澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

佐川宣寿証人の証言を、議院証言法違反で問い得るか。

先週の4泊5日韓国ピース・ツアーの間に、仕事が滞溜した。新聞や郵便物も山積みになった。この浦島太郎状態からようやく日常のペースが戻ってきた。

3月27日衆参予算委員会における佐川宣寿証人の喚問記録も拾い読みして、何とか浦島症状から覚醒した感がある。次は連休明けの沖縄の旅が待ち遠しい。

さて、佐川宣寿証人喚問の議事録を読んで、思うところを整理してみたい。

民事法廷での証人尋問で、その証人に対して証人自身の刑事責任に関する証言を求められることは考え難い。刑事事件においても、宣誓した証人に、証人自身を犯罪者とする証言を求めることは稀有なことであろう。要するに、証人とは、民事にせよ刑事にせよ、自分の責任とは関係のないことについて聞かれることが原則なのだ。

ところが、議院証言法による証人喚問は、純粋の証人として他人の責任に関しての証言を期待されているのではなく、自身の責任を追及される立場の「証人」が多い。刑事訴訟の感覚から言えば、証人であるよりは「被疑者・被告人」の立場に近い。そのため、法廷ではめったにない、証言拒否が濫発されることになる。刑事法廷では、訴追されている被告人が宣誓して供述することはない。

憲法38条1項は、「何人も、自己に不利益な供述を強制されない」と定める。黙秘権として知られるが、合衆国憲法の自己負罪拒否特権の移入だとされる。なんびとも、自白を強制されることはない。捜査のあり方についての憲法原則でもあるが、何よりも被疑者・被告人の人格尊重の大原則でもある。

議院証言法は、議会の国政調査権を実効あらしめるために、誰に対しても証人として議会に出頭を求め、宣誓のうえ真実を語るべく義務付けをなしうる制度を作った。しかしこれには、自ずから人権原理からの制約や限界があることになる。法は証人に、一般的に真実を語るよう義務づけはできても、自己負罪拒否特権までを奪うことはできない。

すると、証人の偽証や証言拒否について、議院証言法違反で訴追できるかは、次のように考えを整理することができるだろう。

第1 原則(「国政調査権を実効あらしめる」「国民の知る権利を実現する」趣旨)
☆第1条(出頭・証言義務) 各議院から、議案その他の審査又は国政に関する調査のため、証人として出頭及び証言…を求められたときは、…何人でも、これに応じなければならない。
☆第6条(偽証) この法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、3月以上10年以下の懲役に処する。
☆第7条(出頭・証言拒否) 正当の理由がなくて、証人が出頭せず、…又は証人が宣誓若しくは証言を拒んだときは、1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金に処する(併科も可)。

第2 制約(「人権原理にもとづく限界」「三権分立の制度の趣旨からの制約」)
☆第4条1項(自己負罪拒否特権=憲法38条1項「何人も、自己に不利益な供述を強制されない」にもとづく免責規定) 証人は、自己…が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれのあるときは、宣誓、証言又は書類の提出を拒むことができる。
☆第4条2項(業務に対する信頼保護の要請に基づく免責規定) 医師・弁護士・宗教者…は、業務上委託を受けたため知り得た事実で他人の秘密に関するものについては、宣誓、証言又は書類の提出を拒むことができる。ただし、本人が承諾した場合は、この限りでない。
☆第5条 (公務の秘密保護の要請に基づく免責規定) (略)
☆第5条の2(特定秘密保護の要請に基づく免責規定) (略)

第3 各議院の告発手続(院の自律性と刑事司法権との関係)
☆第8条 各議院若しくは委員会は…証人が前2条(偽証、出頭・宣誓・証言拒否)の罪を犯したものと認めたときは、告発しなければならない。
☆8条2項 (議院ではなく)委員会…が前項の規定により告発するには、出席委員の3分の2以上の多数による議決を要する。
☆判例上親告罪であり、告発の権限は各院・委員会だけにある。(各院の自律権尊重の立場からの立法)
*検察が独自の判断で捜査・起訴はできない。
一般国民の告発による捜査・起訴もできない。

第4 実践的に
☆第6条(偽証)については、これを免責する根拠はいささかもない。
*偽証とは、「証人が自己の記憶に反することを述べること」(主観説)であるが、客観的事実との矛盾を積み上げて、推認するしかない。
*「官邸の指示なし」「昭恵夫人の影響なし」などの部分が問題になるだろう。
☆第7条(出頭・宣誓・証言拒否)
*まさしく、正当の理由の有無が問題となる。自己負罪の可能性を認めた趣旨であれば、「正当な理由ない」とは言いにくい。(反面、文書改ざんについての犯罪の成立が事実上推定されることになりうる。)
*むしろ、「刑事訴追を免れるためでない」別の偽証の動機を積み上げることが、重要であろう。
☆佐川証人が証言拒否なら、真相を明らかに出来る他の証人を喚問しなければ、国政調査権は全うできない。
(2018年4月4日)

現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。

「基本的な自然の法則」
人は皆、ある意味で泥棒だと言っていいでしょう。
もし、すぐには要らないものを私が手に入れ、手元に置いておくなら、他の誰かからそれを奪い取っているのと同じです。自然は私たちが必要とするだけのものを日々産みだしくれ、それは例外のない根源的な自然の法則です。
ですから、もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。
私は社会主義者ではないので、お金持ちから財産を取り上げるやり方は望みません。しかし、暗闇の中で光明を見出すことを願う人なら誰しも従わなければならない法則があることだけは、あなた方に直接、はっきり伝えておきます。
お金持ちから財産を取り上げるという考えを、私は持っていません。そんなことをすれば、アヒンサーの法則(非暴力主義)から外れてしまいます。だから、もし他の誰かが私より多くのものを持っていたとしても、そうさせておくだけのことです。ただ、私白身はアヒンサーの法則に基づいて暮らそうと努めていて、必要以上のものを持たないと、はっきり決めています。
インドでは、300万人もの人が一日一食で飢えをしのいでいます。しかも、その食事は、脂肪分のまったくないたった一枚のチャパティと一つまみの塩だけなのです。このような300万人の人たちに、衣服と食べ物が今以上にいきわたるようになるまでは、私もあなたも、手元に蓄えているものについて、どのような権利もありません。あなたも私もそのことを十分に承知しているのですから、その300万人の人たちが大切にされ、食べ物と衣服に困ることがなくなるよう、自分の欲望を制御し、進んで食事なしで済ませることくらいはやってみなければなりません。
(「演説・著作集」第4版)

「何よりもまず、貧困層に適切な衣食住を」
上流階級や王侯貴族はいろいろ必要が多いのだと言い立てて、上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。それは、怠惰な詭弁であり、私の理論を揶揄するものに過ぎない。
富裕層と貧困層との間に存在する今日の格差は、見るに堪えない。インドの貧しい村人だらけ、外国の政府と自国の都市生活者の双方から搾取されている犠牲者である。村人たちは食料を生産するが、飢えている。村人たちはミルクを生産するが、その子どもたちには飲むミルクがない。このようなことは放置できない。誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。
(「ハリジャン」1946年3月31日号)

