澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「邪教」はとうてい許せない。しかし、「サタン」はもっと怖い。

(2022年7月31日)
 安倍晋三の銃撃事件以来、旧統一教会の反社会性がクローズアップされ、自民党とりわけ安倍派の政治家とこの反社会的組織との癒着が大きく問題視されている。

 私も、統一教会を徹底して批判しなければならないと思ってはいる。しかし、これを権力によって弾圧してしまえ、法人格を取り消せということにはいささかの躊躇を感じる。戦前の天皇制政府による宗教弾圧を連想し、権力の暴走を懸念するからだ。そう、私は何ごとによらず優柔不断なのだ。

 一方で、果断極まりないのが中国当局である。昨日(7月30日)配信の共同通信記事によれば、中国は「旧統一教会は『違法な邪教』」とし、「安倍氏銃撃で一掃の正当性強調」なのだそうだ。これだけの見出しでは少々分かりにくいが、「中国共産党はとっくの昔に、統一教会を邪教として一掃済みである。今回の安倍銃撃事件で、党の正しさが証明された」ということ。

 中国当局が統一教会を、非合法の「邪教」(カルト)と認定したのは1997年のことだという。そのことによって、日米と違って、中国は統一教会の自国への浸透を防ぎ得た。この当局の対応は正しかったと宣伝しているわけだ。ゼロコロナ政策を思い起こさせるこのやり方に、強権的な宗教政策がより強まると懸念する声も出ているという。

 中国には、「中国反邪教ネット」というサイトがある。もちろん、事実上公安当局が運営している。安倍銃撃事件以来、そのサイトでは、代表的な邪教として扱われる気功集団「法輪功」と並んで、旧統一教会を批判する記事が多くなっているという。

 共産党系の環球時報(英語版)は14日付紙面で「安倍氏暗殺は中国のカルト一掃の正しさを示した」と強調。「(山上徹也容疑者が)もし中国で暮らしていれば、政府は彼が正義を追求するのを助け、この宗教団体を撲滅しただろう」とし、日米などは「中国の(カルト排除の)努力を『宗教上の自由への迫害』だとゆがめている」と反発した。

 これは注目に値する記事ではないか。中国政府(共産党)は、宗教団体に悪徳商法や高額献金授受の事実あれば、躊躇なく『この宗教団体を撲滅した」というのだ。中国政府(共産党)は、そうすることが「正義」と信じて疑わない。「中国の(カルト排除の)努力を『宗教上の自由への迫害』だとゆがめて」はならない、という立場なのだ。

 だから、共同配信記事は、示して示してこう締めくくっている。

 「中国では一党支配の下、憲法が記す信教の自由は『ゼロに近いのが実態』(中国人カトリック専門家)との指摘もある。非合法化された法輪功や新興宗教だけでなく、プロテスタント系家庭教会なども抑圧されてきた。弾圧を受けた法輪功メンバーを支援してきた弁護士は『日本の旧統一教会の問題は、非公認の宗教活動を一層弾圧する良い口実を政府に与えた』と分析した。」(共同)

 以上のとおり、中国(共産党)は統一教会を「邪教」として、弾圧も撲滅も躊躇しない。一方、統一教会の側は、反共(反共産主義)を教義としており、その教義によると、中国共産党は「サタン」とされている。

 自民党と癒着し信者からは財産と真っ当な人生を奪った「邪教」と、人権と民主主義の弾圧をこととしてきた「サタン」と。どちらも唾棄すべき存在だが、暴力装置を駆使しうる「サタン」の方がより怖いというべきだろう。たまたま、本日の毎日新聞朝刊のトップ記事は、「数千枚の顔写真が語る、ウイグル族抑圧 新疆公安ファイルを追う」「当局、宗教色を問題視」である。その内容は、中国当局のイスラム教徒に対する弾圧。とても、近代国家のやることではない。 

「独裁の中国共産党」とはまったく別物の、「民主主義を守る日本共産党」へのご支持を

(2022年7月1日)
 「猛暑日」が1週間続いて7月になった。参院選はいつも暑さの中だが、今回は経験したことのない連日の酷暑の中での選挙である。候補者や運動員のご苦労は並大抵ではない。しかし、酷暑の中でも極寒の中でも、選挙は大切だ。苛政は虎よりも猛し。選挙のない社会は酷暑よりもはるかに危険である。

 きょう7月1日は「香港返還25周年」の記念日だという。記憶すべき日ではあるが、とうてい祝賀すべき日ではない。現地では、習近平も出席しての「香港民主勢力弾圧成功記念式典」が挙行された。つくづくと思う。歴史は真っ直ぐには進まない。いや、もしかしたら歴史に進歩など期待すべきではないのだろうか。

 1997年7月1日、香港が中国に返還された際には、「一国二制度」が50年間保証された。「二制度」とは、「独裁と民主主義」の共存ということであり、「言論の自由のない社会制度と、言論の自由が保障された社会制度」のことであり、「選挙のない社会と、選挙が機能している社会」ということでもある。

 当時はこう考えられていた。何にしろ長い々いこれからの50年である。半世紀も経てば、中国の社会も民主化するだろう。そうすれば、中国が香港化することになって、無理なく「一国一制度」が実現するに違いない。ところが、この見通しは見事にはずれた。世界は中国共産党を見誤った。中国共産党そんな甘い存在ではなかったのだ。

 勝負は50年をまつことなく、25年で決着した。独裁の側が、民主主義を飲み込んだのである。香港の政治的自由も言論の自由も徹底して弾圧され、香港は政治的自由・言論の自由のない中国本土並みの社会になった。香港の自由な教育も蹂躙され、愛国・愛党を強制される教育制度に変えられた。そして、香港は中国本土と同様の実質的に選挙のない社会となった。

 本日の「香港民主主義弾圧完遂祝賀式典」で、習近平は「香港の民主主義は中国返還後に花開いた」とスピーチしたという。耳を疑う。言葉が通じないのだ。同じ「民主主義」がまったく別の意味で使われている。正確にはこう言うべきであろう。

