澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

古舘伊知郎・渾身の改憲策動批判に拍手

本日は、三題噺である。お題は、3人の人名。古舘伊知郎と菅孝行、そして忌野清志郎。

まずは、古舘伊知郎。3月18日の報道ステーションの内容が大きな話題を呼んでいる。キャスター古舘本領発揮の熱い語りかけ。歴史に残る放送ではないか。古舘流に「これぞ全国民必見」と評して過言でない。友人に教えられていくつかのURLで録画を見た。下記がそのひとつ。完全なものではないが、URLが短い。是非ともの視聴をお勧めし、拡散をお願いしたい。

  https://www.dailymotion.com/embed/video/x3ym0kc

番組の表題は、「憲法改正の行方…『緊急事態条項』ーワイマール憲法が生んだ『独裁』の教訓と緊急事態条項」。ヒトラーの台頭を許したワイマール憲法の陥穽と、自民党改憲草案「緊急事態条項」とを対比して、安倍自民の危険な動向に警鐘を鳴らすものとなっている。

古舘自身がワイマールに飛び、ナチス台頭ゆかりの故地を訪ね、強制収容所跡で記録映像を重ね、ナチスから弾圧を受けた犠牲者の家族を取材し、ドイツの法律家や憲法研究者の意見を聞く。構成がしっかりしており、映像に訴える力がある。そして、古舘の情熱の語り口が聞かせる。影響は大きいのではないか。

この番組が抉ったものは、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項がどのように使われて、ナチスの暴発を許したのかという問題性である。「最も民主的な憲法のもとでも、独裁が生じうる」そのメカニズムを検証して、安倍自民が準備している「自民党改憲草案」における「緊急事態条項」と重ねて、その類似性・危険性を警告している。

ドイツの憲法学者に自民党改憲草案の緊急条項部分を読んでもらうと、「これはワイマール憲法48条(国家緊急権条項)を思い起こさせる」「内閣が法律と同じ効力を持つ政令を制定することは危険」「財政措置まで議会の関与なく内閣の一存で決められる」「災害などには法律で適切に対処している日本で、このような憲法条項があるだろうか」という指摘は重い。

最後は、スタジオで長谷部恭男が「法律と同じ効力を持つ政令が制定できるとは、緊急時には令状なしの逮捕や捜索もできるという危険を残すこと」と、オーソドックスな解説をして締めくくっている。

当時、最も民主的で進歩的と言われたワイマール憲法であったが、その憲法の欠陥を衝いてヒトラーの独裁が成立した。これを許したのが、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項である。緊急事態に名を借りて、ナチスは全権委任法を成立させた。その結果、1933年からドイツ敗戦の1945年まで、ドイツの議会は事実上死んだ。議会制民主主義は崩壊し、法律は議会に代わってヒトラーの内閣が作った。

自民党改憲草案の緊急事態条項はこの悪夢の再現に道を開くもの、という危機感に溢れた番組構成となった。古舘は、「いまの日本で、ドイツで起こったようなこととなるわけはありません。」と繰り返している。もちろん、このフレーズに「しかし、…」と続くことがある。その語り口は、付け入る隙を与えない見事なものだ。古舘の意識的な否定にかかわらず、誰が見ても安倍がヒトラーに重なる。緊急事態条項を準備した自民党がナチスだ。

この番組の映写を集会や学習会で活用することが考えられないだろうか。ほぼ30分。これを借り出して使えるようにできないか。関係者にお考えいただきたい。

スタッフ一丸となった使命感に溢れた番組作りの姿勢に敬意を表したい。それだけでなく、古舘個人にも讃辞を惜しまない。彼には怒りのエネルギーが充満しているはず。安倍内閣やこれを支える右翼連中からの圧力への怒り。番組担当はもうすぐ終わりというこの時期に怒りのほとばしりを見事に冷静にやってのけている。

私は先日のブログに、「憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。『保育園落ちた。日本死ね』の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。」と書いた。古舘は、品良く怒りを表した。これがあっぱれ。

その反対に「憤怒の思いを、これ以上は考えられない品の悪さで表現した」典型例を引きたい。

お題の二つ目。菅孝行という人物がいる。何者とも言い難いが、彼の若き日を回想する次の一文をお読みいただきたい。

「舞芸一年目の秋には砂川基地拡張のための測量が強行され騒然となった。私たち舞芸自治会は全学連に加入して砂川町に泊りこみ、歌と踊りのバラエティーショーを仕こんで、闘争の合間のひとときを、隊列のあちこちや神社の境内でやった。
数千のデモ隊と機動隊とが対峙した夕刻の一触即発の時、「赤とんぼ」の歌が湧き起こった隊列の只中に私はいたが、あの歌の意味はなんだったのか。次々と歌でも歌ってなきゃ間ももたなかった。全くの素手でスクラムを組んでいたデモ隊には、次にくる機動隊の暴力の予感にふるえる悲鳴だったか、あるいはアメリカ軍の基地拡張への、日本人のナショナルな心情の吐露だったのか。おっちょこちょいの舞芸の連中が、折からの夕焼けシーンに乗って歌いはじめたのかもしれぬが、とても奇妙な情景だった。『赤とんぼ』の歌を打ち消すように機動隊が襲いかかり、引きずり出されては、機動隊の乱打のトンネルに次々と送りこまれていった。機動隊の暴力行為で多数の負傷者を出したこの日の流された血の代償として、政府は強制測量無期延期を決定しなくてはならなかった。」

私がこの人の文章に目を留めたのは、「歌に刻まれた歴史の痕跡」の一章として書かれた三木露風「赤とんぼ」2番の歌詞についての解釈。私の記憶では、彼は大意次のように述べている。

「十五でネエヤが嫁に行ったはずはない。ネエヤは身を売られたのだ。本当に嫁に行ったのなら、お里のたよりが途絶えることはない。当時、貧しい家の女児は幼いうちから裕福な家の子守に出され、長じては身を売られる例がすくなくなかった。露風は、子ども心に漠然とそのことを感じていたのだろう。そのことがこの歌詞のものかなしさの根底にある」

まったく自分には見えていないことの指摘を受けて、うろたえた憶えがある。

この人が、最近の「靖國・天皇制通信」に、「闘争の歌の〈品格〉とはなにか」という一文を寄稿している。これが面白い。ここに出て来る忌野清志郎が、お題の三つ目だ。

先年亡くなった忌野清志郎という過激な歌手がいた。
RCサクセションの「いけないルージュマジック」はいわれもなく挑発的に聴こえた。彼は、おかしなことを一杯やった。その一つが、タイマーズの結成である。《清志郎に「よ〈似た男」》ゼリーが率いる覆面バンドが結成され、アン・ルイスのライブとか、あちこちのコンサートに乱入して飛び入りで歌った。タイマーズとは「大麻」のことだというから、入を食っている。彼らは広島平和コンサート、パレスチナ独立記念パーティなどにも出演した。
1989年10月フジテレビのヒットスタジオR&Nに出演して、リハーサルとは全く道う、放送禁止用語に溢れたFM東京を罵倒するうたを歌って物議をかもした。奇しくも司会は、先ごろ朝日放送の報道番組のキャスターを下ろされた古舘伊知郎たった。タイマーズが罵倒ソングを歌った理由は、山口富士夫との共作「谷間のうた」、COVERS収録の「サマータイム・ブルース」、「土木作業員ブルース」などの放送禁止や放送自粛への抗議だった。因みに「土木作業員ブルース」を歌う時のいでたちは、ヘルメット、覆面姿の「武装」学生のパロディだった。

 ♪FM東京腐ったラジオ FM東京 最低のラジオ
 何でもかんでも放送禁止さ!
 FM東京汚ねえラジオ FM東京 政治家の手先
 なんでも勝手に放送禁止さ!
 FM東京バカのラジオ FM東京
 こそこそすんじゃねえ○○○○野郎! FM東京

 ♪FM東京腐った奴らFM東京気持ち悪いラジオ
 何でもかんでも放送禁止さ!
 FM東京汚ねえラジオFM東京政治家の手先
 ○○○○野郎! FM東京
 ※(セリフ)ばかやろう!
 ※(加筆)なにが27極ネットだおらあ!FM仙台おらあ!
 ○○○○野郎! FM東京!
 ※(セリフ)ざまあみやがれい! (註 菅の文章に伏せ字はない)

これ以上品の悪いうたを歌うのは難しい。しかし、YouTubeで聞いてみると、凛としていて、少なくとも私には、爽やかなプロテストソング以外のものではない。
たかがFM東京の放送禁止や放送自粛への抗議といって楼小化してはならない。権力のラジオやテレビヘの表現弾圧、メディアの自主規制という、いまでは全然珍しくなくなってしまった事態への、本質的なプロテストの姿勢がそこにはあった。タイマーズというRCサクセションを一皮剥いたマトリューシュカのようなバンドが結成されたのが、天皇代替わりの自粛蔓延の年、このFM東京罵倒ソングの誕生が、その翌年であることは決して偶然ではない。

