澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

権力者は軽々に「象を撃っ」てはならない。民衆は撃たせてはならない。

(2021年1月9日)
本日の毎日新聞朝刊「時の在りか」に、伊藤智永の「象を撃つ政治指導者たち」という記事。達者な筆で読ませる。
https://mainichi.jp/articles/20210109/ddm/005/070/007000c

「象を撃つ」は、作家ジョージ・オーウェルの23歳での体験だという。ビルマという英国植民地の警察官であった彼は、民衆に対して権力者として振る舞うべき立場に立たされる。

銃を手にした彼は2000人もの群衆の眼を背に意識しつつ、逃げた象と対峙する。一人のインド人を殺した象ではあったが、既に凶暴性はなかった。撃つ必要はなく、撃ちたくもなかった。伊藤の文章を引用すれば、

 「あの時、どうすべきだったのだろう。オーウェルは書いている。「私にははっきりと分かっていた。近づいてみて襲ってきたら撃てばいいし、気にもかけないようなら象使いが帰ってくるまで放っておいても大丈夫だと」。でも、そうしなかった。できなかった。撃て。そう群衆が無言で命じるのを背中が聞いたからだ。民衆と権力者のその手のやり取りに言葉は要らない。」

 こうして、権力者が、群衆の無言の命令のもと、群衆に迎合した無用の行動に走ることになる。その行動が「象を撃つ」であり、人種や民族の差別であり、侵略戦争でもある。「象を撃つ」は、民衆を支配しているはずの権力者が、民衆の願望に支配される、逆説の一面の象徴となる。伊藤は続ける。

 「「議事堂へ行くぞ」。トランプ米大統領は、象を撃った。象は倒れたか。撃った弾数は今、何発目だろう。いや、すでに群衆は、まだ生きている象の肉を一部そいでいる。これはディストピア小説ではない。」

 トランプは、自分の支持者を煽動し支配しているつもりで、実は支持者たちの過剰な期待に応えねばならない苦しい立場に立たされたのだ。「議事堂へ行くぞ」「議事を阻止せよ」と、強がりを言わざるを得ない立場に追い込まれた。こうして、トランプは撃ちたくもない「象を撃った」。トランプが撃った象とは、民主主義という巨像である。幸い、まだ、撃たれた象は致命傷には至っていない。

トランプの心境は、オーエルが綴っている、以下のとおりであったろう。

「象は静かに草をはんでいた。一目で撃つ必要はないと確信したが、いつの間にか2000人を超えた群衆は、暗い期待で興奮している。撃ちたくなかった。だが、白人は植民地で現地民を前におじけづいてはならない。撃つしかなかった。」

もちろん、この事態は、今のアメリカだけのことではない。伊藤はこう言う。

「日本にもよそ事ではない。敗戦した神国ニッポンの軍国体制、ウソを重ねて恥じない指導者をウソと知りつつ支持し続けた国民、コロナ時代の「自粛警察」に表れた相互監視にいそしむ黒々した庶民心理。どれも立派に「オーウェル的」である。」

《神国ニッポンの軍国体制》の構造は分かり易い。天皇制権力が臣民を欺いて煽動する。煽動された臣民が、本気になって「神国ニッポン」という妄想を膨らませて政府の弱腰を非難し始める。こうなると、政府は臣民をコントロールできなくなって、やみくもに「象を撃ち」始めたのだ。こうして始まった戦争は、敗戦にまで至ることになる。

《ウソを重ねて恥じない指導者と、ウソと知りつつこれを支持し続けた国民》の関係はやや分かりにくい。安倍晋三という稀代のウソつきが総理大臣になって、ウソとゴマカシで固めた政治を強行した。ところが、少なからぬ国民がこのウソつきを許容した。「株さえ上がればよい政治」という人々の責任は重い。ウソつきと知りながら、そのウソに目をつむったまま、ウソつき政治家を抱えていると、ウソつき政治家は、自分の背中を見つめる民衆の目を誤解して、間違った方向に「象を撃ち」始める。こうして、安倍晋三政権は、いくつもの負のレジームを残した。

さて、背に受けた群衆の無言の圧力に負けて発砲する指導者では困るのだ。必要なのは、象使いが到着するまで群衆の興奮を静めるだけの力量を持った政治指導者である。民衆の信頼獲得しており、民衆との誠実な対話の能力が備わっていなければならない。安倍や菅のように、質疑とは論点をずらしてはぐらかすこと固く信じている輩は、明らかに失格なのだ。

「ノーベル賞・本庶佑教授 『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

(2021年1月5日)
毎日新聞デジタルの本日付のインビュー記事のタイトルである。私はノーベル賞の権威を認めない。だから、ノーベル賞受賞者の言をありがたがる心もちは皆無である。が、この人、臆するところなく、言うべきことをきちんと口にしている。なるほど、読み応え十分である。その、本庶さんの語るところを抜粋してみる。

僕は、医療を守り、安全な社会を作ることでしか経済は回復しないと考えます。政府はこの順番を間違えています。人々が安心して活動できてはじめて、自然と経済活動が活性化するはずです。政府は観光業を救おうと需要喚起策「GoToキャンペーン」を昨年の夏に始めましたが、検査を求めても受けられないようでは、旅行する気にはなかなかならないのではないでしょうか。

(コロナの流行を抑えるには)検査をしっかりやる体制が必要だと考えます。入国時の防疫体制も重要です。ワクチンでコロナの流行がいきなりなくなるわけではありません。政府は「検査をやり過ぎると医療が崩壊する」と言って相変わらず検査数を抑え込んでいます。旅行業界や飲食店はGoToで支援しようとするのに、医療従事者や医療機関にはどんな支援があったのでしょうか。看護師不足や患者の受診控えによる医療機関の経営悪化の問題。「医療は大切」と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう。政府予算の中で、医療提供体制の強化策は経済対策と比べて極めて微々たるものです。国民の安全、安心に関係することをなぜしっかりやらないのでしょうか。医療の逼迫は人為的に引き起こされている面があると言わざるを得ません。