 「中国は、返還後の香港の民主主義には、ほとほと手を焼いたが、ようやくこれを叩き潰すことに成功した。中国は常に香港市民に対して、党と政府への忠誠を要求してきたが、香港市民はようやくにして自分たちが住む街の主人が、党と政府であることを受け入れるに至った。一国二制度は、長期にわたり維持されなければならない。それが、中国の主権、安全保障、発展という利益に奉仕するものである限りではあるが」

 「民主主義も大切だが、愛国はもっと大切だ。愛国者であるかの審査を通過しないと選挙に立候補できないというのは当然のことで文句をいう筋合いはない。政治的自由も、言論の自由も、デモの自由も、教育も、全ては愛国の枠をはずれたらアウトだ。もちろん、『愛国』とは、国を指導する立場の中国共産党に対する態度も含むことを忘れてはならない」

 こういう野蛮極まりない中国共産党と名称が似ていることで、迷惑を蒙っているのが、日本共産党である。名称は似ているが、中身はまったく異なる。「独裁と民主主義弾圧の中国共産党」に対して、「自由・民主主義・人権 花開く社会めざす日本共産党」なのだ。中国共産党の非民主的体質を最も鋭く批判しているのが、日本共産党にほかならない。

 分かり易いのは、天安門事件に対する日本共産党の態度だ。事件翌日の1989年6月5日付「赤旗」の一面トップは、「中国党・政府指導部の暴挙を断固糾弾する」という日本共産党中央委員会声明を掲載している。以来、この姿勢が揺らぐことはない。

 また、昨年1月の日本共産党は綱領を改定して、中国の大国主義、覇権主義に対する批判を明確にしている。中国については、核兵器禁止条約への反対など核兵器問題での変質、東シナ海と南シナ海での覇権主義的行動、香港や新疆ウイグル自治区などでの重大な人権抑圧の深刻化などを厳しく批判している。

 日本共産党のめざす社会主義・共産主義は、資本主義のもとでの自由・民主主義・人権の成果を全面的に受け継ぎ、花開かせる社会です。日本では、今の中国のような一党制、自由な言論による体制批判を禁じるような抑圧は、断固として排することを明確にしています。

 意図的に中国共産党の反民主反人権の体質に対する批判を、日本共産党に重ねるごとき、悪宣伝に惑わされてはならない。日本共産党は、自由・人権・平和・民主主義・法の支配という普遍的価値を重んじる、最も徹底した民主主義政党である。

 参院選での投票は、ぜひ、その日本共産党に。

スマホのアプリが突然「赤」となって、デモ参加者は隔離され追い払われた。

(2022年6月17日)
 これは恐ろしい話である。今のところは中国のエピソードだが、もしかしたら明日の人類全体の様子を物語っているのかも知れない。

 ジョージ・オーウェルのデストピア小説「1984年」は、1948年に書かれたものだという。まだその頃は、権力が個人を完全に掌握する技術がなかった。今や、現実は「1984年」をはるかに追い越している。ウィグルだけでなく、中国全体がデストピア化していると言って過言でない。中国共産党の権力が人民一人ひとりの動静を把握し統制しているのだ。その一端を見せつける事件が生じた。

 複数の報道を総合するとこんなことである。
 中国には「健康コード」というスマホのアプリがあって、事実上全国民にその所持が強制されているという。名目上の目的はコロナ対策で、このアプリにはPCR検査の結果や感染拡大地域への滞在歴などが記録され、その分析結果から各自の感染リスクが《緑、黄、赤》の3段階で表示される。商業施設、レストラン、公共交通機関の出入りの際に提示を求められ、これが「赤」になると強制的に隔離措置となる。

 事件は、河南省で起きた。省都・鄭州市の投資会社「河南新財富集団」傘下の複数の地方銀行がデフォルトの状態に陥り、およそ8000億円規模の預金が焦げ付いて取り付け騒ぎが起こっているという。6月11日以後、抗議のデモに参加するため各地から河南省に到着した預金者の「健康コード」に異変が起きた。この預金者たちのアプリが突如隔離措置が必要な「赤色」となり、彼らは次々とホテルや学校に閉じ込められ、あるいは省外に追い返されてしまった。

 メディアは、「河南省の地元当局が抗議活動を止めるため、預金者のコードの表示を意図的に変えた疑い」を指摘し、SNSには「地元政府は法律も無視するのか」「国全体を牢屋にする気か」などという怒りの声があふれたと報道されている。

 中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は15日付で「健康コードの科学性、厳粛性を絶対に守らなければならない」と題した論評を掲載。この中で「濫用された可能性があるかどうかは、決して小さな問題ではない」とし、地元当局に早急な調査を求めたという。

 しかし、である。このアプリの管理者は、河南省内の人物のみならず省外の人物の行動を把握できる立場にあった。そして、預金引出を主張する人々を拘束する権限を行使できるのだ。さらに、銀行のデフォルトに抗議する人々を蹴散らそうとする意図をもっている。こんなことができるのは、共産党以外にはない。しかも、限りなく中央に近い党組織。

 どれだけの人が、どのようなタイミングで、どのように強制隔離されたか。党が事件の張本人であるかぎり、全体像はつかみようがない。天安門事件がよく物語っている。

 中国では全ての人の行動経路がビッグデータとして管理されていると言われてきた。全ての人の経済活動歴、交友歴、政治的思想的な行動歴も把握されているということである。当該銀行に対する債権者を把握し、その中の河南省来訪者を選択して、そのアプリを「赤色」にする。その上で嫌も応もなく強制隔離してしまう。権力が国民を管理している社会では雑作もないことなのだ。

 反党・反体制の傾向をもつ、党の覚えめでたくない人物を365日・24時間監視することは、今やいとたやすいこと。どんな本を読み、誰と会い、どんな集会に出て、 どんな発言をしてきたか、その情報を蓄積するだけではない。場合によっては、特定のターゲットをあぶり出して、監禁することも追い払うこともできるのだ。瞬時にデモ参加者を特定し、これに警告を発し、あるいは強制隔離もできる。今回の事件は、そのことを明らかにした。

