澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

都教委は、学校への「半旗掲揚依頼」を拒絶する防波堤でなければならない。

(2022年8月7日)
 昨日(8月6日)の東京新聞朝刊トップ記事が、「都教委も半旗掲揚依頼 安倍元首相葬儀 都立255校に文書送信」の大見出し。のみならず、22面と23面の「こちら特報部」に詳細な関連記事。その見出しを連ねてみる。

《安倍氏葬儀に都教委が半旗依頼 「政治的中立に反する行為」背景は?》
《弔意の「強制」 日の丸・君が代問題と同根》
《「教員、生徒たちへの刷り込み心配」》
《「特定の政党を支持してはならない」 教育基本法に明記しているのに》
《教育行政への侵食 安倍政権下で進行》

ネット記事では、もう少し見出しが増える。
《複数校が掲げる》
《都の担当者「強制したつもりはない」》
《政治的中立求める教育基本法に反する恐れ》
《東京以外にも相次ぎ判明》
《国の関与を疑う声も》
《「不当な支配」国が都合よく解釈し、介入》

https://www.tokyo-np.co.jp/article/194182
https://www.tokyo-np.co.jp/article/194189

 一面トップの記事のリードは以下のとおり
 「東京都教育委員会が先月12日の安倍晋三元首相の葬儀に合わせ、半旗を掲揚するよう求める文書を都立学校全255校に送り、現実に複数校がこれに応じて半旗を掲揚して学校として安倍氏に対する弔意を表明していた掲揚していたことが分かった。専門家は「政治的中立を求める教育基本法に反する恐れがある」と指摘。同様の依頼は川崎、福岡市などでも判明している。」

 「特報部」のリードは以下のとおり。

 「首都・東京の教育委員会が、安倍晋三元首相の葬儀の日に半旗掲揚を求めていたことが判明した。教育基本法の「政治的中立」に反する恐れを専門家は指摘するが、少なくとも全国7自治体の教委も同様の要請を行っていた。「弔意は強制していない」と口をそろえる様子から浮かぶのは、子どもや教師の権利に無頓着な教育行政の姿だ。こんな状態で、世論を二分する「国葬」を行って大丈夫なのか。

 以上の見出しとリードで、この記事の言わんとするところは十分に通じる。教育の本質に切り込んだ報道として高く評価しなければならない。東京新聞に敬意を表したい。蛇足ながら、東京新聞の見出しをつなげてみるとこんなところだ。

 安倍晋三の葬儀というまったくの私的な行事に合わせて、東京都教育委員会が全都立学校に半旗を掲揚するよう依頼の通知を発し、現実にこれに従って複数の学校が半旗を掲げて安倍に対する弔意を表明したことが分かった。
 安倍晋三と言えば、特定政党の特定政治主張に旗幟鮮明な復古主義政治家である。このような毀誉褒貶激しい政治家の私的な葬儀に学校が公的に弔意を表するのは、本来的に教育に要請されている政治的中立性に明らかに反する違法な行為である。教育基本法14条2項が「学校は特定の政党を支持してはならない」と明記しているのにどうしてこんなことになってしまっているのだろうか。

 この都教委による学校現場に対する要請は、当局は否定しているが、事実上の「弔意の強制」にほかならない。生徒・教員の思想・良心の自由をないがしろにしている点で、同じ都教委が生徒・教員に、国家への敬意表明を強制し続けている「日の丸・君が代」問題と、同根と言わねばならない。

 このような「教育行政が教育を侵食する本来あってはならない現象」は、安倍政権下で進行してきたもので、現場の教員は、あたかも安倍氏やその政治路線が正しいものであるような、学校という教育装置を違法に使っての生徒たちへの刷り込みの効果を心配している。

 もとより教育は特定政治勢力によって支配されてはならず政治一般から独立しなければならない。また、教育が特定の政党や政治家を支持したり支援するようなことは絶対にしてはならない。そのことは、教育基本法に明記されているのに、教育は本来のあり方から、大きくねじ曲げらた現状にある。これは、政治が教育行政に大きく侵食してきた結果であって、このことは安倍政権下で進行してきた憂うべき現象である。同様のことが、都教委にとどまらず全国で生じているということから、国の関与を疑う声もある。教育基本法によって禁じられている「不当な支配」を、国が都合よく解釈して、「政治が行政に介入し、行政が教育に介入する」ということが常態化してしまっているのではないか。

何が最大の問題か。
 通夜があった7月11日に都総務局が作った「事務連絡」は、半旗掲揚について「特段の配慮をお願いしたい」とし、11、12日の掲揚を依頼したものだという。これが、教育庁を含む各部署にメールで送られ、教育庁(都教委事務局)が都立高校や特別支援学校に転送した。
 このことについて、都教委の担当者は「事務連絡を転送しただけで、掲揚するかは各校の校長に任せた。弔意を強制したつもりはない」と言う。この都教委の弁解に最大の問題点が表れている。いったい何が問題なのか、都教委はまったく分かっていないようなのだ。

 教育委員会は自らが教育に介入することは厳に慎まなければならないというだけではない。その重要な任務として、教育を支配し介入しようという外部勢力からの防波堤となって教育を擁護しなければならない。

 都の総務局が安倍の葬儀に半旗をという発想も批判されなければならないが、教育庁の特殊性を考慮せずに他と同様のメールを送信したことは不見識甚だしい。そして、これを各学校に転送した都教委は、明らかに任務違反である。これに従った校長の責任も厳しく問われなければならない。なんとまあ、この世には、忖度がはびこったものか。その元兇は、安倍晋三なのだが。

国際スタンダードでは、「日の丸・君が代」の強制はあってはならない。 ー ILO/ユネスコ勧告実現のための市民集会にご参加を。

(2022年7月17日)

「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議主催
再勧告実現! 7.24 集会案内

日本政府、君が代の強制で、国連機関に『また』叱られる!
~それでもまだ歌わせますか?~

日時 2022 年 7 月 24 日(日曜日)
   13 時 40 分~16 時 40 分(開場 13 時 20 分)
会場 日比谷図書文化館 (B1F)
   日比谷コンベンションホール  東京都千代田区日比谷公園 1-4
    03-3502-3340
資料代 500 円
主催 「日の丸・君が代」LO/ユネスコ勧告実施市民会議

