澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

中国批判の「謬論」と、中国政府の言う「事実・真相」。

(2020年7月11日)
《中華人民共和国駐日本国大使館》のホームページの内容が興味深い。いろんなことを教えてくれる。考えさせられる。国家とは何なのか、権力とは、そのホンネとは。そして、個人の尊厳とは。民主主義の無力や「人権」という言葉の多義性に思いをいたさずにはおられない。是非に、というほどのことではないが、閲覧をお勧めしたい。
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/

本日(7月11日)現在、同ホームページのトップに「中国関連の人権問題に関するさまざまな謬論と事実・真相」と表題する記事がある。7月8日にアップされたもの。

そのリードが以下のとおり。

最近、米欧の一部の人々が香港、新型コロナウイルス肺炎、新疆などにかかわる問題で、いわれもなく中国の人権状況を非難し、多くの謬論をばらまいており、それは中国に対する無知と偏見に満ち満ちている。

そこで、われわれは事実によって物を言い、真相によって道理を説くため、「中国関連の人権問題に関するさまざまな謬論と事実・真相」を編集・執筆した。

中国大使館が「事実によって物を言い、真相によって道理を説」かねばならない「謬論」は、〈その1〉から〈その31〉に及ぶ。中国に対するこれだけの批判があるとは知らなかった。中国政府も、ずいぶんと外部からの批判を気にしていることがよく分かる。

そのうちの香港に関する10の「謬論」と、それに対置された「事実・真相」を引用する。念のためであるが、私的な編集の手は一切加えていない。恣意的なカットもしていない。これが全文であって、中国当局の主張なのだ。

果たして、中国当局が「事実によって物を言い、真相によって道理を説く」ことに成功しているだろうか。いささかなりとも人権を大切に思う人にとって説得力のある論説になっているだろうか。

ここで赤裸々に語られているのは、みごとなまでの「国家の論理」である。しかも傲慢で批判に耳を傾けようという姿勢はまったく見えない。反面教師の「論理」として繰り返し読み直すに値するものである。ただ恐れるのは、このような「論理」で、中国国民の多くが納得してしまっているのではないかと言うこと。

他人事ではない。安倍政権の嘘とゴマカシ、小池都政無内容な美辞麗句にも、けっして納得してはならない。

**************************************************************************
謬論その1 国家安全立法は香港住民の人権と基本的自由を破壊し、「市民的および政治的権利に関する国際規約」に違反する。

事実・真相

◆「中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法」は、香港特別行政区の国家安全維持においては人権を尊重、保障し、香港特別行政区住民が香港特別行政区基本法および「市民的および政治的権利に関する国際規約」「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」の香港に適用される関係規定に基づいて有する、言論・報道・出版の自由、結社・集会・行進・示威の自由を含む権利と自由を法によって保護しなければならないと明確に規定している。

◆香港関連の国家安全立法は国家分裂罪、国家政権転覆罪、テロ活動罪、外国または域外勢力と結託して国家の安全を害する罪という4種類の犯罪だけを対象にしており、処罰するのは国家の安全を著しく害する容疑のある極少数の犯罪分子で、規律・法規を順守する大多数の香港市民は保護され、大多数の香港住民の安全および法によって有するさまざまな権利と自由は保障されている。

◆世界の100余りの国の憲法は、基本的権利と自由の行使では国の安全を害してはならないと定めている。「市民的および政治的権利に関する国際規約」は、信仰の自由、言論の自由、平和的集会の自由および公開の裁判を受けるといった権利はすべて、国の安全、公の秩序などの理由に基づいて必要な制限を受け得ると定めている。「欧州人権条約」にも類似の規定がある。

謬論その2 香港関連の国家安全立法は定義のあいまいな犯罪行為が列挙され、中国の国家安全機関によって民衆抑圧のために乱用されるおそれがある。

事実・真相

◆香港関連の国家安全立法は国の安全を著しく害する4種類の犯罪行為だけを対象にしており、ともすれば数十にも上る、米英などの国の安全に関わる罪名よりはるかに少ない。この法律は国家安全の法執行を明確に規制し、すべての法執行行為は厳格に法律の定めるところにより、法定の職責に合致し、法定の手続きを順守しなければならず、いかなる個人と組織の合法的権益をも侵害してはならないとしている。さらに、駐香港国家安全公署は厳格に法によって職責を履行し、法によって監督を受けなければならず、その要員は必ず全国的法律を順守するほか、香港特別行政区の法律を順守しなければならないと定めている。

◆米国、英国、カナダ、オーストラリアなどはいずれも国家安全保障のための厳密な法体系をつくっており、国の安全を害する犯罪行為の取り締まりではまったく容赦しない。

謬論その3 国家安全立法は香港にある外国企業が「ビジネスと人権に関する指導原則」の定めによって人権尊重の責任を履行するのを難しくする。

事実・真相

◆香港関連の国家安全立法は国家分裂罪、国家政権転覆罪、テロ活動罪、外国または域外勢力と結託して国家の安全を害する罪という4種類の犯罪だけを対象にしている。これらの犯罪行為は明らかに、法を守る企業または住民の行為や関わりうる活動ではない。法を守る多国籍企業はみな香港が安定と秩序を取り戻すことを望んでいる。法律が実施されれば、香港にある企業が人権尊重の責任を履行するのに役立つだろう。

謬論その4 香港の警察は武力を過度に使用しているのに処罰を受けない(化学剤を使って抗議者に当たる、女性抗議者に対する警察局でのセクハラや性的暴行、医療関係者へのいやがらせなど)。

事実・真相

◆「条例改正の風波」中、香港の警察隊は連続数カ月間に数百回の暴力事件を前にしながら、ずっと法律と警察の内部手引に従って法を執行した。過激なデモ隊は、石、鉄棒の使用からパチンコ玉の打ち込み、傘の先に刃物を結びつけた雨傘さらには危険化学品へと絶えず装備をエスカレートさせたが、警察隊はずっと最大限の冷静さ、理知と自制を保ち、つねに進んで武力を使用しないようにした。一部の者が暴力で突っ込んだり、違法な暴力行為をとり、現場の人々の身体の安全を脅かしたりした時だけ、相応の武力を使って阻止した。これは完全に国際的規範にかなっている。たとえ警官の生命を著しく脅かす危険な武器や暴力による違法行為を前にしても、警察隊はなお自制の姿勢を示し、文明的に法を執行し、プロ精神に徹していた。香港で、警察隊の法執行で死亡したデモ参加者は1人もおらず、逆に2020年5月末までに、590人を超える警備要員が法執行中に負傷している。

