澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「戦争の狂気」はいかに人を蝕むか

東京新聞に、「ドナルド・キーンの東京下町日記」という毎月1回掲載の連載コラムがある。これが毎回なかなかに読ませる。本日(12月4日)は「玉砕の悲劇 風化恐れる」という標題。彼が戦争中通訳として付き合いのあった軍医の思い出を通じて、「戦争がもたらす狂気」の一端を記している。必要なところだけを抜粋して紹介したい。

「太平洋戦争時、米海軍の通訳士官だった私(キーン)がハワイの日本人収容所で知り合った、元日本兵の恩地豊さんが亡くなった。享年百三歳。戦後、敵味方のわだかまりを越えて付き合った元捕虜は何人かいた。一人減り、二人減り、恩地さんが最後の一人。」「戦争末期、恩地さんが陸軍の軍医として派遣されたパラオ諸島ペリリュー島は、最悪の激戦他の一つだった。兵力、装備で米軍は圧倒的。日本軍は押されながらも徹底抗戦して、最後は玉砕した。一万人以上が戦死。恩地さんは奇跡的に生き残り、捕虜になった。」
「収容所は不思議な場所だ。命を懸けて戦った敵国から、戦地よりも快適な生活環境が与えられる。『生きて虜囚の辱めを受けず』と洗脳されていた捕虜のほとんどは『死にたい』『日本には戻れない』と頭を抱えた。だが、恩地さんは堂々としていた。戦前から、海外の医学論文を読んでいたインテリだから、海外事情に通じ、捕虜の扱いを定めたジュネープ条約も知っていたのだろう。尋問にも冷静に応じた。」
「(恩地さんは、戦後)『何であんな戦争をしたのか。国力、科学力の差からして勝てるはずがなかった』『少しでも海外事情を知っている人は、戦争を始めた東条英樹を嫌っていた』とつぶやくことが多かった。同島の激戦は狂気の沙汰だった。日本軍には、本土への攻撃拠点にさせまいとの防戦だったが、より本土に近いフィリピンの島が米軍に占領された段階で戦略的に抵抗は無意味になった。それでも日本兵は『バンザイ』と突撃して、散った。」「その矛盾を恩地さんは頭で理解しながらも、自らの戦いは肯定した。『三日で決着する、と言っていた米軍相手に、三カ月粘った』『捕虜になるまでの二カ月は飲まず食わずで頑張った』」

キーンの筆は冷静に最後を次のように締めくくっている。
「目の前で多くの僚友を失った彼の複雑な心境は分からないではない。だが、そう思ってしまうのも狂気の一部なのだろう。私たちは先の戦争から多くを学んだ。恩地さんのような体験者の死で、それが少しでも風化することを私は恐れる。」

「狂気」は、戦略的に無意味で勝ち目のない戦闘での突撃だけをいうのではない。「粘った」「頑張った」「よく闘った」と自らの戦いを肯定するその姿勢をも「狂気の一部」というキーンの見解が重い。東条を嫌い、国際事情にも通じているインテリにおいて、この「狂気」から逃れられないというのだ。

このキーンのいう「狂気」こそが、実は靖國を支える心情なのだ。戦没者の遺族だけでなく、その戦いでの生存者も、戦死者を貶めたくはない。その死を無意味な犬死とはしたくない。できれば、大義のある死であって欲しいとの思いが、戦闘をあるいは戦争をも意味づけせずにはおかれぬことになる。戦死者を英霊と称えるには、戦争を美化するしかない。歴史を歪曲する心情がここから生まれる。

私は、日本兵の捕虜といえば、盛岡の柳館与吉さんを思い浮かべる。
私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父(澤藤盛祐)も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされてはいる。柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。

その後、柳館さんと親しくなって、戦時中のことを聞いて仰天した。
彼は、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。

戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。

柳館青年は、国家のために命を捨てるか国家に叛いて自らの生を全うするか、国家と個人と極限的な状況で二者択一を迫られた、という葛藤とは無縁だったようだ。

戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながら投降することが可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。

しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1952年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸軍刑法(海軍刑法も同様)は、戦時中猛威を振るった。その第7章「逃亡罪」は以下のとおりである。

第七章 逃亡ノ罪
第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十六条 党与シテ前条ノ罪ヲ犯シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ首魁ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ死刑、無期若ハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ首魁ハ無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ一年以上十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ首魁ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十七条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス

第七十八条 第七十五条第一号、第七十六条第一号及前条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
(以上はhttp://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm41-46.htm「中野文庫」で読むことができる)

敵前逃亡は「死刑、無期もしくは5年以上の懲役または禁錮」である。党与して(徒党を組んで)の敵前逃亡の首謀者は「死刑または無期の懲役もしくは禁錮」とされ、有期の選択刑はない。最低でも、無期禁錮である。さらに、「敵に奔(はし)りたる者」は、「死刑または無期懲役・禁錮」に処せられた。単なる逃亡ではなく、敵に投降のための戦線離脱は、個人の行為であっても、死刑か無期とされていたのだ。未遂でも処罰される。もちろん、投降現場の発覚は即時射殺であったろう。

世の中が「鬼畜米英」と言い、「出て来い。ニミッツ、マッカサー」と叫んでいた時代のことである。刷り込まれた戦陣訓や軍の規律への盲従が、死の恐怖にも優越する選択をさせていた「玉砕」の時代のこと。インテリの軍医ですら、最後まで闘ったその時代。当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、適切に状況を判断して生き延びたのだ。見つかれば、確実に死刑となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。

「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。ドナルド・キーンのいう、「戦場の狂気」から逃れることは難しいことだ。しかし、一億一心が狂気となった時代に、柳館さんはこの狂気に染まることはなかった。

私は、「貴重な体験を是非文章にして遺してください」とお願いした。その柳館さんも今は亡い。さて、「ネグロス島・兵営脱走記」は書かれているのだろうか。
(2016年12月4日)

ヤスクニ問題を世界に、国連に。前田朗報告から。

知り合いから、前田朗さん(東京造形大学)の「救援」(11月号と12月号にまたがるもの)への寄稿を教えていただいた。内容は、去る10月24日、韓国国会議事堂内の会議室で行われたという「靖国神社問題シンポジウム」の件。反靖国の運動がこのような形で展開されていることはまったく知らなかった。前田さんの長い論稿の中から、要点のみをご紹介したい。

シンポジウムのタイトルは、「靖国問題を国連人権機関に提訴するための国際会議―国際人権の視点からヤスクニを見る」だったという。主催はヤスクニ反対共同行動韓国委員会、民族問題研究所、太平洋戦争被害者補償推進協議会である。

開会の辞は姜昌一(韓国国会議員)、木村庸五(安倍首相靖国参拝違憲訴訟弁護団団長)、李海学(ヤスクニ反対共同行動韓国委員会共同代表)。

報告は次の七つであった。
徐勝(立命館大学)「国際人権の視点から靖国を見る」
前田朗「罅割(ひびわ)れた美しい国――移行期の正義から見た植民地主義」
南相九(東北亜歴史財団)「靖国神社問題の国際化のための提言」
浅野史生(靖国訴訟弁護団)「国際人権の視点からみたヤスクニ訴訟」
辻子実(平和の灯を!ヤスクニの闇へキャンドル行動・共同代表)「ヤスクニ反対運動の現況と課題」
矢野秀喜(植民地歴史博物館と日本をつなぐ会事務局長)「日本国憲法『改正』とヤスクニ」
金英丸(ヤスクニ反対運動韓国委員会事務局長)「韓国のヤスクニ反対運動、その成果と課題」

各報告の紹介がそれぞれに興味深いものなのだが、割愛する。が、一つだけ。

南相九報告は、まず「靖国神社問題とは」として、「日本の侵略から国家の独立を守るために戦った韓国の義兵戦争を『暴動』と蔑み、義兵を弾圧・虐殺した加害者を顕彰する施設」であり、「日本の侵略戦争に強制的に動員されて死亡した韓国人を『日本のための死』と歪曲する施設」であり、「侵略戦争と植民地支配を正当化し、国家に対する無条件の忠誠を教育する施設」であると位置づける。

これは苛烈な見解だ。そのとおりで反論はできないが、日本人の立場からはなかなかこうまでは言い切れない。戦没者遺族への配慮が、このようにきっぱりとものを言うことを躊躇させる。侵略戦争と植民地支配の被害者の立場でこその峻厳な正論というべきであろう。

さて、紹介しなければならないのは、メインテーマである「靖国問題を国連人権機関に」である。諸報告と討論を経て、前田は次のようにまとめている。

 第一に「普遍的定期審査」である。国連人権理事会においてすべての国連加盟国の人権状況を審査する普遍的定期審査であるが、日本についてはこれまで二回実施された。二〇一七年一〇月~一一月に日本政府についての第三回審査が行われる。

 第二に「宗教の自由特別報告者」である。国連人権理事会のテーマ別特別報告者の中に、宗教の自由を取り扱うハイナー・ビーレフェルト特別報告者がいるので、特別報告者への情報提供である。人権理事会の通常の討論の際にNGOとして発言することも可能である。

 第三に「補償・真実・再発防止特別報告者」である。パブロ・デ・グリーフ特別報告者に、日本は植民地支配終了後も補償するどころか、被害者に対する人権侵害を継続し、植民地主義を正当化している事実を報告できる。

