澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

ブルキニ禁止条例の効力を停止した、フランス立憲主義事情

フランスの憲法事情や司法制度には馴染みが薄い。戦前はドイツ法、戦後はアメリカ法を受継したとされる我が国の法制度には、フランス法の影が薄いということなのだろう。しかし、リベラルの本場であり、元祖市民革命の祖国フランスである。1789年人権宣言だけが教科書に引用ではすこし淋しい。ニュースに「ライシテ」(政教分離)やコンセイユ・デタ(国務院)が出てくると、呑み込むまでに一苦労することになるが、できるだけ理解の努力をしてみたい。

昨日(8月27日)の時事配信記事がこう伝えている。
【マルセイユAFP=時事】イスラム教徒女性向けの全身を覆う水着「ブルキニ」(全身を覆う女性イスラム教徒の衣装「ブルカ」と水着の「ビキニ」を掛け合わせた造語)をめぐり、フランスの行政裁判で最高裁に当たる国務院は26日、南部の町ビルヌーブルベが出したビーチでの着用禁止令を無効とする判決を下した。

 これを受け、保養地のニースやカンヌなど約30の自治体による同様の禁止令も、無効となる見通し。

 国務院は判決で、当局が個人の自由を制約するのは公共の秩序への危険が証明された場合に限られるが、ブルキニ着用にそのような危険は認められないと指摘。禁止令について「基本的自由に対する深刻かつ明白な侵害だ」と断じた。」

先月には、「『イスラム水着』リゾート地禁止 人権団体反発」との見出しで、「地中海に面するカンヌのリナール市長は7月28日、『衛生上、好ましくない』として、ブルキニ着用の禁止を発表した。また、『公共の秩序を危険にさらす可能性がある』ことも理由に挙げた。」と報道されていた。

私の理解の限りだが、イスラム世界には女性は他人に肌を露出してはならないとする戒律がある。この戒律に従う女性が海水浴をしようとすれば、ブルキニを着用せざるを得ない。ところが、フランスの30もの自治体が、条例でブルキニ着用を禁止した。違反者には、カンヌの場合38ユーロ(4300円)の罰金だという。罰金だけでなく、警察官が脱衣をするよう現場で強制までしている。常軌を逸しているとしか思えない。

ブルキニ禁止の理由として、「衛生上、好ましくない」「公共の秩序を危険にさらす可能性がある」があげられているが、いずれも根拠は薄弱。実は、イスラム過激派による相次ぐテロを受けて蔓延した反イスラム感情のなせる業だろう。驚くべきは、下級審の判断ではこの条例が有効とされたことだ。このほどようやく最高裁に相当するコンセイユ・デタ(国務院)で効力凍結となったというのだ。

フランスでは、2004年の「スカーフ禁止法」があり、2011年には「ブルカ禁止法」が成立している。公共の場でブルカを着用することは禁じられているのだ。違反すれば、着用者本人には罰金150ユーロ(約1万7千円)か、フランス市民教育の受講を義務づけられる。更に、女性が着用を夫や父親に強制されていたとすれば、強制した夫などには最高で禁固1年か罰金3万ユーロが科せられるという。こちらは、条例ではない。サルコジ政権下で成立した歴とした法律である。

一見、フランスは女性の服装にまで非寛容な、人権後進国かと見えるが、実は事態はそれほど単純ではない。ことは、フランス流の政教分離原則「ライシテ」の理解にかかわる。

ライシテとは、「私的な場」と「公共の場」とを峻別し、私的な場での信仰の自由を厚く保障するとともに、公共の場では徹底して宗教性を排除して世俗化しようとする原則、と言ってよいだろう。

このライシテは、共和政治から、フランスに根強くあったカソリックの影響を排除する憲法原理として、厳格に適用された。カソリックという強大な多数派との闘いの武器が、少数派イスラム教徒にも同じように向けられたとき、当然に疑問が生じることとなった。

その最初の軋轢が、1989年パリ郊外の公立学校で起こった「スカーフ事件」である。イスラム系女生徒がスカーフを被ったまま公立学校に登校することの是非をめぐって、「ライシテ原理強硬派」と「多文化主義寛容派」が激しく争ったのだ。

樋口陽一著「憲法と国家」に、この間の事情と法的解説が手際よくまとめられている。
事件の経過
「パリ近郊のある公立中学校で、イスラム系住民の3人の女生徒が、ヴェール(チャドル)をまとったままで授業に出席した。女性はヴェールで顔を蔽わなければならぬ、というイスラム教の戒律のシンボルを公教育の場にもちこむことの是非が、こうして問題となった。校長はその行為をやめさせようとし、女生徒と親は強く反撥した。
 これまでの、政教分離という共和主義理念からすれば、校長の措置は当然であった。フランス社会で圧倒的な多数を占めるカトリック教の影響力をも、執拗に公的空間から排除しようとしてきたからである。しかし、当時の社会党政権の内部では、異文化への寛容のほうを重んずべきだという主張が出てきた。国際人権擁護の運動家であるダニエル・ミッテラン夫人の立場は、そうだった。それに対しては、やはり同じ運動のなかから、「SOSラシスム」(人種差別SOS)のように、ヴェール着用の戒律こそ、一夫多妻制や女性の社会進出を許さない、差別のシンボルではないか、という再反論が返ってくる。」

コンセイユ・デタの「意見」
「当時文相をつとめていたジョスパン(後に首相)は、コンセイユ・デタ(国務院)の法的見解を求め、諮問に答えた同院の意見(1989年11月27日)は、ライシテ(政教分離)の原則と、各人の信条の尊重および良心の自由とがともに憲法価値を持つものであることを、条文上の根拠をあげてのべたうえで、こう言う。―「学校施設の内部で、ある宗教への帰属を示そうとするための標識を生徒が着用することは、宗数的信条の表明の自由の行使をなす限度において、そのこと自体でライシテ原則と両立しないものではない」。
この「意見」は、それにつづけて、「この自由」の限界を画す一般論をのべ、「具体的事件での標識着用がそのような限界をこえているかどうかは、裁量権を持つ校長の認定により、その認定は事後に行政裁判所のコントロールに服する」、とつけくわえている。

コンセイユ・デタの「判決」
 「意見」が一般論をのべたうえで想定していた問題処理の手順は、そのとおり現実のものとなる。3年あと、行政最高裁判所として判決を書くことが、コンセイユ・デタに求められたからである。同院は、1989年に「意見」のかたちで示した原則的見解を確認したうえで、同種の具体的事案について、女生徒を退校させた処分を取り消した(1992年)。
 校長の処分の根拠となった校則は、「衣服またはその他の形での、宗教的、政治的または哲学的性質を持つ目立つ標識の着用は、厳格に禁止される」、と定めていた。判決は、この規定を、「その一般性のゆえに、中立性と政教分離の限界内で生徒に承認される表現の自由…を侵害する一般的かつ絶対的な禁止を定めている」から無効だとし、「ヴェール着用の状況が…圧力、挑発、入信勧誘、宣伝…の行為という性格を持つこと」を処分者側は立証していないと指摘して、処分を取り消したのである。