 いま学校は、上位下達の徹底、教科書への政治介入など、国家による教育支配が進み、格差、いじめ自死、教職員の過重労働など疲弊しきっています。 
 東京では、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ、ピアノ伴奏をせよ」との職務命令に従わなかったとして、484名の教職員が処分され、その強制は子どもにまで及んでいます。
 2019年春、ILOとユネスコは日本政府に、「日の丸・君が代」の強制を是正するよう勧告しました。画期的な初の国際勧告です。
 しかし、文科省も都教委も、勧告を無視し続けており、私たちはセアート(ILO・ユネスコ合同委員会)へ訴え続けてきました。
 その結果、昨秋、日本政府への再勧告が盛り込まれた第 14 回セアート最終報告書が採択されました。今後ILO総会で議題にされます。
 子どもの未来、明日の教育のために、勧告実現に向けて、ぜひご一緒に取り組みましょう。

プログラム

■基調講演
 勝野 正章(東京大学)
  「現代社会における教師の自由と権利-教員の地位勧告から見る世界と日本」
 阿部 浩己(明治学院大学)
  「再勧告の意義と教育の中の市民的自由」
■特別講演
 岡田 正則(早稲田大学)「学問と教育と政治」
■座談
  「勧告を得るってどんな価値があるの?実現の困難は克服できるの?」
 阿部 浩己、寺中誠(東京経済大学)、前田 朗(東京造形大学名誉教授) 
■教育現場の声

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 あなたも運動サポーターに︕ 運動への協力金を

 個人 1 口 500 円 / 団体 1 口 1,000 円  (何口でも結構です)
郵便振替口座 番号 00170-0-768037 
「安達洋子」又は「アダチヨウコ」(市民会議メンバーの口座です)

「教師の私が起立することは、大きな強制力を持って生徒を起立させ、その内心の自由を奪うことでした」 ー 東京「君が代」裁判の法廷で。

(2022年7月15日)
 昨日の東京地裁709号法廷。午後3時から、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第5回口頭弁論。担当裁判所は民事第36部。原告側から、準備書面(8)と(9)と書証を提出して、原告2人と代理人1人の口頭意見陳述があった。

 709号法廷の傍聴席数は42。その全席を埋めた傍聴の支援者を背に、意見陳述は迫力に満ちていた。原稿を目で追って読むのと、本人を目の前にしてその肉声を聴くのとでは、訴える力に格段の差が生じる。肉声なればこそ、本人の気迫が伝わる。それだけではなく、その必死さ、真摯さ、悩みや葛藤の深刻さが伝わる。聞く者の胸に響く。裁判官3名は、よく耳を傾けてくれた印象だった。

 次回も次々回も、原告2人と代理人1人の意見陳述の予定。真面目な教員であればこそ、「日の丸・君が代」強制に応じがたく、悩みながらも勇気をもって不起立に及んだ原告の心情に、担当裁判官の人間としての共感が欲しいのだ。

 昨日の法廷での、原告のお一人の陳述の内容をご紹介する。家庭科の教員をしておられる方。「起立して国旗に正対し、国歌を斉唱せよ」という職務命令に従えなくなったのは、担任した在日の生徒との関わり方に悩んでの末のことだという。

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 原告の一人として意見を申し上げます。
 1993年に都立高校の教員になり、足立高校定時制に勤めました。定時制の生徒の多くは、中学校時代まで不登校だったり問題行動を起こしたりと、教師や社会に対してよい印象を持っていません。真剣に向き合わないと欺瞞や嘘はすぐ見抜かれてしまいます。一日一日が真剣勝負です。私は生徒と同じ目線で対話を繰り返すことで信頼関係ができること、信頼関係ができれば生徒も変化していくことを学びました。

 外国籍の生徒も多く、私のクラスにも在日韓国人の生徒がいました。彼女は周囲に対してすぐとんがって喧嘩してしまい、問題を起こす生徒でした。彼女とは民族のアイデンティティを大切にして対話することを試みました。「もうひとつ名前があるでしょ」と、2人きりで話す時は本名で呼び、それに慣れた頃、地元の在日コリアンの高校生の集まりに誘いました。その時、彼女の表情がやわらいで、別人のようにおとなしくなりました。これが本当の彼女でした。とんがっていたのは、バカにされないように精一杯虚勢をはっていたからでした。自身の民族性にふれるうち少しずつ変化がみられ、クラスの女子とうまくやろうと努力し始めました。

 また家庭訪問をくりかえすうちに、彼女の母親も自分のことを話してくれるようになりました。戸籍がなくて大人になってから自分で取り寄せたこと、民族学校が閉鎖されてなかなか教育を受けられなかったことなど戦中戦後の苦労話です。生徒たちが抱えている問題の背景には戦争があることを実感しました。侵略戦争のシンボルだった日の丸君が代は、特にアジアの人々には強制すべきでないと確信を持ちました。

 4年生の担任を受け持ったクラスには、60代のOさんがいました。当時の卒業式では、式場に君が代・日の丸はなく、校長との話し合いで屋上に日の丸を三脚で立てていました。卒業前のHRでどんな卒業式にしたいか、日の丸・君が代についてどう思うか、話した時です。普段寡黙なOさんが怒りをあらわにしました。「私は小学校の頃、ガキ大将だった。戦争中は休みの日にも天皇関係の行事で学校があって、サボると教師に殴られた。戦争が終わると墨塗りの教科書になり、教師達の言うことが180度変わった。教師なんて信用できない。教育なんてくそ喰らえ、と思って中学卒業と同時に働きに出たが、社会に出ると学歴の壁は厳しかった。人生のしめくくりとして高校に来ました。その卒業式に日の丸・君が代はやめて下さい。」Oさんが教育に対してそんな思いでいたとは驚きでした。時代によってコロコロ言うことが変わるなんて信用できない。Oさんの言う通りです。Oさんに信用される教師になりたいと思いました。自分が正しいと思ったことはどんな時代がきても、信念を持ってちゃんと伝えられる教師になりたいと思いました。