第四に「国際自由権規約に基づく自由権委員会への情報提供」である。二〇一七年七月、自由権規約委員会は日本政府報告書審査のためにリスト・オブ・イッシューを作成する。日本審査は二〇一八年七月以降になる見込みである。

第五に国連人権機関以外に世界各国のNGOや宗教者への情報提供である。靖国神社問題の基本を理解しやすい文書を作成して広め(それを国連に持ち込むこともできる)、各国の市民・NGO・宗教者と連帯してシンポジウムを開催することも検討するべきであろう。

こうした活動は、反ヤスクニ運動の国際的展開を図るとともに、世界の市民・NGO・宗教者の自由を求める闘いと連帯して行われる必要がある。

こうした発想には、意表を突かれた思いがする。私などは、靖國とは日本固有の問題であり、歴史認識との関わりで日本人自身が解決しなければならない問題との意識が強い。外圧をたのむ姿勢には批判的見解をもっていた。しかし、靖國を戦争や植民地支配の問題ととらえれば、明らかに国外に被害者がいることになる。その靖國神社とこれを支持する勢力が反省なく、今も平和や国際友好を障害して被害感情を傷つけ、近隣諸国民の平和に生きる権利を侵害しているとの観点からは、国際化の方向の追求、つまりは「世界に訴えよう」「国連のしかるべき機関に問題を持ち出そう」ということになるのだ。

ここまで進んだ反ヤスクニでの日韓連携。次は、中国・台湾・シンガポール・マレーシァということだろうか。

なお、ほぼ同旨の詳細を下記の前田朗ブログで読むことができる。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2016/11/blog-post_2.html
(2016年11月29日)

日の丸・君が代強制から見えてくる神聖国家の思想

過日、ある著名な宗教学者をお訪ねして、お話しを伺う機会を得た。
当方の思惑は、入学式・卒業式での国旗国歌強制を必ずしも違憲とは言えないとする最高裁判決の論理を覆す材料がほしい。憲法学や教育学以外の分野での学問的成果の教示を得たいということである。

キーワードは、「『儀式的行事』における『儀礼的所作』」。最高裁判例は、入学式・卒業式を「儀式的行事」と言い、その式次第の中の国歌斉唱を「(慣例上の)儀礼的所作」という。

判決の当該個所の要旨は、次のようなもの。
「(国旗国歌についての)起立斉唱行為は、学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作として外部からも認識されるものであって、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、上記職務命令は、当該教諭に特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。」

最高裁は、何の説明もないまま自明のこととして、「起立斉唱行為=儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」とし、それゆえ、「特定の思想とは関係性をもたない」というのだ。本当だろうか。これでよいのか。

もちろん、多くの教員が「そんなはずはない。自分にとって国旗国歌(あるいは日の丸・君が代)は、自らの思想・良心に照らして受け入れがたい。とりわけ、教員である身であればこそ、児童・生徒の前での起立斉唱はなしがたい」という。しかし、最高裁は、これを主観的なものに過ぎないとして結局は切り捨てる。思想・良心は、すべからく主観的なものである。これを「主観的なものに過ぎない」と軽く見て、ごく形式的な基準で切り捨てられては、日本国憲法が思想・良心の自由を保障した意味がなくなる。

が、いま問題にしているのは、その前のこと。「儀式」・「儀礼」とは何を意味するのだろうか。「儀式・儀礼だから、これを強制しても、思想・良心とは関わりない」などと言えるものだろうか。

「儀式」・「儀礼」といえば、宗教と密接に関連するものではないか。宗教学者から意見を聞きたい、予てからそう考えていた。

悪名高い「自民党改憲草案」の第20条3項(政教分離条項)は、次のとおりである。
「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」

自民党は、20条3項に但書きを付することで、政教分離の壁に大穴を開けようとしている。その穴は、「社会的儀礼又は習俗的行為」である。おそらくは、神社参拝も玉串料や真榊奉納も、あるいは大嘗祭や即位の礼関連行事への参加も「社会的儀礼又は習俗的行為」としたいのだ。

自民党の「社会的儀礼又は習俗的行為」、最高裁の「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」。前者は20条(政教分離)の問題、後者は19条(思想・良心の自由)の問題として語られているが、さて、両者はどう関わるのだろう。

こんな問題意識で伺った宗教学者のお話しは、歯切れよくたいへん有益だった。幾つも、知らないことを教えていただいた。まとめると以下のとおりだ。もっとも、私が理解した限りでのことだから、正確性は期しがたいことをお断りしておく。

「文科省の調査で、卒業式に国旗国歌を持ち込んでいるのは、中国と韓国と日本だけ。これは東アジア文化圏特有の現象。儒教文化の影響と考えてよい。

儒教の宗教性をめぐっては肯定説・否定説の論争があるが、儒教の中心をなす概念「孝」とは直接の親を対象とするものではなく祖先崇拝のことで、祖先の霊を神聖なものとして祀るのだから宗教性を認めるべきだろう。

その儒教では、天と一体をなす国家を聖なるものとみる。国家は宗教性をもつ神聖国家なのだから、国旗を掲げて国歌を奏することは、神聖国家の宗教儀式にほかならない。これが、中国の影響下の儒教文化圏の諸国だけで、教育現場に国旗国歌が持ち込まれる理由だと思われる。

宗教には、幾つかのファクターがある。「律法・戒律」「教義」「帰依の信念」などとならんで、「儀礼」は重要なファクターである。祭りという神事も典型的な儀式・儀礼であって、神道は儀礼を重視する宗教である。儀礼だから宗教性がない、などとは言えない。

儀礼には宗教的なものと世俗的なものがあり、その境界は微妙である。ハーバート・フィンガレットという宗教学者が、直訳すれば「孔子ー世俗と聖」という書物を著している。邦訳では、「孔子 聖としての世俗者」となっているようだ。この書に、儒教における神聖な国家像が描かれている。

日の丸・君が代の強制は、儒教圏文化の所産である神権的天皇制国家の制度として作られた儀礼。とりわけ、参列者が声を合わせて一斉に聖なる国家を讃えて唱うという行為は宗教儀式性が高い。同調して唱うことに抑圧を感じる人にまで強制することが神聖国家を支える重要なシステムとなっている。

明治維新を準備した思想の柱は、国学ではなく儒学だと考えられる。その中でも水戸学といわれるもの、典型は会沢正志斎の「新論」だが、ここで國體が語られている。國體とは神なる天皇を戴く神聖国家思想にほかならない。これが、明治体制の学校教育と軍隊内教育のバックボーンとなった。戦後なお、今もこれが尾を引きずっているということだ。」

なるほど、骨格としてはよく分かる。これをどう咀嚼し、肉付けして、憲法論とし、裁判所を説得する論理として具体的に使えるものとするか。それが、私たち実務法律家の仕事になる。
(2016年10月20日)

国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー「九段の母」の二重の悲劇

8月31日の当ブログで紹介した、2008(平成20)年8月靖國神社社頭掲示の立山英夫「遺書」には後日談がある。

陸軍歩兵見習士官立山英夫は、日中戦争開始直後の1937年8月、初陣での斥候任務の途中で戦死した。その血まみれの軍服のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモには、天皇陛下も万歳も、「大君の辺にこそ死なめ」もなく、ひたすら「母恋し」の心情に溢れた歌が書き込まれ、そのあとに「お母さん お母さん お母さん…」と24回書き付けてあった。撃たれてから書いたのではなく、書き付けたものをポケットに忍ばせていたのだ。我が子の戦死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

死んだ兵の上官は、大江一二三(後に大佐)。この「遺書」に心を揺さぶられた大江は、立山の葬儀に弔電を送る。この弔電が、「ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモヲリヲリカヘレハハノユメヂニ(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に)」という歌になっていた。これに、当時の著名作曲家である信時潔が曲をつけて国民歌謡となり、全国で歌われた。

この歌の意味は、当時の国民にはよく分かったのだろうが、今では解説なくしては理解しえない。
野暮は承知で解釈してみれば、
「故人の魂は神となって靖国の宮に鎮座してはいるが、ときどきは恋しい母のもとに帰って、その夢にあらわれたまえ」
というところであろうか。

靖国の祭神となった子の魂は母の許にはない。国家が魂を独占し管理しているのだ、母の夢路に「をりをり帰れ」と言うのが精一杯なのだ。

わたしはこの話を、大江一二三の長男である大江志乃夫さんから聞いた。岩手靖国訴訟で、大江さんに学者証人として盛岡地裁の法廷に立っていただいた1983年夏のこと。このことは、法廷に提出された陳述書をもとに上梓された大江志乃夫『靖国神社』岩波新書(1984年3月)の終章にまとめられている。抜粋して引用しておきたい。

 この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は1936(昭和11)年6月から放送がはじめられ、翌年10月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
 現在でも多くの人に親しまれている島崎藤村の詩「椰子の実」が大中寅二作曲で国民歌謡として電波にのったのは、国民歌謡開始の年のことである。太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。これらのシリーズには、戦時中の作品では、北原白秋の詩に井上武士が作曲した「落葉松」、吉田テフ子作詞・佐々木すぐる作曲「お山の杉の子」、戦後の作品には、土屋花情作詞・八洲秀章作曲「さくら貝の歌」、横井弘作詞・八洲秀章作曲「あざみの歌」などがある。
 「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。1937年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の7月27日に動員が下命され、ただちに出動した。おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の8月20日、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に「お母さんお母さんお母さん……」と二四回もくりかえし書かれていた。
 立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「12・11・17」の日付となっている。…
 作曲家の信時潔は1963年11月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューアーにたいして-彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、-信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。

