澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

大阪府知事は「アベ疑惑小学校」の認可を留保せよ

当ブログでは、2月11日(建国記念の日)に取り上げた「瑞穂の國記念小學院」の設立認可問題。次から次へと「疑惑」が噴出している。その「疑惑」とは、安倍晋三夫妻と真正右翼との関わりであり、その関わりが、国有地払い下げに格別の取り計らいをもたらしたのではないかという強い疑いである。

校舎建設は進んでいる様子だが、この右翼小学校の設立認可はまだ下りていない。その認可の権限は大阪府知事にある。「大阪府私立小学校及び中学校の設置認可等に関する審査基準」によれば、3月31日が手続的には、知事権限による認可の期限である。しかし、「首相関与の国有財産不正払い下げ疑惑」はますます深まっている。その解明あるまで、軽々に認可を与えてはならない。

本日(2月21日)の赤旗は、同紙が入手した、大阪府私立学校審議会(私学審)での審議録に基づいて、次のように報道している。

「府側は私学審での認可適当の答申を前提に15年2月に国有地の処分の是非を審議する国有財産近畿地方審議会が開かれると報告したものの、14年12月の(私学審)会議では結論を保留。15年1月27日に臨時の審議会(私学審)を開催。指摘された問題について学園側が提出した書類についてなお『人件費が30%いかない。相当ひどいことをしないとできない』『まずい場合は認可しかるべしを取り下げる』などの意見が出されました。しかし、学校建設にかかる工事請負契約の締結状況や寄付金の受け入れ状況、詳細なカリキュラム、入学志願の出願状況など、開校にむけた進捗状況を次回以降も審議会に報告する条件付きで認可適当と認め府に答申しています。」

私学審の認可適当の答申は実は条件付きなのだ。その条件に関わって、重要な事実が2点大きな疑惑として浮かびあがってきている。

第1点は、法人の基本財産でもある校地(校舎敷地、屋外運動場等)の取得が確定的であるかの疑問である。国有地を「ただ同然」で取得した疑惑の経過が世に明らかとされてなお契約が有効として維持されるかどうか、はなはだ疑問ではないか。適正な価格を再算定してなお、経営主体がこれを取得する十分な財政能力を有しているとは考え難い。

要するに、特別のはからいでの価格と支払い方法での校地取得を否定されたら、学校経営などできはしないだろうということだ。

近畿財務局と森友学園とが、どんなからくりを使って文字通り「ただ同然」で、国有財産をアベとつるんだ右翼に払い下げたか。今のところ、最もよく調べているのは、下記のサイトであろう。筆者は京都の自由法曹団員弁護士である。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/watanabeteruhito/20170220-00067887/

第2点は、「寄付金の受け入れ状況」についての疑惑である。森友学園が、「安倍晋三記念小学校」の校名で、設立費用の寄付を募集していたことが明らかになっている。いつからいつまで、安倍晋三の名を使って、いったいいくらの金額を集めたのか。これが明らかにされないうちの認可はあり得ない。アベ首相自身が、「自分の名が使われたことは知らなかった」と国会答弁しているのだ。アベは、金集めのために勝手に自分の名が使われたことをもっと怒ってしかるべきではないか。

私学審答申の「認可適当」の条件は、単に形式的に報告があればよいというものではない。報告の内容が、再議を必要とするものであれば、当然に条件成就とはならないはずではないか。

それにしても、「秘すれば花」とは風流の世界のこと。豊洲にしても、南スーダンの日報にしても、「隠すのは醜悪さを見られては困る」からなのだ。情報公開請求を拒否した近畿財務局の経過隠蔽が、疑惑の発端となったこの事件。隠しきれなくなっての疑惑がふくれ、その醜悪さが際立ってきた。

森友学園理事長籠池泰典とは、経営する塚本幼稚園の保護者に「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」などと記載したヘイトスピーチ文書を配布して物議を醸した人物。アベとは「類は友を呼ぶ」、あるいはもともとが「同じ穴のムジナ」というべきか。「あい寄る魂」は美しいが、政治右翼と真正右翼の醜悪この上ないあい寄る疑惑の関係。

両者の関係を白日の下にさらけ出す努力が今求められている。その疑惑解明までの間に、この「アベ疑惑小学校」設立の駆け込み認可があってはならない。
(2017年2月21日)

3歳児に日の丸・君が代を刷り込め

「三つ子の魂百まで」というじゃないか。国民をマインドコントロールする遠大な計画は3歳児の教育から始めなければならない。そう。マインドコントロールとは、ナショナリズムを国民に吹き込むことだ。マインドコントロールという言葉の響きが嫌いなら、「思想の善導」と言い換えておこう。国旗・国歌(日の丸・君が代)とは、善良な思想の象徴だ。日の丸・君が代を抵抗なく受容することは、権力に従順な証しなんだ。だから、今回の「3歳児からの日の丸・君が代」、素晴らしいことじゃないか。さすがは、アベ政権。さすがに極右に支えられた政権。よくぞ、その役割を果たしているじゃないか。

教え込まなければ、国家の価値など分かるわけがない。ナショナリズムとは、自然に育つものではなく刷り込まねばならないことなのだ。先人がそのために、いかに真剣に国民を欺す努力を重ね、硬軟さまざまなその技を磨いてきたか。国家のためには命を捨てるとまでの国民精神を鍛え上げた、その成功の過程をもう一度よく振り返って、貴重な教訓を噛みしめなければならない。

とりわけ、今は基本的人権などという余計なことを学校が教える。国際化の時代と言われたり、コミュニティが大切だと言われたり。企業が国家を凌駕したり。国家を単位とするナショナリズムは旗色が悪い。誰かが先導し鼓吹しなければ、愛国心も国家ファースト主義も自然に育つものではないのだ。国民の側からのナショナリズム煽動の動きが弱ければ、国家自身がナショナリズムを鼓吹する以外にない。それが、日の丸・君が代強制のホンネでないか。そのどこが悪い。どこに問題があるというのだ。なんと言っても、国家あっての国民じゃないか。

ナショナリズムを叩き込むのは、余計な知恵の付かないうちがよい。生まれ落ちた瞬間から、日の丸であやされ、君が代を子守歌にする環境が最も望ましい。それが無理でも3歳からは、日の丸・君が代に親しむ環境を作るのだ。親しむというよりは、叩き込むというべきだろう。子どもに知恵が付いて、「国家よりは、個人の尊厳」とか、「主権者としての自覚」などと言いだしたらもうおしまいだ。3歳ならまだ間に合う。まだ、国家の何たる、民族の何たるかも分からない。日の丸・君が代と天皇制や戦争との結びつきも、何も知らない。知らないことが重要なのだ。ものの分からないうちがナショナリズム煽動と刷り込みのチャンスだ。勝負のときは短いのだ。

3歳児の公的な預け先は3系統ある。
文科省管轄の幼稚園。厚労省管轄の保育園。そして幼稚園と保育所の機能を併せ持つ内閣府管轄の「認定こども園」。その全てが、3歳児から「国旗・国歌に親しむ」教育を受けさせることになる。これは、われらナショナリストにとって欣快の慶事ではないか。

これまで、幼稚園と認定保育園とは国旗についてだけ「親しむ」とされていたが国歌については定めがなかった。保育園に至っては、国旗・国歌の両方について、何の定めもなかった。これは、どう考えてもおかしい。保育園とはまるで、若い両親が自分の仕事を優先して子どもを施設に預けさえすればよいかのごときではないか。保育園には、国家や自治体が金の補助をしているのだ。それなら、見返りに国家が望む子どもに育つよう、ナショナリズムを刷り込む。「預けた子どもに余計な思想教育などもってのほか」などという輩は、保育園からも幼稚園からも閉め出せばよいのだ。

