澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

日本軍「慰安婦」問題の本質とは何なのか

ずいぶんと以前のこと。同世代の親しい弁護士との雑談のなかで、お互いの父親の出征体験が話題となった。私の父も彼の父も、招集されて大陸での従軍を経験している。

彼の父親が亡くなって遺品を整理したら詳細な従軍中の日記が出てきたという。生前は見せなかったその日記に、心ならずも慰安所に通っていたという記載があって衝撃を受けたという。そのことを話す彼は、辛そうだった。

私の父は絵を得意として、従軍中の日記は絵ばかりだった。ソ満国境の街角、四季の風景や人物画、野生動物の写生もあった。軍人が出て来るのは隊内での演芸大会の模様だけ。その日記からは戦争や軍隊の陰惨さは窺えなかった。今にして、日記に書けないことが多かったのだろうと思う。

「終戦後」に育ったわれわれの世代は、子どもの頃、大人たちが中国大陸や南方で、「悪いこと」「後ろめたいこと」をしてきたことをなんとなく知っていた。知っていたが、表だって話すことはなかった。しかも、なんとはなく、殺人やレイプや慰安所通いなどの、「悪いこと」「後ろめたいこと」をやったのは、「軍隊」「軍人」「皇軍」という抽象名詞の仕業だと思い込むところがあった。

ところが、突然「お前の父のやったことだ」と突きつけられると、うろたえざるを得ない。戦争の加害責任は、日本人の精神の奥底に暗く沈潜した澱のようなものだ。従軍慰安婦問題とはそのような質をもった、できれば話題から避けたい、触れたくない問題だった。

だが、現実は重い。歴史を変えることはできない。逃げることはできない。再び繰り返してはならない過去であればこそ、ありのままの事実を認識しなければならない。歴史を修正したり、美化することは再びの犯罪にほかならない。

「従軍慰安婦」と言うにせよ、日本軍「慰安婦」と言うにせよ。平時にはあり得ない無惨なことが戦地だからこそ起きる。そのような問題として、「加害も被害も、戦争さえなければ」という視点で語られてきたように思う。ところが、その視点はけっして確かなものではない。もっと、本質を掘り下げよとの指摘がある。

私の法律事務所の間近に、「文京区男女平等センター」がある。地元の市民運動が大いに利用している様子で結構なことだ。昨日(10月27日)、そこで「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」が学習会を開いた。

その学習会で配布された機関誌「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナールNEWS(第33号)」のヘッドラインが、「なぜ日本人「慰安婦」は名のり出られないか」だった。これに考えさせられている。

恥ずかしながら、そのような問題意識を持ったことがなく、虚を衝かれた思いが強い。なるほど、日本人「慰安婦」は多数いたはずだ。でも、「どうして名のり出られないか」と考えたことはなかった。改めて、「名のりたくても名のり出られないのだろうか」「名のり出るべきなのだろうか」「名のり出るべき環境を整えるべきなのだろうか」「私のような鈍感さが名のり出を妨げているのだろうか」。いろいろと、考え込まざるを得ない。

「後ろめたいこと」をやったのを「皇軍」の誰かであるというよりは、固有名詞をもった誰かであることを特定することによって、格段のリアリティが生じる。被害者も同じことだ。金学順さんの「名のり」は、まぎれもなく印象的で感動的な行為だった。歴史を動かした「名のり出」だった。日本人慰安婦も同様だろうか。

この「NEWS」は、第27回ゼミとして行われた大阪大学大学院の藤目ゆき教授講演の報告をトップに載せている。その演題が「なぜ日本人『慰安婦』は名のり出られないか」なのだ。

なぜ、日本人「慰安婦」は名のり出られないのか。講演によれば、「それは誰も名のり出ることを助けようとしないからだ」という。
内務省、外務省と軍が連携して設立した「慰安所」は、公娼制度の最たるもの。「当時は公娼制度があり合法、当たり前だった」という言説に、だからこそ日本人は「悪法が横行し人権が無視されていた過去」を国家の非と認め、被害者に賠償し、世界に現在の日本は過去とは違う」と表明すべきなのだという。「戦時」の「強制」であろうとなかろうと、性にまつわる搾取を厳しく断罪する立場のよう。「公娼制度に則ったものだから違法ではない」ではなくて、公娼制度とは国家ぐるみの悪だという。それはそのとおりだが、だから「被害者よ、名のり出でよ」となるのだろうか。考え込まざるを得ない。

同教授の講演要旨がA4・2枚の紙面に、細かい字でびっしり書き込まれている。その締めの一文が、「(最後に)希望」として、次のとおり、問題意識をまとめたものになっている。

  日本人「慰安婦」問題を「戦時下の特殊な状況の中で発生した特殊な問題」として切り取るのではなく、その前後左右にある「人々に対する国家暴カシステム」の中に位置づけ、過去(天皇制警察国家時代)を制度的にも理念・思想的にも清算すること。

 これまで私は、「慰安婦」問題を、まさしく「戦時下の特殊な状況の中で発生した特殊な問題」として考えてきた。「戦時下においてこそ、かくも理不尽な人権侵害が起こる。諸悪の根源としての戦争を起こしてはならない」という文脈である。それが、問題の本質を衝くものではない。もっと根源的な「人々に対する国家暴カシステム」としてとらえよ、というのだ。「公娼・日本軍「慰安婦」・占領車「慰安婦」」と連続的に考察する視点は説得的で、軽いカルチャーショックである。

このことに関連して、大森典子弁護士が、この「NEWS」に、以下の囲み記事を掲載している。

「#MeToo」運動と「慰安婦」問題

8月12日、「全学順さんから始まった#MeToo」と言う集会が聞かれました。1991年8月14日に金字順さんが初めてテレビカメラの前で被害を告白してから、「慰安婦」被害者のカムアウトが続き、「慰安婦」問題は一挙に大きな社会問題になりました。そこでこの日(8月14日を「慰安婦」メモリアルデーにしようという運動が数年前から世界で広がっています。
 今年、日本では、この記念日のイベントとして[#MeToo]運動と[慰安婦]問題を結びつけて考えようという集会が開かれました。
 日本人の「慰安婦」被害者が極く数名の方以外、名乗り出ていないことは、最近、改めて関心を集めています。川田文子さんはそうした日本人被害者との交流とその中で感じた日本社会の問題を語り、被害者の名乗り出を阻んでいる実情を語りました。
 また、角田由紀子弁護士は日本の法制度が性暴力被害者のカムアウトを困難にしていること、その背景にある女性への差別が社会の様々なところに現れていること、この構造を維持するために、言い換えれば男性優位社会を維持するために被害女性の闘いがつぶされようとしているのではないか、という問題提起をしました。
 改めて日本社会の差別の根の深さを考えさせられ、また、そうであるならなおのこと、あらゆる場面に現れている差別をなくさせる運動の重要性を考えさせられた集会でした。」

 すこし時間をかけて、指摘を受けとめ考えてみたい。
なお、「NEWS」の講演要旨は長文である。私の恣意によるものではあるが、下記に抜粋を引用させていただく。

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大阪大学大学院教授・藤目ゆき氏講演要旨抜粋
日本人「慰安婦」問題と公娼制
「慰安婦」問題と現在の女性への暴力

 キムハクスンさんのカミングアウトに、千田夏光さんの本で「従軍慰安婦」を歴史的事実として知っていたが、性暴力をうけることが恥辱とされている中で、被害をうけた女性がメディアに登場し怒りを全身全霊でアピールされる姿に感謝と敬愛を感じた。様々な抑圧の中でレイプなど性暴力をうけた女性たち、性売買の場にいた公娼、「慰安婦」などの日本女性は公的に告発しようにも証拠がない。キムハクスンさんたちの性被害の実態を満天下に認めさせる闘いは、名乗れずにいる日本人女性たちの解放に繋がり、励ましになると受け止めた。「慰安婦」の運動が日本の女性の解放運動と捉えたものにならなかったのは、問題だったと思う。

