澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。

「日の丸・君が代をおしつけないで」という集会とデモを行います。名付けて「リバティ・デモ」。ぜひご参加ください。

私たちの主張は、「日の丸・君が代に反対」ではなく、「日の丸・君が代をおしつけないで」ということです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方の意見は尊重しましょう。同じように、「日の丸・君が代の押しつけは困る」という私たちの声にも耳を傾けていただきたいのです。

私たちが大切にしたいのは一人ひとりの考え方がひとしく尊重される多様性です。多様であることの自由です。自由の先進国の言葉で言えば、「リバティ」あるいは「リベルテ」。だから、「リバティ・デモ」。

「日の丸・君が代」が好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる「やわらかでやさしい社会」を目指して、 ご一緒にデモに参加していただけませんか。

私たちは、主張します。

「国旗・国歌」にどのような考え方をもつのも自由であること
「日の丸・君が代」への敬意を強制してはならないこと
「国を愛する気持ち」は自然に湧き出るもので、押しつけることはできないこと
学校とは、多様な意見を尊重し合うことを学ぶところであること

この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

みんなで一緒に楽しく歩きましょう。自由を求めて。

… … … … … … … …

日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

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このリバティデモ出発前の集会では、私(澤藤)が報告する。テーマは、「4次訴訟の現段階」。いま、東京「君が代」裁判(懲戒処分取消等請求訴訟)4次訴訟は、東京高裁で半分勝ち半分負けて、納得できない13人が上告している。7月6日までに上告理由書を提出しなければならない。いま、弁護団は必死になって、この上告理由を執筆している。

以下に、一部をピックアップしてご紹介したい。「原判決(東京高裁第12民事部(杉原則之裁判長)2018年4月18日)には、憲法20条(信教の自由保障条項)解釈の誤りがある」とする上告理由中の一節。(但し、すべてが裁判書提出のとおりではない。)

1 国民各人の多様な価値観の共存を尊重すべきことは民主主義社会における普遍的な基本原理である。日本国憲法はこの基本原理に基づいて、個人の精神生活のありようについては、当該個人の選択を無条件に尊重すべき多元主義の立場に立つ。公権力によるその選択への介入は絶対的に禁止されている。
その当然の帰結として、憲法は、多文化,多宗教が共存する社会を正常なものと想定して、個人において信仰をもつことも、もたないことも、またいかなる宗教的信念を持つことも、完全な自由として保障している。
誰もが自ら選択した信仰にしたがって生きることを権利として保障される。公権力がこれに介入することは許されない。ただ、信教の自由の行使が、他の人権や、譲ることのできない憲法価値と具体的に衝突する場面では、その限りで調整を受けるべきことは当然であって、信教の自由ゆえに全ての行為(作為・不作為)が許されるというものではありえない。他の権利と関わりうるすべての権利が無制限ではあり得ないことは、ことさら述べるまでのことでもない、当然の事理である。肝腎なことは、他の権利との衝突の場面での調整の必要が認識されるべきこと、その調整のありかたが憲法の理念(価値序列)に照らして合理的でなければならないということである。
2 日本全体が多宗教共存の社会である以上、都立校の教職員の中にも、多様な信仰をもつ者があり、また、信仰をもたない者もある。信仰者であることを公然化している者もあり、そうしてはいない者もある。そのことは、上告人らにおいても同様である。
信仰は多様である。宗教的なタブーとされるものは、それぞれの信仰によって著しく異なる。偶像崇拝禁止に潔癖な信仰もあり、そうでない信仰もある。その教義や歴史的経緯から公権力との関係に緊張感の高い宗教もあり、公権力に親和性の濃い宗教もある。信仰上の理由で、日の丸・君が代への敬意の表明をなしがたいとする者もいれば、その信仰と矛盾を感じない信仰者もありうる。
また、非信仰者の宗教意識も同じく多様である。自らは信仰をもたないが、日の丸・君が代の有する宗教的な側面に強い違和感をもち、それ故に起立斉唱等の強制には服しがたいとする者もいる。
上告人らが提出した陳述書によれば,少なくとも二人の上告人が、自らキリスト教を信仰していることを明示して、その信仰ゆえに日の丸・君が代への敬意の表明はできない、したがって起立斉唱等を強制する職務命令には服しがたい、としている。また、一審における原告本尋問結果も、詳細にそのことを証している。
この両名について、憲法20条が保障する信教の自由侵害があったことは明らかというべきであって、これを儀礼的所作の強制に過ぎないとして、「そもそも信教の自由侵害にあたる公権力の行使そのものが存在しない」とするのは、詭弁も甚だしい。
3 憲法20条は,第1項前段で「信教の自由はこれを保障する」と規定し,第2項で「何人も宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない」と規定する。
信教の自由には,①信仰の自由,②宗教的行為の自由,③宗教的結社の自由が含まれると説かれるが、本件で論じられるのは、主として「絶対的保障」とされる信仰の自由であり、これと不可分な限りでの消極的宗教的行為の自由である。
留意さるべきは、信教の自由が,多数派または正統派とされる宗教(オーソドックス)に対する少数の異端者,抵抗者の信仰の自由を保障するために認められてきたという歴史的経緯である。謂わば、典型的な少数者の人権として意識されてきた「非妥協的な基本権」である。宗教的少数者に対して宗教的寛容を強制するという愚かな過ちを犯してはならない。「たとえ,少数の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても,彼らの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されないのである」(津地鎮祭訴訟大法廷判決の藤林益三最高裁長官の追加反対意見)との言が信教の自由の真髄を示していることを看過してはならない。
公権力が特定の宗教を正統と定め,国民に対しその信仰を強制あるいは勧奨することは,公権力が人の内心に踏み込むことであるから絶対的に禁止される。また,特定の信仰を有すること,あるいは有しないことを理由として刑罰その他の不利益取扱いをすることも,憲法20条1項前段によって禁じられる。さらに,公権力が人の信仰の有無を強制的に告白させること,あるいは宗教関係の調査を行うことは,公権力が人の信仰の有無を知ろうとするのは,それによって,有形無形の圧力,干渉を加えるためであったことは歴史的事実であり,仮にそれが弾圧,迫害を目的とするものではないとしても憲法20条によって禁止されるのである。
したがって,信仰の自由は,①特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を強制することの禁止,②特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を理由とする弾圧,迫害など不利益処遇の禁止,③信仰を有していること,あるいは有していないこと,無信仰であること,の告白を強制することの禁止,をその内容としている。
これらの信仰の自由は,憲法19条が保障する思想・良心の自由の宗教的側面であり,その保障の効果も,憲法19条と同様に,絶対無制約である。
なお、憲法20条2項は,何人も宗教上の行為などを「強制されない」というかたちで規定しているが,これは,明治憲法の下で,神社への参拝が強制されあるいは神道式の国家的儀式への参加が強制され,あるいは神道式の学校行事の実施が強制されたことに対する反省から定められたものに他ならない。すなわち,宗教上の行為(典型的には、礼拝,祈祷,宗教儀式,式典,あるいは布教活動など)を行うこと,または参加すること,あるいはこのような行為を行わないこと,または参加しないことなどはすべて個人の自由な意思で決めるべきことであって,公権力がこれらを強制することは許されないことの確認規定である。
ここでいう「宗教上の行為」の外延は、被強制者の信仰の自由保障の観点から、合目的的に確定される。信仰の自由の外延を切り縮めることがあってはならないことから、「宗教上の行為」の外延も同様の広い外延をもつ。
4 キリスト教徒である上告人両名の「信仰上、起立斉唱等ができない」とする心情を語った各陳述書の内容および本人尋問結果の内容は、同じキリスト教徒でも、日の丸・君が代の強制に服しがたいとする理由はけっして一様ではない。
しかし、キリスト教徒として真摯な信仰を有する上記上告人らのすべてにとって、卒業式・入学式等での君が代斉唱時に,日の丸に向かって起立し君が代を斉唱することは,信仰に反する行為を外部からの命令によって強制されることであり,自己の信仰の否定にほかならないとする強い信念においては一様であることをものがたっている。
キリスト教徒である上告人らにとって、信仰の対象とする神以外の偶像には崇拝が禁じられる。一方,日の丸・君が代は,戦前戦中において,神権天皇制国家の国旗国歌として、宗教国家のシンボルであると同時に、国家宗教のシンボルでもあった。国家神道の象徴として、明らかに神性を有する宗教的な存在であった。そして,いまなお,「日の丸・君が代」の宗教性は払拭されていないというのが上告人らの信念である。
したがって、「日の丸・君が代」に敬意を表明することは信仰に反する行為としてなしえない。このような説明は、多元的価値観の併存を認め、他人の信仰に寛容であろうとする良識を備えた者には、容易に了解可能なものである。
「いまなお,日の丸・君が代の宗教性が払拭されていない」ことが「客観的な」事実であるか否かの確認は不必要である。これも、信仰者の宗教的信念の内容に属することがらだからである。起立斉唱等の強制が、当該上告人らの信仰の自由と抵触することは明らかというべきである。
もちろん、信仰内容だからという理由で、あらゆる職務命令の拒否が許容されるものではない。他の重大な憲法価値との衝突の局面では、信仰が譲歩を余儀なくされることもあろう。
しかし、真摯なキリスト教徒の信仰を傷つけてでも、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意の表明を強制する必要性も合理性も到底認めがたい。ここには、憲法価値の優劣に関する倒錯があるとしか評しようがない。
卒業式等における「日の丸・君が代」強制は、当該信仰者との関係において、明らかに信仰の自由を侵害するものである。(以下略)