忌野清志郎の「FM東京腐ったラジオ」のYouTubeを私も聞いてみた。なるほど菅のいうとおり「爽やかなプロテストソング」である。からっと痛快なのだ。このとき司会の古舘は、確かに「不適切な表現」を謝罪してはいる。が、まったく恐縮した様子はない。もちろん、止めにはっいてもいない。プロテストをおもしろがっている気持が伝わってくる。古舘を含む当時の業界人の暗黙の支援あっての清志郎のパフォーマンスであったろう。

菅孝行の文章は、もう少し続く。
「昨年、国会前で、茂木健一郎が、この歌の替え歌を歌った。勿論、罵倒対象は安倍と政府と与党に置き換えられていた。茂木という人物は、アヤシイ奴である。もし、茂木ではなくデモ隊本体が、腐った政府、キタネエ政府、アメリカの手先、経団連の手先、こそこそすんじゃねえと歌ったら、本歌の精神を引き継ぐ見事なリバイバルだったのに、と思う。生きていれば恐らく、忌野清志郎は、反原発の首相官邸前行動や、戦争法制反対の国会包囲の群衆の中にいて、新しいうたを作ったに違いない。」(抜粋)

プロテストの新しい歌が欲しい。プロテストの精神を大切にしたい。そのような目で「日本死ね」の文章の後半ををもう一度読み直してみよう。

不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。

これ、歌になる。古舘ほどの品はないものの、「闘争の歌」としての品格十分。立派な歌詞だ。誰か曲を付けないだろうか。
(2016年3月21日)

安倍政権下の「奇妙なナショナリズム」とは?

話題の書「奇妙なナショナリズムの時代ー排外主義に抗して」(岩波書店)に一通り目を通した。
これから、この書を手に取る方には、まず305頁の「おわりに」から読み始めることをお勧めする。この「おわりに」に、編者山﨑望の問題意識と立場性が鮮明である。何よりも、この部分は平明で分かり易い。編者であり自らも巻頭(序論)と巻末に2論文を執筆している山﨑が、ヘイトスピーチデモの風景に驚愕した心情を率直に語り、その違和感が本書のナショナリズム論の契機となったことが記されている。

ここで山﨑は、現在の政治状勢に触れて、こう言っている。
「安倍政権は『奇妙なナショナリズム』の時代に生まれた政権であり、また『奇妙なナショナリズム』を促進する政権でもある。」
「安倍政権は『日本固有』とする道徳・伝統・文化・歴史認識を国民に浸透させる意図を持つが、それは戦後の日本という国民共同体が醸成してきた道徳・伝統・文化・歴史認識とは異なる。その断絶性は「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」といったキャッチフレーズに集約されている。被害者意識を背景にした歴史修正主義(侵略、戦争責任、敗戦の軽視もしくは否定)、排外主義やレイシズムを組み込んだ文化、国家主義的な伝統・道徳の復権は、戦後に形成されてきた国民共同体を堀り崩す。時代の区切りをめぐる意見の相違はあるにしても、安倍政権は戦後日本における従来の政権とは異質であり、「奇妙なナショナリズム」に完全に符合している政権であることは確認しておきたい。」

戦後民主主義を「戦後に形成されてきた国民共同体」とほぼ同義なものとして評価し、安倍政権と安倍政権を支えるものをそれとは断絶した異質なものとして警戒する立場を鮮明にしている。その「異質」が、「奇妙なナショナリズムの奇妙さ」となるものだが、ここでは、「歴史修正主義、排外主義やレイシズム」とされている。この基調が、この書の全編を貫いている。

以上の文章にも明らかなとおり、山﨑はけっして「革新」の側に立つ論者ではない。ナショナリズムを否定的で清算すべきものとは見ていない。「戦後に形成されてきた国民共同体」に親和感をもち、「奇妙ではない・ナショナリズム」には肯定的な論調である。その山﨑にして、安倍政権下のナショナリズム模様の奇妙さ・異様さは看過できないのだ。そのことは、次の結びの言葉にいっそう鮮明である。

「従来のナショナリズムと密接に結びついてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権が危機にさらされている情況において、われわれは、ナショナリズムの在り方を考えることなくして、現状に対峙することはできない。戦後日本のナショナリズムヘの郷愁や全面肯定を警戒しつつも、人々が自らのものとしてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権をナショナリズムとの関係で、いかに「保守」もしくは発展させていくべきか。本書がこうした問いを考え、行動するための一助となれば幸いである。」

この一文は、山崎の「日本国憲法の憲法価値を、従来のナショナリズムが支えてきた」という構図を鮮明にしている。この書の全体を通じて、「保守」や「従来のナショナリズム」は肯定的に語られている。私は、「普遍性をもった日本国憲法の憲法価値に、戦前を引きずるナショナリズムが敵対してきた」という認識をもっている。ずいぶん違うようにも思われるが、いま「奇妙なナショナリズム」が跋扈して安倍政権を生み、安倍政権がこれまでの保守政権や国民意識からは断絶して、「突出した反憲法的ナショナリズム」に依拠していることにおいては異論がない。言わば、邪悪な敵出現によって、「戦後民主主義を支えた保守」も「そのイデオロギーとしての従来のナショナリズム」も、論争の相手方ではなくなった。むしろ、頼もしい味方のうちなのだ。

では、「従来のナショナリズム」とは異なる「奇妙なナショナリズム」の、奇妙さとは何か。従前には、安定的な「国民国家」が存在し、これを支えるものとして従来のナショナリズムがあった。いま「国民国家」に揺れが生じ、これまで「国民国家」を支えてきたナショナリズムも大きく揺れて変容している。

その出発点は、「グローバル化」(情報と金融の分野を中心に国境を越えて人々を結びつけるもの)と「新自由主義」(国家や共同体から人々を解放し、人間を等価な市場的存在とするもの)だという。国民国家の境界も内実も曖昧・不安定になって、再定義が求められている。これに伴ってナショナリズムも変容しつつある。山崎は、「国民国家は先進諸国を中心に、他国との境界線で明確に区切られた安全保障、社会保障、国民共同体、民主主義の四つの層(レイヤー)の結合によって形成されてきた。」と立論し、いま、その4層のすべてでこれまでの国民国家では自明であったものが掘り崩されている、とする。

だから、「(かつては)国民国家システム形成の原動力となったナショナリズムが、(いま)グローバル化と新自由主義の中で、どのように境界線を引き直し、「われわれ」を模索しているのか、多層的な単位(政治的決定の単位、安全保障の単位、社会保障の単位、経済的な単位、文化的な単位)の間にいかなる関係を構築しようとしているのか。いかなる境界線についての正当化の論理を掲げているのか。」その問いかけが必然化しているのだという。

山崎は、これまでのナショナリズムと比較して、グローバル化と新自由主義という背景を持つナショナリズムの「奇妙さ」をいくつか挙げているが、その内の興味を惹くものを要約して紹介したい。

■「被害者としてのマジョリティ」という「奇妙さ」
 少数派ではなく、マジョリティこそがむしろ様々な層における「被害者」(もしくは潜在的な被害者)であり、マジョリティが「力のない者」へ、さらには「マイノリティ」化しつつある、という自己定義をしている点に、このナショナリズムの「奇妙さ」がある。
 ナショナリズムが自らの集団の危機を訴えること自体はたびたび観察されるものであるが、マジョリティでありつつも「想像された強者であるマイノリティ」によって被害を受けているという「被害者意識」を強く特つ点に特徴がある。この背景には、グローバル化による国民国家の融解が、既存の「力のあるマジョリティ」と「力のないマイノリティ」という図式が不明確になっているという認識がある。
 マジョリティの側がその要因を外部に求めるとき、「われわれ」の権利を侵害し「権利を得ている(と想像する)マイノリティ」や「マジョリティと同等の権利を持つ(と想像する)マイノリティ」を立ち上げ、彼らが「われわれマジョリティの権利を奪っている」という感情を高めることになる。

■レイシズムに重点を置く奇妙さ
 人々の同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向する点において、ナショナリズムの観点からは「奇妙さ」がある。従来のナショナリズムにおいても、レイシズムや排外主義の要素は存在していた。しかし既存の制度化されたナショナリズムによる国民像を逸脱して、それを解体する強度のレイシズムや排外主義が前面化し、普遍化の契機に乏しい歴史修正主義を強調する点において「奇妙さ」がある。レイシズムに基づく純化、排除や浄化を志向し、同化や統合もしくは拡張の思想ではないナショナリズムは、国民統合や国家建設を重視するナショナリズムや帝国主義的なナショナリズムの観点からは「奇妙さ」を醸し出す。その結果としてナショナリズムの特徴とも言うべき両義性が失われ、片方の要素(特殊性、排除、自然の強調)のみが重視されている点において「奇妙さ」が際立つことになる。

