澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「毎日」・「憲法9条解釈と集団的自衛権」解説に異議あり

昨日、「毎日」が第9面を全面使って、「憲法9条解釈と集団的自衛権」という解説記事を書いている。「論点整理」とされているが、かなりのボリュームで、詳細な内容となっている。しかし、この記事の姿勢には「異議あり」と言わざるを得ない。戦後史の中で9条の果たした積極的役割に理解がない。集団的自衛権の行使容認が何を狙い、その実現が近隣諸国にどうインパクトを与えるかに言及がない。これまでの政府解釈への理解が浅薄である。なによりも安倍の解釈改憲の姑息な「手口」や、安保法制懇のあり方自体に批判の言が皆無である。けっして「公正」でも「中立」でもない。

もっとも、同じレベルの記事を「産経」や「読売」が書いたところで、目くじら立てるほどのことではない。読み手の、「どうせひどいバイアスがかかっている」という正常な感覚が、記事の内容を較正して、正しく読むことができるからだ。

誰もが右偏向を矯正する眼鏡を掛けてから産経・読売の記事を読む。もちろん、その眼鏡の度の強さは、産経と読売とで異なっていることは当然として…。ところが、「毎日」や「東京」を読むときには、そのような眼鏡はかけない。偏向を矯正する必要がないと思っているのだから。だからこそ、「毎日」や「東京」の記事は丁寧に読みこんで、異議のあるときには声を上げなければならない。

この特集記事。見出しだけを拾ってみよう。
◇憲法9条と戦後日本「国際貢献 自衛隊に限界」「転機は1991年の湾岸戦争」
◇現行解釈何が問題?「『日米同盟に支障』指摘も」
◇安保法制懇と今後の焦点「離島防衛 サイバー対応 課題」
◇曲折重ねた集団的自衛権めぐる政府解釈

記事全体が、以上の見出をつなげた展開と言って大きくは間違っていない。
「戦後日本の歴史において、憲法9条は積極的に国際貢献を果たすべき自衛隊に限界を画すものである。そのような認識は1991年の湾岸戦争を転機として拡がった。さらに、現行の憲法9条解釈が集団的自衛権の行使を認めないために、日米同盟の維持に支障があると指摘もされている。そこで、安保法制懇が憲法9条解釈の見直しを既定方針として発足し、包括的に集団的自衛権の行使を認め、さらに離島防衛やサイバー対応をも課題としている。そもそも、集団的自衛権めぐる政府解釈は一貫したものではなく、これまで紆余曲折を重ねてきたものだ」

品よくまとめれば、以上のようなもの。もう少し明確に分かりやすく、「毎日」記事の言わんとするところを述べれば、次のとおりである。

「戦後日本の歴史において、憲法9条は出しゃばりすぎてきた。自衛隊は、もっと国際貢献を果たすべきなのに、9条がその足を引っ張ってきた。

1991年の湾岸戦争を転機として、9条が国際貢献に支障となることが国民共通の認識になった。その後も、せっかく、テロ対策特別措置法や、イラク特措法ができて、自衛隊活躍の国際舞台をつくったのに、9条の所為で一人前の軍隊として働くことができず、日本は国際的な責任を果たすことができていない。

加えて、憲法9条についての政府解釈が集団的自衛権の行使を認めないことで、日米間の軍事同盟の良好な関係維持に支障があると指摘もされている。中国が先島諸島を占領したことを想定して、その奪還のための軍事行動を日米合同で行うことも大っぴらにはできない。多国間訓練において、複数国共同の軍事行動訓練に参加もできない。

そこで、安倍首相の私的な懇談会である「安保法制懇」が憲法9条解釈の見直しを既定方針として発足した。第1次安保法制懇時代の「4類型」という個別問題にこだわらず、包括的に集団的自衛権の行使を認める方針が既に固まっている。さらに離島防衛やサイバー対応をも課題として検討している。

自民党の石破幹事長が言っているとおり、そもそも、集団的自衛権をめぐる政府解釈は一貫したものではなく、戦後5回も解釈を変更している。政府が現在の解釈を主張し始めるのは、1981年5月の政府答弁からでしかない」

要するに、「憲法9条が、日本の国際貢献と日米軍事同盟維持の足を引っ張っている。だから、9条の解釈を変更する動きが生じている」というもので、「解釈改憲容認」に紙一重だ。安倍政権の性急な解釈改憲策動に「国民の支持も広がっていない」としてはいるが、自らの批判の姿勢は感じられない。

全体の姿勢とは別に、気になるところをいくつか指摘しておきたい。
※まずは、「芦田修正」について、「毎日解説」は、当然のごとく芦田修正を意味あるものとする立ち場をとる。
「憲法9条は第1項で戦争と武力の行使について『国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』と宣言。続く第2項で『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』とうたった。だが、憲法草案の審議段階で政府の憲法改正小委員会の芦田均委員長が、2項の冒頭に『前項の目的を達するため』という文言を挿入する修正を行い(芦田修正)、『自衛のための実力部隊』の創設に道を開くこととなる」

これは、二つの意味において不正確である。憲法改正小委員会の芦田均委員長が自衛のための実力部隊創設のために、「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正を行ったのではない。これは、ずっと後になって公表された委員会議事録で明らかとなっている。むしろ、彼は1946年8月24日の衆院本会議で、「改正憲法最大の特色は、大胆率直に戦争放棄を宣言した」と語っている。「自衛のための戦争を放棄したと」は言っていない。また、自衛戦争の放棄を「大胆率直な戦争放棄の宣言」と言うはずもない。芦田自身が言う「芦田修正」は、「後智恵」に過ぎず、立法者意思ではない。(杉原泰雄編「新版体系憲法事典」328頁・352頁など)

また、戦後の政府見解は、一度として芦田修正の立場に立ったことはない。文理解釈としては芦田修正の論理が可能だとしても、有権解釈としては芦田修正の立場はまったく無力である。これを麗々しく掲げる「毎日記事」には到底納得しがたい。

※「毎日記事」は、不見識にも、自民党幹事長の言を紹介する形で「政府が現在の『集団的自衛権を有しているが、必要最小限度の範囲を超えるので行使できない』との解釈を主張し出すのは81年5月の政府答弁書ごろからだ」としている。趣旨は、「それまでは紆余曲折を重ねた。今後も変更はあり得る」ということに読める。

自衛権をめぐる政府解釈の「変遷」や「紆余曲折」の内容を見なくてはならない。政府見解は最初の自衛権否認論から出発して、自衛権肯定論に「変節」はしている。しかし、自衛戦力合憲論(憲法9条は、自衛のための「戦力」保持を認める」)はとらずに踏みとどまっている。「自衛のための最小限度の実力は『戦力』ではない」という立場では一貫しているのだ。当然に、現在定式化されている集団的自衛権の行使が認められないことでも一貫している。

今のように、「集団的自衛権を有しているが、必要最小限度の範囲を超えるので行使できない」との政府解釈は「81年5月」ではなく、1972年10月14日の政府見解で確認できる。ここでは、「政府は従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであるとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである」として、格調高く、平和的生存権や憲法13条を引用している(先日、山内敏弘氏を講師にお招きしての学習会で詳細に資料を示していただいた)。

以後40年余、82年からでも30年余り。この点に関しては、政府と内閣法制局の見解がぶれるところはまったく無い。これを政府解釈に一貫性なく、紆余曲折があったが如くに描き出そうとする与党の意図に無批判であってはならない。

問題は微妙であり、極めて重大である。「毎日」の姿勢には影響するところが大きい。是非とも、権力に対する批判の姿勢を堅持して、ジャーリズムの本領を発揮していただきたい。
(2013年9月20日)

大阪府教委もブラック官庁だ

この人の感覚は異常と評するしかない。憲法感覚において、社会感覚において、そして人間という存在の根源的な理解において。秩序感覚と権力志向のみが異様に発達して、他人の心情やプライドへの理解能力、共感能力が皆無である。基本的人権ということがまったく分かっていない。こんな人物が弁護士であることが理解できない。こういう人物に権力という玩具を与えてはならない。周りが迷惑することこの上ない。いや、橋下徹のことではない。その仲間の、中原徹のこと。

民間人校長として大阪府立立和泉高校長となり、2012年3月の卒業式で、教頭らに指示して、教職員が国歌斉唱の際に斉唱しているかを確認する「口元チェック」を指示して世論の非難を浴びた。もちろん、秩序派・橋下徹は「素晴らしいマネジメント」と賞賛したが、当時の大阪府教育委員長までが、「そこまでやらなくてもいいのではないか」とたしなめている。