(2018年6月26日)

絵本『花ばぁば』が語る「戦争のおぞましさ」と「出版の不自由」

私の手許に、「花ばぁば」という絵本がある。やさしい筆使いのやわらかい絵。たくさんの花が描かれている。子どもたちに読んでもらおうという、紛れもない上質の絵本。しかし、内容はこの上なく重い。日本軍慰安婦だった一人の女性の人生を描いた作品。

絵と文は、クォン・ユンドク。1960年生まれで大家という年齢ではないが、「韓国絵本界の先駆者」と紹介される人。翻訳は桑畑優香。早稲田を出たあと、延世大学、ソウル大学で学んだ人だという。絵本にふさわしい、優しさあふれる文章になっている。

『花ばぁば』とは、元日本軍「慰安婦」だったシム・ダリヨンさんのこと。その辛い体験の証言をもとにストーリーが組み立てられている。晩年の彼女は、園芸セラピーを受け、押し花の作品作りを楽しみに過ごしていたという。

通常の絵本にはない、前書きとしての「著者からの言葉」がある。その冒頭の一文が、「戦争で被害を受け苦しんでいる、すべての女性たちにこの本を捧げます」というもの。重ねて後書きとして、Q&A形式の「読者のみなさんへ」がある。いずれもやや長い。著者のこの本の出版へのこだわりや思いの深さが痛いほど伝わってくる。

その中の一節にこうある。
「この本では、黄土色と『空っぽの服』を象徴として、私たちが『慰安婦問題』を見つめるときに注目すべきことに対する考え方を表現しています。旧日本軍の服の色である黄土色は帝国主義を、『空っぽの服』は人間の考え方と行動を規定し支配する制度や習慣、国家体制などをそれぞれ象徴しています」
「誰もがそのような服を着れば、自分でも気付かない行動をとる可能性があります。つまり、『私たちは、慰安婦問題の責任を一人ひとりの具体的な個人ではなく、彼らを指揮し煽動した国家と支配勢力に問うべきだ』という意味を込めているのです」

大いに異論があってしかるべき論争点だろうが、これがこの作品の中心テーマで、作家の視点には揺るぎがない。大日本帝国の責任、旧日本軍の責任、どの部隊の誰の責任と決めつけ特定してしまうと普遍性が薄れる。戦争一般に性暴力の原因があり、弱者に深刻な被害を強いるものという基本認識から、戦争そのものをなくそうという平和志向の思想。だから、最後は、こう締めくくられている。

「今も地球上のあちこちで絶えず戦争が起きています。花ばぁばが経験した痛みは、ベトナムでもボスニアでも繰り返されました。そして今、コンゴやイラクでも続いているのです。」

この本の刊行は、今年の4月29日の日付。「ころから」という小さな出版社から、「202名の(クラウドファンディングでの)支援で刊行されました」と記されている。が、この本が実は8年も前に日韓同時に出版されるはずだったことを知らなかった。このことは、日本社会の表現の自由の現状を雄弁に物語っているのだ。

以下は、東京新聞2018年6月20日の「『花ばぁば』が伝える戦争」というコラム。この間の事情を手際よくまとめている。

「東京・赤羽の小さな出版社「ころから」から出された絵本『花ばぁば』は、旧日本軍の慰安婦とされた韓国人のシム・ダリョンさんの証言に基づき、韓国の作家クォン・ユンドクさんが描いた物語だ。

日本が朝鮮半島を植民地としていたころのこと。突然連れ去られた少女は軍の施設に閉じ込められ、その部屋の前には兵隊たちが毎日列を作った…。水彩の絵の美しさが、軍隊の暴力性をより鮮烈に伝えるようだ。

2010年に韓国でオリジナル版が出版された後、日本での出版は、シムさんの証言が慰安所設置に関する公文書記録と一致しないという理由で見送られた。一度お蔵入りしたこの作品を日本で出そうと奔走したのは、絵本作家の田島征三さんら日本の有志だった。

実は私(記者)も05年、大邱(テグ)市にあったシムさんの自宅を訪ね、被害の体験を聞いたことがある。けれども連行された時期や場所など分からない点が多く、証言を記事にできなかった。彼女は『私は頭がおかしくなった。覚えていないんだ』と涙ぐみながら、日本からきた記者の私に語ろうとしたのに。あの日、私がするべきだったのは、『埋められない記憶』を問うことではなく、彼女が経験した痛みの重さにもっと心を寄せることだった。

シムさんは日本版の出版を待たず10年に83歳で他界したが、彼女が残した絵本は戦争の真実を静かに語り続ける。(佐藤直子)」

「マガジン9:http://maga9.jp/」には、「この人に聞きたい」シリーズで、クォン・ユンドクのインタビュー記事が掲載されている。今年の5月30日にアップされたもの。これは、衝撃的な内容。

クォン・ユンドクさんに聞いた:日本軍「慰安婦」にされた女性の物語 『花ばぁば』で伝えたかったこと

クォン 日本での版元からは最初、日本で出版するためにはここを変えてほしい、といって何度も修正依頼が来ました。受け入れられる点については修正しましたが、とても受け入れられない点もあって、それについては「できません」とお答えしたのです。

──たとえば、どんな点でしょうか。

クォン 『花ばぁば』では、慰安所の見取り図のような場面や、慰安所がつくられていた地域分布を示す場面なども出てくるのですが、こうした資料的な絵を入れず、もっと「一人の女性の人生」という観点からストーリーをつくれないか、と言われました。でも、私は単なるハルモニの個人史ではなく、その背景にある社会的な要素もあわせて描きたかった。そこは変えたくありませんでした。
また、もっとも受け入れがたかったのは、モデルを別のハルモニに変えてほしいと言われたことです。シム・ダリョンさんは慰安婦として連れて行かれた後、戦後にかけて記憶を失っている時期があるので、証言の確実性がないのではないか、というのです。シム・ダリョンさんのように無理矢理トラックに乗せられたケースではなく、「お金を稼げるよ」と騙されて連れて行かれたハルモニの証言をもとにしたほうが、普遍的な物語になるのではないかとも言われました。

でも、シム・ダリョンさんが記憶喪失になってしまったのは、慰安婦にされて性暴力を受けたことや、戦後に韓国で差別を受けたことの結果であって、そのこと自体が重要な「記憶」です。それを証言として信用できないということには、まったく納得が行きませんでした。私はシム・ダリョンさんだから描きたいと思ったのだし、出版社が「こういうおばあさんの話を描いてほしい」というのなら、それを描いてくれる作家を別に探せばいいじゃないか、という話ですよね。
最終的には、「他のハルモニの話に変えないのならうちの出版社からは出せません」という返事でした。