 2003年10.23通達が出された時、私は豊島高校定時制の4年生の担任でした。職場は大混乱。生徒にどう話そうか悩んでいたら、当時大々的にニュースに流れていたので、生徒の方から自分達の卒業式はどうなるんだと質問や不安の声が飛びかいました。そこで学年合同HRを行うことにしました。1回目のHRは、不登校や引きこもりだったおとなしく真面目な生徒だけが参加していました。「色々変わって、教員の私には不起立の自由はないけど、生徒のみんなには内心の自由があるよ。」と説明しました。しかしいくら説明しても、「たまき(教師である私を生徒は名前で呼びます)も一緒に座ってよ」と、声があがるだけでした。

 式場で立つように言われて立たないのは勇気の要ることです。私が起立せず座ればそれが彼女たちの防波堤になると思いました。翌週2回目のHRの時は、前の週欠席していたヤンキーやギャルの一団が加わりました。彼らは日の丸・君が代があると「式っぽい」とか「かっこいい」と大賛成。そのとたん、前回のHRであれほど「たまきも一緒に座って」と声をあげていた生徒達が一斉に口をつぐみました。彼らが怖くて自分の意見が言えないのです。気まずい抑圧された雰囲気のままHRは終了しました。口をつぐんでいた生徒の一人が寄ってきて「歌いたくない人は座ってもいいでしょ」と念押ししにきました。意見を言えなくても行動できる生徒がいると救われた気持ちでした。

 さて卒業式はどうしようか。HRで自分の意見も言えない弱い彼らを守るには私が座るしかないと思いました。生徒の内心の自由は守りたい。しかし初めて出された職務命令に従わなければどうなるのか想像もつきません。まだ私は若かったし、定年までの人生を考えるとどうなるかわからない恐ろしさは半端ではありません。

 卒業式当日、悩み抜いた結果、苦渋の末に起立しました。すると「たまきも座って」と言っていた生徒たちがうらめしそうにこっちを見ています。そして「座ってもいいでしょ」と念押ししにきた生徒だけが座りました。でも、彼は落ち着きなさそうに周囲をきょろきょろ見渡し、居たたまれなくなって曲の途中からゆっくりと腰をあげ、曲の最後には立ちました。この光景は忘れられません。わたしは、立ったことを激しく後悔しました。私を頼ってきた生徒の信頼を完全に裏切ってしまいました。私が立つということは、生徒の内心の自由を守れなかっただけではなく、生徒を立たせてしまい、大きな強制力を持って生徒の内心の自由を奪うことだったのです。「教師なんて信用できない。教育なんてくそ喰らえ」と言ったOさんを思い出しました。

 しかし私は生きていくために働かなくてはいけない。馘にならないで働き続けるには命令に従ってやり過ごすしかない。そう自分に言い聞かせて、その後は、君が代が流れる40秒間は心とからだを分裂させ、この辛いことをやり過ごす努力をしてきました。「私はここに立っているけど私の魂はここにはない」と、40秒の間、体育館の上空に魂を飛ばしていました。しかしいくら自分をごまかしても、息苦しさは増すばかりでした。

 2013年に担任を持つことになりました。10.23通達の出た年以来10年ぶりの担任です。入学者名簿を見ると、外国籍の生徒や障害を持つ生徒がいるなど様々です。今度は後悔したくない。また生徒と真摯に向き合いたい。今度こそ生徒に信用される教師になりたい。そう思うと、もう入学式でも卒業式でも立つことはできませんでした。

 生徒それぞれにいろいろな背景やルーツがあります。君が代を強制することは生徒の人権を侵害することです。起立斉唱の強制は、教師だけではなく、生徒たちも苦しめ、生徒の人権を抑圧しています。10.23通達と職務命令を続けることは、生徒の人権抑圧を許すことになります。どうか裁判所にはそのことに目を向けていただき、10.23通達を違法とする判断をお願いいたします。

今日は、家永教科書訴訟提訴記念日

(2022年6月12日)
 今朝、浪本勝年さんからメールをいただいた。
 「本日(6.12)は歴史学者・家永三郎さん(当時・東京教育大学教授)が1965年6月12日、教科書訴訟を提起した記念すべき日です(もっとも、人それぞれに感慨は異なるでしょうが…)。
 小生は当時、大学4年生。宗像誠也先生から、事実上の「予告」を受けていましたので、この日の記憶は鮮明で強いものがあります。
 当日入手した夕刊2紙(朝日・毎日)及び家永さんの「声明」の3点をお届けします(添付ファイル参照)。」

 念のため、吉川弘文館の「日本史総合年表」を検索してみたら、1965年6月12日欄に、次の記載がある。

 「家永三郎、自著の高等学校教科書『新日本史』の検定不合格をめぐり教科書検定制度を違憲とし、国に対する損害賠償請求を東京地裁に提訴。(9月18日「歴史学関係者の会」、10月10日「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会」それぞれ結成)」

 そして、家永さんの「声明」は、以下のとおり。

声  明

 私はここ十年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三十八、九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるために、あえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。
 憲法・教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としても、だまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます。

昭和四十年六月十二日

家永三郎

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 当時私は、浪本さんより一学年下の文学部社会学科3年生。もっぱらアルバイトに忙しく、授業への出席率は極めて低かった。残念ながら家永教科書訴訟提訴の日の記憶はない。この声明文も初めて見た。へ~、家永さん、当時は西暦でなく、元号使っていたんだ。

 この声明の中の、「法律に訴えて正義の回復をはかるために、あえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました」という、家永さんの決意がまぶしい。当時の司法は、比較的真っ当だった。田中耕太郎・反共長官(2代目)と石田和外・反動長官(5代目)の最悪時代の谷間にあって、裁判所が「正義の回復をはかる場」としての信頼を勝ち得ていた時代なのだ。