その中原が、今年の4月大阪府の教育長に就任した。そして、今月4日府立学校の校長宛てに、「入学式や卒業式の君が代斉唱の際に教職員が実際に歌ったかどうか、管理職が目視で確認するよう求める通知」を発したという。「目視で確認」とは、「口元チェック」のことだ。年度末の卒業式に向けて、改めて全府立校に通知を出す方針だと報じられている。

「口元チェック」となると、思想・良心や表現の自由侵害(憲法19条・21条)などという精神的自由権侵害レベルの問題ではないのではないか。こんなやり方で、こんなところまで、人を追い込みプライドを傷つけることは、世上の用語で「人権侵害」というにふさわしい。つまりは、人間の尊厳を根底から損なう公権力の発動として、憲法13条違反レベルの問題として把握すべきこととなろう。

都立高校で、10・23通達が発出された際に、「自分には思想的な『日の丸・君が代』への違和感はない。だから、これまで少数派の教師の一人として、式では起立し斉唱してきた。しかし、職務命令として起立・斉唱を命じられたら立てない。歌えない。自分の信念として教育に強制はなじまず、教師が生徒の前で、強制に屈してはならないと思うからだ」という教師にお目にかかることができた。まさに、尊敬に値する教育者ではないか。

中原教育長の通知文の中に、「公務に対する府民の信頼を維持することが目的」と記載されているという。何たることか。本気で、教育への府民の信頼が「口元チェック」で獲得できると考えているのだろうか。あまりに貧しい発想というほかはない。およそ教育の場で語られる言葉ではない。

教育とは、個性豊かな教師と生徒との人格的接触によって成立するものだ。信念を貫く教師がいなければならない。「権力などは屁のような存在」「誰がなんと言おうと我が信念を貫く」という教師がいてこそ、硬骨な子どもが育つ。学校をロボットがロボットを製造する工場にしてはならない。

「口元チェック」は、パワハラであり、イジメである。チェックをされる教職員だけでなく、チェックをするよう命じられる校長や教頭にとってもだ。多くの良心的な教職員が気持ちを暗くし、心を傷つけ、教場を去ることになるだろう。都教委を「ブラック官庁」と言ってきたが、大阪府教委はさらにひどい。東西両都市が、ブラック度を競い合っている。ブラックユーモアにもならない。

ところで、府立校の校長やら教頭やらに、聞いてみたい。「あなた、口元チェックやりますか」「ほんとに、チェックして報告を上げますか」「こんな馬鹿げたことが校長の役目だと思いますか」「あなたは教育者ですか。教育行政の下僕ですか」「あなたの視線は、子供に向いていますか。それとも人事権者に向いているのですか」

大阪府の有権者にも聞いてみたい。「こんなアホな教育長を抱えて、大阪の恥やおまへんか」「口元チェックの学校に、子どもをやれますか」「大阪人は、そんなに『日の丸・君が代』大好きですか」「個性や自由や硬骨や叛骨は、お嫌いなのですか」「いつまで、橋下や中原のような連中に好き勝手なことをやらせておくつもりですか」

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  『想像を絶する地下水の力』
上野駅(新幹線地下駅)はカウンターウエイト(重し)無しでは浮き上がってしまう。東京駅も浮き上がらないように駅舎下の地層に固定する「永久グラウンド・アンカー方式」で建設されている。91年10月には武蔵野線の新小平駅で地下部のプラットホームが浮き上がり、レールが隆起した。まれに見る降雨つづきで、地下水位が上昇したせいである。ことほどさように、地下水恐るべし。

その地下水が福島原発で手に負えない暴れ方をしている。ここでの地下水の流れは、事故以前から恐るべきものだった。それが、放射能汚染で、手の付けられないものになっている。「完全にコントロールされている」「ブロックされている」は、嘘も甚だしい。

福島第一原発の敷地は、元々海に面した海抜約30メートルの崖地であった。高波、津波、冷却水の取水、海からの資材搬入など考慮して、土地を削って海抜10メートルの平坦地を造成した。これをグランドレベルとして、圧力容器、格納容器を据え付けるために、建屋部分は14メートル掘り下げた。だから原子炉建屋の底面は海面より4メートル低い位置となった。

この敷地造成の工事において、海抜30メートルから27メートルまで掘り下げることには問題がなかったが、さてそこから10メートルレベルまで掘り下げるのは難工事だったという。常に地下水が湧出し、地盤がぬかるんで、地下水を汲み上げて排水路を作らなければならなかったからだ。10メートルレベルから、さらに14メートル掘り下げるときはもっとたいへんだったはず。

元電力中央研究所主任研究員本島勲さんによると「もともと福島第一原発1~4号機付近では、建屋に働く浮力を防止するために事故前から1日に850トンもの地下水をサブドレーンと呼ばれる井戸から汲み上げていました。」ということだ。事故後のことではない。事故前から地下水を汲み上げ続けなければならなかった。その量、毎日850トン。こうしなければ、上野駅同様、原子炉全体が浮き上がってしまうというのだ。

そして、恐るべき話しは続く。「サブドレーンは、津波やその後の建屋の爆発などで機能しなくなりました。その大量の地下水の一部が、(破損した)原子炉建屋などの地下階に流入し、溶融燃料を冷却した水と混ざり、汚染水を増大させています。」

事故前毎日850トン汲み上げていた地下水が、事故後は「コントロール不能」の状態となっている。地下水の相当部分がメルトダウンした燃料棒などに接触して、放射線汚染水となっているのだ。圧力容器、格納容器、建屋の底面がどうなっているのかは想像もつかないが、そんなたくさんの地下水が流れ込んでいるのなら、汲んでも汲んでも汲みきれない放射能まみれの水浸しになっているのだと考えても間違いではなかろう。東京電力の関係者が絶望的になるのはよく解る。しかし、この事態が起きることを、予測できなかったはずはない。みんなで口をつぐんでいたのか。「すべて制御できている」という安倍首相には誰もこの事態を説明しないのか。説明しても聞く耳持たないのか。

事故直後の11年4月2日には高濃度汚染水が海に流出していることが判明した。産業技術総合研究所(旧通産省工業技術院)の11年4月6日付の報告書「福島県の地下水環境」によると、福島原発施設の下の地層は、上から、砂・泥の混じった水を通しやすい表層(5メートル)、水を通しにくい泥質岩層(20メートル)、主要な帯水層である砂質岩層(200メートル)からなり、海に向かって傾斜している。汚染物質が表層に浸透すると地下水流として1日1センチメートルの速さで海に流れていくとしている。とすれば、汚染水が地下水として、この計算通り流れているとすれば、現在は原子炉建屋から10メートルほどのところを海に向かって進んでいるはずである。

報告書は、「水を通しにくい泥質岩層を透過して深部まで広がることは考えにくい」としている。しかし、岩盤内の地下水の動きはつかみにくいし、14メートル掘り下げて地層を傷つけているのだから、20メートルの泥質岩層を突き抜けて流れることは十分にあり得る。そうすれば、その汚染地下水は港湾の外、外海に湧出することになる。外洋への汚染水流出の危険性はけっして無視し得ることではない。

結局、海に至る汚染水は、3種類あることになる。
(1)地下水にならず地表を流れて海に注ぐ汚染水。
(2)表層に浸透して近くの海に流れて行きつつある汚染水。
(3) 深くしみこんで遠くの外海にいつか湧出する汚染水。

湾外に流れ出る汚染水にはシルトフェンスなど役に立たない。しみ込んだ汚染水を戻すすべなどない。とにかく一刻も早く、元を絶たなければならない。

本島勲さんは「地下水対策の基本は、『出口』ではなく『入り口』です」「より上流側で地下水の流入を防ぐ対策が必要です」「これまでの対症療法的対応ではなく、予防的対策に切り替えなければなりません」と言う。そして、科学的、技術的英知を結集し、研究所や大学などを動員した技術集団を結成することを求めている。それも急いで。

なお、本日の「ウイーンー共同」によれば、18日気象庁気象研究所の主任研究官は、IAEAの科学フォーラムで、「原発北側の放水口から、セシウム137とストロンチウム90が、毎日計600億ベクレル外洋に放出されている」と報告したという。もっとも、この線量でも「沖合では薄められ、漁業に影響しない」とのこと。本当だろうか。
(2013年9月19日)