☆ 日本軍「慰安婦」制度の根底に公娼制度がある

 かって朝鮮民主主義共和国のハルモニから、「日本人は、私達がお金をもらったと言うが、日本人はお金をもらえば、自分の姉、妹、娘たちにそういうことをさせていいんですか」と、反語の意味で問われたが、日本人は平気でそれをやってきたのだ。公娼制度を作り、娘が売り稼ぐのが親孝行だという社会だったから、朝鮮や台湾、東南アジアなど外国の女性たちを、レイプできたのだ。
 日本人「慰安婦」は売春婦、公娼だったが、アジアの少女たちは無垢な乙女がレイプされ気の毒だったというような話ではないだろう。日本人女性たちは自国の階級支配や人権蹂躙そのもの、反民主的な天皇制国家の抑圧の下で奴隷にされ、自分が奴隷であるという自覚もなしに外国への侵略戦争に駆り出されていったみじめさを問題にせずにどうするのか?
 日本の公娼制度は「慰安婦」制度の歴史的な根底である。それを根底から批判し、日本がそもそも公娼制度を持っていた罪を罪としてしっかり認識するということにもっていかなければならないと思う。まともな謝罪、国家賠償をしないままで「慰安婦」を逝かせてしまう日本政府のやり方を許してきた日本の実態は何なのか?そのことに私は嘆きと憤りを筧える。

☆ なぜ日本人「慰安婦」が名乗り出られないのか?
  ~日本人「慰安婦」が不可視化された構図

 「ヘイト言説たる『慰安婦=公娼論』」VS「対抗言説としての『慰安婦≠公娼』論
 日本人「慰安婦」が名乗り出られない理由ははっきりしている。日本の力ある市民が誰も名乗り出てと呼びか けもしないし、それを助けようともしない。「慰安婦」にされた女性だちと闘う準備のある人々の力は弱かった。
 それには、キムハクスンさんの名乗り出以来の一貫したバッシング、ヘイトスピーチがある。国会議員、文化人、自治体首長などが「慰安婦」は売春婦だと平気で主張し、マスコミがそれを報道する。これに対抗して「売春婦じゃありません」「公娼制度とは違って引っ張ってきた」「わが民族の少女たちは商売と関係なしに監禁され銃剣で脅された」という議論のなかで、どういうべきか悩んで慎重に議論しようとしてきた。
 日本軍「慰安所」は内務省、外務省と車が連携して設立した公娼制度の最たるものだ。「慰安婦」はある意味最も典型的な公娼だ。吉見義明先生は「慰安婦」は公娼でないという意見だが。運動側がたてている公娼の違法か合法かの論理が、日本人「慰安婦」たちの不可視化を一層深くしたと指摘しておきたい。「『慰安婦』は当時は合法で当たり前だった」というヘイト言説に対して批判側が日本には戦前から公娼制廃止運動があった、当時の法律でも違法だったと強調する人がいる。しかし本当なら「悪法が横行し、人権無視が当たり前の時代と今は完全に追う」と言うべきだ。公娼制度を非として認め被害者に謝罪、賠償することが過去を清算する道ではないか。

☆ なぜ日本人「慰安婦」はカミングアウトしなかったのかーなぜRAAが政治問題にならなかったのか一日本社会に受け皿がない(カミングアウトを求める主体が脆弱)
①今日に続く「公娼」に対する「醜業婦」観
 日本社会には「公娼」・「売春婦」といえば最大級の侮蔑用語となる社会通念がある。国際社会での売春禁止の意味を真逆の意味に変えて、「売春の禁止」と[他人の売春からの搾取の禁止」を混同し女性の行為を醜業とみなし、それを犯罪とした。
②ナショナリズムによる支えが存在しない
 日本人「慰安婦」は「愛国心があったから、被害者性が薄いから名乗りでない」という意見は理解できない。
 戦時下では植民地の女性達にも皇国臣民たれということが押し付けられた。被女たちは戦後日本の支配からの解放で、愛国心の呪縛から解放され、民族的に悲劇を代表する人物としてナショナリズムによって同胞に支えられている。日本社会では、こんなことを言えばぽこぼこにされる。日本人女性たちは被害が軽いから名乗り出ないのではなく、被害の重さ、同胞によって蹂躙された加重的な抑圧がある。

☆ 戦前・戦中の支配層・戦犯が君臨してきた戦後日本社会と政治
 公娼・日本軍「慰安婦」・占領車「慰安婦」に対する搾取と暴力を主導してきた内務官僚(警察官僚)特に特高畑が一時的な公職追放のみで日本社会にすぐ復活している。このような戦後の支配構造に日本軍「慰安婦」問題が解決できなかった一番の理由があり、日本人「慰安婦」が名乗り出られない一番の理由があるのではないか。

(2018年10月28日)

むき出しとなった権力の正体

1933年2月20日、天皇制警察は小林多喜二を虐殺した。文字通りの残虐ななぶり殺しだった。

陰惨極まりない拷問死の死体の解剖はどの病院からも拒否され、遺族に返された遺体を医師・安田徳太郎が検死している。権力批判のペンを握っていた多喜二の右人差し指は、手の甲の方向にへし折られていた。明らかにこの虐殺は、天皇制国家による作家多喜二の言論活動に対する報復であり、見せしめであった。

母親(セキ)は多喜二の身体に抱きすがった。「ああ、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

この母の慟哭を忘れてはならない。これが権力の本性だ。遠いどこかの世界のできごとではない。わが国に現実に起きた無数の類似の事件を象徴する最も知られた権力の犯罪。

ジャマル・アフマド・カショギは、メディアで「反体制派のサウジ人著名ジャーナリスト」と紹介される人。本年(2018年)10月2日、イスタンブールにあるサウジアラビア領事館の総領事室で殺害された模様である。これも、多喜二同様の陰惨な虐殺であったことが、次第に明らかになりつつある。

忘れてはならない。これが権力の本性だ。昔話ではない。まさしくたった今、現実に起きた、権力批判の言論活動への報復としての国家犯罪。

「有効な国民の制御がないところでは、権力は暴走する」というのは不正確な言い回しではないか。「権力は暴走する」のではない。「権力は本性をむき出しにする」のだ。多喜二もカショギも、その権力批判の言論活動のゆえに、権力の憎悪の対象となり虐殺された。

忘れてはならない。権力の正体の恐ろしさを。常に権力を監視し批判し続ける必要性を。そして、多喜二やカショギを虐殺した権力を支持する勢力は、今なお、わが国にも厳然として存在し続けていることも。
(2018年10月18日)

朝鮮人虐殺を反省しない、こんな都知事でよいのか。

昨日(8月10日)の、小池都知事定例記者会見。
記者からの質問に小池はこう答えている。

-- 関東大震災の犠牲者の慰霊について、昨年、知事は追悼文の送付を控えたが今年の対応と、その対応の理由を

 「今週8日でしたか、実行委員会の皆さんが署名をご持参されまして、追悼文のご要請をいただいたこと承知いたしております。都知事といたしまして、毎年9月、そして3月、横網町公園内の東京都慰霊堂で開かれる大法要で、関東大震災および先の大戦で犠牲となられた全ての方々へ哀悼の意を表しているところでございます。このため、昨年度から、個別の形での追悼文を送付することは控えさせていただいたということでございます。関東大震災という大きな災害で犠牲になられた方々、そしてまた、それに続いてさまざまな事情で犠牲になられた方々、これら全ての方々に対しまして慰霊する気持ちに変わりはございません」

--では、今年も追悼文の送付というのは特に
 「はい、昨年と同様とさせていただきます」

質疑はこれで終わりだった。あらためて思う。日本とは、何という非情な国だろうか。日本人とは、何という道理も情も知らない国民だろうか。歴史を見つめ、都合の悪いことも真実には謙虚であるべきだという、当たり前のことができない。アベのような首相、コイケのごとき首都の知事を擁している私たちの力量の不足が歯がゆくもあり、恥ずかしくもある。

関東大震災後の朝鮮人虐殺は日本人が忘れてはならない「国恥」である。記憶から抹殺することはできない。とりわけ、加害者が自警団という民間人であったこと、無抵抗の者を文字通り虐殺したその残酷さにおいて際立っている。

