澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

当ブログ連続更新3周年に訴える。「万国のリベラル・ブロガー団結せよ」

2013年4月1日から毎日連続更新を続けてきた当ブログは、本日で丸3年となった。この間、36か月。1096日(365日+365日+366日)である。1日1記事を書き続けて、本日が連続1096回目、明日のブログから4年目にはいる。

「三日坊主」という揶揄の言葉はあるが、「三年坊主」とは言わない。むしろ、「石の上にも三年」というではないか。その三年間の途切れない継続にいささかの達成感がある。とはいうものの、このブログを書き始めた動機からは甚だ不満足な現下の政治状況と言わざるを得ない。

今次のブログ連載は2013年1月1日から書き始めた。正確には、日民協ホームページの一隅を借りて以前にも連載していた「憲法日記」の再開であった。第2次安倍政権の発足に危機感を持ったことがきっかけ。安倍流の改憲策動に抵抗する一石を投じたいとのことが動機である。案の定、この政権は「壊憲」に余念なく、危険きわまりない。しかも、日本全体の右傾化によって発足したこの政権は、この3年余で、保守陣営全体を極右化しつつある。

当ブログ再開当時「当たり障りのあることを書く」と宣言しての気負いから、直ぐさま間借り生活の窮屈を感じることとなった。そのため、自前のブログを開設して引っ越し、連続記録のカウントを始めたのがその年の4月1日。以来、あちこちに問題を起こしつつの「憲法日記」の連続更新である。

安倍内閣がまだ続いていることに焦慮の思いは強いが、他方この間のブログの威力とさらなる可能性を実感してもいる。「保育園落ちた。日本死ね」の1本のブログが、政治を動かしている現実を目の当たりにしたばかりでもある。以前、当ブログでは「ブロガー団結宣言」を掲載したが、あらためて、その修正版として「リベラル・ブロガー団結宣言」を再掲載したい。

「すべてのリベラル・ブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。

リベラル・ブロガーは、市井の個人の名誉やプラバシーには最善の配慮を惜しまない。しかし、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的な地位を有する者、文化的に権威あるとされている者は、リベラル・ブロガーからの批判を甘受しなければならない。

無数のリベラル・ブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のリベラル・ブロガー万歳。万国のリベラル・ブロガー団結せよ。」

現代的な言論の自由を語るとき、ブロガーの表現の自由を避けては通れない。憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。「表現の自由」の如何が、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。

しかし、人がその思想を表明するための表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、個人の表現の自由を空論としている現実がある。「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。メディアの自由の反射的利益というべき「知る権利」を持つとされるにすぎない。

そもそも、本来の表現の自由は個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料支払いを強制されてなお、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。

その事情を大きく変革する可能性がネットの世界に開けている。IT技術の革新により、ブログやSNSというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。まことにブログこそは貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。

この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はまだまだ小さな存在ではあるが大きな可能性を秘めたものとして大切にしたい。反憲法的ネトウヨ言論の氾濫や、匿名に隠れたヘイトスピーチの跋扈の舞台とせず、豊穣なリベラル言論の交換の場としたい。この新しいツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。

ところが、この貴重な表現手段を不愉快として、芽のうちに摘もうという動きがある。その典型例がDHCスラップ訴訟である。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のリベラル・ブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告として標的にされた者以外に対しても萎縮効果が計算されている。

だから、全国のリベラル・ブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、リベラル・ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2016年3月31日・「憲法日記」連続3年更新の日に)

カール・クラウスの「炬火」に沈黙を強いた巨大な闇

池内紀著の「カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり」(講談社学術文庫2015年11月10日)に目を通した。世の中は広い。歴史は深い。このような驚嘆に値する人物もいるのだ。

カール・クラウス(1874~1936年)は、ウィーンで活躍した「稀代の作家・ジャーナリスト・編集者」と紹介されている。「批評家、諷刺家、詩人、劇作家、論争家」でもあるという。その活動の時期は、世紀末からナチスの台頭期まで。

「炬火」は、彼が一人で編集・執筆し、生涯を通じて発行し続けた個人雑誌。1899年4月の創刊から、1936年2月の922号まで。総ページ数2万3008頁。その大半をクラウス一人が書いた。最盛期には当時のオーストリア・ハンガリー帝国内外で3万をこえる予約購読者を得ていた。イギリスの「タイムズ」が5万程度の発行部数だった当時のこと。雑誌であったが広告を一切のせず、刊行日も定めない。要するに、どこからも制約されず、世の雑音ないし権力にわずらわされず、書きたいものを書きたいときに書きたいように書いた。その我が儘を読者が支え続けたという。

彼は、この雑誌発行を手段として、激動の時代、権力に立ち向かい、政治の堕落腐敗を批判し続けた。彼の武器は『ことば』だけだった。これは、まさしく元祖ブロガーではないか。

1899年6月発行の「炬火」第9号には次のような「3か月の決算報告書」が載せられているという。これも、硬骨ブロガーの証しではないか。
 匿名誹謗文 236通
 匿名脅迫文  83通
 襲撃      1件

彼の人気は、批判の仮借なさと洗練された文体の面白さにあったという。その魅力が熱烈なファンを得たが、反面多くの敵対者も作った。
彼の考えかたが、次の文章によく表れている。
「強い熱を受けて始めてひそかな『悪』があぶり出されるとき、そしてその『悪』がもっとも問題であるというのに、ただ、証明できるものだけを述べ、ほどよい節度の下にだけ語るのが許されるとすれば、その言論の自由にどんな意味があるのだろう」

彼の社会批評は辛らつであったが、常に弱者の側に立っていた。弱者の側に立ちきれない者、権力と対峙し得ない大手新聞も仮借ない批判の対象とされた。その活躍ぶりには目を瞠らざるを得ない。

その彼の最晩年に、ドイツではヒトラーが政権をとり、全権委任法が成立してナチスの独裁がはじまる。ヒトラーの誕生日を祝って、新聞はこの「救国者」をほめたたえ、ハーケンクロイツの旗が全ドイツになびいた。

この書を読み進む読者は、当然にクラウスがナチスにどのような抵抗をし批判の言葉を浴びせたか、その一点に関心を寄せることになる。彼はユダヤ人でもあった。ところが、この点が、実はスッキリしないのだ。

この書の序言ではこう書かれている。
「そのときクラウスはすべての仕事をなげうって執筆に没頭した。新しい権力者に迎合する知識人のことばを集め、辛らつな注釈を加えた。情報宣伝相ゲッベルスの論説をことこまかに分析した。そのウソとデマゴーグぶりをとりあげた。ナチスの機関紙『フェルキッシェ・ベオーバハター』にみる残虐行為を収録した。事実を否認し、それが通用しないとなると、他人に転嫁し、そののち居直って逆襲に出る。そんなナチズムの常套手段をあばいていった。風刺技法をかたむけて、暗示し、もじり、皮肉り、嘲罵した。何にもまして一貫しているのは怒りの激しさだった。暗いトンネルをひた走るようにして『矩火』を続けた。そこにはシェイクスピアの『リア王』の引用がまじえてある。
  神よ、事態がさらに悪化せぬと誰に言えましょう?
  昔より今はもっと悪くなっています。
  そして、さらに悪化するかもしれません。
  これが最悪だと言える間は、それは最悪の事態ではないのです。」

この文章は、硬骨を貫いた表現者への手放しの讃辞である。しかし、本文を読むと事情は異なるのだ。「クラウスがすべての仕事をなげうって没頭し完成した執筆」は300頁に及ぶものだったが、彼はその作品の公刊を断念した。そして、生前これが発表されることはなかった。

「たえずひとりで執筆者と雑誌編集者と出版人を兼ねていた男だが、このたびは編集者の段階で作品を差し止めにした。優に一冊分の300ページあまりを執筆し、印刷に廻し、朱筆までいれたが『炬火』には掲載しなかった」

代わりに出た「炬火」888号(33年10月)は、わずか4頁。その最後に、次の10行詩が掲載されていたという。
   問うなかれ、このときにあたりわたしが何をなしたかと。
  わたしは沈黙をまもる、
  そしてそのわけを語らない。
  静寂があるのは、地球がすさまじい音をたてて砕けたからだ。
  この有様にかなうことばはなかった、
  われひとはただ眠りのうちから語るばかり。
  そして、かつて輝いた太陽を夢みる。
  ことは過ぎ去り、
  後になれば同じことだった。
  あの世界が目覚めたとき、ことばは永遠の眠りについた。

