澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

安倍クン正確な国語を使うようにー老国語教師の述懐

アベ君。私は恥ずかしい。キミに国語を教えたのは私だ。いつ、どこでと特定すれば物議を醸すことにもなりかねない。「昔々あるところで」のことだ。その昔々以来、キミの言語能力の進歩はない。キミのコミュニケーション能力の欠落には私にも責任がある。なんともお恥ずかしい限りだ。

私は口を酸っぱくしてキミに教えたはずだ。国語とは、コミュニケーションの手段であることを。最も大切なのは国語の技術ではなく、相手に自分の意見や心情を伝えようという熱意であり、相手の意見や心情を正確に汲もうという真摯な意思なのだと。キミにはその両者がともに欠落しているのだ。

国語が社会的存在であることもよく教えたはずだ。自分勝手な言葉の使い方は傲慢な性格の表れであって、言葉の受け手を困惑させるだけでなく、言葉の使い手の信用を落とすことになると。

その典型が「積極的平和主義」だ。「平和主義」という多くの人が好感を持つ被修飾語に「積極的」という修飾語をかぶせれば、常識的な意味での「平和主義」を強調する好ましい言葉だと思うはずではないか。ところが、キミが「積極的」という言葉を「平和」にかぶせた途端に、平和が戦争に変身してしまうのだ。こんな手品のような、自分勝手な言葉の使い方を、私はキミに教えた覚えはない。

さらにアベ君。最近気になるのは、キミの「理解」という言葉の意味の理解についてだ。キミは、「理解」という言葉を十分理解しているのだろうか。どうもあやしい。理解という言葉についてのキミの無理解が、国民に大きな混乱をもたらしていることを理解したまえ。

言葉には、重層的な意味がある。けっして単純に1語が、1概念と結びついているわけではない。キョトンとしていてはいけない。大事なことだ。よく分かってもらいたい。

キミは、戦争法案について、「国民の理解が十分ではない」と言った。このキミの言葉は、国民が法案の内容について認識を深めていないというのか、国民が認識した法案に了解を与えていないというのか、そのあたりが曖昧でよく分からない。キミに十分な国語能力があれば、もう少し明晰な語り口になるのだが…。

理解という言葉には、「ものごとを正確に認識する」という意味Aと、「あるものごとについての相手の立場や考え方に賛同や好意の心情を持つ」という意味Bが併存している。

Aが、「原発事故の経過はよく理解している」「総理の憲法21条についての理解はおかしい」という使い方における理解。Bは、「総理には沖縄県民の辺野古基地建設反対住民の心情についてご理解いただきたい」「再び戦争を起こしてはならないという国民感情に理解がない」という用例における理解。

BはAから派生したものではあろうが、明らかに違うもの。Aは理性的な認識だけを意味し、Bはこれに好意・賛同・シンパシーの心理が付加されている。

ところでアベ君。キミが、Aの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民が法案の中身について正確な認識を欠いている、という意味だ。立法事実や、それぞれの事態の要件の決め方や効果としての自衛隊の活動可能範囲などについて、国民はよく分かっていないということになる。だから、認識不十分な国民によく説明をして認識を深めてもらえば、法案に賛成してもらえるようになる。そういう文脈で、語っていることになる。

ところが、Bの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民は「このような法案には賛成できない」と言っていることになる。法案の中身をよく分かった人も、あるいは必ずしもよくは分らないない人も、「ともかく、法案が抱える危険がよく分かった」「もうこれ以上安倍のやり口を許さない」ということだ。もう態度は決まっているのだから、さらに説明を重ねることは意味のないことになる。

アベ君、おそらくキミの当初の思惑は、Aの意味で理解が不十分な国民が、丁寧な説明を受けて、次第に法案賛成に回っていくだろうと楽観していたのではなかろうか。ところが、あらゆる世論調査の結果は、国会の審議が進み、メディアが詳細な報道をするにしたがって、法案賛成派は減り、反対派が増加した。そして「首相の説明は不十分」という国民の割合も増加するばかり。

これは、Aの意味で理解が不十分な国民が、だんだんと認識を深めよく分かってきて、Bの意味で理解が不十分な国民に変身していったのだ。

最初は、本当に「よく分からない。もっと説明を」と要求していた国民が、安倍クン、キミの説明で、「これは危険だ」「安倍や自公のいうがままにしておいたらたいへんなことになる」と変わっていった。その意味で、A型からB型への変異組が生じたのだ。いまや、安倍クン、キミの言うことは信用できないという意味で国民のキミに対する理解がなくなっているのだ。

だから、いつまでも同じ「丁寧な説明」を続けても無意味なのだ。どうもキミにはその辺の意識が希薄なようだ。悪いことは言わない。潔くあきらめて、法案を撤回すべきではないだろうか。

その上であらためて、もう一度国語の勉強をしなおすことをお勧めする。私も責任上、付き合うことにしたい。
(2015年7月21日)

安倍晋三医師の「丁寧な説明」

もしかしたら、「丁寧な説明」は今年の流行語大賞に輝くかも知れない。これと争うのは、「どろっとした生牡蠣」あるいは「たった2520億円」だろうか。

「丁寧な説明」は、この国の為政者が何とも奇妙な使いかたをしたことによって、人々に印象深く記憶されることになった。この言葉の使い方が今の時代の政治のあり方をよく表している。国民があらためて認識したのは、為政者の言葉の軽さ虚しさであり、また、「政権の二枚舌」「政権の傲り」「政権の無責任」でもあったろう。

「説明」には、相手の意思や立場を尊重すべき状況が前提とされている。決定権限がある相手に対して、その決定が適切になされるよう、知識や情報を提供することが説明の基本である。馴染みのない複雑なことがらについて理解してもらわねばならないという状況があって、説明が必要となる。より複雑な問題について真に理解しを得ようというには、時間をかけ工夫を凝らして、「丁寧に説明をする」ことが求められる。

行政の国民に対する説明責任、医師の患者に対するインフォームドコンセント、投資勧誘におけるインフォームドチョイス、事業者の消費者に対する説明責任、すべて同じ発想である。決定権限は、国民に、患者に、消費者にある。その決定権限の行使を誤らしめることがないように、十分な情報を提供し、可能な選択肢を示し各選択肢のメリットとデメリットを正確に教示する。これが専門家責任における説明の基本である。

だから、安倍晋三が、「この法案については、国民に丁寧な説明をいたします」といえば、誰しも「おっ、安倍クンも国民が主権者として有する権限を尊重するつもりなんだね」と思う。そして、「説明が尽くされて国民が納得するまで、ゴリ押しはしないんだ」とも思うではないか。「安倍クンといえども、あながち民主主義無視というばかりでもないんだ」と、うっかり誤解もしてしまいそう。

7月15日、あの強行採決で幕を閉じた衆院安保特のその日の委員会審議において、民主党大串委員の質問に安倍はこう答弁している。
「残念ながらまだ国民の理解は進んでいる状況ではないということは申し上げているとおりでございます。これからさらに国民の理解が進むように努力をしていきたい、こう申し上げているわけでございます。」

えっ? 国民の理解は進んでいる状況ではない? では、強行採決などやらないのだな、と一瞬誤解ささせておいて、これからも「説明を続けます」というのだ。強行採決してからの「丁寧な説明」。いったいなんだ、それは。