 人類の未来は明るいだろうか。はたして、地球環境はどこまでもつだろうか。また、戦争が人類を滅亡させることはないだろうか。そして、強大な権力とIT技術の発達は、徹底して人民の自由を剥奪してしまうのではないだろうか。私には、鄭州市でのデモ参加者のアプリの「赤」は、人類の未来に対する赤信号のように見える。心底、恐ろしい。
  

「習総書記を安心させろ」は、「大御心を安んじ奉れ」に瓜二つではないか。

(2022年5月29日)
 注目の毎日新聞「新疆公安ファイル」報道。連載好調である。流出されたファイルの紹介だけでなく充実した関連取材にも期待したい。

 連日の報道に目を離せないが、私が最も興味深く読んだのは、「習氏の命令に忠実」「『全面的な安定』実現に発破」と表題された以下の記事。抜粋して、引用する。

「(敵対勢力やテロ分子には)断固として対応し、壊滅的な打撃を与えよ。情け容赦は無用だ」
 2017年5月28日。ラマダンの3日目だった。新疆ウイグル自治区トップの陳全国党書記(当時)は、自治区の「安定維持司令部」の会議でイスラム教徒の信仰心が高まるラマダン中の国内外の動静に警戒を求めた。

 習近平指導部はテロ対策の名目で、ウイグル族らへの抑圧を強めてきた。特に14年に区都ウルムチの鉄道駅で発生した爆発事件を切っ掛けに、強力な抑え込みにかじを切り、新疆を中心に暴力テロ活動を取り締まり、特別行動を始めた。

 「捕らえるべきものを全て捕らえるのだ」。演説で陳氏は当局が疑わしいと見る全員を拘束するよう要求。特に外国からの帰国者は手錠や覆面などをかけて「片っ端から捕らえるのだ」と指示している。

 国営新華社通信によると、共産党は同年末、党委書記を陳氏から元広東省長徴の馬興瑞氏に交代させた。馬氏が陳氏の路線を引き継ぐかは不明だ。ただ、陳氏は18年の演説でこう話している。「(分裂勢力は締め付けがしばらくすれば弛むと考えているが)『黃梁の夢』(はかない夢)だ。5年で基本的な安定を達成したとしても、次の5年も厳しい取り締まりを続ける」。そして演説をこう締めくくっていた。「(習)総書記を安心させろ」

 この最後の「総書記を安心させろ」という言葉が、私の心の中に異物として突き刺さるのだ。どうして、「人民の安全のために」ではなく、「総書記を安心させろ」なのだろうか。どうして、こんな言葉で人が動くのだろうか。そして、この言葉はどこかで聞いたことがある、暗い記憶を呼び起こす。

 この記事、戦前の内務大臣の暴支膺懲訓示に大差ない。「敵対勢力」や「テロ分子」は、「不逞鮮人」「支那人」そして「非国民」に置き換えて読むことができる。むろん、「総書記を安心させろ」は、もったいぶった「陛下の大御心を安んじ奉れ」ということになる。

 近代以後の日本の権威主義は、天皇の権威を源泉とする。天皇の権威は、天皇を頂点とするヒエラルヒーを下位に向かって順次降下する。上位は天皇の権威を背負うことで下位に絶対の服従を求めた。かくして、この社会には小さな権力を振るう小天皇が乱立した。だからこそ、「上官の命令は天皇の命令と心得よ」が成立し得たのだ。

 だから、為政者にとっての天皇の権威というものは、この上なく使い勝手のよい便利な統治の道具なのだ。この権威主義は、自立した個人が権力を形成し監視する民主主義とは相容れない。日本の民主主義の成熟は、我が国にはびこる「天皇制=権威主義」の残滓を払拭せずにはあり得ない。

 今、中国は天皇制の代わりに共産党を、天皇に換えて習近平を据えたという感を否めない。ウイグルトップの陳全国は、習近平の権威を笠に着て、その部下に「習総書記を安心させろ」と言ったのだ。かつて、天皇制権力が臣民の徹底統治に成功したように、習近平中国も14億人民を、その権威をもって統治しようとしている如くである。社会主義とはまったく無縁で、野蛮な権威主義統治体制というほかはない。 

衝撃!ー ウイグルでの赤裸々な人権弾圧の実態

(2022年5月26日)
 昨日の毎日新聞朝刊のトップに、「逃げる者は射殺せよ」というおどろおどろしい横見出し。そして、主見出しは「ウイグル公安文書流出」。これは、衝撃的な記事だ。野蛮な中国共産党専制支配によるウイグルでの赤裸々な人権弾圧の実態。全世界の人々が、この記事を読むべきであり、権力と人権との緊張関係についての教訓を汲み取らねばならない。

 そして「内政干渉だ」「フェイクだ」「反中勢力の謀略だ」などという弁明を容れることなく、「人権擁護は人類共通の課題だ」との姿勢を貫いて中国批判の声を上げ続けなければならない。
 https://mainichi.jp/xinjiangpolicefiles/

 この記事のリードは以下のとおり、中国のウイグル族「再教育施設」内部資料が流出したというもの。その流出資料の量と内容が半端なものではない。そして、内容の信憑性は限りなく高い。このリードはけっして誇張ではなく、この記事の全体を真実と前提しての議論に憚るところはない。

 「中国新疆ウイグル自治区で少数民族のウイグル族らが「再教育施設」などに多数収容されている問題で、中国共産党幹部の発言記録や、収容施設の内部写真、2万人分以上の収容者リストなど、数万件の内部資料が流出した。「(当局に)挑む者がいればまず射殺せよ」などと指示する2018年当時の幹部の発言や資料からは、イスラム教を信仰するウイグル族らを広く脅威とみなし、習近平総書記(国家主席)の下、徹底して国家の安定維持を図る共産党の姿が浮かぶ。」

