澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

犬になれなかった裁判官

IWJというインターネットメディアによる「自民党憲法改正案についての鼎談」が本日第10回目となった。岩上安身さんが司会して、私と梓澤和幸君とがしゃべる企画だが、岩上さん自身の発言も長く、確かに鼎談になっている。

日本国憲法と自民党憲法改正草案との対比を逐条で論じようとの企画だが、ときどきの憲法問題への論及に時間を割かれてなかなか進行しない。11回目で終わろうという予定だが心もとない。前回は喋りすぎた。今回は私だけでも寡黙を通そう。

ところで、話題は「橋下・慰安婦必要だった発言」「石原・侵略戦争否定発言」、そして96条先行改憲論のぽしゃり。朝日の5月1日世論調査で96条改憲反対54%、本日の毎日の世論調査でも反対52%と出た。なんとなく、がんばった甲斐があると嬉しくなる。

安倍の思惑は多分こうだったはず。
96条先行改憲は、「確固たる改憲派」だけでなく、「ともかく改憲派」や「なんとなく改憲派」まで含めて、改憲部分を特定しない「改憲統一選線」を意味する。改憲箇所を特定すれば国民の過半数をとれなくても、改憲箇所の特定を要しない96条改憲なら、過半数をとれるだろう。

しかし、この方針は裏目に出た。改憲目的を明確にしない、改憲のための改憲に世論が猛反発した。それだけではない。96条問題を通して、立憲主義や硬性憲法の重要性を多くの国民が学んだ。96条先行改正の、その先にあるもののイメージを把握した。このいくさ、緒戦は順調。幸先がよい。

本日の逐条解説は、日本国憲法の第6章「司法」。76条から82条まで。
ここでは裁判官の独立に関連して、「犬になれなかった裁判官―司法官僚統制に抗して36年」を著した安倍晴彦さんのことを語った。

安倍さんは、憲法と良心に忠実になろうと決意を固めた裁判官だった。出世や上司の見る目を少しも気にすることなく、ヒラメにも犬にもならずに、裁判官として人間の尊厳を守り抜いた。

しかし、そのために最高裁から徹底して冷遇された。36年の裁判官人生の大半を裁判官の出世街道からはずされ、昇給や任地の差別を受けた。ご自身が一番辛かったこととして、「若い後輩裁判官との接触の機会を断たれたこと」と言っておられる。

公職選挙法の個別訪問禁止規定の違憲無罪判決、じん肺訴訟における損害賠償請求権の時効起算点は弁護団からの説明あった日という判断など、人権の実現に素晴らしい役割を果たした。裁判官としての良心を貫くことの満足感と、冷遇への不満との両者の葛藤が常にあったろう。自分の生き方の師としたいと思う。

しかし、これが最高裁の司法官僚制の実態なのだ。体制に与し、多数派に迎合し、上司にへつらう判決を書いている限りは、波風は起きない。敢えて波風を起こせば、差別と冷遇が待っている。こうして、人事の統制を通じて、判決の統制がはかられる。だから、裁判官一人ひとりの独立が大事なのだ。裁判所が真に憲法の番人、人権の砦であるために。

これが安倍自民の本性ー自民党「防衛大綱」見直し提言案

自民党のホームページにはまったく掲載されていないが、各紙の報道を総合すると、自民党は5月17日、党本部で国防部会・安全保障調査会の合同会議を開き、「防衛計画の大綱」に対する提言の骨子案を提示した。政府が新たに策定する長期的な防衛力整備の指針「防衛計画の大綱」に対する提言の案という性格のもので、党内の反応を確認して月内にも正式決定として、6月の防衛省の「見直し・中間報告」に間に合わせるという。

「防衛計画の大綱」は最も重要な軍事政策の基本指針である。安全保障会議を経て閣議で決定される。最初の大綱は1976年に決定され、95年、04年、10年と改定されたが、安倍内閣発足直後の13年1月25日、2010年大綱を凍結して新大綱の策定を目指すこととし現在5回目の見直し作業中。

産経が次のように絶賛していることからも、危険極まりないことが理解できよう。

「防衛計画の大綱」改定に向けた自民党の提言案は戦後、過度に抑制してきた防衛政策を根本的に見直す内容が網羅されているといって過言ではない。集団的自衛権行使や憲法改正に踏み込み、安倍カラーを前面に掲げることで今夏の参院選の「旗印」と位置づける。

産経が紹介する内容を項目として挙げると、
・自主憲法制定(集団的自衛権、国防軍の設置)
・国家安全保障基本法の制定(集団的自衛権の確認、防衛産業の育成、武器輸出を規定)
・日本版NSC(官邸機能強化、軍事専門家の配置)
・国防の基本方針の見直し
・防衛省改革
【大綱の基本的考え方】
・新たな防衛力の構築として「動的機動防衛力」
・「強靱(きょうじん)な防衛力」なども検討
【国民の生命、財産、領土、領海、領空を断固として守り抜く態勢の強化】
・隙間のない事態対応(警察や海上保安庁など関係省庁との連携強化、領域警備などの法的枠組みの検討、「マイナー自衛権」の検討、自衛隊の権限行使に関するポジリスト的な考え方からの脱却)
・統合運用態勢の強化
・警戒監視、情報収集機能の強化
・島嶼(とうしょ)防衛態勢の強化(海兵隊的機能の整備)
・輸送能力の強化
・核、弾道ミサイル攻撃への対応能力の強化(効果的で効率的なミサイル防衛の運用態勢の構築、早期警戒情報を含む情報共有体制の強化、核抑止戦略の調査研究)
・テロ、ゲリラへの実効的な対処(原子力発電所の警備・防護)
・邦人保護、在外邦人輸送能力の強化(陸上輸送と武器使用権限)
・災害対処能力の強化(南海トラフ巨大地震や首都直下型地震などの対応検討)
・情報機能の強化
・サイバー攻撃に関する国際協力の推進、対処能力の強化、法的基盤の整備
・安全保障分野での宇宙開発利用の推進
・無人機、ロボットの研究開発の推進
【日米安保体制】
・日米安保体制の深化
・集団的自衛権の行使に関する検討の加速化
・日米防衛協力強化のためのガイドライン見直し
・日米の適切な役割分担下での敵基地攻撃能力の保有
・平素から緊急事態に至るまで隙間のない協力強化(共同警戒監視、共同訓練、共同使用、指揮統制機能の連携強化)
・在沖縄米軍基地の整理、統合、縮小の推進
【国際および日本周辺の環境安定化活動の強化】
・豪、韓、印、ASEAN諸国などとの戦略的安保協力、国際協力活動の推進
・大局的観点からの中国との安保関係の推進、海上連絡メカニズムの構築
・国際平和協力のための一般法の制定
・国際平和協力活動の取り組み強化(武器使用権限)
・能力構築支援の強化
・ジブチ基地の機能拡充
【大幅な防衛力の拡充】
・自衛隊の人員、装備、予算の大幅拡充
・中長期的な財源確保
・統合運用ニーズを踏まえた中長期的視点に立った防衛力整備
【防衛力の能力発揮のための基盤の強化】
・防衛生産、技術基盤の維持、強化
・安全保障の強化に資する輸出管理政策の構築
・効率的、効果的、厳正な調達制度の確立
・中長期的な最先端の防衛装備品の研究開発の推進

