くまで,強制される信仰者にとって,自らの信仰ゆえに強制を受容しがたいと言えるか否かなのである。

☆神戸高専剣道実技受講拒否事件最高裁判決
この理は,基本的に剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996年3月8日最高裁第二小法廷判決)において最高裁がとるところと言ってよい。
「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制された『剣道の授業受講』は,一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為ではない。しかし,当該の生徒の信仰に抵触する行為として,その強制の違法を最高裁は認めた。本件でも同様の関係があり,しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は,剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。

内心における信教の自由は,特定の宗教を信仰する自由,あるいは信仰をもたない自由として,絶対的に保障される。しかし,権力が国民の内心を直接に改変することはそもそも不可能であることから,純粋に内心に押し込められた信教の自由は,人権保障としての意味をもたない。憲法が実定的な人権保障規定として意味あるものであるからには,信仰の保障範囲を厳格に内心の自由として押し込めてはならない。

☆「日の丸・君が代」強制と「踏み絵」
江戸時代初期に,当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この手法は,公権力が信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで,直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない,と言えなくもない。しかし,時の権力者は,信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから,踏み絵の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること,また,強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。

事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は,江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に,「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が,教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し,堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。

☆ 信教の自由の限界
もっとも、信教の自由と言えども絶対不可侵ではない。必要不可欠な制約には服さざるを得ない。問題は、いったい何をもって必要不可欠な制約というかである。

教員であることが信仰上の信念と抵触することはあり得ないことではない。もっとも考え得るのは、自己の信ずる信仰上の教説が科学的検証に堪えるものではない場合である。飽くまで、次世代への真理の伝達をもって公教育の本質と考えるべきであって、教員の主たる任務である教科指導において教授すべきは検証された真理でなければならず、信仰上の教説であってはならない。真理性の検証を欠いた主観的な価値的教説の教育は許容されない。

ことは公教育の本質把握如何に関わるが、憲法的には「子どもの教育を受ける権利」を基礎として立論されることになる。

学校とは、その基本において、人類が真理として確認した知の体系を伝える場である。子どもには、そのような意味での知の体系、すなわち真理を学ぶ権利が保障されており、教員の基本的責務は、この子どもの知的要求を充足させることにある。

したがって、いかなる信仰信念を持とうとも、真理とされている知識、情報、思想を子どもに教授する義務を全うしなければならず、このことは、必要不可欠なこととして、教員の信教の自由を制約する。

☆ 「日の丸・君が代」強制は許容されない
このことは、真理教育を中核とする教科指導とは別異の学校生活の場では、自ずから別の基準が必要とされることを意味する。教科指導と離れれば真理性教授の問題はなく、教科以外の学校生活の場では、教員の信教の自由は最大限保障されなければならない。

卒業式等の国旗国歌強制、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、公教育における不可欠の要素ではない。当該各原告らの信仰を侵害することを合理化するいささかの根拠ともなり得ず、公権力による強制は憲法上許容される余地がない。

「多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重され、信仰を持つ者も持たない者も、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることが正常な社会のありかたであり、憲法上の理念でもある」ことを都教委は受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をしなければならない。
(2017年12月13日)

「スラップに成功体験を与えてはならない」。DHCスラップ2次訴訟は、12月15日(金)13時30分 東京地裁415号法廷で。 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第113弾

私(澤藤)自身が被告とされた「DHCスラップ訴訟」。今、「DHCスラップ第2次訴訟」となり、これに反訴(反撃訴訟)で反撃している。

その事実上の第1回口頭弁論期日が12月15日(金)。どなたでも、なんの手続も必要なく、傍聴できます。ぜひ、多数の方の傍聴をお願いいたします。

13時30分 東京地裁415号法廷・東京地裁4階(民事第1部)
       反撃訴訟訴状(反訴状)の陳述
       光前弁護団長が反訴の要旨を口頭陳述
       澤藤が反訴原告本人として意見陳述

閉廷後の報告集会を東京弁護士会504号室(5階)で行います。
報告集会では、木嶋日出夫弁護士(長野弁護士会)から、「伊那太陽光発電スラップ訴訟」での勝訴判決(長野地裁伊那支部2015年10月26日判決)の教訓についてご報告いただきます。

同判決は、「判例時報」2291号(2016年6月11日発行)に、「事業者の、反対住民に対する損害賠償請求本訴の提起が、いわゆるスラップ訴訟にあたり違法とされた事例」と紹介されているものです。
「DHCスラップ2次訴訟」に当て嵌めれば、「DHC・吉田の澤藤に対する損害賠償請求訴訟の提起が、いわゆるスラップ訴訟にあたり違法とされた事例」ということになります。