 毎日の記事では、まずこの資料の信憑性が語られている。

 「今回の資料は、過去にも流出資料の検証をしている在米ドイツ人研究者、エイドリアン・ゼンツ博士が入手した。毎日新聞を含む世界の14のメディアがゼンツ氏から「新疆公安ファイル」として事前に入手し、内容を検証。取材も合わせ、同時公開することになった。」

 世界の14のメディアとは、以下のとおり、信頼に足りる世界のビッグネームである。およそ、フェイクとも、偏向とも無縁と言ってよい。
 BBC News(英)▽ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)▽USA TODAY(米)▽Finnish Broadcasting Company YLE(フィンランド)▽DER SPIEGEL(独)▽Le Monde(仏)▽EL PAIS(スペイン)▽Politiken(デンマーク)▽Bayerischer Rundfunk/ARD(独)▽NHK WORLD-JAPAN(日本)▽Dagens Nyheter(スウェーデン)▽Aftenposten(ノルウェー)▽L’Espresso(イタリア)▽毎日新聞

 「14のメディアは、収容者リストに載っている人の家族への取材や流出写真の撮影情報の確認、衛星写真との比較、専門家への鑑定依頼などを行った。毎日新聞は検証で確認された情報の信ぴょう性と社会的意義から報道する価値があると判断した」「流出文書を検証した14のメディアは、事前に内容について共同で中国外務省にコメントを求めたが、直接回答はなかった」

 本文の内容は厖大で、とうてい全体を紹介しきれない。そのごく一部を引用する。

 「流出した内部文書は、ウイグル族など少数民族の収容政策を厳しく推進した新疆ウイグル自治区トップの陳全国・中国共産党委員会書記(当時)ら発言記録や、収容施設の管理マニュアル、不審人物がいないか調べた報告書など多岐にわたる。」

 幹部の発言記録は、公安部門トップの趙克志・国務委員兼公安相や自治区トップの陳全国・党委書記(当時)らが会議で行った演説。
 収容政策で重要な役割を果たした陳氏は17年5月28日の演説で、国内外の「敵対勢力」や「テロ分子」に警戒するよう求め、海外からの帰国者は片っ端から拘束しろと指示していた。「数歩でも逃げれば射殺せよ」とも命じた。

 また、18年6月18日の演説では、逃走など収容施設での不測の事態を「絶対に」防げと指示し、少しでも不審な動きをすれば「発砲しろ」と命令。習氏を引用する形で「わずかな領土でも中国から分裂させることは絶対に許さない」と述べ、「習総書記を核心とする党中央を安心させよ」と発破を掛けていた。

 内部の写真が流出したのは、自治区西部イリ・カザフ自治州テケス県の「テケス看守所(拘置所)」とされる収容施設。手錠や足かせ、覆面をつけられ連れ出された収容者が、「虎の椅子」と呼ばれる身動きができなくなる椅子で尋問を受けている。また、銃を持つ武装警察らが制圧訓練をしているとみられる写真や、収容者が注射のようなものを受けている写真もある。
 これらは、中国当局が過激思想を取り除くためなどとして運用した「再教育施設」の元収容者が証言した内容とも一致した。

 収容者のリストには、身分証番号や収容の理由、施設名などが記されている。主に自治区南部カシュガル地区シュフ県在住のウイグル族など少数民族のもので、ゼンツ氏は、数千人分を含む452枚のリストを検証。17〜18年の時点で、シュフ県の少数民族の成人のうち12・1%(2万2376人)以上が「再教育施設」、刑務所、拘置所に何らかの形で収容されていると推計した。別に警察署などで撮影された収容者約2800人の顔写真も流出した。驚くべきは、「新疆南部では過激な宗教思想の浸透が深刻なグループが200万人以上いる」といった趙克志・国務委員兼公安相の発言。 これまで、「再教育施設」の規模は「100万人を超える」と言われてきたが、この推測に根拠を与えるものとなった。

 2017年5月28日、陳全国(新疆ウイグル自治区トップ)党委書記の「安定維持司令部」会議での演説の中で、下記のとおり発言しているという。

 「苦難を恐れず、疲労を恐れず、犠牲を恐れぬ精神でそれぞれの責任を果たせ。特に神経をとがらせているのは海外からの帰国者の動向だ。片っ端から捕らえ、手錠や覆面をつけ、必要なら足かせもしろ」と指示。「逃げるものは射殺しろ」とまで言い切っている。

 ウィグル人権弾圧問題をめぐっては、国連のバチェレ人権高等弁務官(元チリ大統領)が今月23日から6日間の日程で中国を訪問中である。この国連の代表に対して、習近平は、「教師面して偉そうに説教するな」と述べたという。本日の東京新聞が「ウイグル訪問中の国連人権高等弁務官にクギ刺す」と報道している。

 「中国の習近平国家主席は25日、新疆ウイグル自治区の視察のため訪中しているバチェレ国連人権高等弁務官とオンライン会談した。習氏は「人権を口実に内政干渉するべきではない」と訴え、中国が少数民族ウイグル族の人権を弾圧しているとして批判を強める欧米をけん制した。
 中国外務省によると、習氏は「国ごとに異なる歴史文化や社会制度を尊重するべきだ」と主張した上で、「教師面して偉そうに他国を説教するべきでなく、人権問題を政治化してはならない」と国際社会の非難に反論した」

 世界の良識を代表する国連人権高等弁務官に対しての「教師面して偉そうに説教するな」である。恐るべき野蛮、唾棄すべき夜郎自大。今、世界はプーチン・ロシアを非難の的としているが、習近平・中国も、兄たり難く弟たり難し、と言わねばならない。

できるだけ、「沢藤」ではなく「澤藤」と表記してください。「沢藤」では、自分のことではないようなので。

(2022年2月27日)
 姓は澤藤、名は範次郎。私の同年輩の従弟である。沢藤範次郎ではない。「澤藤」か、「沢藤」か。この違いに、こだわるべきか、こだわらざるべきか。もちろん、同姓の私にとってもまったく事情は同じ、他人事ではない。
 