勿忘九・一八

本日は「九・一八」。中国では「国恥の日」とされる。1931年9月18日深夜、審陽(当時「奉天」)近郊の柳条湖村で南満州鉄道爆破事件が起き、続いて日本軍が動いた。これが「満州事変」のきっかけとなり、15年戦争のきっかけともなった。

何年か前、事件の現場を訪れた。事件を記念する歴史博物館の構造が、日めくりカレンダーをかたどったもの。そのカレンダーの日付が「九・一八」となっており、「勿忘国恥」と書き添えられていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。

柳条湖事件は関東軍自作自演の周到な謀略であった。関東軍は、鉄道爆破の直後に「張学良を中心とした中国側の攻撃が行われた」として本格的な戦闘を開始し、直ちに奉天の兵営を攻略した。そして、この日の鉄道爆破が関東軍の謀略であることは、日本の国民には終戦まで知らされなかった。いわば、最高の国家秘密であり続けたのだ。リットン調査団の報告は、政治的な思惑からこの点必ずしも明確にされていない。

この秘密を知った者が、「実は、あの奉天の鉄道爆破は、関東軍の高級参謀の仕業だ。板垣征四郎、石原莞爾らが事前の周到な計画のもと、張学良軍の仕業と見せかける工作をして実行した」と漏らせば、間違いなく死刑とされたろう。軍機保護法や国防保安法、そして陸軍刑法はそのような役割を果たした。安倍内閣のたくらむ「特定秘密保護法」は、同様の国家秘密保護の役割を期待されている。

この事件は、中央政府からみて関東軍の独走であり暴走であった。事件を知った奉天総領事館側は、その日のうちに事件首謀者の板垣征四郎をいさめようとしたが、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と、抜刀しての威嚇を受けたと伝えられている。これこそ、国防軍というものの正体とみなければならない。また、天皇の権威はこのような形で利用された。中央政府は事変不拡大の方針を決めたが、現地軍の暴走を止めることができなかった。

その背景に、熱狂した国民の支持があった。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「軟弱な外交が怪しからん」「満州も中国も日本の手に」「これで景気が上向く」というのが圧倒的な「世論」だった。

軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そして、真実の報道と冷静な評論が禁圧される。巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。

さて、翻って今。国防軍創設の提案、天皇元首化の動き、日の丸・君が代の強制、秘密保護法の制定、ナショナリズム復活の兆し、ヘイトスピーチの横行、朝鮮や中国への敵視策…、1930年代と似ていると言えば似ている。そう言えば、関東軍参謀長であった東條英機の時代に官僚として満州経営の衝にあたったのが岸信介。その岸を尊敬するという孫が首相になっているのも、不気味な暗合である。

隣国との友好を深めよう。過剰なナショナリズムの抑制に努めよう。今ある表現の自由を大切にしよう。まともな政党政治を取り戻そう。冷静に理性を研ぎ澄まし、安倍や石原や橋下などの煽動を警戒しよう。そして、くれぐれもあの時代を再び繰り返さないように、力を合わせよう。
(2013年9月18日)

「ぐるみ・金権」選挙の徹底取り締まりを

各紙の報道によれば、医療法人「徳洲会」グループをめぐる選挙違反疑惑で、東京地検特捜部は本日(17日)、公職選挙法違反(運動員買収)の疑いで東京都千代田区の徳洲会東京本部などに家宅捜索に入るなど強制捜査に着手した。

事案は、昨年12月総選挙で3度目の当選を果たした徳田毅・自民党衆院議員(鹿児島2区)の選挙を巡り、徳洲会グループが系列病院の職員を選挙区に送り込んで選挙運動をさせ、見返りに報酬を支払った疑い。選挙に動員された職員は100人以上の規模とされるが、「選挙期間中に派遣された職員は延べ数千人」との関係者証言を伝える報道もある。

全国各地から動員された病院職員は、衆院が解散した昨年11月16日の直後から投開票日前日の12月15日まで、鹿児島2区(鹿児島市など)に入り、戸別訪問や電話によって徳田候補への投票を訴えた。この選挙運動で職場を離れていた職員に、給料が支払われていたという。

いうまでもなく、選挙運動は金をもらってやるものではない。当たり前のことだが、勤務先から給料をもらいながらの選挙運動もあり得ない。公選法は、選挙運動に対する報酬の支払いを禁じている。支払った方も、支払いを受けた方も選挙違反として犯罪にあたる。だから、徳州会から派遣された各職員は、所属する病院に1週間~1か月程度の欠勤や有給休暇を届け出た上で選挙運動を行っていた。もちろん、純粋に無給のボランティア活動であれば犯罪とはならない。「有給休暇中のボランティア」とするのが、カムフラージュの常套手段だ。実際のところは、欠勤・休暇は形だけで、欠勤で減額された給与分は、同月の賞与に上乗せして補填され、実質的な選挙運動の報酬が支払われていたという。鹿児島までの交通費やホテルの宿泊費なども、同会側が負担したとのこと。

選挙運動の自由は最大限保障されなければならない。一方、選挙の公正が金の力でゆがめられてはならない。金がものを言うこの世の中で、買収・供応等の金権選挙・企業ぐるみ選挙を許してはならない。経済的な格差を投票結果に反映させてはならず、取り締るべきは当然のこと。

金にものを言わせる公選法上の買収には、「投票買収」と「運動(員)買収」との2種類がある。「投票買収」は金で票を買うという古典的な形態だが、いまどきそんな事案はほとんどない。摘発されているのは、もっぱら「運動買収」である。これは、人に金を渡して選挙運動をさせるということ。選挙運動員に金を渡せば、あるいは選挙運動に従事している労働者に職務提供のない期間の給料を支払えば、運動買収になって刑事罰を科せられる。

最高裁は今年1月、民主党の落選候補者に対して、自分が経営する会社の社員に選挙運動の報酬を支払う約束をした(約束だけで支払いはしていない)として公選法違反を認め、懲役2年執行猶予4年とする有罪判決を確定させている。

当不当の議論は別として、車上運動員(ウグイス嬢)・手話通訳者と、ポスター貼り・封筒の宛名書きなど純粋に単純労務を提供する者には、所定の日当を支払っても良いことになっている。この人たちの氏名と日当額とは事前に選管に届出ることになる。もし、この人たちが、単純労務の範囲を超えて、少しの時間でも実質的な選挙運動に携わっていれば、運動買収(日当買収ともいう)が成立して、日当を渡した選挙運動の総括主宰者も、日当をもらった選挙運動員も、ともに刑事罰の対象となる。

報道されている限りで、「徳州会」側の行為は、公選法221条1項1号の「当選を得しめる目的をもつて選挙運動者に対し金銭の供与をした」に当たり、買収罪として最高刑は懲役3年の犯罪となる。選挙運動の総括主宰者または出納責任者の実質がある者が行った場合は公選法221条1項1号(運動買収)・3項(加重要件)に該当して、最高刑は懲役4年の犯罪に当たる。多数回の行為があったとされれば、さらに加重されて5年となる(222条1項)。仮に、候補者自身が関与していれば同罪である。また、「徳州会」から派遣された病院職員らは、同条1項4号の「第1号の金銭の供与を受けた」にあたり、被買収罪として同じく最高刑は懲役3年となる。

派遣職員の人数が大きい、病院経営者の社会的責任が大きい、などが強調されているが、被派遣者がたった1人でも、勤務先が病院でなくても、犯罪は成立する。なお、「法律を知らなかった」は言い訳にならない。アルバイト募集に応募したところが選挙運動をさせられ、結局有罪になったという気の毒な実例もある。徳州会側のみならず、派遣された職員の有罪も動かしがたい。その意味では、徳州会や徳田議員の罪は大きいと言わねばならない。とはいえ、派遣された地方病院の事務責任者は「派遣の指示を拒んだりすれば徳田家に対する反逆と見なされる。従わざるを得なかった」と証言しており、強制的な動員だった疑いが強い。このような事情を勘案すれば、派遣された職員の起訴は事実上見送れることになるだろう。

もし、徳田候補の選挙陣営が徳州会側に選挙を手伝う社員を出すよう依頼をしたのであれば、依頼した側の人物に刑事責任が生じる。221条1項6号の「前各号に掲げる行為に関し周旋又は勧誘をしたとき」に当たるか、あるいは依頼行為が教唆罪(刑法61条1項)に当たるからである。徳田議員自身が「周旋又は勧誘をした」とされる場合には、候補者であるが故の加重要件に該当して最高刑は懲役4年となり、有罪の確定と同時に公民権の停止も行われて議員資格を失う。選挙運動の総括主宰者あるいは出納責任者が有罪になった場合にも、連座制の適用によって徳田議員の資格が剥奪される。