以上は、大阪の加島宏弁護士が紹介するガンジーの言葉の一部である。年2回刊の「反天皇制市民1700」誌第43号に、連載コラム「ガンジー」第8回に、ガンジーの経済思想として掲載されているもの。

人は大人になりきる以前には、必ずこのような思想や生き方に深く共鳴する。このような思想を自分の胸の底に大切なものとして位置づけ、このような生き方を理想としよう。一度はそう思うのだ。しかし、落ち着きのない生活を重ねるうちに、少しずつ理想も共感も忘れていく。

それでも、ガンジーのこの言葉は魂を洗うものではないか。ときに噛みしめてみなければならない。

ガンジーは、こう言うのだ。「もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。」

70年前にして現実はこうだった。「上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。」いまや、「目のくらむような較差」はさらに天文学的で絶望的なものになっている。それは、多くの巨大な泥棒連中が、この世に横行しているということなのだ。

泥棒を駆逐して、「誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。」と切に思う。日本国憲法の生存権思想は、まさしくそのような社会を求めている。

明文改憲を阻止するだけでなく、憲法の理念をもっともっと深く生かしたいと思う。
99%の「貧乏人」と、1%の「上流階級と王侯貴族と財閥たち」との間に横たわる目のくらむような較差の壁を崩していくことは、生存権だけでなく14条の平等権の歓迎するところでもある。社会保障を削って、軍事費を増やそうなど、もってのほかという以外にない。こうなると「泥棒」ではなく、「強盗」というべきだろう。
(2018年2月6日)

民族差別主義者らの「弁護士懲戒請求の濫用」に歯止めを

昨年(2017年)暮の12月25日、下記の東弁会長談話が公表された。
https://www.toben.or.jp/message/seimei/post-487.html

「当会会員多数に対する懲戒請求についての会長談話」

  東京弁護士会 会長 渕上 玲子

 日本弁護士連合会および当会が意見表明を行ったことについて、特定の団体を介して当会宛に、今般953名の方々から、当会所属弁護士全員の懲戒を求める旨の書面が送付されました。
 これらは、懲戒請求の形で弁護士会の会務活動そのものに対して反対の意見を表明し、批判するものであり、個々の弁護士の非行を問題とするものではありません。弁護士懲戒制度は、個々の弁護士の非行につきこれを糾すものであって、当会は、これらの書面を懲戒請求としては受理しないこととしました。

 弁護士懲戒制度は、国民の基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする弁護士の信頼性を維持するための重要な制度です。すなわち、弁護士は、その使命に基づき、時として国家機関を相手方として訴えを提起するなどの職務を行わなければならないことがあります。このため、弁護士の正当な活動を確保し、市民の基本的人権を守るべく、弁護士会には高度の自治が認められており、弁護士会の懲戒権はその根幹をなすものです。
弁護士会としてはこの懲戒権を適正に行使・運用しなければならないことを改めて確認するとともに、市民の方々には弁護士懲戒制度の趣旨をご理解いただくことをお願いするものです。

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これは、懲戒請求制度の濫用者953名に対する説示ではなく、社会に向けて発信された文字どおりの広報である。措辞穏やかで短いものだが、東京弁護士会の確固たる意志表明であり、理性ある市民への理解を求める訴えかけでもある。

「東京弁護士会会員全員(約8000名)に対する懲戒請求」とは、明らかに制度の趣旨を逸脱した東京弁護士会自体へのいやがらせ。このような申立があることを知らなかったが、私も被懲戒請求者とされていたのだ。いったい誰が、どんなテーマで、何を根拠に、何を狙ってのものだったのか。また、その処理に、いったいどれだけの手間暇と費用を要したのか。この会長談話だけからでは窺えない。もう少し説明あってもよかったのかなとも思う。

思い当たるのは、下記の報道との関連である。

毎日新聞2017年10月12日
「懲戒請求 弁護士会に4万件超 『朝鮮学校無償化』に反発 6月以降全国で」

「朝鮮学校への高校授業料無償化の適用、補助金交付などを求める声明を出した全国の弁護士会に対し、弁護士会長らの懲戒を請求する文書が殺到していることが分かった。毎日新聞の取材では、少なくとも全国の10弁護士会で計約4万8000件を確認。インターネットを通じて文書のひな型が拡散し、大量請求につながったとみられる。

各地の弁護士によると、請求は今年6月以降に一斉に届いた。現時点で、東京約1万1000件▽山口、新潟各約6000件▽愛知約5600件▽京都約5000件▽岐阜約4900件▽茨城約4000件▽和歌山約3600件--などに達している。

請求書では、当時の弁護士会長らを懲戒対象者とし、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などと主張している。様式はほぼ同じで、不特定多数の賛同者がネット上のホームページに掲載されたひな型を複製し、各弁護士会に送られた可能性が高い。

請求書に記された「声明」は、2010年に民主党政権が高校無償化を導入した際に各弁護士会が朝鮮学校を含めるよう求めた声明や、自民党政権下の16年に国が都道府県に通知を出して補助金縮小の動きを招いたことに対し、通知撤回や補助金交付を求めた声明を指すとみられる。」

この報道に村岡啓一・白鴎大教授(法曹倫理)のコメントが付されている。
「懲戒請求は弁護士であれば対象となるのは避けられない。ただ、今回は誰でも請求できるルールを逆手に取っている。声明は弁護士会が組織として出しているのだから、反論は弁護士会に行うべきだ。弁護士個人への請求は筋違いで制度の乱用だ」

報道の対象となった懲戒請求がすべて斥けられたあとに、懲りない面々が、「特定の団体を介して」東弁会員全員への懲戒請求を思い立ったのであろう。が、すこぶる失当で迷惑な話。

弁護士の独立性こそは「人権の最後の砦」であって、弁護士自治はその制度的保障である。弁護士は「人権の護り手」としての使命を全うするために、国家や自治体、大企業・財界・資本からも、そして社会の多数派からも独立して、その任務を果たさなくてはならない。弁護士会は、会員弁護士がその使命を全うすべく在野に徹しなければならない。公権力からも、社会的な強者からも、そして多数派世論からも独立した自治を必要とする。

また弁護士会は、弁護士法に基づいて「建議・答申」をすべきものとされている。その内容は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」ものでなくてはならない。公権力とこれと一体化した右派の運動が押し進めている「在日に対する民族差別」に、人権を擁護すべき立場にある弁護士会が、批判の意見を述べることは、当然の権限であり責務ですらある。

これに耳を傾けることなく、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に(弁護士会が)賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などということは、およそ支離滅裂で没論理の行為である。こんな露骨な差別的言論が横行する事態を憂慮せざるを得ない。

弁護士自治は、人権と民主主義を尊重する社会の防衛装置としてこよなく大切なものであるが、その弁護士自治が市民から遊離した独善に陥ることを警戒しなければならない。また、弁護士は高い倫理を要求されてしかるべきで、市民による弁護士への懲戒請求の制度は使いやすいものでなくてはならない。その立場からは、軽々に弁護士に対する懲戒請求のハードルを高くするようなことをしてはならない。