──それが本当の理由というよりは、慰安婦問題というセンシティブな問題を扱った絵本を出したくなかったのかもしれないという気がします。特に、ここ数年の日本では、「慰安婦」という言葉を出すだけで一部の層からひどいバッシングを受けるという傾向がありますし、「シム・ダリョンさんの証言に問題があるから出さない」ではなく、「日本社会に問題があるから出せない」だったのではないでしょうか。

クォン 本当にそうです。その「日本社会の問題」を、「ハルモニの問題」にすり替えて断りの理由にされたことが本当に悲しくて。そのときにはもう亡くなられていたシム・ダリョンさんに対しても、申し訳ない思いでいっぱいでした。被害者が自分の受けた被害の話をするというのは、本当に苦しくてつらいことなのに、それを否定されたわけですから……。私だけでなく、「平和絵本」シリーズにかかわっていた作家たちはみんな、大きなショックを受けていました。

──しかし、田島征三さん、浜田桂子さんら日本の絵本作家の奔走もあって、2018年に別の出版社からの刊行が決まります。資金集めのためのクラウドファンディングでは、当初の目標額だった95万円がわずか4日間で集まったそうですね。

クォン 2000年の女性戦犯法廷の話などを聞いて、日本には慰安婦の存在を否定したい勢力もいるけれど、それをきちんと検証して知らせようとしている人たちも大勢いるんだということを知りました。日本での出版前から、韓国語版を自分たちで翻訳して読書会を開いてくれているグループもありましたし、そうした人たちが支援してくれたのではないかと思っています。

さらに本日(6月24日)、友人の勧めで詳細に事情を語るドキュメントDVD「わたしの描きたいこと」を観た。日本語版は、本年5月25日発売。93分が短かった。

惹句では、「絵本『花ばぁば』(クォン・ユンドク絵/文)が出来上がるまでを描くドキュメンタリー映画。韓国を代表する絵本作家クォン・ユンドク(権倫徳)が、日本軍「慰安婦」の証言をテーマに絵本創作に取りかかる2007年から、予定されていた日本語版刊行が無期限延期となる2012年までを描く。クォン・ヒョ監督は、作家性と出版の軋轢を、ノーナレ(ナレーションなし)で見事に描きだす。」という。なるほど、まったくそのとおりだ。

日本で出版を予定し、最終的に断念したのは「童心社」である。松谷みよ子と関係の深かった児童書の大手。良心的な出版社である。その童心社が恐れたのは、日本社会のありかたを象徴する「右翼」の攻撃。できるものなら出版したいが、「今の情勢では、このままでの出版はできない」という。

幾つかの点での妥協を覚悟して修正作業に取りかかった作家に、日本から「今、日本社会の事態はより悪くなっている。修正しても出版は難しい」との最終の連絡がはいる。本来日韓同時出版の予定だった「花ばぁば」は、韓国ではシム・ダリョン生前に出版して好評を博したが、日本での出版はできないという結論でこのドキュメントは終わる。

なるほど、日本社会とはこんなものなのだ。日本とは、右翼の跳梁する恐るべき国、民主主義や人権の後進国と見られてやむを得ないのだ。世界の報道の自由度ランキングでは、16年72位、17年72位と続いて、今年(2018年)は68位だが、本当だろうか。アベ政権のもと、右翼の跳梁やヘイトスピーチが、おさまる気配は見えない。

「花ばぁば」は、その内容において戦争のおぞましさを語っているが、はからずもその出版を通じて日本の出版の自由の制約や右翼の跳梁の実態、民主主義や人権のありかたについても語るものとなった。
(2018年6月24日)

佐川宣寿証人の証言を、議院証言法違反で問い得るか。

先週の4泊5日韓国ピース・ツアーの間に、仕事が滞溜した。新聞や郵便物も山積みになった。この浦島太郎状態からようやく日常のペースが戻ってきた。

3月27日衆参予算委員会における佐川宣寿証人の喚問記録も拾い読みして、何とか浦島症状から覚醒した感がある。次は連休明けの沖縄の旅が待ち遠しい。

さて、佐川宣寿証人喚問の議事録を読んで、思うところを整理してみたい。

民事法廷での証人尋問で、その証人に対して証人自身の刑事責任に関する証言を求められることは考え難い。刑事事件においても、宣誓した証人に、証人自身を犯罪者とする証言を求めることは稀有なことであろう。要するに、証人とは、民事にせよ刑事にせよ、自分の責任とは関係のないことについて聞かれることが原則なのだ。

ところが、議院証言法による証人喚問は、純粋の証人として他人の責任に関しての証言を期待されているのではなく、自身の責任を追及される立場の「証人」が多い。刑事訴訟の感覚から言えば、証人であるよりは「被疑者・被告人」の立場に近い。そのため、法廷ではめったにない、証言拒否が濫発されることになる。刑事法廷では、訴追されている被告人が宣誓して供述することはない。

憲法38条1項は、「何人も、自己に不利益な供述を強制されない」と定める。黙秘権として知られるが、合衆国憲法の自己負罪拒否特権の移入だとされる。なんびとも、自白を強制されることはない。捜査のあり方についての憲法原則でもあるが、何よりも被疑者・被告人の人格尊重の大原則でもある。

議院証言法は、議会の国政調査権を実効あらしめるために、誰に対しても証人として議会に出頭を求め、宣誓のうえ真実を語るべく義務付けをなしうる制度を作った。しかしこれには、自ずから人権原理からの制約や限界があることになる。法は証人に、一般的に真実を語るよう義務づけはできても、自己負罪拒否特権までを奪うことはできない。

すると、証人の偽証や証言拒否について、議院証言法違反で訴追できるかは、次のように考えを整理することができるだろう。

第1 原則(「国政調査権を実効あらしめる」「国民の知る権利を実現する」趣旨)
☆第1条(出頭・証言義務) 各議院から、議案その他の審査又は国政に関する調査のため、証人として出頭及び証言…を求められたときは、…何人でも、これに応じなければならない。
☆第6条(偽証) この法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、3月以上10年以下の懲役に処する。
☆第7条(出頭・証言拒否) 正当の理由がなくて、証人が出頭せず、…又は証人が宣誓若しくは証言を拒んだときは、1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金に処する(併科も可)。

第2 制約(「人権原理にもとづく限界」「三権分立の制度の趣旨からの制約」)
☆第4条1項(自己負罪拒否特権=憲法38条1項「何人も、自己に不利益な供述を強制されない」にもとづく免責規定) 証人は、自己…が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれのあるときは、宣誓、証言又は書類の提出を拒むことができる。
☆第4条2項(業務に対する信頼保護の要請に基づく免責規定) 医師・弁護士・宗教者…は、業務上委託を受けたため知り得た事実で他人の秘密に関するものについては、宣誓、証言又は書類の提出を拒むことができる。ただし、本人が承諾した場合は、この限りでない。
☆第5条 (公務の秘密保護の要請に基づく免責規定) (略)
☆第5条の2(特定秘密保護の要請に基づく免責規定) (略)

第3 各議院の告発手続(院の自律性と刑事司法権との関係)
☆第8条 各議院若しくは委員会は…証人が前2条(偽証、出頭・宣誓・証言拒否)の罪を犯したものと認めたときは、告発しなければならない。
☆8条2項 (議院ではなく)委員会…が前項の規定により告発するには、出席委員の3分の2以上の多数による議決を要する。
☆判例上親告罪であり、告発の権限は各院・委員会だけにある。(各院の自律権尊重の立場からの立法)
*検察が独自の判断で捜査・起訴はできない。
一般国民の告発による捜査・起訴もできない。

第4 実践的に
☆第6条(偽証)については、これを免責する根拠はいささかもない。
*偽証とは、「証人が自己の記憶に反することを述べること」(主観説)であるが、客観的事実との矛盾を積み上げて、推認するしかない。
*「官邸の指示なし」「昭恵夫人の影響なし」などの部分が問題になるだろう。
☆第7条(出頭・宣誓・証言拒否)
*まさしく、正当の理由の有無が問題となる。自己負罪の可能性を認めた趣旨であれば、「正当な理由ない」とは言いにくい。(反面、文書改ざんについての犯罪の成立が事実上推定されることになりうる。)
*むしろ、「刑事訴追を免れるためでない」別の偽証の動機を積み上げることが、重要であろう。
☆佐川証人が証言拒否なら、真相を明らかに出来る他の証人を喚問しなければ、国政調査権は全うできない。
(2018年4月4日)