 周知のとおり、家永教科書訴訟は大裁判となった。表現の自由・教育の自由・学問の自由をテーマに、憲法原則を支持する勢力と保守政権とがわたりあった。訴訟は、1次から3次にまで至り、最終確定まで32年を要した。

 《教育裁判》と《教育の自由を求める市民運動》とが理想的に結びついた典型例が作られ、多くの市民が教育本来のあり方に関心を寄せ、教科書の内容を監視するようになった。教科書訴訟支援運動が、多くのリベラルな活動家を育てた。

 第二次訴訟(1967年6月提訴)は、検定不合格を不当として、その取消しを求めた行政訴訟(処分取消訴訟)である。その第一審判決が《杉本判決》として知られるものとなっている。

 1970年7月17日東京地方裁判所は、国家の教育権を否定して、家永教科書に対する検定を憲法・教育基本法に違反する、との画期的な判決を言い渡した。この判決は、杉本良吉裁判長の名をとって《杉本判決》と呼ばれている。《杉本判決》を象徴として、家永教科書裁判は、国民各層に教育政策への関心を喚起するとともに、教育権理論を深化させる役割を果たしたと評価されている。また、いくつもの制度の改正も実現している。その、教育権論争を中心とする理論的成果と、教育民主化の運動は、「日の丸・君が代」訴訟とその支援運動に引き継がれている。

福井農林高校演劇部の皆さん、日本国憲法はあなた方の味方だ。

(2021年11月20日)
 中日新聞(11月17日)の社会面に、「高校演劇作品 公開せず 県高文連『せりふに差別用語』」「脚本関係者『表現の自由への制約』」という記事。これは看過できない。地元紙・福井新聞では、「作中に差別用語…高校演劇巡り広がる波紋」「主催者が映像化を中止、創作者は表現抑圧と反発」という見出し。投げかけている問題は大きい。

 中日新聞を引用する。

 「県高校文化連盟(県高文連)演劇部が今年9月に福井市で開催した県高校演劇祭の関係者向けインターネットサイトで、福井農林高校(同市)が上演した演劇作品だけ公開されていないことが分かった。県高文連は劇中のせりふに「差別用語」が含まれていたことを理由としているが、脚本に関わった関係者は「差別的な文脈で使用したものではなく、表現の自由に対する制約だ」と主張している。

 作品のタイトルは「明日のハナコ」。二人の少女が1948(昭和23)年の福井地震から現在までの県内の歴史を振り返りつつ、未来について考え成長していく物語。
 県高文連の関係者によると、元敦賀市長の発言として原発誘致の利点を語るせりふの中に「カタワ」という言葉が含まれていた点を問題視した。この作品をサイトで公開しないことは、高校演劇部の顧問らで作る顧問会が事前に弁護士に相談した上で、10月8日に協議して決めた。差別表現はどのような場合でも許されないことや、公開した場合に生徒や教員が誹謗中傷にさらされたり、名誉毀損などの罪に問われる可能性があることなどを弁護士に指摘されたことから判断したという。
 せりふは過去の文献を参考にした形で書かれていたが、脚本家に対し、せりふを書いた意図について確認はしなかったという。
 さらに、この作品のDVDは作らず、脚本は顧問が管理し、生徒の手に渡らないようにすることなども決めた。演劇祭の様子は12月に地元の福井ケーブルテレビで放映される予定だったが、県高文連側がこれらの懸念を伝え、放映しないことになった。
 県高文連演劇部会長を務める丸岡高校の島田芳秀校長は、取材に対し「子どもたちを守るための判断で、問題はない」と述べた。脚本に関わった関係者は「表現に対する過度の制約につながり、懸念している」と話している。

 演劇「明日のハナコ」で使われたせりふの抜粋
 小夜子 (略)「まあ原子力発電所が来る。電源三法の金はもらうけど、そのほかに地域振興に対して裏金よこせ、協力金よこせ、というのがそれぞれの地域にある。(中略)そんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわ。そりゃもう棚ぼた式の街作りができる。そのかわり100年たってカタワが生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階で原発をおやりになった方がよい
 ハナコ それ誰。
 小夜子 敦賀市長。石川県の志賀町で原発建設の話が持ち上がったときに地元商工会に招かれてしゃべったらしいのね。
(後略)

生きた議論を
 志田陽子・武蔵野美術大教授(憲法・芸術関連法)の話 差別的な表現について法律家が文脈を見ずに「許されない」と助言することは通常考えにくく、学校側の誤解があったのではないか。学校の管理権は広く認められる傾向にあるが、(生徒の危険を理由に非公開とした決定は)善意ながら上から目線で事なかれ主義を押しつけた可能性がある。特に脚本を生徒の目に触れないようにするなど、後からの検証を不可能とする形で言論を封殺することは最もやってはいけない。せりふの意図を説明した上で公開するなど、表現を成立させる方向へ進んでほしい。学校側がこれを機に表現の自由を考える場をつくるのであれば、生きた議論ができるはずだ。

 さすが志田教授、憲法論にとどまらず、あるべき教育論にまで踏み込んだ立派なコメント。

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そして、佐藤正雄・福井県議会議員(共産)が、こう語っていることにも大賛成だ。
https://blog.goo.ne.jp/mmasaosato/e/f5a9ce2a88573c40d7bcc4c9fd61afa4

私のコメント
「福井農林高校演劇部の劇も、必要な措置をおこない福井ケーブルテレビで放映すべきと考えます。」
 この経緯には、福井農林演劇部の生徒さん、顧問の先生、外部指導員の玉村さん、校長先生、そして、校長先生で構成される演劇部会、演劇部顧問で構成される顧問会議、教育委員会、福井ケーブルテレビ、スクールロイヤーなどの多様な当事者が存在します。
 大事なことは演劇含めて表現の自由は最大限尊重されなければなりませんし、舞台上演可能な高校演劇がテレビ放送には適さない、というダブルスタンダードでは当事者である生徒たちや、県民にもわかりにくいと思います。
 原発誘致をめぐる当時の敦賀市長の、差別用語の問題発言は当時も大きく報道されていますし、書籍にも掲載され、現在でも簡単にネット上で検索もできます。
歴史的な政治家の発言をそのまま使うことには小説であれ、演劇であれ、ありうることです。それが現在では不適切であれば、その際に、「ことわり」を入れることは当然です。
 弁護士であるスクールロイヤーが「差別用語の放送は危険であり、放送は大きな問題だ」と指摘したことが今回の展開に大きな影響を与えたようです。
 しかし、私も障がい者運動の当事者の方々の意見もお聞きしましたが、「歴史的な発言を語る演劇が放映されないことの方が問題ではないか。だから原発に忖度したのではといわれる。落語でも小説でも歴史的な差別用語を残して今日に伝えている例はたくさんある」などと話されています。
 放映の際にその部分に、「不適切な表現がありますが当時の敦賀市長の発言のまま放映しました」などのことわりが流れるようにすれば、障害をお持ちの方含め県民理解も得られるのではないでしょうか。

