澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「鶏よ、鳴け。夜がゆっくり明け始めている。」ー袴田巖再審開始を求める意見広告

 良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。
 暗く苦しい夜が長ければ長いほど、ひときわ声高く響く良心の声よ。
 暗澹と悲痛と憤怒の錯綜した獄中14年有余、私を支えたのはその声だ。
 鶏よ、鳴け、私の闇夜は明るくなった。
 鶏よ、早く鳴け、夜がゆっくり明け始めている。
(袴田巖 1981年5月6日 書簡集より)

本日(8月18日)の朝日・毎日の両紙に掲載された、「袴田事件の一刻も早い再審開始を求める」意見広告。一面全部を使ったインパクトの大きいこの広告の冒頭に、この胸を打つ一文がある。これは詩だ。美しく心情を描いている。

袴田さんは、「世界最長収監の死刑囚」として知られている。1966年6月30日清水で起こった一家4人の殺人事件。その犯人として同年8月18日に逮捕された。本日の意見広告掲載は、51年前の同じ日付を意識してのことかも知れない。当時30歳であった。以来拘束が続けられ、死刑確定囚の身のまま釈放されたのが2014年3月27日のこと。この間の身柄拘束は47年7月余、日数にして17,389日だという。人生の大半を死刑の恐怖と絶望のうちに過ごしたことになる。

彼に対する取り調べは過酷で凄まじいものだった。いったんは「自白」を余儀なくされたが、公判段階からは一貫して否認し続けた。しかし、彼の無実の声は届かなかった。判決は有罪。しかも死刑である。後の裁判所が「証拠の捏造の疑いを否定できない」とされた審理での有罪である。

最高裁が上告を棄却して死刑が確定したのが、1980年12月。「私の闇夜は明るくなった。」と、彼が綴った81年5月は、第1次再審請求直後のこと。この時期、日弁連も支援を決めている。

彼は、「良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。」という。良心とは、彼の無実を信じて救援活動に没頭した家族や支援者の良心であり、ジャーナリストの良心であり、弁護団の良心でもあったろう。多くの良心が、無辜の人の心の支えとなったのだ。

しかし、現実の経過は厳しいものだった。「夜がゆっくり明け始めている。」と彼が呟いたときから、釈放まで33年を要している。しかも、その釈放から3年を経た今もなお、静岡地裁の再審開始決定には、検察官の即時抗告があって現在東京高裁で審理半ばである。だから、「もう待てない。一刻も早い再審開始を」という意見広告なのだ。

意見広告の下段には、袴田さん自身の次のつぶやきが、掲載されている。
 私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。
 私の心身は反則によってKOされたまま踏みにじられている。
 そのKOの底に身を横たえてしまうしかないのか。
 そして日一日と正義を殺されていくのか。
 これが私の生である。私の無念とするところである。…
 私は無実だ。…
(袴田巖 1981年11月29日 書簡集より)

冒頭の文章の明るさとはちがって、厳しさを感じさせる一文。これが、わずか半年後のこと。
「私は無実だ。…」と言いつつも、「日一日と正義を殺されていくのか。」という、呪詛の言葉が重い。私たちが作り運営する刑事司法の仕組みが、人の運命をもてあそび、無実の人の人生を奪ったのだ。

治安を維持するための刑事司法の必要性は自明である。しかし、刑事司法作用は生の権力発動として一歩間違うと、重大な人権侵害をもたらす。

そこで、「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則が掲げられねことになる。そして、この理は再審制度においても適用されるというのが、「白鳥決定」において最高裁が明言したところである。しかし、それでも冤罪はなくならない。

刑事司法とは、刑罰権・捜査権を行使する国家権力と、裸の私人とが対峙する場である。警察も検察もそして裁判所も、被告人の弱い人権に配慮しなければならない。刑事訴訟法とは、被告人の人権擁護のための体系にほかならない。

有罪判決は、「合理的な疑いを容れない程度」の心証があることを必要とする。証拠に照らして、「合理的な疑いを容れる余地なく有罪」と考えられる場合にのみ有罪判決となるのだ。白鳥決定は、再審の場合も同様だという。

この制度は、人類が正義の実現と人権擁護とを追求してたどり着いた、文明の到達点である。これに反して、「権力は間違いを犯さない」「警察がつかまえた者、起訴された者が無罪では権力が間違ったことになる」「だから、被告人が無罪となってはならない」という権力無謬の考えが権力機構の側に残存している。

袴田さんには、ぜひとも正義と人権を回復してもらいたい。
今こそ叫ぶときだ。
「私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。」
ようやくにして、「多くの良心に支えられて夜はゆっくり明け始めている」のだから。
(2017年8月18日・毎日連続更新第1601回)

国籍による差別を容認してはならない

昨日(7月18日)、民進党の蓮舫代表が自身の戸籍謄本の一部を公開して、二重国籍を否定した。右翼ジャーナリズムと党内右派の悪意ある攻撃に晒されて釈明を余儀なくされてのことだ。まさかそこまですることもあるまいと思い込んでいるうちのできごと。蓮舫支持の声が弱かったことが悔やまれる。

蓮舫代表の戸籍謄本の一部公開に先だって、昨日の午前中に、民族差別問題に関わる弁護士と著名大学人の10名が、連名で「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」と表題する文書を民進党に提出して、戸籍公開に反対する申し入れを行った。この申し入れに賛意と敬意を表するとともに、その全文を紹介しておきたい。

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 2017年7月18日

 「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」
民進党・蓮舫代表は、このたびの都議選を総括する党内論議の中で「代表の二重国籍問題が最大の障害」との一部の議員の指摘を受けて、台湾籍を離脱したことを証明する資料を18日に公表する方針を示しています。

 蓮舫代表は、参議院選挙に立候補した時点で戸籍謄本により日本国籍を有していることが確認されており、何の違法行為も行っておりません。一部の党内議論とごく一部の報道やネット世論が問題視している「二重国籍」なる問題ですが、そもそも、本当に「二重国籍」なのか、という点をまず問われなければなりません。

日本の国籍法はかつて父系血統主義を取っていたため、台湾籍の父を持つ蓮舫代表は出生時において選択の余地もなく台湾籍を持つことになりました。ところが、その後、1972年の日中国交正常化により、日本政府は中華人民共和国政府のみを唯一の政府であると認め、今日まで台湾(中華民国)政府を承認していません。そのため、蓮舫代表も中国籍とされたのです。その後、1985年に国籍法が改正され、蓮舫代表は経過措置による届け出により日本国籍を取得しました。日本政府の、中華人民共和国を正式な唯一の中国政府とする立場からすれば、日本国籍を取得した時点で中国の国籍法により自動的に中国国籍が喪失されることになります。すると、蓮舫代表についてそもそも二重国籍という問題は生じないことになります。

他方で、台湾の国籍法は外国籍の取得に伴う台湾国籍の自動的喪失を認めないため、国籍の得喪につき台湾の国籍法を適用すれば、二重国籍の問題が生じえます。ただ、台湾当局において台湾国籍の喪失手続きを行ったとしても、その喪失の効果を認めるか否かは日本政府の行政運用の問題であって、蓮舫代表個人の問題ではありません。

