澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「日の丸」この厄介なるもの

富士には月見草がよく似合う。
さて、日本には何が似合うだろうか。
富士・さくら・白砂青松・琴の音・かな文字・和歌俳句・鮮やかな四季のうつろい、そして日本国憲法…。断じて「日の丸」ではない。

「日の丸」は、かつては特攻と武運長久の願いとによく似合った。いまは、右翼街宣車と安倍自民とによく似合っている。

参院選運動期間最終日の昨夕、安倍自民の「最後の訴え」は秋葉原だった。そこに集まった群衆が日の丸を打ち振っている姿をネットの動画が映し出している。まことに異様な光景ではあるが、安倍と右翼と日の丸、実はとてもお似合いなのだ。かつての保守本流が、こうなってはならないと距離を置いていたものに、安倍自民党はどっぷりと浸かっている。なるほど、安倍が言う「取り戻したい日本」とは、群衆が日の丸を打ち振るあの時代の日本のことなのだ。

各国の国旗は、それぞれにその国家の基本理念となるメッセージを持っている。自由や平等や博愛、あるいは民族の団結や労働者の権力の正統性等々。戦前のドイツは、ナチスの党旗であったハーケンクロイツを国旗とした。この旗のデザインが、国家社会主義とアーリア人優越のメッセージを象徴するものとされた。敗戦後、国家の体制が根本から変わったときに国旗国歌の変更はごく自然な成り行きとなった。ドイツもイタリアも新国旗を採用したが、第2次大戦の敗戦国のうち、ひとり日本だけが、戦前と同じ国旗国歌を採用している。これも歴史認識を問われる大きな問題。

日の丸・君が代は大日本帝国と余りにも緊密に結びついた。天皇を神とする宗教国家の象徴でもあり、天皇主権・軍国主義・民族優越思想・排外主義、そして侵略主義・権威主義・人権軽視の象徴でもあった。敗戦と新憲法制定によって、国が真に生まれ変わったとするのであれば、国旗国歌も変更すべきが当然であった。

敗戦を挟んで、新旧二つの日本について、その連続性を重視する立ち場と、断絶性を重視する立ち場が相克している。日本国憲法は、断絶の立場をとりつつも象徴天皇という曖昧模糊なるものを制度として残した。そして、日本人自身の手による、旧体制への徹底した弾劾も、戦争責任の追求も行われなかった。その不徹底の憾みが、今日、政権与党の街頭選挙演説に「日の丸」を打ち振る愚かな群衆を生み出している。

日の丸が、全国民から等しく受容されるシンボルであれば、自民党支持者がこれを打ち振る理由はない。明らかに、他党支持者には受容しがたいシンボルだという認識があればこその「特定陣営の選挙運動の道具として有効な日の丸」なのだ。しかも、自民党支持者全体ではなく、安倍晋三に体現される排外主義・軍国主義・国体思想のシンボルとして意識されている。

つまり、日の丸はタテマエとしては、国民全体のシンボルなのだが、その現実において右翼勢力のシンボルとなっている。この二重性が、「安倍自民に限って支持者が日の丸を打ち振る」理由となっている。日の丸の現実は、国民全体を統合する役割ではなく、分裂を演出しているのだ。右翼が安倍を支え、安倍が右翼を鼓舞している。ヘイトスピーチの横行は紛れもなく、安倍政権が生み出したもの。

本日の選挙結果の如何にかかわらず、既に状況は深刻である。長期保守政権がつくりだした格差と貧困そして社会不安が、鬱屈した民衆を育てている。民衆の鬱屈が政権批判に向かわず、まだ一部ではあるが日の丸を打ち振る排外主義的な心理を醸成している。

日の丸・君が代強制を許さない運動と訴訟とは、益々その意義を大きくしている。
(2013年7月21日)

明日は参院選の投票日ー大切な「国の基本設計」の擁護を訴える

いよいよ明日が、第23回参議院通常選挙の投票日。国の進路を決める意味において重要でない国政選挙はあり得ないが、今回選挙は格別の重要性を持っている。昨年総選挙の結果、衆院においては改憲勢力が3分の2を超える議席を有しているからだ。今回参院選での「ねじれの解消」とは、両院における改憲発議可能な状態をつくりうることを意味する。日本国憲法を価値あるものと考える立ち場からは、今回選挙のもつ意味は重い。

憲法は、日本という国の基本設計図である。設計図を書いた施主は主権者としての国民、その指図で設計図どおりの建築をする立ち場にある大工が政権である。首相が棟梁にあたると言えよう。施主の指示のとおりに設計図どおりの建築を完成することがその任務で、設計図を無視した勝手は許されない。

設計図の変更は通常想定されていない。設計図はそのままに、棟梁を変え、棟梁の技量の信任を問うことが国政選挙なのだが、今、棟梁が暴走して「俺は設計図を書き変える」と広言しているのだ。「自民党・日本国憲法改正草案」という無茶苦茶な新しい設計図に。それでも、この棟梁を信任するのかどうか、それが今回の参院選を重要なものにしている。

憲法は設計図だから、既に建物が完成しているわけではない。平和も、人権保障も、民主々義も、あくまで設計図に書かれたものとしての理念であって、社会の現実となっているわけではない。男女の平等が、設計図としての憲法に書かれているが、社会の現実となっているわけではない、という比喩が分かりやすい。設計図に合わせて、理想の建築を進めなければならないのだ。司法の独立も、地方自治の本旨も、労働基本権の尊重も、生存権の保障も、教育を受ける権利も、デュープロセスの保障もすべてが同じこと。

我が国の基本設計図である「日本国憲法」は、世界の最高水準にあるよくできたものである。主権者国民が国家権力を掣肘するという立憲主義の土台の上に、3本の太い柱を建てる。その中心の芯柱として国民の人権尊重を据えられ、他の2本が国民主権と恒久平和主義である。この柱が、国民の福利の増進を支える。

ところが、今、自民党はまことに乱暴に、国の基本設計を書き換えてしまおうとしている。立憲主義の土台を崩し、3本の柱とも細く削り曲げてしまう。施主を無視した棟梁の暴走である。今なら、国民としては施主の立ち場として、棟梁に「設計図とおりにきちんと家を建てろ」と要求ができる。しかし、設計図そのものが変えられてしまえば話は別。結局は国民の人権も福利も失われる。隣近所との友好な関係も壊される。できあがった建築物は、要塞となりかねない。

明日の投票は、政権選択にとどまらず、国の基本構造、国の進むべき理念・理想の選択を迫る意味をもっている。人類の叡智の結晶としての日本国憲法の擁護のために、憲法が理想としている、人権・民主々義・平和のために、賢明な選択をお願いしたい。「新たな戦前が投票所から始まった」と、あとで臍を噛むようなことにはなりたくない。

自・み・維の積極改憲3派には投票をすべきではない。それは、多くの国民にとっては自らの首を絞めることなのだから。公明という自民の同盟者への投票も同様だ。

大切な一票を最有効に活用して、憲法の理念が生きる国民すべてにとって生きやすい社会をつくるために、今、憲法を擁護し憲法を暮らしに活かすという視点において最も信頼にたりる日本共産党へのご支援を訴える。
(2013年7月20日)

参院選・投票日は明後日ー平和を願う有権者の皆様に

戦争こそ最大の悲劇、戦争こそ最大の犯罪、戦争こそ最大の人権侵害。そして、戦争こそ、人類の生存の基盤を根こそぎ奪う最悪の環境破壊。とりわけ、核兵器とハイテクノジーのこの時代において、戦争は人類の生存そのものを脅かす。