 父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
 あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。

「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。

「戦死者の魂を国家が独占する」ことについては、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)がこう言っている。(「偕行社記事 特別号」)

「人霊をそこへお招きする。此の時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。…一方に親しみという方の点が加わるものですから、なんとなく神様の前の拝礼あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。…それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」

これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということなのだ。大江一二三は「せめて、をりをりは母の許に」と言ったが、靖国の宮司はこれをも、「何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないか」と叱責の対象にしかねない。

 「九段の母」とは、子の命を国家に取られ、さらにはその魂までも国家に取られた「二重の悲劇」の母なのだ。
(2016年9月4日)

靖國の二面性ー「上からのA面」と「下からのB面」

8月も今日でおわる。戦争と平和を語るべき月の最後には、やはり靖國を語りたい。

靖國神社には、月毎の「社頭掲示」というものがある。「多くの方々に、祖国のために斃れられた英霊のみこころに触れていただきたいと、英霊の遺書や書簡を毎月、社頭に掲示しています。社頭にこれまで掲示した遺書や書簡は、『英霊の言乃葉』に纏めて刊行、頒布していますので、是非ご覧下さい」とのこと。

今月(2016年8月)の社頭掲示は、以下のとおりの「英霊の遺言状」。
遺言状 陸軍大尉 岡研磨命
(戦死による2階級特進での「大尉」。生前は少尉であったことになる。「命」は、祭神であることの敬称で「(の)みこと」と読む。なお、霊爾簿には、祭神の氏名の外、戦没年月日・出身地・軍における階級・勲等・金鵄勲章の等級が記される)
昭和十九年九月二十一日 西部ニューギニア方面にて戦死
福井県福井市手寄上町出身 四十七歳

 人生草露の如し。
 今栄ゆる御代に会ひ、醜の御楯となる本懐これに過ぐる事なし。
 母上に対し孝養足らず。遺族の幸福を願ひつつもその及ばざりしは余の不徳なり。深くこれを謝す。
 人生の行路平坦ならず。
 一同力を合はせ御国の為勇往邁進せよ。
 吾、御身等の身辺にありて必ず守護せん
。(原文のまま)

見方によっては、紋切り型の典型というべきだが、死後に、遺族だけでなく軍にも郷里の人びとにも読まれることを意識しての遺言である。到底率直な心情をつづることはできない。末尾3行は、既に護国の神としての言葉となっている。これ以外には、書きようがなかったのだろう。

「栄ゆる御代」「醜の御楯」「本懐」「御国の為」「勇往邁進」などの常套語句の羅列の中に、「人生草露の如し」「母上に対し孝養足らず」「遺族の幸福を願ひつつ」と無念さを読み取ることもできよう。

これとは対極のものをご紹介したい。2008(平成20)年8月の靖國神社社頭掲示である。

  遺 書
 陸軍歩兵中尉 立山英夫命
 昭和十二年八月二十二日
 歩兵第四七聯隊
 支那河北省辛荘附近にて戦死
 熊本県菊池郡隈府町出身

  若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
  出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
  己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
  己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
  あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
  あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
  母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
  母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
  生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
  母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
  生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
  母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
  生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ

 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん

これは、「覚悟の遺書」ではない。母にも他人にも読まれることを想定して書いたものではない。斥候として偵察に出た初陣で戦死した若い見習い士官のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモである。

メモ前半の長歌は、当時よく知られていた「感恩の歌」の一部をとって、独自の創作を付け加えたもの。そして、24回繰り返された「お母さん、お母さん、お母さん……」。母を思う子の心情が溢れて胸を打つ。ここには、「大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」というタテマエや虚飾が一切ない。

私は、このメモを読むたびに、不覚の涙を禁じ得ない。我が子の死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

靖國神社には二面性がある。その一面は、上から見た、国家が拵え上げ国民に押しつけた側面。戦没将兵を顕彰することで、戦争を美化し国民を鼓舞して、君のため国のための戦争に国民精神を総動員する装置としての側面。飽くまでこちらがA面である。

だがそれだけではない。国家によって拵え上げられた擬似的「宗教」装置ではあっても、夥しい戦没者の遺族にとっては、故人の死を意味づけ、これを偲ぶ場となっている。確実に民衆が下から支える側面がある。こちらがB面。B面あればこそのA面という関係ができあがっている。

「醜の御楯となる本懐これに過ぐる事なし」とは、A面を代表する遺言状。「お母さん、お母さん…」のメモは、B面に徹した遺品。A面だけではなく、B面も靖國にとっては、なくてはならない存在なのだ。

私は、B面に涙する。同時に、この涙する心情をA面に利用させてはならないとの痛切の思いを新たにする。A面は宗教的に構成されているのだから、政教分離とはA面の国家利用を絶対に許さないとする法原則と理解してよい。

戦争の犠牲者は自国民だけではない、軍人軍属だけでもない。戦没者の追悼のあり方は、祭神として靖國の社頭に祀ることだけではない。「お母さん…」と書き付けて亡くなった子と母の痛切な心情を、国家や靖國に囲い込ませてはならない。

戦死者を顕彰したり戦争を美化するのではなく、再びの戦争犠牲者を絶対につくらないと決意すること。いかなる理由による、いかなる戦争も拒否すること。国際協調と平和主義を貫徹する誓約をすること。これこそが本当に戦死者を悼み、戦死者と遺族の心情を慰めることになるのだ。
(2016年8月31日)

新宗連のいう「絶対非戦」と憲法9条

戦争と平和を語るべき8月が、もうすぐ終わろうとしている。

新日本宗教団体連合会(新宗連)の機関紙である「新宗教新聞」(月刊紙・8月26日号)が届いた。さすがに8月号。紙面は「平和」「非戦」で埋め尽くされている。トップの見出しが、「世界平和、絶対非戦の誓い新た」というもの。新宗連青年部が主催する「第51回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8・14式典)」を通じて、「世界平和と絶対非戦への誓いを新たにした」と報じられている。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた同式典では、「平和へのメッセージ」が発表され、参列者全員で「平和の祈り」を捧げ、戦争犠牲者への慰霊と世界平和の実現への誓いを新たにした、という。

「絶対非戦」を標榜する8・14式典の戦没者慰霊は、靖國での英霊顕彰とは異質のものである。

靖國神社は、「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社」(靖國神社の由緒)と自らを規定する。ここに祀られるものは、戦争の犠牲者ではない。戦没者ですらない。「国家のために尊い命を捧げられた」とされる軍人軍属に限られる。もちろん、交戦相手国の戦死者・戦争被害者は、「国家のために尊い命を捧げられた人々」ではありえない。ここにいう「国家」とは、大日本帝国ないしは天皇の国のことなのだ。

靖國神社は、皇軍軍人の御霊を「慰める」だけではない。「国家に命をささげた、事績を永く後世に伝える」つまり、英霊として顕彰するのだ。靖國には、戦争を悪として忌避する思想はない。君のため国のために闘うこと、闘って命を落とすというのは、崇高な称えるべき事蹟なのだ。

靖國には、客観的に戦争を見つめる視点は欠落している。創建の由来からも、軍国神社としての歩みからも当然のことなのだ。ひたすらに「忠死」を顕彰する盲目的な評価があるだけである。だから、日清日露は皇国の御稜威を輝かせた褒むべき戦争であり、植民地支配や日支戦争は五族協和のための戦争で、大東亜戦争は自存自衛のやむを得ざる正義の戦争であった、ことになる。靖國史観が歴史修正主義の代名詞となっているわけだ。皇軍がなくなり、旧陸海軍の管轄から脱して一宗教法人となって久しい現在においてなお旧態依然なのだ。

これに対して、新宗連の「すべての命を尊ぶ」「絶対非戦」論には、戦争肯定の思想がはいりこむ余地がない。主催者挨拶の中では、40年余にわたる「アジア青年平和使節団」の活動が紹介されている。現地での、日本軍によるアジアの人びと、連合軍捕虜の犠牲者への慰霊供養が語られている。すべての戦没者を悼み、霊を慰め供養をするが、けっして闘ったことを褒め称えることはない。戦争は「すべての命を尊ぶ」という教えに反する悲しいことで、いかなる理由をつけようとも、絶対に繰り返してはならないという姿勢が貫かれている。

靖國とは現実に戦争の精神的側面を支えてきた軍事的宗教施設であって、平和を祈るにふさわしい場ではない。新宗連が「すべての命を尊ぶ」「絶対非戦」という立場から、意識的に靖國とは異なる戦没者慰霊の行事を行っていることに敬意を表したい。

新宗教新聞の同号には、新宗連が8月8日付で内閣総理大臣安倍晋三宛に、「靖國神社『公式参拝』に関する意見書」を提出したとの記事があり、その意見書全文が掲載されている。

