澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「5・18光州」「6・4天安門」と、そして「6・9香港」と。

1980年5月の光州でも、1989年6月の北京でも、民主化を求める大規模な市民・学生が広場に結集した。が、権力はその訴えに耳を貸そうとすることなく、戒厳令をもって民衆に対峙した。その上で、軍は「暴徒」と刻印された無防備な民衆に容赦なく発砲した。

2019年6月9日の香港でも、主催者発表で103万人の大群衆のデモが大通りと議会前の広場を埋め尽くした。まだ、民衆が対峙する相手は警察であって、軍ではない。光州や天安門の悪夢が、香港で繰り返されることのないよう願うしかない。

「軍は国民を守るためにある」のではく、むしろ「軍は、政権を守るためにある」のだ。あるいは、「特定の権力者を守るためにある」。典型的には、「皇軍が、国体護持のためにあった」ように。

政治問題化しているのは、刑事事件の容疑者を中国本土に引き渡すことを可能にする香港政府の「逃亡犯条例・改正案」の議会への上程である。

現行法の内容は「刑事事件の容疑者を中国本土には引き渡さない」となっているとのことだが、改正案はこの規定を削除して、香港から中国本土への引き渡しを可能にする内容だという。

以下は、朝日記事からの引用である。
「香港政府の「逃亡犯条例」改正案に反対する大規模なデモ行進が9日、香港であった。主催した民主派団体によると、1997年の香港返還以降、最多の約103万人(警察発表は24万人)が参加。条例案をめぐり中国政府が香港政府への支持を表明してから初の大型デモで、中国政府に市民が「ノー」を突きつけた形となった。デモ隊の一部が暴徒化し、警察と立法会(議会)の敷地内などで衝突し、警察官ら4人が負傷した。

改正案をめぐるデモは3月、4月に続いて3回目。参加者は1回目1・2万人(警察発表5200人)、2回目13万人(同2万2800人)で、今回はひときわ多い。背景には、香港の高度な自治を保障する「一国二制度」が揺らぎ、香港が自由で安全な都市でなくなるとの市民の危機感がある。

香港は透明性が高い司法制度が確立している一方、中国本土では司法機関が共産党の指導下に置かれている。条例が恣意的に運用されれば、民主活動家らが中国に引き渡され、中国を批判する集会も香港で開けなくなるといった不安が共有されている。

デモ隊には若者の姿が目立った。…今回は民主派内の各団体が足並みをそろえ、SNSなどを駆使して積極的にデモへの参加を呼びかけた。雨傘運動で活動した元学生団体幹部の羅冠聡氏は『社会の雰囲気が雨傘運動の直前の状況に似てきた』と語る。」

朝日が、報道の最後を、こう締めくくっているのが不気味ではある。
「香港浸会大学の呂秉権・高級講師(大学教授に当たるものだろう)は今後について『終決定権はもはや香港政府にはなく、中央にある。香港は中央に従わなければならない、という習(近平)氏の考えは非常に強固だ』と述べ、中国政府から譲歩を引き出すのは容易ではないとの見方を示した。」

要するに、問題は中国にある。ここには、法の支配はなく近代司法はない。つまりは人権がない。そんな非文明の異界に、人権主体を追いやることなどできない。香港の民主化活動家を中国本土に送り込むこともあり得るということなのだ。

1980年5月の光州は、外部との接触を遮断された中で、軍の市民に対する暴虐が恣になされた。1989年6月の天安門ではメディアの目はあったが、戒厳令の下、必ずしも報道陣の監視が行き届いたものとはならなかった。布かし、今や香港の市民のスマホが無数の監視の目となっいる。中国も、軽々に民衆に手を出すことはできないだろう。

2017年3月、朴槿恵大統領を罷免に追い込んだ韓国の市民運動「ろうそく集会」も、光化門広場に100万人余の整然たる民衆を集めた。その人数、その粘り強さ、そして広場に集まった民衆を支援する社会全体の声と熱が、政権を覆したのだ。願わくは、香港の市民運動も、「ろうそく集会」型の成功を収めてもらいたい。

なお、雨傘運動の際に中国政府からの圧力が大きかった理由は、香港民主化の動きが中国本土に飛び火することを警戒してのこととされている。中国にとってのその危惧こそ、望まれること。香港の民主化運動が中国に飛び火して、燎原の火のごとく中国民主化の勢いが中国全土を席巻することを願う。夢でしかないのだろうか。
(2019年6月10日)

「日本に報道の自由がないとの実感は全くない」との産経社説を憂うる。

下記は、一昨日(6月7日)の産経社説(『主張』)の書き出しの一文である。なんとなくおかしくはないか。私は、思わず吹き出してしまった。が、実は深刻に憂うべき一文なのだ。

 「本紙(註ー産経)もメディアの一員だが、日本に報道の自由がないとの実感は全くない。」

産経に、「報道の自由がないとの実感は全くない」はウソではなかろう。誰からの掣肘を受けることもなく、自由に紙面をつくって販売していられる。日本には満足すべき報道の自由がある。きっと、産経はそう思い込んでいるに違いない。

 しかし、その産経の『自由』は、産経が特定の立場性を有しているからなのだ。権力におもねり、権力に迎合し、権力を称揚し、権力が望む方向に世論を誘導しようとの立場。権力に抵抗する勢力を難じる立場。権力に癒着した権威に平伏してみせる立場。遅れた社会意識が形成する同調圧力を批判することなく、助長する立場…でもある

権力を称揚する立場の言論が権力から掣肘を受けるはずはない。権威に阿諛追従の言論が社会的制裁の対象になるはずはない。また、社会的多数派の同調圧力に迎合していれば自ずから我が身は安泰に違いない。あたりまえのことだ。

要するに、アベ政権を称揚し、天皇制に阿諛追従し、元号使用を肯定し、「日の丸・君が代」強制を当然視し、北朝鮮や韓国は怪しからん、夫婦同姓を貫こう、という立場での報道は、この社会ではなんの障害もなく安心して発信できるのだ。こんなことは、報道の自由の名に値しない。

権力に迎合する表現の垂れ流しなら、中国にも北朝鮮にも、シリアにもあるだろう。そんなものをジャーナリズムとは呼ばないし、報道の自由が保障されているとも言わない。

「報道の自由」、あるいは報道機関に主体を限定しない「言論の自由」「表現の自由」とは、権力が憎む内容の報道をする自由なのだ。政権の耳に痛い言論を述べる自由なのだ。社会の多数派が歓迎しない表現を敢えて行う自由のことなのだ。

資本主義体制を、保守政権を、アベ政権を、そして天皇制を批判する言論の自由こそが、憲法的保護が必要であり、保護を与えるに値する自由なのだ。産経流のアベ政権や天皇制に迎合する提灯報道の垂れ流しをもって「日本には報道の自由がある」などと言うことは、見当外れも甚だしい。

