澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

沖縄「未完の復帰闘争史」(小村滋)の紹介

全国の そして全世界の友人へ贈る

吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
 〝鉄の暴風〟やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
 米軍占領に引き続き 1952年4月28日
 サンフランシスコ「平和」条約第3条により
 屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
 全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
 今踏まえている 土こそ
 辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
 しかるが故に この碑は
 喜びを表明するためにあるのでもなく
 ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
 人類が 永遠に生存し
 生きとし 生けるものが 自然の摂理の下に
 生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある

辺戸岬に屹立するこの「祖国復帰闘争碑」の由来を尋ねて、元朝日記者の小村君は大阪の図書館で『沖縄県祖国復帰闘争史資料編』(沖縄県祖国復帰闘争史編纂委員会編、1982年5月15日発行)に出会う。B5 版1430頁という大冊。編集責任者は復帰協6代目事務局長・仲宗根悟氏、「闘争碑」の文字を書いたその人(2015年7月25日没)である。
この『復帰闘争史 資料編』の1292 ~1326頁に、1950 年代、60 年代、70年代のリーダーを集めた3回の座談会が掲載されている。小村君は、その内容から「復帰闘争の歴史」を追い、足りないところは、新崎盛暉「私の沖縄現代史」(2017年1月刊)などで補っているという。以下に、これを紹介する。

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沖縄戦の〝鉄の暴風〟がやむと、沖縄の人々は収容所に入れられ、奄美大島以南は米軍統治下に置かれた。収容所から「祖国復帰」の声を上げた人がいる。1946 年夏、米軍から〝石持て追われる如く〟東京へ脱出した仲吉良光。東京で、マッカーサー司令部、政府、国会、米政府、国連などに精力的に陳情活動を展開した。

促進期成会が署名集め
仲光から「沖縄で復帰運動をしてほしい」との要請を受けた平良辰雄沖縄群島知事に頼まれた兼次佐一(当時社大党書記長)は、「日本復帰促進期成会」を51年4月29日に結成した。社大党と人民党で組織をつくり、地域青年会を中心に「復帰」を求める署名を集めた。沖縄群島の全有権者の72%に達した。
9月4日にサンフランシスコで講和会議が開かれる。日本側吉田全権と米側ダレス特使に、膨大な署名簿をどうやって渡すか。復帰運動に、米軍はパスポートを出さない。郵送に要する費用5万円がない。外国新聞を扱う業者に立て替えてもらって、8 月24、25日にようやく発送した。
9月8日、対日平和条約と日米安保条約は調印された。奄美大島以南は米軍制下のままだった。
52年4月28日、二つの条約は発効した。「屈辱の日」の始まりだが、まだ意識されていない。
53年1月10日、屋良朝苗(教職員会長)を会長に、安座間麿志(沖青連会長)を副会長に「沖縄諸島祖国復帰期成会」が結成された。教職員会、PTA連合会、婦人連合会、青年連合会、市町村長会の 5 団体に担がれる形だ。後に最初で最後の公選主席になり、復帰後の初代知事にもなる屋良は「米国側から教職員は政治活動をするな、といわれた。復帰運動は、政治活動ではなく県民運動だ。政党は加えず、民主団体だけでやると言った。社大党は了承したが、人民党は納得しなかった」。

結成、すぐに全国行脚
屋良は、期成会結成直後の1月17日、総決起大会を開いた。教育復興と戦災校舎復興と復帰問題の3点セットで日本全国に訴える方針を決議。群島政府文教部長時代から蓄積した資料を持ち、1 月20 日~6月23日の半年間、四国を皮切りに九州から北海道まで46 都道府県を行脚した。「本土政府側が国会に2度も呼んでくれて真剣に沖縄の実情を聞いてくれた。文部省も教育資料に取り上げ、全国の小中学校に協力を呼びかけてくれた。国鉄部長は1等パスを発行して、私と喜屋武(真栄)君を『沖縄問題の講師』として遇してくれた。経済的にも助かりました」と屋良。
その頃、沖縄では米民政府が「アメリカに恥をかかせた」と激怒していた。
弾圧が屋良を待ち受けていた。
53年12月25日、奄美群島が返還された。奄美では復帰運動の取り組みが早く、14歳以上の99%から署名を集めたのが原因とされる。与論島と沖縄島の間に、新たな国境27 度線が登場した。
だが沖縄の人たちは、奄美が復帰したのだから、沖縄も近いと考えた。
54年1 月、米アイゼンハウアー大統領が年頭教書で「アメリカは自由世界防衛のため、長期間琉球を保持する」と。これに呼応するようにオグデン民政府副長官が「復帰運動に従事していた人たちに、扇動は無駄であり、これ以上の精力の浪費は止めるよう勧告する」と脅した。
屋良の全国行脚から1年半。戦災校舎復興期成会の本土後援会から「金が集まったから受け取りに来てくれ」と要請があり、パスポートを申請したら峻拒された。抗議に対し「反米運動をするものに協力できない」という。
屋良は、プラムリー民政官と交渉した。民政官は「君はなぜ、我々の教育復興計画の邪魔をするのか。米民政府に協力するのか、今まで通りするのか」とケンカ腰で、即答を迫った。屋良はその場では答えず。翌日、教職員会長も復帰期成会長も辞めると告げた。「米民政府に協力できないが、教員の給与は上げて欲しい」と。
教職員会は再び屋良を支持した。さすがに米民政府も強硬姿勢を反省「校舎を作る、教員待遇の改善、教員の質向上」3項目の約束を発表した。
復帰期成会は自然消滅した。屋良は1956年、米軍基地から「土地を守る会」会長となり、島ぐるみ闘争のリーダーになる。本人は「知らないうちに会長にされた」という。ともあれ、形を変えた復帰闘争だった。

2013年、分断が露出
4月28 日は「屈辱の日」として、今も沖縄2紙は特集する。第二次安倍政権になり初の 2013 年4月28日、「主権回復」祝賀式典を政府主催で開いた。
沖縄では政府式典に抗議する「屈辱の日」県民大会が開かれた。ヤマトと沖縄の分断が露出した年だった。「屈辱の日」はいつから言われ出したのか。私が闘争碑に関心を持った由縁だ。
沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が発足したのは1960 年4月28日である。
4・28 が特別な日になるのは、この年から。61年から復帰協の文書に「屈辱の日」という言葉が登場し、63年4月28日に北緯27度線で沖縄とヤマトの初の海上交歓が行われた(新崎)。復帰協は、60年安保のため急ぎ結成したようだ。安保闘争の中で屈辱感を再確認したのではないか。52年以降を、もう一度見直そう。

52年、2条約が始まり
講和条約と日米安保条約。サンフランシスコ2条約が発効した 1952年4月28日、奄美大島以南の琉球弧と小笠原は、米軍の排他的支配下に置かれた。
〝鉄の暴風〟と形容された沖縄戦に巻き込まれた沖縄住民は、日米の戦死者20 万人のうち15万人に上っていた。
戦前は皇民化教育の下で必死に日本人になろうと努力したのに捨て石にされたのだ。だから52年の時点で「屈辱の日」としても不思議ではなかった。53年12月、奄美大島から与論島までは日本に返還された。この時、「奄美が返還されたのだから、米国の意向次第で沖縄も返還されると考えた」という。
しかし52年の2条約発効を機に、米軍は強硬に基地拡大を始めた。54年1月、アイゼンハワー米大統領が年頭教書で「アメリカは自由世界防衛のため琉球を長期間保持する」と述べた。
当時の沖縄諸島祖国復帰期成会長の屋良朝苗は米軍当局から激しく弾圧され、教育改革と引き換えに会長を辞めた。復帰運動団体は消えた。

闘う主体、沖縄民衆登場
54年4月、琉球立法院は、一括払い反対など「土地を守る4原則」に基づく「軍用地処理に関する請願」を米側に出した。55年米下院軍事委員会はプライス調査団を沖縄に派遣。56年6月にプライス勧告を出した。だが、その中身に住民は激しく反発、「島ぐるみ闘争」が燃え上がる。これからしばしば沖縄が全国紙の1面トップに登場した。
「闘う主体としての沖縄民衆が歴史上に登場してきたのだ」(新崎)。
56年、ジェット機への切り替えで基地拡張問題が沖縄でも本土でも起きた。
砂川事件や内灘闘争などヤマトの反米基地闘争が激化。安保改定で沖縄に押しつけることに。国際的にはソ連のスターリン批判、ハンガリー動乱、スエズ戦争など。12月末に那覇市長にカメジローこと瀬長亀次郎が那覇市長に当選、米軍と闘争を展開する。これは別の機会に書きたい。