樋口解説
 ここではまず、一方で政教分離、他方で信条・良心の自由という、ともに憲法価値をもつ二つの要素が対抗関係に立つという論理が、前提にされている。日本でのこれまでの圧倒的に多くの事例は、「信教の自由をまもるための政教分離」という図式で説明できるようなものだった。しかし、もともとライシテは、カトリック教会、およびそれと一体化した親たちが自分たちの信仰に従って子どもを教育しようとする「自由」の主張に対抗して、公教育の非宗教性を国家が強行する、というかたちで確立してきたのである。
 政教分離の貫徹よりも「寛容」と「相違への権利」を、という方向は、時代の流れではある。アメリカ合衆国では、「生徒と教師のいずれもが、校門に入るや憲法上の表現の自由を放棄したと論ずるのは不当」という判断を、生徒のヴェトナム反戦の言動に関して、最高裁がのべていた(1969)。

フランス共和制の大原則であるライシテは、強大なカトリックの支配から、あらゆる少数派信仰(無宗教者を含む)の自由を防衛する役割を果たした。ところが今、そのライシテが、多数派国民による民族的少数派への偏見を正当化する道具とされている。これに対抗する「寛容」「多様性」の価値を重んじるべきが当然と思うのだが、衡量論を超えた原理的な考察については整理しかねる。

とはいえ、ブルキニ禁止条例に関する、今回のコンセイユ・デタの「意見」は至極真っ当なものと言えよう。「ヴェール着用禁止が正当化されるためには、その状況が…圧力、挑発、入信勧誘、宣伝…の行為という性格を持つこと」という1992年判決踏襲の当然の結論でもある。反イスラム感情に駆られた多数派が民族差別的な人権規制をするとき、これに歯止めをかけたのだから、彼の国では立憲主義が正常に機能しているのだ。

振り返って日本ではどうだろう。違憲の戦争法が成立し施行となり、今や運用に至ろうとしている。これは立憲主義が正常に機能していないことを表している。嗚呼。
(2016年8月28日)

街頭宣伝活動での選挙総括

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元の「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、憲法を守ろう、憲法を大切しよう、とりわけ平和を守ろう。絶対に戦争は繰り返してはいけない。アベ自民党政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう思いから、訴えを続けています。

あなたが政治に関心をもたなくても、政治の方はけっしてあなたに無関心ではいない。あなたが平和と戦争の問題に無関心でも、戦争は必ずあなたを追いかけてきます。けっして見逃がしてはくれません。少しの時間、お耳を貸してください。

一昨日の7月10日が第24回参院選投開票で、既にご存じのとおりの開票結果となりました。今回選挙の最大の焦点は、紛れもなく憲法改正問題でした。より正確には、アベ政治が投げ捨てた立憲主義の政治を取り戻すことができるか否か。憲法を大切にし、政治も行政も憲法に従って行うという当たり前の大原則を、きちんと政権に守らせる勢力の議席を増やすことができるか。あるいは、憲法をないがしろにして、あわよくば明文改憲を実現したいという勢力の議席を増やしてしまうか。

一方に憲法を護ろうという野党4党と市民運動のグループがあり、もう一方に改憲を掲げるアベ自民党とこれに擦り寄る公明・維新・こころの合計4党があります。この「立憲4党+市民」と「壊憲4党」の憲法をめぐる争いでした。おそらくは、この構図がこれからしばらく続くものと思います。

「壊憲4党」の側は徹底して争点を隠し、争点を外し、はぐらしました。それでもなお、客観的にこの選挙は改憲をめぐる選挙であり、選挙結果は壊憲4党に参院の3分の2の議席を与えるものとなりました。これは恐るべき事態と言わねばなりません。

改憲発議の権利は、今やアベ自民とこれに擦り寄る勢力の手中にあることを自覚しなければなりません。到底安閑としておられる状況ではない。憲法は明らかにこれまでとは違った危機のレベルにある、危険水域に達していることを心しなければならないと思います。

では、国民の多くが憲法改正を望んでいるのか。いえ、けっしてそんなことはありません。参院選投票時に何社かのメディアが出口調査をしていますが、その出口調査では有権者の憲法改正についての意見を聞いています。共同通信の調査も、時事通信もNHKも、いずれも「憲法改正の必要がある」という意見は少数なのです。「改憲の必要はない」という意見が多数です。これを9条改憲の是非に絞って意見を聞けば、さらに改憲賛成は少なくなります。「安倍政権下での9条改憲」の是非を聞けば、さらに改憲反対派が改憲賛成派を圧倒するはず。

ですから、明らかに、国民の憲法意識と国会の政党議席分布にはねじれが生じています。大きな隔たりがあると言わなければなりません。にもかかわらず、改憲勢力は今改憲の発議の内容とタイミングを決する権限を手に入れてしまったのです。

今回選挙のこのねじれを生じた原因は、ひとつは改憲派の徹底した争点隠しですが、それだけでなく選挙区制のマジックの問題もあります。改憲派と野党との得票数は、けっして、獲得議席ほどには差は大きくありません。

たとえば、立憲4党は、今回選挙で32ある一人区のすべてで統一候補を立てて改憲派候補と一騎打ちの闘いをしました。その結果、11の選挙区で勝利しました。
 青森・岩手・山形・福島・宮城・新潟・長野・山梨・三重・大分そして沖縄です。
他の県は敗れたとはいえ、前回は31の一人区で、自民党は29勝したのですから、これと比較して共闘の成果は大きかったといわねばなりません。それだけでなく、この一人区一騎打ちの票数合計は2000万票でした。その2000万票が、立憲派に900万票、自公の壊憲派に1100万票と振り分けられました。議席だけを見ると11対21ですが、得票数では9対11の僅差。実力差はこんなものというべきなのです。

それでも、議席を争った選挙での負けは負け。長く続いた平和が危うい事態と言わざるを得ません。既に日本は、1954年以来、憲法9条2項の戦力不保持の定めに反して、自衛隊という軍事組織を持つ国になってきています。しかし、長い間、自衛隊は専守防衛のための最小限の実力組織だから戦力に当たらない、だから自衛隊は違憲の存在ではない、と言い続けてきました。

ところが、一昨年(2014年)7月1日アベ政権は、閣議決定で専守防衛路線を投げ捨てました。個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の行使を容認して、憲法上の問題はない、と憲法の解釈を変えたのです。憲法が邪魔なら憲法を変えたい。しかし、改憲手続きのハードルが高いから憲法解釈を変えてしまえというのが、アベ政権のやり方なのです。こうして、集団的自衛権の行使を容認して、自衛隊が海外で戦争をすることができるという戦争法を強行成立させました。

自国が攻撃されてもいないのに、一定の条件があれば海外に派兵された自衛隊が、世界中のどこででも戦争ができるという内容の法律ですから、「戦争法」。日本は、自衛のためでなくても戦争ができる国になってしまいました。この戦争法を廃止することが、喫緊のおおきな政治課題となっています。

今、このように憲法がないがしろにされているこのときにこそ、全力を上げて憲法を守れ、立憲主義を守れ、憲法の内実である、平和と人権と民主主義を守れ、と一層大きく声を上げなければならない事態ではないでしょうか。

本当に、今、声を上げなければ大変なことになりかねません。でも、声を上げれば、もう少しで国会の議席配分を逆転することも可能なのです。このことを訴えて、宣伝活動を終わります。ご静聴ありがとうございました。
(2016年7月12日)

「立憲4党」にイエス。「壊憲4党」にはノーの意思表示を。

あと3日。参院選最終盤に至って、憲法問題の争点化が浸透してきた。
私は、先に今回参院選の勢力関係の骨格を、「右翼アベ自民とこれを支持する公明が改憲勢力を形づくり、左翼リベラル4野党連合が反改憲でこれに対峙する。この両陣営対決のはざまに、おおさか維新という夾雑物が存在するという2極(+α)構造」と描いた。これをもっと単純化すれば、「立憲4党」対「壊憲4党」の争いともいえるのではないか。

