澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「バリバラ」 負けるな、くじけるな。がんばれ、明るく、しなやかに。

NHK・Eテレに、「バリバラ」というユニークな番組がある。これがいま、俄然注目の的。毎週木曜夜8時からの放送。今夜の視聴率は、さぞかし跳ね上がるものと思われる。

バリアフリーの「バリ」と、多様性のバラエティの「バラ」を組み合わせたタイトルのようだ。障害者・LGBT・在日など、センシティブなマイノリティの問題を、本音を隠すことなく、明るく問題提起する。下記の番組ホームページをご覧いただきたい。そのパワーに圧倒される。

http://www6.nhk.or.jp/baribara/about/

この番組は、趣向を凝らして視聴者に次のように呼びかけた。
【招待状】バリバラ「桜を見る会~バリアフリーと多様性の宴~」
開宴:今夜8時
場所:EテレおよびNHKプラス
招待客:2019年多様性の推進に功績のあった方々(伊藤詩織さん、崔江以子さんなど)

日々多様性推進に貢献頂いている視聴者の皆さまは、密を避けるためリモート出席をお願いします。

バリバラ「桜を見る会」のその1は、4月23日に放送となった。その2が、4月30日本日放送の予定。

私は一切テレビを見ないので、これまでこの番組の存在は知らなかった。その世界では著名な番組ではあろうが、社会全体としておそらくはマイナーな存在だろう。それが、俄然注目されるに至ったのは、またまた右翼諸君の活躍のお蔭である。

いつの頃からか、私のメールアドレスにメルマガ「週刊正論」が送信されるようになった。その4月29日号が、「問題の番組内容」をこう説明している。

【再放送中止となったNHK番組『バリバラ』の内容とは】

番組冒頭、額に虻(アブ)のおもちゃをつけた内閣総理大臣アブナイゾウが「公文書 散りゆく桜と ともに消え」と詠みます。「バリバラ」では、「桜を見る会」にバリアフリーと多様性に貢献した方として、伊藤詩織氏(ジャーナリスト・ドキュメンタリー作家)、崔江以子氏(チェ・カンイヂャ、在日コリアン3世)、小林寶二・喜美子夫妻(旧優性保護法国賠償訴訟原告)を招きました。「バリバラ国、滑稽中継」と題したコーナーでは、「某国の副総理」という「無愛想太郎」が答弁に立ちます。

質問者「外国ルーツの方は生きづらい社会なんです。こんなのが美しい国と言えますか。新型コロナウイルスで、アジア人差別が増えています。どうお考えになりますか」
無愛想太郎「質問っていうのは正確を期してほしいね。ウイルスっていうのは英語圏では言わないんだ。ヴァイルス。ヴァイルスっていうの、えー。BじゃなくてVの発音ね。下唇をしっかりかんで、ヴァイルス。爆発させてヴァイルス。飛ばすの、ヴァイルス

続いて「アブ内閣総理大臣」が登場します。
質問者「『パラサイト』という韓国映画が、今回外国映画としては初のアカデミー賞作品賞を受賞しました。これ大きいことです」
アブナイゾウ「質問通告がごじゃいませんでしたので、いずれにいたしましても、トランプ大統領と私は同盟国のトップリーダーでごじゃいまして、意見が完全に100%一致したところでごじゃいます」
質問者「100%一致、何回言えば気が済むの。まったく質問に答えていません、この人は」
アブナイゾウ「そんなあんた、いつまでもデンデンいう事じゃない」
質問者「デンデンじゃないよ。ウンヌンというんだよ」
《字幕で云々×でんでん ◎うんぬん》
司会者「なんだか日本と似たような状況もありますよね」

「週刊正論」は、以上を公共放送として問題の内容というのだが、要は「アベ批判・麻生批判が怪しからん」というだけのこと。取るに足りない。

話題になってから、私もネットで動画を拝見した。全体として、たいへん真面目な構成の問題提起番組となっている。マイノリティにとって生きづらいこの社会のあり方をえぐり出して、対等者としてマイノリティを遇しようというその心意気に共感せざるを得ない。NHKにも大した人たちがおり、大した番組を作っている。共感を通り越して、敬意を表すると言わねばならない。

この放送を快しとしない人びとがこれに噛みついた。NHKは敢然と現場を守る姿勢を取らず、予定されていた4月26日の再放送を別番組差し替えて中止してしまった。中止の決定は、放送予定の2時間半前だったという。

この番組に最初に噛みついたのは、石井孝明(Ishii Takaaki)という、その筋では良く知られた人物。下記の「訴訟・トラブル」欄を参考にされたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/石井孝明_(ジャーナリスト)

また、この人については以前このブログでも取りあげたことがある。

http://article9.jp/wordpress/?p=10068

この人は、バリバラの放送のあったその日の内に、こうツィートしている。

「NHKなめとんのか? 何これ? 反政府番組じゃないですか。健全な批判でなく。障害者の名を語って。これは抗議すべきでしょう。」

「NHKなめとんのか?」は、安倍・麻生になり代わっての不規則発言。「これは抗議すべきでしょう」は、安倍・麻生の立場からする不満の表明。そして、「なめとんのか」は、安倍・麻生の知性や品性にマッチした、まことに適切でふさわしい表現。

これも要するに「政府批判だから怪しからん」というだけの低次元。さすがに、政府批判自体を咎めることには気が引けたか、「健全な批判なら許せもするが、障害者の名を語っているから、抗議すべきだ」という文脈にした。もしかしたら、「障害者の名を語って」は、「障害者の名を騙って」のミスプリかも知れない。しかし、番組の安倍・麻生批判は、「障害者の名を語って」も、「障害者の名を騙って」もいない。