産経の社説は、こう続く。「見当外れの批判には堂々と反論すべきだ。言論と表現の自由に関する国連の特別報告者、デービッド・ケイ氏が、日本では現在もメディアの独立性に懸念が残るとする報告書をまとめ、24日に開会する国連人権理事会に提出する見通しだ。」

産経が懸念するのは、国連の特別報告者デービッド・ケイの国連人権理事会に提出予定の日本の言論と表現の自由に関する報告書」の内容である。

これについての、朝日の報道を引用しておこう。6月6日付の「表現の自由『日本は勧告をほぼ履行せず』国連特別報告者」という見出し。

「言論と表現の自由に関する国連の特別報告者デービッド・ケイ氏が、日本のメディアは政府当局者の圧力にさらされ、独立性に懸念が残るとの報告書をまとめた。「政府はどんな場合もジャーナリストへの非難をやめるべきだ」とした。
ケイ氏は2016年に日本を訪問し、翌年に報告書をまとめて勧告を行った。今回は続報として勧告の履行状況などを報告。政府に対する勧告11項目のうち、放送番組の「政治的公平」などを定めた放送法4条の撤廃、平和的な集会や抗議活動の保護など9項目が履行されていないとした。
今回、ケイ氏からの問い合わせに日本政府は答えなかったとしている。報告書は国連人権理事会に提出され、審議されるが、勧告に法的拘束力はない。」

どうして産経が目くじらを立てるのか理解に苦しむところだが、産経の社説の中に、次の一節がある。

「菅義偉官房長官は『不正確かつ根拠不明のものが多く含まれ、受け入れられない』と述べた。当然である。勧告に法的拘束力はなく、これまでも政府は逐一に反論してきた。」
なるほど、産経の主張とは、政府を代弁する立場なのだ。

また、産経社説はこうも言う。「人権理事会は加盟国の人権の状況を定期的に監視する国連の主要機関だが、恣意的に政治利用されることも多い。米国は昨年、『人権の名に値しない組織だ』などと批判し、離脱した。」
なるほど、産経の主張は、米国とも一致する立場なのだ。

トランプのアメリカが暴論を恣にして、世界の良識から孤立していることは周知の事実である。そのアメリカにアベ政権が追随し、そのアベ政権に産経が追随するの図である。

産経の強弁に拘わらず、日本のジャーナリズムは、政権批判、天皇制批判を語り得ない。明らかに言論の萎縮状況が蔓延している。この言論萎縮状況が、産経の立場からは、日本に報道の自由がないとの実感は全くない」と映るのだ。産経にこんなことを言わせておくジャーナリズムの現状。残念でならない。
(2019年6月9日)

再び開け、黄色い雨傘。大きく、美しく。

東京で梅雨空を眺めながらのつぶやきではない。香港民主化運動の代名詞だった雨傘運動。当局の弾圧によって2014年以来、逼塞しているかに見えたが、再び始動の兆し。明日、6月9日には、大規模な市民のデモが計画されているという。

香港の民主化運動とは、中国に対するものである。いうまでもなく、中国の人権状況が深刻である。しかも、この人権後進国が、めざましく経済大国化しつつある。経済大国化は、必然的に軍事大国化と政治大国化を伴う。近隣諸国への負の影響を及ぼしつつある。とりわけ、「一国二制度」の香港の事態が深刻である。

いま、香港政府が逃亡犯条例(改正案)(報道によっては、「容疑者移送条例」とも)を議会に上程。これが、大きな政治課題となっている。

この法案は、外国で犯罪を犯した者を、当該国の要請あれば引き渡すという内容だが、「中国に批判的な活動家や、中国ビジネスでトラブルに巻き込まれた企業関係者などが引き渡しの対象になりかねない」(日経)、「冤罪で拘束され、中国本土で公平ではない裁判にかけられる」(毎日)との懸念が強まり反対運動は日増しに熱を帯びている。

毎日は、「中国政府は、香港人がおとなしく圧力に耐えると思っているのだろう。でもこの条例改正は越えてはならない一線を越えている。ここで香港人の意地を見せなければ、香港は中国に完全にのみ込まれる」という市民の声を伝えている。

9日の市民の大デモの前に、6日弁護士のデモがあった。
以下は、香港、容疑者移送条例に反対デモ 弁護士ら黒衣着用し」との表題の共同配信記事。
「香港の弁護士ら法曹関係者は6日、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする『逃亡犯条例』改正案に反対するデモを行った。黒い衣服を着用し、条例改正を進める香港政府への強い不満を表明、立法会(議会)で審議中の改正案の見直しを求めた。
 香港メディアによると、1997年の中国への返還以降、法曹関係者による「黒衣デモ」が行われたのは今回で5回目。主催者側によると、過去最多の2500~3千人が参加。弁護士らは香港中心部を政府本部庁舎前まで無言で行進した。
 主催した弁護士の一人は『改正案が可決されれば、香港の法治が取り返しのつかないほど破壊される』と訴えた。」

各紙とも、この件を報じている。朝日によると、「逃亡犯条例」(改正案)は、刑事事件の容疑者を中国本土に引き渡すことを可能にするもので、「改正案は香港政府が議会に提案した。司法界では人権侵害も指摘される中国本土への容疑者引き渡しを認めると、香港の司法制度への信頼が揺らぐとの懸念が強い」という。

また、朝日は、「参加者は香港で司法関係者を象徴する黒い服を着て約1時間かけて行進。香港政府本部前で約3分間、無言のまま立ち反対の意思を示した。民主派の重鎮の李柱銘弁護士は『香港政府は中国政府の言いなりになっており、香港は安全な場所でなくなる』と語った。」と報じている。

このデモ、主催者発表で3千人だった。香港の人口は740万人、日本の10分の1よりも遙かに小さい香港での弁護士3000人規模のデモなのだ。「主催者発表」にもせよ、はたして東京で3000人の弁護士デモが組めるだろうか。

香港の法曹制度は、英国の流れを汲む。弁護士は、バリスター(法廷弁護士)とソリシター(事務弁護士)に分業化されている。バリスターの人数は1300人、ソリシターの人数は5000人ほどだという。このうちの約半数が、デモに参加したということになる。たいへんな危機感の表れといわねばならない。

洋の東西を問わず、弁護士の任務とは人権の擁護である。弁護士が自らの職域防衛のためではなく、中国から香港に逃亡してきた政治犯の人権のために立ち上がっている図は立派なものではないか。

3000人の弁護士に続いて、「中国に批判的な香港の民主派は9日、30万人規模の大規模な抗議デモを計画している」とも報道されている。「中国政府言いなりの香港政府」と、「人権擁護のために立ち上がる香港市民」の対決の構図。当然のことながら、「中国政府は香港政府への支持を表明しており、対立が激しさを増している」。さもありなん。