安倍晋三流の「丁寧な説明」は、「インフォームド」の形だけがあって、「コンセント」が抜け落ちている。形だけ、予定された審議時間の説明さえすれば、国民が理解しようがいまいが、「これからさらに国民の理解が進むように努力をしていきたい」といって、採決の強行をしてしまう。国民に決定権限があるとは思っていないのだ。国民をなめているとしか言いようがない。

本来ものごとの決定権は主権者国民にある。憲法に関わることであればなおさらだ。しかし、安倍には、国民の合意を得ながら政治を進めようという姿勢はさらさらない。国民がどう反対しても、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん」とまでいうのだ。およそ、民主主義社会の為政者が口にすべき言葉ではない。

安倍晋三医師は、患者である国民に向かってこう言ったわけだ。
「特に緊急事態というわけではありませんが、早いに越したことはありませんので、これまでの常識的治療法とはまったく異なる大手術を行います。これまでの担当医師たちは、これから私が行おうという治療方法は許されないと言ってきましたが、私は断固やる方針です。患者さんは、ちょっとご心配の様子ですから、できるだけ丁寧に説明をしてまいりました。残念ながらまだ患者ご自身やご家族の理解も進んでいる状況ではないということは申し上げているとおりでございます。しかし、ずいぶん説明に時間をかけましたから、もう機は熟しました。「自らを省みてなおくんば一千万人といえども我行かん」が私の信条ですので、誰がなんと言おうと手術はやります。しかし、これからさらに患者の理解が進むように努力をしていきたい、こう申し上げているわけでございます。」

しかも、この安倍医師。うまくいった場合の治療のメリットはよく説明するが、リスクはない、デメリットはない。たいした手術ではない、と繰り返すばかり。
説明を聞いている患者の方は、聞けば聞くほどアブナイ思い。医師の方は、逃げられたら困るとばかりに、麻酔注射を手に迫ってくる。

「感じ悪いよね」を遙かに通り越して「こわ~い」、安倍医院。これだけで医療過誤訴訟では、違法として慰謝料請求が可能であろう。消費者事件なら悪徳商法の手口。そう批判されて当然なのだ。セカンドオピニオンも、医師を選ぶのも患者の権利だ。早く、この藪医者を取り替えないとたいへんだ。患者は殺される。
(2015年7月20日)

安倍政権にイエローカード。これなら戦争法案を廃案に追い込める

今朝の毎日新聞に目をやって感動を覚えた。1面トップに「内閣支持急落35% 不支持51% 安保強行採決『問題』68%」の大見出し。安倍自民と公明には、衝撃的な調査結果。「やはりこうなったか」とは思いつつも、「それにしても恐るべき変化」である。平和憲法を擁護せよという国民意識の底力に励まされる。これなら、現実に戦争法案を廃案に追い込める。あらためての勇気と自信が湧いてくる。

この調査は月例調査ではない。7月4・5両日の調査からわずか2週間で、安倍内閣支持率は7ポイント減、不支持率は8ポイント増となった。1か月前からの変化を見てみよう。
 安倍内閣 「支持」   45%⇒42%⇒35%
         「不支持」 36%⇒43%⇒51% 
         その差    +9⇒ -1⇒-14
  戦争法案に「賛成」  34%⇒29%⇒27%
          「反対」  53%⇒58%⇒62%
  今国会成立に「賛成」      28%⇒25%
           「反対」      61%⇒63%
  政府の説明は「十分だ」    10%⇒10%
           「不十分だ」   81%⇒82%
なお、新しい質問事項に対する回答として次のものが目を引く。
  与党の強行採決は 「問題ではない」     24%
               「問題だ」         68%
  法案成立した場合には、
      「抑止力が高まる」             28%
      「戦争に巻き込まれるおそれが強まる」 64%

安倍首相は、アメリカとの軍事的な連携を深めることによって抑止力を高めることができる。抑止力を高めることによって我が国の平和を守ることがこの法案のねらいだ。そのように「丁寧に」説明を繰り返してきた。その説明は、国会で、記者会見で、マスメディアで、テレビ放送で、インターネットで、これ以上はないと思えるほどの情報量として、国民に提供された。むろん、その論旨は荒唐無稽なものではない。しかし、国民は、首相がメリットとして強調する「平和への期待」に納得していないのだ。むしろ、首相がけっして触れようとしない「戦争への危険」の側面に説得力を感じている。これは重要なアンケート結果だ。

毎日は、「安保法案への世論の批判は強まっており、政府・与党の一連の対応が内閣支持率を押し下げたとみられる。」「法案成立によって日本に対する武力攻撃への『抑止力が高まる』は28%にとどまり、自衛隊の海外での活動拡大で『戦争に巻き込まれる恐れが強まる』が64%に上った。『戦争に巻き込まれる』と答えた層では9割近くが法案に反対した。抑止力と考えるか、戦争に巻き込まれると考えるかは、法案の賛否に密接に関連している。」と解説している。

共同通信も17・18両日に実施した世論調査結果を発表している。「内閣支持率は37・7%で、前回6月の47・4%から9・7ポイント急落した。不支持率は51・6%(前回43・0%)と過半数に達し、第2次安倍政権以降で初めて支持と不支持が逆転した。」と、毎日とほぼ同じ数字。1か月で10%の下落は、毎日同様の劇的な変化というべきだろう。

また、「与党が16日の衆院本会議で、多くの野党が退席や欠席する中、安全保障関連法案を採決し、可決したことには『よくなかった』との回答が73・3%を占めた。『よかった』は21・4%だった。」。なお、共同調査では、「安保法案の今国会成立に反対が68・2%で前回から5・1ポイント増えた。賛成は24・6%だった。」という結果。「採決強行よくなかった73・3%」「今国会成立に反対68・2%」は、圧倒的世論と言ってよかろう。「安倍政権は強行採決を反省し、今国会での法案成立は断念せよ」というのが、圧倒的民意なのだ。

明らかに、「安倍政権・自公・底上げ議会」と「民意」とが大きくずれている。安倍と心中せざるを得ない少数のA級戦犯幹部はともかく、風向きを読むに敏なる自民・公明の議員諸君、なかんずく来夏に選挙を控えている参議院議員諸君、ぜひとも考え直していただきたい。これは理を分けての説得ではない。実利を指摘してのアドバイスである。

永田町事情に通じている人の話の受け売りだが、「内閣支持率が40%を切れば黄信号が点滅を始める」のだそうだ。「35%まで下がれば黄信号」。「30%で赤信号が点滅」で、「25%がレッドカード=即退陣」とのこと。60年安保条約が自然成立して岸退陣となったときの支持率が28%、第1次安倍内閣が突然に辞任したときは29%だったという。29%で、安倍さんは突然に体調を崩して政権を投げ出したのだ。

こういうときには、往々にして思いがけないことが起こる。往々にして、デジャビュー現象が起こったりもするものだ。支持率低下は、安倍さんの体に悪いのだから、ここは療養に専念していただいた方が、天下国家のためでもあり安倍さん自身のためでもある。

目標は定まった。安倍政権の退陣と、戦争法案の廃案とは不即不離、同義なのだ。あと、10%の安倍内閣支持率低下が、安倍内閣を退陣に追い込み、同時に戦争法を葬って、憲法と平和を守ることになる。澤地久枝のセンスと先見性が俄然光ってきた。「アベ政治を許さない」がここしばらくのスローガンとして重みをもってきた。あの金子兜太の筆になるポスターとともにだ。

あと10%。そう難しいことではない。材料は盛りだくさんなのだから。
(2015年7月19日)

五輪は聖域か? 国立競技場は聖地なのか?