番組の安倍・麻生批判は、2点ある。一つは、「散りゆく桜とともに消えた」公文書管理の杜撰さである。そして、もう一つは「マイノリティ差別」に対するあまりに鈍感な政府の姿勢である。いずれも、故あっての正当な批判である。NHKにもジャーナリズムの魂がなくてはならない。この程度の権力者批判もできないのでは、NHKはジャーナリズム失格である。再び大本営発表の伝声管に先祖返りしてしまうことを本気で恐れねばならない。
(2020年4月30日)

「昭和の日」に戦争と戦争責任を考える。

コロナ禍のさなか、世の人の憂いをよそに季節はめぐる。里桜も終わってツツジが咲き、蓮の浮き葉が水面を覆い始めた。少し歩くと汗ばむ陽気。天気も申し分ない本日、「昭和の日」だという。いったい、それは何だ。

1948年制定の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)は、その第1条で、「国民の祝日」の趣旨を述べる。

第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。

なかなか意味深長ではないか。日本国民は、「自由と平和を求めてやまない」というのだ。自由も平和も、富国強兵の戦前にはなかった。挙国一致・滅私奉公は、臣民の自由を抹殺した。天皇の神聖性を否定する思想も信仰も言論も結社も弾圧された。そして、戦前の日本は軍国であった。侵略戦争も植民地主義も国是であった。

天皇は国民皆兵の臣民に向かって、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」などと、超上から目線でエラそうに言って、臣民には死ねと命じて、自らは生き延びた。こんな不条理に怒らずにはおられない。

「自由と平和を求めてやまない」という、この国民の祝日の趣旨は、明らかに戦前の不合理を否定した新憲法の価値を謳っている。

その祝日法は数次の改正を経て、現行法では「昭和の日」をこう定めている。

第2条 「国民の祝日」を次のように定める。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

これも意味深である。「激動の日々」とは、あの戦争のこと以外に考えようがない。敢えて「戦争」と言わないのは、「戦争の日々」だけではなく、「戦争を準備し、戦争に突き進んだ戦前の日々」を含むとの含意であろう。日本国憲法の言葉を借りれば、「政府の行為によって戦争の惨禍を起した」反省の対象たる日々である。

昭和の日の定めの文言は、昭和という時代を「戦前」と「戦後」に二分して対比し、戦前を否定し戦後を肯定している。しかし、戦前を「激動」としか言わず、戦後を「復興を遂げた」としか言わない。国民主権も、民主主義も、人権尊重も、天皇制も、自由も、平和も出てこない。なんとも、いいかげんで不満の募るところではある。

何よりも、どうして昭和の日が4月29日なのか。それが語られていない。戦前と戦後を対比するにふさわしい日は、8月15日であろう。あるいは、ポツダム宣言受諾の8月14日。この日を境に、日本という国の拠って立つ基本原理が大転換したのだ。

昭和を戦争の時代と顧みるならば、8月6日の広島市民の被害の日、あるいは12月13日の南京市民に対する加害の日がふさわしかろう。

昭和を戦争開始の責任反省の観点から顧みるならば、9月18日か、7月7日か、あるいは12月8日となるだろう。

なぜ、4月29日なのか。なぜ、国民を不幸に突き落とした最高戦争責任者の誕生日なのか。なぜ、戦前天長節として臣民に祝意表明を強要された日が昭和の日なのか。

コロナ禍で、外出自粛を要請されている今日の「昭和の日」である。昭和という時代をよく考えてみたい。自ずから、戦争を考え、戦争の責任を考え、とりわけ天皇の戦争責任を考え、戦後国民が手にした貴重な自由や平和の価値を考えなければならない。
(2020年4月29日)

嗚呼、『屈辱の日』に「テンノーヘイカ・バンザイ」とは。

68年前の今日1952年4月28日は、敗戦によって占領下にあった日本が「独立」したとされる日。右翼勢力の策動に乗る形で、第2次安倍政権は閣議決定でこの日を「主権回復の日」とした。右翼ナショナリズムにとって、対外的国家主権は至上の価値である。

2013年4月28日、安倍内閣は、右翼政権の本領を発揮して政府主催の「主権回復の日」祝賀式典を挙行した。当然のこととして、当時の天皇(明仁)と皇后が出席した。天皇に発言の機会はなかったが、その退席時に「テンノーヘイカ・バンザイ」の声が上がって多くの参加者がこれに呼応した。政権が、見事に天皇を利用した、あるいは活用したという図である。もっとも、その後は国家行事としての式典はない。

多くの国民国家が、国民こぞって祝うべき「建国」の日を定めている。その多くが「独立記念日」である。イギリス支配から独立したアメリカ合衆国(7月4日)がその典型。大韓民国は、日本からの独立記念の日を「光復節」(8月15日)とし、独立運動の記念日まで「三一節」としていずれも政府が国家の祝日としている。

ならば、4月28日を「主権回復の日」あるいは「独立記念日」として、祝うことがあっても良さそうだが、これには強い反発がある。とりわけ沖縄には、反発するだけの理由も資格もある。

言うまでもなく、1952年4月28日はサンフランシスコ講和条約発効の日である。しかし、その日は、サ条約と抱き合わせの日米安全保障条約が発効した日でもあった。日本は、全面講和の道を捨てて、アメリカとの単独講和を選択した。こうして、その日は「ホツダム条約による占領」から脱して、「日米安保にもとづく対米従属」を開始した日となった。これは、国民こぞって祝うべき日ではありえない。

