澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「安倍9条改憲NO! 3000万署名」推進スタート文京集会

文京区内で弁護士として仕事をしています澤藤大河です。
9条改憲にノーを突きつける3000万署名のスタートに当たり、その必要性や意義、効果、運動の進め方などについて、お話しさせていただきます。

まず、緊迫した情勢について認識を共有したいと思います。
自民党憲法改正推進本部が、暮れの12月20日に「論点整理」を発表しました。改憲項目として4点があげられ、9条については次の2案が併記されています。
 ①9条1項2項を維持した上で、自衛隊を憲法に明記するにとどめるべき
 ②9条2項を削除し、自衛隊の目的・性格をより明確化する改正を行うべき

この第1案が、私たちが「安倍9条改憲案」あるいは「加憲的9条改憲案」と呼んでいる本命のもので、第2案に比べればよりマイルドに見える仕掛けになっています。一見マイルドに見えるこの「加憲的改憲案」ならさしたる抵抗を受けることなく、すんなり国民に受け容れられるのではないか。安倍政権や自民党にはそのような思惑があるものと感じられます。これから、この案が条文化されて自民党案となり、安保法制のときと同様に、公明党と摺り合わせて与党案となり、さらに維新や希望の党などの改憲勢力と摺り合わせ、その他の政党にも意見を聞いて、「憲法改正原案」としておそらくは先議の衆議院に提出されることになります。

憲法改正原案」は、本会議で趣旨説明のあと、憲法審査会に付託されて、過半数で可決されれば本会議での3分の2以上の賛成で衆議院を通過し、参議院に送付されます。参議院で同様の手続を経て可決されれば、国会が国民に発議して、国民投票が行われることになります。

改憲が発議されたら、そこから国民の改憲反対運動が始まる、などと悠長に構えている余裕はありません。改憲が発議されたら、状況は極めて厳しいものになることを覚悟せざるを得ません。国民投票運動は、原則自由です。自由は望ましいことのようですが、カネを持っている側は、膨大な費用でのCMや宣伝がやり放題です。既に、安倍政権はこのことを意識して芸能人の抱き込みを始めた感があります。

他方で公務員や教員などへは、その地位を利用した運動を禁止して締め付け、萎縮効果を狙っています。ですから、発議させないための運動が大切なのですが、これも「憲法改正原案」が作成されるまでが勝負どころと言わねばなりません。

「憲法改正原案」作成を許さない運動が必要で重要なのです。「9条改憲に手を付けたら世論から猛反発を受ける」「とうてい次の選挙を闘えない」と政治家や政党に思わせる目に見える運動、それが今提起されている3000万署名なのです。

事態は緊迫しています。ヤマ場は先のことではありません。「今年の暮れ」「来年の初め」などではなく、これから始まる通常国会が大事だと考えざるをえないのです。

この署名運動の担い手や対象の人々について、一言述べておきたいと思います。
私は、国民の憲法9条に関する考え方は、大別して3グループに分類できると思っています。
一方に、「自衛隊違憲論派」と名付けるべきグループがあります。伝統的左派や宗教的平和主義者、あるいはオーソドックスな憲法学者たちがその中核に位置しています。憲法9条の1項2項を文字通りに読んで、その武力によらない平和を大切に思う人々。このグループは、今ある自衛隊は違憲の存在だと考えます。

その対極に、「海外派兵容認派」とでも名付けるべきグループがあります。「軍事大国化推進論派」と言ってもよいでしょう。軍事的な強国になるべきが最重要の課題と考え、自衛隊を国防軍とし、集団自衛権行使を肯定する、安倍政権の無条件支持派です。日本会議などの右翼をイメージすれば分かり易いはずです。

しかし、この両翼だけではなく、その中間に最も大きなグループがあります。
今ある自衛隊は、いざというときの防衛のために存在を認める。しかし、これ以上自衛隊を大きくする必要はないし、海外に進出して武力の行使をする必要はない、と言う人々。集団的自衛権行使は否定し、専守防衛に徹すべしというグループです。実は、政府の公式見解も、3年前まではこの考え方でした。

安保法制反対運動では「自衛隊違憲論派」と「専守防衛論派」とが共同したことによって、大きな運動となりました。この両者の共闘で、「海外派兵容認派」と対決したのです。

今度の9条改憲反対運動でも、同様の構図を描かなければなりません。その場合のポイントは、専守防衛派の人々にも、9条改正の必要はないことを理解してもらうことになります。いやむしろ、安倍9条改正を許すと、専守防衛を越えた軍事大国化や海外派兵の危険性があるということの訴えが必要だと思うのです。

そのことを意識して、本日のお話しのポイントは次のようなものとしました。

☆憲法とは何か、憲法を変えるとはどういうことかについての基本の理解。
☆安倍改憲によっていったい何が起こるか
9条改憲がなされたらどうなる?
☆署名運動のなかで、出てきそうな疑問や意見と、それにどう答えるか
実践的やりとりについて
☆署名運動の影響力について

まずは、憲法とはなにかということですが、
形式的に「憲法」と名前が付けられた法律というだけではまったく意味がありません。「国家統治の基本を定めた法。政治権力とそれを行使する機関の組織と作用及び相互の関係を規律する規範。」などと言っても、大して変わりはありません。

私たちが憲法と呼ぶものは、「立憲的意味の憲法」なのです。「自由主義に基づいて定められた国家の基礎法」、あるいは、「専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく憲法」でなくてはなりません。よく言われているとおり、立憲主義とは「国家権力を憲法で縛る」思想です。日本国憲法は、そのような立憲主義憲法にほかなりません。

2018年初頭、安倍は、内閣総理大臣年頭記者会見で、「憲法は、国の未来、理想の姿を語るものであります。」と言いました。大間違いです。法学部の試験なら落第です。

日本国憲法第9条は、こう言っています。
1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

内閣総理大臣は、この条文を誠実に守らなければなりません。憲法に縛られるのです。意に染まない憲法だから、変えてしまえとは、とんでもない発想と言わねばなりません。

ところで、憲法9条をどう変えるか。自民党の具体的な改正条文案は未定です。昨年末までにはできるという報道がありましたが、「自衛隊を憲法に位置づける」を具体的に条文化するとなると結構難しいのです。

改憲条文案予想の1は、シンプルに次のようなものです。

 9条第3項 自衛隊は、前項の戦力にはあたらない

しかしこれでは、ここでいう「自衛隊」って何?という問題が出てきます。多くの人は、現状の自衛隊と思うかもしれないが、その内容はここで定められていません。行動範囲、や装備に歯止めを掛けることになりません。

予想の2は、
 9条第3項 前二項の規定は、国が外国から武力攻撃を受けたときに、これを排除するための必要最小限度の実力の行使を妨げるものではなく、そのために必要な最小限度の実力組織を前項の戦力としてはならない

これだと、集団的自衛権の行使がまったくできなくなります。
安倍改憲派に認識が乏しいのですが、現在の国際法において武力行使ができるのは、国連憲章第51条が定める「自衛権の行使」をするときに限られます。憲法98条2項は、国際法・条約を誠実に遵守することを求めているから、「自衛権の行使」を超えた武力行使は、そもそも国際法上許されないのです。

そこで、正確に言おうとすれば、元内閣法制局長官だった阪田雅裕さんが言うように、9条1項・2項に続けて…。

 第3項 前項の規定は、自衛のための必要最小限度の実力組織を保持することを妨げるものではない。
 第4項 前項の実力組織は、国が武力による攻撃を受けたときに、これを排除するために必要な最小限度のものに限り、武力行使をすることができる。
 第5項 前項の規定にかかわらず、第3項の実力組織は、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされる明白な危険がある場合には、その事態の速やかな終結を測るために必要な最小限の武力行使をすることができる。

何とも、いいかげんにしろ!と言いたくなるような複雑さ。

さて、明文改憲されたらどうなるでしょうか。
制限規範から根拠規範へ
つまり、自衛隊に関しては、「これはできない」ではなく、「あらゆることができる」へ原則が変わることになります。

たとえば、自衛隊に対する国民の協力義務という問題があります。自衛隊からみれば国民に対する協力要請を求める権利の問題です。

武力攻撃事態等における業務従事命令には、現在従わない場合の罰則はありません。しかし、自衛隊が憲法上明記される組織となれば、従わない場合の罰則が設けられることになるでしょう。

自衛隊のための土地収用も可能になるでしょう。
1889年の旧土地収用法2条1号では
「国防其他兵事ニ要スル土地」が収容対象に挙げられていました。
しかし、新憲法下の1951年の土地収用法では軍事目的収用は削除されました。
だから、成田空港という民間空港の土地収用はできても、自衛隊の百里基地の滑走路については、土地収用ができません。いまだに、副滑走路が、くの字に曲がったままです。9条改憲が成立すれば、おそらくこのくの字の滑走路は真っ直ぐ伸びることになるでしょう。

戦時中にできた陸軍成増飛行場の例があります。今は、光が丘団地になっているところ。
首都防衛に必要として、1943年6月24日、該当地区の関連地主約500人が、印鑑持参で区役所に呼び出され、買収契約が強制調印され、居住する約60戸に対し、8月末までに立ち退くよう申し渡されたということです。土地は時価より高額で買い取られたが、農作物の補償はなく、移転費用は現物支給であったそうです。7月には赤羽工兵隊成増大隊(臨時編成)が駐留開始。8月には荒川作業大隊その他諸動員隊が駐留開始。同年12月21日には飛行場が完成。これが、軍隊のやり方です。

軍事機密保護法の制定も必要になります。

軍法会議も設置されます。
このことは、自民党「日本国憲法改正草案」(2012年4月)に、
「国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く」と明記されています。
どちらも、「普通の」軍隊になるために必須のアイテムです。