本日の各紙社説が、新国立競技場の建設計画白紙撤回問題を取り上げている。表題は以下のとおり。なお、日経は別のテーマ2本となっている。
 朝日  新国立競技場問題―強行政治の行き詰まりだ  
 毎日 「新国立」白紙に 混乱招いた決断の遅れ
 東京  新国立競技場 やっと常識が通ったか
 読売  新国立競技場 計画の白紙撤回を評価したい
 産経 「新国立」白紙に 祝福される聖地を目指せ

表題が各社説の姿勢をよく表している。一見政治性の希薄なこのテーマが、鮮やかに各紙の政権とのスタンスのとりかたをあぶり出している。朝日・毎日・東京が、それぞれの個性を出しつつ安倍政権批判を明確にし、他の重要課題と通底する問題の根を指摘した上で、この問題での厳しい責任追及の必要を説いている。3紙ともさすがに立派な社説だが、とりわけ朝日の問題意識の鮮明さと熱気に敬意を表したい。

これに比較して、読売・産経の問題意識の低さは目を覆わんばかり。「首相の判断は遅きに失したとはいえ、適切である」という以上の内容はない。文章の格調もまことにお粗末、そもそも読者に訴えるものが皆無なのである。こんなレベルの記事を読まされる読者は気の毒、一瞬そう思って考え直した。

メディアが読者を感化する側面だけでなく、読者がメディアを育てる側面もあるのだ。国民は自分たちのレベルに見合った政府しか持ちえない、あるいは、「この国民にして、この政府」ともいう。政府だけでなく、メディアも同じだ。安倍政権も、読売・産経も、今の国民意識が育てているのだ。政権とチョウチン・メディアの持ちつ持たれつ。読売・産経水準のメディアが、大手として存在していること自体が、この国の状況を物語っているというべきだろう。

先の自民党安倍応援若手議員の言論弾圧勉強会で、沖縄2紙が「潰せ」とやり玉に挙げられた。これに反論した沖縄タイムス・琉球新報2紙が、「県民意識に支えられ、県民世論に育てられた」と胸を張ったことが思い出される。読売・産経も、安倍政権支持派の右翼や保守に支えられ、育てられたのだ。読売・産経が、「メディアが権力と対峙する気概をもたず、提灯持ちでどうする」などという批判が通じる相手ではないことは明らかだが、その読者層も基本的に同類なのだ。読売・産経の購読者は、安倍政権御用達メディアの維持育成を通じて安倍政権提灯持ちに参画しているといわざるを得ない。

朝日・毎日・東京とも、競技場問題と戦争法案との関連について明確に触れている。同法案の取扱いが内閣の支持率を低下させる中で、国民の支持をつなぎ止める必要こそが新国立競技場建設計画の見直しの動機だという指摘である。この常識的な見方について、読売・産経はみごとなまでに一言も触れない。

朝日の問題意識とは、こういうことだ。
「問題の核心はむしろ、なぜ、この土壇場まで決断ができなかったのか、である。誰の目にも明らかな問題案件であり続けたにもかかわらず、なぜ止められずにここまできたのか。そこには、日本の病んだ統治システムの姿が浮かび上がる。すなわち、責任の所在のあいまいさである。」

この無責任体制が、結局は安倍政権の民意軽視の常態化をもたらしている。
「競技場問題が迷走した過程で一貫していたのは、異論を遠ざける姿勢だった。政策決定の責任者たちが、国民の声に耳をふさぐことが常態化している問題は深刻だ。」

したがって、問題はひろがりをもっている。
「民意を顧みず、説明責任を避け、根拠薄弱なまま将来にわたる国策の決定を強行する――。それは競技場問題に限った話ではない。国民が重大な関心を寄せる安保関連法案や、原発関連行政にも通底する特徴だ。」

「そのいずれでも国民の多数がはっきりと強い懸念を示している。国民の命と安全に直結する問題だというのに、首相は国会での数の力で押し通し、異論に敬意を払おうとしない。」「(安倍政権は、)安保も原発も、あらゆる政治課題でも、主役は国民一人ひとりであることを悟るべきだ。」と厳しい。

毎日も基本的に同旨で、
「安倍首相は記者団に対し『国民の声に耳を傾け』、方針転換を決断したと強調した。そうであれば、安保政策、沖縄の普天間移設問題、原発政策についても国民の声に謙虚に耳を傾ける姿勢を示してほしい。」と指摘している。

東京は、次のような論調。
「(首相の見直しが)国民の反対の声に真摯に向き合った結果だと、だれが素直に信じられようか」「今度こそ忘れてならないのは国民への情報公開と丁寧な説明、合意づくりの手続きである。神宮外苑の歴史や文化、水と緑の環境との調和を求める声は根強い。」

なお一点。産経の論調にひっかかるものがある。そのタイトルにある「祝福される聖地を目指せ」ということについてである。本文中には、「新たな計画には、五輪招致時に掲げた「アスリートファースト(選手第一)」の理念に立ち返ることが望まれる。」「五輪や競技場の主役は選手なのだ」と言っていることについて。

私は、オリンピックが国民的祝祭であるとも、そうであって欲しいとも思わない。国立競技場を国民的な聖地にすることなどはマッピラゴメンだ。税金を使ってアスリート主役の祭典を行うことには強い違和感を持ち続けている。アスリートなる人種に対しては、「人様の税金を使う身でいったい何様のつもりだ」という気分を拭えない。もっと優先順位の高い切実な税金の使途があるだろうと考えるからだ。

昔から、パンとサーカスが人民をたぶらかす為政者の常套手口だった。いまも、為政者がスポーツを国威発揚やナショナリズム昂揚やらの手口としている。コマーシャリズムがこれに便乗して儲けている。カネにまみれて薄汚いのがFIFAだけてあるはずはなく、オリンピックだって同じに違いない。そんな権力と資本に、税金を提供して舞台をしつらえるということが、バカバカしくも情けない。

財政に関わる主権者意識からは、冷ややかに五輪を見る醒めた目が必要だ。費用を縮小して当初案の1300億円が適正な規模だと考える根拠はない。飽くままで、ゼロベースからの出発であるべきだ。青空の下、原っぱにパイプイスをならべての開会式なんて、最高にエコでスマートでしゃれているではないか。ムシロを敷いて、世界中の人々が車座に座り込んでもよいではないか。

安倍も菅も下村も森も遠藤も、そしてJSCの河野一郎も、有識者会議の竹田恒和・小倉純二・安藤忠雄・佐藤禎一なども、人のカネ(税金)だと思って無責任に浮かれたのだ。立派な施設が必要だというのなら、まずそれぞれが1億円くらいの身銭を切ってはいかがだろうか。えっ? 公選法違反になる? いやそんなはずはない。仮にその恐れがあったところで、そこは皆さま脱法行為はお手のものではないか。