同日閉廷後 14時~15時30分 報告集会
     東京弁護士会504号室(5階)
     光前弁護団長から、訴状(本訴・反訴)の解説。
     木嶋日出夫弁護士 伊那太陽光発電スラップ訴訟勝利報告
     澤藤(反訴原告本人)挨拶

☆伊那太陽光発電スラップ訴訟概要
(長野地裁伊那支部・2015(平成27)年10月28日判決)
原告(反訴被告)株式会社片桐建設
被告(反訴原告)土生田さん
被告(反訴原告)代理人弁護士 木嶋日出夫さん
本訴請求額 6000万円 判決は請求棄却
反訴請求額  200万円 判決は50万円認容
双方控訴なく確定

☆木嶋日出夫弁護士紹介
1969年 司法研修所入所(23期・澤藤と同期)
1971年 司法研修所卒業 弁護士登録(長野県、旧林百郎事務所)
1974年 自由法曹団長野県支部事務局長
1976年 日本弁護士連合会公害対策委員
1979年 長野県弁護士会副会長
1990年 第39回衆院選当選(日本共産党公認・旧長野3区・1期目)
1996年 第41回衆院選当選(日本共産党公認・長野4区・2期目)
2000年 第42回衆院選当選(日本共産党公認・長野4区・3期目)

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当日法廷での私(澤藤)の意見陳述の要旨は、今のところ、以下のとおりとなる予定。但し、いかにも長すぎる。当日調整の要あり。

「弁護士の澤藤です。弁護士ですが、本件では訴訟代理人ではなく、本訴被告・反訴原告の立場にあります。

 3年前の5月。思いがけなくも、私自身を被告とする典型的なスラップ訴訟の訴状送達を受けました。原告はDHC・吉田嘉明。請求金額は2000万円。交通事故死亡慰謝料にも匹敵する金額です。屈辱的な謝罪文の要求さえ付されていました。この上なく不愉快極まる体験。こんな訴訟を提起する人物か存在することにも、こんな訴訟を受任する弁護士が存在することにも、腹立たしい思いを禁じえません。

 しかも、この請求額は、同年8月に3倍の6000万円となりました。一家の支柱が交通事故死した場合の慰謝料も3000万円には達しません。その2倍を超える金額の請求。明らかにDHC・吉田は、高額な損害賠償訴訟の提起という手段をもって、私に「黙れ」「口を慎め」と恫喝したのです。

 私の怒りの半ばは私憤です。私自身の憲法上の権利を侵害し言論による批判を封じようというDHC・吉田に対する個人としての怒りです。しかし、半ばは公憤でもありました。訴訟に精通している弁護士の私でさえ、自分自身が被告となれば戸惑わざるを得ません。応訴には、たいへんな負担がかかることになります。訴訟とは無縁に生活している一般の方が、私のようなスラップの提訴を受けた場合には、いかばかりの打撃になるか。このような負担を回避しようという心理が、言論の萎縮を招くことになります。結局は強者が提起するスラップが効果を発揮することで、この社会の不正を糾弾する言論が衰微することにならざるを得ません。

 私は、スラップに成功体験を与えてはならない、と決意しました。

公憤としての私の怒りや不快の根拠は、私が考える訴訟制度や弁護士のあるべき姿とはおよそかけ離れた訴訟が提起されたことにあります。言うまでもなく、訴訟本来の使命は、権利侵害の回復にあります。この社会は、法がなければ弱肉強食が習い。強者が弱者の権利を蹂躙します。法がなければ、権利を侵害された弱者は泣き寝入りを強いられるばかり。法あればこそ、弱者も対等となる社会秩序が形成され、弱者の権利侵害を救済することが可能となります。その権利侵害を回復する手続として民事訴訟制度があり、裁判所があって法曹の役割があるはずではありませんか。

ですから、裁判制度本来のユーザーは社会的な弱者であると私は考えて参りました。労働事件・消費者事件・行政訴訟・国家賠償・医療過誤・公害事件・戦後補償訴訟・あらゆる差別是正事件…、すべて弱者が泣き寝入りを強いられることのないように権利侵害回復の場となってこそ、司法と司法に携わる者本来の使命が果たされることになります。民事訴訟における平等原則は、けっして形式的平等であってはならず、その当事者の社会的力量の格差に十分な配慮をした実質的平等でなくてはなりません。形式的平等とは、実は著しい不公正にほかならないのですから。