少なくとも「感染しているかも」と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべきで、早期の検査はコロナ感染の広がりを防ぐ予防手段なのです。日本のクラスター(感染者集団)対策ですが、あくまでコロナが発生した後の処理で、コロナの感染が拡大するのを予防することはできません。予防的観点からの広範な検査体制の確立と陽性者の隔離が必要なのです。また、検査に資金を投じた方が社会的還元は大きいと考えます。政治の最大の使命は国民が安心して生活できることのはず。それによって経済が活性化していくわけで、現在はそれができていない。根本的な問題だと思います。

崩壊が取り沙汰されている医療提供体制は、感染症に対してもっと備えておくべきです。たとえ新型コロナが収束しても、新しい感染症のリスクは常にあるからです。司令塔不在の厚生労働省、医療従事者の犠牲によって成り立つ国民皆保険制度、それぞれの改革にきっちり取り組むべきでしょう。

本庶発言の白眉は、「政府は『医療は大切』と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう」という重い一言。思い当たるし、具体性があるから、厳しいものになっているのだ。

毎日も、このフレーズをタイトルにとって、「『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」とアピールした。これは、広範囲に応用が利く。『医療』を他の言葉に置き換えることがいくらでも可能なのだ。

「『学問の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか
「『教育は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『人命は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『真実は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『説明責任は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『憲法は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『公平な選挙制度は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『福祉は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『貧困の撲滅は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『表現の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『政教分離は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『平和は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『司法の独立は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『歴史の真実を見つめることは大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『デマやヘイトの一掃は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『国民の豊かな生活こそが大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

「『公文書の管理は何より大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

政府は何もしてこなかった。ただただ、総理大臣のオトモダチを優遇し、国民には自助努力を求めてきただけではないか。

コロナが突きつける問 -「国家は何のためにあるのか」

(2021年1月2日)
めでたくもないコロナ禍の正月。年末までに解雇された人が8万と報じられたが、そんな数ではあるまい。暗数は計り知れない。一方、株価の上昇は止まらない。なんというグロテスクな社会。あらためて、この国の歪み、とりわけ貧困・格差の拡大が浮き彫りになっている。

暮れから年の始めが、まことに寒い。この寒さの中での、路上生活者がイヤでも目につく。心が痛むが、痛んでも何もなしえない。積極的に具体的な支援活動をしている人々に敬意を払いつつ、なにがしかのカンパをする程度。

コロナ禍のさなかに、安倍晋三が政権を投げ出して菅義偉承継政権が発足した。その新政権の最初のメッセージが、冷たい「自助」であった。貧困と格差にあえぐ国民に対して、「自助努力」を要請したのだ。明らかに、「貧困は自己責任」という思想を前提としてのものである。

国家とは何か、何をなすべきか。今痛切に問われている。
国家はその権力によって、社会秩序を維持している。権力が維持している社会秩序とは、富の配分の不公正を容認するものである。一方に少数の富裕層を、他方に少なくない貧困層の存在を必然とする富の偏在を容認する社会秩序と言い換えてもよい。富の偏在の容認を利益とする階層は、権力を支持しその庇護を受けていることになる。

しかし、貧困と格差が容認しえぬまでに顕在化すると、権力の基盤は脆弱化する。権力の庇護を受けている富裕層の地位も不安定とならざるをえない。そこで国家は、その事態を回避して、現行秩序を維持するために、貧困や格差の顕在化を防止する手段を必要とする。

また、貧困や格差を克服すべきことは、理性ある国民の恒常的な要求である。富裕層の利益擁護を第一とする国家も、一定の譲歩はせざるを得ない。

ここに、社会福祉制度存在の理由がある。が、その制度の内容も運用も、常にせめぎ合いの渦中にある。財界・富裕層は可能な限り負担を嫌った姿勢をしめす。公権力も基本的には同じだ。しかし、貧困・格差の顕在化が誰の目にも社会の矛盾として映ってくると、事態は変わらざるを得ない。今、コロナ禍は、そのことを突きつけているのではないか。

本来、国家は国民への福祉を実現するためにこそある。今こそ、国庫からの大胆な財政支出が必要であり、その財源はこれまで国家からの庇護のもと、たっぷりと恩恵に与っていた財界・富裕層が負担すべきが当然である。富の再配分のありかたの再設定が必要なのだ。

生活保護申請者にあきらめさせ申請撤回させることを「水際作戦」と呼んできた担当窓口の姿勢も変わらざるを得ない。

この暮れ、厚労省が「生活保護は国民の権利です」と言い始めた。
「コロナ禍で迎える初めての年末年始に生活困窮者の増加が心配されるなか、厚生労働省が生活保護の積極的な利用を促す異例の呼びかけを始めた。「生活保護の申請は国民の権利です」「ためらわずにご相談ください」といったメッセージをウェブサイトに掲載し、申請を促している。」「厚労省は22日から「生活保護を申請したい方へ」と題したページを掲載し、申請を希望する人に最寄りの福祉事務所への相談を呼びかけている。」(朝日)

結構なことだが、これだけでは足りない。相も変わらぬ「自助努力」要請路線では、人々が納得することはない。昔なら、民衆の一揆・打ち壊しの実力行使が勃発するところ。幸い、われわれは、表現の自由の権利をもち、投票行動で政権を変えることもできる。