オリンピックが真に平和の祭典だとすれば、戦争法案をゴリ押ししている安倍政権がオリンピックを組織すること自体を自己矛盾というべきではないか。憲法9条を大切にする日本であってこそ、オリンピック開催の資格があろう。月桂冠を掲げつつ、後ろ手に銃を隠し持つ安倍の姿は、オリンピックに似つかわしくない。
(2015年7月18日)

「戦争法案」も白紙に戻せ-国立競技場建築見直しだけでなく

臨時ニュースを申し上げます。
安倍総理大臣は、本日午後総理大臣官邸で記者団に対し、安全保障関連二法案について、「本日臨時閣議を開催して法案を撤回することを決め、議院に所定の手続をとりました。また、これに伴い日本の安全保障についての計画を見直すことを決断しました」と述べるとともに、既にアメリカ政府には了承の内意を得ていること、連立与党である公明党も了解済みであることを明らかにしました。

また首相は、本年4月27日の日米ガイドライン見直しに関して、防衛・外務両大臣が急遽渡米の予定であること、日米首脳会談の日程も調整中であると述べました。

安全保障に関連する10本の法律を一括して改正する「平和安全法制整備法案」及び「国際平和支援法案」の二法案は、これに反対する野党や市民団体からは「戦争法案」と呼ばれていたものです。

自衛隊を設置した1954年以来、政府は「我が国は専守防衛に徹し、集団的自衛権行使は容認しない。だからけっして戦争をすることのない自衛のための実力組織である自衛隊の存在は憲法に違反するものではない」と説明してきました。しかし、今回の二法案は、従前の憲法解釈を大きく転換して、我が国が他国から攻撃された場合に限らず戦争をすることを可能とするものであり、また、外国で外国軍隊の軍事行動の兵站を担う活動も可能とするものです。したがって、圧倒的多数の憲法学者や法律家によって、一内閣が事実上の改憲を行うという立憲主義に反するものであり、憲法九条にも違反すると厳しい指摘を受けてきたものです。

同法案は去る7月16日に与党のほぼ単独採決によって衆議院は通過しましたが、このときの審議打ち切り採決強行が、民主主義の危機という国民世論が沸騰し、安倍政権の土台を揺るがす事態となって、法案撤回に至ったものと思われます。

安倍総理大臣は次のようにも述べました。
「平和は国民の皆さまの大切なもの。その平和をどう守るべきかという政策を決するには、国民一人一人の皆さまが主役となって論議に参加していただく民主主義的手続を経なければなりません。もちろん、自衛隊員の皆さまのご意見もよく聞かなければなりません。法案審議から衆院通過直後に寄せられた各界各分野の国民の皆さまの声に真摯に耳を傾けた結果、法案を白紙に戻し、ゼロベースから見直さざるを得ないと判断しその環境整備を進めてまいったところです」

「法案に反対の声は、実は野党の皆さまだけではなく、公明党からも、そして我が党の内部にもくすぶっていました。これまではけっして大きな声としては聞こえてきませんでしたが、法案が衆院を通過した以後の世論の沸騰の中で、『このままでは、到底次の選挙の大敗北を避けることができない』『政権の維持は困難だ』との悲鳴が上がるようになりました。検討の結果、もともと法案の成立に喫緊の要請があるということではなく、アメリカ政府の了解も得られる見通しであると確信したので、私の責任においてこのような決断をした次第です」

なお、この政府の措置に、もっとも難色を示した一人とされる高村正彦副総裁は、総理大臣官邸で安倍総理大臣と会談したあと、記者団に対し、「政府がやることだ。こういうこともある」と憮然たる面持ちで言葉少なに語りました。

今回、安倍政権が突然に安保関連法案を撤回した背景には、この法案が国民世論にきわめて評判が悪く、「違憲の法案だ」「近隣諸国を刺激する愚策だ」「立憲主義に反する」という従前の批判に加えて、衆議院の強行採決では「民主主義の危機だ」「自民党感じ悪いよね」という圧倒的な国民の声を浴びて、このままでは政権自体が持ちこたえられない「存立危機事態」になっていたことが基本にあります。

安倍政権は強行採決の翌日に、同じく反対世論の盛りあがっていた新国立競技場問題について計画の白紙撤回を発表しました。こうした安倍内閣の方針転換を目のあたりにした国民世論が、批判の世論は確実に政権を追い詰め政策を変えることができると自信を強めて抗議運動の規模を拡大させた成果が、本日の安保関連法案の白紙撤回の成果と考えられています。

なお、本日、安保関連法案の白紙撤回の報を受けた直後に、NHKの籾井勝人会長が突然の辞意を表明しました。その理由はまだ公表されていませんが、「政府が右と言えば、左というわけにはいかない」と公言して、陰に陽に安保法案成立のために政権に協力していた立ち場から、自分への国民の大きな批判に耐え得ないと考えたのであろうと推察されています。

また、街の声を拾いますと歓迎一色で、「国立競技場の見直しについてもできないと言っていたけど、国民の声が高まれば簡単にできちゃった。戦争法案もおんなじなんだとよく分かった」「戦争法案撤回によって、平和と民主主義が擁護された」「主権者として民主主義を守ることができた」「何よりも、憲法と立憲主義とを守り抜いた」「国民の行動の力に自信をもった。次の選挙では、自民党と公明党を追い落とすことができるだろうと思う」などという意見を聞くことができました。
(2015年7月17日)

強行採決に抗議し、安保関連法案の廃案を求める法律家団体声明

戦争法案の衆議院強行採決には、多くの声明・アピール・決議が飛び交っている。全国では厖大なものになるだろう。多くは、「満身の怒り」「断固たる抗議」から書き始められ、「強く廃案を求める」理由が語られ、「そのために全力を尽くす決意」で締めくくられている。

廃案を求める理由は、「法案の違憲」「立憲主義違反」「平和主義反する」「民主主義反する」というもの。世論の動向に触れたものも多い。

法律家団体の抗議声明3通をご紹介する。私の所属する日民協や自由法曹団ら6団体の共同声明、東京弁護士会の会長声明、そして席代の東弁会長連名の声明。みんな、素早い。そして、真剣さが伝わって来る。誰も、落胆などしていない。怒りとともに、廃案へ闘う決意十分だ。こんな情勢で、はたして安倍政権持ちこたえられるろうか。
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自民公明両党などによる戦争法案の衆議院強行採決に
強く抗議し、同法案の廃案を求める法律家6団体共同声明

 自民・公明両党は、武力攻撃事態法、自衛隊法など既存10法を一括して改正する「平和安全法制整法案」と新設の「国際平和支援法案」(以下併せて「戦争法案」という。)を昨日の衆議院特別委員会に引き続き、本日、衆議院本会議において強行採決により可決した。私たち法律家6団体は、自民・公明両党などによるこの度の強行採決に強く抗議するとともに、憲法違反の戦争法案の廃案を断固として求めるものである。