我が日本国憲法9条は、人類の非戦思想を徹底して、戦争放棄を宣言しただけでなく、その保障として「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明記した。人類の悲願が一国の実定憲法に結実した、歴史的な偉業と言ってよい。紛れもなく、「日本国憲法9条は世界文化遺産」に相当する。

当然に、反対の意見がある。9条改憲派の中心には好戦派が位置している。まずは、「戦争こそ、この上ないビジネスチャンス」ととらえる勢力。その周囲に「戦争こそ国威発揚のチャンス」「戦争こそ不況脱出の切り札」「戦争こそ、閉塞状況の中でのうっぷん晴らし」という積極支持派があり、これと距離を置いて「戦争はしたくないが丸腰は不安」「武器を持たなくては外交交渉もうまく行かないのではないか」という消極支持派までバラエティはさまざま。

1950年、日本はアメリカから命じられて急遽「警察予備隊」を作った。「押し付け憲法」ではなく、「押し付けられた軍備」である。9条支持派と9条改憲派との対峙の歴史の中で、警察予備隊は保安隊となり、さらに自衛隊となって今日に至っている。自衛隊という武力組織が存在することで9条は死文化したのか、実はそうではない。戦後長く続いた保守政治と言えども、さすがに憲法無視の態度はとれない。自衛隊を合憲と解する理論として、国家の自衛権を持ち出した。

「もとより、わが国が独立国である以上、この規定(憲法9条)は主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えの下に、わが国は、日本国憲法の下、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として、実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。」と言わざるを得ない。したがって、「自衛のための必要最小限度の実力」を超えれば、9条違反となる。「専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針」とせざるを得ないのだ。

いま、安倍自民党は、この政府解釈を桎梏として、「自衛のための必要最小限度を超える実力」を備え、「専守防衛のくびきから解き放された」軍事力を持つことを広言している。その軍事力こそが、もはや「自衛隊」ではない、「国防軍」なのだ。そうでなくては9条改憲の必要はない。また、自民党改憲草案は、開けっぴろげにそのような意図を隠そうともしていない。

今、9条をめぐる問題の焦点は、憲法の文言を厳密に実行して自衛隊を解散するか否かにあるわけではない。安倍自民党の改憲案は、「自衛のための必要最小限度を超える実力」を蓄え、「専守防衛などと縮こまっていないで」日本の領土外での戦闘行為を可能とする軍隊を持つという方針を明示している。

まやかしのアベノミクスに幻惑された国民の自民党への一票は、海外で戦争のできる軍隊を持つことへの賛同票と数えられる危険性を孕んでいる。平和を愛する有権者よ、自民党に投票してはならない。

自民党の改憲草案は、「自衛隊」を「国防軍」と名称を変えるだけのものではない。日本が本気で戦争をするために、戦争をする国家機構に作りかえるものとなっている。憲法に、国家への忠誠(国民の領土保全義務、日の丸・君が代尊重義務)、軍事機密保護、軍法会議(国防軍の審判所)設置までを書き込んでいる。

本日の赤旗にも掲載されているとおり、自民党の石破茂幹事長は、「国防軍」命令に従わなければ軍法会議で「死刑」と発言している。この石破発言は4月21日放映の「週刊BS―TBS報道部」でのもの。

「自衛隊が軍でない何よりの証拠は軍法裁判所が無いことである」という説があって、それは今の自衛隊員の方々が「私はそんな命令は聞きたくないのであります」「私は今日かぎりで自衛隊をやめるのであります」と言われたら、「ああそうですか」という話になるわけです。「私はそのような命令にはとてもではないが従えないのであります」といったら、(今の法律では)目いっぱいいって懲役7年です。
これは気をつけてモノを言わなければいけないけれど、人間ってやっぱり死にたくないし、けがもしたくない。「これは国家の独立を守るためだ」「出動せよ」って言われた時、「死ぬかもしれないし、行きたくないな」と思う人がいないという保証はどこにもない。
だからその時に、それに従え、それに従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国なら死刑、無期懲役なら無期懲役、懲役300年なら300年(を科す)。「そんな目にあうぐらいだったら出動命令に従おう」っていうことになる。
「お前は人を信じないのか」って言われるけど、やっぱり人間性の本質から目をそむけちゃいけないと思う。今の自衛官たちは服務の宣誓というのをして、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえる」っていう誓いをして、自衛官になっているんです。でも、彼らのその誓いだけがよすがなんです。本当にそれでいいですかっていうのは問わねばならない。軍事法廷っていうのは何なのかっていうと、すべては軍の規律を維持するためのものです。(赤旗から引用)

今の国家機構は戦争をしない原則でつくられている。ところが、これを戦争のできる国家機構に変えるためには、最低限軍事機密法制を整備し、軍法会議を整備しなければならない。石破発言は、ここまでを露骨に口にしている。それだけではない。教育の統制も、マスコミの統制も、スポーツ行政も、文化政策も、そして経済政策も、外交も、地方自治も…。戦争のできる国家作りのためには、あらゆる部門で基本政策が転換が必要である。一言で言えば、全面的な軍国主義国家の創造である。

「戦争は教場から始まった」という戦前教育への反省の名言がある。しかし、学校教育だけが、戦争の始まりではなかった。「戦争は新聞社と放送局から始まった」とも言えようし、「戦争は神社参拝から始まった」「戦争は不況脱出を願う民衆の声から始まった」「戦争は近隣諸国民への差別意識と行動から始まった」「戦争は民主々義政党への弾圧から始まった」「戦争は天皇への非合理な崇敬から始まった」などとも言えよう。

戦前と現在と、似ているところもあり、明らかに相違するところもある。今ならまだ、主権者の意思で「9条改憲から戦争のできる国家へ」の道を投票で確実に阻止できる。「自民党圧勝」「改憲勢力3分の2超」などという危険な事態を回避しなければならない。

平和を愛する有権者に心から訴えたい。
自民党への投票は、戦争に通じる危険な一票となりかねない。
ぜひとも、その対極に位置する政党、日本共産党への支援をお願いしたい。
まだ、今なら間に合うのだから。

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   『若者よ、軍法会議まで考えている自民党に投票してはいけない』
さすがの軍事オタクの石破さんでも、「国家の独立を守るため」に、戦場へ死にに行く若者がいるとは、とうてい思えないらしい。その認識は、なかなかに正確だ。体を傾けて、三白眼でねめつけながら、いまいましそうにネチネチ語る石破さんの姿が目に浮かぶ。「だから軍法会議が必要だ」という石破さんも、すぐにはそんな法律を作ることができない。まずは憲法を改正してからの話しとなる。

若者よ、騙されるな。愛や恋や美や生命を生き生きと語って、軍事オタクのオッサンの世迷い言など、鼻の先で笑ってやれ。母さんはお前を、恋愛したり、唄を歌ったり、おいしいものを腹一杯食べたり、美しいものをみて感動し、珍しいものを見てびっくりするように、心から願って育てたんだ。「国家」や「国益」や「天皇」のためになんぞ、その命を捧げてはいけない。絶対に、そんなもののために死んではいけない。

お前は、「ことに臨んでは、危険を顧みず・・国民の負託にこたえる」誓いをたてた自衛隊員だろうといわれたら、「そんな給料もらっていません。そこまでの義理はありません。」と堂々と言ってやれ。「戦場へ行ってけがしてこい。死んでこい。」と言われたら、「冗談も休み休み言ってください。マジッスか。」と丁寧に言ってやろう。

憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される」とし、「生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利」が保障されている。憲法は自衛隊法より上位にあるのだ。

だから、若者よ、自民党に投票するな。
憲法を変えたい自民党に。若者を軍法会議にかけたい自民党に。
若者よ、自分で自分の首を絞めてはいけない。
(2013年7月19日)

参院選・投票日まであと3日ー脱原発を願う有権者の皆様に

3・11の福島第1原発事故以来、脱原発・原発廃棄・廃炉は日本社会に突きつけられた大きな課題となった。人類史的な課題と言って過言でない。実はもっと以前から問題は存在していたのだが、長く顕在化しなかっただけなのだ。人それぞれに、脱原発問題の捉え方があろうが、私は、人類と核兵器の共存の可否が問われた時代から、人類が原発を含む核と共存可能かを問われる時代となったと考える。

私は、経済問題として原発を論じることに違和感を禁じ得ない。エネルギーコスト問題としてではなく、多種のエネルギー選択の問題としてでもなく、人類と共存できない危険物として、あるいは人類が管理不可能なものとして原発をとらえるべきだと思う。どんなに小さな確率でも、長い年月にはリスクは確実に顕在化する。顕在化したその災禍が、修復不可能で人類に耐えがたいものである場合には、敢えてリスクを抱える選択をすべきではない。10万年もの長期間にわたる核廃棄物管理が不可能であることだけでも、到るべき結論は自ずから明らかである。我が国特有の地震・津波・噴火・台風の頻度を考慮すればなおさらのことではないか。

そのような観点から、「原発即時ゼロ」という標語で、脱原発に徹底した政策を掲げているのは日本共産党である。少なくとも、3・11以後この姿勢に揺るぎがない。「何年かの期間をおいて」「老朽化施設から順次廃炉にして」「経済的にペイしないようにして」ではなく、即時・全面のゼロ化。そして、破廉恥な原発の輸出セールスも止めさせる。これは経済合理性の問題ではない。人類の生存のための選択なのだ。

首都圏反原発連合が作成した、脱原発候補への投票を呼び掛けるポスターやフライヤーの類でも、日本共産党の徹底した姿勢が評価されている。そのような運動の先頭に、かつては吉井英勝さんがおり、今は笠井亮さん、小池晃さん、そして吉良よし子さんがいる。

その吉良よし子さん(東京選挙区の共産党公認候補)について、本日の赤旗社会面に、宇都宮健児君が推薦の弁を述べている。おざなりの内容ではなく、きちんとした推薦の理由が具体的に述べられており、「一貫して、脱原発、脱貧困、憲法擁護を貫いている吉良さんを私は応援します」と結んでいる。宇都宮君が吉良候補事務所開きで挨拶したことも赤旗には報じられていた。革新の共闘で知事選候補となった人の言動として、当然のことながら結構なこと。この姿勢を貫いて欲しい。

宇都宮君は、上原公子さんと並んで「緑茶会」という脱原発市民運動団体の結成呼びかけ人となっている。この「和製ティーパーティー」は、参院選で脱原発の候補者を選別し調整して、当選可能性の高い候補者を支援することが目的だという。

この会のホームページで、上原さんは、設立呼びかけのメッセージとして、「国民の不幸は2つある。国民を守るべき政府が、国民を置き去りにしていること。選ぶべき信頼(に)堪えうる政党がないことである」と言い放っている。この人、社民党から参院選に立候補して落選した経験があるはずだが、社民だけでなく、共産・みどり・生活・緑の党まで含めて、すべての政党を「信頼に堪えうる」ものでないというのだ。この人の頭の中では、「政党」と「市民」とは水と油のごとく親和せざるものとなっているのだろう。

もちろん、政治信条は人それぞれに自由、表現も自由だ。上原さんの言動を怪しからんというつもりはない。しかし、言論には責任が伴う。この人は革新陣営の共同行動を呼び掛けるにふさわしい人ではなく、この人の呼びかけによる運動に信を措くことはできない。「信頼に堪えうる」政党がないという人の呼び掛けに、のこのこ応じる政党人の見識も問われることになるだろう。

緑茶会は「脱原発候補が複数立候補する選挙区においては、当選確率がより高いと客観的に判断できる候補を推薦する」として、東京選挙区では、大河原まさこ候補(無所属)だけを推薦している。吉良よし子候補はもちろん、その他の「脱原発・原発ゼロ」を掲げる候補の推薦はない。端的に言えば、有権者の脱原発票を大河原候補に集中しようとしているのだから、排他性の高い運動となっている。大河原候補を推薦したければ、その実績や政策を訴えればよいこと。同候補を「当選確率がより高いと客観的に判断できる」などとまで根拠のないことを言って、脱原発志向の有権者を惑わせるのは罪が深い。

宇都宮健児君も緑茶会設立呼びかけ人の一人である。東京選挙区では、「当選確率がより高いと客観的に判断できる」大河原候補に脱原発票を集中するように呼び掛けている立ち場にある。この排他性の高い運動の呼びかけは、吉良候補への応援とは両立しない。敢えて吉良候補への支援の弁を赤旗に掲載したことを評価するとして、緑茶会呼びかけ人としての立ち場は放棄したのか、そうでないのか気にかかるところ。革新共闘の要に位置した人として、排他性の高い運動に加担してはならない。その辺のケジメを大切にしていただきたい。

脱原発志向の有権者には、宇都宮君の推薦の弁のとおり、是非とも、吉良よし子さんと日本共産党へのご支援をお願いしたい。

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  『ヤマユリ』
切ったヤマユリを飾ったら、部屋が急に狭くなった。この大きさ、この形、この色、この香り、なんという存在感。一つ一つの花が、大人の掌にあまるほどの大きさがある。白い花びらに散らばる薄赤色の斑点と、六枚の花びらの花芯から外に流れる六筋のレモン色が、宇宙に拡がる光と星のようだ。そのうえ、むせかえるような香りがする。空気が重くなって、息苦しいほど。

  百合の香に全身投げて眠りけり(北島俊明)
これは健康にあふれた若者ならではのことで、羨ましいかぎりである。病人や老人は香りに負けて、眠るどころではない。

日本は百合の宝庫で、シーボルトがスカシユリやカノコユリをオランダに持ち帰って大いに注目を集めた。1862年ジョン・ベイナがヤマユリをロンドンに紹介し、熱狂的に迎えられた。それから明治・大正時代を通じて、球根の流出が始まった。大正元年には、2000万球も輸出されたという。日本の山里を華麗に飾っていたヤマユリは掘り尽くされてしまった。咲けば遠くからも目立つ大きさと白さ、そしてあたりにただよう香りが災いして、我が身を滅ぼしたようだ。種はたくさんできるけれど、芽生える数は百に一つ、球根が大きくなって花を持つまでは4、5年はかかる。現在、球根の生産が始まっているが、園芸店で、一球1000円以上する。まさに高嶺の花である。

  山百合を捧げて泳ぎ来る子あり(富安風生)
山里の渓谷に、こんな風景は遠い昔話になってしまった。
ヤマユリは神奈川県の県花となっている。横横道路(横浜と横須賀を結ぶ高速道路)から鎌倉へはいる途中の朝比奈峠の道路脇の崖に、以前はブランブランとヤマユリが揺れていた。残念ながら、この頃はとんと見えなくなってしまった。春先に崖の草刈りをするときに、みさかいなく刈り倒されてしまうようだ。ヤマユリ姫はその場所が御意に召せば、種ではなく、球根の子玉ができて殖える。半日陰で、根元に草などが生えて、適度な湿り気が保たれ、木陰からチラチラと朝日がさすような場所であれば、けっこうらしい(ずいぶんな我が儘)。

