澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

おしつけないで!6.30 リバティ・デモ 報告

東京「君が代」裁判・4次訴訟原告の先生方を励ますために、ご参集いただいた皆様に感謝申しあげます。限られた時間ですので、お話しできることも限られたものになることをご容赦ください。

私たちの裁判での主張は、日の丸の否定でも、君が代の違法でもありません。その骨格は、
★「国旗・国歌」にどのような考えを持とうとも自由なはず
★「国を愛する」気持ちを押しつけることなどできるはずもありまん
★教育は自由がなくては成り立たない。失われた学校の自由を取り戻したい
というものなのです。

その根拠は、近代憲法の典型である日本国憲法がその根本としている「個人主義」と「自由主義」にあります。個人主義とは、個人の尊厳を憲法上の価値の根源とする考え方です。国家ではなく、社会でもなく、個性をもった一人ひとりの個人こそが最も大切だという考え方です。自由主義とは、その大切な個人の尊厳を傷つける存在としての国家の危険性を自覚して、国家権力が暴走することがないよう、厳格に制約しなければならないとする考え方です。

このような考え方を徹底してきたのが、アメリカの司法です。とりわけ、連邦最高裁の判例は厳格にこの考え方を貫いてきました。そのうち、国旗・国歌に関わるいくつかをご紹介します。

▼1940年 ゴビティス事件・連邦最高裁判決
エホバの証人の信者であるゴビティス家の子供たちは、公立学校の国旗宣誓敬礼の強制拒否して退学処分となり、これを違憲と争いましたが、連邦最高裁で敗れました。違憲とした裁判官はわずか1名。8名が合憲としました。多数派の意見は、個人の尊厳よりも国家のまとまりが大切だとしたのです。

▽1943年 バーネット事件・連邦最高裁判決
ゴビティス判決は、わずか3年で劇的に逆転します。それが、今に至るまでのリーディング・ケースとなっているバーネット判決です。事案はゴビティス事件と同じく、エホバの証人の信者の国旗宣誓敬礼拒否による退学処分の合違憲判断です。6対3で違憲の判断は今日まで維持された判例法となっています。

▽1969年 ティンカー事件・連邦最高裁判決
ヴェトナム戦争反対の黒い腕章をつけて登校した生徒に対する停学処分の合違憲判断が争われて生徒側が勝訴した事件です。
「生徒・教師が憲法上の権利を校門で捨てるとの主張はできない」「(腕章着用)は、静かで受動的な表現」「われわれの憲法は、われわれが混乱のリスクを引き受けなければならないと語っている」などという理由が述べられています。

また、一連の国旗焼却刑事事件の無罪判決があります。
▽1969年 ストリート事件(無罪)
▽1989年 ジョンソン事件(無罪)
▽1989年 アイクマン事件(無罪)

アメリカ国民には、星条旗を焼却する「表現の自由」の保障があります。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体ですから、強固なナショナリズムの統合作用なくして国民の一体感形成は困難だという事情がありねます。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強いのですが、それだけに、国家に対する抵抗思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えません。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定しました。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはなく、ベトナム反戦運動において国旗焼却が続発し、合衆国全土の2州を除く各州において国旗焼却を処罰する州法が制定されました。その法の適用において、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこしたのです。

著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっています。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実ですが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反です。

連邦法は、68年「国旗冒涜処罰」法では足りないとして、89年「国旗保護」法では、アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までを構成要件に取り入れました。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付け、そして、無罪の判決を獲得したのです。

アイクマン事件判決の一節です。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている自由、そして尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」
なんと含蓄に富む言葉ではありませんか。

その他の州レベルでの判決です。
▽1965年 バンクス事件 フロリダ地裁判決
「国旗への宣誓式での起立拒否は、合衆国憲法で保障された権利」
▽1977年 マサチューセッツ州最高裁
「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、教師が子どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法にもとづく教師の権利を侵す。バーネット事件で認められた子どもの権利は、教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、宣誓に対して沈黙する権利を有する。」
▽1977年 ニューヨーク連邦地裁
「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座っていようが、個人の自由である」

自由の到達点において、わが国が国際基準に比較していかに遅れているか。君が代不起立がいかにささやかな、自己防衛行為でしかないか、お分かりいたたけるのではないでしょうか。
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本日の「おしつけないで!6.30 リバティ・デモ」は、予定のとおり、にぎやかに楽しくおこなわれた。参加者数は、主催者発表で80名。但し、出発前集会参加数確認は75名。「デモだけに参加した者が5人はいたと思われる」とのことでの、総員80名。
(2018年6月30日)

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。

「日の丸・君が代をおしつけないで」という集会とデモを行います。名付けて「リバティ・デモ」。ぜひご参加ください。

私たちの主張は、「日の丸・君が代に反対」ではなく、「日の丸・君が代をおしつけないで」ということです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方の意見は尊重しましょう。同じように、「日の丸・君が代の押しつけは困る」という私たちの声にも耳を傾けていただきたいのです。

私たちが大切にしたいのは一人ひとりの考え方がひとしく尊重される多様性です。多様であることの自由です。自由の先進国の言葉で言えば、「リバティ」あるいは「リベルテ」。だから、「リバティ・デモ」。

「日の丸・君が代」が好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる「やわらかでやさしい社会」を目指して、 ご一緒にデモに参加していただけませんか。

私たちは、主張します。

「国旗・国歌」にどのような考え方をもつのも自由であること
「日の丸・君が代」への敬意を強制してはならないこと
「国を愛する気持ち」は自然に湧き出るもので、押しつけることはできないこと
学校とは、多様な意見を尊重し合うことを学ぶところであること

この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

みんなで一緒に楽しく歩きましょう。自由を求めて。

… … … … … … … …

日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

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このリバティデモ出発前の集会では、私(澤藤)が報告する。テーマは、「4次訴訟の現段階」。いま、東京「君が代」裁判(懲戒処分取消等請求訴訟)4次訴訟は、東京高裁で半分勝ち半分負けて、納得できない13人が上告している。7月6日までに上告理由書を提出しなければならない。いま、弁護団は必死になって、この上告理由を執筆している。

以下に、一部をピックアップしてご紹介したい。「原判決(東京高裁第12民事部(杉原則之裁判長)2018年4月18日)には、憲法20条(信教の自由保障条項)解釈の誤りがある」とする上告理由中の一節。(但し、すべてが裁判書提出のとおりではない。)