やや長いものだが、靖國神社への「公式参拝」自重を求める部分よりは、伊勢志摩サミットの際の、伊勢神宮参拝を問題にしている点が目を惹く。当該部分を抜粋して紹介する。
「総理は、本年5月26日、伊勢志摩サミットに出席した先進七ヵ国首脳を伊勢神宮にご案内されました。政府は、これを伊勢神宮への「訪問」であり、「参拝」ではない、と説明されました。しかし、伊勢神宮が正式参拝としている「御垣内参拝」を主要国首脳とともになされた総理の行動は、純然たる宗教行為であります。これを「訪問」とすることは、伊勢神宮の宗教性を踏みにじるものと、深く憂慮いたします。同時にそれは、「政府がどのような行為が宗教活動に該当するのかを価値判断する」ことを意味し、わが国の「政教分離」原則は、重大な危機を迎えるものといわざるを得ません。
 戦前から戦中にかけて、わが国では、多くの宗教団体が過酷な宗教弾圧を被りました。そのきっかけは、近代国家において「政教分離」原則がないがしろにされたことに始まったことを、私たち宗教者は忘れてはおりません。」
まったくそのとおりで、全面的に賛意を表したい。

また、同紙は、同じ8月8日、新宗連が自民党総裁安倍晋三宛に、憲法改正草案についての意見書(二)を提出したことを伝えている。 

この点についての新宗連の意見書は、先に2015年6月26日付で、自民党宛に提出されている。本格的で体系的な内容となっており、下記5点の問題を指摘して、「強く要望いたします」「削除を求めます」「強く反対いたします」などとされている。
一、憲法に国民の義務を記さないこと
二、「個人」を「人」と書き変えないこと
三、「信教の自由」を保障し、「政教分離原則」を堅持すること
四、「公益及び公の秩序」を憲法に盛り込まないこと
五、平和主義を守ること

意見書(二)は、その後の議論を踏まえて、改憲案の中の「緊急事態条項」についての意見となっている。内容は、「緊急事態条項」に関する一般的意見にとどまらない。独自性のポイントは次のとおりだ。
「私たちは、貴党・憲法改正推進本部が公表した九十九条『緊急事態の宣言の意味』三項において、緊急事態の宣言が発せられた場合においても最大限尊重されなければならない基本的人権に関して、十四条、十八条、十九条、二十一条が記されていながら、何故に二十条の「信教の自由」が明記されていないのか、未だに理解に至っておりません。」

緊急事態宣言下での信教の自由(憲法20条)の取り扱いに関わることで、細かいといえばかなり細かい。宗教者であればこその問題提起である。それぞれの分野で、自民党改憲草案を徹底して叩く見本というべきだろう。

また、同紙は、多くの宗教団体の「戦争犠牲者慰霊・平和祈願」の式典を紹介している。「大平和社会実現のための献身誓う」というPL教団の「教祖祭」が大きく扱われている。立証校正会の「平和祈願の日」式典は扱いが小さいが、その中で、庭野日敬開祖の次の言葉の紹介に注目せざるを得ない。

「危険をおかしてまで武装するよりも、むしろ平和のために危険をおかすべきである」

これこそ、憲法9条の精神ではないか。武装することによるリスクもあり、当然に武装しないリスクもある。憲法9条は、武装することによる相互不信頼のスパイラルから戦争に至るリスクを避けて、ありったけの知恵を働かせて平和のために非武装を貫くリスクをとったのだ。

宗教者のいう「絶対非戦」。これは、憲法9条の理念そのものではないか。「近代戦遂行に足りるものとならない限りは実力を持てる」「国家に固有の自衛権行使の範囲であれば戦力とは言わない」などという「解釈」を弄することなく、「自衛隊は違憲」でよいのだ。

私自身は神を信じるものではないが、真面目な宗教家の言には耳を傾けたいと思う。新宗連は政治的に革新の立場でもなければ、思想的に進歩の立場でもない。しかし、真面目に宗教者として生きようとすれば、アベ政権との確執は避けられないのだ。このような人たちとは、しっかりと手を結び合うことができるはずと思う。
(2016年8月30日)

ブルキニ禁止条例の効力を停止した、フランス立憲主義事情

フランスの憲法事情や司法制度には馴染みが薄い。戦前はドイツ法、戦後はアメリカ法を受継したとされる我が国の法制度には、フランス法の影が薄いということなのだろう。しかし、リベラルの本場であり、元祖市民革命の祖国フランスである。1789年人権宣言だけが教科書に引用ではすこし淋しい。ニュースに「ライシテ」(政教分離)やコンセイユ・デタ(国務院)が出てくると、呑み込むまでに一苦労することになるが、できるだけ理解の努力をしてみたい。

昨日(8月27日)の時事配信記事がこう伝えている。
【マルセイユAFP=時事】イスラム教徒女性向けの全身を覆う水着「ブルキニ」(全身を覆う女性イスラム教徒の衣装「ブルカ」と水着の「ビキニ」を掛け合わせた造語)をめぐり、フランスの行政裁判で最高裁に当たる国務院は26日、南部の町ビルヌーブルベが出したビーチでの着用禁止令を無効とする判決を下した。

 これを受け、保養地のニースやカンヌなど約30の自治体による同様の禁止令も、無効となる見通し。

 国務院は判決で、当局が個人の自由を制約するのは公共の秩序への危険が証明された場合に限られるが、ブルキニ着用にそのような危険は認められないと指摘。禁止令について「基本的自由に対する深刻かつ明白な侵害だ」と断じた。」

先月には、「『イスラム水着』リゾート地禁止 人権団体反発」との見出しで、「地中海に面するカンヌのリナール市長は7月28日、『衛生上、好ましくない』として、ブルキニ着用の禁止を発表した。また、『公共の秩序を危険にさらす可能性がある』ことも理由に挙げた。」と報道されていた。

私の理解の限りだが、イスラム世界には女性は他人に肌を露出してはならないとする戒律がある。この戒律に従う女性が海水浴をしようとすれば、ブルキニを着用せざるを得ない。ところが、フランスの30もの自治体が、条例でブルキニ着用を禁止した。違反者には、カンヌの場合38ユーロ(4300円)の罰金だという。罰金だけでなく、警察官が脱衣をするよう現場で強制までしている。常軌を逸しているとしか思えない。

ブルキニ禁止の理由として、「衛生上、好ましくない」「公共の秩序を危険にさらす可能性がある」があげられているが、いずれも根拠は薄弱。実は、イスラム過激派による相次ぐテロを受けて蔓延した反イスラム感情のなせる業だろう。驚くべきは、下級審の判断ではこの条例が有効とされたことだ。このほどようやく最高裁に相当するコンセイユ・デタ(国務院)で効力凍結となったというのだ。

フランスでは、2004年の「スカーフ禁止法」があり、2011年には「ブルカ禁止法」が成立している。公共の場でブルカを着用することは禁じられているのだ。違反すれば、着用者本人には罰金150ユーロ(約1万7千円)か、フランス市民教育の受講を義務づけられる。更に、女性が着用を夫や父親に強制されていたとすれば、強制した夫などには最高で禁固1年か罰金3万ユーロが科せられるという。こちらは、条例ではない。サルコジ政権下で成立した歴とした法律である。

一見、フランスは女性の服装にまで非寛容な、人権後進国かと見えるが、実は事態はそれほど単純ではない。ことは、フランス流の政教分離原則「ライシテ」の理解にかかわる。

ライシテとは、「私的な場」と「公共の場」とを峻別し、私的な場での信仰の自由を厚く保障するとともに、公共の場では徹底して宗教性を排除して世俗化しようとする原則、と言ってよいだろう。

このライシテは、共和政治から、フランスに根強くあったカソリックの影響を排除する憲法原理として、厳格に適用された。カソリックという強大な多数派との闘いの武器が、少数派イスラム教徒にも同じように向けられたとき、当然に疑問が生じることとなった。

その最初の軋轢が、1989年パリ郊外の公立学校で起こった「スカーフ事件」である。イスラム系女生徒がスカーフを被ったまま公立学校に登校することの是非をめぐって、「ライシテ原理強硬派」と「多文化主義寛容派」が激しく争ったのだ。

樋口陽一著「憲法と国家」に、この間の事情と法的解説が手際よくまとめられている。
事件の経過
「パリ近郊のある公立中学校で、イスラム系住民の3人の女生徒が、ヴェール(チャドル)をまとったままで授業に出席した。女性はヴェールで顔を蔽わなければならぬ、というイスラム教の戒律のシンボルを公教育の場にもちこむことの是非が、こうして問題となった。校長はその行為をやめさせようとし、女生徒と親は強く反撥した。
 これまでの、政教分離という共和主義理念からすれば、校長の措置は当然であった。フランス社会で圧倒的な多数を占めるカトリック教の影響力をも、執拗に公的空間から排除しようとしてきたからである。しかし、当時の社会党政権の内部では、異文化への寛容のほうを重んずべきだという主張が出てきた。国際人権擁護の運動家であるダニエル・ミッテラン夫人の立場は、そうだった。それに対しては、やはり同じ運動のなかから、「SOSラシスム」(人種差別SOS)のように、ヴェール着用の戒律こそ、一夫多妻制や女性の社会進出を許さない、差別のシンボルではないか、という再反論が返ってくる。」

コンセイユ・デタの「意見」
「当時文相をつとめていたジョスパン(後に首相)は、コンセイユ・デタ(国務院)の法的見解を求め、諮問に答えた同院の意見(1989年11月27日)は、ライシテ(政教分離)の原則と、各人の信条の尊重および良心の自由とがともに憲法価値を持つものであることを、条文上の根拠をあげてのべたうえで、こう言う。―「学校施設の内部で、ある宗教への帰属を示そうとするための標識を生徒が着用することは、宗数的信条の表明の自由の行使をなす限度において、そのこと自体でライシテ原則と両立しないものではない」。
この「意見」は、それにつづけて、「この自由」の限界を画す一般論をのべ、「具体的事件での標識着用がそのような限界をこえているかどうかは、裁量権を持つ校長の認定により、その認定は事後に行政裁判所のコントロールに服する」、とつけくわえている。