一度はやむなく閉じざるを得なかった香港の雨傘。もう一度しっかりと開いてほしい。そして、今度は開き続けてほしいと思う。人権のために、民主主義のために。そして、国際的な友誼と条理のために。
(2019年6月8日)

解散しようかな。それとも解散よそうかな。

こんなはずではなかったんだ。あ~あ、アタマが痛い。

どうせこの先、国民の信頼に応えて人気の出るようなことが出来るはずはない。私にそんな知恵はない。アベノミクスもメッキがはがれてきた。どうせジリ貧なんだから、選挙は早い方がいいに決まっている。でも、このまま選挙に突っ込んでも、ホントに勝てるか自信はない。

有利なタイミングを選んで解散権を行使できるのが私の強み。「国民に大きな負担をかけるだけの、大義のない解散はありえない」なんて意見もあるようだが、そんなバカげた妄言に耳を傾けるほど、私も甘くはない。

大義にこだわってタイミングを失すれば選挙は惨敗だ。大義があろうとなかろうと、選挙は勝つことだけが重要だ。解散の大義なんて取り巻き連中にひねり出させればよいだけのこと。私だって、そのくらいのことは分かっている。

太平洋戦争が絶望的な局面になっても、昭和天皇はもう一度戦果を挙げてからでないと」とおっしゃった。国民がどんどん死んでいくあの時に、国体護持という大目標のために、きちんとこう言えるのだから、さすがにご立派な態度。私も真似をしなくてはと思う。「もう一度の戦果」を挙げてから解散して、総選挙に打って出なければならない。

「もう一度の戦果」は、内政ではボロばっかりだから、外交で点を稼ぐしかない。「さすが、外交のアベ」と国民を唸らせる成果が欲しい。それなくしては、解散もできない。憲法改正だってできないことになる。

「外交のアベ」のもくろみは、二つあった。一つは、北朝鮮との交渉による拉致事件の解決。もう一つは、ロシアとの平和条約を締結して、北方領土問題に道筋を付けること。どちらも、できたら素晴らしいのだが、できそうでできない。だんだんと、その難しさが国民の目に分かるようになってきた。だから、アタマが痛い。

前回の解散は一昨年(2017年)の9月、10月22日に総選挙だった。国難突破解散」なんちゃって。北朝鮮の危機を煽りに煽って、そこそこ勝たせてもらった。今思い返すと、あんなに大袈裟に危機を煽って噴飯物だが、あのときは本当に北朝鮮様々だった。金正恩には足を向けて寝られないと思った。拉致問題なんて、アタマの片隅にもなかったが、今度はそうは行かないから難しい。

しょうがないから、今度は拉致問題で成果を出さなきゃならない。これまでは、戦略も戦術もなく、やみくもに制裁強化だ、圧力だと言って済ませてきた。しかし、現実に成果を出さなきゃならないとなると、これまでの無為無策が足枷になる。まあ、考えてみればあたりまえのことだがね。

で、しょうがない。みっともないけど、方針を変えた。「前提条件なしに、私自身が金正恩との会談を目指す」とね。自分でも、すこし態度が大きいかなとは思ったが、北朝鮮側の反応は予想以上に、嵩にかかったものとなった。厚かましい」と言うんだ。厚かましい」だよ。こう言われて、どうすりゃいいんだ。こりゃ、お手上げだ。あわよくば参院選との「同日選」とも思っていたが、とても間に合いそうもない。

6月28、29日に大阪で開かれるG20サミットではプーチンとの首脳会談が予定されている。これで、北方領土問題での起死回生のホームランが出なければ、「もう一度の戦果」はゼロだ。ずるずると、無条件降伏まで行ってしまった、1945年悪夢の再来ではないか。

ところが、これがまた難しくなった。プーチンが、「日露平和条約の締結問題について、『ロシアは条約締結を望んでいるが、日本と米国の軍事協力が締結を難しくしている』との認識を改めて示した」「沖縄の米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題を念頭に『地元住民や知事が反対しているのに建設が進んでいる』と指摘。日本の他の地域でも米軍施設が建設され、ロシアの安全保障に影響する恐れがあるとの懸念を示した」「難しいプロセスだ。すぐには解決できない」と言うんだ。何を今さら、とは思うけど、本当のことだから、反論できない。いや、困った。

結局、こういうことなんだろうな。

北方の4島でも、あるいは2島でも、日本に返還したとする。すると、直ちにアメリカの軍事基地が置かれることににもなりかねない。そういう懸念を払拭できない、と言うんだな。沖縄を見ろ、地元があんなに反対していても、辺野古の基地建設は、有無を言わせず強行されているではないか。日米安保条約は、全土基地方式と言うじゃない。「日米の軍事協力」が、北方領土問題解決のネックなんだ。沖縄で基地建設を強行したことが裏目に出てるんだ。

どうすればいいのだろう。いっちょう、戦争でもやってみるか」なんてことは、維新の議員じゃあるまいし、口にできっこない。韓国とも、中国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、外交みんなダメじゃん。化けの皮が剥がれつつあるのが、一番こたえる。

破れかぶれで、実はもう一つの試みがある。トランプの使いっ走りになって、イランへ行くっていうあれ。あんまり、大きなイベントではないけど、「外交みんなダメじゃん」の中で、一つくらいは成功させたい。トランプもイランも困り切っているようだから、もしかしたら、瓢箪から駒が出て来るかも知れない。そうすれば、大義があうがなかろうが、解散できるかも。いや、無理かな。

解散風、一度は吹かせてみたけれど、やっぱりダメかな。でも、この先、どうせジリ貧なんだから、やった方がいいのかな。グルグルと空回りするばかり。
あ~あ、アタマが痛い。
(2019年6月7日)

どうして? いつのまに、日本が民主主義後進国に?

デモとストとは、民主主義社会の健全性をはかるバロメータである。デモは政治的言論の自由を象徴し、ストライキは経済的要求活動の活性度を表す。デモもなくストもない社会は、抑圧された社会であるか、 活力を失って零落しつつある社会でしかない。当然に、民主主義後進国ということにもなる。どうも、日本がそれに当たるようなのだ。

ドナルド・トランプという粗野で我が儘な人物がいる。「人種差別主義者で戦争屋で女性蔑視者で環境破壊者」なのだ。アメリカの民主主義は、こんな人物に権力を預けた。それゆえトランプは、粗野で我が儘だけでなく、最も危険な人物となった。

この男が今年(2019年)の5月25日から28日まで日本にやって来たとき、政権と皇室と相撲協会とゴルフ場と炉端焼きが、それぞれの思惑をもって最大限のオモテナシをした。これは、粗野で我が儘で危険な人物への対応としてあるまじき、明らかに異常な事態。一方、トランプの訪日に抗議する真っ当な民衆のデモは、まことに小規模なものでしかなかった。残念ながら、日本の社会が抑圧されて活力を失っていることを如実に示す結果となった。