日本政府は、蓮舫代表の台湾籍の国籍喪失届を不受理にする一方で、台湾籍の放棄を宣言することによって行う国籍選択を行政指導したといいます(注1)。それ自体、矛盾した態度であると言わざるを得ません。また、仮に「二重国籍」であることを前提としても、国籍選択については、あくまでも法的拘束力のない「努力義務」にとどめており、これまで法務省自身が催告を行ったことがないことを認めています。そもそも、国籍選択制度自体、今日の国際色豊かな多様な社会状況からすれば、その有用性は大きな疑問です。

このように、国籍は複数の国の法制度が絡み合えば個人の意思に関わらず複雑な問題が生じ、しかも、未承認国家の国籍については、日本政府がどのような立場、対応をとるのか、ということが問題となるのです。

さらに、重国籍者の被選挙権についてもかつて国会で議論され(注2)、その被選挙権を制限する理由はないという結論が出ています。

つまり、蓮舫代表は自身の国籍に関して戸籍を含む個人情報を公開するなんらの義務も必要もありません。それにもかかわらず蓮舫代表に個人情報の開示を求めることは、出自による差別を禁じている憲法第14条(注3)及び人種差別撤廃条約の趣旨に反する行為と考えられます。

これまで日本には、戸籍に記された個人情報が差別や排除の目的で利用されてきた歴史がありました。被差別部落に出自を持つ人たちを雇用や結婚で差別するために作られた1975年の「部落地名総鑑事件」の教訓をもとに、企業による採用選考の場で応募者に戸籍謄本の提出を求めることは禁じられるようになりましたが、同様の差別がさまざまな形で残っていることは、各種調査でも明らかです。

また、日本には多くの日本生まれの外国籍者や、外国から日本に移動してきて暮らす外国籍者がいます。1万人を超える無戸籍者もおり、非嫡出子など出自にかかわるさまざまな事情を抱えた人もおります。アイヌは、明治32年に制定された北海道旧土人保護法により、日本の戸籍に編入されながら「旧土人」と分類され続けてきました。日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。その中で、今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに上記の憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。

とりわけ近年は、路上あるいはネットでのヘイトスピーチ、沖縄での機動隊員での「土人」発言や保守を名乗る政治家による排外主義的発言の横行を見てもわかるように、特定の人種、民族、国籍などの属性に基づくマイノリティ差別が酷くなる傾向にあります。民進党はこれまで、共生社会と多様性の実現を政策理念として掲げてきました。政策集の中には、目指されるべきは「一人ひとりの基本的人権をさらに尊重する社会、多様な個性や価値観が認められる人権尊重社会」とはっきり記されています。にもかかわらず、上記の一部の風潮に同調するように党内からも蓮舫代表に「日本人であること」の証明を求める声が出るというのは、憂うべき事態と言わざるをえません。

蓮舫代表が、自身がおっしゃるように「多様性の象徴」であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。

民進党が共生社会を求める市民に支持される公党たるべく、みずからの政策理念をあらためて確認されることを願うとともに、蓮舫代表には、ご自身のルーツや生きてきた道に堂々と胸を張り、不要な個人情報の開示要求は毅然として拒み、一人ひとりが大切にされる社会の実現のために力を尽くしてくださることを願ってやみません。」

佐藤学(学習院大学)、西谷修(立教大学)、山口二郎(法政大学)、中野晃一(上智大学)、香山リカ(立教大学)、伊藤和子(NGOヒューマンライツ・ナウ)、神原元(神奈川弁護士会)、原田學植(第一東京弁護士会)、小田川綾音(第一東京弁護士会、全国難民弁護団連絡会議)、金竜介(東京弁護士会、在日コリアン弁護士協会)

注1 国籍法第14条2項
日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。

注2 昭和59年5月2日、8月2日の参議院法務委員会における飯田忠夫参議院議員(公明党)と関守・内閣法制局第二部長、枇杷田泰助・法務省民事局長らとの議論

注3 日本国憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

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この長い文章の眼目は、「日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。」「今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。」というところにある。

そして、「蓮舫代表が、自身がおっしゃるように『多様性の象徴』であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。」が、受け容れられない社会へのもどかしさが伝わってくる。

本来は被選挙権の有無だけが問題で、氏が被選挙権を有することには一点の曇りもない。二重国籍であろうとなかろうと、なんの問題があろうか。むしろ、氏は「蓮舫」という、自己の出自を表す姓名を堂々と名乗ってこれまで選挙民の審判を受けてきたではないか。

この申入書の前半はやや煩瑣にまで、二重国籍を否定する論拠に割かれている。そうせざるを得ない現実があるのだ。

つまらんことだ。国籍や人種や民族や宗教の別にこだわることはもうやめたい。愛国心や国旗や国歌をありがたがるのも、実は差別の裏返しだ。一人ひとりを、個性を持った人間として尊重すべきだけが大切なことではないか。

ヒトの年齢を聞くことが失礼な時代にはなっている。国籍を問題することも恥ずべきことなのだ。「私の国籍がどうだって? 失礼なことを聞くもんじゃないよ」「二重国籍? それがどうした?」と言える、差別否定の常識が通用する社会でなくてはならないと思う。
(2017年7月19日)

弁護士河西龍太郎の「障がい者」訴訟についての取り組み

本日(7月10日)、久しぶりに河西龍太郎に会った。
彼は大学入学以来の親しい友人。司法試験の勉強をともにし、司法修習も同期で同じクラスだった。弁護士登録後ほどなく、私は盛岡で、彼は佐賀でそれぞれ法律事務所を開いた。よく似た弁護士活動をしてきた。

その彼から、先日事務所閉鎖の通知をもらって驚いた。「今般、河西龍太郎法律事務所を、5月1日をもちまして閉じることにいたしました」とあった。体調を崩してのことなのだが、とてもさびしい。

本日、彼の上京は、「『建太さんはなぜ死んだか』出版記念シンポジウム」に出席のため。この書は、彼が弁護団長を務めた「安永建太君事件」の顛末を斎藤貴男さんがルポとしてまとめたもの。「警官たちの『正義』と障害者の命」と副題が付いているこの書は、山吹書店から7月5日に発売されている。下記のURLを開いてご覧いただきたい。
https://www.amazon.co.jp/dp/4865380639

安永建太君事件の概略は以下のとおりである。

2007年9月25日、安永健太さんは自転車に乗って障害者作業所から自宅に帰る途中で、不審者と間違われ、警察官から後ろ両手錠を掛けられ、5人もの警察官にうつぶせに取り押さえられて心臓突然死をしてしまいました。
健太さんには中等度の知的障害を伴う自閉症スペクトラム障害があり、コミュニケーションが難しいという特性がありました。健太さんは警察官と相対していた時も、「アーウー」としか言葉を発していなかったそうです。しかし、警察官は誰一人として健太さんに障害があることに気づきませんでした。
家族は健太さんが死んでしまった原因を知りたいと思い、刑事裁判で健太さんを取り押さえた警察官の刑事責任の追及をするとともに、民事裁判(国家賠償請求訴訟)として健太さんを死亡させたことの損害賠償を佐賀県に求めました。
しかし、刑事裁判では健太さんを取り押さえた警察官は無罪となり、民事裁判でも、佐賀県の責任は認められないまま、裁判は終わりました。(「考える会」のパンフレットより)

「あらためてこの事件の本質は何であるか」という問に、斎藤貴男さんはこう答えている。
「刑事と民事、2つの裁判でそれぞれ争点となった、警察の『暴力性』と『障害者に適切な対応を採らなかった』ことの両方。いずれもこの国にもともと根強い忌まわしい風土だが、折しも事件当時以降、新自由主義の猛威によって、ますますその傾向が強まってきていることも遠因と考えてよいのではないか。共謀罪も明日(7月11日)から施行される運びで、このまま放置しておけば、こうした悲劇は幾度でも繰り返される可能性が高い。」