 彼は、岩手県の金ケ崎町六原で、永年「さわはん工房」を経営し、郷土色豊かな創作民芸品を作ってきた。主たる作品は、和紙を素材にしての「張り子」。鬼剣舞の面もあれば、招き猫やら人形やら。その評価は高い。随分以前だが、地域の子どもたちと、縄文土器作りに挑戦したことの話しに感心したことがある。

https://ameblo.jp/sawahan

 のみならず、達意の文章の書き手として、先年地元紙「岩手日報」が主宰する《岩手日報・随筆賞》を受賞している。年間たった一人の受賞なのだからたいしたもの。

 その文化人である彼が、最近岩手日報社から取材を受けて、こんな経験をしたという。

 「岩手日報社から取材を受けました。澤藤の名刺を出しましたら、記事には「沢藤」で出ると言われました。共同通信社加盟の新聞社の決まりだと言うことです」

 釈然としなかったが、そのときは「まあ、いいか」と妥協したという。しかし、…。

 「その記事が掲載になったのですが、なんだか他人のような気になりました。私は岩手日報社から「岩手日報文学賞・随筆賞」なるものを戴いているのですが、その受賞者名は「澤藤範次郎」です。また、受賞者が交代で日報社の「みちのく随想」に寄稿しているのも、「澤藤範次郎」名です。ところがたまに「ばん茶せん茶」という随筆投稿欄に書くと、「沢藤範次郎」に書き直されることがあります。
 そこで注意してみますと、慶弔欄や公告は「澤」を普通に使っているようです。
 また、新聞社が依頼した原稿等は「澤」を使うが、一般記事の場合は「沢」のようです。そして、有名人は、例えば「藤澤五月」「澤穂希」のように「澤」を使っています。」

 さすがに観察眼が鋭い。明確に使い分けられているらしいのだ。どうやら丁重に扱われる場合と、軽く扱われている場合と。

 「書棚にあった『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(2005年版)によると、確かに「澤」は無くて、「沢」となっています。そして、このハンドブックの『人名用漢字の字体に関する申し合わせ(2005年)』には、『ただし、特に本人、家族などの強い要望があった場合、前記各項の申し合わせについては各社の運用に任せる』とあります。
 私は取材を受けた直後、本社に電話して、できれば「澤」にしてほしいと言ったのですが、どうやら、「強い要望」とは認めていただけなかったようです。」

 なるほど、なるほど。そして、問題が私に振られる。

 「統一郎さんも『澤』を使用しているようですが、このようなことはありませんか?
 人名の漢字も人格権のような気がしますが。」

 私は、「人名の漢字も人格権のような気がします」という範次郎見解に賛成なのだが、念のために妻と子に意見を聞いてみた。やや意外な反応だった。

 妻は、「澤藤でも沢藤でも、どっちでもいいわ。だいたい私は結婚してサワフジの姓になってもうすぐ60年になるけど、いまだに『澤藤』にも『沢藤』にも慣れない。自分の姓だと馴染めない」と恨みがましい。明らかに論点がずれているが、論争に踏み込むのは危険だ。

 弁護士である子は、常々、集団訴訟の名簿づくりで異字体整理の繁雑さに辟易している。ところが、こう言った。「戸籍制度は、権力が人民を統制する手段なのだから、人名は無限に複雑で異字体が氾濫する状態が望ましい。統制が難しくなるよう、各自がそれぞれの字体を主張すべきだ」と、これもやや論点を逸らしての意見。

 ところで、過日の朝日「天声人語」に、下記の記事。

 「全国の電話帳から拾っただけでワタナベには少なくとも50通りの表記がありました」。そう話すのは名字研究家の高信幸男さん。長く法務省に勤め、戸籍や登記の実務に詳しい。ワタナベの源流は平安中期の武将、渡辺綱にさかのぼり、いまは渡部、渡邊、渡鍋、綿鍋などさまざまな書き方があるそうだ▼サイトウも多彩だ。サイの字は斉、斎、齊、濟などざっと30通り以上。高信さんによれば、ワタナベやサイトウが多様化したのは、明治の初め、新政府が戸籍制度を導入したころらしい▼「列強に追いつくには徴税と徴兵が欠かせない。全国民の台帳作りを急ぐあまり、人名の登録がややずさんでした」。漢字を書けない人が珍しくなく、役所の窓口で姓を問われると、口頭で答える。その場で係官が思いつく漢字を当てたようだ

 なるほど、出版の利便性の側面からは、漢字の異字体を規格化し統一化することには、それなりの合理性・必要性を否定しえないように思う。しかし、漢字の表記は文化の一面である。しかも、氏名の表記となれば、人格てきな利益に結びつかざるを得ない。サイトウやワタナベとは違って、サワフジはわずか2種の異字体。

 ところで、「氏名を正確に呼称される利益は、不法行為法上の保護を受け得る利益である」とする最高裁判例がある。重要部分を摘記する。

 「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものというべきである。しかしながら、氏名を正確に呼称される利益は、氏名を他人に冒用されない権利・利益と異なり、その性質上不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないから、他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない。すなわち、当該他人の不正確な呼称をする動機、その不正確な呼称の態様、呼称する者と呼称される者との個人的・社会的な関係などによつて、呼称される者が不正確な呼称によつて受ける不利益の有無・程度には差異があるのが通常であり、しかも、我が国の場合、漢字によつて表記された氏名を正確に呼称することは、漢字の日本語音が複数存在しているため、必ずしも容易ではなく、不正確に呼称することも少なくないことなどを考えると、不正確な呼称が明らかな蔑称である場合はともかくとして、不正確に呼称したすべての行為が違法性のあるものとして不法行為を構成するというべきではなく、むしろ、不正確に呼称した行為であつても、当該個人の明示的な意思に反してことさらに不正確な呼称をしたか、又は害意をもつて不正確な呼称をしたなどの特段の事情がない限り、違法性のない行為として容認される。」(最判1988.2.16)