なるほど、確かに網羅的ではある。
各紙が特に懸念しているのは、自衛隊に「海兵隊的機能」を付与するということ。水陸両用車や垂直離着陸機オスプレイを配備した「水陸両用部隊」の創設が提案されている。赤旗の表現を引用すれば、「他国への侵略=“殴りこみ”を主任務とする米海兵隊をモデルにした「海兵隊的機能」は自衛隊の侵略的変質をもたらす」。

提言案は、「具体的な提言」の冒頭に「自主憲法制定と『国防軍』の設置」を明記。集団的自衛権の行使などを盛り込んだ「国家安全保障基本法の制定」を示し、憲法9条改悪と一体の内容になっています。その上で、巡航ミサイルなどを念頭に、“敵基地攻撃能力”の保持について「検討を開始し、速やかに結論を得る」と明記しました。また、▽陸上自衛隊「陸上総隊」の創設▽自衛隊の定員拡充▽軍事費増額▽海外派兵恒久法▽武器輸出の促進▽普天間基地の辺野古「移設」▽国家安全保障会議(NSC)創設と併せた「秘密保護法」制定―なども示しています(以上赤旗)。

これが安倍カラーだ。これが安倍自民の本性なのだ。アベノミクスで浮かれている場合じゃない。長嶋・松井の国民栄誉賞で欺されてはならない。96条での譲歩の姿勢を柔軟と見誤ってはならない。飽くまで改憲と国防軍創設、そして集団的自衛権容認が、その狙いなのだ。油断をしてはならない。

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 『国際子ども図書館』
上野の山の国立博物館と東京芸術大学の間の道路に面した、少々わかりづらい、静かな、人通りのない場所に「子ども図書館」はある。3階建ての四角い堂々とした外観で、クリーム色と白を基調にした、装飾的で美しいレンガ造りの建物だ。縦長の窓は飾りのついた破風で囲まれ、壁面も彫刻が施されている。直線的なガラスに囲まれて屹立する現代のビルディングを見なれた目には、贅沢と余裕に映る。
 もとはこの建物は、1906年に、明治政府が威信をかけて、東洋一、いな、世界一をめざして建設に着手した「帝国図書館」だ。はじめ計画は「ロの字型」の設計だったけれど、お定まりのとおり「文は武より弱く」、日清・日露戦争などの軍費に圧迫されて、建物の4分の一の南面だけの建設で終わってしまった「未完の図書館」なのだ。今は改装されて、そんな不完全さを感じさせない、なかなか魅力的なルネサンス様式の西洋建築だ。
 戦後、永田町に国立国会図書館が設置されると、国立図書館としての機能はそちらに移り、その支部の上野図書館となった。現在の瀟洒な姿は、2000年に児童専門の国立国会図書館「国際子ども図書館」としてリニューアルされた結果である。
 「子ども」の名にふさわしく、明るく清潔で、広々として、おとぎの国の子ども部屋はこんなだろうかと思わせる。1階の「子どものへや」は円形で、丸くカーブした本棚にたくさんの絵本や読み物が並べてある。大人だって退屈しない。3階は天井高10メートルもあり、白の漆喰の壁には彫刻がほどこされ、シャンデリアが下がっている。「子ども宮殿」だ。ベランダに出れば、樹齢50年は下らないうっそうたる樹海が目に入る。すばらしい。
 けれどもなんだか静かで寂しい。広さの割に子どもがいないからだ。町の図書館と違って、なんだかよそ行きで、澄ました感じがするからか。場所を考えると、大人の付き添いがなくては子どもは来ることが出来ないからだろうか。文化的を絵に描くとこんなになるのかなと思う。「国際」というからには、外国からの見学もあるのだろう。日本の子どもはみんなこんな図書館で本を読んでいるのだと、大間違いして帰るのかしら。
 こんな図書館が身近な町のあちこちにあって、保育園や児童館が併設されていたらどんなにいいだろうか。戦闘機も軍艦もみんなやめて、こんな図書館や保育園をポストの数ほど作ればいい。
 休館日は月曜日と国民の祝日・休日。今度、暇な日があったら、一人でも、友人とでも、家族連れでも、行ってみてください。大人も子どもも入場無料。飽きたら、動物園でパンダとゴリラの赤ちゃんが待ってます。こちらは有料。
 ただし残念なことが一つ。この図書館には「図書館の自由宣言」の掲示がない。事務員さん(ここは司書さんを採用するのではないそうだ)に話すと、「採用されてから司書の勉強はするので知っています」とのこと。「外に掲示してなくとも、胸にしっかり納めておいてください」とお願いすると、笑って了解してくれました。

「侵略戦争」は否定できない

日本国憲法は戦争の惨禍への反省から出発している。戦争への反省とは、それが大義のない侵略戦争だったことからのものであって、無謀にも負ける戦争をしたからではない。歴史認識とは、天皇制政府が起こした戦争が侵略戦争であったことと、植民地支配の不正義を認めるか否かの問題である。

朝日の報道によれば、維新の石原慎太郎は17日、先の大戦の旧日本軍の行為について「侵略じゃない。あの戦争が侵略だと規定することは自虐でしかない。歴史に関しての無知」「正確な歴史観、世界観を持っていないとだめだ」と語って、橋下徹の見解を批判したという。この批判に対して、橋下は「石原代表は当時、命をかけて戦っていた(時代の)人。いろんな考え方があるだろう」と理解を示した、とのこと。

石原や西村慎吾の暴論は、「右には右があるもの」と呆れるしかなく、論外と切り捨ててよい。問題は、「いろんな考え方があるだろう」という橋下の一見ものわかりの良さそうな見解である。これを問題にしなければならない。

もちろん、いかなる内容の言論にも自由がある。「いろんな考え方」のあることも、事実としてはそのとおりだ。しかし、政治家が記者会見において公にする見解の内容としては、自ずから限度がある。そのような場では、「先の大戦の旧日本軍の軍事行為は侵略ではない」とも、「いろんな考え方があるだろう」とも、軽々に口にできることではない。それを口にするには、世界を敵に回す覚悟が必要であり、百万言の論述と万巻の資料とを要する。立証責任を背負わなければならないからだ。