コンセイユ・デタの「判決」
 「意見」が一般論をのべたうえで想定していた問題処理の手順は、そのとおり現実のものとなる。3年あと、行政最高裁判所として判決を書くことが、コンセイユ・デタに求められたからである。同院は、1989年に「意見」のかたちで示した原則的見解を確認したうえで、同種の具体的事案について、女生徒を退校させた処分を取り消した(1992年)。
 校長の処分の根拠となった校則は、「衣服またはその他の形での、宗教的、政治的または哲学的性質を持つ目立つ標識の着用は、厳格に禁止される」、と定めていた。判決は、この規定を、「その一般性のゆえに、中立性と政教分離の限界内で生徒に承認される表現の自由…を侵害する一般的かつ絶対的な禁止を定めている」から無効だとし、「ヴェール着用の状況が…圧力、挑発、入信勧誘、宣伝…の行為という性格を持つこと」を処分者側は立証していないと指摘して、処分を取り消したのである。

樋口解説
 ここではまず、一方で政教分離、他方で信条・良心の自由という、ともに憲法価値をもつ二つの要素が対抗関係に立つという論理が、前提にされている。日本でのこれまでの圧倒的に多くの事例は、「信教の自由をまもるための政教分離」という図式で説明できるようなものだった。しかし、もともとライシテは、カトリック教会、およびそれと一体化した親たちが自分たちの信仰に従って子どもを教育しようとする「自由」の主張に対抗して、公教育の非宗教性を国家が強行する、というかたちで確立してきたのである。
 政教分離の貫徹よりも「寛容」と「相違への権利」を、という方向は、時代の流れではある。アメリカ合衆国では、「生徒と教師のいずれもが、校門に入るや憲法上の表現の自由を放棄したと論ずるのは不当」という判断を、生徒のヴェトナム反戦の言動に関して、最高裁がのべていた(1969)。

フランス共和制の大原則であるライシテは、強大なカトリックの支配から、あらゆる少数派信仰(無宗教者を含む)の自由を防衛する役割を果たした。ところが今、そのライシテが、多数派国民による民族的少数派への偏見を正当化する道具とされている。これに対抗する「寛容」「多様性」の価値を重んじるべきが当然と思うのだが、衡量論を超えた原理的な考察については整理しかねる。

とはいえ、ブルキニ禁止条例に関する、今回のコンセイユ・デタの「意見」は至極真っ当なものと言えよう。「ヴェール着用禁止が正当化されるためには、その状況が…圧力、挑発、入信勧誘、宣伝…の行為という性格を持つこと」という1992年判決踏襲の当然の結論でもある。反イスラム感情に駆られた多数派が民族差別的な人権規制をするとき、これに歯止めをかけたのだから、彼の国では立憲主義が正常に機能しているのだ。

振り返って日本ではどうだろう。違憲の戦争法が成立し施行となり、今や運用に至ろうとしている。これは立憲主義が正常に機能していないことを表している。嗚呼。
(2016年8月28日)

靖國神社とは、次の戦争を展望し「新たな英霊」を作る装置なのだ。

明日8月15日は敗戦の日。戦争国家・大日本帝国が滅亡して、平和国家・日本が新生した日。天皇の日本が死んで、国民の日本が生まれた日。どういうわけか、その日を選んでの靖國神社参拝者が多い。

靖國神社の案内にはこうある。
「明治5年に建てられた本殿には、246万6千余柱の神霊がお鎮まりになります。本殿内に掲げられた明治天皇の御製に触れると、靖国の杜に籠められた先人たちの想いが心の奥底にまで沁み透ってきます。」

おやおや。天皇の御製に触れないと「先人たちの想い」に触れることができない仕組みなのか。それにしても、「靖国の杜に籠められた先人たちの想い」の具体的内容を、神社はどのように考えているのだろうか。

靖國神社は改称前は東京招魂社と言った。戊辰戦争の官軍は、賊軍の死者の埋葬を禁じて、官軍の死者だけを祀った。これが招魂祭。友軍の死者の霊前に復讐を誓う血なまぐさい儀式であった。招魂祭では、西南諸藩の官軍を「皇御軍」(すめらみいくさ)と美称し、敵となった奥羽越列藩同盟軍を「荒振寇等」(あらぶるあたども)」と蔑称した。天皇への忠死者は未来永劫称えられる神であり、天皇への反逆軍の死者は未来永劫貶められる賊軍の死者としての烙印が押される。

招魂祭を行う場が招魂社となり、靖國神社となった。靖國神社とは、その出自において国家の宗教施設ではなく、天皇軍の宗教施設である。そして、怨親平等とは相容れない死者を徹底して差別する思想を今も持っている。

日本の文化的伝統とは無縁に、天皇制軍隊のイデオロギー装置として拵え上げられた創建神社・靖國。実は、戦死者を悼む宗教施設ではない。もちろん、平和を祈る場でもない。招魂祭の時代からの伝統を引き継いで、戦死者を顕彰するとともに、生者が霊前に復讐を誓う宗教的軍事施設なのだ。だから、戦死をもたらした戦争を批判したり反省する視点は皆無である。もちろん、戦争を唱導した天皇への批判や懐疑など考えもおよばない。

ときおり、その本質を確認してくれる人が現れる。かつては大勲位・中曽根康弘、そしてごく最近では、泣く泣く明日の靖國参拝をあきらめた防衛大臣・イナダ朋美である。この人は、極右的発言だけがウリの政治家。自ずと言うことがストレートで分かり易い。

このことを報じているのが、8月13日の「リテラ」。「参拝中止の裏で…稲田朋美防衛相が語っていた靖国神社の恐怖の目的!『9条改正後、国民が命捧げるために必要』」という記事。このところ、リテラ頗る快調である。面白い。読ませる。本日は、宮島みつや記者の長い記事の一部を抜粋させていただく。

  http://lite-ra.com/2016/08/post-2492.html

 稲田氏の“靖国史観”の危険性はそもそも、参拝するかどうか以前の問題だ。恐ろしいのは、稲田氏が靖国にこだわる理由が過去の戦没者の慰霊のためでないことだ。たとえば、彼女はかつて靖国神社の存在意義をこう説明していた。

 「九条改正が実現すれば、自衛戦争で亡くなる方が出てくる可能性があります。そうなったときに、国のために命を捧げた人を、国家として敬意と感謝を持って慰霊しなければ、いったい誰が命をかけてまで国を守るのかということですね」
 「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」(赤池誠章衆院議員らとの座談会、「WiLL」06年9月号/ワック)
 「首相が靖国に参拝することの意味は『不戦の誓い』だけで終わってはなりません。『他国の侵略には屈しない』『祖国が危機に直面すれば、国難に殉じた人々の後に続く』という意思の表明であり、日本が本当の意味での『国家』であることの表明でなければならないのです」(渡部昇一、八木秀次との共著『日本を弑する人々』PHP研究所)

 つまり、稲田氏にとって、靖国は先の大戦の慰霊の施設ではなく、国民をこれから戦地へ送り込み、国に命をかけさせるためのイデオロギー装置なのだ。むしろ、稲田氏の真の目的は、新たに靖国に祀られることになる“未来の戦死者”をつくりだすことにあるといっていいだろう。

 これは決してオーバーな表現ではない。実際、稲田氏はこれまで、国民が国のために血を流す、国のために命をささげることの必要性を声高に語ってきた。

 「国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです!」(講演会での発言)
 「いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない」(産経新聞2006年9月4日付)

 さらに前掲書では、“国のために命をかけられる者だけが選挙権をもつ資格がある”とまで言い切っている。

 「税金や保険料を納めているとか、何十年も前から日本に住んでいるとかいった理由で参政権の正当性を主張するのは、国家不在の論理に基づくもので、選挙権とは国家と運命をともにする覚悟のある者が、国家の運営を決定する事業に参画する資格のことをいうのだという“常識”の欠如が、こういう脳天気な考えにつながっているものと思います」
「「その国のために戦えるか」が国籍の本質だと思います」(前傾『日本を弑する人々』))

これまで長く、憲法改正は絵空事で、再びの戦争もリアリティがなかった。だからこれまでは、靖国参拝は過去の戦争の戦死者を悼むこと、と言って済まされてきた。しかし、戦争法が成立し、改憲勢力が議席の3分の2を占める今、「次の戦争」を構想し、「新たな戦死者」を想定する為政者にとって、「新たな英霊の顕彰」を現実の問題と考えざるをえない時代なのだ。過去の戦争の死者を悼むだけでなく、国民に新たな英霊となる決意や覚悟を固める場所としての靖國。イナダという極右の政治家が、靖國神社本来の役割を分かり易く教えてくれている。

そして、よく覚えておこう。「選挙権とは国家と運命をともにする覚悟のある者が、国家の運営を決定する事業に参画する資格のこと」というイナダの発言を。これが、アベ政権の防衛大臣なのだ。
(2016年8月14日)

稲田朋美核容認防衛大臣誕生の悪夢

都知事選の敗北を引きずっての8月である。脱力感が抜けないまま、はや原爆忌。この間、内閣改造があって、えっ? 稲田朋美が防衛大臣だと?。悪い冗談はほどほどに、と言わざるを得ないできごと。共和党の大統領候補となったトランプ同様の悪夢。と言うよりはリアリティのないマンガ的なできごとではないか。とはいえ、小池百合子都知事同様、イナダ防衛大臣が現実となっている。そもそもアベ政権の存在が、既に悪夢であり、信じがたいマンガ的できごとであり、冗談のはずの現実なのだ。

