澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「イスラム国人質救援活動と特定秘密保護法」憲法学習会にて

「根津・千駄木憲法問題学習会」は、毎月1回の例会を10年間も継続していらっしゃるとのこと。その地道な活動に敬意を表します。

本日は、2月の例会に特定秘密保護法の問題点についてお話しするようお招きを受けました。自分なりに、考えていることをお話しさせていただきます。

☆本日の「毎日」新聞投書欄に『謙虚な気持ちで名誉挽回を』という60歳男性の投稿があります。
「ウクライナ東部の停戦合意…これこそ外交、これこそ政治家…。対照的なのが、イスラム過激派組織『イスラム国』人質事件での日本政府の対応のお粗末さだ。有効な手立てもなく、交渉力ゼロ、有能な政治家ゼロの実態を世界にさらけ出してしまった。安倍首相の施政方針演説も説得力に乏しく、上すべりしているように感じられる。まずは事件を総括して、非があれば隠さず、国民の批判を仰ぎ、謙虚な気持ちで名誉挽回の道を歩み出すべきだ」

日本中の誰もの思いをズバリと代弁してくれた感があります。不祥事が起こったときには、
  事実検証→総括→公表→批判→政策の改善→次の選挙での審判
というサイクルが作動しなければなりません。さて今回、はたしてこのサイクルが有効に作動するでしょうか。

大切なことは、この検証の過程が国民の目に見えるよう保障すべきこと。主権者国民は、暫定的に権限を負託した政府の行為を監視し批判しなければなりません。これに、障碍として立ちふさがるのが、あらたに施行となった特定秘密保護法。これまでは、言わば机上の空論だったのですが、今回初めて現実の素材が提供されたことになります。

既に、「岸田文雄外相は2月4日の衆議院予算委員会で、中東の過激派「イスラム国」とみられるグループに日本人2人が殺害された事件について、特定秘密保護法の対象となる情報がありうるとの認識を示した」と報じられています。

改めて、この間にシリアで起きたことを思い起こして、特定秘密保護法の別表とを見比べてください。「法」別表の第1号(防衛に関する事項)はともかく、第2号(外交関連)、第3号(特定有害活動=スパイ防止)、第4号(テロ防止)のいずれにも該当する可能性は極めて大きいといわざるを得ません。しかも、そのどれに該当するかも、指定があったかも明らかにされることはないのです。

権力の源泉は情報の独占にあります。政権を担う者は、常に情報を私物化し操作したいとの衝動をもちます。だから、情報の公開を義務づけることこそが重要なので、秘密保護法制は合理的で不可欠な、厳格に最低限度のものでなくてはなりません。

特定秘密保護法の基本的な考え方は、「国民はひたすら政府を信頼していればよい」「国民には、政府が許容する情報を与えておけばよい」ということです。そして、「情報から遮断される国民」には、国会議員も裁判官も含まれるのです。

これは民主々義・立憲主義の思想ではありません。国民は、いかなる政府も猜疑の目で監視しなければなりません。とりわけ、危険な安倍政権を信頼してはなりません。

情報操作(恣意的な情報秘匿と開示)は、民意の操作として時の権力の「魔法の杖」です。満州事変・大本営発表・トンキン湾事件・沖縄密約…。歴史を見れば明白ではありませんか。

☆特定秘密保護法の前史について、おさらいしておきたいと思います。
戦前の軍機保護(防牒)関係法として、国防保安法・軍機保護法・陸軍刑法・海軍刑法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などがありました。また、基本法である「刑法」の第83~86条が「通謀利敵罪」を規定していました。その他、治安維持法・出版法・治安警察法・無線電信法などが治安立法として猛威を振るいました。

ゾルゲと尾崎は、国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法の4法違反に問われて死刑となりました。なかでも、「最終形態としての国防保安法」(1941)は、軍事のみならず政治・経済・財政・外交の全過程を権力中枢の「国家機密」として「治安」を維持しようとするものでした。今回の特定秘密保護法は、処罰範囲の広さにおいてこれに似ています。

戦前の軍事機密法制は、国民に「見ざる。聞かざる。言わざる」を強制するものでした。「戦争は秘密から始まる」とも、「戦争は軍機の保護とともにやって来る」と言ってもよいと思います。

日本の国民は、敗戦によって身に沁みて知ることになりました。国民には正確な情報を知る権利がなければなりません。日本国憲法は、「表現の自由(憲法21条)」を保障しました。これはメディアの「自由に取材と報道ができる権利」だけでなく、国民の「真実を知る権利」を保障したものであります。

民主主義の政治過程は「選挙⇒立法⇒行政⇒司法」というサイクルをもっていますが、民意を反映すべき選挙の前提として、あるべき民意の形成が必要です。そのためには、国民が正確な情報を知らなければなりません。主権者たる国民を対象とした情報操作は民主主義の拠って立つ土台を揺るがします。戦前のNHKは、その積極的共犯者でした。

戦後の保守政治は、憲法改正を願望としただけでなく、戦前への復帰の一環として、防諜法制の立法化を企図し続けました。

たとえば、1958年自民党治安対策特別委員会「諜報活動取締法案大綱」、1961年「刑法改正準備草案」スパイ罪復活案、そして1985年国家秘密法(スパイ防止法)案上程の経過があります。国家秘密法案は、国民的な反撃でこれを廃案に追い込みましたが、その後の作土は続きました。

そして、特定秘密保護法制定の動きにつながります。2011年8月8日の「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議報告」が発端となりました。第二次安倍政権が、これを法案化して上程、2013年12月6日に強行採決して成立に持ち込みます。そして、2014年12月10日施行となりました。

☆特定秘密保護法は、戦前の軍事機密法・治安法の役割を果たすものです。
問題点として指摘されるのは、重罰化、広範な処罰、要件の不明確、秘密取扱者の適性評価などです。

何よりも、重罰による「三猿化」強制強化が狙いです。内部告発の抑止ともなります。
これまでの国家(地方)公務員法違反(秘密漏示)の最高刑が懲役1年です。自衛隊法の防衛秘密漏洩罪でも懲役5年。これに対して、特定秘密保護法違反の最高刑は懲役10年。しかも、未遂も過失も処罰します。共謀・教唆・扇動も処罰対象です。将来、更に法改正で重罰化の可能性もあります。

気骨あるジャーナリストの公務員に対する夜討ち朝駆け取材攻勢は、秘密の暴露に成功しなくても、未遂で終わっても、犯罪となり得ます。民主主義にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」の制度では、時の政府に不都合な情報はすべて特定秘密として、隠蔽できることです。国民はこれを検証する手段をもちません。国会も、裁判所もです。

さらに、国民にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」という秘密保護法制に宿命的な罪刑法定主義(あらかじめ何が犯罪かが明示されていなければならない)との矛盾です。地雷は踏んで爆発して始めてその所在が分かります。国民にとって秘密保護法もまったく同じ。起訴されてはじめて、秘密に触れていたことが分かるのです。

国がもつ国政に関する情報は本来国民のものであって、主権者である国民に秘匿することは、行政の背信行為であり、民主々義の政治過程そのものを侵害する行為であります。これを許しておけば、議会制民主々義が危うくなります。裁判所への秘匿は、刑事事件における弁護権を侵害します。人権が危うくなります。

法律は、国会で改正も廃止もできます。超党派の議員での特定秘密保護法廃止法案は昨年(2014年)11月に国会に提出されています。これを支援する国民運動の展開が期待されます。小選挙区下での現行の国会情勢では直ぐには実現できないかも知れません。しかし、訴え続け、運動を継続していくことが大切で、その運動次第で、運用は変わってくるはずです。ジャーナリストが最前線に立たされていますが、国民運動はその背中を押し、支えて励ますことによって確実に萎縮を減殺することができるはずです。

ジャーナリストの萎縮は、国の運命を左右する最重要な情報について、国民の知る権利を侵害することになり、国民に取り返しのつかない被害をもたらすことになりかねません。

まずは、学ぶことから、そして考え話し合うことから始めようではありませんか。
(2015年2月18日)