今回の参議院選挙で神奈川選挙区の畑野君枝さんが当落線上にあると報道されている。ヤマユリ姫には是非とも当選してもらって、横須賀から原子力空母を追い出してもらいたいと思う。美しく華麗なヤマユリの里に米軍基地はまつたくふさわしくない。
(2013年7月18日)

参院選・投票日まであと4日ー「民主党」この曖昧にして不明確なるもの

民主党を、自民や維新・みんなと同類というつもりはない。そのような悪罵は、不正確でもあり、失礼なことでもある。2009年夏の選挙で、民主党が劇的な勝利をおさめたあのとき、鮮やかでさわやかな一陣の風が確かに吹きぬけた。「政治は、民意によって変わりうるのだ」という感慨を抱いたことが、印象に深い。

あのとき、民意は紛れもなく「格差・貧困をつくりだした自民党の政治」にノーを突きつけ、そのアンチテーゼを提示したものとして民主党を政権に押し上げた。自民党による格差・貧困作出の政治を抜本的に解決するという民主党のマニフェストは、戦後長く続いた保守政治への根源的な批判を含むものであった。「コンクリートから人へ」というスローガンは、生活重視の基本政策としても、自民党の利益誘導型政治批判としても、民意をつかんだ。

しかし、それから3年。民意は、完全に民主党を離れた。マニフェストが間違っていたのではない。民主党はその実行をできなかったのだ。沖縄問題、消費増税、雇用政策、福祉政策等々で後退を重ねた。「税と社会保障の一体改革」という3党合意がその象徴。結局は自民回帰に等しくなってしまったからだ。2009年総選挙で民主党(比例区)に期待を込めて投票した3000万人のうち、1000万人は2012年暮れの総選挙では棄権した。そして、1000万人が維新・みんななどの「第3極」にまわった。歴史的惨敗である。

敗北には厳しい総括が必要だ。民主党にそれができているとは思えない。今回参院選での重要争点である、雇傭・福祉・憲法・原発・沖縄・TPPなどに歯切れの良い政策提言ができていない。自民や維新・みんなと同類ではないが、積極改憲派3党との対決姿勢が曖昧で、対案が不明確なのだ。

同党のホームページで、「参議院選挙重点政策」(マニフェスト完全版)をみる限り、明確な「原発ゼロ」は政策に盛り込まれていない。原発輸出反対もない。「2030年代に原発稼働ゼロを可能にするよう、あらゆる政策資源を投入します」というのみである。改憲阻止もない。96条先行改憲反対だけは明確だが、その余のことは政策化されていない。むしろ、「民主党は日本国憲法の基本精神を守ります」「未来志向の憲法を構想する」に伴って、「国民とともに憲法対話を進め、補うべき点、改めるべき点への議論を深め…」と改憲志向とも読める。TPP参加の事前交渉も、もとはといえば民主党政権時代に始まったこと。TPP参加反対の政策はない。「国益を確保するために脱退も辞さない厳しい姿勢で臨みます」というだけ。普天間基地の辺野古移設問題についても、オスプレイ配備についても、まったく言及がない。

自民に愛想をつかして、民主に期待した民意は急速にしぼんだ。とはいえ、けっして自民に回帰したわけではない。民主に不満を持ちながらも、自民や「第3極」よりは、ずいぶんマシだろうとの意見も多かろうと思われる。しかし、民主党のこの曖昧さ、自民への対決姿勢の甘さは、覆うべくもない。

せっかくの大切な一票。もっとスッキリ、もっとハッキリ、明確でブレない政党への投票で活かすことが賢い選択ではないか。
(2013年7月17日)

参院選・投票日まであと5日       ー「みんな」は脱原発政党ではない

「みんなの党」では、公約なんて古くさい用語は使わない。「アジェンダ」っていうんだ。おどろかない? カタカナにしたら、新鮮な響きと、何とはないありがたさがあるだろう。えっ? 問題は中身だろうって? そりゃまあ、そうだがね。

1990年代以降、自民党は確実にジリ貧状態に陥った。対抗勢力として民主党が勢いを増しつつあるとき、沈みそうな舟にいつまでもしがみついてはいられない。自民党には飽き飽きしたという保守層の受け皿たらんとして、2009年に飛び出して新党結成となったのが「みんなの党」。

だから、基本は骨の髄まで保守。もちろん、憲法改正大賛成。労働者や消費者の利益ではなく、企業の立場にしっかりと立っている。ただ、これまでの自民とちがって、徹底した新自由主義を信奉する保守の立場。この点、維新の会と同じ。独自性を出さなきゃならないから、極端なことを言う点でも同じ。内部で内紛を抱えている点でもよく似ている。

「自民には愛想が尽きたでしょう。さりとて、民主のふがいなさもよくお分りのとおり。だから「第3極」の我が党に」というわけだが、おっと待った。自民が国民から見放されてジリ貧となったのは、新自由主義がもたらした、雇用不安、格差・貧困の蔓延が目にあまるものとなったからではないか。それを、弱肉強食の市場原理主義徹底の立ち場では、保守の受け皿としては失格ではないか。さらには、民主党が信頼を失ったのも、雇用不安、格差・貧困解消の政策を実行できずに、自民政策へ回帰してしまったからではないか。いまさら、徹底した新自由主義の旗では、自民・民主の二大政党に愛想をつかした国民の受け皿とはなり得ない。

しかし、「みんな」の政策の柱は「経済成長」にある。経済成長こそ価値の根源、成長こそ達成目標。賃金も福祉も生活の質も福祉の財源も、すべては成長なくしてあり得ない。成長さえ達成できればすべてはあとからついてくる。この徹底した「経済成長」至上主義は、ここまで来ると信仰の域に近い。薬害反対運動で生命の価値を訴えていたはずの河田龍平が、何を考えて「みんな」に参加したか。不可解というほかはない。

アジェンダ8項目のトップが、「成長戦略は徹底した規制改革で!」というもの。成長を達成するためにはなによりも規制をなくすることだという。その勇ましい既得権益の打破が、みんなの党の真骨頂だ。「そのために必要なのが、2年で2%以上の物価安定目標に加え、既得権益に切り込んだ大胆な規制改革。みんなの党は、電力・医療・農業の3分野で闘う改革を進めます。電事連・医師会・農協の既得権3兄弟は「岩盤規制」を下支えしています。これらの団体とのしがらみのないみんなの党だからこそできる改革です。」とされている。

成長至上主義の立場だから、この党はTPP参加にはことのほか熱心だ。財界本体の既得権益に切り込むことはせずに、医療や農業など、国民の命にかかわる分野まで、国内外の資本に売り渡そうという魂胆は、維新と異心同体というところ。

これ以上、みんなの党について多くを語る必要はないが、原発問題についてだけは一言しておきたい。
「みんなの党は、原発ゼロと経済成長を両立させる確かな答えを持っています。2020年代には原発による発電はゼロにいたします。」と大見得を切っている。ところが、「2030年までの原発ゼロ」を実現する具体的方策については、「社会的コストを精査すれば、原発は市場原理よって淘汰されます。」と、いかにも新自由主義者らしい発想が語られるのみ。電力自由化を徹底すれば、市場原理によって原発はなくなるという楽観。政策を論じていると言うよりは、感想を述べているという印象でしかない。