軍事産業が拡大し、それに伴って軍学協同体制が拡大するでしょう。

軍事セクターが巨大化し。歯止めがきかない事態になります。
今でさえ、閣議決定で、あっという間に数千億円の防衛予算が付いてしまいます。

ジブチでこんなことがありました。
アフリカのソマリア沖での海賊対処を理由に自衛隊がジブチ共和国内に設置しているジブチ基地で、業務委託企業が雇用するジブチ人労働者の解雇をめぐる労働争議に対し、自衛隊が装甲車と銃で威嚇し、排除していたことが25日、現地関係者らへの取材で分かりました。(山本眞直)
2016年6月14日、自衛隊から営繕や調理などの業務委託を受注していた元請けのT企業が、下請け委託業者を予告なしに契約解除しました。新規に業務委託を受けたF企業(本社・横浜市)は7月24日、前下請け企業のジブチ人労働者全員の雇用を拒否すると表明しました。
ジブチ人労働者でつくる日本基地労働者組合(STBJ)によれば、全労働者(約90人)がこれに抗議し、ジブチ労働総同盟(UGTD)の支援を受けストライキで抵抗。
同24日、解雇撤回を求めて基地に入ろうとした際、自衛隊は基地正門付近で、装甲車2台と銃を構えた自衛隊員約30人が威嚇し排除した、といいます。
2017年10月26日「赤旗」報道

この人たちが、日本に帰国して、労働組合や労働争議を見る目がどうなるのだろうか。たいへん気になるところです。軍隊が民衆の運動や労働争議弾圧に使われる例は、けっして珍しいものではありません。

また、改憲後の軍事予算の膨張が気になるところです。
米国日本に迎撃弾売却へ 改良型SM3、総額150億
【ワシントン会川晴之】米国務省は9日、日米が2006年度から共同開発してきた弾道ミサイル防衛(BMD)用迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」の日本向け輸出を承認し、米議会に通知した。ブロック2Aの輸出承認は初めて。国務省は「日本の海上自衛隊の防衛能力向上に貢献する」と意義を強調した。
北朝鮮の核・ミサイル開発加速を背景に、トランプ米政権は日本に米国製武器の購入を求めており、これが第1弾となる。ミサイル4発や、発射機Mk29などが対象で、販売総額は1億3330万ドル(約150億円)を見込む。このほか、日本は1基当たり約1000億円の陸上配備型の迎撃システム「イージス・アショア」や、最新鋭ステルス戦闘機F35の追加導入を検討している。
弾頭を覆う先端部分のノーズコーンや2段目のロケットエンジンなどに日本の技術を利用している。速度が増すため、短中距離ミサイルより高速で飛ぶ大陸間弾道ミサイル(ICBM)の迎撃や、ミサイル発射直後の「ブースト段階」での迎撃にも利用できる可能性がある。米ミサイル専門家は「BMD能力が飛躍的に高まる」と指摘している。
当初は16年度中に導入を予定していたが、開発が遅れていた。17年2月にハワイ沖で初実験に成功したものの、6月の2度目の実験では迎撃に失敗した。米国防総省はミサイル本体などではなくコンピューター設定など「人為ミス」が失敗の原因と説明している。
毎日新聞2018年1月10日

オスプレイの購入
米国防総省は5日、垂直離着陸機V22Bオスプレイ17機と関連装備を日本に売却する方針を決め、米議会に通知しました。
同省の国防安全保障協力局(DSCA)によると、価格は推定で総計30億ドル(約3600億円)。2015年度の社会保障予算削減分3900億円に匹敵する金額です。
日本政府はオスプレイの購入価格として1機あたり100億円程度を想定しており、15年度軍事費に計上した購入経費も5機分で516億円でした。しかし、米側の提示した価格は1機あたり約212億円で、想定の2倍以上です。
米国製オスプレイの最初の輸出先はイスラエルの予定でしたが、同国が昨年末にとりやめたため、日本が最初の輸入国になる見通しです。このままでは、消費税増税分が社会保障費ではなく、米国の軍需産業を潤すという、異常な対米従属政治になりかねません。
DSCAが通知したのは最新鋭のブロックCで、米海兵隊普天間基地(沖縄県宜野湾市)に配備されているMV22Bオスプレイと同世代です。また、日本側が売却を求めていた関連装備としてロールスロイス社製エンジン40基や通信・航法システムなど12品目、予備の部品などを挙げました。
防衛省は19年度から陸上自衛隊にオスプレイ17機を順次配備し、佐賀空港を拠点とする計画です。
DSCAは「V22BブロックCの売却は陸自の人道支援・災害救助能力や強襲揚陸作戦の支援を高める」と指摘。同機の配備が、自衛隊の「海兵隊」化=強襲揚陸能力の向上につながるとの考えを示しました。
また、DSCAは日本へのオスプレイ配備には「何の困難もない」と述べています。しかし、佐賀空港を抱える地元の佐賀市は「(空港の軍事利用を否定している)公害防止協定が前提だ」(秀島敏行市長)との態度を崩していません。

さて、署名運動は国民との対話です。そのなかでいろんな議論が出てくると思います。その会話に出てきそうな疑問や意見と、それにどう答えるかのやりとりについて、少し考えてみましょう。実践の中で、経験を持ち寄って再度練っていけばよいと思います。

まずは、抑止力論です。自衛隊はあつた方がよい、大きければ大きいほどよい。強ければ強いほどよい。それが抑止力となって平和をもたらすのだから、などという議論。

浅井基文先生が力説されるところですが、抑止とは、元々は”deterrence”(デタランス・威嚇させて恐れさせること)の訳語で、厳格な定義のある軍事用語です。国家が敵国からの攻撃を効果的に未然に防ぐために報復という脅迫を使う軍事戦略で、核兵器の正当化のために作られた概念と言われます。

「報復する能力」と「報復する意志」の双方が必要で、ソ連脅威論の中で、「報復による脅迫」では受け入れられないと考え、「抑止」という誤訳を意図的に作り出し、アメリカの核の傘に入る1985年の防衛白書から表面化しました。

ですから、デタランスは最小限度の軍事力ではなく、相手を脅迫するに足りる武力を想定するものです。両当事国の双方がそう考えれば、限度のない軍拡競争に陥るだけのことになります。

国連憲章第51条は武力攻撃が発生した場合に限り、しかも暫定的に自衛権の行使を認めるのですから「抑止」の観念は認めません。また、日米韓は武力攻撃がなくとも、必要に応じて自衛権を行使すると言っています。軍事力と軍事同盟が、平和をもたらしているのではなく、明らかに緊張を増しているではありませんか。

(中略)

軍事的均衡は防御側不利で、軍拡競争には、日本は経済的にも耐えられません。

アンサール・アッラー(フーシ派)の弾道ミサイル保有数は、100発とも300発ともいわれます。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は1000発以上保有といわれています。一発への対応に100億円かかるとすれば、合計10兆円。それでも、完全に迎撃できるわけではない。武力に武力で対抗することは、無意味というほかはありません。「抑止」にもならないのです。

最後に、原水爆禁止署名についてです。1945年の広島、長崎の被爆があったから、日本で原爆反対の運動が起こったわけではありません。1954年第5福竜丸の被爆で、久保山愛吉さんが犠牲になるというショッキングな出来事があって、杉並区の主婦のグループが始めた原水爆禁止署名が、3200万筆を集めて原水爆禁止世界大会を実現し、被爆者救済へ社会の耳目を集め、世界的運動の中核になったのです。この運動は、米国の対日政策の変更をうながし、非核3原則を国是とし、昨年の核兵器禁止条約の採択やノーベル平和賞にまでつながっています。

平和をつくった署名活動としての学ぶべき前例だと思います。自信をもって、署名を進めようではありませんか。
(2018年1月13日)

自衛隊違憲論者も専守防衛論者も、ともに「アベ9条改憲NO!」を

A おや、いったいどうした? 新年早々、目が血走っているんじゃないのか。
B 今年は、9条改憲阻止決戦の年じゃないか。のんびりなどしておられるわけはなかろう。

A まあ、落ち着けよ。どうしてそんなに焦っているんだ。
B あのアベが、唐突に9条改憲案を口にしたのが、昨年(2017年)の5月3日。右翼の集会でのことだ。彼のスケジュールは、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたいと強く願っている」というものじゃないか。そのためには、今年2018年が天下分け目の決戦の年になる。もうすぐ始まる今年の通常国会から、闘いは始まる。実のところ、緒戦がヤマ場だ。改憲発議原案をつくらせない運動は、待ったなしだ。

A 右翼の集会って、あの日本会議の「公開憲法フォーラム」のことだね。櫻井よしこが講演をして、安倍晋三がビデオメッセージで9条改憲を口にしたというあれ。あんなところでの改憲決意やスケジュールの発表がそもそも異様だが、それにしても、天下分け目とは大仰じゃないか。

B 昨年10月の総選挙では「改憲派」議員が8割を超えたとされる。衆参両院に、改憲発議のための憲法審査会が設置されている。改憲手続き法もできている。自・公と維新が数を恃んで強行すれば、改憲発議ができる情勢になっているではないか。

A とはいえ、保守勢力が70年余にわたって、やろうとしてできなかった憲法改正。発議をして、国民投票で否決されれば、確実に安倍のクビは飛ぶ。今後何十年も憲法に手を付けることができなくなるだろう。しかも、小選挙区制のマジックで改憲派が議席の多数をとったが、国民世論は改憲に否定的だ。安倍一派が、性急にことを起こすとは考えにくいんじゃないか。
B そうでない。アベを取り巻く右翼の連中には、今こそ千載一遇のチャンスという読みがあると思う。あるいは、アベが政権の座に就いている今を措いて改憲のチャンスはない、との読み。多少の無理を承知で、改憲発議に突っ走る可能性は高い。

A そうは言っても、安倍が提案した「96条改憲」も、「緊急事態条項改憲」も、世論によってつぶされている。安倍のホンネの本命が9条改憲による軍事大国化にあることは周知の事実だが、常識的にそれは難しかろう。
B 問題は安倍の変化球だ。「戦争放棄をうたった9条1項と戦力不保持を定めた2項を堅持した上で、自衛隊の存在を明記する条文を加える」という改正案。これなら大した実害はないと国民をごまかす効果を否定できない。