◆香港の警察隊の自制的専門的法執行と鮮やかな対照を成しているのは、米国で警察が暴力的法執行で死者を出し、発砲して射殺する行為が珍しくなく、2019年だけで1004回に達していることだ。2020年6月中旬までに、米国各地のフロイド事件で誘発された抗議デモ活動中に少なくとも13人が死亡し、数百人が負傷し、1・35万人超が逮捕されている。そのうち37歳のフリー作家兼記者リンダ・ティラドさんはミネアポリスの抗議活動を報じた際、警察のゴム弾で目を打たれて片方の目を失明した。

謬論その5 中国政府は香港の抗議活動と民主化の宣伝を弾圧している。

事実・真相

◆香港の復帰後の事実は、香港住民が法によって有する言論、報道、出版、結社、集会、行進、デモの自由が十分に保障されていることをすでに証明した。

◆2019年6月の「条例改正風波」の発生以来、一部の過激なデモ隊が故意に暴力事件を造り出し、その行動は平和なデモや意見の自由な表明のという限界を完全に超えて、極端な暴力違法活動に変化している。これらの暴力行為はあからさまに法律に触れ、市民の安全を著しく脅かし、国家の主権と尊厳に公然と挑戦しており、事実ははっきりし、証拠は揺るがず、悪質なものである。

◆文明化法治化した社会で、要求の平和的理性的表明は基本的要求で、ごく当たり前なことだが、権利の行使は必ず法治の枠組み内で行わなければならず、いかなる主張も違法な方法で表明することはできず、まして暴力に訴えることはできない。法治は香港の核心的価値で、香港の長期安定・繁栄を保障する基礎である。法がある以上必ずそれにより、違法は必ず追及するというのは法治の精神の具体的現れである。暴力と暴徒にゼロトレランスで臨んではじめて、香港の法律と秩序を守り、法治を示すことができる。そして暴力と暴徒を支持し放任するのは、民主主義、自由と法治を公然と踏みにじることである。

謬論その6 香港関連の国家安全立法は中国の「中英共同声明」における約束と義務に違反している。

事実・真相

◆中国政府の香港統治の法的根拠は中国憲法と香港基本法であり、「中英共同声明」とは関係がない。1997年の香港の中国復帰に伴って、「中英共同声明」で定められた、英国と関係のある条項はすべて履行が終わっており、英国は復帰後の香港に主権、統治権、監督権をもたない。

◆「中英共同声明」の香港に対する基本方針・政策は中国の政策表明であり、全人代が制定した基本法にすでに十分体現されている。中国の政策表明は英国に対する約束ではなく、しかもこれらの政策はすべて変わっておらず、中国は引き続き堅持するだろう。

謬論その7 国家安全立法は中国の中央政府が一方的に香港に押しつけるものだ。

事実・真相

◆国の安全立法はそもそも一国の主権と中央の権限に属することだ。中国の中央政府は国の安全を守る最大の、最終的責任を負っている。全人代は中国の最高権力機関である。全人代が中国憲法と香港基本法の規定に基づき、国家レベルで香港特別行政区における国家安全維持の法制度と執行メカニズムを導入・整備することは、香港の国家安全の法的な抜け穴をふさぎ、国の安全を確実に守るのに必要な措置で、「一国二制度」の長期的安定を確保するための抜本策でもある。

◆基本法第23条は香港特別行政区に国の安全を守る独自の立法権限を与えているが、復帰から23年近くたっても、反中央・香港かく乱勢力と外部の敵対勢力が必死に阻害、妨害したことにより、この立法はなお終わっていない。香港特区の国家安全維持が厳しい局面を迎えている状況下、中央政府にはすみやかに抜け穴を埋め、欠陥を補う権限もあれば責任もある。

◆マカオ特別行政区では2009年初めに国の安全を守る現地立法を終え、「国家安全維持法」を制定するとともに、関連の法執行作業と国の安全を守る付帯立法の検討作業を整然と進めている。2018年、マカオ特区政府はマカオで国の安全を守る実務の統括・調整機関――マカオ特別行政区国家安全維持委員会を設立するとともに、国の安全を守る法制度、組織体制および執行メカニズムの整備を続けている。

◆英国が香港の植民地支配を行っていた頃、英国の「反逆法」が香港に適用され、専門の執行機関もあった。中国中央政府の香港関連国家安全立法に横やりを入れるのは、完全なダブルスタンダードである。

謬論その8 中国は国家安全立法について香港の民衆と意味のある話し合いをしておらず、この立法には世論面の基礎がない。

事実・真相

◆香港国家安全維持法の制定では、香港同胞を含むすべての中国人民の共同の意思が十分体現されている。立法起草過程で、中央と関係部門はさまざまな方法とルートを通じて、特区行政長官と主要高官、立法会主席、香港の法律界、香港基本法委員会委員および全人代代表、政協委員など各界の意見と提案を聞いた。法律案のテキストが出来上がると、関係方面は香港特区政府から出された意見・提案を真剣に検討し、香港特区の実情を十分考慮し、採用できるものはできる限り採用する精神にのっとって、法律案のテキストを繰り返し修正してより完全にし、科学的立法、民主的立法、法による立法を確実にした。

◆中央の関係部門は香港で12回の座談会を開催し、香港政界、法律、商工、金融、教育、科学技術、文化、宗教、青年、労働各界および社会団体、地域団体の120名の代表が参加して率直に意見を述べた。短期間に、香港中聯弁〈中央人民政府駐香港特別行政区連絡弁公室〉は36人の香港地区全人代代表と190人の香港地区政協全国委員の200点余りの意見書を受けとった。香港各界はまた、電子メール、手紙または中国人代網ログインなどの方法で意見を反映することができた。

◆全人代の関係「決定」が公表されると、香港各界の代表はいち早く支持の態度を表明した。300万近い香港人が「撑国安立法」〈国家安全立法支持〉の署名活動に応じ、128万を超える香港人が「米国など外部勢力の介入反対」のネット署名に参加した。

謬論その9 国家安全立法は「一国二制度」の終焉(しゅうえん)を意味しており、香港の高度の自治権を奪った。

事実・真相

◆全人代の「決定」は冒頭に主旨を示し、国が「一国二制度」、「港人治港」〈香港住民による香港管理〉、高度の自治の方針を揺るぎなくしかも全面的かつ正確に貫くことを説明し、その第1条で再度この方針をはっきり説明している。香港関連の国家安全立法の目的は香港の国家安全における致命的な抜け穴をふさぎ、「一国」の基礎を固め、香港が「一国」という基本を堅持すると同時に「二制度」の利点をよりよく生かすことを最大限保証することにある。

◆香港国家安全維持法の実施後も、香港住民が法によって有する諸権利と自由は影響を受けず、特区の独立した立法権と終審権は影響を受けない。「一国二制度」の方針は変わらず、香港特別行政区で資本主義制度がとられることは変わらず、高度の自治は変わらず、法律制度は変わらない。