「立憲4党」は中野晃一さんのネーミング。なるほど、民進・共産・社民・生活の4党共闘の核になっているものは、明文改憲阻止というよりは立憲主義の回復というべきではないか。アベ政治は既に立憲主義を破壊しつつある。この現実を糺し修復しなければならないという喫緊の課題での共闘。このネーミングの方が緊迫感ないし切実感がある。

これに対する自民・公明・おおさか維新・こころの4党を、大手メディアが「改憲4党」と呼ぶようになっている。「改憲4党は、非改選議席と併せて参院の3分の2の議席がとれるだろうか」との関心の寄せ方。しかし、実は「これから憲法に手を付けます」ではなく、既に憲法の一部を壊しているのだ。その意味では、「改憲」よりは「壊憲4党」と呼ぶのにふさわしい。

大日本帝国憲法下での立憲主義と日本国憲法の下での立憲主義とは大きく異なる。この違いは、権力からの個人の自由をメインの理念とする「近代憲法」と、資本主義の矛盾を克服する福祉国家理念をもつ「現代憲法」との違いに対応したもの。権力が護るべきとされるものの中に、平和主義・民主主義・法律の留保なき人権・社会権・参政権の保障を含むか否かなのだ。

憲法を頂点とする法体系の保護がなければ、強い者勝ちになる不公正に歯止めをかけ、弱い者の立場を護る思想に貫かれているのが、現代憲法としての「日本国憲法」である。改憲を阻止する、憲法を護る、憲法を活かす、立憲主義を取り戻すとは、結局のところ、法の保護なくば弱い側の立場を守ろうということなのだ。「立憲」4党の「立憲」は、この立場を指す。

既に壊されている憲法の理念は、まずは平和である。その最大のテーマは戦争法(安保関連法)であり、次いで表現の自由などの精神的自由権。そして、労働や福祉、さらには教育も民主主義もある。

この二つのブロックの中の各政党の個性はひとまず措いて、「立憲ブロック」と「壊憲ブロック」のどちらに投票すべきか。立場によって分かれる。分かり易いではないか。迷う必要はなさそうだ。

もし、あなたがこの社会の強者の側にあるなら、つまりは大企業の経営者側で、労働者をできるだけ安く使うことを望んでおり、労働者の首切りは自由な方がありがたいと思う立場であるなら、また株や債権の売買でぼろ儲けをしていて、軍事緊張が高まれば武器が売れて景気がよくなるとほくそ笑む立場にあるなら、所得税も法人税も相続税もできるだけ小さくして、累進性をなくし、福祉も教育も自己負担で自助努力が原則の国を望むなら、堂々と壊憲4党に投票すればよい。

しかし、あなたが働く者として首切り自由はとんでもないとし、時間外手当のカットも不当と考えるなら。また、軍事緊張も戦争もゴメンだというのなら。所得税や相続税は累進性を強化すべきが実質的公平に合致すると考え、福祉も教育も本来は国が負担すべきが望ましいとお考えなら、壊憲4党に投票してはならない。農業や漁業の従事者も、中小零細企業家も同じだ。うっかり自公への一票は、自分の首を絞めることとなる。

さらに、仮にあなたがこの格差社会の不合理を身をもって体験している立場にあるなら、あなたの一票は特別な意味を持つ。政治とは、誰の立場にたって政策を進めるかのせめぎあいだ。この社会は利害対立するグループで成り立っている。総じて、強い立場の者と弱い立場の者。強い者は、自分たちが支配する現行の体制を維持し続けようと試み、支配を受けている者がこれに抵抗を試みているのだ。税金のとりかたも使い方も、「強い者・富める者」と「弱い者、貧しき者」との綱引きの結果として決まっている。実は、万人に利益となる政治は幻想であって、どちらの層の利益になるかが、熾烈に争われているのだ。

日本国憲法は、「強い者・富める者」の利益を抑制して、「弱い立場の者、貧しき者」の利益を擁護すべきとする理念を掲げている。飽くまで理念に過ぎない「弱い立場の者、貧しき者」の利益を実現する政治は、選挙によって初めて形づくられる。理念を眠り込ませることなく現実化するのが選挙という機会である。

政治を変えようと切実な声が選挙に結実すれば、医療も教育も、介護も保育も福祉も、すべてを国の負担で行う制度の実現が可能なのだ。格差と貧困を克服する社会の実現は、たとえ時間はかかろうとも、けっして夢物語ではない。その高みに至る道は、陰謀や血なまぐさい暴力によって切り開かれるのではない。あなたのもっている選挙権が唯一の武器だ。言論による説得と、自覚的な一票の積み重ねによって、もっと住みやすい社会を実現できる。アベ政治の継続で利益を得ている者たちに欺されてはならない。

まずは、立憲4党を勝たせることだ。憲法改正を阻止するだけでなく、既に損なわれている憲法の理念を修復して、弱い者に暖かい手を差し伸べる政治を実現しなければならない。壊憲4党に、分けてもアベ自民に投票してはならない。
(2016年7月7日)

間近となった参議院選挙を、憲法擁護の機会として生かすよう訴えます。

ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。少しの時間、耳をお貸しください。

来週の水曜日6月22日が第24回参議院議員選挙の公示日、そして7月10日が投票日です。今回の参院選は、いつにも増して重要な選挙といわねばなりません。とりわけ、憲法の命運にとって決定的な選挙といわざるを得ません。憲法の命運は、この国と国民の命運でもあります。参院選の結果が、この国のあり方を決定づけると言ってけっして大袈裟ではありません。

私たちは、「本郷湯島九条の会」の会員として、憲法擁護という一点から、皆さまに訴えます。今度の選挙では、憲法を守る政党、改憲阻止を公約とする候補者へのご支援をお願いいたします。憲法改正をたくらんでいる自民党にはけっして投票をしてはなりません。それは、99%の市民にとっては、自分の首を絞めることになるからです。自民党と連立与党を作っている公明党への投票も同じこと。そして、自民党への摺り寄りの姿勢を露骨に示している「おおさか維新」にも貴重な一票を投ずることのないよう、心から訴えます。

このたびの参院選で問われているものは、何よりも立憲主義の回復です。安倍政権と、自民・公明の与党は、憲法にもとづく国の運営、憲法にもとづく政治という、近代社会・近代国家の大原則を打ち捨てました。恐るべき憲法破壊の罪状と指摘せざるを得ません。
2014年7月1日、安倍内閣は、集団的自衛権行使を容認する閣議決定を行いました。日本が侵略されていなくとも、親しい国の要請で、海外で武力行使ができるというのです。これまで、歴代の自民党内閣が憲法違反としていたことを、あっさりと合憲としてしまいました。憲法に縛られるのはイヤだ。不都合な憲法の条文は解釈を変えてしまえ、というのです。これが、立憲主義の放棄。そして、戦争法を上程して成立を強行したことは、記憶に新しいところ。
戦争法を廃止して、立憲主義を取り戻す、これが今回参院選の課題です。

