澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

祝・憲法施行70周年の憲法記念日

古稀は、年老いたことへの慰めの日ではない。古来稀なるとされた長い人生を経てなお、矍鑠たることの祝いと励ましの日である。憲法も同じだ。今日は、単に日本国憲法が年を経たことの、懐古・懐旧の日ではない。70年日本国民が、平和憲法と平和を守り抜いた誇りの日として祝おう。そして、もっともっと憲法を使いこなすべく、決意をかためるべき日なのだ。

その憲法記念日の東京新聞。本日の「平和の俳句」が眼に突き刺さる。胸が痛む。
  長兄次兄戦死父焦土の首都に焼死せり 江川節夫(84)東京都練馬区

これに付された、いとうせいこうの解説も句作さながら。さすがのものだ。
「このゴツゴツした字余り。慟哭の呪文のごとき文字列。そこに作者八十四歳の思いがぎっしりと詰まっている。八人きょうだいの末っ子。」

社会面に、江川さんを取材した記事がある。「平和継がなければ」「戦争は家族を破壊する」「揺らぐ憲法の理念 あきらめムード危ぶむ」という大きな見出し。

その最後に、江川さんの言葉がある。
「平和を守り続けてきた憲法の大切さは、理論的に言うだけでは伝わらない。家族を破壊する戦争の悲しみ、苦しみを若い人に語り継がなければ」

まったくそのとおりだ。平和憲法は、理論的に生み出されたものではない。家族や知人を失った、生き残りの日本人の悲しみと苦しみこそが生みの親であった。70年間、この平和憲法を守り抜いてきたのもまた、日本人の戦争体験とその継承による、悲しみと苦しみの記憶だった。もちろん、これに加害責任の自覚も伴っている。

日本国憲法とは、なによりも平和憲法なのだ。戦争の惨禍に対する痛苦の反省から生まれたが、戦争の記憶が薄れると、再びの軍事大国化願望が首をもたげてくる。アベのごとき、平和憲法に露骨な敵意をもつ者に、政権を担わせてしまっているのだ。

本日・憲法記念日は戦争を忌避し、平和の価値を再確認すべき日。しかし、各紙の社説は、一様ではない。憲法に対する、とりわけその平和主義に対する姿勢のコントラストが著しい。

産経は極右と政権の立場を代弁して、「北朝鮮をめぐる情勢は、日本にとって戦後最大の危機となりつつある 日本国民を守る視点を欠く憲法は一日も早く正そう」と言っている。読売も、「憲法施行70年 自公維で3年後の改正目指せ」と改憲の応援団役を買って出て旗を振っている。

日経は、「身近なところから憲法を考えよう」という。時代に切り結んでいるかはともかく、改憲の旗は振っていない。毎日は「施行から70年の日本国憲法 前を向いて理念を生かす」。朝日は「憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ」と、それぞれ見識を示している。

感動的なのは、やはり東京新聞。「憲法70年に考える 9条の持つリアリズム」というタイトル。穏やかな語り口で、問題の核心に切り込んで説得力がある。

同社説は、次のリードを置いている。
「日本国憲法が施行されて七十年。記念すべき年ですが、政権は憲法改正を公言しています。真の狙いは九条で、戦争をする国にすることかもしれません。」

アベ政権の改憲のねらいを「戦争をする国にすること」と端的に喝破している。「戦争のできる国にすること」「戦争を政策の選択肢としうる国にすること」とまだるっこしいことをいわない。なるほど、政権の究極の狙いは「戦争をする国にすること」に帰着するのだ。

社説の本文は、冒頭に金森徳次郎の言を、末尾に石橋湛山の文を引用している。
<今後の政治は天から降って来る政治ではなく国民が自分の考えで組(み)立ててゆく政治である。国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならわがままな政治ができるのであって、国民はいわば種まきをする立場にあるのであるから、悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない>(金森)

<わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす>(湛山)

この湛山の言葉を受けて、同社説は「これが九条のリアリズムです。『そういう(国を滅ぼす)政治家には政治を託せない』と湛山は断言します。九条の根本にあるのは国際協調主義です。不朽の原理です」と解説する。

そして最後をこう締めくくっている。
「国民は種まきをします。だから『悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない』-。金森憲法大臣の金言の一つです。愚かな政治を招かないよう憲法七十年の今、再び九条の価値を確かめたいものです。」

同社説の中の次の各指摘を真摯に受けとめたいと思う。

「九条も悲惨な戦争を体験した国民には希望でした。戦争はもうこりごり、うんざりだったのです。かつて自民党の大物議員は『戦争を知る世代が中心である限り日本は安全だ。戦争を知らない世代が中核になったときは怖い』と言っています。今がそのときではないでしょうか。」

「それなのに一部は反省どころか、ますます中国と北朝鮮の脅威論をあおり立てます。同時に日米同盟がより強調され、抑止力増強がはやし立てられます。抑止力を持ち出せば、果てしない軍拡路線に向かうことになるでしょう。」

本日の「施行70年 いいね!日本国憲法-平和といのちと人権を!5.3憲法集会」は55000人の参加で盛りあがり、インパクトのある集会となった。憲法改正阻止の大運動に向けて、力強さを感じる。4野党の党首クラスと、沖縄の風の伊波洋一が、護憲とアベ政権打倒を訴えた。

護憲の理念は、単に成文憲法の改悪阻止にとどまらない。その時々に、憲法の理念をめぐっての、個別のテーマが必ず存在する。

本日の集会で、繰り返し訴えられたテーマは、「共謀罪」「沖縄」「戦争法廃案」「脱原発」「軍学共同反対」「脱格差・反貧困」「反ヘイト」。そして「アベ政権の暴走を許さない」「野党と市民の共闘」であった。

あらためて、憲法の平和主義の理念の内実と、これをないがしろにする日米安保体制への批判を再確認した。帰りのバスで見た歩行者天国の平和で穏やかな風景。これを守るのは、断じてカールビンソンではない。市民の生活の平穏を守るのは、平和憲法であり、憲法に依拠して平和を守ろうとする人々の熱い思いと行動なのだ。
(2017年5月3日・連続第1494回)

アベ改憲願望発言に見える焦り

超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根康弘元首相)という組織がある。これが、昨日(5月1日)「新しい憲法を制定する推進大会」を開催した。同集会には、自民党のほか、民進、公明、維新、こころの各党から、改憲派議員が出席したという。日本を昔の暗い時代に逆戻りさせようとの「組織的改憲共謀」の準備行為に該当する。

この集会開催は例年のことだそうだが、昨日はアベ晋三が現職の首相として初めて出席して、壇上から発言した。「憲法改正について強い意欲を示した」と報じられている。

「新憲法制定議員同盟」の「新憲法制定推進大会」である。「新憲法制定」は「憲法改正」とはまったくの別物。この集会で「憲法改正」を語ることが腑に落ちないが、アベの頭の中では、どう整理されているのだろうか。

産経が「首相の発言詳報」を掲載している。アベ自身が「本日は自民党総裁の安倍晋三としてここに立っておりますので、念のため申し上げたいと思います。」と断っているのに、「首相の発言」である。産経のことだ。含むところがあるに違いない。

産経の伝えるところを読んでの限りだが、アベの改憲論は「憲法のどの条項でもよい、ほんの少しでもよい。どのようにでも、なんでもよいから、ともかく改憲」というもの。改憲を自己目的化してしまって、なにゆえ、憲法のどこをどう変えようというのか、その具体案の提示がまったくない。だから、理念も理想も語るところはない。それゆえ、彼の語りかけにはまったく迫力がない。人に訴え、心を揺さぶる力がない。改憲の焦点が定まらない以上どうしようもないのだ。

「機は熟した。今求められているのは具体的な提案だ。理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときで、しっかりと結果を出さなければならない」「この節目の年に必ずや歴史的一歩を踏み出す。新しい憲法を作っていくことに全力を傾けると誓う」との言葉が空回りだ。