名誉毀損訴訟においても事情は同様です。政治的・社会的強者は、提訴せずとも名誉毀損の言論に対する対抗言論の手段を持っています。社会的弱者の側にある者は、そのような手段を持ちません。だから、司法は社会的弱者の側にこそ開かれていなければならならず、政治的・社会的強者に対する関係でハードルを下げる必要はないのです。

ところが、侵害された権利の回復を目的とせず、別の目的を以てする提訴は、必ず社会的経済的な強者によって起こされます。彼らには、訴訟追行に要する費用負担というハードルがないからです。勝訴の見通しがなくとも、提訴自体によって威嚇効果を見込めるのなら、費用を度外視して訴訟提起が可能なのです。これが濫訴を可能とする背景事情です。

DHC・吉田は私にスラップ訴訟を提起し、最高裁まで争って敗訴確定となりました。しかし、敗訴しただけでなんの制裁も受けていません。もともと勝訴の見込みのない訴訟を提起して敗訴したというだけのこと。提訴の目的であった、批判の言論を封じ込めようとする狙いに関しては、敗訴になっても達成していると言わねばなりません。いわば、やり得になっているのです。

一方私は、スラップ訴訟による攻撃を訴訟手続においては防御しました。しかし、応訴にかけた費用も手間暇も回復できていません。「DHC・吉田を批判すると、スラップをかけられる」という社会的な言論萎縮効果も払拭されていません。

このような不公正の事態を放置したのでは、経済的強者によるスラップは横行し、言論は萎縮することにならざるを得ません。本件の反訴請求は、そのような民事訴訟本来の制度の趣旨を逸脱したスラップを許容するのかどうかの分水嶺となる訴訟であることをご認識いただきたいのです。

本件の訴訟の構造は、先に訴訟代理人の光前弁護士に述べていただいたとおりです。形の上では、1988年1月の最高裁判決の枠組みに則った主張と挙証を重ねていくことになります。しかし実は、問題の本質、あるいは実質的な判断基準は、別のところにあるように思われるのです。

まずは、先行する本件スラップ訴訟においてDHC・吉田が違法と主張した私の5本のブログをよくお読みいただきたいのです。ぜひとも、細切れにせず全体をお読みください。その上で、この内容の言論を、名誉毀損訴訟を提起されてもやむをえないものと考えるのか、それとも、こんな程度の言論を提訴して損害賠償請求の対象とすべきではないと考えるのか、憲法感覚が問われる問題だと思うのです。

憲法が言論の自由を特に重要な基本権とし、その保障を高く掲げたのは、誰の権利も侵害しない、「当たり障りのない言論」を自由だと認めたのではありません。敢えて言えば、当たり障りのある言論、つまりは誰かの評価を貶め、誰かの権利を侵害する言論であっても、社会的な有用な言論について、自由であり権利であると保障することに意味があるのです。

弱者を貶めて強者に迎合する言論を権利として保障する意味はありません。言論の自由とは、本来的に権力者や社会的強者を批判する自由として意味のあるものと言わざるを得ません。私のブログにおける表現は、反訴被告吉田嘉明らを批判するもので、吉田嘉明らの社会的評価の低下をきたすものであることは当然として、それでも憲法上の権利の保障が認めらなければなりません。

実質的な判断の決め手となるべきものは、憲法21条の重視のほかには、以下の各点だろうと思われるのです。第1点が言論のテーマ、第2点が批判された人物の属性、第3点が本件では、私が論評の根拠とした事実の真実性が余りに明らかであること。そして第4点が提訴後の4000万円の請求の拡張です。

その第1点は、私のブログでの各記述が政治とカネにまつわる、典型的な政治的言論であることです。
私は、反訴被告吉田嘉明が、政治資金規正法の理念に反して自分の意を体して活動してくれると期待した政治家に、不透明な巨額の政治資金を「裏金」として提供していたことを批判したのです。このような政治的批判の言論の保障は特に重要で、けっして封殺されてはなりません。