次に、明文改憲阻止という課題があります。今度の選挙は、安倍自民党の憲法改正の姿勢に、国民のノーを突きつける選挙です。
自民党は、2016年参院選の政策パンフレットを作成しています。26頁に及ぶ政策の最後の最後、26ページ目のおしまいに、「国民合意の上に憲法改正」とわずか10行が掲載されています。意味のある文章はわずか3行「衆議院・参議院の憲法審査会における議論を進め、各党との連携を図り、あわせて国民の合意形成に努め、憲法改正を目指します」とだけ言っています。まるで、積極的な改憲の意図はないごとくではありませんか。
しかし、これはウソです。これまでの政権の言動から見て、明らかに改憲の意図を隠した、有権者騙しの戦術といわねばなりません。嘘つきの安倍政権に欺されてはなりません。

第2次安倍政権が発足以来、今度が3度目の国政選挙になります。2013年7月の前回参院選では、安倍政権は、まだボロの出ていなかったアベノミクスの「三本の矢」の成果を強調して、自民党が大勝しました。選挙に勝って政権は何をしたか。言論の自由を踏みにじる特定秘密保護法だったではありませんか。2014年末の衆院選では、政権は「景気回復、この道しかない」とアピールして、選挙では勝ちました。そのあとに待っていたのが、戦争法の上程と数にものを言わせた成立の強行ではありませんか。
選挙の争点になるのを意識的に避けながら、安保政策を大転換させる布石を打ってきたといっていい。
国論を二分する重要な憲法上の課題を、選挙前にきちんと説明することなく、議席を掠めとったあとで、本当にやりたいことをやってのける。こうして、日本の有権者は2度欺されました。3度欺されてはなりません。自民党や公明党に、選挙で勝たせてはならないのです。

今度の選挙は、自民党は破綻したアベノミクスを取り繕って、経済政策を争う選挙としています。しかし、選挙結果が、自民・公明の与党と、与党摺り寄りの「おおさか維新」を合わせて、参院の改憲発議に必要な3分の2以上の議席を確保すれば、安倍政権は一路憲法改正に邁進することになります。そのようなことを許してはなりません。

昨年の戦争法反対の国民運動の盛り上がりの中で、危険な安倍政権に対抗するために、市民から「野党は共闘」の声があがりました。今、多くの市民の声が後押しして、参院選での野党共闘が実現しつつあります。

立憲主義を投げ捨て、さらには明文改憲をたくらむ政権与党と、これに対抗して立憲主義と民主義を取り戻し、改憲を阻止しようという野党共闘の対決の構図が明確になっています。選挙の勝敗を決めるのは、32ある一人区。その一人区の全部で安倍改憲を許さない立場で一致した、民進・共産・社民・生活の4野党が、統一候補者を決めました。与党と野党は、改憲をめぐる土俵の上で、がっぷり四つに組んだのです。

「憲法改正の必要はない」というのが、今やあらゆる世論調査で圧倒的な国民の声となっています。自公の改憲路線は、けっして世論が支持しているわけではありません。しかし、これまでは、野党がバラバラで自公連合に個別撃破を許してきたということです。今度は、一人区の全部で共闘ができたのですから、けっして前回参院選のように自公の大勝とはなりません。

今回参院選では、初めて18歳からの有権者が参加した選挙になります。文部科学省と総務省が作成した選挙を考えるための副教材が全高校生に配布されているということです。そこには、「民主政治とは話し合いの政治であり、最終的には多数決で合意を形成する」としながら、「ただし、多数決が有効に生かされるためには、多様な意見が出し尽くされ、少数意見が正しいものであれば、できるだけ吸収するというものでなければなりません」と記されていることが話題になっています。数の暴力は民主主義とは無縁なもの。議席を与えれば、少数意見を圧殺し改憲を強行する安倍自民と与党ではありませんか。ぜひとも、憲法の擁護につながる野党の側にご支持をお願いいたします。そのことが、立憲主義・民主主義を取り戻し、平和と生活を守ることになるのですから。
(2016年6月13日)

サミットでの伊勢神宮「訪問」に抗議する-公式行事に宗教施設を利用してはならない。

本日(5月26日)から伊勢志摩サミット。最初の公式日程が参加首脳らの伊勢神宮「訪問」で始まった。これは官邸の強い意向で実現されたものと報道されている。

ダメだよ、アベ君。またまた、キミの憲法違反だ。キミの思惑は、アベ流改憲運動への神社界や右翼連中へのサービスなのだろうが、勇み足として済ますには、ことが重大に過ぎる。キミは、憲法の何たるかをまったく分かっていない。キミが日本の首相であることを恥ずかしい限りだと思っていたが、この頃はこんなキミが政治を牛耳っているこの国の行く末が恐ろしい。

キミが憲法を分かっていないという大きな理由を二つあげておこう。
まず、憲法とは、権力を制約するものだ。「縛る」もの、と言ってもよい。キミは、憲法に縛られていることを自覚しなければならない。キミは憲法が許容することしかできない。その枠を越えて憲法が禁じていることは、してはならないのだ。キミは憲法の命じるところを謙虚に見定め、よく心得、憲法にしたがった行政を行わなくてはならない。これが、立憲主義というものだ。

ところが、キミは「自分のしたいことをして何が悪い」と開き直ってしまう。サミットの行事を神宮で始めたことについては、おそらくキミは単純にこう考えているのだろう。
「自分は間接的にではあるが、国民の信任を受けて権力の座にある。国民多数の意思が私を信任しているのだから、私が私のやりたいように政治を行うことが民意を反映することで、これこそが民主主義だ。」

キミは、自分の思いと憲法の定めとに齟齬が生じるとなると、憲法の方が間違っている。だから憲法の解釈を変えよう、となる。憲法に縛られるのはイヤだ。むしろ自分の方が憲法を縛り、憲法には遠慮させようという姿勢があまりに露骨なのだ。

神宮は宗教施設である。サミットは政府の公的行事である。ならば、サミットの行事に伊勢神宮「訪問」を組み込むことが、憲法の重要原則である政教分離に抵触することを恐れなければならない。憲法を尊重しようという姿勢が少しでもあれば、神宮でサミット・スタートは考えられるところではない。憲法を無視し、できれば変えたいと考えているキミだからこそ、敢えて政教分離に挑戦という姿勢なのだ。

次に、政教分離原則違反である。
アベ君、キミも法学部の出身だというではないか。伊勢志摩は、津にほど近い。伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、と謡われた津だ。その津で地鎮祭訴訟が争われたくらいのことはご存じだろう。津市の体育館起工に際しての地鎮祭で7000円ほどの神職への謝礼と供物料の支出が政教分離に反するとして争われた憲法訴訟。控訴審の名古屋高裁判決は、違憲の判断をして、市長に対して「市に謝礼相当分を賠償金として支払え」という歴史に残る名判決として知られる。この判決は、最高裁大法廷(1977年)で逆転するが、違憲派5人対合憲派10人の分布であった。

その後、愛媛玉串料訴訟大法廷判決(1997年)は、愛媛県から靖国神社への玉串料奉納を違憲と断じることになる。そのときの意見分布は、違憲13対合憲2の大差となった。

津地鎮祭訴訟では、津市と地元の神社との地鎮祭における関わりが問題とされた。愛媛玉串料訴訟では、愛媛県と靖国神社との玉串料奉納という形での結びつきが問題となった。そして、今回の伊勢志摩サミットでは、国と伊勢神宮との有力各国首脳を招いての外交舞台としての利用における関わりが問題となっている。

伊勢神宮とは国家神道の本宗である。国家神道とは、天皇を神格化する教説である。神格化は、天皇を権威付ける手段であった。旧明治憲法体系は、社会を序列化してその頂点に天皇を置き、これを政治支配の道具とした。権威主義的な社会的秩序形成の要石ともしたと言ってよい。