現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。

「基本的な自然の法則」
人は皆、ある意味で泥棒だと言っていいでしょう。
もし、すぐには要らないものを私が手に入れ、手元に置いておくなら、他の誰かからそれを奪い取っているのと同じです。自然は私たちが必要とするだけのものを日々産みだしくれ、それは例外のない根源的な自然の法則です。
ですから、もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。
私は社会主義者ではないので、お金持ちから財産を取り上げるやり方は望みません。しかし、暗闇の中で光明を見出すことを願う人なら誰しも従わなければならない法則があることだけは、あなた方に直接、はっきり伝えておきます。
お金持ちから財産を取り上げるという考えを、私は持っていません。そんなことをすれば、アヒンサーの法則(非暴力主義)から外れてしまいます。だから、もし他の誰かが私より多くのものを持っていたとしても、そうさせておくだけのことです。ただ、私白身はアヒンサーの法則に基づいて暮らそうと努めていて、必要以上のものを持たないと、はっきり決めています。
インドでは、300万人もの人が一日一食で飢えをしのいでいます。しかも、その食事は、脂肪分のまったくないたった一枚のチャパティと一つまみの塩だけなのです。このような300万人の人たちに、衣服と食べ物が今以上にいきわたるようになるまでは、私もあなたも、手元に蓄えているものについて、どのような権利もありません。あなたも私もそのことを十分に承知しているのですから、その300万人の人たちが大切にされ、食べ物と衣服に困ることがなくなるよう、自分の欲望を制御し、進んで食事なしで済ませることくらいはやってみなければなりません。
(「演説・著作集」第4版)

「何よりもまず、貧困層に適切な衣食住を」
上流階級や王侯貴族はいろいろ必要が多いのだと言い立てて、上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。それは、怠惰な詭弁であり、私の理論を揶揄するものに過ぎない。
富裕層と貧困層との間に存在する今日の格差は、見るに堪えない。インドの貧しい村人だらけ、外国の政府と自国の都市生活者の双方から搾取されている犠牲者である。村人たちは食料を生産するが、飢えている。村人たちはミルクを生産するが、その子どもたちには飲むミルクがない。このようなことは放置できない。誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。
(「ハリジャン」1946年3月31日号)

以上は、大阪の加島宏弁護士が紹介するガンジーの言葉の一部である。年2回刊の「反天皇制市民1700」誌第43号に、連載コラム「ガンジー」第8回に、ガンジーの経済思想として掲載されているもの。

人は大人になりきる以前には、必ずこのような思想や生き方に深く共鳴する。このような思想を自分の胸の底に大切なものとして位置づけ、このような生き方を理想としよう。一度はそう思うのだ。しかし、落ち着きのない生活を重ねるうちに、少しずつ理想も共感も忘れていく。

それでも、ガンジーのこの言葉は魂を洗うものではないか。ときに噛みしめてみなければならない。

ガンジーは、こう言うのだ。「もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。」

70年前にして現実はこうだった。「上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。」いまや、「目のくらむような較差」はさらに天文学的で絶望的なものになっている。それは、多くの巨大な泥棒連中が、この世に横行しているということなのだ。

泥棒を駆逐して、「誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。」と切に思う。日本国憲法の生存権思想は、まさしくそのような社会を求めている。

明文改憲を阻止するだけでなく、憲法の理念をもっともっと深く生かしたいと思う。
99%の「貧乏人」と、1%の「上流階級と王侯貴族と財閥たち」との間に横たわる目のくらむような較差の壁を崩していくことは、生存権だけでなく14条の平等権の歓迎するところでもある。社会保障を削って、軍事費を増やそうなど、もってのほかという以外にない。こうなると「泥棒」ではなく、「強盗」というべきだろう。
(2018年2月6日)

民族差別主義者らの「弁護士懲戒請求の濫用」に歯止めを

昨年(2017年)暮の12月25日、下記の東弁会長談話が公表された。
https://www.toben.or.jp/message/seimei/post-487.html

「当会会員多数に対する懲戒請求についての会長談話」

  東京弁護士会 会長 渕上 玲子

 日本弁護士連合会および当会が意見表明を行ったことについて、特定の団体を介して当会宛に、今般953名の方々から、当会所属弁護士全員の懲戒を求める旨の書面が送付されました。
 これらは、懲戒請求の形で弁護士会の会務活動そのものに対して反対の意見を表明し、批判するものであり、個々の弁護士の非行を問題とするものではありません。弁護士懲戒制度は、個々の弁護士の非行につきこれを糾すものであって、当会は、これらの書面を懲戒請求としては受理しないこととしました。

 弁護士懲戒制度は、国民の基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする弁護士の信頼性を維持するための重要な制度です。すなわち、弁護士は、その使命に基づき、時として国家機関を相手方として訴えを提起するなどの職務を行わなければならないことがあります。このため、弁護士の正当な活動を確保し、市民の基本的人権を守るべく、弁護士会には高度の自治が認められており、弁護士会の懲戒権はその根幹をなすものです。
弁護士会としてはこの懲戒権を適正に行使・運用しなければならないことを改めて確認するとともに、市民の方々には弁護士懲戒制度の趣旨をご理解いただくことをお願いするものです。

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これは、懲戒請求制度の濫用者953名に対する説示ではなく、社会に向けて発信された文字どおりの広報である。措辞穏やかで短いものだが、東京弁護士会の確固たる意志表明であり、理性ある市民への理解を求める訴えかけでもある。

「東京弁護士会会員全員(約8000名)に対する懲戒請求」とは、明らかに制度の趣旨を逸脱した東京弁護士会自体へのいやがらせ。このような申立があることを知らなかったが、私も被懲戒請求者とされていたのだ。いったい誰が、どんなテーマで、何を根拠に、何を狙ってのものだったのか。また、その処理に、いったいどれだけの手間暇と費用を要したのか。この会長談話だけからでは窺えない。もう少し説明あってもよかったのかなとも思う。

思い当たるのは、下記の報道との関連である。

毎日新聞2017年10月12日
「懲戒請求 弁護士会に4万件超 『朝鮮学校無償化』に反発 6月以降全国で」

「朝鮮学校への高校授業料無償化の適用、補助金交付などを求める声明を出した全国の弁護士会に対し、弁護士会長らの懲戒を請求する文書が殺到していることが分かった。毎日新聞の取材では、少なくとも全国の10弁護士会で計約4万8000件を確認。インターネットを通じて文書のひな型が拡散し、大量請求につながったとみられる。

各地の弁護士によると、請求は今年6月以降に一斉に届いた。現時点で、東京約1万1000件▽山口、新潟各約6000件▽愛知約5600件▽京都約5000件▽岐阜約4900件▽茨城約4000件▽和歌山約3600件--などに達している。

請求書では、当時の弁護士会長らを懲戒対象者とし、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などと主張している。様式はほぼ同じで、不特定多数の賛同者がネット上のホームページに掲載されたひな型を複製し、各弁護士会に送られた可能性が高い。

請求書に記された「声明」は、2010年に民主党政権が高校無償化を導入した際に各弁護士会が朝鮮学校を含めるよう求めた声明や、自民党政権下の16年に国が都道府県に通知を出して補助金縮小の動きを招いたことに対し、通知撤回や補助金交付を求めた声明を指すとみられる。」

この報道に村岡啓一・白鴎大教授(法曹倫理)のコメントが付されている。
「懲戒請求は弁護士であれば対象となるのは避けられない。ただ、今回は誰でも請求できるルールを逆手に取っている。声明は弁護士会が組織として出しているのだから、反論は弁護士会に行うべきだ。弁護士個人への請求は筋違いで制度の乱用だ」

報道の対象となった懲戒請求がすべて斥けられたあとに、懲りない面々が、「特定の団体を介して」東弁会員全員への懲戒請求を思い立ったのであろう。が、すこぶる失当で迷惑な話。