この歴史的事実を伝える文献は数多くあるが、検定済みの中学校教科書の一節を紹介しよう。話題の「学び舎」が出版した「ともに学ぶ 人間の歴史」(中学社会・歴史的分野)である。

その217頁に、【関東大震災ーいわれなく殺された人びと】の記事がある。
1923年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。建物がくずれ、強風を巻き起こす火災か発生して、死者行方不明者は10万5000人にのぼった。東京都や横浜市では、多数の家屋が被災し、多くの避難民が出た。
 地震後、「朝鮮人が攻めてくる」などの流言が広められ、軍隊、警察や、住民が作った自警団によっておびただしい数の朝鮮人が虐殺された。数多くの中国人や日本人の社会主義者も殺害された。

植民地だった朝鮮から働きにきていたチョインスン(当時21歳)は、避難した(旧)四ツ木橋(東京都)の近くで消防組員につかまった。警察署に連れて行かれる途中の橋の上には、多くの死体かあった。警察署で彼は、逃げようとした朝鮮人8人が切り殺されるのを見た。60年後、チョインスンは橋があった場所を訪れて語っている。
 「ここで、朝鮮人が3人たたき殺されたんだ。それを見たら、ほんとうに空が真っ黄色でね。息がとまってね。どうすることもできなかった。人間が人間を殺すのは、よっぼどのことじゃないとできないよね。何もしないのに働いて食うのに精一杯の朝鮮人にそんなことして。いくさでもないのに」

欄外に、「虐殺された朝鮮人の人数」に触れられている。
 約230人(当時の政府調査)や、約2610人(吉野作造調査)、約6650人(日本にいた朝鮮人たちによる調査)などかある、虐殺された人数はさだまっていない.

政府は積極的な調査をしようとはしなかった。むしろ、調査を妨害したのだ。その末裔が、自民党都議の古賀俊昭らであり、コイケでもある。

都立横網町公園(墨田区)で毎年9月1日に営まれる「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」。都知事が追悼文を送付することが慣例になっていた。1970年代からのことだという。石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一らも行ってきた追悼文送付を、コイケは、積極的にやめたのだ。

きっかけは、昨年(2017年)3月の都議会一般質問での古賀の質問だった。古賀は右翼として知られる人物。横網町の追悼碑の碑文にある虐殺被害者数六千余名という記載を「根拠が希薄」とした上で、追悼式の案内状にも「六千余名となっている」と指摘。「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と求めた。この極右の言に、コイケが呼応して、昨年から追悼文の発送を中止している。

コイケには自然災害の死と、民族差別意識に基づく虐殺との区別が付かないのだ。いや、敢えて区別をさけて、歴史の忘却を狙っているのだ。反省もなければ、心の痛みもない。都民よ。こんな知事で本当によいのか。
(2018年8月11日)

いかなる団体も、そのメンバーの思想・信条・良心を蹂躙することは許されない。

本日(7月18日)の毎日新聞夕刊社会面に、「『政治連盟自動加入は違憲』栃木の税理士会員 宇都宮地裁」の記事。

「税理士会に入っているだけで政治団体「栃木県税理士政治連盟(栃税政)」に加入させられ、憲法で保障された思想・信条の自由を侵害されたとして、宇都宮市の税理士が栃税政を相手取り、会員でないことの確認などを求める訴訟を宇都宮地裁に起こした。」「(7月)18日に第1回口頭弁論が開かれた。」

がリードに当たる。かなり長文で、しっかりした内容の記事。さすが毎日、記者のレベルは立派なもの。

末尾に「政治資金に詳しい税理士の浦野広明・立正大客員教授の話」が掲載されている。

「納税者の権利擁護は、税理士本来の努めなのだから、税制改革についてはそもそも税理士会として主張すべきだし、それ以外の政治活動は任意だと明確に区別すべきだ」というコメントは、まさに正論。

問題はこんなところだ。私は弁護士。弁護士として業務を行うには自治組織である弁護士会に所属してその指導監督に服さなければならない。この点、医師会とは大きくちがって、全員加盟制なのだから、弁護士会の方針が気に入らないからと言って、事実上脱退の自由はない。その弁護士会が、弁護士の地位や福利を増進するための立法運動が必要だとして、あるいは弁護士会の会務をスムースに進行させるためには、普段から政治家たちとの付き合いが必要だとして、政治献金をするための特別会費を徴収する決議を上げたとする。なんと言っても、力のあるのは与党だ。私の大嫌いな安倍晋三の自民党には応分の献金が必要になるだろう。

すると、私の懐から強制的に徴収された私のカネが、弁護士会の会計を経由して、私の大嫌いな自民党の財布にまでもっていかれることになる。とんでもないことだと腹を立てても、弁護士会をやめるわけにはいかない。

さてこの政治献金のための特別会費は、支払いを拒否できるのだろうか。それとも、多数決の決定には従わざるを得ないのだろうか。

税理士会の政治献金問題については、南九州税理士会事件(牛島税理士事件とも)最高裁判決がある。至極真っ当なものだ。

南九州税理士会政治献金事件・第3小法廷判決(1996年3月19日)

南九州税理士会に所属していた牛島税理士が、政治献金に充てられる「特別会費」を納入しなかったことを理由として、会員としての権利を停止された。これを不服として、会の処置を違法と提訴した事件で、最高裁判所は、税理士会が参加を強制される組織であることを重視し、税理士会による政治献金を会の目的の範囲外と認定した。つまり、政治献金の強制徴収はできないのだ。

以下の理由の説示が注目される。

「特に、政党など(政治資金)規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり、これらの団体に寄付することは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである」

この点、立派な判決と言ってよい。

私の問題整理の視点は、「団体の意思形成が可能か」「形成された団体意思が構成員を拘束できるか」と意識的に局面を2層に分けて考える。前者が団体意思形成における手続上の「民主主義」の問題で、後者が不可侵の「人権」の問題。「民主的な手続を経た決議だから全構成員を拘束する」とは必ずしも言えないのだ。いかに民主的に決議が行われたとしても、そのような団体意思が構成員個人の思想・信条・良心・信仰などを制約することは許されない。そういうことなのだ。

最高裁は、結論としてこう述べている。

「前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄(政治団体に対して金員の寄付をするかどうか)を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。」

どんな団体も、その団体が結成された目的(厳密に定款や規約に書いてあることに限られない)の範囲では広く決議や行為をなしうる。が、構成員の思想・信条・良心・信仰を制約することはできない。最高裁は、「政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすること」は、構成員の思想・信条を制約することから、税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。」と判断したのだ。

既にこういう判決があるのだから税理士会は、「政党支部や政治家の選挙事務所に寄付」をするための原資を税理士会で徴収することはできないと悟り、別組織として政治団体「栃木県税理士政治連盟(栃税政)」を作ってこれに肩代わりさせたのだ。その肩代わり組織が、実は全税理士に対する強制加入だったとすれば、形だけの繕いで脱法を試みたというに過ぎない。

栃税政の年会費は1万円。その支払い義務をめぐる攻防とだけ見れば、手間暇と費用を投じて訴訟を提起することは到底採算のとれることではない。

思想・信条・良心の問題としてとらえ、社会的同調圧力の跋扈を嫌い、政治的風土をつくり変えていこうという志あれはこその提訴である。原告と、受任弁護士に拍手を送りたい。
(2018年7月18日)

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。

「日の丸・君が代をおしつけないで」という集会とデモを行います。名付けて「リバティ・デモ」。ぜひご参加ください。

私たちの主張は、「日の丸・君が代に反対」ではなく、「日の丸・君が代をおしつけないで」ということです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方の意見は尊重しましょう。同じように、「日の丸・君が代の押しつけは困る」という私たちの声にも耳を傾けていただきたいのです。

私たちが大切にしたいのは一人ひとりの考え方がひとしく尊重される多様性です。多様であることの自由です。自由の先進国の言葉で言えば、「リバティ」あるいは「リベルテ」。だから、「リバティ・デモ」。