1 国民各人の多様な価値観の共存を尊重すべきことは民主主義社会における普遍的な基本原理である。日本国憲法はこの基本原理に基づいて、個人の精神生活のありようについては、当該個人の選択を無条件に尊重すべき多元主義の立場に立つ。公権力によるその選択への介入は絶対的に禁止されている。
その当然の帰結として、憲法は、多文化,多宗教が共存する社会を正常なものと想定して、個人において信仰をもつことも、もたないことも、またいかなる宗教的信念を持つことも、完全な自由として保障している。
誰もが自ら選択した信仰にしたがって生きることを権利として保障される。公権力がこれに介入することは許されない。ただ、信教の自由の行使が、他の人権や、譲ることのできない憲法価値と具体的に衝突する場面では、その限りで調整を受けるべきことは当然であって、信教の自由ゆえに全ての行為(作為・不作為)が許されるというものではありえない。他の権利と関わりうるすべての権利が無制限ではあり得ないことは、ことさら述べるまでのことでもない、当然の事理である。肝腎なことは、他の権利との衝突の場面での調整の必要が認識されるべきこと、その調整のありかたが憲法の理念(価値序列)に照らして合理的でなければならないということである。
2 日本全体が多宗教共存の社会である以上、都立校の教職員の中にも、多様な信仰をもつ者があり、また、信仰をもたない者もある。信仰者であることを公然化している者もあり、そうしてはいない者もある。そのことは、上告人らにおいても同様である。
信仰は多様である。宗教的なタブーとされるものは、それぞれの信仰によって著しく異なる。偶像崇拝禁止に潔癖な信仰もあり、そうでない信仰もある。その教義や歴史的経緯から公権力との関係に緊張感の高い宗教もあり、公権力に親和性の濃い宗教もある。信仰上の理由で、日の丸・君が代への敬意の表明をなしがたいとする者もいれば、その信仰と矛盾を感じない信仰者もありうる。
また、非信仰者の宗教意識も同じく多様である。自らは信仰をもたないが、日の丸・君が代の有する宗教的な側面に強い違和感をもち、それ故に起立斉唱等の強制には服しがたいとする者もいる。
上告人らが提出した陳述書によれば,少なくとも二人の上告人が、自らキリスト教を信仰していることを明示して、その信仰ゆえに日の丸・君が代への敬意の表明はできない、したがって起立斉唱等を強制する職務命令には服しがたい、としている。また、一審における原告本尋問結果も、詳細にそのことを証している。
この両名について、憲法20条が保障する信教の自由侵害があったことは明らかというべきであって、これを儀礼的所作の強制に過ぎないとして、「そもそも信教の自由侵害にあたる公権力の行使そのものが存在しない」とするのは、詭弁も甚だしい。
3 憲法20条は,第1項前段で「信教の自由はこれを保障する」と規定し,第2項で「何人も宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない」と規定する。
信教の自由には,①信仰の自由,②宗教的行為の自由,③宗教的結社の自由が含まれると説かれるが、本件で論じられるのは、主として「絶対的保障」とされる信仰の自由であり、これと不可分な限りでの消極的宗教的行為の自由である。
留意さるべきは、信教の自由が,多数派または正統派とされる宗教(オーソドックス)に対する少数の異端者,抵抗者の信仰の自由を保障するために認められてきたという歴史的経緯である。謂わば、典型的な少数者の人権として意識されてきた「非妥協的な基本権」である。宗教的少数者に対して宗教的寛容を強制するという愚かな過ちを犯してはならない。「たとえ,少数の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても,彼らの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されないのである」(津地鎮祭訴訟大法廷判決の藤林益三最高裁長官の追加反対意見)との言が信教の自由の真髄を示していることを看過してはならない。
公権力が特定の宗教を正統と定め,国民に対しその信仰を強制あるいは勧奨することは,公権力が人の内心に踏み込むことであるから絶対的に禁止される。また,特定の信仰を有すること,あるいは有しないことを理由として刑罰その他の不利益取扱いをすることも,憲法20条1項前段によって禁じられる。さらに,公権力が人の信仰の有無を強制的に告白させること,あるいは宗教関係の調査を行うことは,公権力が人の信仰の有無を知ろうとするのは,それによって,有形無形の圧力,干渉を加えるためであったことは歴史的事実であり,仮にそれが弾圧,迫害を目的とするものではないとしても憲法20条によって禁止されるのである。
したがって,信仰の自由は,①特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を強制することの禁止,②特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を理由とする弾圧,迫害など不利益処遇の禁止,③信仰を有していること,あるいは有していないこと,無信仰であること,の告白を強制することの禁止,をその内容としている。
これらの信仰の自由は,憲法19条が保障する思想・良心の自由の宗教的側面であり,その保障の効果も,憲法19条と同様に,絶対無制約である。
なお、憲法20条2項は,何人も宗教上の行為などを「強制されない」というかたちで規定しているが,これは,明治憲法の下で,神社への参拝が強制されあるいは神道式の国家的儀式への参加が強制され,あるいは神道式の学校行事の実施が強制されたことに対する反省から定められたものに他ならない。すなわち,宗教上の行為(典型的には、礼拝,祈祷,宗教儀式,式典,あるいは布教活動など)を行うこと,または参加すること,あるいはこのような行為を行わないこと,または参加しないことなどはすべて個人の自由な意思で決めるべきことであって,公権力がこれらを強制することは許されないことの確認規定である。
ここでいう「宗教上の行為」の外延は、被強制者の信仰の自由保障の観点から、合目的的に確定される。信仰の自由の外延を切り縮めることがあってはならないことから、「宗教上の行為」の外延も同様の広い外延をもつ。
4 キリスト教徒である上告人両名の「信仰上、起立斉唱等ができない」とする心情を語った各陳述書の内容および本人尋問結果の内容は、同じキリスト教徒でも、日の丸・君が代の強制に服しがたいとする理由はけっして一様ではない。
しかし、キリスト教徒として真摯な信仰を有する上記上告人らのすべてにとって、卒業式・入学式等での君が代斉唱時に,日の丸に向かって起立し君が代を斉唱することは,信仰に反する行為を外部からの命令によって強制されることであり,自己の信仰の否定にほかならないとする強い信念においては一様であることをものがたっている。
キリスト教徒である上告人らにとって、信仰の対象とする神以外の偶像には崇拝が禁じられる。一方,日の丸・君が代は,戦前戦中において,神権天皇制国家の国旗国歌として、宗教国家のシンボルであると同時に、国家宗教のシンボルでもあった。国家神道の象徴として、明らかに神性を有する宗教的な存在であった。そして,いまなお,「日の丸・君が代」の宗教性は払拭されていないというのが上告人らの信念である。
したがって、「日の丸・君が代」に敬意を表明することは信仰に反する行為としてなしえない。このような説明は、多元的価値観の併存を認め、他人の信仰に寛容であろうとする良識を備えた者には、容易に了解可能なものである。
「いまなお,日の丸・君が代の宗教性が払拭されていない」ことが「客観的な」事実であるか否かの確認は不必要である。これも、信仰者の宗教的信念の内容に属することがらだからである。起立斉唱等の強制が、当該上告人らの信仰の自由と抵触することは明らかというべきである。
もちろん、信仰内容だからという理由で、あらゆる職務命令の拒否が許容されるものではない。他の重大な憲法価値との衝突の局面では、信仰が譲歩を余儀なくされることもあろう。
しかし、真摯なキリスト教徒の信仰を傷つけてでも、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意の表明を強制する必要性も合理性も到底認めがたい。ここには、憲法価値の優劣に関する倒錯があるとしか評しようがない。
卒業式等における「日の丸・君が代」強制は、当該信仰者との関係において、明らかに信仰の自由を侵害するものである。(以下略)

(2018年6月26日)

戦前の神社参拝強制と、いまここにある「日の丸・君が代」強制と

みなさま、「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。

私たちの主張は、「日の丸・君が代」反対ではなく、「日の丸・君が代強制」に反対なのです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる社会を目指して、 「君が代」の強制と処分をはねかえすために、ご一緒にデモに参加していただけませんか。

私たちは、主張します。

「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
学校に自由を取り戻したいということ、を。

この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

私たちと一緒に楽しく歩きましょう

… … … … … … … …

日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

下記のチラシをご覧ください。

リバティデモチラ
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このリバティデモ出発前の集会では、私が報告する。テーマは、「4次訴訟の現段階」。いま、東京「君が代」裁判(懲戒処分取消等請求訴訟)4次訴訟は、東京高裁で半分勝ち半分負けて13人が上告している。7月6日までに上告理由書を提出しなければならない。いま、弁護団は必死になって、この上告理由を執筆している。

以下に、お読みいただいて分かり易く面白そうなところをピックアップしてご紹介したい。「原判決(東京高裁第12民事部(杉原則之裁判長)2018年4月18日)には、憲法20条(信教の自由保障条項)解釈の誤りがある」とする上告理由中の一節。但し、引用がすべて原文のとおりではない。

1 原判決における、信教の自由侵害の主張を排斥する説示の中心部分は、「卒業式等における国歌斉唱時の起立斉唱は,‥一般的,客観的に見て,儀式的行事における儀礼的所作に当たる行為であり,それを超えて,宗教的意味合いを持つ行為であるということはできない」「卒業式等における起立斉唱等は,儀式的行事における学校職員という社会的な立場にある者としての行動にすぎず,本件通達及び本件各職務命令が,クリスチャンである教員らの信仰を否定したり,その信仰の有無について告白を強要したりするものであるということはできない」「クリスチャンである教員らが信仰者としての本心においてはなしがたい外部的行動を求められることとなり,その限りにおいて,その信教の自由についての間接的な制約となる面があるとしても,10・23通達及び本件各職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に衡量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」という簡明なものである。

2 以上の原判決の説示における「論理」は、わが国の憲法史を学んだ者にとって、大日本帝国憲法時代における天皇制政府が信教の自由侵害を糊塗したロジックの引き写しであることが一見明白である。
大日本帝国憲法28条は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定した。
この条文によって曲がりなりにも「信教ノ自由ヲ有ス」るはずの「日本臣民」は、その実態において神社参拝や宮城遙拝を強制された。とりわけ、学校ではあからさまな公権力による宗教行事への参加強制がまかり通っていた。
その事態は、法治主義が無視され蹂躙された結果ではない。形骸としての法治主義は貫徹されたが、憲法の歪んだ解釈によって実質的に信教の自由侵害がもたらされたのである。
今、日本国憲法下にあって、裁判所のロジックが戦前と同様の過ちを繰り返そうとしている。