もう一つ理由がある。1952年4月28日の「独立」には、沖縄・奄美・小笠原は除外された。本土から切り離され、アメリカ高等弁務官の施政下におかれた。それ故この日は、沖縄の人々には「屈辱の日」と記憶されることとなった。

本日の琉球新報 <社説>「4・28『屈辱の日』 自己決定権の確立急務だ」と論陣をはっている。怒りがほとばしっている。

「1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約第3条が(沖縄)分離の根拠となった。これにより米国は日本の同意の下で、他国に介入されることなく軍事基地を自由に使うようになった。米軍は『銃剣とブルドーザー』で農地を奪うなど、沖縄住民の基本的人権を無視した統治を敷いた。沖縄の地位は植民地よりひどかった。」 

「72年の日本復帰後も沖縄の人々は基地の自由使用に抵抗し、抜本的な整理縮小や日米地位協定の改定を求めてきた。その意思を尊重せず「国益」や国策の名の下で沖縄を国防の道具にする日米政府の手法は植民地主義だ。県内の主要選挙や県民投票で反対の意思を示しても建設工事が強行される辺野古新基地は、沖縄の人々の自己決定権を侵害する植民地主義の象徴である。」

「基地があるため有事の際には標的になり命が脅かされ、平時は事件事故などで人権が侵害されている沖縄の今を方向付けた4・28を忘れてはならない。この状態を脱するには自己決定権の確立が急務だ。」

この社説のとおり、4・28は沖縄の「屈辱の日」であり、今に続く「受難の日」の始まりでもある。この日をもたらした重要人物として昭和天皇(裕仁)がいる。彼は、新憲法施行後の1947年9月、内閣の助言と承認のないまま、側近を通じてGHQ外交局長に、「アメリカ軍による沖縄の軍事占領継続を希望する」と伝えている。いわゆる「天皇の沖縄メッセージ」である。沖縄「屈辱」と「受難」は、天皇(裕仁)にも大きな責任がある。

この屈辱の日に祝賀式典を強行し、さらには「テンノーヘイカ・バンザイ」とまで声を上げるのは、右翼諸君か好んで口にする文字どおりの「売国奴」の行為と言うしかない。
(2020年4月28日)

憲法と落語(その8) ―「柳田角之進」を教訓として聞いてはならない。

「柳田角之進」は、志ん生の持ちネタとしてよく知られた講釈噺。たくさんのテープやCDがあるような気がするが、音源は3種だけだという。いずれも晩年の録音で、彼自身が「50年前に師匠の圓喬に教わったのではない。高座の袖で聞いて覚えた」という。円熟した年齢になってから、演じる気持になったのだろう。

円熟した話芸で聞く者を引き込み、1時間にも及ぶ語りを飽きさせない。しかし、内容はつまらない噺である。と言うよりは、なんとも馬鹿馬鹿しい噺。こんな馬鹿馬鹿しい話を、聞かせるのだから、やはり志ん生は大したものだ。

志ん生は、マクラで「落語にも、ただ笑うだけの噺ばかりではなく、学校じゃ教えない聞いてためになる話もある」という。本気でこの柳田角之進を教訓話として語っていたようなのだ。しかし、今の世にこんなものを教訓にされたのではたまらない。これは、人権軽視の極論。女性の人格を無視した話、家柄だの、武士の意地だのつまらぬものに翻弄された前時代の遺物なのだ。

落語には、体制や権威を笑い飛ばす健康さがあり、そこが現代に通じる魅力となっている。ところが、講談の主流はそうではない。どうしても忠君愛国に傾き、男尊女卑にながれ、高座からムチャクチャな教訓を垂れるという趣がある。柳田角之進も、その手のものと紙一重なのだ。

彦根藩士の柳田角之進、牛の角の曲がっているのも大嫌いという大変な堅物。「水清ければ魚住まず」、上司に煙たがられて讒言に遭い今は浪人暮らし。娘と二人、江戸浅草阿部川町の裏長屋に侘び住まいの身。やることと言えば碁会所に行くだけだが、ここでちょうどよい碁の相手が見つかる。浅草馬道の質屋、万屋源兵衛という大店の旦那である。源兵衛から誘われるままに、万屋へ行って毎日碁を打っていた。

8月15日月見の晩に、万屋で50両の金がなくなるという事件が持ち上がる。角之進と源兵衛の二人だけの密室での源兵衛の金の紛失である。当然に角之進が疑われる。翌朝番頭の徳兵衛が主人には内緒で柳田宅を訪れ、その最後の言葉が、「50両の大金です。出るべきところに出て、お届けしますので、取り調べがあるかも知れませんが、ご勘弁ください」。これを聞いて、角之進は覚悟する。「それは困る。天地神明に誓って私の知らぬことだが、しかしそこにいたのが私の不運だ。その50両、私が出そう。明日取りに来てくれ」。

50両の工面ができる当てはない。役人に取り調べを受けたら弁解は難しい。仮にも縄目の恥辱は家名を汚すことになる、それよりは切腹しようという覚悟。娘に番町の叔母のところに泊まって来いと言いつけると、父の心中を察した娘は、こう言う。「親子の縁を切ってください。自分は吉原の泥水をすすって、その50両をこしらえましょう」「その代わり、身の潔白が明らかになったときには町人二人の首をはねて、武士の意地をお示しください」。角之進はこれを承知して、50両を手にする。