我が国は、くり返し、公式に「アジア諸国に対する植民地支配と侵略の過ち」を認め、謝罪をしてきた。以下は、戦後50周年における村山談話の抜粋だが、中曽根も小泉も同様の発言をしている。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
この見解は、戦後の日本には当然のことと言わねばならない。

第2次大戦の主要な性格は、民主々義陣営たる連合国と、全体主義陣営たる枢軸国の争いである。また、枢軸側各国は「遅れた持たざる帝国主義国家」として領土的野心を逞しくして戦火を開いた。

敗戦した枢軸側各国は、全体主義と領土的野望を清算して初めて、大戦後の国際秩序に組み入れられることを許容された。日本の場合、過ぐる大戦が侵略戦争であったことは、政府が受諾したポツダム宣言と降伏文書そして東京裁判に明らかであり、日本が独立を認められたサンフランシスコ講和条約11条にも、「極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾」との文言で、日本による東京裁判の受諾が明記されている。

ポツダム宣言には、「日本を世界征服へと導いた勢力を除去する」「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること」「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない」などと明記されている。

「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること」の実行として、東京裁判が開かれた。A級戦犯は極東国際軍事裁判所条例の第5条(イ)項の「平和ニ対スル罪」の被訴追者である。その構成要件は、「(イ)宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加」というものであった。

侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行したとして、戦争指導者28名が起訴され、判決前の病死者と精神障害発症者を除く25名に有罪判決が言い渡された。うち7名が絞首刑に処せられた。

前述のとおり、この東京裁判の受諾、すなわち侵略戦争としての戦争指導者の処罰を受け入れることによって、日本は国際舞台に復帰を認められたのである。今さらの侵略性の否定は、道義にもとるというほかはない。

なお、侵略の定義は、1974年12月の国連総会決議で明らかにされている。「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土的保全、政治的独立に対する、もしくは国連憲章と一致しないすべての武力的行使を指す」という常識的な定義規定のあとに、具体的な境界事例が列挙されている。

しかし、1974年に初めて厳格な定義ができて、侵略戦争が違法とされたわけではない。1928年の不戦条約は戦争一般を違法としたが、解釈において「自衛戦争は禁止の対象とされていない。その結果、侵略戦争のみが違法とされた」との見解が暗黙の了解となった。このとき既に、厳密な明文の定義如何はともかく「侵略戦争」の概念は存在した。当然のことながら、大戦の終了時に定義曖昧ということはあり得ない。「いろんな考え方があるだろう」で、済ませられる問題ではないのだ。

維新の内部紛争などはどうでもよい。問題は、憲法の基本理解に関わることだ。戦争への反省から日本国憲法が生まれた。その「戦争」の性格と「反省」の内実とをゆるがせにしてはならない。

取り消せ、あやまれ、辞めろー橋下

まずは、取り消せ
 品性下劣な恥ずべき妄言を
 人間の尊厳を蹂躙する暴言を
 歴史を偽るその虚言を

そして、謝れ
 この上ない侮辱を受けた女性に対し
 愚弄された沖縄に対し
 貶められた平和と人権と歴史の真実に対して

そのうえで、辞めろ
 大阪市長も政治家も弁護士も
 思想良心の侵害も不当労働行為も
 そして歴史の改ざんも改憲策動も

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  『刈り込まれた柏の木』
急に気温が上がると、庭仕事がおしよせる。庭仕事の要諦は「思い切り」。気分は「勇気」「果敢」「決断」。草刈りするなら「根」まで断て。「匍匐枝」(ランナー)をのがすな。「スギナの根は地獄の底までいっている。いっくら掘れども果てがない」「スギナの根は、日本に3本しかなくて通じているもんだから、頭つまんどくよりしょうない」(草木ノート 宇都宮貞子) 可憐な花を思い浮かべるな。大丈夫、来年も咲く。
 枝落としするなら、深々と切れ。風が通り、陽が当たり、虫もつかない。
切りすぎたって、刈りすぎたって、時が回復してくれる。

ここからは、切られ刈られた草木の心。
  「刈り込まれた柏の木」(ヘルマン・ヘッセ)
樹よ なんとおまえは刈り込まれてしまったことか!
なんと見なれぬ奇妙な姿で立っていることか
おまえの心に反抗と意思のほかは何も残らぬほど
なんとおまえは幾百回となく苦しんだことだろう!
私もおまえと同じだ 切り取られ
責めさいなまれた人生を放棄せず
悩まされ通しの惨めな状態から
毎日新たに額を光にあてている。
私の心の中の柔らかく優しかったものを
世間は罵倒し殺してしまった
だが私の本質は破壊し得ない
私は満足し宥められた
幾百回となく切り刻まれた枝から
我慢強く新しい葉を萌え出させた
そしてどんな苦しみにも抵抗して
私はこの狂った世界に恋し続けている。

警察・検察は石原宏高議員の選挙違反を黙過するのか

当ブログでの石原宏高議員選挙違反糾弾の第4弾である。
第1弾は、本年3月14日「金権・金まみれの選挙運動を糾弾する」との標題をつけてのもの。第2弾は、同月19日「石原宏高議員選挙違反続報」。そして第3弾は、本年4月11日「選挙運動収支報告書を読む」であった。それから1か月以上が経過している。

この選挙違反事件が世に知られたきっかけは、3月14日「朝日」のトップ記事である。当時はまだ、当ブログが日民協に間借りしていた時代。その日の記事を皮切りに、私はこれまで要旨次のように書いてきた。

選挙とは投票日だけのものではない。有権者が投票行動を決める過程における自由な言論戦こそが選挙の本質として重要視されなければならない。公正に設計された「思想の自由市場」における諸言論の自由かつ公正な競争、それこそが選挙運動にほかならない。選挙運動の自由は最も重要な場面における表現の自由(憲法21条)として最大限の保障を要する。選挙運動の自由(戸別訪問・文書の掲示頒布等)に対する権力的規制は不当な弾圧であるが、この弾圧はもっぱら革新陣営を対象としてなされる。

また、選挙運動は公正におこなれなければならない。「思想の自由市場」の公正が金の力でゆがめられてはならない。金がものを言うこの世の中で、買収・供応等の金権選挙・企業ぐるみ選挙を許してはならない。経済的な格差を投票結果に反映させてはならず、取り締るべきは当然のこと。その摘発は、もっぱら保守陣営を対象としてなされ、現実にけっこうな数にのぼっている。

革新陣営を対象とする買収・供応等の実質犯の摘発事件がないのは、革新陣営には金がないからだ。多少のカンパが集まっても、ビラや電話代に消える。金で票を集める、金で運動員を集める、運動員に日当を出すという発想がそもそもない。まず金を集めて金の力で人を動かす保守陣営の選挙との根本的な違いがある。

