澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

中国の人権状況を憂うる

「中国 人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決」のニュースには、暗澹とせざるを得ない。中国よ、革命の理想はどこに追いやったのか。人権も民主主義も法の支配も捨て去ったというのか。野蛮の烙印を甘受しようというのか。

弱者の権利を擁護するために法があり、適正な法の執行のために司法制度がある。脆弱な国民の人権を擁護するために、司法の場で法を活用するのが本来の弁護士の役割である。「人権派」弁護士こそが、本物の弁護士である。

権力に屈せず、カネで転ばぬ「人権派」弁護士は、権力にとっても、体制内で甘い汁を吸っている経済的強者にとっても目障りな存在である。しかし、文明社会の約束事として、法の支配も人権派を含めた弁護士の存在も受け入れざるを得ない。

この文明社会の約束事を放擲して弁護士を弾圧すれば、野蛮の烙印を甘受しなければならない。野蛮極まる天皇制政府は、それをした。治安維持法違反で起訴された共産党員を弁護した良心的弁護士を、治安維持法違反(目的遂行寄与罪)で集団として逮捕し起訴して有罪とした。有罪となった弁護士は資格を剥奪されたが、残念なことに、時の弁護士会はこれに抗議をしなかった。

今、中国でリアルタイムに同じことが起こっている。人権保障のための最低限に必要な、法廷の公開や弁護権の保障もなされていない。

BBCの下記の記事が、怒りをもって事態をよく伝えている。

中国、人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決  国家政権転覆罪で
https://www.bbc.com/japanese/47025148

中国・天津の裁判所は28日、人権派弁護士の王全璋氏(42)に国家政権転覆罪で4年6カ月の実刑判決を言い渡した。王氏は政治活動家や土地接収の被害者、政府が禁止している気功集団「法輪功」の信者を弁護していた。
2015年に中国政府が何百人もの弁護士や活動家を弾圧した際に逮捕されたが、昨年12月まで裁判が行われていなかった。
中国はここ数年、人権派弁護士の取り締まりを加速させている。
裁判所は王氏を国家政権転覆罪で有罪とし、「4年6カ月の禁錮刑のほか、5年間の政治的権利のはく奪」を言い渡した。
裁判は非公開で行われ、ジャーナリストや外国の外交官なども裁判所への立ち入りを禁止された。

「国連の恣意的勾留に関する作業部会では、王氏の勾留を恣意的なものと認定した。つまり国際法上では、王氏はまず起訴されるべきではなく、よってどんな判決も受けてはならないことになる」
また、人権団体アムネスティ・インターナショナルはこの裁判を「いかさま」と呼び、判決は「非常に不公正なものだ」と批判した。
アムネスティの中国研究員ドリアン・ラウ氏は「王全璋氏中国で、人権のために平和的に立ち上がったことで罰せられるのは許しがたい」と述べている。
2015年7月9日に起きたことから「709事件」と呼ばれている中国政府による弁護士弾圧は、習近平国家主席の政権下で反体制に対する不寛容が広がってきた兆候だと活動家たちは見ている。709事件では200人以上が拘束され、多くが懲役刑や執行猶予、禁錮刑などを科せられている。」

その記事の最後を締め括る、次の指摘には、背筋が寒くなる。

北京で取材するBBCのジョン・サドワース記者は、弁護士が今回有罪になったのは、共産党が支配する司法制度に中国の法律そのものを使って対抗しようとしたからだと指摘する。
「共産党は近年、態度を明示してきた。立憲主義や司法の独立といった概念は、危険な西洋式理想なのだという立場だ」、今回の判決も「ぞっとするようなその主張を補強するためのものだ」と解説している。

この解説は恐い。世界の経済大国であり軍事大国でもある中国が、文明とは隔絶した恐怖国家となるかも知れないというのだ。既に中国では、人権や、人権擁護のための立憲主義や権力分立、司法の独立などを無視した、むき出しの権力が暴走している。中国国内での批判が困難であれば、国際世論が批判しなければならない。我々も、できるだけのことをしなければならない。
(2019年1月31日)

祝! 「非核市民宣言運動・ヨコスカ」に神奈川県弁護士会人権賞

毎月、 「非核市民宣言運動・ヨコスカ」から、「たより」が届く。24頁建の立派なもの。やっていることは米軍や自衛隊との対決なのだから深刻なはずなのだが、ゆるーい運動のセンスが、素晴らしい。

本日(1月24日)届いた「たより」が、実は12月号のようだ。まずは「いずも」空母化決定への抗議行動の記事。抗議のヨットと較べて、「いずも」の巨大さに目を瞠る。いかにも、市民手作りの運動なのだ。そして、9頁のお知らせを見て驚いた。

突然のお知らせですが、このたび「非核市民宣言運動・ヨコスカ」は、第23回神奈川県弁護士会人権賞をいただくことになりました。ご支援いただいているすべての皆様に、謹んでご報告致します。

受賞理由

1972年に米空母ミッドウェイが横須賀港を母港としたことを契機に発足し、基地のない町を作ろうと、平和の声を上げ続けてきた。「糾弾より対話」をモットーに、敵を作らない地道な活動を続け、1976年2月に始まった月例デモは、2017年に500回に達した。基地問題を解説したブックレットの発行や自衛官の人権問題にも取り組んでいる。

「地道な運動」は続けてきましたが、なにかをなし得たと言えるものはほとんどなく、「人権賞」受賞にふさわしいか、とまどいもあるのですが、小さな運動への励ましと受け止め、贈呈式に望みたいと思います。なにより、反基地運動を、人権という視点から見ていただけたことを、たいへんうれしく思います。 安保関連法成立後の横須賀は、米艦防護、米イージス艦への給油等、関連法発令の現場であり、海上自衛隊施設の増強等の課題が目白押しです。「人権賞」に背中を押してもらいながら、地域の皆さんとともに、対話を重ね、平和構築の歩みを続けていきたいと思います。

神奈川県弁護士会のホームページにはこうある。

2019年2月3日(日)に開催される『人権シンポ in かながわ2019』において贈呈式を行います。当日は受賞者から受賞のお言葉をいただく予定です。贈呈式は12時45分から横浜開港記念会館講堂で行いますので、ぜひご参加下さい。

神奈川県弁護士会人権賞とは

当会は、横浜市緑区で発生した米軍機墜落事故訴訟弁護団からの寄付をきっかけに、平成4年3月に人権救済基金を設立しました。その有意義な使途のひとつとして、人権擁護の分野で優れた活動をした個人、団体を表彰することにより、人権擁護の輪を広げ、人権の更なる発展と定着に寄与したいと考え、平成8年に人権賞を創設いたしました。

表彰の対象としている活動は、次のような人権擁護活動をされたものです。

人権の侵害に対する救済活動
人権思想の普及・確立のための活動
その他、人権擁護のための活動

憲法が定める様々な基本的人権の擁護、確立のための活動、特に高齢者・障がい者・子ども・外国人・刑事被告人・被疑者・犯罪被害者等の人権に関する問題、両性の平等に関する問題、消費者問題、公害環境問題、労働問題、平和問題等の人権課題など、人権の保障がまだ十分でない状態にある人たちの人権の擁護・確立のための諸活動を行い、優れた功績を挙げた民間の個人、グループ、団体に賞を贈っております。

今年(2019年)の神奈川県弁護士会人権賞 受賞決定者は2名。
もうひとりは、西野博之さん。不登校児童の問題が社会に提起され始めた頃から、子ども達の居場所作りに献身的に取り組み、生きづらさを抱える若者達、様々な障がいのある人達に、ともに地域で育ち合う場を提供するなどの活動を続けてきた方だという。

非核市民宣言運動・ヨコスカについてはこんな記事もある。

「表彰事項」

「基地の街横須賀で、40年以上持続して平和の声を上げ続けてきた。基地問題をわかりやすく解説した各種ブックレットを発行している(30冊)。自衛官ホットライン、アンケート、裁判支援等、自衛官の人権問題にも取り組んでいる。
「糾弾より対話」をモットーに、「敵を作らない活動」を続けている。