「日の丸・君が代」が好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる「やわらかでやさしい社会」を目指して、 ご一緒にデモに参加していただけませんか。

私たちは、主張します。

「国旗・国歌」にどのような考え方をもつのも自由であること
「日の丸・君が代」への敬意を強制してはならないこと
「国を愛する気持ち」は自然に湧き出るもので、押しつけることはできないこと
学校とは、多様な意見を尊重し合うことを学ぶところであること

この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

みんなで一緒に楽しく歩きましょう。自由を求めて。

… … … … … … … …

日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

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このリバティデモ出発前の集会では、私(澤藤)が報告する。テーマは、「4次訴訟の現段階」。いま、東京「君が代」裁判(懲戒処分取消等請求訴訟)4次訴訟は、東京高裁で半分勝ち半分負けて、納得できない13人が上告している。7月6日までに上告理由書を提出しなければならない。いま、弁護団は必死になって、この上告理由を執筆している。

以下に、一部をピックアップしてご紹介したい。「原判決(東京高裁第12民事部(杉原則之裁判長)2018年4月18日)には、憲法20条(信教の自由保障条項)解釈の誤りがある」とする上告理由中の一節。(但し、すべてが裁判書提出のとおりではない。)

1 国民各人の多様な価値観の共存を尊重すべきことは民主主義社会における普遍的な基本原理である。日本国憲法はこの基本原理に基づいて、個人の精神生活のありようについては、当該個人の選択を無条件に尊重すべき多元主義の立場に立つ。公権力によるその選択への介入は絶対的に禁止されている。
その当然の帰結として、憲法は、多文化,多宗教が共存する社会を正常なものと想定して、個人において信仰をもつことも、もたないことも、またいかなる宗教的信念を持つことも、完全な自由として保障している。
誰もが自ら選択した信仰にしたがって生きることを権利として保障される。公権力がこれに介入することは許されない。ただ、信教の自由の行使が、他の人権や、譲ることのできない憲法価値と具体的に衝突する場面では、その限りで調整を受けるべきことは当然であって、信教の自由ゆえに全ての行為(作為・不作為)が許されるというものではありえない。他の権利と関わりうるすべての権利が無制限ではあり得ないことは、ことさら述べるまでのことでもない、当然の事理である。肝腎なことは、他の権利との衝突の場面での調整の必要が認識されるべきこと、その調整のありかたが憲法の理念(価値序列)に照らして合理的でなければならないということである。
2 日本全体が多宗教共存の社会である以上、都立校の教職員の中にも、多様な信仰をもつ者があり、また、信仰をもたない者もある。信仰者であることを公然化している者もあり、そうしてはいない者もある。そのことは、上告人らにおいても同様である。
信仰は多様である。宗教的なタブーとされるものは、それぞれの信仰によって著しく異なる。偶像崇拝禁止に潔癖な信仰もあり、そうでない信仰もある。その教義や歴史的経緯から公権力との関係に緊張感の高い宗教もあり、公権力に親和性の濃い宗教もある。信仰上の理由で、日の丸・君が代への敬意の表明をなしがたいとする者もいれば、その信仰と矛盾を感じない信仰者もありうる。
また、非信仰者の宗教意識も同じく多様である。自らは信仰をもたないが、日の丸・君が代の有する宗教的な側面に強い違和感をもち、それ故に起立斉唱等の強制には服しがたいとする者もいる。
上告人らが提出した陳述書によれば,少なくとも二人の上告人が、自らキリスト教を信仰していることを明示して、その信仰ゆえに日の丸・君が代への敬意の表明はできない、したがって起立斉唱等を強制する職務命令には服しがたい、としている。また、一審における原告本尋問結果も、詳細にそのことを証している。
この両名について、憲法20条が保障する信教の自由侵害があったことは明らかというべきであって、これを儀礼的所作の強制に過ぎないとして、「そもそも信教の自由侵害にあたる公権力の行使そのものが存在しない」とするのは、詭弁も甚だしい。
3 憲法20条は,第1項前段で「信教の自由はこれを保障する」と規定し,第2項で「何人も宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない」と規定する。
信教の自由には,①信仰の自由,②宗教的行為の自由,③宗教的結社の自由が含まれると説かれるが、本件で論じられるのは、主として「絶対的保障」とされる信仰の自由であり、これと不可分な限りでの消極的宗教的行為の自由である。
留意さるべきは、信教の自由が,多数派または正統派とされる宗教(オーソドックス)に対する少数の異端者,抵抗者の信仰の自由を保障するために認められてきたという歴史的経緯である。謂わば、典型的な少数者の人権として意識されてきた「非妥協的な基本権」である。宗教的少数者に対して宗教的寛容を強制するという愚かな過ちを犯してはならない。「たとえ,少数の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても,彼らの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されないのである」(津地鎮祭訴訟大法廷判決の藤林益三最高裁長官の追加反対意見)との言が信教の自由の真髄を示していることを看過してはならない。
公権力が特定の宗教を正統と定め,国民に対しその信仰を強制あるいは勧奨することは,公権力が人の内心に踏み込むことであるから絶対的に禁止される。また,特定の信仰を有すること,あるいは有しないことを理由として刑罰その他の不利益取扱いをすることも,憲法20条1項前段によって禁じられる。さらに,公権力が人の信仰の有無を強制的に告白させること,あるいは宗教関係の調査を行うことは,公権力が人の信仰の有無を知ろうとするのは,それによって,有形無形の圧力,干渉を加えるためであったことは歴史的事実であり,仮にそれが弾圧,迫害を目的とするものではないとしても憲法20条によって禁止されるのである。
したがって,信仰の自由は,①特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を強制することの禁止,②特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を理由とする弾圧,迫害など不利益処遇の禁止,③信仰を有していること,あるいは有していないこと,無信仰であること,の告白を強制することの禁止,をその内容としている。
これらの信仰の自由は,憲法19条が保障する思想・良心の自由の宗教的側面であり,その保障の効果も,憲法19条と同様に,絶対無制約である。
なお、憲法20条2項は,何人も宗教上の行為などを「強制されない」というかたちで規定しているが,これは,明治憲法の下で,神社への参拝が強制されあるいは神道式の国家的儀式への参加が強制され,あるいは神道式の学校行事の実施が強制されたことに対する反省から定められたものに他ならない。すなわち,宗教上の行為(典型的には、礼拝,祈祷,宗教儀式,式典,あるいは布教活動など)を行うこと,または参加すること,あるいはこのような行為を行わないこと,または参加しないことなどはすべて個人の自由な意思で決めるべきことであって,公権力がこれらを強制することは許されないことの確認規定である。
ここでいう「宗教上の行為」の外延は、被強制者の信仰の自由保障の観点から、合目的的に確定される。信仰の自由の外延を切り縮めることがあってはならないことから、「宗教上の行為」の外延も同様の広い外延をもつ。
4 キリスト教徒である上告人両名の「信仰上、起立斉唱等ができない」とする心情を語った各陳述書の内容および本人尋問結果の内容は、同じキリスト教徒でも、日の丸・君が代の強制に服しがたいとする理由はけっして一様ではない。
しかし、キリスト教徒として真摯な信仰を有する上記上告人らのすべてにとって、卒業式・入学式等での君が代斉唱時に,日の丸に向かって起立し君が代を斉唱することは,信仰に反する行為を外部からの命令によって強制されることであり,自己の信仰の否定にほかならないとする強い信念においては一様であることをものがたっている。
キリスト教徒である上告人らにとって、信仰の対象とする神以外の偶像には崇拝が禁じられる。一方,日の丸・君が代は,戦前戦中において,神権天皇制国家の国旗国歌として、宗教国家のシンボルであると同時に、国家宗教のシンボルでもあった。国家神道の象徴として、明らかに神性を有する宗教的な存在であった。そして,いまなお,「日の丸・君が代」の宗教性は払拭されていないというのが上告人らの信念である。
したがって、「日の丸・君が代」に敬意を表明することは信仰に反する行為としてなしえない。このような説明は、多元的価値観の併存を認め、他人の信仰に寛容であろうとする良識を備えた者には、容易に了解可能なものである。
「いまなお,日の丸・君が代の宗教性が払拭されていない」ことが「客観的な」事実であるか否かの確認は不必要である。これも、信仰者の宗教的信念の内容に属することがらだからである。起立斉唱等の強制が、当該上告人らの信仰の自由と抵触することは明らかというべきである。
もちろん、信仰内容だからという理由で、あらゆる職務命令の拒否が許容されるものではない。他の重大な憲法価値との衝突の局面では、信仰が譲歩を余儀なくされることもあろう。
しかし、真摯なキリスト教徒の信仰を傷つけてでも、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意の表明を強制する必要性も合理性も到底認めがたい。ここには、憲法価値の優劣に関する倒錯があるとしか評しようがない。
卒業式等における「日の丸・君が代」強制は、当該信仰者との関係において、明らかに信仰の自由を侵害するものである。(以下略)