塚本幼稚園を見よ。毎朝、感心にも君が代を唱い教育勅語を暗唱しているというではないか。だから、アベの妻が名誉校長になるのだ。それだけではない。国有地をただ同然で払い下げてもらえるのだ。国家のための教育を行っているところに、国家が報いるのは当然だろう。

キミ、人間が上手に生きていくために一番大切な資質って何だと思う?
それは、従順ということだ。あるいは順応能力と言ってもよい。国家に、体制に、社会に、企業に、無理なく逆らわずに生きていくことのできる資質。善導されたとおりに善良な思想を形成し、柔軟に自分を体制に合わせて生きていく能力だ。なまじ自主性だのプライドなど持ち合わせているとこの世は生きにくくなる。付け焼き刃でない、体制ベッタリの順応能力、その資質を育むには3歳児からだ。そこまで見越しての、3歳児からの日の丸・君が代教育なのだ。

アベ内閣の遠大な、愚民化教育政策に万歳三歳。いや万歳三唱!!
(2017年2月17日)

「瑞穂の國記念小學院」入学予定の生徒と父母の皆さまへ

よい子のみなさん、お集まりなさい。お父さまお母さま方も、ご参列ください。

さあ、まずは天皇陛下のいらっしゃる宮城に向かって、みんなで遙拝しましょうね。それから、いつものとおり教育勅語を唱えて、「君が代」と「海ゆかば」を合唱しましょう。天皇陛下や皇室を敬い、立派な日本人になる気持ちを込めて唱うのですよ。

みなさんは、塚本幼稚園を卒業して、この春から新しくできる「瑞穂の國記念小學院」の一年生になります。その学校では、ほかの学校とは違った正しい日本人になるための教育をうけることになります。その正しい日本人としての心得を、これから安倍昭恵名誉校長先生がビデオメッセージでお話しになります。みなさん、しっかりお聞きしましょうね。

ご存じのとおり、安倍昭恵名誉校長先生は安倍晋三首相の奥様でいらっしゃいます。安倍晋三首相は、常々「今の時代はまちがっている。戦争に負ける以前の強く正しい、立派な日本を取り戻さなければならない」とおっしゃって、これまでの塚本幼稚園の教育をお褒めいただいてまいりました。奥様には、新設の小学校の名誉校長就任までお引き受けいただき、当学校法人森友学園にはいろいろ便宜をはからってただいたことを、心から感謝申し上げます。では、名誉校長先生のお話しのビデオのスイッチを入れます。

私が、「瑞穂の國記念小學院」名誉校長の安倍昭恵です。夫・安倍晋三は、右翼だ、軍国主義者だ、歴史修正主義者だと悪口を言われておりますので、本校のような、真正の右翼で、軍国主義で、歴史修正主義の教育支援をすることはなかなか難しいのです。そこで、妻である私が代わってお引き受けし、右翼の皆さまに安倍の本心を察していただくとともに、リベラルの皆さまから安倍への直接の攻撃を避けているわけでございます。

「瑞穂の國記念小學院」は、清き明き直き心で、すばらしい日本人をつくることを目的としています。教育勅語を教育の基礎に据えて、教育勅語に書かれた理想のとおりの民草を育てることが校是です。生徒は教育勅語と五箇條のご誓文を暗記して毎日奉唱いたします。けっして、日本国憲法の条文を暗記させるなどいたしません。こうしてこそ、天皇陛下や皇室を敬い尊ぶ立派な日本人が育つのです。

たまたま、今日は紀元節です。日本という國の誕生日というおめでたい日。日本という國は万世一系の天皇がしろしめす國ですから、初代の天皇が即位した日をもって國の誕生日と定めたのです。

古事記には、次のように書かれています。
神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)の命、その同母兄(いろせ)五瀬の命と二柱、高千穗の宮にましまして議(はか)りたまはく、「いづれの地(ところ)にまさば、天の下の政を平けく聞(きこ)しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向(ひむか)より發(た)たして、…… かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向けやはし、伏(まつろ)はぬ人どもを退(そ)け撥(はら)ひて、畝火の白檮原(かしはら)の宮にましまして、天の下治(し)らしめしき。

分かりやすく言えば、こういうことです。
昔むかし、「かむやまといはれびこ」という神様がいらっしゃって、日向の高千穗から東に征伐の旅を続け、土地土地の悪い神と闘い、苦労してやっつけて、畝傍の橿原宮まできて天下を治めた、というのです。

日本書紀には、「かんやまといわれひこのすめらみこと」が、即位して、「はつくにしらすすめらみこと」と称したとなっています。この方が、初代・神武天皇で、以来皇統が連綿と続いているのでございます。古事記にも日本書紀にも、これがいつのことかは、書いてありません。しかし、明治時代に、きっとこの日に違いないと、2677年前の2月11日に決めたのです。特に、大した根拠はないのですが、立派な日本人はそんなことは問題にしません。縄文期に国家の形成はあったのかしら、などと不敬なツッコミをしてはなりません。隣国朝鮮の檀君神話などは非科学的だと攻撃してもよいのですが、日本の皇室の尊厳をおとしめてはならないのです。

なぜ、皇室が尊いか。それは、皇室が神様の子孫であるからです。古事記には、こう書かれています。

天照らす大神の邇邇藝の命(ににぎのみこと)へのお言葉として、「豐葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあきの)水穗(みづほ)の國は、汝(いまし)の知(し)らさむ國なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降(あもり)ますべし」

アマテラスオオミカミの孫がニニギノミコトで、その子孫が神武天皇なのです。「水穗(みづほ)の國」とは日本のことで、アマテラスオオミカミがおっしゃったとおり、「水穗(みづほ)の國・日本」は、ニニギノミコトの子孫である万世一系の天皇が永遠に治める国とされたのです。神様がそうおっしゃったのだから、絶対に間違いありません。このことを少しでも疑うものは、立派な日本人とは言えないのです。

私が名誉校長となった、「瑞穂の國記念小學院」の名前は、この古事記や日本書紀の「みづほの國」から取ったものです。この学校では、その名前のとおりの、立派な日本人を育てようというのですから、日本の国が便宜を払ってくれてよいはずと思います。

この学校の敷地は、近畿財務局から国有地を払い下げていただいて取得しました。この払い下げの件について、一昨日(2月9日)の朝日新聞が、あたかも裏に重大な疑惑があるような悪意の記事を書いています。今日(2月11日)の赤旗新聞もこれに続いています。

朝日も、赤旗も、敬神尊皇の心をもたない荒ぶる輩ですから、書いてあることを信用してはいけません。たとえ記事が真実と証明されてもです。真実などには、大した価値はありません。大切なのは、皇室と日本を敬い尊ぶ心であり、政権を支えようとする善意なのですから。

朝日の記事の見出しは次のとおりです。
「学校法人に大阪の国有地売却 価格非公表、近隣の1割か」
国が本校の敷地を払い下げるにあたって、汚い裏工作があったのだろうと思わせる、意地悪な見出し。問題は3点ほどとなっています。

第1点。払い下げ価格が隠されていたこと。
国有地の払い下げ価格は公表が原則なのに、本件では公表されなかった。不審に思った、地元の豊中市会議員が情報開示を求めたが、却下された。朝日新聞も情報開示を求めて却下された。近畿財務局管内の類似払い下げ案件は36件あり、他の35件は全て公開されているのに、本件だけが非公開。これは、意図的な隠蔽ではないのかという指摘にほかなりません。常識的には、後ろ暗いところがあるから、値段を非公開に隠蔽したのだろうと思われても仕方がないようですが、けっして朝日や赤旗の尻馬に乗ってはいけません。

第2点。払い下げ価格が安すぎるという点。
報道のとおりだと、相場の10分の1程度の安い価格での払い下げだったようです。そして、財務当局は、朝日新聞の取材に対して、「価格は土地の個別事情を踏まえたもの。その事情が何かは答えられない」と話しているそうです。これだけ聞くと、朝日や赤旗の多くの読者が、何か不正なことが行われているのだろうと思うことになるでしょう。しかし、立派な日本人を育成するための小学校の敷地の払い下げなのですから、安ければ安いほどいいんじゃございません。