推薦理由

「平和なくして人権なし」平和憲法の理念を守る当団体の活動はまさに人権賞にふさわしいと考える。

「たより」が、「反基地運動を、人権という視点から見ていただけたことを、たいへんうれしく思います。」と言っているのが、印象的である。弁護士会は、当然のごとく、人権課題の例示として平和問題を挙げている。人が平和に暮らすことは人としての権利なのだ。しかも、平和でなくては精神的自由も、経済的権利も成立し得ない。多くの人権をなり立たせるものとしての基礎的な人権。平和的生存権という名称を冠するか否かにかかわらず、平和は人権である。まさしく、「平和なくして人権なし」なのだ。

なお、「たより」は毎月発行。年間定期購読料は郵送料込みで2000円。

なお、「たより」は毎月発行。年間定期購読料は郵送料込みで2000円。
申込先は、下記のとおり。
横須賀市本町3-14 山本ビル2F
電話/FAX 046-825-0157

(2019年1月24日)

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『人権シンポ in かながわ2019』
2月3日(日)
横浜開港記念会館講堂

9:30
映画「新・あつい壁」上映
製作:「新・あつい壁」製作上映実行委員会
監督:中山 節夫
出演:趙 珉和、安藤 一夫、ケーシー高峰
講演 死刑廃止に向けた日弁連の取り組み
講師:小池 振一郎さん(弁護士・第二東京弁護士会)
詳細はこちら

12:45
神奈川県弁護士会人権賞贈呈式
受賞者
西野 博之さん(NPO法人フリースペースたまりば理事長)
非核市民宣言運動・ヨコスカ
14:00
シンポジウム「自衛隊は必要」と考えるあなたへ
~でも、「憲法に明記」はこんなに危険~
講演Ⅰ「憲法に自衛隊を書かないことの意味」
長谷部 恭男さん(早稲田大学法学学術院教授・憲法学)
講演Ⅱ「いま軍隊化する自衛隊」
半田 滋さん(東京新聞論説兼編集委員)

「防衛費の異常な増加に抗議し、教育と社会保障の充実を求める声明」

本日(12月21日)、幾つかの紙面朝刊に、「おや、お久しぶり」。徳岡宏一朗さんのお顔が。日本外国特派員協会での申ヘボン(しん・へぼん)青山学院大教授と並んでの記者会見の写真。

この会見は、「防衛費の異常な増加に抗議し、教育と社会保障への優先的な公的支出を求める声明」という、やや長い標題の声明発表記者会見。いま、防衛大綱が発表され、来年度予算案の閣議決定が話題となっている。誰の目にも、青天井の防衛費によって福祉・教育の予算が圧迫され侵蝕されている構図が明らかとなっている。これを、国際人権の視点から批判したのがこの声明。「研究者・実務家有志一同」による声明だが、18人の呼びかけ人に、220人が賛同した形。私も、18人の呼びかけ人の一人となっている。

この記者会見の報道は、東京新聞が最も大きく紙幅を割いている。「防衛費増大に抗議声明 大学教授ら『人権規約に反する』」という見出し。

 米国製兵器の輸入拡大で防衛費が毎年増加している問題で、申惠ボン(しんへぼん)青山学院大教授(国際人権法)らが20日、東京・丸の内の日本外国特派員協会で会見し「政府が米国などから莫大な額の兵器を買い込む一方で、生活保護費や年金の切り下げ、貧弱な教育予算を放置することは、憲法の平和主義、人権保障だけでなく、国際人権規約に反する」との抗議声明を発表した。

 声明は申さんら18人の大学教員や弁護士が呼び掛け、東京大大学院の高橋哲哉教授(哲学)、小林節慶応大名誉教授(憲法学)、伊藤真弁護士ら約210人が賛同者に名を連ねた。
 声明では、安倍政権は史上最高規模の防衛予算を支出し、その補填として補正予算も使っているのは、憲法の財政民主主義に反すると指摘。「主要先進国で最悪の財政状況にある日本にとって、米国の赤字解消のため借金を重ねて巨額の予算を費やすのは常軌を逸している」と批判している。
 一方で「政府は生活保護費の減額で予算削減を見込んでいるが、米国からの野放図な兵器購入を抑えれば必要なかった」と指摘。「社会保障や適切な生活水準の権利の実現を後退させることは、国際人権規約に反する」とした。

 申さんは会見で「巨額の武器を米国の言い値でローンまで組んで買うのが問題。貧困・格差が広がっており、財政破綻しないように限られた予算をどれだけ防衛費に割くか、真剣に考えないと。中国が軍事力を増やすからと張り合えば、際限のない軍拡競争。十九世紀に逆戻りだ」と話した。 

 徳岡さんは、この声明の独自性を、「財政赤字の中、福祉・教育予算にしわ寄せして、防衛費だけ異常に増大させることは国際人権規約(社会権規約)に違反すると明言した」ところにあると言っている。また、この声明が「なぜ成功したか」というと、「憲法などの法律の専門家だけではなく、国際人権法、社会保障、教育、財政法など様々な専門家と実務家が結集できる内容だったから」とも言っている。人脈は貴重だ。

下記に、やや長いが、声明の全文を掲載しておきたい。呼びかけ人や賛同者たちのの危機感が伝わってくると思う。
(2018年12月21日)
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防衛費の異常な増加に抗議し、教育と社会保障への
優先的な公的支出を求める声明

2018年12月20日 研究者・実務家有志一同

声明の趣旨

世界的にも最悪の水準の債務を抱える中、巨額の兵器購入を続け、他方では生活保護や年金を引き下げ教育への公的支出を怠る日本政府の政策は、憲法と国際人権法に違反し、早急に是正されるべきである。

1.安倍政権は一般予算で史上最高規模の防衛予算を支出しているだけでなく、補填として補正予算も使い、しかも後年度予算(ローン)で米国から巨額の兵器を購入しており、これは日本国憲法の財政民主主義に反する。

2.米国の対日貿易赤字削減をも目的とした米国からの兵器「爆買い」で、国際的にも最悪の状態にある我が国の財政赤字はさらにひっ迫している。

3.他方で、生活保護費や年金の相次ぐ切り下げなど、福祉予算の大幅削減により、国民生活は圧迫され貧困が広がっている。

4.また、学生が多額の借金を負う奨学金問題や大学交付金削減に象徴されるように、我が国の教育予算は先進国の中でも最も貧弱なままである。

5.このように福祉を切り捨て教育予算を削減する一方で、巨額の予算を兵器購入に充てる政策は、憲法の社会権規定に反するだけでなく、国際人権社会権規約にも反する。

以下、具体的に理由を述べる。

1 莫大な防衛費増加と予算の使い込み
現在、安倍政権の下で防衛費は顕著に増加し続け(2013年度から6年連続増加)、2016年度予算からは、本予算単独でも5兆円を突破している。加えて、防衛省は、本来は自然災害や不況対策などに使われる補正予算を、本予算だけでは賄いきれない高額な米国製兵器購入の抜け道に使い、2014年度以降は毎年2,000億円前後の補正予算を計上して、戦闘機や輸送機オスプレイ、ミサイルなどを、米側の提示する法外な価格で購入している。
しかも、これには後年度負担つまり次年度以降へのつけ回しの「ローン」で買っているものが含まれ、国産兵器購入の分を合わせると、国が抱えている兵器ローンの残高は2018年度予算で約5兆800億円と、防衛予算そのものに匹敵する額に膨れ上がっている(2019年度は5兆3,000億円)。米国へのローン支払いが嵩む結果、防衛省が国内の防衛企業に対する装備品代金の支払いの延期を要請するという異例の事態まで起きている(「兵器ローン残高5兆円突破」「兵器予算 補正で穴埋め 兵器購入『第二の財布』」「膨らむ予算『裏抜』駆使」「防衛省 支払い延期要請 防衛業界 戸惑い、反発」東京新聞2018年10月29日、11月1日、24日、29日記事参照)。毎会計年度の予算は国会の議決を経なければならないとしている財政民主主義の大原則(憲法86条)を空洞化する事態である。
防衛省の試算によれば、米国から購入し又は購入を予定している5種の兵器(戦闘機「F35」42機、オスプレイ17機、イージス・アショア2基など)だけで、廃棄までの20~30年間の維持整備費は2兆7,000億円を超える(「米製兵器維持費2兆7,000億円」東京新聞11月2日)。さらに、これに輪をかけるように、政府は、「F35」を米国から100機追加取得する方向で検討しており、取得額は1機100億円超で計1兆円以上になる見込みである(2018年11月27日日本経済新聞)。