客観情勢は、アベ改憲願望に順風を送ってはいない。「自民党は、圧倒的な第一党として現実的かつ具体的な議論を憲法審査会においてリードしていく覚悟だ」「憲法改正を党是に掲げてきた自民党の歴史的な使命ではないか」と、彼は訴えたという。しかし、今国会での憲法審査会審議は、衆院でも3回に過ぎず、参院はまだない。明らかに改憲機運は停滞しており、アベ発言は焦りにも聞こえる。

産経によるアベ発言の詳報は次の通り。太字がアベ発言(抜粋)で、細字が私の突っ込みである。

 60年の節目にあたっても(私が)内閣総理大臣でしたが、この年ようやく国民投票法が成立しました。憲法改正に向けた大きな一歩をしるすことができたと考えています。あれから10年がたち、18歳投票権など3つの宿題も解決された中にあって、憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている。かつては憲法に指一本触れてはいけないという議論すらもありました。しかし、もはや憲法を不磨の大典だと考える国民は非常に少数になってきたと言ってもいいのではないでしょうか。

「憲法を不磨の大典だと考える国民」は昔から非常に少数だ。憲法改悪阻止派の多くの国民は、できることなら憲法をよりよいものに変えたいと思ってきた。たとえば、天皇という公務員職をなくし、自由や平等を形式的なものから実質的な保障に裏打ちされたものに進歩させ、人権と民主主義と平和をより豊かで確実なものにしたいと願ってきた。だから、「アベ自民党には、憲法に指一本触らせない」とは言っても、憲法を完成した「不磨の大典」として、拝跪の対象とすることはない。「憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている」は、本当だろうか。各種世論調査に表れた結果は、少なくとも9条など憲法の中核に関しては、改正賛成派は過半数に達していない。むしろ、減少しているではないか。

いよいよ期は熟してきました。
まったくそうは思わないね。国民の関心は、憲法改正からは確実に薄れている。

今求められているのは具体的な提案であります。もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけないと思います。

勝手なことを言ってもらっては困る。「もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけない」という改憲派の願望は分かる。しかし、現実は「改憲か護憲か」という綱引きがこの国の政治の基軸をなしている。しばらくは、「卒業」などできっこない。そもそも「改憲か護憲か」と言う議論は抽象的ではない。わが国を軍事大国化し、権力を集中強化して、人権を抑制しようという「改憲派」の策動と、それと対峙する「護憲派」の対峙ではないか。その議論を「不毛」とごまかし、切り捨ててはならない。

この国をどうするのか、わが国の未来へのビジョン、理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときです。そして、しっかりと結果を出していかなければならない。

今こそ、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すとき」? まだ示してないの? 2012年の「自民党改憲草案」は、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示した」ものではなかったというわけ?

政治とは結果であります。自民党は谷垣(禎一)総裁の時代に憲法改正草案をまとめ、国民にお示ししました。これは党としての公式文書であります。しかし、私たちはこれをそのまま憲法審査会に提案するつもりはない。どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。

あっ、そう。「自民党改憲草案」は当て馬だったという訳ね。

どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。政治家は評論家ではありませんし、学者ではない。

なるほど。だから、失言も放言も妄言も「でんでん」も、いい加減なことが言えるんだ。勉強不足も恥ずかしくないんだ。

ただ立派なことを言うことに安住の地を求めてはいけない。
おやおや、こうも開き直れるものかね。たまには立派なことを聞きたいと思うのだが、どだい無理な話か。

70年前、日本は見渡す限り焼け野原でした。しかし、先人たちは決して諦めなかった。先ほど中曽根先生から大変力強いごあいさつをいただきましたが、中曽根先生をはじめ、多くの尊敬すべき先人たちが廃虚の中から敢然と立ち上がり、祖国再建のため、血のにじむような努力をされました。そして70年後を生きる私たちのために、世界第3位の経済大国、世界に誇る自由で民主的な日本を作り上げてくれました。

えっ? 国民が日本国憲法を守り続けてきた戦後70年を積極評価するというの? 日本国憲法による統治の70年を「世界に誇る自由で民主的な日本」と言って、なぜ改憲が必要だというの?

私たちもまた先人たちにならい、この節目の年にあたり、今こそ立ち上がるべきときです。
わけが分からない。「先人たち」は日本国憲法の下で「世界に誇る自由で民主的な日本」を作ってきたと言いながら、突然どうして、今こそ改憲に立ち上がるべきとき、となるというのか。アベ君、論理が混乱しているよ。

私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げ、憲法改正、そして新たな国造りに挑戦していこうではありませんか。

むしろ、こう言うべきだろう。
「私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げたこの憲法を遵守し、憲法の理念をいっそう具体化し充実させることによって、新たな国と社会の構築に挑戦していこうではありませんか。」

少子高齢化、厳しさを増す安全保障情勢。平和で豊かな日本をどうやって守っていくのか。私たち全員が顔をあげ、その視線を未来に、そして世界に向けていく必要があります。足下の政局、目先の政治闘争ばかりにとらわれ、憲法論議がおろそかになることがあってはいけません。憲法を最終的に改正するのは国民です。しかしそれを発議するのは国会にしかできません。私たち国会議員はその大きな責任をかみしめなければなりません。

分かることは、とにもかくにも「改憲」ありきの結論にもっていきたいという執念だけ。妄念と言ってもよい。これで国民を説得出来るわけがない。改憲の焦点が定まっていないのだから、空回りにしかなりようがない。

アベ発言の最後は、超党派の改憲派出席議員に向かって、「皆さん、一緒に頑張っていきましょう。」で結ばれている。「皆さん、憲法改正のために一緒に頑張っていきましょう。」の意味だが、「憲法改正」を「憲法擁護」に一括変換して、「皆さん、憲法擁護のために一緒に頑張っていきましょう。」と結んでも、さしたる違和感がない。それほどの抽象的議論であり、その程度の改憲指向発言なのだ。
(2017年5月2日・連続第1493回)

伊勢神宮での内閣総理大臣年頭記者会見

皆さん、明けましておめでとうございます。
アベ・シンゾーから、新年のご挨拶を申しあげます。
憲法学界や宗教界からは、憲法20条3項に定める政教分離原則に違反ではないかという強いご指摘あることは重々承知の上で、今年も年頭には伊勢神宮に参拝し、内閣総理大臣としての年頭記者会見は、ここ伊勢神宮で行います。内閣記者クラブの皆様方には、一言のイヤミも問題提起もなく、快くこの地まで足を運んでいただきましたことに、厚く御礼を申し上げます。

昨年は、災害が相次いだ年でした。被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。本年は、どうか平穏で、豊かな一年を過ごせるように、との思いで、先ほど伊勢神宮を参拝してまいりました。私の理想とするところは、まさしく天皇を戴く国をつくることにあります。その国では、国家・国民の幸せと皇室の弥栄とが不即不離一体の美しい形をなし、皇室の祖先神をはじめとする神々のご加護が満ちあふれるのです。ですから、年頭の伊勢神宮参拝と、この地での記者会見は私にとって欠かせないものであることをご理解ください。

世の中には、社会のためにあるいは恵まれない人々のために、献身的な活動をされている多くの立派な人々がいます。しかし、この際そのような方を一切無視して、自衛隊の諸君にだけ敬意と感謝を表したいと思います。遠く離れたアフリカの地には、PKO5原則が整わぬままに送り出された国連PKO部隊参加の自衛隊員がいます。その駆けつけ警護の任務では、明日にもなにが起こるか分からない事態なのですから、その強い使命感と責任感に感謝しなければなりません。今に、すべての学校で、日の丸を掲げ君が代を唱うだけではなく、「兵隊さんのおかげです。兵隊さんよありがとう」と歌う日が来るよう、願うものです。