57年岸首相が安保改定へ
57年6月、岸信介首相が訪米し、アイゼンハワー大統領と会談。①安保条約改定②日本の首相として初めて沖縄・小笠原の返還要求③在日地上軍の大幅削減、など共同声明に。58 年9月、藤山・ダレス会談で安保改定に合意した。10月から交渉が始まった。
まず沖縄を安保の範囲に入れるかが問題になった。政府は当初、返還を要求した以上入れざるを得ないとした。
社会党や自民党の一部は「米国の戦争に巻き込まれる」、自民党は「沖縄への核持ち込みが事前協議の対象になる」といずれも反対。結局、60年安保では、沖縄は条約の対象にならなかった。
元々、米軍が独占的に管理していたから、日米政府とも必要なかったのだ。

沖縄解放、支援の声なく
当時の沖縄は、米比、米韓、米台などの相互防衛条約の適用地域だった。
沖縄を共同防衛地域から解放しよう、という動きはヤマトにはなかった。一方、沖縄では「日米安保の対象になれば復帰が早まるのではないか」という論議も広まり、世論も揺れた。さらに改定後に実現した在日地上軍の大幅削減で撤退した部隊はそっくり沖縄に移動した。活動家たちに「安保は重い」とのツブヤキが広がった(新崎)。
このツブヤキが「屈辱の日」を確信させた、と私は思う。

「安保よりも復帰」へ転換
57年「祖国復帰促進県民大会」の主催は沖縄青年連合会だった。59年1月、同タイトルの県民大会は、「安保改定よりもまず復帰」をスローガンに沖縄県原水協(原水爆禁止沖縄県協議会、58年8月結成)が主催した。この大会を機に復帰協が結成されることになる。この頃、官公労や沖教組などが次々誕生し、活動の担い手になった。全軍労も61年復帰協に参加した。
60年スタートしたばかりの復帰協は6月19日、アイゼンハワーを迎える。銃剣をギラギラさせる米兵たちの中を、琉大生3千人に教職員会など加えて1万人近い請願デモだった。大統領は裏口から逃げるように空港へ向かい、東京訪問を止めて韓国に行った。
まだ会長不在で、副会長兼会長代行だった赤嶺武次は「アイク来沖闘争は復帰協に自信と勇気をくれた」と振り返った。

天皇メッセージの衝撃
「屈辱の日」に絡んで、必ず語られるのが「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝える」いわゆる「昭和天皇メッセージ」だ。
1947年9月19日、天皇の御用掛寺崎英成がマッカーサー総司令部のシーボルトに会い、次のように伝えた。
「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。(略)天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の――25年から50年ないしそれ以上の――貸与(リース)という擬制(フィクション)の上になされるべきである。天皇によれば、この占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差し止めることになるだろう」。
寺崎の天皇メッセージを聞いたシーボルトは9月20日、これを文書にしてマッカーサーに伝えた。その後ワシントンの米国務省に送った。
このメッセージが出された47年9月は、新憲法が施行され、日本の独立を片面講和か全面講和か、論議の最中だった。膨らむソ連の脅威に、米国は片面講和、さらに沖縄をソ連包囲基地にしようと望む勢力が力を得ていた。
47年5月6日、昭和天皇はマッカーサーを3度目訪問し、対日講和成立後「米国が撤退した場合、誰が日本を守るのか」と訊いたという。
天皇メッセージは、進藤栄一(筑波大名誉教授)が、雑誌『世界』1979年4月号に論文「分割された領土」とし て発表した。米国立公文書館で、解禁された外交機密文 書の中 から1枚の文書を見つけて書いた。従って闘争碑が出来た76年には、天皇メッセージはまだ日本に 知られていない。しかし復帰協闘争史の文献一覧の末尾に掲載されており、座談会の時には知っていたはずだ。
今年3月、平成天皇は11回目の沖縄訪問をする、と報じられている。
「屈辱の日」を癒やせるだろうか。
(3月8日、小凡・記)
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この記事は、彼が発行する「アジぶら通信」(メールマガジン)の38~40号に掲載された記事。このメールマガジン受信ご希望の方は、小村滋君の下記メールアドレスにご連絡を。

laokom777@gmail.com

なお、この5月には、彼を先達にしてかつての同級生9名で、3泊4日の沖縄探訪の旅をする。辺戸岬に必ず行ってみよう。「戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫び」を聞くために。
(2018年3月14日)

水俣公害の真の解決とはー石牟礼道子語録から

石牟礼道子が亡くなって、各紙に追悼記事が満載である。昨日(2月11日)には毎日が、本日(2月12日)は朝日が社説で取り上げた。

毎日の社説は、「石牟礼道子さん死去 問いつづけた真の豊かさ」というもの。
「石牟礼さんの代表作『苦海浄土』は鋭く繊細な文学的感性で水俣病の実相をとらえ、公害がもたらす『人間と共同体の破壊』を告発した。1969年刊行の同書は高度経済成長に浮かれる社会に衝撃を与え、公害行政を進める契機ともなった。」

この解説はそのとおりではあろうが、言葉の足りなさがもどかしい。この社説が「苦海浄土」から引用する下記の一節がすべてを語って余りある。これを引用した社説子に敬意を表したい。

「『苦海浄土』の中で老いた漁師が語る。
『魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい』
天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける。」

この漁師の述懐の中に見えるものは、公害行政への批判とか資本主義経済構造の矛盾の指摘などというものではない。それをそれをはるかに超えた、文明そのものへの批判や人の生き方についての省察である。

朝日は「石牟礼さん 『近代』を問い続けて」というタイトル。
「虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた。控えめに、でも患者のかたわらで克明な観察を続けた。
運動を支えるなかで、国を信じて頼りたい気持ちと、その国に裏切られた絶望感とが同居する患者らの心情も、逃さずに文字にした。『東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ』(苦海浄土 第2部)
権力は真相を覆い隠し、民を翻弄(ほんろう)し、都合が悪くなると切り捨てる。そんな構図を、静かな言葉で明らかにした。
…………
「水俣」後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない。福島の原発事故はその現実を映し出した。石牟礼さんは当時、事故の重大性にふれ、『実験にさらされている、いま日本人は』と語った。明治150年。近代国家の出発が為政者から勇ましく語られる時だからこそ、作家が生涯かけて突きつめた問題の深さと広がりを、改めて考えてみたい。」

こちらは、文明論というよりは国家論となっている。
「東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ」は、沖縄の思いでもあろう。「本土に復帰すりゃあ、祖国の存(あ)るち思うとったが、そんなものはなかったなあ」と。

昨日(2月11日)の毎日社会面に、石牟礼道子語録があり、そのなかに、「水俣だって補償金は勝ち取りましたけれども、(魂の対話)という本質はつぶされていますから」という一節が見える。73年の荒畑寒村との対談中の言葉だというから、「水俣だって」とは、「足尾鉱毒事件ばかりではなく…」という意味だろう。しかし、同じことはあらゆる公害闘争でも、原発被害でも、戦後補償問題でも、冤罪事件でも、言えることだろう。被害者が求めているものは、「(魂の対話)」を通じての、人間としての尊厳の回復である。カネの補償で済む問題ではないのだ。

慰安婦問題をめぐる日韓合意も、石牟礼のいう「(魂の対話)という本質はつぶされている」事態の典型だろう。加害者側が、「最終的かつ不可逆的な合意」などとうそぶいている限り、被害者の人間としての尊厳の回復はあり得ない。いま、この問題解決のゴールは遠のくばかりだ。
(2018年2月12日)

沖縄戦悲劇の根源は、「天皇制への動物的忠誠心」にあった。

天皇の生前退位表明以来、皇室報道が過剰だ。天皇の代替わりをめぐる議論がかまびすしい。最近思うことは、「反天皇制」という視座を据えると、新たにいろんなことが見えてくるということ。