「朝日新聞元記者の名誉毀損訴訟事件弁護団」事務局長に対する業務妨害に関する会長声明

本日(2月17日)付で、標記の東京弁護士会会長声明が発表された。「朝日新聞元記者の弁護団」とは、現在北星学園大学の講師の任にある植村隆氏が今年1月9日に提訴した、文藝春秋社や西岡力氏らを被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の原告側弁護団のこと。その弁護団の実務を担っている事務局長弁護士の法律事務所に、いやがらせの悪質な業務妨害がおこなわれた。会長声明はこれを厳しく糾弾している。URLは以下のとおり。
 http://www.toben.or.jp/message/seimei/

 従軍慰安婦に関する記事を書いた朝日新聞元記者は現在週刊誌発刊会社等を被告として名誉毀損に基づく損害賠償等を請求する裁判を追行しているが、この裁判の原告弁護団事務局長が所属する法律事務所に、本年2月7日午前5時10分から午後0時27分までの間に延べ9件合計431枚の送信者不明のファクシミリが送りつけられ、過剰送信によりメモリーの容量が限界に達してファクシミリ受信が不能となる事件が起きた。ファクシミリの内容は、朝日新聞元記者に対する中傷、同記者の家族のプライバシーに触れるもの、慰安婦問題に対する揶揄などであった。

 この朝日新聞元記者に関しては、2014年5月以降その勤務する北星学園大学に対し、学生に危害を加える旨を脅迫して元記者の解雇を迫る事件が起きており、当会ではこのような人権侵害行為を許さない旨の会長声明(2014年10月23日付け)を発出したところである。しかし、その後の本年2月にも再び北星学園大学への脅迫事件は起きている。

 言うまでもなく、表現の自由は、民主主義の根幹をなすがゆえに憲法上最も重要な基本的人権のひとつとされており、最大限に保障されなければならない。仮に報道内容に問題があったとしても、その是正は健全かつ適正な言論によるべきであり、犯罪的な手段によってはならない。

 今回の大量のファクシミリ送信は、いまもなお朝日新聞元記者に対する不当な人権侵害とマスメディアの表現の自由に対する不当な攻撃が続いていることを意味するだけではなく、元記者の権利擁護に尽力する弁護士をも標的として、司法への攻撃をしていることにおいて、きわめて悪質、卑劣であり、断じて看過できない。

 当会は、民主主義の根幹を揺るがせる表現の自由に対する攻撃を直ちに中止させるため、関係機関に一刻も早く厳正な法的措置を求めるとともに、引き続き弁護士業務妨害の根絶のために取り組む決意である。
                        2015年02月17日
東京弁護士会 会長 髙中 正彦

植村氏の提訴は、脅迫や名誉毀損・侮辱、業務妨害や解雇要求の強要など、言論の域を遙かに超えた明白な犯罪行為の被害に耐えきれなくなっておこなわれた。朝日新聞社へのバッシングは、「顕名の言論」と「悪質卑劣な匿名の犯罪」とが、役割を分担し相互に補完して勢力を形づくっている。表部隊と裏部隊とが一体となることによって、「言論」が「実力」を獲得して強力な社会的影響力を発揮している。

顕名の言論に扇動された匿名の犯罪者たち。あるいは犯罪すれすれの名誉毀損や侮辱の言論を繰り返す、匿名に隠れた卑劣漢たち。その「実力」行為抑止の最有効手段として顕名者を被告とする民事訴訟が決意されたのだ。その訴訟に対する匿名者の悪質な業務妨害行為は、顕名部隊と匿名部隊の一体性を自ら証明するものと見るべきであろう。

著しい非対称性が明白となっている。植村氏の言論(20年前の記者としての記事)に、すさまじい実力によるイヤガラセがおこなわれた。これを抑止しようとする植村氏の提訴の弁護団にまで卑劣な妨害行為がおこなわれる。これがリベラルな言論に対する右翼勢力(排外主義派)からの実力妨害の実態である。

一方、右翼言論に対するリベラル派からのこのようなイヤガラセも実力行使もあり得ない。右翼勢力が原告を募集して「対朝日新聞・慰安婦報道集団訴訟」を起こしているが、この原告側弁護団への業務妨害行為などはまったく考えられない。リベラル派は、本能的に匿名発言を恥じ、卑劣行為を軽蔑する。右翼勢力は、これに付け入るのだ。

植村氏の提訴に対して、「言論人であれば、言論には言論で反論すべきではないか。提訴という手段に至ったことは遺憾」という、したり顔の批判があったやに聞く。現実をありのままに見ようとしない妄言というべきだろう。せめてもの対抗手段として有効なものは提訴以外にはないではないか。

そもそも「言論対言論」の応酬によって問題の決着がつけられるという環境の設定がない。武器対等者間での言論の応酬などという教科書的な言論空間が整えられているわけではない。排外主義鼓吹勢力が、虎視眈々と生け贄を探しているのが、実態なのだ。思想の自由市場における各言論への冷静な審判者が不在のままでの、「言論には言論で」とのタテマエ論の底意は透けて見えている。卑劣な実力を背景にした強者の論理ではないか。

このような事態に、理性に裏打ちされた弁護士会の機敏な声明はまことに心強い。弁護士会は、いつまでも、かく健全であって欲しいと願う。
(2015年2月17日)

「今の組長、筋目を外しているんじゃござんせんか」

高倉健が亡くなって懐かしむ声が高い。
彼は、ヤクザ映画で売り出した俳優。さすがに、ヤクザ、暴力団、博徒、テキ屋などという言葉は避けて、映画資本は「任侠」という言葉を選んだ。その任侠映画シリーズの花形鶴田浩二の弟分という役回りで、高倉は大衆の支持を得た。

現実の暴力団・博徒集団は、民衆の嫌われ者である。右翼組織と一体化して、政治権力や企業の手先ともなった。安保反対のデモ隊にも三池争議のピケ隊にも襲いかかった野蛮な憎むべき輩。それが、映画では美化されて民衆の喝采を得た。

アウトローや反権力は、民衆の憧れとなる一面をもっている。スパルタカス、水滸伝、ロビンフッド、カリブの海賊、アルセーヌルパン、アテルイ、平将門、国定忠治…。政治権力や社会秩序の圧力が重苦しいと感じる多くの人々の願望と空想の中で、偶像化された反逆児が自由人として羽ばたいた。あるいは、社会秩序からの自由を求めながら結局は挫折する者の生き方の美学が多くの人に受けいれられた。

それだけでなく、鶴田浩二や高倉健の世界では、民衆の道徳が語られたのではないだろうか。「弱きを助け強きを挫く」のがその動かしがたい基本。弱き立場の民衆は、これを支持した。「強きに与して」の「弱い者いじめ」は、最も恥ずべき卑怯な振るまいとして醜く描かれた。

そして、常に「筋目」を通すことが語られた。「義理」や「仁義」に外れることが嫌われる。嘘をつくこと、策略で人を陥れることは専ら悪役の役所。任侠映画は、意外に健全な民衆の道徳観に支えられていた。

安倍晋三という役者は、どうやらこの典型的な任侠道に大きく外れた悪役を演じているのではないか。筋目を外して、「強きに与して強い者いじめ」ばかり。高倉健に喝采を送った民衆が、これからも安倍晋三を支持するとは考えにくい。

本日の赤旗を引用する。「野中広務元自民党幹事長が、15日放送のTBS『時事放談』で、安倍首相の政治姿勢を厳しく批判した」というもの。その批判が、「安倍は、保守の筋目を外している」という、老ヤクザ、いや任侠の言に聞こえる。

「首相の施政方針演説について野中氏は、『昭和16年に東条英機首相の大政翼賛会の国会演説のラジオ放送を耳にしたときと変わらない』『重要な部分には触れないで非常に勇ましい感じで発言された』と述べました。