3月14日「朝日」一面のトップ記事。見出しは、「石原宏高議員側が運動員要請 UE社派遣、法抵触の疑い」とつけられている。分かりにくいが、「石原宏高議員に公選法上の買収の疑い」がある、ということだ。

公選法上の買収には、「投票買収」と「運動(員)買収」との2種類がある。「投票買収」は金で票を買うという古典的な形態だが、いまどきそんな事案はほとんどない。摘発されているのは、もっぱら「運動買収」である。これは、人に金を渡して選挙運動をさせるということ。選挙運動員に金を渡せば、本来無償でなされるべき選挙運動を金で買ったものとして、運動買収に該当し刑事責任を科せられる。

選挙が金で動かされてはならない。選挙運動とは金をもらってするものではない。この潔癖さが保守陣営にはない。石原宏高選挙がその典型である。純粋のボランティアで選挙運動員が集まるはずはなく、日当を支払うか、勤務先からの賃金を保障する形での経済的利益供与がなければ運動員を確保できないのだ。しかも、金をもらって選挙運動をしたのは、石原議員のカジノ解禁という「政策」実現で金儲けをたくらむ「ユニバーサルエンターティンメント(UE)社」の社員である。政治とビジネスの薄汚い癒着を象徴するのがこの事件。

なお、当不当の議論は別として、判断要素のない純粋に単純労務を提供する者には所定の日当を支給しても良いことになっている。事務作業については、従事する者の氏名と日当額とを予め選管に届出ることによって一定額までは支払うことができる。しかし、実質における選挙運動者を「労務者」や「事務員」として収支報告書に届け出れば虚偽の記載だし、報酬を受けとっている「労務者」や「事務員」が単純労務や事務の範囲を超えて、選挙活動の方針を決める選対会議に出席して発言をしたり、電話かけやビラ配りをするなど、少しの時間でも選挙運動をすれば、運動買収(日当買収ともいう)が成立して、日当を渡した選挙運動の総括主宰者・出納責任者も、日当をもらった選挙運動員も、ともに刑事罰の対象となる。

「石原宏高議員側が運動員要請 UE社派遣、法抵触の疑い」とは、朝日の報道とこれを追った毎日や赤旗の報道によれば、
(A)「UE社なるカジノ運営企業は、選挙期間中3人の社員を派遣して石原陣営の選挙の手伝いをさせた。応援の期間、3人については、UE社が給与のほか、選挙運動で遅くなったときの宿泊代や交通費、食事代なども負担した」
(B)「石原議員側が都選挙管理委員会に届け出た選挙運動費用収支報告書には、UE社の社員3人が「事務員等」と記載されている」
(C)「石原議員側からUE社役員に選挙を手伝う社員を出すよう依頼があった」という。

(A)の文脈における「UE社」側の行為は、公選法221条1項1号の「当選を得しめる目的をもつて選挙運動者に対し金銭の供与をした」に当たり、買収罪として最高刑は懲役3年の犯罪となる。選挙運動の総括主宰者または出納責任者の実質がある者が行った場合は公選法221条1項1号(運動買収)・3項(加重要件)に該当して、最高刑は懲役4年の犯罪に当たる。さらに多数回の行為があればさらに加重されて5年となる(222条1項)。仮に、候補者自身が関与していれば同罪である。また、「UE社」から派遣された社員3名は、同条1項4号の「第1号の金銭の供与を受けた」にあたり、被買収罪として同じく最高刑は懲役3年となる。

(B)の文脈において、「事務員」としての登録者に選挙運動の実態があって、これに金銭を支払っていれば買収罪が成立して、授受の双方に犯罪が成立する。「事務員」ができることは、判断要素のない純粋な事務作業だけとされている。これを超えて選挙運動をした者に石原陣営からの金銭の供与がともなっていれば、選挙運動を総括主宰した者あるいは出納責任者の刑事責任が生じ、最高刑は懲役4年となり、受けとった方は3年となる。

(C)の文脈では、「UE社役員に選挙を手伝う社員を出すよう依頼をした」という石原議員側の人物に刑事責任が生じる。221条1項6号の「前各号に掲げる行為に関し周旋又は勧誘をしたとき」に当たるか、あるいは依頼行為が教唆罪(刑法61条1項)に当たるからである。石原議員自身が「周旋又は勧誘をした」とされる場合には、候補者であるが故の加重要件に該当して最高刑は懲役4年となり、有罪の確定と同時に公民権の停止も行われて議員資格を失う。選挙運動の総括主宰者あるいは出納責任者が有罪になった場合にも、連座制の適用によって石原議員の資格が剥奪される。

繰り返すが、選挙運動は金をもらってやるものではない。たとえ形式的に「労務者」や「事務員」として届出された者であっても、実質において選挙運動をする者であれば、これに金を渡せば、渡した方も受けとった方も犯罪なのだ。また、当然のことだが、「法律を知らなかった」は言い訳にならない。アルバイト募集に応募したところが勤務内容がたまたま選挙運動で、アルバイト料の支払いを買収として結局有罪になったという気の毒な実例もある。「UE社」側のみならず、派遣社員の有罪も動かしがたい。

石原陣営もUE社も、「有給休暇中のボランティア」としての選挙運動であったと口裏を合わせて弁明している。カムフラージュの常套手段だ。しかし、後日「朝日」が入手したという「選挙応援の件(ガイドライン)」と題する文書(UE社人事部門が作成)によれば、「あくまでもボランティアを募集して行わせる体裁をとる」ことが明記されているという。実態が違法であることを認識していた証左といえよう。UE社の人事担当者について運動買収罪が成立し、賃金保障で選挙運動をした3人も被買収罪が成立する。いずれも最高刑は懲役3年である。

ところで本日(5月16日)、石原候補の選挙運動収支報告書を再度閲覧してきた。
4月23日付で訂正がなされている。訂正は、頁単位で旧記載を「削除」し、頁単位で新記載を「追加」するという形式で行われている。「削除」は頁全体への×印と押印で当該頁を抹消したことを明示し、「追加」頁の表記と相俟って、訂正した経過が明瞭に残されている。

最重要の訂正内容は以下のとおり。
原報告書では、「事務員等報酬」の支払い対象が12名で合計支払金額が109万円とされていた。それが、訂正後は4名となり合計額25万円となった。原報告書に「事務員」として記載された12名のうち8名が姿を消し、原報告では支払われてはずの84万円も消えた。

仮に、訂正後の記載が真実で消えた8名については実は金銭授受の事実がなかったとすれば、原報告書提出の時点で、出納責任者における公選法189条の違反となり、同法246条5号の2の「選挙運動収支報告虚偽記載」の罪が成立する。法定刑は、3年以下の禁固または50万円以下の罰金である。事後の訂正は、情状には影響しようが犯罪の成立を阻却しない。

また仮に、訂正前の記載が真実で、訂正によって記載から消えた8名について実は金銭授受の事実があったとすれば、訂正報告書提出の時点で、「選挙運動収支報告虚偽記載」の罪が成立する。