「反天皇制」における「天皇制」とは二重の意味が込められている。ひとつは旧体制における神権天皇制である。神聖にして侵すべからずとされた万世一系の皇統の末裔にして現人神なる天皇という、荒唐無稽な神話に支えられた天皇制。「反天皇制」とは、そのばかばかしさを、ばかばかしいと素直に言うことだ。神秘性も権威も、権威を土台とする統治権の総覧者としての天皇の地位も認めないということ。

もう一つの「天皇制」の意味合いは、象徴として現代に生き残った「天皇制」。この意味の「反天皇制」とは象徴天皇の権威の否定、あるいは「象徴天皇制」の存在感を極小化しようという精神の自立性を指す。反権威主義であり、アンチ・ナショナリズムであり、多数派支配への懐疑でもある。

「反天皇制市民1700」誌の最新号に、知花昌一さんが、「沖縄にとっての『奉安殿』」という記事を寄せている。天皇制という負の遺産の象徴としての「ご真影と教育勅語」についての貴重な断想。戦前を回顧するだけでなく、アベ政権がもたらした9条改憲の危うさにまで触れている。

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沖縄戦24万人の犠牲の上に残された教訓はたった二つです。
一つは、軍隊は住民を守らなかった。守らない。
二つは、教育の恐ろしさ、大切さです。

評論家の大宅荘一氏が1959年に沖縄戦の調査に来て、多くの悲惨な犠牲の原因は天皇及び天皇制に「あまりにも動物的なまでの忠誠を尽くしたこと、家畜化され盲従した結果だ」と動物的忠誠心という造語を創った。その動物的忠誠心を植え付けた装置が教育勅語と天皇・皇后の写真=「御真影」と忠魂碑である。

沖縄では、琉球処分の8年後1887年には他県に先駆けて「御真影」が下賜されている。「他県に先駆けた」ことは、明治政府としては沖縄が天皇に関心がない「化外の民」「まつろわぬ民」であることで、皇民化を急いだのだろう。

教育勅語と「御真影」の多くは校長室に奉安庫を創り納められているようであるが、火事などで焼失すると校長の責任が厳しく問われ、懲戒免職にされた例などがある。奉安殿は下賜された教育勅語と「御真影」を納める建物で、関係者がが大金を集め、当時としては高価で豪華な鉄筋コンクリート造りのものが多かったようである。
戦時中、「御真影」は米軍に蹂躙されないように名護市オオシッタイに集められ山奥の洞窟に秘匿され、戦後焼却されたといわれている。

今、沖縄には四つの奉安殿が残っている。その一つが1935~6年に沖縄市美里尋常小学校跡に建立された写真のものである。数発の弾丸の跡が残っている。
日本本土では戦後GHQが1945年に発令した「神道指令」によって全国の奉安殿や忠魂碑はほぼ解体された。沖縄でも1946年に群島政府知事により解体通達が出され、民政府(軍政府)の指示によって破壊されたが、指示など行きとどかなかった宮古、八重山、本部町に残ったのだろう。沖縄市美里に残っているのは米軍のキャンプ・へーグ基地にあり、物入れに使われていて奉安殿の存在がわからなかったのだろうと言われている。現在では沖縄市の文化財に指定され、修復がなされ、「負の遺産」として平和学習などに活用されている。

何時の時代も権力者・為政者は民衆を畜生にしたいもので、そのためには教育と暴力装置=軍隊を意のままに操るものである。安倍政権もすでに教育基本法を改悪し、自衛隊=軍事を強化し、集団的自衛権行使できる体制をととのえている。それに加え9条改悪を明言している。

最後に、知花さんは、こう訴えている。
「危ない時代が来ています。それに抗するのは、民衆自ら考え、学習することです。そして闘うことです。」
(2018年2月8日)

名護高校の生徒諸君 ― 小泉進次郎のトークに欺されてはいけない。

稲嶺候補敗北という名護市の選挙結果は衝撃だった。「名護ショック」症状からの早期回復が今の課題だ。この結果を選択した名護市民とは、決して異世界の住民ではない。日本国民の一部の住民であり、明らかに私たち自身なのだ。その選択は、どのようにしてなされたのか、納得できる分析がほしい。

巷間言われていることはいくつかある。稲嶺陣営は基地反対を焦点に据え、渡具知陣営は争点をそらして経済活性化を訴えた、その作戦が功を奏したというのだ。なるほど、政権が露骨に一方陣営にはムチを他方にはアメの露骨な誘導を行ったというわけだ。

また、基地反対運動の先が見えず、住民が疲れ果ててこれまでとは別の選択を強いられた結果ともいう。公明党がその存在感を示さんがために全力をあげた結果だとも、さらには、この選挙では初めての18歳・19歳の選挙権行使が影響を与えた…のだとも。

政権が地元に、基地の負担を強いたうえに、こう言っているのだ。
「おとなしく基地の建設を認めろ。そうすれば悪いようにはしない。その見返りは真剣に考えてやろう。」「しかし、言うことを聞かないのなら、徹底して経済的に締め上げるから覚悟しろ。」
こう言われて、「我々にも五分の魂がある」という派と、「魂では喰えない。背に腹は代えられない」という派が真っ二つになった。前2回の選挙は「五分の魂」派が勝ち、今回は「背に腹」派が勝ったということのように見える。

若者の動向、とりわけ初めての18歳選挙導入の効果が、「背に腹」派に有利に働いた模様なのだ。
地元OTV(沖縄テレビ)の出口調査では、年代別の投票先は次のようだったという。若者世代の保守化は著しいというほかない。
10代 稲嶺37% 渡具知63%
20代 稲嶺38% 渡具知62%
30代 稲嶺39% 渡具知61%
40代 稲嶺41% 渡具知59%
50代 稲嶺38% 渡具知62%
60代 稲嶺65% 渡具知35%
70代 稲嶺68% 渡具知32%
80代 稲嶺67% 渡具知33%
90代 稲嶺86% 渡具知14%

RBC(琉球放送)の出口調査では、
10代 稲嶺33.3% 渡具知66.6%
20代 稲嶺44.0% 渡具知56.0%

私にとって衝撃だったのは小泉進次郎の名護高校生に対する語りかけ、いや、その語りかけに対する高校生の反応だ。進次郎演説の無内容のひどさにも驚いたが、この無内容演説に対する高校生のあまりに無邪気な肯定的反応は衝撃というほかない。なるほど、アベ政権の18歳選挙権導入実現には、それだけの読みと狙いがあったのだ。

私には信じがたい。若者が政権与党の幹部にあのような、アイドルに接するような態度をとれるものだろうか。ユーチューブで見聞く限りだが、小泉には若者に地元の展望を語る何ものもない。蕎麦がうまかった。渡具知は名護高の出身だ。娘も同じ高校に通っている。地元で生まれ育った人で地元の振興を。名護湾は美しい。名護とは「なごやか」が語源ではないか。18歳の皆さんの投票で逆転できる…程度のことしか言わない。驚いたが、具体的な地域振興策さえ口にしないのだ。落語家が枕を振って、これからどんな噺が始まるかと思いきや、枕に終始してオシマイ、というあのはぐらかし。

ところが、高校生はおとなしくにこやかにこのつまらぬマクラを聞いている。「和みの名護湾に、基地を作ってよいのか」「オスプレイで、学校の騒音はどうなるのか」「ヘリが校庭に落ちてきたらどうする」などと、ヤジは飛ばない。君らの大半は、基地建設にゴーサインを出したことになる。君たちは、名護の将来を真剣に考えたのか。

名護高校生諸君に聞いてもらいたい。
私は、弁護士になって以来、詐欺ないしは悪徳商法に欺された人々の被害救済訴訟を自分の使命として多数手がけてきた。欺された人々は例外なく、悪徳商法のセールスマンを、「自分に幸運をもたらす親切なよい人」と思い込むのだ。笑顔で、礼儀正しくて、口当たりの良い言葉を話して、こうすれば利益が確実と思い込ませるのが、悪徳商法のセールスマンなのだ。

だから、甘い言葉には、欺されぬよう気をつけなければならない。欺されぬためには、まずは徹底して疑問をぶつけることだ。それから、一セールスマンの意見を鵜呑みにせず、ライバル関係にある他の意見にも耳を傾けて、対比をしなければならない。さらに、自分一人で判断せず、周囲の人々と意見交換も大切だ。