沖縄県辺野古への米軍新基地建設を民意に背いて強行する姿勢については、『沖縄を差別しないために政治生命を懸けてきた1人として、絶対に許すことができない。県民の痛みが分からない政治だと思い、強く憤慨している』

また来年度予算案について『防衛費だけ増えていく、そういう国づくりが本当にいいのか』と疑問を投げかけ『一番大切な中国の問題、韓国の問題を正面から捉えようという意欲がないのではないか』と指摘しました。最後に『私は戦争をしてきた生き残りの1人だ。どうか現役の政治家に“戦争は愚かなものだ”“絶対にやってはならない”ということを分かってほしい』と訴えました。」

先代親分の代貸しが、老いの身でこう呟いているのだ。
「今の組長は、筋目をはずそうとしていらっしゃる。ふたたびの出入りはしないことを誓っての組の再出発だった。これこそが筋目だということをもうお忘れか。

先の出入りを知る者も少なくなった。勇ましい言葉は組を滅ぼすこととわきまえてもらわなくてはならない。今の組長のやり方は危なっかしくって見ちゃいられない。

隣の組とは腹を割って話し合わなくっちゃならない。その懐の広さが、親分の親分たる力量の見せどころ。ところが、今の組長は貫禄に乏しく、セールスはできても、手打ちのための話し合いができない。これじゃダメだ。

そして、なによりも弱いものの立場に立って親身になってこその任侠道ではないか。いじめられている者を、かさにかかって痛めつけるようでは、任侠道もおしまいだ。今の組長、道に外れている。

それに嘘をついてはいけない。大事なことを言わないのは嘘なのだ。大事なことは言わずに、些細なことを大袈裟に言うことで組員を騙し、組の外にいる人々との緊張を高めて、最後は出入りにもっていこうとしている。

これは、先の出入りの前の時代とよく似たやり方だ。今の組長のじいさまの代が、そんなことをやって組を壊滅の寸前までもっていったのだ。私は強く危惧し憤慨している。また同じことを繰り返してはならない」
(2015年2月16日)

東京弁護士会役員選挙結果紹介 - 理念なき弁護士群の跳梁

本年2月2日の当ブログに、東京弁護士会の役員選挙事情を掲載した。「弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか」というもの。投票日(2月6日)直前の記事だったので、選挙結果の報告もしなければなるまい。

下記は、東京弁護士会の役員選挙についての、同会ホームページの紹介である。公式の報告だから無味乾燥。外部から注目を惹くところは皆無。せいぜい、「公式ホームページで元号ではなく西暦が使用されているのか」という程度だろう。

2015年度東京弁護士会役員選挙結果について(2015年2月9日)
2015年度東京弁護士会役員等選挙の投票及び開票が2015年2月6日(金)に行われました。同日、東京弁護士会選挙管理委員会において開票結果を確定し、以下の者を当選者と決定しました。

2015年度東京弁護士会役員選挙 結果
会長選挙  当選者
      伊藤 茂昭 (いとう しげあき)
副会長選挙 当選者(弁護士登録年月日順)
      森    徹 (もり とおる)
      佐藤 貴則 (さとう たかのり)
      渡辺 彰敏 (わたなべ あきとし)
      大森 夏織 (おおもり かおり)
      中嶋 公雄 (なかじま きみお)
      湊  信明 (みなと のぶあき)
監事選挙  当選者(無投票・弁護士登録年月日順)
      吉村 誠 (よしむら まこと)
      鹿野 真美 (しかの まみ)
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これに、もう少し情報を加えると、弁護士会事情が多少は見えてくる。

Ⅰ 会長選挙
  当選   伊藤茂昭 3665票 (法友会)
  落選   武内更一  758票
Ⅱ 副会長選挙
  当選 1 湊 信明  909票 (法友会)        
  当選 2 大森夏織  795票 (期成会)        
  当選 3 渡辺彰敏  718票 (法友会)   
  当選 4 森   徹  635票 (法曹親和会・東京法曹会)
  当選 5 佐藤貴則  593票 (法曹親和会・二一会)  
  当選 6 中嶋公雄  522票 (法曹親和会・大同会)  
  落選   赤瀬康明  305票              

法友・親和が東弁の二大会派である。会派とはインフォーマルな派閥のこと。選挙人事は派閥が取り仕切っている。二大派閥による人事壟断に異を唱え、東京弁護士会民主化を掲げて誕生したのが期成会。私もその会員の一人だが、今では既成派閥の一つになったと見る人が多いようだ。各派閥は、それぞれに研修もし親睦も重ねて親密化している。そして、微妙なバランスで、役員選挙を取り仕切っている。会長候補の武内と副会長候補の赤瀬が、この微妙なバランスの外にある。もっとも、この両者はイデオロギー的には正反対の存在。

2月2日ブログに書いたとおり、私が最も注目していたのは、赤瀬康明候補の当落だった。落選したことは、まずは目出度い。しかし、この305という得票数をどう見るべきか。歯牙にかける必要もない少数集団と見てよいのか、泡沫候補と看過し得ないと危機感をもつべきなのだろうか。微妙なところ。

会長・副会長立候補者9名のうち、赤瀬を除く8名は、とにもかくにも弁護士や弁護士会の理念を語っている。会長戦に敗れた武内更一がその熱さにおいて筆頭であるが、いずれも弁護士の使命を語り、その弁護士の使命を全うするための弁護士会のあり方について所信を述べている。赤瀬だけにそれがない。むしろ、「弁護士会を任意加盟にせよ」「弁護士自治など必要はない」「弁護士会の公益活動など無用」「人権擁護活動よりは、会費を安くせよ」という。理念派ではなく、非理念派。真面目派に対して非真面目派。彼と、これを支持した300名にとっては、弁護士とは公益業務ではなく、ビジネスなのだ。弁護士の役割や使命への自覚はなく、専ら経営の安定だけが関心事と見える。

2009年には、赤瀬が所属する弁護士法人(「アデイーレ」)の所長・石丸幸人が東弁会長選挙に立候補して惨敗している。それから6年、弁護士は増員となったが、赤瀬の票は殆ど増えていない。今のところは、理念派が持ちこたえている。

今の世を席巻している新自由主義は、司法界にも押し寄せている。全てを市場原理に委ねて何が悪い、という開き直りである。1999年7月に内閣に「司法制度改革審議会」が設置されて本格化した「司法改革」の基調は、この新自由主義にあるというべきであろう。

企業が求めているのは、面倒な理念など持たない、使い勝手のよい安価な「法技術提供者」である。そのような弁護士の大量創出こそが「司法改革」の名で語られた。いま、その需要に応えた弁護士群が育ちつつあるのだ。主観的にはともかく客観的には、彼らは司法改革を推進した財界に弁護士会の内側から公然とこれに呼応する勢力である。警戒を緩めてはならない。
(2015年2月15日)

「日の丸・君が代」強制と闘う意義ー卒業式直前原告5団体決起集会で

弁護団の澤藤です。お集まりの皆さまに、弁護団を代表して冒頭のご挨拶を申しあげます。
石原慎太郎第2期都政下で、「10・23通達」が発出されたのが2003年。希望の春が憂鬱な春に変わった最初の卒業式が2004年春でした。それから年を重ねて今年は12回目の重苦しい春を迎えることになります。この間、闘い続けて来られた皆さまに心からの敬意を表明いたします。
 
この間、法廷の闘いでは予防訴訟があり、再発防止研修執行停止申立があり、人事委員会審理を経て4次にわたる取消訴訟があり、再雇用拒否を違法とする一連の訴訟がありました。難波判決や大橋判決があり、いくつかの最高裁判決が積み重ねられて、今日に至っています。

法廷闘争は一定の成果をあげてきました。都教委が設計した累積過重の思想転向強要システムは不発に終わり、原則として戒告を超える懲戒処分はできなくなっています。しかし、法廷闘争の成果は一定のもの以上ではありません。起立・斉唱・伴奏命令自体が違憲であるとの私たちの主張は判決に結実してはいません。戒告に限れば、懲戒処分は判決で認められてしまっています。