こうして50両は番頭の手に渡る。その際番頭は「もし、後刻50両が出てくるようなことがあったら、私のクビに、主人のクビを添えて差し上げましょう」と約束する。この後、格之進は行方知れずとなる。

その年の12月28日煤払いの日に、万屋の離れの額の裏から50両が出て来て大騒ぎとなる。店の者も手を尽くして角之進を探すが見つからない。年も明けた正月4日。雪の降る湯島切り通しの坂で、番頭徳兵衛は、立派ななりをした武士と出会う。これが、彦根藩留守居役に返り咲いた柳田角之進。徳兵衛から事情を聞いた角之進は、「明日万屋に出向く。二人とも首筋をよく洗っておけ」。

そして明くる日、角之進は万屋へやって来る。が、主人と番頭が互いにかばい合って、自分だけを切ってくれという。それを目の当たりにした角之進は、刀を鞘から払いながらも首をはねることができない。志ん生は、「二つの首がコロリと落ちた、などと私はしない」と笑わせる。

助命された源兵衛は、角之進の娘が50両の為に苦界に身を沈めていると聞き、直ちに身請けをし、これを養女とする。角之進は、これに番頭徳兵衛を娶せる。ここで志ん生は、角之進に「忠義の番頭と、親を助けた孝女」「忠と孝との目出度い婚礼」と言わせている。この夫婦から生まれた子を柳田が引き取り、家名を継がせたという。最後にサゲはなく、「『堪忍のなる堪忍はたれもする、ならぬ堪忍するが堪忍』。柳田の堪忍袋でございます」で締めくくられる。

さて、いったいこれが教訓話になるだろうか。簡単に切腹を覚悟する柳田角之進がまずはおかしい。彼を縛っていたものは武士の意地であり家名である。角之進は、命よりも家名を重んじようという愚かな男。何よりも命を大切にすべきことを知らなければならない。

次いで、角之進の娘(きぬ)である。「父上が切腹しても相手は町人。悪事露見したから腹を切ったというでしょう。身の証しにはなりませぬ」「身の潔白が明らかになったときには町人二人の首をはねて、あかき武士の意地をお示しください」などと言う。差別意識丸出し。親のために身を売る娘を美談にしてはならない。

そしてまた、角之進である。娘の苦界への身売りを容認してしまうのだ。話では、娘は18歳、児童虐待とは言えないが、「済まぬ」などと謝りながらも50両を受け取ってしまう。たいへんな虐待親父である。

一番おかしいのは、身分が復帰して質屋の番頭が驚くほどの上等な服装をしている角之進が、娘を吉原に置いたままにしていることである。これは、ネグレクトにほかならない。

教訓というなら、「こんなひどい話が過去にはありました」「こんなひどい話を教訓としていた時代もありました」という具合でなければならない。もっとも、冤罪を晴らすことの難しさや冤罪被害者の絶望についてであれば、教訓として受けとめられるかも知れない。またあるいは、白州の時代、糾問主義刑事司法の恐ろしさとしてであれば。
(2020年4月27日)

この事態、アベや小池の言うことを聞いているだけは解決とならない。

アベ・小池の、国民・都民に対する休業要請や外出自粛要請。一応尊重はしつつも納得はしがたい。一つは、上から目線で、「感染が終息しないのは、言うことを聞かないおまえさんたちの自己責任」というイヤーな感じを拭えないからだ。

まず行政がやるべきことをやらねぱならない。そのための国家であり都政ではないか。医療崩壊を回避する防衛策こそが喫緊の最大課題である。医療従事者の安全を確保するために金も物資も惜しんではならない。

コロナに関する国民の不安を払拭するには、マスク2枚では足りない。「予想されるいかなる事態においても、重症患者への救命措置に遺漏はありませ」と、トップリーダーが言い切れる態勢を整えることではないか。

そして、国民に安心して休業も外出自粛もできる経済保障もしなければならない。行政がやるべきことをやらずに国民にのみ忍耐を求め、責任転嫁を図るごとき施策には、破綻が見えている。

もう一つ、納得しがたいのは、「5月6日までの、休業・接触機会8割減要請」策の実効性が見えてこないことである。出口戦略が見えてこない、と言ってもよい。要するに、曖昧模糊としたこの構図では積極的な協力のインセンティブに欠けるのだ。

いわゆる西浦モデルは机上の空論に近い。代入する変数次第でどうにでもグラフを描くことは可能で、結論は変わってくる。どうにでも描けるグラフで、一国の重要政策を左右されてはたまらない。アベや小池は、そんな危険な賭けに興じているわけだ。

それより納得しがたいのは、これまでのクラスター潰し戦略との整合性である。感染経路を追うことができない市中感染がこれだけ増えたのだ。PCR検査態勢なり、抗体検査態勢なりの抜本的拡充が必要だと思うのだが、その宣言はない。

そして、アベ・小池の言に従っていても、実は先が見えないのだ。「接触機会8割減」が厳格に実行されたとしても、コロナ禍が終了するわけではない。感染者の人口比割合が、緊急事態宣言が発せられる時点に戻るのがせいぜい、感染拡大の危険性は相変わらずなのだ。

「8割減」政策が、一時的に感染の規模を抑えこんでも、大半の人は未感染で抗体をもたない。その後の感染拡大が繰り返される可能性は極めて高い。この事態、実はアベや小池の言うことを聞いているだけは解決とならないのだ。そのように明確に自覚して、「感染症専門家」だけでなく、多方面の専門家を含む国民的規模の議論で本格的な対策を講じなければならない。