洋の東西を問わず、武力で権力を築いた勢力は、安定した権力構造を維持するために、自らの権力を正当化する神話を拵え上げた。3000年前、4000年前に、エジプトやメソポタミア、あるいは黄河流域に勃興した権力が皆そうであった。この前例を真似て、明治政府は8世紀に作られた神話を素材に天皇を神の直系とした。

その神話上の天皇の祖先神を祀る施設が伊勢神宮である。地上の人間序列を合理化するために、神々の序列が作られた。八百万の神々の中に天つ神の一群があり、その天つ神の最高神がアマテラスである。伊勢神宮はこれを主祭神とする。

政教分離とは、形式上は国家(政)と宗教一般(教)の癒着を禁止する憲法原則である。しかし、日本国憲法は明らかに、国家神道の復活を封じることを主眼としている。かつて、神なる天皇の存在が、原理的に反民主々義であり、軍国日本の暴走の主因となったからである。

だから、アベ君。「首脳らは、内宮の御正殿で御垣内参拝をし、『二拝二拍手一拝』の宗教的作法は求めず、あくまで自由に拝礼してもらう形を採った。」から問題がない、などと言ってはいけない。参拝を訪問というのは、退却を転進というが如しだ。「自由な拝礼」も、そこが宗教施設であればこそ成立する。

キミは、天皇の祖先神を祀る、国家神道の本宗に世界の主要国首脳を集めて、特定の宗教と国家との特別な関わりを演出したのだ。これは、最高裁がいう目的効果基準からは、国家と特定の宗教団体(伊勢神宮)との関わりあいが、相当とされる限度を超えると判断されることになるだろう。

そのことは、戦後レジームからの脱却をスローガンとするキミの仲間や、神社界の人びとや、天皇大好きな右翼諸君には大歓迎なのだろうが、憲法はけっしてこれを許してはいないことを知るべきなのだ。

えっ? アベ君、なんと言った? 「細かいことを言いなさんな」と? そのキミの態度が憲法軽視なのだ。政教分離原則は、国民主権原理確立のために天皇の神格化を否定したものというべきで、日本国憲法の全体を貫く根本理念なのだ。これを細かいことというキミの姿勢こそが徹底して批判されなければならない。

えっ? 「多くのマスコミが問題にしてないじゃないか」「世論調査をすれば、神宮訪問支持派が多数となるだろう」だと?
だから、キミはダメなんだ。確立された憲法原則は、多数決原理によって歪曲されてはならない。メディアがどう言おうと、世論調査の結果がどうであろうと、憲法原則を曲げることはできない。むしろ、国民の圧倒的多数が支持しても権力は違憲な行為をしてはならないというところにこそ、憲法の真骨頂がある。

こんなことも分からないキミが日本の首相なのだから、やっぱり恥かしい。そして、やっぱり恐ろしいのだ。
(2016年5月26日)

野党選挙共闘に期待する―「改憲阻止絶対防衛圏」を守り抜くため

各紙の「野党 参院選全1人区で候補一本化」との見出しが目にまぶしい。
香川選挙区で民進党が擁立を断念し、共産党の候補予定者への一本化が決定。これを受けて共産党は近く、民進党と調整中の三重、佐賀で公認候補を取り下げる方向だという。これで事実上、今夏の参院選「1人区」(32選挙区)すべてで、民進・共産・社民・生活4党による候補者一本化実現となった。

各選挙区の候補者と所属は以下のとおりである。
 青森   田名部匡代   民・新
 岩手   木戸口英司   無・新
 宮城   桜井 充     民・現
 秋田   松浦大悟    民・前
 山形   舟山康江    無・前
 福島   増子輝彦    民・現
 新潟   森ゆう子    無・前
 富山   道用悦子    無・新
 石川   柴田未来    無・新
 福井   横山龍寛    無・新
 山梨   宮沢由佳    民・新
 長野   杉尾秀哉    民・新
 栃木   田野辺隆男   無・新
 群馬   堀越啓仁    民・新
 岐阜   小見山幸治   民・現
 三重   芝博一      民・現 
 滋賀   林久美子    民・現
 奈良   前川清成    民・現
 和歌山  由良登信    無・新
 鳥取島根 福島浩彦   無・新
 岡山   黒石健太郎   民・新
 山口   纐纈 厚     無・新 
 徳島高知  大西聡    無・新 
 香川   田辺健一    共・新
 愛媛   永江孝子    無・新
 長崎   西岡秀子    民・新
 佐賀   中村哲治    民・元
 熊本   阿部広美    無・新
 大分   足立信也    民・現
 宮崎   読谷山洋司   無・新
 鹿児島 下町和三     無・新
 沖縄   伊波洋一    無・新

これまで相争う関係にあった各党の候補者調整である。困難が大きいのは当然のこと。「岡田克也(民進党)代表は20日の会見で、香川について『共産党との関係は現時点で白紙だ』と述べた。共産党の候補予定者を民進党が推薦する可能性は低く、正式な協力態勢が整った石川や熊本などとは温度差がある」(毎日)と報じられている。各党がこぞって、統一候補を推薦というきれいな図を描くには至っていない。

それでも、全一人区で与野党一騎打ちの構図になる。この意義は大きい。「改憲か、その阻止か」という対抗軸が明瞭になるからだ。いくつかの選挙区では、野党共闘の成果としての議席の獲得が現実化するだろう。その新たな獲得議席が、明文改憲を阻止し、解釈改憲も是正する貴重な存在となるだろう。

明文改憲の阻止と戦争法廃止の両者を統一するスローガンが、「日本の政治に立憲主義を取り戻そう」である。日本国憲法の存在を前提として、いま、安倍政権の、反憲法的政治姿勢は目に余る。憲法が政権を縛り政権の方向を定めているのに、政権はこれを嫌って、憲法をねじ曲げようとしている。あまつさえ、憲法そのものを書き換えようとしている。このアベ政権の姿勢を「立憲主義に反する」と批判し、「立憲主義を取り戻せ」とスローガンを掲げているのだ。

憲法擁護義務を無視した安倍政権は、強引に憲法9条の解釈を変えて戦争法の成立を強行し、それでも足りずに、明文改憲を狙っている。政権の目指す憲法が、「自民党改憲草案にあることは自民党の広言するところ。これまで国民が共通の認識としてきた憲法価値である、平和・人権・民主主義の擁護が「立憲主義を取り戻せ」のスローガンに包含されている。表現の自由も、福祉も、労働も、歴史認識も、その具体的課題となる。

参院選での野党共闘態勢の構築は、正式な共闘成立公表とともに、メディアの大きな話題となるだろう。また、今後に大きな影響を与えることにもなるだろう。まずは、5月27日告示6月5日投開票の沖縄県議選を励ますことになり、衆院選の小選挙区共闘を促すことになるだろう。

今回参院選の統一候補の内訳が、「政党公認16、無所属16」である。政党公認16のうち、「民進15、共産1」というのが、現実的な落としどころなのだろう。このように現実化した参院1人区共闘が、総選挙でできないはずはない。世論が求め、そうしなければ勝てないという現実があるからだ。しかも、ここで「各院の3分の1」という「絶対防衛圏」を破られては、後戻りできない禍根を残すことになるではないか。