また、本日シンポジウムの資料として配付されたパンフレットには、次のように記載されている。
「安永健太さん死亡事件の本質は、『元気だった健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』、これに尽きると思います。言い換えれば、『もし健太さんに障害がなかったとしたら』、『もし警察官に障害についての知識があったとしたら』ということです。
健太さんに障害がなければ、死亡事件に発展したとは考えられません。知的障害や言語障害のあった健太さんは、警察官に取り押さえられたときに、唾を吐きかけたり手足をバタつかせるしかなかったのです。それが精一杯の意思表示だったのでしょう。警察官は、これを『抵抗』とみなし、『保護』の対象として容赦なく圧力を加えました。5人の警察官による渾身の圧力は、1人の若者を死に至らせるに十分でした。ついさっきまで元気に自転車をこいでいた健太さんは、十数分後には変わり果てた姿になってしまったのです。
悔やまれるのは、警察官に『障害』についての知識がなかったことです。5人の警察官の誰かが、普段から障害のある人と接していたり、障害の特徴についての理解があれば、結果は異なっていたにちがいありません。こうみていくと、安永健太さん死亡事件は、『障害ゆえの悲劇』であり、『無知がもたらした致死事件』と言ってさしつかえありません。
加えて残念だったのは、裁判の過程でこれらの点にまともに向き合ってもらえなかったことです。最大のテーマであった『健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』は明らかにされず仕舞いでした。結果として警察官の不当性は暴かれませんでした。
このままでは、好転の兆しにある『障害のある人もまちに出よう』の気運に冷や水を浴びせられたのも同然です。それだけではなく、障害のある人の命の基準値が引き下げられてしまいます。私たちは、今般の最高裁による不本意な決定を、安永健太さん死亡事件の本質である『健太さんが、なぜ死ななければならなかったのか』を社会みんなで考える新たなスタート台としたいと思います。二度と同じ悲劇がくり返されないために。

この事件で、警察官は特別公務員暴行陵虐罪で告訴されたが不起訴になった。これに納得し得ない遺族らが佐賀地裁に付審判請求を求め、これを支持する署名運動が取り組まれた。この点について、河西(弁護団長)が次のように述べている。

怒りの付審判請求署名
担当の検察官はようやく加害警察官を起訴するつもりになったようであるが、最高検は頭ごしに不起訴決定をした。佐賀の「考える会」はさっそく全国署名に取り組み、全国からの11万人の付審判請求署名を佐賀地裁に提出した。当時佐賀市の人口は10万人位であったろう。イ左賀地裁はびっくりして付審判請求を認めた。
本件は民事事件でも刑事事件でも警察官の違法性を認めなかったが、これは最高裁も知的障害者の権利救済には無力であるという赤恥を全国に洒したこととなる。今後は知的障害者の権利救済の運動を強化することが一番の課題となるだろう。

なお、付審判は検察官の起訴独占主義の例外として制度の紹介はどの本にも載ってはいるが、現実にはめったに認められない。1949年以降、延べ約1万8000人の警察官や刑務官など、公務員に対する付審判請求があったが、付審判が認められたのは23人であり、1人が係争中である他は有罪9人、無罪12人、免訴1人となっている(ウイキペディア)という。

河西龍太郎、じん肺闘争の先鞭をつけたことで名高いが、それだけではない。障がい者問題を含む人権課題でよく闘ってきたわけだ。

今日、彼から自分がデザインした「憲法擁護ハンカチ」をもらった。同じデザインの「憲法擁護たおる」もあるそうだ。それに、次の説明が付いている。これをご紹介しておきたい。
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「憲法擁護ハンカチ(たおる)」について
1 私は昭和17年生れですので、小学校入学当時に新憲法が施行されて2年目くらいの頃だったと思います。私の担任は若くて美しいY先生だったのですが、入学して間もなく「日本人は第二次世界大戦を深く反省し、二度と戦争をしないという決意のもとに軍隊を持たないという世界で唯一の平和憲法を制定しました」という話しをしてくれました。
2 私が弁護士になった頃は、自衛隊は自衛のための戦力であるので、合法だという考えに変わってしまいましたが、平和憲法がある限り、自衛隊が海外派遣されることはないだろうと考えていました。
3 しかし、今では一国の首相が、鉦や太鼓をたたいて改憲を叫びまわり、国民の半数近くも平和憲法の改正に賛成しているようです。平和憲法はまさに風前の灯の状況にあるといってよいでしょう。
4 私は日本の歴史を調べてみました。日本人というのは、ほとんど権力と闘ったことのない民族のようです。権力の横暴に立ち向かう力が弱い民族のようです。しかし、平和を愛する優しい心を持った民族であると思います。
5 そして、その優しい力を、今こそ護憲のために使わなければならない時期にあると私は考えます。
6 このハンカチ(たおる)は、みんな私がデザインしたものです。多くの方に使ってもらいたいと考えて、わざと「護憲」という文字は使っていません。しかし、デザインがユニークですので、気持ちは伝わると思っています。
7 このハンカチ(たおる)を多くの方に使っていただいて、利益が出れば護憲運勣に寄付したいと考えています。ご協力よろしくお願いいたします。
2017年5月 弁護士 河西龍太郎
(2017年7月10日)

今の日本は、世界の良識に反人権・反国際協調の国と映っている。

野蛮なトランプが、パリ協定からのアメリカ離脱を表明した。この歴史的愚行の傷は深い。「愚かなアメリカ」「手前勝手なアメリカ」「国際倫理をわきまえぬアメリカ」「ごろつきアメリカ」の刻印が深い。かつてのアメリカの威信回復は、もはや不可能かも知れない。あんな大統領を選出した、アメリカの「デモクラシー」の質が問われている。さて、振り返って日本はどうだろうか。こんな首相を権力の座から引き下ろすことのできない日本の「民主主義」は、アメリカと兄たりがたく弟たりがたい。

アベ政権は、参勤交代よろしく発足直後のトランプに擦り寄って、アメリカとの価値観の共有を強調して見せた。なるほど、野蛮で知性に乏しい、似た者同士。さて今後、両者の関係はどうなることやら。

「デンデンのアベ」に代わって、「ミゾユウのアソウ」が、えらそうにコメントした。
「もともと国際連盟をつくったのはどこだったか。アメリカがつくった。それでどこが入らなかったのか。アメリカですよ。その程度の国だということですよ。」

「この程度の政権」の副総理であるアソウによる、「その程度の国」への批判の言。だが、忘れてはならない。1933年3月、国際連盟脱退という愚挙を犯して国際的孤立化への道を歩んだのが、ほかならぬ日本だった。その程度の国だったのだ。

そしていま、日本は確実に国連との軋轢を拡大しつつある。世界の良識に背を向けつつあることにおいて、連盟脱退の時代に似て来たのではないか。これ以上再びの孤立化への危険な道を歩んではならない。

まずは、シチリア島におけるアベとアントニオ・グテーレス国連事務総長との懇談内容公表問題。日本側の公表内容を国連報道官側が否定した。国連側に、日本の公表内容は我田引水に過ぎるとのニュアンスが感じられる。問題となったテーマは、極めて重要な2点。「慰安婦問題に関する日韓合意評価」と、「『共謀罪』への懸念を表明した国連特別報告者の地位」に関するもの。