3 天皇制下の戦前といえども、国民に対する国家神道行事への参加強制は、その実質において旧憲法28条で保障された「信教ノ自由」の侵害にあたることに疑いの余地はない。これを、形式における合憲性を取り繕う論理として編み出されたのが、(1)「神社は宗教に非ず」とする神社非宗教論であり、(2)宮城遙拝や神社参拝は「臣民タルノ義務」であるとする、両様の公権解釈であった。
神社非宗教論は、公権力が宗教を恣意的に定義することによって、「信教の自由」の外延を限定する論法である。天皇制政府とその忠実な吏員とは、「神道には創始者がいない」「神道は教義の体系をもたない」「単なる自然崇拝である」「祖先の祀りに過ぎない」‥、等々の「宗教であるための必須の諸条件」を欠くことをあげつらって、神社や神道の宗教性を否定し、神道行事への国民の参加強制を信教の自由侵害とは無関係なものとした。
今日振り返って、神社非宗教論の「法論理」には、次の2点の問題性の認識が重要である。
その一は、公権力がいかようにも宗教を定義できるという考え方の問題性である。周知のとおり、信教の自由は各国の憲法史において自由権的基本権のカタログの筆頭に位置してきた。個人の精神生活の自由を公権力の掣肘から解放するための基本的人権概念の内実を、公権力の恣意的な宗教の定義によって権力が許容可能な範囲にまで切り縮めうるとの考えは、厳しく批判されなければならない。
にもかかわらず今、裁判所による「一般的,客観的に見て」という奇妙なキーワードが、信教の自由の外延を制限的に画する役割を果たしている。裁判所が、国民に強制される行為の宗教性の有無を「一般的,客観的に見て」と多数者の視点をもって切り縮めて判断することは、その判断によって信教の自由を侵害される少数者の立場からは、神社非宗教論と同様の誤りなのである。
その二は、「非宗教的行為については、国家が国民に強制しても、強制される国民の信教の自由に抵触するものではありえない」とする考え方(ドグマ)の問題性である。
かつては、神社参拝も宮城遙拝も非宗教的行為である以上、いかなる信仰をもつ者に対する関係においても、その強制が信教の自由を侵害するものではない、とされた。その天皇制政府と同様の思考のあり方が原判決の説示を貫いている。「日の丸・君が代は非宗教的存在であり、それへの敬意の表明行為に宗教性はない」「それ故、起立・斉唱(日の丸に正対して起立し君が代を斉唱すること)の強制が被強制者の信教の自由を害することはない」というドグマである。
しかし、非宗教的行為の強制が、特定の信仰者の信仰に抵触してその信教の自由を侵害することは、神戸高専剣道受講強制拒否事件最高裁判決を引用するまでもなく当然にありうることであって、原判決には信教の自由のなんたるかについて真摯に思いをいたした形跡を見出しがたい。

4 神社参拝や宮城遙拝の強制を合理化するもう一つの公権解釈における論法が、これを信教の自由にかかわる範疇からはずすだけでなく、「臣民タルノ義務」の範疇に属せしめるものである。
大日本帝国憲法(1889年制定)での「臣民ノ義務」は兵役の義務(20条)・納税の義務(21条)の二つであったが、教育勅語の発布(1890年)によって教育の義務が加わって、「臣民の三大義務」とされた。28条の「臣民タルノ義務」は、当初はこの「臣民の二大義務」ないしは「三大義務」を指すものであったが後に拡大して解釈されるようになった。
神社非宗教論だけでは、信教の自由を保障されたはずの国民に対する神社参拝強制を合理化するロジックとしては不完全であることを免れない。前述のとおり、非宗教的行為の強制が、特定の信仰をもつ者に対する関係ではその信仰を侵害することがありうるからである。神社の宗教性を否定しただけでは、「神社が宗教であろうとなかろうと、自分の信仰は自分の神以外のものへの尊崇の念の表明を許さない」とする者の信教の自由を否定する論拠としては不十分なのである。
天皇制政府の公権解釈は、神社参拝を「臣民タルノ義務」の範疇に属するものとすることでこの点を解決した。神社参拝の強制を自分の信仰に抵触するものとして服従しがたいとする者にも、臣民としての義務である以上は、信教の自由侵害を理由とする免除は許されないとして、強制を可能とするロジックが一応は完結することとなった。

5 著名な具体的事例として、上智大学学生の靖国神社参拝強制拒否事件の顛末を追うことで、この点の理解が可能である。
  「1931(昭和6)年9月の満州事変の勃発を境に、国内の思想言論の統制は加速度的に強化され、国家神道はファシズム的国教へと最後の展開をとげることになった。
  神社対宗教の緊張関係は、国家神道の高揚期を迎えて、様相を一変した。満州事変勃発の翌1932(昭和7)年4月、靖国神社では、「上海事変」等の戦没者を合祀する臨時大祭が挙行され、東京の各学校の学生生徒が軍事教官に引率されて参拝した。そのさい、カトリック系の上智大学では、一部の学生が信仰上の理由で参拝を拒否した。文部省と軍当局は事態を重視し、とくに軍当局は、管轄下の靖国神社への参拝拒否であるため態度を硬化させ、同大学から配属将校を引き揚げることになった。軍との衝突は、大学の存立にかかわる重大問題であったから、大学側は、天主公教会(カトリック)東京教区長の名で、文部省にたいし、神社は宗教か否かについて、確固たる解釈を出してほしいむね申請した。カトリックとしては、神社がもし宗教であれば、教義上、礼拝することは許されない、というのが、申請の理由であった。文部省は内務省神社局と協議し、9月、天主公教会東京大司教あての文部次官回答「学生生徒児童ノ神社参拝ノ件」を発し、「学生生徒児童ヲ神社ニ参拝セシムルハ、教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、此ノ場合ニ、学生生徒児童ノ団体カ要求セラルル敬礼ハ、愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」との正式見解を示した。神社参拝は、宗教行為ではなく教育上の行為であり、忠誠心の表現であるから、いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できないというのである。この次官回答によって、学校教育においてはもとより、全国民への神社参拝の強制が正当化されることになった。カトリックでは、神社は宗教ではないという理由で、信者の神社参拝を全面的に認め、国家神道と完全に妥協した。しかしプロテスタントでは、翌年、岐阜県大垣の美濃ミッションの信者が、家族の小学生の伊勢神宮参拝を拒否して、二回にわたって同市の市民大会で糾弾されるという事件がおこったのをはじめ、教職者、信者による神宮、神社の参拝拒否事件が続発した。」(村上重良「国家神道」岩波新書・200~201頁)
ここに紹介されている文部次官通達が述べるところは、学生生徒児童が要求される靖国神社の祭神に対する敬礼の宗教性を否定するにとどまらず、「教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」と明確に、臣民たるの義務の一環だとしている。神社参拝を非宗教行為の範疇に属するとしただけではなく、村上重良が指摘するとおり、「いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できない」としたものである。
  はからずも原判決は、このロジックとの相似の論理を骨格としている。「靖国神社」は「日の丸・君が代」に、「臣民タルノ義務」が「公務員としての義務」に置き換えられた。
  「神社は宗教にあらず」とされた如く、「日の丸・君が代には一般的客観的に宗教性はない」とされ、さらに原判決は「クリスチャン教員らが公務員である以上、いかなる宗教上の理由によっても、起立斉唱等を拒否できない」と駄目を押したのである。
(2018年6月19日)

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」 ― 「日の丸・君が代」反対ではなく、強制はおかしいというデモをします。

本日(5月31日)の朝刊各紙に、栃の心剛史(本名レヴァニ・ゴルガゼ)大関昇進の晴れがましい写真が掲載されている。実ににこやかで嬉しそうな表情。そして、彼が大きなジョージアの国旗を掲げているのが目を惹く。

「国旗を手に笑顔の栃ノ心」
https://www.jiji.com/jc/p?id=20180530111155-0027185226

これまではグルジアという国名でなじみが深かった。かのヨシフ・スターリンの出身地。キリスト教の聖人である聖ゲオルギオスを守護神とするところからの国名。グルジアもジョージアもその転訛。国旗のデザインも、聖ゲオルギオスの十字架なのだそうだ。

力士が母国の国旗を誇りとして異国・日本で掲げる姿は微笑ましくも清々しい。モンゴル出身者も、ブラジル人も、韓国も中国もブルガリアも、自国の国旗が好きな力士は同じようにやれば良い。もちろん、日の丸大好きな力士が日の丸を掲げて悪かろうはずはない。国旗ではなく県の旗でも市の旗でも、あるいは村旗でも町内会旗でも校旗でも、自分のアイデンティティとつながる旗を、自分が誇りに思う旗を掲げるがよい。

大事なことは、それぞれの掲げる旗の選択は自由だということだ。そして、自分の自由と同じく、他の人の自由も尊重しなければならないということ。誰も、自分の旗を掲げる自由を侵害されないし、自分の好まざる旗を掲げるよう強制されることはない。

栃の心に向かって、「ジョージアの国旗とは怪しからん。日本にいる間は、日の丸を掲げよ」などと野暮なことを言ってはならない。それは、栃の心という人格に対する心ない攻撃になる。誰の人格も同じように尊重しなければならないとする、近代社会の公理に反する。

「日の丸」も「君が代」も同じことだ。好きな人は、日の丸を手に君が代を歌いながら歩けばよい。しかし、嫌いな人に押しつけてはならない。

キーワードは多様性だ。それぞれが、他の人とは違った自分の考えと好みをもってよいのだ。他の人とはちがった考えや好みこそが尊重される。同時に、他の人の考え方や感じ方を尊重しなければならない。他人に強制はしない、他人から強制されることもない。これが、自由ということだ。

自由を侵す者の正体は、実は社会の多数派である。往々にして、社会の多数派は少数者に多数派の考え方や感性を押しつけようとする。自由とは人権である。人権とは、けっして多数決で侵してはならないもの。人権と民主主義とは緊張関係にある。油断していると、社会の多数派の同調圧力が、少数派個人の自由を押しつぶしてしまいかねない。