しかし、信用を生命とする弁護士にとって、懲戒請求を受けるということの打撃は、相当のものである。私は47年間の弁護士生活の中で、自分には無関係だと思っていた懲戒請求を、たった一度受けたことがある。懲戒請求者は訴訟事件の相手方代理人だった下光軍二という一弁の弁護士。下光自身が遺言状作成に立ち会って長男に全財産の集中をはかった筋悪の事件で、私が妹側について遺留分減殺を請求した訴訟。財産の保全のために、仮差押命令や処分禁止の仮処分を3回に渡ってかけたことが、弁護士としての職権を濫用したもので非行にあたるという、およそ信じがたい懲戒理由だった。おそらくは、この弁護士、自分の無能と怠慢を依頼者に言い訳するためにこんな策を弄したのだ。

下光の請求は懲戒委員会まで到達せず、綱紀委員会で懲戒不相当の議決となった。が、綱紀委員会に呼出を受け、仲間から事情を聞かれる屈辱感は忘れられない。スジの通らない懲戒請求ではあっても、弁明のための書面作成の時間も労力も割かなくてはならない。こういう明らかな懲戒請求の濫用には歯止めのために相当の制裁があってしかるべきだと思う。

いま、私はDHCスラップ訴訟に反撃訴訟を提起している。理不尽な懲戒請求と同様、言論萎縮を狙った民事訴訟制度の濫用に対しては歯止めのための制裁があってしかるべきだという考えにもとづいてのもの。最終的には、スラップ防止の法制度が必要だと考えている。

今般の東京弁護士会会員全員に懲戒請求をした953名が同種のことを繰り返すのであれば、刑事的には偽計業務妨害に、民事的には損害賠償請求の対象となり得る。弁護士会は、味方とすべき理性ある市民と、権力と癒着した差別主義者たちとを峻別し、明らかな人権侵害集団による会務への不当な侵害には断固たる措置をとるべきであろう。
(2018年1月5日)

「鶏よ、鳴け。夜がゆっくり明け始めている。」ー袴田巖再審開始を求める意見広告

 良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。
 暗く苦しい夜が長ければ長いほど、ひときわ声高く響く良心の声よ。
 暗澹と悲痛と憤怒の錯綜した獄中14年有余、私を支えたのはその声だ。
 鶏よ、鳴け、私の闇夜は明るくなった。
 鶏よ、早く鳴け、夜がゆっくり明け始めている。
(袴田巖 1981年5月6日 書簡集より)

本日(8月18日)の朝日・毎日の両紙に掲載された、「袴田事件の一刻も早い再審開始を求める」意見広告。一面全部を使ったインパクトの大きいこの広告の冒頭に、この胸を打つ一文がある。これは詩だ。美しく心情を描いている。

袴田さんは、「世界最長収監の死刑囚」として知られている。1966年6月30日清水で起こった一家4人の殺人事件。その犯人として同年8月18日に逮捕された。本日の意見広告掲載は、51年前の同じ日付を意識してのことかも知れない。当時30歳であった。以来拘束が続けられ、死刑確定囚の身のまま釈放されたのが2014年3月27日のこと。この間の身柄拘束は47年7月余、日数にして17,389日だという。人生の大半を死刑の恐怖と絶望のうちに過ごしたことになる。

彼に対する取り調べは過酷で凄まじいものだった。いったんは「自白」を余儀なくされたが、公判段階からは一貫して否認し続けた。しかし、彼の無実の声は届かなかった。判決は有罪。しかも死刑である。後の裁判所が「証拠の捏造の疑いを否定できない」とされた審理での有罪である。

最高裁が上告を棄却して死刑が確定したのが、1980年12月。「私の闇夜は明るくなった。」と、彼が綴った81年5月は、第1次再審請求直後のこと。この時期、日弁連も支援を決めている。

彼は、「良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。」という。良心とは、彼の無実を信じて救援活動に没頭した家族や支援者の良心であり、ジャーナリストの良心であり、弁護団の良心でもあったろう。多くの良心が、無辜の人の心の支えとなったのだ。

しかし、現実の経過は厳しいものだった。「夜がゆっくり明け始めている。」と彼が呟いたときから、釈放まで33年を要している。しかも、その釈放から3年を経た今もなお、静岡地裁の再審開始決定には、検察官の即時抗告があって現在東京高裁で審理半ばである。だから、「もう待てない。一刻も早い再審開始を」という意見広告なのだ。

意見広告の下段には、袴田さん自身の次のつぶやきが、掲載されている。
 私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。
 私の心身は反則によってKOされたまま踏みにじられている。
 そのKOの底に身を横たえてしまうしかないのか。
 そして日一日と正義を殺されていくのか。
 これが私の生である。私の無念とするところである。…
 私は無実だ。…
(袴田巖 1981年11月29日 書簡集より)

冒頭の文章の明るさとはちがって、厳しさを感じさせる一文。これが、わずか半年後のこと。
「私は無実だ。…」と言いつつも、「日一日と正義を殺されていくのか。」という、呪詛の言葉が重い。私たちが作り運営する刑事司法の仕組みが、人の運命をもてあそび、無実の人の人生を奪ったのだ。

治安を維持するための刑事司法の必要性は自明である。しかし、刑事司法作用は生の権力発動として一歩間違うと、重大な人権侵害をもたらす。

そこで、「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則が掲げられねことになる。そして、この理は再審制度においても適用されるというのが、「白鳥決定」において最高裁が明言したところである。しかし、それでも冤罪はなくならない。

刑事司法とは、刑罰権・捜査権を行使する国家権力と、裸の私人とが対峙する場である。警察も検察もそして裁判所も、被告人の弱い人権に配慮しなければならない。刑事訴訟法とは、被告人の人権擁護のための体系にほかならない。

有罪判決は、「合理的な疑いを容れない程度」の心証があることを必要とする。証拠に照らして、「合理的な疑いを容れる余地なく有罪」と考えられる場合にのみ有罪判決となるのだ。白鳥決定は、再審の場合も同様だという。

この制度は、人類が正義の実現と人権擁護とを追求してたどり着いた、文明の到達点である。これに反して、「権力は間違いを犯さない」「警察がつかまえた者、起訴された者が無罪では権力が間違ったことになる」「だから、被告人が無罪となってはならない」という権力無謬の考えが権力機構の側に残存している。

袴田さんには、ぜひとも正義と人権を回復してもらいたい。
今こそ叫ぶときだ。
「私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。」
ようやくにして、「多くの良心に支えられて夜はゆっくり明け始めている」のだから。
(2017年8月18日・毎日連続更新第1601回)

国籍による差別を容認してはならない

昨日(7月18日)、民進党の蓮舫代表が自身の戸籍謄本の一部を公開して、二重国籍を否定した。右翼ジャーナリズムと党内右派の悪意ある攻撃に晒されて釈明を余儀なくされてのことだ。まさかそこまですることもあるまいと思い込んでいるうちのできごと。蓮舫支持の声が弱かったことが悔やまれる。

蓮舫代表の戸籍謄本の一部公開に先だって、昨日の午前中に、民族差別問題に関わる弁護士と著名大学人の10名が、連名で「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」と表題する文書を民進党に提出して、戸籍公開に反対する申し入れを行った。この申し入れに賛意と敬意を表するとともに、その全文を紹介しておきたい。