ベネフィットだけを誇張してリスクを隠すセールストークが悪徳商法の基本だ。効能だけを語って、決して副作用を語らないサプリメントの売り方も分かり易い。選挙も同じだ。私の耳には、小泉進次郎の名護高校生諸君に対する選挙応援演説は、ソフトでスマイルいっぱいの悪徳商法トークに聞こえる。

キミたちはなめられているのだ。こんな程度で、ごまかすことのできる相手だと。キミたちを一人前の自立した有権者だと考えていたら、こんな程度の話ができるはずはない。何よりも、建設を許せば耐用年数200年という恒久基地の将来像について一言あってしかるべきではないか。もっと具体的に、今の市政に足りないもの、どうしたらそれを補うことができるのか、どうして稲嶺にはできず渡具知ならできるのか、真剣な訴えがあって当然だろう。

小泉進次郎には、まず問い質すべきだった。「どうして、選挙演説で基地のことをお話ししないの」「辺野古基地の建設は我慢しなければならないの」「基地ができたら、今普天間の学校や保育園で起こっていることが今度は名護で起こることにならないの」「オスプレイはどのくらいうるさいの」「どうして、渡具知さんが勝った場合だけ経済振興になるのですか。稲嶺さんでは応援しないと言うことですか」「あなたは私たちに、具体的に何をお約束されるのですか」「そのお約束は、稲嶺さんが市長ではできないのでしょうか」「稲嶺さんの政策のどこに間違いがあるということでしょうか」「結局あなたは、名護のためにはではなく、基地建設推進のために渡具知さんを応援しているのでではありませんか」

これに小泉がこう答えれば、はじめて議論の出発点になる。ここから論争が始まる。
「基地に反対して、平和や環境や自治を守ろうというのは単なる理想だ。それでは君たちの地元の豊かな暮らしはできないのが現実だ。海は壊されて基地ができ、治安は悪化し、騒音は酷くオスプレイの墜落の心配もあるかもしれない。それでも、アベ政権は君たちに経済の振興策を提供することができる。基地反対派には支援はしない。君たちは決断すべきなのだ。基地に反対を貫くことで理想や理念を守ろうというのか、それとも基地反対では喰えない現実を覚って賛成にまわるのか。」

なお、質問される前からこう言っておけば、詐欺商法の汚名を甘受せずともよい。これは詐欺商法とは別種の脅迫商法ないしは恫喝商法なのだから。

名護高校の諸君に、いや全県・全国の若者に、心からのお願いをしたい。これからの人生には何回もの選挙があるだろう。悪徳商法に欺されてはならないという気構えで、とくと考えて投票されよ。少なくとも、選挙運動のセールストークを鵜呑みにするようなことがあってはならない。甘い言葉には毒があるのだ。疑問点は徹底して問い質すこと。そして、相手陣営の見解もよく聞いて比較してみること。最低限これだけのことはしなければならない。これからの選挙の結果には、若者の命がかかってくることにもなりかねないのだから。
(2018年2月5日)

辺戸岬「祖国復帰闘争碑」― 「未完の復帰宣言」の碑文

学生時代の同級生で記者になった友人が多い。小村滋君は朝日の記者になった。定年になってから、沖縄浸りだ。月一回のペースで、極ミニコミ紙「アジぶら通信」を送信してくれている。これが、メールマガジンというものなのだろう。カラー写真満載の、A4・6ページ。本日がその38号の配信。トップページに、辺戸岬に屹立する「祖国復帰闘争碑」の写真、碑高5メートルもの偉容だそうだ。これに、碑文が掲載されている。その碑文には、「全国の そして全世界の友人へ贈る」との標題。

吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
 〝鉄の暴風〟やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
  米軍占領に引き続き 1952年4月28日
  サンフランシスコ「平和」条約第3条により
  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
  しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
  全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
  今踏まえている 土こそ
  辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
  しかるが故に この碑は
  喜びを表明するためにあるのでもなく
  ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
  人類が 永遠に生存し
  生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
  生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
(以上は「全国の、そして全世界の友人へ贈る」の全文)

私は1966年末から、67年初頭にかけて復帰前の沖縄を見ている。貧乏学生の私に旅などできる余裕はなかった。私が在籍していた大学と朝日と沖縄の地元紙とが共同でした大規模な社会調査のアルバイト要員としての訪沖だった。仕事が終わったあと、一人で沖縄を回った。そのとき、辺戸岬にも行ってみた。

山原の地はどこも寂しかった。かやうちパンダ、万座毛、今帰仁城趾、辺戸岬…、どこも印象に深い。27度線を見はるかす辺戸岬は、大晦日には本土との海上交流の場として有名だったが、当時何のモニュメントもなかった。

本土復帰後、辺戸岬まで足を運んだことはない。復帰後4年目に建立されたというこの威容を誇る「闘争碑」を見たことはない。碑文も知らなかった。

この碑文はありきたりのものではない。
おきなわの祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された」との明記は、本土の我々をも、打たずにはおかない。まことにそのとおりだ。いまだにそのとおりなのだ。

本土は沖縄戦で現地を捨て石にした。さらに、戦後は天皇(裕仁)によって、沖縄は米軍に売り渡され、独立後20年も占領を続けられた。そして、苦難の末の本土復帰は、核付き基地付きの返還となった。

県民の多くが願った本土復帰とは、日本国憲法の平和と国民主権が本土と同じく保障される状態の実現であったはず。その願いは今だはるか遠くにある。

この碑は 復帰の喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない」という文章に胸が痛い。が、「闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確め合い決意を新たにし合うために」という精神を学びたいものと思う。

「日米国家権力の恣意に対する県民の平和への願いを実現すべき闘争」は、いまだに続いている。小村君は、今朝(2月4日)「今日は名護市長選です」「朗報を待とう」とだけ通信をくれた。開票結果は…まだ分からない。
(2018年2月4日)

切られちまった尻尾の愚痴ー名護市長選告示の日に

私が切られた尻尾だ。尻尾だって身体の一部じゃないか。よく言うだろう、「小指の痛みも全身の痛み」って。小指だけじゃない、尻尾だっておんなじだ。尻尾だって生きている。尻尾にだって意気地もあれば、いかほどかの魂もある。切られて、へっちゃらではないんだよ。でも、切られた尻尾と切られぬ小指。どうしてこんなにちがうんだろう。やっぱり、無念だ。しばらくは、切られた姿でのたうちまわっている以外にない。

切られた尻尾にも、名前はちゃんとある。俄然時の人になった、話題の松本文明。それが私の名だ。

3日前の1月25日のことだ。日本共産党の志位和夫が衆院本会議で代表質問をした。キョーサントーだぜ。アベシンゾーは、ヤジで「ニッキョーソはどうした。ニッキョーソ」って騒いでいたが、キョーサントーの方が敵としてはるかに手強いだろう。だから私は、アベシンゾーを手本に、隙あらばなんか言ってやろうと待ち構えていた。志位は、演説で沖縄の問題に触れた。沖縄は私が副大臣として関わるテーマだから、聞き耳を立てた。

演説のなかで志位は、沖縄で起きた米軍普天間飛行場所属ヘリの事故を巡る問題に触れた。保育園や小学校の保護者の不安の声を紹介して、普天間基地の存在と辺野古新基地建設を攻撃し、沖縄からの海兵隊撤退を求めた。

そこで、私は議場からヤジを飛ばした。「それで何人死んだんだ」と。一人も死んではいないだろう。機体が不時着したり、ヘリのドアが落ちたくらい、たいしたことではないじゃないか。たとえ事故が、保育園や小学校で起きたとしても、だ。キョーサントーは何を大袈裟なことを言っているんだ。私は一人の死者も出ていないという真実を語っただけのこと。このヤジのどこが問題なんだ。国会は言論の府だったはずじゃないか。この国の国会には言論の自由はないのか。

なんてったって、国土の防衛こそが最重要事だろう。安全保障は何にも勝る重大政策だ。中国に攻められてみろ。北朝鮮からのミサイルが飛んできたことを思え。ヘリの不時着やドアが校庭に落ちたくらいで騒いでいることが、なんと平和惚けの議論なのかよく分かるだろう。