だから、呼びかけたい。「日の丸・君が代」を押しつけてはならない。「日の丸」も「君が代」も、ジョージアの国旗も、これを誇りとする人は、大切にすればよい。でも、どうしても「日の丸」や「君が代」を受け入れることができないという人に、押しつけないでいただきたい。強制はいけない。人権を大切にしていただきたい。

そのようなアピールのために、「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。私たちの共通の主張は、けっして「日の丸・君が代」反対ではありません。「日の丸・君が代強制」に反対なのです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる社会を目指して、 「君が代」の強制と処分をはねかえすために、ご一緒にデモに参加していただけませんか。

私たちは、主張します。

「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
学校に自由を取り戻したいということ、を。

この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

私たちと一緒に楽しく歩きましょう

… … … … … … … …

日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

下記のチラシをご覧ください。

リバティデモチラ

(2018年5月31日)

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」へのお誘い ― 「君が代」強制と処分をはねかえすために

みなさま
 「君が代」裁判4次訴訟原告は、「日の丸・君が代」の強制に反対して処分を受け、その取り消しを求めて裁判を闘っています。

 学校現場では教員だけでなく生徒への締め付けも強まり、教育の自由が失われています。2020年東京オリンピックや来年の天皇代替わりに向けて、今後「日の丸・君が代」に敬意を払うべきだという圧力がさらに強まっていくのではないでしょうか。

 私たちは、主張します。
  「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
  「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
  学校に自由を取り戻したいということ、を。

 この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

 私たちと一緒に楽しく歩きましょう。
… … … … … … … …
日時 6月30日(土曜日)
 集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
          (表参道・青山学院大学前)
    報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
 デモ 原宿・渋谷を歩く予定
 主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

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リバティ・デモと名付けられたこのデモは、文字通り自由を求めての行進である。その要求は、「誰にも『日の丸・君が代』を押しつけないで」というだけのシンプルなもの。「子供たちに『日の丸・君が代』を強制する教育をしないで」「教師を愛国心強制の手先にさせないで」ということでもある。

「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」には、多くの人がそれぞれのイメージをお持ちのことだろう。国旗・国歌(日の丸・君が代)にどう向き合うべきかについても、いろんな考え方があるだろう。しかし、最も大切なことは、それぞれの多様な考え方が尊重されなければならないということではないか。多様な考え方を強引に一つにまとめて、「この考え方だけが正しい」と、すべての人に押しつけるようなことをしてはならない。とりわけ、権力を持つ国や自治体がそんなことをしてはいけない。また、明日の主権者を育む教育の場で、そのような押しつけが許されてはならない。

すべての人に最も大切なものは、のびのびとものを考える自由、何ものにもとらわれない考え方の自由だ。この自由を侵そうという最も危険な存在が国家ではないか。国家は、教育を通じて国民の考え方を統制したくてしょうがないのだ。常に、時の為政者にとって操りやすい従順な国民精神がお望みなのだから。

主権者である国民に対して、下僕たる国家が「国民よ、私を愛せ」と命令し強制することができるわけがない。国旗・国歌(日の丸・君が代)は、「国家の象徴」なのだから、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」とは、国民に対して国家に敬意を表明するよう強制していることなのだ。この強制は、戦前のあの暗い時代の記憶を呼びさます。

15年前までは、都立校は「都立の自由」を誇りにしていた。自由とは何よりも、国家や東京都の強制からの自由のことだ。都立の自由は、「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」という強制を許さなかった。その事態を変えたのが、石原慎太郎という、あの都知事だった。その知事の時代に都教委が全都の教職員に「日の丸・君が代」への敬意表明の強制を命じた文書が「10・23通達」である。

いま都内の全公立校では「10・23通達」が猛威を振るっている。卒業式や入学式の直前に、各校長から全教職員に対して「起立・斉唱」を強制する文書による職務命令が発せられている。信じがたい光景ではないか。そして、教師としての信念において、自分の信ずる宗教の教義において、また「日の丸・君が代」が果たしてきた歴史に鑑みて、どうしても起立・斉唱の強制に応じられないとする教員が懲戒処分とされているのだ。

悪名高い10・23通達後の懲戒処分件数は、既に延べ481件に達している。その処分取消を求める訴訟が数多く提起され、最高裁・高裁・地裁で確定した処分取消の件数(都教委敗訴確定)が73件・63名という大きな数に上っている。そしていま裁判途中の教員が、デモを呼びかけているのだ。その名も、リバティ・デモである。

この不自由な世で、自由を求めるデモである。ニギニギしく、楽しく、のびのびとやりたいものだ。是非、多くの方にご参加をお願いしたい。ついでに、私の話もお聞きいただけたら、とてもありがたい。
(2018年5月27日)

都教委に大きな衝撃 ― 東京「君が代裁判」4次訴訟・控訴審判決

本日(4月18日)13時15分。傍聴満席の東京高裁824号法廷で、第12民事部(杉原則彦裁判長)が、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決を言い渡した。

裁判長はボソボソと判決主文だけを読み上げて退廷した。
1 1審原告らの本件各控訴、及び1審被告の本件控訴をいずれも棄却する。
2 1審原告らの控訴費用は1審原告らの、1審被告の控訴費用は1審被告の各負担とする。
この間、20秒足らず。あっけなく控訴審は終わった。

判決主文がいう「1審原告ら」とは、学校式典の君が代斉唱時に起立しなかったとして懲戒処分を受けた13名の都立校教員。そして「1審被告」とは、処分をした東京都(教育委員会)である。双方とも、昨年(2017年)9月15日の東京地裁1審判決に服しがたいとして、控訴審の判断を仰いだが、当事者双方の控訴が棄却され、一審判決の判断が維持された。

多少の期待をもっていたから、当方にとっても残念な判決。最高裁判決の下級審裁判所にたいする縛りの硬さを再確認する結果となった。しかし、東京都(教育委員会)にとっては、教員側と比較して、はるかに大きな負のインパクトをもつ判決となったはずだ。形は双方の痛み分けのようだが、都教委の側の傷がはるかに大きくて深い。

本件は、「君が代」不起立の教員に対する懲戒処分の違法を争う事件。地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原審の原告ら14名が取消を求める処分の内訳は、以下のとおりであった。

停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
計           14名 19件

1審係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)。そこで言いわたされた判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。これは、実はたいしたことというべきなのだ。しかし、一方同判決は戒告処分(9名についての12件)については、いずれも違憲違法との主張を否定して処分を取り消さなかった。

原告側は主として戒告処分の取消請求が棄却されたことを不服として控訴した。減給・停職の処分を受けて処分取消しの勝訴となった者も、慰謝料の支払いが棄却されたことを不服とする控訴を行った。(お一人が控訴を断念して、1審原告側控訴人は13名となった。)

被告(都教委)側は、敗訴の判決で取り消された処分7件のうち、5件については控訴をあきらめた。そして、残る2件についてだけ控訴した。被控訴人は2件ともQ教員である。

Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
1回目不起立 戒告
2回目不起立 戒告
3回目不起立 戒告
4回目不起立 減給10分1・1月
5回目不起立 減給10分1・1月

公権力による教員に対する、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制が違憲であれば、懲戒の種類・量定を問うことなく、すべての処分が違法として取り消されることになる。Qさんに対する5件の処分もそのすべてが取り消されることになるが、そうはならなかった。

1審判決は、「本件職務命令違反を理由として減給または停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無」を判断している。

まず、一般論としては、次のように述べる。
「減給処分は,処分それ自体の効果として教職員の法的地位に一定の期間における本給の一部の不支給という直接の給与上の不利益が及び,停職処分も,処分それ自体によって教職員の法的地位に一定の期間における職務の停止及び給与の全額の不支給という直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶうえ,本件通達を踏まえて卒業式等の式典のたびに懲戒処分が累積していくおそれがあることなどを勘案すると,起立斉唱命令違反に対する懲戒において減給又は停職の処分を選択することが許容されるのは,過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等(以下,併せて「過去の処分歴等」という。)に鑑み,学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの「相当性を基礎付ける具体的な事情」が認められる場合であることを要すると解すべきである。そして,……「相当性を基礎付ける具体的な事情」があるというためには,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなど,過去の処分歴等が減給又は停職処分による不利益の内容との権衡を勘案してもなお規律や秩序の保持等の必要性の高さを十分に基礎付けるものであることを要するというべきである(平成24年最高裁判決参照)。」

1審判決は、以上の一般論をQさんに適用すると次のようになると結論する。

「原告Qが起立斉唱命令を拒否したのは,自らの信条等に基づくものであること,各減給処分の懲戒事由となった本件職務命令違反のあった卒業式等において,原告Qの不起立により,特段の混乱等は生じていないと窺われることをも考慮すると,原告Qの前記職務命令違反について、減給処分(10分の1・1月)を選択することの「相当性を基礎づける具体的な事情」があるとまでは認めがたい。」

つまり、減給や停職処分を選択するには、この重い処分を選択するについての「相当性を基礎付ける具体的な事情」が必要であるところ、被懲戒者の行為が、
(1)自らの信条等に基づくものであること、
(2)卒業式や入学式等に特段の混乱等は生じていないこと、
ということを考えたら、「相当性を基礎付ける具体的な事情」は認めがたい、というのだ。