その後9か月の沈黙ののち、315頁の大部な号が発行された。「なぜ炬火は発行されないか」という奇妙なタイトルを付けてのもの。その全ぺージのほとんどが、先の10行詩に対する反響が収録されているのだという。そのほとんどは、自分を痛烈に批判し非難する左翼陣営の新聞、雑誌の記事で埋められていた。
 「カール・クラウスの最後の挨拶!」
 「なぜカール・クラウスは沈黙するのか?」
 「カール・クラウスの終焉」
 「カール・クラウス最期の日々」

ある新聞の論説が引用されている。
「暗い時代にこそ人間の本性が知れるものだ。これまで講演会場において、芝居がかった身振り入りで獅子吼していたというのに、まさしく口をつぐんではならないこの時代にあたり、彼は矩火の火を消そうとしている」

この同時代における批判がクラウスの対ナチス姿勢についての定説になった。事実、彼はナチスへの迎合こそしなかったが、けっして正面からは闘わなかった。「カール・クラウスは激しく彼のファンを裏切った」のだ。それゆえ、大戦後評価されることがなかった。

著者は、難解な彼の言動を、けっして裏切りではないとの立場から弁明を試みているが、それこそ難解で了解は難しい。

元祖ブロガーは、最晩年を有終の美で飾ることが出来なかった。無念ではある。しかし、時代状況は、まさしく「地球がすさまじい音をたてて砕けた」のだ。「この有様にかなうことばはなくなった」のだ。彼にして、「わたしは沈黙をまもる」「ただ眠りのうちから語るばかり」と観念せざるを得なかったのだ。あらためて思う。「ことばを永遠の眠りにつかせ」てはならない。

凡庸なわれわれブロガーが、なべて沈黙を強いられる時代を到来させてはならない。敵は、ちゃちなスラップを試みる程度の小物に限らない。権力そのものであったり、モンスターであったりもするのだ。その強大な敵に押し潰されないためには、片時も沈黙することなく、言葉を武器に語り続けなければならない。個別の表現者を孤立させてはならない。多くの表現者が連帯して、権力者の側をこそ孤立させなければならない。

何度でも呼びかけたい。「万国のブロガー団結せよ」と。
(2016年2月17日)

プーチンの汚職疑惑を訴えるブロガーの覚悟

2月12日の各紙に小さく載った時事通信の配信記事。ロシアのブロガーが、プーチンを訴えたのだという。ほかならぬ「あのプーチン」を、である。短い記事なので全文を引用しよう。タイトルは、「ロシア大統領を提訴=政敵ブロガー、汚職と指摘」というもの。穏やかな話しではない。

【モスクワ時事】ロシアの反政権ブロガー、アレクセイ・ナワリヌイ氏は11日、プーチン大統領に汚職疑惑があるとして、モスクワの裁判所に提訴したと発表した。大統領の決定で昨年10月、娘婿が株主の石油化学会社に政府系ファンドから約18億ドル(約2000億円)が拠出されたという。
ペスコフ大統領報道官は記者団に「(大統領は訴えを)知らない」と説明した。次期大統領選の前哨戦となる9月の下院選前に、波紋を広げる可能性がある。

これだけの記事では、正確なことは分からない。汚職疑惑があるなら刑事告発をすべきところだが、プーチンの手下がプーチンを訴追することは考えがたい。では、いったい裁判所にどのような提訴をしたのだろうか。どのような勝訴への成算があるのだろうか。提訴が記事になるインパクトだけが獲得目標なのだろうか。そもそも「疑惑」は秘密のことなのだろうか。それとも誰もが知っていることなのだろうか。どれほどの根拠あっての「提訴」なのだろうか。

それはともかく、ロシアにも「反政権ブロガー」が存在するのだ。その「反政権ブロガー」が権力者プーチンの最大の政敵として、プーチンの巨大汚職を告発したのだという。「提訴したとの発表」もおそらくはブログでなされたのだろう。プーチンと渡り合うという武器となったブログの威力に興味津々ではないか。

権力的統制には弱いロシアのメディアである。遠慮のないプーチン批判は難しかろう。ましてや、プーチンの汚職摘発はハードルが高い。それでも、ブログで批判や告発がなされているという間接的な形であれば、記事にできるのではないか。「ナワリヌイがプーチンを提訴」は、現に報道されている。メディアの腰が引けているとき、これに代わるものとしてのブログの影響力は大きい。メディアが沈黙するとき、人々の情報の渇望に応えて、たったひとりが発信するブログの政治的意義ははかりしれない。

アレクセイ・ナワルヌイとは、「弁護士資格を持つロシアの人気ブロガー」だそうだ。今やプーチンの最大の政敵と自他共に認める存在で、2度の被逮捕経験があるとのこと。この逮捕された経験によって、彼はブログの世界の活動家から、リアルな反体制活動家に変身したのだという。

ブログは、使い手次第でプーチン政権とも対等に戦う恐るべき武器たりうる。組織なく資力なくとも、多くの人に事実を知らせ、多くの人を説得し、多くの人の意識を変え、多くの人に行動を促し、もしかしたら政権や体制を変革するきっかけにすらなり得るのだ。

そのためには、二つの要件がある。一つは、信念を貫く不退転の決意である。プーチンの政敵や批判者たらんとするには、暗殺の恐れを絵空事ではなく現実味あるものと想定し覚悟せざるを得ない。ナワルヌイのブロガーとしての人気は、そのような危険をも覚悟した決意に満ちた発言だからこそ、なのだろう。

私もブロガーの端くれだが、省みてナワルヌイほどの覚悟も決意もない。アベ政権批判も、DHCや吉田嘉明批判も、その他の政治家や大企業や御用メデイアや御用学者批判も、そして天皇や天皇制批判も、稲田や高市批判も、嫌がらせ程度は避けられないにせよ、暗殺を恐れるなどという大仰な覚悟は不要である。

私は、ナワルヌイに学んで、暗殺も恐れぬ覚悟と決意でブログを書こうなどとはけっして思わない。暗殺など恐れる必要なく批判の言論を展開できる自由の獲得に全力を尽くすことにこそ覚悟と決意を向けたいと思う。

そしてもう一つの要件。ブロガーの威力や影響力は、多くの人に読んでもらえてこそのこと。多くの人に読んでもらえる工夫と努力が必要だ。まずは、長い、くどいの悪評を払拭しなければならない。いまに…。そのうちに…。いつかきっと…。
(2016年2月16日)

内野光子著「天皇の短歌は何を語るのか」を読む

先日(12月27日)、本欄に「万国のブロガー団結せよ」の記事を掲載した。
これに対する具体的な反応はまだ見えないが、DHCスラップ訴訟弁護団に所属している徳岡宏一朗さんが、法廷に出席したうえご自分のブログ(Everyone says I love you!)で、連続してDHCスラップ訴訟を取り上げてくれた。その圧倒的な情報量に驚かされる。是非ごらんいただきたい。そして、ブログの最後に出て来る「ブログランキング賛成票」にもクリックを。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/01835f65b846168cb7400449f6787515
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/0278962f4551fe0531c2218cb9b922d4

また、内野光子さんが、「内野光子のブログ・短歌と地域の可能性を探る」で詳細な「DHCスラップ訴訟」法廷傍聴記を掲載してくださった。感謝に堪えない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/dhc1-4959.html
「ことしのクリスマス・イブは~DHCスラップ訴訟控訴審(東京高裁)第1回口頭弁論傍聴と報告集会へ」

ところが、内野さんのブログは単発では終わらず、次のように続いた。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html
「ことしのクリスマス・イブは(2) ~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった! 」

これでも終わらない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-9e69.html
「ことしのクリスマス・イブは(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その2)」

さらに続く。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/2-2dd0.html
「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」

内野さんの「サプライズは、国会開会式出席表明の共産党!」の記事が、私の12月25日ブログ
  http://article9.jp/wordpress/?p=6112
「共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け」と関連あるのかどうかは分からない。しかし、一読すればお分かりのとおり、私よりも遙かに積極果敢に問題の本質に切り込んでいる。共産党の中央委員会に電話までして、疑問をぶつけているその真摯な姿勢には脱帽するしかない。

私の前記ブログは、私の知る限り下記のサイトで引用されているが、各サイトに内野さんのブログの引用がないのが惜しい。
 NPJオススメ【論評】http://www.news-pj.net/recommend-all/reco-ronpyo
 ちきゅう座 http://chikyuza.net/
 Blog「みずき」 http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1706.html#more