A それはそうかも知れない。これまでの自民党憲法改正草案は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」という憲法9条2項を全文ばっさり削って、国防軍を新設しようとするものだ。それと比較すれば、現行の9条には手を付けず、自衛隊を憲法に位置づけるだけという安倍の改憲案は、格段にマイルドに見える。
B 自民党憲法改正推進本部が昨年暮れの12月20日に発表した「憲法改正に関する論点取りまとめ」でも、安倍の「9条1・2項存置・自衛隊条項加憲案」と、石破らの「9条2項削除論」とが両論併記となっている。こういう手法で、安倍の加憲的9条改憲提案を、おとなしいものに見せている。

A それはそのとおりだが、むしろ安倍のホンネであるゴリゴリの軍事大国路線では世論を動かすことができないという、彼らの弱さのあらわれではないのかな。
B それが、いつもながらのキミの甘さだ。9条2項をそのまま置いたとしても、「集団的自衛権行使を容認された自衛隊」が憲法に書き加えられれば、9条2項は上書きされて死文化してしまう。自衛隊は、日の当たる場所に躍り出て、一人前の軍隊としての存在となる。編成・装備・人員・予算の制限はなくなる。自衛隊は実質的に軍隊となり、国防の危機を煽って攻撃的な兵器を要求し、近隣諸国との軍事緊張を高めることになる。

A それこそ、いつもながらのキミの早急な決め付けだ。自衛隊は、法律にはその存在が明記されている。それを憲法に書き込んだとたんに性格が変わってしまうことにはならないだろう。むしろ、自衛隊の存在をきちんと認めた上で、その膨張や暴走に歯止めを掛けることが大切ではないのか。その観点からは、自衛隊を憲法に書き込み、同時に海外派兵をしないこと、侵略的な兵器をもたないこと、シビリアンコントロールに服することなどを憲法にしっかりと書き加えることも、考えられるのではなかろうか。
B 安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認する戦争法を提案したとき、キミも「安倍内閣は憲法を守れ」と声をあげ、一緒に行動したではないか。改憲派に、宗旨を変えたのか?

A そうではない。ボクは、憲法を大切に思っている。だからこそ、安倍内閣が戦争法案を国会に提出したときには、立憲主義の危機だと思った。集団的自衛権の行使という名での戦争を行うこと、巻き込まれることは平和の危機だとも思った。だから、真剣に法案反対の運動に加わった。 ところが、キミの理解だと自衛隊は憲法違反ではないということだ。やはり大甘の議論だと思うね。いま、自衛隊の膨張や、暴走に歯止めを掛けているのは、軍事力の保有を認めない9条の存在だ。自衛隊の根拠規定が憲法にないことだといってもよい。自衛隊が、「陸海空軍その他の戦力」に該当するほどの軍事的実力をもつことになれば、あるいは自衛権行使の範囲を逸脱した実力行使があれば、たちまち違憲となる。これが重要なことではないか。

A いや、自衛隊は日本を防衛する実力装置として、国民に深く信頼され、根を下ろしている。今さら、違憲の存在として放置してはおかれないものと思う。最大の問題は海外派兵や侵略戦争を絶対にさせないこと、そして自衛隊の際限のない拡大や防衛予算にどう歯止めを掛けるかということだろう。自衛のための自衛隊は今でも違憲ではないと思うし、憲法を改正して自衛隊を認めてもいいんじゃないのか。

B ボクは、前文と憲法9条が指し示す日本国憲法の平和主義は、武力による平和を否定する思想に基づくものと理解している。「平和を望むなら自国を防衛する武器を磨け」という思想の破綻という現実から9条が生まれた。「平和を望むなら武器を捨てよ」「我が国がまず武器を捨てるから、貴国も捨てよ」という思想が実定憲法となった。これを大切にしなければならない。

A それは理想論としては理解するが、現実の国際政治では通用しない。多くの国民が、そのような危険な実験をしてみる気にはならないだろう。私は、どうしても自衛のための最小限の実力は必要だと思うし、日本国憲法がその実力保持を禁じているとは思えない。
B 「専守防衛」に徹する「最小限度の実力組織」として自衛隊の存在は認めるというキミの立場は、1954年自衛隊法成立から、アベ倍が内閣法制局長官をすげ替えるまでの自民党政権の一貫した見解でもあった。しかし、専守防衛に徹すると言いながら、自衛隊は次第に巨大化し、また米軍との一体化を強める中で、その性格を変えてきたでないか。戦争法が成立した今、自衛隊は「専守防衛」でも、「最小限度の実力組織」でもなかろう。

A 私は立憲主義を尊重する立場で、専守防衛に徹する自衛隊は合憲と考えている。だから、安倍内閣の戦争法には反対をつらいたし、その法律の廃止を求める立場だ。
戦前のような富国強兵策を支える軍隊をもつ必要はないが、自衛権行使のための再使用限度の実力部隊は必要と考えざるをえない。自衛隊は、まだ他国に攻撃する編成や装備をもっているとまでは言えない。かろうじて、「専守防衛」に徹する「最小限度の実力組織」といえると思う。

B キミとボクとの間には、憲法の理解に相当の隔たりがあるけれど、アベ政権の戦争法反対運動には一緒に参加してきた。今度のアベの加憲的9条改憲には賛成なのか反対なのか?

A 正直なところ、すこしの迷いがある。立憲主義を尊重すべきだとするボクの目からは、憲法理念としての9条文言と、現在の自衛隊存在の現実との乖離は確かに大きくなっている。現実に合わせて憲法を変えるか、理念に合わせて自衛隊の現実を変えるかを考えなくてはならない。両方ともに選択肢としてはあり得るが、ボクは当面9条改憲反対を貫きたいと考えている。その何よりの理由が、安倍晋三という人物を信用することができないからだ。安倍晋三を取り巻く人脈の胡散臭さに不安を感じずにはおられない。
ボクは、当面これ以上自衛隊を大きくすることは不要だし、国防予算はもっと削ってよいと思っている。だから、安倍晋三のような、声高に戦後レジームを否定し、強い・美しい日本を取り戻すなどという政権が退場して、もっと落ちついた為政者の時代になれば、その時点で慎重に憲法改正の是非を考えたい。それまでは、キミたちと一緒に、安倍9条改憲に反対するつもりだ。

B 提案された憲法改正案には、是か非か、賛成か反対か、二つに一つの返答しかない。ということは、賛成派も反対派も、一つの思想や理念・立場でまとまったものであるはずはない。アベ9条改憲反対の理由がたったひとつであるはずはなく、多くの考え方の潮流の参加が必要だと思う。

ボクは、憲法9条は一切の武力保持を禁止していると思うが、専守防衛派のキミたちと一体となったから戦争法反対の大きな運動ができたと思っている。アベ9条改憲提案は、明らかに、これまでの護憲派を、「自衛隊違憲論者」と「自衛隊合憲論者」に分断しようという策となっている。アベのブレインは、露骨にそのことを述べてもいる。

A 私の立場は、「自衛隊合憲論」だが、それは専守防衛に徹した本当の意味の「自衛」組織必要論だ。だから、米軍の要請あれば海外にも出よう、武器使用も認めよう、もっともっと軍事力を増強しよう、沖縄の米軍基地も強化しようという安倍政権とは考え方が根本からちがう。安倍晋三の日本を軍事大国化しようという路線には絶対反対だ。
B その点が確認できれば安心だ。平和を築くためには本当に武力が必要か、これからも議論を重ねよう。議論をしつつも、3000万署名の請願のとおり、「憲法第9条を変えないでください」と一緒に言い続けよう。

A 武力不必要論で、現実に日本の領土や国民の安全を守ることができるのか、その議論を重ねつつも「憲法第9条を変えないでください」と一緒に言い続ける、それはけっこうだ。
(2018年1月13日)

官房機密費訴訟上告審ー最高裁はブラックボックスに光を当てうるか。

国の財政は国民が納めた税金によって成り立っている。国の機関が国民に税金の使途について報告の義務があり、納税者たる国民はすべての税金の使途について知る権利がある。国民が主権者である以上、あまりに当然のことだ。

ところが、これに例外がある。正確に言えば、例外としてまかり通っている「穴」がある。官房機密費(「内閣官房報償費」とも)がその典型。例年14億6000万円が予算計上され、内閣情報調査室の活動に充てる2億円ほど(これも具体的な使途は明らかにされない)を差し引いた残りの12億円余りが、官房長官の一存で使えるカネとされる。

「使途は自由、領収書は不要、会計検査院もノーチェック」だと言われている。国民への報告義務のないカネ。私的な着服があっても、流用があっても、国民の目からは覆い隠されて窺い知ることができない。検証のしようがない、まさしくブラックボックスの世界。

そんなカネだから、昔から疑心暗鬼の対象となってきた。悪いうわさが絶えない。野党工作費として使われた、首相経験者に中元・歳暮として現ナマが渡されている、世論操作のため御用評論家にばらまかれている、外遊する議員への餞別、飲み食いに使われている…。

ときに、官房長官経験者から、「これでよいのか」と問題提起がなされる。小渕恵三内閣の野中広務、民主党野田佳彦政権の藤村修など。

野中広務がメディアに漏らしたところでは、「官邸の金庫から毎月、首相に1000万円、衆院国対委員長と参院幹事長にそれぞれ500万円、首相経験者には盆暮れに100万円ずつ渡していた」という。「前の官房長官から引き継いだノートに、政治評論家も含め、ここにはこれだけ持って行けと書いてあった。持って行って断られたのは、1人だけ」「国民の税金だから、官房機密費を無くしてもらいたい」などとも。

2009年総選挙で自民党が大敗し、政権交代が決まった直後に、麻生内閣の河村建夫官房長官が2億5000万円の官房機密費を引き出したことが話題となり、告発までされた。もう政権がなくなる時点で、いったい何に使おうと言うことだったのだろうか。謎のままである。