2 米国のための高額兵器購入による財政逼迫
このような防衛費の異常な膨張について、根源的な問題の一つは、米国からの高額の兵器購入が、トランプ政権の要請も受け、米国の対日貿易赤字を解消する一助として行われていることである。
歳入のうち国債依存度が約35%を占め、国と地方の抱える長期債務残高が2018年度末で1,107兆円(対GDP比196%)に途するという、「主要先進国の中で最悪の水準」(財務省「日本の財政関係資料」2018年3月)の財政状況にある日本にとって、他国の赤字解消のために、さらなる借金を重ねてまで兵器購入に巨額の予算を費やすことは、国政の基盤をなす財政の運営として常軌を逸したものと言わざるを得ない。
また、導入されている兵器の中には、最新鋭ステルス戦闘機「F35」のような攻撃型兵器が多数含まれている。戦闘機が離着陸できるよう海上自衛隊の護衛艦「いずも」を事実上「空母化」する方針も示されている。これらは専守防衛の原則を逸脱する恐れが強い。
政府は北朝鮮情勢や中国の軍備増強を防衛力増強の理由として挙げるが、朝鮮半島ではむしろ緊張緩和の動きが活発化しているし、近隣国を仮想敵国として際限なく軍拡に走ることも、武力による威嚇を禁じ紛争の平和的解決を旨とする現代の国際法の大原則に合致せず、それ自体が近隣国の警戒感を高める、かえって危険な政策というべきである。

3 福祉切り捨ての現状
このように防衛費が破格の扱いで膨張する一方、政府は、生活保護費や年金の受給額を相次いで引き下げている。
生活保護については、2013年からの大幅引き下げに続き、今年10月からは新たに、食費など生活費にあてる生活扶助を最大で5%、3年間かけて引き下げることとされ、これにより、生活保護世帯の約7割の生活扶助費が減額となる。
しかし、削減にあたってば、減額された保護費が最低限の生活保障の基準を満たすのかどうかにっいての十分な検討がされておらず、厚生労働省の生活保護基準部会の報告書がこの点で提起した疑問は反映されていない。特に大きな影響を受ける母子世帯や高齢者世帯を含め、受給当事者の意見を聴取することも一切されていない。
生活保護基準は、最低賃金や住民税非課税限度額など様々な制度の基準になっているため、引き下げによる国民生活への悪影響は多方面にわたる。
また、年金については、2013年からの老齢基礎年金・厚生年金支給額の減額に続き、長期にわたり自動的に支給額が削減される「マクロ経済スライド」が2015年から発動されており、高齢者世帯の貧困状況は悪化している。
政府は生活保護減額によって160億円の予算削減を見込んでいるが、そもそも、国家財政を全体としてみた場合、この削減は、青天井に増加している防衛費の増加、とりわけ米国からの野放図な兵器購入を抑えれば、全く必要がなかったものである。
日本の国家財政は、米国の兵器産業における雇用の剔出iと維持のために用いられるべきものではない。国民の生存権よりも同盟国からの兵器購入を優先するような財政運営は根本的に間違っている。

4 主要国で最も貧弱な日本の教育予算
日本は、GDPに占める教育への公的支出割合が、主要国の中で例年最下位である。特に、日本は「高等教育の授業料が、データのあるOECD加盟国の中で最も高い国の一つであり、過去10年、授業料は上がり続けている。「高等教育機関は多くを私費負担に頼っている。日本では、高等教育段階では68%の支出が家計によって負担されており、この割合は、OECD加盟国平均30%の2借を超える」(OECD.Educalion at a Glance 2018)。
給付型奨学金は2017年にようやく導入されたものの、対象は住民税非課税世帯に限られ、学生数は各学年わずか2万人、給付額は月2~4万円にすぎない。大学生の75%は私立大学で学んでいるが、国の私学助成が少ないため家計の負担が大きいところ、私大新入生のうち無利子奨学金を借りられるのは15%にすぎず(東京私大教連調査)、多くの卒業生は奨学金という名のローン返済に苦しんでいる。「卒業時に抱える平均負債額は32,170ドルで、返済には学士課程の学生で最大15年を要する。これは、データのあるOECD加盟国の中で最も多い負債の一つである」(OECD,supra)。2011年から2016年の5年間で延べ15,338入が、奨学金にからんで自己破産している(「奨学金破産、過去5年で延べ1万5千人 親子連鎖広がる」朝日新聞デジタル2018年2月12日)。
国立大学法人化後、その基盤経費となる運営費交付金も年々削減され(2004年から2016年までで実質1,000債円以上。文部科学省調査)、任期付き教員の増加など大学の教育・研究に支障をきたしている(「土台から崩れゆく日本の科学、疲弊する若手研究者たち これが『科学技術立国』の足元」Wedge Infinity2017年11月27日)。
高等教育だけではない。教育予算が全体としてきわめて貧弱であり人員が少ないため、公立の小・中・高等学校では半数以上の教員が過労死レベルで働いている(「過労死ライン超えの教員、公立校で半数 仕事持ち帰りも」朝日新聞デジタル2018年10月18日)。
教育に予算を支出しない国に未来はあるだろうか。納税者から託された税金を何にどう用いるかという財政政策において、教育を受ける権利の実現は最優先事項の一つでなければならない。

5 日本は社会権規約に違反している
憲法25条は国民の生存権を保障している。また、日本が批准している「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)は、社会保障についての権利(9条)、適切な生活水準についての権利(11条1項)を認め、国はこれらの権利の実現のために、利用可能な資源を最大限に用いて措置を取る義務があるとしている(2条1項)。
権利を認め、その実現に向けて措置を取る義務を負った以上は、権利の実現を後退させる措置を取ることは規約の趣旨に反する(後退禁止原則)。社会権規約の下で設置されている社会権規約委員会は「一般的意見」で、「いかなる意図的な後退的措置が取られる場合にも、国は、それがすべての選択肢を最大限慎重に検討した後に導入されたものであること、及び、国の利用可能な最大限の資源の完全な利用に照らして、規約に規定された権利全体との関連によってそれが正当化されること、を証明する責任を負う」としている。
このような観点から委員会は、日本に対する2013年の「総括所見」で、社会保障予算の大幅な削減に懸念を示している。また、日本の最低賃金の平均水準が最低生存水準及び生活保護水準を下回っていることや、無年金又は低年金の高齢者の聞で貧困が広がっていることにも懸念を表明した(外務省ウェブサイト「国際人権規約」参照)。
今年(2018年)5月には、10月からの生活保護引き下げについて、「極度の貧困に関する特別報告者」を含む国連人権理事会の特別報告者ら4名が連名で、引き下げは日本の国際法上の義務に違反するという声明を発表し政府に送る事態となった。「日本のような豊かな先進国におけるこのような措置は、貧困層の人々が尊厳をもって生きる権利を直接に掘り崩す、意図的な政治的決定を反映している。」「貧困層の人権に与える影響を慎重に検討しないで取られたこのような緊縮措置は、日本が国際的に負っている義務に違反している」。
また社会権規約は、国はすべての者に教育の権利を認め、中等教育と高等教育については、無償教育を漸進的に導入することにより、すべての人に均等に機会が与えられるようにすることと規定している。適切な奨学金制度を設立することも定めている(13条2項)。
教育に対する日本の公的支出の貧弱さはこれらを遵守したものになっていない。