内野さんには、「短歌と天皇制」(1988年)、「現代短歌と天皇制」(2001年)、そして「天皇の短歌は何を語るのか」(2013年)の単著3部作がある。このうち、「天皇の短歌は何を語るのか」を、初めてお目にかかった際にいただいた。「2013年12月30日 内野光子」というサインが記されている大切な一冊。ちょうど2年前の今日のことだ。私が「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10」を書いた日に当たる。あれから2年が経っている。

この書は、短歌を通じての天皇・天皇制論。天皇制の本質に深く切り込んでいる書として読むに値する。現代短歌にはほとんど関心のない私にも分かり易く読める。巻末に人名索引があるが10頁に及ぶもの。たいへんな労作でもある。

この書は、下記の4章からなっている。
Ⅰ 天皇の短歌は何を語るのかーその政治的メッセージ性
Ⅱ 勲章が欲しい歌人たちー歌人にとって「歌会始」とは
Ⅲ メディア・教科書の中の短歌
Ⅳ 「ポトナム」をさかのぼる
(「ポトナム」は、戦前からの短歌同人誌)

Ⅰ章の「天皇の短歌は何を語るのか」での、「護憲との矛盾のはざまで」という興味深い一節だけを紹介する。

 天皇・皇后は、…常に憲法を念頭においていることを強調する。皇后も、…「民主主義の時代に日本に君主制が存続しているということは、天皇の象徴性が国民統合のしるしとして国民に必要とされているからであり、この天皇及び皇室の象徴性というものが、私どもの公的な行動の伜を決めるとともに、少しでも自己を人間的に深め、よりよい人間として国民に奉仕したいという気持ちにさせています」と、かなり慎重な表現で、応分の役割と心情を述べている(1998年5月12日、英国など外国訪問前の記者会見)。行き届いた説明をしようとすればするほど、天皇制維持に内在する民主主義との矛盾が露呈するかのようである。護憲志向と天皇制維持の実態との間には大きな矛盾を抱えざるをえない。今や、護憲政党さえどんどん曖昧な姿勢をとり始めている。さらに、今の政府や議会は、この天皇・皇后のやや末梢的とも思える憲法擁護のためのさまざまな試みやパフォーマンスさえ無視し、憲法改正という逆行の姿勢を崩そうとはしない。やはり、この辺で、もう一度、天皇制自体を考え直す時期なのではないか。私見ながら、女帝をなどとは言わず、矛盾や「お世継ぎ」の呪縛から一家を解放し、次代からは、元貴族としてひそやかに、伝統文化の継承などに努めてもらえないだろうか。」
初出の掲載は2004年4月だという。今にして、ますますなるほどと、うなずかざるを得ない。

この書で、「勲章や選者としての地位が欲しい」歌人と、「節を曲げざる」歌人とがいることを生々しく知った。政治家・財界・官僚・学界・芸術・芸能・法曹の世界まで皆同じではないか。権威の体系である天皇制は、このような形で、文芸をも体制迎合的な存在に貶める。勲章も要らない、歌会始の選者の地位も要らない、と言い続けることは、実はそれだけで立派なことなのだ。

もうすぐ歌会始。例年冷ややかに眺めてきたが、今回はとりわけ批判のまなざしで見つめたいと思う。
(2015年12月30日)

「万国のブロガー団結せよ」再論-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第65弾

当面の目標だった「1000日連続更新」を達成して、今日が連続1001回目の「憲法日記」。次は、「石の上にも3年」「ブログも3年続けば一人前」が目前。そして、「4年」と「5年」の節目を経た先に連続更新2000回の目標がある。その頃、どのような憲法状況になっているかよくは見えないが、憲法日記を書き続けてみよう。権力や権威に厳しい批判の姿勢を崩すことなく、誰におもねることもなく。

本日のブログは、2014年7月14日に掲載した「万国のブロガー団結せよ」(『DHCスラップ訴訟』を許さない・第2弾)の再論である。当時のものを読み直してみると、自分のものながらなかなか面白いと思う反面、行き届かない言い回しも目につく。もう一度、修正版を掲載して当時からの読者にも新たな読者にも、目をお通しいただきたいと思う。

まずは、ブロガー団結宣言(新バージョン)である。
「すべてのブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。
ブロガーは、権力・経済力・権威を有しない市井の個人の名誉やプラバシーには慎重な配慮を惜しまないが、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的に高い地位にある者、文化的に権威あるとされている者は、ブロガーからの批判を甘受しなければならない。
無数のブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のブロガー万歳。万国のブロガー団結せよ」

日本国憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。社会における「表現の自由」実現の如何こそが、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。

なにゆえ表現の自由がかくも重要で不可欠なのか。佐藤功「ポケット注釈全書・憲法(上)」が、次のとおりにみごとな要約をしている。

「思想は、自らの要求として、外部に表現され、伝達されることを欲する。人は思想の交流によって人格を形成することができる。かくして、思想表現の自由の価値は、第一に、それが人間人格の尊厳とその発展のために不可欠であることに求められる。また、民主政治はいろいろの思想の共存の上に成り立つ。かくして、思想表現の自由の価値は、第二にそれが民主主義の基盤のために不可欠であることに求められる」

まず、人はものを考えこれを他に伝えることを本性とする。だから、人間存在の根源的要求としての表現についてその自由が尊重されねばならない。また、表現の自由は民主主義の政治過程に原理的に不可欠。だから、表現の自由が重要というのだ。

なるほど、もっともなことではある。しかし、このような古典的なそもそも論においてはメディア論への関心が語られない。人がその思想を表明するための具体的な表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、各人の表現の自由の現実化を妨げていることに目は向けられていない。

「集会、結社」はともかく、「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来国民個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。実質においてメディアの自由の反射的利益としての「知る権利」を持つとされるにすぎない。国民個人の能動性は消え、受動的な地位にしかないことになる。

現実に、これまでの歴史において、表現の自由とは実質において「メディアの自由」でしかなかった。それは企業としての新聞社・雑誌社・出版社・放送局を主体とする表現の自由であって、主権者国民はその受け手の地位に留め置かれてきた。権力に対峙してのメディアの表現の自由も重要ではあるが、本来の表現の自由は国民個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料を支払ってさえも、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。

いま、その事情が変わりつつある。IT技術の革新により、ブログというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしているのだ。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。現に、私のブログの維持費用は、article9.jpというドメインの管理費にすべて含まれている。独立したブログ立ち上げや管理の経費は一切必要ない。まことに貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。

要するに、主権者の誰もが、不特定多数の他者に情報や思想を伝達する手段を獲得しつつあるのだ。これは、表現の自由が人格の自己実現に資するという観点からも、民主的政治過程に不可欠という観点からも、個人を表現の自由の主体とする画期的な様相の転換である。このことによって、人権も民主主義も、形式的なものから実質的なものへの進化の可能性を秘めている。この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はいかにも小さなものであるが、大切にしたい。ブロガーこそは、今や先進的な「言論の自由」の実質的担い手である。このツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。

ところが、この貴重な芽を不愉快として、摘もうという不届きな輩がいる。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告以外の者においての萎縮効果が計算されている。

私は、一人のブロガーとして、その言論の自由を行使した。経済的強者を「利潤追求の手段として、カネで政治を壟断しようとした。しかも、『8億円の裏金』で」と批判したのだ。すると、被批判者から高額の損害賠償訴訟を提起された。典型的なスラップ訴訟である。かくして、はからずも、私はブロガーを代表する立ち場において、経済的強者と対峙している。これがDHC・吉田嘉明から私に対する「DHCスラップ訴訟」の骨格である。

私は、DHCスラップ訴訟被害の当事者として、全国のブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただけないだろうか。「『DHCスラップ訴訟』は不当だ」「言論を萎縮させるスラップ訴訟は許さない」「ブロガーの権利侵害を許さない」と。あるいは、「カネの力で政治に介入しようとした経済的な強者は、当然に批判を甘受しなければならない」と。

さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2015年12月27日)

当ブログ毎日更新連続1000回達成万歳

本日、当ブログは連載開始以来1000日目。毎日書き連ねて1000回達成の日を迎えた。メデタイ限りである。独りこの「偉業」を祝う。1000日の間、毎日毎日よくも飽きず投げ出さず、書き続けてきたものだと思う。

表現とは何よりも自己実現の欲求の表出である。1000回ブログを書き続けてつくづくとそう思う。もの言わぬは腹ふくるる業。腹の中にあるものを、遠慮なく外に吐き出す痛快な感覚はなにものにも換えがたい。