 同じことが、氏名に関する漢字の表記についても言えるだろう。当人が望む限りは、当人の希望を尊重しての表記とするのが妥当な姿勢。が、問題はマナーの問題にとどまり、「沢藤」との表記がことさらに嫌がらせとなって、人格権侵害の違法行為と評価される局面は考えにくい。

 鋭い彼の観察眼のとおり、澤藤と沢藤との使い分けは、実は丁重に扱われるか否かなのだ。「沢藤」の表記は違法ではないが、「澤藤」と表記してもらうことがマナーとして望ましい。なんとも平凡だが、そんな結論。おそらく、そんなこだわりは、多くの人にあるのだと思う。面倒だとせずに対応してもらえる社会であって欲しいと思う。

大阪高裁「旧優生保護法・違憲判決」に思う ー 法的正義を実現することが司法の役割だ

(2022年2月23日)
 法における正義とは何か、司法の役割とは、裁判官はどうあるべきか。そして人権とは、人間の尊厳とは、差別とは。さらに国会とは、議員とは。もちろん、弁護士のありかたも…。いくつものことを考えさせられ、教えられることの多い、昨日の旧優生保護法・違憲判決である。

 まずは、大阪高裁での逆転認容判決を喜びたい。国は、上告することなくこの問題の全面的な政治解決を試みるべきだろう。スモンの橋本龍太郎、ハンセンの小泉純一郎に倣うことができれば、岸田文雄の株も大いに上がろうというもの。

 法は正義の体系であり、法の正義を実現する手続が司法である。裁判官は、正義を見極めて判決を言い渡さなければならない。が、何が正義であるかは必ずしも容易に見えない。正義の所在を裁判官に示すのが、法廷での弁護士の役割である。

 各地の弁護団に、とりわけ最初にこの事件に取り組んだ仙台弁護団に敬意を表しなければならない。仮に、私にこの事件の受任依頼があったとして、果たして喜んで受けたであろうか、と考えざるを得ない。事案の内容はこの上なく深刻な人権侵害である、しかも国家による違憲・違法な行為。いまだ社会に根強い優生思想と切り結ぶ事案である。真っ当な弁護士なら義憤を感じて役に立ちたいと思うのは当然である。

 しかしこの事件、受任して本当に勝てるだろうか。勝訴の見込みは極めて低い。敗訴に終わった場合のリスクを考えると二の足を踏まざるを得ない。これが、普通の弁護士の感覚であろう。

 除斥期間の壁はあまりにも高く堅固である。除斥期間の起算点を強制された不妊手術時ではなく、旧優生保護法の「差別条項」が削除され、母体保護法に改正された1996年9月まで遅らせても、除斥期間の経過は明らかである。現実にこの壁を突破できるのか。

 むしろ、除斥期間の壁の突破ではなく、この壁を回避して、国会における人権救済立法措置を懈怠したという立法不作為の違法を問うとする請求の建て方の方が、まだしも見込みはあるというべきだろうが、これとて、立法不作為の違法を認めさせることは「ラクダが針の穴を通る」ほどの難しさ。受任の可否を打診された私は、「裁判は困難ですから、行政や国会での救済策が本筋でしょう」などと言っていたかも知れない。

 それでも、各地に被害者の人権を救済しようという弁護団が結成されて、8地裁に困難覚悟の提訴がなされた。日本の弁護士、なかなかに立派なものではないか。

 「原告らの無念の思いが裁判官の心に届いた」という、昨日判決後の大阪弁護団のコメントが、心に残る。裁判官に求められる最も必要な資質は、この「無念の思い」への共感力である。これあれば、法の正義の実現のために、一般的な法制度の壁を乗り越えることもできる。この判決は、「本件の提訴時には、既に20年の除籍期間は経過していた」ことを認めた上で、「除斥期間適用の効果をそのまま認めることは著しく正義・公平の理念に反する」と判断して、救済につながる除斥期間の適用制限を導き出した。

 判決は、要旨以下のとおりに旧優生保護法とこれに基づく「優生手術」強制の違憲違法を認定した。

 「旧優生保護法は特定の障害などを有する者に優生手術を受けることを強制するもので、子を産み育てるか否かについて意思決定をする自由や、意思に反して身体への侵襲を受けない自由を明らかに侵害するとともに差別的取り扱いをするものであるから、公共の福祉による制約として正当化できるものではなく、憲法13条、14条1項に反して違憲である。」

 この自己決定権や身体の自由、差別を受けない権利の保障の実現が、「法的正義」である。この正義実現のために、時効制度も除斥期間も可能な限り正義実現のための合目的的な解釈を要求される。本判決はその見本となった。

 ところで、この判決は、「旧優生保護法の立法目的は、優生上の見地から不良の子孫の出生を防止するものであり、特定の障害や疾患がある人を一律に「不良」と断定するものだ。非人道的かつ差別的で、個人の尊重という日本国憲法の基本理念に照らし、是認できない」(要旨)と述べている。優生思想を反憲法的で唾棄すべきものとする前提で貫かれている。

 人は平等である。どの人の尊厳も等しく尊重されねばならない。人に、「良」も「不良」もない。そのようなレッテルを貼ってはならない。ましてや「優生手術」の強制などおぞましいかぎりである。

 たまたま、本日は天皇誕生日。その「血統」故に「尊貴」な立場にあるとされる人物と、「血統不良」として子孫の出生防止の見地から若くして「優生手術」を強制された原告らと。同じ国の同じ時代に生きる者の間のあまりに深い落差に目が眩む思いがする。血統における「尊貴」も「不良」も厳格に否定するところから人権の尊重は始まる。