アベも、自分の都合のよいことについては、国連の権威を利用したいのだ。そこで、「安倍総理から慰安婦問題に関する日韓合意につき,その実施の重要性を指摘したところ,先方(グテーレス国連事務総長)は,同合意につき賛意を示すとともに,歓迎する旨述べました。」と発表した。しかし、国連側はこれを否定した。「(事務総長は、)慰安婦問題が日韓合意によって解決されるべき問題であることに同意した」が、「事務総長は、特定の合意内容については言及していない」、「問題解決の方向性や内容を決めるのは日韓両国次第だという原則について述べた」だけだという。

また、日本側は「(事務総長は、)人権理事会の特別報告者は、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は、必ずしも国連の総意を反映するものではない旨述べました。」と発表した。しかし国連側は、「事務総長は安倍首相に対し、(人権理事会の特別報告者とは、)国連人権理事会に直接報告する独立した専門家であると述べた」という。

日本側は、反論しているようだが、無駄だし無意味だ。懇談の席でどう話されたのかが問題ではない。いま、オープンな場で、事務総長が日本側の公表内容を否定していることが重要なのだ。アベが深追いすれば、みっともなさの傷は深くなるばかり。

次に、デービット・ケイ報告問題。国連人権理事会の特別報告者であるこの人。担当は、表現の自由だ。昨年来日して、日本における言論の自由状況を精力的に調査して、深い懸念を表明した中間報告書を作成している。特定秘密保護法問題、担当大臣の停波発言等報道の自由の萎縮、そして教科書検定のあり方など問題とされた内容は具体的だ。この人の報告に接して襟を正さなければならない政権が、逆ギレしてしまっていることが異常な事態である。

さらに、プライバシー担当のジョセフ・カナタチ特別報告者の共謀罪に関するコメント。首相宛ての書簡が話題を呼んでいるが、政府は自らの姿勢を反省する姿勢はさらさらなく、抗議に及んでいる。国連の言うことなど聞く耳もたないという如くである。

そして、思い起こそう。世界の潮流が反核に動いているこのときに、被爆国日本が、核兵器禁止条約に反対の立場を鮮明にしていることを。日本政府は、核兵器禁止条約への交渉不参加を表明して実行している。国連の圧倒的多数国が、6月15日から7月7日まで、後半の交渉スケジュールで核兵器禁止条約を作り上げる交渉の予定だが、ここに日本政府が姿を見せることはない。

他国から日本政府の行動を見たら、日本は反人権国であり、反国連・反国際協調主義の国柄と映るだろう。そして、原水爆禁止にもまったく熱意のない国であるとも。
世界からこのように見られている日本が共謀罪を成立させれば、そして9条改憲を実現させれば、国際社会は1933年の過ちを再び繰り返す日本を想起することだろう。アベ内閣自身が、そのような「印象」をもたれるよう、せっせと「操作」を積み重ねているのだ。
(2017年6月4日)

「憲法とはなんぞや」「日本国憲法とはなんぞや」

労働者学習センターが発行する「ひろばユニオン」という労働組合運動誌がある。月刊で、一冊490円(税込み)の定価。1962年4月に第3種認可取得とされているから、55年の歴史をもっていることになる。さすがに連合系組合からの寄稿が多いが、特定のスポンサーなしで運営を続けているという。労働運動低迷と言われる今日、貴重な出版物というべきだろう。

その「ひろばユニオン」に、12回連載の予定で、「施行70年 暮らしと憲法」のシリーズの執筆を引き受けた。この4月号からのこと。その書き出しが、以下のとおりだ。

「今月号から1年間、12回連載で本誌に憲法をテーマに執筆することになりました。各号ごとに、身近なトピックを取り上げて憲法を語り、12回を通じて憲法の全体像が把握できるようにする、そんな試みの連載です。」

そんなに、うまく行くかどうか。やってみなければ分からないが、できるだけのことをやってみよう。毎号4000字。写真をいれて、4ページ分。

連載初回の4月号では、森友学園問題で話題となった教育勅語を取り上げた。この勅語に、大日本帝国憲法の精神がよく表われている。こうして叩き込まれた臣民根性の残滓が今なお、払拭しきれずに残ってはいないか。国民主権の日本国憲法下、主権者の自立が必要というテーマ。

第2回の5月号では、「平和憲法70歳 あせぬ輝き」と題して、憲法の平和主義と、70年間国民が憲法を守り抜いてきたことによって、この憲法を国民自身のものとして定着させてきたことの意義を書いた。

そして、連休明けまでに第3回の6月号の記事を送稿しなければならない。原稿依頼を受けることは珍しくないが、毎月の連載は意外に重荷だ。なお、季刊の「フラタニティ」に、「私が関わった裁判闘争」を連載して、既に第6回分を送稿済み。このように課題を与えてもらわないとまとったものを書くはずはないのだから、原稿の依頼を受けることはありがたいのだが、文筆を生業としている身ではないので、ときに本業との時間の配分に苦しむことになる。

12回の構想は、「憲法とはなんぞや」「日本国憲法とはなんぞや」という根本理念に関するテーマで3回、人権論に5回(労働基本権を手厚く)、統治機構に3回(立法・行政・司法)、憲法改正手続と緊急事態に各1回というところ。

予定ではもうできているはずの、立憲主義をテーマにした、「憲法とはなんぞや」という原稿が本日まだ完成しない。

トピックとしては、来年(2018年)の「明治150年」を機に、「明治の日」を作ろうという運動。「昭和の日」の右派の集会での、自民党の青山繁晴参議院議員の「私たちの憲法は古代の十七条の憲法に始まり、それが近代化されたのは明治憲法ではなく、本来は五箇条の御誓文。御誓文こそ、私たちの本来の憲法だ。『明治の日』が制定されれば、そういう根幹に立ち返ることを子どもたちに話すこともできるのではないか。」を取り上げた。

「十七条の憲法」も「五箇条のご誓文」も憲法ではない。では、憲法とは何か。近代憲法の典型は、民衆が王政を倒した市民革命後のフランスに見ることができる。憲法とはなにかという有名な定式として、フランス人権宣言(1789年)16条は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と言っている。

(1)「権利の保障の確保」と、
(2)「権力の分立の定め」とが必要。
(1) が目的、(2) は手段の関係。

個人の人権と国家の権力との対立構造を明確に意識して、強い国家権力が、国民の人権を侵害することのないよう、権力を集中させずに分立した権力が互いに牽制しあう仕組みを作らなければならない、ということ。

この定式のもと、憲法の構成は、人権宣言(人権のカタログ)の部分と、国家の仕組みを形づくる部分(統治機構)とに大別されている。なによりも人権の保障が大切で、これを守るための国家の仕組みが工夫されている。

日本国憲法は、市民革命後の近代憲法のあり方の正統な承継者として、徹底した人権尊重の立場を貫いている。これは個人を価値の出発点とする個人主義であり、国家を人権と対立する危険な存在と考える自由主義を大原則としているということ。国家や社会よりも、国民個人が大切という考え方で、国家主義や全体主義はとらないということなのだ。

この大原則において、日本国憲法は、天皇あっての臣民、国家あっての個人という、戦前体制とは理念を異にしている。

こんな趣旨だが、これだけでは面白みに欠ける。どうすれば面白く読んでもらうことができるか、もう少し考えてみよう。
(2017年5月6日・連続第1497回)