参院とは対照的に、衆院の野党共闘協議は進んでいないのが実態。民進党の態度が消極的だといわれてきた。しかし、「国会会期末が迫るなか、野党内には首相が参院選に合わせて衆院解散に打って出るとの警戒感が高まり、民進も態度を変えた。」「民進の岡田代表は、『衆参ダブル選挙の可能性もかなり高い。幹事長レベルでよく話し合っていく』と述べ、衆院小選挙区での候補者調整を急ぐ考えを示した。21日には愛媛県新居浜市で記者団に『特に一本化すれば勝てる可能性があるところは、一本化の努力はすべきだ』と述べた」「仮に衆参同日選となれば調整に残された時間は少なく、選挙協力がどこまで進むかは不透明だ。民進幹部は『いざとなったら「えいや」でやるしかない』と語る」(朝日)と報じられている。

ことは、憲法の命運に関わる。憲法の命運とは、国民の権利と自由と平和の命運にほかならない。「野党は共闘」「野党は真剣に共闘に取り組め」と声を上げ続けねばならないと思う。
(2016年5月22日)

「壊憲か、活憲か」(ロゴス社)購読のお願い

村岡到さんが主宰するロゴス社が、「ブックレット・ロゴス」というシリーズを出している。
  http://logos-ui.org/index.html
このほど、そのNo.12として、「壊憲か、活憲か」が刊行された。村岡到編で、村岡到・澤藤統一郎・西川伸一・鈴木富雄の共著。

「壊憲か、活憲か」のタイトルについて、冒頭に村岡さんが次のように書いている。なかなかに面白く読ませる。

「硬い内容にならざるをえないので、最初は言葉のクイズから始めよう。
 憲法の「憲」の付く熟語をいくつ知っていますか? 誰もが知っているのは、賛否は別にして「護憲」だろう。「憲法を守る」を二文字にすれば「守憲」となるが、「主権」と同音なので、「護る」を選んだのであろう。
 その対極に「改憲」があると思われている。だが、いわば「左からの改憲」もあり得るので、「護憲」の対極は「壊憲」のほうが分かりやすい。「違憲」は、憲法に違反していることを意味する。「違憲立法審査権」は法律用語である。「違憲」の反対は「合憲」。公明党は「加憲」と主張している。
 近年は「立憲主義」が流行り言葉になっている。「活憲」=「憲法を活かす」も浮上しつつある。「婚活」になぞらえて「憲活」という人もいる(杜民党の吉田忠智党首)。「創憲」を見ることもあるが、「送検」されることを好む人はいない。憲兵はもういないが、憲政記念館はある。
 今や国会議員がわずか5人となった社民党の前身である社会党は最盛期には250人も議員がいたが、1996年に解党するまで自他ともに「護憲の社会党」と称していた。そのころは、日本共産党はけっして「護憲」とは言わなかった。社会党が解党した後、共産党は「護憲」と言うようになった。だが、「活憲」は好まないようである。だから、ほとんどの場合に「憲法を生かす」と表記する。「生かす」だと「生憲」となるが、これでは「政権」と紛らわしいから、こう書く人はいない。「制憲」の2文字はほとんど使われないが「制憲会議」はある。
 しかし、共産党系の運動でも「活かす」が使われることがある
。…以下略。」

前書きに記された問題意識は、以下のとおりである。
「戦争法は施行されたが、市民による戦争法廃止の闘いは依然として全国で大きな規模で展開されている。そこでは『立憲主義』が強調されている。だが、この言葉は、少し前まではほとんど使われていなかった。憲法について真正面から考え、自らの生活や活動のなかで活かす努力は不十分だったのではないか。この反省のなかから、私は、『壊憲か、活憲か』を基軸として、憲法について明らかにしなければならないと考えるようになった。
 すでに自民党の『日本国憲法改正草案』に対しては、多くの批判が提出されている。このブックレットでは、それらとは異なる角度から問題を提起する。
 この小さな本は、この危険な壊憲策動に対して、憲法はなぜ大切なのか(村岡到論文)、岩手靖国訴訟を例にした訴訟を手段として憲法を活かす活動(澤藤統一郎論文)、自民党は立党いらい『改憲』を一貫して掲げていたのか(西川伸一論文)、さらに今から140年以上も前の明治維新の時代に千葉卓三郎によって書かれていた憲法草案の先駆性(鈴木富雄論文)について明らかにする。
 ぜひとも、一読のうえ検討とご批判を切望する。」

面白そう。続きを読んでみたいと思われる方は、下記にご注文を。
2016年5月3日刊行で、四六判128頁、価格は1100円+税。

ロゴス〒113-0033東京都文京区本郷2-6-11-301
  tel  03-5840-8525
  fax 03-5840-8544

ついでに、私の執筆部分もお読みいただけたらありがたい。
目次は以下のとおり

まえがき
〈友愛〉を基軸に活憲を  村岡 到
  はじめに 〈活憲〉の広がり
  第1節 〈活憲〉の意味
  第2節 憲法の意義
  第3節 憲法や「市民」を軽視してきた左翼
  第4節 共産党の憲法認識の揺れ、確たる転換を
  第5節 「立憲主義」用語の曖昧さ
  第6節 〈友愛〉の定立を
  つなぎに

訴訟を手段として「憲法を活かす」
 ──岩手靖国訴訟を振り返って  澤藤統一郎
  はじめに
  「憲法を活かす」ことの意味
  岩手靖国訴訟の発端
  「政教分離」の本旨とは
  靖国問題とは何なのか
  岩手靖国訴訟──何をどう争ったのか
  原告らの法廷陳述から
  最低最悪の一審判決 
  勝ち取った控訴審での違憲判断
  安倍政権下特有の靖国問題
  「活憲」運動としての憲法訴訟
  おわりに

自民党は改憲政党だったのか
 ──「不都合な真実」を明らかにする  西川伸一
  はじめに
  第1節 党史にはどう書かれてきたのか
  第2節 綱領的文書にはどう書かれてきたのか
  第3節 自民党首相は国会演説でどう発言してきたのか
  むすび

日本国憲法の源流・五日市憲法草案  鈴木富雄
  第1節 五日市憲法草案の先駆的中身
  第2節 五日市憲法草案が発見された経過
  第3節 起草者・千葉卓三郎
  第4節 五日市の気風と五日市学芸講談会
  第5節 GHQが憲法原案作成に着手した背景
  第6節 「五日市憲法草案の会」の活動
  あとがき


著者紹介
村岡 到 季刊『フラタニティ』編集長
澤藤統一郎 弁護士
西川伸一 明治大学教授
鈴木富雄 五日市憲法草案の会事務局長

そして、小著には過分の出版記念討論会が予定されている。
 と き  2016年9月3日(土)午後1時30分
 ところ  明治大学リバティタワー6F(1064教室)
 報 告  村岡 到 澤藤統一郎 西川伸一 鈴木富雄
 司 会  平岡 厚
 参加費  700円

以上、伏してお願い申し上げます。
(2016年5月13日)

「文明社会とは価値観を共有し得ない」櫻井よしこの改憲論

日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、翌47年5月3日に施行となった。本日は69回目の日本国憲法施行の記念日である。

かつては、政府が憲法記念の祝賀行事を主催した。いま政府の祝賀行事は皆無である。昨今はそれどころではない。憲法擁護義務を負う首相自身が「憲法改正」への積極意欲を口にしてはばからない。政府・与党による憲法と立憲主義攻撃の中で、緊張した雰囲気に包まれた憲法記念日となっている。