根源的な問題は、経済活動の自由がすべてを解決するという迷妄にある。資本主義の矛盾に目をつぶって、すべてを見えざる神の手に委ねるべきとする思想は、現実としての労働者の困窮と、その事態を不正義とする運動によって歴史的に克服された。ところがいま、克服されたはずの思想が、再び新しい形で復活しようとしている。万能の市場原理に任せるべきだというのだ。そうすれば、原発問題も解決できるという。

健全な社会を形成するためには、公正な競争を確保することが必要だが、すべてを経済原則だけに任せてよかろうはずはない。政治的民主々義とは、経済的な現実に対しても強制力を行使しなければならない。「次元の異なる危険な存在」である原発への対応を、経済合理性や市場原理で済まそうというのは、政治の無力を宣言することに等しい。

原発は、その存在そのものの危険性と、核兵器転換への潜在能力の2点において、即時廃炉の決断をしなければならない。コスト如何にかかわらず、経済合理性がどうであろうと、経済市場がどう判断しようとも、である。

また、原発稼働を市場原理に任せたままでのTPP参加は、外国資本の国内原発新設や再稼動の経済活動参加に道を開く。しかも、その後に政策の転換はできない。ISD条項によって我が国が莫大な金額の訴訟リスクを負わねばならなくなる。

「みんなの党」を脱原発政党のうちに数える向きがあるが、とんでもない。原発再稼動認可反対も廃炉も明確にしていない市場原理任せのこの党に、しかも、TPP参加執心のこの党に、脱原発派有権者からの一票も投じさせてはならない。この党の推薦するすべての候補者にも、である。
(2013年7月16日)

参院選・投票日まであと6日       ーこれが維新の「公約」だ

ねえ、維新の「参院選公約」って読んでくれた?
よくできているって思わない?

ボクたち、寄り合い所帯だし、主義主張なんて持ち合わせていない。だから、格好だけでもつくるのたいへんだったんだ。結局できあがったのが、ホンネとウソのベストミックス。そんな人の苦労も知らないで、「底が浅い」「整合性に欠ける」「財界べったり」「労働者・農民切り捨て」なんて批判するのはやめてほしい。いちいちもっともで、的を射ているから腹が立つ。また、「誤解だ」「誤報だ」って騒いじゃうよ。

総論が、「維新の挑戦。逃げずに真正面から」というタイトル。わざわざ、「逃げずに」って書いたのは、ほんとはもう逃げ出したいからなんだよ。でも、いま逃げちゃうと、次の顧問先もままならないから、選挙が終わるまでは「挑戦」するつもり。

えっ? 何から逃げずに、何に挑戦するのかって? あんまり考えていない。問題はイメージなんだよ。なんだか、調子よくって勇ましいフレーズだからタイトルに使ってみただけ。「維新」とか、「挑戦」とか、「逃げない」とか、みんな格好だけ、中身なんてないの。中身なんてどうでもよいの。しょせん、選挙って、大衆の感性に訴えるイベントだろう。視聴率獲得とおんなじさ。

「日本維新の会は、選挙目当てでものを言う政党ではありません。」
これは半分本当で半分はウソ。選挙って、本筋では多くの国民の利益になる政策を出し合って、国民からの支持の獲得を競うことでしょう。ボクたちは、本当のところ国民の利益なんか考えていない。だから、選挙目当てでものを言うことはない。その意味では本当。
だけど、ボクたち、結局は「ふわっとした風みたいなもの」に頼って、政界進出を試みている。何てったって、ポピュリズムなんだもん。だから、選挙の票は喉から手が出るほど欲しい。去年の衆院選の公約問題、まだ覚えている? 「最低賃金制を廃止して市場原理の貫徹」と打ち出したんだけど、すっごく評判が悪かったからすぐに変えちゃった。「市場メカニズムを重視した最低賃金制度への改革」ってね。だって、票が大事だもんね。だから、いまさら、「選挙目当てでものを言うことはない」って言っても、記憶力のよい人には信用されるのは無理なことはよく分かっている。でも、すぐ忘れちゃう人って少なくないじゃない。そういう人が頼りなの。
だから、選挙目当てではないというのは、その意味ではウソ。
だけど、選挙民に利益を与えるって絶対言わないし言えない。労働・福祉・税・医療・農業‥‥。国民に不利益な辛口なことを意識的に言うんだ。そうすると、かえって、魅力に感じる人たちがいるんだ。きっといじめられるのが好きな人たち。この人たちの票を当てにしている。

「日本の未来にとって、いま必要な改革に真正面から取組みます。」
これも本当。ボクたちの関心は、「日本の未来」だけなんだ。国民の今の生活なんかどうでもよい。日本の未来に必要な改革って、簡単なこと。結局、自由競争の徹底による経済成長の促進のことなんだよ。それ以外に何もないし、考えたこともない。
弱肉強食の市場原理って、とてもわかりやすい。「競争を徹底することによって、成長を達成する」って、こんな単純なことをくり返し言ってりゃ良いのだから楽な話し。経済の停滞の原因を、抵抗勢力と規制のせいにして、抵抗勢力っていうものをつくりだして、徹底していじめる。これ、ボクの得意の手法。

「批判や反対論から逃げずに必要な改革を断行します。」
主張は極端に、徹底した姿勢を見せること。批判も反対論も、まともなことが多いから、きちんと受けとめようとするとたいへんなんだ。だから、批判には耳を貸さない。逃げ腰にならずに「批判も反対論も断固拒否する」ことにする。そして、勇ましく、「改革断行」と言い続ける。これしかないんだよ。

「この改革は、既得権益に支持された政党には絶対できません。抵抗勢力と闘い、日本の未来を切り拓くことができるのは、しがらみのない日本維新の会だけです。」
ここが、維新の会の真骨頂。よく理解して欲しい。
ボクたち、市場原理万能・競争至上主義って考え方しかできないから、結局、安倍さんの自民党と大して変わりはないんだ。だから、「企業べったり・弱者切り捨て」って言われるんだけど、それじゃ今の自民党と変わりがない。どこかで、独自色を出さなくては、選挙にならない。どうすりゃいいんだ。考えた挙げ句が、結局極端なことを勇ましく言うしか、方法がなくなっちゃったんだ。
自民党と共産党を両端とする対抗軸のうえに、公明・民主・社民・みどりなどの各政党が並ぶだろう。それぞれ、ある程度の政策の独自性を持っている。僕たちには、自民党とちがうところが、なんにもない。それで、独自性を出すために、自民党より右に出て、もっと極端なことを言うことにした。そうしないことには、存在価値がなくなる。
だから、結局は財界の意を受けた主張とならざるを得ない。道州制も、社会保障の切り下げも、地方の自立も、法人税の引き下げも、財界様のご負担軽減のためなんだ。

「既得権益」攻撃と言っても、大企業や日米の権力などエスタブリッシュメントを擁護する制度には最初から触るつもりがない。結局、攻撃するのは弱者を保護するための制度のことなんだ。社会的規制と言われる消費者や生活者、弱者保護のための規制を「既得権益」として徹底的につぶそうというのが、ボクたちのウリ。農民の自助組織である農協をぶっ潰して農業を資本に明け渡せ。医療を利潤追求の道具として資本に明け渡せ。こういう荒っぽい極端なことは、自民党じゃ言えない。みんなの党と張り合って、財界支援の尻尾を振っているんだ。