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 後年度負担まで組んで莫大な額の兵器を買い込み国家財政を逼迫させる一方で、十分な検討も経ずに生活保護を引き下げることや、きわめて貧弱な教育予算を放置し又は削減することは、憲法の平和主義、人権保障及び財政上の原則のみならず、国際法上の義務である社会権規約(及び、同様の規定をもつ子どもの権利条約や障害者権利条約など)に違反している。我々は、安倍政権による防衛予算の異常な運営に抗議し反対の意を表明するとともに、教育と社会保障の分野に適切に予算を振り向けることを強く求めるものである。

<呼びかけ人>(五十音順、*発起人)
荒牧 重人(山梨学院大学教授、憲法学・子ども法)
井上 英夫(金沢大学名誉教授・佛教大学客員教授、人権論・社会保障法学)
大久保 賢一(弁護士)
小久保 哲郎(弁護士、生活保護問題対策全国会議事務局長)
今野 久子(弁護士)
澤藤 統一郎(弁護士、日本民主法律家協会元事務局長・日本弁護士連合会元消費者委員会委員長)
*申 ホンヘ(青山学院大学教授、国際人権法学会前理事長、国際人権法学)
田中 俊(弁護士)
谷口 真由美(大阪国際大学准教授、国際人権法学)
角田 由紀子(弁護士)
*徳岡 宏一朗(弁護士)
戸室 健作(千葉商科大学専任講師、社会政策論)
根森 健(神奈川大学特任教授、新潟大学・埼玉大学名誉教授、憲法学)
尾藤 廣喜(弁護士、生活保護問題対策全国会議代表幹事)
藤田 早苗(エセックス大学研究員、国際人権法学)
藤原 精吾(弁護士・日本反核法律家協会副会長・日本弁護士連合会元副会長)
吉田 雄大(弁護士)

先天性心疾患(総肺静脈還流異常症)で亡くなったSちゃんの願い

今、取り組んでいる医療過誤訴訟を紹介したい。

Sちゃんは、生後46日で短い命を落した。そのことに、どうしても納得できないお父さんとお母さんが原告となって、診療を担当した病院に対して、損害賠償請求の訴訟を提起した。提訴の動機は、同じ病の子を救いたい、自分たちのような悲劇を繰り返させたくない、という思いからだ。

Sちゃんの死亡原因は、先天性の心疾患で「総肺静脈還流異常症」という。心臓と連結する血管の正常な構造においては、左右の各肺から各2本計4本の肺静脈が左房に接続しているところ、総肺静脈還流異常症においては先天的にその接続が欠けている。

本来、体内の血液循環過程において肺胞でガス交換を終えて十分な酸素の供給を得た高酸素飽和濃度血は、肺静脈を経て左房に流入し、左房から左室を経て拍動しつつ大動脈に流出して全身の細胞に酸素を供給することになる。つまり、肺静脈は高酸素飽和濃度血(体循環における動脈血)の心臓への流入口である。ところが、総肺静脈還流異常症においては、肺静脈を経ての左房への酸素血の流入がないため、胎児期はともかく、出生後の生存は極めて困難となる重篤な心疾患なのだ。

この先天性心疾患は、Sちゃんの出生当時、その機序も診断方法も臨床に知られており、胎児期にも、出生直後にも、退院時にも、そして1か月健診時にも、その特異的、非特異的な症状が児に表れ、その児に表れた症状を的確に把握することによる診断が可能だった。さらに、同疾患の心臓外科手術による治療方法は確立していて、胎児期、あるいは出生直後に診断さえできれば救命可能であったことは当事者間に争いはない。

その診断ができずに看過されれば、総肺静脈還流異常症患児は、出生後ほぼ確実に死に至る。ちょうど、Sちゃんのように。

その疾病の機序と生命に関わる重篤性とがよく知られ、かつその疾病の診断が可能である以上は、人の生命と健康に携わる医師・医療機関には、患者との診療契約において負担する「最善の注意義務」の具体的内容として、これを診察し診断する義務があった。それが、最高裁判例の立場だ。そう、原告側は主張している。

Sちゃんは、胎児期に胎児エコー専門医の胎児心エコー検査を受けている。そのとき、カラードプラに切り替えて心臓を見てもらえば、おそらくは肺静脈が左房に接続していないことが確認できたはずなのだ。ところが、専門医は、モノクロモードだけで心臓を診て、心臓が終わってからカラードプラに切り替えている。お父さんとお母さんにしてみれば残念でならない。

被告側の主張は、「医師の診断マニュアルでは、肺静脈の接続まで確認せよとされていない。だから診断しなかったのはミスとは言えない」という。

総肺静脈還流異常症は、患者の数が少ないから、手間暇かけて診てはおられない、そこまで診断する義務はない、というのが医療現場のホンネのところ。しかし、その手間は、妊娠期間中1回か2回ルーチンの胎児心エコー検査の際に、数十秒ないし2分の検査で済むのだ。もちろん、全例診断を尽くしている病院や医師もある。アメリカのマニュアルでは診断せよとなっている。中国の大病院も悉皆検査をしていると報告している。本件の担当医も、「本件事故以後は全例肺静脈の正常な接続を確認することとしている」と法廷で証言している。

医療過誤訴訟では、医師が依拠すべき医療水準が常に問題となる。判例は、この医療水準を客観的に定まる規範としての規準であると言い、現実の医療慣行を規準としてはならないという。患者の人権を重視し、医療の改善につながる医療水準論でなくてはならないと思う。

先天性心疾患は、新生児100人に約1人の割合で認められるという。そして、総肺静脈還流異常症は、先天性心疾患児100人に約1~2人の確率で発生するとされる。つまり、1万人の新生児出生に対して、約1~2人の割合で総肺静脈還流異常症が発症していることになる。
毎年日本では約100万人の新生児が誕生しているのであるから、毎年約100人~200人の総肺静脈還流異常症罹患の新生児が誕生している。総肺静脈還流異常症は、診断さえできれば、外科手術によってほぼ確実に救命できる。しかし、診断できなければ、死亡に至る可能性が極めて高い。現実に、総肺静脈還流異常症と診断されて、専門病院に搬送されて救命されるのは好運な事例で、多くは診断されることなく死亡に至っている。

産科・新生児科の医師に総肺静脈還流異常症の診断の義務がないとすれば、今後も毎年100人~200人の新生児の疾患が見逃され、せっかく得た尊い生命が失われる悲劇の現状が続くことになる。判決が、総肺静脈還流異常症の診断義務を認めるとすれば、今後、毎年100~200名の新生児の命が救われ、同数の悲劇が歓喜に変わることになる。
確実に一定の割合で生じる将来の患児の生命が、救われるか見捨てられるか。Sちゃんも見守っている。

(2018年12月12日)

あたらしい憲法のはなし 『憲法』を読む

11月8日「あたらしい憲法のはなし 『天皇陛下』を読む」
http://article9.jp/wordpress/?p=11417

12月10日「『新しい憲法のはなし』のはなし」

http://article9.jp/wordpress/?p=11686

の続編である。

前回も書いたが、第5章『天皇陛下』の内容は余りにひどい。次いで第1章『憲法』である。やや長いが、まず、全文を掲記しておきたい。

 みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和22年5月3日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。

 國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。

 國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。

 ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。

 みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとりひとりの國民にあります。そこで國は、この國民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。

 そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。憲法とは、國でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、國の治めかた、國の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、國民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろいろのことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戰爭をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。

 これまであった憲法は、明治22年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和21年4月10日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。

 みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。

 みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくいでしょう。國の規則もそれと同じで、一つひとつ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。こんどの憲法は、第1條から第103條まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
 この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなければなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。

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以上の文章を、違和感なく読み進むことができるだろうか。私は冒頭から引っかかり、ほぼ全文に違和感を禁じえない。何よりも、憲法の解説として不可欠な歴史的背景が語られていないのがもどかしい。「あたらしい憲法」がなぜ必要になったのか。旧憲法のどこが批判の対象なのか。旧憲法から新憲法に、どのような原理的転換が遂げられたのか。新憲法において、権力と人権とはどのような対抗関係ととらえられているのか。市民社会の公理である個人主義とは何か、自由主義とは何か。中学生の理解力の問題ではない。書かねばならないことが書かれていないのだ。