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 2017年7月18日

 「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」
民進党・蓮舫代表は、このたびの都議選を総括する党内論議の中で「代表の二重国籍問題が最大の障害」との一部の議員の指摘を受けて、台湾籍を離脱したことを証明する資料を18日に公表する方針を示しています。

 蓮舫代表は、参議院選挙に立候補した時点で戸籍謄本により日本国籍を有していることが確認されており、何の違法行為も行っておりません。一部の党内議論とごく一部の報道やネット世論が問題視している「二重国籍」なる問題ですが、そもそも、本当に「二重国籍」なのか、という点をまず問われなければなりません。

日本の国籍法はかつて父系血統主義を取っていたため、台湾籍の父を持つ蓮舫代表は出生時において選択の余地もなく台湾籍を持つことになりました。ところが、その後、1972年の日中国交正常化により、日本政府は中華人民共和国政府のみを唯一の政府であると認め、今日まで台湾(中華民国)政府を承認していません。そのため、蓮舫代表も中国籍とされたのです。その後、1985年に国籍法が改正され、蓮舫代表は経過措置による届け出により日本国籍を取得しました。日本政府の、中華人民共和国を正式な唯一の中国政府とする立場からすれば、日本国籍を取得した時点で中国の国籍法により自動的に中国国籍が喪失されることになります。すると、蓮舫代表についてそもそも二重国籍という問題は生じないことになります。

他方で、台湾の国籍法は外国籍の取得に伴う台湾国籍の自動的喪失を認めないため、国籍の得喪につき台湾の国籍法を適用すれば、二重国籍の問題が生じえます。ただ、台湾当局において台湾国籍の喪失手続きを行ったとしても、その喪失の効果を認めるか否かは日本政府の行政運用の問題であって、蓮舫代表個人の問題ではありません。

日本政府は、蓮舫代表の台湾籍の国籍喪失届を不受理にする一方で、台湾籍の放棄を宣言することによって行う国籍選択を行政指導したといいます(注1)。それ自体、矛盾した態度であると言わざるを得ません。また、仮に「二重国籍」であることを前提としても、国籍選択については、あくまでも法的拘束力のない「努力義務」にとどめており、これまで法務省自身が催告を行ったことがないことを認めています。そもそも、国籍選択制度自体、今日の国際色豊かな多様な社会状況からすれば、その有用性は大きな疑問です。

このように、国籍は複数の国の法制度が絡み合えば個人の意思に関わらず複雑な問題が生じ、しかも、未承認国家の国籍については、日本政府がどのような立場、対応をとるのか、ということが問題となるのです。

さらに、重国籍者の被選挙権についてもかつて国会で議論され(注2)、その被選挙権を制限する理由はないという結論が出ています。

つまり、蓮舫代表は自身の国籍に関して戸籍を含む個人情報を公開するなんらの義務も必要もありません。それにもかかわらず蓮舫代表に個人情報の開示を求めることは、出自による差別を禁じている憲法第14条(注3)及び人種差別撤廃条約の趣旨に反する行為と考えられます。

これまで日本には、戸籍に記された個人情報が差別や排除の目的で利用されてきた歴史がありました。被差別部落に出自を持つ人たちを雇用や結婚で差別するために作られた1975年の「部落地名総鑑事件」の教訓をもとに、企業による採用選考の場で応募者に戸籍謄本の提出を求めることは禁じられるようになりましたが、同様の差別がさまざまな形で残っていることは、各種調査でも明らかです。

また、日本には多くの日本生まれの外国籍者や、外国から日本に移動してきて暮らす外国籍者がいます。1万人を超える無戸籍者もおり、非嫡出子など出自にかかわるさまざまな事情を抱えた人もおります。アイヌは、明治32年に制定された北海道旧土人保護法により、日本の戸籍に編入されながら「旧土人」と分類され続けてきました。日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。その中で、今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに上記の憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。

とりわけ近年は、路上あるいはネットでのヘイトスピーチ、沖縄での機動隊員での「土人」発言や保守を名乗る政治家による排外主義的発言の横行を見てもわかるように、特定の人種、民族、国籍などの属性に基づくマイノリティ差別が酷くなる傾向にあります。民進党はこれまで、共生社会と多様性の実現を政策理念として掲げてきました。政策集の中には、目指されるべきは「一人ひとりの基本的人権をさらに尊重する社会、多様な個性や価値観が認められる人権尊重社会」とはっきり記されています。にもかかわらず、上記の一部の風潮に同調するように党内からも蓮舫代表に「日本人であること」の証明を求める声が出るというのは、憂うべき事態と言わざるをえません。

蓮舫代表が、自身がおっしゃるように「多様性の象徴」であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。

民進党が共生社会を求める市民に支持される公党たるべく、みずからの政策理念をあらためて確認されることを願うとともに、蓮舫代表には、ご自身のルーツや生きてきた道に堂々と胸を張り、不要な個人情報の開示要求は毅然として拒み、一人ひとりが大切にされる社会の実現のために力を尽くしてくださることを願ってやみません。」

佐藤学(学習院大学)、西谷修(立教大学)、山口二郎(法政大学)、中野晃一(上智大学)、香山リカ(立教大学)、伊藤和子(NGOヒューマンライツ・ナウ)、神原元(神奈川弁護士会)、原田學植(第一東京弁護士会)、小田川綾音(第一東京弁護士会、全国難民弁護団連絡会議)、金竜介(東京弁護士会、在日コリアン弁護士協会)

注1 国籍法第14条2項
日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。

注2 昭和59年5月2日、8月2日の参議院法務委員会における飯田忠夫参議院議員(公明党)と関守・内閣法制局第二部長、枇杷田泰助・法務省民事局長らとの議論

注3 日本国憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

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この長い文章の眼目は、「日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。」「今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。」というところにある。

そして、「蓮舫代表が、自身がおっしゃるように『多様性の象徴』であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。」が、受け容れられない社会へのもどかしさが伝わってくる。

本来は被選挙権の有無だけが問題で、氏が被選挙権を有することには一点の曇りもない。二重国籍であろうとなかろうと、なんの問題があろうか。むしろ、氏は「蓮舫」という、自己の出自を表す姓名を堂々と名乗ってこれまで選挙民の審判を受けてきたではないか。

この申入書の前半はやや煩瑣にまで、二重国籍を否定する論拠に割かれている。そうせざるを得ない現実があるのだ。

つまらんことだ。国籍や人種や民族や宗教の別にこだわることはもうやめたい。愛国心や国旗や国歌をありがたがるのも、実は差別の裏返しだ。一人ひとりを、個性を持った人間として尊重すべきだけが大切なことではないか。

ヒトの年齢を聞くことが失礼な時代にはなっている。国籍を問題することも恥ずべきことなのだ。「私の国籍がどうだって? 失礼なことを聞くもんじゃないよ」「二重国籍? それがどうした?」と言える、差別否定の常識が通用する社会でなくてはならないと思う。
(2017年7月19日)