私は、自分のヤジが取り立てて問題のあることではないと思っていたのだが、本会議終了後赤旗の記者から取材を受けた。やましいところはないから、ヤジを飛ばしたのが自分であることは認めた。もっとも、「死者が出なければ良いという考えか」という質問には、私もバカではないから「そんなことは全然ない」と返答しておいた。

ところが、この記事が翌26日の赤旗に出た。産経でも読売でもない。キョーサントーの機関紙だ。赤旗がなんと言おうと官邸も党も動じることはなかろうと思っていた。なんたって、官邸も党も、ホンネのところでは、私の発言とまったく同じ考えなんだから。上の方では言いにくいことをよく言ってくれたと褒められても良さそうなところ。だから、記者たちには、おわびも発言撤回も辞任もないと、強気に出て否定しておいた。官邸も党も私を守ってくれるはず、そう思っていた。

ところが、当てが外れた。私の読みが浅かった。官邸も党も、私に、即刻沖縄担当の内閣府副大臣を辞任しろというのだ。そりゃなかろうとは思ったが、どうにもしょうがない。ふてくされながらも辞表を提出し、メデイアからは「事実上の更迭」と書かれた。

タイミングが悪いと説得された。名護市長選挙の告示日が目前だ。2月4日に投開票を迎えるこの選挙戦への影響を懸念せざるを得ないというのだ。で、1月26日のうちに、アベシンゾーより事実上副大臣の更迭だ。要するに、トカゲの尻尾として切られたのだ。しょうがないけど、やっぱり釈然としない。

記者会見では神妙なところを見せた。「ただいま、総理にお会いをいたしまして、『大変誤解を招く発言でご迷惑をかけています』『ついては、辞表を持って参りましたので、よろしくお取りはからいをお願いします』ということです。辞表を提出をして参りました」

(首相からは)「いや、『特に今、この国が大変な時期なので、緊張感を持って対応してもらわないと、困ります』という注意を受けました」

「いずれにしても誤解を招いて、重要な予算審議、国会審議が始まる中で、沖縄県民並びに国民の皆さんに迷惑をかけたと思って直ちに今辞表を出してきたということであります」

「いろんなメディアの方から、大きく問い合わせ、もろもろありまして。なるほど、これほど大きな誤解を受けているんだったら、もうその、なんというんでしょう。私がいろいろ今しゃべっていることはすべて釈明にしか聞こえない。弁解にしか聞こえない。これじゃやっぱりだめだ、と。ここはおわびをする方がいい、こういう思いを持ちました

自分でも何を言ってるんだかよくは分からない。「誤解」ってなんだ、誰にお詫びしているんだって、聞かれてまともに答えられるわけがない。面白くないのは、尻尾を切った頭の方が涼しい顔をして、イケシャシャアとしていることだ。同じ考えのはずなのに、すべてを尻尾のせいにして切り捨てたんだ。アベシンゾーというトカゲは、一体何本の尻尾を持っているんだろう。切る尻尾と残す尻尾。どう区別しているのか、どうにも腑に落ちない。

アベが口にした、「緊張感を持って対応」って、ホンネを漏らさぬよう緊張しろっていうことなんだ。うっかりホンネを言ってしまうと、せっかく欺して手にしていた票が逃げる、腹ふくるるを我慢して本当に思っていることをしゃべっちゃダメ、ということなんだな。

しかしだ、私よりずっと罪の重かろう閣僚連が、切られぬ尻尾として数多くいるのに、どうして私だけが切られるのか。腑に落ちない。安倍昭恵は切られぬ尻尾として残され、籠池夫妻が何ゆえ切られた尻尾になったんだ。加計孝太郎も相当に腐敗した危ない尻尾だ。それでも、どうして切られていないのだ。

だいたい、私は運が悪いのだ。2003年の第43回総選挙では、私の選挙運動員が大学生に現金12万円を渡したとして逮捕された。たったの12万円で逮捕だ。いつかの都知事選でのどこかの陣営でもあったことだが、あっちは見逃されているではないか。

いよいよ本日、名護市長戦が始まった。何が争われているのか。本当は、こうだ。自・公・維の側は、保育園や学校の安全などより、国防が第一なのだ。米日の軍事基地の効率的な運用のためには、騒音問題も、安全や治安問題も小さな問題だろう。「一人の死者も出してはいないんだから、取るに足りないのだ」がホンネだ。だけど、それを言っちゃあ勝てないから、衣の下の鎧を隠しながらの選挙戦。

その点、オール沖縄派は、辺野古新基地反対のホンネを語っての選挙だから、やりやすかろう。私は、結局、オール沖縄派に塩を送ったことになるだろうだから、私は、官邸と党に、お詫びをしたんだ。決して沖縄県民にお詫びをしたわけではない。むしろ、切られた尻尾として、何が正しい選択かを県民にお伝えしたのだから、御礼を言われてもいいんじゃないかな。
(2018年1月28日)

沖縄に春の訪れーめでたやな南城市長選にオール沖縄の勝利

さてもめでたや 新玉の春は心も若がえて 四方の山辺の花盛り…(「四季口説」(しちくどぅち))。昨日(1月21日)投開票の南城市長選で「オール沖縄派」候補が、現職の4戦を阻止して初当選した。今年を占う初春の吉事である。

沖縄の今年は、「選挙イヤー」だという。
1月21日投開票の南城市長選を皮切りに、ことしの沖縄は県知事選と17市町村での首長選、加えて30市町村で議員選挙、3つの補欠選挙と計51の選挙がある。その数もさることながら、中央政界の関心が高く、沖縄の将来を占う選挙が控えているのも特徴だ。「辺野古新基地建設の是非」を争う県知事選(11月想定)と、その前哨戦に位置づけられる名護市長選(2月4日投開票)だ(「沖縄タイムス」)。

その初戦での「オール沖縄派」の勝利だから、まずはめでたい。琉球新報の長い見出しは以下のとおり。
「南城市長選 瑞慶覧氏が初当選 古謝氏に65票差、市政交代 オール沖縄に追い風」

沖縄タイムスはこうだ。
「南城市長選:知事が支援する新人当選 瑞慶覧長敏氏、65票差で現職破る」

いずれも接戦・僅差を見出しにしているが、12年間継続した保守市政の岩盤を破って、現職四選を阻止したことの意味は大きい。

▽南城市長選開票結果
 当11429 瑞慶覧長敏 無新
   =社民・共産・社大・自由・民進推薦
  11364 古謝 景春 無現
   =自民・公明・維新推薦

なお、当日有権者数は3万4328人。投票総数は2万2973。有効投票数は2万2793、無効票は180。

何よりも、この選挙は「オール沖縄」の今後の消長を占う選挙だった。
琉球新報は、「2月の名護市長選、秋の県知事選の前哨戦とも位置付けられた選挙で、瑞慶覧氏を支援した『オール沖縄』勢力が弾みをつけた格好だ。」とし、
毎日は、「米軍機の相次ぐトラブルによる県民の不満の高まりが古謝氏への逆風になった面もある。安倍政権は今年、現職が翁長氏系の名護、那覇両市長選に勝利して県内全11市を政権寄りの首長で固め、翁長氏が掲げる『オール沖縄』を崩そうと狙っていただけに、南城市での敗北は痛手だ。」と評した。

ところで、全国の人々に、南城市の存在はどれほど認識されているだろうか。恥ずかしながら、私も「ナンジョウシ? どこ?」。

2006年、佐敷町・玉城村・知念村・大里村の合併で誕生した市だという。佐敷や玉城知念ならイメージが湧くのだが、どうも「南城」では。琉球王国を建国した尚巴志王の出身地でもあり、保守県政築いた西銘順治沖縄県知事(故人)は、南城名誉市民とのこと。西銘の男子二人は、自民党の国会議員となっている。本来保守の強いところなのだ。

学生時代に復帰前の沖縄に旅して、久高島で12年に一度午年の旧正月に行われる祭イザイホーのあることを知って、できれば見学をと思った。佐敷の馬天港から久高島に行く船便まで調べたが、わずかな宿代と交通費を捻出できず諦めたことがある。この馬天も久高も今は南城市だ。新市発足以来12年間の保守市政が、ここで「オール沖縄」派の市政に転換した意味は大きい。