1.戦争法案は違憲であること
 戦争法案は、我が国が直接武力攻撃を受けていない場合に、米国ほか他国のために武力行使を行う集団的自衛権を認めるものであり、その行使を限定する歯止めは存在しないに等しい。のみならず、戦争法案は、自衛隊が海外の戦闘地域あるいはその直近まで赴き、米国軍他の多国軍隊の後方支援活動(兵站活動)を行い、また、任務遂行のための武器使用や米艦等防護を口実とする武力行使を可能とするものである。日本の安全を守る、あるいは、国際平和への貢献という名のもとに、自衛隊の海外派兵と武力行使を解禁するものであり、憲法第9条の定める戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認に違反することは明らかである。衆議院での審議により、こうした法案の問題点は払拭するどころか、ますます明らかになる中での強行採決であった。
2.立憲主義・民主主義に反する強行採決
 そもそも昨年7月1日の閣議決定は、「集団的自衛権の行使は憲法違反」という60年以上にわたって積み重ねられてきた憲法解釈を一内閣の判断で根本的に変更するものであり、憲法解釈の枠を逸脱するものである。さらに、本年4月27日、日米両政府は、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を、現行安保条約の枠組みさえも超える「グローバルな日米同盟」に改定し、同29日、安倍首相は米国上下両院において、法案の「この夏までの成立」に言及するなど、国民主権軽視の姿勢は一貫していた。そして、多数の憲法研究者や元内閣法制局長官らが憲法違反を指摘し、各種の世論調査において国民の過半数が反対し、8割が政府の説明に納得していない現状の中で、自民、公明両党が行った衆議院強行採決は、立憲主義と国民主権・民主主義を踏みにじる戦後憲政史上最悪ともいうべき暴挙であり、断じて許されてはならない。
3.結語
 私たち法律家6団体(構成員延べ7000名)は、安倍政権による反民主主義、反立憲主義手法による戦争法案の強行採決に強く抗議し、今後とも、広範な国民とともに、憲法9条を否定し、日本を戦争する国に変え、日本国民並びに他国民の命を危険にさらす本戦争法案を廃案とするために、全力を尽くす決意であることをここに表明する。

2015年7月16日 
 改憲問題対策法律家6団体連絡会
 社会文化法律センター         代表理事  宮  里  邦  雄
 自 由 法 曹 団             団 長   荒  井  新  二
 青年法律家協会弁護士学者合同部会  議 長   原  和  良
 日本国際法律家協会         会 長   大  熊  政  一
 日本反核法律家協会         会 長   佐 々 木 猛  也   
 日本民主法律家協会        理事長   森    英    樹  
  

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2015年07月16日

東京弁護士会 会長 伊藤 茂昭

 本日、衆議院本会議において、『安全保障関連法案』が与党のみによる賛成多数で強行採決され、参議院に送付された。
 『安全保障関連法案』は、他国のためにも武力行使ができるようにする集団的自衛権の実現や、後方支援の名目で他国軍への弾薬・燃料の補給等を世界中で可能とするもので、憲法改正手続も経ずにこのような法律を制定することが憲法9条及び立憲主義・国民主権に反することは、これまでも当会会長声明で繰り返し述べたとおりである。
 全国の憲法学者・研究者の9割以上が憲法違反と断じ、当会のみならず日弁連をはじめ全国の弁護士会も憲法違反を理由に法案の撤回・廃案を求めている。法律専門家のみならず、各マスコミの世論調査によれば、国民の約6割が反対を表明しているし、約8割が「説明不足」だとしている。
 このように、法律専門家の大多数が憲法違反と主張し、国民の多くからも強い反対や懸念の表明があるにもかかわらず、『安全保障関連法案』を政府及び与党が衆議院本会議における強行採決で通したことは、国民主権を無視し立憲主義及び憲法9条をないがしろにする暴挙と言わざるを得ない。
 安倍総理自身が、「十分な時間をかけて審議を行った」と言いながら「国民の理解が進んでいる状況ではない」と認めており、そうであるならば主権者たる国民の意思に従い本法案を撤回すべきである。国民の理解が進んでいないのではなく、国民の多くは、国会の審議を通じ、本法案の違憲性と危険性を十分に理解したからこそ反対しているのである。
 参議院の審議においては、このような多くの国民の意思を尊重し、慎重かつ丁寧な審議がなされるべきであり、政府及び与党による強行採決や60日ルールによる衆議院における再議決など断じて許されない。
 あらためて、憲法9条の恒久平和主義に違反し、立憲主義・国民主権をないがしろにする『安全保障関連法案』の撤回あるいは廃案を、強く求めるものである。

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私たちは、安全保障関連法案の撤回・廃案を強く求めます!

2015年7月15日

 「二度と戦争をしない」と誓った日本国憲法の恒久平和主義が、今最大の危機を迎えている。
 現在、国会は政府の提出した「安全保障関連法案」を審議中であるが、会期を異例の95日という長期間延長し、本日、衆議院の特別委員会での採決を強行した。政府与党は、引き続き、本国会での成立を辞さないとの構えを見せ、日々緊迫の度を増している。
 安全保障関連法案は、昨年7月1日の集団的自衛権行使の容認等憲法解釈変更の閣議決定を立法化し、世界中のどの地域でも自衛隊の武力行使(後方支援)を可能とするものである。「厳格な要件を課した」と称する存立危機事態・重要影響事態等の発動の基準は極めて不明確で、時の政府の恣意的な判断で集団的自衛権が行使され、自衛隊の海外軍事行動が行われる危険性が高く、憲法9条の戦争放棄・恒久平和主義に明らかに反するものである。
 また憲法改正手続に則って国民の承認を得ることなく、憲法を解釈変更し、これに基づく法律制定をもってなし崩し的に憲法を改変しようとすることは、立憲主義および国民主権を真っ向から否定するものである。
 衆議院憲法審査会に与野党から参考人として招じられた3名の憲法学者がそろって「安全保障関連法案は憲法違反」と断じ、大多数の憲法学者も違憲と指摘している。これまでの歴代政府も一貫して、集団的自衛権行使や自衛隊の海外軍事活動は憲法9条に違反するとの見解を踏襲してきたのである。
 然るに、政府は「日本をめぐる安全保障環境が大きく変わり、国民の安全を守るためには集団的自衛権が必要」と主張し、武力による抑止力をことさらに喧伝しているが、そのような立法事実が実証できるのかは甚だ疑問である。また、政府は唐突にも、1959年(昭和34年)12月の砂川事件最高裁判決を本法案の合憲性の根拠として持ち出しているが、同判決は、個別的自衛権のあり方や米軍の国内駐留について述べたものであって、集団的自衛権を認めたものではないことは定説である。
 われわれ国民は、日本国憲法の恒久平和主義という究極の価値観のもと、様々な考えや国際情勢の中で平和と武力の矛盾に揺れながらも、戦後70年間軍事行動をしなかったという、世界に誇れる平和国家を創り上げてきたのである。政府は「国民の安全を守るのは政治家である」として、かかる歴史と矜持を、強引に踏みにじろうとしている。
 私たちは、憲法とともに歩みこれを支えてきた在野法曹の一員として、憲法の基本理念である恒久平和主義が、時の一政府の発案によって壊されようとしている現状を深く憂い、ここに安全保障関連法案の違憲性とその危険性を強く国民の皆さんに訴えるとともに、同法案の撤回あるいは廃案を求める。

昭和57年度会長 安原正之  昭和58年度会長 藤井光春  昭和63年度会長 海谷利宏  平成元年度会長 菅沼隆志  平成5年度会長  深澤武久 平成7年度会長 本林徹  平成9年度会長  堀野紀  平成11年度会長 飯塚孝  平成12年度会長 平山正剛  平成13年度会長 山内堅史
  平成14年度会長 伊礼勇吉  平成15年度会長 田中敏夫  平成16年度会長 岩井重一 平成17年度会長 柳瀬康治  平成18年度会長 吉岡桂輔 平成19年度会長 下河邉和彦  平成20年度会長 山本剛嗣  平成21年度会長 山岸憲司  平成22年度会長 若旅一夫  平成23年度会長 竹之内明 平成24年度会長 斎藤義房  平成25年度会長 菊地裕太郎 平成26年度会長 髙中正彦  平成27年度会長 伊藤茂昭
 
(2015年7月16日)

怒りもて、強行採決を安倍政権の墓標とせよ!