このブラックボックスに光を当てようという試みが、市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーによる大阪地裁への情報公開請求訴訟。10年がかりの、1次~3次までの3件の訴訟で、官房機密費支出に関連する各文書の開示を求めて、いま最後の最高裁判決を迎えようとしている。

問題になっているのは、官房長官を安倍晋三が務めた2005~06年の約11億円と、河村建夫の09年の約2億5千万円、そして菅義偉による13年の約13億6000万円の、各官房機密費支出に関連する3種類の文書開示の是非。

開示請求は、5種類の文書に対して行われたが、「支払決定書」「領収書」の2種類については、3件の大阪高裁判決のすべてで原告側の敗訴となり、これは既に最高裁でも確定している。残る「政策推進費受払簿」「出納管理簿」「報償費支払明細書」の3種類の文書では、高裁の判断が割れた。

1次・2次各訴訟での大阪高裁判決は原告側勝訴となって、その開示が命じられた。一部にせよ、官房機密費の使途を明かすよう求めた訴訟での高裁認容判断は初めてだという。しかし、3次訴訟では原告側敗訴となって、原告側と被告・国側の双方が上告した。

昨年暮れの12月22日に、最高裁で弁論が行われ、上告審判決が1月19日第2小法廷(山本庸幸裁判長)で言い渡される。さて、「ブラックボックス」に一筋の光が差し込むことになるだろうか。

政権を信頼する立場からは、行政を円滑に進めるための「ブラックボックス」は必要だから情報開示の必要はない、となろう。しかし、健全な民主主義とは政権に対する国民の猜疑によって支えられるとする立場からは、財政使途のブラックボックスなどあってはならない、ということになる。

果たして、最高裁は、健全な民主主義擁護の立場に立つことができるだろうか。
(2018年1月11日)

またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」

一昨日(1月8日)の毎日新聞朝刊一面トップが、「山梨の国有地 日本航空学園に格安売却 評価の8分の1 財務省」という大見出しの記事。森友事件とよく似てはいるが、安倍政権との関係や、特定の政治家の介入は記事になっていない。格別に重要な記事とは思わなかった。印象は、「毎日のスクープだから扱いが大きいのだろう」「政権側からすれば、森友への国有地売却が特異な事例ではない、と言い訳に使うのだろうな」という程度。

毎日の視点も、政治との関わりではなかった。財務省(理財局)による国有地管理の杜撰さを問題にする内容だった。

「山梨県内の国有地を地元の学校法人が約50年無断で使い続け、管理する財務省関東財務局が把握しながら放置した末、2016年5月に評価額の8分の1で売却していたことが明らかになった。国は学校法人「森友学園」への国有地売却問題を機に国有財産の処分の適正化に着手したが、ずさんな管理と不透明な取引の実態が改めて浮かんだ」「日本航空学園に売られた土地は評価額の8分の1にまで割り引かれ、値引き幅は森友学園にも匹敵する。同省の幅広い裁量権を背景に、国民共有の財産が第三者のチェックを受けることなく、価格の妥当性を担保されないまま売り払われている実態が明らかになった」

ところが、その日(1月8日)の内に、リテラが追っかけ記事をアップした。これで、問題の風景がガラリと変わった。いつもながらのリテラの嗅覚の鋭さと筆の速さには脱帽するしかない。
http://lite-ra.com/2018/01/post-3725_2.html
リテラの記事のタイトルは、「何から何まで森友そっくり! 国有地疑惑の『日本航空学園』極右教育と安倍政権との関係」というもの。

小見出しに、「愛国心と国家防衛教育を謳う日本航空学園の極右ぶり」「日本航空学園と政治家の関係、安倍首相の盟友が理事、文科政務官が校長」など。これはただごとではない。

リテラの記事の一部を引用させていただく。
「じつはこの日本航空学園と森友学園にはもうひとつ共通点がある。それは、日本航空学園の理事長・梅沢重雄氏がゴリゴリの極右であるという点だ。たとえば、梅沢理事長は「日本文化チャンネル桜」の設立発起人に名を連ね、『日本航空学園アワー』なる番組が放送されていた。
さらに、『南京虐殺はなかった』などと主張する歴史修正本が国際的に問題となった元谷外志雄・アパグループ代表が塾長・最高顧問を務める『勝兵塾』にも、元文科大臣の馳浩議員や元航空幕僚長の田母神俊雄氏らとともに参加。…梅沢理事長はそこで『憲法についてのくだらない議論よりも教育勅語を教えることが必要』『我が国の伝統文化を教えれば10年後にはスムーズに憲法改正ができる』『国体をしっかり守りさえすれば憲法なんてどうでもいい』と話したという。」
「また、日本航空学園では、毎日の朝礼時には『君が代』とともに日の丸を掲揚、17時になると国旗降下をおこなうといい、梅沢理事長は〈この国旗掲揚と国旗降下のときは、学校中、教師も生徒も直立不動の姿勢で国旗に敬礼します。教師が会議中であっても、生徒がクラブ活動中であっても、そのときはいったん中断し、国旗に敬意を表するのです〉と胸を張っている。」「問題の国有地は、日本航空高等学校のキャンパス内だ。」「初代の義三氏による『航空教育を通して愛国の精神を培う』という建学の精神を、3代目の重雄理事長も継承しているというわけだ。」

もっとも、リテラも、米田建三・元内閣府副大臣や赤池誠章議員ら政治家の名前を挙げてはいるが、その廉価払い下げの具体的手口や、安倍政権との関わりを具体的に示し得てはいない。その記事の締め方は、「日本最大の極右団体のイベントにメッセージを寄せ、改憲をぶち上げるという前代未聞の総理大臣。その影響によって、安倍首相と同じ極右思想を掲げる団体は手厚い待遇が受けられる──。これはこの国が全体主義に近づいている証拠なのだろう。昭恵夫人の関与が決定的となっている森友問題と同じように、この日本航空学園への不当な取引にかんしても、背後関係の究明が待たれる。」となっているに過ぎない。

まさしく、背後関係に切り込むジャーナリズムの成果を今後に期待したいが、それにしても、この「学校」の異様さはただごとでない。

ゴリゴリの極右だという理事長・梅沢重雄が、日本航空学園のホームページにやたらに右翼思想を露わにしている。これが、たいへんな代物。安倍晋三の「云々(でんでん)」並みのレベルで、文章の修飾の技術に欠けるから、分かり易い点ではこの上ない。

「教育の淵源」という記事が、最もまとまっているもののようだが、かなり字数が多いので敬遠し、ブログとして31回にわたって連載された「教育勅語」解説を紹介したい。

ゴリゴリ極右・梅沢重雄が教育勅語を論じる基本姿勢は、以下の文章によくあらわれている。100年前の官製道徳を、今の世に語ることが恥だという感覚を欠如しているのだ。

「『教育勅語』は、今では時代遅れの教えであるなどという人がありますが、決してそうではなく、『教育勅語』で明治天皇がさとされた国民の本分は、昔も、今も、そして将来も変らず、永久に受けついて行かなければならない美しい道徳であり、国民の義務である、と仰せられているのであります。」

天皇の臣民などというと、時代遅れのように考える人があるかも知れませんが、日本の国体(くにがら)は万世一系の天皇をいただいていますから、天皇と国家とは一体でありますので、国民が天皇に忠実であることは、国家に対しても忠実な国民であるということです。だから立派な国民となるためには、皇室にも忠実でなければなりません。『教育勅語』は、忠孝の道からはじまって、国民の踏み行わねばならない本分を、いろいろとおさとしになったものでありますから、その教えを実行することが、立派な国民になることであります」

「前にも述べましたが、西洋や中国の歴史は、国民の皇帝に対する「反逆」の連続でありますが、日本の歴史は、このように天皇と、国民とが常に手をつなぎ合ってきた『君民一体』の伝統にかがやいています。戦前の『大日本帝国憲法』では、我が国は『万世一系の天皇が統治する』と定められていましたし、戦後の『日本国憲法』においても、『天皇は国民統合の象徴である』とされているのですから、わたくしたちは永久に天皇を中心とした、立派な国体を護持しなければなりません。

「『我カ臣民』というのは、『わが国民』と同じことで、天皇を中心とした日本の国体においては、君(天皇)と、臣(国民)とが一体であります。『克ク忠ニ』という『克ク』は『能ク』と同じ意味です。また『忠』というのは、天皇と国民が一体である美しい国がらにおいて、国民が天皇につくす道を『忠』というのですが、天皇は国民をわが子としてかわいがられ、また国民は天皇をわが親として尊敬するのですから『我カ臣民克ク忠ニ』というのは、『わが国民は立派に忠義をつくしてくれた』という、明治天皇の慈愛に満ちたお言葉であります。」

「外国の歴史を見ますと、皇帝は国民を苦しめ、国民は皇帝に反逆するという争いの連続でありますが、日本においては、天皇は日本民族の本家本元であり、国民はその分家という、切っても切れない深い血のつながりの中に、うるわしい天皇中心の日本の歴史と伝統があるのであります。

昔から日本国民は、ひとたび天皇の御命令が発せられると、みんなが一つ心になって仲良くとけ合ったり、力を合わせて団結したりして、日本の国を守ってきました。例えば、蒙古が中国を攻め取り、朝鮮半島の高麗国の軍隊をしたがえ、十数万の大軍をもって九州の博多湾に二度まで押し寄せましたが、その時の亀山上皇は、伊勢神宮にお参りになって、『身をもって困難に替えさせ給え』と天照大神の霊前にお祈りになり、また、国民もあらゆる困難に耐えて、敵軍を完全に追い払ってしまったことなどは、そのよい一例といえましょう。」

国民が常に、天皇のもとに一つ心になり、忠孝の道を、わが国の美風として守り、育ててきたのは、他の国々では見られない、日本の美点であることを、お述べになったのであります。
 そして、わたくしたち国民は、『万世一系』の天皇を、国の中心と仰いできたのでありまして、外国の歴史で見るように、国民が血を流して、力ずくで、皇帝の座を奪い取るようなみにくい争いは、二千六百年の長い日本の歴史において、今日までいちどもありません。これはほんとうに、世界に誇ることのできる、日本の美風であります。」