■「敵」とする外部の安定性の欠如という「奇妙さ」
「敵」という外部の設定によって定義すべき「友であるわれわれ」の輪郭と内容が定まるとするならば、「敵」の不安定さは、「友であるわれわれ」の不安定さを招いてしまう。とりわけ領域主権国家システムからなる国際関係のナショナリズムにおいては「敵」とされる「外部」は一定の継続性を特つことが多いが、現代のナショナリズムにおける「敵」は「変易性」が高く多岐にわたる。とりわけ日本における事例では、外国人労働者や観光客、少数民族、近隣諸国のみならず国際機関、政府、政党、マスメディア、官僚、警察、女性、若者、生活保護受給者、原爆被災者、東日本大震災の被災者、脱原発運動、フェミニスト、他のナショナリスト、学校関係者、地域住民、障害者、反レイシストなど「敵」は多岐にわたり、その変易性も高い。その点において従来のナショナリズムとは異なる「奇妙さ」を持っている。

なるほど、安倍内閣の支持勢力も、その持って生まれた歴史修正主義も、ヘイトスピーチの蔓延も、橋下徹の政治手法の一定の「成功」も、そして米大統領予備選挙におけるトランプ現象も、このような説明枠組みで思い当たることが多い。注目すべきは、「奇妙なナショナリズム」の敵としては、多国籍企業もアメリカも政権も意識されないことだ。本当の奇妙さは、このあたりにあるのではないか。

グローバル化と新自由主義⇒国民国家の揺らぎ⇒ナショナリズムの変容
という構図自体は分かるものの、一般論と具体論との連結はよく見えてこない。何が、どのように、ネトウヨに代表されるような奇妙なナショナリズム変容をもたらしたのか、このあたりの丁寧な説明が欲しいと思う。そのような診断があってこそ、安倍や橋下やヘイトスピーチを克服するにはどうすればよいのか、処方も書けることになるだろう。次を期待したい。

なお、山﨑望論文の紹介で手一杯だが、この書の全体の構成(目次)は以下のとおりである。山﨑の問題意識で下記の9論文が並んでいる。

序 論 奇妙なナショナリズム? 山崎 望
第1章 ネット右翼とは何か 伊藤 昌亮
第2章 歴史修正主義の台頭と排外主義の連接 清原 悠
    ―読売新聞における「歴史認識」言説の検討
第3章 社会運動の変容と新たな「戦略」 富永 京子
    ―カウンター運動の可能性
第4章 欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭 古賀 光生
第5章 制度化されたナショナリズム 塩原 良和
    ―オーストラリア多文化主義の新自由主義的転回
第6章 ナショナリズム批判と立場性ポジショナリティ 明戸 隆浩
    ―「マジョリティとして」と「日本人として」の狭間で
第7章 日本の保守主義 五野井 郁夫
    ―その思想と系譜
第8章 「奇妙なナショナリズム」と民主主義 山崎 望
    ―「政治的なもの」の変容
おわりに

著者のほとんどが、1970年代・80年代生まれ。若い気鋭の研究者(政治学・社会学・社会運動論・比較政治学など)らの意欲を頼もしいと思う。
(2016年3月20日)

元第五福竜丸漁労長・見崎吉男さん逝く

被曝当時の第五福竜丸漁労長だった見崎吉男さんが亡くなられた。一昨日(3月17日)の夜分遅い時刻だったとのこと。1954年3月1日ビキニ環礁での米国の水爆実験によって被ばくしてから62年後の逝去。享年90。ご冥福をお祈りする。

お目にかかったことはない。しかし、第五福竜丸の乗組員23人のリーダーとして、かねてからお名前は伺っていた。漁労長とは、航行と漁労スケジュールの責任者である。ひとたび漁船が出港したあと、いつどこに船を廻しどこで網を下ろすか、その判断を委ねられている。一山当てるも大損するも、漁労長の腕と判断次第なのだ。

夢の島の第五福竜丸展示館には、彼自筆の「船内心得」が展示されている。元は船内の操舵室に貼ってあったもの。一部は剥落しているが、「新しき出発、新しき束縛」と表題した長文のこの掲示物は、筆跡といい、行き届いた文章といい、見事というほかはない。

ごく一部分だが、末尾の文章を抜粋する。
「協同生活に一番大事なことは、才能のある人とか立派な仕事をする人が大勢集まる事ではない。それよりもその人が加入する事によって協同生活が何らかの形でプラスになるような人を一番必要とする。
 そして、信頼と団結によって力強い誇り得る傳統を生み、愛する人々の期待にそむかない最良の航海を続けなければならない。」

次の箇条書きの心得もある。
「時間を厳守すること
 出航及作業前の飲酒を厳禁す
 船中の賭博行為を厳禁す
……
一々の事故に関しては今更説明を必要としない
各々立派な良心の所有者である故」

時に、見崎は28歳。驚くほかはない。なお、乗組員の最年長が無線通信士久保山愛吉の39歳。平均年齢は25歳であった。

被曝後、23人は急性放射線障害で、東大付属病院と東京国立第一病院(現国立国際医療センター)に分かれて入院する。見崎は東京国立第一病院入院中にも旺盛に手記を書いている。リーダーとして、他の乗組員を気遣っていることがよく分かる。展示館の所蔵物のなかに、デパートの包装紙をつなぎ合わせた3メートルもの巻紙に彼が書きつづったものが残されている。その抜粋の次の文章が、展示館が作成した図録に収録されている。
「…あらゆる言論機関はいっせいに立ち上がり、あらゆる角度からこの事件にメスを入れ、世界の世論は沸き立ち、当事者である私は事件のただならぬために苦悩の連日。嵐に飛ばされた木の葉のそんざいそのまま病院に収容され、暖かい日本中の人びとにまもられて日時を経過した。そして、水爆禁止が大きく叫ばれた。…事件以来の米国側の言明に対し無条件で私は叫ぶ。そして悲憤の涙を流す。乗組員の幾多の悲惨なる姿、ニュース、映画、雑誌に新聞はもちろん。私はたまらない、彼らの心中を思うと。我々は無関心ではない。名誉毀損、彼らの言明により全員に与えた心の動揺に対する償いを要求する。」

その見崎も、事件後しばらくは被曝体験を語っていない。「「第五福竜丸」が「ビキニ事件」による被ばくの象徴のように扱われ、船員に対する世間の偏見、無理解にも深く傷ついた。」(静岡新聞)からであろう。時を経て、「地元中学校から依頼を受けたことをきっかけに2002年からは市民や子供たちに自身の経験について語る活動を続けてきた」(同)という。また、「事件から50年となる2004年前後から被曝体験を公の場で語り始め、06年には被曝経験などを手記にまとめて自費出版した。講演などの活動を続けていた」(朝日)

「第五福竜丸展示館30年のあゆみ」に、見崎の次の談話が出ている。全文を掲載する。
「船が夢の島で発見されて保存庫とが話題になったときに夢の島に新聞社の人に連れられていったことがある。改装されていたけれど、まさしく福竜丸の面影は残っていた。しかし、ゴミのなかにもぐってしまって、こりゃ保存するといっても何年もかかるなあ。それだったら解体して海に沈めて最後はきれいにしなさい、私はその時はそう思ったね。
 よく展示館を作ったよね。焼津に保存してはどうか、とかいろんな意見があった。敷地もいるし金もかかる。よほど熱心に保存をすすめないと実現しない。当時いい人がたくさんいたよなあ。都では美濃部さん、保存に協力した。最初、静岡では、被爆者の会の杉山秀夫さんなどが保存の会をつくって尽力した。私も声を掛けられたよ。その当時の焼津のえらい人は、保存に関係したいと思ってなかったね。当時の市長も「焼津の市政と第五福竜丸は何ら関係ない」と市議会でも答弁した。静岡県でもやらない。
 ではどうするか、沈めるか、大平洋のど真ん中へ持ってって沖で放置すりゃ、流されてアメリカに着くか、潮流はそうなってるから。アメリカが拾ってくれりゃいいからね。黒潮へもっていって沈めよう、さっぱりしていいじゃないか。それが焼津の意見だったね。
 でも若い衆の新聞の投書とかあって、保存の運動になった。美濃部さんと部も協力したわけだね。平和運動は本来は国をあげてやるべきことだと思うね。部に「おまかせ」という感じだね。しかし、人に見てもらえるようにしたのは素晴らしい。保存した人たちに感謝したいね。第五指竜丸は一つの漁船にすぎないが、原水爆というのは人類の犯罪ですよ。これをやめようじゃないか、と訴えているその象徴になってる第五福竜丸、それを作った東京都と運営している平和協会の存在は大きいね。保存のだめに、展示館建設のために働いた大勢の人たち、日本全国の人たちが取り組んだね。それを伝えて、この歴史を大事にしていきたいよね。みんなの力、日本の宝だよね。これからも福竜丸が原水爆のことを伝えて、展示館が役割を果たしてくださるこを願ってます。」(
2005年12月4日談)