さて、本年は酉(とり)年であります。酉年は、しばしば政治の大きな転換点となってきました。本年も、変化の一年となることが予想されます。そうした先の見えない時代にあって、大切なことは、ぶれないこと。頑迷固陋に最初の方針を変えないことが大事なのです。大日本帝国も軍部も、大東亜戦争を始めたら戦局不利となっても、ぶれずに最後までよく闘ったではありませんか。

アベノミクスは失敗だという声が巷に満ちていますが、けっしてぶれることなく、金融政策、財政政策、そして成長戦略の三本の矢をうち続けてまいります。刀折れ矢が尽きても、アベノミクスをふかしつづけます。

また、内政だけでなく、外交も失敗続きだという悪評にめげることなく、積極的な地球を俯瞰する外交を展開してまいります。ときどき、自分でも何をやっているのか分からなくなりますが、一枚も二枚も上手の鵺どもを相手にしているのですから、まあ、成果のないのもいたしかたないと自分を慰めています。

あの昭和20年も酉年でありました。我が国の戦後が始まった年です。戦争で全てを失い、見渡す限りの焼け野原が広がっていました。しかし、先人たちは決して諦めませんでした。廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、戦後、新しい憲法の下、平和で豊かな国を、今を生きる私たちのため、創り上げてくれました。

本年は、その日本国憲法の施行から70年という節目の年に当たります。この70年間で経済も社会も大きく変化しました。かつては素晴らしかった日本国憲法も、完全に時代遅れのものとなりました。日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。こうした困難な課題から、もはや目を背けることはできません。戦後を創り上げた70年前の先人たちに倣って、今を生きる私たちもまた、こうした課題に真正面から立ち向かわなければなりません。未来への責任を果たさなければなりません。

そのために何をなすべきか。いうまでもなく、憲法を変えなくてはなりません。どのように変えるべきか。いうまでもなく、戦後レジームから脱却して、美しい明治憲法の精神に立ち返ることです。そのようにして、億兆国民が元首たる天皇陛下のもとに心を一つにして、どこの国にも負けない強い日本をつくることが肝要です。

国防こそが、政治の要諦です。次なる70年を見据えながら、未来に向かって、今こそ辺野古にも高江にも、強力な米軍基地を作らねばなりません。それだけではなく、産業も学問も教育もメディアも、すべての国民の営みが強い国家を作るため、国防のためのものでなくてはなりません。今年こそは、そのよう観点から新しい国づくりを進めるべきときです。

私は、積極的平和主義の旗を高く掲げます。私の言う「積極的平和主義」を、憲法の平和主義と同じものだと誤解する向きもあるやに聞いていますが、とんでもないことです。憲法の平和主義とは、いかなる事態においても闘うことを放棄した敗北主義ではありませんか。これは私の採るところではありません。積極的に、軍備を充実し戦争を辞さないとする構えを崩さないこと。これが平和を守ることになるのです。本気になった戦争の準備こそが、平和を守ることになります。軍備を充実し戦争ができるよう法制を整える。これが、私の言う積極的平和主義なのですから、くれぐれもお間違えなきよう願います。

こうして、日本を世界の真ん中で輝かせる。そのような輝く国の子供たちこそが我が国の未来そのものではありませんか。子供たちの誰もが、家庭の事情にかかわらず、尊敬される軍人になって国家に貢献するという夢と希望を持ち、それぞれの夢に向かって頑張ることができる、そういう日本を創り上げていく決意であります。

私たちの未来は人から与えられるものではありません。私たち日本人が自らの手で自らの未来を切り拓いていく、その気概が今こそ求められています。私たちの子や孫、その先の未来を見据えながら、本年安倍内閣は、国家主義原理の憲法改正を見据え、国民の皆様が具体的に改憲の論議のできる環境作りを本格的に始動してまいります。

最後となりましたが、本年が国家と皇室と政権と、そして憲法改正のために素晴らしい一年となりますことを心から祈念いたしまして、年頭における所感とさせていただきます。
(2017年1月5日)

明けましておめでとうございますー「目出度さもちう位也この春は」

あらたまの年の初めである。目出度くないはずはない。街は静かで人は穏やかである。誰もが、今年こそはという希望をもっている。欠乏や飢餓や恐怖は、見えるところにはない。が、その目出度さも、「ちう位」というしかない。

今年(2017年)の5月3日に、日本国憲法は施行70周年の記念日を迎える。この70年は、私の人生と重なる。振り返れば、その70年の過半は、希望とともにあった。漠然したものではあれ、昨日よりは今日、今日よりは明日が、よりよくなるという信念に支えられていた。「よりよくなる」とは、すべての人の生活が豊かになること、人が拘束から逃れて自由になること、そして貧困が克服されて格差のない平等が実現し、人が個性を育み自己実現ができること、その土台としての平和が保たれることであった。

敗戦ですべてを失った戦後の歩みは、平和を守りつつ豊かさを取り戻す過程であった。自由や平等や人権保障の不足は、「戦前の遅れた意識」のなせる業で、いずれは克服されるだろうと考えられていた。楽観的な未来像を描ける時代が長く続いた。しかし、明らかに今は違う。今日よりも明日がよりよくなり、上の世代よりも若い世代が、よりよい社会を享受するだろうとは思えない。いつから、どうしてこうなったのだろうか。

私が物心ついて以来、民主主義信仰というものがあった。戦前の誤りは、一握りの、皇族や軍部、藩閥政治家や財閥、大地主たちに政治をまかせていたからである。完全な普通選挙を実施したからには、同じ過ちが繰り返されるはずはない、というもの。天皇を頂点とする差別の構造も、官僚や資本の横暴も、民主主義の政治過程が深化する中でやがてはなくなる、そう考えていた。

しかし、経済格差のない男女平等の普通選挙制度が実現して久しい今も、多くの人が政権や天皇批判の言動を躊躇している。官僚や資本の横暴もなくなりそうもない。それどころか、平和さえ危うくなってきた。民主主義信仰は破綻した。少なくとも、懐疑なしに民主主義を語ることはできなくなった。

政治や制度が多数派国民の意思に支えられていることを民主主義と定義すれば、民主主義的な搾取や収奪の進行も、民主主義的な戦争もあり得るのだ。人種差別も思想差別も優生思想もなんでも「民主主義」とは両立する。トランプの登場やアベの政治は、そのことに警鐘を鳴らしている。

格差と貧困が拡がり深まる社会にあって、「お目出度とう」とは言いがたい。国民一人ひとりの尊厳が大切にされて、こころから「おめでとう」と言い合える、「ちう位」ではない目出度い正月をいつの日にかは迎えたいと思う。

立憲主義大嫌いのアベ政権である。今年の憲法記念日に、憲法施行70年を盛大に祝うとは到底思えない。このことは、一面「怪しからん」ことではあるが、権力によって嫌われる憲法の面目躍如でもある。日本国憲法は、政権から嫌われ、ないがしろにされ、改悪をたくらまれていればこそ、民衆の側が護るに値する憲法なのだ。

今年も、憲法改悪を阻止と、憲法の理念を実現する運動の進展を願う。その運動の進展自身が、民主主義を支える自立した市民を育むことになる。微力ではあるが、当ブログもその運動の一翼を担いたいと思う。
(2017年1月1日・元旦)

「押しつけられた憲法」ではない。「守り抜いた憲法」だ。

ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。こちらは「本郷湯島九条の会」です。「平和憲法を守ろう」、「平和を守ろう」、「日本を、再び戦争する国にしてはならない」。そのような思いで、活動している小さなグループです。小さなグループですが、同じ思いの「九条の会」は全国に7500もあります。

安倍内閣の改憲策動を許さない。平和憲法を壊してはならない。政策の選択肢として戦争をなし得る国にしてはならない。全国津々浦々で、7500の「九条の会」が声を上げています。しばらくご静聴ください。

日本国憲法は、70年前に公布されました。言わば、今年が古稀の歳。人間と違って、年老いるということはありません。ますます元気。ますます、役に立つ憲法です。私たちは、これを使いこなさなくてはなりません。