今年は、総選挙の年である。無反省な政権に大きな打撃を与えたいものである。

国民に焼き付けられた、「菅義偉とは、国民の気持ちが分からず、頑固で、無能で、頼りない」というイメージ

(2020年12月15日)
人は時に、取り返しのつかない失言をする。「失言」とは、「その言葉の深刻な影響に考え及ばないままの不用意な発言」を意味する。不用意な一言が思わぬ結果を招き、大きく事態を変えてしまう。これまでの成果や苦労を水の泡に帰してしまう。そのことを恐れて、菅義偉はこれまで記者会見は敬遠し、国会での発言は原稿棒読みに徹してきた。みっともない、ふがいないとの批判を甘受しても、失言のダメージを避けることを選択したのだ。ところが、少しの気の緩みから、やっちまった。ああ、覆水は盆に返らない。

失言で思い出すのは、得意の絶頂だった小池百合子の「排除いたします」の一言。この傲岸な発言が繰り返しテレビで報じられ、小池百合子だけでなく希望の党も取り返しのつかないダメージを受けた。この時焼き付いた「小池百合子とは即ち排除の人」というイメージは、いまだに拭えない。

森喜朗の「日本の国は天皇を中心としている神の国であるということを、国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」という、愚かな「失言」の影響も甚大であった。以後、彼が何をどう言っても、「天皇中心の神の国」がつきまとい、記録的な低支持率のまま首相の座を下りた。この時焼き付いた「森喜朗とは即ち天皇と神の国の人」というイメージは、いまだに拭えない。

そして、菅義偉である。どういう風の吹き回しか、記者会見嫌いな彼が動画配信サイト「ニコニコ生放送」の番組に出演した。記者を相手では意地の悪い質問に晒されるがニコ生なら気楽にしゃべれる、とでも思ったのであろうか。その気の緩みが、失態を招いた。

先週の金曜日(12月11日)の夕方、ニコ生の番組での「失言」は以下の3点である。

(1) 冒頭の「こんにちは、ガースーです」という、ふざけた自己紹介。

(2) 「GoToトラベル停止『まだ考えていない』」という、コロナ感染対策に消極姿勢。

(3) 「いつの間にかGoToが悪いことになってきたが、移動では感染はしないという提言も(分科会から)頂いている」という言い訳。

国民各層に、以上の3点が、極めて不快な印象をもたらした。まず、(1)の「ガースー」発言。本人は、親しみやすさを狙ったユーモアのつもりなのだろうが、完全にすべっている。国民の重苦しい気分とのズレが甚だしい。空気を読めない人、国民の気持ちを分かろうとしない人、というイメージが植え付けられた。この印象は今後に大きく影響するだろう。

そして、(2)である。翌、12月12日毎日新聞朝刊の一面トップが、「新型コロナ 首相、GoTo停止考えず」と、大見出しを打った。既に分科会の尾身でさえ、「GoTo見直し」を政府に提言している。これを無視した形になった。考え方に柔軟さを欠いた頑固な首相、専門家の意見に聴く耳をもたない非科学的な政治家、経済一辺倒の危ない政策。そして、思考や判断の根拠に自信がなく、国民への訴えに説得力をもたない頼りないリーダー、というイメージの定着である。

そして、(3)「移動では感染はしない」という開き直りには、多くの国民がのけぞったのではないだろうか。東大の研究チームが約2万8000人を対象に調査したところ、1か月以内に嗅覚・味覚の異常を自覚した人は、GoToトラベルを利用した人、しなかった人で、統計的には約2倍の差が生じたと報じられている。また、英スコットランド自治政府のスタージョン首相が12月9日の会見で、ウィルスの遺伝子配列の解析を根拠に「新型コロナウイルスの感染拡大は旅行が原因だった」と発表している。これが我が国でも話題になっているが、菅という人は情報に疎い、あるいは情報を理解する能力に欠ける人ではないか、というおおきな不安を国民に与えた。

結局、このたび国民の印象に焼き付けられたのは、「菅義偉とは、即ち、国民の気持ちが分からず、頑固で、無能で、頼りない」というイメージ。おそらく、将来にわたってこれを拭うことはできないだろう。ということは、首相失格というほかはない。

学術会議被推薦者6名の任命拒否は、それ自体が直ちに学問の自由の侵害である。

(2020年12月12日)
毎日新聞が、「菅語」を考えるというシリーズで12月6日に、「国語学者・金田一秀穂さんが読む首相の「姑息な言葉」 すり替えと浅薄、政策にも」という記事を掲載している。
https://mainichi.jp/articles/20201205/k00/00m/040/216000c

「総合的・俯瞰的」「多様性」「バランス」「既得権益」……。日本学術会議の任命拒否問題を巡っては、菅義偉首相が抽象的なフレーズを繰り返す場面が目立つ。具体性を著しく欠いた国のトップの説明は、日本語の専門家にはどう映っているのだろうか。国語学者の金田一秀穂さんは「本来的な意味での『姑息』」と指摘し、政権が打ち出す政策にも相通ずるものがあるとみる。

金田一秀穂という人の本来の語り口は、もの柔らかく優しい。しかし、「菅語」に対する批判は、たとえば次のようにまことに厳しい。

 ――菅さんは抽象的な言葉が多い印象です。どう見ていますか。
 ◆あまり考えた発言とは思えないですね。その場その場をしのげればいいと思っているんでしょう。(学術会議について)「女性が少ない」とか「私立大所属が少ない」「既得権益」とか、思いついたことをとりあえず言っている感じですね。これらは中身を伴わない、何の意味もない言葉です。「何も考えていないんだろうな、この人は」と思いますね。ポリシーがあって言っているわけではないことが分かってしまう。

 つまりは姑息なんです。姑息は「ひきょう」という元々なかった意味で使われることが多いですが、本来の意味は「その場限り」。菅さんはその場限りの答弁を繰り返して当座をしのぎ、いずれ国民が飽きて聞く気がなくなるのを待っているんでしょう。