弁護士河西龍太郎の「障がい者」訴訟についての取り組み

本日(7月10日)、久しぶりに河西龍太郎に会った。
彼は大学入学以来の親しい友人。司法試験の勉強をともにし、司法修習も同期で同じクラスだった。弁護士登録後ほどなく、私は盛岡で、彼は佐賀でそれぞれ法律事務所を開いた。よく似た弁護士活動をしてきた。

その彼から、先日事務所閉鎖の通知をもらって驚いた。「今般、河西龍太郎法律事務所を、5月1日をもちまして閉じることにいたしました」とあった。体調を崩してのことなのだが、とてもさびしい。

本日、彼の上京は、「『建太さんはなぜ死んだか』出版記念シンポジウム」に出席のため。この書は、彼が弁護団長を務めた「安永建太君事件」の顛末を斎藤貴男さんがルポとしてまとめたもの。「警官たちの『正義』と障害者の命」と副題が付いているこの書は、山吹書店から7月5日に発売されている。下記のURLを開いてご覧いただきたい。
https://www.amazon.co.jp/dp/4865380639

安永建太君事件の概略は以下のとおりである。

2007年9月25日、安永健太さんは自転車に乗って障害者作業所から自宅に帰る途中で、不審者と間違われ、警察官から後ろ両手錠を掛けられ、5人もの警察官にうつぶせに取り押さえられて心臓突然死をしてしまいました。
健太さんには中等度の知的障害を伴う自閉症スペクトラム障害があり、コミュニケーションが難しいという特性がありました。健太さんは警察官と相対していた時も、「アーウー」としか言葉を発していなかったそうです。しかし、警察官は誰一人として健太さんに障害があることに気づきませんでした。
家族は健太さんが死んでしまった原因を知りたいと思い、刑事裁判で健太さんを取り押さえた警察官の刑事責任の追及をするとともに、民事裁判(国家賠償請求訴訟)として健太さんを死亡させたことの損害賠償を佐賀県に求めました。
しかし、刑事裁判では健太さんを取り押さえた警察官は無罪となり、民事裁判でも、佐賀県の責任は認められないまま、裁判は終わりました。(「考える会」のパンフレットより)

「あらためてこの事件の本質は何であるか」という問に、斎藤貴男さんはこう答えている。
「刑事と民事、2つの裁判でそれぞれ争点となった、警察の『暴力性』と『障害者に適切な対応を採らなかった』ことの両方。いずれもこの国にもともと根強い忌まわしい風土だが、折しも事件当時以降、新自由主義の猛威によって、ますますその傾向が強まってきていることも遠因と考えてよいのではないか。共謀罪も明日(7月11日)から施行される運びで、このまま放置しておけば、こうした悲劇は幾度でも繰り返される可能性が高い。」

また、本日シンポジウムの資料として配付されたパンフレットには、次のように記載されている。
「安永健太さん死亡事件の本質は、『元気だった健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』、これに尽きると思います。言い換えれば、『もし健太さんに障害がなかったとしたら』、『もし警察官に障害についての知識があったとしたら』ということです。
健太さんに障害がなければ、死亡事件に発展したとは考えられません。知的障害や言語障害のあった健太さんは、警察官に取り押さえられたときに、唾を吐きかけたり手足をバタつかせるしかなかったのです。それが精一杯の意思表示だったのでしょう。警察官は、これを『抵抗』とみなし、『保護』の対象として容赦なく圧力を加えました。5人の警察官による渾身の圧力は、1人の若者を死に至らせるに十分でした。ついさっきまで元気に自転車をこいでいた健太さんは、十数分後には変わり果てた姿になってしまったのです。
悔やまれるのは、警察官に『障害』についての知識がなかったことです。5人の警察官の誰かが、普段から障害のある人と接していたり、障害の特徴についての理解があれば、結果は異なっていたにちがいありません。こうみていくと、安永健太さん死亡事件は、『障害ゆえの悲劇』であり、『無知がもたらした致死事件』と言ってさしつかえありません。
加えて残念だったのは、裁判の過程でこれらの点にまともに向き合ってもらえなかったことです。最大のテーマであった『健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』は明らかにされず仕舞いでした。結果として警察官の不当性は暴かれませんでした。
このままでは、好転の兆しにある『障害のある人もまちに出よう』の気運に冷や水を浴びせられたのも同然です。それだけではなく、障害のある人の命の基準値が引き下げられてしまいます。私たちは、今般の最高裁による不本意な決定を、安永健太さん死亡事件の本質である『健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』を社会みんなで考える新たなスタート台としたいと思います。二度と同じ悲劇がくり返されないために。

この事件で、警察官は特別公務員暴行陵虐罪で告訴されたが不起訴になった。これに納得し得ない遺族らが佐賀地裁に付審判請求を求め、これを支持する署名運動が取り組まれた。この点について、河西(弁護団長)が次のように述べている。

怒りの付審判請求署名
担当の検察官はようやく加害警察官を起訴するつもりになったようであるが、最高検は頭ごしに不起訴決定をした。佐賀の「考える会」はさっそく全国署名に取り組み、全国からの11万人の付審判請求署名を佐賀地裁に提出した。当時佐賀市の人口は10万人位であったろう。イ左賀地裁はびっくりして付審判請求を認めた。
本件は民事事件でも刑事事件でも警察官の違法性を認めなかったが、これは最高裁も知的障害者の権利救済には無力であるという赤恥を全国に洒したこととなる。今後は知的障害者の権利救済の運動を強化することが一番の課題となるだろう。

なお、付審判は検察官の起訴独占主義の例外として制度の紹介はどの本にも載ってはいるが、現実にはめったに認められない。1949年以降、延べ約1万8000人の警察官や刑務官など、公務員に対する付審判請求があったが、付審判が認められたのは23人であり、1人が係争中である他は有罪9人、無罪12人、免訴1人となっている(ウイキペディア)という。

河西龍太郎、じん肺闘争の先鞭をつけたことで名高いが、それだけではない。障がい者問題を含む人権課題でよく闘ってきたわけだ。

今日、彼から自分がデザインした「憲法擁護ハンカチ」をもらった。同じデザインの「憲法擁護たおる」もあるそうだ。それに、次の説明が付いている。これをご紹介しておきたい。
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「憲法擁護ハンカチ(たおる)」について
1 私は昭和17年生れですので、小学校入学当時に新憲法が施行されて2年目くらいの頃だったと思います。私の担任は若くて美しいY先生だったのですが、入学して間もなく「日本人は第二次世界大戦を深く反省し、二度と戦争をしないという決意のもとに軍隊を持たないという世界で唯一の平和憲法を制定しました」という話しをしてくれました。
2 私が弁護士になった頃は、自衛隊は自衛のための戦力であるので、合法だという考えに変わってしまいましたが、平和憲法がある限り、自衛隊が海外派遣されることはないだろうと考えていました。
3 しかし、今では一国の首相が、鉦や太鼓をたたいて改憲を叫びまわり、国民の半数近くも平和憲法の改正に賛成しているようです。平和憲法はまさに風前の灯の状況にあるといってよいでしょう。
4 私は日本の歴史を調べてみました。日本人というのは、ほとんど権力と闘ったことのない民族のようです。権力の横暴に立ち向かう力が弱い民族のようです。しかし、平和を愛する優しい心を持った民族であると思います。
5 そして、その優しい力を、今こそ護憲のために使わなければならない時期にあると私は考えます。
6 このハンカチ(たおる)は、みんな私がデザインしたものです。多くの方に使ってもらいたいと考えて、わざと「護憲」という文字は使っていません。しかし、デザインがユニークですので、気持ちは伝わると思っています。
7 このハンカチ(たおる)を多くの方に使っていただいて、利益が出れば護憲運勣に寄付したいと考えています。ご協力よろしくお願いいたします。
2017年5月 弁護士 河西龍太郎
(2017年7月10日)