歴史は貴重な証人を失ったことになる。公益財団法人第五福竜丸平和協会からも、Eメールで見崎さんの訃報が届いた。その末尾に、「現在 元乗組員でご存命の方は5名となりました」とある。

この方たちの存命のうちに、原水爆の廃絶を実現し、核による放射線被害のない世界を到来させたいものと思う。
(2016年3月19日)

硬骨のジャーナリスト溝口敦が「不注意で視聴者の会賛同」

「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものがある。
「国民主権に基づく民主主義のもと、政治について国民が正しく判断できるよう、公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体です」と自ら称している。「国民主権」「民主主義」「公平公正な報道」そして、「知る権利の擁護」というのだから、一瞬これはリベラル派の市民運動組織かと思い込みはしないだろうか。

「政府が『右』というときに、『左』とは言えない」と、歴史に残る名言を吐いた「国営」放送局の会長を糾弾して、「公平公正なNHK報道を求め、国民の『知る権利』を守る活動を行うリベラル市民団体」のことではないかと、いかにも間違いが起こりそうではないか。

もちろん、呼びかけ人や賛同者の名前を見れば、誤解は吹っ飛ぶ。すぎやまこういちであり、渡部昇一であり、西修、東中野修道、呉善花、小堀桂一郎、西岡力等々のおなじみの面々。なるほど、ものは言いよう。「公平公正」とはアベ政権擁護の立場のこと、「国民の知る権利を守る」とはアベ政権の言い分を国民に浸透させること、「国民主権」も「民主主義」も政権の正当性の根拠の説明限りのもの。権力から独立してこそのジャーナリズム、という認識はない。

これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。

変わり映えのしない狭い右派人脈の名の羅列だが、その中で、たった一人、思いがけない名前を見つけて驚いた。「溝口敦」という名。これはインパクトがある。

この会のホームページを閲覧すると、13人の「賛同者」がメッセージを寄せている。そのなかの一人として、顔写真付きで溝口敦の次のコメントがある。
「NHK、民放を問わず、局の体質はゼイ弱です。ともすれば、権力と多数陣営に迎合しがちです。せめて放送法を盾に民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います。」

私は、溝口について特に知るところがあるわけではない。とりわけ彼の政治信条や政治的人脈については、何も知らない。右翼人脈との付き合いあって、こんな所に名前を出したのだろう。単純にそう思っていた。

溝口敦の名を知らぬものとてなかろう。ノンフィクション作家といってもよいし、ルポライター、ジャーナリストと言ってもよい。私の知る限り、最も危険な立場に身を置いてその姿勢にブレのない、稀代の物書きである。暴力団・創価学会・同和・サラ金・食の安全等々タブーに切り込む姿勢の果敢さにおいて、驚嘆すべき人物である。

暴力にも圧力にも筆を鈍らせることのない、不屈の姿勢においてジャーナリストの鑑のごときこの人物と、政権応援団右翼組織の奇妙な組み合わせ。奇妙ではあるが現実と受け止めざるを得ない残念な気持を印象にとどめた。

ところが、本日(3月18日)の毎日夕刊で、この「奇妙」の謎が解けた。この謎解きをしてくれた毎日の記者に感謝したい。

記事は、「特集ワイド」の「続報真相 改憲急ぐ安倍首相を応援する人々 『美しい日本の憲法』とは」という読み応えのある調査報道。

「安倍晋三首相が憲法改正を『参院選で訴える』と前のめりだ。この姿に喝采を送るのが、改憲を支持する『安倍応援団』とも呼べる人たちだ。首相に近いとされる彼らがどんな憲法観を持っているのか、有権者は知っておくべきだろう。一般には知られていない発言などを掘り起こしてみた。」というリードでその姿勢はお分かりいただけよう。記事の全文は下記URLでお読みいただける。
  http://mainichi.jp/articles/20160318/dde/012/010/017000c

記事中の「安倍応援団」の一つとして、「放送法遵守を求める視聴者の会」が出て来る。そして、記者も溝口に注目して、溝口を取材している。その結果が以下の記事だ。「溝口敦さん『不注意で視聴者の会賛同』」と小見出しが付いている。

 最後に意外な人物に登場してもらおう。暴力団問題に詳しいジャーナリスト、溝口敦さん(73)である。
 「国民の会」代表発起人でもある小川氏やすぎやま氏らが呼びかけ人となり、「公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体」として昨年設立した「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」の賛同者に名前を連ね、多くの人を驚かせた。呼びかけ人の7人全員が、安倍氏と近かったり、改憲を支持したりしている人たちだったからだ。
  … …
 溝口さんに真意を尋ねると『不注意でした』と意外な答えが返ってきた。「『放送法遵守』というから、どういう人たちが作った団体か確認せずに『賛同する』としてしまったんです」。昨秋、前触れなく届いた封書に記入し、返送しただけだという。
 改めて自身の意見を聞くと、こう語るのだ。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ。もっと批判しなきゃ。キャスターが特定の立場で批判的発言をしたっていいじゃないですか。放送法1条は放送の自律の保障をうたっている。これが前提です。高市早苗総務相の『停波』発言はそれこそナンセンス。真実と自律を保障する放送法を盾に、政治権力と戦わなきゃ」
 溝口さんは同会に寄せたメッセージで「民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います」と記していた。改憲論議についても同じことが言えるだろう。

この記事を読んで、私は胸のつかえが降りた。今日は良い気持ちだ。さすが正義漢・溝口敦の言である。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ」「政治権力と戦わなきゃ」とは、視聴者の会の主張とは正反対ではないか。それにしても、最近は右翼の言説がこれまでリベラル派が言ってきたことと紛らわしい。溝口でさえも間違うことを教訓としなければならない。

ジョージ・オーウェルの「1984年」に出て来る、真理省のスローガンを想い起そう。
  戦争は平和なり
  自由は隷従なり
  無知は力なり

 積極的平和主義とは平和憲法破壊のこと。
 公平公正とは政権批判抑制のこと。
 知る権利擁護とは政権の言い分を伝えること、なのだ。

あらためて、「視聴者の会」賛同者のコメントを見直してみる。もしかしたら、間違えた賛同者が、溝口の外にもいるのではないだろうか。たとえば、次のようなコメントに考え込まざるを得ない。

「特定の立場からの報道であるのであれば、その立場を明確に表し反論の機会を提供すべきです。中立公正を装って、特定の立場からの意見を表明することは、許されることではありません。」
「国民一人一人が、借りものの思想や価値観で判断するのではなく、自分の頭で考え判断できるようにするためには、放送内容の公平性と公正さを守ることが必須です。」
「1.マスコミは権力者である 2.権力者は国民がチェックできなければならない。」
「NHKの分割・民営化、少なくとも視聴料禁止、娯楽番組に限り双方向性で課金するようにすべし」
(2016年3月18日)

那覇地裁「沖縄戦・国賠訴訟判決」の冷酷さには承服しかねる。

昨日(3月16日)那覇地裁(鈴木博裁判長)で「沖縄戦被害・謝罪及び国家賠償訴訟」の判決が言い渡された。請求棄却。沖縄戦で筆舌に尽くしがたい被害を受けたとして、住民とその遺族79人が、国を被告としてその責任を問い、被害に対する謝罪と慰謝料の賠償を求めた訴えはすべて斥けられた。空襲被害国家賠償訴訟も同様だが、原告となった被害者の無念の思いはいかばかりであろうか。

あらためて、国家とは何か、国家が引き起こす戦争という罪悪とは何か、国家は国民にいかなる責任を負っているのかなどを考えさせられる。

我が国のは、戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという決意を原点として新たな国を作った。その戦争の惨禍が、具体的な被害実態として法廷に持ち込まれたのだ。この被害をもたらした国家の責任を問うために、である。この課題に司法は、正面から向き合っただろうか。

2014年3月に、高文研から「法廷で裁かれる日本の戦争責任」という大部な書籍が刊行されている。戦争の被害と国家の責任について法廷で争われた各事件について、担当弁護士のレポートを集大成したもの。大きく分類して、日本軍の加害行為によって対戦国の被害者が原告になっている事件と、日本人の戦争被害者が原告になって国家に被害救済を求めた事件がある。前者の典型が、従軍慰安婦・強制連行・住民虐殺・細菌兵器・毒ガス兵器・住民爆撃事件など。後者は、原爆投下・残留孤児・東京大空襲・大阪空襲訴訟・シベリア抑留訴訟などである。その編者が、瑞慶山茂君。私と同期で司法修習をともにした、沖縄出身の弁護士。今回の「沖縄国賠訴訟」の弁護団長でもある。

私は、たまたまこの書の書評を書く機会を得て、民間戦争被害者が被害の救済を得られぬままに放置されている不条理への瑞慶山君の並々ならぬ憤りと、国家の責任を明確にしようという訴訟への情熱を知った。判決には注目していたが、彼の無念の思いも察するに余りある。