しかし、最後の設問に対する次の回答の一部にやや違和感がある。

――改めて、学術会議の任命拒否問題についてはどう考えていますか。
 ◆すぐに学問の自由を侵すことにはならないと思います。ただ、今回が最初の一歩で、これから同じようなことが続いていくかもしれない。「アカデミズムは政府が主導できる」なんて考えられたら、たまったものではない。その意味で、政府がアカデミズムに介入できてしまった今回の経験は非常に恐ろしい。将来的には国立大の教授人事とかにも関わってくるかもしれない。そうなったらもっと恐ろしいし、絶対にやめてほしい。
 国家権力がアカデミズムや芸術といったものに触っちゃうと、貧しい国になります。豊かさというのは、いろいろな考えがあって初めて成り立つものです。それは歴史的にも明らかです。だから今回の任命拒否を認めてはなりません。

「『アカデミズムは政府が主導できる』なんて考えられたら、たまったものではない。その意味で、政府がアカデミズムに介入できてしまった今回の経験は非常に恐ろしい。」「だから今回の任命拒否を認めてはなりません。」は、まことにもってそのとおりである。しかし、「すぐに学問の自由を侵すことにはならないと思います。」には、賛成しかねる。今回の任命拒否は、直ちに「日本学術会議法に違反」し、かつ「学問の自由を侵す」ことにもなるのだ。

日本国憲法は、人の精神活動の自由を、内面の「思想・良心」の自由(19条)と、自由に形成された「思想・良心」を外部へ表出する「表現の自由」(21条)の両面において保障している。「学問の自由」(23条)の保障が、19条と21条に重なる「研究の自由・研究結果発表の自由・教授の自由」だけであれば、日本国憲法が旧体制の反省の中から、大日本帝国憲法を克服して制定された意義を没却することになると考えねばならない。

19条と21条とは別に、「学問の自由の保障」(23条)を定めた憲法の趣旨は、19条と21条ではカバーしきれない、「学問研究機関の権力からの独立性」「学問研究者の自律性」をこそ憲法の保障として重視すべきであろう。

伝統的な憲法学は、「学問の自由の保障」(23条)規定を、その制度的保障としての「大学の自治」に重点を置いて解説する。「自由」よりは「自治」「自律」が客観的法規範として重要なのだ。これまで、「大学の自治」として論じられてきたのは、伝統的に大学が主たる学問研究機関であったからであり、ポポロ事件など判例が大学を舞台とするものであったからでもある。しかし、日本学術会議は、まぎれもなく学問・学術の専門家集団であり研究機関でもある。設立の趣旨からも、憲法23条にもとづく「自治」「自律」が保障されるべきことは明らかと言わねばならない。

だから、政権が日本学術会議の人事に介入することが、直ちに学術会議の自治・自律を侵すものとして、「学問の自由」(憲法23条)を侵害することになる。菅政権は、自らの憲法違反を認識しなければならない。

負けを認めないトランプと、トランプの負けを信じたくない支持者たちと。

(2020年12月3日)
自分の望まない真実は、なかなかに受け容れがたいもの。時に人は、厭うべき歴史を修正して認識し、望ましからぬ眼前の事実さえも否定する。

戦後長く、ブラジルやハワイの日本人社会に、「勝ち組」と「負け組」の熾烈な対立があった。「勝ち組」とは、天皇制日本の敗戦を認められない人たちである。神国の敗北という情報は、敵の謀略であり陰謀に違いないと本気になって信じていた。いまだに繰り返される、「南京大虐殺はなかった」「関東大震災時の朝鮮人虐殺はデマだ」の類は、日本人性善説を信じたい人々の同じ心理のなせる業。

いま、トランプが「勝ち組」を煽動している。バイデンの大統領選勝利は不正があったからに違いない。これは、大がかりな謀略であり陰謀の結果である。本当はトランプが勝っていたのだ。「真実のために最後までたたかう」というトランプ自身の悪あがきは、政治的な計算あってのことだろうが、多くのトランプ支持者が本気でトランプの逆転勝利を信じているという。

NBCテレビの集計によると、トランプ陣営や関係者が各地で起こした選挙関連訴訟は少なくとも41件あるという。そのうち、既に27件が敗訴や取り下げに追い込まれた。トランプ側勝訴は一件もない。14件が、未確定ということになるが、常識的に選挙結果の逆転はあり得ない。

とうとう、トランプ政権のウィリアム・バー司法長官(法務大臣に相当)までが、「大規模な不正は見つかっていない」「大規模不正見つからず」と、AP通信のインタビューに語るに至っている。「集票システムが操作されるなど組織的な不正行為があったとの主張に対して国土安全保障省と共に調査したが、その事実を裏付けるものは何も見つかっていない」と明言したとの報道である。

もちろん、バーは共和党員。トランプに最も忠実な側近の一人だという。その司法行政担当閣僚によるギブアップ宣言である。悪あがきも、これでおしまいだと思うのが普通の感覚だが、それでも自分の望まない真実はなかなかに受け容れがたいものなのだ。トランプ陣営は、法廷闘争を続ける姿勢を改めて強調する声明を発している。

奇妙でもあり興味深くもあることは、日本国内の右翼諸君がトランプの「勝ち組」と同じ心理状況となっていることだ。

11月29日(日)に、「『トランプ米大統領再選支持』集会・デモ In 東京」という催しがあった。そのポスターが、「決着はまだついていない」「マスコミのフェイクに惑わされるな」「日本の左派、マスコミの巨悪を許さない」というもの。「正義は必ず勝つ」という、神風待望論もここでは健在なのだ。