とはいうものの、文章を綴ることは、自分をさらけ出すことでもある。この間、40万字近くも書いたのではないだろうか。その間に、浅学非才も、思想や教養の浅薄も、乏しい詩的感性も、激しやすい感情的な性格も、自分のすべてをさらけ出したことになる。

古来日記文学の伝統はどこにもあるが、リアルタイムにこれを世に発表し続けるぜいたくは望むべくもなかった。正岡子規はそのような機会に恵まれた稀有の人と言うべきだろう。彼の「墨汁一滴」「病牀六尺」は新聞「日本」に連載されていた。ほぼ毎日記事を書き続け、翌日には新聞掲載となったようだ。長文もあれば、わずか一行の記事もある。今日の新聞コラムではなく、ブログによく似ている。随筆に俳句を織り交ぜた、読みごたえのある充実したブログ。

「墨汁一滴」は1901(明治34)年1月16日から書き始めて、同年7月2日まで164回にわたって連載された。年を改め、1902(同35年)5月5日から書き始めたのが「病牀六尺」である。当時、既に子規の命は旦夕に迫っていた。

連載が100回に達したのは、その年の8月20日。子規は100日生き得たことを素直に喜こんだ記事を書き、この日の末行をこう結んでいる。
「半年もすれば、梅の花が咲いてくる。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであろうか」

結局、病人の目に梅が映ることはなかった。記事は9月17日の第127回で永遠に途切れた。「病牀六尺」最終回が新聞「日本」に掲載された翌18日、子規は辞世の3句を認めている。梅ではなく、糸瓜が読み込まれている。

  糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
  痰一斗糸瓜の水も間に合わず
  をととひの糸瓜の水もとらざりき

子規の死は、翌19日未明のこと。書き続け、句作を続けての、見事な生涯の閉じ方であった。当時文名高かった子規にして初めて、新聞連載という形での表現が可能だった。今、誰の手にも、私にも、ブログというツールが手にはいる好運をありがたいと思う。

私のブログも、ささやかな自己実現の手段である。そして同時に、政治的言論としていささかなりとも社会への影響があることを願っている。

ところで、第二次安倍政権発足に憲法の危機を感じて書き始めた「憲法日記」である。危機はますます深まっている。安倍内閣の崩壊を見届けるまでは連載を終息できない。もう少し読者に優しい短いブログとすることを自分に言い聞かせて、1000回を通過点としよう。

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      2000回めざしてブログ万歳だ!
「マインド・チェンジ」(発行KADOKAWA)という本のなかで、スーザン・グリーンフィールドという脳神経科学者は「突拍子もないと思われるかもしれないが、『考える』という行為をするだけでも、物質としての脳に実質的な変化を起こすことができるようだ」と述べ、面白い例を示している。

ピアノの弾けないの1群にピアノの練習をさせる。5日後にこの人たちの脳スキャンには大きな変化が現れた。驚くべきは、「単に自分がピアノを弾くところを想像するようもとめられた」別の1群の被験者の脳にも、実際に指を使って練習した被験者とほぼ同じ変化がみられたということなのだ。実体験なしの想像だけでの脳の変化なのだ。

よく耳にするプラセボ効果は、治療効果があると信じるだけで、効くはずのない物質で病気が治ってしまうという現象である。この効果を起こす脳内物質が存在するだけでは、プラセボ効果はおきない。その効果を最終的に起こすのは、「そのプラセボがほんとうに効く薬だと信じることが必要なのだ。やはり肝心なことは『意識的な思考』である」らしい。

「あらゆる種類の動物の脳には驚くべき可塑性があり、特に人間の脳で顕著である。人の脳は『使わないとだめになる』の原理にのっとり、反復されるタイプの行動に対して、絶えず物理的に適合を続けている。終わりのないこのニューロンの更新は、とくに発達途上の臨界期といわれる期間にはっきり見られるが、高齢になるまで生涯にわたって続く」

なんと希望に満ちたメッセージではないか。この著者は「アルツハイマー病研究の第一人者であり、イギリスで最も著名で影響力のある神経科学者の一人」と聞けばますますありがたい御託宣である。

ブログが1000回続いたというのはめでたいことであるが、毎日眠い目をこすって真夜中までワープロに向き合う不健康な生活が1000日続いたことでもある。また、1000回の間には、筆が滑って物議を醸したことが一再ならずある。果ては名誉毀損で6000万円の請求訴訟をおこされてもいる。

それでも、言いたいことを言わずにはおられない。腹ふくるるは健康に悪いにちがいない。しかも、「読んでますよ。その通りですよ。良く言ってくれました」などと便りがあればうれしくなる。見ず知らずの人々、忘れていた旧き友の予期せぬ声にも驚かされる。ブログを書かなければ敵もできないが、それにまさるたくさんの、尊敬に値する心の友もできない。眠気も損害賠償訴訟も中傷誹謗も、示唆に富んだ友の励ましが雲散霧消してくれる。歴史の審判は我にありだ。

それだけでなく、「意識的な思考」の継続こそが、生涯にわたって続くニューロンの更新と脳の活性化をもたらすというのだ。2000回めざして再出発しよう。老化やアルツハイマーなんかブログがあれば恐くない。ブログ万歳だ。
(2015年12月26日・連続第1000回)

健康食品・サプリメントの安全性は確認されていない。それでも導入された機能性表示食品制度ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第61弾

私は、昨年(2014年)4月2日のブログに、「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」と題する記事を掲載した。
  http://article9.jp/wordpress/?p=2386
これが、DHCと吉田嘉明から私に対する6000万円請求の訴訟において、その根拠とされている名誉毀損ブログ5本の一つ。

そのなかに、DHC・吉田にとっては不愉快であろうが、消費者には有益な次の一節がある。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサー(企業)の側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。」

機能性表示食品制度導入に反対し、健康食品・サプリメント業界から「裏金」としての政治資金投入を批判する文脈での記事である。規制緩和は企業にとって素晴らしいもの。消費者までが「規制緩和歓迎」などと愚かなことを言っていると、企業献金を介した資本と政治の結託によって行政規制が骨抜きになり、消費者利益を害することになる。そういう趣旨の警告の一文である。今読み直してみて、私はなんと真っ当なことを言ったのだろうと得心がいく。去年の自分を褒めてやりたい気持になる。少なくとも、このような意見を封殺することの不当・違法は明らかではないか。

本日のブログは、「(企業は)安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。」との個所の補充である。

企業とは、そもそもが利潤追求を目的とする組織である。資本主義社会において、利潤追求自体は非難に値するものではなく、利潤を追求しての企業活動は、憲法上の権利(日本国憲法22条・29条)でさえある。

しかし、利潤追求行為は得てして暴走となりかねない。規制のない企業の利潤追求が暴走すれば、労働者を不当に搾取し、消費者の利益を侵害し、中小業者との軋轢を生じ、地域社会に公害を垂れ流し、公正な競争原理を破壊し、さらには政治に介入して民主主義を破壊し、場合によっては戦争を引き起こしもする。企業の暴走に対する歯止めとしての規制は必要にして不可欠と言わなければならない。個別的な人権条項のうち憲法22条と29条とにだけ、「公共の福祉に反しない限り」との留保が付されていることが、企業規制の根拠である。

私が言及したのは、サプリメントないしは健康食品について、事業者の販売にきちんとした安全点検の歯止めが掛かっているのか、という疑問ないし警告だ。この業界では、規制が不十分なゆえに、安全性の点検不十分な商品が流通して、消費者の健康被害を招きかねないのではないか。にもかかわらず、さらに規制を緩めようという動きには反対せざるを得ない。

他律的な規制がなければ、利潤追求を内在的欲求とする企業は、安全性点検費用をカットすべき冗費と考える。それが、薄氷を踏む競争を勝ち抜かねばならない企業経営の冷徹な合理性というものである。はたして、健康食品やサプリメントに、安全性の点検は十分になされているだろうか。

この点を、内閣府食品安全委員会が本年12月8日に発表した、「いわゆる『健康食品』に関する報告書」から抜粋してみよう。
  https://www.fsc.go.jp/osirase/kenkosyokuhin.html

同報告書の基本姿勢は、報告書と同時に発表された「委員長・ワーキンググループ座長から国民の皆さまへ」と題する異例の呼びかけ文の中にある「『健康食品』は医薬品ではありません。品質の管理は製造者任せです」という一文の周知にある。「安全性の点検不十分」が大前提なのだ。