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8月3日深夜のイナダ就任記者会見は、さすがにご祝儀会見とはならなかった。記者諸君のツッコミはなかなかのもの。防衛省のホームページに防衛大臣臨時記者会見概要として掲載されている。
    http://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2016/08/04a.html

見出しをつけ、多少質疑の順番を入れ替えて整理してみた。少し長いがイナダなるものがよく分かる。ぜひ目を通していただきたい。イナダが、防衛大臣として不適任なこと明々白々ではないか。こんな人物を物騒な地位に就けては、日本の安全にもアジアの平和にも有害だ。もっとも、外の省庁なら適任という意味ではない。この人、過去の自分の発言に無責任だ。質問に噛み合った答弁の能力がない。言っていることが論理的整合性に乏しい。上手に切り返す政治的センスがない。答弁に余裕もユーモアもない。要するに政治家としてはまったくダメということだ。

イナダの歴史認識を問う
Q:大臣は、日中戦争から第2次世界大戦にいたる戦争は、侵略戦争だと思いますか。自衛のための戦争だと思いますか。アジア解放のための戦争だと思いますか。
A:歴史認識に関する政府の見解は、総理、官房長官にお尋ねいただきたいと思います。防衛大臣として、私個人の歴史認識について、お答えする立場ではありません。

Q:防衛大臣としての見解を伺いたい。
A:防衛大臣として、お答えする立場にはないと考えております。

Q:大臣の就任が決まってから、中国やフランスのメディアなどが、右翼政治家と指摘していたと思うのですけれども、大臣のそれについての御見解と、自分をどういう政治家だと。
A:多分、弁護士時代に関わっていた裁判などを捉えられたりされているのではないかというふうに思っておりますけれども、私自身は、歴史認識の問題について、様々な評価はあるでしょうけれども、一番重要なことは客観的な事実が何かということだと思います。私自身の歴史認識に関する考え方も、一面的なものではなくて、やはり客観的事実が何かということを追求してきたつもりであります。その上で、私は、やはり先ほども申し上げましたように、東アジア太平洋地域の平和と安定、そしてそのためには、中国、韓国との協力的な関係を築いていくということは不可欠だろうというふうに思っております。いつでも、私は、交流というか、話し合いの場を自分から設けていきたい。そして、議論することによって、私に対する誤解も、多分払拭されていくのではないかというふうに思っております。

Q:それに関連して、前の大臣、中谷さんは、訪中についてかなり追求されていたと思うのですけれども、大臣、先ほどの質問で聞かせていただいたのですが、訪中に関する考え方を教えて下さい。
A:機会があれば、訪中したいというふうに思っております。

Q:海外メディアは、大臣の歴史問題に関しまして、南京事件について御見解がいろいろあると思うのですが、聞きたいということと、防衛省の正式な見解では、非戦闘員の殺害、略奪行為をやったことは否定できないと。正しいか、いろいろな説はあるのでどれかとは整理はできませんとあるのですけれども、この見解についてはどう御覧になられますか。
A:私が、弁護士時代取組んでいたのは、南京大虐殺の象徴的な事件といわれている百人切りがあったか、なかったか。私は、これはなかったと思っておりますが、そういったことを裁判として取り上げたわけであります。それ以上の歴史認識については、ここでお答えすることは差し控えたいと思います。

Q:外務省の方の見解は、これは政府としての正式な見解ではないと思うのですけれども、どうお考えですか。
A:外務省の見解を申し上げていただけますか。

Q:南京入城の時に、非戦闘員が殺害、略奪行為があったことは否定できないと思われていますと。具体的なニュースについては、諸説あるので政府はどれが正しいか言えませんと。歴史のQ&Aのホームページ、外務省に書いてあるのですけれども、これはいかがでしょうか。
A:それは、三十万人、四十万人という数が、南京大虐殺の数として指摘をされています。そういった点については、私は、やはり研究も進んでいることですので、何度も言いますけれども、歴史的事実については、私は、客観的事実が何かということが最も重要だろうというふうに思います。

Q:この見解については、虐殺があったと。略奪行為。民間人の虐殺であったと。数は分からないと。この認識だと思うのですけど。これはお認めになるのですか。
A:数はどうであったかということは、私は重要なことだというふうに思っております。それ以上に、この問題について、お答えする立場にはないというふうに思っています。

Q:例えば秦郁彦なんて、ああいった右の方だと思うのですが、日本軍の陣中日記ですとか、その作戦の照合とか御覧になって、捕虜になって捕まった人は、正式な軍事裁判にかけられずに殺されていると。これは、民間人ではないし、虐殺に当たる。虐殺というか、不法な殺害に当たるので、そういう意味では数万の殺害は認めざるを得ないと。これは、かなりコンセンサス的にできあがっているところだと思うのですけれども、戦闘詳報とか、先ほど「事実が大切」と仰いましたが、日本側の残した正式な記録に残る少なくとも数万の殺害というのは、認められるのかどうかというのをぜひお伺いしたいのですが。
A:秦先生を含め、様々な見解が出ていいます。何が客観的事実かどうか、しっかりと見極めていくことが重要で、それ以上について、私がお答えできる立場にはないと思います。

Q:外務省の見解についてはどうなのですか。ホームページに載っているのですけれども。外務省と防衛省、見解が違ったら困ると思うのですが。
A:外務省の見解が、政府の見解と反するということではない、当たり前のことですけれども。

Q:大臣もこの見解をとられると、従うということですか。
A:大臣もというか、私は、歴史的な問題については客観的事実が全てであり、数は関係ないという御意見もありますけれども、数を含めて客観的事実が何かということを、しっかりと検証していくことが重要だというふうに思っています。

Q:その点でのポイントというのは、ここ20年ぐらいは議論が進んでいなくて、歴史家でこれに挑戦する人ってあまりいないのですけれども、大臣、そこら辺は、事実、事実と仰られますが、この点についても、捕虜の殺害、この点、疑義があられるということなのでしょうか。
A:私がここで秦先生の見解について、何かコメントをする立場にはありません。

イナダの靖国参拝の意向について問う
Q:大臣は、靖国の参拝を心の問題だとおっしゃったけれども、かつて小泉内閣時代に、総理は堂々と靖国に公式参拝するべきだとおっしゃられていました。それが、なぜ今、防衛大臣になられて、公式参拝をするとも、しないとも言えないのですか。
A:私は、靖国神社に参拝するか、しないか、これは、私は、心の問題であるというふうに感じております。そして、それぞれ一人一人の心の問題について、行くべきであるとか、行かないべきであるとか、また、行くか、行かないか、防衛大臣として、行くか、行かないかを含めて、申し上げるべきではないと考えております。

Q:かつて、総理大臣が一国のリーダーとして、堂々と公式参拝するべきだというふうにおっしゃっていましたけれども、それとは考え方が変わったということですか。
A:変わったというより、本質は心の問題であるというふうに感じております。

Q:そのときには、総理大臣は行くべきだというふうにおっしゃっていた訳ではないですか。心の問題だというふうにおっしゃっていないではないですか。
A:そのときの私の考えを、ここで申し上げるべきではないというふうに思います。また、一貫して、行政改革担当大臣、さらには政調会長、もうずっとこの問題は心の問題であって、行くとか、行かないとかは、お話しはしませんけれども、安倍内閣の一員として適切に判断をして行動してまいりたいと思っております。

Q:行政改革担当大臣としては行かれた。防衛大臣としては、なぜ行くとも行かないとも言わないのですか。
A:行政改革担当大臣の時代にも、何度も予算委員会、それから様々な記者会見でもお尋ねを受けました。その際にも私は、心の問題であり、靖国に参拝するとか、しないとか、すべきであるとか、すべきでないとか、申し上げませんということを一貫して申し上げてきたとおりです。

Q:一国の総理大臣は、公式参拝すべきだと言っているではないですか。べきだと、「べきだ論」を言っているではないですか。
A:私は、これの本質は心の問題だというふうに感じております。

イナダの従軍慰安婦問題の認識を問う
Q:慰安婦問題に関して聞きたいのですけれども、2007年に、事実委員会が、報告をアメリカの新聞に出したのですけれど、そのときは、大臣は賛同者として名前をつけたのですけれども、慰安婦は、強制性はなかったとコメントもあったので、今の考え方は変わっていますか。
A:慰安婦制度に関しては、私は女性の人権と尊厳を傷つけるものであるというふうに認識をいたしております。今、そのワシントンポストの意見公告についてでありますが、その公告は、強制連行して、若い女性を20万人強制連行して、性奴隷にして虐殺をしたというような、そういった米国の簡易決議に関連してなされたものだというふうに思っております。いずれにいたしましても、8月14日、総理談話で述べられているように、戦場の影に深く名誉と尊厳を傷つけられた女性達がいたことを忘れてはならず、20世紀において、戦時下、多くの女性達の尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を胸に刻みつけて、21世紀は女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしていくという、その決意であります。