第2点は、本件ブログの各記述の批判対象者となった反訴被告吉田嘉明の「公人性」がきわめて高いことです。その経済的地位、国民の健康に関わる健康食品や化粧品販売企業のオーナーとしての地位、労働厚生行政や消費者行政に服すべき地位にあるというだけではありません。政治家に巨額の政治資金を提供することで政治と関わったその瞬間において、残っていた私人性をかなぐり捨てて、高度の公人としての地位を獲得したというべきです。このときから強い批判を甘受すべき地位に立ったのです。しかも、吉田は自ら週刊誌の誌上で巨額の政治資金を特定政治家に提供していたことを暴露しているのです。金額は8億円という巨額、政治資金規正法が求めている透明性のない「裏金」です。反訴被告吉田嘉明が批判を甘受すべき程度は、この上なく高いといわざるを得ません。

そして第3点が、本件ブログの各記述は、いずれも反訴被告吉田自身が公表した手記の記載を根拠として推認し意見を述べているものであって、意見ないし論評が前提として依拠している事実の真実性については、ほとんど問題となる余地がなかったことです。加えて、本件ブログの各記述は、いずれも前提事実からの推認の過程が、きわめて明白であり、かつ常識的なものであることです。

反訴被告吉田はその手記において、行政規制を不当な桎梏と感じていることを表明しています。企業とは、何よりも利潤追求のための組織です。企業経営者が、行政の対企業規制に明確な不満を述べて、規制緩和を標榜する政治家に政治資金を提供したら、これはもう、規制緩和を推進することによる利潤の拡大を動機とするものと相場が決まっています。

このような常識的な推論に、立証を求められる筋合いはありません。まさしく、推論を意見として述べることが政治的言論の自由保障の真髄と言うべきで、反訴被告吉田は、対抗言論をもって弁明や反批判をすべきであったのに、判断を誤ってスラップ訴訟の提起をしたのです。

そして、第4点です。私は、弁護士の使命として、口をつぐんではならないと覚悟して、ブログで「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズを書き始めました。途端に、請求が拡張され、6000万円に跳ね上がりました。この経過自体が、本件提訴のスラップ性を雄弁に物語っていると考えています。

つまり、通常の判断能力の持ち主であれば、DHC・吉田のスラップ訴訟の提起に、勝訴の見込みが皆無であることは、よく分かっていたはずなのです。それでも、あえて高額訴訟を提起したのは、自分に対する批判の言論を封じ込めようとする狙いをもってしたということ以外にはあり得ません。しかも、私が恫喝に屈せず、提訴自体批判し始めたら、4000万円の請求拡張です。ぜひとも、4000万円の請求拡張の根拠とされた2本のブログを吟味願います。自分に対しての批判を嫌っての請求の拡張以外にあり得ないことがよくお分かりいただけるものと思います。

明らかに、本件スラップ訴訟の提訴は、違法といわざるを得ません。そして、お考えいただきたいのです。もし仮に、本件スラップの提訴が違法ではないとされるとしたら、吉田嘉明を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が濫発される事態を招くことになるでしょう。社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行するそのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることにならざるをえません。この社会の言論は衰微し、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。

最後に、本件の判断を射程距離に収めると考えられる、憲法21条についての最高裁大法廷判決(昭和61年6月11日・民集40巻4号872頁(北方ジャーナル事件))の一節を引用いたします。

「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもって自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法21条1項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」

この最高裁大法廷判例が説示する「公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利」との憲法理念に則った訴訟の進行と判決とを期待いたします。
以上
(2017/12/12)

 

「核こそは人類と共存し得ない絶対悪」 ― サーロー節子さんの演説に9条の精神を見る。

ノーベル賞に良いイメージは持ちあわせていない。とりわけ、あの佐藤栄作が平和賞を受章という衝撃以来、「そんな程度のものか」という思いが強い。

しかし、今回のICANの平和賞受賞については、被爆者の運動が世界に注目され、核兵器禁止条約の正当性の強力なアピールとなったものと素直に喜びたい。その意味で、昨日(12月10日)オスロで行われた授賞式でのサーロー節子さんの演説は素晴らしいものだった。誰に遠慮することもなく、「核兵器は必要悪ではなく人類と共存し得ない絶対悪です。」と言い切った。これは、制憲議会で語られた日本国憲法9条の精神ではないか。これをこそ被爆者の魂の叫びと受けとめたい。

「私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たちは、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私たちは立ち上がったのです。私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。

今日、私は皆さんに、この会場において、広島と長崎で非業の死を遂げた全ての人々の存在を感じていただきたいと思います。…その一人ひとりには名前がありました。一人ひとりが、誰かに愛されていました。彼らの死を無駄にしてはなりません。