「マイナンバー使用は 自尊心が許さない」

先日、少人数の学習会の席で、マイナンバーを話題にした。「みなさん、役所への書類にマイナンバーを書いていますか?」と振ったら、一人の女性がこう言った。
「私には、ちゃんとした名前があります。役所から勝手に12ケタの番号を押しつけられて、これを名前の代わりに使えといわれてもその気にはなれません。私は、国から番号で管理されるのはイヤですから、マイナンバーはけっして使いません。マイナンバー書かないから逮捕するなどということがない限り(笑)」
なんときっぱりした、すがすがしい姿勢。これは素晴らしい。

この女性の発言は、マイナンバー使用の押しつけは自分の人格の尊厳を傷つけるものだという主張。「私は名前を持っている」「私を特定するのは名前で願いたい」「割り当てた番号で私を管理することは拒否する」という、自尊心がほとばしり出た言である。これを支える憲法の条文を探せば13条(個人の尊重)であり、11条(基本的人権の享有)であり、あるいは97条(基本的人権の本質)ということになろう。憲法にどう書かれていようと、なにより大切なのが個人であり、その尊厳だ。国家は、個人の尊厳を傷つけてはならず、個人の尊厳を最大限尊重しなければならない。マイナンバーの使用は、これに反するではないか。

そう思っていたところに、先週金曜日(3月24日)赤旗「くらし・家庭」欄のマイナンバー解説記事に接した。その見出しが「マイナンバーは個人の尊厳侵す」である。解説者は、旧知の浦野広明さん(税理士・立正大学法学部客員教授)。大いに賛同する立場から、ご紹介したい。

まず、結論。明快この上ない。
個人番号(マイナンバー)は憲法13条が保障する個人の尊厳を侵すもので、明らかに憲法違反です。『法律だから』といって従うのではなく、はっきり拒否すべきです。

マイナンバーを違憲と主張する複数の裁判も係属中だという。
国を相手に個人番号の利用停止や削除などを求める違憲訴訟も、全国八つの地裁で進行中です。

具体的にどう対応すべきか。
悪法は世論と運動の力で使わせずに形骸化させることが大事です。窓口で『知りません』『番号を使うつもりはありません』といえば、それまでです。

ほんとうにそれで大丈夫なのか。面倒なことにならないか。
約100件の相談を受け、番号を記載せずに郵送で申告してすべて受理されました。国税庁などの省庁も『番号未記載でも受理し、罰則や不利益はない』と繰り返し表明しています。

次いで、制度についての納得できる説明。まずは法の名称。こんなことご存じでしたか。
「マイナンバー」の根拠法である「個人番号法」の正式名称は「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」です。似た名前の法律に「牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法」(2003年)があります。BSE(牛海綿状脳症)対策として導入された同法によって、肉屋さんや消費者は、肉の生産履歴を知ることができます。牛の個体識別は食の安全・安心にとって有用でしょうが、私たちは家畜ではありません。

表向きの立法目的と真の立法動機
徴税など政府の都合や目的のために、私たちの全情報を一つの番号で収集・管理し、「特定の個人を識別するための番号の利用」が個人番号の核心なのです。私たちは既に、個別の目的ごとに、さまざまな番号をつけられています。基礎年金番号や保険者番号、・住民登録番号、運転免許証、パスポート、診察券、口座番号、社員番号などなどです。しかし、個人番号は、すべての情報を一つの番号で国が一元的に管理しようというものです。

マイナンバー制度はどんな危険をもっているか。
番号制を導入している韓国では、コンビニで買い物する際に番号を提示します。何番が、いつ、どこで、何を売買したかが、レジと国税庁のコンピューターが連動していて把握できます。このように、一つの番号で個人の全情報をつかむことは、憲法13条が保障する個人の尊厳に反することは明らかです。

マイナンバーの利便性についての国の説明
国は、「マイナンバーは、行政を効率化し、国民の利便性を高め、公平かつ公正な社会を実現する社会基盤」(内閣官房ホームページ)と説明します。しかし、《コンビニで住民票が取れる》程度の利便性と引き換えに、個人の尊厳を捨てたり、個人情報の流出・番号不正利用の危険に甘んじたりするわけにはいきません。

国民にマイナンバー使用の義務はない。
番号を扱うのは、国と地方自治体、「番号を利用する事業者」です。国民には何ら義務規定はなく、もちろん罰則や不利益もありません。

他人の番号を集めると苦労する
番号は最終的には国が把握しますが、社会保障や税の分野などでは個人番号を集めるのは主に民間です。漏えいなどに対する重い罰則があり、取り扱いで苦労することになります。すでに、番号がもれた時の損害保険も用意されています。

マイナンバー笑うは政府と大企業
個人番号は初期投資だけで3000億円、セキュリティー対策などで1兆円市場といわれます。大儲けするのは一握りの大手IT企業だけです。
(2017年3月27日)

「共謀罪」は、法案として提出されても4度目の廃案に追い込める。

本日の憲法学習会例会にお招きの電話をいただいた際に、二つ返事で承諾申しあげました。3月15日を特に選んでの共謀罪をテーマにした学習会。これは、お引き受けしなければならない、と思ったわけです。

この地域のみなさまが、10年以上の長期にわたって、毎月の憲法学習会例会を続けていらっしゃることに敬意を表します。ご期待に応えるような、ご報告となるよう努めたいと思います。

今日は「3・15」の当日ですから、最初に治安維持法のお話しをさせていただき、次に「治安維持法」と「共謀罪」とがつながっていることを理解するための幾つかのキーワードをご説明し、そのあとに共謀罪を語りたいと思います。共謀罪がどのように危険で、かくも危険な共謀罪を導入必要という政府説明のウソをあばくかたちでレポートしたいと思います。

1928年3月15日は、治安維持法の最初の本格的発動の日として記憶されています。治安維持法は1925年に普選法成立と並んで成立しています。政府によるアメとムチの使い分けとも言えますが、ときは大正デモクラシーの時代、民衆の側に普通選挙を実現させるだけの力量があったのですから、けっして治安維持法が無警戒に成立したわけではありません。

その危険性については、ジャーナリズムも院内勢力も指摘したところです。それでも、1923年の虎ノ門事件(摂政襲撃事件)やコミンテルンなどによる、「テロの危険」防止の必要が政府側から強調されたことは、いま想起されるべきことだと思います。

また法案を提出した政府側は、法案を言論の自由を直接取り締まるものではなく結社を規制するにとどまっているとし、濫用の危険はないと防戦に務めました。このことも、教訓としなければなりません。

1925年成立時の法は、「国体の変革」と「私有財産制の否定」を目的とする結社を禁じました。だれが見ても、これは共産党弾圧の法です。天子に弓引く国賊とされた共産党。多くの人が、国民の結社の自由弾圧を怒ることなく、共産党を孤立させました。権力にも、そのような計算があったはずと思われます。

最初の弾圧対象は意識的に共産党とされ、次第に弾圧対象は拡散して政権にまつろわぬ者へと無限に拡散していくことになります。

とりわけ、1928年改正で追加された「目的遂行のためにする行為」罪の新設が決定的でした。組織の設立や加入だけでなく、「結社の目的遂行のためにする行為」という曖昧模糊な漠然とした犯罪類型の創設が権力の側にとっては、この上なく使い勝手のよい、民衆の運動弾圧に調法な道具となったのです。権力にとっての調法は、民衆にとっての大迷惑。