憲法改正には熱心なんだよ。競争至上主義を実現しようとするとき、人権とか福祉とか邪魔だものね。ボクたち、ひやひやしながら、「解雇規制の緩和」「TPP参加」「カジノ開放」「社会保険は保険料アップ給付減」なんて公約を出しているんだけど、財界のお歴々ではない、生活に苦しそうな一般庶民が結構僕たちを支持してくれているのが、楽しい。やはり、ボクたちには、存在価値があるんだ。

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  「ハスの話」つづき
ハスの花の美しさと荘厳さをたたえたのは、古代インド神話。紀元前1500年ごろにつくられたヴェーダ神話、ウパニシャット神話などに、大地創造と神々の誕生に欠かせぬ存在としてハスが語られている。「原初に存在したのはただ水だけであった。そしてその水の中から蓮の葉が浮かび上がってきた。神の、生命のもとがまさに世界を生み出そうとしたとき、その宇宙の水は、太陽のように金色に光り輝く千の花弁をもつハスの花をのばした。これは宇宙の扉、開いた口、または子宮であると受けとめられる」。(ブラーフマナ神話)
漢字の蓮という字も、実がたくさん連なる、豊饒な母性を象徴する植物を意味している。
ハスの花は夜明けとともに開き、日が傾くと閉じるので、太陽になぞられる。卑しく汚れた地面ではなく、涼やかな水のうえに葉を拡げ、花を開く。葉も花も、その形は掌を拡げて、全てを受けとめてくれる姿。人の心の憧れや祈りを呼び覚ますにふさわしい。
ハスについての神話はバラモン教から、ヒンドゥー教に、そして仏教に伝わり、ヒーローやヒロインの荘厳に寄り添ってきた。釈尊は生まれたときハスの花の上を七歩あるいたとされ、如来も菩薩もハスの蕾を持って、ハスの花の上にまします。我々も極楽にいけば(いければ)、妙なる楽の音がただよう、ハスの花の咲き乱れる池の畔で、永遠の生を楽しむことになる。
ハスの花にはそんな、気高く神々しいイメージがつきまとう。清々しい朝に咲く花は開くとき、かすかなポンという音を響かせるという話など聞けば、ますますありがたみが増してくる。
ハスの茎からとった繊維で織り上げた布で作られた曼荼羅絵図もある。根茎は煮たり、きんぴらにしたりして、おいしくいただくレンコンだ。葉も花も根茎も種子も漢方薬として、解熱、止血、利尿、去痰、消化不良、下痢止めなど万能薬となっている。ハスは生命力あふれたパワフルな有用植物なのだ。
猛暑つづきで、熱中症のニュースでうんざりするような暑い夏。たっぷりとしたハスの大きな葉とこぼれそうに咲く花のうえを吹き渡る風が、参議院選挙に吹いて、爽やかで風通しのいい世の中に生まれ変わりますように。
(2013年7月15日)

参院選・投票日まであと7日       ーこれが自民党の「公約」だ

「日本を、取り戻す。」
残念ながら、いま日本は我が手にない。奪われた日本を取り戻さなければならない。
日本を奪ったのは、戦後民主々義という迷妄を信じた勢力。奪われたのは、「天皇を戴く」単一民族国家・日本。
今こそ、国民が主人公という迷信を本気にしたサヨクやリベラルから、真正の日本を取り戻そう。国民の手から国家の手に、人民の手から天皇の手に、貧しき者の手から一握りの富める者の手に、この金鵄に輝く日本の弥栄を取り戻そう。それこそが安倍自民の目指す偉業である。

「まず、復興。ふるさとを取り戻す。」
ふるさとは、いま、我が手にない。奪われたふるさとを取り戻さなければならない。
ふるさとを、そこに住む人のものとしていては、いつまでも復興はできない。
ふるさとを取り戻そう。被災地で苦しんでいる人たちから、復興ビジネスで一儲けをたくらむ企業の手に。原発事故の再発を憂慮する住民から、原発稼働利益共同体の手に。
とりわけ、一枚の通知で4億7100万円も我が党に献金をしてくれたゼネコンには格別の配慮が必要だ。取り戻したふるさとをまるごと提供して、その恩義に報いなければならない。

「経済を、取り戻す。」
日本の経済は、いま我が手にない。日本の経済を、資本主義本来の聖なる姿に取り戻そう。
福祉国家思想だの、生存に必要な最低限の保障だのとのたまう連中から、日本の経済を取り戻して健全化しよう。
今こそ、経済を労働者の手から、財界に取り戻そう。
企業に、労働者使い勝手の自由・使い捨ての自由を保障して、財界の信頼を取り戻そう。
まず成長だ。企業が十分に潤って、余裕があれば労働者にも多少はおこぼれを、という真っ当な経済政策をとりもどそう。庶民には空前の大増税を押し付け、大企業と富裕層には大盤振る舞いをすることによって、経済本来の姿を取り戻そう。

「教育を、取り戻す。」
日本の教育は、今我が手にない。戦後民主々義によって奪われた、国体思想を叩き込む教育を取り戻さなければならない。
主権者を育てる教育から、企業の役に立つ人材育成の教育を取り戻さねばならない。
国民による国民のための教育から、国家による国家のための教育を取り戻そう。
真理を教える教育は投げ捨てて、歴史修正主義の教育を取り戻そう。
そして、懐かしいあの国定教科書時代の「唯一正しい」戦前教育を取り戻そう。

「外交を、取り戻す。」
日本の外交は、今我が手にない。憲法9条によって奪われた、武力による威嚇の外交を取り戻そう。
平和に徹した外交努力から、ナショナリズムの昂揚を背にした緊張外交を取り戻そう。
国民本位の外交などは目指すべきものではない。しっかりと、アメリカ追随徹底の外交を取り戻そう。沖縄県民に甘い立ち場はさらりと捨てて、アメリカべったりの安保外交を取り戻すのだ。

「安心を、取り戻す。」
いま我が手には、安心も安全もない。でも、企業経営者と富裕層にとっての安心と安全を必ず取り戻します。ご安心を。
社会保障は切り捨て、財界の皆様にご負担のない安心を取り戻します。
公助と共助を切り詰めて、貧者にも自助努力を押し付けます。当然、そのしわ寄せが社会不安となってあらわれますが、そこは治安政策の強化によって抑え込みますから、ご安心ください。

こうして取り戻した日本は、なによりも自由という価値が輝く日本でなくてはなりません。儲け自由の日本を取り戻そう。規制を緩和して市場原理万能の社会を作りあげよう。低賃金で人を雇う自由、長時間人を働かせる自由、弱者切り捨ての自由を確立しよう。競争に勝利した一握りの企業と富裕層にとっての住みやすいルールをつくろう。そうやって、うんと儲けた者どうし、優雅なカジノでルーレットをまわそう。

個人ではなく、国家を大切にしよう。人権ではなく、公の秩序と公共の利益を優先する社会をつくろう。国民主権の徹底ではなく、天皇の権威を復活させよう。近隣諸国との信頼関係よりは、民族の歴史・伝統・文化、そして日本の誇りを大切にしよう。国防軍をつくって、自衛の範囲を超えた戦争ができる国にしよう。