具体的には以下のとおりである。
※「健康食品」には「医薬品」と異なる特性があり、その安全性を考える場合には以下の点を考慮する必要がある。
① 健康に資する成分の含有量や製品全体の品質管理についての法的規制がなく、製造者の自主性に委ねられている
② 消費者自身が、自らに必要かどうか、摂るか否かを判断し、摂るならばどのように摂るかを自己選択しなくてはならない
③ 消費者が、健康への有害事象も有効性も自己評価しなくてはならない
(以上、報告書4頁)

要するに健康食品の摂取による安全性の確保については、行政が責任を持っていない。製造企業を信頼するもしないも消費者の自己判断・自己責任の世界だということなのだ。
医薬品については、行政が責任をもって監督し管理し、許可や承認を与える。しかし、健康食品やサプリメントのことまでは手がまわらない。行政が安全性の点検も確認もしない。そのような「法的規制の仕組みがなく、製造者の自主性に委ねられている」のだから、安全性についても消費者自身が自己責任で自己選択するしかない、と言っているのだ。

自己責任自己判断を気しなければならない消費者の選択は、健康食品について提供された情報に依拠するしかない。報告書は消費者が置かれている情報環境について次のとおり述べている。

※安全性・有効性に関する不確かな情報の氾濫と信頼できる情報の不足
効果があったというだけの体験談や、特定の研究者だけが主張していることを、安全性・有効性の証拠としている製品が多い。また、動物や細胞を用いた試験の結果のみを人での有効性の証拠としており、安全性の検証が乏しい製品もある。
「食品なので安全」、「いくら飲んでも安全」といった根拠のない説明がされる例がある。摂取者は、製品の質の管理がなされていない製品があることを知りづらい状況にあり、また、「健康食品」による健康被害の発生についてはそれを把握したり、原因を確かに究明できる体制が確立されていないため、健康被害の実態もつかみにくく、被害情報を得にくい。
「健康食品」も、これらの通常の食品と同様に、食品としてのリスクを持っている。過剰に摂れば健康被害を生じる可能性があり、微生物に汚染されていて健康被害を生じる可能性もある。
実際に東京都の調査等によれば、「健康食品」の摂取者の4%が「健康食品」によると思われる体調不良を経験しており、比較的よく摂られている「健康食品」にも健康被害の事例が見られている(例:ウコンによる肝障害)、キャンドルブッシュによる下痢・腹痛,イチョウ葉エキスによる出血傾向)。
「健康食品」の中にはアレルギー症状の発現が報告されているものがある。通常の食品の中にもアレルギー症状を起こす食品があり、食品のリスクとしては同じとも考えられる。一方、特に天然・自然の食品由来成分を原料とする「健康食品」はアレルギーの原因となりやすいとの情報が提供されている。
生理作用等のデータが比較的蓄積しているビタミン・ミネラルであっても、人が長期間摂った場合の慢性毒性について詳細に明らかになっているものは少ない。
ビタミン・ミネラルによる疾病の予防の研究も予想に反する結果が多い。かつて、抗酸化作用のあるビタミン類をサプリメントとして多量に摂ることが、心血管疾患やがんの予防につながる可能性が期待されていた。しかし2013年に報告された、複数の臨床試験の結果をまとめた総合評価(メタ・アナリシス)の論文では、ビタミンEのサプリメントによる心血管疾患の予防効果はないことが確認されている。また、この論文では、複数の論文の総合評価を踏まえて、喫煙者等の肺がんの高リスク集団が、β-カロテンのサプリメントを摂ることにより、肺がんの発生リスクがかえって高まるとの過去の報告が確認されたと報告されている。ほかにも、最近のメタ・アナリシスの論文では、カルシウムについて、食事からの摂取量を増加させても骨折予防の効果はなく、サプリメントを摂取しても、骨折予防に寄与するという根拠は弱く一貫性がないものであり、高齢者に広く摂取されているカルシウムのサプリメントは、意味のある骨折の減少に結びつかないであろうとの報告がされている。

(報告書9頁以下)

では、消費者は、どのように情報を選択すべきであろうか。報告書はこう言っている。

※自分にとって役立って、しかもリスクの少ない「健康食品」を選択するためには、健康情報の読み方(リテラシー)を身につけることが不可欠である。
「健康食品」を購入する際の情報収集にあたっては、主にインターネットやテレビ・ラジオのCMが利用されており、インターネットによる情報収集の場合、「健康食品」メーカーや販売店のサイト・ブログや、口コミサイト等から情報を得ている利用者の割合が多いとの報告がある。これらの媒体では、「健康食品」の安全性・有効性に関する不確かな情報が氾濫しており、自ら積極的に求めない限り、信頼できる情報には辿り着きにくい。
健康情報の信頼性は、以下のステップに基づき評価することができる。
ステップ1:体験談等ではなく、具体的な研究に基づいているか
ステップ2:研究対象は、実験動物や培養細胞ではなく人か
ステップ3:学会発表ではなく、論文報告か
ステップ4:研究デザインは「ランダム化比較試験」や「コホート研究」か
ステップ5:複数の研究で支持されているか
食品の研究、特にステップ4や5等の質の高い研究には、相応の多大な費用と時間がかかるため、科学的で信頼性の高い研究は豊富とは言えない。
なお、特定保健用食品では、人での比較試験等により特定の目的における安全性・有効性が評価されて保健機能の表示が認められている。しかし、有効性を示すための指標となる実験データに統計的有意差があったとしても、人に対する効果は限定的で緩やかなものであり、医薬品のような疾病を治療する効果があるわけではない。
安全性を確保するためには、摂るか否かを考えている「健康食品」について、確かな情報に基づき、自分にとってのメリット・デメリットを理解した上での選択をする必要がある。
「健康食品」の選択は安全性、品質等について「不明確な状況の中での選択」であることを理解しておくべきである。
「食品なので安全」といった根拠のない説明がされるぐらい、「健康食品」による健康被害の実態はつかみにくく、危害情報は消費者に届きにくいものである。「健康食品」の情報のほとんどは製造・販売業者から提供されており、安全性に関する情報提供における配慮が不足している。インターネットで出されているハーブサプリメントに関する情報を調査した報告では、安全性に関する重要な情報が提供されていないという実態が指摘されている。
(報告書25頁)

このような問題を抱えている健康食品・サプリメントである。こんな状態で、企業の責任で効能をうたうことを認めることなどできるはずはないのだ。私のブログ記事の真っ当さをご理解いただけるものと思う。と同時に、私の口を封じようという、DHC・吉田の不当性についてもご理解いただきたい。

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   DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となりました。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)に係属しています。

その第1回口頭弁論期日は、
 クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
 法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。

ぜひ傍聴にお越しください。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行います。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
 午後3時から
 東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちましょう。
 弁護団報告は、表現の自由と名誉毀損の問題に関して、最新の訴訟実務の内容を報告するものとなることでしょう。
 表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加ください。歓迎いたします。
(2015年12月21日・連続第995回)

あなたが健康でありたいと願うなら、「健康食品」はおやめなさいー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第57弾

この私が被告とされ、6000万円の慰謝料請求を受けている「DHCスラップ訴訟」。その控訴審第1回弁論期日12月24日が近づいてきた。

何ゆえ私は被告にされ、6000万円の請求を受けているか。発端は、下記の3ブログである。これが違法な名誉毀損の言論だとされたのだ。何度でも掲載して、ぜひとも、多くの人に繰りかえしお読みいただきたい。はたして、私の言論が違法とされ、この社会では許されないものであると言えるのか。それとも民主主義政治過程に必要な強者を批判する言論として庇護を受けるべきものか、トクとお読みの上、ご判断いただきたい。

  http://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
  「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判 

  http://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
  「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

  http://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
  政治資金の動きはガラス張りでなければならない

以上の私のブログの記事は、政治がカネで動かされてはならないという問題提起であるだけでなく、消費者問題の視点で貫ぬかれてもいる。

例えば、次のようにである。
「(『徳洲会・猪瀬』事件と、『DHC・渡辺』問題とを比較し)徳洲会は歴とした病院経営体。社会への貢献は否定し得ない。DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」
「DHCの吉田は、その手記で『私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した』旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。」(3月31日ブログ)

「たまたま、今日の朝日に『サプリメント大国アメリカの現状』『3兆円市場 効能に審査なし』の調査記事が掲載されている。『DHC・渡辺』事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買いとりたいからなのだと合点が行く。」
「サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、『官僚と闘う』の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。」
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。『抵抗勢力』を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。これが、おそらくは氷山の一角なのだ。」(4月2日)