謬論その10 国家安全立法は香港の繁栄・安定を危うくする。

事実・真相

◆まったく反対に、香港関連の国家安全立法は香港の繁栄・安定の維持により一層資する。2019年6月の「条例改正風波」の発生以来、「香港独立」、「黒い暴力」活動は香港の法治と経済・民生を大きく傷つけ、また香港のビジネス環境と国際的イメージを著しくこわした。香港関連の国家安全立法はまさにこの局面を転換するためのもので、香港の良好なビジネス環境を維持し、香港の金融、貿易、海運センターとしての地位を固め高め、外部からの投資家の自信を強めるうえで利益はあっても弊害はない。香港関連の国家安全立法の「決定」が可決されると、香港上海、チャータード、スワイヤー、ジャーディンなど香港の外資グループは、香港の長期安定に資する、すべての発展の基礎と前提であるとして、続々と支持を表明した。

◆世界を見渡すと、ニューヨークにせよロンドンによせ(ママ)、国家安全保障法実施のためにビジネス環境が壊された国際金融センターは一つもない。香港米国商業会議所の最近の調査によると、7割を超える対象企業が香港から撤退することはないと明確に表明し、6割超の調査対象者が香港を離れることはないとしている。チャンスと利益に盾突く企業はない。

◆マカオ特別行政区は2009年基本法第23条に従って国家安全維持法を可決した。2009年から19年までに、マカオのGDPは153%伸び、観光客数は81%伸び、全体の失業率は10年間の最低に下がっている。

香港の二人の枢機卿、深刻な立場の違い。

(2020年7月9日)
本日(7月9日)の毎日新聞朝刊8面右肩に、「教皇講話、香港に触れず」の見出しで大きな記事。「急きょ変更、中国にそんたく?」という小見出しがある。

日曜日恒例の教皇講話。事前に配布された予定原稿には、「香港における自由の重要性」に触れる部分があって注目されていた。しかし、直前にこの記述は撤回され、その朗読は省かれたという。この教皇講話の直前の内容変更が、中国への忖度によるものではないのかという、なんとも不愉快な話題なのだ。

このことは、複数のカトリック系メディアが伝えている。教皇は中国との関係改善に前向きで、「中国に配慮した」と失望する声が上がっている、という。

バチカン専門記者のマルコ・トザッティ氏のブログによると、5日の講話に向け、記者に事前配布された原稿では、教皇が香港問題への関心を表明し、「私は社会的な自由、特に宗教の自由が、さまざまな国際文書に記されているように、完全な形で表現されることを願っている」と述べるはずだった。

ところが、教皇が窓に姿を現す直前に、バチカン側から「香港の部分には言及しない」と記者団に通告があり、実際、教皇は読まなかった。具体的な理由の説明はなかったという。トザッティ氏は「中国が教皇に猿ぐつわをかませた」と表現し、政治的配慮があったとの見方を示した。他のカトリック系メディアも同様に報じている。

以上は5日(日曜日)の事実についての報道。毎日記事は、その背景事情を次のように解説している。

教皇はアジア布教の伝統を持つ「イエズス会」の出身で、中国への接近を図ってきた。バチカンと中国は1951年に断交状態となり、バチカンは台湾と外交関係を保持してきた。だが、2018年9月、長年の懸案だった司教の任命方式を巡って互いの関与を認める暫定合意に達し、歴史的な和解を果たした。

暫定合意は今年9月、2年間の期限を迎える。合意締結に関わったカトリックの高位聖職者は6月、イタリアメディアの取材に「期限後に、もう1、2年延長すべきだ」と述べ、双方が協議中であると明かした。こうした微妙な時期だけに、教皇に批判的な保守派の聖職者やメディア関係者を中心に、「教皇は中国の圧力に屈し、香港問題で沈黙している」との推測を呼んでいる。

教皇は、中国への接近を図っている。では、中国はどうか。

一方、中国の習近平指導部は「宗教の中国化」を掲げ、キリスト教やイスラム教、仏教などへの統制を強化している。バチカンとの和解後も、教会からの十字架の撤去や聖職者の拘束などが報告されている。中国の宗教政策を厳しく批判するカトリック香港教区の枢機卿、陳日君氏は「まさか中国共産党から本当に金でももらったのか」とブログでバチカンを痛烈に批判。国安法の施行について「香港が自由を失えば、教会も逃れることはできず、(宗教の)自由を失う」と危機感を示した。

この陳日君氏の反中国の立場からの苛烈な教皇批判に驚く。ヒエラルキーという言葉は、もともとがローマカトリック教会における聖職者群の序列や階層秩序をさすのだという。そのヒエラルキーで、教皇に次ぐ位置にある枢機卿(カージナル)が、「中国共産党から金でももらったのか」と教皇を批判する事態の深刻さと、覚悟のほどを知らねばならない。もっとも、香港教区には、もうひとりの枢機卿がいるという。その人は、徹底した反中国の立場ではなさそうだ。毎日はこう伝えている。

中国当局は国安法施行前の6月下旬、中国に近い立場にある香港の宗教指導者らを対象に説明会を開いて「宗教の自由」への配慮をアピールした。香港メディアによると、出席した香港教区のもう一人の枢機卿、湯漢氏は「(国安法の施行は)理解できる。宗教の自由に影響はないと信じている」と述べた。香港の宗教界が国安法という「踏み絵」を前に分断される実情がうかがえる。

陳氏も、湯氏も、中国共産党の横暴に晒されて、厳しい選択を迫られている。陳氏は、いささかの妥協も潔しとせず、たとえ弾圧を受けようとも信仰を枉げてはならない、とする立場。湯氏は、一定の妥協はやむを得ないとする宥和の立場。「国安法が施行されても宗教の自由に影響はないと『信じている』」というのは、中国当局への宥和のメッセージであろう。

毎日記事は、カソリックのみならず、香港の宗教界全体が「国安法という『踏み絵』を前に分断される実情がうかがえる」と記事を結ぶ。この比喩を借りるならば、『踏み絵』を拒絶する立場と、踏むこともやむなしとする立場とが対比されている。

もちろん、踏み絵を迫っているのは中国共産党である。その罪は深い。

野蛮の跳梁が文明を圧殺した、香港の現状を憂うる。

(2020年7月2日)
有史以来の人類の歩みは、野蛮から文明への進化であった。もっと正確には、人類は、野蛮を排して文明を構築しようと努力を積み重ねてきた。もちろん、歴史が一直線に進化してきたわけではなく、これが法則という論証などできようもない。ときに、その逆流を見せつけられて暗澹たる思いを噛みしめることがある。30年前の天安門事件がそうだったし、香港で今進行している事態が同じ出来事である。