そのための障壁となる憲法を根こそぎ変えてしまおう。

こうして、日本を、国民の手から自民党の手に奪い取ろう。参院選こそ、そのチャンスだ。国民の多くが、こんなホンネの見え透いた我が党を支持してくれるというのだから。

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   『放生談義』
上野不忍池で蓮がそろそろ咲き始めた。まだ盛りには間がありそうだけれど、何だか蕾が少なくて、心配。花は少なくても、つややかでたっぷりとした葉っぱは、蓮池を一面におおって風にゆれている。白い葉裏をひるがえす風は見ているだけで涼しい。連日の猛暑などどこ吹く風である。蓮の葉を「荷」という。永井荷風はそれを渡る風がよほど気に入って、雅号に用いたのだろう。
池之端に何やらかがんで、苦労している若い女性がいる。そういうのを見ると放ってはおけない。事情を聞くと、亀を包んだネットがほどけなくて、爪を痛めて困っているという。「今日は自分の誕生日で、『放生』をするために、アメ横から亀を買ってきました」と言う。手伝って、包みをほどくと、出てきたのはかなりの大きさの「スッポン」が2匹。「スッポン」じゃまずいなと思っていると、案の定、外野から「生態系を乱す」「池に放しちゃダメだよ」と意見がはいる。
女性は中国人で、なぜ自分の善行が非難されるのか解らない。怪訝な表情でききかえすので、「生態系」の意味をみんなで説明して納得してもらった。「アメ横のお兄さんは大変良いことだといって、6千円で買ってきたのです。持って帰るわけにはいかない。どうしましょう」。すかさず外野から、「俺にくれ。食べる」。女性は「功徳を積むための不殺生なのに、食べる人にあげるわけにはいかない」と涙ぐむ。動物園に引き取ってもらうということで、外野を納得させ、スッポンと女性を人混みから連れ出す。
しかしどう考えても、たくさんの動物を連れ込まれることに困惑している動物園が引き取ってくれるはずはない。おそらくは、このスッポンは外来種ではなさそう、ということにしておいて「隅田川」へ。乗りかかった舟なのでタクシーを飛ばした。駒形橋の脇から川縁に下りて、ここに放そうというと、女性も喜んで納得した。
女性はインターネットで調べてきた「経文」と願い事を唱える。怖がってスッポンには触れない女性に代わって、スッポンをトボントボンと隅田川に落として、無事「放生の儀式」を終える。女性は、誕生日に良いことをした、良い人に会えて良いことがあったと大喜び。こちらは「日中友好」ができて良かった。アメ横のお兄さんは良い商いができたと喜んでいることだろう。窮屈な包みをとかれて、突然水の中に放り込まれたスッポンだって、スッポン鍋にされなくて良かったと喜んでいることだろう。
そのあと、一緒に金竜山浅草寺に行って、女性はお賽銭を上げて、敬虔に拝んで、私は参拝はしなかったけれど付き添いをした。1945年3月10日の東京大空襲の話や、中国に対する戦争犯罪のお詫びなどして、「ご縁があったらまたお会いしましょう」と名前も聞かずにお別れした。

もしかしたら、スッポンの恩返しがいつかあるかもしれないと、かすかな期待が残る経験だった。
(2013年7月14日)

都教委の諸君、潔く敗訴確定の責任をとりたまえ

行政機関・教育機関が、最高裁から自らの行為を違法と指摘を受けたら、潔く自らの非を認めなければならない。自らの非を認めたうえは、衷心から謝罪し、責任を取らねばならない。それが、「間違ったことをした行政機関・教育官署」の当然の対応。都教委の謝罪と反省と、そして責任のとりかたを見守りたい。

昨日まで、最高裁に10・23通達関連事件が6件係属していた。
第1小法廷 東京小中君が代裁判(一審原告10人)
        Kさん処分取消事件(1人)
第2小法廷 東京「君が代裁判」2次訴訟(62人)
        河原井純子さん国家賠償差し戻し訴訟(1人)
        Yさん非常勤職員合格取消訴訟
第3小法廷 都障労組・処分取消訴訟(3人)

昨日(7月12日)、このうちの4件について最高裁が上告受理申立の不受理決定をし、その結果として都教委の敗訴が確定した。
まず、大型集団訴訟である東京「君が代裁判」2次訴訟(一審原告62人)については、教員側・都教委側の双方から上告受理申立がなされていたが、第2小法廷は、その両申立を不受理とした。そして、教員側の上告に対する判決の言い渡し日が9月6日に指定となった。
都教委側の上告受理申立が不受理となったことによって、減給以上の処分を受けた21人(処分件数としては22件)の処分取消が確定した。この意義は大きい。

同時に第2小法廷は、河原井さんの国家賠償差し戻し訴訟において、東京都の上告受理申立を不受理と決定した。このことによって、30万円の慰謝料支払いを命じた東京高裁(差戻審)の判決が確定した。この意義もきわめて大きい。

同じ日に、第1小法廷も、東京・小中「君が代」裁判において双方の上告受理申立に不受理決定をし、教員側からの上告申立事件について判決言い渡し期日を9月5日と指定した。同事件では、教員2人についての3件の処分取り消しが確定した。
また、Kさん(八王子市立中学校)処分取消事件においても同様に、教員側・都教委側の双方からなされていた上告受理申立をいずれも不受理とした上、近藤さんからの上告に対する判決の言い渡しを9月5日に指定した。
Kさんは、07年3月戒告、08年3月減給10分の1・1月、09年3月減給10分の1・6月、2010年3月停職1月(定年退職)、の処分を受けている。このうち、戒告を除く3件の処分について、取り消しが確定した。

昨日の最高裁決定によって25人(30件)の処分取消し・慰謝料支払いが確定した。これに関して、敗訴確定した都教委に一言せざるを得ない。教育委員諸君よ、自らの非を認め、衷心から謝罪せよ。

都教委よ。委員長よ、教育長よ、そして教育委員の諸君よ。あなた方の権力行為が司法によって違法と断定され取り消されたことを、どれほど深刻に受けとめているか。あなた方は、裁判所から、あるまじき違法な行為をしたと明確に指弾されたのだ。立場を変えて違法の指摘を受けたのが教職員であれば、正真正銘の懲戒事由にあたるところではないか。ほかならぬ教育委員が、教職員の思想・良心を侵害し、過酷な処分をしたとして過ちを指摘されたのだ。子どもたちの面前で、教育に取り返しのつかない違法な混乱を引きおこしたことでもある。いったいどのように責任をとろうというのか、聞かせていただきたい。

まさか、確定判決にしたがって経済的な不利益を補填するだけで済まそうということではあるまい。それは、教育に携わるものとしてあるまじき姿勢ではないか。あなた方には、ほんの少しも反省の気持ちがないのか。恥ずかしくはないのか。廉恥の心を持ち合わせてはいないのか。どうしてこのような不祥事を起こしてしまったのか、その原因を究明しようという気持はないのか。かような不祥事の再発を防止する手立てを講じようとは思わないのか。渦中の人々や家族が、どれほどの辛い思いをしたか考えたことがあるのか。教育への混乱と悪影響への責任に思いをいたしているのか。

勝訴確定者に、礼を尽くしての謝罪を要求する。とりわけ、河原井純子さんには、マスコミの面前で全員で頭を下げたまえ。国家賠償責任が認められるには、違法だけでなく公務員の過失も要求される。あなた方には、やってはならないことをした過失が認められたのだ。そしてなによりも、「停職中、教壇に立てないことによる精神的苦痛は、支給されなかった給与の支払いでは回復できない」というのが、東京高裁の判決であった。河原井さんだけにではない、深く傷ついた教え子にも謝罪が必要だ。それにとどまらない。あなた方がゆがめ、傷つけてしまった、教育そのものにも深い陳謝が必要なのだ。