弁護士の独立性こそは「人権の最後の砦」であって、弁護士自治はその制度的保障である。弁護士は「人権の護り手」としての使命を全うするために、国家や自治体、大企業・財界・資本からも、そして社会の多数派からも独立して、その任務を果たさなくてはならない。弁護士会は、会員弁護士がその使命を全うすべく在野に徹しなければならない。公権力からも、社会的な強者からも、そして多数派世論からも独立した自治を必要とする。

また弁護士会は、弁護士法に基づいて「建議・答申」をすべきものとされている。その内容は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」ものでなくてはならない。公権力とこれと一体化した右派の運動が押し進めている「在日に対する民族差別」に、人権を擁護すべき立場にある弁護士会が、批判の意見を述べることは、当然の権限であり責務ですらある。

これに耳を傾けることなく、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に(弁護士会が)賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などということは、およそ支離滅裂で没論理の行為である。こんな露骨な差別的言論が横行する事態を憂慮せざるを得ない。

弁護士自治は、人権と民主主義を尊重する社会の防衛装置としてこよなく大切なものであるが、その弁護士自治が市民から遊離した独善に陥ることを警戒しなければならない。また、弁護士は高い倫理を要求されてしかるべきで、市民による弁護士への懲戒請求の制度は使いやすいものでなくてはならない。その立場からは、軽々に弁護士に対する懲戒請求のハードルを高くするようなことをしてはならない。

しかし、信用を生命とする弁護士にとって、懲戒請求を受けるということの打撃は、相当のものである。私は47年間の弁護士生活の中で、自分には無関係だと思っていた懲戒請求を、たった一度受けたことがある。懲戒請求者は訴訟事件の相手方代理人だった下光軍二という一弁の弁護士。下光自身が遺言状作成に立ち会って長男に全財産の集中をはかった筋悪の事件で、私が妹側について遺留分減殺を請求した訴訟。財産の保全のために、仮差押命令や処分禁止の仮処分を3回に渡ってかけたことが、弁護士としての職権を濫用したもので非行にあたるという、およそ信じがたい懲戒理由だった。おそらくは、この弁護士、自分の無能と怠慢を依頼者に言い訳するためにこんな策を弄したのだ。

下光の請求は懲戒委員会まで到達せず、綱紀委員会で懲戒不相当の議決となった。が、綱紀委員会に呼出を受け、仲間から事情を聞かれる屈辱感は忘れられない。スジの通らない懲戒請求ではあっても、弁明のための書面作成の時間も労力も割かなくてはならない。こういう明らかな懲戒請求の濫用には歯止めのために相当の制裁があってしかるべきだと思う。

いま、私はDHCスラップ訴訟に反撃訴訟を提起している。理不尽な懲戒請求と同様、言論萎縮を狙った民事訴訟制度の濫用に対しては歯止めのための制裁があってしかるべきだという考えにもとづいてのもの。最終的には、スラップ防止の法制度が必要だと考えている。

今般の東京弁護士会会員全員に懲戒請求をした953名が同種のことを繰り返すのであれば、刑事的には偽計業務妨害に、民事的には損害賠償請求の対象となり得る。弁護士会は、味方とすべき理性ある市民と、権力と癒着した差別主義者たちとを峻別し、明らかな人権侵害集団による会務への不当な侵害には断固たる措置をとるべきであろう。
(2018年1月5日)

「鶏よ、鳴け。夜がゆっくり明け始めている。」ー袴田巖再審開始を求める意見広告

 良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。
 暗く苦しい夜が長ければ長いほど、ひときわ声高く響く良心の声よ。
 暗澹と悲痛と憤怒の錯綜した獄中14年有余、私を支えたのはその声だ。
 鶏よ、鳴け、私の闇夜は明るくなった。
 鶏よ、早く鳴け、夜がゆっくり明け始めている。
(袴田巖 1981年5月6日 書簡集より)

本日(8月18日)の朝日・毎日の両紙に掲載された、「袴田事件の一刻も早い再審開始を求める」意見広告。一面全部を使ったインパクトの大きいこの広告の冒頭に、この胸を打つ一文がある。これは詩だ。美しく心情を描いている。

袴田さんは、「世界最長収監の死刑囚」として知られている。1966年6月30日清水で起こった一家4人の殺人事件。その犯人として同年8月18日に逮捕された。本日の意見広告掲載は、51年前の同じ日付を意識してのことかも知れない。当時30歳であった。以来拘束が続けられ、死刑確定囚の身のまま釈放されたのが2014年3月27日のこと。この間の身柄拘束は47年7月余、日数にして17,389日だという。人生の大半を死刑の恐怖と絶望のうちに過ごしたことになる。

彼に対する取り調べは過酷で凄まじいものだった。いったんは「自白」を余儀なくされたが、公判段階からは一貫して否認し続けた。しかし、彼の無実の声は届かなかった。判決は有罪。しかも死刑である。後の裁判所が「証拠の捏造の疑いを否定できない」とされた審理での有罪である。

最高裁が上告を棄却して死刑が確定したのが、1980年12月。「私の闇夜は明るくなった。」と、彼が綴った81年5月は、第1次再審請求直後のこと。この時期、日弁連も支援を決めている。

彼は、「良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。」という。良心とは、彼の無実を信じて救援活動に没頭した家族や支援者の良心であり、ジャーナリストの良心であり、弁護団の良心でもあったろう。多くの良心が、無辜の人の心の支えとなったのだ。

しかし、現実の経過は厳しいものだった。「夜がゆっくり明け始めている。」と彼が呟いたときから、釈放まで33年を要している。しかも、その釈放から3年を経た今もなお、静岡地裁の再審開始決定には、検察官の即時抗告があって現在東京高裁で審理半ばである。だから、「もう待てない。一刻も早い再審開始を」という意見広告なのだ。

意見広告の下段には、袴田さん自身の次のつぶやきが、掲載されている。
 私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。
 私の心身は反則によってKOされたまま踏みにじられている。
 そのKOの底に身を横たえてしまうしかないのか。
 そして日一日と正義を殺されていくのか。
 これが私の生である。私の無念とするところである。…
 私は無実だ。…
(袴田巖 1981年11月29日 書簡集より)

冒頭の文章の明るさとはちがって、厳しさを感じさせる一文。これが、わずか半年後のこと。
「私は無実だ。…」と言いつつも、「日一日と正義を殺されていくのか。」という、呪詛の言葉が重い。私たちが作り運営する刑事司法の仕組みが、人の運命をもてあそび、無実の人の人生を奪ったのだ。

治安を維持するための刑事司法の必要性は自明である。しかし、刑事司法作用は生の権力発動として一歩間違うと、重大な人権侵害をもたらす。

そこで、「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則が掲げられねことになる。そして、この理は再審制度においても適用されるというのが、「白鳥決定」において最高裁が明言したところである。しかし、それでも冤罪はなくならない。

刑事司法とは、刑罰権・捜査権を行使する国家権力と、裸の私人とが対峙する場である。警察も検察もそして裁判所も、被告人の弱い人権に配慮しなければならない。刑事訴訟法とは、被告人の人権擁護のための体系にほかならない。

有罪判決は、「合理的な疑いを容れない程度」の心証があることを必要とする。証拠に照らして、「合理的な疑いを容れる余地なく有罪」と考えられる場合にのみ有罪判決となるのだ。白鳥決定は、再審の場合も同様だという。

この制度は、人類が正義の実現と人権擁護とを追求してたどり着いた、文明の到達点である。これに反して、「権力は間違いを犯さない」「警察がつかまえた者、起訴された者が無罪では権力が間違ったことになる」「だから、被告人が無罪となってはならない」という権力無謬の考えが権力機構の側に残存している。

袴田さんには、ぜひとも正義と人権を回復してもらいたい。
今こそ叫ぶときだ。
「私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。」
ようやくにして、「多くの良心に支えられて夜はゆっくり明け始めている」のだから。
(2017年8月18日・毎日連続更新第1601回)

国籍による差別を容認してはならない

昨日(7月18日)、民進党の蓮舫代表が自身の戸籍謄本の一部を公開して、二重国籍を否定した。右翼ジャーナリズムと党内右派の悪意ある攻撃に晒されて釈明を余儀なくされてのことだ。まさかそこまですることもあるまいと思い込んでいるうちのできごと。蓮舫支持の声が弱かったことが悔やまれる。