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なお、市民運動団体「福井の高校演劇から表現の自由を失わせないための『明日のハナコ』上演実行委員会」によると以下の事情があるという。

 9月20日、その福井ケーブルテレビより、福井県高等学校演劇連盟に対して連絡がありました。「福井農林高校の劇の放映について、社内で審議にかかるかもしれないので連盟としての意見を求めたい」「個人を特定する点、原発という繊細な問題の扱い方、差別用語の使用などについて懸念している」とのこと。

 そこでその日に行われた顧問会議の結論は、「ケーブルテレビ局内の意向を尊重する」。つまりケーブルテレビ側が放送しないと決定したならばそれに従う、というものです。

その理由としては、
1 この劇には、反原発・個人名・差別用語が含まれている。放送後、それらを取り上げられて、生徒や福井農林高校に非難が寄せられることを憂慮する。学校は教育的に生徒を守らなければならないから。

2 福井農林高校の劇は、表現方法はともかく、上演に問題はないと思う。ただ、不特定多数の人目に触れる放送はいかがなものかと思う。

3 高文連は原電からの支援を受けている。また、ケーブルテレビも原電と関係のある企業がスポンサーになっているかもしれない。これからもケーブルテレビと良好な関係を保ちたい。放映すると影響がでる。

 「1」について、まず差別用語は、劇を見てもらえばわかりますが、差別意識を持った取り上げ方はしていません。
 「2」個人名についても、図書館にある書籍をそのまま引用したものです。
 「3」反原発については、たとえば「原発からの支援を受けている」という意見には、こう反論したいのです。補助金は、活動の思想的方向や表現内容についてなんら干渉するものではないし、これまでも干渉した例はないはずです。そういう性質の支援であるからこそ、公的な組織が(高文連は県の組織です)は公明正大に受け取ることができるのです。
 もしも干渉があって、内容を規制しなければならないようなものであれば、それも意見の一方を否定するようなものであれば、そのような助成を受け取っている県が裁かれる事態になってしまうし、即刻県はその助成を返上すべきだというのが、行政上の通念だと思われます。
 したがって、「3」の理由がまかりとおれば、これ以降、福井では原子力発電の危険性を訴えるような劇を作れないことになります。表現してはいけない分野を生んでしまうことになります。
 また、原発に関係する内容次第では社内で審議にかかるなどと、排除する可能性も示すのがケーブルテレビなら、むしろ結果的に表現の自由を制約することになるそうしたケーブルテレビの姿勢こそ、問われるべきです。そう主張して生徒を守るのが教員の仕事じゃないでしょうか。

 その後、福井農林高校演劇部生徒たちの反応を聞き取ったのちに、10月8日に再度、顧問会議が開かれ、あらためて次の三項目が、決定されました。採決もなく、でした。

・福井農林高校の劇だけはケーブルテレビでは放映しない。
・DVDはつくらず、記録映像を閲覧させない。
・脚本はすべて回収する。

 会議ではスクールロイヤー(顧問弁護士)の意見として次のような見解が述べられました。
・劇中における反原発の主張は、表現の自由が保障されるので問題ではない。
・人権尊重の立場から、表現の自由は制限されることがある。
・劇中使用された「かたわ」という差別用語は、使用するだけで駄目である。
 顧問会議で具体的にどのような討論があったのか、議事録が公開されないのでわかりませんが、最後の「差別用語は使用するだけで駄目」という理由が会議の流れを強く決定したとのことでした。

 なるほど、主役は原発なのだ。そういう目で事態の推移を見直せば、よく分かる。ということは、この件をこのまま放置していれば、「原発批判は避けて通るに越したことはない」という社会の雰囲気を醸成することにもなるのだ。
 それにしても、志田陽子教授、左藤正雄議員とも、見事なコメントである。付言すべきことはない。

総選挙と国民審査を間近にして、本日は悪名高き「10・23通達」発出の日

(2021年10月23日)
 「3・11」「1・17」「3・10」「6・23」「8・6」「9・1」…。人は、それぞれに、月と日を記憶する。私にとっては「10・23」が忘れてはならぬ日となっている。2003年以来、今日まで。

 18年前のこの日、東京都教育委員会が悪名高い「10・23通達」を発出した。東京都教育委員会とは、石原慎太郎教育委員会と言って間違いではない。この通達は、極右の政治家による国家主義的教育介入なのだ。学校儀式における国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明、つまり「国旗(「日の丸」)に向かって起立し国歌(「君が代」)を斉唱せよ」という職務命令を全教職員に徹底せよと強制する内容。

 形式は、東京都内の公立校の全ての校長に対する命令だが、各校長に所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事において、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよというもののだ。実質的に知事が、校長を介して、都内の全公立校の教職員に、起立斉唱命令を発したに等しい。教育法体系が想定するところではない。

 あの当時、元気だった次弟の言葉を思い出す。「都民がアホや。石原慎太郎なんかを知事にするセンスが信じられん」。そりゃそのとおりだ。私もそう思った。こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。

 しかし、今や石原慎太郎は知事の座になく、悪名高い横山洋吉教育長もその任にない。石原の盟友として当時の教育委員を務めた米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にすべて入れ替わっている。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も一人として、当時の在籍者はない。しかし、「10・23通達」は亡霊の如く、いまだにその存在を誇示し続け、教育現場を支配している。