野蛮を象徴するものは何よりも暴力である。また、暴力にもとづく独裁であり専政でもある。文明を象徴するものは何よりも非暴力である。また、暴力に基づかない民主政であり、人権の思想である。

6月30日まで、香港は文明の圏内にあった。不完全ながらも、自由と民主主義と人権の享受が保障される世界であった。その深夜、突如として圏境を越えて野蛮が押し入って来た。一夜明けた7月1日の香港は、文明が圧殺されて野蛮に占領された別世界と化した。

何よりも重要な政治的言論の自由が失われ、民主主義と人権は逼塞した。代わって、剥き出しの権力が大手を振って闊歩する専政と弾圧国家の一部となったのだ。これは、資本主義と社会主義との対立などでは断じてない。まさしく、文明が野蛮に蹂躙された図なのだ。

民主主義の要諦は、人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)と定式化される。「人民による人民のための政治」(government by the people, for the people)の意は分かり易いが、「人民の政治」(government of the people)は、やや分かりにくい。分かりにくいが、これこそが民主主義の神髄だという。

「人民の政治」(government of the people)のof は、同格を表す前置詞。つまり、(government = the people)であって、治める者と治められる者とが同格で同一であること、「自同性」を意味するのだと説かれる。

7月1日以来、香港人民の治者は北京政府であり中国共産党となった。ここには、治者と被治者の自同性も、同格性も同一性もない。暴力に基づく抑圧者と非抑圧者の関係があるのみ。ここには、民主主義の片鱗もない。

文明は、長い年月をかけて人権思想を育んできた。人権を権力の恣意から擁護しようと、法の支配という原則を作り、権力分立というシステムを作り、司法の独立を守り、罪刑法定主義を世界のスタンダードとしてきた。

その香港の文明は、一夜にして潰えた。今や、野蛮が跳梁する様を見せつけられるのみ。

昨日(7月1日)の香港では、文明の側に属する1万の民衆が、野蛮の中国政府に抗議するデモに立ち上がった。参加者は恐怖心を振り払って、「国安法という悪法を恐れず、中国共産党の独裁に抵抗する」「天が共産党を滅ぼす」「今こそ革命の時だ」―、さまざまなプラカードを手にした市民が声を上げながら行進したと報じられている。その心意気には感動せざるを得ない。

しかし、機動隊は真新しい紫色の警告旗をデモ隊に見せつけた。「国家分裂や中央政権転覆に該当し、国安法違反罪で逮捕される可能性がある」。そして「香港独立」と記した旗を手にした男性がその場で逮捕された。逮捕者は300人余に及んだという。

デモ行進も「香港独立」のプラカードも、文明世界では表現の自由として保障される。しかし、野蛮の世界と化したこの地では許されないのだという見せしめ。文明と野蛮のはざまで、人は揺れ悩む。「怖いが、怒りを我慢できず、ここ(デモ)に来た」という学生の声は、事態の深刻さだけでなく、希望の芽も語っているのではないか。

この歴史の逆流を目の当たりにして、小さくても精一杯の批判の声を積み上げていこうと思う。

人権侵害大国・中国を相手に、どのような「希望」を語れるだろうか。

(2020年7月1日)
本日・7月1日は、香港がイギリスから中国に返還された日。アヘン戦争で中国から割譲された香港は、1997年の今日、今度は強引に中国に戻された。50年間(2047年まで)は、一国二制度で高度の自治を約束されてのことである。しかし、以来23年にして、この約束は蹂躙されている。高度の自治は潰え、中国のイメージは地に落ちている。

香港の「民間人権陣線(民陣)」という民主派団体が、2003年以降、毎年7月1日の返還記念日には大規模なデモを継続して主催してきた。昨年(2019年)のデモは、「逃亡犯条例」改正案に反対する100万とも55万人とも言われた規模となったが、今年は香港警察当局がデモを禁止している。北京の指示があってのことか、香港政府当局の忖度によるものか、どちらでも「差不多(チャープトウ)」だ。当局は新型コロナ対策を口実にしているが、信じる者はない。香港のコロナ感染者数は既に大幅に減っているという。

6月28日から開かれていた中国全国人民代表大会(全人代)常務委員会はは、最終日の30日夕刻に、香港への統制を強化する「香港国家安全維持法案」を可決成立させ深夜に公布した。そして、本日7月1日からの施行だという。「国家安全維持法案」とは、香港の自由圧殺法案であり、民主主義封じ込めの法案であり、政治的活動に対する弾圧法案にほかならない。なんという性急で乱暴なやり口。なんという苛酷な圧制。

報道によれば、今回成立した国家安全維持法によって、香港に中国政府の出先機関「国家安全維持公署」が新設され、香港での治安維持を担う。香港政府がつくる「国家安全維持委員会」は中国政府の「監督と問責」を受け、中国政府の顧問を受け入れる。香港政府は中央政府の監督下に置かれ、国家分裂や政権転覆、外国勢力と結託して国家の安全に危害を加える行為を処罰対象とする。中国、香港への制裁を外国に要求することも処罰対象となる、という。

この中国の、つまりは中国共産党の度量のなさは、いったいどうしたことか。何を焦っているのだ。チベットやウィグルで何が行われているか。断片的な報道では事態がよく分からない。しかし、香港の事情を見ていると、もっと酷いことが各地で強権的に行われているのであろうと推量せざるを得ない。

もともとは、鄧小平が言い出した一国二制度ではないか。世界に約束された「高度な自治」のはずではないか。それが、いま強権的に蹂躙されようとしている。事態はきわめて深刻である。

今や中国は、恐るべき人権侵害大国である。国際世論の厳しい批判を、全て「内政干渉」と切り捨て、陰謀論さえ口にする。このなりふり構わぬ様は異様としか評しようがない。

香港の著名な民主派団体「香港衆志」は30日、解散を発表した。香港民主派の活動家に「逮捕情報」の恐怖が広がっているという。

その標的のひとりとみなされている周庭(英名 Agnes Chow Ting、アグネス・チョウ)のツィッターが痛ましい。

2020年6月28日
今日の香港での報道によると、香港版国家安全法は火曜日(30日)に可決される可能性が高い、そして「国家分裂罪」と「政権転覆罪」の最高刑罰は無期懲役という。日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい…😭

2020年6月30日
私、周庭は、本日をもって、政治団体デモシストから脱退致します。これは重く、しかし、もう避けることができない決定です。
絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。
生きてさえいれば、希望があります。周庭

「生きてさえいれば、希望があります。」という言葉の中に、切実さと絶望の深さが見える。「自由を持っている、幸せな日本の私たち」が代わって声を上げなければならないと思う。