日本人の戦争被害は、軍人・軍属としての被害と、民間人の被害とに分類される。いずれも、国家が主導した戦争被害として、国家が賠償でも補償でも、救済を講じるべき責任をもつはず。しかし、「軍人・軍属としての被害」に対する国の救済姿勢の手厚さと、民間人被害に対する冷淡さとには、雲泥の差がある。いや、「雲泥の差」などという形容ではとても足りない、差別的取り扱いとなっているのだ。

昨日(3月16日)付の弁護団・原告団声明のなかに、次の1節がある。
「被告国は、先の大戦の被害について恩給法・援護法を制定して、軍人軍属には総合計60兆円の補償を行ってきたが、一般民間戦争被害に対しては全く補償を行ってこなかった。沖縄戦の一般民間戦争被害については、その一部の一般民間人については戦闘参加者として戦後になって認定し補償を行ってきたが、約7万人の死者と数万人の後遺障害者に対しては謝罪も補償も行うことなく放置している。ここに軍人軍属との差別に加え、一般民間人の中にも差別が生じている(二重差別)。そこで、この放置された一般民間戦争被害者のうち79名が、人生最後の願いとして国の謝罪と補償を求めたのがこの訴訟である。
 にもかかわらず、那覇地方裁判所は原告らの切実な請求を棄却したのである。基本的人権救済の最後の砦であるべき裁判所が、司法の責務を放棄したものと言わざるを得ない。」

戦後の日本は、軍人軍属としての戦争被害には累積60兆円の補償をしながら、民間被害にはゼロなのである。「60兆円対0円」の対比をどう理解すればよいのだろうか。これを不合理と言わずして、何を不合理と言えるだろうか。

過日、福島第1原発事故の刑事責任に関して、3名の最高幹部が強制起訴となった。
「あれだけの甚大な事故を起こしておいて、誰も責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」という社会の常識がまずあって、しかる後にこの社会常識に応える法的構成や証拠の存在が吟味されたのだ。私は、このようなプロセスは真っ当なものと考える。

同じことを国家の戦争責任と民間被害救済についても考えたい。「あれだけの甚大な戦争被害を生じさせておいて、国家が責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」から出発しよう。

国家が違法な戦争をした責任のうえに、個人の戦争被害救済をさせるのに障害となる大きなものが二つある。一つは、日本国憲法によって国家賠償法ができる以前の常識的な法理として、「国家無答責」の原理があったこと。国家権力の行使に違法は考えられない。損害賠償などあり得ないということ。昨日の判決もこれを採用した。そもそも損害賠償の根拠となる法がないということなのだ。

そして、もう一つの壁が消滅時効の成立という抗弁である。仮に、戦争被害に損害賠償債務が生じたとしても、時効が完成していて70年前の被害についての法的責任の追及はできない、ということ。

この両者、「国家無答責の壁」と「時効の壁」を乗り越える法的構成として、「立法不作為」の違法が主張されている。軍人軍属への補償だけではなく、民間人の戦争被害についても救済しなければならないにもかかわらず、これを放置したことの違法である。

軍人軍属にばかり手厚く、民間に冷淡なこの不公平は、誰が見ても法の下の平等を定めた憲法14条に違反する、違法な差別というべきだろう。「人の命に尊い命とそうでない命があるのか。救済が不十分なのは憲法の平等原則に反する」というのが、原告側の切実な訴えである。不当な差別があったというだけでは、賠償請求の根拠にはならないが、立法不作為の違法の根拠には十分になり得る。

ところが、昨日の那覇地裁判決はこの、「60兆円対0円」差別を不合理ではないとしたのだ。「戦争被害者は多数に上り、誰に対して補償をするかは立法府に委ねられるべき。軍の指揮命令下で被害を受けた軍人らへの補償は不合理ではない」と判断したという。

もう一度、常識的感覚に従って、全体像を眺めてみよう。
「『軍官民共生共死の一体化』の方針の下、日本軍は住民を戦場へとかり出し、捕虜になることを許さなかった。陣地に使うからと住民をガマから追い出したり、スパイ容疑で虐殺したり、『集団自決(強制集団死)』に追い込むなど住民を守るという視点が決定的に欠けていたのである」「判決は「実際に戦地に赴いた」特殊性を軍人・軍属への補償の理由に挙げるが、沖縄では多くの住民が戦地体験を強いられたようなものだ。(沖縄タイムス3月17日社説)」

にもかかわらず、軍人軍属にあらざる民間人の救済は切り捨てられたのだ。血も涙もない冷酷な判決と言うしかなかろう。こんな司法で、裁判所でよいものだろうか。健全な社会常識を踏まえた「血の通った裁判所」であって欲しい。このような判決が続けば、裁判所は国民の信頼を失うことにならざるを得ない。
(2016年3月17日)

東京は思想・信仰弾圧の野蛮都市だ。オリンピック開催都市として恥ずかしくないか。

安倍晋三は「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら呼んでいただきたい」と言った。私は、右翼も軍国主義者も大嫌いだ。しかし、保守政治家一般を毛嫌いしているわけではない。むしろ正統保守には、しかるべき敬意を払ってきた。舛添要一という人物にも、それなりの評価を惜しまない。石原慎太郎に比べては気の毒だが、あんなものよりずっとマシなのは確かだと思ってきた。

しかし、時に評価は揺れる。オヤオヤこれは見損なったかと思わざるを得ないこともある。たとえば、昨日(3月15日)の都知事定例記者会見。下記のURL映像をご覧いただきたい。
 http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2016/160315.htm

全体で14時から14時22分までの短いものだったが、「週刊金曜日として取材のフリー記者」氏が質問している。知事は、この記者の質問をはぐらかすことなく答えている。質問と回答の全部の映像が公開され、文字情報としても起こされている。この透明性には好感が持てる。しかし、その回答の内容には、落胆せざるを得ない。舛添知事は、「日の丸・君が代」問題に関しては、何も知らない。部下から何も教えられていない。そして、何も考えようとしていない。

記者の質問のテーマの一つが、「日の丸・君が代」関連処分に関連する服務事故再発防止研修の問題だった。「過度の『研修』強要は、それ自体が思想・良心の侵害であり、イジメに等しい人権侵害ではないか」。それが、記者の問題意識だった。しかし、残念ながら知事はこの問題自体を理解できていない。さらに、記者とのやり取りの中で、「日の丸・君が代」強制問題に関する認識の浅薄さや、誤謬をさらけ出した。

関連の質疑応答部分を以下に摘記する。

【記者】知事の人権認識について伺いたいと思います。知事は昨年10月のヒューマンライツ・フェスタという人権を考えるシンポジウムに出席されまして、人権尊重都市東京とか、価値観の多元性の大切さということを説かれ、この記者会見の席でも同じ趣旨のことを何回か言われていると思います。それを踏まえて伺うのですけれども、…都立学校の卒業式、入学式の問題なのですが、不起立などの職務命令に違反した教職員に、再発防止研修というものが行われています。これは、なぜ不起立だったのかということを反省させるような研修でございまして、2015年度の場合は(一人の人に)6回も行われているのです。これはいじめのような、人権を侵害するものではないかと思うのですけれども。このことについて2004年には東京地裁が、『繰り返し何回も自分の非を認めさせるような研修を受けさせるのは違憲の可能性がある』という決定を出しておりまして、やはりこういう再発防止研修も、人権という観点から実態を調査していただいて、例えば、処分された先生に話を聞くというような、そういうお考えはないか、お答えをお願いします。

【知事】国旗・国歌の問題なのですけれども、これもいつもお話ししていますように、日本国憲法のもとにおいてきちんと制定された国旗・国歌の法律があります。したがって、それは法律違反をしていいということにはならないと思います。そこから先、どういう形でそれをやるかというのは、教育庁を含めての大きな方針だと思いますので、そこは、私は教育庁の方針でしっかりやってもらって、やはり教育の場にいる者が法律を平気で違反するというのはどうなのかと思うので。

【記者】そこをいつもおっしゃるのですが、国旗・国歌法というのは、起立しなければいけないとか、歌わなければいけないということは一切決めていないのです。単に日の丸を国旗にします、君が代を国歌にします、ということしか決まっていなくて、要するに強制するという法的な根拠はないのです。
 それで伺いたいのは、何回も何回も同じようなことを繰り返して、反省させるというあり方が、教育の場にふさわしくない、教師へのいじめではないかということなのです。

【知事】そこを何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。

「反知性の極右知事」から「知性豊かな学者知事」に代わって、事態は「強権強行の膠着」から抜け出て「対話による解決」への展望が開けるものと希望をもった。ところがどうも、「学者知事の知性」は買い被りだったのかも知れない。舛添知事は、思想・良心の自由にも、個人が国家をどうとらえるかという価値観の多元性も、行政の教育への支配の謙抑性にも、ほとんど関心をもっていないのだ。国旗国歌法というわずか2か条の法律にも目を通したことがない。「国旗国歌法には、『日の丸・君が代』強制を正当化する根拠条文が、何か書き込まれているに違いない」と信じているようだ。恐るべき権力者の無知である。