今の日本は、世界の良識に反人権・反国際協調の国と映っている。

野蛮なトランプが、パリ協定からのアメリカ離脱を表明した。この歴史的愚行の傷は深い。「愚かなアメリカ」「手前勝手なアメリカ」「国際倫理をわきまえぬアメリカ」「ごろつきアメリカ」の刻印が深い。かつてのアメリカの威信回復は、もはや不可能かも知れない。あんな大統領を選出した、アメリカの「デモクラシー」の質が問われている。さて、振り返って日本はどうだろうか。こんな首相を権力の座から引き下ろすことのできない日本の「民主主義」は、アメリカと兄たりがたく弟たりがたい。

アベ政権は、参勤交代よろしく発足直後のトランプに擦り寄って、アメリカとの価値観の共有を強調して見せた。なるほど、野蛮で知性に乏しい、似た者同士。さて今後、両者の関係はどうなることやら。

「デンデンのアベ」に代わって、「ミゾユウのアソウ」が、えらそうにコメントした。
「もともと国際連盟をつくったのはどこだったか。アメリカがつくった。それでどこが入らなかったのか。アメリカですよ。その程度の国だということですよ。」

「この程度の政権」の副総理であるアソウによる、「その程度の国」への批判の言。だが、忘れてはならない。1933年3月、国際連盟脱退という愚挙を犯して国際的孤立化への道を歩んだのが、ほかならぬ日本だった。その程度の国だったのだ。

そしていま、日本は確実に国連との軋轢を拡大しつつある。世界の良識に背を向けつつあることにおいて、連盟脱退の時代に似て来たのではないか。これ以上再びの孤立化への危険な道を歩んではならない。

まずは、シチリア島におけるアベとアントニオ・グテーレス国連事務総長との懇談内容公表問題。日本側の公表内容を国連報道官側が否定した。国連側に、日本の公表内容は我田引水に過ぎるとのニュアンスが感じられる。問題となったテーマは、極めて重要な2点。「慰安婦問題に関する日韓合意評価」と、「『共謀罪』への懸念を表明した国連特別報告者の地位」に関するもの。

アベも、自分の都合のよいことについては、国連の権威を利用したいのだ。そこで、「安倍総理から慰安婦問題に関する日韓合意につき,その実施の重要性を指摘したところ,先方(グテーレス国連事務総長)は,同合意につき賛意を示すとともに,歓迎する旨述べました。」と発表した。しかし、国連側はこれを否定した。「(事務総長は、)慰安婦問題が日韓合意によって解決されるべき問題であることに同意した」が、「事務総長は、特定の合意内容については言及していない」、「問題解決の方向性や内容を決めるのは日韓両国次第だという原則について述べた」だけだという。

また、日本側は「(事務総長は、)人権理事会の特別報告者は、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は、必ずしも国連の総意を反映するものではない旨述べました。」と発表した。しかし国連側は、「事務総長は安倍首相に対し、(人権理事会の特別報告者とは、)国連人権理事会に直接報告する独立した専門家であると述べた」という。

日本側は、反論しているようだが、無駄だし無意味だ。懇談の席でどう話されたのかが問題ではない。いま、オープンな場で、事務総長が日本側の公表内容を否定していることが重要なのだ。アベが深追いすれば、みっともなさの傷は深くなるばかり。

次に、デービット・ケイ報告問題。国連人権理事会の特別報告者であるこの人。担当は、表現の自由だ。昨年来日して、日本における言論の自由状況を精力的に調査して、深い懸念を表明した中間報告書を作成している。特定秘密保護法問題、担当大臣の停波発言等報道の自由の萎縮、そして教科書検定のあり方など問題とされた内容は具体的だ。この人の報告に接して襟を正さなければならない政権が、逆ギレしてしまっていることが異常な事態である。

さらに、プライバシー担当のジョセフ・カナタチ特別報告者の共謀罪に関するコメント。首相宛ての書簡が話題を呼んでいるが、政府は自らの姿勢を反省する姿勢はさらさらなく、抗議に及んでいる。国連の言うことなど聞く耳もたないという如くである。

そして、思い起こそう。世界の潮流が反核に動いているこのときに、被爆国日本が、核兵器禁止条約に反対の立場を鮮明にしていることを。日本政府は、核兵器禁止条約への交渉不参加を表明して実行している。国連の圧倒的多数国が、6月15日から7月7日まで、後半の交渉スケジュールで核兵器禁止条約を作り上げる交渉の予定だが、ここに日本政府が姿を見せることはない。

他国から日本政府の行動を見たら、日本は反人権国であり、反国連・反国際協調主義の国柄と映るだろう。そして、原水爆禁止にもまったく熱意のない国であるとも。
世界からこのように見られている日本が共謀罪を成立させれば、そして9条改憲を実現させれば、国際社会は1933年の過ちを再び繰り返す日本を想起することだろう。アベ内閣自身が、そのような「印象」をもたれるよう、せっせと「操作」を積み重ねているのだ。
(2017年6月4日)

「憲法とはなんぞや」「日本国憲法とはなんぞや」

労働者学習センターが発行する「ひろばユニオン」という労働組合運動誌がある。月刊で、一冊490円(税込み)の定価。1962年4月に第3種認可取得とされているから、55年の歴史をもっていることになる。さすがに連合系組合からの寄稿が多いが、特定のスポンサーなしで運営を続けているという。労働運動低迷と言われる今日、貴重な出版物というべきだろう。

その「ひろばユニオン」に、12回連載の予定で、「施行70年 暮らしと憲法」のシリーズの執筆を引き受けた。この4月号からのこと。その書き出しが、以下のとおりだ。

「今月号から1年間、12回連載で本誌に憲法をテーマに執筆することになりました。各号ごとに、身近なトピックを取り上げて憲法を語り、12回を通じて憲法の全体像が把握できるようにする、そんな試みの連載です。」

そんなに、うまく行くかどうか。やってみなければ分からないが、できるだけのことをやってみよう。毎号4000字。写真をいれて、4ページ分。

連載初回の4月号では、森友学園問題で話題となった教育勅語を取り上げた。この勅語に、大日本帝国憲法の精神がよく表われている。こうして叩き込まれた臣民根性の残滓が今なお、払拭しきれずに残ってはいないか。国民主権の日本国憲法下、主権者の自立が必要というテーマ。

第2回の5月号では、「平和憲法70歳 あせぬ輝き」と題して、憲法の平和主義と、70年間国民が憲法を守り抜いてきたことによって、この憲法を国民自身のものとして定着させてきたことの意義を書いた。