「国民は国に対しては、忠実に義務を守り、また親に対しては、孝行をつくし、国民全体が心を合わせて、美しい日本の伝統を、いつまでも受け継いで行くように心がけねばならないということを、国民に教え守らせるようにすることが、教育の根本でなければならない、と明治天皇はおさとしになっているのです。
ちかごろは、日本国民としての本文を守らず、国に対する責任もわきまえず、子としての親への孝養をつくさず、また、国民同士が互いに争いあっているのは、戦後の教育の根本方針が、間違っているからです。

「『国憲』というのは『国の根本の定め』の意味ですから『憲法』のことであるともいえます。また「国法」というのは、いろいろな「法律や規則」などのことです。
憲法は、国のあり方の根本の原則だけを定めたものでありまして、くわしい規則は、それぞれの法律や規則によって定められております。だからこの一句の意味は『国民は平時においてはもとより国のおきてを尊重し、法律の定めにしたがわなければならない』と、お示しになっているのです。
現在の憲法では、国民の個人の権利が非常に尊重されておりますが、しかし自分の権利を通すために、社会公共の福祉に反してはいけない、とも定められています。つまり他人に迷惑をかけても、自分の権利だけを押し通すのはいけないことなのでありまして、そういう無法者は、日本国民の恥さらしといわなければなりません。

「一旦緩急アレハ  義勇公ニ奉シ
「一旦」は「ある日」とか「ひとたび」とかいう意味。「緩急」は「重大事変」のことです。だから「一旦緩急アレハ」というのは、前文の「常ニ」という言葉、すなわち「平時」における心得に対し、「もしもひとたび戦争などの非常時になったならば」という意味です。「義勇」というのは「正義と勇気」のこと。「公ニ奉シ」とは「お国のため、社会のために、国民としての義務をつくす」ということです。国民がお国を守ることは当然のことですから、決して「軍国主義」ではありません。
大東亜戦争までは、国民には兵役の義務が憲法で定められていましたから、戦争の時には軍人は勇敢に戦いましたし、また軍人でなくても、国民はみな一致団結して、国のために国民の義務を果たしてまいりました。」
「 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
「天壌無窮」という言葉は、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を「日向の国」におくだしになった時の神勅において、「宝祚の栄えまさんこと天壌と共に窮りなかるべし」と、おおせられたことをいうのであります。
日本は大東亜戦争に失敗して、みじめな目にあいましたが、「万世のために太平を開け」という天皇のお言葉にしたがって、一億国民が努力したために、今日では世界の人々がおどろくほどに立派な経済大国となったのであります。
これからも、われわれ国民は、力を合わせて日本を立派な国にしようではありませんか。」

「『教育勅語』は、戦前・戦後の教育のあり方の変遷のなかで誤解を受けてきました。でも、あらためて現在の私たちの生き方に照らし合わせてみると、人間の生き方の根本に関わる答えが、そこに見えてきます」

で、この「学校」の校訓5か条の最後は次のとおりである。
『敬神崇祖以て伝統を承継し祖国を興隆すべし』

これはもはや教育でも学校でもない。正確には「カルト集団」と呼ぶべきだろう。あるいは、「天皇崇拝精神鍛錬場」だ。いかにも、安倍晋三の気に入りそうな場ではないか。森友同様、このような極右集団に国有地が極めて廉価に払い下げられているというのは、単なる偶然にしては奇っ怪千万。リテラ同様、背後関係の究明を待ちたい。
(2018年1月10日)

1月13日(土)「安倍9条改憲NO! 3000万署名スタート文京集会」で、澤藤大河が講演します。

ご通行中の皆さま、こちらは平和憲法を守ろうという一点で連帯した行動を続けています「本郷・湯島九条の会」です。私は、近所に住む者で、憲法の理念を大切に、人権を擁護する立場で弁護士として仕事をしています。

本日(1月9日)、正午から1時まで、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前で、恒例の訴えをさせていただきますが、本日は、「安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名」の呼びかけのために、「3000万署名推進 ! 文京アクション」の皆さんと、共同しての行動です。

「安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名」とは、今、安倍首相が発案した「安倍9条改憲」を許さず、改憲ではなく現行憲法の精神を生かした政治を行っていただきたいという、内閣総理大臣と衆参両院の議長に宛てた請願署名です。私たちは、3000万筆の賛同署名を集めることで、9条改憲のたくらみを阻止できるものと考えています。3000万筆の賛同署名は、それにとどまらず、圧倒的な9条改憲反対の世論をつくりだし、平和を求める今後の運動の土台を築くことになるはずです。

お願いしております署名は、とてもシンプルな2項目です。その第1項が、「憲法第9条を変えないでください」で、第2項は、「憲法の平和・人権・民主主義が生かされる政治を実現してください」というもの。

みなさまご存じのとおり、昨年(2017年)5月3日の憲法記念日に、安倍晋三首相は唐突に、「新たに憲法9条に自衛隊の存在を書きこむ」「2020年に新憲法施行をめざす」と言い始めました。この発言を受けて、9条改憲への動きが急速に強まっています。本来、憲法を守らなければならない立場の首相が、今の憲法は自分の意に沿わないからと、改憲を提案しているのです。しかも、こともあろうに、9条の改憲です。とんでもないことと言わねばなりません。

安倍さんは言います。「今ある9条の1項と2項はそのまま残します。その上で、憲法9条に自衛隊の存在を書きこむのですから、何も現状と変わるところはありません」。しかし、何も変わるところがないのなら、あえて憲法改正など不要なのです。やはり9条は変わることになるのです。自衛隊の性格も、日本の防衛政策も。

憲法第9条2項は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」「国の交戦権は、これを認めない」と定めています。私は素直に、自衛隊は陸海空軍を揃えた「戦力」にほかならず、違憲の存在だと考えています。しかし、「自衛隊は「戦力」にあたらず、違憲の存在ではない」と考える人々もいます。いわゆる、「専守防衛派」というべき人たちです。国にも自衛権というものがあるはずだから、万が一、侵略を受けるようなことがある場合に備えて、自衛のための実力組織は必要で、そのような自衛権行使のために徹している実力組織は「戦力」にあたらず違憲ではないというのです。

このような考えの人たちも、9条の存在が、自衛隊の性格や行動や規模に歯止めを掛ける重要な役割を果たしていることを評価して、9条改憲には反対してきました。これまでの改憲反対運動が大きな規模になり得たのは、自衛隊違憲論者と専守防衛論者とがともに「9条改憲反対」で統一した行動を作りあげたからです。

このことが、「軍拡反対」「集団的自衛権行使容認反対」「沖縄米軍基地拡張反対」などの具体的なテーマでの共同行動を可能にしてきたところでもあります。

ところが、「安倍9条改憲」は、あきらかに、これまで積み重ねられてきた「9条改憲反対運動の共闘」に分断を持ち込もうというたくらみにほかなりません。別の言い方をすれば、「自衛隊違憲論者の孤立」を狙った攻勢なのです。

憲法には武装組織の存在を認める規定はありません。「戦力」の保持は明文で禁じられています。9条にも自衛隊を認める規定がないからこそ、自衛隊は「戦力」ではないことの自己証明を宿命づけられています。自衛の範囲を越える武器は持てません。ICBMも空母も、もちろん核兵器も。他国に出兵することもできませんし、「敵」国からの侵略が現実化する以前に防衛出動することもできません。

憲法9条は、戦後70年以上にわたって、日本が海外で戦争をしてこなかった大きな力の源泉です。いま、9条を変えたり、新たな文言を付け加えたりする必要は全くありません。私たちは、日本がふたたび海外で「戦争する国」になるのはゴメンです。

安倍首相を先頭にする、軍事大国化路線、防衛費拡大政策を阻止して、集団的自衛権行使容認の戦争法を廃止することが今の課題です。その課題では、自衛隊違憲論派も、専守防衛派も、手をとりあって共闘することができるのですし、大切なことだと思います。安倍首相の思惑に乗せられて、自衛隊違憲派と、自衛隊容認派が分断させられるようなことがあってはなりません。ともに憲法9条を大切にする立場から、この署名運動に取り組もうというのです。

日本を戦争の出来る国にしないために、3000万人署名に取り組もうという運動が全国の津々浦々に起こりつつあります。

文京区では、今週の土曜日、1月13日13時30分~15時30分に、文京区民センター2A集会室を会場に「安倍9条改憲NO! 3000万署名スタート集会」を開催いたします。

メインの演者として、新進気鋭の地元の弁護士澤藤大河が講演をします。
ぜひご来場ください。
(2018年1月9日)

成人の日、若者に「脱保守化」を勧める

成人式を迎えた若者諸君。成人おめでとう。
君たちは、この社会を構成し運営していくメンバーとしての資格を手に入れた。これからは、この社会の構造や運営のあり方について、大いに意見を述べていただきたい。それによって、社会は変わるのだから。

君たちには多様な可能性が開けている。未来は、君たちのものだ。君たち自身の力で、未来を変えることができる。これから長く君たちが生きていくことになるこの社会をよりよく変えていくのは君たちだ。

若いということはそれだけで素晴らしい。若さとは、理想や純粋の別名でもある。真実や正義を希求し、理想を実現するための行動をいとわない。この社会の虚偽や不正に対する怒りのエネルギーに満ちている、それが若者だ。

この世の不正義、この世の不平等、権力や資本の横暴、人権の侵害、民主主義の形骸化…。平和憲法の蹂躙、核の恐怖、原発再稼働の理不尽、沖縄への圧迫、格差貧困の拡大…。この世の現実は理想にほど遠い。若さとは、この現実を変えて理想に近づけようという変革の意志のことではないか。

ところで、若さとは長い未来に生きることを意味する。社会が今より良くなればその利益は君たちが長く享受することになる。反対に社会が今より悪くなればその不利益は君たちが長く甘受しなければならない。