労農弁護士団事件では、弁護士の弁護活動が「結社の目的遂行のためにする行為」とされました。3・15事件や、4・16事件で検挙され起訴された共産党員を弁護した弁護士が、治安維持法の「共産党の目的遂行のためにする行為」を行ったとして逮捕され、起訴され、多くは執行猶予付きでしたが有罪判決を受けました。そして、弁護士資格剥奪となったのです。

人権を擁護する弁護士の任務遂行が犯罪とされる時代、それが現首相が取り戻したいとする日本なのです。教育勅語が子どもたちに刷り込まれた時代の日本の姿なのです。

治安維持法の危険の本質は、
(1) 表だって、国体に反する思想そのものを弾圧対象としたこと
(2) いかようにも使える権力にとっての調法さ
にあったと考えられます。

実は、(2)については共謀罪もまったく同じです。そして、そのことを通じて、政権が不都合とする思想を弾圧したり、萎縮させたりすることができるのです。

日本国憲法の根幹には自由主義があります。権力を恐るべき警戒対象とし、その暴走の抑制によって国民の自由を擁護しなければならない、とする考え方です。

この自由主義の理念が刑法に表れて、刑法の人権保障機能を形づくることになります。その際の原則が罪刑法定主義であり、その核をなすものとして求められるものが、構成要件の厳格性です。とりわけ、犯罪構成要件における「実行行為」こそが、が権力発動の可否を画する分水嶺です。

犯罪構成要件における「実行行為」は、それぞれの犯罪に相応した定型性をもっています。「人を殺す」「人の財物を窃取する」「火を放つ」等々、明らかに日常的な行為とは性質を異にする、違法が明確な特別の行為、と言えます。

ところが、「共謀罪」は、そのような実行行為着手の段階での取り締まりでは遅い、もっと前の段階で取り締まらなければテロの防止はできない、と言うのです。ここに、共謀罪の無理があります。自由や人権を擁護する体系として積み上げられてきた刑法の体系を崩さなければ、あるいははみ出さなければ、共謀罪は創設し得ないのです。

実行行為の着手に至らない予備・陰謀・「準備」・「共謀」などで、犯罪を覚知するためには、実行行為としての定型性がない行為を犯罪と認定しなければなりません。日常生活の一部である会話、電話、買い物、預金の引出し、などのそれ自身では違法性のない行為が、共謀罪として犯罪にされるのです。

このような共謀罪が、どうしても必要だという政府説明はウソです。 国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(パレルモ条約)といわれる国連決議に基づく条約締結のために共謀罪の立法が必要だということはウソです。名前を変えて、「テロ等準備罪」としていますがその名称もウソ。「組織的犯罪集団」に適用限定というのもウソ。「準備行為」が権力濫用の歯止めになるというのもウソ。

「安全・安心の獲得」という宣伝に欺されて、国民の自由や人権を売り渡してはならない。強くそう思います。

「アベ内閣は強そうに見える。共謀罪を廃案に追い込むだけの展望をどう考えているか」というご発言がありました。私は、廃案にできる、と考えています。もちろん、自動的にそうなるのではないが、運動の成果は結実するに違いない。

共同通信社が3月11、12両日実施した全国電話世論調査によると、「共謀罪の構成要件を変えた組織犯罪処罰法改正案については反対が45・5%、賛成は33・0%だった。賛成42・6%、反対40・7%だった一月調査とは賛否が逆転。政府はテロ対策が目的だと説明しているが、与党に当初示した条文案に「テロ」の表記がなかったことなどが影響したとみられる。」と報道されています。

アベ政権は、自衛体を南スーダンから撤退させると決断しました。隊員からの死亡者が出たら政権はもたない、との判断からだと思います。オスプレイの横田配備も当分ないことになった。

アベ政権は世論に押されつつあり、また、世論は変わりつつあります。政府与党は、内部の摺り合わせを終了して、近々閣議決定の上法案提出の予定とされていますが、提案されても、きっと4度目の「共謀罪」廃案を実現することはできると考えています。
(2017年3月15日)

「共謀罪」とは、曖昧模糊な条文をもってなんでも処罰可能とすることを本質とする。

本日(2月28日)、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案」が発表された。いよいよ、政権はこの3月10日に、閣議決定を経て共謀罪の法案提出の意向を固めたのだ。いつものパターンのとおり、強権アベ自民と下駄の雪公明の巧妙タッグによるもの。

発表されたのは、「法律案の概要」と「改正法案条文」、そして「新旧対照条文」である。その「法案の概要」(正確な標題は、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案の概要」)に目を通しておこう。A4の一枚ものだが、ここにも共謀罪の本質的な危険性が表れている。

「概要」には、冒頭に3行のリードが掲記されている。どのような理由があって、どのような法改正を行うかをまとめたものだ。
「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い、実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画等の行為についての処罰規定、犯罪収益規制に関する規定等を整備する。」というもの。分かりにくい文章だが、よく読んでみれば文意を把握できないではない。

文意が把握できれば、真偽の判断も可能だ。「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い」という立法理由はウソだ。「実行準備行為を伴う」が、これまでの批判をかわそうという魂胆。「重大犯罪遂行の計画」が、これも対象を絞りましたというアピール。「等」が曲者。いずれにしても、「共謀罪」の新設宣言なのだ。

3項目の具体的内容の第1項目が、政権の悲願である「共謀罪の新設」である。しかし、そのような言葉は使われていない。政権は、共謀罪の呼称を「テロ等準備罪」としているが、ここには「テロ」も「テロの回避」も書かれていない。まずは発表のとおりの文章を紹介しよう。

1 実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕

別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、①組織的犯罪集団(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの,又は②組織的胞罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設[計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は5年以下の懲役・禁錮、それ以外の場合は2年以下の懲役・禁錮]

この文章を一読して理解できた人は、自分の日本語読解能力の異常性を恐れなければならない。あなたはおかしいのだ。巷の「文章読本」の類は、「美しくも読み易い品格ある文章を志す者は、悪文に近づいてはならない」として、法律(家)の文章を悪文の典型として挙げるのが常である。法律(家)の文章にも、出来不出来のあることは避けられないが、この文章は悪文の最たるものではないか。これを理解できる方が、おかしいのだ。

理解に努力しよう。まずはタイトル。
「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕」とは、現行の〔組織的犯罪処罰法〕を改正して、これまでにない罪を新設する。その罪の名は、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」というのだ。

お分かりだろうか、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」という表現。

犯罪主体は、「組織的犯罪集団」のようである。
行為は、「重大犯罪遂行の計画」のごとくである。
では、「組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」で良さそうなものだが、「実行準備行為を伴う」が目玉なので、これを冒頭にもってきた。

だから、「実行準備行為を伴う」という修飾語句が、「組織的犯罪集団による」を飛び越して、「犯罪遂行の計画」という被修飾語句と離れてしまっているから、文意がとりにくい。

それだけではない。「実行準備行為」とはなにか、「伴う」とは何か、「組織的犯罪集団」とは何か、「重大犯罪」とは何か、「その遂行の計画」とは何か。さっぱり分からないのが、当たり前。このわかりにくさ、曖昧さ。これこそが「共謀罪」の本質であり、その危険性の根拠なのだ。

本文は、さらに分からない。理解のためには、もっと努力が必要だ。改行で文の構造を明確化してみよう。

次の罪(共謀罪)を新設する。
別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、
 ①組織的犯罪集団の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの、または
 ②組織的犯罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるもの
の遂行を二人以上で計画した者は、
 計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設