Q:強制性はあったということですか。
A:そういうことではありません。そういうことを言っているのではありません。

イナダの沖縄・辺野古政策を問う
Q:別件になるのですけれども、先ほど沖縄の件で、大臣は辺野古が唯一の解決策だというふうに従来の政府の見解を示されました。ただ、なかなか移設は進んでいない状況があると、この根本的な原因はどこにあるとお考えでしょうか。
A:まずは、普天間の辺野古移設が決められた経緯でありますけれども、この問題の本質は、普天間飛行場が世界一危険な飛行場と言われ、まさしく市の中心部、ど真ん中、小学校のすぐ近くにあるということだというふうに思っております。そういったこの問題の本質を、やはり住民の皆様方にしっかりと説明をしていくということが必要であろうと思っております。そして、大きな議論の末に、裁判所で国と県が和解をして、和解条項が成立したわけでありますので、その和解条項に基づいて、今、国も提訴し、さらには協議も進めて行くのだということも説明した上で、誠実に対処していく必要がある、引き続き粘り強く取組んでいく必要があるというふうに思っております。

Q:住民に説明するのが必要と仰いましたけれども、防衛大臣になられて、自ら沖縄に訪問する、行きたいというお考えはありますか。
A:この問題については、しっかりと知事や県民の皆様方にも、御説明をする必要があるというふうに思っています。今、具体的にスケジュール的なものを検討しているわけではありませんけれども、その必要があるというふうに考えております。

Q:今日、午前の菅官房長官の会見で、基地問題と振興策がリンクしている部分があるのではないかという懸念が出ました。大臣御自身は、沖縄の基地問題、現在の辺野古移設とか止まっていますが、これが進まない段階では、振興策は減らすべきだとお考えですか。
A:振興策を減らすとはどういうことでしょうか。

Q:沖縄の振興予算を減額すべきだとお考えでしょうか。
A:私は、沖縄の基地移転、そしてその負担軽減、これは、政府を上げて安倍政権が出来ることは全て行い、また、目に見える形で実施するという基本方針の基で、在日米軍の再編を初めとした施策を着実に進めて行きたいというふうに思っております。その上で、振興策について、防衛省として、お答えする立場にはないというふうに思います。また、基地問題と沖縄振興をリンクさせることについては、本日午前の官房長官会見において、菅長官が述べられたとおりだと承知いたしております。

防衛費について問う
Q:防衛費についてお聞かせください。一時的な例外を除いて、日本の防衛費はGDPの1%以下に抑えられていたという整理だったと思うのですけれども、事実として、1%に抑えられてきたと、それが意識されていたという経緯もあるかと思うのですけれども、そういった防衛費の扱い方というのは、適正かどうかというのを、大臣、どのようにお考えでしょうか。

A:予算の中で防衛費がどうあるべきか、日本の安全を守るためにどれぐらいの防衛予算が必要か、非常に重要な問題だと思います。そういった点を踏まえて、中期防も計画を立てているわけでありますので、その中で着実に、必要な防衛費ということは、つけていくということだというふうに思います。

Q:必要があれば、1%を超えることも、躊躇するべきではないというふうに、大臣、お考えでしょうか。
A:しっかりと、いろいろなことを勘案して計画は立てております。そして、その結果が防衛予算、それが必要なものを積み上げたものであるというふうに、私は認識をいたしております。

北朝鮮弾道ミサイル発射に関して
Q:別件で大変恐縮なのですけれども、北朝鮮の弾道ミサイル、発射されたものについて、回収作業というのは、現在、どのような感じで進んでらっしゃるのか。一部報道で、打ち切ったということも報じられているのですけれども、大臣としては、どのように認識されていますか。

A:昨日から今朝にかけて、弾道ミサイル、あるいは、その一部が落下したと推定される海域において、自衛隊のP-3Cや護衛艦、海上保安庁の航空機や巡視船による捜索を実施し、発見した漂流物を回収しているところであります。他方、現在までに回収した漂流物の中に、弾道ミサイル、あるいは、その一部と判断できるようなものは確認されておりません。引き続き、自衛隊の護衛艦や艦載ヘリによる捜索を実施し、仮に、弾道ミサイル、あるいは、その一部と判断できるような物体を発見できれば、それを回収し、分析することを考えております。

自衛隊員の戦死の持つ意味について問う
Q:戦死ということについてお伺いしたいのですけれども、国民国家においては日本に限らず、戦死ということに様々な意味が付与されてきたと思います。現在、自衛隊員を預かる防衛大臣として、戦死、戦争で亡くなるということに対して、どういうふうなお考えを持つのか、戦死という言葉が持つ意味についての御認識をお聞かせ下さい。
A:憲法上、日本は戦争を放棄いたしております。ただ、憲法ができた時には9条があるので、攻めてこられたとしても、白旗を揚げて自衛権も行使しないというのが解釈だったわけですけれども、1954年に解釈を変えて、そして、日本も主権国家であるので、自衛隊は憲法違反ではない、合憲である。そして、自衛権の行使も、必要最小限度の行使を可能であるということを解釈上決め、また、それは最高裁でもそのような解釈にあるわけであります。自衛権の行使の過程において、犠牲者が出る事も、考えておかなきゃいけないことだろうとは思います。非常に、重たい問題だと思います。

重ねて歴史認識を問う。先の戦争は侵略戦争ではないのか。
Q:先ほどお答えいただけなかったので、もう一回聞きますけれども、軍事的組織の自衛隊のトップとしての防衛大臣に伺いますが、日中戦争から第二次世界大戦にいたる戦争は侵略戦争ですか、自衛のための戦争ですか、アジア解放のための戦争ですか、見解を教えてください。
A:政府の見解は、総理、官房長官に聞いていただきたいと思います。私は、昨年総理が出された談話、これが政府の見解だと認識しております。

Q:大臣自身の見解もそのとおりですか。異論はないのですか。
A:昨年の総理が出された談話に異論はありません。

Q:侵略戦争ですか。
A:侵略か侵略でないかというのは、評価の問題であって、それは一概に言えないし、70年談話でも、そのことについて言及をしているというふうには認識していません。

Q:大臣は侵略戦争だというふうに思いますか、思いませんか。
A:私の個人的な見解をここで述べるべきではないと思います。

Q:防衛大臣として極めて重要な問いかけだと思うので答えてください。答えられないのであれば、その理由を言って下さい。
A:防衛大臣として、その問題についてここで答える必要はないのではないでしょうか。

Q:軍事的組織のトップですよ。自衛隊のトップですよ。その人が過去の戦争について、直近の戦争について、それは侵略だったのか、侵略じゃないか答える必要はあるのではないですか。何故、答えられないのですか。
A:何度も言いますけども、歴史認識において、最も重要な事は、私は、客観的事実が何かということだと思います。

Q:侵略だと思うか、思わないかということを聞いているわけです。
A:侵略か侵略でないかは事実ではなく、それは評価の問題でそれぞれの方々が、それぞれの認識を持たれるでしょうし、私は歴史認識において最も重要なことは客観的事実であって、そして、この場で私の個人的な見解を述べる立場にはありません。

Q:防衛大臣としての見解ですよ。
A:防衛大臣として、今の御質問について、答える立場にはありません。

Q:では、関連ですけれども、日中戦争と太平洋戦争は若干違うと思うのですが、日中戦争の前、日本は、あの時は南満州鉄道あたりしか駐留する権利はなかったわけですね、軍隊を。そこからはみ出して、傀儡国家を打ち立てて、満州国を作ったと。これ侵略じゃないのですか。普通の常識から言って、いろいろ議論はあるのでしょうけれど、太平洋戦争は議論があるとしても、満州国を作るときの経緯というのは、どういう法律に基づいたのか、しかも、あのとき陸軍は、天皇の統帥権を最後無視して、暴走して、拡大して、後から認めた件はありますけれども、それが日本にとって最大の軍事的な教訓なわけですよね。日中戦争、あるいは、その満州国の作り方について、評価できないというのは、国のリーダーとして、いかがなものかと思いますけれど、この2点いかがですか。
A:私は、安倍内閣の一員として、政府の大臣として、この場におります。私の個人的な見解や、また、この場は、歴史論争をする場ではないと思います。政府の一員として、私は、政府の見解、これは昨年の70年談話において総理が示されたとおりだというふうに認識をいたしております。

Q:別に歴史認識(論争)をしたいわけではなくて、これはリアルな、過去をどう捉えて、軍をどうコントロールするか、あるいは、今の近隣諸国とどう仲良くやっていくか、今のリアルの問題と繋がっているからお聞きしているので、別に学者的な論争をしたいわけではないのですけど。日中戦争の、特に満州国の作るときの過程というのは、これは侵略じゃないと、歴史学者は、普通、侵略と言うと思うのですけれども、国際法の専門家の議論はあると思うのですけれども、国民感情からして、歴史学者は、普通、侵略というのは、一般の常識じゃないかと思うのですけれども、そういった一般の、例えば世界中の人々に受け止め方ですね。これ、侵略じゃないと言い切って、どこの欧米の方でもリーダーとして議論されたらいいと思うのですけれども、まともに議論できるとお思いなのでしょうか。
A:私は、歴史認識において、最も重要なのは、客観的事実が何かということだと思います。また、昨年の70年談話でも示されたように、我が国は、過去の歩みをしっかり反省をして、戦後、しっかりと憲法の下で、法律を守り、法の支配の下で、どこの国を侵略することも、また、戦争することもなく、70年の平和な歩みを続けてきたこの歩みを続けていくということだと思っております。