しかし、この憲法が嫌いな人がいます。なんとかしてこの憲法を壊したい。別のものに変えてしまいたい。その筆頭が、今の総理大臣。最も熱心に、最も真面目に、憲法を守らなければならない立場の人が、日本中で一番の憲法嫌い、最も熱心に日本国憲法を亡き者にしようと虎視眈々という、ブラックジョークみたいな日本になっています。

皆さまご存じのとおり、この人は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻す」と叫んでいます。「戦後レジーム」とは、日本国憲法の理念による社会のあり方のこと。日本国憲法の理念とは、国際協調による平和、民主主義、そして一人ひとりがかけ替えのない個人として人格を尊ばれる人権擁護のこと。

総理大臣殿は、そんな社会が大嫌いなのです。そのホンネが、2012年4月に自民党が公式に発表した「日本国憲法改正草案」に生々しく書かれています。

この改憲草案は、102条1項に、「すべて国民はこの憲法を尊重しなければならない」と書き込みました。これはおかしい。憲法とは、本来主権者である国民が権力を預けた者に対する命令の文書です。だから現行憲法は、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に憲法を尊重し擁護する義務を課しています。「国民に対する憲法尊重義務」を書き込むことは、憲法の体系を壊すこと、憲法を憲法でなくしてしまうことにほかなりません。

そして、自民党改憲草案は、現行憲法の「第2章 戦争の放棄」を、「第2章 安全保障」と標題を変えます。これは極めて示唆的です。日本は、戦争を放棄した国ではなくなるということです。今の自衛隊では戦争ができない。戦争するために差し支えのない国防軍を作ろうというのです。軍法会議も憲法に明記しようというのです。こうして、戦争を国の政策の選択肢のひとつとして持ちうる、戦争のできる国に変えようというのです。

もちろん、政権は、国民の権利も自由も大嫌いです。言論の自由をはじめとする国民の権利は大幅に切り下げられます。国民の自由に代わって、責任と義務が強調されることになります。「公益と公の秩序」尊重の名の下に国家・社会の利益が幅を利かせることになります。

それだけではありません。緊急事態条項というとんでもない条文まで紛れ込ませました。日本国憲法制定のための議会の審議では「権力に調法だが、それだけに危険だから憲法には置かないことにした」という代物です。戦争・内乱・自然災害などの「緊急事態」においては、国会を停止させようというのです。その代わりを内閣がする。法律でなければできないことを政令でできるようにする。予算措置も、内閣だけで可能というのです。

そして、自民党改憲草案の前文は、日本を「天皇を戴く国」とし、天皇を元首としています。憲法に、国旗国歌条項を書き入れるだけではもの足りないと、国民に国旗国歌尊重義務を課するという徹底ぶり。これが、安倍晋三が称える、「日本を取り戻す」というものの正体ではありませんか。

元首たる天皇が権威を持ち、国防軍が意のままに行動でき、反戦平和の運動や政府批判の言論が弾圧される。個人主義などもってのほか、人権ではなくお国のために尽くしなさいと教育がなされる国。それが、自民党・安倍政権が目指す「取り戻すべき日本」というほかはありません。

政権や自民党は、「憲法は外国から押しつけられたものだから変えましょう」という。これもおかしい。この70年の歴史を曇りない目で見つめれば、アメリカと日本の軍国主義者たち、日本国憲法は邪魔だという権力者たちが、日本国民からこの憲法を奪い取ろうとしてきた70年であったというべきではありませんか。

私たち国民にとっては、押しつけられたのではなく、守り抜いた日本国憲法ではありませんか。このことを私たちは、誇りにしてよいと思います。

憲法への評価は、立場によって違うのが当然のこと。一握りの権力に近い立場にいる者、経済的な強者には、邪魔で迷惑な押しつけかも知れません。しかし、大部分の国民にとっては、嫌なものの押しつけではなく、素敵なプレゼントだったのです。

もし、仮に日本国憲法を押しつけというのなら、押しつけられたものは、実は日本国憲法だけではありません。財閥解体も、農地解放も、政治活動の自由も、言論の自由も、労働運動の自由も、政教分離も、教育への国家介入禁止も、みんなみんな「押しつけられた」ことになるではありませんか。「押しつけられたものだから、ともかくいったんは、ご破算にしてしまえ」ということになりますか。

今年は、女性参政権が実現してから70年でもあります。46年4月の歴史的な衆議院議員選挙で、はじめて女性が選挙に参加しました。憲法を押しつけというなら、男女平等も押しつけられたもの。「外国から押しつけられた女性の参政権は、日本の醇風美俗を失わしるもの。だからご破算にして元に戻せ」などというおつもりですか。日本国憲法押しつけ論は、もうバカバカしくて何の説得力もありません。

憲法の制定にも携わった憲法学者である佐藤功が、こう言っています。
「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」

ここでいう「君たち」とは私たち、一般国民です。政治権力も経済権力もない圧倒的多数の相対的弱者のこと。「憲法は弱い立場の国民を守る」からこそ、国民にとって守るに値する日本国憲法なのです。だから「弱い立場にある私たち国民が憲法を守ってきた」のです。憲法を都合よく変えたいとする強い立場にある人たちとのせめぎあいを凌いでのことなのです。

これまで、日本国憲法を守り抜いて、自分たちのものにしてきたからこそ、憲法の古稀を目出度いものとしてお祝いしようではありませんか。

なお、一点付け加えます。日本国憲法は、国家よりも個人を大切にしています。ところが、今東京都の教育現場では、都教委が教員に国旗国歌(日の丸・君が代)に敬意を表するよう「起立・斉唱」の職務命令を発し、これに従わなかった教員に懲戒処分を濫発しています。これは、個人よりも国家を貴しとする思想にもとづくもの。しかも、教員の思想良心の自由を侵害する権力の行使であり、教育の内容に公権力が介入してはならないとする教育基本法が定める大原則の侵害でもあります。これではまるで戦前の日本。あるいは、まるでどこかの独裁国家のよう。到底自由な国日本の現象ではありません。

このことについては、幾つもの訴訟が提起されていますが、今最も大きな規模の「東京「君が代」裁判・4次訴訟」での原告本人尋問が、11月11日(金)に行われます。どなたでも、98席が満席になるまで、手続不要で傍聴できますので、ぜひお越しください。
 時 11月11日(金)午前9時55分~午後4時30分
所 東京地裁103号法廷

6人の原告の皆さんが、いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が生々しく語られます。きっと、感動的な法廷になります。そして、石原都政以来の憲法蹂躙の都政と東京都の教育行政に、ご一緒に怒ってください。よろしくお願いします。

ご静聴ありがとうございました。
(2016年11月8日)

街頭宣伝活動での選挙総括

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元の「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、憲法を守ろう、憲法を大切しよう、とりわけ平和を守ろう。絶対に戦争は繰り返してはいけない。アベ自民党政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう思いから、訴えを続けています。

あなたが政治に関心をもたなくても、政治の方はけっしてあなたに無関心ではいない。あなたが平和と戦争の問題に無関心でも、戦争は必ずあなたを追いかけてきます。けっして見逃がしてはくれません。少しの時間、お耳を貸してください。

一昨日の7月10日が第24回参院選投開票で、既にご存じのとおりの開票結果となりました。今回選挙の最大の焦点は、紛れもなく憲法改正問題でした。より正確には、アベ政治が投げ捨てた立憲主義の政治を取り戻すことができるか否か。憲法を大切にし、政治も行政も憲法に従って行うという当たり前の大原則を、きちんと政権に守らせる勢力の議席を増やすことができるか。あるいは、憲法をないがしろにして、あわよくば明文改憲を実現したいという勢力の議席を増やしてしまうか。

一方に憲法を護ろうという野党4党と市民運動のグループがあり、もう一方に改憲を掲げるアベ自民党とこれに擦り寄る公明・維新・こころの合計4党があります。この「立憲4党+市民」と「壊憲4党」の憲法をめぐる争いでした。おそらくは、この構図がこれからしばらく続くものと思います。