 「みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和22年5月3日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。」

 この冒頭の一文から、バカげている。「みなさん、憲法ができました。そうして明治23年11月29日から、私たち日本國民は、この大日本帝国憲法を守ってゆくことになりました。」と置き換えて違和感がない。この一文の筆者は、大日本帝国憲法から日本国憲法への原理的転換の内容を理解していない。あるいは、子供たちに理解させたくないのだ。

ここで言うこの憲法を守ってゆくは、「根強い保守勢力の大日本帝国復古の動きに抗して、憲法典や解釈を変えさせないように護る」という意味での「守る」ではない。「憲法が命ずるところを遵守してゆく」という意味の「守る」なのだ。あろうことか、国民に「憲法を守る」よう呼びかけ、天皇や公務員に「憲法を守らせよう」という観点はない。立憲主義的な憲法の理解が抜けているのだ。そもそも、その根底にあるべき権力と国民(人権)の対抗観念がない。

以下、ほぼ全文に引っかかるが、顕著なところだけを抜き出してみたい。

 國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
  國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。

 憲法を「たくさんある規則のうちのいちばん大事な規則」という平板なとらえ方を不正確と言ってはならない。これは明らかな、ミスリードなのだ。憲法とは、国家権力を規制することによって国民の権利を守ろうという原則を定めたもの。国家権力の規制という視点を抜いた憲法解説は、大日本帝国憲法時代のものと変わらないこととなる。

 この憲法には、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。

憲法が、「人権規範」部分と「統治機構」部分の2部門からなることは、常識的な考え方である。しかし、この二つの関連をを平板に形式的にとらえてはならない。個人の「人権」こそが目的的な価値で、国の「統治機構」は人権を侵すことのないように組み立てられている。その解説こそが重要なのに、「国民の権利は、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事である」という倒錯を語ってはならない。

それだけではない。人権がなぜ大事なのか。その理由をこう言うのだ。

 「國民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとりひとりの國民にあります。そこで國は、この國民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。」

 これは謬論である。これを時代の限界などと看過してはならない。人権は「國の力のもと」ではない。「國の力」を強くするために、人権が認められているのではない。日本の民衆には自由民権の時代から、脈々たる人権思想があった。この筆者には、その思想がない。人権を語る情熱もない。

 みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。

欽定憲法から民定憲法への原理的転換を、国民の憲法遵守義務の根拠にすりかえ封じ込めようという企み、というしかない。憲法が変わっても、臣民が国民と言い換えられても、飽くまでも政府は、「憲法を拳拳服膺する」従順で自律しない国民を望んでいるのだ。

この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。みなさんは、この三つのことを知らなければなりません。

こういうスッキリしない話しぶりにモヤモヤ感を払拭できない。あの、躍動するような日本国憲法前文を、「だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。」と無感動にまとめているのは一種の才能というべきなのだろう。

(2018年12月11日)

天皇の人権と「退位の自由」を考える。

また、吉田博徳さんからお電話をいただいた。また、「オシエテいただきたいことがある」とおっしゃる。で、テーマは天皇の人権についてだという。またまた緊張することになった。

 いったい、天皇には人権というものがあるんでしょうか。

何とも、単刀直入である。吉田さんが、「天皇なんぞに人権を認めてはならない」というご意見でないことは承知しているから、話しはスムーズに運びそうだ。

天皇とて生身の人間ですから、個人として尊重されねばなりません。その意味では、当然のこととして「天皇にも人権はある」ことになりますね。

 でも、天皇には行動の自由というものがないでしょう。自由に街中を歩いたり、散歩も買い物もできない。それでも人権があると言えるんですか。

本来自由があることと、その行使に何らか事実上の支障があることとは分けて考えなければならないのでしょうね。

 天皇には本来的に自由があり人権がある。しかし、事実上行使できないものがあると考えるのでしょうか。

いや、そうではない。天皇の人権は制約されています。しかし、それは象徴という地位と両立しない範囲に限ってのもので、人格の尊厳という人権の大本は天皇にも保障されていると考えざるをえません。

 原則は天皇にも人権がある。ただ、象徴という地位と両立しない範囲では制約される。具体的にはどのように制約されるのでしょうか。

分かり易い例では、天皇には選挙権も被選挙権もない。職業選択の自由もありませんね。任意に住居を定める自由もない。婚姻の自由も制約されています。裁判を起こす権利もないとされています。

 信仰の自由や表現の自由はどうですか。

天皇が人間である以上は当然に精神生活があるわけですから、信仰の自由も思想・良心の自由もなければならない。これは人間としての根源的な存在に関わる自由であり権利なのですから。天皇がクリスチャンであろうと仏教徒であろうと、あるいはイスラム教徒であろうと、もちろん無神論者であろうとも、憲法上の問題はないでしょう。表現の自由も基本的には認められるはずですが、一部制約はありうるでしょうね。

 私はね。常々、天皇ほどかわいそうで不幸な存在はない、と思っているんですよ。どうして、もっと自由にのびのびと暮らしていけるようにしてあげられないのでしょうかね。天皇に、表現の自由があるといっても形だけ。実際は自由にしゃべれないでしょう。それに、天皇にたけは姓もない。

天皇は、国民の納めた税金を使ってそれなりの待遇を受けている、よいご身分じゃないですか。私は、天皇をかわいそうだとは思いません。不平等に苦しんでいる多くの人々がいるじゃありませんか。貴賤の「貴」を認めれば、その対極に「賤」の存在を許すことになる。

 わたしは、大いに同情していますね。こんなカゴの鳥同然の生活は、普通の人にはとても耐えられない。人権には例外を設けるべきではない。人権を大切にする立場の人が、何とかしてあげなければならないんじゃないでしょうか。

吉田さんの立場は、だから不合理な天皇制は廃止した方が良いということですか。

 すくなくとも、天皇が辞めたいときには、辞める自由を保障しなければならないと思っています。でなければ、生涯カゴの鳥でしょう。

ずいぶん前に、同じことを言った皇族がいましたね。確か三笠宮。退位の自由のない天皇は、奴隷的な苦役・拘束を強いられることになるという趣旨でしたね。

 天皇にも人間としての尊厳は保障されているというのであれば、最低限「退位の自由」は確保して、天皇という立場からの離脱の道をのこしてやるべきでしょう。生まれだけで、生涯の不幸な立場を強いられるのは余りにお気の毒。

世襲も身分的拘束も近代法の原理とは別次元の問題ですが、天皇位への就任を拒否する自由、退位の自由が保障されていれば、天皇としての負担も自分で引き受けたことになりますから、もう「かわいそう」と思わなくてもいいんでしょうね。

 やめようと思えば辞められる、それが大事なこと。憲法は、それを認めますか。

憲法には、天皇の退位についての規定はありません。任意に辞められるとも辞められないとも定めはありませんから、法改正次第ということになりますね。

 では、誰にも人権を保障するという立場から、天皇の任意の退位を認める法律を制定すれば良いわけだ。

私は、本来天皇制は廃絶すべきだと思っています。しかし、現行憲法下で、天皇個人の人権擁護のため天皇の退位を認める法改正案が出たとすれば、賛成します。問題は、そんな風に世論が盛り上がるかどうか。

 私のように、カゴの鳥の天皇をかわいそうと思っている人は少なくないと思うんですがね。

現天皇が生前退位の実績を作ったのですから、これをひろげて任意退位の制度を作ってもよいとは思います。

 天皇だって、いつでもやめられると思えば、のびのびと勤めを果たしていけるのではありませんか。

次々にみんな辞めれば、天皇制はなくなるわけですから、可哀想な人もなくなる。

 それに、今日本では年間3万に近い人が自殺していますね。貧困での自殺者を2万人として、その救済のために一人100万円を支給すると200億円かかる。天皇制がなくなれば、宮内庁費と皇室費、皇宮警察の220億円の費用が浮くわけですから、貧困自殺者をなくすることができると思いますよ。

 なるほど。自由がなくてかわいそうな人を救い、金がなくて自殺する人も救える。天皇制なくせば、よいことばかりじゃないですか。
(2018年12月5日)

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自民 12月6日衆院憲法審開催断念

=来年通常国会の発議、厳しい情勢

『憲法審査会強行開催糾弾! 自民改憲案「提出」許すな!