そのトランプが、6月3日から訪欧し、まずは4日イギリス・ロンドンで市民運動の大規模なデモに迎えられた。ロンドン発時事によれば、「トランプ米大統領の国賓訪英に反対する大規模デモが4日、ロンドンで行われた。米英首脳会談に合わせたもので、全国各地から推定で約25万人が参加。『共にトランプに対抗しよう』をスローガンに、人種差別的とされるトランプ氏の政策に抗議の意を示した。デモは反戦・女性団体、環境保護団体など複数の市民グループが共同で主催。市中心部のトラファルガー広場から、会談会場の首相官邸に近い議会議事堂前広場に向け、参加者らは『人種差別にノー』『トランプ(の政策)を捨てよう』などと書かれたプラカードを掲げて練り歩いた。野党労働党のコービン党首も参加し、集会で『(デモは)トランプ氏に攻撃を受けた人々を支援する機会だ』と演説した。
議事堂前広場には抗議の一環として、トランプ氏をおむつ姿の赤ちゃんに見立てた巨大風船『トランプベビー』が掲げられた。ロイター通信によると、企画した一人は『大統領に対し、いかにこの国で歓迎されていないか想起させたい』とコメント。デモは、バーミンガムやグラスゴーなど国内各地でも企画された。」

イギリス社会は、おむつ姿の巨大風船『トランプベビー』を掲げることによって、その知性も理性も、そして活力も失っていないことを世界に示したのだ。

ところで、日本での反トランプのデモは極めて小さい規模のものだったが、新天皇の就位をめぐっての提灯行列は大規模に行われた。シンガポール陥落を祝っての昔の話ではなく、21世紀の今の実話。けっして作り話ではない。

「愛知県を訪れている天皇皇后両陛下は1日夜、名古屋市内の宿泊先のホテルで、ちょうちんを手に集まった大勢の住民の歓迎にこたえられました。
両陛下は全国植樹祭に出席するため、1日から2日間の日程で愛知県を訪問していて、… そして1日夜、名古屋市内の宿泊先のホテルの前にある公園には、大勢の人たちがちょうちんを手に集まり、両陛下も午後8時半すぎ、ホテルの17階にある明かりが消えた部屋の窓辺にちょうちんを持って立たれました。
住民たちがちょうちんを振ったり万歳三唱をしたりして歓迎の気持ちをあらわすと、両陛下は、上下左右にちょうちんを振ってこたえられました。最後に部屋の明かりがついて両陛下の姿が見えると住民から歓声があがり、両陛下は、何度も手を振ってこたえられていました。」(NHK)

いうまでもなく、「提灯を持つ」とは、頼まれもしないのに進んで他人の手先として働くこと。あるいは、へつらってその人をひたすら褒めて宣伝することをいう。引用したNHKの報道を「提灯記事」というのだ。戦前の国家主義教育を受けて滅私奉公を叩き込まれた臣民は、こぞって天皇に提灯を持ち、群をなして提灯を掲げた。嗚呼、日本国憲法下の今にしてなお、その臣民根性が抜けやらぬのだ。

提灯から、火袋を外すと、ろうそくとなる。韓国の民主化運動では大規模なろうそくデモが繰り返された。朴槿恵政権を退陣に追い込んだのは、光化門広場を埋めつくし溢れ出た100万を遙かに超す人々のろうそくデモだった。提灯行列と、ろうそくデモ。ちょっと似ているが、まるっきり違う。権威や権力に操られた人々のへつらいと、主権者としての自覚に基づく権力打倒の政治行動。

こんなはずはなかった。戦後の日本は、思想・良心の自由も、表現の自由も、民主主義も手にしたはずではないか。食糧メーデーも、血のメーデーも、安保闘争も、スト権ストも、公害闘争も、原水禁運動も積み重ねてきた。アベのような戦前回帰主義者に抗して、改憲だって阻止し続けてきたではないか。

それが、どうも最近調子がおかしくはないか。デモもストも、規模が小さい。元気がない。日本はいつから民主主義後進国になってしまったのだろうか。
(2019年6月6日)

「天皇の存在は、民主的な改革に障害とはならないのか」 ― 象徴天皇制についての徹底した議論を

昨日(6月5日)の「しんぶん赤旗」を開いて驚いた。
一面トップに、「天皇の制度と日本共産党の立場」「志位委員長に聞く」というインタビュー記事である。聞き手は、小木曽陽司・赤旗編集局長。なんだか、とても物々しい。これは、共産党にとっての重大テーマだというシグナル。しかも、このインタビュー記事は、第1面だけでは終わらない。第6面から第9面のほぼ全頁を費やした、5面にわたっての長大記事なのだ。

「政権と闘おう。」「資本の横暴を許すな。」「アメリカの覇権主義に抵抗を。」「沖縄の運動と連帯しよう。」「平和や民主主義を擁護しよう。」「格差や貧困をなくそう。」「理不尽な差別や不平等をゆるさない。」などという、共産党ならではの呼びかけではない。天皇制についての共産党の立場の説明に、これだけの大きなスペースが必要ということなのだ。

もしかしたら、「私のブログでの批判を意識しての弁明なのかな」「私のように共産党の立場や政策の転換を批判する多くの人の意見を無視し得ないのだな」などと思いつつ目を通した。論文と違ってこのインタビュー記事は読み易い。共産党が何を考えているのか率直で分かり易いとは思う。しかし、「この機会に大本から考えたい――日本国憲法と改定党綱領を指針に」という、「大本」についてどうも納得はしかねる。最後まで、違和感を払拭できない。

赤旗をお読みでない人のために、インタビュー全体の構成をご紹介しておきたい。
下記の赤い太字が章立てで、青字が小見出しである。章立ての番号は、便宜わたしが付けたもの。

1 「この機会に大本から考えたい――日本国憲法と改定党綱領を指針に」
2 なぜ「君主制の廃止」という課題を削除したか
 日本国憲法の天皇条項をより分析的に吟味した結果
 根本的な性格の変化――主権者・国民のコントロールのもとにおく
 改定綱領で「天皇の制度」という言い方をしていることについて
 社会進歩の事業とのかかわりでも、戦前のような障害にはなりえない
 前の綱領の規定には歴史的背景もあった

3 天皇の制度の現在と将来にどのような態度をとるか
 「制限規定の厳格な実施」「憲法の条項と精神からの逸脱の是正」が中心課題
 「民主共和制の政治体制の実現」―日本共産党の「立場」の表明
 どうやって解決をはかるか―主権者である「国民の総意」にゆだねる

4 天皇の制度についての綱領改定がもたらした積極的意義について
 現行憲法の「全条項をまもる」とスッキリと打ち出せるようになった
 「制限規定の厳格な実施」をより強い立場で打ち出せるようになった

5 制限規定を厳格に実施し、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する
 天皇の政治利用を許さない―憲法違反の無法ぶりを示した「主権回復の日」式典
 天皇の「公的行為」―憲法からの逸脱、問題点はないかを、きちんと吟味を
 国会での「賀詞」決議について― 二つの原則を堅持して対応してきた