原判決は、教員の不起立が「自らの信条等に基づくものであること」を、裁量権の逸脱・濫用判断の積極要件とした点において、一定の評価が可能というべきである。だから、我々にとっては、「中くらいの目出度さ」もある判決と評価した。

一方、都教委から見れば、原判決の衝撃は大きい。都教委は、Qさんの4回目・5回目の不起立に敢えて挑発的な減給を選択して、いずれも敗れたのだ。大いに恥じ、大いに反省しなければならない。教育行政を司る機関の行為が、違法として取り消されたことの重大性を深刻にとらえなければならない。

本日の東京高裁控訴審判決はこの、一審判決の判断を維持した点において、都教委にはさらに大きな衝撃を与えたことになる。

都教委は、再びの敗訴を恥じなければならない。思想・良心の侵害を反省しなければならない。教育の場に、国家主義やら愛国主義やらの偏頗なイデオロギーを持ち込むことを、きっぱりとやめなければならない。

以下は、控訴審判決を受けての原告団・弁護団声明である。

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 東京「君が代裁判」4次訴訟・控訴審判決を受けての声明

1 本日,東京高等裁判所第12民事部(杉原則彦裁判長)は,都立学校の教職員8名に対する卒業式・入学式の国歌斉唱時の起立斉唱の強制にかかわる懲戒処分(戒告処分10件,減給10分の1・1月2件)の取消しを求めていた事件について,一審原告1名に対する原審における減給10分の1・1月の処分の取消を維持して東京都の控訴を棄却し,他方で「戒告処分」については裁量権の逸脱・濫用には当たらないとした原審を維持し,一審原告ら教職員の控訴を棄却する判決を言い渡した。

2 本件は,東京都教育委員会(都教委)が,2003年10月23日に「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」との通達(10・23通達)を発令し,全ての都立学校の校長に対し,教職員に「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」を命じる職務命令を出すことを強制し,さらに,国歌の起立斉唱命令に違反した教職員に対して懲戒処分を科すことで,教職員らに対して国歌の起立斉唱の義務付けを押し進める中で起きた事件である。
一審原告らは,自己の歴史観・人生観・宗教観等や長年の教育経験などから,国歌の起立斉唱は,国家に対して敬意を表する態度を示すことであり,教育の場で画一的に国家への敬意を表す態度を強制されることは,教育の本質に反し,許されないという思いから,校長の職務命令に従って国歌を起立斉唱することが出来なかったものである。このような教職員に対し,都教委は,起立斉唱命令に従わなかったことだけを理由として戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。
なお,このような懲戒処分は,毎年,卒業式・入学式のたびに繰り返され,10・23通達以降,本日まで,職務命令違反として懲戒処分が科された教職員は,のべ480名余にのぼる。この国歌の起立斉唱の強制のための懲戒処分について,2012年1月16日,最高裁判所第一小法廷は,懲戒処分のうち「戒告」は裁量権の逸脱・濫用とまではいえないものの,「減給」以上の処分は相当性がなく社会観念上著しく妥当を欠き,裁量権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示していた。

3 上記最高裁判決以降,都教委は3回目の不起立までを戒告とし4回目以降の不起立に対して減給処分とする取り扱いをしてきた。本判決は,4回目・5回目の不起立に対する減給処分を「減給以上の処分の相当性を基礎づける具体的な事情は認められない」として取り消した原判決に対する都の控訴を棄却したものである。
本判決は,不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示したものであって,回数のみを理由とした処分の加重を否定したものである,本判決が,最高裁判決そして原判決に引き続き,都教委の過重な処分体制を厳しく戒め,その暴走に歯止めをかける判断として評価できる。

4 しかしながら,国歌の起立斉唱の強制が違憲・違法であるとの一審原告ら教職員の主張については原判決を維持しこれを認めなかった。さらに,処分が取り消された一審原告ら教職員の精神的苦痛は慰謝されるとして賠償請求を棄却した原判決を維持した。
控訴審において一審原告らは,国歌の起立斉唱行為について「儀式的行事における儀礼的所作」であって,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものではないとする一連の最高裁判決が,儀式・儀礼は宗教性と無縁ではなく,それが強制されるとき,個人の思想・良心・信仰と緊張関係を持つことを看過したものであることを論じ,さらに宗教学の研究者の証言により最高裁判決の誤りを明らかにしようと努めてきた。
にもかかわらず,裁判所が,証人を採用することなく1回の口頭弁論で結審して,従前の最高裁判決に漫然と従った本判決に至ったことは,十分な審理を尽くさず,事案の本質を見誤ったまま判決を下したものであって,控訴審の役割を放棄したものであって到底受け容れることはできない。

5 都教委は,この司法判断を踏まえて「国旗・国歌強制システム」を見直し,教職員に下した全ての懲戒処分を撤回するとともに,将来にわたって一切の「国旗・国歌」に関する職務命令による懲戒処分及びそれを理由とした服務事故再発防止研修を直ちにやめるべきである。
特に,都教委は,先行する訴訟において処分の取消しを命じる司法判断が確定した現職の教職員に対して,再度,同一の職務命令違反の事実について懲戒処分を科してきたが,都教委がした違法な懲戒処分が取り消された事実を重く受け止め,原告らに対して重ねての懲戒処分はやめるべきである。
わたしたちは,本判決を機会に,都教委による「国旗・国歌」強制を撤廃させ,児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いにまい進する決意であることを改めてここに宣言する。
この判決を機会に,教育現場での「国旗・国歌」の強制に反対するわたしたちの訴えに対し,皆様のご支援をぜひともいただきたく,広く呼びかける次第である。

2018年4月18日
東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団

皆さん、これが有名になった、釜山の「少女像」です。

日本領事館の正門側にあると思っている方が多いようですが、このとおり、領事館の裏側になります。この歩道に面した高い擁壁の上が領事館の裏庭です。いま、桜が満開ですね。あっ、桜の木の陰に隠れて領事館員がカメラで皆さんを見下ろして、写真を撮りましたね。そして直ぐに隠れました。皆さん、注目されているようですね。

この少女像の髪形は、当時の女性の短髪ですが、こんなに短くなっているのは、家族や社会から縁を切られたという悲しみを表現したものだそうです。また、靴がなく裸足で、しかも踵が浮いていますね。歩いて行く宛のない、不安定な気持と立場を象徴していると聞いています。となりには、椅子があります。力を貸してくれる方、寄り添っていただける方にお座りいたくための椅子です。どうぞ、あなたもこの椅子に座って写真を撮ってください。

ソウルに続いて、釜山のこの少女像が大変有名なりましたが、この像は全国にどんどん増えていますから、いくつあるのか誰も正確には分からないじゃないですか。国内だけで100近く。アメリカやヨーロッパなど、外国にもいくつかできていますよね。

2015年12月の日韓合意で、「韓国政府はこの少女像を撤去しなければならない」とされたようですが、それはもう絶対に無理なことですね。日本の安倍さんたちが韓国の政府に、「この像を撤去しなさい」と言えば言うほど、像の数は増えることになると思いますよ。

私思うんです。人間って、面白いもんですね。ああしろ、こうしろと、押しつけられれば、却って反発するじゃないですか。激しく燃え上がるじゃないですか。ロミオとジュリエットだって、両家に反対されたから、あんなに燃え上がったじゃないですか。

日本の安倍さんが、「国家と国家の約束を守りなさい」とか、「約束だから像を撤去しなさい」なんて言うのは、ますます韓国の人々を刺激するだけですね。何にも言わず、じっとしているのが、安倍さんにとっては、一番いい方法じゃないですか。どうして、そんなことが分からないですかね。

また安倍さんが何か言ったり、何かしたりすればですよ。その都度に「なぜ、こんな像が造られたのか」「こんな像を造らなければならない理由は何だったのか」と、韓国のみんなが、また改めて思い出すことになるじゃないですか。

あっ、韓国のポリスが2人出てきましたね。さっき上から皆さんの写真を撮っていた領事館員が通報して、ポリスが出てきたんですよ。皆さん、やっぱり注目されているんですね。
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4泊5日の韓国ピースツアーを昨夕で終えた。
韓国民衆のさまざまな運動を垣間見てきた。その熱気の一端に触れて、もらった熱い思いが冷めやらない。韓国の運動から、枯渇しかかっていたエネルギーの補充を受けた感がある。どこの運動にも、さまざまな歌と踊りがあった。ともに唱い踊ることで、自分を励まし連帯を確認するのだ。その歌と踊りが、底抜けに楽天的なことが、印象に残った。追々、当ブロクに韓国市民運動見聞録を掲載したいと思う。

上記は、釜山領事館の「少女像」についての、ガイドの解説の概要。軽妙で洒脱な日本語の語り口を堪能した。この「テーマのある旅」の充実度を決定する要素の半分は企画の出来具合で、あとの半分は現地ガイドの能力といってよい。韓国本土を担当したこの旅のガイドの通訳能力だけでなく、社会や政治の論評の確かさに脱帽した。