まずは怒らねばならない。安倍内閣に対する熱い怒りを共有しよう。この最悪の内閣が、立憲主義を蹂躙したことに。憲法九条に込められた平和の理念を放擲したことに。そして、明らかに国民世論に背を向けた民主主義破壊の暴挙に。

今日(15日)の強行採決スケジュールを決めた13日の自民党役員会で、安倍晋三は「私も丁寧に説明して(国民の)理解が進んできたと思う。」と述べたという(共同)。このノーテンキな日本国首相の言葉の軽さを信じがたいことと驚いたが、本日(15日)午前中の委員会質疑で、同じ安倍が「残念ながら、まだ国民の理解は進んでいる状況ではない」と認めたという(時事)。それでも、採決は強行するのだというその鉄面皮にさらに驚ろかざるをえない。

要するに、国民の理解などはどうでもよいのだ。「丁寧な説明」は口先だけ。恰好だけを繕って、国民の理解があろうとなかろうと、スケジュールのとおりに時至れば数の暴力で決着をつけようというだけのことなのだ。こんな連中に、国の運命を任せてはならない。こんな連中が権力を握るこの国を戦争のできる国としてはならない。

さあ、これからが怒りを行動への本番だ。戦争法案成立阻止と安倍政権打倒が行動の目標となる。

政権寄りの論者の中には、「安倍政権の支持率低下は織り込み済みで想定内の範囲に収まっている」という者がいる。はたしてそうだろうか。いま澎湃と湧き起こっている分厚い世論の批判と包囲が、安倍政権にとっての想定であったはずはない。政権は焦り、苛立っている。世論をおそれ不安を感じている。彼らは、攻勢的に与党単独採決の強行に踏み切ったのではない。このままでは、ジリ貧となって押し込まれるという危機感から、強行採決に追い込まれたのだ。

しかも、戦争法案だけではなく、いろんな問題が政権を悩ませている。いや、正確には、安倍政権の強引なやり口で闘わざるを得ない分野が数々あるのだ。

まずは沖縄だ。辺野古への移設反対の揺るがぬ県民世論は「慰霊の日」以来、反安倍の色調を露わにしている。党内の親安倍勢力の言論弾圧体質も明らかになっている。この「言論圧力勉強会」への処分に対する不満の不協和音も聞こえてくる。これに加えて、このところにわかに重要問題としてクローズアップされてきた新国立競技場建設問題だ。政権の体質を物語る事件として世論への影響が大きい。

さらに、労働者派遣法改悪に象徴される安倍政権の労働法制問題、社会福祉改悪問題、大学の自治への介入問題。そして、地方切り捨てとTPP。戦後70年談話問題も、既に政権にとっての重荷となっている。

安倍政権は、自らの悪政で多くの分野の多くの人を傷つけ敵に回している。多くの人の安倍政権打倒の共闘の条件を作っているのだ。安倍政権は、自ら墓穴を掘っているに等しい。国民へ大きな傷跡を残さぬうちの、早期退陣の条件が整いつつあるのではないか。ようやくにして、閣内からも、政権の手法についての憂慮の声が上がり始めている。

今日の強行採決を、安倍政権の墓標としよう。この墓標の下に政権の亡骸を葬り、「かつて立憲主義と、平和主義と民主主義とを蹂躙した暴君がいた」と墓標に書き込もう。
(2015年7月15日)

戦争法案許さない!! 強行採決絶対反対!! 安倍を倒せ!! 

この緊急事態に、皆さまに訴えます。しばらく、お耳をお貸しください。
何が緊急事態か。日本を戦争のできる国に作りかえる、とんでもない法案が国会の審議で大詰めを迎えて、明日にも委員会での強行採決が行われようとしているそのことです。「日本が戦争をする国になる? まさかそんなことが」「もし、そんなことになるとしてもずつと先のことでしかなかろう」などと悠長にお考えの方はいらっしゃいませんか。「『狼が出るぞ』という宣伝は聞き飽きた」、そう言ってはおられません。明日(7月15日)、「牙をむいた恐ろしい狼」が出ようとしていののです。

いま、異例の長期延長となった国会で審議中の法案を、政府与党は「平和安全法制」と呼んでいます。また、マスコミの多くは「安全保障法制」、略して「安保法制」という言葉を使っています。しかし、この法案に反対する私たちは、ズバリ「戦争法案」と名付けています。一定の要件が整えば、日本も戦争をすることができると定める法律だからです。文字どおり、日本を戦争のできる国とする法案だから、戦争法案なのです。

平和憲法は一切の戦争と武力行使を禁じたはずです。最大限譲歩しても、現に侵略を受けた場合の自衛のための武力行使に限られる。それ以外の戦争はできるはずもない。そのような常識で、戦後70年を過ごしてきた国民が、突然に安倍内閣という狼に政権を委託してしまったのです。彼は、自衛のための武力行使に限らず、集団的自衛権行使容認を明言し、いまこれを立法化しようとしているのです。他国の戦争を買ってまで、戦争に参加しようというのです。

「戦争が廊下の奧に立っていた」という有名な句があります。もしかしたら明日、「戦争が委員会室の奧に立つ」のです。その後、衆議院の本会議場に戦争が立ち、参議院の議場にも戦争が立つようなことになったら、身震いする事態です。おそらく、教室にも、新聞社にも、テレビ局にも、戦争が立つ風景が展開されることになるでしょう。

私たちは70年前、戦争の惨禍を繰り返さないことを誓って、平和国家日本を再生しました。そのとき、なぜあのような悲惨で無謀な戦争をしてしまったのか、十分な反省をしたはずです。その答の一つが、民主主義の不存在でした。

戦前、国民は主権者ではなく、統治の対象たる臣民でしかありませんでした。自分たちの運命を自分たち自身で決めることのできる立場になかったのです。情報に接する権利も、意見を発して政治に反映させる権利も、まことに不十分でしかありませんでした。平和と民主主義とは、相互に補い合う、密接な関係にあるというべきです。

我々は主権者として、戦争を可能とする戦争法案の廃案を強く求め、平和を壊す安倍政権にノーを突きつけなければなりません。我々は、選挙の日一日だけの主権者ではない。いま、安倍政権は、選挙によって多数の支持を受けたとする傲慢をひけらかしていますが、あらゆる論戦、あらゆる論壇、そしてあらゆる世論調査の結果が、民意は安倍政権から離れて、戦争法案反対派のものとなりつつあります。私たちは、その主権者の意思を表明しなければなりません。デモ・集会・メール・ファクス・ブログ、あらゆる手段で「戦争法案を廃案に」「強行採決反対」の声を、安倍政権と国会にぶつけましょう。