いやしくも「他には厳しく、自らには甘い」などと言われることのないよう、教育に携わる機関にふさわしく、社会的常識と良識とに基づいた礼を尽くした対応を期待したい。

論語・学而編からの一節を、教訓として教育委員の諸君に贈りたい。
子曰。君子不重則不威。學則不固。主忠信。無友不如己者。過則勿憚改。
わからなければ、誰かによく聞いて教訓にしたまえ。とりわけ、「過則勿憚改」に先行する「學則不固」の一句を噛みしめていただきたい。
(2013年7月13日)

参院選9日目ー教育公務員の選挙運動への威嚇(その2)

昨日述べたとおり、公立校に勤務する教育公務員には、政治活動と選挙運動に関する特別の制約が付されている。政治活動については、一般の地方公務員には地公法36条で、そして教育公務員には教特法を介して「国公法102条・人事院規則14-7第6項」が適用規定となる。また、選挙運動については一般公務員が公選法136条の2(1項1号)で、教育公務員は137条で、「その地位を利用した選挙運動」が禁止されている。

ではなにもできないか。そんなことはない。昨日述べたとおり、教育公務員も人権享有主体であり、政治活動も選挙運動も憲法21条で保障された権利として尊重しなければならない。その人権制約の規定は限定して解釈されなければならない。昨年暮れに、このことを確認する恰好の最高裁判決が言い渡されている。大きな話題となった堀越事件である。

10年前の総選挙のさいに、「社会保険庁東京社会保険事務局目黒社会保険事務所に年金審査官として勤務していた厚生労働事務官(係長職)」であった堀越さんは、共産党の支持を目的として、しんぶん赤旗号外(『いよいよ総選挙』『憲法問題特集』など)や東京民報などを配布した、として起訴された。罰条は、国家公務員法102条と同法の委任によって制定された人事院規則14-7第6項7号と13号である。

これまで、リーディングケースとされたものは、1974年の猿払事件大法廷判決。形式的にこの判例による限りは有罪間違いないのだだが、東京高裁は堀越さんを無罪とし、最高裁第二小法廷も検察側の上告を棄却して無罪とした。無罪の理由は、高裁判決がよりすっきりしてはいるが、最高裁判決の論理を確認しておこう。

(A)「国家公務員法102条1項は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものと解される。」
(B)「他方,国民は,憲法上,表現の自由(21条1項)としての政治活動の自由を保障されており,この精神的自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利であることに鑑みると,上記の目的に基づく法令による公務員に対する政治的行為の禁止は,国民としての政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきものである。」

(B)における「国民」とは、公務員である堀越さんのこと。公務員も国民として人権享有主体であり、しかも「選挙に際して赤旗号外を配布するという政治活動」について、「表現の自由(21条1項)として保障されており,その自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利」とされている。しかし一方、(A)に言う「公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持すること」も、法の目的として肯定しうるところ。

そこで、(A)の目的を『必要やむを得ない限度ギリギリにその範囲を限定して』理解することによって、大切な(B)の権利を擁護せざるを得ない、というのだ。

その基本原則のもと、具体的には「『禁止された政治的行為』とは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるもの」と解するのが相当である。
「本件(「赤旗」および「東京民報」)配布行為は,管理職的地位になく,その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって,職務と全く無関係に,公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり,公務員による行為と認識し得る態様で行われたものでもないから,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとはいえない。そうすると,本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである」というのが結論。

論理の構造は、公務員と言えども憲法の眼目と言うべき21条の政治的表現の自由を有している。その権利の重要性から、制約は『必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきもの』ということになる。しかも、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが観念的なものであっては制約の理由たり得ない。実質的に認められるものでなくてはならないというのである。

この判断枠組みの基本構造は、国公法102条・人事院規則14-7の事件にだけでなく、地公法36条にも、教特法にも、そして公選法136条の2、137条にもあてはまる。

もちろん、堀越事件における無罪理由の具体的な射程距離については今後の判例をまたねばならないが、猿払大法廷判決が巾を利かせていた時代は終わった。教育公務員を含めた公務員の政治活動、選挙運動の一律禁止を墨守しておられる時代ではない。

おそらくは、都教委は、そのこと故に焦っての通知を発出しているのだ。

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   『ルソン戦ー死の谷』(阿利莫二著 岩波新書)より
私たちはバナナはあの黄色い実だけを食べるものと思っている。しかし、実は花も茎の芯も食べられる。「菜はスープがほとんど。スープというより、日本の鍋汁である。汁の実にしていたバナナの花は、缶詰の貝柱に似た舌ざわりでおいしい。」

食べられるのはほかにもある。
「一度だけ、脂気のある柔らかい筍のようなものを口にした。聞くとヤシの芯だという。若芽だったかもしれない。高級な味である。ヤシの実はトンコンマンガにもあったが、入院中最もよく口にした。若い実は半透明でとろりとし、熟するほどに固くなる。若すぎず、熟しすぎないこのココナッツは、炒めると、半ばいか焼き、半ば南京豆のような味と舌ざわりがする。」

1944年11月マニラへ上陸し、待ち受けている、ルソン島の東北山地を逃げ回らなければならない運命を知らなかった、「学徒兵阿利莫二」のつかの間の幸せな食生活。その後すぐ、45年1月には米軍がレイテ島に上陸をはじめ、「ルソン決戦」どころか、泥沼の「ルソン持久戦」に突入することになった。これが戦争といえるのだろうか。あてどもない、ボロボロの日本軍逃避行である。

食料も薬もなく、盲腸の手術も手足の切断も麻酔無し、目が覚めたら隣の友兵が冷たくなっている。米軍の砲爆撃は熾烈をきわめ、空からのガソリン攻撃、地上の火炎放射機で、森も林も草原も焼き尽くされ、手も足も出ない。
「傷病者はとくに負け戦さの戦場では足手まとい。捕虜になることを軍紀が許さぬ以上、動けぬ者は死ぬよりほかは道がない。隊の足手まといになるよりは死を選ぶ方がいさぎよい。これが美徳。・・戦況が悪化すればするほど、当然のことのように自決や処置が行われた。」

「死相」「幽鬼の宴」「人肉食」「餓鬼の図」これが今から68年前のちょうど今頃の7月、フィリピンのルソン島でくり広げられた地獄図である。
「油虫は炒めると香ばしいが、何しろ死体をバリバリ囓る大物、動きの鈍い者には捕らえるのが難しい。アシン谷でお目にかかったのは、野ねずみ、小鳥、小さい蛇一匹、オタマジャクシ、地虫、わらじ虫、小さいバツタ、それに小さな巻貝くらいである。」お目にかかっても、ヨタヨタの身体で捕まえられるのは、わらじ虫やヤスデ、カナブンの白い地虫ぐらい。飯ごうで煎って食べると香ばしい味で、地虫は甘みがある。オタマジャクシは煮ると溶けて、苦い汁になる。串に刺してあぶって食べる。

そして8月15日。栄養失調の下痢で「生きたい」という気持ちもなくなって、立つこともできない状態で、9月8日米軍の捕虜として収容される。
「アメリカ軍のレーション(携行糧食)を見たとたん、これだけで勝負は決まっていたと思う。日本軍の携帯食料は内地にいた時でも金平糖が少し混ざった乾パン一袋である。レーションにはチーズ、ビスケット、コーヒー、チョコレート、缶詰、シガレットなどが、完全密封の箱に見事にコンパクトされている。」

フィリピン島戦の犠牲者は50数万人。うちルソン島は20数万。大戦中最大の戦死者を出したこのフィリピン島戦全体の兵員生還率は約23パーセントだった。
(2013年7月12日)

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