(2018年6月26日)

絵本『花ばぁば』が語る「戦争のおぞましさ」と「出版の不自由」

私の手許に、「花ばぁば」という絵本がある。やさしい筆使いのやわらかい絵。たくさんの花が描かれている。子どもたちに読んでもらおうという、紛れもない上質の絵本。しかし、内容はこの上なく重い。日本軍慰安婦だった一人の女性の人生を描いた作品。

絵と文は、クォン・ユンドク。1960年生まれで大家という年齢ではないが、「韓国絵本界の先駆者」と紹介される人。翻訳は桑畑優香。早稲田を出たあと、延世大学、ソウル大学で学んだ人だという。絵本にふさわしい、優しさあふれる文章になっている。

『花ばぁば』とは、元日本軍「慰安婦」だったシム・ダリヨンさんのこと。その辛い体験の証言をもとにストーリーが組み立てられている。晩年の彼女は、園芸セラピーを受け、押し花の作品作りを楽しみに過ごしていたという。

通常の絵本にはない、前書きとしての「著者からの言葉」がある。その冒頭の一文が、「戦争で被害を受け苦しんでいる、すべての女性たちにこの本を捧げます」というもの。重ねて後書きとして、Q&A形式の「読者のみなさんへ」がある。いずれもやや長い。著者のこの本の出版へのこだわりや思いの深さが痛いほど伝わってくる。

その中の一節にこうある。
「この本では、黄土色と『空っぽの服』を象徴として、私たちが『慰安婦問題』を見つめるときに注目すべきことに対する考え方を表現しています。旧日本軍の服の色である黄土色は帝国主義を、『空っぽの服』は人間の考え方と行動を規定し支配する制度や習慣、国家体制などをそれぞれ象徴しています」
「誰もがそのような服を着れば、自分でも気付かない行動をとる可能性があります。つまり、『私たちは、慰安婦問題の責任を一人ひとりの具体的な個人ではなく、彼らを指揮し煽動した国家と支配勢力に問うべきだ』という意味を込めているのです」

大いに異論があってしかるべき論争点だろうが、これがこの作品の中心テーマで、作家の視点には揺るぎがない。大日本帝国の責任、旧日本軍の責任、どの部隊の誰の責任と決めつけ特定してしまうと普遍性が薄れる。戦争一般に性暴力の原因があり、弱者に深刻な被害を強いるものという基本認識から、戦争そのものをなくそうという平和志向の思想。だから、最後は、こう締めくくられている。

「今も地球上のあちこちで絶えず戦争が起きています。花ばぁばが経験した痛みは、ベトナムでもボスニアでも繰り返されました。そして今、コンゴやイラクでも続いているのです。」

この本の刊行は、今年の4月29日の日付。「ころから」という小さな出版社から、「202名の(クラウドファンディングでの)支援で刊行されました」と記されている。が、この本が実は8年も前に日韓同時に出版されるはずだったことを知らなかった。このことは、日本社会の表現の自由の現状を雄弁に物語っているのだ。

以下は、東京新聞2018年6月20日の「『花ばぁば』が伝える戦争」というコラム。この間の事情を手際よくまとめている。

「東京・赤羽の小さな出版社「ころから」から出された絵本『花ばぁば』は、旧日本軍の慰安婦とされた韓国人のシム・ダリョンさんの証言に基づき、韓国の作家クォン・ユンドクさんが描いた物語だ。

日本が朝鮮半島を植民地としていたころのこと。突然連れ去られた少女は軍の施設に閉じ込められ、その部屋の前には兵隊たちが毎日列を作った…。水彩の絵の美しさが、軍隊の暴力性をより鮮烈に伝えるようだ。

2010年に韓国でオリジナル版が出版された後、日本での出版は、シムさんの証言が慰安所設置に関する公文書記録と一致しないという理由で見送られた。一度お蔵入りしたこの作品を日本で出そうと奔走したのは、絵本作家の田島征三さんら日本の有志だった。

実は私(記者)も05年、大邱(テグ)市にあったシムさんの自宅を訪ね、被害の体験を聞いたことがある。けれども連行された時期や場所など分からない点が多く、証言を記事にできなかった。彼女は『私は頭がおかしくなった。覚えていないんだ』と涙ぐみながら、日本からきた記者の私に語ろうとしたのに。あの日、私がするべきだったのは、『埋められない記憶』を問うことではなく、彼女が経験した痛みの重さにもっと心を寄せることだった。

シムさんは日本版の出版を待たず10年に83歳で他界したが、彼女が残した絵本は戦争の真実を静かに語り続ける。(佐藤直子)」

「マガジン9:http://maga9.jp/」には、「この人に聞きたい」シリーズで、クォン・ユンドクのインタビュー記事が掲載されている。今年の5月30日にアップされたもの。これは、衝撃的な内容。

クォン・ユンドクさんに聞いた:日本軍「慰安婦」にされた女性の物語 『花ばぁば』で伝えたかったこと

クォン 日本での版元からは最初、日本で出版するためにはここを変えてほしい、といって何度も修正依頼が来ました。受け入れられる点については修正しましたが、とても受け入れられない点もあって、それについては「できません」とお答えしたのです。

──たとえば、どんな点でしょうか。

クォン 『花ばぁば』では、慰安所の見取り図のような場面や、慰安所がつくられていた地域分布を示す場面なども出てくるのですが、こうした資料的な絵を入れず、もっと「一人の女性の人生」という観点からストーリーをつくれないか、と言われました。でも、私は単なるハルモニの個人史ではなく、その背景にある社会的な要素もあわせて描きたかった。そこは変えたくありませんでした。
また、もっとも受け入れがたかったのは、モデルを別のハルモニに変えてほしいと言われたことです。シム・ダリョンさんは慰安婦として連れて行かれた後、戦後にかけて記憶を失っている時期があるので、証言の確実性がないのではないか、というのです。シム・ダリョンさんのように無理矢理トラックに乗せられたケースではなく、「お金を稼げるよ」と騙されて連れて行かれたハルモニの証言をもとにしたほうが、普遍的な物語になるのではないかとも言われました。

でも、シム・ダリョンさんが記憶喪失になってしまったのは、慰安婦にされて性暴力を受けたことや、戦後に韓国で差別を受けたことの結果であって、そのこと自体が重要な「記憶」です。それを証言として信用できないということには、まったく納得が行きませんでした。私はシム・ダリョンさんだから描きたいと思ったのだし、出版社が「こういうおばあさんの話を描いてほしい」というのなら、それを描いてくれる作家を別に探せばいいじゃないか、という話ですよね。
最終的には、「他のハルモニの話に変えないのならうちの出版社からは出せません」という返事でした。

──それが本当の理由というよりは、慰安婦問題というセンシティブな問題を扱った絵本を出したくなかったのかもしれないという気がします。特に、ここ数年の日本では、「慰安婦」という言葉を出すだけで一部の層からひどいバッシングを受けるという傾向がありますし、「シム・ダリョンさんの証言に問題があるから出さない」ではなく、「日本社会に問題があるから出せない」だったのではないでしょうか。