朝日の記事では、同じ土地について、「別の学校法人が森友学園より前に校舎用地として取得を希望し、路線価などを参考に『7億円前後』での売却を財務局に求めていた。これに対し、財務局から『価格が低い』との指摘を受け、12年7月に購入を断念したという。それから約4年後、近畿財務局は同学園(学校法人森友学園)に1億3400万円でこの国有地を売却したとみられている。」と意地の悪いことを書いています。どうせこの別の学校では、皇室の尊厳など教えないんだから、結果はよかったんじゃないでしょうか。

なお、その後の報道では、払い下げ土地内の廃棄物の除去費用をいくらに見積もるべきかが問題になっているようです。情報開示を求める裁判で、いずれは明確になることなのでしょうが、財務局や学校法人側の説明がいかにも歯切れが悪く、心配でなりません。

そして、第3点。この土地払い下げを受けた学校法人が、右翼的思想で安倍首相と通じて、特別のはからいを受けたのではないか。それでなくては、こんなに安くし、こんなに秘密にした理由の説明はつかない、という政治的なものです。

朝日も、赤旗も、あからさまにそこまで書いてはいませんが、普通の人が読めばそう読める記事の内容になっています。

朝日の記事は、「森友学園の…籠池理事長は憲法改正を求めている日本会議大阪の役員で、ホームページによると、同校は『日本初で唯一の神道の小学校』とし、教育理念に『日本人としての礼節を尊び、愛国心と誇りを育てる』と掲げている。同校の名誉校長は安倍晋三首相の妻・昭恵氏」としています。

赤旗は、大きな見出しで、「名誉小学校長は安倍首相夫人」とし、「同小学校の名誉校長には、安倍晋三首相夫人の昭恵氏が就いています」と、私の写真まで載せています。政治的意図がありありですね。

なお、朝日は、「昭恵氏には安倍事務所を通じて文書で質問状を送ったが、回答は届いていない」と意地悪を重ねています。確かに、質問状は届いていますよ。でも、何と答えても、次の矢が来ることになるではありませんか。じっとしているのが、一番利口なやり方でしょう。どうせみなさん、理解ある日本人。その内、忘れてくれますよ。

でも思うのです。この学校の教育の表向きは、「清き明き直き心で、すばらしい日本人をつくる」こと。でも、「だんまり、ごまかし、不正直、裏工作」も上手にできなけれは世渡りなんてできませんよね。今回のこと、学校の姿勢や安倍政権の実態、世の中の裏表がよく見えて、生徒たちには、とてもよい勉強になったのではないでしょうか。プツリ。(ここでビデオメッセージは中断)
(2017年2月11日)

「国旗国歌(日の丸・君が代)とは何か」

東京都(教育委員会)を被告とする、第4次・東京「君が代」裁判(「君が代」斉唱職務命令違反による懲戒処分取消訴訟)は、証拠調べが終了し次回が結審となる。「第13準備書面」となる最終準備書面を弁護団で分担して執筆中だが、さて何を書くべきか。これまでの繰りかえしではなく、裁判官に説得力をもつ論旨をどう組み立てるべきか。

私が分担する幾つかのパートの中に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」という標題の章がある。国旗・国歌についても、また「日の丸・君が代」についても、これまでも幾度となく書面を作成してきた。とりわけ、戦前と戦後における日の丸・君が代の歴史について。これまでとは違った切り口で、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」を、どう描くことができるだろうか。

これまでは、国旗国歌への敬意表明の強制が、思想・良心の自由や信仰の自由という基本的人権を侵害するという枠組みの主張を主としてきた。「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」の内容も、それに整合する叙述となっていた。

第4次訴訟では、これを「主観的アプローチ」として、「客観的アプローチ」と名付けたもう一つの枠組みをも重視する方針としている。主観的アプローチが、特定の人の人権に対する関係で違憲違法の問題を生じるのに対し、客観的アプローチは権力の発動自体を違憲違法とするもので、だれに対する関係でも許容されないことになる。

「客観的アプローチ」の一つは、国家と国民の関係についての原理論的な立論である。国旗国歌が国家象徴であることから、主権者である国民と国家との関係が、国旗国歌の取り扱いに投影されることになる。そのことから、国旗国歌の取り扱いに関する公権力の発動には自ずから限界が画されることになる。

「客観的アプローチ」のもう一つは、問題の起きているのが教育の場であることからの教育法理による権力への制約である。公権力は、原則として教育内容に介入することはできない。

また、教員は、その職責において、生徒にあるべき教育を受けさせなければならない。多様な価値観が併存することがノーマルな社会で、多様な価値観に寛容でなければならない。国家と個人との関わりを、国家主義的な立ち場のみを是として、国旗国歌(日の丸・君が代)尊重だけが唯一の正しい立場だとしてはならず、そのような職責全うのための行為は許容されなければならない。

以上のような立場からの論述なのだが、さて具体的にはどうなるだろうか。

そもそも国家とは国民の被造物にすぎない。国民によってつくられた被造物である国家が、造物主である国民に向かって、「我を敬せよ」と強制することは、背理であり倒錯である。国旗国歌への敬意表明の強制とは、このようなものとして公権力が原理的になしうるものではない。

国旗国歌は、国家象徴として国家と等価である。国民に国旗国歌への敬意表明を強制できるとすることは、国家に国民を凌駕する価値を認めるということにほかならない。近代憲法をもつ国において、本来なし得ることではない。

国旗国歌は、原理的な意味づけをもつだけではない。歴史的な意味を付与されることになる。ハーケンクロイツは、ナチスの全体主義、民族的排外主義、優生思想等々との結びつきによって戦後廃された。「日の丸・君が代」はどうだ。天皇主権、軍国主義・植民地主義・人権弾圧の大日本帝国とあまりに深く結びついたが、この旗と歌は、日本国憲法下に生き延びた。

「日の丸・君が代」を、日本国憲法尊重の立場から、反価値の象徴と考えることには合理的根拠があり、反憲法価値の象徴への敬意表明の強制は、思想良心の自由の侵害(憲法19条)として許されない。

それだけでなく、「日の丸・君が代」は、天皇を神とし祭司ともする天皇教(国家神道)とあまりに深く結びついた、宗教国家の象徴であった。天皇教以外の信仰をもつ者にとって、「日の丸・君が代」の強制は異教の神への崇拝を強制するものとして受け入れがたく、憲法20条(信仰の自由)に抵触する。

原告らは、教員として、日本国憲法が想定する国家からの自由と自主性を確立した明日の主権者を育成する任務を有している。子どもに寄り添う立場から、国旗国歌・「日の丸君が代」尊重が唯一の「正しい」考え方であるとの一方的な押しつけを容認し得ない。

憲法とは、究極的には国家と国民の関係の規律である。国家と国民の関係については、憲法が最大の関心をもつところである。国旗国歌が国家象徴である以上は、国旗国歌の取り扱いは、憲法の最大関心事と言ってよい。

国家が、すべての国民にとって親和的であろうはずはない。国家にまつろわぬマイノリティーとしての国民は必ず存在する。すべての国民に、国家象徴への敬意表明を強制することは、必然的に少なからぬ国民にとって、自らの内面に反する行為を強制されることになる。そして、真面目な教員ほど、国家主義による生徒への思想動員に加担できないのだ。

私たちは、戦前をどのように反省したのだろうか。

集団の象徴として意味づけられた「旗」(デザイン)や「歌」(歌詞+メロディ)は、対外的には他の集団との識別機能をもち、対内的には集団の成員を統合する機能をもつとされる。国家あるいは国民の象徴と位置づけられた国旗・国歌も同様に、対外的には他国との識別機能をもち、対内的には国民の統合作用を発揮する。