日本国憲法は保守政権にとっての厄介者である。アベ政権に至っては天敵扱いである。当然に、この軛から逃れたいという衝動をもっている。

しかし国家権力にとっての憲法とは、常にいやいやながらも従わざるを得ないもの。押しつけられたものだ。戦後連綿と続いてきた保守政権にとって、かつては戦勝国から押しつけられたものではあろうが、いま、アメリカからの憲法遵守要求の圧力はない。代わって国民が、政権に憲法を押しつけている構図となっている。国民の意思や運動が、政権に改憲を許さず、憲法理念の遵守要求圧力となっているのだ。

政権に憲法を押しつけているもの。「むかしGHQ、いま国民」ではないか。日本国憲法は、政権から嫌われたが故に、国民のものになってきたのだ。政権から歓迎される憲法では、存在価値はない。政権から疎まれ、嫌われる憲法であってこそ存在の意味がある。アベ政権から疎まれ、国民から大切にされる憲法。改憲の攻撃を受けつつ、これとせめぎ合い、守り抜く運動の中の憲法。緊張感の中ではあるが、こうして日本国民は日本国憲法を血肉化しているのだと実感する。

69回目の憲法記念日で、政府に代わって憲法攻撃を広言しているのが右翼勢力。

「東京・平河町の砂防会館別館であった改憲派の集会には、約1100人(主催者発表)が出席。有識者でつくる民間憲法臨調と『美しい日本の憲法をつくる国民の会』の共催で、同臨調代表のジャーナリスト、桜井よしこさんは改憲について『緊急事態条項を入れるところから出発するのがよい』と主張した。」(朝日)

その集会に参加した友人から次のメモの報告を受けた。

第18回公開憲法フォーラム・各党に緊急事態に対応する憲法論議を提唱する-すみやかな憲法改正発議の実現を!

まず、櫻井よしこさんの主催者代表挨拶。
国と国民の対立構造はない。
この国には国を縛るルールという考えはない。
3.11で命を救うために動けなかったのは憲法が元凶。
財産権の保障があるから助かる命が救えなかった。
日本らしさ、歴史、伝統、文明、価値観を守るのが憲法。
穏やかで公正な国のあり方。
緊急事態条項から出発しよう

安倍首相のビデオメッセージ
自衛隊が違憲と思われていて遺憾

中曽根康弘氏ビデオメッセージ
厭戦感に対し説得しなければならない

下村博文衆院議員(自民党)
どんな想定外のことでも対応できるように緊急事態条項を作らなければならない

松原仁衆院議員(民進党)
我々が憲法を作ったという事実がない
戦勝国の価値観を受け入れざるを得なかった
憲法の勘違いは近隣に平和を委ねること

江口克彦参院議員(おおさか維新の会)
マッカーサーは日本人は12歳だと言った
12歳の日本人を対象に作った憲法
護憲派は日本人は12歳だと言っているのと同じ
作成された時代で止まっている
法は時代の流れとともに変えていかなければならない
現実に合わない
解釈改憲は時の政権の解釈によることになるのでよくない

中山恭子(日本のこころを大切にする党)
拉致事件などが起きた国にすべてをまかせる、
自分の国を他国の力で守ろうとする甘ったれた国
前文を変えたい

この後緊急事態条項新設の必要性の提言
青年からの意見表明

1000万目標の署名が、5月3日時点で700万筆集まっている。」

メモには、「カルチャーショックでした!」という感想が添えられていた。これが、アベ政権提灯持ちの実態であることを国民は知らねばならない。

櫻井よしこの「あいさつ(要旨)」が産経に紹介されている。そのさわりは、以下のとおり。

「『立憲主義』という言葉に関して、国というものが国民と政府の対立であるかのように捉えられています。しかし、日本国の統治の仕方を振り返ってみるときに、国と国民が対立してきた、そしてその国を縛るための基本ルールが憲法であるというような考え方は、私たちにはなじみません」「憲法を論ずるときに、あたかも政府と国民の対立構造の中でものを考えるのは、間違いであると思います

これには驚いた。およそ、櫻井よしこの頭の中は、「17か条の憲法」のレベルである。あるいは、全体主義国家のイデオロギーで固まっている。思想も表現も自由ではあるが、これでは現代世界の文明国との「価値観の共有」は到底できない。「一番大事なことは、国民の共同体としての国家」と、国家権力と国民との緊張関係をことさらに否定する「思想」は、全体主義や軍事独裁のプロパガンダである。改憲派の本音と危険性を露わにしたことことにおいて、櫻井発言は、まさしく「カルチャーショック!」というべきであろう。

櫻井は、こうも言っている。
「私たちはあの3・11から、何を学んだのでしょうか。十分にお年寄りを助けることができましたでしょうか。体が不自由な人を助け出すことができたでしょうか。…もし、私たちができうることができなかったのであれば、それはなぜだろうかと真剣に考えなければなりません。その問題は憲法に元凶があるのではないでしょうか。緊急の道路を造るのに、荷物、車、がれき、片付けようとしても、現場は戸惑いました。なぜならば、それは憲法で財産権の保障などをしていて、もしかしてこれは憲法に抵触するのではないか。そのような思いを現場の人が現に持ったんです。そのことは、助けることのできる命が助からなかったということをも、意味しています。このようなことを繰り返してはなりません」

恐るべきこじつけの論理、いや非論理というほかはない。この非論理を前提にして、櫻井はこう結論する。

憲法は根本から変えなければなりませんけれども、各政党の最大公約数といってよい緊急事態条項を入れましょうというところから出発するのがよいのではないかと思います。日本国の明るい未来というものを目指して、みんなで頑張って憲法改正を実現していきたいと思います」

これが、本日の改憲派集会の趣旨のようだ。

憲法という存在をどう理解することも、発言することも自由だ。しかし、人類の叡智が長年積み上げてきた思想や経験知の体系に、いささかなりとも敬意があってしかるべきではないか。憲法に関する常識を無視しての、勝手放題の発言に説得力はない。驚くべきは、首相や元首相のメッセージまで寄せられた1000人規模の改憲派集会での主催者代表挨拶の知的レベルがこの程度だということ。

こんなレベルの改憲論だから恐るに足りず、というべきだろうか。それとも、こんなレベルの改憲論が国会内では多数派を形成しているのだから恐るべし、なのだろうか。
(2016年5月3日)

学問の自由を侵す「国旗国歌」包囲網

本日(5月1日)の毎日によると、同紙のアンケート調査で、国立86大学のうち、76大学が今春の式典で国旗を掲揚し、14大学が国歌斉唱を実施したという。

昨年6月下村博文文部科学相(当時)が、すべての学長に入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請して大きな話題となった。下村が政治資金規正法違反の疑惑から事実上更迭された後、その地位を襲った馳浩文新文科相は、意味不明の「恥ずかしい」発言で不見識をさらけ出したが、政権の意向はしっかりと各大学に伝わった。

愚かな政権の愚かな「要請」の効果が注目されたが、毎日の調査では、前年と対応を変えた大学は15大学に及んだという。新たに国旗を掲揚したのが4大学。国歌を斉唱したのが6大学。斉唱まではしないが、国歌の演奏や独唱をプログラムに入れたのが5大学。じわじわと、「日の丸・君が代」包囲網が大学を押し包んでいくような不気味な空気である。政権だけでなく、これに心ならずも屈服した者が包囲網に加わる形となって抵抗者を孤立させていく。幾たびも目にしてきた光景ではないか。

要請に応じた形となった15大学は、いずれもアンケートには「大学として主体的に判断した」と答えたというが、うち6大学は「文科相要請が学内議論のきっかけになった」と認めているという。