次はいよいよ、名護市長選挙(1月28日告示、2月4日投開票)。「社民・共産・社大・自由・民進」のオール沖縄と、「自民・公明・維新」のオール保守の対峙という構図は南城市長選と同じ。ただ、オール沖縄側が現職で、オール保守側が新人候補と、攻守所が変わっている。

同市長選は、三選を目指す現職の稲嶺進氏(72)=社民、共産、社大、自由、民進推薦=と、元市議で新人の渡具知武豊氏(56)=自民、公明、維新推薦=の一騎打ちとなる見通しで、両陣営は選挙戦本番さながらの活動を繰り広げている。

下記は、本番さながらの選挙戦を闘っている現地からの檄。
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名護市民と沖縄県民の不屈の闘いの勝利を目指して。

名護市長選挙も告示まであとわずか。既に最終盤の模様です。
安倍反動内閣は2014年7月1日、憲法違反の集団的自衛権の行使容認と辺野古新基地建設の作業開始を同時に閣議決定しました。作業開始から3年半が経った今日でも建設工事は遅々として進まず、完成の目処が立たないのが現状です。それは県民の不屈の闘いによって拒否されているからです。こうしたなかで名護市長選挙が闘われています。
本来ならば当然に、辺野古新基地建設の是非が選挙戦最大の争点となるはずです。しかし、自公陣営とその候補者はデマと争点そらしに徹して、死にものぐるいで運動を強めています。
名護市民はSACO合意以降の20年間、日米両政府の悪政と闘ってきました。2010年1月には稲嶺市政を打ち立てて、市民が主人公の市政で市民のくらしと命を守る政治を貫いてきました。一方、市政の問題でも自公陣営とその候補者は市民の立場に立つことができず、対案すら提起できないためデマ宣伝に徹しているのです。
我々は市政の継続をめざして、この間全国の仲間のみなさんと団結して頑張ってきました。我々の闘いがオール沖縄陣営の団結と前進に大きく寄与しています。しかし、闘いを勝ち抜くためには最終の最終までの奮闘が必要です。共に頑張りましょう!
(2018年1月22日)

年の瀬に アベの悪政 あ・い・う・え・お

いよいよ今日が大晦日。今年を振り返らねばならないのだが、そんな余裕を持ち合わせていない。ともかく、この1年の365日、途切れなく当ブログを書き続けた。非力な自分のできることはやった感はあるものの、世の泰平は感じられない。憲法は危うく、真っ当ならざる言論が幅を利かせる、少しも目出度くはない越年である。

何しろ、衆・参両院とも、改憲派が議席の4分の3を超している。改憲発議は既に可能なのだ。安倍晋三政権が長期の命脈を保っていることそれ自体が、諸悪の象徴であり、また諸悪の根源でもある。

安倍が掲げる反憲法的な諸課題に対峙するとともに、安倍を徹底して批判し安倍にNOを突きつけることで、安倍が主導する改憲策動を阻止しなければならない。

そのような心構えで年を越すしかない。2017年の暮れに、「アベの悪政 あ・い・う・え・お」である。
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あ 安倍晋三よ、あんたが国難。

右手に明文改憲、左手に解釈壊憲を携えて、平和・人権・民主主義を破壊しようというのが、アベシンゾーとその仲間たち。特定秘密保護法・戦争法、そして共謀罪までのゴリ押し。さらには、原発再稼働、カジノ法案、働き方改悪…。安倍晋三という存在自体が、日本国民にとっての災厄である。すこしの間なら辛抱して嵐が過ぎ去るのを待てばよい。ところが、こうも長すぎると後戻りできないまでの後遺障害を心配せざるを得ない。明文改憲の現実もあり得ないでない。いまここにある安倍晋三という国難を除去することこそが、覚醒した真っ当な国民にとっての喫緊の課題である。

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い 一強が招いた政治腐敗

2017年は、森友問題と加計学園疑惑に揺れた一年だった。すべてはアベ一強政治が招いた腐敗。忖度という言葉が、流行語大賞を取ってさらに話題ともなった。もり・かけとも、アベシンゾー夫妻との親しい間柄で甘い汁を吸おうとしたオトモダチ。朋友相信じた仲。にもかかわらず、その一人籠池泰典は、妻ともども、拘置所での年越しを余儀なくされている。旗色悪しと見たアベに、トカゲの尻尾よろしく切り捨てられたからだ。私は、籠池の思想には唾棄を催すが、その人柄には親近感を覚える。いまやすべてを失った彼に、一抹の同情を禁じえない。
一方、加計孝太郎は、すべてを保持したままこの年の瀬を逃げ切ろうとしている。安倍と気の合う仲間にふさわしい陰湿さに、忌まわしさを感じるばかり。何を考え、どこで、何をしながらの年越しだろうか。
水の流れが澱めば、必ず腐敗する。アベ一強忖度政治の教訓を噛みしめたい。
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う うっかりせずに、しっかり反対「安倍9条改憲」

アベ改憲は4項目。「緊急事態」・「教育の拡充」・「参院選挙の合区」と、自衛隊を明文化しようという「アベ9条改憲」。アベの関心は、もっぱら9条で、その他は改憲擦り寄り、下駄の雪諸政党にバラ播かれた餌だ。いずれも、明文改憲なくとも困ることは生じない。
問題は、「9条改憲」のみなのだ。「現にある自衛隊を憲法上の存在として確認するだけ」「だからなんにも変わらない」というウソを見抜かなければならない。本当に「何にも変わらない」のなら、改憲の必要などない。本当は様変わりするのだ。
「自衛隊違憲論」者(当然、私もそのなかにいる。)にとって、自衛隊を明文化しようという「アベ9条改憲」が、驚天動地のトンデモ改憲案であることは論を待たない。しかし、「自衛隊は自衛のための最低限度の実力を超えるものではなく『戦力』にあたらない。それゆえ『戦力』の保持を禁じた9条2項に違反しない」という専守防衛派にとっても、憲法の景色は様変わりすることになる。
武力組織としての自衛隊を憲法が認めることは、9条2項を死文化することになる。そのことが、自衛隊の質や量、可能な行動範囲への歯止めを失うということになるのだ。それだけではなく、いまや自衛隊は戦争法(安保関連法)によって、一定の限度ではあるが集団的自衛権行使が可能な実力部隊となっている。これを憲法で認めるとなれば、憲法が集団的自衛権行使を容認することにもなる。
うかうかと、アベの甘言に欺されてはならない。
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え 越年しても忘れない

アベ改憲のたくらみも、壊憲政治も、そして政治と行政の私物化も、すべてはアベシンゾウとその取り巻きのしでかしたこと。アベ一強政治が続いたからこその政治危機であり、腐敗である。
これに対する国民の側の反撃の運動も、大きく育ちつつある。覚醒した市民と立憲主義を大切に思う野党の共闘こそが希望だ。来年こそ、この共闘の力を発揮して、アベ退陣と、改憲阻止を実現したい。このことを、けっして越年しても忘れてはならない。
先日の「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・関西訴訟団」の闘いを締めくくる声明の末尾に、「戦争を志向し人権を侵害する行為を見逃さない司法が確立し、今後、閣僚らの靖国参拝が永遠にとどめられるまで、闘いをやめないことを宣言する。」とあった。闘いに負けない秘訣は、「永遠に闘い続け、闘いをやめないこと」だ。そう。決意しよう。
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お 沖縄の悲劇と沖縄の希望

そして、特筆すべきは沖縄の闘い。オスプレイやCH53が墜落する。米兵の犯罪が横行する。辺野古の新基地建設のための大浦湾の埋立が進んでいる。反対運動が弾圧を受けている。DHCテレビがフェイクニュースを垂れ流す。米軍が保育園や小学校にヘリの部品を落とすと心ない本土のウヨクが政権の意向を忖度して、保育園や小学校に「ヤラセだろう」と電話をかける…。
沖縄全土が、反アベ・反トランプとならざるを得ない深刻な事態。いまや、アベ政権対オール沖縄の、安全保障政策をめぐる政治対決の様相。新年2月4日には名護市長選挙、これを前哨戦として11月には沖縄県知事選が闘われることになる。
沖縄は、いまだに虐げられた非劇の島である。しかし、粘り強くスクラムを組んだ闘いを続けることにおいて、希望の島となりつつある。アベ政権にNOを突きつける意味でも、オール沖縄支援したい。