この旅行の企画は、ユーラスツアーズ
http://www.euras.co.jp/
http://www.euras.co.jp/tour/korea-peacetour2018/

もともとは、「旧ソ連・ロシアへの旅行、留学に特化したサービスで57年以上の実績」という旅行社で、「ロシア旅行を知り尽くした当社だけが出来る”わがままツアー”を実現します」と、ロシア旅行が専門だが、ヨーロッパも、中東も、中国も韓国もベトナムのツアーも企画している。

現地の運動体との連絡や交流の設定は難事だと思うがよくやってくれたと思う。そして得がたい現地ガイドも、この旅行社を通じて依頼できる。観光旅行ではない、テーマのある旅行を望む方にお薦め。

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旅を終えて、日常が戻ってきた。

本日(3月31日)は、都立学校教員らの「日の丸・君が代」強制問題についての、卒業式総決起集会。そこで、「憲法的価値の根源は個人の尊厳であって、国家ではない」「個人のために国家があるのであって、国家のために個人があるのではない」「にもかかわらず、国民個人に対して、国家の象徴である『国旗・国歌(日の丸・君が代)』に敬意表明を強制できるはずはない」と発言。

夕刻は、加藤良雄著「学校がキライな君へ」の出版記念会。

加藤さんは、東京「君が代」裁判・第4次訴訟の原告団代表。定時制高校勤務時代の生徒との交流を語り、その生徒との関わりが、生徒の卒業後も加藤さんが定年退職後も連綿と続くことに驚く。その本の帯に「先生の生徒で本当によかった」というある生徒からのメールの一節が記されている。この一言、教師の勲章と言ってよい。

「学校というものの存在価値の根源は生徒の学ぶ権利であって、経営主体ではない」「生徒のために学校があるのであって、学校のために生徒があるのではない」「だから、生徒に対して、学校の都合を押しつけてはならない」

私も、学校が好きではなかった。今にして思えば、その理由は束にされて扱われることに抵抗感があったからだ。

この著書に表れた教師・加藤良雄の、手のかかる生徒に対する向き合い方は、なかなかできることではない。束にしたクラスを相手にするのではなく、一人ひとりの生徒の人格に向きあう。その実践記録である。定時制とは、こうも個性にあふれた生徒を擁しているのだ。

「日の丸・君が代」強制に服することができないという教師には、このような真面目な教育実践をしている人が多いのだ。でもしかの教師には「日の丸・君が代」強制に服従しがたいという動機があり得ない。もちろん、訴訟にはこの書物を丸ごと書証として提出している。
(2018年3月31日)

これが、教育行政のやることか。都教委の再処分に抗議する。

 一昨日(2月21日)のこと、悪名高い都教委は「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明の強制に服しがたいとした教員2名に、またまたの懲戒処分(戒告)を発令した。これで、「10・23通達」に基づく「不起立懲戒処分」は、延べ482件となった。

今は卒業式直前の時期、入学式も2か月先のことだ。この懲戒処分は、今年の学校行事に関してのものではない。実は昨年のことでも一昨年のことでもなく、驚くべきことだが、2009年と10年の卒業式における不起立が処分理由とされているのだ。8年前と9年前のことが今頃なぜ?

都教委の説明は以下のとおりだ。
「本件服務事故については、平成29年(2017年のこと。つまり昨年-澤藤註)9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。」

何を白々しい。正確にこういうべきなのだ。
「東京都教育委員会は、国家あっての個人という国家主義理念を徹底すること、また明治維新以来天皇制国家が進めた富国強兵の対外膨張政策の歴史的正当性を堅持することこそが都立学校の基本的な教育理念であり、都立校の教員にはこのような国家主義と大日本帝国憲法的歴史観にもとづく教育を積極的に推進する『正しい』思想の持ち主でなくてはならない。当教育委員会としては、かねてからこのような人事方針を明確にしてきたところであり、その見地から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明は極めて重要な集団儀礼として、これを強制してきた。この当教育委員会の施策は、政権政党である自由民主党の政策とも一致するものとして妥当と考えるべきである。
 都立校の教員には、このような都教委の思想と教育方針を受容するか、少なくとも面従腹背すべきことが求められるのであって、不幸にして面従腹背をなしえないという教員には、思想的な転向をしてもらわねばならない。このことは、国家観や、歴史観、教育観においてのことのみならず、自己の信仰上の理由から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意は表明しがたいとする者も当然に包含されるものである。
 そのため、当初当教育委員会は、不起立1回なら戒告とするが、2回目には減給1月の処分とし、3回目には減給6月、そして4回目には停職1月と処分量定を累進加重し、7回目には懲戒免職として、思想の転向ない限り当該教員を教育現場から追放することを企図していた。
 ところが、裁判所の判断がこれに横槍を入れ、最高裁も戒告はともかく減給以上は懲戒権の濫用として取り消しを命じるという、思いがけない事態となった。教員らが、いみじくも名付けた「転向強制システム」が崩壊したのだ。
 本件の2名の教員もその一場面なのだ。この2名には、当初減給1月と減給6月の各懲戒処分を発令したものであるが、人事委員会の口頭審理を経て行政訴訟に至り、平成29年(2017年のこと。つまり昨年-澤藤註)9月15日の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分を違法として取り消す判決が言い渡され、当教育委員会が控訴を断念したことから各処分の取消しが確定した。なお、同日の判決では6名・7件の減給・停職処分が取り消され、その内5名・5件の処分取り消しが確定している。
 これに対して、当然のことながら、各当事者からは過酷で違法な処分をしたことに対して教育委員会は謝罪すべきだという強い要請があったが、当教育委員会はこれを突っぱねて謝罪を拒絶し、在職教員2名について再処分に及んだものである。残念ながら、減給は取り消されたものの、戒告であれば裁判所も容認してくれるはずと考えている。
 当該教員らは、再び人事委員会の口頭審理を経て処分取消訴訟に至ることになって、過重な労力や時間あるいは費用負担を強いられることになると抗議を寄せているが、当教育委員会の知ったことではない。当教育委員会としては税金をもって争訟の費用をまかなうのであるから、闘争資金も労力も無尽蔵で痛くも痒くもないことを付言しておきたい。
 最後に、当教育委員会はこれまでどおり、国家主義にもとづく愛国教育の一環として国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制を貫徹することで、自民党や右翼の皆様のご期待に応える所存であることを申し添える。」
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平成30年2月21日

教   育   庁

卒業式における職務命令違反に係る懲戒処分について

東京都立学校で実施された卒業式において、一部の学校で服務事故が発生したことに伴い、以下のとおり教員の懲戒処分を行ったので、お知らせします。

1 処分の事由
平成21年度及び平成22年度に実施された卒業式において、国歌斉唱時に国旗に向かって起立し斉唱することを校長から職務命令として命じられていたにもかかわらず、起立せず職務命令に違反した。

2 処分の内容
職務命令違反を行った教員について、地方公務員法に基づく懲戒処分を行った。
処分の程度   戒告
該当者数  2校 2名
学校名(当時)
都立○○○○高等学校
都立○○○高等学校

3 発令年月日
平成30年2月21日

4 その他
本件服務事故については、平成29年9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。

【問合せ先】
東京都教育庁人事部職員課 電話03-5320-6798(直通)

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「日の丸・君が代」強制・再処分に抗議する声明

 東京都教育委員会(都教委)は、私たちの「『再処分』を行わないこと」を求める申し入れ(2017年11月15日、2018年1月26日)にもかかわらず、東京地方裁判所(東京地裁)で減給処分を取り消された現職の都立高校教員2名に対して7年前、8年前の事案で、新たに戒告処分を出し直すこと(再処分)を決定し、2月21日付で処分発令を強行した。これにより「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)に基づく懲戒処分の数は延べ482名となった。

東京地裁は2017年9月15日、2010年~2013年に都教委が行った減給・停職処分6名・7件が「裁量権の逸脱・濫用」で「違法」として取り消した。都教委はこのうち1名・2件の減給処分取消のみを不服として控訴し、他の5名・5件の減給・停職処分取消については判決を受け入れ控訴を断念し、処分取消が確定した。
しかし都教委は、違法な処分をしたことを反省もせず、該当者に謝罪するどころか現職の都立高校教員2名に改めて戒告処分を出し直した(再処分をした)のである。私たちは、この暴挙に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるものである。

周知のように、2012年1月16日の最高裁判決は、起立斉唱・ピアノ伴奏を命ずる職務命令が「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、減給以上の処分については、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」で「処分が重きに失し、社会観念上著しく妥当を欠き、懲戒権者の裁量権の範囲を超え、違法」として減給・停職の懲戒処分を取り消した。その後の最高裁、東京高裁、東京地裁の各判決もこれを踏襲して73件・63名の減給・停職処分を取り消した。

今回の再処分は、減給処分を違法としたこれらの司法の判断を重く受け止めるどころか、その趣旨を無視して、新たに戒告処分を出し直すことで教職員を萎縮させ「屈服」させようとする都教委の異常な「暴力的体質」を改めて露呈した。
今都教委のなすべきことは、東京地裁判決を謙虚に受け止め、違法な処分により筆舌に尽くしがたい精神的、経済的損害を被った被処分者への謝罪と名誉回復・権利回復を早急に行うことである。また、司法により違法とされた処分を行った組織の在り方を点検し、責任の所在を明らかにし、再発防止策を講ずるとともに、10・23通達に基づく校長の職務命令、懲戒処分、再発防止研修など「日の丸・君が代」強制の一連の施策を抜本的に見直し、反省することである。

私たち被処分者の会・原告団と弁護団は、これまで何度となく、都教育委員会及び教育庁関係部署との話し合いを求めてきた。にもかかわらず都教委は、最高裁判決の補足意見が求めている原告団・弁護団との「話し合い」を拒否して問題解決のための努力を放棄する不誠実な対応に終始している。それどころか、司法の判断をもないがしろにして、処分を乱発しているのである。

私たちは、東京の異常な権力的教育行政の抜本的転換を求めると共に、自由で民主的な教育をよみがえらせるために、「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回まで闘い抜く決意である。「子どもたちを再び戦場に送らない」ために!