中国最新人権事情 ー おぞましい天皇制時代なみではないか。

(2020年6月21日)
わが国の戦前は野蛮な時代だった。野蛮極まる天皇制跋扈の時代であった。その象徴が治安維持法である。1925年制定の治安維持法第1条は、「国体ヲ変革シ、又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ、結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者」を処罰の対象とした。

「国体ヲ変革」とは天皇制を否定すること、「私有財産制度ヲ否認」とは、社会主義・共産主義の思想と運動を言う。共産党こそが天皇制批判の急先鋒であって、共産党員が非国民・国賊とされて弾圧の主たる対象となった。その後、弾圧対象者の範囲が際限なく拡大したことはご存じのとおりである。

治安維持法適用の最初の大弾圧が、1928年3月15日の「3・15」事件であった。そして、翌年の「4・16事件」に続く。この大量の検挙者を、数多くの良心的弁護士が献身的に弁護した。ところが、天皇制警察と検察、そして司法は、共産党員被告人の弁護を担当した弁護士を、治安維持法違反として検挙し起訴し有罪とした。

有罪が確定した弁護士は、当然のごとく弁護士資格を剥奪された。弾圧される人々に寄り添って人権擁護の先頭に立つ任務を負う弁護士からその資格と業務を剥ぎ取ったのだ。天皇制とは、かくして国民の人権を剥奪した。天皇制とは、かくも野蛮な代物だった。

その野蛮が、今、中国でまかり通っているという。6月18日日本のメディアが「中国 人権派弁護士に懲役4年の実刑判決 政権転覆あおった罪」と報道している。代表的なNHK(Web版)よると、大要以下の通りである。

 中国で、「国のトップは複数の候補者による選挙で選ぶべきだ」などとする提言を発表し、その後、拘束された人権派の弁護士について、中国の裁判所が政権の転覆をあおった罪で懲役4年の実刑判決を言い渡したことがわかりました。弁護士の家族は不当な判決だと訴えています。

 判決が言い渡されたのは中国の人権派の弁護士、余文生氏です。余氏は、2018年1月中国の憲法の改正について国のトップの国家主席を複数の候補者による選挙で選ぶべきだなどとする提言をインターネット上で発表し、その後、当局に拘束されました。

 余氏の妻の許艶さんによりますと、(6月)17日、検察当局から電話があり、裁判所が余氏に対して政権の転覆をあおった罪で懲役4年の実刑判決を言い渡したと伝えられたということです。

 余氏は、2018年に拘束されてから家族が依頼する弁護士との面会が1度も許可されず、今回の裁判は非公開で行われたということで、許さんは、不当な判決だと訴えています。

 NHKの取材に対して許さんは「秘密裏に裁判が行われ判決は受け入れられない。中国の人権派弁護士への抑圧は非常に残酷だ」と話していました。

 中国では、習近平指導部のもと当局が共産党や政府への批判を押さえこむ動きを強めていて、ネット上の言論統制や人権派の弁護士などへの締めつけが続いています。

弁護士に対する弾圧も野蛮だが、その裁判が非公開で行われている。これは、いったいいつの時代の出来事なのだろうか。野蛮の極みというしかない。

この余文生弁護士に関しては、西日本新聞が2017年10月12日に、こんな報道をしている。

「拷問、監視で狭まる中国の自由 弁護士、後ろ手に手錠18時間 ネットで官公庁批判 拘束も」

 「死ぬよりつらい思いをさせてやる」。警官が敵意むき出しの目ですごむ。北京の弁護士、余文生さん(49)は3年前に受けた中国当局の厳しい取り調べが脳裏に焼き付いている。
 きっかけは2014年に香港で起きた民主化デモ「雨傘運動」。同年10月、デモに賛同し拘束された北京の人権活動家を支援するよう弁護士仲間に頼まれた。本人との面会を当局に拒否され、ネット上で抗議すると2日後に拘束された。取り調べを受けた北京市第1看守所(拘置所)では鉄の椅子に座らされ、後ろ手に手錠をかけられた。1日13~18時間、その姿勢を続けると「死んだ方がましなくらい痛い」。
 拘束は99日間に上り、最後は身に覚えのない罪を認めるよう迫られた。あたかも自白したように、「私は過ちを犯した」などというせりふを暗唱させられ、その姿を動画撮影された。起訴はされずに釈放となったが、長期の取り調べで腹膜が傷つき、開腹手術を受けなければならなかった。
 もともとビジネス分野専門の弁護士だった余さん。「逮捕状は一度も見せられなかった。中国の人権状況は問題があると思っていたが、ここまでとは…」。この体験を機に人権問題に取り組むようになった。今は中国国内の人権派弁護士でつくる団体に名前を連ねる。
   ◇    ◇
 12年に発足した習近平指導部は「依法治国」(法による国家統治)を掲げる一方、人権派弁護士への締め付けを強めてきた。
 15年7月9日には、中国全土の人権派弁護士ら約300人が一斉に拘束される「709事件」が発生。「5日間、一睡も許されずに気を失った弁護士仲間もいた」と余さんは明かす。自身も再度拘束された。
 自由な言論活動を放置すれば、共産党の一党独裁を否定する「西側の価値観」が氾濫し、現体制を揺るがしかねない-。そんな危機感が当局の厳しい対応の背景に見え隠れする。
   ◇    ◇
「習指導部が言う法治とは、悪い法律で市民を抑え込むことだ」と余さんはため息を漏らす。

 最後に、記事は「この記事は2017年10月12日付で、内容は当時のものです」と締めくくっているが、現在なお事態の改善はない。

また、日本人が中国国内で拘束されたり、日本に住む中国人が拘束される例が頻発している。典型的なのが、札幌市内に住むの袁克勤(えん・こくきん)北海道教育大学教授の件。中国に一時帰国帰国中の昨年(2019年)5月29日、長春市の路上で突然、何者かに連れ去られ行方不明となった。その後10か月近くも消息が分からないままだったが、本年3月26日、中国政府が袁教授を拘束していることを初めて認めた。例のごとく、スパイ容疑での拘束だという。

昨日(6月19日)共同通信が、「709事件」の中心人物として国家政権転覆罪に問われ服役した人権派弁護士、王全璋のインタビュー記事を配信した。「弁護士に拷問、自供強要 中国、弾圧の詳細初証言」というタイトル。痛ましくてならない。

総合すると、中国の人権状況は、戦前の天皇制時代並みというほかはない。どうしてこんなことになってしまったのか理解に苦しむ。こんな状態が続く限り、中国が世界の大国にふさわしい尊敬を受けることはありえない。習近平政権、そんなにも余裕がないのだろうか。

ナショナリズムに惑わされてはならない(東京「君が代」訴訟から)

(2020年6月19日)

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制を違憲違法と主張する、東京「君が代」訴訟の憲法論を見直している。憲法論で、何とか勝ちたいと思うからだ。その見直し作業の中で、短かくまとまった紹介に値する文章をいくつか見つけた。以下はその内の一つ。