クォン 本当にそうです。その「日本社会の問題」を、「ハルモニの問題」にすり替えて断りの理由にされたことが本当に悲しくて。そのときにはもう亡くなられていたシム・ダリョンさんに対しても、申し訳ない思いでいっぱいでした。被害者が自分の受けた被害の話をするというのは、本当に苦しくてつらいことなのに、それを否定されたわけですから……。私だけでなく、「平和絵本」シリーズにかかわっていた作家たちはみんな、大きなショックを受けていました。

──しかし、田島征三さん、浜田桂子さんら日本の絵本作家の奔走もあって、2018年に別の出版社からの刊行が決まります。資金集めのためのクラウドファンディングでは、当初の目標額だった95万円がわずか4日間で集まったそうですね。

クォン 2000年の女性戦犯法廷の話などを聞いて、日本には慰安婦の存在を否定したい勢力もいるけれど、それをきちんと検証して知らせようとしている人たちも大勢いるんだということを知りました。日本での出版前から、韓国語版を自分たちで翻訳して読書会を開いてくれているグループもありましたし、そうした人たちが支援してくれたのではないかと思っています。

さらに本日(6月24日)、友人の勧めで詳細に事情を語るドキュメントDVD「わたしの描きたいこと」を観た。日本語版は、本年5月25日発売。93分が短かった。

惹句では、「絵本『花ばぁば』(クォン・ユンドク絵/文)が出来上がるまでを描くドキュメンタリー映画。韓国を代表する絵本作家クォン・ユンドク(権倫徳)が、日本軍「慰安婦」の証言をテーマに絵本創作に取りかかる2007年から、予定されていた日本語版刊行が無期限延期となる2012年までを描く。クォン・ヒョ監督は、作家性と出版の軋轢を、ノーナレ(ナレーションなし)で見事に描きだす。」という。なるほど、まったくそのとおりだ。

日本で出版を予定し、最終的に断念したのは「童心社」である。松谷みよ子と関係の深かった児童書の大手。良心的な出版社である。その童心社が恐れたのは、日本社会のありかたを象徴する「右翼」の攻撃。できるものなら出版したいが、「今の情勢では、このままでの出版はできない」という。

幾つかの点での妥協を覚悟して修正作業に取りかかった作家に、日本から「今、日本社会の事態はより悪くなっている。修正しても出版は難しい」との最終の連絡がはいる。本来日韓同時出版の予定だった「花ばぁば」は、韓国ではシム・ダリョン生前に出版して好評を博したが、日本での出版はできないという結論でこのドキュメントは終わる。

なるほど、日本社会とはこんなものなのだ。日本とは、右翼の跳梁する恐るべき国、民主主義や人権の後進国と見られてやむを得ないのだ。世界の報道の自由度ランキングでは、16年72位、17年72位と続いて、今年(2018年)は68位だが、本当だろうか。アベ政権のもと、右翼の跳梁やヘイトスピーチが、おさまる気配は見えない。

「花ばぁば」は、その内容において戦争のおぞましさを語っているが、はからずもその出版を通じて日本の出版の自由の制約や右翼の跳梁の実態、民主主義や人権のありかたについても語るものとなった。
(2018年6月24日)

佐川宣寿証人の証言を、議院証言法違反で問い得るか。

先週の4泊5日韓国ピース・ツアーの間に、仕事が滞溜した。新聞や郵便物も山積みになった。この浦島太郎状態からようやく日常のペースが戻ってきた。

3月27日衆参予算委員会における佐川宣寿証人の喚問記録も拾い読みして、何とか浦島症状から覚醒した感がある。次は連休明けの沖縄の旅が待ち遠しい。

さて、佐川宣寿証人喚問の議事録を読んで、思うところを整理してみたい。

民事法廷での証人尋問で、その証人に対して証人自身の刑事責任に関する証言を求められることは考え難い。刑事事件においても、宣誓した証人に、証人自身を犯罪者とする証言を求めることは稀有なことであろう。要するに、証人とは、民事にせよ刑事にせよ、自分の責任とは関係のないことについて聞かれることが原則なのだ。

ところが、議院証言法による証人喚問は、純粋の証人として他人の責任に関しての証言を期待されているのではなく、自身の責任を追及される立場の「証人」が多い。刑事訴訟の感覚から言えば、証人であるよりは「被疑者・被告人」の立場に近い。そのため、法廷ではめったにない、証言拒否が濫発されることになる。刑事法廷では、訴追されている被告人が宣誓して供述することはない。

憲法38条1項は、「何人も、自己に不利益な供述を強制されない」と定める。黙秘権として知られるが、合衆国憲法の自己負罪拒否特権の移入だとされる。なんびとも、自白を強制されることはない。捜査のあり方についての憲法原則でもあるが、何よりも被疑者・被告人の人格尊重の大原則でもある。

議院証言法は、議会の国政調査権を実効あらしめるために、誰に対しても証人として議会に出頭を求め、宣誓のうえ真実を語るべく義務付けをなしうる制度を作った。しかしこれには、自ずから人権原理からの制約や限界があることになる。法は証人に、一般的に真実を語るよう義務づけはできても、自己負罪拒否特権までを奪うことはできない。

すると、証人の偽証や証言拒否について、議院証言法違反で訴追できるかは、次のように考えを整理することができるだろう。

第1 原則(「国政調査権を実効あらしめる」「国民の知る権利を実現する」趣旨)
☆第1条(出頭・証言義務) 各議院から、議案その他の審査又は国政に関する調査のため、証人として出頭及び証言…を求められたときは、…何人でも、これに応じなければならない。
☆第6条(偽証) この法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、3月以上10年以下の懲役に処する。
☆第7条(出頭・証言拒否) 正当の理由がなくて、証人が出頭せず、…又は証人が宣誓若しくは証言を拒んだときは、1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金に処する(併科も可)。

第2 制約(「人権原理にもとづく限界」「三権分立の制度の趣旨からの制約」)
☆第4条1項(自己負罪拒否特権=憲法38条1項「何人も、自己に不利益な供述を強制されない」にもとづく免責規定) 証人は、自己…が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれのあるときは、宣誓、証言又は書類の提出を拒むことができる。
☆第4条2項(業務に対する信頼保護の要請に基づく免責規定) 医師・弁護士・宗教者…は、業務上委託を受けたため知り得た事実で他人の秘密に関するものについては、宣誓、証言又は書類の提出を拒むことができる。ただし、本人が承諾した場合は、この限りでない。
☆第5条 (公務の秘密保護の要請に基づく免責規定) (略)
☆第5条の2(特定秘密保護の要請に基づく免責規定) (略)

第3 各議院の告発手続(院の自律性と刑事司法権との関係)
☆第8条 各議院若しくは委員会は…証人が前2条(偽証、出頭・宣誓・証言拒否)の罪を犯したものと認めたときは、告発しなければならない。
☆8条2項 (議院ではなく)委員会…が前項の規定により告発するには、出席委員の3分の2以上の多数による議決を要する。
☆判例上親告罪であり、告発の権限は各院・委員会だけにある。(各院の自律権尊重の立場からの立法)
*検察が独自の判断で捜査・起訴はできない。
一般国民の告発による捜査・起訴もできない。

第4 実践的に
☆第6条(偽証)については、これを免責する根拠はいささかもない。
*偽証とは、「証人が自己の記憶に反することを述べること」(主観説)であるが、客観的事実との矛盾を積み上げて、推認するしかない。
*「官邸の指示なし」「昭恵夫人の影響なし」などの部分が問題になるだろう。
☆第7条(出頭・宣誓・証言拒否)
*まさしく、正当の理由の有無が問題となる。自己負罪の可能性を認めた趣旨であれば、「正当な理由ない」とは言いにくい。(反面、文書改ざんについての犯罪の成立が事実上推定されることになりうる。)
*むしろ、「刑事訴追を免れるためでない」別の偽証の動機を積み上げることが、重要であろう。
☆佐川証人が証言拒否なら、真相を明らかに出来る他の証人を喚問しなければ、国政調査権は全うできない。
(2018年4月4日)