(2020年4月26日)

「法と民主主義」5月号は、コロナ問題特集

世はコロナ問題一色である。消費生活も、文化も、言論活動も、教育も、経済も、国内政治も、国際政治も。そして、当然のことながら、医療や福祉も、今や一つとしてコロナと関わらざるものはない。

どうしてこんなことになってしまったのか、防ぐことはできなかったのか。今の対策は適切なのか、という問題意識が必要なのは当然として、このどさくさに紛れて何かをなそうとする者への警戒が必要であり、格差社会にこの危機がもたらす弱者へのしわ寄せの実態を直視しなければならない。誰もが、自宅への引きこもりができるわけではないのだ。

日本民主法律家協会の機関誌「法と民主主義」5月号(5月下旬発刊)は、『新型コロナウイルス問題を考える』(仮題) を緊急特集する。現下の状況に変化のない限り、おそらく6月号もその続編となる公算が高い。

飯島滋明・丸山重威両編集委員が中心となって、現在のところ依頼論稿は8本だが、その中には下記のような目玉となる記事がある。

コロナ感染症対策の在り方      上 昌広
コロナ対策の国際比較        稲 正樹
コロナ問題後の社会と立憲主義    広渡清吾

このどさくさに紛れてのアベ政権への警戒については、次の論稿が予定されている。

緊急事態条項の明文改憲の政治的意図 小沢隆一
コロナ対策の経緯と安倍政権の手法  丸山重威

以上の各論稿とは別に、「コロナ規制の中で考えること」を800字の寸評(コメント)として、各界の然るべき方に寄稿をお願いしている。

こちらの担当は私で、依頼の趣旨を以下のようにお伝えしている。

 日ごろのご活躍に敬意を表します。
 「法と民主主義」誌からのコメント寄稿のお願いを申しあげます。内容は、「新型コロナウィルス感染症蔓延とそれにともなって見えてきた様々な問題」について、それぞれのお立場からの寸評をいただきたいと存じます。問題意識は、次のとおりです。

 新型コロナウィルス感染症が猛威を振るっています。その勢いは世界の隅々にまで及び、しかも全ての人びとに脅威を与えて行動の萎縮を強要しています。その収束の兆しは見えないまま恐怖と倦怠が世に満ち、人類が立ちすくんでいる感さえあります。誰にも、真剣にこの問題を考えること、克服のために声を挙げることが求められています。

 また、この深刻な事態だからこそ見えてきた様々な問題があり、この事態にともなって副次的に生じた問題もあります。日本民主法律家協会が発行する「法と民主主義」は、2020年5月号(5月下旬発行)を「『新型コロナウイルス問題』を考える(仮)」緊急特集号とすることにし、その一章を割いて、多くの方に、「この問題を私はこう考える」という意見・論評集を掲載しようと企画しました。敢えて、お一人の原稿字数を800字(表題を除く)に抑えていただき、それぞれのお立場において最も関心ある角度から切り込んだ、凝縮したコメントをいただきたいと存じます。

 この感染症蔓延に関しては、人類史や文明史との関わりにおいて論じる必要があるとも思われますし、この事態をもたらした人と物との国際交流やそれを前提とした経済の在り方にも検証の必要がありそうです。また、当然のことながら、疫学や予防医学、臨床医学からの分析や提言も期待されるところですし、医療行政や医療システムの脆弱性が問われてもいます。医学教育にも考えねばならないところがあるとおもわれます。

 そして、この「緊急事態」に際して、実効ある感染予防と危険な権力の暴走の抑制という矛盾する二つの要請のバランスをどうとるべきか。これが、憲法や人権を大切に思う市民の最大の関心事であって、この政治的・法的な実践課題に喫緊の解答が求められています。

 さらに、各国政府が共通の問題に取り組み、それぞれの流儀でそれぞれの結果を出しつつあります。各国の流儀を比較する視点は、権力的強制と民主的統制との優劣ではないでしょうか。また、この緊急事態を機に、統制型の政治システムが平時にも常態化する危惧はないでしょうか。

 また、社会に「危機」が生ずれば弱者に被害が集中します。格差社会においては、その被害は深刻なものとなります。休校や休業に伴って、地域に企業に家庭に生じている具体的な問題をご指摘ください。

 もちろん、以上の捉え方では不十分で、別の角度からの言及が必要とのご意見も、ぜひ承りたいところです。
 以上、よろしくお願いいたします。

 これまでにご承諾をいただいた主な方は、以下の各氏。
池内了/島薗進/右崎正博/堀尾輝久/吉田博徳/矢吹晋/李京柱/井上英夫/鈴木利廣/角田由紀子/大森典子

なお、「法と民主主義」の購入申込みは、下記のURLから。よろしくお願いします。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html

(2020年4月25日)

再び児玉龍彦氏の解説に耳を傾ける。

明けても暮れても、コロナ・コロナである。うっとうしくて気の晴れる間がない。信頼できる政府を持たない民の一人としての深刻な悲哀という実感。嘆きと不満の対象はアベ政権だけではない。小池百合子都政も同断である。

政治的リーダーたるもの、この非常の事態には専門知を集約して的確な対策を講じなければならない。その対策が、住民の生活に影響を及ぼす場合には、その対策の適切性、必要性を、懇切に説明して納得を得なければならない。それがまことに不十分だから、イライラが募る。