12・6早朝緊急抗議行動』
12/6(木)AM9:00~ 衆議院第2議員会館前
主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会

 http://sogakari.com/?p=3911

日本軍「慰安婦」問題の本質とは何なのか

ずいぶんと以前のこと。同世代の親しい弁護士との雑談のなかで、お互いの父親の出征体験が話題となった。私の父も彼の父も、招集されて大陸での従軍を経験している。

彼の父親が亡くなって遺品を整理したら詳細な従軍中の日記が出てきたという。生前は見せなかったその日記に、心ならずも慰安所に通っていたという記載があって衝撃を受けたという。そのことを話す彼は、辛そうだった。

私の父は絵を得意として、従軍中の日記は絵ばかりだった。ソ満国境の街角、四季の風景や人物画、野生動物の写生もあった。軍人が出て来るのは隊内での演芸大会の模様だけ。その日記からは戦争や軍隊の陰惨さは窺えなかった。今にして、日記に書けないことが多かったのだろうと思う。

「終戦後」に育ったわれわれの世代は、子どもの頃、大人たちが中国大陸や南方で、「悪いこと」「後ろめたいこと」をしてきたことをなんとなく知っていた。知っていたが、表だって話すことはなかった。しかも、なんとはなく、殺人やレイプや慰安所通いなどの、「悪いこと」「後ろめたいこと」をやったのは、「軍隊」「軍人」「皇軍」という抽象名詞の仕業だと思い込むところがあった。

ところが、突然「お前の父のやったことだ」と突きつけられると、うろたえざるを得ない。戦争の加害責任は、日本人の精神の奥底に暗く沈潜した澱のようなものだ。従軍慰安婦問題とはそのような質をもった、できれば話題から避けたい、触れたくない問題だった。

だが、現実は重い。歴史を変えることはできない。逃げることはできない。再び繰り返してはならない過去であればこそ、ありのままの事実を認識しなければならない。歴史を修正したり、美化することは再びの犯罪にほかならない。

「従軍慰安婦」と言うにせよ、日本軍「慰安婦」と言うにせよ。平時にはあり得ない無惨なことが戦地だからこそ起きる。そのような問題として、「加害も被害も、戦争さえなければ」という視点で語られてきたように思う。ところが、その視点はけっして確かなものではない。もっと、本質を掘り下げよとの指摘がある。

私の法律事務所の間近に、「文京区男女平等センター」がある。地元の市民運動が大いに利用している様子で結構なことだ。昨日(10月27日)、そこで「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」が学習会を開いた。

その学習会で配布された機関誌「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナールNEWS(第33号)」のヘッドラインが、「なぜ日本人「慰安婦」は名のり出られないか」だった。これに考えさせられている。

恥ずかしながら、そのような問題意識を持ったことがなく、虚を衝かれた思いが強い。なるほど、日本人「慰安婦」は多数いたはずだ。でも、「どうして名のり出られないか」と考えたことはなかった。改めて、「名のりたくても名のり出られないのだろうか」「名のり出るべきなのだろうか」「名のり出るべき環境を整えるべきなのだろうか」「私のような鈍感さが名のり出を妨げているのだろうか」。いろいろと、考え込まざるを得ない。

「後ろめたいこと」をやったのを「皇軍」の誰かであるというよりは、固有名詞をもった誰かであることを特定することによって、格段のリアリティが生じる。被害者も同じことだ。金学順さんの「名のり」は、まぎれもなく印象的で感動的な行為だった。歴史を動かした「名のり出」だった。日本人慰安婦も同様だろうか。

この「NEWS」は、第27回ゼミとして行われた大阪大学大学院の藤目ゆき教授講演の報告をトップに載せている。その演題が「なぜ日本人『慰安婦』は名のり出られないか」なのだ。

なぜ、日本人「慰安婦」は名のり出られないのか。講演によれば、「それは誰も名のり出ることを助けようとしないからだ」という。
内務省、外務省と軍が連携して設立した「慰安所」は、公娼制度の最たるもの。「当時は公娼制度があり合法、当たり前だった」という言説に、だからこそ日本人は「悪法が横行し人権が無視されていた過去」を国家の非と認め、被害者に賠償し、世界に現在の日本は過去とは違う」と表明すべきなのだという。「戦時」の「強制」であろうとなかろうと、性にまつわる搾取を厳しく断罪する立場のよう。「公娼制度に則ったものだから違法ではない」ではなくて、公娼制度とは国家ぐるみの悪だという。それはそのとおりだが、だから「被害者よ、名のり出でよ」となるのだろうか。考え込まざるを得ない。

同教授の講演要旨がA4・2枚の紙面に、細かい字でびっしり書き込まれている。その締めの一文が、「(最後に)希望」として、次のとおり、問題意識をまとめたものになっている。

  日本人「慰安婦」問題を「戦時下の特殊な状況の中で発生した特殊な問題」として切り取るのではなく、その前後左右にある「人々に対する国家暴カシステム」の中に位置づけ、過去(天皇制警察国家時代)を制度的にも理念・思想的にも清算すること。

 これまで私は、「慰安婦」問題を、まさしく「戦時下の特殊な状況の中で発生した特殊な問題」として考えてきた。「戦時下においてこそ、かくも理不尽な人権侵害が起こる。諸悪の根源としての戦争を起こしてはならない」という文脈である。それが、問題の本質を衝くものではない。もっと根源的な「人々に対する国家暴カシステム」としてとらえよ、というのだ。「公娼・日本軍「慰安婦」・占領車「慰安婦」」と連続的に考察する視点は説得的で、軽いカルチャーショックである。

このことに関連して、大森典子弁護士が、この「NEWS」に、以下の囲み記事を掲載している。

「#MeToo」運動と「慰安婦」問題

8月12日、「全学順さんから始まった#MeToo」と言う集会が聞かれました。1991年8月14日に金字順さんが初めてテレビカメラの前で被害を告白してから、「慰安婦」被害者のカムアウトが続き、「慰安婦」問題は一挙に大きな社会問題になりました。そこでこの日(8月14日を「慰安婦」メモリアルデーにしようという運動が数年前から世界で広がっています。
 今年、日本では、この記念日のイベントとして[#MeToo]運動と[慰安婦]問題を結びつけて考えようという集会が開かれました。
 日本人の「慰安婦」被害者が極く数名の方以外、名乗り出ていないことは、最近、改めて関心を集めています。川田文子さんはそうした日本人被害者との交流とその中で感じた日本社会の問題を語り、被害者の名乗り出を阻んでいる実情を語りました。
 また、角田由紀子弁護士は日本の法制度が性暴力被害者のカムアウトを困難にしていること、その背景にある女性への差別が社会の様々なところに現れていること、この構造を維持するために、言い換えれば男性優位社会を維持するために被害女性の闘いがつぶされようとしているのではないか、という問題提起をしました。
 改めて日本社会の差別の根の深さを考えさせられ、また、そうであるならなおのこと、あらゆる場面に現れている差別をなくさせる運動の重要性を考えさせられた集会でした。」

 すこし時間をかけて、指摘を受けとめ考えてみたい。
なお、「NEWS」の講演要旨は長文である。私の恣意によるものではあるが、下記に抜粋を引用させていただく。

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大阪大学大学院教授・藤目ゆき氏講演要旨抜粋
日本人「慰安婦」問題と公娼制
「慰安婦」問題と現在の女性への暴力