現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。

「基本的な自然の法則」
人は皆、ある意味で泥棒だと言っていいでしょう。
もし、すぐには要らないものを私が手に入れ、手元に置いておくなら、他の誰かからそれを奪い取っているのと同じです。自然は私たちが必要とするだけのものを日々産みだしくれ、それは例外のない根源的な自然の法則です。
ですから、もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。
私は社会主義者ではないので、お金持ちから財産を取り上げるやり方は望みません。しかし、暗闇の中で光明を見出すことを願う人なら誰しも従わなければならない法則があることだけは、あなた方に直接、はっきり伝えておきます。
お金持ちから財産を取り上げるという考えを、私は持っていません。そんなことをすれば、アヒンサーの法則(非暴力主義)から外れてしまいます。だから、もし他の誰かが私より多くのものを持っていたとしても、そうさせておくだけのことです。ただ、私白身はアヒンサーの法則に基づいて暮らそうと努めていて、必要以上のものを持たないと、はっきり決めています。
インドでは、300万人もの人が一日一食で飢えをしのいでいます。しかも、その食事は、脂肪分のまったくないたった一枚のチャパティと一つまみの塩だけなのです。このような300万人の人たちに、衣服と食べ物が今以上にいきわたるようになるまでは、私もあなたも、手元に蓄えているものについて、どのような権利もありません。あなたも私もそのことを十分に承知しているのですから、その300万人の人たちが大切にされ、食べ物と衣服に困ることがなくなるよう、自分の欲望を制御し、進んで食事なしで済ませることくらいはやってみなければなりません。
(「演説・著作集」第4版)

「何よりもまず、貧困層に適切な衣食住を」
上流階級や王侯貴族はいろいろ必要が多いのだと言い立てて、上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。それは、怠惰な詭弁であり、私の理論を揶揄するものに過ぎない。
富裕層と貧困層との間に存在する今日の格差は、見るに堪えない。インドの貧しい村人だらけ、外国の政府と自国の都市生活者の双方から搾取されている犠牲者である。村人たちは食料を生産するが、飢えている。村人たちはミルクを生産するが、その子どもたちには飲むミルクがない。このようなことは放置できない。誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。
(「ハリジャン」1946年3月31日号)

以上は、大阪の加島宏弁護士が紹介するガンジーの言葉の一部である。年2回刊の「反天皇制市民1700」誌第43号に、連載コラム「ガンジー」第8回に、ガンジーの経済思想として掲載されているもの。

人は大人になりきる以前には、必ずこのような思想や生き方に深く共鳴する。このような思想を自分の胸の底に大切なものとして位置づけ、このような生き方を理想としよう。一度はそう思うのだ。しかし、落ち着きのない生活を重ねるうちに、少しずつ理想も共感も忘れていく。

それでも、ガンジーのこの言葉は魂を洗うものではないか。ときに噛みしめてみなければならない。

ガンジーは、こう言うのだ。「もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。」

70年前にして現実はこうだった。「上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。」いまや、「目のくらむような較差」はさらに天文学的で絶望的なものになっている。それは、多くの巨大な泥棒連中が、この世に横行しているということなのだ。

泥棒を駆逐して、「誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。」と切に思う。日本国憲法の生存権思想は、まさしくそのような社会を求めている。

明文改憲を阻止するだけでなく、憲法の理念をもっともっと深く生かしたいと思う。
99%の「貧乏人」と、1%の「上流階級と王侯貴族と財閥たち」との間に横たわる目のくらむような較差の壁を崩していくことは、生存権だけでなく14条の平等権の歓迎するところでもある。社会保障を削って、軍事費を増やそうなど、もってのほかという以外にない。こうなると「泥棒」ではなく、「強盗」というべきだろう。
(2018年2月6日)

民族差別主義者らの「弁護士懲戒請求の濫用」に歯止めを

昨年(2017年)暮の12月25日、下記の東弁会長談話が公表された。
https://www.toben.or.jp/message/seimei/post-487.html

「当会会員多数に対する懲戒請求についての会長談話」

  東京弁護士会 会長 渕上 玲子

 日本弁護士連合会および当会が意見表明を行ったことについて、特定の団体を介して当会宛に、今般953名の方々から、当会所属弁護士全員の懲戒を求める旨の書面が送付されました。
 これらは、懲戒請求の形で弁護士会の会務活動そのものに対して反対の意見を表明し、批判するものであり、個々の弁護士の非行を問題とするものではありません。弁護士懲戒制度は、個々の弁護士の非行につきこれを糾すものであって、当会は、これらの書面を懲戒請求としては受理しないこととしました。

 弁護士懲戒制度は、国民の基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする弁護士の信頼性を維持するための重要な制度です。すなわち、弁護士は、その使命に基づき、時として国家機関を相手方として訴えを提起するなどの職務を行わなければならないことがあります。このため、弁護士の正当な活動を確保し、市民の基本的人権を守るべく、弁護士会には高度の自治が認められており、弁護士会の懲戒権はその根幹をなすものです。
弁護士会としてはこの懲戒権を適正に行使・運用しなければならないことを改めて確認するとともに、市民の方々には弁護士懲戒制度の趣旨をご理解いただくことをお願いするものです。

**************************************************************************
これは、懲戒請求制度の濫用者953名に対する説示ではなく、社会に向けて発信された文字どおりの広報である。措辞穏やかで短いものだが、東京弁護士会の確固たる意志表明であり、理性ある市民への理解を求める訴えかけでもある。

「東京弁護士会会員全員(約8000名)に対する懲戒請求」とは、明らかに制度の趣旨を逸脱した東京弁護士会自体へのいやがらせ。このような申立があることを知らなかったが、私も被懲戒請求者とされていたのだ。いったい誰が、どんなテーマで、何を根拠に、何を狙ってのものだったのか。また、その処理に、いったいどれだけの手間暇と費用を要したのか。この会長談話だけからでは窺えない。もう少し説明あってもよかったのかなとも思う。

思い当たるのは、下記の報道との関連である。

毎日新聞2017年10月12日
「懲戒請求 弁護士会に4万件超 『朝鮮学校無償化』に反発 6月以降全国で」

「朝鮮学校への高校授業料無償化の適用、補助金交付などを求める声明を出した全国の弁護士会に対し、弁護士会長らの懲戒を請求する文書が殺到していることが分かった。毎日新聞の取材では、少なくとも全国の10弁護士会で計約4万8000件を確認。インターネットを通じて文書のひな型が拡散し、大量請求につながったとみられる。

各地の弁護士によると、請求は今年6月以降に一斉に届いた。現時点で、東京約1万1000件▽山口、新潟各約6000件▽愛知約5600件▽京都約5000件▽岐阜約4900件▽茨城約4000件▽和歌山約3600件--などに達している。

請求書では、当時の弁護士会長らを懲戒対象者とし、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などと主張している。様式はほぼ同じで、不特定多数の賛同者がネット上のホームページに掲載されたひな型を複製し、各弁護士会に送られた可能性が高い。

請求書に記された「声明」は、2010年に民主党政権が高校無償化を導入した際に各弁護士会が朝鮮学校を含めるよう求めた声明や、自民党政権下の16年に国が都道府県に通知を出して補助金縮小の動きを招いたことに対し、通知撤回や補助金交付を求めた声明を指すとみられる。」

この報道に村岡啓一・白鴎大教授(法曹倫理)のコメントが付されている。
「懲戒請求は弁護士であれば対象となるのは避けられない。ただ、今回は誰でも請求できるルールを逆手に取っている。声明は弁護士会が組織として出しているのだから、反論は弁護士会に行うべきだ。弁護士個人への請求は筋違いで制度の乱用だ」

報道の対象となった懲戒請求がすべて斥けられたあとに、懲りない面々が、「特定の団体を介して」東弁会員全員への懲戒請求を思い立ったのであろう。が、すこぶる失当で迷惑な話。