政府専門家会議の説明では、対策の基本はクラスター潰しであったはず。だから、「クラスターの発見と、これを結節点とする人的な接触経路を見定めることに全力を集中しなければならない」「むやみにPCR検査対象を拡大することに意味はない」と言っていたのだ。しかし、感染経路不明の感染者がこれだけ増加した今、クラスター潰しの基本戦略は失敗したことになるのではないか。

にもかかわらず、専門家会議は「基本戦略は失敗した」とも、「基本方針を転換する」とも言わない。相変わらずPCR検査対象を絞ったまま、「人的接触の機会を8割減らせ」「全ては、民の自粛努力にかかっている」「蔓延拡大は自粛努力の足りない民に責任がある」と言うのだ。政府も都も、これに倣っている。本当にこれでよいのだろうか。

小池百合子が最も胡散臭い。東京五輪の実施にこだわり続けてコロナ対応の時期を逸した失態を覆い隠すための強気の発言を重ねているようにしか見えない。しかも、東京都の金をふんだんに使ってのメディア露出は、図々しいにもほどがある。鉄面皮な選挙運動ではないか。コロナ以上に、イライラが募る。

あんな政府や、こんな都政を支えている専門家には批判が強い。外出禁止の予防効果に疑問を呈する専門家もいる。もっと有効な打つべき手があるというのだ。たとえば、児玉龍彦(東大先端科学技術研究センター名誉教授)さん。

「日経ビジネス」(4月17日)の記者(白井咲貴)が、児玉龍彦インタビューのリードをこうまとめている。
「クラスター追跡や外出自粛で、日本は感染拡大を防げるのか。東京大学の児玉龍彦名誉教授は『日本は非常に古い対策モデルから抜け出せていない』と言う。『大規模検査、隔離、GPS追跡』という東アジア型の対策の必要性を訴える児玉氏に、解説してもらった。」

以下、「日経ビジネス」が紹介する児玉さんの解説(抜粋)のさわりである。

外出自粛は一過性の患者減らしで、時間稼ぎにすぎません。また緩めると患者数が増えます。みんな自粛は2週間程度かなと勘違いしているようですが、最低でも3カ月はかかります。

(日本は、クラスター対策や外出自粛要請など)非常に古いモデルの感染対策から抜け出せていない。東アジアは遺伝子工学情報科学に立脚した新しいモデルで対応しています。

日本のように一人一人聞き取って紙に書いて、というのは非常に古い調査方法です。今、世界ではGPSによる追跡が当たり前です。誰がどこに行ったのかがつぶさに分かる。韓国やマレーシアなどもGPSを使っています。これらの国では感染者は出ていますが、すぐその人の行動範囲を特定して、周りで感染が出ていないか検査しています。

マレーシアでは、個人に「パンデミック番号」という番号を振って、保険証などとはひも付けられないようにしています。だから、日本でいえば「マイナンバー」で管理してはいけないわけです。

(日本がこれからすべきことが)4つあります。1つ目は病院や介護施設でのPCR検査の徹底。2つ目はドライブスルー型の検査をすること。日本財団は「船の科学館」などで1万床のベッドを用意するようですが、陽性ならそこに入所してもらえばいい。このように、症状が軽い感染者をどんどんさばく施設が必要です。3つ目は、GPS追跡です。個人情報や倫理を守って実施することが必要です。4つ目は社会インフラを支える人が感染しないような配慮をすることです。ガス、水道、電気、輸送、食品など、社会生活のインフラを支える人を重点的に守る。そういう方たちはPCR検査もすぐできるようにするし、(過去に感染したことがあるかを調べる)抗体検査もすぐできるようにする。

抗体の中には2種類あって、IgMという感染初期に出てくる抗体と、免疫ができてくると出てくるIgGという抗体があります。IgMの数値が上がっている人はまだウイルス感染が続いている可能性が高いので隔離する。IgGの数値が上がってくれば感染した後に治っている、というのが分かり、社会復帰もできる。この両方を測れて、しかも大量に処理できる仕組みをつくることが我々の関心事です。PCR検査と抗体検査は一体でやらないとだめです

政府や都の言うこととは真っ向対立する立論であり提言である。多々、耳を傾けるところがあるではないか。
(2020年4月24日)

コロナがあぶり出したアベノムノウ

コロナ禍は不気味だ。今や他人事ではない。私の籠城の地・本郷から東に行けば永寿総合病院である。西に行けば講道館、全柔連の本部。南すれば田嶋幸三会長の日本サッカー協会、そして北には都立大塚病院、駒込病院。四方から、じわじわと、あるいはジリジリと寄せ手が包囲を狭めつつある。目に見えぬ妖怪が次第に忍び寄ってくるの感がある。

東京地裁・高裁は緊急事態宣言の期間、民事事件及び行政事件の期日は、緊急を要するもの以外は全て取り消しとなった。はたしてこれでよいのだろうかと思いつつも、今は屋内に立て籠もるしかない。必要な会合はオンラインで行われている。

それでも、私のように立て籠もりのできる立場は恵まれている。医療従事者や現場でインフラの整備にあたる人には頭が下がる。ゴミの回収をしている人には、感謝の言葉をかけざるを得ない。生産や物流も支える人がいる。その人たちのお蔭で、まだ社会はまわっている。これがいつまで持つのかという将来への不安を感じなからも、当面籠城に飢餓はない。