 この間、いくつもの訴訟が提起され、「10・23通達」ないしはこれに基づく職務命令の効力、職務命令違反を理由とする懲戒処分の違法性が争われてきた。

最高裁が、
 秩序ではなく人権の側に立っていれば、
 国家ではなく個人の尊厳を尊重すれば、
 教育に対する行政権力の介入を許さないとする立場を貫けば、
 思想・良心・信教の自由こそが近代憲法の根源的価値だと理解してくれさえすれば、
 真面目な教員の教員としての良心を鞭打ってはならないと考えさえすれば、
 そして、憲法学の教科書が教える厳格な人権制約の理論を実践さえすれば、

「10・23通達」違憲の判決を出していたはずなのだ。そうすれば、東京の教育現場は、今のように沈滞したものとなってはいなかった。まったく様相を異にし、活気あるのになっていたはずでなのだ。

 10月31日、総選挙の投票日には、公立校に国家主義を持ち込もうという現政権を批判して、立憲野党4党(立民・共産・社民・れいわ)の候補に投票しよう。そして、最高裁裁判官の国民審査においては、最高裁を総体として批判する意味において、遠慮なく審査対象11人の全員に「×」をつけていただきたい。

 全裁判官に「×」はやや無責任に思える、比較的マシな裁判官には、「×」をつけたくない、とおっしゃる方は、宇賀克也裁判官にだけは「×」を付けずに投票されたい。
 
 その理由については、下記のURLを参照願いたい。

国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf

第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html

いま、教育現場はどうなっているのか。久保敬校長の「提言」に真摯に耳を傾けよう。

(2021年8月27日)
 8月23日の当ブログで、維新の松井一郎を、傲慢で愚かな市長と批判した。が、どうも言葉が足りない。もっと、ことの本質に立ち入って論じなければならない。

 問題は、大阪市教委が市立木川南小の久保敬校長を文書訓告としたことで世間の耳目を集めることとなった。この文書訓告の根拠とされたのが、同校長が大阪市長松井一郎に宛てた本年5月17日付の「大阪市教育行政への提言」である。これは単に、松井一郎の「思いつき」「気まぐれ」によるオンライン授業を巡る現場の混乱を告発すだけのものではない。「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」という副題のとおりの、堂々たる教育論なのだ。いや、堂々たるというよりは、現場から発せられた、悲鳴にも似た切実な教育論というべきだろう。しかも、教育に対する熱い情熱が胸を打つ。

 当時、朝日デジタルがその全文を掲載した。あらためてこれを末尾に転載させていただく。まずは、名指しされた松井一郎は、真摯にこれに答えなければならない。大阪市の教委も、その事務局も、市議会もこの「提言」を素材に、公教育の現状とあるべき方向を真剣に議論しなければならない。

 市教育委員会は久保敬校長を招聘して議論を尽くすべきだし、市議会各派は久保敬校長から教育現場の現状と教育行政の問題点について意見を聴くべき場をつくるべきだ。聞く耳もたず、文書訓告とはどういうことだ。松井に至っては「文句を言う校長は辞めろ」と言わんばかり。世の中、おかしいのだ。

 「提言」が提起した問題は、大阪市に特有のものではない。府下の学校も、全国の学校も共通の問題を抱えているはずだ。久保敬校長の危機意識が共有されなければならない。議論が巻き起こらねばならない。

 虚心に提言を読んでみよう。この提言は、大阪市教育行政の現状を根底から批判している。表題が、「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」である。大阪の学校現場には、「豊かな学校文化」が失われているのだ。「学び合う学校」にもなっていない。

 「提言」は、学校の現状について、「学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している」、ずばりそう表現している。子どもたちは商品となって、テストの点によって品質管理されている。やがて商品は買い手によってテストの点を品質の基準として選別される。そのため、子ども同士は、日々の「点数競争」に晒されている。

 教職員は、商品工場の品質管理担当者となっている。子どもの成長にかかわるべき教育の本質に根ざした働きができず、何のためかわからないような仕事に追われ疲弊し、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。というのだ。

 その結果、子どもの幸せはどうなっているのか。

 「虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。」「グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが『がんばった人間』として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。」


 ここで語られているのは、社会が求める型に合わせて人を作ろうという教育への疑問である。そのための、点取り競争の教育が、子どもを不幸にしているというのだ。こういう叫びが、教育現場の校長から発せられていることを重く受けとめねばならない。そして、「提言」の最後はこう結ばれている。

「根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。」

 これが、直接には、市長・松井一郎に宛てた「提言」となっている。残念ながら、松井は、この提言を咀嚼する意欲も能力もない。教育とは何であるか、子どもの成長とはどういうことであるか。本来学校は、社会は、どうあるべきか、社会と個人の関係は…。そして、教育行政は何をなすべきで、何をしてはならないのか。これらのことを考えたこともないようだ。

 松井は、この提言に関する感想を、「校長なのに現場が分かってない」「社会人として外に出たことはあるんか」などと述べたという。まったく、何にも分かってはいないのだ。分かろうともしていない。実は、教育には何の関心もなく、考えているのは、自分の地方政治家としての評判のことだけ。虚しい願望かもしれないが、せめて現場の声に耳を傾け、現場を尊重し、現場とともに考え悩む市長であって欲しい。

 あらためて嘆かざるを得ない。こんな人物を市長にしていることが、大阪の悲劇であり、市民の不幸なのだ。教育を変える運動は、市長を換える課題と結びつかざるを得ない。

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大阪市長 松井一郎様

大阪市教育行政への提言
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために

 子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。
 学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。
 今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。
 現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。
 また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
 つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚(むな)しく、わたしたちの教育への情熱を萎(な)えさせるものか、想像していただきたい。
 子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。
 あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

 間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

 「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

 コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

 根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。

令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校 校長 久保 敬

松井一郎はん、間違うてんのはあんたや。人の言うこと、よう聞きなはれ。

(2021年8月23日)
 世の中は広い。考えられないほど傲慢で愚かな市長がいるし、わけの分からぬ教育委員会もある。そして、何と硬骨な校長もいるものだ。なるほど、この混沌が大阪なんだ。