広島について思い出すとき、私の頭に最初に浮かぶのは4歳のおい、英治です。彼の小さな体は、何者か判別もできない溶けた肉の塊に変わってしまいました。彼はかすれた声で水を求め続けていましたが、息を引き取り、苦しみから解放されました。私にとって彼は、世界で今まさに核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表しています。毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべての人を、私たちの親しむすべての物を、危機にさらしています。私たちは、この異常さをこれ以上、許していてはなりません。

私たち被爆者は、苦しみと生き残るための真の闘いを通じて、灰の中から生き返るために、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと確信しました。くり返し、私たちは証言をしてきました。

それにもかかわらず、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいます。彼らは、これは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプロパガンダを受け入れています。この神話こそが、今日まで続く悲惨な核軍備競争を導いているのです。

9カ国が、都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。核兵器の開発は、国家の偉大さが高まることを表すものではなく、国家が暗黒のふちへと堕落することを表しています。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です。

今年7月7日、世界の圧倒的多数の国々が核兵器禁止条約を投票により採択したとき、私は喜びで感極まりました。かつて人類の最悪のときを目の当たりにした私は、この日、人類の最良のときを目の当たりにしました。私たち被爆者は、72年にわたり、核兵器の禁止を待ち望んできました。これを、核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。

 責任ある指導者であるなら、必ずや、この条約に署名するでしょう。そして歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう。彼らの抽象的な理論は、それが実は大量虐殺に他ならないという現実をもはや隠し通すことができません。「核抑止」なるものは、軍縮を抑止するものでしかないことはもはや明らかです。私たちはもはや、恐怖のキノコ雲の下で生きることはしないのです。

 核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、あなたたちは行動することになることを知るでしょう。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。

 世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。」

この演説は核廃絶の障害となっている犯人を挙げている。まずは核保有の「9カ国」。つまり、米・露・英・独・仏・中の核保有5大国(P5)に、イスラエル・インド・パキスタン・北朝鮮を加えた「強請9人組」である。いずれの国も、他国の核は危険極まりないもので、自国の核は対抗措置としてやむをえないものであり、平和のための核という。サーローさんは、この核保有9カ国を「都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。」と厳しく指弾する。

サーローさんの指摘は、これにとどまらない。「強請9人組」を主犯として、その共犯者に警告を発している。その筆頭が明らかに日本だ。
「『核の傘』なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、あなたたちは行動することになることを知るでしょう。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。」

もう少しはっきり言い直してみよう。
「『アメリカの核の傘』なるものの下で共犯者となっている日本の安倍晋三さんと行政府の皆さんに申し上げたい。私たち広島・長崎の被爆者の証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、日本政府も真剣に行動すべきことになるでしょう、核兵器禁止条約を早期に批准しなければならないことを知るでしょう。安倍晋三さん、そして行政府の皆さん。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。あなたたちは、自分に言い訳しながら犯している悪事について、その罪の大きさに気づかなければなりません。」
(2017年12月11日)

「儀式的行事における儀礼的所作の強制」だから、「思想・良心の自由侵害と不可分に結びつくものとはいえない」は明らかな誤謬である。

東京都教育委員会の「10・23通達」とこれに基づく職務命令が、全都の教職員に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立斉唱を強制している。しかも、これが毎年繰り返されている。

これを違憲と主張する教員らの多数の訴訟において、最高裁は、違憲の主張を斥けてきた。学校行事において教員に国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制をしても、強制された教師の思想・良心の自由を直接に侵害するものではないというのだ。

その論理の骨格は、「国旗としての日の丸の掲揚及び国歌としての君が代の斉唱が広く行われていたことは周知の事実」という、明らかに誤った事実認識の前提から出発して、以下のように論じている。

「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである」。

だから、起立斉唱を行わせることが「上告人(教員)らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえない」という。

大要、「儀式的行事における儀礼的所作」の強制は、「歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することと不可分に結びつくものではない」という論旨である。

この最高裁判決の説示は、近時の下級審判決が挙って模倣ないし追従するところとなっている。教員たちの憲法19条違反の主張を否定する論拠としているだけでなく、東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決では、憲法20条違反を否定する論拠としても明示されている。

同判決は次のように判示する。
「卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為の性質については,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであって,それを超えて宗教的意味合いを持つものではなく,他宗教の信仰の強制などと評価することはできない。

原告らの中には、信仰ゆえに起立できないとする者がいるが、原告らは都立学校の教職員であって,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性等に鑑み,学習指導要領の国旗・国歌条項を含む法令及び校長の職務命令に従うべき立場にあることを踏まえると,同原告らの信仰の自由の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものである。