蓮舫代表の戸籍謄本の一部公開に先だって、昨日の午前中に、民族差別問題に関わる弁護士と著名大学人の10名が、連名で「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」と表題する文書を民進党に提出して、戸籍公開に反対する申し入れを行った。この申し入れに賛意と敬意を表するとともに、その全文を紹介しておきたい。

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 2017年7月18日

 「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」
民進党・蓮舫代表は、このたびの都議選を総括する党内論議の中で「代表の二重国籍問題が最大の障害」との一部の議員の指摘を受けて、台湾籍を離脱したことを証明する資料を18日に公表する方針を示しています。

 蓮舫代表は、参議院選挙に立候補した時点で戸籍謄本により日本国籍を有していることが確認されており、何の違法行為も行っておりません。一部の党内議論とごく一部の報道やネット世論が問題視している「二重国籍」なる問題ですが、そもそも、本当に「二重国籍」なのか、という点をまず問われなければなりません。

日本の国籍法はかつて父系血統主義を取っていたため、台湾籍の父を持つ蓮舫代表は出生時において選択の余地もなく台湾籍を持つことになりました。ところが、その後、1972年の日中国交正常化により、日本政府は中華人民共和国政府のみを唯一の政府であると認め、今日まで台湾(中華民国)政府を承認していません。そのため、蓮舫代表も中国籍とされたのです。その後、1985年に国籍法が改正され、蓮舫代表は経過措置による届け出により日本国籍を取得しました。日本政府の、中華人民共和国を正式な唯一の中国政府とする立場からすれば、日本国籍を取得した時点で中国の国籍法により自動的に中国国籍が喪失されることになります。すると、蓮舫代表についてそもそも二重国籍という問題は生じないことになります。

他方で、台湾の国籍法は外国籍の取得に伴う台湾国籍の自動的喪失を認めないため、国籍の得喪につき台湾の国籍法を適用すれば、二重国籍の問題が生じえます。ただ、台湾当局において台湾国籍の喪失手続きを行ったとしても、その喪失の効果を認めるか否かは日本政府の行政運用の問題であって、蓮舫代表個人の問題ではありません。

日本政府は、蓮舫代表の台湾籍の国籍喪失届を不受理にする一方で、台湾籍の放棄を宣言することによって行う国籍選択を行政指導したといいます(注1)。それ自体、矛盾した態度であると言わざるを得ません。また、仮に「二重国籍」であることを前提としても、国籍選択については、あくまでも法的拘束力のない「努力義務」にとどめており、これまで法務省自身が催告を行ったことがないことを認めています。そもそも、国籍選択制度自体、今日の国際色豊かな多様な社会状況からすれば、その有用性は大きな疑問です。

このように、国籍は複数の国の法制度が絡み合えば個人の意思に関わらず複雑な問題が生じ、しかも、未承認国家の国籍については、日本政府がどのような立場、対応をとるのか、ということが問題となるのです。

さらに、重国籍者の被選挙権についてもかつて国会で議論され(注2)、その被選挙権を制限する理由はないという結論が出ています。

つまり、蓮舫代表は自身の国籍に関して戸籍を含む個人情報を公開するなんらの義務も必要もありません。それにもかかわらず蓮舫代表に個人情報の開示を求めることは、出自による差別を禁じている憲法第14条(注3)及び人種差別撤廃条約の趣旨に反する行為と考えられます。

これまで日本には、戸籍に記された個人情報が差別や排除の目的で利用されてきた歴史がありました。被差別部落に出自を持つ人たちを雇用や結婚で差別するために作られた1975年の「部落地名総鑑事件」の教訓をもとに、企業による採用選考の場で応募者に戸籍謄本の提出を求めることは禁じられるようになりましたが、同様の差別がさまざまな形で残っていることは、各種調査でも明らかです。

また、日本には多くの日本生まれの外国籍者や、外国から日本に移動してきて暮らす外国籍者がいます。1万人を超える無戸籍者もおり、非嫡出子など出自にかかわるさまざまな事情を抱えた人もおります。アイヌは、明治32年に制定された北海道旧土人保護法により、日本の戸籍に編入されながら「旧土人」と分類され続けてきました。日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。その中で、今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに上記の憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。

とりわけ近年は、路上あるいはネットでのヘイトスピーチ、沖縄での機動隊員での「土人」発言や保守を名乗る政治家による排外主義的発言の横行を見てもわかるように、特定の人種、民族、国籍などの属性に基づくマイノリティ差別が酷くなる傾向にあります。民進党はこれまで、共生社会と多様性の実現を政策理念として掲げてきました。政策集の中には、目指されるべきは「一人ひとりの基本的人権をさらに尊重する社会、多様な個性や価値観が認められる人権尊重社会」とはっきり記されています。にもかかわらず、上記の一部の風潮に同調するように党内からも蓮舫代表に「日本人であること」の証明を求める声が出るというのは、憂うべき事態と言わざるをえません。

蓮舫代表が、自身がおっしゃるように「多様性の象徴」であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。

民進党が共生社会を求める市民に支持される公党たるべく、みずからの政策理念をあらためて確認されることを願うとともに、蓮舫代表には、ご自身のルーツや生きてきた道に堂々と胸を張り、不要な個人情報の開示要求は毅然として拒み、一人ひとりが大切にされる社会の実現のために力を尽くしてくださることを願ってやみません。」

佐藤学(学習院大学)、西谷修(立教大学)、山口二郎(法政大学)、中野晃一(上智大学)、香山リカ(立教大学)、伊藤和子(NGOヒューマンライツ・ナウ)、神原元(神奈川弁護士会)、原田學植(第一東京弁護士会)、小田川綾音(第一東京弁護士会、全国難民弁護団連絡会議)、金竜介(東京弁護士会、在日コリアン弁護士協会)

注1 国籍法第14条2項
日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。

注2 昭和59年5月2日、8月2日の参議院法務委員会における飯田忠夫参議院議員(公明党)と関守・内閣法制局第二部長、枇杷田泰助・法務省民事局長らとの議論

注3 日本国憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

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この長い文章の眼目は、「日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。」「今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。」というところにある。

そして、「蓮舫代表が、自身がおっしゃるように『多様性の象徴』であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。」が、受け容れられない社会へのもどかしさが伝わってくる。

本来は被選挙権の有無だけが問題で、氏が被選挙権を有することには一点の曇りもない。二重国籍であろうとなかろうと、なんの問題があろうか。むしろ、氏は「蓮舫」という、自己の出自を表す姓名を堂々と名乗ってこれまで選挙民の審判を受けてきたではないか。

この申入書の前半はやや煩瑣にまで、二重国籍を否定する論拠に割かれている。そうせざるを得ない現実があるのだ。

つまらんことだ。国籍や人種や民族や宗教の別にこだわることはもうやめたい。愛国心や国旗や国歌をありがたがるのも、実は差別の裏返しだ。一人ひとりを、個性を持った人間として尊重すべきだけが大切なことではないか。

ヒトの年齢を聞くことが失礼な時代にはなっている。国籍を問題することも恥ずべきことなのだ。「私の国籍がどうだって? 失礼なことを聞くもんじゃないよ」「二重国籍? それがどうした?」と言える、差別否定の常識が通用する社会でなくてはならないと思う。
(2017年7月19日)

弁護士河西龍太郎の「障がい者」訴訟についての取り組み

本日(7月10日)、久しぶりに河西龍太郎に会った。
彼は大学入学以来の親しい友人。司法試験の勉強をともにし、司法修習も同期で同じクラスだった。弁護士登録後ほどなく、私は盛岡で、彼は佐賀でそれぞれ法律事務所を開いた。よく似た弁護士活動をしてきた。

その彼から、先日事務所閉鎖の通知をもらって驚いた。「今般、河西龍太郎法律事務所を、5月1日をもちまして閉じることにいたしました」とあった。体調を崩してのことなのだが、とてもさびしい。

本日、彼の上京は、「『建太さんはなぜ死んだか』出版記念シンポジウム」に出席のため。この書は、彼が弁護団長を務めた「安永建太君事件」の顛末を斎藤貴男さんがルポとしてまとめたもの。「警官たちの『正義』と障害者の命」と副題が付いているこの書は、山吹書店から7月5日に発売されている。下記のURLを開いてご覧いただきたい。
https://www.amazon.co.jp/dp/4865380639