憎むべきコロナウィルスではあるが、たった一つ、その効用があるとすれば、『無能な政治的リーダーの選択は、選挙民の命取りになる』ことを多くの人びとが悟ったことではないか。アベの無能は昔からだが、ここに来て盛ったメッキが剥げ落ちた。これまでは無能なリーダーでも大過なかったが、こんなリーダーで、国民の命と健康は大丈夫なのか、財産は守れるのか。それが、切実に国民一人ひとりに関わる問題と意識されるようになっている。アベの無能を悟った人心がアベから急速に離れつつある。

アベの無能については、中野晃一上智大学教授が最新号のアエラで、他国のリーダーたちとコロナ対策を比較して採点をしている。各国の事情には差異があれども、同じコロナ対策である。トップリーダーの資質の比較が可能なのだ。当然のごとく、安倍は最下位。トランプにも劣る、ということだ。

中野教授による評価の対象は、アベ、トランプ、メルケル,ジョンソン、習近平、蔡英文の6人。どういうわけか文在寅の名が抜けているのが、寂しい。蔡英文とならぶ高得点が期待できるだろうに。評価の方法は、(A)決断力、(B)実行力、(C)情報発信力、(D)責任感、(E)市民の支持、という5項目をそれぞれ5点満点で相対評価し、総合は5項目の平均を取るというもの。客観性がどこまで担保されているか保証の限りではないが、有力な政治学者の見解として面白いし、大いに頷ける。

総合点の結論はこうだ。

メルケル   5.0点
蔡英文    4.2点
習近平    3.2点
ジョンソン  3.0点
トランプ   2.0点
アベ     1.4点

100点満点に換算すれば、以下のとおりである。

メルケル  100点(優)
蔡英文    84点(良)
習近平    64点(可)
ジョンソン  60点(可)
トランプ   40点(不可)
アベ     28点(超絶不可)

各人の各項目の評価は以下のとおり。

安倍晋三(日本国首相)総合…1.4点
(A)1点(B)1点(C)2点(D)1点(E)2点

ドナルド・トランプ(アメリカ大統領)総合…2.0点
(A)2点(B)2点(C)3点(D)1点(E)2点

アンゲラ・メルケル(ドイツ首相)総合…5.0点
(A)5点(B)5点(C)5点(D)5点(E)5点

ボリス・ジョンソン(イギリス首相)総合…3.0点
(A)3点(B)2点(C)4点(D)3点(E)3点

習近平(中国国家主席)総合…3.2点
(A)4点(B)5点(C)2点(D)3点(E)2点

蔡英文(台湾総統)総合…4.2点
(A)5点(B)4点(C)4点(D)4点(E)4点

コロナ禍でのアベの無能は、「うちで踊ろう・動画」と、「466億円アベノマスク支出」に象徴されているが、アベノマスクはどうやらアベの無能だけの問題ではなさそうだ。ミャンマー、麻生・昭恵というキーワードが出てきた。政治の私物化・嘘とごまかし・情報不開示というアベの流儀が、ここでも疑惑として問題となりつつある。今まで何度もいわれてきたが、これがアベの末期症状、アベの終わりの様相ではないか。今度こそ。
(2020年4月23日)

外出しなくてもできること ― NHK経営委員長・森下俊三氏の経営委員辞任を求める署名にご協力を

コロナウィルスは罪深い。人の命を奪うだけではなく、権力に代わって集会の自由を規制する。デモ行進も妨害する。検察庁法改正問題、森友文書改竄問題、河井夫妻選挙違反事件など、緊急の抗議行動が必要なのに、ままならぬのが実情だ。

間近となった5月3日の憲法記念日大集会も、今年は行われない。「新型コロナウイルス感染症の拡大にともない、集会方式での開催は中止しますが、オンライン配信を5月3日13時より行います。ぜひご覧ください。」という主催者の急告。残念だが、「オンライン大集会」では迫力を欠く、明らかにアベの力が衰えつつあるこのときに、無念というしかない。

せめて、在宅でできることをしよう。外出しなくてもできることといえば、まずはメールや電話での発信である。そして、ネットでの署名運動。

民主主義と国民の知る権利を大切とお考えの皆さまに再々度のお願いです。NHK経営委員長森下俊三氏の辞任を求める署名運動は4月末まで。

未署名の方は、下記URLを開いて、ぜひともネット署名をお願いいたします。
http://bit.ly/2TM7pGj
あるいは、http://bit.ly/33gfSETから、署名用紙をダウンロードしていただき、郵送での署名をお願いいたします。

署名の集約状況は、本日(4月22日)現在で、累計5,615筆となりました。

この署名の内容については、4月17日の赤旗「おはようニュース問答」欄に、「NHK経営委員辞任署名が4000超えたね」という問答形式として紹介されている。分かり易いので、転載させていただく。

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晴男 NHK経営委員長の森下俊三氏の経営委員辞任を求める署名が、ネット含め4干人分以上集まったんだってね。
秋平 森下氏は、日本郵政グループの求めに応じて上田良一前会長への「厳重注意」を主導した人だね。

番組制作に干渉

晴男 そうだ。発端はNHKが「かんぽ生命保険」の不正販売を告発する番組を作ったからだけど、番組制作者をほめるどころか批判するとはお門違いもいいところだ。
秋平 放送法第3条では放送番組について「何人からも干渉され、又は規律されることがない」としている。32条ではNHK経営委員に対し「個別の放送番組の編集について、第3条の規定に抵触する行為をしてはならない」とある。
晴男 「厳重注意」の際、経営委員会では該当番組について「インターネットの情報は偏っているので、作り方に問題があるのではないか」などと語っていた。
秋平 その発言をしたのが森下氏とみられているね。国会で発言者を問われると、非公開を理由に答えないが、明確な否定もできていない。
晴男 NHK労組は中央委員長見解で「経営委員会の業務として執行した会議において個別番組についての言及があったならば、それは放送法違反の疑いがあるのではないか」と述べている。