6 元号について―どう考え、どう対応するか
 元号に対する日本共産党の基本的態度について
 慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対する
 元号が変われば世の中が変わるか―社会を変えるのは主権者である国民のたたかい

7 「皇室典範」にかかわる問題―天皇の退位、女性・女系天皇について
 憲法の条項と精神に適合する改正には賛成する
 天皇の退位―「個人の尊厳」という憲法の最も根本の精神にてらして賛成した
 女性・女系天皇について―憲法にてらして認めることに賛成する

8 憲法9条改定への天皇の政治利用を許してはならない

この小見出しはよくできている。この問題にいささかの関心をもってきた人であれば、上記の章立てと小見出しを読むだけで、大方は共産党の主張の内容を理解できるだろう。最近の同党の意見を集大成したものなのだ。

インタビューの冒頭にこうある。
小木曽 天皇の制度については、議論を避けるという傾向も強いですね。
志 位 そう思います。でも思考停止、議論停止になってはいけません。タブーをもうけず、この制度について、この機会に大本から考え、議論していくことが大切だと思います。

「議論していくことが大切」という志位意見に大賛成だ。明確になった共産党の立場に対して、私も自分の意見を述べていこうと思う。

もちろん、このインタビュー記事のすべてがおかしいとか、全部が間違っているなどと極論するつもりはない。しかし、重要なところで納得しがたいのだ。

問題の発端は、天皇の代替わりに伴う国会の「賀詞決議」に共産党が賛成したことだった。反対でも棄権でもない賛成。多くの人が「まさか共産党が、新天皇就位に賀詞を表明するなどあり得ない」という思いをもっている中でのこと。当然に、納得し得ない人々からの批判が集中し、その結果共産党の象徴天皇制に対する基本姿勢を釈明するものが今回のインタビュー記事である。問題は二層にわたってある。まず、政策としての「賀詞決議」賛否の問題。そして、さらに重要なのが、象徴天皇制に対する基本姿勢の問題である。

本年(2019年)5月10日のブログで、衆院で成立した賀詞決議に共産党議員までが賛成したことを私は批判した。共産党の支持者としての、共産党批判である。

「賀詞」とは、慶事に対する祝意の表明ではないか。象徴天皇が憲法上の存在であることは自明の前提として、新天皇の就位をどんな理由で慶事というのだろうか。為政者やその追随者にとっての演出された慶事ではあっても、国民主権や民主主義の大義から見ての慶事ではあり得ない。少なくとも、私にとっての慶事ではなく、共産党とその支持者にとっての慶事でもありえない。国会は、「国民を代表して」賀詞を述べることはできない。また、国民誰にも、新天皇への祝意を強制される筋合いはない。

この点についての私の意見は、5月10日付ブログで尽きている。ぜひ、再度お読みいただきたい。象徴天皇制に対する基本姿勢の問題も、多少は触れている。

おそるべし天皇制。衆院全会一致の阿諛追従決議。
http://article9.jp/wordpress/?p=12582

このブログに付け加えれば、インタビュー記事には、体系としての憲法の把握のありかたに違和感があるということだ。象徴天皇制の位置づけや、天皇制の民主主義への危険性について、私は下記の志位見解のような楽観論には立てない。新元号や新天皇即位に伴う、社会的なフィーバーと、その政権の利用を見せつけられた直後であるだけに一入である。

「天皇の制度の性格と役割が憲法によって根本的に変わりました。この制度をなくさないと、私たちが掲げる民主的な改革――日米安保条約の廃棄や「ルールある経済社会」をつくるといった改革ができないということはありません。」

また、憲法に書いてあることが、目的や理想ではなく、既に実現しているごとき認識にも違和感を禁じえない。志位インタビューでは、憲法本来の理念体系に、天皇の存在が背反した存在となっているというとらえ方が希薄なのが気にかかる。

なお、2004年改定の新綱領は、こう述べているという。
「党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」

この第1文に異論はない。ところが、第2文には大いに違和感がある。これは、積極的に社会を変革していこうとする立場ではない。この第1文に述べられた基本理念から論理的に演繹される方針としての第2文は、こうでなくてはならない。
「天皇の制度が憲法上の制度である以上、その廃止には国民の総意によって憲法改正を要することになるが、党は漫然と情勢が熟したときに解決されるという待機主義の立場を採らず、天皇制を美化するあらゆる策動に反対し、民主共和制の政治体制の実現をはかるべく可能な努力を重ねる」

ところで、「思考停止、議論停止になってはいけません。タブーをもうけず、この制度について、この機会に大本から考え、議論していくことが大切だと思います」という志位見解を歓迎して、ぜひとも実践していただきたいと願う。ついては、提案を申し上げたい。この機会に、赤旗を舞台に、「タブーをもうけず、天皇制について、大本から考える議論」を巻き起こすための、企画を練っていただけないだろうか。

たとえば、共産党自身の公式見解をもタブーとすることなく、それへの賛否両論の言論を歓迎するという姿勢での「天皇制議論のコーナー」の創設。タブーのない赤旗ならではの言論空間の設定は、有益なものと思うのだが。

なお、やや古いが、2015年12月25日付の下記ブログも、併せてお読みいただきたい。

共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け

http://article9.jp/wordpress/?p=6112
(2019年6月5日)

天安門事件と光州事件 - 軍は躊躇することなく国民に発砲する

6月4日である。あの天安門事件から30年が経った。この事件は私の胸に突き刺さるトゲだ。これに触れられるたびに胸が痛む。

学生の頃、中国革命を輝かしい歴史の到達点と評価していた。ここにこそ人類の未来があると信じていた。それが、次第に色褪せて、トドメを刺されたのが天安門事件だった。

今年(2019年)は、「三一独立運動」「五四運動」の両事件から100年でもある。朝鮮でも中国でも民主主義・民族主義運動の先頭には、100年前から立ち上がった学生の姿があった。純粋な理想と情熱をもって体制に抵抗し、社会を改革しようと行動することは若者の特権である。

以来脈々と学生運動の灯は受け継がれてきた。1980年韓国「光州事件」(光州民主化運動)と、1989年中国「天安門事件」の対比が、なんとも痛々しい。

光州事件を舞台にした、映画「タクシー運転手」の中に、印象に残る主人公のセリフがある。戒厳令下の光州で軍が市民に発砲しているという噂を打ち消そうとしてこう言う。

「ボクも、兵役で軍隊にいたからよく分かる。軍隊は国民を守るためにある。軍人が自分の国の市民を撃つことなんてあり得ない。」

やがて、光州に入ったタクシー運転手は、軍隊が躊躇することなく市民を攻撃するという、あり得ない光景を目撃して驚愕する。

それでも光州事件の犠牲者は、今その事件に光が当てられ、国民が記憶し、韓国民主化の礎とその名誉を讃えられている。もちろん、加害の責任追求にも怠りがない。一方、天安門事件の犠牲者は、その対極にある。