私はかつて、このブログで、東京3区石原宏高議員の運動買収が検挙されないことに関して、次のように嘆いた。
「投票日を同じくした都知事選の宇都宮陣営では、ビラ配布をしていた70歳が公団住宅の廊下で住居侵入として逮捕され、勾留請求却下まで3泊4日を留置所で過ごした。革新陣営に対する選挙運動の自由にはかくも厳しく、保守陣営の金権選挙にはかくも甘いのが、警察・検察の実態なのであろうか。」

今回の徳州会選挙違反摘発は当選した与党議員に対するものとして、よくやったと思う。是非とも、石原宏高選挙違反にも、厳重な取り締りを期待したい。

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  『サンマ苦いか塩っぱいか』
友人が岩手県大船渡からサンマを送ってくれた。くちばしの黄色いトレトレの脂ののりきった立派なサンマだ。今年は収穫が少ないそうで、貴重品である。

おいしくいただいてしまった後で、サンマ発送用のトロ箱の上に貼ってあった「安全確認済」と印刷されたレッテルに気がついた。そういえば、昨年は放射能汚染を気遣って海産物はお休みしていたことを思い出した。サンマは回遊魚なので、心配ないと聞いていたけれど、あんまり仰々しいラベルなので、かえって興味を引かれて、記載の水産会社に電話をしてみた。

すると、やっぱり歓迎はされなかった。あちこち電話を回された末に、「目視と細菌検査と放射能検査で問題はなかったということです」との素っ気ない返事。それ以上知りたければ、連絡先の電話を教えてくれという。しばらくすると、「週一回サンプルアップして、業者に検査委託している。放射能検査項目はヨウ素131、セシウム134、セシウム137、その他のセシウム類の4項目です。そして、その数値は検出できないほど低い数値なので、安全です」という答えが返ってきた。
こちらも勉強不足で、それ以上の質問はできず、「おいしかったのでOK」と安易にその場は納得してしまったが、自分はともかく、子どもに食べさせる場合はそうはいかないと反省した。

今年4月1日から食品に関する放射能の規制値は基準が低くなった。これも自動的にそうなったわけではなく、たくさんの人の運動があって、ようやく改められた。
1キログラム当たり、水が200ベクレルから10ベクレルに、牛乳が200ベクレルから50ベクレルに、野菜・穀類・肉・卵・魚などの食料品が500ベクレルから100ベクレルへと新基準は厳しくなった。ではいったい我々は、3・11以来2年間は何を食べていたのか?

この4月からの新基準は、1年間の摂取量を1ミリシーベルト以下に抑えるというコンセプトで設定されたそうだ。たとえばサンマを1回50グラム、1年間に延べ150回、計7.5キログラム食べるとする。それが基準値最高100ベクレルに汚染されているサンマでも、人体への影響換算係数0.000013を掛けて、0.00975ミリシーベルトにしかならないからご安心をという計算になるようだ。

50g(サンマ)×150(日)=7.5㎏
100ベクレル×0.000013(人体影響換算係数)=0.0013ミリシーベルト/㎏
7.5㎏×0.0013ミリシーベルト/㎏=0.00975ミリシーベルト

しかし、「人はサンマのみにて生きるに非ず」である。水も牛乳も飲む。野菜もご飯も食べる。レントゲン検査もうける。飛行機にも乗る。自然界からの放射能も避けられない。放射性物質を食べ物として食べれば、体内に放射性物質は蓄積されていく。いくら換算係数(これも納得出来ないといえば納得できない)を掛けても、放射能は自然に浴びているのだといわれても、それならなおさら、余分の放射能などいらないというのが、当たり前の考え方だろう。

今日の朝刊は台風18号の降雨の影響で、福島の原発の汚染水貯蔵タンク周辺の漏洩防止用の堰が決壊し、汚染水が漏れ出てしまったと報道している。汚染水は雨水や海水で薄められるので、垂れ流しても大丈夫といわれても、納得できない。そしてこの頃チラチラ出てきているのが、恐ろしいストロンチウム90だ。今日の漏水にストロンチウム90のベータ線が1リットル当たり37ベクレル含まれていたと書いてある。だいたい、食物検査にストロンチウムやプルトニウムは含まれていない。分析に時間がかかるからというのがその理由。

私は放射能はどんな味がするのか知らない。セシウムはセシウムの、ストロンチウムはストロンチウムの、プルトニウムはプルトニウムの味や臭いがするのだろうか。

あわれ、秋風よ
情あれば教えてよ
放射能は苦いか塩っぱいか

どんどん薄めて、
限りなく薄味にしたって
サンマも鯨もイヤイヤするでしょう

地球も海も
無限ではない
やがてはセシウムの苦みや
ストロンチウムの塩っぱさが
広い海原を満たすのでは
(2013年9月17日)

堺市長選ー維新の会の反共宣伝

昨15日、堺市長が選告示となった。再選をめざす無所属現職の竹山修身と大阪維新の会新人西林克敏との対決。竹山は、民主推薦・自民支持・共社の支援だという。「極右・ポピュリスト」対「保守・中道・左翼連合」という構図。

たまたま、本日が日本維新の会の発足から1周年だそうだ。その日本維新が政治勢力として保つかどうかを占う選挙でもあるが、現代における「アンチ〔極右ポピュリズム〕統一戦線」の有効性について、80万都市を舞台にした実験でもあり、政治経験でもある。

維新側は、「自民・民主・共産による理念なき大談合、改革を拒否!」とし、反共を前面に立てた宣伝戦。橋下は連日堺にはいって、反共演説を続けているという。竹山陣営は、「いわゆる相乗り批判について」とする談話を発表。「首長選挙では各論より総論、『大義』が優先されます。「堺はひとつ、堺のことは堺で決める」というのは、まさに大義であり、この大義の下に集まることを安易に「相乗り」と決めつけることは、見当違いも甚だしいと言わざるを得ません」と切り返している。さて、今どき反共攻撃が効くだろうか。

かのマルティン・ニーメラーの言葉を思い出す。
「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた」

最初に弾圧の対象となるのが共産主義・共産党なのは、弾圧をする側が市民の黙認を予想しているからだ。こうして、個別撃破攻撃が成立し、市民社会の全体を抑圧することが可能となる。ニーメラーの述懐のとおり、市民が反共を黙認すれば、結局は自分の首を絞めることになる。

反共主義こそは、民主的な連合や団結に打ち込まれる楔である。その楔が、鋭利な武器となるか、役に立たない錆びた折れ釘となるか。ヒトラーは反共主義を有効に使うことに成功した。橋下維新の会はどうなるだろうか。その答は今月の29日に出る。
(2013年9月16日)

傾聴・浜矩子の憲法論

本日届いた日弁連の機関誌「自由と正義」(9月号)に、浜矩子さんの「グローバル経済と日本国憲法」というインタビュー記事が掲載されている。これが滅法面白い。頷かせる。消費増税問題を例外として、浜さんの経済解説は傾聴に値するものとして接してきた。改めて、憲法問題についての姿勢にも敬意を表したい。

インタビューは、一見「愚問賢答」のごとくである。しかし、「賢答」を引き出しているのは、実は質問者の手腕なのかもしれない。たとえば次のごとくである。

問:国防軍を創設しアメリカと一緒に戦争のできる国に変わることは、外国と相互依存関係にある日本の取引にどのようなインパクトを与えるでしょうか。
答: 質問そのものに異論があります。日本の経済的取引にどのような影響かあろうがなかろうが、日本は戦争のできる国になってはいけない。他の国から、「アメリカと一緒に戦争できない国とは、取引できませんよ。」と言われたとしても、「じやあ結構です。」と言える明確なスタンスが必要です。あくまで、これが大原則です。…この種のテーマは、メリット・デメリットの枠から離れて議論されるべきです。経済的な効果効用に結び付けて議論されることを、注意深く避けていく必要があります。この問題については、損得勘定の次元では議論しないというスタンスを固持しなければなりません。

問:軍事産業が活発になっていくと雇用も生まれるからよいのではという意見に対しては、どのようにお考えでしょうか。
答:論評に値しません。兵器を作って幸せになれるか、なっていいのかという問題です。…よもや、そんな人はいないと思いますが、雇用が増えるから軍事産業の拡充を図ろう、などとプロモーションする政治家などがいるとすれば、論評どころか、まともな軽蔑にさえ値しないと思います。