アジア太平洋戦争の末期を彷彿させる。客観的な戦況を無視して、負けを認めない天皇や軍部と、皇国の敗戦を信じたくない国民たちとの関係。今のトランプと、その支持者たちによく似ているではないか。

「議会開設130年記念式典」 ー この奸悪なるアナクロニズム

(2020年11月30日・連続更新2800日)
昨日(11月29日・日曜日)国会では、「議会開設130年記念式典」なる催しがあった。不明にして、こんな行事の予定があったことは知らなかったが、参列者全員マスクを着けてのやや滑稽な儀式。コロナ禍のさなかに不要不急な行事の典型でもある。税金の無駄使いというだけではない、そんな暇があったら臨時国会の会期末が近い貴重なこの一日、集中審議に使ったら国民のためにさぞかし有益であったろうに。

マスクの天皇(徳仁)は、式辞で新型コロナウイルスの感染拡大で世界各国が困難な状況に直面しているとした上で、「国会が国権の最高機関として、国の繁栄と世界の平和のために果たすべき責務はますます重要になってきていると思います」と、述べたそうだ。おやおや、天皇の言としては少し危うい。「国会の…果たすべき責務は、ますます重要になってきている」などという上から目線調、天皇が主権者に向かっていう言葉だろうか。

130年前、1890年11月29日に明治天皇(睦仁)が、第1回の貴族院開院式で「朕 貴族院及衆議院ノ各員ニ告ク」と、正真正銘の上から目線で勅語を発し、これに対して貴衆両院は、臣下として「奉答文」を奉ったという。11月29日は、国民主権の国会開設の日ではなく、天皇協賛の帝国議会が始まった記念日なのだ。そんな日を記念して、議会開設記念式典は1990年から10年ごとに実施されているという。バカバカしさに呆れるしかない。

各党各会派の代表者らが出席する中、共産党だけは「戦前の帝国議会と戦後の国会の歴史を厳格に区別していない」との理由で欠席した(共同)という。これは救いだが、どうして欠席は共産党だけなのだろうか。他の議員は、みんな喜々としてこんな式典に出席しているのだろうか。議員諸君の知性のレベルと、社会的同調圧力の底の深さを見る思いである。

あらためて、この式典の狙いを考えざるを得ない。「明治100年」も「150年」も、「元号」も、「日の丸・君が代」も、そしてなにより天皇制の存続自体が、敗戦と新憲法の制定で、日本社会の構造が根本的な転換を遂げたことを覆い隠そうというものなのだ。戦前の天皇制国家との断絶を明確に意識するところから、国民主権も、民主主義も、人権も、恒久平和も出発する。戦前も戦後も、帝国議会も国会も、連綿と続いているというイデオロギーを峻拒しなければならない。

なお、この日の式典では新型コロナ感染の危険に配慮して、国歌(「君が代」)は斉唱せずに演奏のみが行われたという。別に、唱わなかったからといって、何の不都合もなかったはず。次には演奏を止めてみてはいかがか。そして、全国の学校でも、これに倣ってまずは斉唱を止めてみるべきであろう。

安倍晋三擁護の妄言に反駁する。

(2020年11月27日)

「桜を見る会・前夜祭」問題では、再度世論が沸騰している。さすがに、誰もが「安倍晋三は汚い」「国民と国会を愚弄した虚偽答弁書の責任は重い」と考えざるを得ない。しかし、こういうときにも、必ず権力批判に水を差し、汚い政治家にヨイショ(迎合)する輩が出て来る。このヨイショは、潔癖さを欠いた同類人物の「嘘つき擁護」であり、また、お仲間の麗しい「共助」の精神の発揚でもある。たとえば、一昨日(11月25日)の「ムネオ日記」。維新の会の参院議員鈴木宗男がブログで、拙い安倍晋三擁護論を試みている。その抜粋を紹介して、批判しておききたい。

「安倍前総理の後援会が「桜を見る会」で上京した際、ホテルでの会食費を巡り、メディアが大きく扱っている。」

 鈴木宗男ブログのこの冒頭の一文、原文のママである。主語と述語、修飾語と被修飾語との関係が不明瞭で、文意必ずしも明確ではないが、無理にも文章を整えれば、「安倍前総理の後援会員が『桜を見る会』のために上京した際に行われる、安倍晋三後援会主催のホテルでの会食の費用を巡る問題を、メディアが大きく扱っている。」というところだろうか。

問題の舞台は「桜を見る会」ではなく「前夜祭」であるが、「前夜祭」という言葉が出て来ない。筆者(鈴木)の頭の中で、内閣総理大臣主催の公的行事である「桜を見る会」と、政治家安倍晋三後援会主催の「桜を見る会前夜祭」の区別がしっかりできていないからか、あるいは単に「会食」と表現することによって、メディアはいかにも些細なことで騒いでいると言いたいのか。

メディアが大きく扱っていることを、「上京した際のホテルでの会食費」と表現することはまことに不正確で不適切。会の正式名称は、「桜を見る会前夜祭」である。政治家安倍晋三の後援会が主催する山口4区選挙民およそ800人を招待したホテルニューオオタニ東京での宴会。この飲み食いに、会費5000円以上の資金が政治家安倍晋三側から注ぎ込まれていたというのだ。検察のリークであろうとなかろうと、マスコミ各社が自分の足で調べて確認したことを報道しており、「安倍事務所周辺」も認めている事実。首相(当時)の犯罪疑惑なのだ。些細な問題ではない。

 「…野党に言いたい。捜査中の案件なのに、安倍前総理に参考人招致を要求するとはなんたる事か。民主主義を否定する行為である。」

 これは驚いた。こんなに居丈高に野党を非難し、安倍を擁護する必要もあるまいに。この人の頭の中にある「民主主義」とは、いったい何なのだろうか。最高権力者の刑事訴追を防御する道具として持ち出されては「民主主義」も随分と迷惑なことだろう。