教育も、行政も、司法もナショナリズムに惑わされてはならない

ア 本件は、個人と国家との憲法価値の対抗をめぐる憲法訴訟である。

憲法訴訟においては、対抗する複数の憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量の対象とするものは、端的に「個人」と「国家」の憲法価値である。個人とは自然人としての「人権主体」である。これは分かりやすい。一方国家の方は分かりにくい。「統合された国民の集合体」であり、これが「権力主体」となっている。つまりは、「基本的人権としての個人の尊厳」と、「国家の権力作用」ないしは「統合された国民全体」との各憲法価値の衡量である。

言うまでもなく個人の尊厳は、最も基底的な憲法価値である。他方、国家は与えられた権力を行使して憲法が想定する法的・政治的・社会的な秩序を形成して国民の福利に寄与すべき立場にある。両者ともに、憲法的価値を持つと言ってもよいが、両者の憲法価値としてのレベルは、明らかに異なる。個人の尊厳が究極の目的的価値であるのに対して、国家の権力作用はそれに奉仕すべき手段的価値でしかない。

従って立憲主義国家において、その両者の衡量の帰趨は自ずから明らかである。にもかかわらず、この正確な衡量を妨げ、あるいは狂わせるものがある。それがナショナリズムである。

イ 本件訴えは、「原告らに対して、国旗・国歌への敬意表明を強制しうるか」というシンプルな問に回答を求めている。

強制される敬意表明の対象としての国旗・国歌とは、ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている旗と歌である。
原告らは、国家を象徴するものであるがゆえに、国旗・国歌への敬意表明の強制を受容しがたいとする。自らの精神の核をなす思想・良心・信仰との抵触を理由とするものである。

この局面は、国旗・国歌という国家象徴を介して、国家と個人が対峙している構図である。公権力が、原告らに対して、「個人の思想・良心・信仰の如何に拘わらず、国旗・国歌を介して国家への敬意を表明せよ」と命じている。この構図のもとで、「個人」ないしは「個人の思想・良心・信仰」と、「国家」が対抗関係を形成して、その憲法価値の優劣についての衡量が求められている。

衡量の一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする個人の思想・良心・信仰の自由という基本的人権としての憲法価値である。もう一つの秤に載せられるものは、国家そのものの憲法価値である。「国民の国家に対する敬意という価値」と言ってもよい。

一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた衡量の帰趨は、法的判断のレベルでは、自ずから明らかである。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であることは自明の理だからである。

ウ ところが、学校現場の現実はそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国家と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。

日本国憲法を制定した戦後民主主義は、戦前の排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズム復興の過程にある。学校現場において、天皇制国家とまったく同じデザイン、まったく同じ歌詞・曲の「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明が強制されていることがその象徴的なできごとである。

ナショナリズムは政治学的ないしは社会心理学的な概念であるから、その正確な定義があるわけではない。しかし、ナショナリズムは、確実に少なからぬ国民の精神をとらえ、国家への統合に国民の情念を動員するエネルギーを有している。個人と国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力の源泉となっている。ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとし、信仰にも似た尊崇の対象と考える。その結果、国家を象徴する国旗・国歌についても、同様にこれを特別に重大で神聖なものと考えるのみならず、当然にすべての国民がこれに敬意を表明すべきものと考え、国旗国歌に敬意を表することを潔しとしない国民の態度を強く非難する。

エ ナショナリズムに基づく国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。石原慎太郎知事の時代に、東京都教育委員会が発した悪名高い10・23通達は、その最悪の事例である。

愛国心とは普遍的な道徳で、国旗国歌の尊重は全ての人に望まれる態度であるという、信仰にも似た社会心理がこの世を覆っている。ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派とならざるを得ない。その結果、すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が政治的多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は政治的に少数派となる。国旗国歌への敬意表明の強制は、民主主義の問題として放置をしておく限り、解決することはない。

多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。本件の10・23通達と、同通達にもとづく「起立・斉唱」の職務命令はそのようにして、原告らの人権を侵害している。

オ 本件訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求める訴訟である。
言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎悪の対象とする少数派の思想の自由」である。

以上のとおり、本件において司法の役割が根底的に問われている。司法がナショナリズムという「権力(=多数派)の意思」に迎合し動揺して、少数者の人権侵害をいささかも容認してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、無批判に多数決原理に追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってはならない。まさしく、司法の存在意義が問われているのだから。

香港市民の人権と民主主義擁護のために声を上げよう

昨日(5月22日)、遅延していた中国の全人代が開幕した。私の関心は2点につきる。一つは、国防費の増額だ。そしてもう一つは、香港版「国家安全法」の制定という方針。

議事が野党の存在なしに一方的に進行することになる。率直に言って、民主主義も人権も顧みない今の中国は恐ろしい。国内の批判が難しければ、国際的な批判の世論喚起が必要であろう。

トランプのアメリカにも渾身の批判が必要だが、アメリカには強力な対抗勢力がある。人種的、思想的少数者にも、不十分ながら政治行動の自由が保障されている。日本とて事情は同様だ。しかし、中国の強権的な政治体制は異質だ。問答無用の恐さに満ちている。

報じられているところでは、このコロナ禍の経済の疲弊の中でも、中国の今年度国防予算案は、1兆2680億元(約19兆1700億円)。前年実績比6・6%増だという。この規模は、もはや自衛のためのやむを得ざる措置とは受容しがたい。近隣諸国には脅威として受けとめられるであろう。平和的な国際環境維持のために自制を望むというしかない。

そして、問題は香港である。メディアが、「香港版・国家安全法」と呼ぶ立法を、中国本土で制定して、香港に適用しようとの方針だという。朝日は、「香港で保障される人権や自由が中国本土並みに制限される恐れがあり、「一国二制度」は重大な危機に直面している」と報じている。

中国にしてみれば、昨年の「逃亡犯条例」問題で燃え盛った、香港市民の民主主義的行動を座視し得ないということなのだろう。このままでは、台湾の独立運動も活発化するだろう。ウイグルやチベットにも、飛び火するかも知れない。ならば、ここは力で押さえつけるしかない、との判断。

時事は、法案を「国家分裂や政権転覆をたくらむ行為を禁じる内容で、習近平政権は言論やデモの自由などが保障される香港に対する直接的な統治をさらに強化し、反政府抗議活動を抑え込む狙いだ。」と報じている。しかも、「香港メディアは、全人代最終日の28日に採決され、8月にも施行される見込みだと報じている」という。