仮に、憲法が改正されて、自衛隊が国防軍となり、集団的自衛権行使の名の下、世界の至るところでアメリカと共同して開戦するようなことになれば、前線に立つのは君たちだ。周辺諸国と軍備の増強を張り合って抑止力の均衡という恐怖の中で長く生きることになるのは君たちだ。新自由主義という格差と貧困の元凶となる経済政策が続くようなら、一部の例外を除いて君たちの大部分が格差と貧困にあえぐことになる。

自由・平等・連帯・個性の顕現を実現すべく合理的な社会を求めてその仕組みを変えていこうという志向が「革新」の立場。世の中を今程度で良しとして妥協するのが「保守」の立場。現状に満足せず理想を掲げて現実を動かそうとするのが「革新」で、理想は措いて現実を肯定するのが「保守」。

古来、若者は常に革新派だった。純粋に理想を追求するのが若者なのだから。しかし、人は若さを失うとともに、社会のしがらみを抱えることになる。守るべき多くのものが幾重にも桎梏となって、守りの姿勢にはいらざるを得なくなる。その結果、年齢を重ねるに連れて、理想よりも現実、変革よりも現状の維持を選択する心情となる。これが保守化ということだ。

政党は、革新から保守の目盛りの中に点在し、その両極に共産党と自民党がある。これまで、常識的に、共産党の支持者は若者が、自民党の支持者は高齢者が多いと思われてきた。革新的な若者が社会で生きていくうちに保守化して、政権与党を支持するようになる。一昔前までは、世論調査の結果もそう語っていた。

ところがどうだ。昨今は様変わりだという。
昨年10月の総選挙におけるNHKの出口調査が話題となった。私には衝撃だった。自民党に投票した有権者の世代別割合は、20代が50%、30代42%、40代36%、50代34%、60代32%、70代以上が38%だったという。年齢が上がるほど自民党支持者が減っている。つまり、若年層ほど保守的傾向が強く、高年齢層ほど保守支持が弱まるというのだ。常識とは正反対の現実。

もしかしたら戦後の教育は失敗したのだろうか。若者は理想を語ることをやめ、社会を変革していこうという気概を失ったのか。不正義や理不尽を怒るエネルギーを持ち合わせていないのか。ひたすら社会の空気を読み、忖度に長けた成人になっているのだろうか。

「今の程度に就職できることがありがたい。」「無難に働けるなら、それ以上は望まない」「民主党政権時代の混乱よりは、アベ政権の安定が望ましい」というのが若者の言葉だろうか。それが本当のホンネか。願わくは、そのような投票行動は、若者の仮の姿であってほしい。いま流行の「面従腹背」の実行と受けとりたい。

本日成人式に出席の若者諸君。もう、君たちは自分自身の将来のために覚悟を決めねばならない。もう、素直だの忖度だのは不要だ。空気を読むことはやめよう。生涯面従腹背を貫ぬいてもおられまい。現状維持の姿勢から、抜け出そう。もう少しましな、多くの人々にとって居心地の良い、生きるに値する社会をつくるために。
(2018年1月8日)

上野公園に見る「維新政府の不寛容」

日曜日の散歩コースは、いつも上野に。変わり映えせず芸のない話だが、季節季節に趣は大いに異なる。本日(1月7日)、風は冷たいが透きとおるような好天。見るものすべてが光っているような景色。

本郷通りを横切り、赤門から東大キャパンスにはいって鉄門から出る。岩崎邸の石積みを右に見ながら無縁坂を下って不忍池に。このところ池の畔に居着いているカワセミに見とれて、弁天堂から五條神社・上野大仏を経て噴水広場が終点。本日ここは、シャンシャン(香香)祭りの大にぎわい。

踵を返して王仁博士の碑に立ちより、2本のジュウガツザクラの満開を愛でる。その先が彰義隊を顕彰する「戦死之墓」と「上野戦争碑」。そして西郷隆盛像。150年前に闘った敗者と勝者が並んでいる。

意識的に「明治150年」を強調する風潮のなかで、彰義隊碑には特に事件後150年を意識させるものはなにもない。西郷隆盛像の近くには、NHK大河ドラマ「西郷どん」のポスターがあった。まあ、その程度。

ネットを検索すると、いろんなことが書き込まれている。「漢文石碑を読み歩く」というシーズの中に、「上野戦争碑記」として、その成り立ちが詳細に記されている。
http://bon-emma.my.coocan.jp/sekihi/ueno_sensou.html

以下その抜粋。
「明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した彰義隊と明治政府軍との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる阿部弘蔵(弘臧とも)が、上野戦争の経緯を記したもの。上野公園から見て東京国立博物館の裏手、寛永寺の境内に建っています。
  山崎有信『彰義隊戦史』(1904年)によると、阿部弘蔵は、上野戦争のときには数え年で20歳。いかにも当時の若い侍らしく、和漢の古典を学んだ上に西洋流の兵術も身に付けた、優秀な人材だったようです。わずか20歳なのに彰義隊の命名を任されたということは、文章の才でも一目置かれていたのでしょう。
 碑文の末尾にもあるように、弘蔵がこの文章を書いたのは、1874(明治7)年のこと。しかし、すぐに石碑を建てることはできませんでした。政府の許可が下りなかったのです。後に弘蔵の娘婿、松岡操がまとめた『寛永寺建碑始末』(1912年)では、その理由を「文字ニ不穏ナル点アリトイフヲ以テナリ」と推測しています。
  それから40年近く経った1911(明治44)年、こんどは松岡操たちが中心となって請願し、冒頭と末尾の240字ほどを削るなど文章にも手を加えて、ようやく石碑の建設にこぎ着けることができました。」

碑文の全体は余りに長い。しかし、最も関心を寄せるべきは、「削られた冒頭と末尾の240字ほど」である。その読み下し文と、現代語訳とを引用しておく。

【削除された冒頭部分】
明治の中興、百度、維(これ)新たなり。仁は海内遍く、沢枯骨に及ぶ。凡そ国事に死して功烈顕著なる者は、数百年の久しきを経と雖いえども、皆、封爵を追贈し、之を祀典に列す。又、嘗て譴(とがめ)を朝廷に得る者と雖も、過ちを悔い志を改むれば、則ち才を量りて登用し、復(また)旧罪を問わず。

 明治になって天皇の政治が復興すると、多くの制度が一新された。その仁徳は国中に行き渡り、その恩恵は亡くなった人々にまで施された。国のために命を失い、その功績が大きくはっきりしている者には、数百年前の人であっても、すべて爵位を追贈して、英霊を祀った。また、以前、朝廷から罪を問われた者であっても、その過ちを認めて志を改めれば、才能に応じて登用して、以後は一切、昔の罪を問題にはしていない。

而(しかる)に独り彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそう)を許されず。孤魂超然として依憑(いひょう)する所無し。嗟呼(ああ)、彼、豈(あに)叛臣賊子に甘んずる者ならんや。亦また各々忠を其の事(つかう)る所に尽くすのみ。世、或いは察せず、徒(ただ)成敗を視みて以て之を議するは、篤論(とくろん)に非あらざるなり。

 ところが、彰義隊に従って戦争で亡くなった者だけは、あのときに新政府軍に抵抗したという理由で、現在になっても簡単な葬儀さえ許されていない。見捨てられた魂はさまよって、きちんと成仏できないでいる。ああ、反逆者として扱われて、彼らが不満を持たないわけはなかろう。彼らだって、自分たちが仕える主君に尽くしただけなのだ。それなのに、世間の人がたいてい、経緯を調べもせず、結果だけを見て評価しているのは、きちんとした議論ではない。

【削除された末尾部分】
余も亦た幸いに残喘(ざんぜん)を保ち、以て今日に至る。而(しか)れども彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る、悲しいかな。頃者(ちかごろ)、其の親しく睹(み)る所を追録し、之を石に勒(きざ)み、以て其の霊を慰む。亦た唯だ寃(えん)を天下後世に雪(すす)がんと欲するのみ。

 私もまた、幸いなことに生きながらえることができ、現在に至っている。しかし、大義のために戦って死んだあの者たちの霊が、いまでもきちんと弔われないままなのは、あまりにも悲しい。そこでこのたび、私が自分の眼で見たことを思い出して記録し、それを石に刻むことで、彼らを慰霊することにした。後の時代の人々に対して無実を晴らしておきたい、という一心からのことである。

「唯だ寃を天下後世に雪がんと欲するのみ」に関わる文章は、天皇制政府の許容するところとはならなかった。「死しての後はみな仏。敵も味方もありはせぬ」という日本古来の常識(むしろ、良識)は維新政府の採るところではなかった。官軍と賊軍とは、死して後も未来永劫に峻別され、賊軍が「雪冤」を述べることは許されないのだ。それこそが、150年を経て今なお変わらぬ靖国の思想である。

「明治150年」とは維新賛美であり、すなわち天皇制賛美でもある。天皇への忠誠は国民道徳の基本として刷り込まれ叩き込まれた。その反面、賊軍の死者は天皇への反逆ゆえに、死してなお鞭打たれ続けられねばならないのだ。「彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそうー粗末な葬儀)を許されず」「彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る」と、と嘆かざるを得ないのだ。

なお、1月5日毎日新聞「論点」が、「『明治150年』を考える」だった。
「今年は1868年の明治改元から150年。政府は『明治の精神に学び、日本の強みを再認識する』と記念行事を計画中だ。呼応するように保守層の一部から『明治の日』制定を求める動きも浮上している。近代日本の出発点となったとされる明治維新だが、維新称揚を『復古主義』と警戒する声も…。」というのがリード。そのリードのとおり、論者3人の見解がいずれも明快である。中でも、「寛容性のない国になった」と表題する、作家・原田伊織氏の論が傾聴に値する。その一部を抜粋しておきたい。

「長州出身の元老たちによる明治の『長州藩閥』政治は大正以降も今に至るまで『長州型』政治として日本の政治風土の中で続いている。特徴は、憲法をはじめとする法律よりも、天皇を重視し利用してしまうこと。幕末に長州藩は孝明天皇や幼い明治天皇を担いで攘夷、倒幕の御旗として利用したが、明治以降はまさに『天皇原理主義』となり、国家を破滅に導いた。それ以前の日本には天皇を神聖化した『原理主義』などは存在しなかった。