そのことは、国旗国歌がナショナリズムと結合し、ナショナリズムの鼓吹の道具にされていると言うことにほかならない。国旗国歌が歴史的にもつ理念とその理念に基づく統合機能は結局はマジョリティの支配の道具にほかならない。

そのマジョリティの要望を教育の場に持ち込んではならない。教育とは、多様性を重んじつつ、それぞれの選択による人格の完成を目指すものではないか。「みんな違って、みんないい」のだ。型にはめ、同じ価値観で、同じ行動をとらせるように訓練することは、教育の場には馴染まないのだ。
(2017年1月12日)

東京の教育現場における「日の丸・君が代」強制の実態。

本日は、東京「君が代」裁判第4次訴訟での原告7名についての本人尋問。東京地裁103号大型法廷で、午前9時55分開廷午後4時30分閉廷までの長丁場。充実した、感動的な法廷だった。

10・23通達関連の訴訟は数多いが、そのメインとなっているのが、起立斉唱命令違反による懲戒処分取消を求める「東京『君が代』裁判」。172名の1次訴訟から始まって、現在一審東京地裁民事第11部に係属しているのが4次訴訟。

2010年から2013年までの間に、17名に対して懲戒処分22件が発せられた。その内の14名が原告となって、19件の処分取消を求めている。なお、処分内容の内訳は、「戒告」12件、「減給1月」4件、「減給6月」2件、「停職6月」1件である。

主張の骨格として、第1に、公権力は、立憲主義の構造上、主権者に対して、国家象徴に敬意表明を強制する権限をもたないとする立論(「客観違憲」と呼んでいる)をし、また第2に、個人の権利侵害による違憲違法性として、憲法19条、23条、26条違反ならびに国際条約等に違背する(「主観違憲」)ことを主張している。さらに、本件各懲戒処分が裁量権を逸脱・濫用したものであることを主張している。

申請のとおりに原告13名の本人尋問が採用されて、本日(10月14日)7名、次回(11月11日)に6名の尋問が行われる。

本日7名の原告は、それぞれの立場から処分の違憲違法を基礎づける事実を語った。皆が、児童・生徒を主人公とし、それに向かい合う真摯な教育実践を語り、その教育理念と真っ向背馳するのが、「国旗国歌」ないし「日の丸・君が代」に象徴される国家主義的教育観であり、公権力による教育支配であると述べた。

ある者は、侵略戦争と植民地支配をもたらした戦前の教育の誤りを語り、その轍を踏んではならないとする思いから日の丸・君が代を受容できないとし、またある者は、教員としての良心において、生徒に国家主義を刷り込む行為に加担できないとし、またある者は生徒の前で面従腹背の恥ずべき行為はできないとした。

明らかになったことは、誰もが悩みなく不起立を貫いているのではないこと。多くの原告が、最初は不本意ながらも起立していたという。強い同調圧力と懲戒処分の威嚇効果からである。累積処分が職を奪うことになる恐怖心から不本意な起立を重ねたという原告がほとんど。しかし、やがて真剣に生徒に向かい合おうとする努力の中で、不本意な起立に訣別する。悩みながらも、自分を励まして、起立強制を拒否するに至る。問題の深刻さから体調を崩し、精神的なバランスを崩したりの葛藤の末にである。さながら、感動的な7本の人間ドラマを観ている趣だった。

また、各原告は「10・23通達」体制下で、教育現場がいかに変わったか。都教委の横暴が、現場をいかに荒廃させたかを語った。職員会議での採決禁止通達以来、教員集団の教育力は地に落ち、教員の情熱も自発性も責任意識も、既に大きく失われてしまったとの証言は生々しい。

私が主尋問を担当した教員は、不本意ながらも起立を続けたあと、大きな緊張と決意で不起立に転じた。しかし、5回の不起立は現認処分なく経過し、6回目から処分されるようになった。その後、現認と処分が繰り返され、3度の戒告処分を受けたあと、2度の減給処分を受けている。

この教員は次のように述べている。
「反省なく、不起立を繰り返せば処分を重くするのは当然、という考え方には同意できません。一般的な非違行為であれば、反省を欠くとして繰り返しの処分が重くなることは理解できます。しかし私は、自分の思想や良心に照らして、起立できないのです。非違行為といわれること自体も不本意で、反省の色が見られないと言われても反省のしようがありません。」

「もちろん戒告も納得できませんが、4回目と5回目の処分が戒告ではなく減給になっていることについては、どうしても納得できません。私の思想や良心は不可分の一個のものです。何回目の不起立であろうとも、職務命令に従えなかった理由は、同じ一個の思想・良心に基づくということです。ですから、私の思想良心が変わらない限り、同様の状況で職務命令が出されれば、結果として何度でも不起立とならざるを得ません。私に、『反省して起立せよ』というのは、思想や良心を変えろ、あるいは屈服せよ、ということです。減給処分は、そういう脅しにほかなりません。」

次回(11月11日)午前9時55分から午後4時30分まで、6名の原告尋問が、同じ103号法廷で行われる。関心おありの方には是非傍聴をお薦めする。いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が語られる。貴重な体験となると思う。
(2016年10月14日)

障がい児教育への国旗国歌強制から見えてくる教育の本質

本日(7月27日)午前11時、東京地裁527号法廷で、東京「日の丸・君が代」処分取消請求第4次訴訟の第11回口頭弁論。恒例のとおり、原告のお一人が、熱を込めて陳述をした。いつものことながら原告の陳述は感動的で、裁判官諸氏もよく耳を傾けてくれたと思う。

今日の陳述を担当した渡辺厚子さんは、障がい児教育に情熱を傾けて教員人生を送った方。その陳述内容の前文が後掲のとおり。渡辺さんは、障がい児と接する中でいろんなことを教えられたという。私は、10・23通達関連の訴訟に携わる中で、障がい児教育に携わる教員から大事なことを教わった。

これまでも学校事故の損害賠償請求事件などでは、在学契約における学校の子どもに対する安全配慮義務の内容に関連して、憲法26条に言及してはきた。しかし、「日の丸・君が代」裁判で初めて障がい児教育の何たるかをおぼろげながらにも知った。そこから、教育の本質が見えてくる思いだ。

重度の障がい者に接して、石原慎太郎の如くこんな感想を述べる人物もいる。
「ああいう人ってのは人格あるのかね」「ショックを受けた」「僕は結論を出していない」「みなさんどう思うかなと思って」「絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障がいで、ああいう状況になって…。しかし、こういうことやっているのは日本だけでしょうな」「人から見たらすばらしいという人もいるし、恐らく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」(「安楽死」の意味を問われた知事は)「そういうことにつなげて考える人も いるだろうということ」「安楽死させろといっているんじゃない」(と否定した。)「自分の文学の問題にふれてくる。非常に大きな問題を抱えて帰ってきた」(1999年9月18付 朝日)
石原には障がい児教育はできない。障がい児教育を重要とする発想もできない。相模原障がい施設での19人殺害事件犯人と、根底において同じ発想なのだから。

障がい児教育の思想は、その対極にある。教育の成果を国家にも社会にも還元する発想を持たない。子どもを将来の経済社会の担い手として、「人材」と見る目をもたない。教育を経済投資としコストとする思考を拒否してはじめてなり立つ。徹底して、子どもの人格の尊厳から出発する思想だといってよい。

国家や社会に先んじて子どもの尊厳がある。教育とは、そのような尊厳から出発すべきものだというのだ。一人ひとりの障がい児に寄り添うことで、教育の本質が見えてくるのではないか。

その障がい児教育の現場に乱暴に押し入ってきた国旗国歌とは、教育の本質と相容れない国家主義の象徴である。石原都政の時代に、強引に国旗国歌強制が持ち込まれたことは偶然ではないのだ。

本日で主張のやり取りが一応終了して、次回第12回口頭弁論から舞台は103号地裁大法廷に移る。証拠調べ手続にはいる。また、感動的で教訓に満ちた法廷となるものと思う。