また、何度かの都知事選で、知事を変え都政を変えることが教育行政も変えることになるという意気込みで選挙戦に取り組みましたが、この試みも高いハードルを実感するばかりで実現にはいたっていません。

しかし、闘いは終わりません。都教委の違憲違法、教育への不当な支配が続く限り、現場での闘いは続き、現場での闘いが続く限り法廷闘争も終わることはありません。今、判決はやや膠着した状況にありますが、弁護団はこれを打破するための飽くなき試みを続けているところです。

法廷で目ざすところは、これまでの最高裁の思想良心の自由保障に関する判断枠組みを転換して、憲法学界が積み上げてきた厳格な違憲審査基準を適用して、明確な違憲判断を勝ち取ることです。まだ、1件も大法廷判決はないのですから、事件を大法廷で審査して、あらたな判例を作ることはけっして不可能ではありません。

また、憲法19条違反だけでなく、子どもの教育を受ける権利を規定した26条や教員の教授の自由を掲げた23条を根拠にした違憲・違法の判決も目ざしています。国民に対する国旗国歌への敬意表明強制はそもそも立憲主義に違反しているという主張についても裁判所の理解を得たい、そう考えています。

現在の最高裁判決の水準は、意に沿わない外的行為の強制が内心の思想・良心を傷つけることを認め、起立斉唱の強制は思想良心の間接的な制約にはなることを認めています。最高裁は、「間接的な制約に過ぎないのだから、厳格な違憲判断の必要はない」というのですが、「間接的にもせよ思想良心の制約に当たるのだから、軽々に合憲と認めてはならない」と言ってもよいのです。卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を持ち出す合理性や必要性の不存在をもう一度丁寧に証明したいと思います。

また、違憲とは言わないまでも、大橋判決のように、「真摯な動機からの不起立・不斉唱・不伴奏に対する懲戒処分は、戒告といえども懲戒権の逸脱・濫用に当たり違法」とする手法も考えられます。弁護団は、裁判所に憲法の理念にしたがった判決を出すよう、説得を続けたいと覚悟を決めています。

ところで、この10年余の闘いを続けて思うことは多々あります。最も、印象に強くあることは、闘うことの積極的な意義です。私たちは、先人が作ってくれた近代憲法のシステムの中で権利を享受しているだけではなく、具体的な権利の拡大の運動をしているのです。

歴史的に、思想・良心の自由も、信仰の自由も、表現の自由も、始めからあったわけではありません。文字どおり、血のにじむ闘いがあって、勝ち取られた歴史があるのです。私たちは、今まさしくそのような歴史に参加しているのです。また、憲法に書かれている条文が、現実の社会生活での具体的な権利として生きるためには、それぞれの現場での闘いが必要なのです。

私たちは、国家と対決し、国家に絡め取られることのない思想・良心の自由を勝ち取るべく闘っています。これは国民主権原理を支える重大な闘いだと思います。それだけではなく、次の世代の主権者を育てるに相応しい教育を守り、作り上げる闘いもしているのだと思います。教育を、国家の僕にしてはなりません。国旗と国歌を中心に据えた卒業式とは、生徒一人ひとりではなく国家こそが教育の主人公であることを象徴するものと言わざるを得ません。

闘うことを恐れ、安穏を求めて、長いものに巻かれるままに声をひそめれば、権力が思うような教育を許してしまうことになってしまいます。苦しくとも、不当と闘うことが、誠実に生きようとする者の努めであり、教育に関わる立場にある人の矜持でもあろうと思います。

私たち弁護団も、法律家として同様の気持で、皆さまと意義のある闘いをご一緒いたします。今年の卒業式・入学式にも、できるだけの法的なご支援をする弁護団の意思を表明してご挨拶といたします。
(2015年2月14日)

ナッツ姫に懲役1年の実刑 - 量刑理由に「人間の自尊心を傷つけた」

趙顕娥(チョ・ヒョンア・前大韓航空副社長)という名前は日本では覚えられにくい。誰のことだかわかりにくくもある。失礼ながら、分かり易く「ナッツ姫」で通させていただく。

昨日(2月12日)ナッツ姫にソウルの地方裁判所が、懲役1年の実刑判決を言い渡した。航空保安法における「航空機航路変更罪」と、業務妨害罪の観念的競合を認めたとのことだ。実刑を選択した裁判所の「量刑理由」の説示が興味深い。

韓国の(保守系)有力紙「中央日報(日本語版)」の見出しが、韓国民の関心のありかをよく伝えている。「大韓航空前副社長に懲役1年…裁判所『職員を奴隷のように働かせた』」というのだ。以下は、その記事の抜粋である。(大意であって、原文のママではない)

「ナッツ・リターン事件で逮捕され起訴された趙顕娥(チョ・ヒョンア、41)前大韓航空副社長に懲役1年の実刑が宣告された。
ソウル西部地方裁判所刑事12部(オ・ソンウ部長)は12日、航空保安法上の航空機航路変更などの罪で起訴された趙前副社長に対して『被告人が本当の反省をしているのか疑問』として上記刑を言い渡した。」

「裁判所は量刑の理由の説示において、趙前副社長が提出した反省文の一部を公開した。趙前副社長は反省文で『すべてのことは騒動を起こして露骨に怒りを表わした私のせいだと考え、深く反省している。拘置所の同僚がシャンプーやリンスを貸してくれる姿を見て、人への配慮を学んだ。今後は施す人になる』と話したという。続けて、オ・ソンウ部長判事は『この事件は、お金と地位で人間の自尊心を傷つけた事件で、職員を奴隷のように働かせていなかったら決して起きなかった』と述べ、さらに当時のファーストクラス席の乗客の『飛行機を自家用のように運行させて数百人の乗客に被害を与えた』という陳述も引用して、実刑の宣告理由を明らかにした。また『趙前副社長は、乗務員と事務長から許しを受けることができていない』とも述べ、『趙亮鎬(チョ・ヤンホ)韓進(ハンジン)グループ会長(66)が、事務長の職場生活に困難がないようにすると言ったが、同事務長には「背信者」のレッテルが貼り付けられていると思われる』と付け加えた。」

「パク事務長」とは、パーサーあるいはチーフパーサーの職位に当たる人なのだろう。2か月前の中央日報日本語版が次のとおりに伝えている。
「『ナッツ・リターン』事件当事者の一人、パク・チャンジン大韓航空事務長(41)が(2014年12月)12日、口を開いた。5日(現地時間)に米ニューヨーク発仁川行きの大韓航空KE086航空機に搭乗し、趙顕娥(チョ・ヒョンア)前大韓航空副社長(40)の指示で飛行機から降ろされた人物だ。

パク事務長はこの日、KBS(韓国放送公社)のインタビューで、マカダミアナッツの機内サービスに触発された『ナッツ・リターン』事件当時、『趙顕娥前副社長から暴言のほか暴行まで受け、会社側から偽りの陳述も強要された』と主張した。

放送に顔と実名を表したパク事務長は『当時、趙前副社長が女性乗務員を叱責していたため、機内サービスの責任者である事務長として許しを請うたが、趙前副社長が激しい暴言を吐いた』とし『サービス指針書が入ったケースの角で手の甲を数回刺し、傷もできた』と話した。また『私と女性乗務員をひざまずかせた状態で侮辱し、ずっと指を差し、機長室の入口まで押しつけた』と当時の状況を伝えた。」

以上で、事件と裁判の概要は把握できると思う。刑事裁判であるから、罪刑法定主義の大原則に則って、あくまで起訴事実の存否とその構成要件該当性が主たる審理の対象となる。しかし、本件についての主たる審理対象は、むしろ情状にあったのではないか。ナッツ姫のパーサーやキャビンアテンダントに対する「人間としての自尊心を傷つけた行為」が断罪されたという印象が強い。両被害者からの赦しを得ていないことが実刑判決の理由として語られていることが事情をよく物語っている。実質において、一寸の虫にもある「五分の魂」毀損罪の成立であり、これに対する懲役1年実刑の制裁である。