「DHCの吉田嘉明は…、化粧品やサプリメントを販売してもっと儲けるためには厚生行政や消費者保護の規制が邪魔だ。小売業者を保護する規制も邪魔だ。労働者をもっと安価に使えるように、労働行政の規制もなくしたい。その本音を、『官僚と闘う』『官僚機構の打破』にカムフラージュして、みんなの党に託したのだ。」
「自らの私益のために金で政治を買おうとした主犯が吉田。その使いっ走りをした意地汚い政治家が渡辺。渡辺だけを批判するのは、この事件の本質を見ないものではないか。」(4月8日)

私は、40年余の弁護士としての職業生活を通じて、一貫して消費者問題に取り組んできた。消費者問題を資本主義経済が持つ固有の矛盾の一つとして把握し、資本の利潤追求の犠牲となる市民生活の不利益を防止し、救済したいと願ってのことである。

もっとも、「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」「スポンサー(DHC)の側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。」などという表現については、ごく少数ながらも「少し言い過ぎではないか」「ややきつい断定ではないのか」という向きもあるようだ。しかし、これは消費者問題に関心を持つ者の間では、誇張でも言い過ぎでもない。まさしく、常識的な見解なのだ。

「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在」「広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい」は、もちろん、必ずしもDHCだけについてだけのことではない。数え切れないほどの「健康食品販売会社」「サプリメント販売業者」あるいはその業界に通有のことである。

健康食品業界の実態が「利潤追求目的だけの存在」「広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けている」ことを裏付ける政府報告を紹介しておきたい。先日、このブログで「フードファディズム」とサプリメント広告規制を論じた。フードファディズムとは、「特定の食品が特に健康によいと言うことはありえない」という穏やかな主張。本日ご紹介する報告は、「健康食品に安全性は保障されていない」「むしろ、危険なエビデンスがいっぱい」というものなのだ。さすがに、政府機関の報告だから、「健康食品おやめなさい」と結論をはっきりとは言わない。「健康食品摂取の際には、正確な情報に基づいてご自分の判断で」というにとどまっている。しかし、どう考えても、「あなたが健康を願うのなら、健康食品の摂取はおやめなさい」としか読めない。

当ブログは、本日を第1回として今後何度も執拗に、この政府報告と関連情報を紹介し続ける。DHCにダメージを与える目的というのではなく、消費者の利益のために健康食品業界全体と闘いたいということなのだ。

食品安全基本法にもとづく内閣府の審議会として、2003年7月内閣府に「食品安全委員会」が設置されている。「国民の健康の保護が最も重要であるという基本的認識の下、規制や指導等のリスク管理を行う関係行政機関から独立して、科学的知見に基づき客観的かつ中立公正にリスク評価を行う機関」とされている。

食品安全委員会は7名の委員から構成され、その下に12の専門調査会が設置され、職員60人のほかに、食品のリスク評価を行う専門家100人を擁しているという。

その食品安全委員会の「いわゆる『健康食品』の検討に関するワーキンググループ」が、このほど「『健康食品』の検討に関する報告書」をまとめて公表した。一昨日(12月8日)のことである。

このことの報道に気が付いた人は少ないのではないか。ネットでは毎日新聞が、12月9日朝刊の記事として下記を掲出している。
見出し「健康食品 リスクを公開 食品安全委員会」
本文「健康食品の摂取リスクなどを検討してきた食品安全委員会(佐藤洋委員長)は8日、「いわゆる『健康食品』に関する報告書」を公表した。これに合わせ「健康食品で逆に健康を害することもある。科学的な考え方を持って、食品を取るかどうか判断してほしい」とする異例の委員長談話を発表し、注意喚起した。同委員会の専門家グループでは、食品のリスク要因を主に▽製品▽摂取者▽情報−−の3点から分析した。その上で「健康食品は医薬品並みの品質管理がなされていない」「ビタミンやミネラルのサプリメントによる過剰摂取のリスクに注意」など、健康食品を選ぶ時に注意すべき項目を19のメッセージにまとめ、ホームページで公開している。」

この報道内容に誤りはない。しかし、いかにも通り一遍の報道。この報告書の重大性や衝撃性は伝わってこない。健康食品やサプリメントを摂取している人への警告という視点がない。広告料収入に頼り切っているメディアの弱みが露呈しているのではないかと勘ぐられてもやむを得まい。もっと大々的に、全メディアが報道すべきなのだ。

この報告書を作成したワーキンググループの13人は、すべて医師ないし自然科学の研究者。報告書は42頁の大部なもの。117の引用論文が掲載されている。内容は、きわめて意欲的なものだ。健康食品やサプリメントが、アベノミクスの「第3の矢」の目玉などという思惑に対する遠慮は微塵も感じられない。この内容が国民に正確に伝われば、健康食品会社もサプリメント業界も生き残れるとは到底考えられない。業界は顔面蒼白になってしかるべきなのだ。それだけの衝撃性を持っている。

この報告書の要約版として「いわゆる『健康食品』に関するメッセージ」が同時に公表され、具体的な「19のメッセージ」が掲載されている。参考とするには、これが手頃だ。さらに食品安全委員会は分かり易い21問の「Q&A」まで作っている。その意気込みがすばらしいと思う。

ぜひとも、下記のURLをクリックして、「報告書」「メッセージ」「Q&A」をご覧いただきたい。これを読めば、健康食品やサプリメントを買おうという意欲はなくなるはずだ。「これまで払った金を返せ」とも言いたくなるだろう。
  https://www.fsc.go.jp/osirase/kenkosyokuhin.html

「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」「スポンサー(DHC)の側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。」などという表現が、けっして「少しも言い過ぎではなく」、「きつい断定というのも当たらない」ことを理解していただけよう。私の見解は、「消費者問題に関心を持つ者」だけの意見ではなく、政府の審議会報告に照らしても、「誇張でも言い過ぎでもない」、まさしく常識的な見解なのである。この報告書の具体的内容については、後日詳細に報告したい。

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   12月24日(木)控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。

その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、午後3時から東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月10日・連続第984回)

各メディアの皆さまにDHCスラップ訴訟判決の取材と報道を要請申し上げますーー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第50弾

明後日(9月2日)東京地裁で、私自身が被告にされている「DHCスラップ訴訟」の判決が言い渡されます。報道に値する判決になるはずですので、ぜひ取材のうえ報道されるよう要請いたします。

そして、この判決を契機として、表現の自由保障の重要性や、経済的強者が民事訴訟を濫発して自分に不都合な言論を封殺しようという「スラップ訴訟」の弊害と防止策などについて、ぜひ掘り下げて言論界の話題にしていただくようお願いいたします。

この件で被告になっているのは私ですが、実は私だけでなく「政治的言論の自由」「政治とカネにまつわる問題についての批判の自由」「消費者利益の擁護に向けた言論の自由」なども、私と一緒に被告席に立たされています。その意味では、すべてのディアがご自分の問題としても関心をもたざるを得ない訴訟であり判決だと思います。

《当日の予定》は以下のとおりです。
  午後1時15分 判決言い渡し(631号法廷)
  午後1時30分 判決勝利報告集会(一弁講堂・弁護士会館12階)
  午後3時30分 記者会見(司法記者クラブ)

《判決を迎える事件の特定》
  東京地方裁判所民事第24部合議A係
  平成27年(ワ)第9408号
  原告 吉田嘉明 DHC(株)の両名
  被告 澤藤統一郎(職業・弁護士)
  裁判長裁判官 阪本勝
  陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
  原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭
  被告代理人弁護士 光前幸一 外110名(計111名)

《この事件が持つ意味》
 *政治的言論が保障されなければならないこと。
 *「政治とカネ」をめぐる論評の自由が特に保障されねばならないこと。
  論評の内容は「カネで政治を買う」ことへの批判。
 *消費者利益をめぐる論評の自由が強く保障されねばならないこと。
  論評の内容はサプリメント販売の規制緩和(機能性表示食品問題)への批判。
 *公権力だけでなく、経済的社会的強者も言論による批判を甘受すべきこと。
 *高額損害賠償請求訴訟を提起しての言論妨害が許されないこと。

《予想される判決の内容》
この日の判決は、DHC・吉田嘉明の自己に不都合な言論を封殺しようとした不当な意図を挫いて、政治的言論の自由を再確認し、市民や消費者の立場からの、企業や行政や経済的強者への批判の権利を保障する内容になるはずです。判決の主文もさることながら、理由がより注目されるところ。