中国の民主化を求める天安門広場のデモ隊は、一時は100万人に達して、あの広大な広場を埋めつくしたという。このデモ隊に、軍からの解散命令が出た。引くか、抵抗を続けるか、デモ参加者の賛否は割れたという。このときまで、「解放軍が人民に武力を行使することはあり得ない」と信じられていた。

しかし、鄧小平をトップとする人民解放軍は、武器を持たない平穏なデモ隊に発砲した。躊躇なく徹底して。ここ中国の首都でも、あり得ないことが起こったのだ。光州より遙かに大きな規模で。しかも、軍の武力が民主化を求める民衆の運動を押さえ込むことに成功している。少なくとも、この30年は。犠牲になった人々の名誉はさらに傷つけられ、事件を闇に葬ろうという圧力は弱まることがない。

民主化をなし遂げた韓国と、民主化運動弾圧に成功した中国。その落差は大きい。
そして、思うのだ。軍隊とは、常に国民を守るというものではない。これは、皇軍だけの特殊事情ではない。ある局面では、容赦なく国民を殺す存在なのだ。政権や、資本や、宗主国や、特定の指導者を擁護するために。この教訓を忘れてはならない。
(2019年6月4日)

「怖い絵」よりもずっと怖い、実人生の闇。

中野京子「怖い絵(角川文庫)を読んでいる。22の「怖い」絵画それぞれに、みごとな解説が付けられている。中で出色に「怖い」のが、作品10のゴヤ「我が子を喰らうサトゥルヌス(プラド美術館)。これは、解説不要で、視覚的にこの上なく怖い。

ローマ神話のサトゥルヌスは、ギリシア神話ではクローノス。父ウラノスを殺して、神々の上に君臨するが、父ウラノスの最期の言葉が、「おまえもまた自分の子どもに殺されるだろう」という呪いだった。サトゥルヌスは、この呪いを恐れて次々と自分の子供を喰らうのだが、結局はウラノスの予言のとおり、6番目の子ユピテル(=ゼウス)に殺されることになる。

この「親が子を食うという衝撃的なテーマは、絵画における恰好の題材となり、多くの画家たちに取りあげられることになった」という。同書では、同名のルーベンスの作品が紹介されている。これも怖い。

著者は、「我が子を喰らうという極限のこの姿は、地獄を見た者にしか描けないと思わせる」という。その上で、さながら地獄の現実を見たゴヤの体験を解説する。あらためてこの絵を見直すと、怖さは一入である。143cm×81cmという原画の怖さはいかほどであろうか。

この絵の解説の最後が、こう締めくくられている。
「作今、親の子殺しがマスコミをにぎわしている。ふと思ったのだが、彼らはこのサトゥルヌスの絵を知らないのだろうか。もし、一度でもこの絵を見たならば、自らの浅ましい姿をサトゥルヌスに重ねずにはいられないはずだし、ひとつの抑止力にはなるような気がするのだが…」

この解説の初出は、2007年7月のようである。たまたま、一昨日(6月1日)元農水省事務次官(76)の長男殺害事件が胸に突き刺さる。彼は、生きたまま地獄に身を投じたのだ。

「怖い絵」(角川文庫)には、もう一つの子殺しの作品が紹介されている。作品19のレービン「イワン雷帝とその息子(トレチャコフ美術館)である。1885年に描かれた200cm×254cmの大作。これは、解説がとても興味深い。

雷帝と恐れられたロマノフ王朝の皇帝イワン4世は、暴君として知られた人。妊娠中の皇太子妃を打擲して流産させてしまい、これに意見をこころみた皇太子を、逆上のあまり打ち殺してしまう。問題の絵は、その直後我に返って後悔の念で瀕死の息子を抱きかかえる皇帝の姿を劇的に描いたもの。

中野は、「これは、歴史画の装いを凝らした現体制批判の絵画なのだ」という。もはや統治能力を失った老人の愚行。その愚は、今なお繰り返されているのではないか。それが、ロシアの現実に果敢な抗議を続けたレービンの芸術における目的であったという。

なるほど、洋の東西を問わず、やんごとなき家柄も権力者も、愚行を重ねるものなのだ。愚行の狂気が醒めたあとでなければ、愚行の愚行たる所以は顕れてこない。

それはともかく、自らの手で息子を殺害せざるを得ない立場に追い込まれた元次官の切羽詰まった心情を思いやらざるを得ない。人知れぬ親子関係や家族の悩みは、やんごとなき家柄でも高級官僚でも、庶民と変わるところはない。

今、殺人罪で勾留されている元次官は、サトゥルヌスの絵を知らなかっただろうか。知っていて、自らの浅ましい姿をサトゥルヌスな重ねたのだろうか。あるいは、自らの浅ましい姿を自覚しつつも犯行に及んだのだろうか。

「狂気に捉われるのは怖ろしいことだが、狂気から覚めて自分のしたことを突きつけられるのは、さらに一層怖ろしいことではないだろうか。ツァーリの両の眼がそれを如実に物語っている」

「レービンが伝えようとしたのは若者の痛ましい死だったはずなのに、強烈なインパクトを持って迫ってくるのは、自らの取り返しのつかない愚行に愕然とする老人の方である。彼の絶望、彼が感じる恐怖の、圧倒的なまでの大きさの方である」

元次官も、自らの取り返しのつかない愚行に愕然としたのだろうか。あるいは、こうなる以外に策はなかったと諦念しているのだろうか。またあるいは、圧倒的な絶望のうちにあるのだろうか。軽々に、批評も批判もできかねる人生の闇の深淵。絵画も怖いが、実人生の怖さは、底が知れない。

司法が向き合っているのは、絵画でもバーチャルでもない。リアルな実人生の、深刻な闇の部分なのだ。
(2019年6月3日)

「この学校敷地には鉛やヒ素が含まれ、たとえ浄化後でも公開されると事業経営に支障をきたすことになる。だから、当然秘密にしておかなくてはならない」 ー これって、裁判所が言うべきことだろうか?