「壊憲4党」の側は徹底して争点を隠し、争点を外し、はぐらしました。それでもなお、客観的にこの選挙は改憲をめぐる選挙であり、選挙結果は壊憲4党に参院の3分の2の議席を与えるものとなりました。これは恐るべき事態と言わねばなりません。

改憲発議の権利は、今やアベ自民とこれに擦り寄る勢力の手中にあることを自覚しなければなりません。到底安閑としておられる状況ではない。憲法は明らかにこれまでとは違った危機のレベルにある、危険水域に達していることを心しなければならないと思います。

では、国民の多くが憲法改正を望んでいるのか。いえ、けっしてそんなことはありません。参院選投票時に何社かのメディアが出口調査をしていますが、その出口調査では有権者の憲法改正についての意見を聞いています。共同通信の調査も、時事通信もNHKも、いずれも「憲法改正の必要がある」という意見は少数なのです。「改憲の必要はない」という意見が多数です。これを9条改憲の是非に絞って意見を聞けば、さらに改憲賛成は少なくなります。「安倍政権下での9条改憲」の是非を聞けば、さらに改憲反対派が改憲賛成派を圧倒するはず。

ですから、明らかに、国民の憲法意識と国会の政党議席分布にはねじれが生じています。大きな隔たりがあると言わなければなりません。にもかかわらず、改憲勢力は今改憲の発議の内容とタイミングを決する権限を手に入れてしまったのです。

今回選挙のこのねじれを生じた原因は、ひとつは改憲派の徹底した争点隠しですが、それだけでなく選挙区制のマジックの問題もあります。改憲派と野党との得票数は、けっして、獲得議席ほどには差は大きくありません。

たとえば、立憲4党は、今回選挙で32ある一人区のすべてで統一候補を立てて改憲派候補と一騎打ちの闘いをしました。その結果、11の選挙区で勝利しました。
 青森・岩手・山形・福島・宮城・新潟・長野・山梨・三重・大分そして沖縄です。
他の県は敗れたとはいえ、前回は31の一人区で、自民党は29勝したのですから、これと比較して共闘の成果は大きかったといわねばなりません。それだけでなく、この一人区一騎打ちの票数合計は2000万票でした。その2000万票が、立憲派に900万票、自公の壊憲派に1100万票と振り分けられました。議席だけを見ると11対21ですが、得票数では9対11の僅差。実力差はこんなものというべきなのです。

それでも、議席を争った選挙での負けは負け。長く続いた平和が危うい事態と言わざるを得ません。既に日本は、1954年以来、憲法9条2項の戦力不保持の定めに反して、自衛隊という軍事組織を持つ国になってきています。しかし、長い間、自衛隊は専守防衛のための最小限の実力組織だから戦力に当たらない、だから自衛隊は違憲の存在ではない、と言い続けてきました。

ところが、一昨年(2014年)7月1日アベ政権は、閣議決定で専守防衛路線を投げ捨てました。個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の行使を容認して、憲法上の問題はない、と憲法の解釈を変えたのです。憲法が邪魔なら憲法を変えたい。しかし、改憲手続きのハードルが高いから憲法解釈を変えてしまえというのが、アベ政権のやり方なのです。こうして、集団的自衛権の行使を容認して、自衛隊が海外で戦争をすることができるという戦争法を強行成立させました。

自国が攻撃されてもいないのに、一定の条件があれば海外に派兵された自衛隊が、世界中のどこででも戦争ができるという内容の法律ですから、「戦争法」。日本は、自衛のためでなくても戦争ができる国になってしまいました。この戦争法を廃止することが、喫緊のおおきな政治課題となっています。

今、このように憲法がないがしろにされているこのときにこそ、全力を上げて憲法を守れ、立憲主義を守れ、憲法の内実である、平和と人権と民主主義を守れ、と一層大きく声を上げなければならない事態ではないでしょうか。

本当に、今、声を上げなければ大変なことになりかねません。でも、声を上げれば、もう少しで国会の議席配分を逆転することも可能なのです。このことを訴えて、宣伝活動を終わります。ご静聴ありがとうございました。
(2016年7月12日)

東北と甲信越各県の選挙共闘の教訓に学ぼう

第24回参院選投開票の翌日。昨日と変わらぬ太陽がまぶしい夏の日。だが、今日の空気は昨日までのものとは明らかに違う。各紙の朝刊トップに、「改憲勢力議席3分の2超」という大見出し。この国の国民は、そんな選択をしたのだ。溜息が出る。

衆参両院とも、改憲4党(+保守派無所属)で発議に必要な議席は確保した。憲法改正発議の内容とタイミングは、彼らの手中にあることとなった。明日にも改憲発議があるという事態ではないが、憲法の命運に厳しい時代となったことを覚悟しなくてはならない。

この事態を決めた各党の実力と国民の政治意識とは、比例の得票数に端的に表れる。今回の各党の得票数は、ざっくりと整理して以下のとおり。これが現時点での各党の実力。議席の数ほどの差はない。
 自民 2000万
 民進 1200万
 公明  750万
 共産  600万
 お維  500万
 社民  150万
 生活  100万

主要政党の得票数の推移は以下のとおりである。
自民の最近4回(07年・10年・13年・16年)の各得票数は次のとおり。
  1700万→1400万→1800万→2000万
1986年選挙での自民票は2200万であり、95年選挙では1100万票である。自民票の浮沈は激しく、けっして安定してはいない。

民新(民主)の最近4回の票数は次のとおり。
  2300万→1800万→700万→1200万
民進は、著しく実力を低下させた中で、今回は健闘したというべきではないか。

公明の最近4回の票数は次のとおり。
  780万→760万→760万→760万
公明は04年選挙では862万票を取っていた。いまや、頭打ちの党勢といってよい。

共産の最近4回の票数は次のとおり。
  440万→360万→520万→600万
共産は98年選挙では820万票を取った実績がある。このとき、自民1400万、民主1200万だった。その後の低迷期を抜け出つつあるというところだろう。

どの党も、獲得票数の増減は結構激しい。けっして、今回選挙が固定した勢力図ではない。次の選挙結果は予測しがたいのだ。

そう言って自らを励ますしかないというのが、全国的な選挙結果なのだが、例外もある。今回選挙でもっとも注目し、教訓を汲むべきは、沖縄を別にすれば、東北6県の選挙区選挙。いずれも1人区として4野党統一候補を擁立し、選挙共闘の成果は6議席中5議席の獲得となった。これに加えて、新潟・長野・山梨も野党が勝利している。

アベノミクスはこの地に繁栄も希望ももたらしていない。むしろ窮乏と中央との格差、農林水産業の衰退、先行きの不安をもたらした。政権のTPP推進は明確な自民の裏切りと映っている。震災・津波からの復興問題も原発再稼働も、すべてアベ政権不信の材料となっている。

東北のブロック紙、河北新報が、「<参院選>東北 自民圧勝に異議」として、次のように解説している。この解説記事がよくできていて、身に沁みて分かる。

【解説】第3次安倍政権発足後、初の大型国政選挙となった第24回参院選は、東北6選挙区(改選数各1)で野党統一候補が自民党候補を圧倒した。全国で与党圧勝の流れが形成される中、東北の有権者は「1強」に異議を申し立てた。
 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からの復興が道半ばの岩手、宮城、福島で与党が敗れたことは政権にとって打撃だ。政府が「復興加速」を説きながら、地域再生が進まない現実との乖離に、被災者は冷ややかな視線を向けた。
 6選挙区で共闘した野党は、福島で現職閣僚を破ったほか、山形や岩手で終始リード。宮城で現職同士の争いを制し、青森では新人が現職を追い落とした。
 野党は経済政策「アベノミクス」を徹底批判した。東北は少子高齢化の急加速で個人消費が停滞、景気回復の循環に力強さを欠く。先行き不安を巧みに突く戦術は東北の有権者に有効だった。
 環太平洋連携協定(TPP)への攻撃も一定の効果を生んだ。日本の食料基地である東北には、TPPへの反発が根強く残る。野党は保守の岩盤とされた農村部に漂う不満の受け皿にもなった。
 全国に先駆けて宮城で共闘を構築するなど、野党のスクラムは強固だった。安全保障関連法の廃止を求める学生、市民団体との連動も相乗効果を生んだ。
 自民は秋田で独走したが、5県は厳しい戦いを強いられた。党本部は安倍晋三首相ら幹部級を東北に続々投入する総力戦を展開。各業界の締め付けを徹底したが、加速した野党共闘の前に屈した。
 公示後、与党はネガティブキャンペーンを全開させた。旧民主党政権時代の失政をあげつらい、共産党への反感をあおる発言に終始。憲法論争も避けた。政策競争を軽視した「1強政治」のおごりを見透かされた面は否めない。…」