それにしても思う。偽証まで強要されたこの被害者2名が勇気ある告発をせず、長いものに巻かれて泣き寝入りしていればどうだったであろうか。何ごともなかったかのごとく、ナッツ姫は、わがままに優雅な生活を送っていたのではないだろうか。財閥一家の傲慢さ横暴さが曝露されることもなく、韓国社会の健全な世論の憤激も起こらなかったであろう。勇気ある内部告発は、公益に資する通報として社会に有用なのだ。

日本の上原公子元国立市長の名は、覚えにくいわけではない。しかし、その行為を弾劾する意味で、失礼ながら敢えて「ナッツ上原」と言わせていただく。事情が、日韓まさしく同様なのだから、その方が分かり易い。ナッツ上原の「五分の魂毀損」事件の顛末は既に詳しく書いたから繰り返さない。かなりの長文だが、下記のブログをお読みいただきたい。

「韓国のナッツ姫と日本のナッツ姫ーともに傲慢ではた迷惑」
(2015年1月31日)
http://article9.jp/wordpress/?p=4305

「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその6」
(2013年12月26日)
http://article9.jp/wordpress/?p=1776

「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその7」
(2013年12月27日)
http://article9.jp/wordpress/?p=1783

ナッツ上原にも、肝に銘じていただきたい。「あなたの行為は、自分に権限あるものとのトンデモナイ勘違いによって、上から目線で人間の自尊心を傷つけたもの。ボランティアとして選挙運動に誠実に参加した仲間を大切にする気持ちが少しでもあれば、決して起きなかったこと」なのだ。もちろん、ナッツ上原の行為は、陣営の選挙運動に具体的な支障をもたらしている。そして、主犯熊谷伸一郎ともども、いまだもって五分の魂を傷つけられた二人に謝罪もしていなければ赦しを受けてもいない。

私は、自浄能力のない組織における内部告発(公益通報)は、その組織や運動にとっても、社会全体に対しても有益なものであると信じて疑わない。本日の記事を含め、当ブログは、公共的な事項に関して、公益をはかる目的をもって、貴重な情報を社会に発信し、革新共闘のあり方に有益な問題提起をなしえているものと確信している。

私が宇都宮陣営に「宣戦布告」をしたのは、2013年12月21日である。
「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。」
http://article9.jp/wordpress/?p=1742

その日のブログに書いたとおり、私の闘いは「数の暴力」への言論による対抗手段としての事実の公開である。典型的な内部告発であり、公益通報である。力のない者が不当・無法と闘うための王道は、何が起こったかを広く社会に訴え多くの人に知ってもらうこと以外にない。幸いに、私にはささやかなブログというツールがあった。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、33回を毎日連載して望外の読者の反響を得た。もちろん、覚悟した反発もあったが、その内容は説得力に乏しいお粗末なもので、その規模は事前の想定よりも遙かに小さなものだった。むしろ、多数の方から予想を遙かに超える熱い賛意をいただいて、「私憤」だけでない公益通報の公益的な意義を確信した。

「念のために申し上げれば、開戦は私の方から仕掛けたものではありません。宇都宮君側から、だまし討ちで開始されました。だから、正確には私の立ち場は「応戦」なのです。しかし、改めて私の覚悟を明確にするための「宣戦布告」です。」これが、シリーズ冒頭の一節。その宣戦布告はいまだに講和に至っていない。
(2015年2月13日)

まずは澁谷の空に輝け・六色の虹の旗

渋谷区の快挙を各紙が大きく報道している。「同性カップルに結婚相当証明書」という見出しが分かり易い。

「東京都渋谷区は2月12日、同性カップルを『結婚に相当する関係』と認め、証明書を発行する条例案を盛り込んだ2015年度予算案を発表した。条例案は3月上旬に開会予定の3月区議会に提出する」「条例案は男女平等や多様性の尊重をうたった上で、『パートナーシップ証明』を定めた条項を明記。区内に住む20歳以上の同性カップルが対象で、必要が生じれば双方が互いの後見人となる契約を交わしていることなどを条件とする。カップルを解消した場合は取り消す仕組みもつくる」

渋谷区は昨年来、有識者らによる検討委員会を立ち上げ、LGBTの区民からも聞き取りをして条例の内容を検討してきたのだという。桑原敏武区長の言がよい。「互いの違いを受け入れ尊重する多様性社会を目指すという観点から、LGBTの問題にも取り組みたい」というもの。

さらに、興味を惹くのは実効性確保の手段の工夫である。「条例の趣旨に反する行為があった場合は事業者名を公表する規定も盛り込む」と報道されている。

諸手を挙げて歓迎したい。性的マイノリティという言葉が熟さないうちに、「LGBT」という言葉が市民権を得てきた。レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bisexual)、そしてトランスジェンダー(Transgender)の略語だという。当事者が、ややネガティブな語感のある「性的マイノリティ」よりは、自らのグループを「LGBT」と言うそうだ。そのLGBTに朗報であるだけでなく、人権の尊重のためにも、他のマイノリティーにとっても、そして豊かな多様性社会創造のためにも朗報なのだ。

このグループのシンボルが、6色構成(赤、橙、黄、緑、青、紫)のレインボー・フラッグ。言うまでもなく、豊かな多様性をシンボライズするもの。まずは澁谷の空にこの虹の旗が翻るよう、声援を送りたい。

人は多様である。文明化した社会は、相互に他の個性と多様性を認め合うことを基本的な約束事として成立している。人種も、民族も、性差も、年齢も、宗教も、嗜好も、思想信条もそれぞれに異なる多様な人々がそれぞれを尊重しながらこの社会を形づくっている。人種や民族による差別、宗教や出自による差別は最も忌むべきものとして克服しなければならない。同時に、皇族だの元華族だのという家柄や家系を誇る愚か者たちを持ち上げたりする陋習も意識的に排斥しなければならない。

人は生まれながらにして平等であり、誰もがありのままで尊重されなければならない。異性愛からする同性愛への差別も克服されなければならない。人はさまざま。多種多様でよいのだ。

「異性間の愛は崇高で神の摂理に適い、同性間の性的愛情は神の摂理に反するものとして認めがたい」。そのような考え方も尊重されてしかるべきであろう。しかし、そのような考えをもつものが、同性愛者のライフスタイルに介入することは許されない。ヘイトスピーチが許されないごとくにである。

社会のマジョリティは、得てしてマイノリティーに不寛容である。同調圧力をもって自らへの同化を求める。「外国人を排斥して日本人だけの社会にしたい」。「神仏以外の宗教は認めがたい」。「家族とは、両親揃っていなければならない」。「日の丸・君が代には国民こぞって敬意を表明するのが当たり前」。「男は仕事、女は家庭に」。これはまことに窮屈な社会。マイノリティーは、このような同調圧力に屈する必要はないのだ。無理に社会に合わせようとすれば、自分が自分でなくなってしまう。自分らしくありのままで暮らせる寛容な社会でなくてはならない。

マイノリティーが暮らしやすい寛容な社会は、実は誰にとっても暮らしやすい社会なのだ。人種や民族。宗教におけるマイノリティーも、思想・信条における少数派も、あるいは老齢者や、障がい者や、経済的に不遇な人も、安心して暮らせる社会を作りたいと思う。

LGBTのグループが暮らしやすい社会は、偏見や差別のない寛容な社会である。しかも、毎日新聞が伝えるところでは、信頼できる大がかりな調査によるとLGBTに属する人々は総人口の5.2パーセントにも及ぶという。

まずは渋谷区の英断を歓迎し、その条例の成立を応援したい。しかし、この条例では年金も相続も扶養も夫婦並みとは行かない。内縁関係が次第に婚姻に準じるものとして扱われた例はあるが、立法によらないその限界も明らかである。多くの先進国が既に多くの国が同性婚を法制化している。渋谷区の画期的試みが他にも広まり、法律を変える運動に発展するよう見守りたい。