5月30日、森友学園事件の情報公開請求不開示問題で、木村真・大阪府豊中市議が国に11万円の損害賠償を求めた訴訟の判決があった。大阪地裁・松永栄治裁判長は国に3万3000円の支払いを命じる判決を言い渡した。請求の一部とはいえ、国(近畿財務局)の情報公開請求に対する不開示(後に不開示処分を撤回している)の違法を認めた判決である。歴然たる国の敗訴、木村真市議の勝訴。とは言え、原告側の顔色は冴えない。スッキリしないのだ。

朝日は、一面トップにこの記事を掲載した。裁判所による不開示違法の判断にスポットを当てて紹介している。まずは、当然の姿勢。その判決評価の垂れ幕の写真が、微妙。一本が「勝訴」、そしてもう一本が「不当判決」。勝訴はしたものの、スッキリ勝ちきっていない。判決理由中に「不当」な判断を含む、積極消極評価両様の判決ということなのだ。

以下は、朝日が掲載する判決要旨の紹介。

学校法人森友学園(大阪市)の国有地取引をめぐる問題で、学園への国有地売却額を一時不開示とされ精神的苦痛を受けたとして、学校法人森友学園(大阪市)の国有地取引をめぐり、売却額の一時不開示を違法とした30日の大阪地裁判決の要旨は次の通り。

【売却額の一時不開示は違法か】
 情報公開法は、法人や個人の情報のうち、公にすることで権利や競争上の地位、正当な利益を害するおそれがあるものを不開示情報と定める。「単に他人に知られたくない」というだけでは足りない。権利や地位を害するおそれが客観的に認められる必要がある。
 財政法の趣旨は、国有財産の適切な管理を求めることだ。当時、国有財産を公共随契などで貸したり、売ったりした場合、原則として契約金額などを財務局のホームページで公表することになっていた。法人などが国有地を買い受ける際、売却額が公表されることが想定されていた。
 そうすると、国有地の売却額は基本的に公表されるべき情報にあたり、公にされることで法人などが利益を害されるおそれがあっても、情報公開法の不開示情報には該当しない。
 国は、開示すると
 (1)値引きを必要とするいわく付きの土地だと推察されるおそれがある
 (2)小学校を運営する森友学園の信用を低下させ、小学校経営における経営上の地位や事業運営上の利益を侵害する恐れがある――などと主張する。
 だが、土地価格の開示によってなぜ森友学園の信用が害されるのか、国の主張は論理があいまいで、十分な根拠は見いだしがたい。
 2013~16年度に公共随契の方法で国有地の売り払いがされた契約104件のうち、契約金額が非公表とされた事例は本件だけだった。近畿財務局が職務上の注意義務を尽くしていれば、売却額が不開示情報に該当しないことは容易に判断できた。漫然と不開示の判断をしたことは、国家賠償法上、違法だ。

【ごみなどにかかわる特約条項の一時不開示は違法か】
 特約条項には、《森友学園が小学校敷地として取得した土地に、地下数十センチから3メートルまでの間に廃材やごみなどがあり、鉛やヒ素が含まれることが具体的に記されている》。開示されると、これらを了承して買ったことが具体的に明らかになる。
 土壌汚染があった土地の小学校という印象を保護者に与え、有害物質で健康を害する懸念を生じさせるおそれがある。浄化後でも強い心理的嫌悪感を与える。小学校経営における競争上の地位や、事業運営上の利益を害するおそれがある。
 不開示情報とした判断には合理的な根拠があり、違法とは認められない。

【損害額】
 原告は、不開示処分を受けたことで、処分取り消しを求める訴えを起こさざるを得なかった。その後に国や報道機関を通じて不開示処分が公開され、新たに開示処分を受けたことを考慮しても、適正な開示決定を受けるという人格的な利益が違法に侵害された。事案の内容や性質、経緯などに照らせば、損害額は3万円、弁護士費用は3千円と認めるのが相当だ。

不開示の違法性については、《売却額の一時不開示》と、《ごみなどにかかわる特約条項についての一時不開示》の2点が争われた。判決は、前者については原告の主張のとおり違法と認定したが、後者については「不開示情報とした判断には合理的な根拠があり、違法とは認められない」というのだ。おかしいよ。どうしたって納得できるはずがない。

判決によれば、特約条項には、《小学校敷地として取得した土地に、地下数十センチから3メートルまでの間に廃材やごみなどがあり、鉛やヒ素が含まれることが具体的に記されている》のだという。そんなことを隠しておいていいのか。判決は、「鉛やヒ素が含まれることが具体的に記されている土地であることが公開されると、たとえ、浄化後であっても事業運営上の利益を害するおそれがある」。だから、公開しないことに合理的な理由があるというのだ。

判決の言うのはこういうこと。「せっかく臭い物に蓋をしたのだ。何があるのか分からぬよう、しっかりと蓋を閉めて秘密にしておくべきことには合理性がある」。いや、この比喩では足りない。「売買の対象は、毒性のある物質を含む危険な土地で、子どもたちの健康を損なうおそれがある。たとえ浄化後といえども、子どもの親などに知られては買い主の事業経営に支障をきたすことになる。だから、秘密にすべきものである。」

裁判所は「校舎の敷地に鉛やヒ素が含まれること(あるいは、含まれていたこと)は、親も世間も知らなくてもよい。知らせなくてもよい」と言っているのだ。これでよいはずがないではないか。

もちろん、スッキリしないのはそれだけの理由ではない。相澤冬樹記者(大阪日日新聞・元NHK)は、次のように報じている。

判決後、裁判所内の記者クラブで会見を行った木村さんは、納得できない思いを訴えた。
「判決は『相当量のごみがあった』と言ってるけど、違うでしょ。あの国有地には第1のごみと第2のごみがあるんです。こんなの森友問題の基本中の基本だから。あの国有地には元々ごみがあったけど、それは浅いところにあるごみで、前からわかっていて問題にならない(=第1のごみ)。ところが地中深くから新たなごみが出てきたということになって、それが値引きの根拠にされた(=第2のごみ)。でも、そんな深いところのごみはないんですよ。それはあらゆる証拠が示している。なのにこの裁判長はこの2つをいっしょくたにして『相当量のごみがあった』なんて言っている。全く納得できない。こんな判決あり得ません」

もう一つ、私は問題としたい。「弁護士費用3000円」とはいったい何だ。いつまでも、こんな浮き世離れの賠償額でよいのだろうか。少なくとも、国家賠償請求訴訟の場合、もう少し常識的な認容額であってしかるべきではないか。

朝日のトップを飾るだけの意義のある判決。原告の木村市議は、情報公開請求も、国家賠償訴訟(提訴時は、開示処分を求める請求)の提起も、私益のために行ったのではない。勝訴をしても認容額が3万3000円では、行政を糺そうというモチべーションに欠けることになりはしないか。弁護士なしでは事実上できない訴訟だが、その「弁護士費用は3千円と認めるのが相当」はあまりに、情けない。対等・平等のはずの国側には、指定代理人も弁護士もカネの心配なく、配置することができるのだ。
(2019年6月2日)

自分自身の思想と良心を守り抜いた原告の皆さまに敬意を表します。

東京「君が代裁判」4次訴訟の終了報告集会にご挨拶申し上げます。
提訴から最高裁決定で確定するまでの、事件の経過や各審級の判決内容は、平松真二郎弁護団事務局長から報告があったとおりですので、私は別の角度からのお話しをさせていただきます。

弁護士は、事件と依頼者によって、はじめてはたらく場が与えられます。事件と依頼者によって、弁護士としての生きがいを得、力量を育てられるものです。私は、育てられるにはやや手遅れですが、私を除く弁護団の皆が、この事件に真剣に取り組み、弁護士としての生き甲斐を得、大きく育てられたことをありがたく思っています。