皆さん、とりあえず国会に出向きましょう。集会に行きましょう。デモ行進にも参加しましょう。力を合わせて、いまこそ行動を起こすとき。狼になど負けてはおられません。

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7月14日、強行採決前日と囁かれる本日は、フランスの革命記念日である。ルイ王朝打倒の市民革命が始まったとされるこの日。安倍レジームに抵抗するにふさわしい日。

昼休み時間に本郷三丁目交差点、夕刻有楽町マリオン前で、2度マイクを握った。その後、日比谷野音の総掛かり大集会に参加し、2万人余の人とともに国会までのデモに参加した。これが私の革命記念日。

集会とデモのシュプレヒコールは、「九条守れ」「戦争法案廃案」「強行採決絶対反対」は当然として、胸にストンと落ちたのは、「安倍を倒せ」だった。ラップ調で、「安倍はやめろ」「今すぐやめろ」「さっさとやめろ」が、大きな声で唱和された。

60年安保の時も、「アンポ・ハンタイ」だけでなく「岸を倒せ」のスローガンが津々浦々にこだました。いま同じように、「アベヲ・タオセ」「とっとと辞めろ」のスローガンが全国に沸き上がりつつある。

「安倍を倒せ」「強行採決絶対反対」「戦争法案廃案」は平和と民主主義の双方を救うことなのだ。
(2015年7月14日)

集会に行こう、デモに参加しようー主権者としての意思表示が必要なときだ

メディアが、一斉に「今週がヤマ場だ」と伝えている。本日(13日)中央公聴会が終了して採決強行の舞台が整ったということなのだそうだ。明日(14日)にも、衆院安保法制特別委員会の決議強行があり得ると言われ、あるいは明後日だとも伝えられ、ずれ込んでも今週中だろうなどとも囁かれている。自民党3役が「決めるべき時には決める」と口を揃えている。60日ルールを意識した採決のリミットが近づいているとのこと。

しかし、この法案の審議を打ち切っての採決強行などは狂気の沙汰ではないか。110時間審議したから議論が尽くされたなどとはとんでもない。そもそも、10本の法改正を一本にしてきたこの法案提出の乱暴さが問題なのだ。本来、10倍の時間を費やしても足りないほど。何よりも、この法案の審議を見守っている国民が、到底審議が尽くされたと認めていない。

民主主義とは熟議の政治である。徹底した議論を尽くすことによって、合意点あるいは妥協点を見出すべきことが想定されている。議論が出尽くして行き詰まり、どうしても結論を出さねばならないときに、はじめて多数決原理が働くことになる。議論を尽くさずしての採決強行を民主主義政治とは言わない。予定された審議時間を消化したからスケジュールに乗っ取って採決を、という手口は「多数派独裁」と言うほかない。

さらに、国会の論戦においては、議論の内容が国民の目によく見えて理解されることが重要である。主権者とは投票日一日だけのものではない。国会の論戦をよく見て理解した有権者は、そのことによって論戦に関わった政党やその政策の支持・批判の意見を形成することができる。何を議論しているのかわけが分からず、法案の中身も法案に賛否の根拠もよく分からぬままでの審議打ち切りは、主権者としての意思形成に支障が生じることになる。

首相は国民に「丁寧に説明する」と約束したではないか。あらゆる世論調査において、国民の圧倒的多数は、首相の説明は不十分としている。「丁寧な説明をする」という、国民への約束は果たされていないではないか。国民の大多数が「理解できていない」「首相の説明は足りない」と言っている。にもかかわらずの審議打ち切りは、国民を愚弄し民主主義を冒涜するものとして許されない。

「丁寧な説明」とは、国民に法案を十分に理解してもらい、十分な理解にもとづく国民の声にも耳を傾けるという約束でもあったはず。しかし、首相が説明すればするほど、国民の理解が進めば進むほど、この法案への反対意見が増えてくる。そもそも、主権者国民に支持をされないことが明確なこのような法案は、廃案が筋でこそあれ、採決強行などもってのほかだ。

何よりも、こんなに多くの人から、「立憲主義にもとる」「違憲法案だ」「憲法解釈の限界を超える」「これまでの政府解釈との整合性がとれない」「姑息・裏口入学的な汚い手口」と散々な酷評を得ている法案も珍しい。しかも、その実質は、国民投票なき改憲であり、壊憲なのだ。

この事態に黙ってはおられない。明らかに、民意と国会内の議席構成が大きくズレている。こんなときに、悠長に「次の選挙」を待ってはおられない。主権者としての声を上げよう。内閣と国会に、主権者として物申そう。集会に行こう、デモに参加しよう。街頭宣伝を繰り広げよう。あるいは、要請・抗議の葉書やファクスを集中しよう。主権者としての意思表示が必要なときが来たのだ。
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この時期に符節を合わせたように、朝日とNHKの最新世論調査結果が発表となった。上述のとおり、世論は、集団的自衛権行使容認自体に反対、今国会での戦争法成立反対。首相の説明は不十分、としている。注目すべきは、両調査結果とも、内閣不支持率が支持率を上回って逆転した。ワニの口が閉じたのだ。毎日の調査に続いての慶事である。朝日はともかく、「アベ様のNHK」と揶揄されるNHKの調査結果の影響は大きい。整理して紹介すれば以下のとおりである。

    安倍内閣支持率   41%(前回48%)-7
    不支持率       43%(前回34%)+9
「山が動いた」はやや大げさかも知れないが、この1か月間で、森か林くらいは動いたのだ。有権者の700万人が、「内閣支持」から「不支持」へ鞍替えした勘定になる。この逆転は第2次安倍内閣の発足以降初めてのことだというのだから、これはニュースだ。

また、注目すべきは次の回答結果
    安倍内閣が安全保障法制の整備を進めていることを
    「大いに評価する」   8%
    「ある程度評価する」 24%
    「あまり評価しない」 31%
    「まったく評価しない」30%
プラス評価計は32%、マイナス評価計61%である。

安全保障関連法案を、いまの国会で成立させることに
    「賛成」        18%
    「反対」          44%
    「どちらともいえない」 32%

これまでの国会審議で議論は
    「尽くされたと思う」   8%
    「尽くされていない」  56%
    「どちらともいえない」 28%

「安全保障関連法案は憲法違反ではない」としている政府の説明に
    「大いに納得できる」   4%
    「ある程度納得できる」 20%
    「あまり納得できない」 37%
    「まったく納得できない」29%

安倍政権を支えていた世論は、確実にしぼみつつある。代わって多数派を形成しつつある反安倍勢力の国民世論を、目に見える形として表すべき時がきている。禍根を残さぬためにも、集会に出かけよう、デモに参加しよう。

東京近郊の人は、明日(7月14日)午後6時半日比谷野音に集合しよう。久々の大集会になりそうだ。そして、久々の大きな規模のデモにもなる。
(2015年7月13日)