なお、次回法廷は、10月14日(金)午前9時55分開廷で、午後4時30分まで。
次々回は、11月11日(金)午前10時開廷で、午後4時30分まで。
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  2016年7月27日4次訴訟原告渡辺厚子陳述
 2003年10月、大泉養護学校職員会談で、校長より10・23通達の説明がなされました。このときの全教職員の驚愕を私はどう言葉にしていいかわかりません。巣立っていく一人ひとりの卒業生を思い浮かべて、こうしたらいいだろうか、ああしたらいいだろうか、と私たち教員が考え続け、実施しようとしている卒業式が、完全に壊されてしまう。大変な危機感をもって、みんな必至で校長に言いました。
 「A君はやっと車椅子をこげるようになりました。いま、その車椅子で証書をもらいたいとフロアー会場で練習をしているんです。」「壇上になったらどうしてこげますか。彼に、自力ではとりにいくな、とでも言うんですか。」
 「Bさんは呼吸器をつけています。電源コードを壇上へのばして舞台上手そでから向こうの下手そでまでぐるっと回し降りてくるまで延ばすなんてできません。呼吸器の電源を切らない限り無理です。そんなことをさせるんですか。」
 しかし校長は、都教委の命令だから、それに従わなければならない、と苦しそうに答えるだけでした。私達は憤懣やるかたなく、世の中のバリアーフリーに逆行している。命をなんと思っているんだ。通達は、子どもの活動、子どもの権利を潰そうとしている、と言い合いました。ほどなく近藤精一指導部長の、障がい児学校には個別配慮をするという都議会答弁をきき、「そうだよ、都教委だって障がい児にバリアーをつくって動けなくするようなことはしないはずだ」「フロアーを使用できるよう要望してほしい」と校長に訴えました。
 校長も、そうだなあ、校長連絡会で聞いてみるよ、と言いました。しかし持って帰ってきた結果は、「だめだ、壇上しか許されない。都議会答弁と実際は違う。スロープ制作予算をつけると言っている」。それっきりでした。
 高い壇しかないときに、スロープを通ってのぼれるようバリアーフリーをめざす、というのならわかります。しかし約50年間研究を重ね、子どもたちが主人公となる卒業式のために、バリアーのないフラットな会場を使って対面式の卒業式をしてきたのです。スロープをつくるからいいだろう、ではなく、そもそもバリアーフリーのフラットな会場を使うな、と禁止したことこそ問題です。
 フロアーか壇上か、と言った形式の違いの問題としてみられるかもしれませんが、それは本質をみていません。子どもから出発すべき教育の基本を忘れた、いや無視した大問題です。障がい児への合理的配慮に欠ける、なにより子どもの尊厳を奪う事柄なのです。
 通達前03年3月卒業式では、どれほど車椅子操作がたどたどしくとも自走して証書をとりにいくのを禁じられることはありませんでした。通達後の卒業式で、生徒が電動車椅子を操作し、フロアーで受け取りたいと、校長に懇願しました。その生徒は唇や舌を噛み切りコントロールできない身体に泣き叫ぶ毎日でした。同じ病気の弟は亡くなりました。本人、親、担任の3人4脚の文字通り涙ぐましい努力で奇跡的にやっとどうにか操作が出来るようになったのです。これは、できるできないというレベルの話ではなく、自分の人生で初めてつかんだ、生きる希望、自らの尊厳でした。しかし、校長から、だめだ、とはねつけられました。その子は泣く泣く担任に押されて壇上に上がりました。担任は悔し涙で、起立しませんでした。
 通達が出るまでは当然のこととして営まれてきた子どもの活動です。私たち教員は、子どもの尊厳を守ってやれないばかりか、踏みにじる行為に加担させられます。情けない、悔しい。起立命令を拒否するのは、こんな理不尽には従えない、加害行為に加担したくない、というひりひりとした教員の良心の叫びなのです。

 私は本訴訟で停職6ヶ月の処分取り消しを求めています。
 子どもたちによって育ててもらった、教員としての私の良心、信念。それを捨てるわけにはいかないとしてきたら、あっという間にこんなに重い処分となってしまいました。
 退職の前年度の2009年には、悩み抜いた末の卒業式不起立により停職3ヶ月処分を受けました。そして保護者達から責め続けられ、大変苦しみました。これが30年余自分のすべてを注ぎ込み情熱をもって関わってきたことの答えなのかとほぞを噛む思いでした。
 退職の年、教員としてどん底にいた私を、再び信頼してくれる子どもや保護者たちが現れ、私は気を取り直し、最後まで子どもと自分を裏切るまいと思い2011年3月起立しませんでした。

 私は障がい児教育の1頁も知らずに飛び込み、初めての学校でありちゃんに出会いました。ありちゃんは、後頭葉が損傷しているため、目が見えませんでした。面会にくるお父さんは、ありちゃんを抱っこしながら、「ありの目が見えたら、世界1周でもしてやりたい」と語っていました。1年ほどたったある日のこと、何気なく転がしたボールを追うように、ありちゃんの顔が上がったのです。私はナースステーションに駆け込み、「先生! ありちゃんが見えているみたいだ」とさけびました。医者も看護師も見に来て、後のカンファレンスで、脳に新たな回路ができ始めたのだろうと言われました。
 私は芯から驚きました。不可能と医学でいわれていても、人との関わりが人を変える。私はありちゃんによって教育の力、というものを知らされました。その後も、沢山の子どもによって、人は一人ひとり違い、その違いにこそ価値をおいて教育するべきなのだ、と教えられました。通達と命令は子ども一人ひとりの違いを押しつぶしています。
 こどもの権利を侵す間違った命令には従えない。これは私にとって、自分が自分であり続けるために、子どもたちによって育てられた教員の良心を捨てないために、越えてはならない一線なのです。夭折していった子どもたちへ、今後も怠けず、子どものために尽くす、と誓った日を私は忘れるわけにはいきません。

 私の初任時代からの近しい友人は、諸事情から命令を拒否できず、苦しみながら起立していました。毎年3月が近づくたびに目が空ろになり、耐えかねてとうとう退職し、そしてほどなくなくなりました。教員はみんな、子どもを第一に考えた教育を実施したいのです。それとは正反対のことをさせられる苦しみ。10・23通達はどの教員の良心にも回復し難い打撃を与えています。

 裁判所におかれては、教育というものを熟考し、私達が何故起立できなかったのかに深く思いを致していただきたい。そして子どもや教職員の人権擁護の観点に立った判断を示していただきたいと切に願います。
以上
(2016年7月27日)

鳥越俊太郎さん、東京都の教員は「学んでよし」を掲げる知事を待ち望んでいます。

都知事選は、今たけなわ。前回までの選挙と違って、千載一遇の勝ちに行ける選挙だ。改憲派の右翼・小池百合子を知事にしてはならない。鳥越俊太郎候補に勝ってもらわねばならない。

鳥越候補の公式ホームページに、次のような呼びかけがある。
「半世紀にわたり、ジャーナリストとして「現場主義」を貫いてきた男がいます。
汗をいとわず、現場に足を運び、一人ひとりの声に耳を傾けること。
今の都政に最も必要で、最も忘れられているのが、この「現場主義の政治」ではないでしょうか。
都政は、都民から離れすぎました。
これからの都政は、街に出ます。あなたの声を聞かせてください。
悩みを、怒りを、不安を、夢を、アイデアを、思いきり語ってください。
彼は、いつだって、市民の側、都民の側に立ちます。
彼には、それしかできない。しかしその思いは、誰にも負けません。」

その彼を信頼して、私も、都民のひとりとして声を上げたい。
今のところ、同候補が公式ホームページで掲げている選挙政策は後記のとおりだ。憲法の理念を実現しようという熱意には溢れているが、教育政策がすっぽりと抜けている。東京都の教育行政は病んでいる。教育現場は疲弊し荒廃している。優秀で真面目な教員が罹病し、退職を余儀なくされている。是非とも、異常な事態にある教育行政の建て直しを公約に掲げていただきたい。