すべての人がありのままの姿で尊重され、豊かな多様性あふれる社会の創造のために。虹の旗よ、輝け、ひるがえれ。
(2015年2月12日)

建国記念の日 「国家主義との対決」の覚悟を

昨年の2月11日、当ブログは「去年までとは違う『建国記念の日』」と題して、歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことを取り上げた。是非ご一読いただきたい。
   http://article9.jp/wordpress/?p=2086

今年は、右翼メディアの代表格としての産経の本日付社説を解説してみたい。「建国記念の日 『よりよき国に』の覚悟を」と標題するもの。もちろん、産経のいう「よりよき国」には独特な意味合いが込められている。安倍政権が曖昧にしか言えないことをズバリと言っている点において、産経とは貴重な存在なのだ。

「わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。国家についてもまったく同じことが言えるのではなかろうか。」

冒頭の一節。こういう比喩の使い方が、騙しのテクニックの基本であり典型でもある。まったく異質の「わが子」と「国家」を、等質のものと思わせようという魂胆。うっかり、この手の論法に乗せられると、国家の誕生を祝わない国民は、子を虐待する非道の親のごとくに貶められてしまう。「非国民」概念をつくり出そうという発想なのだ。

「日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した。明治6年、政府はその日を現行暦にあてはめた「2月11日」を紀元節と定め、日本建国の日として祝うことにしたのである。」

騙しのテクニックはさらに続く。日本書紀に書かれている紀元前660年に誕生した日本国と明治政府と日本国憲法下の日本国とを、何の論証もなく「連綿と同一性を保った国家」と言いたいのだ。ことさらに2月11日を選んで祝おうという狙いは、「連綿と続いた国家」を強調することにある。

当然のことながら紀元前660年の頃の日本は縄文晩期と弥生とが重なる時代、いまだ統一国家の萌芽もない。8世紀に編まれた日本書紀に、1400年も前の神武即位の年月日が特定されているわけでもない。どこの国ももっている建国神話を日本書紀が書き留め、明治政府が荒唐無稽な解釈によって、紀元前660年2月11日と擬制しただけの話。元祖歴史修正主義の所業というべきであろう。わが子の誕生日ははっきりしているが、日本国の誕生日など、歴史の見方次第でどうにでもなること。どうにでもなることだが、紀元前660年ではあり得ない。

「西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか、わが国は近代国家の建設に乗り出したばかりで、紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった。」

「意義があった」は偏頗なイデオロギーによる決め付け。冷静には、「紀元節の制定こそは、嘘で塗りかためた建国神話を徹底利用して、薩長閥が作り上げた政権の神聖性を臣民に刷り込むための小道具」「天皇制の始まりとされる日を拵え、その日の祝意を強制することによって国民に国家との一体感をつくり出すための演出」というべきなのだ。

「先の敗戦で紀元節は廃止されたものの昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した。「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨にうたわれているように、国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない。」

「祝日としての復活」は、国民を二分するイデオロギー対立の暫定決着としてのことである。明治百年論争、元号法制化、国旗国歌法制定そして憲法改正論議なども同じ問題。一方に復古主義的な、「天皇中心の国体護持論+国家主義+軍国主義+歴史美化派」のイデオロギー陣営があり、他方に「国民主権論+個人の人権尊重+平和主義+歴史修正反対派」の陣営がある。両陣営の長いせめぎ合いの末に、両陣営とも不満足ながらの「名前を変えた祝日としての復活」に至った。そして、このせめぎ合いは今も続いている。国家主義への警戒の大切さは、今ももちろん変わっていない。

「ただ忘れてはならないのは、親心と同様に、誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである。現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない。」

これも、欺瞞のテクニック。「誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたこと」などという抽象的な文章は、情に訴えようとするだけで実は何も語っていない。次に控えている危険な毒物を飲み込みやすいようにする準備の一文なのだ。

「日本を少しでもよい国にしようと、血のにじむ努力を重ねてきた先人」とは、何を指しているのだろうか。悲惨な戦争を画策し指導したA級戦犯たちを含んでいるのだろうか。政・商結託して大儲けをした明治の元勲たちはどうだろう。あるいは天皇制の野蛮な弾圧を担った特高警察や憲兵や思想検事たちも「少しでもよい国にしようと努力を重ねた先人」なのだろうか。一方、野蛮な天皇制の暴力に抗して平和や民主主義を目指した不屈の闘いを試みた人々はどうなのだろうか。

「現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない」は、空疎空論の見本である。めざすべき「さらによい国」とは、声高に「国」の存在や権威を振りかざす者のいない国ではないか。

「慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた。その中で小泉は、先人の残したものをよりよきものとして子孫に伝える義務を説いたうえで、こう続けた。「子孫にのこすといっても、日本の独立そのものが安全でなければ、他のすべては空しきものとなる。然らば、その独立を衛るものは誰れか。日本人自身がこれを衛らないで誰れが衛ることが出来よう」(小泉信三全集から)

ようやくここで本音が出て来る。「先人らの血のにじむ努力」とは国防の努力、「さらによい国」とはさらに軍備を増強した国のことなのだ。要するに、防衛力を増強したいのだ。もう一度富国強兵を国家的スローガンに掲げたいということなのだ。そのために「国の誕生」から説き起こし、「国の誕生日への祝意」を大切なものとし、「先人の努力」と「国をよくする」とまで論理をもってきたのだ。

「57年前の言葉がそのまま、目下の国防への警鐘となっていることに驚かされる。中国の領海侵入などで日本の主権が脅かされているばかりか、国際的なテロ組織によって国民の命が危険にさらされてもいる。だが、わが国の現状は、自らの国防力を高めるための法整備も十分ではなく、その隙をつかれて攻撃される恐れもある。」

まったくの驚きだ。57年前も今日と同じ言葉で国防への警鐘がなされていたのだ。いつの時代にも同じ言葉が繰りかえし語られるということなのだ。いつもいつも、仮想敵と敵による危機が叫ばれてきた。ソ連の脅威であり、李承晩の脅威であり、赤い中国の脅威であり、北朝鮮の脅威であり、今またイスラムの脅威であり、テロの脅威である。日本を取り巻く国際環境の厳しさは、際限なく無限に進行しているのだ。

「紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ「日本人自身が日本を衛る」覚悟を決めなければならない。」

これが産経社説の締めくくり。社説子の頭の中は、今日は「建国記念の日」ではなく、完全に「紀元節」である。そして、かつての紀元節が、天皇中心の国家主義的イデオロギー鼓吹の小道具であったように、「建国記念の日」を国家主義、軍国主義思想浸透のきっかけにしようというのだ。「2月11日は富国強兵思想の記念日」というわけだ。

本日の産経社説。何のことはない。「わが子はかわいい」「かわいいわが子の誕生日を祝おう」「同様にかわいい国の誕生日も祝おう」「かわいい国には武装をさせて守ろうではないか」。だから「国民よ、国防国家となるべく覚悟を決めよ」と言っているだけのこと。

個人よりも国家が大切で、国防が何よりも重要で、歴史の真実よりは国家への誇りが大切だとするイデオロギーが、メディアの一角でこうまで露骨に語られる時代を恐ろしいと思う。しかし、萎縮してはおられない。憲法や人権・平和の理念を護る覚悟が要求されているのだ。

昨年のブログの最終節はこうだった。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。

ほとんど同じだが、産経社説の標題に倣って、今年は次のように締めておこう。

「建国記念の日 『国家主義との対決』の覚悟を」
(2015年2月11日)

そのカネが無償の愛のはずはない ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第35弾

毎日の「仲畑流万能川柳」(略称「万柳」)欄、本日(2月10日)掲載の末尾18句目に
  民意なら万柳(ここ)の投句でよくわかる(大阪 ださい治)
とある。まったくそのとおりだ。