もう一点は富国強兵、殖産興業の名の下で政治と軍部、軍事産業でもあった財界とが癒着する社会を生み出したことだ。これが私が言う『長州型』政治である。明治50年は寺内正毅、100年は佐藤栄作、そして150年は安倍晋三と、いずれも山口県(長州)出身の首相の下で祝典が営まれるのはただの偶然と思いたいが、戦後の自民党政権は一貫してこの長州型から抜け切れなかった。

最大の問題は歴史の『検証』がほとんど行われなかったことだ。『明治維新至上主義者』である司馬遼太郎氏は敬愛する大学の大先輩ではあるが、『それだけは違いますよ』と言いたい。どれほど無駄な命があの原理主義の名の下に葬られ去ったか。その「過ち」の検証も反省もなく日本は2度目の破滅(敗戦)を迎えたのだが、戦後も検証は行われず、ずるずると今も明確な外交方針すらなく業界との癒着がニュースになる。」

「明治150年」という今年、司馬遼太郎的史観を克服して、明治維新と天皇制維新政府に、批判の視点を持たねばならない。安倍晋三の「長州型」政治と対決しなければならない。維新政府の寛容性の欠如は「恩賜上野公園」の中にもよく見えるのだ。
(2018年1月7日)

植村隆バッシング反撃訴訟支援の今日的な意義

本日(1月6日)は、世田谷・成城ホールでの植村東京訴訟支援企画・「2018新春トークコンサート『忖度を笑う 自由を奏でる』(主催:植村訴訟東京支援チーム)に出かけた。招待券は1枚で、妻の席は当日券でのつもりだったが、400席が文字どおりの満席。暮れにはチケット完売で、電話予約も断わり、「当日券はありません」という事前のアナウンスもされていたそうだ。事情を知らず一時は入場を諦めたが、スタッフの厚意で何とか入れてもらった。

実感として思う。従軍慰安婦問題への世の関心は依然高いのだ。いや歴史修正主義者であるアベの政権のもと、従軍慰安婦問題は戦争の加害責任問題として忘れてはならないという市民の意識が高まっているのではないか。戦争の記憶継承の問題としても、民族差別問題としても、また報道の自由の問題としても、従軍慰安婦問題は今日的な課題として重要性を増している。

考えてもみよ。安倍晋三を筆頭とする右派勢力は、なにゆえにかくも従軍慰安婦問題にこだわるのか。その存在を隠そうとするのか、報道を押さえ込もうとするのか。メディアでも、教育でも、かくも必死に従軍慰安婦問題を封印しようとしているのか。

まずは、過ぐる大戦における皇軍を美化しなければならないからである。神なる天皇が唱導した戦争は聖戦である。大東亜解放の崇高な目的の戦争に、従軍慰安婦の存在はあってはならない恥部なのだ。大義のために決然と起った皇軍は、軍律正しく、人倫を弁えた存在でなくてはならない。だから、南京大虐殺も、万人抗も、捕虜虐待も、人体実験も、生物兵器の使用も、毒ガス戦も、すべては存在しなかったはずのもので、これがあったとするのは非国民や反日勢力の謀略だということになる。女性の人格を否定しさる従軍慰安婦も同様、その存在は当時の国民にとっての常識だったに拘わらず、あってはならないものだから、強引にないことにされようとしているのだ。

このことは、明らかに憲法改正の動きと連動している。9条改憲によって再び戦争のできる国をつくろうとするとき、その戦争のイメージが恥ずべき汚れたものであっては困るのだ。国土と国民と日本の文化を守るための戦争とは、雄々しく、勇ましく、凜々しいものでなければならない。多くの国民が、戦争といえば従軍慰安婦を連想するごとき事態では、戦争準備にも、改憲にも差し支えが生じるのだ。

本日の企画は、トークとコンサート。トークが、政治風刺コントで知られるパフォーマー松元ヒロさんで、これが「忖度を笑う」。そして、ピアニスト崔善愛さんが「自由を奏で」、最後に植村さん本人がマイクを握った。「私は捏造記者ではない」と、経過を説明し、訴訟の意義と進行を熱く語って支援を訴えた。熱気にあふれた集会となり、聴衆の満足度は高かったものと思う。

宣伝文句は、「慰安婦問題でバッシングされている元朝日新聞記者、植村隆さんを支援しようと、風刺コントで知られる松元ヒロと、鍵盤で命を語るピアニスト・崔善愛(チェソンエ)がコラボします。『自粛』や『忖度』がまかりとおる日本の空気を笑い飛ばし、抵抗のピアノに耳を傾けましょう。」というものだが、看板に偽りなしというところ。

ところで、植村隆バッシングに反撃の訴訟は、東京(地裁)訴訟と札幌(地裁)訴訟とがある。東京訴訟の被告は西岡力東京基督教大学教授と株式会社文藝春秋(週刊文春の発行元)に対する名誉棄損損害賠償請求訴訟。次回、第11回口頭弁論が、1月31日(水)午後3時30分に予定されている。

札幌訴訟は、櫻井よしこ、新潮社(週刊新潮)、ワック(月刊Will)、ダイヤモンド社(週刊ダイヤモンド)に対する名誉棄損損害賠償請求訴訟。次回第10回口頭弁論期日が、2月16日(金)午前10時に予定されている。

植村「捏造記者説」の震源が西岡力。その余の櫻井よしこと各右翼メディアが付和雷同組。両訴訟とも、間もなく立証段階にはいる。

植村従軍慰安婦報道問題は、報道の自由の問題であり、朝日新聞問題でもある。朝日の従軍慰安婦報道が右派総連合から徹底してバッシングを受け、担当記者が攻撃の矢面に立たされた。日本の平和勢力、メディアの自由を守ろうという勢力が、総力をあげて植村隆と朝日を守らねばならなかった。しかし、残念ながら、西岡・櫻井・文春などが植村攻撃に狂奔したとき、その自覚が足りなかったように思う。

いま、従軍慰安婦問題は新たな局面に差しかかっている。2015年12月28日の「日韓合意」の破綻が明らかとなり、「最終的不可逆的」な解決などは本質的に不可能なことが明らかとなっている。被害の深刻さに蓋をするのではなく、被害の実態を真摯に見つめ直すこと。世代を超えて、その記憶を継承し続けることの大切さが再確認されつつある。このときに際して、植村バッシング反撃訴訟にも、新たな意味づけがなされてしかるべきである。

本日の集会の最後に司会者が、会場に呼びかけた。
「皆さん、『ぜひとも植村訴訟をご支援ください』とは言いません。ぜひ、ご一緒に闘ってください」
まったく、そのとおりではないか。
(2018年1月6日)

民族差別主義者らの「弁護士懲戒請求の濫用」に歯止めを

昨年(2017年)暮の12月25日、下記の東弁会長談話が公表された。
https://www.toben.or.jp/message/seimei/post-487.html

「当会会員多数に対する懲戒請求についての会長談話」

  東京弁護士会 会長 渕上 玲子

 日本弁護士連合会および当会が意見表明を行ったことについて、特定の団体を介して当会宛に、今般953名の方々から、当会所属弁護士全員の懲戒を求める旨の書面が送付されました。
 これらは、懲戒請求の形で弁護士会の会務活動そのものに対して反対の意見を表明し、批判するものであり、個々の弁護士の非行を問題とするものではありません。弁護士懲戒制度は、個々の弁護士の非行につきこれを糾すものであって、当会は、これらの書面を懲戒請求としては受理しないこととしました。

 弁護士懲戒制度は、国民の基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする弁護士の信頼性を維持するための重要な制度です。すなわち、弁護士は、その使命に基づき、時として国家機関を相手方として訴えを提起するなどの職務を行わなければならないことがあります。このため、弁護士の正当な活動を確保し、市民の基本的人権を守るべく、弁護士会には高度の自治が認められており、弁護士会の懲戒権はその根幹をなすものです。
弁護士会としてはこの懲戒権を適正に行使・運用しなければならないことを改めて確認するとともに、市民の方々には弁護士懲戒制度の趣旨をご理解いただくことをお願いするものです。

**************************************************************************
これは、懲戒請求制度の濫用者953名に対する説示ではなく、社会に向けて発信された文字どおりの広報である。措辞穏やかで短いものだが、東京弁護士会の確固たる意志表明であり、理性ある市民への理解を求める訴えかけでもある。

「東京弁護士会会員全員(約8000名)に対する懲戒請求」とは、明らかに制度の趣旨を逸脱した東京弁護士会自体へのいやがらせ。このような申立があることを知らなかったが、私も被懲戒請求者とされていたのだ。いったい誰が、どんなテーマで、何を根拠に、何を狙ってのものだったのか。また、その処理に、いったいどれだけの手間暇と費用を要したのか。この会長談話だけからでは窺えない。もう少し説明あってもよかったのかなとも思う。

思い当たるのは、下記の報道との関連である。

毎日新聞2017年10月12日
「懲戒請求 弁護士会に4万件超 『朝鮮学校無償化』に反発 6月以降全国で」

「朝鮮学校への高校授業料無償化の適用、補助金交付などを求める声明を出した全国の弁護士会に対し、弁護士会長らの懲戒を請求する文書が殺到していることが分かった。毎日新聞の取材では、少なくとも全国の10弁護士会で計約4万8000件を確認。インターネットを通じて文書のひな型が拡散し、大量請求につながったとみられる。

各地の弁護士によると、請求は今年6月以降に一斉に届いた。現時点で、東京約1万1000件▽山口、新潟各約6000件▽愛知約5600件▽京都約5000件▽岐阜約4900件▽茨城約4000件▽和歌山約3600件--などに達している。

請求書では、当時の弁護士会長らを懲戒対象者とし、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などと主張している。様式はほぼ同じで、不特定多数の賛同者がネット上のホームページに掲載されたひな型を複製し、各弁護士会に送られた可能性が高い。