国立大学は結束しなければならない。文科省に擦り寄る大学の存在を許せば、当然に差別的な取り扱いを憂慮しなければならないことになる。大学が真理追究の場ではなくなる虞が生じ、世人の信頼を失うことにならざるを得ない。

愚かな政権の愚かな「要請」は、本来逆効果を生じなければならない。これまで式典に国旗国歌を持ち込んでいた大学も、「文科省に擦り寄る姿勢と誤解されてはならない」「大学の自治に介入する文科省に抗議の意を表明する」として、国旗も国歌も式からなくする見識が欲しい。「文科相要請が学内議論のきっかけ」となって、国旗を掲揚したり国歌を斉唱したり、とは情けない。

大学とは、学問の場であり、学問の成果を教授する場でもある。学問とは真理の追究であって、大学人には、何ものにもとらわれずに自由に真理を追究しこれを教授すべきことが期待されている。言うまでなく、この自由の最大の障壁が権力である。学問の自由とは権力に不都合な真理を追究する自由であり、教授の自由とは時の権力が嫌う教育を行う自由にほかならない。

国立大学とは、国家が国費を投じて真理追究の自由と教育の環境を保障した場である。国家は学問と教育の両面に及ぶ自由を確保すべき義務を遵守するが、学問や教育の内容に立ち入ってはならない。そのような環境があって初めて、学問は進歩し承継され、学生も育つことになる。こうして、学問は時の政権からの介入や、奉仕の要請から遮断されることで、高次のレベルで国民の期待に応えることになる。

時の政権による教育内容に対する介入は、学問の自由・大学の自治を侵すものとして違憲・違法と言わざるを得ない。アベ政治の反憲法的な姿勢の一端がここにも露呈しているのだ。

この国立大学での国旗国歌問題の発端は、昨年(2015年)4月参院予算委員会における首相答弁だった。「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとって、正しく実施されるべきではないか」というもの。

知性に欠けるということは恐ろしい。恐ろしい反面の強みでもある。反知性の首相であればこそ、臆面もなく恥ずかしさも知らず、堂々とこんな短絡した「論理」をのたまうことができるのだ。憲法も、歴史の教訓もまったく無視して、である。

このアベ発言を、盟友下村が受けた。同年6月には、国立大学長を集めた会議で「国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」との要請となり、後任の馳浩文は本年2月、岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対し、「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」などと述べている。教育行政を司る部門の責任者の言がこれなのだから、国民の方がまことに恥ずかしい。

国民の精神的自由を保障するために、けっして権力が介入してはならないいくつかの分野がある。まずは教育であり、次いでメディアであり、そして宗教であり、さらに司法である。

教育の自由の中核をなすものは、憲法23条が保障する学問の自由と大学の自治である。また、メディアの自由は憲法21条が保障するところ。これによって、国民の知る権利が充足されることになる。信仰の自由や政教分離は憲法20条が保障している。裁判官の独立は行政権力からも社会的圧力からも守られなければならない。そして法曹が権力の僕であってはならない。特に弁護士は在野に徹しければならない。この各分野すべてが、濃淡の差こそあれ攻撃の対象とされている。

アベ政権は、国家主義や歴史修正主義の立場から、憲法改正に急である。国民の精神的自由保障に対する各分野への攻撃は、それ自身が政権の目的であるとともに、改憲への強力な手段でもある。国立大学での国旗国歌は、政権の策動を象徴するテーマとなっている。これを成功させてはならない。
(2016年5月1日)

えっ? アベが「在任中に改憲」だって?

昨日(3月2日)の「首相の改憲意欲発言」が各紙に大きく報道されている。参院予算委員会での答弁に際してのもの。安倍が何を口にしたかもさることながら、「安倍首相『改憲、在任中に』」と各紙が揃って報じたことが、実は大きなニュースとしてインパクトのあることなのだ。

たとえば朝日。「18年9月までを念頭」として、「安倍晋三首相は2日の参院予算委員会で、憲法改正について『私の在任中に成し遂げたいと考えている』と述べ、強い意欲を示した。夏の参院選で改憲勢力が3分の2を確保し、2018年9月までの自民党総裁任期を念頭に国会発議と国民投票による実現をめざす考えを示したものだ。」

たとえば毎日新聞。「『在任中改憲』首相表明」「参院選争点化確実」「衆院と同日選も視野」と見出しを打った。これだけで、政局へのインパクトは大きい。

もちろん、各紙とも「首相は同時に『我が党だけで(発議に必要な)3分の2を(衆参で)それぞれ獲得することは不可能に近い。与党、さらに他の党の協力もいただかなければ難しい』とも語り、改憲に向けたハードルが高いとの認識も示した。」との報道もしている。が、こちらは飽くまで付け足しでしかない。刺身のつまほどの存在感もない。改憲のスケジュールについて、「在任中」すなわち、「2018年9月まで」と期限を切ったことが、重要なのだ。

毎日は、年頭以来の安倍改憲発言を次のようにまとめている。
1月4日 「憲法改正はこれまで同様、参院選でしっかり訴えていく。訴えを通じて国民的な議論を深めていきたい」(年頭記者会見)

1月10日 「与党だけで(致憲発議に必要な衆参各院の)3分の2は難しい。おおさか維新もそうだが改憲に前向きな党もある。改憲を考えている責任感の強い人たちと3分の2を構成していきたい」(NHK番組、収録は9日)

1月21日 「いよいよ、どの条項を改正すべきかという現実的な段階に移ってきた。新しい時代にふさわしい憲法のあり方について、国民的な議論、理解が深まるよう努めたい」(参院決算委員会)

3月1日「(自民党の憲法改正)草案には自衛隊を国防軍と位置付ける記述がある。私は自民党総裁だ。草案と私が違うことはあり得ない」(衆院予算委員会)

3月2日「自民党だけではなく、他党の協力もなければ(衆参での3分の2の獲得は)難しい。私も在任中に成し遂げたいと考えているが、そういう状況がなければ不可能だろう」(参院予算委員会)

アベ発言をこう並べてみると、なるほど、彼の改憲への執念の緊迫度を感じざるをえない。やる気満々なのである。

とはいえ、必ずしも成算あってのものとは考えにくい。今、あらゆる世論調査が、「改憲ノー」の回答を示しているではないか。「任期中改憲」の発言は、安倍晋三の焦りの表れと言わざるを得ない。

しかし、焦りであろうと、成算なかろうと、無鉄砲アベは、猪突猛進する可能性が高い。7月参院選は重い闘いとなる。これからは、衆参両院の憲法審査会が議論の舞台となる。ここから目が離せなくない。
  衆議院憲法審査会
   http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/index.htm
  参議院憲法審査会
   http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/

明文改憲阻止の闘いがもう始まっている。その緒戦の参院選では、自民と公明、そしておおさか維新を加えた改憲勢力に議席を与えてはならない。選挙の結果が憲法の命運を決める。憲法の命運は国民の生存と平和に関わる。

なお、アベ政権が狙う最初の改憲項目は、緊急事態条項からと言われている。緊急事態条項を憲法に新設しようという改憲勢力のたくらみを、深く学ぼう。この分野であれば水島朝穂さん。本日(3月3日)の赤旗に水島さんのレクチャーが出ている。読み応え十分だ。そして下記の本格的なブログの記事も。
       http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0125.html
これを学んで自分のものとし、周囲に訴えようではないか。
(2016年3月3日) 

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