人はパンのみにて生くるものにあらず。弁護士はルーチンの債務整理のみにて生くるものではありません。弁護士を志したときには人権擁護の理念に燃えていたはずです。そのような弁護士本来の活動の機会を得たことを好運に思い、魅力ある原告の人々と信頼関係を築いて交流することができたことをありがたいこととも、好運であったとも、思っています。

この訴訟では、君が代不起立に対する懲戒処分のうち、減給・停職の苛酷な処分はすべて取り消されて確定しました。そのうちの田中さんに対する、4回目・5回目の不起立に対する減給処分がいずれも取消されて確定したことが、特筆すべき成果として強調されています。原告の訴えをよく聞く耳を持っている、血の通った裁判官のお陰でもありますが、私は、一審14人の原告団全員の熱意と真面目さが裁判所を動かしたのだと思います。田中さん一人の成果ではなく、14人全員の成果であったと思います。また、その成果は、予防訴訟から、処分取消を求めた1次、2次、3次訴訟の積み上げの上に、大きな支援の輪の広がりの中で勝ち得られたのだと思います。

一方、残念ながら4次訴訟でも、戒告処分を取り消すことはできませんでした。最高裁の壁は厚かったというほかはありません。このことは、5次訴訟以後の課題として残されたことになります。私たちは、日本国憲法の理念から、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令も、その職務命令違反を理由とする懲戒処分も、本来は違憲違法なのですから、戒告処分取消の判決を得るまで、力を尽くしたいと思っています。

すこしだけ、この事件において問われているものを振り返ってみたいと思います。
最近、何度か韓国へ行く機会があります。その都度ことあるごとに、韓国では国旗国歌への敬意強制に関する問題はないのか、強制に反対の運動はないのかと聞くのですが、誰もが強制を意識することもないし、強制反対の運動もない、と言います。

よく知られているとおり、韓国の国旗は太極旗。起源は李氏朝鮮時代からと言いますが、1919年の3・1独立運動では、独立を求める行進の先頭にこの旗が立ち、独立宣言文以上に、独立を求める民衆を鼓舞する役割を果たしたと言われています。以来、抗日と民族独立運動のシンボルとなり、独立後に正式に国旗として制定されました。

韓国では、右派・左派を問わず、国旗に親近感・肯定感が強いようです。この旗に、プライドを持ち、この国旗に敬意を表することは当然のことという共通の了解があり、国旗に敬意を強制の問題も、国旗に抵抗の問題も聞いたことがない、と言うわけです。

日本では事情が違うとお話しします。日本で国旗とされている「日の丸」は、かつては富国強兵と滅私奉公をスローガンとした、天皇制軍国主義国家のシンボルでした。侵略戦争と植民地主義の象徴だったと言ってよい。敗戦後、新憲法で国の基本原則が根底から変えられたのに、「日の丸」は依然として国旗となっている。この旗を憲法理念に敵対する旧体制の残滓のシンボルと考え、敬意を表することができないという少なからぬ良質な人々がいます。私も、日の丸は嫌いだ。こう説明すると、「なるほど。分かります。そんなふうに、国旗の成り立ちや意味合いが違うのですね」ということになります。日本の事情は分かるけど、韓国は違う、というわけです。

でもね、と話は続きます。日本ではあまり知られていませんが、韓国の国歌は「愛国歌」といいます。その歌詞は、韓国の自然や国民の精神を讃え、最後がこう結ばれています。

この気性とこの心で忠誠を尽くし、辛くとも楽しくとも国を愛そう

忠誠の対象は国。愛そうという呼びかけの対象も国。私の感覚では、「国に忠誠を。国を愛そう」なんて歌は気持ちが悪くて歌えない。どんな民主的な国であろうとも、国家は権力として国民と対立する。自立した個人の尊厳を守るためには、どんな国家に対しても、批判や抵抗が必要ではないか。国旗国歌に無批判に敬意を表するということは、個人の尊厳を放棄して権力に従順であれということ。だから、「国を愛そう」などとは言うべきではないし、けっして言えない。国旗国歌に忠誠を誓ったり、敬意を表明するなんてできない。そう考えている少なからぬ良質な人々がいる。私もその一人だ。だから、「日の丸が嫌い」だけでなく「国旗」が嫌いだ。

こう言うと、韓国のたいていの人は首を捻ります。そういう理屈は分からないでもないが、現実にはそんな問題も運動も韓国にはないと思います、となる。

今年(2019年)5月18日光州民主化運動犠牲者追悼の国家式典に参加しました。この式の冒頭に韓国国歌の演奏を聴きました。ああ、韓国の国民は、国旗国歌に違和感がないのだな、と思わせられました。

日本と韓国、国旗国歌に対する国民感情がずいぶん異なります。「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする私たちは、いったい何に抗い、何を求めているのだろうか、と考えます。

問われているものは、歴史観であり、国家観であり、教育観ではありますが、その根底にあるのは、個人の尊厳を擁護する課題だと思うのです。自分を大切にしたい、自分の人生の主人公は自分自身であって、自分の生き方は自分で決める。国家に余計な口出しはさせない、ということが根本にあるように思うのです。

国家の権力や、社会の多数派が求めるとおりの生き方は、波風が立たず、案外楽なのかも知れません。しかし、自分は自分である、みんながそれぞれの個性を認め合って、生きてゆける社会を作りたい、とりわけ次代の社会の主人公を育てる立場の教員であれば、そう思うのは当然です。これを蹂躙する権力の行使は、理不尽極まるものといわねばなりません。

とは言え、この理不尽に抵抗するか、妥協するか。これは、人生観の分かれ目。敢えて、覚悟の抵抗をされた方に、私は尊敬の念を禁じえません。

そこで、不起立を貫き、この訴訟を闘い抜いた意義を確認したいと思います。まず、何よりも自分を裏切らず、自分の信念を曲げることなく、自分自身のプライドを守ったことが大きな成果ではないでしょうか。憲法を武器に、堂々と正論を述べたことを誇りにしてよいと思います。

それだけではなく、国旗国歌の強制に反対の大きな運動に参加し寄与したことも、素晴らしい成果だと思ます。原告の皆さんは、はからずも、歴史を進歩の方向に動かすか、退歩の方に動かすかの岐路に遭遇したのです。あきらめて権力に膝を屈するのではなく、敢然と力を合わせて闘ったことが、歴史を進展させるベクトルに作用したのです。日の丸・君が代強制反対運動は、人権運動であり、民主主義擁護運動であり、自由な教育を目指す運動でもあります。4次訴訟原告の皆様が、この運動に力強い刺激を与え、これを支える大きな力となって来られたことに、重ねての敬意を表明して、ご挨拶とします。
(2019年6月1日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2019. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.