 キムハクスンさんのカミングアウトに、千田夏光さんの本で「従軍慰安婦」を歴史的事実として知っていたが、性暴力をうけることが恥辱とされている中で、被害をうけた女性がメディアに登場し怒りを全身全霊でアピールされる姿に感謝と敬愛を感じた。様々な抑圧の中でレイプなど性暴力をうけた女性たち、性売買の場にいた公娼、「慰安婦」などの日本女性は公的に告発しようにも証拠がない。キムハクスンさんたちの性被害の実態を満天下に認めさせる闘いは、名乗れずにいる日本人女性たちの解放に繋がり、励ましになると受け止めた。「慰安婦」の運動が日本の女性の解放運動と捉えたものにならなかったのは、問題だったと思う。

☆ 日本軍「慰安婦」制度の根底に公娼制度がある

 かって朝鮮民主主義共和国のハルモニから、「日本人は、私達がお金をもらったと言うが、日本人はお金をもらえば、自分の姉、妹、娘たちにそういうことをさせていいんですか」と、反語の意味で問われたが、日本人は平気でそれをやってきたのだ。公娼制度を作り、娘が売り稼ぐのが親孝行だという社会だったから、朝鮮や台湾、東南アジアなど外国の女性たちを、レイプできたのだ。
 日本人「慰安婦」は売春婦、公娼だったが、アジアの少女たちは無垢な乙女がレイプされ気の毒だったというような話ではないだろう。日本人女性たちは自国の階級支配や人権蹂躙そのもの、反民主的な天皇制国家の抑圧の下で奴隷にされ、自分が奴隷であるという自覚もなしに外国への侵略戦争に駆り出されていったみじめさを問題にせずにどうするのか?
 日本の公娼制度は「慰安婦」制度の歴史的な根底である。それを根底から批判し、日本がそもそも公娼制度を持っていた罪を罪としてしっかり認識するということにもっていかなければならないと思う。まともな謝罪、国家賠償をしないままで「慰安婦」を逝かせてしまう日本政府のやり方を許してきた日本の実態は何なのか?そのことに私は嘆きと憤りを筧える。

☆ なぜ日本人「慰安婦」が名乗り出られないのか?
  ~日本人「慰安婦」が不可視化された構図

 「ヘイト言説たる『慰安婦=公娼論』」VS「対抗言説としての『慰安婦≠公娼』論
 日本人「慰安婦」が名乗り出られない理由ははっきりしている。日本の力ある市民が誰も名乗り出てと呼びか けもしないし、それを助けようともしない。「慰安婦」にされた女性だちと闘う準備のある人々の力は弱かった。
 それには、キムハクスンさんの名乗り出以来の一貫したバッシング、ヘイトスピーチがある。国会議員、文化人、自治体首長などが「慰安婦」は売春婦だと平気で主張し、マスコミがそれを報道する。これに対抗して「売春婦じゃありません」「公娼制度とは違って引っ張ってきた」「わが民族の少女たちは商売と関係なしに監禁され銃剣で脅された」という議論のなかで、どういうべきか悩んで慎重に議論しようとしてきた。
 日本軍「慰安所」は内務省、外務省と車が連携して設立した公娼制度の最たるものだ。「慰安婦」はある意味最も典型的な公娼だ。吉見義明先生は「慰安婦」は公娼でないという意見だが。運動側がたてている公娼の違法か合法かの論理が、日本人「慰安婦」たちの不可視化を一層深くしたと指摘しておきたい。「『慰安婦』は当時は合法で当たり前だった」というヘイト言説に対して批判側が日本には戦前から公娼制廃止運動があった、当時の法律でも違法だったと強調する人がいる。しかし本当なら「悪法が横行し、人権無視が当たり前の時代と今は完全に追う」と言うべきだ。公娼制度を非として認め被害者に謝罪、賠償することが過去を清算する道ではないか。

☆ なぜ日本人「慰安婦」はカミングアウトしなかったのかーなぜRAAが政治問題にならなかったのか一日本社会に受け皿がない(カミングアウトを求める主体が脆弱)
①今日に続く「公娼」に対する「醜業婦」観
 日本社会には「公娼」・「売春婦」といえば最大級の侮蔑用語となる社会通念がある。国際社会での売春禁止の意味を真逆の意味に変えて、「売春の禁止」と[他人の売春からの搾取の禁止」を混同し女性の行為を醜業とみなし、それを犯罪とした。
②ナショナリズムによる支えが存在しない
 日本人「慰安婦」は「愛国心があったから、被害者性が薄いから名乗りでない」という意見は理解できない。
 戦時下では植民地の女性達にも皇国臣民たれということが押し付けられた。被女たちは戦後日本の支配からの解放で、愛国心の呪縛から解放され、民族的に悲劇を代表する人物としてナショナリズムによって同胞に支えられている。日本社会では、こんなことを言えばぽこぼこにされる。日本人女性たちは被害が軽いから名乗り出ないのではなく、被害の重さ、同胞によって蹂躙された加重的な抑圧がある。

☆ 戦前・戦中の支配層・戦犯が君臨してきた戦後日本社会と政治
 公娼・日本軍「慰安婦」・占領車「慰安婦」に対する搾取と暴力を主導してきた内務官僚(警察官僚)特に特高畑が一時的な公職追放のみで日本社会にすぐ復活している。このような戦後の支配構造に日本軍「慰安婦」問題が解決できなかった一番の理由があり、日本人「慰安婦」が名乗り出られない一番の理由があるのではないか。

(2018年10月28日)

むき出しとなった権力の正体

1933年2月20日、天皇制警察は小林多喜二を虐殺した。文字通りの残虐ななぶり殺しだった。

陰惨極まりない拷問死の死体の解剖はどの病院からも拒否され、遺族に返された遺体を医師・安田徳太郎が検死している。権力批判のペンを握っていた多喜二の右人差し指は、手の甲の方向にへし折られていた。明らかにこの虐殺は、天皇制国家による作家多喜二の言論活動に対する報復であり、見せしめであった。

母親(セキ)は多喜二の身体に抱きすがった。「ああ、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

この母の慟哭を忘れてはならない。これが権力の本性だ。遠いどこかの世界のできごとではない。わが国に現実に起きた無数の類似の事件を象徴する最も知られた権力の犯罪。

ジャマル・アフマド・カショギは、メディアで「反体制派のサウジ人著名ジャーナリスト」と紹介される人。本年(2018年)10月2日、イスタンブールにあるサウジアラビア領事館の総領事室で殺害された模様である。これも、多喜二同様の陰惨な虐殺であったことが、次第に明らかになりつつある。

忘れてはならない。これが権力の本性だ。昔話ではない。まさしくたった今、現実に起きた、権力批判の言論活動への報復としての国家犯罪。

「有効な国民の制御がないところでは、権力は暴走する」というのは不正確な言い回しではないか。「権力は暴走する」のではない。「権力は本性をむき出しにする」のだ。多喜二もカショギも、その権力批判の言論活動のゆえに、権力の憎悪の対象となり虐殺された。

忘れてはならない。権力の正体の恐ろしさを。常に権力を監視し批判し続ける必要性を。そして、多喜二やカショギを虐殺した権力を支持する勢力は、今なお、わが国にも厳然として存在し続けていることも。
(2018年10月18日)

朝鮮人虐殺を反省しない、こんな都知事でよいのか。

昨日(8月10日)の、小池都知事定例記者会見。
記者からの質問に小池はこう答えている。

-- 関東大震災の犠牲者の慰霊について、昨年、知事は追悼文の送付を控えたが今年の対応と、その対応の理由を

 「今週8日でしたか、実行委員会の皆さんが署名をご持参されまして、追悼文のご要請をいただいたこと承知いたしております。都知事といたしまして、毎年9月、そして3月、横網町公園内の東京都慰霊堂で開かれる大法要で、関東大震災および先の大戦で犠牲となられた全ての方々へ哀悼の意を表しているところでございます。このため、昨年度から、個別の形での追悼文を送付することは控えさせていただいたということでございます。関東大震災という大きな災害で犠牲になられた方々、そしてまた、それに続いてさまざまな事情で犠牲になられた方々、これら全ての方々に対しまして慰霊する気持ちに変わりはございません」