奥羽越列藩同盟の再現であろうか。秋田を除いて、その余の東北5県と甲信越は野党の勝利となった。選挙結果に絶望することなく、東北の闘い方に学びたいものとと思う。
(2016年7月11日)

醍醐聡さんの「安倍政治批判、野党共闘」ブログに思うこと

下記は、醍醐聰さんの昨日(7月4日)付ブログ。タイトルが、「安倍政治批判、野党共闘、日本共産党の政治姿勢について」というのだから、話はこの上なく大きい。
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-e4ee.html

冒頭に、「(以下は昨夜、Aさんに送ったEメールである。このブログへの転載に当たっては一部、表現を加除した)」とある。この「メールの送り先のAさん」が私だ。醍醐さんのブログは私信ではなくなったのだから、返信ではなく、ブログへの感想を書きたい。

メールをいただいたのは、「昨夜」(3日夜)ではなく、7月4日未明の4時40分のこと。この時刻のメールには、さすがに驚く。「馬力の違いを痛感」せざるを得ない。

私は、ブログ「憲法日記」を毎日書き続けている。第2次安倍内閣存立の時期と重なるこの3年余。醍醐さんご指摘のとおり、「護憲への熱意と安倍政治への徹底した批判」で貫かれているはず。そして最近は、参院選に焦点を当てている。今が、日本国憲法試練の時と意識してのこと。市民運動が背中を押してできた野党共闘を評価し、明文改憲を阻止して「立憲主義を取り戻す」運動に賛同してエールを送る立場を明確にしている。

その毎日の私のブログを丁寧に読んでいただいての醍醐さんのご意見である。私のブログに対する「異論」の提起であるとともに、護憲・リベラル派の言論への物足りなさや、危惧の表明ともなっている。そして革新運動の体質や姿勢についての問題提起でもある。

私信としてのメールでは小見出しはなかったが、醍醐ブログでは、次の小見出しが付いていて、全体の文意を把握しやすい。
 有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?
 「野党共闘」の内実を問う
 日本共産党の中途半端な自衛隊論
 内実が伴わない「立憲主義を取り戻す」の公約
 異論と真摯に向き合う姿勢こそ

この小見出しをつなぐ、ご意見の骨格は次のようなもの。
「有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?」についての分析が不十分ではないか。だから、的確な運動論が展開できていない。「野党共闘」に対する手放しの評価はできないし、共闘の中心に位置する日本共産党のポピュリズムにも危惧を覚える。とりわけ、共闘の共通目標とされている「立憲主義を取り戻す」というスローガンは無内容きわまるものではないか。このような事態で、どうしてもっと異論が出てこないのだろうか。湧き起こらねならない多様な論争が起こらないこの状態こそが何よりも問題ではないか。」

おそらく、醍醐さんがもっとも言いたいのは、次のことだ。
「今の野党共闘陣営(日本共産党も含め)には、借り物ではない、自分の言葉で、意見が異なる人々と対話する能力が決定的に欠けていると日々、感じています。」「私が指摘したような疑問、異論が政党内や支持者内から全くといってよいほど聞こえてこないことに大きな疑問、気味悪さを感じています。」「異論、批判に真摯に向き合わない体質が国民と溝を作る要因であることに、なぜ気づかないのでしょうか?」

私のブログの論調に、「意見が異なる人々と真摯に対話し説得しようとする」姿勢と能力の欠如を感じてのご指摘。これが、私だけでなく野党共闘陣営全体の欠点となっているのではないか。そのことが、護憲や革新の運動が大きくならない最大の原因であろうとのご意見なのだ。思い当たり、肯くべきところが多々ある。
以下に、醍醐さんに触発された何点かについて、私見を述べておきたい。

醍醐さんは、「安倍批判の言葉の強さではなく、多くの人の心のうちに届く言葉を選ぶことが大切だ」と示唆する。そして、多くの人の心のうちに届いて説得力を持つ言葉を選ぶためには、「有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?」をしっかり把握する必要があるとされる。民主主義がポピュリズムに堕しているから、国民が愚昧だから、という切り捨ては解答にならず、問題解決の道は見えてこない。

醍醐さんはこう言う。
「消極的な安倍支持者の主な支持の理由は、次の2つではないかと思います。
 ①安倍(自民党)政権に代わり得る受け皿が見当たらない。
 ②安倍政治に幻想を持っている。」

確かに、「安保法、憲法改定、消費税増税、原発再稼働、沖縄基地問題など、どれをとっても過半の有権者は安倍政権の中核的政策を支持していない」。にもかかわらず、内閣支持率は落ちない。それは、安倍政権への主な支持の理由が、「②安倍政治に幻想を持っている」よりは、「①安倍(自民党)政権に代わり得る受け皿が見当たらない」にあるからと言わざるを得ない。

2009年の民主党政権誕生は圧倒的な民意に支えられた画期的な展開だったが、その失敗の印象が大きい。「自民党政権はあれよりマシ」、「もう、チェンジのリスクをとりたくない」というのが、「ポスト民主党政権」のトラウマとして国民意識に定着している。だから、現政権への国民の支持は消極的なものだが、それにも拘わらず現政権に代わるべき受け皿としての認知されることへのハードルは高い。果たして、現在の「野党共闘」はそのような内実をもったものになっているか。

醍醐さんは、端的に「冷めた見方」だという。私も、野党の共闘は緒についたばかり、政権を担う受け皿としての成熟度が十分とまでは思わない。しかし、改憲阻止という喫緊の課題における現実的な対応としてはこれ以外にはなく、また大きな役割を期待できるとも思っている。裏切られる可能性もなくはないが、このたびの野党共闘は幅の広い市民運動が土台にあってつくり出された側面が大きい。今後とも、市民運動が政党を後押ししながら「野党+市民」の運動が展開される展望をもつことができる。野党の一部が裏切るか否か、それは国会内外の運動の進展如何にかかっていると思う。

なお、正直言って、立ち止まって考えている余裕はないのではないか。今回選挙に、市民主導で野党共闘が実現したことは、「ようやく間に合ってよかった」と、明文改憲阻止のために積極評価したいと思う。醍醐さんが提唱される「市民が主体的に無党派の候補者を擁立し、それを既存の野党も共同推薦するという形」は、やや違和感を否めない。市民と政党を、あまりに開きすぎた距離ある存在ととらえている印象。また、私は小林節グループの運動には批判的な意見をもっている。

日本共産党の自衛隊論については、醍醐さんのご指摘は、かつては常識的なものだったと思う。「ポピュリズムが透けて見えます」というのは、そのとおり。しかし、選挙は勝たねば意味がないという面を否定し得ない。私は自衛隊違憲論だし、共産党もそのはず。それでも、「安保関連法の違憲性を主張しながら、法を施行する際に武力行使の中核を担う自衛隊の違憲性は棚上げするという議論」は、あり得ると思う。現に、昨年の安保法(戦争法)案反対運動は、「自衛隊違憲論者」と「専守防衛に徹する限り自衛隊合憲」論者の共闘として発展した。