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か からだ気をつけ 風邪引かぬよう

ところで、先日同期の児玉勇二さん(元裁判官・現弁護士)から、「健康に生きたいー真の健康への自立と連帯」という旧著(1981年刊)を送っていただいた。280ページにもおよぶ、児玉さんの健康回復実践と思索の記録である。

キーワードは、「自然治癒力」。人間が自然の一部であることを自覚して、生活に自然を取り込むよう心がけること。人工的な環境・人工的な食品・人工的な薬品を避けて、自然の中での運動にいそしみ、偏食なく伝統的な自然食品を摂取すべきだという。「食品公害」という語彙が頻繁に出てくる。この書は、まだサプリメントが横行していない時代のものだが、定めしサプリメントは健康の敵。

私は健康に自信がない。児玉さんに学び、「自然治癒力」を体内に取り込んで、すこしでも平和な世、誰もの自由や権利が尊重され商業主義に毒されない真っ当な世になるまでを見極めたい。それが、年の瀬の私の願い。
(2017年12月31日)

無知と偏見にもとづく「沖縄差別NO!」の声を。そして「安倍政権NO!」の声も。

この社会に理不尽な差別が絶えない。新たな差別が生み出されてもいる。部落や在日に対する差別に加えて、どうやら「沖縄差別」「沖縄ヘイト」というものが存在するらしい。このような差別を許していることを恥ずかしいとも、腹ただしいとも思う。

差別は、社会のマジョリティがつくり出す。権力の煽動と結び付くことで、差別は深刻化し、痛みを伴うものとなる。マジョリティの周辺部に位置する弱者が、「無知と偏見」によって煽動に乗じられることとなる。軽挙妄動して差別の行動に走るのは、より弱い立場にある被差別者に、安全な位置から差別感情を吐露する者。こうしてカタルシスを得ようとする「無知と偏見」に彩られた者たちなのだ。

権力やマジョリティの中枢に位置するエスタブリッシュメントは「無知と偏見」を助長することによって、自ら手を汚すことなくヘイトに走る者を利用するのだ。

いま、「無知と偏見」の輩が、沖縄ヘイトに走っている。本日(12月25日)付毎日の朝刊一面トップ記事が、「米軍ヘリ窓落下被害小学校に続く中傷」の大見出し。「のぞく沖縄差別」と続く。

12月13日米軍ヘリが普天間第二小学校の校庭に窓を落下させて以来、米軍への抗議ではなく、小学校や普天間市教委に抗議の電話が続いているという。「文句言うな…」「やらせだ」「自作自演だ」など…。

毎日新聞はよくぞトップ記事としてこのことを書いた。全国紙がこれだけの扱いをしたことそれ自体のインパクトが大きい。

リードは、「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校への米軍ヘリの窓落下事故で、同校などに『学校を後から建てたくせに文句を言うな』といった抗議電話が続いている。第二小の歴史を踏まえ、差別意識ものぞく抗議の背景を考えた。」というもの。事実関係は、今さら繰り返すまでもない。

この件については、朝日の報道が先行している。恐るべき中傷の内容だ。
「市教委によると、中傷電話は事故翌日の14日が13件と最も多く、その後も1日2~3件ある。米軍が窓を落としたことを認めているにもかかわらず、『事故はやらせではないか』などと中傷する内容もあった。東京在住と説明した男性は『沖縄は基地で生活している。ヘリから物が落ちて、子供に何かあっても仕方ないじゃないか』と言ったという。

18日には、謝罪に訪れた米軍大佐が『最大限、学校上空は飛ばない』と告げたことに、喜屋武悦子校長が『最大限ではなく、とにかく飛ばないでほしい』と反発し、文書での回答を求めたが、これに対しても『校長のコメントは何だ。沖縄人は戦闘機とともに生きる道を選んだのだろう』と批判する電話があった。」

この報道を踏まえて、12月22日朝日は、「沖縄への中傷 苦難の歴史に理解欠く」という社説を掲載した。
冒頭に、「沖縄の長い苦難の歩みと、いまなお直面する厳しい現実への理解を欠いた、あるまじき言動だ。強い憤りを覚える。」と珍しく感情を露わにした。

「後から学校を造ったくせに文句を言うな」「沖縄は基地で生活している」。事実を正しく把握しないまま、学校側をののしるものもあるという。

「中傷電話が『無知と偏見』によるものであるのは明らかだ。日々の騒音や墜落への恐怖に加え、心ない日本国民から『二次被害』まで受ける。あまりに理不尽な仕打ちではないか。」

「今回だけではない。オスプレイの配備撤回を求めて沖縄の全市町村長らが東京・銀座をデモ行進したとき、『売国奴』との罵声が飛んだ。ヘリパッド建設工事に抗議する住民を、大阪府警の機動隊員は『土人』とさげすんだ。沖縄差別というべき振る舞いが後を絶たない。」

「嘆かわしいのは、本土の政治家らの認識と対応である。防衛政務官が沖縄の基地負担は重くない旨のうその数字を流す(13年)。自民党若手議員の会合で、普天間飛行場の成立過程について間違った発言がまかり通る(15年)。沖縄担当相が土人発言を批判せず、あいまいな態度をとる(16年)――。
誹謗中傷を許さず、正しい情報を発信して偏見の除去に努めるのは、政治を担う者、とりわけ政府・与党の重い責任である。肝に銘じてもらいたい。」

まったく同感。「無知と偏見」に凝り固まった「政府・与党の走狗」たちの迷妄を啓くことは、容易ならざる難事なのだ。

ところで、本日の毎日の記事は社会的背景を考えさせる4名のコメントを付している。

まず、翁長知事。
「翁長雄志知事は21日、『目の前で落ちたものまで「自作自演」だと来る。それ自体が今までにない社会現象だ』と語った。」

次いで、沖縄現地の政治学者。
「中傷の背景に何があるのか。沖縄国際大の佐藤学教授(政治学)は『基地集中を中国の脅威で正当化する誤った正義感がある。一度デマが広がると、事実を提示しても届かない』と話す。」

そして江川昭子さん。
「ジャーナリストの江川紹子氏も『政権に一体感を覚える人には、飛行反対は現政権にたてつく行為と映るのだろう』と指摘する。」

最後が、安田浩一さん。
「2013年、東京・銀座でのオスプレイ反対デモは『非国民』との罵声を浴び、昨年には沖縄県東村でヘリパッド移設に反対する住民に大阪府警の機動隊員が『土人』と言い放った。差別問題に詳しいジャーナリストの安田浩一氏は「沖縄が悪質なデマ、『沖縄ヘイト』の標的になっている。それを日本社会全体の問題として議論すべきだ」と語った。」

全員が、社会現象として「沖縄差別」を論じている。「無知と偏見」の輩が、現政権に煽られ、現政権にたてつく者に対する攻撃を行っているのだ。「無知と偏見」の輩には確信がある。安倍政権と米軍に味方する自分こそが、この社会の多数派で、政権と米軍に楯突く不届き者を懲らしめてもよいのだ、という確信。強者にへつらうイジメの心理である。そのイジメの心理の蔓延が、社会現象としての「沖縄差別」を形成している。

この沖縄差別に象徴される今の社会が安倍晋三を政権に押し出し、また政権に就いた安倍が差別を助長し利用している。DHCテレビが制作し、DHCが提供のテレビ番組「ニュース女子」も在日差別と沖縄差別に充ち満ちたフェイク番組だった。これも、在日や沖縄を攻撃しても安全という、イジメの構造が生み出したものだ。

沖縄差別は、安倍政権と同じく、日本社会の病理が生み出したものだ。あらゆる差別とともに、安倍政権も一掃しなければならない。イジメは加害者と被害者だけで成立するのではない。これを見て見ぬふりをする多くの傍観者の存在が不可欠なのだ。本土の私たちが、そのような消極的加害者であってはならない。「沖縄差別NO!」の大きな声をあげよう。そして、「安倍政権NO!」の声も。
(2017年12月25日)