捜査中の案件だから国会に呼び出してはならないという理屈は通らない。捜査は刑事司法の作用であり、国会への招致は刑事司法とは無関係な国権の最高機関である国会の活動の一端である。両者は、要件も効果も趣旨も異なる。それぞれ独立に進行するもので、一方の手続が開始されれば、他方の手続が停止すべき根拠はない。ことは、国会における虚偽答弁疑惑の解明である。国会の権威も、自浄能力も問われている局面である。国会招致を躊躇するようなことがあれば、悪しき前例として今後に禍根を残すことになろう。

何よりも、捜査されていることを錦の御旗にする安倍晋三擁護派の疑惑隠しは、見苦しい。「安倍前総理に参考人招致を要求するとはなんたる事か」とは、それこそなんたる言い草か。

 「安倍前総理は逃げ隠れしない。『捜査には全面的に協力する』と言い、『捜査中だから今は話せない』と正直に、公(おおやけ)に話している。これで十分ではないか。」

「安倍前総理は逃げ隠れしない。」のであれば、堂々と国会で真実を吐露すればよい。国会の招致には応じない、国会ではしゃべらない、としている態度を「逃げ隠れ」しているというのだ。鈴木ツィートは、安倍晋三に「逃げ隠れ」を勧奨しているにほかならない。

『捜査中だから今は話せない』を逃げ口上という。真実は、ひとつではないか。身の潔白の弁明にせよ、深刻な自白にせよ、「今は話せない」ことが、後でなら話せることにはならない。求められたときに話さなければならない。また、安倍晋三と言えば、「丁寧にご説明します」と言って、説明をネグレクトしてきたことで名高い。「今は話せない」「後で話す」を真実とは受けとめてもらえない。自業自得というものだ。

「安倍前総理の秘書が『調べた結果、事務所からの持ち出しはありません』と報告、説明されたら、当時の安倍前総理はその報告をもとに国会答弁して当然ではないか。
 秘書の記憶違い、あるいは調査不足で、安倍前総理の答弁を全否定するよう話は公平・公正ではない。」

これは、はしなくも保守政治家の思考パターンを露呈した貴重な発言記録である。永久保存に値する。秘書の言い分を口移しに国会答弁することを、「当然ではないか」とする開き直り。「私の所為ではない、秘書が…」パターンの正当化である。国会を軽んじるにもほどがある。主権者国民を愚弄しているのだ。こんな政治家をしっかりと監視し、叱りつけなければならない。

本件は、「秘書の記憶違い、あるいは調査不足」などと言う生易しい案件ではない。しかし、仮に「秘書の記憶違い、あるいは調査不足」であったとしても、政治家たる者は、秘書の間違いの責任を取らねばならない。秘書は政治家の分身である。政治家は、秘書の間違いがないように、注意し監督する責任を負う。これを、秘書に責任を押し付けて、自らの保身をはかることは許されないのだ。国会議員とは、そのような重責を担う存在であることを自覚してもらわねばならない。

これだけの疑惑があり、これだけの虚偽答弁を重ねてきた安倍晋三である。国会は、その権威に掛けて、安倍晋三を国会に招致し、疑惑の真否を問い質さねばならない。これまで厖大な嘘を重ねてまた実績に鑑みて、参考人としての招致では生温い。安倍晋三を証人として喚問すべきが当然ではないか。

もちろん安倍晋三にも、憲法上の自己負罪免責特権が保障される。証人として国会に呼び出された場合には、黙秘権を行使しうることは当然である。では、どうせ黙秘権を行使するだろうから証人喚問は無駄、ではない。それは、どうせ尋問しても被疑者は黙秘権を行使するだろうから逮捕も尋問も無意味、という立論と同列である。

安倍晋三が、どのような質問に対してどのように回答し、あるいはどのような質問にどのように黙秘するのか、有権者国民が、自分の目でしっかりと見極める機会を得ることは極めて有益なのだ。鈴木宗男さんよ、そうは思わないか。

なお、当該のブログは下記URLでアクセスできる。

https://ameblo.jp/muneo-suzuki/entry-12640197749.html

 

田中優子法大総長が語る「見せしめによる萎縮効果」

(2020年11月9日)
菅義偉首相は法政空手部の出身だとか。空手部ではあっても、母校はまぎれもなく法政大学である。その法政の総長が田中優子。知名度抜群、歯切れのよい発言で知られるリベラル派の教養人。

菅首相とは反りの合うとも思えないが、そこは母校の総長である。創立以来初めての法政出身首相の誕生。黙っているわけにもいくまい。菅首相選任のその日に、大学は下記のメッセージを発表した。

お知らせ
本学卒業生 菅義偉さんの内閣総理大臣選出について

本学第一部法学部政治学科を1973年3月に卒業された菅義偉さんが、第99代内閣総理大臣に選出されました。
ご活躍を祈念いたします。

以上

2020年9月16日
法政大学」

虚飾のない、簡にして要を得た達意の文章というべきであろう。何よりも、「以上」の2字のニュアンスが絶妙である。阿諛追従の気配がカケラもなく、全文西暦表記もスガスガしい。

この9月のご祝儀メッセージは、10月にはガラリと変わった【総長メッセージ】となる。この10月メッセージに「菅義偉」の名は出て来ないが、まことに厳しく「本大学出身の内閣総理大臣」を叱責する内容となっている。そして、極めてオーソドックスに、学問の自由の立場から、日本学術会議会員任命拒否問題の重大性を語っている。

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日本学術会議会員任命拒否に関して

日本学術会議が新会員として推薦した105名の研究者のうち6名が、内閣総理大臣により任命されなかったことが明らかになりました。日本学術会議は10月2日に総会を開き、任命しなかった理由の開示と、6名を改めて任命するよう求める要望書を10月3日、内閣総理大臣に提出しました。