「私は聞く耳をもって、都民のさまざまな意見を聞き、批判を受けとめ、すべての都民が自由に発言できる風通しの良い都庁をつくります。」という、その言やよし。今の都教委は、まったく聞く耳を持たない。自分に不都合となると、都民の声も聞かない。話し合いの呼びかけに応じようとはせず、裁判所の言わんとするところにも、耳を傾ける姿勢がない。
だから、鳥越さん。あなたが頼りだ。私のいうことに耳を貸していただきたい。

第1次アベ政権の時代に、教育基本法が変えられた。アベによって葬られた旧教育基本法には格調の高い前文があった。これを永遠に忘れてはならないと思う。

「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」

「人権・平和・憲法を守る東京をめざす」というのなら、「人権・平和・憲法」の理念を目指す、教育政策がなくてはならない。今の東京都の教育行政は、「人権・平和・憲法」を蹂躙した石原都政以来のものだ。この東京都の教育行政を糺していただきたい。10・23通達に象徴される都教委の教育内容への不当な支配。職員会議の権限を一切取り上げ、職員会議での採決禁止の通達まで出した異常な現場教員への締めつけ。教員から教科書採択の権限を取り上げての歴史修正主義教科書の採択強行。思想良心を大切にしようとする真面目な教員への恐るべき弾圧、等々。目を覆わんばかりの憲法の理念に反した東京都の公教育の暗部にメスを入れていただきたい。「憲法と闘う」「教育勅語の言っていることは決して間違いではない」と言った知事と、「都教委は石原知事を支える特別な教育委員会」「私の仕事は日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と言った教育委員が、今の教育行政の基本をつくったのだ。

少なからぬ最高裁裁判官が、判決(反対意見や補足意見)で、東京都公立校の「教育現場における紛争が繰り返されている事態」を憂いて、「自由で闊達な教育が実施されるよう」意見を表明している。これに答えるような教育行政を公約していただきたい。都知事の権限で、教育委員会人事を通じての教育行政正常化は可能なのだから。

せめては、「憲法と教育基本法に忠実な公教育の実現」「生徒や子どもたち、一人ひとりを大切にする教育を」「教員の声に耳を傾け、教員とともに教育現場を立て直す」「真面目な教員を大切にする学校現場を再建する」「自由闊達な東京都の教育を目指す」「自律した主権者を育てるにふさわしい教育の実践を」くらいのことは、言っていただきたい。

あなたは、保育園を視察したあと、こう演説をしておられる。
「きょう世田谷区の保育室というところに、現場を見に行って参りました。保育室、これは認可保育所でもない、認証保育所でもない。これは前は病院の中にあったものですが、世田谷区のあるところに区の土地を借りて、平屋を建てて、そこに0歳児・1歳児、2・3・4歳児と2つ部屋が分かれております。そこで子供たちと話をし、それから保育士のみなさんともお話しし、さらにそこにお子さんをお預けになっているお母さんとも話をしてきました。私は本当に保育の現場というのがどれだけ大変なものかというのを、改めて、改めて、肌で感じました。
今日、私は保育の現場を見させていただきまして私が感じたのは、東京都の場合、保育の現場は大変苦しい状況になっている。せっかく子供を育てようという志を持って仕事をしているけれども、しかし現実はなかなか厳しいというのが、私が見たところです。これは何とかしなきゃいけない。」

おそらく、あなたは東京都立校で、都教委から思想良心の弾圧を受けている多くの教員たちの話を聞けば、こう言うだろう。
「きょう都立校の教育現場を見に行って参りました。そこで都教委から処分を受けた教員やその周囲の人たちと話をしてきました。私は本当に、教育という場で、憲法が保障している思想や良心の自由がないがしろにされ、憲法も教育基本法も紙くず同然となっている事態を見て、それがどれだけ大変なものかということを、改めて、改めて、肌で感じました。私が感じたのは、真面目な先生たちが、都民からの委託を受けた子どもたちを育てようという志を持って仕事をしているけれども、しかし現実はなかなか厳しい、むしろ都教委に妨害されている、というのが、私が見たところです。これは何とかしなきゃいけない。」

鳥越候補は、その演説で「私は今回立候補するにあたって3つのスローガンというのを掲げております。『住んでよし、働いてよし、環境によし』の3つを総合的に考えて政策を練っていきたいと申し上げております。市民連合との政策についての話し合いを致しましたが、そのときに市民連合の代表から「実はね、この3つはいいんだけど、もう一つ、『学んで良し』というのも入れてほしい」。その通りです。「学んでよし」というのも入れたい。今日ここから「住んでよし、働いてよし、学んでよし、環境によし」、この4つに変えます。」と言っている。

「学んでよし」は保育園だけではない。小学校も、中学校も、高校もある。そこでの、教育の不当な支配から解放された学校現場。教育本来の自由闊達な学校現場を取り戻すという公約を掲げていただきたいのだ。

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       鳥越俊太郎公約「あなたに都政を取り戻す。」
「住んでよし」「働いてよし」「環境によし」を実現する東京を!

私は聞く耳をもって、
都民のさまざまな意見を聞き、
批判を受けとめ、
すべての都民が自由に発言できる
風通しの良い都庁をつくります。

※都政への自覚と責任
都政は、都民が汗水たらして働いて納めた税金で成り立っています。
この原点を忘れた都知事が、2代続けて政治とカネの不祥事で都政を混乱させました。私は「納税者意識」を胸にとめ、都民の負託に応えます。
☆第2の舛添問題を起こさせない体制をつくります。
・知事の海外視察費用・公用車利用のルールを見直します。
・知事の視察等の情報公開を徹底します。
・政治資金規正法の見直しを東京都から国に働きかけます。

※夢のある東京五輪の成功へ
コンパクトでシンプルな2020年のオリンピック・パラリンピックを実現して、東京の可能性や魅力を世界へアピールします。
☆ムダをなくしつつも、平和の祭典としての五輪を成功させます。
・ムダをなくしつつも、平和の祭典としての五輪を成功させます。
・東京の可能性や魅力を世界にアピールできる体制をつくります。

※都民の不安を解消します
医療・介護の充実、子どもの貧困や待機児童の解消に、早急に取り組みます。
がん検診の受診促進や骨粗しょう症対策等で、だれもが、いつまでも社会参加できる健康長寿の東京を目指します。
☆都民のこころとからだの健康をあらゆる施策を通じて実現します。
・東京都のがん検診受診率は現在50%にも達していません。これをまずは50%、最終的には100%を目指します。
・だれもが先進医療を受けられる東京を目指します。
・受動喫煙防止に向けた条例制定に取り組みます。
・保育所の整備をはじめ、あらゆる施策を通じて、待機児童ゼロを目指します。
・保育士の給与・処遇を改善します。
・すべての子どもに学びの場が提供できる環境を整えます。
・貧困・格差の是正に向けて、若者への投資を増やすなど、効果的な対策に取り組みます。
・大介護時代に備え、特別養護老人ホームなど高齢者の住まいを確保します。介護職の給与・処遇を改善します。
・子育て・介護に優先的に予算を配分します。

※安全・安心なまちづくり
耐震化・不燃化の促進、帰宅困難者対策で災害に強い東京をつくります。
再生可能エネルギーの普及で、持続可能な東京を実現します。
☆住宅耐震化率83.8%から100%を、再生可能エネルギー割合8.7%から30%を目指します。
・住宅・マンションの耐震化助成を拡充します。
・民間事業者との連携やITの活用などにより、ハード・ソフト両面からの防災対策を進めます。
・原発に依存しない社会に向け、太陽光やバイオマスなど、再生可能エネルギーの普及に取り組みます。
・テロ・サイバー攻撃などの脅威に対し、万全の備えを確立します。