問:財界では、海外における日本企業の権益を維持するため、軍事力で助けてほしいという要望があるようですが。
答:日本企業の権益を維持するために軍事力に頼る必要があるのであれば、そもそも、そのような経済活動をしなければいい。そもそも、軍事力に守ってもらう必要があるような地域に、企業が進出するということは、いかなる場合において正当化されるか。それを考える必要がありますよね。危険地域には、必ず何らかの対立の構図がある。そのただ中に飛び込んで行くことが、どのような理由で正当づけられるのか。

問:憲法改正の議論において、経済的な視点を踏まえた議論がなされていないように感じるのですが、いかがお考えでしょうか。
答:そもそも、経済的な視点など、出てくる必要がないし余地がありません。軍隊を持つことの経済的効用を研究テーマとした論文を執筆するのであれば、経済的な視点で考える必要があります。ですが、憲法改正論議と経済計算は関係がありません。「経済的な視点を用いた議論」を行うと、例えば国防軍の創設というテーマについて、損であればやめるべきだが、得であるならばやった方がいいということになってしまいますよね。そんなバカな話はないでしょう。平和に関わる問題を巡って損得勘定の次元で議論をしてはいけないと思うのです。

この質問者もそうだが、私にも、「経済学者は事象を社会科学的にとらえる。そこには、理念や倫理がはいる余地がない」という思い込みがある。「経済行動の単位をなす一人ひとりの平和への願いを超えて、資本主義経済は戦争体制への傾斜を深めざるを得ないのではないか」との危惧がある。浜さんの回答は、小気味よくこの先入観をはずしてくれる。

浜さんは、こうも言っている。「経済学者であろうと、法律学者であろうと、弁護士であろうと、平和の価値は同じように理解されるべきです。商売によって、平和の価値が変わるとは思えません。」そして、最後を次の名言で締めくくっている。

「…どんなに儲かっても、認められないものは認められないのです。」
(2013年9月15日)

戦前の秘密保護法制と問題点の指摘

防衛省に防衛研究所という組織がある。その2011年12月の紀要(第14巻第1号)に、「研究ノート軍機保護法等の制定過程と問題点」(林武1等陸佐外)という論文が掲載されている。23頁ほどのもの。ネットの検索で簡単に入手できる。イデオロギッシュな雰囲気を感じさせない内容。結構面白い。

戦前の秘密保護法制は、軍機保護法だけでなく、軍用資源秘密保護法、国防保安法、要塞地帯法、軍港要港規則、陸軍刑法、海軍刑法などから成っていた。同論文には各法の成立経過やその分担などが略記されている。今回の「特定秘密保護法」は、軍機保護法だけでなく、これらの法の総合立法をねらうもののように思われる。

興味深いのは、これら戦前の秘密保護法が成立する過程では、それなりに国会では問題点の指摘があり、今日に通じる議論がなされていること。

1937年の軍機保護法の改正に関して、「改正軍機保護法の問題点ー軍事上の秘密の定義と法の運用について」と小見出しを付けた章がある。

※「この改正法律案で、軍事上の秘密の種類範囲を規定した理由は、現行軍機保護法の第1条が、『軍事上秘密の事項又は図書物件』と規定するだけで、何が軍事上の秘密に該当するかについて明確に定義していなかったからである。したがって、国民は何が軍事上の秘密であるかを知らぬままこれを収集し、犯罪者としての嫌疑を受けることもあった。一方、取り締まる側も、検挙取締りの準拠が明確でないため、捜査を遅疑逡巡するという事態もあった。このような弊害に鑑み、本改正案ではその第1条第1項で、この法律が対象とする『軍事上の秘密』とは『作戦、用兵、動員、出師其の他軍事上秘密を要する事項又は図書物件を謂う』とし、その第2項で『前項の事項又は図書物件の種類範囲は陸軍大臣又は海軍大臣命令を以て之を定む』としたのである」

法改正の問題意識は、「国民において何が軍事上の秘密であるかを知らぬままこれを収集し、犯罪者としての嫌疑を受けること」があってはならない、とするところにあるという。法改正の目的がそれだけのものではありえないが、言わんとするところは真っ当なもの。しかし、この改正案が、その問題意識に応えるものであるとは到底思えない。

※「第70回帝国議会衆議院の第一読会に提出された上記改正法律案に対して、各議員からの質問が相次いだ。なかでも升田憲元議員の質問は、『此軍機保護法なるものは純然たる刑罰法規』であって、しかも『死刑まで科するような此重大法規を、其範囲を勝手に命令で而も勅令ならまだしも、単純なる大臣の命令で左右し得る』ことの危険性を指摘している」

大臣の命令で軍機を指定することの不当性や危険性が、当時から指摘されていたのだ。今なら、憲法41条の「国会の唯一の立法機関性」を、政令や省令への委任を認めることによって骨抜きにすることが認められるかという形で問題となる。しかし、当時、問題点の指摘はなされたが、結局は政府に押しきられている。

※「こうした懸念は、同議会の貴族院特別委員会でも指摘されたが、これに対する政府側の答弁は、軍事上の秘密の種類範囲を法律ですべて列挙することは困難であること、また何が軍事上の秘密であって、取締りの必要があるかということは、その時代、時代によって異なることから、これを委任命令という形にした、というものであった。なおこれを勅令としないで陸・海軍省の省令としたのは、陸・海軍の軍事秘密や機密に関する事項は、陸・海軍自らが定める必要があるので、省令の形をとったと説明している」

結局は、陸軍・海軍が望む情報や図書物件が軍機とされた。「軍事上の秘密の種類範囲を法律で画することは困難」「何が軍事上の秘密であって、取締りの必要があるかということは、その時代、時代によって異なる」は、秘密法制の根幹にかかわる問題点の指摘である。「国民において何が軍事上の秘密であるかを知らぬままこれを収集し、犯罪者としての嫌疑を受けること」の弊害は除去できなかったのだ。

さらに、国防保安法は凄まじい。同法は、「広範囲に亘る国家の重要機密を保護すべき法規、並びに外国の行う宣伝、謀略を防止すべき法規」として提案された。

ところが、「国防保安法では、どういうものが国家機密であるかということ自体が、外国に対し国家機密の一端を察知させることになるから、国家機密の内容範囲については法令中に明記されなかったのである。ここに国家機密の範囲が不明瞭となる要因があり、何れにおいてその範囲を確定するのかという点が、最大の議論となった」という。

当時の当局者は、「国家機密とは法律の規定に基づき官庁が指定して初めて国家機密となる『指定秘』ではなく、『自然秘』である」と述べている。結局は、同法が成立したあと、国防保安法施行令において、秘密の図書物件にには標記を付けることにはなった。しかし、標記はあくまで手続き的便宜のためもので、標記の有無にかかわらず「自然秘」の原則は貫徹されたという。

秘密保護法制の本質をよく表している。権力にとって、「何が秘密かは、絶対に秘密」にしておきたい。漏洩されたもののすべてを事後的に秘密として処罰できたら、便宜この上ない。これによって十分な威嚇効果を狙えることになるから。しかし、その権力の欲求は国民の権利保障と真っ向から対立する。「何が秘密なのかは秘密」では、国民は安心して暮らせない。国家権力と人権とが、真正面から切り結んでいる局面だ。もちろん、何が秘密と分かったから、問題がなくなるわけではないが、不意打ちは避けられる、そしてその不当を論じることは最低限可能となる。一切の秘密保護法制は、ないに越したことはない。少なくとも、秘密を拡大し、重罰化することには絶対に反対だ。

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  『夏の逆襲』
いよいよ秋か、と安心させておいて、また暑さがぶりかえした。草刈りを少々したら、汗が噴き出て、全身水をかぶったよう。熱中症にならないように用心、用心。
アオカラムシが背丈より高く、猛々しく茂り、芥子粒まみれの小さなボールのような花をつけている。雑草は花が種になる前に刈らなければと思うが、毎年、絶対間に合わない。このアオカラムシは、古く、皮を剥いで繊維をとって布に織った。だからスパッと切れないで皮が繋がっているときは、皮がツーとむけてくる。根が縦横無尽に這い回って、いくら刈っても、丈夫で根絶ができない。いつの間にか野生化したというけれど、どだい畑に閉じ込めておくのは不可能なほど精力旺盛だ。布のない昔には大切な植物だったろうが、今はただの困りもの。