請求書に記された「声明」は、2010年に民主党政権が高校無償化を導入した際に各弁護士会が朝鮮学校を含めるよう求めた声明や、自民党政権下の16年に国が都道府県に通知を出して補助金縮小の動きを招いたことに対し、通知撤回や補助金交付を求めた声明を指すとみられる。」

この報道に村岡啓一・白鴎大教授(法曹倫理)のコメントが付されている。
「懲戒請求は弁護士であれば対象となるのは避けられない。ただ、今回は誰でも請求できるルールを逆手に取っている。声明は弁護士会が組織として出しているのだから、反論は弁護士会に行うべきだ。弁護士個人への請求は筋違いで制度の乱用だ」

報道の対象となった懲戒請求がすべて斥けられたあとに、懲りない面々が、「特定の団体を介して」東弁会員全員への懲戒請求を思い立ったのであろう。が、すこぶる失当で迷惑な話。

弁護士の独立性こそは「人権の最後の砦」であって、弁護士自治はその制度的保障である。弁護士は「人権の護り手」としての使命を全うするために、国家や自治体、大企業・財界・資本からも、そして社会の多数派からも独立して、その任務を果たさなくてはならない。弁護士会は、会員弁護士がその使命を全うすべく在野に徹しなければならない。公権力からも、社会的な強者からも、そして多数派世論からも独立した自治を必要とする。

また弁護士会は、弁護士法に基づいて「建議・答申」をすべきものとされている。その内容は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」ものでなくてはならない。公権力とこれと一体化した右派の運動が押し進めている「在日に対する民族差別」に、人権を擁護すべき立場にある弁護士会が、批判の意見を述べることは、当然の権限であり責務ですらある。

これに耳を傾けることなく、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に(弁護士会が)賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などということは、およそ支離滅裂で没論理の行為である。こんな露骨な差別的言論が横行する事態を憂慮せざるを得ない。

弁護士自治は、人権と民主主義を尊重する社会の防衛装置としてこよなく大切なものであるが、その弁護士自治が市民から遊離した独善に陥ることを警戒しなければならない。また、弁護士は高い倫理を要求されてしかるべきで、市民による弁護士への懲戒請求の制度は使いやすいものでなくてはならない。その立場からは、軽々に弁護士に対する懲戒請求のハードルを高くするようなことをしてはならない。

しかし、信用を生命とする弁護士にとって、懲戒請求を受けるということの打撃は、相当のものである。私は47年間の弁護士生活の中で、自分には無関係だと思っていた懲戒請求を、たった一度受けたことがある。懲戒請求者は訴訟事件の相手方代理人だった下光軍二という一弁の弁護士。下光自身が遺言状作成に立ち会って長男に全財産の集中をはかった筋悪の事件で、私が妹側について遺留分減殺を請求した訴訟。財産の保全のために、仮差押命令や処分禁止の仮処分を3回に渡ってかけたことが、弁護士としての職権を濫用したもので非行にあたるという、およそ信じがたい懲戒理由だった。おそらくは、この弁護士、自分の無能と怠慢を依頼者に言い訳するためにこんな策を弄したのだ。

下光の請求は懲戒委員会まで到達せず、綱紀委員会で懲戒不相当の議決となった。が、綱紀委員会に呼出を受け、仲間から事情を聞かれる屈辱感は忘れられない。スジの通らない懲戒請求ではあっても、弁明のための書面作成の時間も労力も割かなくてはならない。こういう明らかな懲戒請求の濫用には歯止めのために相当の制裁があってしかるべきだと思う。

いま、私はDHCスラップ訴訟に反撃訴訟を提起している。理不尽な懲戒請求と同様、言論萎縮を狙った民事訴訟制度の濫用に対しては歯止めのための制裁があってしかるべきだという考えにもとづいてのもの。最終的には、スラップ防止の法制度が必要だと考えている。

今般の東京弁護士会会員全員に懲戒請求をした953名が同種のことを繰り返すのであれば、刑事的には偽計業務妨害に、民事的には損害賠償請求の対象となり得る。弁護士会は、味方とすべき理性ある市民と、権力と癒着した差別主義者たちとを峻別し、明らかな人権侵害集団による会務への不当な侵害には断固たる措置をとるべきであろう。
(2018年1月5日)

アベシンゾーの「壊憲ことはじめ」

本日(1月4日)は、官庁の仕事始め。首相アベシンゾーは、さっそくの憲法違反ことはじめ。伊勢参拝と参拝後の年頭記者会見での発言と。

首相の伊勢神宮参拝は明らかな違憲行為である。
各メディアが報じるところによれば、安倍晋三首相は本日(1月4日)午後、三重県伊勢市の伊勢神宮を参拝した。どのように肩書記帳をしたか、公用車を使ったか、新幹線や近鉄の乗車料金は公費か私費か。メディアは関心事として報道していない。しかし、随行者を伴った参拝をし、直後に神宮司庁で総理記者会見までしているのだから、公的資格においての参拝であることは明らかで、憲法20条3項に定める政教分離違反と考えるしかない。

政教分離とは、「政」(公権力)と「教」(宗教)との癒着の禁止である。公権力との間に分離の壁を隔てることを要求される「教」とは、形式的には諸々の宗教一般であるが、実質的に日本国憲法が警戒するものは神道施設である。なかんずく、伊勢と靖国にほかならない。

かつて民族信仰として存在していた神社神道が、天皇崇拝の祭儀と結びついて、国家神道となった。正確に言えば、明治政府によって拵え上げられた。国家神道とは、天皇を神の子孫であるとともに現人神として崇敬し、かつ天皇を神の司祭とする「天皇教」をいう。

幕末、「天皇教」は一握りの為政者のイデオロギーに過ぎなかったが、150年前に維新政府ができたとき、臣民意識の教導の有用な道具として徹底して活用された。為政者が創出した信仰だから、為政者自身が信仰心を持っていたわけではない。しかし、天皇を神として崇拝すべきことは、学校と軍隊を通じて臣民に叩き込まれ、人格を支配した。こうすることで、対内的な統合作用を形成するとともに、対外的には選民意識、排外主義の涵養に重要な役割を果たした。

敗戦によって、ようやくにして日本は神の国から普通の国になった。天皇教の信徒であった臣民は解放されて主権者となった。しかし、天皇教の祭神であり教主であった天皇は天皇のまま生き残った。76年もの間、天皇制権力が臣民に叩き込んだ天皇崇敬の念は容易に消えず、再度天皇が神の位置に戻らぬとも限らないと懸念された。

この懸念に歯止めを掛けた装置が日本国憲法の政教分離規定である。従って、公権力が、近づいてはならぬとされるのは、何よりも天皇の神社なのである。その代表格が、アマテラスを祭神とする天津神社の筆頭である伊勢であり、天皇の軍隊の戦死者を祭神とする軍国神社靖国なのだ。

いうまでもなく伊勢は天皇の祖先神を祭神とする神宮として神社群の本宗の位置を占めている。公権力は、他のどんな宗教施設よりも、伊勢と癒着してはならない。本日のアベの伊勢詣では、違憲のことはじめなのである。

歴代首相による新春の参拝は毎年恒例とも報じられているが、漫然と違憲行為が積み重ねられているということに過ぎない。ならぬものはならぬのであり、違憲はあくまで違憲である。

なお、参拝には、野田聖子総務相や林芳正文部科学相、世耕弘成経済産業相らとともに、話題の加藤勝信厚生労働相も随行したという。加藤勝信の厚労相就任は、アベのオトモダチ人事の典型だが、大型消費者被害をもたらしたジャパンライフ事件のフィクサーとして今年のアベ政権の「顔」になるはずの人物である。

そして、2つ目の壊憲行為は伊勢での年頭記者会見における発言の内容である。
官邸のホームページに、本日(1月4日)の「安倍内閣総理大臣年頭記者会見」における発言内容が掲載されている。
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2018/0104kaiken.html

まず、【安倍総理冒頭発言】がある。アベ個人ではなく、自民党総裁としての発言ではない。明らかに、総理としての発言。これがかなり長い。

最後の方に、唐突に不思議なパラグラフが出て来る。
「この国の形、理想の姿を示すものは憲法であります。戌年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法の在るべき姿を国民にしっかりと提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。自由民主党総裁として、私はそのような1年にしたいと考えております。」

取って付けたかのごとき「憲法改正」への言及。ところが、これが「自由民主党総裁として」の発言ということにされてしまう。総理年頭記者会見を改憲宣伝の場にしてはならない。

憲法への言及は「憲法改正に向けた議論を深めていく」というだけ。人権や民主主義や国際平和や、生存権や平等について行政府の長としてしっかり憲法を遵守するという話は出て来ないのだ。

質疑応答は少しも面白くない。切り込むところがない。それでも、アベはこんなことを言っている。

「憲法は、国の未来、理想の姿を語るものであります。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の基本理念は今後も変わることはありません。その上で、時代の変化に応じ、国の形、在り方を考える、議論するのは当然のことだろうと思います。大いに議論すべきだと考えています。
  そこで私は、昨年の5月、それまで停滞していた議論の活性化を図るために一石を投じました。事実、その後、党内での議論は活発になったと思います。具体的な検討は党に全てお任せしたいと考えています。」

心得違いも甚だしい。「時代の変化に応じ国の形、あり方を考える議論をするのは当然のこと」ではない。憲法は、主権者から公権力を預かる者に対する命令なのだから、首相アベは憲法の枠内でしか動いてはならない。それが憲法99条が明示する公務員の憲法尊重擁護義務というものだ。憲法改正の発議を首相がする権限はない。改正論議を呼びかけるのも越権だ。改憲発議は、国民の意向を受けた国会がするものではないか。

首相として、憲法遵守の発言なく、改憲にのみ言及した本日の伊勢での年頭記者会見。新年からアベ発言には憲法を粗略にする驕りが見える。それを許している国民の側に緩みが見える。気をつけよう、アベ改憲と暗い道。気を緩めてはならない。
(2018年1月4日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2018. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.