2018年2月21日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会・東京「君が代」が代」裁判原告団

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◆かくも不当な再処分を許さないために、戒告処分の取り消しと損害賠償を求めて粘り強く闘っています。東京高裁判決に何としても勝利するため傍聴支援をお願いします。

◆東京「君が代」裁判第四次訴訟・控訴審判決
~いよいよ判決です。こぞって傍聴に来てください。
4月18日(水)13時15分 東京高裁824号法廷

(2018年2月23日)

「国旗・国歌」と「日の丸・君が代」と ― 違憲論における異なる位置づけ。

東京「君が代」裁判・第4次訴訟控訴審の始まりに際して、一審原告らの代理人澤藤から、一言申しあげます。

本件は、公権力が教育者である公務員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制し、これに服することができない者を懲戒処分にしたという乱暴きわまる事案です。
一審原告ら各教員は、公権力によるこのような強制も処分も、日本国憲法の許すところではないと確信して、何よりも違憲の判断を裁判所に求めてまいりました。裁判官のみなさまには、この原告らの思いを、つまりは日本国憲法と日本国憲法の砦である裁判所への信頼を裏切ることのないように、ぜひよろしくお願いします。

あまりに大きな問題を引き起こした都教委の「10・23通達」の発出が2003年10月です。この通達に基づく職務命令に従う義務のないことの確認を求める通称「予防訴訟」、国歌斉唱義務不存在確認請求訴訟と事件名を付した400人の大型無名抗告訴訟の第1陣提訴が2004年の1月でした。以来、14年にもなります。この14年間多くの教員が良心を鞭打たれる立場に立たされ、良心を貫いたことに対する苛酷な制裁を受け続けてまいりました。この14年間の法廷で、教員らは何を主張し何を争ってきたのか、その概要をご理解いただきたいと思います。

いうまでもなく国旗・国歌は、国家の象徴です。ですから、国民は国旗国歌を通して実は国家と向きあうのです。国旗国歌への敬意表明の強制とは、とりもなおさず、国民と国家が向きあう関係において、国家が国民に対して、国家の価値的優越を認めよと強制している構図なのです。近代立憲主義に則って制定されている日本国憲法の大原則は、個人主義・自由主義にほかなりません。個人の尊厳こそが、国家に優越する根源的価値であることは自明ではありませんか。そもそも、公権力には、いかなる国民に対しても、国家に敬意を払えと命令し強制する権限などないのです。

また、「日の丸・君が代」とは、戦前の神権天皇制の国家体制とあまりに深く結びついた歴史を背負っている旗と歌です。この否定しえない歴史的事実の記憶はまだ生々しくこの社会に生きています。世代を超えた、その記憶承継の努力も続けられています。そして日本国憲法は、「日の丸・君が代」が象徴する旧体制に対する深刻な反省から、その理念における対立物として生まれました。
 「日の丸・君が代」が深く結びついていた国家体制の理念とは、国家至上主義・天皇主権・皇統の神聖・天皇崇敬・軍国主義・侵略主義・植民地主義・人権の軽視・差別主義・全体主義・家制度と女性差別・中央集権…等々であって、いわば日本国憲法の価値的対立物の象徴と見うるものと言わざるを得ません。さらに、「日の丸・君が代」は、国家神道の宗教的シンボルでもありました。「日の丸」とは天皇の祖先神アマテラスの象形であり、「君が代」とは神なる皇統の永遠を願う祝祭歌でした。ですから、日本国憲法をこよなく大切に思う立場から、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制には応じがたいとする原告ら教員の思想・信条・信仰・良心には、大いに理解すべきところがあるといわねばなりません。憲法19条・20条がこのような精神的自由を保障していることは明らかではありませんか。

にもかかわらず、処分の違憲性を認めなかった原判決と一連の最高裁判決にどうしても納得できません。とりわけ、なんの根拠を示すこともなく、卒業式等の儀式における国歌の起立斉唱行為について「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」と断定して、それゆえに、「かかる行為を強制することが思想良心の自由を直ちに制約するものではない」という非論理的な結論には、なんの説得力もありません。
儀式的行事における儀礼的所作とは、宗教にその典型を見ることができるものです。また、戦前の国家神道と密接に結びついた天皇崇敬行事もこれにあたるものなのです。さらに、宗教的にはまったく無色でも、集団的な儀式的行事における儀礼的所作の強制が、特定の思想を成員に刷り込む効果をもつことはよく知られているところです。国民精神の統一のために、集団的な儀式や儀礼を意図的に活用したのは、第三帝国のナチスだったではありませんか。

このことについて、一審原告らは宗教学界の第一人者というべき島薗進氏(東大名誉教授)の意見書(甲A374)を提出し、さらにその人証の申し出をしています。現在行われている卒業式等での「国歌斉唱」の強制が、いかなる政治的宗教的意味をもっているのか、また、教員と生徒たちの精神の自由をいかに蝕んでいるのか。是非とも、証人として採用のうえ、その説示に耳を傾けていただくよう、是非よろしくお願いいたします。
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本日午前10時の高裁824号法廷。この事件の係属裁判所は、東京高等裁判所第12民事部。先日、自衛官の安保法制違憲訴訟(出動命令服従義務不存在確認請求訴訟)で、原告敗訴判決を取り消して地裁に差し戻した杉原則彦裁判長の裁判体。

当事者(現職教員)2名と代理人弁護士2名の意見陳述はなかなかに聞かせる内容だった。裁判官は3名とも、熱心に真面目に耳を傾けている風だった。ところが、思いがけないことが起こった。島薗進氏の人証申請に関しては、「意見書はよく読ましていただきました。人証の採用までの必要はないと考え申請は却下します」「これで結審…」。

「それはなかろう」「納得できる裁判をお願いしたい。納得とは、判決内容だけではない。当事者にとって、裁判所がよく耳を傾けてくれたという手続的な納得が必要だ」「もっと、主張挙証の機会をいただきたい」と意見は言ったが、裁判長は「合議します」といったん退廷。再開廷して「やはり、これで結審し、判決言い渡しは4月18日午後1時15分」とだけ言って退廷した。

それ以来、今日はモヤモヤの気分のままだ。
(2018年2月7日)

「日の丸・君が代」強制拒否訴訟から見える憲法状況

なんともお寒い晩ですが、こんな日に雪の残る悪路を踏み分けて「『日の丸・君が代』強制に反対!板橋のつどい・18」に足を運んでいただき、まことにありがとうございます。本日は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟から見える憲法状況というタイトルで、1時間余のお話しをさせていただきます。

はじめに、「日本国憲法が危ない」ということについて認識を共有していただき、次いで「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の到達点と現在の課題を確認し、そこから見えてくる自民党改憲案(「日本国憲法改正草案」)の問題点や、天皇退位と「明治150年」問題、そして最後に「アベ9条改憲問題」との関わりについて触れたいと思います。

まず申しあげなければならないのは、いま憲法は危機にあると言うことです。とりわけ、9条が、つまりは平和主義が危ないということです。

これまでも、度々憲法は危機にあると言われてまいりました。自民党は、立党以来自主憲法制定を党是とする改憲指向政党です。政権与党が改憲指向政党なのですから、これまでも憲法は、恒常的に危機にあったとはいえるでしょう。しかし、今日のように具体的な改憲スケジュールが提示されたことは、かつてなかったことです。

今、国民投票法があり、それに伴う国会法も整備され、憲法改正案を作成し国民投票を発議する手続は調っています。しかも、衆参両院とも、改憲勢力が議席数の3分の2を超えています。改憲勢力は今がチャンスと意気込んでいるのです。

いま、アベ晋三は9条改憲案を提示しています。憲法の遵守に、最も忠実でなくてはならない人物が、憲法の攻撃に最も前のめりになっています。2017年5月3日、アベは右翼の改憲集会にビデオ・メッセージを送り、9条改憲を提案しました。9条の1項と2項はそのままとして、第3項を加えることで「憲法に自衛隊を明記する」という、「加憲的9条改憲案」です。