Q:これから、例えば、中国、韓国のリーダーとか、欧米のリーダーと会うときに、あの戦争、太平洋戦争はいろいろ議論があるかもしれませんが、日中戦争に関しても、侵略かどうか、私、言えませんというふうにおっしゃって議論されるわけですね。
A:そういう単純な質問はないと思うのですね。

Q:でも、報道関係、みんなに見られているからですね。欧米のメディアは、そこに歴史認識を集中しているわけですよ。単純と言われようがそういう具合に、この人こういう歴史認識を持っているのではないかとみんな懸念しているわけですよ。別に、単純に議論を私がふっかけるのではなくて、割と世界中のメディアがそういう懸念を持って、書いていると。それに対して答える影響というのは、我々国民なのですから、説明責任はあると思うのですが、いかがですか。
A:私は、昨年、総理が出された70年談話、この認識と一致いたしております。

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イナダは、2011年3月号の雑誌「正論」の対談で、「長期的には日本独自の核保有を単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべきではないでしょうか」と発言していた。小池百合子と同類。軽佻浮薄の極みというべきだろう。

昨日(8月5日)の記者会見で、この点を記者から突っ込まれて、「憲法上、我が国がもてるとされる必要最小限度(の武力)がどのような兵器であるかということに限定がない」と述べ、憲法9条で禁止しているわけではないとする従来の政府見解に沿って説明した。ただ、「現時点で核保有はあり得ない」としつつ、「未来のことは申し上げる立場にない」とも語った。

イナダが述べたことは、「我が国が核武装することは憲法上は許されることだ」。だが、「現時点では諸般の事情に鑑み、政策として核保有はあり得ない」。もっとも、政策の問題だから、状況次第で未来の核政策はどうなるか分からない。未来とは過去と現在を除くすべて、つまりは明日からのこと」と理解すべきなのだ。

その発言の翌日に当たる今日(8月6日)が、71年めの広島平和記念式典。松井一実市長は平和宣言で、「今こそ『絶対悪』を消し去る道筋をつけるために連帯し、行動を」と呼びかけた。核は、絶対悪なのだ。絶対悪の廃絶こそが平和への道であり、国内外の世論ではないか。

状況次第で核保有が許される、核政策がころころ変わるようなことを許してはならない。「日本独自の核保有を単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべき」などとは、悪魔の言と言わねばならない。

アベ首相は、6日、広島市内で記者会見し、イナダの発言を「我が国は核兵器を保有することはありえず、保有を検討することもありえない。稲田防衛大臣の発言はこのような政府の方針と矛盾するものではない」と擁護したという。これも同罪なのだ。都知事選敗北の脱力感は払拭し得ないが、早く悪魔が跳梁するこの悪夢を終わらせないと、世界が滅びてしまうことにもなりかねない。
(2016年8月6日)

「沖縄全戦没者追悼式」と「平和の礎」の思想

本日、沖縄戦で組織的戦闘が終結したとされる「6月23日」。あの日から71年目である。折も折。元米海兵隊員の強姦殺害事件への追悼・抗議集会の直後であり、辺野古新基地建設反対を最大テーマとする参院選のさなかでもある。

選んだ如くのこの時に、「沖縄全戦没者追悼式」が糸満市の平和祈念公園で開かれた。アベ晋三も、抗議を受ける悪役としての参列。今年も「帰れ」という野次が飛んだという。さぞや針のムシロに坐る心もちであったろう。

「『全』戦没者追悼式」であることに意味がある。「平和の礎」の刻銘と同様に、勝者と敗者を区別することなく、また兵士と民間人の区別もなく、その死を意味づけすることなく、沖縄戦の戦没者のすべてを、かけがえのない命を失った犠牲者として等しく追悼するという考え方だ。ここはひたすらに戦没者の死を悼む場であって、それ以上に出過ぎた、遺族以外の何ものかが死者の魂を管理するという考えが拒否されている。

これと対極にあるのが、死者を徹底して区別し、死者の魂を国家が管理するという靖國の思想である。死者を悼むのではなく、特別の死に方を礼賛し称揚して、特定の死者の魂を国家が管理するというのだ。靖國神社は、天皇の軍と賊軍とを徹底して区別し、天皇への忠死か否かで死者を区別し、敵と味方を未来永劫に分かつ差別の思想に拠っている。露骨な死者の国家利用と言ってよい。しかも、軍国主義高揚のための戦没者と遺族の心情の利用である。

平和の礎は、21万1326人の沖縄戦戦没者の名を刻銘している。
「太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全ての戦没者の氏名を刻んで、永久に残すため、平成7年(1995年)6月に建設したものです。その趣旨は、沖縄戦などでなくなられた全ての戦没者を追悼し、恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに、平和学習の拠点とするためです。」とされている。

「平和の礎」のデザインコンセプトは、“平和の波永遠なれ(Everlasting waves of peace)”というもので、屏風状に並んだ刻銘碑は世界に向けて平和の波が広がるようにとの願いをデザイン化したものだという。この刻銘碑の配列は、沖縄県民・県外都道府県民・外国人の各死者の刻銘碑群に区分されている。その外国人刻銘数は1万4572人。内訳は以下のとおりである。
 米国 14,009
 英国    82
 台湾    34
 朝鮮民主主義人民共和国 82
 大韓民国  365

なお、沖縄県民    149,362人
   県外都道府県計  77,402人
で、いずれも兵士と民間人の区分けはしていない。

平和の礎も沖縄全戦没者追悼式も、まったく靖国のようではない。靖国のように敵味方を区別しない、靖国のように兵士だけを顕彰するものではない。靖国のように神道という宗教形式をもたない、靖国のように天皇の関与がない、靖国のように戦没者の身分や階級にこだわらない、靖国のように恩給の受給資格と連動しない。そして、靖国のように愛国心を鼓舞しない。靖国のように戦死者の勇敢さや遺徳を誇示することはない。靖国のように、戦争を美化しない。靖国のように敗戦を無念としない。靖国のように、戦犯を祀ることがない。戦犯というカテゴリーもなければ、祀るという行為とも無縁である。靖国のように戦争や軍隊や兵士を意味づけることをしない。もちろん、靖国のように、武器を飾ってみせたりなどけっしてしない。

この日、思い起こすべきは、沖縄県平和祈念資料館設立の趣意書にある次の言葉である。
「1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。

 沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
 この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
 ”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
 私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。」

本日の琉球新報が、「安全保障関連法が施行され、日本が戦争のできる国へと大きく変貌した中で迎える『慰霊の日』」に、格別の思いの社説を書いている。タイトルが「慰霊の日『「軍隊は住民を守らない』 歴史の忘却、歪曲許さず」というもの。これこそ今ある沖縄の原点ともいうべきものだろう。

「『地獄は続いていた』
 日本軍(第32軍)は沖縄県民を守るためにではなく、一日でも長く米軍を引き留めておく目的で配備されたため、住民保護の視点が決定的に欠落していた。首里城の地下に構築した司令部を放棄して南部に撤退した5月下旬以降の戦闘で、日本兵による食料強奪、壕追い出し、壕内で泣く子の殺害、住民をスパイ視しての殺害が相次いだ。日本軍は機密が漏れるのを防ぐため、住民が米軍に保護されることを許さなかった。そのため戦場で日本軍による命令や強制、誘導によって親子、親類、友人、知人同士が殺し合う惨劇が発生した。
 日本軍の沖縄戦の教訓によると、例えば対戦車戦闘は『爆薬肉攻の威力は大なり』と記述している。防衛隊として召集された県民が急造爆弾を背負わされて米軍戦車に突撃させられ、効果があったという内容だ。人間の命はそれほど軽かった。県民にとって沖縄戦の最も重要な教訓は「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」だ。

『終わらない戦争』
 戦後、沖縄戦の体験者は肉体だけでなく心がひどくむしばまれ、傷が癒やされることなく生きてきた。その理由の一つが、沖縄に駐留し続ける米軍の存在だ。性暴力や殺人など米兵が引き起こす犯罪によって、戦争時の記憶が突然よみがえる。米軍の戦闘機や、米軍普天間飛行場に強行配備された新型輸送機MV22オスプレイの爆音も同様だ。体験者にとって戦争はまだ終わっていない。
 戦後も女性たちは狙われ、命を落とした。1955年には6歳の幼女が米兵に拉致、乱暴され殺害された。ベトナム戦時は毎年1~4人が殺害されるなど残忍さが際立った。県警によると、72年の日本復帰から2015年末までに、米軍構成員(軍人、軍属、家族)による強姦は129件発生し、147人が摘発された。そして今年4月、元海兵隊員による女性暴行殺人事件が発生した。
 戦場という極限状態を経験し、あるいは命を奪う訓練を受けた軍人が暴力を向ける先は、沖縄の女性たちだ。女性たちにとって戦争はまだ続いている。被害をなくすには軍隊の撤退しかない。
 『軍隊は住民を守らない』。私たちは過酷な地上戦から導かれたこの教訓をしっかり継承していくことを犠牲者に誓う。国家や軍隊にとって不都合な歴史的出来事の忘却、歪曲は許されない。

本日沖縄を訪れたアベ晋三は、この血を吐くような地元紙の社説を読んだだろうか。この社説に象徴される沖縄の民衆の気持ちを理解しただろうか。沖縄全戦没者追悼式と平和の礎の思想に触れ得ただろうか。それとも、改憲戦略においてどのように沖縄の世論を封じ込めるべきかと策をめぐらしただけであったろうか。
(2016年6月23日)

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