なお、「組織的犯罪集団」とは、(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)のことをいう。

また、罰則は、「計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は」5年以下の懲役・禁錮とし、「それ以外の法定刑の犯罪の場合は」2年以下の懲役・禁錮とする。

文の構造は分かったこととして、実は、具体的にいかなる場合のいかなる行為が処罰対象となるかの肝腎なところは曖昧にして模糊のまま。実のところは、曖昧であるから、権力にとって使いやすく、市民にとっては恐るべき凶器なのだ。

刑法学の教科書を開くと、その第1頁の冒頭で、刑法の人権保障機能が語られる。権力の恣意的な刑罰権発動を防止するために、刑法典は厳格な犯罪構成要件を定めめている。もちろん、これに該当しない行為を処罰することを禁じて市民の人権を擁護しているのだ。

だから犯罪構成要件は明確であることが必要である。構成要件としての行為も結果も日常用語でだれにも分かるように書かれていなければならない。構成要件的行為は、「人を殺す」「他人の財物を窃取する」「放火する」などの、日常生活における行為とは区別された定型性を持っている。だから、実行行為の着手があったか否かの判断は明瞭である。実行行為に着手して結果が発生すれば既遂、しなければ未遂。実行の着手の有無が、通常は犯罪となるかどうかの分水嶺である。

ところが、共謀罪は、実行行為着手前の犯罪の計画段階で処罰しようとするもの。実行行為への着手のない段階で、犯罪としての定型性を欠いた日常行為を犯罪の準備行為として処罰対象とする立法なのだ。近代刑法の原則からは、乱暴きわまるものと言わねばならない。何をもって犯罪の実行行為となるか予想が付かないことが、共謀罪の共謀罪たる所以なのだ。だから、何が犯罪になるかを明確に記すことができない。むしろ、曖昧でなんでも処罰可能なところに、その本質があることを見極めなければならない。

なお、新設の罪の数は従来案では676に上ったが、今回法案の別表第四では91法律の277罪まで減らしたとされている。だから、大した弊害はない? とんでもない。刑法の人権保障機能が崩れるのだ。小さく生まれて大きく育った治安維持法の例も学ばなければならない。
(2017年2月28日)

事件名提案ー「豊中アベ疑惑事件」・「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだろう

言葉は大切だ。用語の選び方次第で、同じものを逆にも見せることができる。そう考えて、自民党は11本の戦争法案を、「国際平和支援法」(1本)と「平和安全整備法」(10本一括)と命名した。「国際平和」であり、「平和安全」である。これが、集団的自衛権行使や海外での自衛隊の武器使用を可能とする戦争法なのだ。そのほかにも、「積極的平和主義」だの、「一般的には戦闘だが法的には衝突」だの、枚挙に暇がない。自民党に倣って、ネーミングには工夫をしよう。

今、ようやく話題となりつつあるあの事件。正確にいえば、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ事件」をどうネーミングするか。この問題に火をつけた朝日は、「森友学園問題」といっているが、随分と腰の引けたネーミング。「森友学園」は覚えにくいし、覚えるに値しない。これではダメだ。毎日の本日の朝刊は、「大阪市の学校法人『森友学園』が小学校用地として大阪府豊中市の国有地を鑑定額より大幅に安く取得した問題」だ。これも長すぎて使えない。運動の中で使えるような事件名作りに、知恵を寄せ集めよう。

ネーミングは、この事件のどこをどのように主要問題点として把握するかによる。問題点が多岐にわたるとき、そのすべてを盛りこむことはできない。ネーミングに盛りこむべき要素を書き出してみよう。

その1 「アベ関与疑惑」
これが本質的なメインファクターだ。アベが極右勢力と親密で、極右復古主義教育に賛辞を呈していることが何よりの問題。国会でも「学園の教育への熱意は素晴らしいと聞いている」とまで述べている。国有財産ただ同然払い下げという、国からの不当きわまる極右学校法人に対する便益供与。その原因としてアベの関わりが疑われるところ。アベ疑惑として徹底した解明を要するところだ。

その2 「アベ妻疑惑」
臆面もなく、右翼幼稚園教育礼賛を繰りかえし、その広告塔となることで、アベと極右学校法人との橋渡しとなっていたのがアベ妻。「こちらの教育方針は、たいへん主人(安倍晋三)も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」として、新設予定とされた小学校の名誉校長就任を引き受けた。これが、近畿財務局や航空局に影響なかったはずはない。

一昨日(2月23日)に森友学園のホームページから削除された記事では、アベ妻が名誉校長として「理事長の教育への熱い思いに感銘を受け、(名誉校長に)就任させていただいた」「優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ子どもを育てます」と記していた。疑惑を追及されて「名誉校長」の任を放棄して逃げ出したのは不可解。右翼勢力との関係を究明するとともに、アベの取引への関わりの有無について徹底して疑惑を解明しなければならない。

その3 「極右学校法人」疑惑
森友学園が経営する塚本幼稚園の極右復古主義教育の内容はすさまじい。理事長の個人的な政治的主張のために、子どもたちに皇室や自衛隊礼賛の旗振りをさせて手駒として使っている。また、極右にふさわしいヘイト文書や、児童虐待等々が報道されている。その一つ一つを徹底して事実究明していくことが必要だ。すなわち、アベ夫妻が共鳴し褒めたという教育の実態を明らかにしなければならない。

その4 「国有財産ただ同然払い下げ」疑惑
当初は右翼法人が定期借地権を設定して国から借地し、土地の汚染除去を理由に1億3200万円を国に支払わせ、次いで埋設ゴミ除却費用分8億円を値引かせて1億3400万円で払い下げを受けたという。結局のところ、この右翼法人は、わずか200万円で9億5000万円相当の不動産を手に入れた。当初は、隠蔽されていたこのような国有財産管理のからくりの究明が必要だ。アベの存在あればこそ、このような破格の、あるいは通常は考えられない馬鹿げた不当取引が実現したのだろうと考えざるをえない。何らかのかたちでアベが口を利いたのか、あるいは、学校側がアベの存在をチラつかせたか、それとも近畿航空局側が勝手にアベの意向を忖度したか。徹底して洗い出す必要がある。

その5 「私立小学校設立認可(予定)」疑惑
財政状態劣悪な森友学園がどうして、私学審で「認可適当」となったのか。この点も、きちんと解明されなければならない。また、入学希望予定生徒の保護者は、広告塔として利用された安倍夫妻の推薦によってこの学校を選択したのか否か。そして、既に入学金や寄付金を支払っているのかどうか。

その6 その他にも、豊洲同然の校地土壌汚染問題あり、南スーダンPKO同然の書類破棄問題あり、公開請求に棄却決定の問題まである。

これらの「疑惑点」を繋げると、寿限無の如く、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ・その他付随疑惑事件」となる。思い切ってハサミを入れよう。

飽くまで中心のテーマは、学校法人が右翼的思想で安倍首相と通じていたから、特別のはからいを受けたのではないか。それでなくては、こんなに安くし、こんなに秘密にした理由の説明はつかない、という政治的な疑惑。

当ブログでは、最初「学校法人『森友学園』の『アベ友疑惑小学校』設立認可問題」とし、その後「『アベ疑惑小学校』設立問題」とした。最終的には、学校認可問題と思ったのだが、修正しなけばならない。

「国有地ただ同然払い下げアベ友疑惑事件」ではどうだろうか。長すぎるのなら、「国有地払い下げアベ関与疑惑」。これでも長ければ、「豊中アベ疑惑事件」「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだ。
(2017年2月25日)