《DHCスラップ訴訟経過の概略》
 2014年3月31日 違法とされたブログ(1)掲載
    「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
 2014年4月2日 違法とされたブログ(2)掲載
    「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
 2014年4月8日 違法とされたブログ(3)掲載
    政治資金の動きはガラス張りでなければならない
 同年4月16日 原告ら提訴(当時 石栗正子裁判長)
 5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
 6月 4日 答弁書提出(本案前・訴権の濫用却下、本案では棄却を求める)
 6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
 7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
 7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
       第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
   14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
   15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
   16日 第4弾「弁護士が被告になって」
   以下本日の第50弾まで
 7月22日 弁護団発足集会(弁護団体制確認・右崎先生講演)
 8月20日 10時30分 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
 8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 書面提出
   新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
     7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
       「いけません 口封じ目的の濫訴」
     8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
       「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ
  参照 http://article9.jp/wordpress/?cat=12 
      『DHCスラップ訴訟』関連記事
 2015年7月 1日 第8回(実質第7回)弁論 結審
 2015年9月 2日 判決言い渡し期日

《本日の勝訴報告集会》
   13時30分~15時 第一東京弁護士会講堂
   弁護団長 経過と判決内容の説明 今後の展望 質疑応答
   常任弁護団から、あるべきスラップ訴訟対策提言試案
   弁護団・支援者・傍聴者 意見交換
スラップ常習提訴者や提携弁護士に対する抑止・制裁のあり方
    スラップ対策の制度つくり など
   被告本人 お礼とご挨拶

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《関連他事件について》
DHCと吉田嘉明が連名で原告となって提起した同種スラップ(いずれも、吉田嘉明の渡辺喜美に対する8億円提供を批判したもの)は合計10件あります。その内の1件はDHC・吉田が自ら取り下げ、9件が現在係属中です。

最も早く進行したDHC対折本和司弁護士事件は、
 本年1月15日に地裁判決(請求棄却)、
 6月25日の控訴棄却判決(控訴棄却)、
 その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。

2番目の判決となったS氏(経済評論家)を被告とする事件は
 本年3月24日に地裁判決(請求棄却)、
 8月5日に控訴審判決(控訴棄却)、
 やはり、その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。

私の事件が、3番目の地裁判決になるようです。
DHC・吉田は、同種2事件で各一審と控訴審計4回の判決を受けてすべて敗訴となっています。
DHC・吉田は、関連して仮処分事件も2件申し立てていますが、いずれも却下。両者とも抗告して、抗告審も敗訴。これで、合計8連敗です。

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《スラップに成功体験をさせてはならない》
私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「幸福な被告」です。しかし、被告が常に法的、財政的、精神的な支援に恵まれる訳ではありません。スラップの被害に遭った者がペンの矛先を鈍らせることも十分にあり得ることと言わざるを得まらん。だから、恵まれた立場にある私は、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならない、そう思っています。
 その思いを、下記のとおり結審法廷の被告陳述書で述べています。

《被告本人意見陳述》(2015年7月1日結審の法廷で)
口頭弁論終結に際して、裁判官の皆さまに意見を申し述べます。
私は、突然に被告とされ、応訴を余儀なくされています。当初は2000万円、現在は、6000万円を支払え、とされる立場です。当然のことながら、心穏やかではいられません。このうえなく不愉快な体験を強いられています。理不尽極まる原告らの提訴を許すことができません。
私は、憲法で保障された「表現の自由」を行使したのです。本件で問題とされた私の言論の内容は、「政治をカネで歪めてはならない」という民主主義社会における真っ当な批判であり、消費者利益が危うくなることに関しての社会への警告なのです。むしろ私は、社会に有益で有用な情報や意見を発信したのだと確信しています。被告とされる筋合いはありえません。この点について、ぜひ十分なご理解をいただきたいと存じます。
関連してもう一点お願いいたします。原告の訴状では、私の書いた文章がずたずたに細切れにされ、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけをして、「違法な文章」に仕立て上げようとしています。細切れにせずに、各ブログの文章全体をお読みください。そうすれば、私の記事が、いずれも非難すべきところのない真っ当な言論であることをご理解いただけると存じます。

私は、45年の弁護士生活を通じて、政治とカネ、あるいは選挙とカネをめぐる問題を、民主主義の根幹に関わるものととらえて、関心を持ち続けてきました。また、消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤めています。消費者問題に取り組む中で、「官僚規制の緩和」や「既得権益擁護の規制撤廃」などという名目で、実は事業者の利益のために、消費者保護の制度や運用が後退していくことに危機感を募らせてきました。そのことが本件各ブログに、色濃く反映しています。
私の「憲法日記」と表題するインターネット・ブログは、弁護士としての使命履行の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。現在のものは、2013年4月1日に開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めたもので、昨日で連続更新821日を記録しています。このブログは権力者や社会的強者に対する批判の視点で貫かれていますが、そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。
昨年3月「週刊新潮」誌上に吉田嘉明手記が発表される以前は、私はDHCや原告吉田への関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金規正のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについての、公益目的での言論であることに、一点の疑義もありません。
原告らは、私の言論によって社会的評価を低下した、と主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つく人のあろうことは、法が想定していることなのです。誰をも傷つけることのない人畜無害の言論には、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。仮に原告両名が、私の憲法上の権利行使としての言論によって、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならないのです。

そのことを当然とする根拠を3点上げておきたいと思います。
その第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。行政の規制と対峙しこれを不服とする立場にもあります。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与しました。さらに、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのです。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したのです。自分に都合のよいことだけは言っておいて、批判は許さないなどということが通用するはずはありません。
その第2点は、私の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであることです。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の内容です。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
 さらに、第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであることです。本来、真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地はありません。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎないのです。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄です。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、原告吉田はこれを甘受しなければならないのです。

にもかかわらず、吉田は私をいきなり提訴しました。しかも、私だけでなく10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起しています。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという試みが「スラップ訴訟」です。本件こそが、典型的なスラップ訴訟にほかなりません。原告吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのです。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意しました。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けなければならない、これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせています。

その決意が、私のブログでの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。昨日(6月30日)までで46回書き連ねたことになります。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。

本件は本日結審して判決を迎えることになります。
その判決において、仮にもし私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
 貴裁判所には、本件のごとき濫訴は法の許すところではないことを明確に宣言の上、訴えを却下し、あるいは請求を棄却して、司法の使命を果たされるよう要請申し上げます。

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なお、メディア関係者以外の一般の方に訴えます。
法廷傍聴も、法廷後の勝訴報告集会も、どなたでも参加ご自由です。言論の自由を大切に思う多くの皆さま、政治とカネの問題や、消費者問題に関心のある方、ぜひご参加ください。
(2015年8月31日)

「スラップに成功体験をさせてはならない」 判決言渡しは9月2日13時15分ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第47弾

DHCスラップ訴訟は本日結審。次回判決言い渡し期日は9月2日午後1時15分と指定された。

賑やかな結審法廷となった。満員の傍聴席に顔をそろえたのは、私の家族、妹、姪、学生時代の同級生、昔の依頼者、今戦いを共にしている仲間たち、30名の弁護団、そして私のブログを読んで駆けつけていただいた初対面の人たち。なんとも心強く、ありがたい。

私は、意見陳述で思いの丈を吐露した。いくつかのバージョンを経て、本日アップするものが、法廷での私の発言。10分間で朗読できるよう贅言を殺いだ最終版が、まとまりの良い意を尽くした文章になったと思う。なお、朗読しているうちに、「スラップに成功体験をさせてはならない」という言葉が突然出てきた。まことにそのとおりである。

報告集会は、光前弁護団長の解説で始まり、私の挨拶で終わった。
光前さんは、「本格的に、政治的な言論の自由と切り結んだ判決を期待する」ことを表明した。そして、何人かの弁護団員から、「請求棄却の勝訴判決を得ただけでは不十分ではないか」「DHCに対する効果的な制裁を考えるべきだ」という意見が相次いだ。

なお、本年1月15日1審判決があったDHC対折本弁護士事件の控訴審は、4月23日に東京高等裁判所第24民事部で一回結審し、6月25日控訴棄却判決となった旨の報告があった。折本さんは、「粛々と勝ちに行く方針」を実践されて勝訴した。仮にDHC側が上告受理申立をしても逆転はあり得ない。これで、DHC・吉田は、仮処分と本訴を併せて、7戦7敗である。既にDHC・吉田の濫訴は明白になったと言うべきであろう。