その民意反映句として、第4句に目が留まった。
  出すほうは賄賂のつもりだよ献金(富里 石橋勤)
思わず膝を打つ。まったくそのとおり。

過去の句を少し調べてみたら、次のようなものが見つかった。
  献金も 平たく言えば 賄賂なり(日立 峰松清高)
  献金が無償の愛のはずがない(久喜 宮本佳則)
  超ケチな社長が献金する理由(白石 よねづ徹夜)

選に洩れた「没句供養」欄の
  献金と賄賂の違い霧と靄(別府 吉四六)
という秀句も面白い。庶民感覚からは、疑いもなく「献金=賄賂」である。譲歩しても「献金≒賄賂」。

国語としての賄賂の語釈に優れたものが見あたらない。とりあえずは、面白くもおかしくもない広辞苑から、「不正な目的で贈る金品」としておこう。「アンダーテーブル」、「袖の下」、「にぎにぎ」という裏に隠れた語感が出ていないのが不満だが。

刑法の賄賂罪における「賄賂」とは、金品に限らない。「有形無形を問わず、いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益を包含する」という定義が大審院以来の定着した判例である。もちろん、「融資」や「貸付」も、「人の需要を満たすに足りる利益」として当然に賄賂たりうる。巨額、無担保、低利であればなおさらのことである。

DHCの吉田嘉明から、「みんなの党」の党首・渡辺喜美(当時)に渡ったカネは、吉田自身が手記に公表した限りで合計8億円。本当に貸したカネなのか呉れてやったカネではないのかはさて措くとしても、これが健全な庶民感覚に照らして「不正な目的で贈る金品」に当たること、「いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益」の範疇に含まれることは理の当然というべきだろう。

前述の各川柳子の言い回しを借りれば、この8億円は「出すほうは賄賂のつもりだよ」であり、「平たく言えば 賄賂なり」である。なぜならば、「出すカネが無償の愛のはずがない」のであって、「超ケチな社長が金を出す理由」は別のところにちゃんとある。結局は、「堂々と公表される無償の政治献金」と、「私益を求めてこっそり裏で授受される汚い賄賂」の違いは、その実態や当事者間の思惑において「霧と靄」の程度の差のものでしかない。これが社会の常識なのだ。

原告DHC側の完敗となった1月15日言い渡しの「DHC対折本弁護士」事件判決でも、このことが論じられている。少し詳しく書いておきたい。

原告は折本ブログの次の5個所を名誉毀損の記述と特定した。
①「報道によると,徳洲会の場合,東電病院に絡んだ話なんかもあったし,DHCについても,薬事法の規制に不満を待っていたという話もあるようだが,やはり,何らかの見返りを期待,いやいや,期待どころか,約束していたのではないかと疑いたくなるところだ。」(献金が無償の愛のはずがない)

②「常識的にみて,生き馬の目を抜くようなビジネスの世界でのし上がって来た叩き上げの商売人が,ただ単に政治家個人を応援する目的で多額の金を渡すということは考えにくいからなおさらだ。」(超ケチな社長が献金する理由)

③「おそらく,現実には,金をもらった時点でただの野党の党首にすぎない渡辺喜美については,職務権限という収賄罪の構成要件がクリアされないだろうから,この事件が贈収賄に発展する可能性は低いと思うが,それはそもそも,日本の贈賄罪,収賄罪の網掛けが不十分であり,また,構成要件が厳しすぎるからなのだ。」(献金も 平たく言えば 賄賂なり)

④「だが,ちょっとうがった見方をすれば,当時党勢が上げ潮だったみんなの党が選挙で躍進してキャスティングボードを握れば,政権与党と連立し,厚生労働省関係のポストを射止めて,薬事法関係の規制緩和をしてもらう,とまあ,その辺りを期待しての献金だった可能性だってないとはいえないだろう。」(出すほうは賄賂のつもりだよ献金)

⑤「まあ,本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが,実際,大企業の企業献金も含めて,かなりのものが何らかの見返りを求めてのものであり,そういった見返りを求めての献金は,実質的には『賄賂』だと思うのだ。」(献金と賄賂の違い霧と靄)

以上の折本ブログの記事について、原告DHC側は、次のとおりに主張した。
「原告吉田が,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下,渡辺に対して8億円を貸し付けたとの事実を摘示しており,この貸付けが何らかの見返りを求めてのものであって贈収賄の可能性があり,実質的には賄賂である旨の法律専門家である弁護士としての法的見解を表明するものであって,原告吉田の社会的評価を低下させている。」

判決は、この原告主張を一蹴して、次のように判示した。
「まず,本件記述①,②及び④は,本件金銭の交付の事実を前提として,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下で,又は見返りを期待して,本件金銭の交付がされたとの疑いを指摘するものであり,上記約束や見返りの存在を明示的に摘示するものでない。しかも,その記述の仕方や表現方法をみても,そのような疑いが,原告会社が薬事法の規制に不満があることや単に政治家個人を応援するという目的だけで多額の献金をすることは考え難いこと等の外形的な事情による被告の推測に基づくものであると読み取ることができ,また,本件各記述においては,『疑いたくなるところだ』,『可能性だってないとはいえないだろう』,『本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが』等の断定を避ける表現が繰り返し使用され,本件記述④と⑤の間には,政治思想を同じくする渡辺に協力する目的で原告吉田が献金した可能性にも言及されるなど原告吉田の主張に沿う見方も指摘されていること(甲2)からすれば,本件記述①②及び④が,上記約束や見返りの存在について暗示的にも断定的に主張するものと認めることはできない。

「そうすると,被告は,弁護士ではあるものの,一私人にすぎず,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述①,②及び④に記述された疑いは,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められないのであるから,それによって,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない。」

「本件記述③は,上記約束や見返りの存否とは異なる職務権限の要件を理由にして,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性が低いこと等を指摘するものであり,また,本件記述⑤は,見返りを求めてされる政治献金一般に対する被告の論評ないし意見を表明しているにすぎないところ,前記判示のとおり,本件記述①,②,④及び⑤が,原告ら主張に係る事実を摘示するものでないなどの前後の文脈も併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述③及び⑤が,上記約束や見返りの存在を前提としているものとして読み取られると認めることはできない。」

「また,本件記述③及び⑤は,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性を何ら指摘するものではないし,本件記述⑤での実質的に賄賂であるとの意見についても,飽くまで何らかの見返りを求めてされる政治献金一般に対して述べられたものであり,本件金銭の交付については,前記のとおり,規制緩和の約束や見返りという事実の存在を前提としていないのであるから,本件金銭の交付が実質的に賄賂であるとの意見が表明されているものとして読み取られると認めることもできない。」

「以上によれば,原告らの上記の主張は採用できない。」

判決は、当該言論の「公共性」「公益性」「真実(相当)性」など違法性阻却事由有無の議論に踏み込むことなく、「そもそも名誉毀損言論ではない」と切って捨てたのだ。これは言い渡し裁判所の見識というべきであろう。

判示の中で、最も重要で普遍性のある判断は、「被告(折本弁護士)が,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述の『疑い』は,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められない」「だから,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない」という説示部分である。

もちろん、「社会的評価が低下したと認めることはできない」とは、明示されてはいないものの「法的な救済を必要とするほどの」という限定が付されている。厳密な意味で、「折本ブログが何の社会的影響も与えるものではなかった」「原告にとって痛くも痒くもない」と言っているわけではない。

語尾を疑問形にしようと断定調にしようとも、論評は論評であり、「疑い」は一つの見方の提示以上のなにものでもない。それを法的に「社会的評価が低下した」とは言わないのだ。

だから、遠慮なく民意は語られてよいのだ。「出すほうは賄賂のつもりだよ献金」「献金も 平たく言えば 賄賂なり」と言って誰にも文句を言われる筋合いはない。なんと言っても、「献金が無償の愛のはずがない」のであり、「超ケチな社長が献金する理由」は見え見えで、「献金と賄賂の違い霧と靄」なのだから。