さらに、法189条は報告書に領収書の添付を義務づけている。原報告書には、消えた8名の領収書が添付されていたはずである。もし、訂正のとおりに実は当該の8名に対する金銭の支払いがなかったとすれば、添付の領収書は偽造されたものということになる。誰が偽造したかは明らかではないが、行使の目的での私文書偽造の法定刑は3月以上5年以下の懲役である。

報道によれば、「消えた8人」のうちの3人は、UE社の社員であるという。石原陣営はこの3人を報告書に残しておくことが不都合と考えて報告書を訂正したものであろう、そのように判断せざるを得ない。実質犯としての買収罪(最高刑は懲役)よりは形式犯の収支報告書虚偽記載罪を選択したものと忖度される。買収罪だと石原候補に影響が及ぶことは必至だが、虚偽記載罪なら出納責任者がかぶることで済ませられる、との計算が働いたのであろうとも。

さて、選挙が終了してから今日で5か月。朝日が事件を報道してからでも2か月余を経過した。どうして、警察も検察も石原陣営を検挙しないのだろうか。投票買収だけでなく収支報告書の虚偽記載も加わっている。私文書偽造の疑いもある。しかも、石原議員とUE社との薄汚い密接な関係に基づいての投票買収である。姑息な隠蔽策を弄してもいる。情状はすこぶる悪質というほかはない。各紙の報道によって天下周知の事実にもなっている。それでも、選挙に大勝した自民党の議員については、「この程度のことはお目こぼし」なのであろうか。

投票日を同じくした都知事選の宇都宮陣営では、ビラ配布をしていた70歳が公団住宅の廊下で住居侵入として逮捕され、勾留請求却下まで3泊4日を留置所で過ごした。革新陣営にたいする選挙運動の自由にはかくも厳しく、保守陣営の金権選挙にはかくも甘いのが、警察・検察の実態なのであろうか。

それにしても、事件発覚の発端は朝日の記者の選挙運動収支報告書の閲覧であった。その後に、これを追った毎日・赤旗の各記者の報告書を深く読む炯眼にも感服した。せっかくの情報公開制度を、大いに活用しよう。敵対陣営だけでなく、自分が支持した陣営の選挙についても、収支報告書をよく読み込んでみることをお勧めしたい。興味深い新しいことを発見できるはずだ。

窓口は、都庁第1庁舎39階の選挙管理委員会事務局。印鑑も身分証明も不要。担当職員はとても親切で、けっして面倒な顔などされない。

9条改憲を許したら‥こんな泥沼の戦争に

自民党憲法改正草案における9条改憲の大目標は国防軍の創設だが、これと並んで集団的自衛権容認がある。具体的には、アメリカの戦争に日本の軍隊が加担できるようにすることだ。そのアメリカの戦争の実態を『勝てないアメリカー「対テロ戦争の日常」』(大治朋子著 岩波新書)が懇切に教えてくれる。

09年毎日新聞の取材で、アフガニスタンの米軍基地を訪れた著者は、米軍の中尉とともに厳重な装甲車に乗ってパトロールに出かける。基地から8キロメートルぐらい離れた時、「突然座席の下から巨大なかなづちで一撃されたような衝撃を受けた」。持っていたカメラもノートもペンも散乱し、背中に激痛が走る。結局、けが人は出なかったが、装甲車は大破していた。「わずか10ドルほどのIED (手製爆弾)が、4800万円以上の米軍の最新鋭の装甲車を一瞬にして破壊し、部隊全員を不安に陥れる。立ち往生させ、待ち伏せ攻撃の可能性に何時間も緊張を強いられる。基地に戻ったのは爆発から7時間後だった」「「持たざる者」が、「持てる者」を振り回す。小さな蜂の群れが、巨象を襲う。それがこの戦争の日常だ。これが非対称の戦争なのだ。」

装甲車の防備も、兵士のボディアーマーも格段の進歩を遂げた。戦場での医療も手厚い。以前の戦争なら確実に命を落とした爆弾攻撃でも、いまでは兵士は生き延びる。ところが、新たな傷害、PTSD(心的外傷ストレス障害)やTBI(外傷性脳損傷)が兵士を蝕む。外見は元気に帰還した若者たちが長期にわたって、こうした「見えない傷」で苦しんで、療養を強いられる。09年、米国防総省はイラクやアフガンに派遣された米兵180万人のうち、約1~2割(18~36万人)がTBIだと発表した。退役軍人省によると帰還兵の治療や保障に02年~10年までの間に費やした費用は60億ドル、帰還した兵士が急増した10年1年間で20億ドルということだ。

戦争の非対称性の象徴が、戦争のゲーム化だ。米国本土から遠隔操縦される、無人飛行機・プレデター(捕食動物) やリーパー(死神)がイラクやアフガンの上空を飛び回り、偵察し、爆撃する。ハリウッド映画のような罪悪感を伴わない「テロリストとの殺人ゲーム」。必然的に引き起こされる、誤爆や民間人殺害。これらは時と場所によっては、民間戦争請負会社やCIAの職員が肩代わりする。米軍の責任回避に都合がいい。「兵士の戦死という犠牲があるからこそ、米国はこれまで国民も政治家も、戦争には慎重になってきました。多数が死傷すれば、派遣に賛成した議員は選挙で負けるからです。けれどもパキスタンでの空爆は(米兵が死なないので)米議会で審議されず、戦争という認識さえ持たれていません。これは無人機戦争の拡大が生み出した民主主義社会の破壊です。」(ブルッキングス研究所研究員ピーター・シンガー氏の弁)

イラク・アフガン戦争の関連出費は4兆ドル。米兵と治安部隊の死者3万人。民間人と武装勢力死者25万人(ブラウン大学ワトソン研究所試算)。「米国がこれほど莫大な戦費と人命をかけたにもかかわらず、両国は安全になったのか、テロの脅威は消え去ったのかといえば、決してそうではない。テロ事件はなお続き、多くの市民が犠牲となっている」「責任ある終結」など容易に出来はしない。

オバマ政権は11年にイラク戦争の終結を宣言し、部隊は撤退した。14年にはアフガン戦争の終結をしようとしている。しかし、アフガンのカルザイ大統領は、5月9日、14年以降も米軍が国内基地9カ所での駐留継続を要求していると演説している。米国がひっくり返したびっくり箱からテロリストが世界中にばらまかれてしまった。11年1年間に起きたテロ事件は世界70カ国で1万283件、犠牲者は1万2533人にのぼると、米国務省が発表している。