私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「幸福な被告」である。しかし、被告が常に法的、財政的、精神的な支援に恵まれる訳ではない。スラップの被害に遭った者がペンの矛先を鈍らせることも十分にあり得ることと言わざるを得ない。だから、恵まれた立場にある私は、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならないと思う。

次回、判決法廷と、その後の報告集会については、後刻お知らせします。皆さま、ぜひまた、傍聴と集会参加をお願いします。

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            被 告 本 人 意 見 陳 述
 弁論終結に際して、裁判官の皆さまに意見を申し述べます。
 私は、突然に被告とされ、応訴を余儀なくされています。当初は2000万円、現在は、6000万円を支払え、とされる立場です。当然のことながら、心穏やかではいられません。このうえなく不愉快な体験を強いられています。理不尽極まる原告らの提訴を許すことができません。
 私は、憲法で保障された「表現の自由」を行使したのです。本件で問題とされた私の言論の内容は、「政治をカネで歪めてはならない」という民主主義社会における真っ当な批判であり、消費者利益が危うくなることに関しての社会への警告なのです。むしろ私は、社会に有益で有用な情報や意見を発信したのだと確信しています。被告とされる筋合いはありえません。この点について、ぜひ十分なご理解をいただきたいと存じます。
 関連してもう一点お願いいたします。原告の訴状では、私の書いた文章がずたずたに細切れにされ、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけがされ、「違法な文章」に仕立て上げられようとしています。細切れにせずに、各ブログの文章全体をお読みください。そうすれば、私の記事が、いずれも非難すべきところのない真っ当な言論であることをご理解いただけると存じます。

 私は、45年の弁護士生活を通じて、政治とカネ、あるいは選挙とカネをめぐる問題を、民主主義の根幹に関わるものととらえて、関心を持ち続けてきました。また、消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤めています。消費者問題に取り組む中で、「官僚規制の緩和」や「既得権益擁護の規制撤廃」などという名目で、実は事業者の利益のために、消費者保護の制度や運用が後退していくことに危機感を募らせてきました。そのことが本件各ブログに、色濃く反映しています。
 私の「憲法日記」と表題するインターネット・ブログは、弁護士としての使命履行の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。現在のものは、2013年4月1日に開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めたもので、昨日で連続更新821日を記録しています。このブログは権力者や社会的強者に対する批判の視点で貫かれていますが、そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。
 昨年3月「週刊新潮」誌上に吉田嘉明手記が発表される以前は、私はDHCや原告吉田への関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金規正のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについての、公益目的での言論であることに、一点の疑義もありません。
 原告らは、私の言論によって社会的評価を低下した、と主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つく人のあろうことは、法が想定していることなのです。誰をも傷つけることのない人畜無害の言論には、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。仮に原告両名が、私の憲法上の権利行使としての言論によって、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならないのです。
 そのことを当然とする根拠を3点上げておきたいと思います。
 その第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。行政の規制と対峙しこれを不服とする立場にもあります。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与しました。さらに、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのです。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したのです。自分に都合のよいことだけは言っておいて、批判は許さないなどということが通用するはずはありません。
 その第2点は、私の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであることです。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の内容です。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
 さらに、第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであることです。本来、真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地はありません。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎないのです。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄です。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、原告吉田はこれを甘受しなければならないのです。
 にもかかわらず、吉田は私をいきなり提訴しました。しかも、私だけでなく10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起しています。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという試みが「スラップ訴訟」です。本件こそが、典型的なスラップ訴訟にほかなりません。原告吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのです。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意しました。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けなければならない、これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせています。
 その決意が、私のブログでの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。昨日までで46回書き連ねたことになります。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。

 本件は本日結審して判決を迎えることになります。
 その判決において、仮にもし私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
 貴裁判所には、本件のごとき濫訴は法の許すところではないことを明確に宣言の上、訴えを却下し、あるいは請求を棄却して、司法の使命を果たされるよう要請申し上げます。
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            『DHCスラップ訴訟』第8回弁論について
東京地方裁判所民事第24部合議A係
平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)
被告 澤藤統一郎

裁判長裁判官 阪本勝 陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭
被告代理人弁護士 光前幸一 外110名

《前回期日から本日までの経過》
 4月22日 第7回(実質第6回)口頭弁論
 5月11日 被告準備書面(6)  被告「主張対照表・補充改訂版」提出
 6月12日 原告準備書面6・原告吉田陳述書提出、被告本人陳述書提出
 7月 1日 (本日)15時~ 631号法廷 第8回(実質第7回)弁論 結審
 15時30分~ 東京弁護士会508号・報告集会
《本日の法廷》
   15時00分~ 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
          被告本人(澤藤)意見陳述(10分)。
          その後に弁論終結、判決期日指定。
《本日の報告集会》
   15時30分~17時 東京弁護士会508号会議室
      弁護団長 本日までの経過説明(常任弁護団から補充)
      弁護団・支援者・傍聴者 意見交換
       ☆判決報告集会の持ち方
       ☆他のDHCスラップ訴訟被告との連携
       ☆原告や幇助者らへの制裁など
      被告本人 お礼とご挨拶
《この事件の 持つ意味》
 *政治的言論に対する封殺訴訟である。
 *言論内容は「政治とカネ」をめぐる論評 「カネで政治を買う」ことへの批判
 *具体的には、サプリメント規制緩和(機能性表示食品問題)を求めるもの
 *言論妨害の主体は、権力ではなく、経済的社会的強者
 *言論妨害態様が、高額損害賠償請求訴訟の提訴(濫訴)となっている。
 ※争点 「表現の自由」「訴権の濫用」「公正な論評」「政治とカネ」「規制緩和」
《具体的な争点》
※名誉毀損訴訟では、言論を「事実摘示型」と「論評型」の2類型に大別する。
 本件をそのどちららのタイプの事案とするかが問題となっている。
☆原告は、ブログの記事のひとつひとつを「事実の摘示」と主張。
☆被告は、全てが政治的「論評」だという主張。
※事実摘示型の言論は原則違法とされ、
 (1)当該の言論が公共の事項に係るもので、(公共性)
 (2)もっぱら公益をはかる目的でなされ、(公益性)
 (3)その内容が主要な点において真実である(真実性)
 (あるいは真実であると信じるについて相当の理由がある)(相当性)
 が立証された場合に違その言論の法性が阻却される。
 (被告(表現者)の側が、真実性や真実相当性の立証の責任を負担する)
※論評型は、「既知の事実を前提とした批判(評価)が社会的評価を低下させる言論」
 真実性や真実相当性は前提事実については必要だが、論評自体は、「人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱」していない限りは違法性がないとされる。
《事件の発端とその後の経過》(問題とされたのはブログ「澤藤統一郎の憲法日記」)
 ブログ 3月31日 「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
     4月 2日 「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
     4月 8日 政治資金の動きはガラス張りでなければならない
    参照 http://article9.jp/wordpress/?cat=12 『DHCスラップ訴訟』関連記事
4月16日 原告ら提訴(係属は民事24部合議A係 石栗正子裁判長)
       事件番号平成26年(ワ)第9408号
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月 4日 答弁書提出(本案前・訴権の濫用却下、本案では棄却を求める)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
 7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
 7月13日以後 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾」
    第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
    第2弾「万国のブロガー団結せよ」
    第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
    第4弾「弁護士が被告になって」 現在第46弾まで
 7月22日 弁護団発足集会(弁護団体制確認・右崎先生提言)
 8月20日 10時30分 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
        被告本人・弁護団長意見陳述。
 8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 準備書面2提出
     新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
     7月13日の「第1弾」と、8月8日「第15弾」
 9月17日 第3回(実質第2回)弁論期日。
 11月12日 第4回(実質第3回)口頭弁論
 12月24日 第5回(実質第4回)口頭弁論
 1月15日 東京地裁民事第30部 DHC対折本弁護士事件判決 DHC完敗
 2月25日 第6回(実質第5回)口頭弁論
 3月24日 東京地裁民事第23部 DHC対宋文洲氏事件判決 DHC完敗
 4月22日 第7回(実質第6回)口頭弁論 裁判長交代 阪本勝判事
 7月 1日 第8回(実質第7回)口頭弁論 結審 判決日指定
 9月 2日 13時15分 631号法廷 判決言渡し
        その後、報告集会(場所未定)と記者会見を予定

(2015年7月1日)

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