これを、目くじら立てて咎め立てするのは、やましいところあって、自分のことを貶められたかと心穏やかではいられないからなのではないか。不粋という以外に形容する言葉が見つからない。ましてや、スラップとして高額損害賠償の提起においてをやである。

なお、DHCと吉田は対折本弁護士事件判決を不服として控訴したとのこと。恥の上塗りを避けて控訴を断念し潔く負けを認めて謝罪することこそが、傷を浅く済ませる賢明な策だと思うのだが。
(2015年2月10日)

韓国メディアの歴史修正主義への敏感さ

朝鮮日報、中央日報、東亜日報、聯合ニュースなどの韓国メディアが、インターネット日本語版で発信している。まことに貴重な情報源である。

例えば、2月6日の朝鮮日報ネット日本語版に朴正薫(パク・チョンフン)という幹部記者の次のようなコラムが掲載されている。

標題が、「悲劇に冷静な日本、ぞっとするほど恐ろしい」というもの。同記者は20年前の阪神淡路大震災の現場取材を行って、「頭を殴られたような衝撃を感じる出来事」に遭遇したという。70代とみられる高齢者夫婦の自宅が崩壊し、妻ががれきの下に埋まった。夫が見守る中、救助作業が行われたが、妻は遺体となって発見された。
「記者が本当にぞっとしたのは次の瞬間だった。救助作業中、ずっとその場に立ちすくんでいた白髪の夫は妻の死を確認すると、救助隊員らに深々と頭を下げ、何度も『ありがとうございます。お疲れさまでした』と大声で叫んでいるようだった。夫は一滴も涙を流さず、自らの感情を完璧にコントロールしていた。ロボットのようなその様子を見ると、記者は『これが日本人だ』と感じた。…被災地のどこにも泣き叫ぶ声は聞こえなかった。『静けさゆえに恐ろしい』という感覚。これこそ記者が日本の素顔を目の当たりにしたと感じた体験だった」

続いて、記者はこう続ける。
「過激派組織『イスラム国』により2人の日本人が殺害され、日本国民の間に衝撃が走った。しかし、日本社会の反応は20年前の阪神淡路大震災当時とほとんど変わらなかった。最初の犠牲者となった湯川遥菜さんの父は、息子が斬首され殺害されたとのニュースを聞くと『ご迷惑を掛けて申し訳ない』と述べた。また2人目の被害者となった後藤健二さんの母もカメラの前で『すみませんでした』と語った。何が申し訳なくて、何が迷惑だったのだろうか。」

記者は、これを「迷惑コンプレックス」と紹介している。「日本人の潜在意識には『他人に迷惑を掛ける行為は恥』と考える遺伝子が受け継がれている。『侍の刀による脅し』が日本人をそのようにしたという見方もあれば、教育の効果という見方もある。いずれにしても理由は関係ない。重要なことはたとえ悲惨な状況の中でも、彼らは常に忍耐を発揮するということだ」という。

記者が言いたいことは次のようなことのようだ。
「イスラム国に家族を殺害された遺族らは、日本政府に対して恨み言の一つでも言いたいはずだ。2人の人質が殺害されるという最悪の結果を招いたことについては、安倍政権の失政が大きいからだ。2人が人質となったのは昨年10月ごろで、イスラム国との交渉も水面下で行われていたという。ところが安倍首相は致命的なミスを犯した。中東を歴訪した際、現地で『イスラム国との戦争に2億ドル(約240億円)を拠出する」(原文のママ)と表明し、まさに彼らの面前で挑発したのだ。安倍首相の発言が報じられた直後、イスラム国は2人の人質を殺害すると突然表明した。無用にイスラム国を刺激する結果を招いた戦術的なミスだった。」

「他人に迷惑を掛ける行為は恥」と考える遺伝子を受け継いでいる日本人は、安倍首相のミスで家族を失っても、政権を批判しないどころか、「ご迷惑を掛けて申し訳ない」「すみませんでした」と謝るばかり。記者は、そのように日本人に対する苛立ちを隠さない。日本通と思われる韓国人から、われわれはこう見られている。思いがけないというべきか、思い当たるというべきだろうか。

韓国メディアは、権力批判に遠慮がない。日本の政権にも手厳しい。安倍政権の従軍慰安婦否定発言問題ではことさらである。

安倍首相が今月初めの国会審議において、「アメリカの教科書が従軍慰安婦問題をどのように記述しているかを知って驚愕した」「政府として教科書の記述の変更を求める」と、答弁したことへの反応は敏感である。昨日(2月8日)の朝鮮日報(ネット日本語版)は、アメリカ歴史学界の動向をインタビュー取材して次のように報道している。

「安倍首相は学問の自由を脅かしている」というもの。

今年の1月2日に、アメリカ歴史学会(AHA)が昨年11月の安倍首相による歴史修正主義的発言を批判する全会一致の声明を出した。また、今月5日には、安倍首相の教科書非難発言について、専門家19学者連名の声明が出ている。その中心となった歴史学者のインタビュー記事である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150207-00000800-chosun-kr

米国コネチカット大学のアレクシス・ダデン教授は「日本政府の教科書修正要求は学問の自由に対する直接的な脅威であり、教科書を執筆したハワイ大学ハーバート・ジーグラー教授を、私たち歴史学者が支持しなければならないということにすぐ同意した」と語った。安倍首相は先日、米国の教科書に日本軍慰安婦問題が間違って記述されていると語り、その前にも日本の外務省は教科書を発行したマグロウヒル社に慰安婦に関する部分を削除するよう要求していた。

同教授は「日本の間違った行動に対し警告すべきだという共感と連帯感が強かった。歴史は自分の都合のいいように選び、必要なものだけを記憶するものではない」と述べた。以下は一問一答。

-声明に賛同したのはどんな学者たち?
「さまざまな地域を研究する、さまざまな地位の学者たちが集まった。アジアを専攻する学者だけでなく、ロシア、欧州、ラテンアメリカなど世界各地の専門家だと考えればよい」

-日本政府の教科書修正要求を歴史学者たちはどのように受け止めているのか。
「学問の自由に対する直接的な脅威だと深刻に受け止めている。日本政府が独特なのは、従軍慰安婦問題は論争の種ではなく、すでに全世界が認めている『事実』なのにもかかわらず、しきりに政治的な目的をもってこれを変更、あるいは歴史の中から削除しようとしている点だ。マグロウヒル社は非常に評判が高い出版社で、見当違いもいいところだ」

-なぜ安倍政権はしきりに歴史問題を取り上げると思う?
「日本政府の不名誉を覆い隠そうという意図ではないかと思う。しかし、河野談話を通じて多くの人々が慰安婦に関する真実を知り、これを認めている。日本の人々も同様だ。特に慰安婦に関する真実のほとんどは、日本人学者の吉見義明・中央大学教授の努力により証明されている。さらに過去数十年間、日本の小中高校に関連の記述があったが、安倍政権になって急に、安倍氏とその支持者たちが真実を変えようとしている。自分たちに有利な記憶だけ大事にしようとしているが、これは問題だ」

-日本はなぜ、第二次世界大戦中のナチスの過ちを謝罪し続けるドイツのように行動できないのか。
「日本人の多くはドイツと自国を比較することを好まない。終戦70周年を迎えたのにもかかわらず、安倍政権は不幸にも日本の過去の責任を認めた村山談話にも挑もうとしている。地域内の平和を20年以上守ってきた歴史問題やそれに関連する大きな枠組みを個人的な政治ゲームのため不必要に崩そうとするのは問題だ。だが、安倍首相がドイツのように過去の過ちを謝罪し、未来に向かって進めない理由はない。世界が直面している危機に共に対処しても不十分なのに、安倍政権は全てを後退させる傾向がある。北東アジア地域や世界にとって良くないことだ」

韓国メディアは米国歴史学者の安倍批判発言を大きく取り上げている。日本と韓国、足を踏んだ側と、踏まれた側の違いではないだろうか。私たちは、韓国国民の発信に耳を傾け、その感情の動きにもっと敏感でなくてはならない。
(2015年2月9日)

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