こぼれ種で毎年はえてくる青シソも花穂を出して、ポチポチと白い花をつけはじめた。柔らかいところを摘んで、キューリとキャベツと一緒に浅漬けにする。シソの香りがプンプンする特上の漬け物ができる。刺身のつまにしたいところだが、刺身がない。
イノコズチも花穂のまわりに下向きの小さなカギ針のような緑色の花をいっぱいつけている。これはすぐに固いカギ(種)になって、ズボンの裾にゾリゾリとくっついてくる。振るったぐらいでは落ちない。ひとつひとつ手で摘まんでとらないと、中へ中へと進入して、チクチクと痛い。これは繊維にもならないし、漬け物にもならないし、本当の役立たず。
クズの赤紫の花が濃厚な甘い匂いを振りまいている。ヤブカラシも平らな傘のような花を開いている。両方とも樹木のてっぺんをビッシリ覆って、太陽を独り占めしている。下になった木は弱虫なら枯れてしまう。カットしたいところだが、どちらもカラスアゲハの蜜源。自分のテリトリーを守って、フワフワと行ったり来たりしているので、しばらく刈るのはお預け。

ピンクと黄色のナツズイセンが花盛り。ヒガンバナのクリーム色の花穂はまだ雑草の陰で、10センチぐらい。草と一緒にザクリと刈ってしまって、ズキンと胸が痛む。一週間後の彼岸の頃にはあっという間に茎を伸ばして、花を咲かせるだろう。ナツズイセンもヒガンバナも花が咲くときは、地面から花茎がスーッと立つだけで、葉は全くない。花が終わってから、おもむろに葉っぱが地面から出てきて、冬中青々と繁っている。だから「葉見ず、花見ず」といわれる。ヒガンバナの球根は丈夫で、いくらでも殖えて、花の時期に真っ赤な絨毯のように花いっぱいにするのは簡単。あんまりたくさん咲いているとありがたみが薄れるけれど、1本の花を取り出してみれば、これほど豪華な花はない。スキッと伸びた緑色のストローのような茎のてっぺんに、細くクルリと巻き上がった6弁の真っ赤な花がグルリと6,7個つく。おのおのの花からは、赤い蘂が7本づつ長く突き出る。観音様の頭を飾る花かんざしのようだ。きれいな花なのに、田圃の畦や墓場のような場所で、放っておいても秋になるとたくさん咲くので、大切にされない損な花。

まだまだ夏草がむせかえるほど繁茂している。新聞に楢葉町の除染したあとの田圃の写真がのっている。見渡す限り一面の草原に変わってしまった田圃に、草刈り機を持って呆然と立つ男性が写っている。草を刈っても作物は作れないのだろう。隅々まで気配りをして、大切にしてきた田圃や畑で農業が営めなくなってしまった喪失感や無念さが伝わってくる。あぜ道に咲く花に心配りしながら、収穫の期待に汗を流す無上の喜びは何にも代えられない。誰が3・11の前にかえしてくれるのか。

それなのに、政治家はいとも簡単に、「私が解決します。責任をもちます」なんぞと言う。そんな口先の大見得を切るよりは、今、目の前にくり広げられているフクシマの惨状に少しでも切り込む努力を見せてくれ。福島第1原発の漏洩汚染水の放射線量は、遂に1リットル当たり13万ベクレルのトリチウム(3重水素)検出と発表されているではないか。
まずこれを何とかしてくれ。責任の取り方を見せてくれ。それが出来ないなら、将来も責任などとれっこないではないか。
(2013年9月14日)

軍機保護法の悪夢

日本ジャーナリスト会議(JCJ)が、昨日(9月12日)付で「特定秘密保護法案に反対する声明」を発表している。全文は、http://jcj-daily.seesaa.net/でお読みいただきたい。

さわりは、以下の2パラグラフである。
「当然報道関係の取材が処罰対象にされかねず、報道の自由に大きな影響を与え、国民の知る権利が制約されることになる。」
「私たちは、戦前の政府と軍部が『軍機保護法』などで国民の目と耳をふさぐことによって、侵略戦争の道に突き進んでいった苦い経験を忘れるわけにいかない。安倍内閣が明文改憲だけでなく、法律を変えたり作ったりする中で、実質的に改憲の道を進めようとしている状況の下で、この特定秘密保護法の策動を許すわけにはいかない。」
そして、「国民の皆さんがこぞって、この法案への反対に立ち上がってくださることを改めて呼びかける」と結んでいる。

改めて、「軍機保護法」に目を通してみる。
1899(明治32)年7月の公布で、1937(昭和12)年に全部改正され、軍国主義を支える法律となった。ということは、がんじがらめに国民生活を規制した。全文21か条。最高刑は死刑。終戦直後に廃止されている。

軍機保護法第1条は、「本法ニ於テ軍事上ノ秘密ト称スルハ作戦、用兵、動員、出師其ノ他軍事上秘密ヲ要スル事項又ハ図書物件ヲ謂フ」。要するに、軍隊のすべてが軍事上の秘密である。1条2項「前項ノ事項又ハ図書物件ノ種類範囲ハ陸軍大臣又ハ海軍大臣命令ヲ以テ之ヲ定ム」。陸海軍大臣は何でも機密に指定することができる。

第2条が、「軍事上ノ秘密ヲ探知シ又ハ収集シタル者ハ六月以上十年以下ノ懲役ニ処ス」。これで、ジャーナリストは、一網打尽となる。まさしく、「国民の目と耳をふさぐことによって、侵略戦争の道に突き進んでいった苦い経験を忘れるわけにいかない」。

秘密保護に関する法律の恐ろしさの本質は、「何が秘密かは秘密」であることにある。何が刑罰に触れる行為であるのか、事前には分からない。この点、今回の秘密保護法もまったく同じ。当然に、処罰を恐れてメディアは萎縮する。国民の知る権利が、侵害される。権力には好都合なのだ。

この法律が、天気予報をなくした。港湾の写真撮影を禁止した。地震の被害の発表も許さなかった。空襲の被害についてもだ。

作家山中恒に、「暮らしの中の太平洋戦争」(岩波新書)という著作がある。この中に、防衛総司令部参謀陸軍中佐・大坪義勢なる人物の、空襲被害の「おしゃべり禁止」訓辞が引用されている。権力を握る者の情報秘匿に関するホンネを語ったものとして貴重な資料である。

「日本の国民が直さなければならないのは、お喋りを止めることです。何でもかんでも、真相をつかまずしゃべることはやめてもらいたい。真相を発表することが、よい悪いとの問題を抜きにして、絶対にお喋りはやめて欲しい。これが第一です。

次に何故(空襲被害に関する)真相を発表しないかという問題は、日本国民に対して大いに発表したいのですが、…日本でいわれたことは筒抜けです。だから、日本国民に対してもいえないのです。向こうとしては、知りたくてたまらないでいるわけですが、日本が真相をいわないので、ホトホト弱り抜いています。何とかわかれば、今度はこの手で行こうと、いろいろ新手を考えるのですが、日本が何ともいわないので、閉口頓首しているのがアメリカの状態です。将来何とか、国内にだけ知らせて、外国へ知らせないという方法をとりたいのですが、それは百年くらいしないと出来ないと思う(笑声)。現在は、日本人に知らすことは、全部外国へもれてもよいという心得でやらねばならないのです。

外人にもれることを覚悟していなければいえない。空襲の真相は、更になお効果的な空襲をお願いしますと、相手に頼む場合にのみ、発表すべきです。だから、真相は発表すべからざるもの、従って国民は絶対に想像でものをいわないこと、黙って政府のやり方について行くことにしたい。」

古来、為政者の本音は、「民は由らしむべし。知らしむべからず」である。論語の原義は正しくは「可(べし)」を可能の意味に読むのだそうだが、それでは面白くも可笑しくもない。当為の意味に読んで初めて気の利いた警句になる。

今も昔も、東も西も、国家から小グループまで、情報を握る者が権力を握る。権力のあるところに情報が集中し、情報のコントロールによって権力は自らを維持し肥大化させる。

「空襲の被害を受けた国民が、被害の規模を知る必要はない。つべこべ被害状況などおしゃべりしてはならない。黙って政府のやり方について来い」。これが為政者の本音である。

9月3日に公表された、「特定秘密の保護に関する法案の概要」の中に、〔知得〕という耳慣れない用語が出てくる。「特定秘密の提供を受けて合法的に『特定秘密を〔知得〕した者』が秘密を漏らせば懲役5年の刑を科す」とされており、「国会議員や関与した国会職員も処罰されます」(12日付赤旗解説)、というもの。この〔知得〕という用語は、軍機保護法の21か条の条文の中で5回繰り返されている「頻出用語」なのだ。