私は、個人崇拝も党崇拝もしないが、「共産党の理性はどこまで劣化するのか、計りかねます」というほどには悲観的でない。党の内外からの批判の言論が大切なのだと思う。その意味では、醍醐さんのご意見は、私にではなくむしろ日本共産党に向けられたものとして貴重なものでないか。

醍醐さんのブログの最後は、次のとおりの、革新派の体質問題である。
「上のような疑問を向けると、必ずと言ってよいほど『利敵行為論』が返ってきます。宇都宮選挙の時も体験しました。しかし、異論、批判に真摯に向き合わない体質が国民と溝を作る要因であることに、なぜ気づかないのでしょうか?「今は○○が大事だから」という物言いで、組織の根深い体質にかかわる問題や自らの政策に宿る未熟な部分を直視しない態度を、いつまでとり続けるのでしょうか?」

これは、一面は私への苦言である。私は、「改憲派に議席の3分の2をとられかねない緊急事態なのだから、明文改憲阻止勢力の共闘が大義」と言っているのだから。しかし、その私も、宇都宮選挙を担った「市民グループ」の質の悪さや未熟さと、これを推した日本共産党の無責任を身をもって経験している。

「大所高所」論やら、「大の虫・小の虫」論、「利敵行為」論、さらには「今は○○が大事だから」論のいやらしさは身にしみている。「組織の根深い体質にかかわる問題」や「自らの政策に宿る未熟な部分」を直視してもらいたいという願望は人一倍強い。その私も、場面場面でのご都合主義に流されかねない。

醍醐さんは、類い希なる原則主義者として、その私のご都合主義に警鐘を鳴らしているのだ。こういう人の身近な存在は、得がたい好運というほかはない。

「改憲派に議席の3分の2をとられかねない緊急事態なのだから、明文改憲阻止勢力の共闘が大義」と今の私は考えているが、「今は○○が大事だから」論のご都合主義に毒されているのかも知れない。選挙の結果が出たあとも、秋の臨時国会も、このあとに続く改憲派と護憲派のせめぎあいを、醍醐さんの指摘の視点をもって見続けたい。
(2016年7月5日)

大阪維新は改憲政党である

おおさか維新の会が、「2016年参院選マニフェスト」を公表している。
その公約集のタイトルが、「維新が変える。改革メニュー13」というもの。そのメニューの第1が、驚くなかれ「憲法改正」なのだ。もっとも、アベ自民の改憲草案と同工異曲では埋没するのみ。独自色がないはずはない。総論でのメニューには「憲法改正による教育無償化、道州制実現を含む統治機構改革、政治家改革」と書いてある。これが、トップに掲げられた公約である。

そこで、具体的な改憲内容に興味が湧くことになる。「教育無償化」と「道州制」についてはイメージが湧く。しかし、憲法改正のテーマとしての「政治家改革」ってなんだろう。

ところがマニフェストの具体的項目に目を通して見ると、次の3項目となっている。
(1) 教育の無償化
(2) 道州制実現を含む統治機構改革
(3) 憲法裁判所の設置
あれあれ。メニュー1の憲法改正による「政治家改革」はどこに行っちゃったの?

この(3)の「憲法裁判所の設置」は、「(2) 道州制実現を含む統治機構改革」の一部をなすものだろう。「政治家改革」という言葉は、メニュー2の「身を切る改革・政治家改革」の中にはある。しかし、当然のことだが憲法改正と結びつく内容としては語られていない。メニューのトップに置かれた「憲法改正による政治家改革」は文字通りメニューだけ。料理としては出てこない。

要するに、このマニフェストは真面目に読む有権者の存在を想定していない。メニューのトップに掲げた「憲法改正」問題についてこのありさまだ。相当ないい加減感覚で作成されたものというほかはない。これが、この政党の政策レベル。真面目さレベル。以下、まともに論評することに徒労感がつきまとう。

もちろん、「教育の無償化」という政策が悪かろうはずはない。しかし、維新の公約のキモは、「教育の無償化」を改憲と結びつけているところにある。これは「甘い罠」といわねばならない。気をつけよう、「甘い政策とおおさか維新」なのだ。

マニフェストの当該部分は、「すべて国民は、経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないことを明文化。」「機会平等社会実現のため、保育を含む幼児教育、高等教育(高校、大学、大学院、職業訓練学校等)についても、法律の定めるところにより、無償とする。」という。これが全文。

「教育を受ける機会を奪われないことを明文化」とは、憲法に明文規定を置くという意味だろう。そして、憲法に「法律の定めるところにより、無償とする。」という条文を設けるという趣旨なのだろう。しかし、そんな迂遠な手間ひまをかける必要はない。憲法改正手続を待つことなく、すぐにでも教育無償化法案を提出すればよいことだ。予算はたいしたことはない。F35とオスプレイの買い付けをやめ、辺野古新基地建設を断念してその費用を転用するくらいで、十分ではないか。それで足りなきゃイージス艦も要らない。要はプライオリティの問題なのだ。

現行日本国憲法26条1項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めている。その子どもの教育を受ける権利に対応する義務の主体は、「社会全体 (大人一般)」とされている(旭川学テ大法廷判決)。もちろん、「社会全体 (大人一般)」とは政府も議会も含む概念だ。「経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない」ことこそ、現行日本国憲法の現代憲法としての面目である。憲法改正をしなければ実現しない課題ではないのだ。

憲法改正を要しない政策課題をことごとしく憲法改正テーマとして押し出す維新の底意はどこにあるのか。アベ改憲志向政権へのスリよりである。改憲という重要テーマを軽く見せることで、政権に秋波を送っているのだ。「憲法改正なんぞはたいしたことではない。安倍自民党の改憲提案を拒絶しませんよ」というシグナルでもある。

道州制については、もう言い古されてきた。地方自治強化の名で、実は国の福祉機能と責任を切り捨てる新自由主義政策の目玉の一つである。福祉を切り捨てて法人税軽減の財源とすべしという財界による財界のための政策。

そして、統治機構改革としての「憲法裁判所」。
「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さないよう、憲法裁判所を設置する」という。マニフェストには掲載されていないが、報道では「12人の裁判官で構成し、一審制とする」という。憲法裁判所は、具体的争訟とは無関係に法令の合違憲適合性の審査権を持つ裁判所をいう。うまく機能すれば、「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さない」役割を果たすことになる。しかし、その反対に、「立法や行政に、迅速に合憲のお墨付きを濫発する」機関にもなりかねない。実はアベ政権が喜びそうな改憲案なのだ。

ドイツや韓国ではかなりうまく機能しているようだが、果たして日本でも適正な運用が期待できるかどうか。私は懐疑派である。この点慎重を要する問題というほかはない。

以上の憲法問題だけからも、おおさか維新の基本的な立ち位置が見えてくる。政権に擦り寄りながら票を集めねばならない、ということなのだ。

かつては「みんな」や「維新」を第三極といった。この表現には、政権与党と野党の対立軸とは、別の平面に位置しているという持ち上げのイメージがある。今、それはない。注目すべきは、維新自身が、政策の独自性発揮に苦労を隠していないことである。

マニフェストに「維新は他党とここが違う」という1項目が設けられている。わざわざ、そう言わなければならない苦しさが滲み出ている。しかも、そこに掲げられている表をよく見ても、他党との違いは見えてこない。

自らつくったこの表は、「民共」を左欄に、「自公」を右欄において、その中間の「維新」の政策が、左右の欄の政策とどう違うかを際たせようというもの。この表を見ると、「民共」対「自公」の対立はよく見えてくる。しかし、維新の独自性はよく見えない。目立つ独自政策は、あっけらかんとした「TPP賛成」くらいではないか。この点は新自由主義政党としての面目躍如というべきだろう。とても、全国で有権者の支持は得られまい。