「NO WAR IN UKRAINE」「NO WAR IN THE WORLD」「FUNDAMENTAL RIGHT IN CHINA」

(2022年2月14日)
 北京オリンピックで大きく印象に残るものといえば、中国当局の強権的姿勢、それに対する各国の宥和的態度、不公正な審判、ドーピング等々、白けることばかり。人権を無視したこの国でのこんなオリンピック、どこにやる意味があるのか。何ともつまらぬと思っているところに、たった一つだけ興味のある「事件」が生じた。

 2月11日のスケルトン男子に出場したウラジスラフ・ヘラスケビッチ(ウクライナ)が3回戦のレース後、「NO WAR IN UKRAINE(ウクライナに戦争はいらない)」と英語で書いたプラスターをテレビカメラに向けた。ロイター通信などによると、2度目の五輪となる23歳のヘラスケビッチは「私は戦争を望んでいない。母国と世界の平和を願っている。それが私の立場だ」と訴えたという。

 言うまでもなく、ウクライナはロシア軍による軍事侵攻の危険に曝されており、米国のサリバン大統領補佐官は、「五輪期間中にもロシア軍による侵攻が始まる可能性がある」と表明している。その危機のさなかでの、「NO WAR IN UKRAINE」である。インパクトは大きい。

 五輪憲章第50条は、「政治、宗教、人種的な意思表示」を禁じている。が、昨夏の東京五輪では、試合前や選手紹介中などであれば、節度ある範囲での行為は容認する方針に変わったとされる。東京五輪では、サッカー女子の試合開始前に人種差別に抗議するために片ひざをつく所作(ニーダウン)が見られた。

 ヘラスケビッチのこの日の行動について、「IOCは『選手とこの件について話し合った。一般的な平和への願いなので、この件は決着した』としている」(朝日)。あるいは、「『平和を求める一般的な呼びかけだ』として、処分の対象にはならないという見解を示したということです」(NHK)と報じられている。

 平和を求めることを「政治的意思表示」というだろうか。さすがにIOCも『平和を求める一般的な呼びかけ』を「政治的意思表示」として禁止するとは言えなかった。その意味するところは大きい。

 「NO WAR IN UKRAINE」が許されるのだから、「NO WAR IN THE WORLD」が許されないはずはない。平和を求める一般的な呼びかけだけでなく、自由や人権や人種間の平等という普遍的な価値を求める一般的な呼びかけが、許されないはずはない。

 オリンピックは世界から切り離された特殊な空間ではない。ここでも、人間の尊厳が確保され、人権が尊重され、差別が禁止され、そして表現の自由が保障されてしかるべきではないか。

 とすれば、「世界に基本的人権を」「中国に表現の自由を」「新疆ウイグル自治区になきなき民族間の平等を」などというスローガンの意思表示が禁止されてはならない。

「現代版・リットン調査団」を中国に派遣せよ。今度は「バチェレ調査団」だ。

(2021年12月15日)
 1931年12月10日、国際連盟理事会は「日支紛争調査委員会」の設置を決議し、次いでリットン以下5委員を任命した。世に言う「リットン調査団」の結成である。同調査団は精力的に、東京を皮切りに、上海、南京、漢口、北平(北京)を視察のあと、満洲地域を1か月間現地調査し、再び東京を訪問。その後北京で報告書を作成している。連盟理事会に完成した報告書を提出したのが32年10月1日である。

 1933年3月24日連盟総会は42対1(反対は日本)で同報告書を採択し、同日日本は国際連盟を脱退する。この調査団報告に対する歴史的な評価は種々あろうが、日本が国際連盟の調査に協力したことは特筆されてよい。費用の半額を負担してもいる。

 「中国の人権状況」をめぐって、これを指弾する勢力と批判を拒否する中国に追随する勢力とに、世界が分断の色を濃くしているいま、90年前の故事に倣って「国際連合中国人権状況調査委員会」を設置すべきではないか。そのような国際世論を盛り上げたい。

 現代版「リットン調査団」は、「バチェレ調査団」になる。中国政府は、「バチェレ調査団」のウイグルと香港の調査に無条件に協力しなければならない。

 国連人権高等弁務官ベロニカ・ミチェル・バチェレ・ヘリア(1951年9月29日生)は、女性初のチリ大統領を2期務めた政治家だが、外科医であり小児科医でもあるという。その父は、アジェンデ政権の協力者として独裁者ピノチェットに殺害された人、自身も拷問を受けた経験があるという。

 中国の人権弾圧が問題となって国連も腰をあげ、バチェレ人権高等弁務官が現地を訪問しての調査を申し出た。中国政府も、さすがに「NO」とは言えない。しかし、何をどのように調査するのか、調査の条件にこだわって、「協議」は続いているというが、調査は実現していない。

 この間、メディアには、主としてウィグル人亡命者からの生々しい人権侵害被害の報告が重ねられ、その都度、中国当局の「事実無根」「捏造」「うそにあふれ、中国をたたくための政治的なたくらみ」というお決まりの反論が繰り返されてきた。

 しかし、米バイデン政権の本気度は高く、新疆産製品を強制労働によるものとしてボイコットを呼びかけ、さらには綿製品に限らないすべての新疆産製品の輸入を禁止し、新疆産の原材料を使用する製品でないことの証明を求めるというところまで来ている。

 影響の大きい例では、太陽光パネルの材料であるシリコンがある。その生産量は世界の8割を中国が占め、その半分ほどがウイグルで採掘されているという。これをアメリカは、原料としての輸入をしないだけでなく、製品としてもウィグル産シリコン不使用を証明できない限り輸入は認めないという。

 この動きは、おそらく世界に広まるだろう。中国にとっての打撃となる。中国はその先手を打って、「バチェレ調査団」を受け入れると宣言すべきではないか。

 「バチェレ調査団」は、各国の政府関係者だけでなく、ジャーナリストと人権NGOの活動家を加えるべきだ。そして、被害を訴えた亡命者を帯同しなければならない。調査は2班に分けて、ウィグル各地と香港を対象とする。期間は最低2年はかかるだろう。中国当局が見せたくないところを見なければならないし、しゃべらせたくない現地の人の声を聞く工夫がなくてはならない。