2017年通常国会の対決テーマは「共謀罪」だ

1月20日に第193通常国会が開会予定である。その最大の対決テーマは、「共謀罪」となる。アベ内閣の反憲法的姿勢は止まるところを知らない。改憲策動や沖縄での平和運動弾圧と連動するかたちで、来たる国会では「共謀罪法案」成立を目指すことになる。「共謀罪国会」では、アベ凶暴政権と民主主義陣営が対決することになる。

本日(1月6日)の東京新聞トップの大見出しが、「『共謀罪』通常国会提出へ」。これに「野党・日弁連は反対」とサブタイトルが付けられている。以下に、記事本文の一部を抜粋する。
「安倍晋三首相は五日、犯罪計画を話し合うだけで処罰対象とする「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案を二十日召集の通常国会に提出する方針を固めた。共謀罪に関しては、国民の思想や内心の自由を侵す恐れがあるとの批判が根強い。捜査機関の職権乱用などによって人権が侵害されるとして、日弁連や共産党は反対している。民進党内でも反対論が強く、提出されれば国会で激しい議論になる。」

そして、社会面に関連記事が掲載されている。「共謀罪法案提出方針に批判」「市民活動萎縮させる」「警察が恣意的運用も」「テロ対策『歯止めが必要』」との見出しで、東京新聞の「共謀罪批判本気度」がよく分かる。

「日刊ゲンダイ」の本気度も相当なもの。多少品位には欠けるが、分かり易い。

見出しが「安倍政権 『共謀罪』大義に東京五輪を“政治利用”の姑息」というもので、記事本文は以下のとおり。

「何でもかんでも『五輪成功のため』は通らない。安倍政権は今月20日召集の通常国会で、「共謀罪」の新設を柱とする組織犯罪処罰法改正案を提出する方針だ。3年後の東京五輪開催に合わせ、『テロ対策』の性格を前面に打ち出そうと必死で、悪名高い名称を『テロ等準備罪』に変えたが、しょせんは姑息な手段だ。悪評ふんぷんの共謀罪の成立にまで、五輪の政治利用は絶対に許されない。」
「共謀罪は、実際に犯罪を犯していなくても相談しただけで罰せられてしまう。極論すれば、サラリーマンが居酒屋談議で『うるさい上司を殺してやろう』と話しただけで、しょっぴかれる可能性がある。権力側が市民の監視や思想の取り締まりに都合よく運用する恐れもあり、03、04、05年に関連法案が国会に提出されたものの、3度とも廃案に追い込まれた。」「五輪の成功を名目に、こんなウルトラ危険な法案を懲りずに通そうというのだから、安倍政権はイカれている。」

そして、ゲンダイの記事は、こう結んでいる。「『五輪成功』にかこつけて、希代の悪法成立を許してしまうのか。メディアの真価が今こそ問われている。」

「メディアの真価」どこ吹く風? の典型が例によって産経である。
「『共謀罪』法案名変更で通常国会提出へ テロ対策を主眼に」という見出しでこう述べている。
「政府は5日、テロ対策として『共謀罪』の構成要件を一部変更する組織犯罪処罰法正案を、20日召集の通常国会に提出する方針を固めた。法案名も2020年東京五輪・パラリンピックを見据え、テロ対策が主眼であることが明白となるよう変更する見通しだ。」
「国連は2000年に『国際組織犯罪防止条約』を採択し、すでに180カ国以上が締結しているが、日本は批准条件となっている共謀罪が存在しないため締結に至っていない。このまま法整備が進まなければ、国際社会から「テロ対策に消極的」との批判を浴びかねない状況だ。」

共謀罪法案は、下記のとおり、3度国会に提出となり、3度とも廃案になった。
2002年 法制審議会で検討
2003年 3月 第156回通常国会に法案提出(廃案)
2004年 2月 第159回通常国会に法案再提出(継続)
2005年 8月 衆議院解散に伴い廃案
2005年10月 第163回特別国会に法案提出(継続)
2009年 7月 衆議院解散により廃案

これまでの刑事法の常識に照らして異常な立法と、野党や世論の反発を招いたからである。「現代の治安維持法」とまで言われて廃案の運命をたどった。政府の説明は、<国際組織犯罪防止条約>批准のために必要というものだが、法案の内容は明らかに過剰に処罰範囲を広げるもので、説明との整合性を欠いている。

今度は論拠にオリンピックが持ち出された。オリンピックも迷惑だろう。本当に、テロの危険が差し迫っている東京五輪なら、やめてしまうに越したことはない。

さて、「共謀罪」とは何か。日弁連のリーフレットの解説が分かり易い。

「『共謀罪』とは、2人以上の者が、犯罪を行うことを話し合って合意することを処罰対象とする犯罪のことです。具体的な『行為』がないのに話し合っただけで処罰するのが共謀罪の特徴です。しかし、単なる『合意』というのは、『心の中で思ったこと』と紙一重の段階です。

近代刑法は、犯罪意思(心の中で思ったこと)だけでは処罰せず、それが具体的な結果・被害として現れて初めて処罰対象になるとしています。『既遂』処罰が原則で、『未遂』処罰は例外、それ以前の『予備』の処罰は極めて例外、しかも、いずれも『行為』があって初めて犯罪が成立するというのが刑法の大原則です。

共謀罪は、この『予備』よりもはるか以前の『合意』だけで、『行為』がなくても処罰するというものです。このように処罰時期を早めることは、犯罪とされる行為(構成要件)の明確性を失わせ、単に疑わしいとか悪い考えを抱いているというだけで人が処罰されるような事態を招きかねません。」

だから、「現代の治安維持法法」と悪評が高いのだ。治安維持法は、「結社の目的遂行の為にする行為」を犯罪とした。「結社の目的」とは、「國體の変革」(天皇制打倒)と、「私有財産制の否定」(社会主義思想の実現)の二つを言うが、「その目的遂行の為にする行為」とは、漠然としてどうにでも解釈できる。だから、共産党員の慰安維持法違反事件を弁護した弁護士の行為も、心の中の意図を忖度して、治安維持法違反として逮捕され、起訴され、有罪となった。「共謀罪法案」成立によって、新たにつくり出される犯罪は600余とされている。恐るべき監視社会が生み出されることになる。

もしやあなたの心の片隅に、こんな考えがありはしないか。
「世の中には善人と悪人の2種類の人がいる。法による処罰を恐れるのは悪人だけで、私は善人のグループにいるのだから、法も処罰も恐れることはない。むしろ処罰の範囲を拡大してくれれば、社会は平穏で住みやすい社会になる」

この考え方は大きく間違っている。この間違いを「なんと愚かな」と見過ごしてはならない。民主主義社会においては、堕落した危険な考え方として徹底して批判されなければならない。このような考え方こそ、権力者を喜ばせ、権力者をより傲慢にさせるものにほかならない。その結果、権力の監視の目が隅々にまで行き届く社会を作り出し、自分を善人と思っている人々をも含めて、「生きにくい窮屈な世の中となった」と慨嘆させることになり、挙げ句の果てには全体主義の完成を招くことになる。
治安維持法のはたした役割を思い、ニーメラーの慨嘆を思い起こそう。

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は共産主義者ではなかったから

 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
 私は社会民主主義ではなかったから

 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は労働組合員ではなかったから

 そして、彼らが私を攻撃したとき
 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」

(2017年1月6日)

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