したがって,卒業式等における起立斉唱行為が,原告らの信仰との関係で著しい精神的苦痛をもたらすものであることなどを理由として,本件職務命令等が憲法20条に違反することをいう原告らの主張を採用することはできない。」

しかし、この説示は、決定的に間違っていると指摘せざるをえない。
ある個人が自発的には行えないとする身体的な行為を権力的に強制することは、原則としてその人の精神の自由を直接に侵害すると考えざるを得ない。当該の個人が「自らの歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することになるから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の思想・良心を否定することになる。「自らの信仰に抵触するから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の信仰を侵害することになる。極めて常識的な論理の帰結である。

これを「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」の強制であれば、「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではない」と切断する「論理」の根拠は示されておらず、強弁というほかはない。

当該の最高裁判決は、「儀式的行事における儀礼的所作」を、「宗教性のない、もっぱら世俗的な性格に徹したもの」の意味で使っているごとくであるが、本当に世俗的なものに過ぎないのか。そして、宗教性を欠いた世俗的なものであれば「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではないのか」が問われなければなない。

実のところ、儀式的行事への参加や儀礼的所作の強制は、最高裁判決の説示にかかわらず、むしろ信教の自由や、思想及び良心の自由を侵害する典型的な類型といわねばならない。また、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性を持たないものであるにせよ、「儀式的行事における儀礼的所作の強制」は、それ自体が集団への同化強制の圧力となるもので、特定の思想に関連する儀式的行事における、特定の思想に関連する儀礼的所作の強制は、宗教の強制に準じて、これを受け容れがたいとする個人に対して、その思想・良心の自由の侵害をもたらすものとなる。

弁護団は、著名な宗教学者の教示を得て、以下のとおり、控訴理由の主張を準備している。

儀式・儀礼は宗教の不可欠な要素の一つであって、固有の儀式・儀礼をもたない宗教を見出すことは困難である。したがって、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性と無縁であるとの認識は根本的な誤謬である。「宗教的な儀式や宗教的な行事における宗教儀礼や宗教的的所作」は、至るところに存在する。

しかも、宗教性をまったく捨象した「儀式的行事における儀礼的所作」である場合にも、思想・良心の自由侵害と無縁であることにはならない。儀式・儀礼が政治的機能をもつときに抑圧的機能を果たすことは、宗教学・政治学・社会学で共有されている通説的認識である。特定宗教の枠を超えた世俗国家の儀式・儀礼においても同様である。

とりわけ日本の場合、世俗国家の儀式・儀礼と国家神道由来の儀式・儀礼との境界は分明でなく、この点がしばしば法的争点となる。儀式・儀礼が宗教的あるいは全体主義的な過去を背負っており、そのことが基本的人権を脅かす基礎をなしている。現に日本国憲法を否定し、天皇崇敬や神権的国体論の復活を目指す政治勢力も存在しており、政府や国会で一定の影響力を保持している。

国家が儀式・儀礼を通じて神聖化され、生活の諸方面に及ぶ規制力を発揮することがある。儒教や神道の影響が濃い文化では、このことが起こりやすい。世俗的な儀式・儀礼と、宗教的な儀式・儀礼とが連続的であるのは、儒教の影響を受けた地域には広く見られることである。日本の国家神道、とくにその近代的形態は儒教的な思想の影響を大きく受けている。このような文化的環境と歴史的背景の下で、細かな規定によって身体の画一的統御が課されるとき、精神の自由が著しく脅かされると感じることには相当の理由がある。

以上のとおり、儀式・儀礼は宗教の本質的な要素なのであって、儀式における儀礼的所作だから、その性格がもっぱら世俗的になって宗教性がないなどとというのは明らかな誤りである。しかも、「儀式・儀礼は強い政治的機能をもちうる」のである。儀式・儀礼が宗教の本質的な要素とされるのは、信仰を同じくする者の集団による共通の身体的動作が、相互に信仰と信仰に基づく連帯感の確認行為となるからである。

このことは、世俗的な集団における世俗的な行事においても本質的に変わらない。「起立」「礼」「注目」「斉唱」「唱和」などの身体的行為を集団が同時に画一的に行うことは、その集団の価値観や目的を再確認して、何らかの理念の共有を深化させる機能をもつものである。従って、その集団の価値観に同調しない者にとっては、明らかに思想・良心の侵害とならざるを得ない。