そして、連休明けまでに第3回の6月号の記事を送稿しなければならない。原稿依頼を受けることは珍しくないが、毎月の連載は意外に重荷だ。なお、季刊の「フラタニティ」に、「私が関わった裁判闘争」を連載して、既に第6回分を送稿済み。このように課題を与えてもらわないとまとったものを書くはずはないのだから、原稿の依頼を受けることはありがたいのだが、文筆を生業としている身ではないので、ときに本業との時間の配分に苦しむことになる。

12回の構想は、「憲法とはなんぞや」「日本国憲法とはなんぞや」という根本理念に関するテーマで3回、人権論に5回(労働基本権を手厚く)、統治機構に3回(立法・行政・司法)、憲法改正手続と緊急事態に各1回というところ。

予定ではもうできているはずの、立憲主義をテーマにした、「憲法とはなんぞや」という原稿が本日まだ完成しない。

トピックとしては、来年(2018年)の「明治150年」を機に、「明治の日」を作ろうという運動。「昭和の日」の右派の集会での、自民党の青山繁晴参議院議員の「私たちの憲法は古代の十七条の憲法に始まり、それが近代化されたのは明治憲法ではなく、本来は五箇条の御誓文。御誓文こそ、私たちの本来の憲法だ。『明治の日』が制定されれば、そういう根幹に立ち返ることを子どもたちに話すこともできるのではないか。」を取り上げた。

「十七条の憲法」も「五箇条のご誓文」も憲法ではない。では、憲法とは何か。近代憲法の典型は、民衆が王政を倒した市民革命後のフランスに見ることができる。憲法とはなにかという有名な定式として、フランス人権宣言(1789年)16条は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と言っている。

(1)「権利の保障の確保」と、
(2)「権力の分立の定め」とが必要。
(1) が目的、(2) は手段の関係。

個人の人権と国家の権力との対立構造を明確に意識して、強い国家権力が、国民の人権を侵害することのないよう、権力を集中させずに分立した権力が互いに牽制しあう仕組みを作らなければならない、ということ。

この定式のもと、憲法の構成は、人権宣言(人権のカタログ)の部分と、国家の仕組みを形づくる部分(統治機構)とに大別されている。なによりも人権の保障が大切で、これを守るための国家の仕組みが工夫されている。

日本国憲法は、市民革命後の近代憲法のあり方の正統な承継者として、徹底した人権尊重の立場を貫いている。これは個人を価値の出発点とする個人主義であり、国家を人権と対立する危険な存在と考える自由主義を大原則としているということ。国家や社会よりも、国民個人が大切という考え方で、国家主義や全体主義はとらないということなのだ。

この大原則において、日本国憲法は、天皇あっての臣民、国家あっての個人という、戦前体制とは理念を異にしている。

こんな趣旨だが、これだけでは面白みに欠ける。どうすれば面白く読んでもらうことができるか、もう少し考えてみよう。
(2017年5月6日・連続第1497回)

「マイナンバー使用は 自尊心が許さない」

先日、少人数の学習会の席で、マイナンバーを話題にした。「みなさん、役所への書類にマイナンバーを書いていますか?」と振ったら、一人の女性がこう言った。
「私には、ちゃんとした名前があります。役所から勝手に12ケタの番号を押しつけられて、これを名前の代わりに使えといわれてもその気にはなれません。私は、国から番号で管理されるのはイヤですから、マイナンバーはけっして使いません。マイナンバー書かないから逮捕するなどということがない限り(笑)」
なんときっぱりした、すがすがしい姿勢。これは素晴らしい。

この女性の発言は、マイナンバー使用の押しつけは自分の人格の尊厳を傷つけるものだという主張。「私は名前を持っている」「私を特定するのは名前で願いたい」「割り当てた番号で私を管理することは拒否する」という、自尊心がほとばしり出た言である。これを支える憲法の条文を探せば13条(個人の尊重)であり、11条(基本的人権の享有)であり、あるいは97条(基本的人権の本質)ということになろう。憲法にどう書かれていようと、なにより大切なのが個人であり、その尊厳だ。国家は、個人の尊厳を傷つけてはならず、個人の尊厳を最大限尊重しなければならない。マイナンバーの使用は、これに反するではないか。

そう思っていたところに、先週金曜日(3月24日)赤旗「くらし・家庭」欄のマイナンバー解説記事に接した。その見出しが「マイナンバーは個人の尊厳侵す」である。解説者は、旧知の浦野広明さん(税理士・立正大学法学部客員教授)。大いに賛同する立場から、ご紹介したい。

まず、結論。明快この上ない。
個人番号(マイナンバー)は憲法13条が保障する個人の尊厳を侵すもので、明らかに憲法違反です。『法律だから』といって従うのではなく、はっきり拒否すべきです。

マイナンバーを違憲と主張する複数の裁判も係属中だという。
国を相手に個人番号の利用停止や削除などを求める違憲訴訟も、全国八つの地裁で進行中です。

具体的にどう対応すべきか。
悪法は世論と運動の力で使わせずに形骸化させることが大事です。窓口で『知りません』『番号を使うつもりはありません』といえば、それまでです。

ほんとうにそれで大丈夫なのか。面倒なことにならないか。
約100件の相談を受け、番号を記載せずに郵送で申告してすべて受理されました。国税庁などの省庁も『番号未記載でも受理し、罰則や不利益はない』と繰り返し表明しています。

次いで、制度についての納得できる説明。まずは法の名称。こんなことご存じでしたか。
「マイナンバー」の根拠法である「個人番号法」の正式名称は「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」です。似た名前の法律に「牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法」(2003年)があります。BSE(牛海綿状脳症)対策として導入された同法によって、肉屋さんや消費者は、肉の生産履歴を知ることができます。牛の個体識別は食の安全・安心にとって有用でしょうが、私たちは家畜ではありません。

表向きの立法目的と真の立法動機
徴税など政府の都合や目的のために、私たちの全情報を一つの番号で収集・管理し、「特定の個人を識別するための番号の利用」が個人番号の核心なのです。私たちは既に、個別の目的ごとに、さまざまな番号をつけられています。基礎年金番号や保険者番号、・住民登録番号、運転免許証、パスポート、診察券、口座番号、社員番号などなどです。しかし、個人番号は、すべての情報を一つの番号で国が一元的に管理しようというものです。

マイナンバー制度はどんな危険をもっているか。
番号制を導入している韓国では、コンビニで買い物する際に番号を提示します。何番が、いつ、どこで、何を売買したかが、レジと国税庁のコンピューターが連動していて把握できます。このように、一つの番号で個人の全情報をつかむことは、憲法13条が保障する個人の尊厳に反することは明らかです。

マイナンバーの利便性についての国の説明
国は、「マイナンバーは、行政を効率化し、国民の利便性を高め、公平かつ公正な社会を実現する社会基盤」(内閣官房ホームページ)と説明します。しかし、《コンビニで住民票が取れる》程度の利便性と引き換えに、個人の尊厳を捨てたり、個人情報の流出・番号不正利用の危険に甘んじたりするわけにはいきません。

国民にマイナンバー使用の義務はない。
番号を扱うのは、国と地方自治体、「番号を利用する事業者」です。国民には何ら義務規定はなく、もちろん罰則や不利益もありません。