 《『混乱極めた』オンライン授業巡り、大阪市長批判の小学校長処分》という報道。教育行政のあり方や、言論の自由の意味、そして言論の自由を抑圧することの深刻な意味などについて考えさせられる。あわせて、ものの言えない鬱屈した教育現場の惨状があぶり出されてもいる。なるほど、これが大阪の教育の実態なんだ。維新の勢力が跋扈しているうちは、大阪はアカンとちゃうか。

「大阪市立小中学校が4~5月の緊急事態宣言下に実施したオンライン学習を巡り、「学校現場が混乱した」などと指摘した提言が地方公務員法が禁じる信用失墜行為に当たるとして、市教育委員会は8月20日、市立木川南小(淀川区)の久保敬校長を文書訓告にした。

 市教委は4月、松井市長による突然の方針表明を受け、原則としてオンライン学習を実施するよう各校に通知した。しかし、多くの学校でネット環境が整っていなかったため、授業動画の視聴にとどまるなど満足に実施できず、学校現場や保護者から不満の声が上がっていた。

 久保校長は5月に松井市長や市教育長に実名で提言書を送付した。「市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈した」と指摘。「学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている」とし、教育行政の見直しを訴えた。

 これに対し、松井市長は「言いたいことは言ってもいい」としたうえで「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」と批判していた。」

 以上が、報道されている経過の概要である。文書訓告は地方公務員法上の懲戒処分ではないが、その前段階。もう一度同様のことがあれば懲戒するぞ、という警告の意味をもつ。教委の訓告の理由は、「他校の状況を把握せず、独自の意見に基づいて市全体の学校現場が混乱していると断言したことで市教委の対応に懸念を生じさせた」「さらにSNSで拡散されたことが信用失墜行為に当たる」というもの。

 誰が見てもこの訓告理由はおかしい。言外にこう言っているのだ。

「長いものには巻かれろ、出る杭は打たれる言うやおまへんか。もの言えばくちびる寒しでっせ。あんさんも校長や、子らには上手な世渡り教えなならん立場や。市長に逆ろうてもどないもならんことはようお分かりのはずやし、子らにも分を弁えるよう、手本をみせなならん。わしらも、教育委員いうたかて名ばかりや。何の権限もおませんのや。ここは、文訓程度でおさめるのがええとこや。腹も立とうが、何とか呑み込んでいただきとうおますのや」

 松井は、この校長に「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」と言っている。多様性を否定し、批判を封じ、教育を「一つの方向性」に引っ張っていこうという危険な発想。「組織を去るべきだ」は、『非国民』思想の復活ではないか。

 松井一郎の間違いは、大きく2点ある。事前に教育現場の教育専門家の意見を聴いていないこと。だから現場は混乱し、だから校長からも批判の声が上がるのだ。さらに、事後にも現場からの批判の声に耳を傾けようという姿勢のないことだ。

 この経過は看過しがたい。民主主義とは、選挙での為政者への白紙委任ではない。誰もが、常に、為政者を批判できる。為政者は批判の声に謙虚に耳を傾け、政策の修正に努めなければならない。久保校長の提言は「通信環境の整備など十分に練られること(が)ないまま場当たり的な計画で進められ」「保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている」というもの。この見解は、保護者へのアンケート調査までしての結論。松井はこの提言に聴く耳を持たない。聴く耳を持たないどころか、「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」というのは、言語道断。これが維新の体質と理解するしかない。維新に権力を握らせることは、恐ろしい。

久保校長はこうも述べているという。

「37年間大阪で教員として育ち、本当に思っていることを黙ったままでいいのかなと。お世話になった先生方や保護者、担任をした子どもを裏切ってしまう感じがした」「今まで黙ってきた自分はどうなんやろうっていうのを、自分自身に問いかけた」

ものを言いにくい現場の空気と、意を決しての発言であることが伝わってくる。また、こうも報じられている。

「60代の市立小学校長は『声を上げにくい中でよく言ってくれた』と提言書の内容を支持した。区内の校長の間でも共感する声が多いという。『これまでも教育現場の声を聞かずに色んなことが決められてきた』。今回のオンライン学習の方針も同じだと感じるという。」

 「阿倍野区の市立小学校の50代男性教諭は通信環境が整わない中でオンライン学習を進めざるを得ず、児童の学習に遅れが出ていることに危機感を抱く。「私たちは決まった方針に対して何も言えず、従うしかない。諦めていたが、この提言に心から賛同したい」と話した。

 声を挙げることの困難な教育現場。声を押し潰そうという傲慢な小さな権力と、それに抗って発言しようとする良心の角逐。今、どこにもある光景であるが、実は深刻な光景なのだ。

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制とはいかなる意味をもっているのか

(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。

もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。

その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。

その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。

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本件訴訟の概要と意義(抜粋)

☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。

(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。

(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。

(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。

以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。

竹田恒泰のスラップ完敗判決から学ぶべきこと

(2021年2月7日)
一昨日(2月5日)、東京地裁民事1部(前沢達朗裁判長)が、典型的なスラップ訴訟に請求棄却の判決を言い渡した。スラップ提起の原告を断罪した判決と言って過言でない。

このスラップを仕掛けた原告が竹田恒泰という「人権侵害常習犯の差別主義者」。訴えられたのは山崎雅弘(戦史・紛争研究家)。状況から見て、竹田は山崎のツィートによる言論を嫌忌し本気で抑え込もうとした。弁護士を通じて、提訴を脅しにツイートの削除を要求したが山崎は毅然としてこの要求を撥ねつけた。勢いの赴くところ竹田は提訴を余儀なくされ、法廷では負けるべくして負けたのだ。

竹田恒泰は提訴時にこの訴訟を勝てる見込みのないことを知っていたはずである。それでも敢えて提訴したのは、仮に敗訴したとしても、山崎に応訴の負担を掛けさせることによって、今後の竹田批判の言論を牽制することが可能になると考えたのだろう。また、山崎以外の他の言論人に対して、「同種の竹田批判の言論には損害賠償請求の提訴をするぞ」という恫喝を意図したものでもある。