安永建太君事件の概略は以下のとおりである。

2007年9月25日、安永健太さんは自転車に乗って障害者作業所から自宅に帰る途中で、不審者と間違われ、警察官から後ろ両手錠を掛けられ、5人もの警察官にうつぶせに取り押さえられて心臓突然死をしてしまいました。
健太さんには中等度の知的障害を伴う自閉症スペクトラム障害があり、コミュニケーションが難しいという特性がありました。健太さんは警察官と相対していた時も、「アーウー」としか言葉を発していなかったそうです。しかし、警察官は誰一人として健太さんに障害があることに気づきませんでした。
家族は健太さんが死んでしまった原因を知りたいと思い、刑事裁判で健太さんを取り押さえた警察官の刑事責任の追及をするとともに、民事裁判(国家賠償請求訴訟)として健太さんを死亡させたことの損害賠償を佐賀県に求めました。
しかし、刑事裁判では健太さんを取り押さえた警察官は無罪となり、民事裁判でも、佐賀県の責任は認められないまま、裁判は終わりました。(「考える会」のパンフレットより)

「あらためてこの事件の本質は何であるか」という問に、斎藤貴男さんはこう答えている。
「刑事と民事、2つの裁判でそれぞれ争点となった、警察の『暴力性』と『障害者に適切な対応を採らなかった』ことの両方。いずれもこの国にもともと根強い忌まわしい風土だが、折しも事件当時以降、新自由主義の猛威によって、ますますその傾向が強まってきていることも遠因と考えてよいのではないか。共謀罪も明日(7月11日)から施行される運びで、このまま放置しておけば、こうした悲劇は幾度でも繰り返される可能性が高い。」

また、本日シンポジウムの資料として配付されたパンフレットには、次のように記載されている。
「安永健太さん死亡事件の本質は、『元気だった健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』、これに尽きると思います。言い換えれば、『もし健太さんに障害がなかったとしたら』、『もし警察官に障害についての知識があったとしたら』ということです。
健太さんに障害がなければ、死亡事件に発展したとは考えられません。知的障害や言語障害のあった健太さんは、警察官に取り押さえられたときに、唾を吐きかけたり手足をバタつかせるしかなかったのです。それが精一杯の意思表示だったのでしょう。警察官は、これを『抵抗』とみなし、『保護』の対象として容赦なく圧力を加えました。5人の警察官による渾身の圧力は、1人の若者を死に至らせるに十分でした。ついさっきまで元気に自転車をこいでいた健太さんは、十数分後には変わり果てた姿になってしまったのです。
悔やまれるのは、警察官に『障害』についての知識がなかったことです。5人の警察官の誰かが、普段から障害のある人と接していたり、障害の特徴についての理解があれば、結果は異なっていたにちがいありません。こうみていくと、安永健太さん死亡事件は、『障害ゆえの悲劇』であり、『無知がもたらした致死事件』と言ってさしつかえありません。
加えて残念だったのは、裁判の過程でこれらの点にまともに向き合ってもらえなかったことです。最大のテーマであった『健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』は明らかにされず仕舞いでした。結果として警察官の不当性は暴かれませんでした。
このままでは、好転の兆しにある『障害のある人もまちに出よう』の気運に冷や水を浴びせられたのも同然です。それだけではなく、障害のある人の命の基準値が引き下げられてしまいます。私たちは、今般の最高裁による不本意な決定を、安永健太さん死亡事件の本質である『健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』を社会みんなで考える新たなスタート台としたいと思います。二度と同じ悲劇がくり返されないために。

この事件で、警察官は特別公務員暴行陵虐罪で告訴されたが不起訴になった。これに納得し得ない遺族らが佐賀地裁に付審判請求を求め、これを支持する署名運動が取り組まれた。この点について、河西(弁護団長)が次のように述べている。

怒りの付審判請求署名
担当の検察官はようやく加害警察官を起訴するつもりになったようであるが、最高検は頭ごしに不起訴決定をした。佐賀の「考える会」はさっそく全国署名に取り組み、全国からの11万人の付審判請求署名を佐賀地裁に提出した。当時佐賀市の人口は10万人位であったろう。イ左賀地裁はびっくりして付審判請求を認めた。
本件は民事事件でも刑事事件でも警察官の違法性を認めなかったが、これは最高裁も知的障害者の権利救済には無力であるという赤恥を全国に洒したこととなる。今後は知的障害者の権利救済の運動を強化することが一番の課題となるだろう。

なお、付審判は検察官の起訴独占主義の例外として制度の紹介はどの本にも載ってはいるが、現実にはめったに認められない。1949年以降、延べ約1万8000人の警察官や刑務官など、公務員に対する付審判請求があったが、付審判が認められたのは23人であり、1人が係争中である他は有罪9人、無罪12人、免訴1人となっている(ウイキペディア)という。

河西龍太郎、じん肺闘争の先鞭をつけたことで名高いが、それだけではない。障がい者問題を含む人権課題でよく闘ってきたわけだ。

今日、彼から自分がデザインした「憲法擁護ハンカチ」をもらった。同じデザインの「憲法擁護たおる」もあるそうだ。それに、次の説明が付いている。これをご紹介しておきたい。
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「憲法擁護ハンカチ(たおる)」について
1 私は昭和17年生れですので、小学校入学当時に新憲法が施行されて2年目くらいの頃だったと思います。私の担任は若くて美しいY先生だったのですが、入学して間もなく「日本人は第二次世界大戦を深く反省し、二度と戦争をしないという決意のもとに軍隊を持たないという世界で唯一の平和憲法を制定しました」という話しをしてくれました。
2 私が弁護士になった頃は、自衛隊は自衛のための戦力であるので、合法だという考えに変わってしまいましたが、平和憲法がある限り、自衛隊が海外派遣されることはないだろうと考えていました。
3 しかし、今では一国の首相が、鉦や太鼓をたたいて改憲を叫びまわり、国民の半数近くも平和憲法の改正に賛成しているようです。平和憲法はまさに風前の灯の状況にあるといってよいでしょう。
4 私は日本の歴史を調べてみました。日本人というのは、ほとんど権力と闘ったことのない民族のようです。権力の横暴に立ち向かう力が弱い民族のようです。しかし、平和を愛する優しい心を持った民族であると思います。
5 そして、その優しい力を、今こそ護憲のために使わなければならない時期にあると私は考えます。
6 このハンカチ(たおる)は、みんな私がデザインしたものです。多くの方に使ってもらいたいと考えて、わざと「護憲」という文字は使っていません。しかし、デザインがユニークですので、気持ちは伝わると思っています。
7 このハンカチ(たおる)を多くの方に使っていただいて、利益が出れば護憲運勣に寄付したいと考えています。ご協力よろしくお願いいたします。
2017年5月 弁護士 河西龍太郎
(2017年7月10日)

今の日本は、世界の良識に反人権・反国際協調の国と映っている。

野蛮なトランプが、パリ協定からのアメリカ離脱を表明した。この歴史的愚行の傷は深い。「愚かなアメリカ」「手前勝手なアメリカ」「国際倫理をわきまえぬアメリカ」「ごろつきアメリカ」の刻印が深い。かつてのアメリカの威信回復は、もはや不可能かも知れない。あんな大統領を選出した、アメリカの「デモクラシー」の質が問われている。さて、振り返って日本はどうだろうか。こんな首相を権力の座から引き下ろすことのできない日本の「民主主義」は、アメリカと兄たりがたく弟たりがたい。

アベ政権は、参勤交代よろしく発足直後のトランプに擦り寄って、アメリカとの価値観の共有を強調して見せた。なるほど、野蛮で知性に乏しい、似た者同士。さて今後、両者の関係はどうなることやら。

「デンデンのアベ」に代わって、「ミゾユウのアソウ」が、えらそうにコメントした。
「もともと国際連盟をつくったのはどこだったか。アメリカがつくった。それでどこが入らなかったのか。アメリカですよ。その程度の国だということですよ。」