都知事に対する「500億円捨て金」支出の責任追及

毎日新聞署名コラムの中で、山田孝男「風知草」の論調には、歴史認識や立憲主義の理解の点で違和感が大きい。安倍晋三に招かれて、ともに会食などしているとこうなるのではないか。その山田が、国立競技場建設費問題を戦争中の戦艦武蔵の「悲劇」になぞらえている。武蔵は、世界最大の戦艦としての威信を誇示した。しかし、時代遅れの大艦巨砲主義は戦略あいまいなままに出撃して何の戦果を挙げるでもなく、巨費とともに沈んだ。両者の類似の指摘は頷かせる。安倍と会食をともにする記者の記事でさえなければ立派な記事だ。

国立競技場建設費用は2520億円!!。金額だけではなく、その金額の決め方にまつわる無責任体制が、戦争責任や原発開発とも重なる。「ドタバタ劇」として、「負のレガシー」として国民に完全に定着した。あの「読売」の世論調査でも、81%が建設計画を見直すべきだという結果である。「責任の所在があいまいなまま突っ走り、『決まったことだから』と、途中でやめることができない。これが日中戦争から太平洋戦争にかけての日本の歴史。と思っていたら、新国立競技場をめぐる問題も、そっくりです。」とは池上彰の毎日紙上発言。2520億円問題は、誰も彼も大っぴらに批判のできるテーマとなっている。

もちろん、この問題にも、諸悪の根源としての安倍晋三が絡んでいる。この競技場のデザインと、福島第1原発の放射能問題の解決が東京五輪招致成功の2本の柱だった。これを国際公約といっているわけだ。放射能は「完全にコントールされ、ブロックされています」というこちらの柱は、大ウソだったことがとっくに明確になっている。もう一つもウソとなれば、「大ウソ2本立て」。招致の根拠が崩れるというわけだ。せめて競技場のデザインだけは遺したい。これが政権と、その意を体した無責任体制関連人脈のホンネのところ。

しかし、この計画を推進するには2520億の巨費を調達しなければならない。安倍や森、下村の懐を痛めての負担ではない。身銭を切るのは国民なのだ。批判の荒波を覚悟しなければならない。政権を揺るがすことにもなりかねない。

この計画を頓挫させれば、日本の威信にかかわる? そんなことはない。安倍政権とJOCの威信でしかなかろう。安倍晋三が引責辞任すればよいだけのことだ。

何とも、無責任極まる安倍晋三・森喜朗・下村博文、そしてJOCだ。FIFAのカネまみれ体質が明らかになったが、あまり人々が驚いていない。所詮、そんなものだろうという受け止め方。商業主義蔓延のオリンピックも同様ではないのか。2520億という巨額のカネの取扱いの杜撰を見ていると、オリンピックが美しいものなどとは到底思えない。こんなに金のかかる競技場なら作る必要はない。入場式なんぞは原っぱで十分だ。雨が降ったら傘をさせばよい。そんな非常識なことはできない、というのならオリンピックなんかやめてしまえ。わけの分からぬ東京オリンピックを返上しろ。

イメージというものは恐ろしい。あのキールアーチのデザインは、最初の頃こそ斬新・清新なイメージだった。しかし、報道が積み重ねられるうちに、既に完全な負のレガシーとしてのイメージが定着した。あのデザインそのままでは、オリンピックのバカバカしさ、薄汚さのシンボルとして半永久的な語りぐさとなる。

さて、問題はここからだ。こんな馬鹿馬鹿しいものの建設費はムダ金であり、捨て金だ。捨て金の支出など許してはならない。舛添知事は、これまでは比較的常識的な姿勢で都民の支持を維持してきた。「国側からきちんとした説明をいただかなければ、都民の税金を費やすわけには行かない。」という至極真っ当な姿勢。ところが、7月7日有識者会議以来、どうも雲行きがおかしい。

舛添さん、都民の知らぬ裏の場で、安倍・森・下村などから一席設けられ、振る舞い酒に酔うなど、けっしてないように。何とはなしに話をつけて、都の財政から500億のつかみがねを支出するようなことがあれば、都民の怒りを買うことになりますぞ。500億を出したらあなたの2期目はない。オリンピックの年まで知事でいたいのなら、なによりもこの捨て金を出さないと明言することが肝要だ。

このところ多くの人が、地方財政法上、国の支出の一部を地方が負担することは禁じられていると指摘している。つまり、都財政からの500億円支出は、単に不当というだけでなく、違法なのだ。違法な支出は、都民がたった一人でも住民監査を経て住民訴訟の提起が可能である。

最終的には、知事個人が違法支出の責任をとらねばならない。応訴にもかかわらず、舛添敗訴となれば、500億円を個人として東京都に支払うよう命じられる。500億円全額回収に現実性はないものの、違法支出の抑止効果は十分に期待できる制度だ。知事や議会は多数派が握っている。多数派の横暴に歯止めをかけて、統治の合法性を確保するための貴重な制度である。

ところが、今、国立市で問題となっている一つの裁判が、この制度を無にしかねない重大な問題をはらんでいる。仮に、国立競技場の建設費の一部として舛添知事が500億を都の財政から支出し、これを裁判所が違法と認めたとする。その場合でも、都議会の自民党が舛添免責の決議を提案して議会がこれを採択すれば、東京都が舛添知事個人に対する損害賠償請求権の行使はできなくなる、というのだ。現実に、そのような地裁判決が出ている。

詳しくは、下記の当ブログを参照されたい。
2014年9月26日「株主代表訴訟と住民訴訟、明と暗の二つの判決」
http://article9.jp/wordpress/?p=3589

当該の判決についての報道は、以下のとおり。
「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟の判決が(2014年9月)25日、東京地裁であり、増田稔裁判長は請求を棄却した。
 増田裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)

今回の事例に置き直せば、以下のようになるのだ。
「先行する住民訴訟の判決で、国立競技場建設費用500億円の知事の支出は違法とされた。この判決に基づいて、東京都が原告となって舛添要一知事に500億円の賠償を求めた訴訟の判決が東京地裁であり、裁判長は原告の請求を棄却した。裁判長は『都議会は知事に対する賠償請求権放棄を議決し、知事は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」

要するに、舛添知事の責任を都議会多数派の意思次第で免責することが可能だというのである。これは制度の趣旨を根本から突き崩すものではないか。上原元市長の行為が違法であるかどうかについては私は論評を控えたい。事情を詳らかにしないだけでなく、結論がどちらでも、事例判決を一つ積み重ねるだけでさしたる問題ではない。議会で首長の責任を免責できるか否かが大問題なのだ。

住民訴訟とは、民主主義・多数決原理に限界を画するものである。住民の多数派から選任された首長が、どのような「民意に基づく行為」であったにせよ、法体系に反することはできないのだ。首長らに財務会計上の違法行為があれば、住民たった一人でも、原告となってその是正を求める提訴ができる。これを、議会の多数決で違法行為の責任を免ずることができるとすれば、せっかくの住民訴訟の意義を無にすることになる。

首長の違法による損害賠償債務を議会が多数決で免責できるとすることには、とうてい納得し難い。国立市はいざ知らず、東京都をはじめ、ほとんどの地方自治体の議会は、圧倒的な保守地盤によって形成されている現実がある。首長の違法を質すせっかくの住民訴訟の機能がみすみす奪われることを認めがたい。

もし仮に、最高裁までが議会の決議による首長の債務免責を認めることになれば、免責決議に賛成した議員の法的責任追及が必要になるものと考えている。
(2015年7月12日)

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