12月22日には、自民党は正式に改憲案の整理を行いました。そのとりまとめでは4項目についての改憲案が提示され、そのうち9条改正については2案が併記されています。2案の違いは、9条2項を残すか削除するかの点。2項を残すアベ9条改憲案は、対案と比較してマイルドに見える仕掛けとなっています。

この提案には、種本があります。右翼のシンクタンク日本政策研究センターの機関誌「明日への選択」16年9月号の伊藤哲夫論文。この日本会議常任理事という肩書を持つ人物が、加憲的9条改憲案の発案者です。

彼は、「加憲」を「あくまでも現在の国民世論の現実を踏まえた苦肉の提案でもある」「まずはかかる道で『普通の国家』になることをめざし、その上でいつの日か、真の『日本』にもなっていくということだ」と、現実主義の見地からの妥協案であるとしていますが、実はそれだけではない。彼は、その狙いが「護憲派の分断」にあると明言しています。

自衛隊違憲論者と、専守防衛に徹する限り自衛隊は合憲であると考える勢力の間に楔を打って分断するのだというのです。アベは、これに乗ったわけです。この点の警戒が重要だと思います。

本年1月4日、アベは伊勢神宮での記者会見の年頭所感で改憲に意欲を見せ、1月22日の施政方針演説でも、改憲の論議を活発にと言っています。3月25日の自民党大会には両案併記だった9条改憲案を党内で一本化し、改憲諸政党(公・維・希)と摺り合わせて、今国会中に改正原案を作成し、国会に改正原案発議をすることになります。

衆院には100人の賛成を付すことで、『改正原案』が発議されます。本会議で趣旨説明のあと、衆院の憲法審査会の審議に付され、過半数の賛成で本会議に報告となり、本会議で3分の2以上の賛成で衆院を通過し、参院に送られます。同じ手続を経て参院も3分の2以上の賛成で通過すると、改正原案は国会の『憲法改正案』となって発議されて、国民投票にかけられることになります。国民投票運動期間として、60日~180日が設定されて、国民投票での過半数の賛成で憲法改正が成立することになります。

しかし、実はこのスケジュールは極めてタイトだと言わざるを得ません。2019年の後半には、重要な政治日程が立て込んでいます。元号・退位・即位の礼・大嘗祭・参院選・消費税値上げなど。とすれば、勝負は今年ということになります。改憲勢力としては、来年4月頃までに国民投票の実施に漕ぎつけたいところ。

今、超党派で提起されている「9条改憲阻止の3000万署名」の成否が鍵となります。改憲にこだわっていたのでは、参院選には勝てないという空気を作り出さねばなりません。

そして、来年の参院選では、改憲反対を掲げる野党の共闘によって改憲勢力を3分の2以下に落とすことは、前回参院選の結果から見て十分に可能だと思われます。

そのような憲法情勢を念頭に、「日の丸・君が代」強制問題から見えてくるものをお話ししたいと思います。

第1は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の到達点と課題です。
私は、次のように、訴訟の時期の区分ができると思っています。
1 高揚期(予防訴訟の提訴~難波判決)
※再発防止研修執行停止申立⇒須藤決定(04年7月)研修内容に歯止め
※予防訴訟一審判決(難波判決)の全面勝訴(06年9月)
2 受難期(最高裁ピアノ判決~)
※ピアノ伴奏強制事件の最高裁合憲判決(07年2月)
⇒これに続く下級裁判所のヒラメ判決・コピペ判決
難波判決 高裁逆転敗訴(11年1月)まで。
3 回復・安定期(大橋判決~)
※取り消し訴訟(第1次訴訟)に東京高裁大橋判決(11年3月)
全原告(162名)について裁量権濫用として違法・処分取消
※君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)
君が代裁判2次訴訟最高裁判決(13年9月)
君が代裁判3次訴訟最高裁判決(16年7月)
間接制約論(その積極面と消極面)
*「間接」にもせよ、思想・良心に対する制約と認めたこと
*2名の裁判官の反対意見(違憲判断) とりわけ宮川意見の存在
*多数裁判官の補足意見における都教委批判

残念ながら、「10・23通達」や懲戒処分の違憲判断は回避され、戒告処分の違法性は否定されました。他方、 減給・停職は裁量権濫用として違法とされ、裁判による取消が定着しています。これによって、当初石原教育行政がたくらんだ累積加重システムは破綻し、教員の抵抗は続いています。

訴訟が抱えている現在の課題について一言します。
第4次訴訟では、17年9月に一審判決があり、間もなく18年2月に控訴審第1回期日を迎えようとしています。
そこで、違憲判決を勝ち取る努力を続けています。
間接強制論は、国旗国歌への起立斉唱を、「儀式的行事における儀礼的所作」に過ぎないから、「思想良心への直接制約に該らない」といいます。しかし、果たしてそうでしょうか。今、権威ある宗教学者の助力を得て、「儀式的行事における儀礼的所作」が思想・良心の自由をいかに傷つけることになるかの意見書をまとめていただきました。近々、裁判所に提出し、これを基軸に判例を批判し違憲論を展開したいと考えています。

違憲論以外にも課題は山積しています。最高裁判例の枠の中で可能な限り憲法に忠実な判断を求めなければなりませんし、国際人権論からのアプローチも必要です。

そして、石原や小池のような右翼に都政を任せるのではなく、都政を都民の手に取り戻して、憲法の生きる都政を実現する運動が不可欠だと痛感しています。

第2 自民党改憲案(「日本国憲法改正草案」)との関わり

2012年4月の自民党改憲案は、かなりの程度にまで、自民党のホンネを語るものとなっています。その自民党改憲案第3条は、「(国旗及び国歌)とされ、
第1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
第2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。と明記されています。

自民党の公式解説(Q&A)では、さらに次のようになっています。
「我が国の国旗及び国歌については、既に「国旗及び国歌に関する法律」によって規定されていますが、国旗・国歌は一般に国家を表象的に示すいわば「シンボル」であり、また、国旗・国歌をめぐって教育現場で混乱が起きていることを踏まえ、3条に明文の規定を置くこととしました。
当初案は、国旗及び国歌を「日本国の表象」とし、具体的には法律の規定に委ねることとしていました。しかし、我々がいつも「日の丸」と呼んでいる「日章旗」と「君が代」は不変のものであり、具体的に固有名詞で規定しても良いとの意見が大勢を占めました
また、3条2項に、国民は国旗及び国歌を尊重しなければならないとの規定を置きましたが、国旗及び国歌を国民が尊重すべきであることは当然のことであり、これによって国民に新たな義務が生ずるものとは考えていません。

国旗国歌法には盛りこむことができなかった国旗国歌(日の丸君が代)尊重の義務を憲法に書き込もうというのが、自民党のホンネなのです。
ここに見えるものは、「国権」と「人権」の相克における、国権至上主義にほかなりません。

そもそも、日本国憲法否定の「自主憲法の制定」が自民党本来の党是であり使命とされています。これを正直に述べた改憲草案こそがアベ自民のホンネ。石原・小池ら右翼のホンネでもあります。自民党の人権なし崩し策動に、一歩の譲歩も許してはならないと思っています。「日の丸・君が代」強制に対するたたかいは、そのような改憲勢力のホンネとの切り結ぶ局面だと思っています。

 

第3 天皇退位と明治150年
「日の丸」も「君が代」も、天皇制とあまりに深く結びついた歴史をもっています。否定されたはずの、天皇の権力や権威が再び利用されようとしている今、「日の丸・君が代」強制への闘いは新たな意味を持つに至っています。
※天皇の生前退位表明は、明らかに越権。
※明治150年のイデオロギー攻勢
※自民党改憲草案前文冒頭
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
※草案第1条 「天皇は、日本国の元首であり…」
※草案第4条(元号について)
「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。
解説(Q&A) 4条に元号の規定を設けました。この規定については、自民党内でも特に異論がありませんでしたが、現在の「元号法」の規定をほぼそのまま採用したものであり、一世一元の制を明定したものです。」

第4 アベ9条改憲問題との関わり
教育における国旗・国歌の強制とは、国家と国民の対峙の場において、国家の存在が国民の人権に優越するという全体主義思想の表れです。また、「日の丸・君が代」の強制とは、歴史的に國體思想(天皇崇敬)に無反省な公権力の行使として許されることではありません。

戦前の「日の丸・君が代」強制は、とりわけ戦時色が強くなって以来、学校と軍隊とで忠君愛国が強調され、「日の丸・君が代」は愛国のシンボルとなりました。

愛国心教育や民族差別教育とは、戦争をしようという国の常套手段です。「戦争は教場から始まる」という名言を今再度噛みしめなければなりません。戦争の歴史とあまりに深く結びついたこの旗と歌、その押しつけを許さないという抵抗は、アベ9条改憲への反対と通底するものがあるはずだと思います。

(2018年1月27日)

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