日本軍による久米島住民虐殺事件

本日のブログは、宮川泰彦さんの論稿「日本軍による久米島住民虐殺事件」の転載。
宮川さんは、かつて東京南部法律事務所という共同事務所で席を並べた同僚弁護士。沖縄出身で、父君も自由法曹団員弁護士と聞いていた。沖縄出身の弁護士といえば、まずは徳田球一である。そして、古堅実吉、照屋寛徳なども。闘士然としたイメージがまとわりつくが、宮川さんは温厚な人柄。少し前まで自由法曹団東京支部長で、それを降りた後に日朝協会東京都連会長を務めている。

宮川さんの母方のルーツは久米島とのこと。久米島は、「沖縄本島から西に約100km、沖縄諸島に属する島で、最も西に位置する島である。人口は1万人弱で、行政上は島全域が久米島町に含まれる。面積は59.53K㎡で、沖縄県内では、沖縄本島、西表島、石垣島、宮古島に次いで5番目に大きな島である。(ウィキペディア)」という。島は、元は二つの村からなり、宮川さんの祖父に当たる方が、一村の村長だったという。その島で、終戦時に複数の住民虐殺事件があった。加害者は本土の軍人。宮川さんならではの押さえた筆致が、生々しい。

とりわけ、終戦後に朝鮮出身者の一家7人がいわれなき差別観から、皆殺しの惨殺(後記の④事件)に至っていることが、なんともいたましい。驚くべきことは、戦後加害者に謝罪も反省の弁もないことだ。沖縄の住民の本土に対する不信の念の根はこんなところにあるのだろう。そして、言い古されたことだが、「軍隊はけっして住民をまもらない」ことをあらためて確認すべきだろう。

論稿は、自由法曹団東京支部の「沖縄調査団報告集」の末尾に掲載されたもの。
自由法曹団東京支部は、今年(2017年)9月16日(土)から18日(月・祝)にかけて、沖縄本島に支部所属の若手団員及び事務局員等総勢23名からなる調査団を派遣し、関係各所を訪問した。若手とは言いがたい宮川さんもその一員として訪沖し、久米島(戦争)犠牲者追悼碑に祖父(久米島具志川村長)の名を確認し手を合わせたところから筆が起こされている。以下に、宮川さんのご了解を得て転載する。
(2017年11月10日)

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日本軍による久米島住民虐殺事件

みやがわ法律事務所 宮川 泰彦

「平和の礎」久米島犠牲者追悼碑に刻まれた濱川昌俊(私の祖父・久米島具志川村長)と濱川猛(伯父・軍医)の名を確認し手を合わせた。
その際にガイドの横田政利子さんから「この久米島の追悼碑には、軍によって殺された島民の名も刻まれている」との説明を受けた。私の母の故郷である久米島で日本軍による虐殺があったことはきいてはいたが、正しくは知らない。そこで簡略ではあるが、自分なりに確認してみた。

<久米島の日本軍と米軍無血上陸>
久米島は沖縄本島の西、那覇市から約100キロにある周囲48キロの島。島には日本海軍が設置したレーダーを管理運営する通信兵の守備隊30名ほどが配置されていた。隊長は鹿山海軍兵曹長。
1945年6月に入り、米軍は久米島を攻略するために偵察部隊を上陸させ、情報収集するため島民を拉致し情報を得た(後記②事件)。さらに、米軍は、後記③事件の仲村渠らからの情報も得ており、久米島には通信兵などの守備兵がわずかしかいないことを把握していたことから、艦砲射撃などは行なわず、無血無抵抗のまま6月26日間島に上陸し占鎖した。久米島守備隊は何ら抵抗せず、山中に引きこもった。

<スパイ容疑虐殺方針>
米軍は、無血上陸前の6月13日夜、ゴムボートで偵察隊を島に送り、比嘉亀、宮城栄明ら3名を連行した。翌14日解放された宮城は農業会仮事務所へ行き、米軍に連行された事実を報告した(後記②事件参照。)。

鹿山隊長は、その翌日6月15日付で、具志川村・仲里村(当時の久米島の2村)の村長、警防団長宛てに「達」を発し、さらに軍布告で「拉致された者が帰宅しても、自宅にも入れず、直ちに軍駐屯地に引致、引き渡すべし。もしこの令に違反した場合は、その家族は勿論、字区長、警防班長は銃殺すべし」とした。
以降悲惨な虐殺が続く。

① 6月27日 安里正二郎銃殺
久米島郵便局に勤務していた安里正二郎は上陸した米兵に見つかり、アメリカの駐屯地に連行され、鹿山隊長宛ての降伏勧告状を託された。安里は隊長のもとに持参したところ、鹿山隊長に銃殺された。鹿山は1972年に行なわれたインタビューで「島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするための断固たる措置」だったと語っている。見せしめにしたのだ。

② 6月29日 宮城栄明、比嘉亀の家族、区長、警防団長ら9名虐殺
比嘉一家4人、宮城一家3人、さらに区長と警防団長も責任をとらされ、9名が銃剣で刺殺された。9名は宮城の小屋に集められた。刺殺した鹿山らは、火を放って立ち去った(廃山は火葬だと言い放っていたそうだ。)。黒焦げの死体は針金で縛られ、それぞれ数か所穴があいていた。

③ 8月18日 仲村渠(なかんだかり)明勇一家虐殺
明勇は、海軍小禄飛行場守備隊に配属され、6月はじめに捕虜となり収容所に入れられた。部隊で負傷し米軍に収容されていた比嘉氏とともに、我々の一命にかえても久米島への攻撃を中止させたいということを、通訳を通して米軍に懇願していた。その結果「君たちふたりが道案内するならば艦砲射撃は中止する」ということになった。明勇は、米軍の久米島攻略に道案内として同行し、久米島は無防備の島であることを説明した。そして久米島は米軍の総攻撃の難を逃れた。明勇は、住民に対し、「戦争は終わった、安心して山から帰宅するように」と声をかけまわった。
しかし、仲村渠明勇は鹿山隊に捕まり、米軍のスパイとして、妻、1歳の子とともに、手りゆう弾で爆殺された。

④ 8月20日 谷川昇一家7名虐殺
朝鮮釜山出身の行商人谷川(戸籍名は具仲会)は、妻ウタ(旧姓知念)と長男(10才)、長女(8才)、二女(5才)、二男(2才)と赤ん坊の7名の家族。日本軍からは、谷川は朝鮮人だからスパイをやりかねないと早くから目をつけられていたうえに、行商の品物が米軍からの供与品ではないかと疑われ、谷川はおびえていた。地元の警防団長は一家がかたまっているのは危険だから、散らばって身をひそめるようアドバイスした。8月20日夜になって日本軍は捜索にやってきた。谷川は長男を連れて逃げたが捕えられ、首にロープをかけられ数百メートル引きずられて死亡した。長男は銃剣で刺殺された。妻のウクは赤ん坊を背負い、2歳の二男を抱いて逃げたが捕えられ首を斬られ、泣き叫ぶ二男と赤ん坊もウタの死体の上に重ねて切り殺された。長女と二女は、裏の小屋に隠れていたが、不安にかられて外へ出たところを捕えられ、両親のいる方向へ連れていかれる途中で斬殺された。この日は月夜で、月光の下での虐殺を多くの住民が目撃している。

<これらの事件の特徴>
(1) 赤ん坊から大人まですべてがスパイ容疑者とされ、虐殺されたこと。
(2) すべての虐殺が、1945年6月23日(牛島中将と長参謀長が自決した日)の日本軍が組織的戦闘を終えた日、沖縄戦の終結の後に行なわれていること。上記③、④の虐殺は8月15日の太平洋戦争終結(天皇の玉音放送)の後であること。
(3) 何故戦争が終わっても住民を虐殺したのか。
この点につき、鹿山は「われわれの隊は30名しかいない。相手の住民は1万人いる。地元の住民が米軍側についたら、われわれはひとたまりもない。だから、見せしめにやった」とマスコミのインタビューに答えている。なお、鹿山は1972年のインタビューで、「私は悪くない」「当然の処罰だったと思う」などと、平然と答えている。
日本軍の正体を率直に表していると思う。

以上、佐木隆三「証言記録沖縄住民虐殺」新人物往来社、大島幸夫「沖縄の日本軍」新鮮社、編者・上江洲盛元「太平洋戦争と久米島」、wikipedia「久米島守備隊住民虐殺事件」などから引用して整理してみた。

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