日本学術会議は、戦時下における科学者の戦争協力への反省から、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与する」(日本学術会議法前文)ことを使命として設立されました。内閣総理大臣の所轄でありながら、「独立して」(日本学術会議法第3条)職務を行う機関であり、その独立性、自律性を日本政府および歴代の首相も認めてきました。現在、日本学術会議の会員は、ノーベル物理学賞受賞者である現会長はじめ、各分野における国内でもっともすぐれた研究者であり、学術の発展において大きな役割を果たしています。内閣総理大臣が研究の「質」によって任命判断をするのは不可能です。

また、日本国憲法は、その研究内容にかかわりなく学問の自由を保障しています。学術研究は政府から自律していることによって多様な角度から真理を追究することが可能となり、その発展につながるからであり、それがひいては社会全体の利益につながるからです。したがってこの任命拒否は、憲法23条が保障する学問の自由に違反する行為であり、全国の大学および研究機関にとって、極めて大きな問題であるとともに、最終的には国民の利益をそこなうものです。しかも、学術会議法の改正時に、政府は「推薦制は形だけの推薦制であって、学会の方から推薦いただいたものは拒否しない」と国会で答弁しており、その時の説明を一方的に反故にするものです。さらに、この任命拒否については理由が示されておらず、行政に不可欠な説明責任を果たしておりません。

本学は2018年5月16日、国会議員によって本学の研究者になされた、検証や根拠の提示のない非難、恫喝や圧力と受け取れる言動に対し、「データを集め、分析と検証を経て、積極的にその知見を表明し、世論の深化や社会の問題解決に寄与することは、研究者たるものの責任」であること、それに対し、「適切な反証なく圧力によって研究者のデータや言論をねじふせるようなことがあれば、断じてそれを許してはなりません」との声明を出しました。そして「互いの自由を認めあい、十全に貢献をなしうる闊達な言論・表現空間を、これからもつくり続けます」と、総長メッセージで約束いたしました。

その約束を守るために、この問題を見過ごすことはできません。

任命拒否された研究者は本学の教員ではありませんが、この問題を座視するならば、いずれは本学の教員の学問の自由も侵されることになります。また、研究者の研究内容がたとえ私の考えと異なり対立するものであっても、学問の自由を守るために、私は同じ声明を出します。今回の任命拒否の理由は明らかにされていませんが、もし研究内容によって学問の自由を保障しあるいは侵害する、といった公正を欠く行為があったのだとしたら、断じて許してはなりません。

このメッセージに留まらず、大学人、学術関係者はもとより、幅広い国内外のネットワークと連携し、今回の出来事の問題性を問い続けていきます。

2020年10月5日

法政大学総長 田中優子

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《研究者の研究内容がたとえ私の考えと異なり対立するものであっても、学問の自由を守るために、私は同じ声明を出します。今回の任命拒否の理由は明らかにされていませんが、もし研究内容によって学問の自由を保障しあるいは侵害する、といった公正を欠く行為があったのだとしたら、断じて許してはなりません。》は、本質を衝くものだと思う。

なお、2018年5月16日声明の《国会議員によって本学の研究者になされた、検証や根拠の提示のない非難、恫喝や圧力と受け取れる言動》とは、杉田水脈衆院議員による山口二郎教授に対する科研費問題での言われなき非難、橋本岳議員による上西充子教授に対する事実誤認の誹謗の2件を指す。「圧力によって研究者のデータや言論をねじふせるようなことがあれば、断じてそれを許してはなりません」という田中総長の学問の自由擁護に対する姿勢は付け焼き刃ではないのだ。

田中優子は、毎日新聞に「江戸から見ると」というコラムを連載している。11月4日付夕刊の最近のものが、「見せしめと萎縮」という表題。不粋ではあるが、このタイトルを補えば、「菅政権は、学術会議の推薦会員5名を任命拒否するという『見せしめ』によって、全国の研究者を『萎縮』せしめ、学問の自由をないがしろにしようとしている」ということなのだ。

抜粋して、ご紹介したい。

 江戸時代の処刑の一部は「見せしめ」刑であった。縛り上げて衆目にさらす、市中引き回しをする、斬首の後その首をさらしておく、などである。見せしめの効果はもちろん萎縮である。

 このごろ、江戸時代の見せしめと萎縮が人ごとだとは思えなくなってきた。政治家や官僚だけでなく、大学関係者、研究者、執筆者たちが萎縮し始めている。萎縮の典型は「政権を批判したら、報復として不利な立場に置かれるかもしれない」という、報復政権への恐怖感に由来する推測だ。

 それとともに起こっているのが「ご飯論法」として知られるようになった「すり替え」である。政権の論法が人々に伝染してしまったかのように、さまざまなすり替えを耳にするようになった。こういう状況は、戦後日本で初めてではないだろうか。(法政大総長)

疾風に勁草を知る、という。この疾風の時代に、田中優子総長には、頼もしい勁草であり続けていただきたい。

青は藍より出でて藍よりも青く、スガはアベより出でてアベよりも奸佞なり。

(2020年10月27日)

 この8年近く、アベ政権の愚劣さ醜悪さにはほとほとウンザリだった。8月末にようやく幕引きとなって、少しはまともな新政権誕生かと期待したが、結局はアベ承継内閣の成立だという。なんということだ。

 まったく同感だ。これまでの自民党政権は、振り子のように政策の交替を繰り返してきた。ダーティ極まるアベ政権が終わったらクリーンなイメージに転換するかと思いきや、これまでアベ政権を動かしてきたスガが首相とは驚いた。操り人形が捨てられて、人形使いが表舞台に姿を現したという印象。「アベ・スガ政権」と一体のものとして捉えるしかないね。