「多数の人命と莫大な戦費、膨大な時間を使い果たしてもなお勝てないアメリカの現実だ」とこの本の著者は結論づけている。

さて、日本では憲法改定論議が盛んだ。目標は9条を変えて、米国と一緒に戦争できる国にすること。9条改憲で国防軍を持てば、自衛の範囲にこだわらずに世界の各地でアメリカの下請けの戦争ができる。あるいは集団的自衛権行使を可能とすれば、アフガンでもパキスタンでもアメリカと一緒に戦闘が可能だ。しかし、どう考えても、こんな無責任で危険な米国と組んで、泥沼のような戦争をしてはいけない。蟻地獄のような戦争に引きずり込まれてはいけない。自分の首が回らないのに、これ以上の借金を重ねて貢いではいけない。そしてなにより、大切な若者たちを大義のない、果てしもない戦場に送ってはいけない。

96条改憲批判ーその8          橋下徹はアウト、96条改憲もアウトだ

本日は私的な慶祝の日。5年前の春、肺がんで右肺上葉摘除手術を受け、以後5年にわたって経過観察の通院受診を続けた。本日が、その5年の執行猶予期間満了の日。

通い慣れた「つくばエクスプレス線」で、「柏の葉キャンパス」駅下車。ここからバスで、国立がん研究センター東病院に。血液採取と画像撮影の後2時間近い待ち時間。主治医の永井完治医師から、晴れて「転移、再発はありません」「手術対象の肺がんは治癒したと考えて結構です」との快癒宣言。もう、次回通院の予定はなくなった。お世話になった永井医師にはただただ感謝あるのみ。

5年前に、その永井医師からの「肺がん宣告」だった。「外科的治療ができるから大丈夫」と勇気づけられはしたものの、がんの宣告を受けるのはつらい。当事者の立場になってみないと、その辛さは本当には分からない。私も長年、「弁護士としての最も大切な資質は、他人の悩みへの共感能力だ」と言ってはきた。そのような弁護士たらんと広言もしてきた。しかし‥、実は言ってはみたけれど、実践できたわけではない。

これまで、全て患者側で医療過誤訴訟を数多く手がけてきた。自分自身が、がんの宣告を受けて不安な気持ちで手術を受けて、ようやく少しは依頼者の辛い気持ちを理解することができるようになったかと思う。日の丸・君が代強制に承服できないとして、孤立しながら不起立を貫く教員の心労。会社への批判的言動故の配置転換から解雇に至った労働者の悔しさ。つくづくと、その立場に陥った人の辛さを理解し共感することの難しさを痛感している。いじめられた人の辛さは、いじめた側にも傍観者にもなかなか本当には分からない。

このような弱者への共感能力の欠如は、政治家にとっては致命的な欠陥である。その典型が、石原慎太郎と橋下徹。いずれも、共感能力の不足と言うよりは、共感しようという姿勢そのものが欠如している。

一昨年の東日本大震災の直後、私は石原の「震災は天罰」発言に怒り心頭に発して石原批判のブログを書きつづった。下記のリンクをぜひご覧いただきたい。
http://www.news-pj.net/npj/sawafuji/index.html
そして、今また、「慰安婦は必要」「沖縄の風俗業を活用せよ」と言った橋下徹に同じ批判を浴びせねばならない。

橋下は、自らの品性が下劣なことを売り物にしている稀有な「政治家」である。「本音」を語って、同類から喝采を得ることが彼の支持獲得の手法である。きわどく、あざとい発言を続けることなしには彼の政治的支持基盤を維持しえない。いわば、問題発言の永久運動を強いられている存在なのだ。

しかし、今回は、きわどい球を投げたつもりが、恐るべきビーンボールとなった。これまで橋下に擦り寄った同類も、橋下の近くにいることの危険を覚らざるを得ない。女川で住民の声として聞かされたあの言葉がよみがえる。「これまでは原発に喰わせてもらっているとの思いがあったが、今は原発に殺されるのではないかと心配だ」。原発を橋下に置き換えなければならない。「これまでは橋下人気にあやかれるとの思いがあったが、今は橋下と一緒と思われては自分までも沈没だ」。もっとも、たったひとりの同志がいるようだ。石原慎太郎という同じ穴の生き物。

本音を語って、正体をさらけ出したことによって、橋下は全女性を敵に回した。全沖縄を敵に回した。韓国・朝鮮・中国・台湾・フィリピン、シンガポール・マレーシア・インドネシア・ベトナム・オランダ‥等々の諸国を敵に回した。米欧を中心とする国際外交のすべてを敵に回した。そして、真面目に歴史を考え、真面目に人権と政治を考えるすべての人からの指弾を覚悟しなければならない。

ときあたかも96条改憲論議のさなかである。安倍自民が96条先行改憲を打ち出したのは、明らかに党外勢力としての維新が96条改憲に熱意を有していたからである。そして、その維新が2012年12月総選挙で「躍進」を遂げたからである。公明党に代わる維新という応援団あっての96条先行改憲路線であった。

このような人物が推進する96条改正。それが実現したあとに何が待ち構えているのか。橋下の言動が如実に語っている。戦争への無反省であり、歴史の修正であり、人権の否定であり、外交感覚欠落の非国際協調主義であり、沖縄の現状固定化であり、なによりも不真面目極まりない政治である。

96条先行改憲の推進力であった維新・橋下の品性の下劣さがここまで明らかになり、橋下へのアウト宣告は、96条改憲へのアウト宣告でもある。こんな人物に、大切な憲法をもてあそばれてたまるものか。

96条改憲批判ーその7          このワンフレーズを使いこなそう

「リベラル21」というインターネットメディアに、原水禁運動などの論評で高名なジャーナリストの岩垂弘さんが、「憲法記念日の社説を点検する」という記事を掲載している。

岩垂さんは国会図書館で、5月3日付の一般新聞53紙を閲覧した。そのうち46紙が憲法記念日にちなんだ社説を掲載しており、いずれも96条改定問題を論じていた。「その論調を大まかに分類すると『改定賛成』が6紙、『論議を深めよ』といった、いわば中立的な立場が5紙、『改定反対』が35紙であった。つまり、『改定賛成』13%、『中立』10%、『改定反対』76%という色分けだった」という。読売、産経は、この13%の少数派にはいることになる。

岩垂ブログはこれで終わらず、96条改定反対派の理由を次のように3分類できると整理している。
(1) 立憲主義を覆す、という反対論
(2) 本当の狙いを隠している、という反対論
(3) 96条改定より先にやるべきことがある、という反対論

一読に値する。ぜひ参照していただきたい。
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2376.html

※ ※ ※
岩垂さんの報告を見ても、96条改憲の目論みが改憲勢力の思惑外れになりつつあることは明らかだ。しかし決着はまだ先のこと、批判の手を緩めてはならない。
私なりに、使えそうな「96条改憲批判・ワンフレーズ」を集めてみた。それぞれで補強し、工夫して、これを使いこなそう。