--では、今年も追悼文の送付というのは特に
 「はい、昨年と同様とさせていただきます」

質疑はこれで終わりだった。あらためて思う。日本とは、何という非情な国だろうか。日本人とは、何という道理も情も知らない国民だろうか。歴史を見つめ、都合の悪いことも真実には謙虚であるべきだという、当たり前のことができない。アベのような首相、コイケのごとき首都の知事を擁している私たちの力量の不足が歯がゆくもあり、恥ずかしくもある。

関東大震災後の朝鮮人虐殺は日本人が忘れてはならない「国恥」である。記憶から抹殺することはできない。とりわけ、加害者が自警団という民間人であったこと、無抵抗の者を文字通り虐殺したその残酷さにおいて際立っている。

この歴史的事実を伝える文献は数多くあるが、検定済みの中学校教科書の一節を紹介しよう。話題の「学び舎」が出版した「ともに学ぶ 人間の歴史」(中学社会・歴史的分野)である。

その217頁に、【関東大震災ーいわれなく殺された人びと】の記事がある。
1923年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。建物がくずれ、強風を巻き起こす火災か発生して、死者行方不明者は10万5000人にのぼった。東京都や横浜市では、多数の家屋が被災し、多くの避難民が出た。
 地震後、「朝鮮人が攻めてくる」などの流言が広められ、軍隊、警察や、住民が作った自警団によっておびただしい数の朝鮮人が虐殺された。数多くの中国人や日本人の社会主義者も殺害された。

植民地だった朝鮮から働きにきていたチョインスン(当時21歳)は、避難した(旧)四ツ木橋(東京都)の近くで消防組員につかまった。警察署に連れて行かれる途中の橋の上には、多くの死体かあった。警察署で彼は、逃げようとした朝鮮人8人が切り殺されるのを見た。60年後、チョインスンは橋があった場所を訪れて語っている。
 「ここで、朝鮮人が3人たたき殺されたんだ。それを見たら、ほんとうに空が真っ黄色でね。息がとまってね。どうすることもできなかった。人間が人間を殺すのは、よっぼどのことじゃないとできないよね。何もしないのに働いて食うのに精一杯の朝鮮人にそんなことして。いくさでもないのに」

欄外に、「虐殺された朝鮮人の人数」に触れられている。
 約230人(当時の政府調査)や、約2610人(吉野作造調査)、約6650人(日本にいた朝鮮人たちによる調査)などかある、虐殺された人数はさだまっていない.

政府は積極的な調査をしようとはしなかった。むしろ、調査を妨害したのだ。その末裔が、自民党都議の古賀俊昭らであり、コイケでもある。

都立横網町公園(墨田区)で毎年9月1日に営まれる「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」。都知事が追悼文を送付することが慣例になっていた。1970年代からのことだという。石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一らも行ってきた追悼文送付を、コイケは、積極的にやめたのだ。

きっかけは、昨年(2017年)3月の都議会一般質問での古賀の質問だった。古賀は右翼として知られる人物。横網町の追悼碑の碑文にある虐殺被害者数六千余名という記載を「根拠が希薄」とした上で、追悼式の案内状にも「六千余名となっている」と指摘。「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と求めた。この極右の言に、コイケが呼応して、昨年から追悼文の発送を中止している。

コイケには自然災害の死と、民族差別意識に基づく虐殺との区別が付かないのだ。いや、敢えて区別をさけて、歴史の忘却を狙っているのだ。反省もなければ、心の痛みもない。都民よ。こんな知事で本当によいのか。
(2018年8月11日)

いかなる団体も、そのメンバーの思想・信条・良心を蹂躙することは許されない。

本日(7月18日)の毎日新聞夕刊社会面に、「『政治連盟自動加入は違憲』栃木の税理士会員 宇都宮地裁」の記事。

「税理士会に入っているだけで政治団体「栃木県税理士政治連盟(栃税政)」に加入させられ、憲法で保障された思想・信条の自由を侵害されたとして、宇都宮市の税理士が栃税政を相手取り、会員でないことの確認などを求める訴訟を宇都宮地裁に起こした。」「(7月)18日に第1回口頭弁論が開かれた。」

がリードに当たる。かなり長文で、しっかりした内容の記事。さすが毎日、記者のレベルは立派なもの。

末尾に「政治資金に詳しい税理士の浦野広明・立正大客員教授の話」が掲載されている。

「納税者の権利擁護は、税理士本来の努めなのだから、税制改革についてはそもそも税理士会として主張すべきだし、それ以外の政治活動は任意だと明確に区別すべきだ」というコメントは、まさに正論。

問題はこんなところだ。私は弁護士。弁護士として業務を行うには自治組織である弁護士会に所属してその指導監督に服さなければならない。この点、医師会とは大きくちがって、全員加盟制なのだから、弁護士会の方針が気に入らないからと言って、事実上脱退の自由はない。その弁護士会が、弁護士の地位や福利を増進するための立法運動が必要だとして、あるいは弁護士会の会務をスムースに進行させるためには、普段から政治家たちとの付き合いが必要だとして、政治献金をするための特別会費を徴収する決議を上げたとする。なんと言っても、力のあるのは与党だ。私の大嫌いな安倍晋三の自民党には応分の献金が必要になるだろう。

すると、私の懐から強制的に徴収された私のカネが、弁護士会の会計を経由して、私の大嫌いな自民党の財布にまでもっていかれることになる。とんでもないことだと腹を立てても、弁護士会をやめるわけにはいかない。

さてこの政治献金のための特別会費は、支払いを拒否できるのだろうか。それとも、多数決の決定には従わざるを得ないのだろうか。

税理士会の政治献金問題については、南九州税理士会事件(牛島税理士事件とも)最高裁判決がある。至極真っ当なものだ。

南九州税理士会政治献金事件・第3小法廷判決(1996年3月19日)

南九州税理士会に所属していた牛島税理士が、政治献金に充てられる「特別会費」を納入しなかったことを理由として、会員としての権利を停止された。これを不服として、会の処置を違法と提訴した事件で、最高裁判所は、税理士会が参加を強制される組織であることを重視し、税理士会による政治献金を会の目的の範囲外と認定した。つまり、政治献金の強制徴収はできないのだ。

以下の理由の説示が注目される。

「特に、政党など(政治資金)規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり、これらの団体に寄付することは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである」

この点、立派な判決と言ってよい。

私の問題整理の視点は、「団体の意思形成が可能か」「形成された団体意思が構成員を拘束できるか」と意識的に局面を2層に分けて考える。前者が団体意思形成における手続上の「民主主義」の問題で、後者が不可侵の「人権」の問題。「民主的な手続を経た決議だから全構成員を拘束する」とは必ずしも言えないのだ。いかに民主的に決議が行われたとしても、そのような団体意思が構成員個人の思想・信条・良心・信仰などを制約することは許されない。そういうことなのだ。

最高裁は、結論としてこう述べている。

「前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄(政治団体に対して金員の寄付をするかどうか)を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。」

どんな団体も、その団体が結成された目的(厳密に定款や規約に書いてあることに限られない)の範囲では広く決議や行為をなしうる。が、構成員の思想・信条・良心・信仰を制約することはできない。最高裁は、「政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすること」は、構成員の思想・信条を制約することから、税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。」と判断したのだ。

既にこういう判決があるのだから税理士会は、「政党支部や政治家の選挙事務所に寄付」をするための原資を税理士会で徴収することはできないと悟り、別組織として政治団体「栃木県税理士政治連盟(栃税政)」を作ってこれに肩代わりさせたのだ。その肩代わり組織が、実は全税理士に対する強制加入だったとすれば、形だけの繕いで脱法を試みたというに過ぎない。

栃税政の年会費は1万円。その支払い義務をめぐる攻防とだけ見れば、手間暇と費用を投じて訴訟を提起することは到底採算のとれることではない。

思想・信条・良心の問題としてとらえ、社会的同調圧力の跋扈を嫌い、政治的風土をつくり変えていこうという志あれはこその提訴である。原告と、受任弁護士に拍手を送りたい。
(2018年7月18日)

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