いま、香港では、コロナ禍対策を理由に、9人以上の集会が禁止されている。ドサクサ紛れの火事場泥棒は、「アベ政権ばかりでなく香港政府もだ」と過日のブログで書いたばかりだが、香港政府の対応は手ぬるいとして、習近平政権が直々に乗り出してきたのだ。
香港の民主派には、この上なく大きな衝撃だろう。反発は必至だが、「一国二制度の完全な終わり」という悲壮感も漂っているという。

これに対して、アベ政権の反応は聞こえてこない。アメリカでは、トランプも、国務省報道官も、強い牽制のメッセージを発している。中国がこうなると、トランプさえも、正義の味方を気取ることができるのだ。

アメリカ議会上院の動きは素早い。中国の新たな法整備を「香港の自治に対する介入」と批判し、関係者に制裁を科す法案を提出したという。

せめて、できることをしたい。香港の市民を支援する声を上げよう。中国の強権的な政治を批判する声を上げよう。小さな声でも無数に集まれば、けっして無力ではなくなる。
(2020年5月23日)

天皇(制)とは権力に利用されるための存在である。

本郷にお住まいのみなさま、ご通行中の皆さま。こちらは、「本郷湯島九条の会」です。毎月第2火曜日の昼休み時間を定例の街頭宣伝活動の日と定めて、憲法改悪阻止と憲法理念の実現を訴えています。私は近所に住まいする弁護士ですが、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前の毎月の行動に参加して、人権・平和・民主主義の大切さを訴えています。

本日は、「建国記念の日」です。ご存じのとおり、戦前の紀元節の日、つまりは初代天皇・神武が即位したという日であります。近代天皇制国家は、伝説上の初代天皇即位の日をもって、日本という国の始まりと決めたのです。虚構に虚構を重ねてのことですが、見逃せないことは、強引に天皇即位を日本という国の誕生と重ね合わせたということです。

国家の統治に必要なものは何よりも権力です。権力は武力によって担保されます。イザというときには、国家は実力の発動をもって統治の妨害を排除できなければなりません。しかし、権力だけでは国家統治はできません。統治のための権威が必要なのです。できることなら、人民を自発的に国家に服従させたい。人民を自発的に国家に服従させるものが、権威です。権力は、利用できる権威を欲するものなのです。

権力が利用できる権威とは、呪術であったり、神話であったり、宗教であったり、学問や文化、道徳体系など、なんでも総動員されます。しかし、日本の場合、天皇、あるいは天皇制こそが、権力にとってこの上なく重宝な利用可能な権威であり続けました。

万世一系の皇統という血に対する信仰が、権威の根拠となりました。その血が高貴なものとされ、権威の根拠とされてきたのです。しかし、皆さん、この世に生きとし生けるものにして、万世一系ならざるものはありません。私もあなたも、オケラもミミズも、万世一系今につながって、ここに生きているのではありませんか。秦の打倒に決起した陳勝の名言「王侯将相いずくんぞ種あらんや」に拍手を送りたいと思います。

ところが、天皇の神聖性が人民統治のための権威として使えると構想した、維新期の西南諸藩連合は、幕府方と天皇の取り合いをしました。自ら、天皇を崇拝したのではなく、天皇を統治の道具として取り合ったのです。結局、天皇という「玉」を取った側が、天皇を権威の根源として徹底して利用し尽くしました。こうして、天皇制と国家とは一体化し、紀元節は天長節とならぶ祭日とされたのです。

明治維新から敗戦まで、この体制が続きました。そして、敗戦と日本国憲法の制定によって、天皇の権威を利用して国民を統治する政治の在り方は清算されました。天皇の権威による統治に代わって、国民主権原理に基づいて、国民自身が自らを統治する政治体制に移行したはずなのです。ところが、天皇制は廃絶されずに象徴天皇制として生き残りました。民主主義体制への移行は、このことによって不十分なものとなって今日に至っています。

私は、日本国憲法にとって何が最も根源的な問題なのか。ときどき考えざるを得ません。人権の主体としての個人と、権力を担う国家と、そのどちらが根源的な価値なのかという問題で、本来その解答は明らかなはずなのです。

個人と国家、人権と権力、「個人主義・自由主義」と「国家主義・全体主義」。あるいは、人権尊重か秩序維持か。そのどちらが優越するかは、憲法上自明のことだと思うのです。ところが、なかなか、日本国憲法の原則が貫徹する時代にはなっていないことを、無念に思わずにはおられません。象徴天皇制もそのような問題の一つです。

天皇とは歴史的に、権力にとって重宝な利用可能な権威として存在し続けてきました。その事情は今も変わりません。国政私物化を専らにする総理大臣が、利用可能と思えばこそ、「テンノーヘーカ・バンザイ」とやって見せているのです。

国民主権原理からも、すべての個人の平等という観点からも、天皇制が憲法のコアな部分と相容れないことは自明と言わなければなりません。私たちが今心がけるべきことは、主権者として天皇の行動も存在もできるだけ目立たない、小さいものにしていく努力だと思います。

明治政府は、天皇制と国家を重ね合わせました。それゆえに、個人の尊厳に対抗する国家を考えるときには、権力にとって重宝なものとして利用可能な権威である天皇の存在を、考えざるを得ません。

本日は、主権者として国を考えるとともに、天皇制についても大いに考え議論する日にいたしましょう。
(2020年2月11日)

香港・加油(香港の市民よ、がんばれ)!!

10年ほども前のある土曜日の午後のこと。NHKラジオからこんな言葉が、耳にはいってきた。

「今日の番組では、折り込み都々逸を募集しています。季節にちなんで、『クチナシ』を折り込んでください。」「さっそくこんな句が届きました。なるほど。これは面白い。」

 くちじゃ勝てない
 ちからも負ける
 なれてしたしむ
 しりのした

これを思い出したのは、香港の抗議デモで、「逃亡条例案」完全撤回のニュースを聞いたから。少数民族は別として、中国の人びとの大方は、習近平の尻の下に「慣れて親しんでいる」ように見えるのだ。おそらくは、改革開放以来の経済生活の向が評価されてのことなのだろう。目の眩むような経済格差の存在にもかかわらず、中国の人びとの経済的な不満感は少ないように見える。それゆえにか、多くの人々は、習近平の尻の下で、パンのみにて生きることに甘んじているごとくである。

ところが、香港の人びとは、中国共産党の尻の下に慣れて親しむことを敢然と拒否しているのだ。ここで求められているものは、パンではなく、自由であり、民主主義である。切実な自律の制度への要求でもある。今ごろ、「逃亡条例案」完全撤回だけでは不十分だ。まだ、4項目の要求が残っている。到底、尻の下に温々とはしていられない。

韓国のキャンドルデモは、最大時170万人の民衆を光化門広場に集めたという。もちろん、家族連れのデモ。到底広場に収まる人数ではなく、ソウルのメインストリートが民衆に埋めつくされた。その壮観は、次の選挙によって朴槿恵政権を打倒し、政権交代が代わるというシグナルでもあった。だから、不必要にデモが先鋭化する必要はなかった。ソウルのデモは選挙の前哨戦であった。