岩垂さんに倣って、3分野に分類してみる。
(1) 96条改憲は立憲主義を覆す
 「96条改憲は、憲法を憲法でなくする禁じ手だ」
 「96条改悪は、憲法を壊す道」
 おそらく、この二つが王道。

 「96条改定は、形式や手続きだけでなく憲法の根幹を根こそぎ変えてしまう」
 立憲主義を語るきっかけのフレーズに。

 「憲法は硬いところが値打ち」「軟らかい憲法は憲法ではない」
 硬性憲法の理念を語るきっかけに。

 「96条改正を許せば、全ての憲法原則が壊れる」
 「96条に穴が開くことは、憲法の土台を崩すこと」
 「ときの政権が96条改憲を言い出すなんぞ、本末転倒も甚だしい」
 
(2) 本当の狙いを隠している
 「国民を欺いてはならない」
 「正々堂々とやれ」
 「卑怯・姑息・汚い」
 「裏口の手口」
 「敵は本能寺ではないか」
  ‥‥まだまだあるだろう。

 「入り口は96条(改正)で、出口が9条(改正)」
 「96条改憲の先に、9条改憲が待ち構えている」
 「96条から手をつけて、9条改正に至る」
 「表は96条、裏は9条」

 「気をつけよう。くらい夜道と96条改憲」
 「『手続くらい変えたって』甘い言葉に毒がある」
 「うっかり信じちゃ泣きをみる。振り込め詐欺と96条改憲」
 「96条の一穴は、平和と人権と民主々義を押し流す」

 「何を変えるかを論じずに、変え方だけを論じるのは奇妙奇天烈」
 「中身の合意を棚上げして手続だけ緩めるのは、不毛の混乱を招くばかり」
 「嫁さんの顔を見せないで、ともかく結婚しろというが如し」
 「改憲の狙いを明らかにしないのは、裏があるからだ」

(3) 96条改定より先にやるべきことがある
 「改憲より復興を」
 「どさくさに紛れた改憲策動に反対する」
 「災害便乗の改憲を許すな」
 「改憲ではなく、今こそ憲法の完全実施を」

いずれ、増補改訂版を掲出したい。

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 『万緑の季節』
 いつの間にか万緑の季節になってしまった。高い木も低い草もわれもわれもと競い合って、空間の奪い合いだ。遠慮会釈なく生命を謳歌している。万緑の下で、植物たちはとにかく忙しく自己増殖に励んでいる。おかげで我々は呼吸も出来るし、野菜や果物や穀物をいただけるという仕組みになっている。人間は圧倒されて、若者だって「五月病」で元気が出ない。
 あんなに潔く散ったソメイヨシノはしっかりと小さな緑色の実を付けていて、それが赤から黒紫に変わる頃には小鳥がうるさいほど群がる。サクランボほどではないけれど、甘くて人間が食べたって美味しい。
 タンポポは盛んにヘリコプターのような種を無数に飛ばして、どんなコンクリートの隙間にだって着地したら根を張らずにはおかない構えだ。ぺんぺん草も長く伸びた花軸に小さな三味線のばちのような種をつけて、風にさらさら鳴っている。カラスノエンドウもレンゲ草も小さな鞘の中に豆を作って大事そうに抱えている。
 その種について、「園芸家12ヶ月」(カレル・チャペック著)の5月の園芸家より。
 「どの園芸書にも「苗は種から育てるにこしたことはない」と書いてある。・・まいた種は一粒もはえないか、全部はえるか、どっちかだ。これが、つまり、自然の法則なのだ。・・種を一袋買ってきて、まき鉢にまき、種が美しく芽生えるのをたのしみにしている。しばらくたつと移植の時期になる。園芸家はみごとに育った実生苗を鉢に170本もつくり、歓声をあげてよろこぶ。そして、種から育てるのがいちばんだ、と考える。やがて実生苗を地面におろす時期がくる。だが、170本のアザミをいったいどう始末したらいいのか。すこしでもすきまのある地面を、あますところなく利用したが、それでもまだ130本以上あまっている。あんなに丹精して育てたものを、いくらなんでも、ごみ箱にほうりこむわけにはいかない。
「どうです、アザミの実生苗があるんですがね、2,3本お宅でお植えになりませんか。」
「そうですか、植えたっていいですよ」
さあ、ありがたい。助かった。隣の主人は実生苗を30本もらい、いま、それを持って途方にくれ、庭のなかをさかんにあっちこっち歩きまわって、植え場所をさがしているあとまだ左側と、向こう側のお隣がのこっている。」
 ことほどさように、種の力は偉大なり。数だけでなく、時空をこえて、2千年後に芽をだす蓮の種さえあるのだから。

96条改憲批判ーその6          「樋口陽一さんは、こう語った」

昨日(5月11日・(土))の午後、日弁連の講堂で、久しぶりに樋口陽一さんの講演を聞いた。演題は、「国会・民意・反映ー憲法理論から問題を取りあげる視角」というもの。その中での、「憲法96条と民意」についての部分を抜粋してお伝えしよう。録音していたわけではない。斯界の権威の言の要約であるが、飽くまで私が理解した内容としてのものである。

* * * *
ある学者が、「ノーマル・ポリティクス」(通常の政治)と、「コンスティテューショナル・ポリティクス」(憲法政治)という言葉の使い分けをしています。その学者が各用語に込めた考え方はさておいて、この二つを区別した用語法だけに着目して転用すれば、「通常の政治過程における民意」とは区別された「憲法そのものに対面する場合の民意」というものを考えることができます。

ノーマルな民意は単純過半数をもって確定できるとしても、コンスティテューショナルな民意においては必ずしもそうはなりません。日本国憲法96条においては改憲の要件としての民意を単純過半数ではたりず、もっと厳格なものにしています。これは多くのデモクラシー諸国のとるところで、各別に日本国憲法が厳格というわけでもありません。

これを不当とする考え方もあります。「今日の国民が明日の国民を縛ってはならない」とするものです。しかし、この理はノーマルな民意についてはともかく、コンスティテューショナルな民意においてはあてはまりません。どうして、憲法はそのような自己制約の制度を採用しているのでしょうか。

まだ自民党が政権を取る以前のことですが、安倍さんは「たった3分の1を超える国会議員の反対で国民投票が邪魔されて発議できないのはおかしい。そういう横柄な議員には退場してもらう以外にない」という趣旨の発言をしています。この「横柄」という言葉に引っかかりを感じて確認しましたが、このとおりだったようです。

憲法改正の発議要件が両議院の3分2を要するとされているのは、3分の2の多数意見形成に至るまでとことん議論を煮詰めること、そこに至るプロセスを明らかにすることが国会の職責とされているということなのです。その国会の職責が全うされて初めて、国民のインフォームドコンセンサス(正確な情報を提供されたうえでの合意形成)が可能になります。憲法は、そのようにして、コンスティテューショナルな民意を形成するように求めているのだと考えます。