竹田恒泰による山崎雅弘に対するスラップ提訴の真の被害者は、表現の自由そのものなのである。だからこそ、内田樹を筆頭とする多くの人々が、彼らもスラップ予告の恫喝を受けながらも、(あるいは恫喝を受けたが故に)山崎雅弘支援に立ち上がっている。

竹田恒泰が嫌った山崎のツィートとは、「朝日町教育委員会か竹田恒泰を講演に招聘したことを批判」するものである。私(澤藤)は今回初めて知ったが、竹田恒泰のごときヘイトにまみれた言論人の講演を子どもたちに聴かせようという教育委員会が、この世に現実に存在するのだ。「差別や偏見、いじめはいけません」と子どもたちに教える責任を負う教育委員会が、差別やいじめの常習者を、税金で謝礼を払う行事に登壇させているのだ。山崎雅弘のツィートは、「許される」というレベルではない。適切な批判として、称賛に値すると言わねばならない。

名誉毀損の根拠となったツィートは、18年11月富山県朝日町で地元中高生らに講演する予定だった竹田恒泰について、山崎が「教育現場に出してはいけない人権侵害常習犯」などと批判した5件。思いがけなくも主催者の同町教育委員会に妨害予告の電話があり、講演会は中止となった。その後、竹田の代理人弁護士から、山崎に下記のツィートの抹消と500万円の慰謝料請求がなされた。請求拒否には、民事訴訟だけでなく、刑事告訴まで予告されていた。
そのツィートをまずお読みいただきたい。

「竹田恒泰という人物が普段どんなことを書いているか、ツイッターを見ればすぐ確認できる。それでもこの人物を招いて、町内の中・高校生に自国優越思想の妄想を植え付ける講演をさせる富山県朝日町の教育委員会に、教育に携わる資格はないだろう。社会の壊れ方がとにかく酷い。(2019年11月8日)」

「竹田恒泰という人物が過去に書いたツイートを4つほど紹介するだけでも、この人物が教育現場に出してはいけない人権侵害常習犯の差別主義者だとすぐわかる。富山県朝日町の教育委員会が、何も知らずに彼をわざわざ東京から招聘するわけがない。つまり今は教育委員会にも差別主義者がいる可能性が高い。(同日)」

「(教育行政が音を立てて崩れている。
twitter.com/20191001start/…)
これも問題ですね。大阪市教育委員会の後援ということは、竹田恒泰氏の日頃の発言内容を「問題だ」と思わない、民族差別や国籍差別、男女差別に鈍感/無感覚な人間が、大阪市教育委員会という公的組織の内部の要職にいることを意味します。(2019年11月9日)」

「今回の件が問題なのは、本来なら「差別や偏見、いじめはいけません」と子どもに教える責任を負う教育委員会という公的機関が、特定国やその出身者に対する差別やいじめの常習者である竹田恒泰氏を、税金で謝礼を払う行事に登壇させることです。差別やいじめを是認することになります。(同日)」

これを一読しての感想で、憲法感覚や言語感覚、あるいは民主主義的感性の成熟度が試される。この山崎の言論に、「いったいどこに問題があるというのか」「これを違法というなら、表現の自由はなくなる」「山崎が表現の自由市場に投じた一言論ではないか。竹田に異議があれば反論すればよいだけのこと」「これを違法として抹消せよというのは表現の自由への挑戦ではないか」と反応あれば健全なものだ。

「もしかしたらこれ違法?」「言いすぎじゃない?」と、少しでも懸念を感じる人は、民主主義社会の主権者としてあまりに臆病な自らの姿勢を反省していただかねばならない。言論の自由市場における率直で活発な意見の交換によって、われわれの社会は、大きな誤りから免れ、遅々としてでも進歩できるのだ。

訴訟では、竹田側は山崎ツィートを、「誹謗中傷し、人格攻撃を繰り返し、侮辱する行為だ」と主張したそうだが、まったくの無理筋。これは「独自の主張」として一蹴されるしかない。

今回の判決は、「竹田氏の思想を『自国優越思想』と論評することは、公正な論評で論評の域を逸脱するものとはいえない」として、竹田氏の請求を棄却した。

また判決は「竹田氏が元従軍慰安婦に攻撃的・侮辱的な発言を繰り返し、在日韓国人・朝鮮人を排除する発言を繰り返していることに照らせば、発言を人権侵害の点で捉える相応の根拠がある」と指摘。投稿が社会的評価を低下させるものであっても「一定の批判は甘受すべきた」として、名誉侵害には当たらないと判断したとも報じられている。

幾つかの感想がある。何よりも、このスラップの提訴と判決は、地方教育行政と右翼言論人との親密な結びつきを露わにした。竹田にしてみれば、影響力の源泉としても収入源としても、重要なものであったろう。これは完全に断ち切らなければならない。「差別言論を常套とする者は公教育から切り離さなくてはならない」「違法なヘイト講演による差別意識を生徒に注入してはならない」という良識をもって、右翼言論人の跳梁を許さない世論の形成が重要である。この点、山崎ツィートに学びたい。

報じられていることを前提としての判断だが、竹田恒泰のスラップは提訴自体が明らかに違法である。スラップを違法とする要件は、DHCスラップ「反撃」訴訟における東京地裁民事1部の前沢達朗判決(2019年10月4日)が、次のように定式化している。

「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについての提訴も、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が違法行為になる」
これを、控訴審の東京高裁第5民事部判決も踏襲し、「通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる」根拠を詳細に判示している。
表現の自由擁護のためには、竹田恒泰のスラップ提訴を違法とする損害賠償請求の「反撃」訴訟の提起(控訴があれば控訴審での反訴、控訴なく確定すれば別訴で)があってしかるべきではないか。

「山崎雅弘さんの裁判を支援する会」が結成され、表現の自由を大切に思う多くの人々が結集してこの訴訟を支えている。その代表が内田樹氏である。敬意を表するとともに、反スラップの運動の広がりを心強く思う。
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