このような、学校行事における宗教的所作の強制は戦前にしばしば起こったことである。憲法第20条の信教の自由の規定は、こうした戦前戦中の経験を踏まえたものであり、『特定の宗教的行為を強制されない自由』だけでなく、『宗教に準ずる信条と関連する行為を強制されない自由』も含まれていると理解しなくてはならない。憲法第19条の『思想・良心の自由』から見れば、特定の信念体系に基づく行為を強制されない自由も含まれるということである。

以上のとおり、「儀式的行事における儀礼的所作」は、典型的な宗教行為そのものであることもあり、宗教的色彩を帯びる宗教に準ずる行為であることもある。「儀式的行事における儀礼的所作」だから、宗教性は払拭されているわけではない。

のみならず、「儀式的行事における儀礼的所作」が純粋に世俗的なものであったとしても、これを強制する場合には、その集団に特有の思想や価値観を個人に押しつけるものとして、「思想・良心の否定と不可分に結びつく」ものとならざるを得ない。

したがって、「10・23通達」関連の最高裁判決の論理は、「憲法が宗教に準ずる一定の思想に基づく儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過したものであって、これに無批判に追随した下級審判決も、憲法19条および20条についての憲法の解釈を誤ったものである。
(2017年12月10日)

12月15日(金)13時30分 東京地裁415号法廷に。閉廷後の報告集会は、伊那太陽光発電スラップ訴訟勝訴報告 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第112弾

私(澤藤)自身が被告とされ、反訴で反撃している「DHCスラップ2次訴訟(反撃訴訟)」。事実上の第1回口頭弁論期日は12月15日(金)。どなたでも、なんの手続も必要なく、傍聴できます。ぜひ、多数の方の傍聴をお願いいたします。

13時30分 東京地裁415号法廷・東京地裁庁舎4階(民事第1部)
       反撃訴訟訴状(反訴状)の陳述
       光前弁護団長が反訴の要旨を口頭陳述
       澤藤が反訴原告本人として意見陳述

閉廷後の報告集会を東京弁護士会504号室(5階)で行います。
報告集会では、木嶋日出夫弁護士(長野弁護士会)から、「伊那太陽光発電スラップ訴訟」での勝訴判決(長野地裁伊那支部2015年10月26日判決)の教訓についてご報告いただきます。

同判決は、「判例時報」2291号(2016年6月11日発行)に、「事業者の、反対住民に対する損害賠償請求本訴の提起が、いわゆるスラップ訴訟にあたり違法とされた事例」と紹介されているものです。「DHCスラップ2次訴訟」に当て嵌めれば、「DHC・吉田の澤藤に対する損害賠償請求本訴の提起が、いわゆるスラップ訴訟にあたり違法とされた事例」ということになります。

同日閉廷後 14時~15時30分 報告集会
     東京弁護士会504号室(5階)
     光前弁護団長から、訴状(本訴・反訴)の解説。
     木嶋日出夫弁護士 伊那太陽光発電スラップ訴訟代理人報告と質疑
     澤藤(反訴原告本人)挨拶

☆伊那太陽光発電スラップ訴訟概要
(長野地裁伊那支部・2015(平成27)年10月28日判決)
原告(反訴被告)株式会社片桐建設
被告(反訴原告)土生田さん
被告(反訴原告)代理人弁護士 木嶋日出夫さん
本訴請求額 6000万円 判決は請求棄却
反訴請求額  200万円 判決は50万円認容
双方控訴なく確定

☆木嶋日出夫弁護士紹介。
1969年 司法研修所入所(23期・澤藤と同期)
1971年 司法研修所卒業 弁護士登録(長野県、旧林百郎事務所)
1974年 自由法曹団長野県支部事務局長
1976年 日本弁護士連合会公害対策委員
1979年 長野県弁護士会副会長
1990年 第39回衆院選当選(日本共産党公認・旧長野3区・1期目)
1996年 第41回衆院選当選(日本共産党公認・長野4区・2期目)
2000年 第42回衆院選当選(日本共産党公認・長野4区・3期目)