安倍晋三にとっては垂涎の「軍機保護法」。さすがに、そのままの形では法案化できない。できるだけ、これに近づけて、「由らしむべし、知らしむべからず」の法律を作りたいのだ。

私は、徹底してこれに抵抗したい。民主々義社会においては、行政情報は全国民の共有財産である。為政者に独占させてはならない。

ところで、昨日のブログで秘密保護法反対のパブコメをお願いしたところ、「さっそく、パブコメ送信しました」と連絡してくれた方、本当にありがとうございます。励まされます。ぜひ、さらに広めてください。
(2013年9月13日)

秘密保護法に反対のパブコメを

本日のブログは、伏してのお願い。

9月3日、「特定秘密保護法案」の概要が公表され、同時に2週間の期間を区切って、パブコメの募集がなされている。締め切りが9月17日。ぜひとも、パブコメを提出していただくようお願いしたい。

「特定秘密保護法案」は、これまで「秘密保全法」と言われてきたもの。正式には、「特定秘密の保護に関する法律案」だが、長い、言いにくい。「秘密保護法」「秘密保護法案」でよいだろう。

パプコメは大事だ。選挙権の行使と並ぶ国民意思の表明手段だ。数がものを言う。長いものである必要はない。反対の意思がきちんと表明されていれば、1行でもよい。もちろん、自分の意見として理由が添えられていれば、それに越したことはない。理由は独自のものである必要はない。考えあぐねて時期を失するよりは、ぜひ簡明な意見を送信していただきたい。

例えば、次のような意見でよいと思う。もちろん、組み合わせても、自分流にアレンジしていただけばありがたい。
*私は特定秘密保護法案の国会上程に反対します。
*私は、秘密保護法の成立に絶対反対です。
*私は、もっと行政公開を進めて、国民に対する行政の透明性確保こそが重要と思っています。これ以上秘密を増やし、厳重に秘密を保護することは、これに逆行することで、絶対に反対です。
*第1に考えるべきは、国民の知る権利です。沢山の秘密を作ることで、国民の知る権利を侵害することには反対せざるを得ません。
*日本国憲法は、平和主義を掲げています。厳罰で国防秘密を守ろうとすることは、9条改正と自衛隊の国防軍化の布石としか考えられません。平和憲法を大切に思う立ち場から、特定秘密保護法の成立に反対します。
*憲法9条は、国家に軍隊の保有を認めていません。にもかかわらず、防衛に関する事項として、自衛隊の装備や編成のすべてが秘密にされ、刑罰によって秘密保持を強制することはどう考えても納得が出来ません。反対します。
*自衛隊の装備に関する見積もりが、秘密になるようです。自衛隊の装備納入についての不正が摘発されていますが、今後は汚職が秘密の壁に守られることになります。どうしても反対です。
*もし、こんな法律ができたら、原発も、TPPも、オスプレイの導入も、何もかにも国民の目の届かないところで、政府が勝手なことをやるに決まっています。そんなことを、私は認めません。
*秘密保護の法律は、結局何を秘密にするかも秘密になってしまいます。国民は、何が秘密か分からぬうちに、思いがけない処罰を受けることになりかねません。
*適性評価という新設される制度では、民間人も含め秘密を扱う人とその家族について、徹底的に身辺調査が行われます。思想信条や信仰までも調査対象となることが予想され、国民に対する国家管理の強化が進むことになります。到底認めることができません。
*2週間のパブコメ募集期間は短すぎます。もっと長くしてください。そして、「概要」ではなく法案の成案ができたところで、再度パブコメ募集をしてください。

パブコメの提出先は「内閣官房内閣情報調査室・意見募集係」
提出方法は、
*電子メール(送信先アドレスはtokuteihimitu@cas.go.jp)
*郵送(宛先は〒100-8968 東京都千代田区1-6-1)
*FAX(番号は03‐3592‐2307)
期限は、9月17日(火)必着(郵送の場合は同日消印有効)

もっとも簡便なのは、下記のURLを開くと、
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=060130903
意見提出フォームが出て来る。
これに、意見を書き込めばよい。住所氏名欄もあるが、必須ではない。

秘密保護法は、防衛・外交・スパイ・テロの4分野の秘密を「特定秘密」に指定して管理する。漏洩には厳罰(最高刑懲役10年)を科すことで、国民の目から秘密を守ろうとするもの。本格的な「戦争のできる国家」作りの一環である。国家安全保障基本法や日米ガイドライン改定などとセットになっている。

法案は、10月半ばから始まる臨時国会に提出必至と言われている。万事多端な秋の臨時国会最大の問題となりそう。重ねて、「秘密保護法反対」のパブコメを。

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  『園芸家12カ月』(カレル・チャペック著 中公文庫)
「花の栽培家のところへ来る客は、カラーや金物を売る店に来る客とちがって、ほしい物を名指して、金をはらって帰っていくのではない。栽培家のところへ来る客は、雑談をしに来るのだ。この花の名は何というのか、あの花の名は何というのか、それを聞きに来るのだ。去年君のとこで買ったミヤマカラクサナズナがおおきくなったよ、と知らせに来るのだ。ハマベンケイソウが今年やられちゃったよ、と訴えに来るのだ。そして、何か新しい物があったら見せてくれろ、と頼みに来るのだ。ルードルフ・ゲーテとエンマ・ベダウと(つまり、この2種類のアスターのうちの)どっちがいいか議論をしにやって来るのだ。そして、ゲンティアーナ・クルシーは、粘土質の土とピートとどちらが育ちがいいか、議論をしにやってくるのだ。
いろいろとそんな話をしたあとで、客は新しいアリッサムを一鉢(しかし弱ったなあ、いったいどこに植えたもんだろう)とデルフィニウムを一株(うちにあるやつはウドンコ病ですっかりだめになってしまった)と、それから鉢を一つ選び出す。しかし、いったいその鉢に植わっているものが何であるかという問題で、客と栽培家は意見が一致しない。こうして2,3時間、有益な、大事な会話で時間をついやしたあげく、客は商売人でない男に1マーク(約86円)か2マークの金をはらう。それっきりだ。それでいてそういう栽培家は、ガソリンの匂いをプンプンさせて自動車をのりつけ、いちばん高級の、第一級品という花だけ60種類選んでくれたまえと注文する客より、まだしも君のようなうるさ型のほうを歓迎するのだ。」

今はこんな花屋さんは滅多にいない。しかし、あったんですよこんなお店。
この間、「お宅は日本橋三越のチェルシーガーデンよりバラ部門が充実していますね」と話が一致して、イングリッシュローズについてだいぶ込み入った話を1時間ばかりしてきた。同じピンクのカップ咲きでも、「ヘリテージ」は「クィーンズ・オブ・スウェーデン」の愛らしさには叶わない。「レディ・エマ・ハミルトン」のオレンジは「レディ・オブ・シャーロット」に較べて、深まりゆく秋にふさわしい。「クレア・オースチン」のミルラ香は「セプタード・アイスル」より深みがある。鉢植えかコンテナなら、花が小ぶりだけれど色と香りがすばらしい「サマー・ソング」か「スカイラーク」につきる。オベリスクかアーチに這わせるつるバラなら、右からピンクの「ガルトルート・ジェキル」を、左からクリーム色の「ティージング・ジョージア」が咲いたら夢のようだ。
だいたいこんな話をして、何も買わずに帰ってきました。お店の御主人は大変喜んでいたようでしたが、悪かったかしら。
(2013年9月12日)

「普通のおばさん」発言の波紋

本日の「毎日・仲畑流万能川柳」欄の秀逸句は、
  女医さんとわざわざ言うのなんでだろ(北九州 森友紀夫)
というもの。

かつて、女性医師は珍しい存在だった。「医師」の中に、医師とは独立した「女性の医師」の存在感があった。「女医」「女医さん」には、人それぞれに、また場面々々で、いろんなニュアンスがあろうが、差別的な意味合いは感じられない。

日本最初の女性医師・荻野吟子の生涯が渡辺淳一の小説『花埋み』に詳しい。萩野は最初の夫からうつされた淋病の治療を受けた際に、男性医師からの診療を恥辱としたことを契機に医師を志したという。イスラム世界の一部では、いまだに女性患者が男性医師に肌を見せてはならないとして、女性医師が不可欠だとのこと。現在の日本でも、同性医師の診療を受けたいという患者の要請はあるのではなかろうか。その意味では、「男医」「女医」の属性の意味はあるだろう。