たとえば、毎日が松井一郎について、こう言っている。
「初の大型国政選挙に挑むおおさか維新の会は憲法改正に賛成し、安倍政権には是々非々の立場。『自公』対『民共』が注目される中、いかに埋没を防ぐか。橋下徹前代表の政界引退で、『党の顔』としての重責を背負う」
これが、維新の今の立場をよく表している。要するに、票を取ろうと思えば、政策は『民共』に似てこざるを得ないし、さりとて「自公」に擦り寄るメリットは捨てられないし…。喜劇のハムレットなのだ。早晩消えゆく政党ではあるが、消えるまでに改憲の土台を整備し、改憲ムードという遺産を残されたのではたまらない。

赤旗は辛辣だ。
「『身を切る改革』を参院選の公約の1番目に掲げる、おおさか維新の会。一方で、母体となる地域政党・大阪維新の会の議員による政務活動費の不正支出は後を絶ちません。
 たとえば、堺市の小林由佳市議は、印刷や配布の実態がない政策ビラの代金などに計約1040万円を支出。返還をめぐって訴訟にまで発展しています。北野礼一元堺市議は、ゴルフコンペの景品購入代などに約1050万円を支出し、辞任に追い込まれました。
 大阪市の伊藤良夏市議は、トヨタの高級車「レクサス」の購入費の一部に政務活動費を充てていました。
 言行が一致しないのは、政務活動費の問題だけではありません。
 兵庫県議会で維新は、一昨年末に期末手当(ボーナス)を引き上げる議案に賛成しました。神戸市議会でも同年、議案の共同提案者となってまでボーナスを引き上げました。
 『退職金をゼロにした』と訴える松井一郎代表(大阪府知事)も、実際には廃止分を毎月の給与に上乗せし、総額で348万円も給与を増額させただけです。
 政党助成金についても、『必要経費』と言って手放しません。
 選挙のたびに『身を切る』と叫んで政治家としての『身分』を守り、公約をほごにして税金で身を肥やす。これが、おおさか維新の会が唱える『身を切る改革』の実態です。」

おおさか維新に集まる連中の質の低さは、赤旗が指摘するとおりである。問題議員はもっともっと多くいる。それが、この党の抱える本質的問題と言ってよいかどうかは分からない。しかし、おおさか維新は政党助成金をぬくぬくと受領し、けっして政党助成金の制度廃止を言い出さない。このことだけで、身を切る改革の本気度を信じることは到底できない。

こんな不誠実な政党への支持は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。おおさか維新への投票」。
(2016年7月2日)

公明党の公約には、「憲法」も「沖縄」もまったく出てこない。

はや7月である。今年も半分が過ぎた。この秋はどのような秋になるだろうか。暮れはどうだろう? 鬼が笑っているだろうか。それとも鬼も哭いているのだろうか。

今月10日に参院選投開票。そして、31日には都議選である。とりわけ2016年参院選の結果は、日本の将来を大きく左右することになりかねない。憲法と日本の命運のかかる選挙である。

今日を含めて選挙運動ができる期間は、あと9日。当ブログも精一杯、野党共闘の側の勝利のための記事を書き続けたい。

今日は公明党を取り上げる。自民党の下駄の雪と揶揄されつつも、壊憲与党を支える大勢力となっている。昔は、「平和の党」や「福祉の党」を称したが、今、その面影はない。

公明党の参院選政策集に、憲法問題への言及のないことが話題となっている。自民党のように「隅っこに小さく」さえも載せない。自民党のように「もごもごと曖昧に」語ることすらしない。

公明党の選挙政策集は「希望が行きわたる国へ」という21頁に及ぶものだ。大項目で6、小項目では52の政策を掲げている。そのなかに、憲法がまったく出てこないのだ。護るとも、活かすとも、付け加えるとも、語るとも、論ずるとも、変えるとも、なくするとも言わない。まったくのダンマリ。国民の間に憲法や立憲主義についての関心がこれだけ高まっているときに、国の行く末を左右するこの大問題への徹底した沈黙は、不気味というほかはない。

大項目の第5項が、「安定した平和と繁栄の対外関係」。この中には、「アジア太平洋地域の平和と繁栄の構築」という小項目がある。しかし、ここでも中国に対する侵略戦争や、韓国に対する植民地支配に関する歴史認識はまったく語られていない。そもそも憲法の理念を語る姿勢に欠けていると指摘せざるを得ない。憲法問題については完全なフリーハンドを留保しておきたいという意思表示なのだろう。こんな政党に投票できるだろうか。

公明党の選挙公約に欠けているのものは「憲法」だけではない。実は、「沖縄」も出てこない。「普天間」も「辺野古」の文字もない。もちろん、「海兵隊」も「カデナ」も「オスプレイ」も「地位協定」もない。公明党は、いったい国と沖縄の深刻な対立問題をどう考え、どう対応しようとしているのか。その方針について、民意の審判を受ける意思はないというのだろうか。

しかも、である。辺野古新基地建設に伴う大浦湾の公用水面埋立問題に関わって、沖縄県知事の埋立承認取消を執行停止とし、埋立工事の続行を強行させた悪名高い国交大臣は、公明党所属の石井啓一ではないか。辺野古埋立を是とするのであれば、堂々と公約に掲げて民意の審判を仰ぐべきが当然ではないか。

選挙遊説でも、公明党の幹部は憲法も沖縄も語らないという。しかし、両テーマとも日本の政治の根幹に関わる大問題である。有権者の関心もきわめて高い。これに触れない公明党の選挙公約を、いったい何と評すべきか。

「2014年衆院選や13年参院選の公約では、憲法に新たな条項を加える『加憲』の項目があったが、今回は触れていない。山口那津男代表は(6月)9日の記者会見で『今回の選挙は、憲法改正の成熟した選択肢が実現していないので、争点にはならないと考えている』と説明した。」(毎日)
これは、論理的に破綻している。前回・前々回選挙では成熟していた憲法改正の選択肢が、今回選挙ではその成熟がしぼんだとでもいうのであろうか。事態はまったく逆であることが明らかだ。要するに公明党は、都合の悪いことからは逃げているだけのことなのだ。

憲法についても沖縄についてもホンネを語らず、きれいごとだけを並べてごまかして、票だけはいただこうという、姑息な魂胆が透けて見える。これが公明党の流儀というほかはない。このような真摯さと誠実さに欠ける政党の集票活動に有権者は惑わされてはならない。

この公明党の姿勢への反発を「日刊ゲンダイ」が報じている。「公明党まさかの大苦戦 比例区に手回らず支持者離れも深刻」という表題。

「支持者を裏切った結果か。公明党が真っ青になっている。参院選で予想外の苦戦をしているからだ」というリードで始まっている、その記事の中に次の取材コメントが紹介されている。
「公明党は定数が増えた選挙区に次々に候補者を擁立しています。愛知は9年ぶり、兵庫と福岡は24年ぶりに立てた。パワーが分散されたためか、埼玉と兵庫は大苦戦している。埼玉は最後の1議席を共産党と争い、兵庫は民進党と競り合っている。焦った公明党は、安倍首相に泣きつき、埼玉と兵庫の公明党候補の応援演説をしてもらっています。もし、2つの選挙区を落としたら、山口那津男代表の責任問題になるでしょう」(公明党事情通)

「公明党の支持者は、公明党を“平和の党”“福祉の党”と信じて支持し、選挙になれば知り合いに投票をお願いする、いわゆる“フレンド票”を集めてきた。ところが公明党は、“戦争法案”成立に突っ走った。あれで、熱心な支持者ほど離れてしまった。今回、“自分は公明党に一票を入れるけど、フレンド票は集めない”と口にする人も多い。比例票が激減する可能性があります」(公明党関係者)

同様の報道は、複数見られる。私には選挙情勢や党内事情についての真偽を判断する術はない。しかし、かつては平和を語って平和憲法擁護の立場を明確にし、福祉を語って民衆の支持を集めていた政党のこの様変わりである。戦争法を強行採決し、弱い者イジメの新自由主義政策に加担している公明党に、かつての真面目な支持者が愛想をつかして公明党離れをしつつあるということは、大いに納得できる。

こんな不誠実な政党への投票は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。公明党への投票」。
(2016年7月1日)

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