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当日の木嶋弁護士報告レジメは、以下のとおり。

長野県伊那市細ヶ谷地区・太陽光発電スラップ訴訟報告メモ
2017.12.15 弁護士 木嶋日出夫

1 スラップ訴訟(恫喝訴訟)の提起から判決まで
①2014年2月25日 原告株式会社片桐建設が、被告土生田勝正に対し、6000万円の損害賠償請求訴訟を長野地裁伊那支部に提起。
提訴理由は、被告が科学的根拠のないデマで原告会社の名誉を毀損し、A地区に太陽光発電設備設置を断念させたというもの。その損害は2億4969万円と主張。
②2014年8月4日 被告は、原告会社に対し200万円の損害賠償請求反訴を提起。本訴提起が、被告に対する不法行為(スラップ訴訟)であると主張。要件が狭すぎることは承知の上で、昭和63年1月26日付最高裁判決の論理に拠った。
③2015年10月28日 判決。本訴請求を棄却。反訴請求のうち損害賠償50万円を容認。(判例時報平成28年6月11日2291号)原・被告とも控訴せず、判決は確定。

2 判決の要旨(反訴請求について)
①住民説明会において、住民が科学的根拠なくその危惧する影響や危険性について意見を述べ又はこれに基づく質問をすることは一般的なことであり、通常は、このことを問題視することはない。
②このような住民の反対運動に不当性を見出すことはない。
③少なくとも、通常人であれば、被告の言動を違法ということができないことを容易に知り得た。
④A区画への設置の取り止めは、住民との合意を目指す中で原告が自ら見直した部分であったにもかかわらず、これを被告の行為により被った損害として計上することは不合理であり、これを基にして一個人に対して多額の請求をしていることに鑑みると、原告において、真に被害回復を図る目的をもって訴えを提起したものとも考えがたい。
⑤本件訴えの提起は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く。

3 スラップ訴訟を抑止するために-本件判決の意義と問題点-
①最高裁判決の論理にとどまっていては、スラップ訴訟を抑止することは困難
判例時報の評釈でも指摘されているが「もっとも、その発言が、誹謗中傷など不適切な内容であったり、平穏でない態様でされた場合などには違法性を帯びるとの規範を示した」とされていることは、見逃せない問題である。
どこまでが違法性を帯び、どこまでが違法性がないといえるのか、本判決は、なんらの具体的基準を示していない。
本件事案は、その必要性がないほど、被告の行為や発言内容に違法性が認められなかったのであるが、この判決の射程は必ずしも明らかではない。
②反訴請求で認められた慰謝料50万円では、抑止力としてはきわめて不十分
反訴請求で認容される損害額は、経済力を持った企業や行政に対し、スラップ訴訟の提起を抑止させるほどの金額にならない。本件でも、原告会社は控訴せず、すぐに「損害」全額の支払いをしてきた。
本件判決は、地元のマスコミが報道し、建設業界の業界誌でも紹介されるなど、社会的に一定の広がりを見せた。地元伊那市において、太陽光発電設備についてガイドラインを施行し、緩やかな「規制」を始めた。しかし被告会社に真摯な反省は見られない。
③スラップ訴訟の提起を抑止するには、新しい法的枠組みが必要(2016年1月消費者法ニュース106号)
以上
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※木嶋弁護士レジメのとおり、この判決は「昭和63年1月26日付最高裁判決」の論理に拠って、判断し「本件訴えの提起は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」から違法と結論した。
その結論に至る判断の過程で、
「少なくとも、通常人であれば、被告の言動を違法ということができないことを容易に知り得たといえる」
「(不合理な損害を計上して)一個人に対して多額の請求をしていることに鑑みると、原告において、真に被害回復を図る目的をもって訴えを提起したものとも考えがたいところである」
「以上のことからすると、原告は、通常人であれば容易にその主張に根拠のないことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したものといえ、本件訴えの提起は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものと認められる」との判示が注目される。

これらの点が、DHCスラップ2次訴訟(反撃訴訟)に生かせる。

※また、木嶋弁護士レジメが、「本件判決は、地元のマスコミが報道し、建設業界の業界誌でも紹介されるなど、社会的に一定の広がりを見せた。地元伊那市において、太陽光発電設備についてガイドラインを施行し、緩やかな「規制」を始めた。しかし被告会社に真摯な反省は見られない。」と言っているのが注目される。
スラップ訴訟を提起した片桐建設は、訴状において、「企業イメージの悪化が直ちに、住宅建設の売り上げ悪化につながる」と主張している。被告の発言によって、「企業イメージが悪化し、営業損害もこうむったというのである。
 しかし、スラップ訴訟提起の結果、片桐建設の企業イメージは、「スラップ企業」として有名になって大きく傷ついた。このことが教訓だと思う。
 DHCについても、「スラップ常習企業」として、多くの人の批判と非難による社会的制裁が必要であり重要なのだ。
(2017年12月9日)

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