法曹の世界では、医療の世界に比較すれば、性別に特有の問題はずっと少なく、協働したり相手方となる弁護士の性別を意識することはほとんどない。しかし、女性の権利を救済する法的手続に「女性弁護士」の存在意義はいまだに大きい。

男女間に素質的な能力差のないことは当然なのに、作曲家に女性が少なく、まだ将棋連盟のプロのレベルに女性が届かないなど、生育期の環境による女性のハンデは否定しえない。そのような現状において、医師や弁護士以上に、裁判官は女性に向いている職業だと思う。

力ではなく権威でもなく、純粋に理念と論理をもって人を説得しなけれはならない司法の世界において、「女性裁判官」は所を得た存在だと思っている。性別にかかわらず、裁判官の力量や人柄は、法廷で対峙する弁護士からは公平な評価を受けている。私の思い込みかも知れないが、女性裁判官は、男性裁判官に比較して出世への意欲が希薄で、まともな判決を書いてくれる期待が高い。もっとも、今のところは、ということかも知れないが。

最高裁裁判官は長く男性ばかりの世界だったが、わずかながらも女性裁判官の選任が増えてきた。ようやく、今年になって三つの小法廷に一人ずつの女性裁判官が在籍することになった。第二小法廷5名の裁判官のうちの一人が、鬼丸かおる氏。東京日の丸訴訟(2次訴訟)の上告事件で裁判長を務め、9月6日の判決言い渡しの際に初めてお目にかかった。

鬼丸裁判官の憲法判断は、「日の丸・君が代強制は間接的な思想良心の侵害と認められるが、間接侵害に過ぎないから緩やかな違憲審査基準に基づいて合憲」とする従来の判断を踏襲するもので、この点は不満の残るところ。

だが、貴重な補足意見を書いてくれた。前任の須藤正彦裁判官の補足意見に比較すればもの足りなさは残るものの、「都教委に対して謙抑的な対応を求めるとする」立派な内容。不起立・不伴奏の教員の気持に寄り添う裁判官の心情あふれる補足意見に、辛うじて闇夜に遠くの燈火を見た思い。

このことを報告する集会の席上で、私は、「原告教員たちの真摯さや、悩みや、勇気が伝わって、裁判官の気持を揺さぶった」とした上、この原告の気持を受けとめ理解してくれた鬼丸裁判官を評して「普通のおばさんの感覚」と表現した。

永六輔が自分を「男のおばさん」と呼んでいるあの感覚の「普通のおばさん」。自分では肯定評価の感覚だった。むしろ褒め言葉。なによりも、最高裁裁判官の権威を否定して、彼ら彼女らにも、普通人の感覚が通じないはずはないことを強調したかった。「普通のおばさん」とは、そのような心情の通う女性。しかし、この発言は評判が悪い。事後に何人かの人から、「あの発言はまずい」と注意を受けた。

「仲間として忠告をする」というニュアンスのものもあり、叱責をするニュアンスのものもあった。発言も難しいが、注意はもっと難しい。注意を受けて、さてどう「反省」するかはさらに難しい。

まだ、考えて続けている。自分に女性を軽んじる意識があるのだろうか。私は弁護士出身の女性裁判官だから、「普通のおばさん」と言ったのだろうか。確かに、一次訴訟判決のときには、違憲判決を書いてくれた宮川光治裁判官には「普通のおじさん」と表現した報告はしなかった。しかし、あれはとても「普通」のレベルではなかったからだ。それ以外の裁判官は、「普通」のレベル以下だった。

普通のレベルで、原告らの心情に寄り添った意見を寄せてくれた男性裁判官に遭遇していれば、「普通のおじさん」と言っただろうか。「おばさん」発言もとっさのことで、「おじさん」発言があったかどうかは分からない。「おばさん」には気持が通い合うイメージがあるが、おじさんにはそれがないからかも知れない。

人の発言に厳しい私だ。自分の発言に、忌憚のない意見をもらうのはありがたい。もう少し、「普通のおばさん」と発言した自分の気持と向かい合い突きつめてみたい。
 
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   『ムスリム世界の女性たち』
パキスタンのマララ・ユスフザイさんは女性の教育を受ける権利を主張して、タリバンから瀕死の重傷を負わせられた。しかし、「イスラームの日常世界」(片倉もとこ著 岩波新書)によると、ムスリム世界すべてが女性差別世界ではないという。1991年出版の著書であるし、サウジアラビアやエジプトなどの豊かに見えるムスリム社会について書いてあるのでパキスタンの状況とは異なるのだろうか。同著には以下のように書いてある。

イスラム教の開祖・ムハンマドは、大実業家で15歳年上の女性に見初められて結婚した。ある日、突然神の啓示を受けたムハンマドはびっくりして、うちに戻り姉さん女房の膝にしがみついて震えたという。しかし妻に励まされて、妻と共にイスラム布教のかずかずの迫害を戦った。妻以外にもイスラム史上の数々の闘いに名を残した女性たちの活躍が、イブン・サアドの「ムハンマド伝」に記されている。「イスラム勃興に女性の力あり」である。黒いベールの陰で抑圧されている女性という印象は全く間違っている。

ムスリム社会では、妻は固有の財産を持っている。夫婦は別々の財産を持つものとされ、家畜にいたるまで、「あの羊たちとこの山羊たちはわたしのもの」といった風に、所有権がはっきりしている。仕事を持ったり、政治に進出している女性もたくさんいる。生活費は、すべて夫の義務とされるので、仕事を持っているいないにかかわらず、妻の方が金持ちな夫婦が多い。「あれは誰の住まいか」ときくと、そこに住んでいる男性の名をあげて、「ハッサンの家だよ」という答えが返ってきても、実は、妻の所有だということが間々ある。夫所有の家に同居している妻が多い日本と全く逆である。このように所有の取り決めが明確ならば、先日、日本で最高裁判決が出た婚外子の相続の問題も解決が容易なのにと思う。

結婚もイスラム法にはひとりの男とひとりの女の間でなされる契約だとはっきり宣言されている。結婚契約に当たっては、男から女に支払うハルマ(結納金の額)、および離婚の時に支払うハルマの額が取り決められる。離婚の時のハルマは結婚時のハルマよりはるかに多額であって、離婚保険ともなっている。

ムスリム世界で許される一夫多妻も、イスラム法で妻を「公平に扱うなら」という条件がついているので、実際には、物質的、精神的、肉体的に不可能なことである。一般の男性の間では「2人の女を妻にするのは、両手に炭火をにぎるようなもの」といわれて、実際にははやらないらしい。

ムスリム社会では「男の社会」と「女の社会」が厳格に別れているが、両者の間には上下差はない(本当だろうか)。女性は「男の世界」へ乗り出していかなくても、「女の世界」があるので、社会的活動は十分できる。女性の学校には女性の教師が必要で、「女の先生は頼りない」などというそしりは全くない。女性は病気の時、女医に見てもらうほうがいい(親族以外の男性との接触は禁止されている)ので、医学部の半分は女子学生である。看護婦と看護夫も半々である。女性専用の銀行もあり、店長以下すべて女性で、お客も女性である。

想像もつかない社会だ。女子大学がそのまま社会になったようでもある。この著書の扱っている社会はサウジアラビア、エジプトなどの豊かな生活である。そこで満足している女性も確かにいるだろう。自動車の運転を禁じられているサウジの女性はどう考えているのだろう。

貧しい国のムスリム女性の生活はどうなのか。バングラディシュのグラミン銀行を中心になって運営しているのは女性だ。そもそもグラミンが女性の権利獲得の社会運動である。夫婦の間に分けるほどの財産がなければ、結婚契約など意味もない。医療が国中に普及していなければ男医だの女医だの分ける意味もないし、女子どもは医療に接することもできない。

90年代以降のイラン・イラク戦争、湾岸戦争、イスラム原理主義の勢力拡張、「アラブの春」などの激動は、女性たちの生活や意識に大きな変化をもたらしたに違いない。今やイスラム人口は世界人口の約4分の1で16億人にも上る。8億人は女性だ。マララさんが主張するように、女性が教育を安心して受けられる社会が良いに決まっている。男女平等は人類共通の人権だ。女性と子どもに「エデュケーション・ファースト」を切に願う。
(2013年9月11日)

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