 しかも、政権発足直後に、早くも日本学術会議人事に対する介入事件。これは、ひどいね。この強引さ、この説明拒否の頑なさは、アベ以上のものではなかろうか。

 スガはアベ承継内閣と自称しているが、強権性やあくどさはスガの方が強いのかも知れない。「スガはアベより出でてアベよりも奸佞」な印象をもたざるを得ない。

 スガが敢えてした学術会議の推薦会員任命拒否、この事態の重大さをいったいどう捉えたらいいのだろうかね。

 いったい、今の時代にあることなのかという、とても不気味な感じがする。
1925年の治安維持法制定以来、国体思想・皇国史観は異論を許さないものとなっていった。1930年代には、さらに極端な思想弾圧事件が続いた。一口に言えば、中国への侵略戦争の深刻化とともに、国家が国民にたいする思想統制を深化し、さらに大きな戦争の準備をした。スガ政権のこの強引な権力的やり口に、当時を想起せざるをえない。

 天皇制政府が、国体思想・皇国史観で国民精神を一色に染め上げるために、教育もメディアも宗教も支配したことは周知の事実だ。それとならんで、科学や学問の統制にも異常に熱心だった。主なものだけでも、京大の滝川事件、東大美濃部達吉の天皇機関説事件、そのあとの矢内原事件、河合栄治郎事件、津田左右吉事件などと続く。あの時代のことは現代とは断絶した過去のもので、繰り返されることなどあり得ないと思っていたけどね。

 いずれの事件も、他の研究者に対する恫喝効果は十分で、官許の学問しか許さないという天皇制政府の思想統制は成功したと言ってよいだろう。津田左右吉の古代史に関する著作4冊が発売禁止となったのが、1941年の2月。津田と出版元の岩波茂雄が、出版法違反で起訴されたのが3月だ。出版物が「皇室ノ尊厳冒瀆」に当たるということでの起訴だった。この辺りで、思想統制は完成し、この年の12月に太平洋戦争が始められている。研究者も戦争協力を強制された。

 今、そんな時代の再来を心配をしなければならないのだろうか。

 もちろん、すぐにそうなるとは思わない。しかしね。日本は天皇制権力による思想統制を反省して戦前を清算したはずだった。戦後日本の政権は権力行使に謙抑的でなくてはならず、国民の思想・信条・良心に踏み込んではならない。それが当たり前のことだった。その当たり前が、当たり前ではなくなったことに衝撃を受けざるを得ない。戦後民主主義が崩れていく、という不気味さだ。

 そうだね。学術会議は戦前を反省して1949年に、政府からの「独立」を金看板に設立された。学術会議法にも「独立して職務を行う」と明記され、設立総会では、当時の吉田茂首相が、学術会議を「国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておる」と祝辞を寄せているそうだ。政府の意のままになる機関としてなら、存在意義はない。

 学術会議法の前文には、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」とある。学術会議は「平和のための学術」を目指した組織であって、「平和のための学術」には「政府からの独立」が不可欠と考えられていたわけだ。

 そうか。吉田茂の言質は投げ捨てられて、スガは学術会議の「政府からの独立」を崩壊させようとしている。それは、「平和のための学術」が邪魔になったからだというわけか。

 法的には、思想・良心の自由や、学問の自由の侵害が問題にされるが、実は「平和のための学術の独立」が標的とされているということが、問題の本質ではないかと思うんだ。

 なるほど、10月23日に、櫻井よしこら右翼が、産経・読売に掲載した意見広告がこう言っている。

「学術会議は、連合国軍総司令部(GHQ)統治下の昭和24年に誕生しました。…日本弱体化を目指した当時のGHQは学術会議にも憲法と同様の役割を期待したのでしょう。会議はこれに応えるように「軍事目的の科学研究は絶対に行わない」との声明を何度も出してきました。憲法も学術会議も国家・国民の足枷と化したのです。」

 学術会議は、「軍事目的の科学研究は絶対に行わない」という、その姿勢が、政権や右翼から叩かれているということなんだ。

 そもそもこんな露骨なことを、政権が表立ってできる時代になってしまったかと慨嘆せざるを得ない。こんなことが2度とないようにという戦後民主主義だったはずだが、アベ・スガ政権がこれを骨抜きにしようとしている。

 右翼の意見広告も、「日本を否定することが正義であるとする戦後レジームの「遺物」は、即刻廃止すべきです。国家機関である日本学術会議は、その代表格です。」と言っている。人権も民主主義も平和も、右翼や政権から見れば「日本を否定すること」で、戦後レジームの「遺物」なのだ。いま、この問題を機に、政権と右翼が日本国憲法体制を押し潰そうとしているのではないか。

 こんな政権の理不尽を許す世の中の雰囲気が心配だ。戦前においても、決して裸の権力が暴走して左翼やリベラルを弾圧したというわけではない。むしろ、右翼の跳梁や、新聞論調に煽動された民衆の声に乗せられた形で官憲が動くという構図の方が一般的だった。今、学術会議に対する政権の攻撃に呼応した、右翼メディアや右翼言論人による、デマ宣伝や論点すり替えの発言が目に余る。この景色が、薄ら寒い。

 確かに、真っ当な言論と政権ゴマすり言論との、分断と角逐が激しい状況になってきているね。政権寄りの意見を言うのは安全だけど、政権批判の発言には覚悟が必要な時代になっているという印象は僕にもある。

 今、マルティン・ニーメラーの詩を引用する人が増えている。アベスガ政権のやり口にナチスにも似た不気味さを感じているからだ。

 ナチスとたたかった、あの牧師の詩だね。今、噛みしめてみる必要がありそうだ。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

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