 ところで、中国当局の公式見解は、「人民網日本語版」で手軽に確認できる。
 http://j.people.com.cn/
 その12月10日欄に、記者の質問に答える形で、汪文斌・外交部報道官がこう語っているのが、興味深い。
 


 新疆関連の問題は人権問題などでは全くなく、テロ対策、脱過激化、反分離主義の問題だ。中国政府が法に基づき暴力テロに打撃を与えるのは、まさしく新疆各民族人民の人権を最もよく守っていることになる。

 香港地区は中国の香港地区であり、香港地区の事は完全に中国の内政だ。中国政府が国家の主権と安全、発展上の利益を守る決意は確固不動たるものであり、「一国二制度」の方針を貫徹する決意は確固不動たるものであり、香港地区内部の事へのいかなる外部勢力による干渉にも反対する決意は確固不動たるものだ。」

 要するに、「新疆と香港の問題は、アンタッチャブルだ。他国に余計なことは言わせない」という、居丈高な姿勢。なんという余裕のない、なんという批判拒否体質。これでは、世界の良識からの理解を得られない。水掛け論を繰り返すのではなく、「バチェレ調査団」の調査を受け入れれば、中国政府側の利益にもなるのではないか。

中国共産党の民主主義論は、神権天皇を寿ぐ無内容な美文によく似ている。

(2021年12月13日)
 アメリカのバイデン政権が、「価値観を共有する」友好国を招いて「民主主義サミット」を開催し、これに中・露など「価値観を共有せざる」諸国が反発している。連合国対枢軸諸国の対立を再現するようなことがあってはならないが、人権や民主主義の蹂躙に対する必要な批判を遠慮してはならない。

 色をなした体で中国が反論を試みていることが興味深い。さすがに、批判は身にこたえるのだ。「民主主義なんぞ何の価値があるものか」と開き直ることはできない。「偉大な習近平の指導に従うことこそが、人民の利益に適うのだ」と言いたいところだが、そのような言葉は呑み込まざるを得ない。そして、おっしゃることは、「結党以来100年、中国共産党は民主を貫いてきた」である。へ~え、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。

 思い起こせば、孫文「三民主義」に「民権主義」があり、毛沢東に「新民主主義論」(1940年)がある。民主主義をないがしろにするとは言えないのだ。とは言え、革命中国においても、党の支配を制約する「民権」「民主」を貫いてきたとは、意外も意外。

 中国に民主主義があるのか、固唾を飲んで見守ったのは1989年6月天安門事件のときだった。その後、中国に民主主義の片鱗でも残されていないか、固唾を飲んで見守ったのは2020年香港の事態である。1989年に絶望し、2020年には、その絶望を確認するしかなかった。

 にもかかわらず、中国はこう言っている。「中国にも民主主義はある。但し、それは英米流のものではない」「中国の近代化では、西洋の民主主義モデルをそのまま模倣するのではなく中国式民主主義を創造した」「中国は独自に質の高い民主主義を実践してきた」。

 要するにに、「民主主義」に「中国式の」という修飾を付加すると、別物になってしまうのだ。

 昨年(2020年)6月、国連の人権理事会でカナダなど40か国余が共同して、「中国に対して、国連高等弁務官の新疆入りの容認を求める共同声明」を発表した。その共同声明は新疆での人権弾圧問題でけでなく、「国家安全維持法(国安法)下での香港の基本的自由悪化とチベットでの人権状況を引き続き深く懸念している」とも指摘していた。
 これに対して、ジュネーブの中国国連代表部の上級外交官Jiang Yingfengは、共同声明が指摘した問題の存在を否定して「政治的な動機」に基づいた干渉だと非難し、香港問題については、「国安法制定以降、香港では混乱から法の支配への変化が見られている」と述べた。(ロイター)
 https://jp.reuters.com/article/china-rights-un-idJPKCN2DY137

 香港では、権力が市民の言論の自由を奪い、出版の自由を妨害し、権力を批判する新聞を廃刊に追い込み、中国共産党の統制に服さない結社を解散させ、デモさえ許さず、恣に活動家を逮捕し起訴し有罪判決を言い渡している。この事態を中国共産党は、「混乱から法の支配への変化」というのだ。

 中国共産党にとっては、民主主義とは「望ましからざる混乱」に過ぎない。民主主義が必然とする市民の自由な諸活動を徹底して弾圧し、押さえ込むことこそが「あるべき法の支配」だというのだ。中国共産党の恐るべき本心、そして恐るべき詭弁である。

 最近中国の民主主義に関する論説を読んでいると、なんとなく既視感を禁じえない。戦前の神権天皇制政府を持ち上げた、あの恐るべき無内容ながらも、延々たる美文によく似ているのだ。

 あのバカげた神権天皇制の権威主義的政治体制についてさえ、「五箇条のご誓文を淵源とする民主主義の精神で貫かれている」と持ち上げる倒錯した論説もある。また、万世一系の天皇は「臣民を赤子としてこの上なくお慈しみあそばされた」という愚論もある。これが、中国共産党の民主主義論によく似ているのだ。

 万世一系を中国共産党の無謬性に置き換え、天皇を習近平に、臣民を人民に読み替えれば、実はたいして変わらない。両体制とも、これこそが臣民(人民)の利益を擁護するための最高の政治体制であることを疑っていない。民主主義なんぞは非効率であるばかりでなく間違ってばかり。そう言えば、八紘一宇の思想は一帯一路に似ているではないか。

 民主主義が、画一化され定型化された政治理念でないことは当然である。しかし、「文化は多様」「文明は多様」「それぞれの国や民族の歴史や伝統は多様」というレベルで「民主主義も多様」と言えば、明らかに民主主義否定の詭弁でしかない。重要なことは、民主主義を支えている具体的な諸制度や自由の検証である。「中国的民主主義」は、とうていそのような検証に耐え得る代物ではない。

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