しかし救いは十分にある。舛添知事は性格的に傲慢ではないようなのだ。「(研修の名での呼出し嫌がらせ)を何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。」と謙虚に言っている。是非、誠実に調査してもらいたい。その上で、的確な判断による人権侵害の一掃を願いたいものだ。

実は、都教委は「思想転向強制システム」と呼ばれた処分の累積加重方式実行に着手していた。これは、毎年の卒業式・入学式のたびに繰り返される職務命令違反について機械的に懲戒処分の量定を加重する、おぞましい思想弾圧手法である。心ならずも、思想良心を投げうって起立斉唱命令に屈服し、「日の丸・君が代」強制を受容するに至るまで、懲戒処分は順次重くなり確実に懲戒解雇につながることになる。

最高裁は、さすがにこれを違法とした。以来、原則として減給以上の重い処分はできなくなった。すると、猛省しなくてはならないはずの都教委はこれに代わる嫌がらせとして、服務事故再発防止研修を強化し、繰りかえしの呼び出しという弾圧手法を編み出したのだ。この点についても、よく調査していただきたい。

さて、就任以来2年を経て、「日の丸・君が代」問題を何も知らない、知ろうとしない知事に、どうすれば「日の丸・君が代」に関心を向けさせることができるだろうか。その一つの手段として、東京オリンピックパラリンピックの機会の最大限利用があろう。大いにこのビッグチャンスを利用しなければならない。

知事は、オリンピックの実施にはことのほか熱心なようだが、オリンピック憲章には、次のような美しい文言が並んでいる。
「オリンピズムの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。」「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。」「スポーツの実践はひとつの人権である。」

人間の尊厳・人権・差別の解消・友情・連帯・フェアプレー…。まさか、東京の教育現場が偏狭なナショナリズム強制の場となり、400年前のキリシタン弾圧と同じ思想・良心弾圧が行われていようとは。オリンピックのために来日する世界の人々が、知れば驚くことになるだろう。

東京オリンピック・パラリンピックは、東京都教育委員会の強権的愚行を世界に訴える絶好のチャンスである。知性ある世界の人々に、日本の首都東京で、愛国心涵養教育の名のもと、「日の丸・君が代」の強制が行われ、既に474件もの懲戒処分が行われていることを広く知らせよう。最高裁が、一定の歯止めをかけているのに、都教委の教員に対する人権侵害はいまだに終息しないのだ。

東京は、思想良心の自由を圧殺する野蛮都市である。価値観の多様性を認めず、「日の丸・君が代」強制を強行している思想・信条・良心・信仰の弾圧都市である。「日の丸」とは、ナチスのハーケンクロイツと同様の、皇国日本の全体主義と軍国主義のシンボルである。「君が代」とは、神である天皇統治の永続を願うアナクロニズムの象徴である。キリスト教徒やイスラム教徒にとって、その斉唱の強制は苦痛きわまりないのだ。現実にすくなからぬ教員が、自分の信仰ゆえにこの歌を歌えないとして処分を受けている事実を知ってもらいたい。

日本の民主主義も人権意識も、この程度のものなのだ。東京オリンピックに集う各国の人々に、オリンピック期間中に氾濫する「日の丸・君が代」が、東京都の全教員に強制されるという異常な事態であることをよく認識していただきたい。世界の知性と国際世論で、東京に抗議の声を集中していただきたい。思想・良心・信仰の自由、人権という普遍的な価値のために。
(2016年3月16日)

「保育園落ちた日本死ね」怒りのブログに、曾野綾子の「大きなお世話」

これ以上はない大きな反響を呼んだ話題のブログの冒頭の一節。

保育園落ちた日本死ね!!!
 何なんだよ日本。
 一億総活躍社会じゃねーのかよ。

 昨日見事に保育園落ちたわ。
 どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。

 子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?

国会で取り上げられ、アベとその取り巻きのことさらの無視が、同じ境遇の女性を中心に大きな反発を招いた。「保育園落ちたの私だ」デモとなり、署名活動が行われて、署名簿提出にはカメラの前で厚労大臣が直接受領せざるを得なくなった。その後、アベ内閣はこの問題に真剣に取り組んでいる姿勢をとらざるを得ない事態となっている。野党も世論も、重大なテーマとしてこの問題に関心を向けている。市井のひとりのブログが、これだけのインパクトをもった例は他にないだろう。

そのインパクトの根拠は、何よりもテーマにある。多くの人が、このブログを我が身のこととしてとらえ、自分の心情を代弁したものと認識した。共感の輪を広げようと当事者意識をもったのだ。

さらに、このブログは、必ずしも「我がこと」でない多くの人にも、広く共感を得るテーマでもあることを示した。アベ政権が本気になって働く女性の立場に立とうとしてはいないことを、みんなが知っている。実のところアベの関心は、企業にとっての安上がりの労働力と、財政にとっての安上がりの保育。そして、なおざりの政策で女性の立場に立っているようなフリのパフォーマンスが成功しているか否かだけなのだ。「保育園落ちた日本死ね!!!」は、その虚妄を厳しく衝いた。「日本死ね」の本心は、「アベ政権つぶれろ」と読まなくてはならない。

それだけではない。私は、このブログが大きなインパクトをもった理由として、テーマや内容だけでなく、一見乱暴な文体も大いに寄与していると感心している。あらためて読み直してみると、怒り心頭の気持にふさわしいみごとな表現ではないか。

このブログは、間違いなく普段よくものを考えている人の文章である。知識も豊富で、論理的な思考にも長けている。別の場面では、きちんとした文章を書く能力の持ち主だ。その人が、半分は怒りのほとばしりとして、また半分はインパクトを計算して、為政者のタテマエとホンネの懸隔にみごとに切り込んだのだ。

品格だの、文体の美しさだの、日本語の奥ゆかしさだの、そんなことを言いたい人には言わせておけ、という突き放した気持ちが表れている。私は、怒りの表現にふさわしい、怒れる文体を、立派なものと称賛したい。

憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。「保育園落ちた。日本死ね」の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。

お元気だった頃の大江志乃夫さんから聞いた話。大江さんの父君は、陸軍大佐大江一二三。日中戦争で戦死した部下の遺品に胸が痛んだという。その兵士が身につけていた母親の写真の裏面に母を恋う長歌が書き込まれ、その最後に「お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん」と24回。繰りかえして「お母さん」が書き連ねてあったそうだ。

私は、この話を思い起こすたびに目頭が熱くなる。なまじの整った文章よりも、思いを書き連ねた率直さこそが、人の胸を打ち、心をとらえる。母を想う心情でも、政策への怒りでも同じことだろう。

などと思っていたところに、言わずもがなのことを言って水を差す人物が表れた。やはりこの人、と言ってよかろう。曾野綾子である。産経新聞に曽野綾子のコラムが連載されている。連載コラムの標題が、「小さな親切、大きなお世話」。3月13日のこのコラムに、曾野が例の如く、アベ政権擁護の立場からの記事を書いた。

今回の記事は「貧しい表現力が招く不幸」という見出し。「このブログ文章の薄汚さ、客観性のなさをみていると、私は日本人の日本語力の衰えを感じる。言葉で表現することの不可能な世代を生んでしまったのは教育の失敗だ」「SNSに頼り、自分の思いの丈を長い文章で表す力をついに身につけなかった成人は、人間とは言えない」というのだ。こんな右翼作家のくだらぬ世迷い言にまともに反論するのも大人げない。曾野の時代錯誤の文章には、「何をえらそうに、ちゃんちゃらおかしい」。「大きなお世話だ」。そう言っておけばよいだけのこと。

しかし、少しだけ気になるところがある。右翼曾野が、「日本死ね」の言い回しに過剰反応していることだ。「自分に都合の悪いことがあると、『日本死ね』である。別に大人げなく反論する気もないが、日本を有数のいい国だと思っている私のような人間もいるのだから、この人の方が嫌いな日本を捨てて、今すぐもっと上等な他国に移住なさればいい。」というものの言い方。

曾野の日本語力が、「日本人の日本語力の衰え」を嘆くに値するほどのものとも思えないが、それは別問題。曾野の文章の虚飾を剥ぎ取れば、「保育園落ちたくらいで政権を批判する輩は日本から出て行け」と言っているのだ。ネトウヨ言葉を借りれば、「反日非国民は日本から出ていけ」ということ。