※笑顔あふれる輝く東京へ
希望する人が正社員になれる格差のない社会を目指し、仕事と家庭の両立を支援します。東京の宝・職人を大切にするマイスター制度を拡充します。
☆働く人の37.5%が非正規社員。正社員化を促進する企業を支援します。
・正社員化を促進する企業を支援し、不本意非正規社員の解消に努めます。また、最低賃金の引き上げを求めていきます。
・長時間労働の是正など、働き方改革で、ワークライフバランスを進めます。
・東京の宝である職人文化をマイスター制度で育みます。
・市区町村への財政支援を強化します。多摩格差を是正し、多摩・島しょ振興を進めます。

※人権・平和・憲法を守る東京を
憲法を生かした「平和都市」東京を実現します。首都サミットの開催や文化・若者交流の推進にもチカラを入れます。
☆多様性を尊重する多文化共生社会をつくります。
・男女平等、DV対策、LGBT施策、障害者差別禁止などの人権施策を推進します。
・非核都市宣言を提案します。
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(2016年7月22日)

異常な都知事の異常な教育委員人事で始まった都教育行政の異常ー都知事選がこの異常をただすチャンスだ

 本日、服務事故再発防止研修受講を強制されている都立高校教員Yさんに代わって、弁護士の澤藤から、東京都教員研修センターにご意見と要望を申しあげる。

私が申しあげたいことは、何よりも東京都教育行政の異常ということだ。本日の再発防止研修は、今年(2016年)3月の卒業式での国歌斉唱時の不起立を理由とする懲戒処分(戒告処分)にともなうものだ。全教職員に対する卒業式での起立・斉唱を強制する職務命令が異常であり、その違反への懲戒処分が異常であり、さらに服務事故再発防止研修の強制が異常なのだ。この異常に慣れてしまって、異常を異常と感じない感覚もも、これまた異常といわざるを得ない。

戦後の教育は戦前教育の反省から出発した。戦前の、天皇の権威を道具として、国家主義や軍国主義のイデオロギーを注入する教育が否定され、教育が公権力の統制から自由でなくてはならない、という原則が確認された。個人の尊厳は国家に優越する価値であって、国家によって侵害されてはならないという、18世紀市民社会の常識としての個人主義・自由主義が、ようやく20世紀中葉になって我が国の憲法が採用されるところとなり、1947年教育基本法が、教育の国家統制からの自由を宣言した。

こうして、生き生きとした戦後民主主義教育が発展した。その中心をなすものは、子どもの人格の尊重であり、これに寄り添う教師の専門職としての自由の尊重である。憲法と教育基本法がもっとも深い関心を寄せ、あってはならないとするものが、国家の教育支配であり、教育現場への権力の介入である。
国旗国歌こそは権力を担う国家の象徴として、その教育現場での取り扱い如何は、教育が国家からの自由を勝ち得ているか否かのバロメーターであると言わなければならない。

かつて、都立高校は「都立の自由」を誇りにした。誇るべき「自由」の場には国旗も国歌も存在しなかった。国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」という国家象徴の存在を許容することは、「都立の自由」にとっての恥辱以外のなにものでもなかったのだ。

事情が変わってくるのは、1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定からだ。1999年国旗国歌法制定によってさらに事態はおかしくなった。都立高校にも広く国旗国歌が跋扈する事態となった。それでもさすがに強制はなかった。校長や副校長が、式の参列者に「起立・斉唱は強制されるものではない」という、「内心の自由の告知」も行われた。教育現場にいささかの良心の存在が許容されていたと言えよう。

この教育現場の良心を抹殺したのが、2003年石原慎太郎都政2期目のことである。悪名高い10・23通達が国旗国歌への敬意表明を強制し、違反者には容赦ない懲戒処分を濫発した。この異常事態をもたらしたのは、極右の政治家石原慎太郎と、その腹心として東京都の教育委員となった米長邦雄(棋士)、鳥海巌(丸紅出身)、内舘牧子(脚本家)、横山洋吉(都官僚)らの異常な教育委員人事である。

処分は当初から累積加重が予定され、教員の思想や良心を徹底して弾圧するものとして仕組まれていた。多くの教員が、やむを得ず強制に服しているが、明らかに教育の場に面従腹背の異常な事態が継続しているのだ。

さらに、「服務事故再発防止研修」の異常が強調されなければならない。面従腹背を潔しとせず、自己の教員としての良心の命ずるところに従った尊敬すべき教員に、いったい何を反省せよというのか。

思い起こしていただきたい。10・23通達の異常は、異常な都知事の異常な人事がもたらしたものだ。今、この異常を糺すべく都知事選が行われている。その有力候補者の中の一人が、「人権・平和・憲法を守る東京を」という公約を掲げている。この候補者は「憲法を生かした『平和都市』東京を実現します。」と訴えている。かなり高い確率で、この候補者の当選が見込まれる。憲法の光の当たらない暗い都政と教育行政に、明るい光が射し込もうとしている。異常事態是正の希望が湧きつつある。

状況が劇的に変化しうる事態に、相変わらずの今日の異常な研修なのである。運用に宜しきを得るよう、こころしていただきたい。

異常はいつまでもは続かない。いずれ、知事も教育委員も教育長も変わる。センターの職員諸君に申しあげたい。現在の教育委員会に過度の忠誠を示すリスクについて、よくお考えいただきたい。そして、本日研修を受けるYさんに、敬意をもって接していただくようお願いする。
(2016年7月19日) 

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  「服務事故再発防止研修」に抗議する声明

 本日(7月19日)、東京都教育委員会(都教委)は、3月の卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を理由として懲戒処分(戒告処分)を受けた都立高校教員に対する「服務事故再発防止研修」を強行した。
この「研修」は、自己の「思想・良心」や、教師としての「教育的信念」に基づく行為故に不当にも処分された教職員に対して、セクハラや体罰などと同様の「服務事故者」というレッテルを貼り、精神的・物理的圧迫により、執拗に追い詰め「思想転向」を迫るものである。私たちは、このような憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじる「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議するものである。

 都教委は、「服務事故再発防止研修」と称して2012年度より、センター研修2回(各210分)と長期にわたる所属校研修を被処分者(受講者)に課している。しかも該当者(受講者)は、既に、4月5日に卒業式処分を理由にした「再発防止研修」を都教職員研修センターで受講させられており、今回で2回目となる。またこの期間に、所属校研修と称して、月1回の所属校への指導主事訪問による研修の受講も強制させられている。
これは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」と判示した東京地裁民事19部決定(2004年7月23日)に反することは明らかである。

 また、教育環境の悪化を危惧して、「自由で闊達な教育が実施されていくことが切に望まれるところであり・・そのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要がある」という最高裁判決の補足意見(櫻井龍子裁判官 2012年1月16日最高裁判決)、「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべき」と述べ、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めている補足意見(2013年9月6日最高裁判決 鬼丸かおる裁判官)などの司法の判断に背く許されない行為である。

 受講対象者は、東京「君が代」裁判第四次訴訟原告であり、都人事委員会の処分取消請求事件の請求人でもある。係争中の事案について「服務事故」と決めつけ、命令で「研修」を課すことは、「研修」という名を借りた実質的な二重の処分行為であり、被処分者に対する「懲罰」「イジメ(精神的・物理的脅迫)」にほかならない。

 更に重大なのは、教員を本来の職場である学校から引きはがし、「不要不急」の研修を課し、午前中の学校での勤務、特に授業や生徒への指導を不可能とすることによって、生徒の授業を受ける権利を侵害し、かつ「教諭は児童の教育をつかさどる」とする学校教育法や「教員は、授業に支障のない限り…勤務場所を離れて研修を行うことが出来る」とする教育公務員特例法に明白に反していることである。
このように都教委が、教育活動よりも違憲・違法な研修を優先していることは教育条件の整備に責任を持つ教育委員会として断じて許されるものではなく、教育行政に対する都民の期待に背くものである。