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 『小選挙区制の違憲論』
なお、樋口講演は、日弁連と東京3会が共催した「国会は民意を反映しているか」というシンポジウムの基調講演。当然に小選挙区制が議論の中心テーマだが、小選挙区制の功罪や憲法論に焦点が集中せず、よくいえば幅広い視野からの議論、遠慮無くいえば、消化不良のぼけた印象の議論に終わった。

この日私が、「質問・意見書」に記載した内容を少し整理して記載しておきたい。時間がないとして、結局は読み上げてはもらえなかったのだから。
* * * *
私が、「一票の格差訴訟」判決を評価するのは、選挙制度の設計における国会の裁量の幅が意外に小さいものであることを大法廷が確認したことにおいて。この判断の射程が、小選挙区制といういびつな制度設計の合理性判断にどう及ぶか、それが関心事である。

パネルディスカッションにおいて、五十嵐仁さんが政治学的立場から明らかにされた小選挙区制の不当・不合理は極めて説得的で反論はなしがたい。これを憲法論として考察する場合には、選挙制度としての合理性の問題と、選挙民の基本権侵害という両面からとらえる必要がある。

とりわけ不足している議論が、基本権としての参政権の平等性侵害の議論。今回の総選挙では、小選挙区制に限っていえば、自民党へ投票した有権者数は2564万3309票、これで237議席を獲得してるから、自民党投票者は、10万8000人で1議席を獲得している。一票の議席反映価値は、その逆数つまりは11万分の1になる。ところで、日本共産党の立候補者は小選挙区で470万0289票を得ているが、全て死票となって1議席の獲得にも結びついていない。「11万票で1議席」対「470万票で0議席」である。

これは、憲法14条にいう「信条による政治的差別」に該当し、平等原則に違反するといわざるを得ない。この不平等を合理化する憲法上の対抗価値がありうるか。唯一考えられるのは、選挙制度設計に関する立法の裁量である。しかし、「一票の格差判決」で示された、「居住地域による一票の格差」を合理化しないとされた国会の裁量が、支持政党の如何における一票の格差を合理化するものとは到底考えがたい。

もう一つ、小選挙区という選挙制度設計が基本権に及ぼす影響について指摘したい。いわゆる小選挙区効果といわれる現象がある。当選を争うとされる政党に投票が集中するということだ。選挙民の側から見ると、少数しかとれないと予想される政党の支持者が、心ならずも、当選可能な他党候補者に投票を余儀なくされることである。共産党の支持者が、無念ではあるが、自民や維新よりはマシな民主党候補者に一票を投じるということは現実にあり得ること。他のより合理的な制度設計が可能であるにかかわらず、このような自らの思想に反する投票行動を余儀なくさせる選挙制度の設計は、憲法論的にいったい何をもって合理化されるだろうか。端的に、憲法19条違反というべきではないだろうか。

いずれにせよ、小選挙区は罪が深い。選挙制度の設計として最悪というだけでなく、選挙民の参政権の平等や思想良心の自由を侵害する。

蔓延する「自己規制ファシズム」「従順ファシズム」

「毎日」5月9日夕刊で、辺見庸さんが「息苦しさ漂う社会の空気」と題して次のように述べている。

「ファシズムとは・・独裁者の言葉に突き動かされるのではなく、そんたくや自己規制、自粛といった日本人の『得意』な振る舞いによって静かに広がっていくということだ。」

「銃剣持ってざくざく行進というんじゃない。ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティンワーク(日々の作業)の中にある。誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きをしばりにかかるんです」

「80年代までは貧者が増えれば階級闘争が激しくなると思われていたけど、今は彼らがプロレタリアートとして組織化され立ち上がる予感は全くない。それどころか保守化してファシズムの担い手になっている。」

大いに同感。同時に、私自身にも思いあたることとして耳が痛い。
先日図書館回りをして、各館に掲示の「図書館宣言」を写真に撮ってきたときのこと。「撮影させていただきます」と形式的にひと言挨拶したつもりが、「はい、どうぞ」とはならない。みんな口を揃えて、「責任者に聞いてきます。」となる。そして、館長のお出まし。
「どうして自分で判断できないんだろう」と友人に不満を言うと、「それはあなたが責任をスタッフに押しつけたからだよ。黙って撮ればいいのに」と指摘された。なるほど、おっしゃるとおり。文句を言われたら、もめたら嫌だからという気持ちが自分にもあった。プライバシー権や肖像権を尊重しますという、常識人を演じたかったからでもあった。

このごろつくづく、人の集まるところに行きたくない。先日、新宿御苑にお花見に行ったら、持ち物検査をするのでバッグを開けろという。東京都庁へ行って、展望台へ行こうとしたら、ここでもだ。当然抗議した。ガードマンと言い合いをするのは覚悟の前だけれど、周りの一般人からも胡散臭い顔をされ迷惑そうにされる。どうして、みんなそんなに従順なんだ。

国民栄誉賞授与式の行われた、東京ドームもこの手のことを徹底してやる。金属探知の身体検査までする。国民栄誉賞なら、それに文句がある人が爆弾を持ってくることの疑いも分からないではないが、「ラン展」でも「キルト展」でもの厳重検査はわからない。女性のハンドバッグを覗きたいのかしらと思う。時には「君が代」に付き合えとまでも。何の権利があってこんな理不尽な目に遭わせることが出来るのか。しかも多くはたいそうな料金をとってのこと。この理不尽を成り立たせているのが、不気味なみんなの従順さ。だから私は人の集まるところには行きたくないのだ。

「自己規制ファシズム」とは、「従順ファシズム」「良い子シンドローム」でもある。「抵抗の美徳」を再確認しよう。

辺見庸さんにひと言の異論。「昔は気持ちの悪いものは気持ち悪いと言えたんですよ」とのご意見ですが、はたしてそうでしょうか。昔からこの国では、はっきりとものが言えなかったし、そのことが「美徳」で、「得意」でもあったのではないでしょうか。

漱石大先生でも「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」とおっしゃっているではありませんか。

もっと古い例を探せば、
「方丈記(第7節)」には、「世にしたがへば、身、苦し。したがわねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心を休むべき。(世間の常識に従えば、納得しがたいこの身が苦しい。さりとて、従わなければ常識外れと激しいバッシング。いったい、どこでどうすれば、心が安まるだろうか)」とあり、

また、「徒然草」(75段)には、「世にしたがへば、心、外の塵に奪われて惑い易く、人に交われば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心に非ず。(社会的同調圧力に身をまかせれば、自分自身を失ってしまう。人と上手に付き合おうとすると言葉一つにも相手の意向を気遣いしなければならない。自分の心のままに語ることなんてできっこない)」とあるとおり。

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