曾野コラムに対するまともなネットの反応は、「『日本から出ていけ』とか『文章の書けない成人は人間とは言えない』とは自分が多少書けるからと言って、底辺に生きる人に思いを馳せることない随分思い上がった見解」「私はこの文書を投稿した人の悲痛な気持ちが痛いほど伝わってきましたし、自分の思いをきちんと表現していると思いました。」「実際にこの匿名の投稿がネットで話題になり、国会で話題になり、子育て世代の保護者を動かしました。ということは、多くの人を動かした文章だった…ということですよね?」というのが代表的なもの。しかし、当然のことながら、産経・右翼グループは曾野に賛意を表して一群を形成している。

曾野の言にみられるような、
「政権批判」⇒「非国民」「反日」のレッテル⇒日本から出て行け
の反知性的短絡論法蔓延の危険を過小評価してはならない。攻撃的な同調圧力や排外・排斥主義には警戒を要する。

とはいえ、「保育園落ちた日本死ね」のこのブログ。アベとその取り巻きに無視されたことがきっかけで天下の注目を浴びることとなり、さらに今度は、産経・曾野綾子コラムの「大きなお世話」で再びの話題に。政権と右翼のおかげでの知名度アップ。今年の流行語大賞は、もう決まりだべ。「保育園落ちた日本死ね」か、それとも「保育園落ちたのは私だ」のどちらかだろう。
(2016年3月15日)

財界奉仕と憲法破壊ー党大会におけるアベ総裁の決意表明

第83回自由民主党々大会にあたり、党総裁としてごあいさつを申し上げます。
大変お忙しい中、こうしてたくさんのおカネをいただいているスポンサーのみなさまにお集まりいただきました。党を代表して厚く厚くお礼を申し上げます。

厳しい時も困難な時も、我が党をカネで支え続けていただいたみなさまのお力でわれわれは昨年60年の歴史を刻むことができました。そのことを決して忘れずに、スポンサーの信頼あっての我が党であることを胸に刻み、これからも国民には上から目線で説明が足りないなどと批判はされようとも、スポンサーの皆さまには謙虚にしっかりと寄り添って歩みを進めて参ります。

先ほど友党の代表から、温かいごあいさつをいただきました。本当にありがとうございます。風雪に耐えた、我が党と御党の連立政権の基盤の上に今後も着実に財界奉仕と憲法破壊の実績を積み重ねてまいりましょう。

そしてスポンサーを代表して今年も、経団連の榊原会長から力強いごあいさつをいただきました。本当にいつもありがとうございます。末永く、持ちつ持たれつ。ますますのご支援をお願いするとともに、前もってのお礼を申し上げたい(会場:笑)、こう思う次第です。

昨年は敗戦から70年の節目の年でありました。先の大戦では、帝国の行く末を案じ皇室の弥栄を念じつつ、300万余の日本人が尊い犠牲となりました。この尊い犠牲の上に、現在の私たちの平和と繁栄があります。近隣諸国の民衆の死については、私がとやかく申しあげる立場ではございません。我が党は、けっして自虐史観には立たないのです。私は靖國に合祀されている死者の無念をかみしめ、靖國の神々の言葉に耳を傾けて、再び日本人の命と幸せな暮らし、日本の領土と領空、そして美しい海を、敵の手から守り抜いていくという大きな責任を再確認しなければなりません。そのための平和安全法制であり、戦争準備法制なのです。

日米安全保障条約改定時、またPKO法制定時、昨年の平和安全法制制定時には、相も変わらず「日本は戦争に巻き込まれる」「徴兵制が始まる」などという無責任な批判が展開されました。しかし、皆さん、私はけっして「日本が戦争に巻き込まれる」事態にはならないことをお約束します。巻き込まれるは、受動的に、心ならずも戦争に参加するという意味ではありませせんか。私は、必要なときには主体的に、そして積極的に、果敢に勇躍して戦争を始めることを躊躇しません。それが、1億総国民の命と安全に責任を持つ指導者のありかたであると確信いたします。

政財界の皆さまのなかには、我が党の議論にお詳しい人ほど、「徴兵制が復活するのではないか」「そんなことになったら、身内の者にも赤紙が来る」とご心配あるやに伺っていますが、けっして、徴兵制の復活はあり得ません。私が保障します。

広く知られているとおり、我が党の経済政策は、国民に格差と貧困を甘受させるものです。幸いに、日本国民は「格差と貧困」の進展にさしたる違和感なく、我が党の支持率は落ちていません。制度としての徴兵制を敷くことなくとも、格差と貧困の底辺には、必ずや軍役で糊口を凌ごうという十分な兵役希望の予備軍が沈殿しているのです。兵役に従事するものは、この層から十分にリクルートが可能なのです。けっして、我が党のスポンサーの皆さま方の大切なご子息を戦場に送るような愚をおかすことはありません。党総裁のワタクシが、完全にブロックすることを明言申しあげます。

なお、率直に反省の気持を込めて申し上げます。これまで私たちの先輩方は、毅然として日本国憲法の平和主義を壊滅させることに不十分でした。憲法を壊そうとして国民の抵抗に遭って果たせず、十全の戦争体制を構築することにおいて不徹底の誹りは免れません。そのため、日本国憲法は70年間一字も手を付けることができないまま生き残り、これを支持する国民世論も健在です。ですから、残念ながらいまだに我が国は、主権国家として戦争の一つもできない状態が続いているのです。これでは近隣諸国から侮られてもやむを得ないではありませんか。平和安全法制という名の戦争法が制定されても然りなのであります。

それでも、先般北朝鮮が弾道ミサイルを発射した際、日米は従来よりも増して緊密にしっかりと連携して対応することができました。戦争準備もやむなしとする世論も多少は大きくなったような気がして心強い限りです。北の指導者には、よいタイミングで行動を起こしていただいたことに、御礼を言いたい気持なのであります。

日本を守るためにお互いが助け合うことができる日米の軍事同盟は、その絆を間違いなく強くしたんです。この平和安全法制を、民主党は共産党とともに廃止しようとしています。みなさまご承知のように、共産党が一番悪い。共産党が諸悪の根源なのです。ナンデモハンタイ、キョーサントー。

共産党は、平和を守るなどと言います。けっして戦争はしない。そのために、軍隊の存在は危険だ、などと平気で口にします。「憲法9条は非武装中立を求めている」「安保条約は軍事同盟だから、日本をアメリカの戦争に巻き込む危険がある」などと、彼らの主張はとんでもないことなのです。それだけではありません。格差も貧困もあってはならないなどと、これも本気になって危険なことを口走っています。こんな危険な政党と、民主党は野党共闘をしようというのです。

共産党の目標は自衛隊の解散です。直ちに解散という方針はもっていないようですが、自衛隊は存在する間は活用しつつも、いずれは災害援助隊などに再編成していく方針ではありませんか。量的にも質的にも軍事力を拡大強化しようという我が党の方針とは明らかに真逆な立場です。そして、共産党は日米安保条約を廃棄しようというのです。その上で、軍事同盟ではない、対等平等で平和な日米関係を構築しようなどと怪しからんことを言っています。

先に私は、国会で民主党議員に、「ニッキョーソ」「日教組はどうした」と野次を飛ばして、世の顰蹙を買いました。しかし、それくらいのことに怯む私ではありません。今度は民主党議員に「キョーサントー」「キミは共産党か」と、悪口を言ってやりたいと思っています。

ホントのことを言うと、野党共闘が成立したら、我が党に脅威であることは誰が見てもお分かりのこと。我が党は、スポンサーの皆さまとその息のかかった方々にはウケがよろしいのですが、広範な勤労者や農漁業者、経済的苦境にある地方、ママの会などの女性にはまことに評判が悪うございます。ですから、常に薄氷を踏むが思いで、どうしても野党共闘を切り崩さねばなりません。そのための切り札として、私自身が反共攻撃の先頭に立つことをお誓いいたします。

たとえば、こんなふうではいかがでしょうか。
(拳を振り上げて)「選挙のためだったら何でもする。誰とも組む。こんな無責任な勢力に私たちはみなさん、負けるわけにはいかないんです。」(拍手)

今年の戦いの構図は固まりつつあります。軍備を整えて戦争も躊躇することのない気概を内外に示すことで国家と国民を守ろうという「自・公連立政権」と、近隣諸国との友好関係を発展させて平和を守ろうなどと甘いことを言っている「民共の野党勢力」との戦いなのです。

昨年の9月時点では、我が党も内閣も、大きく支持率を下げてヒヤッとしましたが、何よりも賢い国民の忘却と無関心が我が党の強い味方。なんとか持ち直しそうではありませんか。

最後に強調しておきたいと思います。今年18歳、19歳の若いみなさんが、初めて1票を投じます。この若い皆さんたちご自身の未来のために、戦争も軍役も辞さない覚悟をさせることができるのは、私たち、自由民主党だけなのであります(大きな拍手)。ともにがんばろうではありませんか。
(2016年3月14日)