弁護士の独立性こそは「人権の最後の砦」であって、弁護士自治はその制度的保障である。弁護士は「人権の護り手」としての使命を全うするために、国家や自治体、大企業・財界・資本からも、そして社会の多数派からも独立して、その任務を果たさなくてはならない。弁護士会は、会員弁護士がその使命を全うすべく在野に徹しなければならない。公権力からも、社会的な強者からも、そして多数派世論からも独立した自治を必要とする。

また弁護士会は、弁護士法に基づいて「建議・答申」をすべきものとされている。その内容は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」ものでなくてはならない。公権力とこれと一体化した右派の運動が押し進めている「在日に対する民族差別」に、人権を擁護すべき立場にある弁護士会が、批判の意見を述べることは、当然の権限であり責務ですらある。

これに耳を傾けることなく、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に(弁護士会が)賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などということは、およそ支離滅裂で没論理の行為である。こんな露骨な差別的言論が横行する事態を憂慮せざるを得ない。

弁護士自治は、人権と民主主義を尊重する社会の防衛装置としてこよなく大切なものであるが、その弁護士自治が市民から遊離した独善に陥ることを警戒しなければならない。また、弁護士は高い倫理を要求されてしかるべきで、市民による弁護士への懲戒請求の制度は使いやすいものでなくてはならない。その立場からは、軽々に弁護士に対する懲戒請求のハードルを高くするようなことをしてはならない。

しかし、信用を生命とする弁護士にとって、懲戒請求を受けるということの打撃は、相当のものである。私は47年間の弁護士生活の中で、自分には無関係だと思っていた懲戒請求を、たった一度受けたことがある。懲戒請求者は訴訟事件の相手方代理人だった下光軍二という一弁の弁護士。下光自身が遺言状作成に立ち会って長男に全財産の集中をはかった筋悪の事件で、私が妹側について遺留分減殺を請求した訴訟。財産の保全のために、仮差押命令や処分禁止の仮処分を3回に渡ってかけたことが、弁護士としての職権を濫用したもので非行にあたるという、およそ信じがたい懲戒理由だった。おそらくは、この弁護士、自分の無能と怠慢を依頼者に言い訳するためにこんな策を弄したのだ。

下光の請求は懲戒委員会まで到達せず、綱紀委員会で懲戒不相当の議決となった。が、綱紀委員会に呼出を受け、仲間から事情を聞かれる屈辱感は忘れられない。スジの通らない懲戒請求ではあっても、弁明のための書面作成の時間も労力も割かなくてはならない。こういう明らかな懲戒請求の濫用には歯止めのために相当の制裁があってしかるべきだと思う。

いま、私はDHCスラップ訴訟に反撃訴訟を提起している。理不尽な懲戒請求と同様、言論萎縮を狙った民事訴訟制度の濫用に対しては歯止めのための制裁があってしかるべきだという考えにもとづいてのもの。最終的には、スラップ防止の法制度が必要だと考えている。

今般の東京弁護士会会員全員に懲戒請求をした953名が同種のことを繰り返すのであれば、刑事的には偽計業務妨害に、民事的には損害賠償請求の対象となり得る。弁護士会は、味方とすべき理性ある市民と、権力と癒着した差別主義者たちとを峻別し、明らかな人権侵害集団による会務への不当な侵害には断固たる措置をとるべきであろう。
(2018年1月5日)

「鶏よ、鳴け。夜がゆっくり明け始めている。」ー袴田巖再審開始を求める意見広告

 良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。
 暗く苦しい夜が長ければ長いほど、ひときわ声高く響く良心の声よ。
 暗澹と悲痛と憤怒の錯綜した獄中14年有余、私を支えたのはその声だ。
 鶏よ、鳴け、私の闇夜は明るくなった。
 鶏よ、早く鳴け、夜がゆっくり明け始めている。
(袴田巖 1981年5月6日 書簡集より)

本日(8月18日)の朝日・毎日の両紙に掲載された、「袴田事件の一刻も早い再審開始を求める」意見広告。一面全部を使ったインパクトの大きいこの広告の冒頭に、この胸を打つ一文がある。これは詩だ。美しく心情を描いている。

袴田さんは、「世界最長収監の死刑囚」として知られている。1966年6月30日清水で起こった一家4人の殺人事件。その犯人として同年8月18日に逮捕された。本日の意見広告掲載は、51年前の同じ日付を意識してのことかも知れない。当時30歳であった。以来拘束が続けられ、死刑確定囚の身のまま釈放されたのが2014年3月27日のこと。この間の身柄拘束は47年7月余、日数にして17,389日だという。人生の大半を死刑の恐怖と絶望のうちに過ごしたことになる。

彼に対する取り調べは過酷で凄まじいものだった。いったんは「自白」を余儀なくされたが、公判段階からは一貫して否認し続けた。しかし、彼の無実の声は届かなかった。判決は有罪。しかも死刑である。後の裁判所が「証拠の捏造の疑いを否定できない」とされた審理での有罪である。

最高裁が上告を棄却して死刑が確定したのが、1980年12月。「私の闇夜は明るくなった。」と、彼が綴った81年5月は、第1次再審請求直後のこと。この時期、日弁連も支援を決めている。

彼は、「良心は無実の人間のいのちを守る唯一の声である。」という。良心とは、彼の無実を信じて救援活動に没頭した家族や支援者の良心であり、ジャーナリストの良心であり、弁護団の良心でもあったろう。多くの良心が、無辜の人の心の支えとなったのだ。

しかし、現実の経過は厳しいものだった。「夜がゆっくり明け始めている。」と彼が呟いたときから、釈放まで33年を要している。しかも、その釈放から3年を経た今もなお、静岡地裁の再審開始決定には、検察官の即時抗告があって現在東京高裁で審理半ばである。だから、「もう待てない。一刻も早い再審開始を」という意見広告なのだ。

意見広告の下段には、袴田さん自身の次のつぶやきが、掲載されている。
 私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。
 私の心身は反則によってKOされたまま踏みにじられている。
 そのKOの底に身を横たえてしまうしかないのか。
 そして日一日と正義を殺されていくのか。
 これが私の生である。私の無念とするところである。…
 私は無実だ。…
(袴田巖 1981年11月29日 書簡集より)

冒頭の文章の明るさとはちがって、厳しさを感じさせる一文。これが、わずか半年後のこと。
「私は無実だ。…」と言いつつも、「日一日と正義を殺されていくのか。」という、呪詛の言葉が重い。私たちが作り運営する刑事司法の仕組みが、人の運命をもてあそび、無実の人の人生を奪ったのだ。

治安を維持するための刑事司法の必要性は自明である。しかし、刑事司法作用は生の権力発動として一歩間違うと、重大な人権侵害をもたらす。

そこで、「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則が掲げられねことになる。そして、この理は再審制度においても適用されるというのが、「白鳥決定」において最高裁が明言したところである。しかし、それでも冤罪はなくならない。

刑事司法とは、刑罰権・捜査権を行使する国家権力と、裸の私人とが対峙する場である。警察も検察もそして裁判所も、被告人の弱い人権に配慮しなければならない。刑事訴訟法とは、被告人の人権擁護のための体系にほかならない。

有罪判決は、「合理的な疑いを容れない程度」の心証があることを必要とする。証拠に照らして、「合理的な疑いを容れる余地なく有罪」と考えられる場合にのみ有罪判決となるのだ。白鳥決定は、再審の場合も同様だという。

この制度は、人類が正義の実現と人権擁護とを追求してたどり着いた、文明の到達点である。これに反して、「権力は間違いを犯さない」「警察がつかまえた者、起訴された者が無罪では権力が間違ったことになる」「だから、被告人が無罪となってはならない」という権力無謬の考えが権力機構の側に残存している。

袴田さんには、ぜひとも正義と人権を回復してもらいたい。
今こそ叫ぶときだ。
「私はすべての権力者に向かってこの質問を投げかけるのだ。
 いつまで無実の明らかな私の自由をふみにじるのかと。」
ようやくにして、「多くの良心に支えられて夜はゆっくり明け始めている」のだから。
(2017年8月18日・毎日連続更新第1601回)

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