「この程度の政権」の副総理であるアソウによる、「その程度の国」への批判の言。だが、忘れてはならない。1933年3月、国際連盟脱退という愚挙を犯して国際的孤立化への道を歩んだのが、ほかならぬ日本だった。その程度の国だったのだ。

そしていま、日本は確実に国連との軋轢を拡大しつつある。世界の良識に背を向けつつあることにおいて、連盟脱退の時代に似て来たのではないか。これ以上再びの孤立化への危険な道を歩んではならない。

まずは、シチリア島におけるアベとアントニオ・グテーレス国連事務総長との懇談内容公表問題。日本側の公表内容を国連報道官側が否定した。国連側に、日本の公表内容は我田引水に過ぎるとのニュアンスが感じられる。問題となったテーマは、極めて重要な2点。「慰安婦問題に関する日韓合意評価」と、「『共謀罪』への懸念を表明した国連特別報告者の地位」に関するもの。

アベも、自分の都合のよいことについては、国連の権威を利用したいのだ。そこで、「安倍総理から慰安婦問題に関する日韓合意につき,その実施の重要性を指摘したところ,先方(グテーレス国連事務総長)は,同合意につき賛意を示すとともに,歓迎する旨述べました。」と発表した。しかし、国連側はこれを否定した。「(事務総長は、)慰安婦問題が日韓合意によって解決されるべき問題であることに同意した」が、「事務総長は、特定の合意内容については言及していない」、「問題解決の方向性や内容を決めるのは日韓両国次第だという原則について述べた」だけだという。

また、日本側は「(事務総長は、)人権理事会の特別報告者は、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は、必ずしも国連の総意を反映するものではない旨述べました。」と発表した。しかし国連側は、「事務総長は安倍首相に対し、(人権理事会の特別報告者とは、)国連人権理事会に直接報告する独立した専門家であると述べた」という。

日本側は、反論しているようだが、無駄だし無意味だ。懇談の席でどう話されたのかが問題ではない。いま、オープンな場で、事務総長が日本側の公表内容を否定していることが重要なのだ。アベが深追いすれば、みっともなさの傷は深くなるばかり。

次に、デービット・ケイ報告問題。国連人権理事会の特別報告者であるこの人。担当は、表現の自由だ。昨年来日して、日本における言論の自由状況を精力的に調査して、深い懸念を表明した中間報告書を作成している。特定秘密保護法問題、担当大臣の停波発言等報道の自由の萎縮、そして教科書検定のあり方など問題とされた内容は具体的だ。この人の報告に接して襟を正さなければならない政権が、逆ギレしてしまっていることが異常な事態である。

さらに、プライバシー担当のジョセフ・カナタチ特別報告者の共謀罪に関するコメント。首相宛ての書簡が話題を呼んでいるが、政府は自らの姿勢を反省する姿勢はさらさらなく、抗議に及んでいる。国連の言うことなど聞く耳もたないという如くである。

そして、思い起こそう。世界の潮流が反核に動いているこのときに、被爆国日本が、核兵器禁止条約に反対の立場を鮮明にしていることを。日本政府は、核兵器禁止条約への交渉不参加を表明して実行している。国連の圧倒的多数国が、6月15日から7月7日まで、後半の交渉スケジュールで核兵器禁止条約を作り上げる交渉の予定だが、ここに日本政府が姿を見せることはない。

他国から日本政府の行動を見たら、日本は反人権国であり、反国連・反国際協調主義の国柄と映るだろう。そして、原水爆禁止にもまったく熱意のない国であるとも。
世界からこのように見られている日本が共謀罪を成立させれば、そして9条改憲を実現させれば、国際社会は1933年の過ちを再び繰り返す日本を想起することだろう。アベ内閣自身が、そのような「印象」をもたれるよう、せっせと「操作」を積み重ねているのだ。
(2017年6月4日)

「憲法とはなんぞや」「日本国憲法とはなんぞや」

労働者学習センターが発行する「ひろばユニオン」という労働組合運動誌がある。月刊で、一冊490円(税込み)の定価。1962年4月に第3種認可取得とされているから、55年の歴史をもっていることになる。さすがに連合系組合からの寄稿が多いが、特定のスポンサーなしで運営を続けているという。労働運動低迷と言われる今日、貴重な出版物というべきだろう。

その「ひろばユニオン」に、12回連載の予定で、「施行70年 暮らしと憲法」のシリーズの執筆を引き受けた。この4月号からのこと。その書き出しが、以下のとおりだ。

「今月号から1年間、12回連載で本誌に憲法をテーマに執筆することになりました。各号ごとに、身近なトピックを取り上げて憲法を語り、12回を通じて憲法の全体像が把握できるようにする、そんな試みの連載です。」

そんなに、うまく行くかどうか。やってみなければ分からないが、できるだけのことをやってみよう。毎号4000字。写真をいれて、4ページ分。

連載初回の4月号では、森友学園問題で話題となった教育勅語を取り上げた。この勅語に、大日本帝国憲法の精神がよく表われている。こうして叩き込まれた臣民根性の残滓が今なお、払拭しきれずに残ってはいないか。国民主権の日本国憲法下、主権者の自立が必要というテーマ。

第2回の5月号では、「平和憲法70歳 あせぬ輝き」と題して、憲法の平和主義と、70年間国民が憲法を守り抜いてきたことによって、この憲法を国民自身のものとして定着させてきたことの意義を書いた。

そして、連休明けまでに第3回の6月号の記事を送稿しなければならない。原稿依頼を受けることは珍しくないが、毎月の連載は意外に重荷だ。なお、季刊の「フラタニティ」に、「私が関わった裁判闘争」を連載して、既に第6回分を送稿済み。このように課題を与えてもらわないとまとったものを書くはずはないのだから、原稿の依頼を受けることはありがたいのだが、文筆を生業としている身ではないので、ときに本業との時間の配分に苦しむことになる。

12回の構想は、「憲法とはなんぞや」「日本国憲法とはなんぞや」という根本理念に関するテーマで3回、人権論に5回(労働基本権を手厚く)、統治機構に3回(立法・行政・司法)、憲法改正手続と緊急事態に各1回というところ。

予定ではもうできているはずの、立憲主義をテーマにした、「憲法とはなんぞや」という原稿が本日まだ完成しない。

トピックとしては、来年(2018年)の「明治150年」を機に、「明治の日」を作ろうという運動。「昭和の日」の右派の集会での、自民党の青山繁晴参議院議員の「私たちの憲法は古代の十七条の憲法に始まり、それが近代化されたのは明治憲法ではなく、本来は五箇条の御誓文。御誓文こそ、私たちの本来の憲法だ。『明治の日』が制定されれば、そういう根幹に立ち返ることを子どもたちに話すこともできるのではないか。」を取り上げた。

「十七条の憲法」も「五箇条のご誓文」も憲法ではない。では、憲法とは何か。近代憲法の典型は、民衆が王政を倒した市民革命後のフランスに見ることができる。憲法とはなにかという有名な定式として、フランス人権宣言(1789年)16条は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と言っている。

(1)「権利の保障の確保」と、
(2)「権力の分立の定め」とが必要。
(1) が目的、(2) は手段の関係。

個人の人権と国家の権力との対立構造を明確に意識して、強い国家権力が、国民の人権を侵害することのないよう、権力を集中させずに分立した権力が互いに牽制しあう仕組みを作らなければならない、ということ。

この定式のもと、憲法の構成は、人権宣言(人権のカタログ)の部分と、国家の仕組みを形づくる部分(統治機構)とに大別されている。なによりも人権の保障が大切で、これを守るための国家の仕組みが工夫されている。

日本国憲法は、市民革命後の近代憲法のあり方の正統な承継者として、徹底した人権尊重の立場を貫いている。これは個人を価値の出発点とする個人主義であり、国家を人権と対立する危険な存在と考える自由主義を大原則としているということ。国家や社会よりも、国民個人が大切という考え方で、国家主義や全体主義はとらないということなのだ。

この大原則において、日本国憲法は、天皇あっての臣民、国家あっての個人という、戦前体制とは理念を異にしている。

こんな趣旨だが、これだけでは面白みに欠ける。どうすれば面白く読んでもらうことができるか、もう少し考えてみよう。
(2017年5月6日・連続第1497回)

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