野党共闘の成立をもって、「厚い土着の人びとの壁」を突き崩さねばならない。

さて、今日はクイズである。
ある識者が、政治と運動の情勢について、次のとおりの発言をしているという。この発言をお読みになって、発言の主が誰だか当てていただきたい。
この問題の正解者はたいへんな知恵者だ。尊敬に値する。このクイズの出題者は、さらに高い知性の持ち主。もちろん私ではない。憲法学者の横田耕一である。

「強行採決をめぐって、これだけ広範な層からこれだけの批判が高まっているのに、何故、政府与党は馬の耳に念仏の態度で押し通そうとするのでしょうか。…むろんそこには種々の背景があります。しかし根本の由来はここ数年来の政府の相つぐ憲法じゅうりんのやり方を私達国民が結局のところ黙って見過ごして来たところにあると私は考えます。一たび既成事実をさえ作ってしまえば、一時は世論がわきたっても、やがては権力の無理押しが通って行くという事態がこれまでに重なってきたからこそ、ああいう議会政治の常識では考えられないやり方をして政府は平然としているのです。権力はもし欲すれば何事でも強行してそれに法の衣をかぶせることができるということになれば、それは民主主義の基本原則の破壊にほかなりません。私たち国民は今こそこうしたやり方にストップをかけなければ、人民主権も、したがって私たちの幸福追求の権利も、政府の万能の権力の前に否定される結果になるでしょう…。政府の権力濫用にたいして憲法や法律は本当に歯どめとして効いているのかいないのか、私たち主権者としての国民がそうした権力の歯どめとして憲法を生かす力をもっているのかいないのか、それがいままさに試されようとしております。これが現在の根本の問題点です。」

多くの人が、昨年9月の戦争法の強行採決を思い浮かべたはず。この発言の時期は、まさしく今であろう。樋口陽一さんの発言ではないか、あるいは中野晃一さんかと思った人が多かったのではないか。残念、みんなハズレだ。

正解は丸山眞男なのだという。60年安保闘争のさなか、「民主主義をまもる音楽家の集いへのアピール」として書かれた一文だそうだ。多分正解者はいないだろう。
私も、まさかこの一文が、半世紀前の60年安保の際の運動体への語りかけとは思わなかった。いまとなんとよく似た状況での、よく似た問題提起ではないか。

本日郵送された「月刊 靖国・天皇問題情報センター通信」(通算510号)の巻頭言「偏見録」として横田が書いた論文である。題して「既視感(デジャビュー)」。

横田は、上記丸山の論説を引いて、「60安保闘争は『狭義の安保闘争』ではなかった。」という。むしろ、「強行採決を境に、『安保に賛成の者も、反対の者も』含めた、『国会解散・岸を倒せ!』をスローガンとする『民主主義を守れ!』で、運動は飛躍的に拡大した」という。このことは、「『安保法制』強行採決に9条改正論者も含めて『立憲主義を守れ!』で反対している状況に似ていはしないか。」という。これが、表題を「既視感」としている所以だ。

さらに問題は、この先にある。
「60年安保の盛り上がった運動も、6月19日の『自然承認』によってほとんど終息し、学生たちが行なった『帰郷運動』は厚い土着の人びとの壁に跳ね返された」そして、「12月の衆院選挙では296議席を獲得して自民党が大勝した」と指摘する。さて、いまはどうだろうか。

横田の現状の見方は次のようなものだ。
「各地で運動は継続されているものの、残念ながら一時期の熱気は冷めつつあり、諸調査機関が示す安倍内閣の支持率は、世論調査のはらむ欠陥を認めても、低下しないばかりか増加傾向すら示しており、自民党の支持率は他党を圧倒している。選挙では、「立憲主義・安保法制」のみが争点にならないことも加味すれば、今夏の参院選挙(衆参同日選挙?)で、与党に打撃を与えることはかなり困難であり、60年末の衆院選挙の敗北が目にちらつく。」

シビアな現状認識である。60年には高揚した運動は「厚い土着の人びとの壁」に跳ね返された。いま、同じことが繰り返されはしないか。そのような無力感や敗北感に陥って「60年」の二の舞に陥ってはならない、と警告されている。しかし、たどうすればよいのか、簡単に答が見つかる問題ではない。

60年の丸山の言葉を振り返ってみよう。
「ここ数年来の政府の相つぐ憲法じゅうりんのやり方を私達国民が結局のところ黙って見過ごして来た」「私たち主権者としての国民がそうした権力の歯どめとして憲法を生かす力をもっているのかいないのか、それがいままさに試されようとしている」。これが、当時の運動の前に立ちはだかった壁だ。「主権者としての力量(不足)の壁」である。そして、今、当時と同様の立ち向かうべき壁があり、乗り越えなければならない壁となっている。

横田はいう。「この壁を崩さない限り個々の運動は実を結ばないように思われる」。この壁とは、かつて帰郷運動の学生たちをはね返した「厚い土着の人びとの壁」と等質のもの。

おそらくは、運動が後押ししての野党共闘の成立こそが、「この壁を突き崩す」唯一の切り札である。それなくしては、再び厚い土着の壁に阻まれてしまうことになる。まさしく、「既視感(デジャビュー)」である。
(2016年3月13日)

内閣法制局はねじ伏せた。裁判所が相手だこれからは。

3月11日の各紙に溢れた被災関連記事の中で、もっとも心に響いたのが朝日川柳欄の次の一句。
  泣くなとは無理をいうなよ千の風 (神奈川県 石井彰)
どんな説明も蛇足とする鎮魂の歌。心に刻んでおきたい。

3・11関連ではないが、並んだもう一句が目にとまった。
  野党より司法が相手これからは (東京都 田中通祐)
こちらの句は、大いに説明を要する。議論の出発点にもなる。

この句をつぶやいているのは、与党というよりは政権である。アベがこうつぶやいているだろうという思い做しの句。その内容の大意は二通りに読むことができよう。

一つは、弱小野党の力量不足で国会には向かうところ敵なし。ところが、意外にも司法が政権の思惑実行の壁になっている。今後は野党ではなく、司法を政敵と意識して政治を構想しなければならないという諧謔。

もう一つは、政権の意思を貫徹するために司法が邪魔になっている。司法を政権のいうことに従順な機関につくり変えてゆかねばならない、という恐るべきたくらみ。

まずは前者。
「平家物語」には、権勢を誇った白河法皇の「わが心にかなわぬもの」が挙げられている。「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の「三不如意」。アベにしてみれば、さながら司法が目の上の「山法師」というところなのだ。邪魔でしょうがないが、これだけは「賀茂川の水、双六の賽」と同様に、手を付けられない。だから、憲法の枠内での適法な政策をしようと考えるのなら、結構なことだが…。

アベの意に適わない司法の働きの具体例として、3月9日の大津地裁仮処分決定が挙げられる。稼働中の関西電力高浜原発原子炉が、29人の住民の申立を裁判所が認めたために運転停止を余儀なくされた。野党の力及ばず、国会では原発再稼働を阻止できないが、裁判所が稼働を停止する力量を持っているということを見せつけられた。

沖縄の辺野古新基地建設もそうだ。国家権力が、民意に支えられた沖縄県政を無視して強行した海水面埋立工事の続行ができなくなっている。福岡高裁那覇支部を舞台の訴訟で、3月4日政府は敗訴必至となって屈辱の和解に応じ、工事続行の停止を約束せざるを得ない事態となっている。

原発再稼働と米軍基地の建設、いずれも本来は最重要の政治課題である。政治のレベルではアベの暴走をストップできず、かろうじて司法が政権にブレーキをかけているのだ。川柳子は、これを皮肉な図として嘆いていると読める。

もう一つの解釈。
狷介なアベ政権が、司法を相手にこれを骨抜きにしようと画策していないはずはない。そういう川柳子の危惧が読み取れる。

アベは、憲法改正を悲願とする人物である。明文改憲ができなければ、憲法の理念を蹂躙することに躊躇する人物ではない。「司法権の独立」「裁判官の独立」は日本国憲法の理念実現を担保するための重要な大原則である。しかし、憲法を邪魔と考えるアベ政権が、憲法に従った裁判を忌み嫌い、司法を膝下におきたいと狙っていると考えざるをえない。

集団的自衛権行使容認の解釈改憲のためには、内閣法制局見解が邪魔として、異例の長官人事を強行までした安倍内閣である。「裁判所だけは意のままにならぬ」と嘆いているだけではなく、最高裁や下級裁判所の裁判官人事を通じての、司法の独立に挑戦することを警戒しなければならない。

1960年代の終わりから70年代の初頭に、「司法の嵐」が吹き荒れた。自民党政権の意を受けた最高裁内部の司法官僚(石田和外がその頭目だった)の裁判官人事を通じての裁判内容統制が行われた。具体的には、裁判官の思想差別による採用拒否・再任拒否、そして嫌がらせ配転等々である。当時、このことが国民的な憲法運動、民主主義運動の課題となった。

諸悪の根源は、アベ政権の非立憲主義にある。「アベ政治を許さない」は、あらゆる分野で必要なのだ。
(2016年3月12日)

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