 私たちは、決して都教委の「懲罰・弾圧」に屈しない。東京の異常な教育行政を告発し続け、生徒が主人公の学校を取り戻すため、広範な人々と手を携えて、自由で民主的な教育を守り抜く決意である。「日の丸・君が代」強制を断じて許さず、「再発防止研修」強行に抗議し、不当処分撤回まで闘い抜くものである。

     2016年7月19日
  「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
   東京「君が代」裁判原告団

真面目な教員の教育活動を妨害する、不真面目きわまる東京都教育委員会

国旗国歌への敬意強制には服しがたいとして懲戒処分を受け、処分に伴う服務事故再発防止研修の受講を強制されたTさんが、本日これからこの研修センターで不本意な研修を受講する。十分にはものを言える立場にないTさんに代わって、研修センター総務課長に代理人弁護士として抗議と要請の意見を申しあげる。

本日私が申しあげることは、憲法の理念や教育の本質というような、高邁なことではない。極めて卑近で分かり易い都教委のやり口の不条理と不真面目さだ。この不条理から、都教委の体質やホンネが滲み出てよく見えてくる。

本日のTさんの「研修」は、あなた方都教委と研修センターが4月に決めたスケジュールでは、「所属校研修」の2回目ということになっている。所属校研修が所属校で行われず、どうしてTさんに限って、わざわざこのセンターにまで呼び出して行われなければならないのか。もちろん説明もなされていないし、合理的な理由はおよそ考えがたい。

強いて憶測せずとも、本人に可能な限りの大きな負担を与えたいとの、懲罰的な動機が明らかという以外にはない。分かりやすく言えば、都教委の思想統制に従おうとしない教員への報復であり、イジメ・イヤガラセだけを理由とするセンター呼出の「所属校」研修と考えざるをえない。イジメ・イヤガラセによる心理的な負担によって、Tさんに圧力をかけ、その思想・良心を攻撃し、思想や良心を放擲するように仕向けているのだ。

問題は深く大きい。都教委が教員にイジメ・イヤガラセをしているにとどまらず、明らかに、子どもたちの教育を受ける権利を侵害してもいるではないか。

Tさんは、不本意ではあっても、再発防止研修受講を拒否してはいない。授業に差し支えないように配慮して欲しいと真摯に申し入れているではないか。あなた方、教育委員会・教育庁・教育センターは、敢然とこれを無視した。ほんの少しの配慮で、時間と場所を少々ずらすだけのことで、授業に差し支えのない研修は可能なのだ。Tさんの授業が終わったあとの研修設定で何の不都合もない。容易に、子どもたちの授業を受ける権利を確保できるのだ。それなのに、教育委員会・教育庁・教育センターは子どもの教育を受ける権利に何の配慮もしようともしなかった。

今日も、Tさんは、授業からひき剥がされて、まるで授業への妨害を狙った如くのこの時間帯に、このセンターでの服務事故再発防止研修の受講を強制されているのだ。前回6月15日の研修の際には、Tさんがセンターへ呼び出されたために、予定されていた校外活動に半数の生徒が参加できない事態が生じている。

教育に情熱を持ち、子どものためを思い、教育に専念しようとしている教員が、教育委員会から教育活動を妨害されているのだ。真面目な教員が、不まじめきわまる教育委員会に、再発防止研修を強制されている。不都合千万、まったくアベコベではないか。研修の必要も合理性もないどころか、教育活動を妨害する研修の弊害が明白となっている。

それにしても、授業を妨害し、子どもの教育を受ける権利を一顧だにすることのない教育行政とは、いったい何なのだ。教育行政が教育内容に介入することが許されるかなどという高尚な議論をしているのではない。教育行政が、教育を妨害しているこの実態を多くの人に知ってもらわねばならない。

このことは、かつてF教員に対する「授業に出ていたのに処分」事件でも問題となり、都教委は一審で完敗して、控訴もできなかったではないか。

本日の文書による申入れ書の中に、2004年7月の「研修命令執行停止申立事件」における東京地裁決定の説示が引用されている。
「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性がある」というものだ。
ここで研修の受講強制が違憲違法となるメルクマールとされているのは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせること」、「自己の非を認めさせようとすること」、そして「執拗」である。

Tさんに対する研修がこのまま続くのであれば、この違憲・違法の要件は充足しつつあると警告しなければならない。

Tさんは、誰よりも子どもの教育に情熱をもった立派な教員である。研修センターの職員諸君には、本日の研修において、Tさんに敬意をもって接していただくよう特に要請申しあげる。
(2016年7月15日)

アベ政権が描く「美しい国・日本」とはこんなものだ

今日は7月10日、参院選の投開票の日。まだ、開票結果の確定報はない。しかし、望ましからざる民意が示されたことは疑いがない。日本国憲法の命運は危くなってきた。これはたいへんな事態だ。既に、アベが「憲法改正、憲法審査会できっちり議論」と言い出したと報道されている。

民主主義とは何であるか。またまた、考え込まざるを得ない。私が物心ついたころ、戦後民主主義と平和とは不即不離のイメージだった。戦前には国民主権も民主主義もなかった。だから、誤った軍部に引きずられて民衆が心ならずも戦争の被害者になった。民主主義さえあれば、あの惨禍をもたらした愚かな戦争を再び民衆が望むはずはない。多くの人がそう思い、私もそう思って疑わなかった。

しかし今、アベのごとき人物が民意に支えられて首相になっている。正真正銘「右翼の軍国主義者(a right-wing militarist)」たるアベである。そのアベによる壊憲・教育介入・メディア支配・沖縄の民意蹂躙・原発再稼働・強引な国会運営が強行されている。世は忖度と萎縮に満ちている。にもかかわらず、アベ政権の支持率が下がらない。憲法が想定した民主主義は、どうなってしまったのだろう。

民意が独裁を望み、民意が戦争を辞せずとし、民意が少数派を差別するとき、民主主義とは一体なんなのだ。どうすれば、もすこしマシな、理性的な社会を作ることができるのだろうか。私たちの国の民主主義はどこで間違ってしまったのだろう。どうすれば軌道を修正できるのだろうか。それとも、最初から日本には民主主義が根付く土壌がなかったということなのだろうか。

アベ政権がどのような社会を作ろうとしているのか。自らが分かり易く示している。
7月7日のことと思われるが、自民党がそのホームページに、「学校教育における政治的中立性についての実態調査」というタイトルの記事を掲載した。その本文は、次のとおりである。

《党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』、あるいは『子供たちを戦場に送るな』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
 学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。》

これには一驚を禁じ得ない。「子供たちを戦場に送るな」との主張は、戦後平和教育の出発点であり、広く国民の支持を受けたスローガンだった。これを、「不偏不党」にも「政治的中立性」にも反し逸脱したというのだ。これでは、「平和は尊い」「戦争を繰り返してはならない」「原爆は禁止すべきだ」も、特定のイデオロギーに染まった結論として排斥されることにならざるを得ない。

自民党は、「子供たちよ、勇ましく戦場を目指せ」と言いたいのだとしか考えられない。もっとも、「子供たちを戦場に送るな」の部分は、その後「安保関連法は廃止にすべき」と、こっそり書き換えられたようだ。姑息千万である。

このホームページの問題はさらに大きい。次のように続けられているのだ。
《そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いします。》として、投稿フォームを設置。氏名や性別、連絡先などとともに、《政治的中立を逸脱するような不適切な事例を具体的(いつ、どこで、だれが、何を、どのように)に記入してください。》という書き込みができる入力欄を設けている。

ちくり、密告の奨励である。子どもたちや父母をスパイに育てようということではないか。あるいは、教員同士の相互監視と密告体制。ジョージ・オーエルの「1984年」を思い出させる。これでは教育が成り立たない。これがアベが取り戻すという「美しい国・日本」の正体なのだ。
(2016年7月10日)

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