しかし、香港は韓国とも大きく事情を異にする。香港には、「次の選挙」がない。この抗議デモの圧倒的民意を政治に反映するルートが欠けているのだ。この大規模なデモは、普通選挙を勝ち取るにふさわしく、それなくして終熄しがたい。誰から普通選挙を勝ち取る? 言うまでもなく、大国となった中国政府から。今、750万人の香港の民衆が、13億の人口を抱える中国政府と対峙しているのだ。到底、中国の尻の下では、安閑と生きられない。

なお、5項目要求は必ずしも統一した文言ではないようだが、たとえば、次のとおり。
1. 徹底撤回逃犯條例
  (逃亡犯条例改正案の完全撤回)
2. 撤回612暴動定性
  (市民活動を「暴動」とする6月12日見解の撤回)
3. 必不追究反送中抗爭者
  (デモ参加者の逮捕、起訴の中止)
4. 成立獨立委員會,徹査警方濫權濫暴及元朗暴力事件
  (警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施)
5. 要求特首林鄭月娥下台全面落實雙真普選
  (林鄭月娥長官の辞任と民主的選挙の実現)

下記のように、簡潔に6字でまとめたスローガンもある。正確には読めないが、事情を理解した上で漢字を読めば、なんとなく分かりそうな気がする。

香港人的五大訴求
1.撤回送中悪法
2.撤消暴動定性
3.制止秋后算帳
4.徹査警方暴力
5.落実双真普選

大雑把に言えば、悪法を撤回し、デモ弾圧の被害者を解放し、弾圧の責任を認め、長官を辞めさせて、本当の民主的な選挙制度を作ろう」という要求なのだ。今や、主たるスローガンとなった「真普選(本物の民主的な選挙制度)」を作ろうというのが、雨傘運動以来の一貫した要求。あまりにも当然の要求ではないか。

翻って日本の民主主義の実情を顧みる。香港と違って民主主義の形はある。しかし、韓国のごとくこれを生かしきってはいない。むしろ、安倍政権の尻の下に、ぬくぬくとしていると指摘されてもやむえないこの体たらく。

香港の市民に成り代わっての心意気を詠む。

 くちじゃ負けない
 ちえなら勝てる
 なにせごめんだ
 しりのした

 くるしい日々だが
 ちは沸き返る
 ないて笑って
 しんじる明日

(2019年9月6日)

「ヒポクラテスの誓い」と、「養生訓」と。

日課となった早朝の散歩では、東大の医学図書館の前をほぼ毎日通る。ここに、「ヒポクラテスの木」と呼ばれるスズカケの木(プラタナス)がある。今、小さなスズが成りはじめたところ。

むかし、ギリシャのコス島に西洋医学の祖と言われるヒポクラテスがいた。彼は、スズカケノキ(プラタナス)の老大木の木陰で弟子達に医学を教えたという。のどかな時代のことだ。ヒポクラテスは、紀元前460頃~377頃の人とされる。

東大にある「ヒポクラテスの木」は、ギリシャから寄贈されたかの老大木の種子から発芽したという由緒正しい若木を育てたものだとか。万世一系の「ヒポクラテスの木」ということらしい。

ヒポクラテスの医学や医学思想は、医学史の専門家以外には興味を惹くものではなさそうだ。彼が有名なのは、医師の倫理としての「ヒポクラテスの誓い」による。

下記は、日本医師会のホームページからの「ヒポクラテスの誓い(訳:小川鼎三)」である。

医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う。私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。
1. この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。
2. その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
3. 私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
4. 頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない
5. 純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
6. 結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
7. いかなる患家を訪れる時もそれはただ病者を益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない。
8. 医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
9. この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。

一見して、大いに体系性に欠ける9項目羅列の誓いである。この人の思考能力は、医師として大丈夫だったろうか。

第7項の、すべての患者を平等視する思想は素晴らしいものだ。例示として、「女と男、自由人と奴隷の違いなく」が挙げられている。王侯貴族であろうとも庶民であろうとも、貧富の差、人種や民族、宗教の別なく、患者には平等に接するべしとする教えであり誓約。

「ヒポクラテスの誓い」は、この第7項の1項目だけでよかったのに、と思う。あるいは、第3項・4項・8項あたりの、医師としての患者に対する責務についての誓約だけであれば、彼は後世もっと尊敬されたであろうに。

1項と2項は、ギルドの掟。これが先頭にあるから、印象が悪くなる。日本国憲法が第1章を「天皇」としている如くに、である。

「ヒポクラテスの誓い」ほど有名ではないが、我が国の医師の倫理を記したものには、貝原益軒の養生訓がある。次の一節を引用しておきたい。

(冒頭の「醫」は、医師のこと。益軒は、医師を「君子醫」と、「小人醫」とに分類して、医師となるからには「君子醫」たれとする。そして、「醫は仁術なり」と、儒教的立場から医の倫理を説く。)

醫とならば、君子醫となるべし。小人醫となるべからず。
君子醫は人の為にす。人を救ふに志専一なるなり。小人醫はわが為にす。我身の利養のみ志し、人を救ふに、志専ならず。
醫は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。是、人の為にする君子醫なり。人を救ふに志しなくして、只、身の利養を以て志とするは、是、わが為にする小人醫なり。

醫は病者を救はんための術なれば、病家の貴賎貧富の隔てなく、心を盡して病をなおすべし。病家より招きあらば、貴賎をわかたず、はやく行くべし。遅々すべからず。人の命は至っておもし。病人をおろそかにすべからず。是、醫となれる職分をつとむるなり。小人醫は醫術流行すれば、我身にほこりたかぶりて、貧賎なる病家をあなどる。是、醫の本意を失へり。

その一部を分かり易く現代語訳してみよう。

医業とは、患者を救うための職責なのだから、患者を貴賎貧富で区別することなく、心を盡して診療に努力しなさい。患者の要請があれば、患者の身分に関わりなく、速やかに治療に着手しなければなりません。ぐずぐずしてはいけません。人の命は、とても重く貴重なものなのですから、けっして患者をおろそかにせぬように。

ここには、近代的な人権思想が読み取れる。患者の権利の思想、医師の応召義務にも言及されている。貝原益軒、大したものではないか。

世を見わたせば、確かに「君子醫」がおり、「小人醫」がある。翻って、弁護士にも、「君子たる弁護士」と「小人たる弁護士」があろうか。鈴掛の木を見て思う。「君子たる弁護士」になるのは難しくとも、けっして「小人たる弁護士」にはなるまい。願わくは真っ当な弁護士であり続けたい。
(2019年8月27日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2019. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.