他人の番号を集めると苦労する
番号は最終的には国が把握しますが、社会保障や税の分野などでは個人番号を集めるのは主に民間です。漏えいなどに対する重い罰則があり、取り扱いで苦労することになります。すでに、番号がもれた時の損害保険も用意されています。

マイナンバー笑うは政府と大企業
個人番号は初期投資だけで3000億円、セキュリティー対策などで1兆円市場といわれます。大儲けするのは一握りの大手IT企業だけです。
(2017年3月27日)

「共謀罪」は、法案として提出されても4度目の廃案に追い込める。

本日の憲法学習会例会にお招きの電話をいただいた際に、二つ返事で承諾申しあげました。3月15日を特に選んでの共謀罪をテーマにした学習会。これは、お引き受けしなければならない、と思ったわけです。

この地域のみなさまが、10年以上の長期にわたって、毎月の憲法学習会例会を続けていらっしゃることに敬意を表します。ご期待に応えるような、ご報告となるよう努めたいと思います。

今日は「3・15」の当日ですから、最初に治安維持法のお話しをさせていただき、次に「治安維持法」と「共謀罪」とがつながっていることを理解するための幾つかのキーワードをご説明し、そのあとに共謀罪を語りたいと思います。共謀罪がどのように危険で、かくも危険な共謀罪を導入必要という政府説明のウソをあばくかたちでレポートしたいと思います。

1928年3月15日は、治安維持法の最初の本格的発動の日として記憶されています。治安維持法は1925年に普選法成立と並んで成立しています。政府によるアメとムチの使い分けとも言えますが、ときは大正デモクラシーの時代、民衆の側に普通選挙を実現させるだけの力量があったのですから、けっして治安維持法が無警戒に成立したわけではありません。

その危険性については、ジャーナリズムも院内勢力も指摘したところです。それでも、1923年の虎ノ門事件(摂政襲撃事件)やコミンテルンなどによる、「テロの危険」防止の必要が政府側から強調されたことは、いま想起されるべきことだと思います。

また法案を提出した政府側は、法案を言論の自由を直接取り締まるものではなく結社を規制するにとどまっているとし、濫用の危険はないと防戦に務めました。このことも、教訓としなければなりません。

1925年成立時の法は、「国体の変革」と「私有財産制の否定」を目的とする結社を禁じました。だれが見ても、これは共産党弾圧の法です。天子に弓引く国賊とされた共産党。多くの人が、国民の結社の自由弾圧を怒ることなく、共産党を孤立させました。権力にも、そのような計算があったはずと思われます。

最初の弾圧対象は意識的に共産党とされ、次第に弾圧対象は拡散して政権にまつろわぬ者へと無限に拡散していくことになります。

とりわけ、1928年改正で追加された「目的遂行のためにする行為」罪の新設が決定的でした。組織の設立や加入だけでなく、「結社の目的遂行のためにする行為」という曖昧模糊な漠然とした犯罪類型の創設が権力の側にとっては、この上なく使い勝手のよい、民衆の運動弾圧に調法な道具となったのです。権力にとっての調法は、民衆にとっての大迷惑。

労農弁護士団事件では、弁護士の弁護活動が「結社の目的遂行のためにする行為」とされました。3・15事件や、4・16事件で検挙され起訴された共産党員を弁護した弁護士が、治安維持法の「共産党の目的遂行のためにする行為」を行ったとして逮捕され、起訴され、多くは執行猶予付きでしたが有罪判決を受けました。そして、弁護士資格剥奪となったのです。

人権を擁護する弁護士の任務遂行が犯罪とされる時代、それが現首相が取り戻したいとする日本なのです。教育勅語が子どもたちに刷り込まれた時代の日本の姿なのです。

治安維持法の危険の本質は、
(1) 表だって、国体に反する思想そのものを弾圧対象としたこと
(2) いかようにも使える権力にとっての調法さ
にあったと考えられます。

実は、(2)については共謀罪もまったく同じです。そして、そのことを通じて、政権が不都合とする思想を弾圧したり、萎縮させたりすることができるのです。

日本国憲法の根幹には自由主義があります。権力を恐るべき警戒対象とし、その暴走の抑制によって国民の自由を擁護しなければならない、とする考え方です。

この自由主義の理念が刑法に表れて、刑法の人権保障機能を形づくることになります。その際の原則が罪刑法定主義であり、その核をなすものとして求められるものが、構成要件の厳格性です。とりわけ、犯罪構成要件における「実行行為」こそが、が権力発動の可否を画する分水嶺です。

犯罪構成要件における「実行行為」は、それぞれの犯罪に相応した定型性をもっています。「人を殺す」「人の財物を窃取する」「火を放つ」等々、明らかに日常的な行為とは性質を異にする、違法が明確な特別の行為、と言えます。

ところが、「共謀罪」は、そのような実行行為着手の段階での取り締まりでは遅い、もっと前の段階で取り締まらなければテロの防止はできない、と言うのです。ここに、共謀罪の無理があります。自由や人権を擁護する体系として積み上げられてきた刑法の体系を崩さなければ、あるいははみ出さなければ、共謀罪は創設し得ないのです。

実行行為の着手に至らない予備・陰謀・「準備」・「共謀」などで、犯罪を覚知するためには、実行行為としての定型性がない行為を犯罪と認定しなければなりません。日常生活の一部である会話、電話、買い物、預金の引出し、などのそれ自身では違法性のない行為が、共謀罪として犯罪にされるのです。

このような共謀罪が、どうしても必要だという政府説明はウソです。 国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(パレルモ条約)といわれる国連決議に基づく条約締結のために共謀罪の立法が必要だということはウソです。名前を変えて、「テロ等準備罪」としていますがその名称もウソ。「組織的犯罪集団」に適用限定というのもウソ。「準備行為」が権力濫用の歯止めになるというのもウソ。

「安全・安心の獲得」という宣伝に欺されて、国民の自由や人権を売り渡してはならない。強くそう思います。

「アベ内閣は強そうに見える。共謀罪を廃案に追い込むだけの展望をどう考えているか」というご発言がありました。私は、廃案にできる、と考えています。もちろん、自動的にそうなるのではないが、運動の成果は結実するに違いない。

共同通信社が3月11、12両日実施した全国電話世論調査によると、「共謀罪の構成要件を変えた組織犯罪処罰法改正案については反対が45・5%、賛成は33・0%だった。賛成42・6%、反対40・7%だった一月調査とは賛否が逆転。政府はテロ対策が目的だと説明しているが、与党に当初示した条文案に「テロ」の表記がなかったことなどが影響したとみられる。」と報道されています。

アベ政権は、自衛体を南スーダンから撤退させると決断しました。隊員からの死亡者が出たら政権はもたない、との判断からだと思います。オスプレイの横田配備も当分ないことになった。

アベ政権は世論に押されつつあり、また、世論は変わりつつあります。政府与党は、内部の摺り合わせを終了して、近々閣議決定の上法案提出の予定とされていますが、提案されても、きっと4度目の「共謀罪」廃案を実現することはできると考えています。
(2017年3月15日)

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