資質が問われる

秋平 経営委員長どころか、経営委員としての資質が問われている。
晴男 同じように考える人は多いね。ネット署名に多くの意見が寄せられているけど「経営委員会がモノを申しただけで十分な圧力になる。…番組について話をする姿勢こそが、通常の圧力よりさらにたちが悪い」など本質をついているよ。
秋平 そもそも、放送が「自主自律」を求められるのは、戦中の「大本営発表」の痛苦の経験があるからだ。
晴男 軍部の意向に沿って戦果を誇張し、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と美化してみせた。
秋平 今のNHKの報道にも似たような部分を感じるよ。客観的事実ではなく官邸寄りの情報を流しているようだ。
 権力を監視するのがメディアの役割ならメディアを監視するのが市民の役割。署名はもっと広がってほしいね。

(2020年4月22日)

アベ政権は、アベノマスクの製造元を明示せよ

アベノマスク。構想発表時点から「歴史的愚策」「466億円の無駄遣い」と評判が悪かった。いま配布が始まって、あらためて悪評を重ねている。「やっぱり、アホノマスク」という声もある。

報道によると、厚生労働省が18日、国内全戸への発送に先立って配布された妊婦向けの布マスクの一部に汚れが付着するなどの不良品が見つかったと発表。学校や介護施設等への発送分にも虫や髪の毛が混入されているものが見つかり、17日時点で80市区町村から1901件の報告があったという。不良品の数は合わせておよそ6700枚であったという。

これだけの問題が生じているのに、「発注先や製造元のメーカーなどの製品情報を政府がひた隠しにしている」ことにも疑問の声が噴出している。メディアが、厚生労働省や電話相談窓口に問い合わせても、「公表していない」と口を閉ざし、立憲民主党の蓮舫議員からの問い合わせにも応じていないという。それはおかしい。おかしいという根拠の一つとして、「PL法」を挙げたい。

消費者保護分野での主要法の一つとして、「製造物責任法」がある。その通称が「PL法」。PLとは、「製造物責任(Product Liability)」をいう。

かつて、資本主義の興隆期には企業活動の自由が称揚され、法体系はそのようなものとして作られた。民法の過失責任主義は、企業が製造する製品によって消費者事故が生じ被害が発生しても、「(企業に)過失なければ責任なし」として多くを免責した。この過失責任主義を大転換して、消費者に生じた商品事故が製品の欠陥によるものと認められる限りは、企業は「製造物責任(Product Liability)」を負わねばならないとした「PL法」は画期的な立法とされた。

では、「過失」と「欠陥」はどう違うのか。本質的で実践的な問題だが、本日論じようというテーマではない。

申しあげたいのは、「製造物責任(Product Liability)」を負う主体が、「製造業者」(当該製造物を業として製造、加工又は輸入した者)だということ。製造業者は「その引き渡したものの欠陥に」責任をもたねばならない。(法第3条)

消費者運動に携わった我々は、「製造物責任法」を消費者保護立法と位置づけ、消費者に商品事故が生じた場合の救済法と捉えた。その責任追及の実践が、市場から欠陥商品を駆逐し消費者の安全に資することになると考えた。

事実上、「製造物責任法」とは、「商品安全に関する企業の責任法」である。典型的には、企業は消費者に選択されることを念頭に製品を製造し、これを商品として流通に置く。製造物が市民の手に渡るのは、市場において消費者が商品として購入することを通じてのことである。

ところが、製品としての不具合が報じられているアベノマスクは通常の商品流通とは異なる経路で全市民に届けられる。市民は、消費者としての市場での選択とは無関係にマスクを入手することになる。言わば、選択権のないまま押し付けられるのだ。しかし、そうではあっても、このマスクの製造業者に「製造物責任(Product Liability)」は免れない。法は、製造業者に「その引き渡したものの欠陥に」責任を課しているのであって、商品として流通におくことを要件としていないからである。

だから、アベノマスクの欠陥によって、「人の生命、身体又は財産を侵害」する事故が生じた場合には、このマスクの製造業者(メーカー)に、PL法上の製造物責任が生じることになり、無過失でも損害賠償義務を負うことになる。その責任主体のメーカー名を秘匿することは、国が,被害者の裁判を受ける権利を奪うに等しい。もっとも6700枚のマスクの「不良」が必ずしも「欠陥」ではない。しかし、その可能性は否定し得ないのだ。

法的責任もさることながら、肌に密着する衛生用品を使用するに際して、どこの誰が作ったものであるかが不明確であってはならない。このマスクの配布を受けた者には、消費者と同様にマスクの仕様・性能と製造業者について「知る権利」がある。

消費者の選択において、製造業者が示す商品の性能や安全性に関する情報は不可欠なものである。少なくとも、どこの誰が作ったものであるかの明示はなくてはならない。アベノマスクの場合は、企業の製造物責任と行政の説明責任とが重畳していると考えなければならない。

ところが、である。アベ政権は、アベノマスクの製造元を明らかにしようとしないのだ。何らかの不都合あってのことであろう。しかも、この件に関しては「アベノマスク対アサヒノマスク」論争に発展して、アベは墓穴を掘っている。「アサヒノマスク」の方は何から何まで明らかにされており、その値段の根拠には誰もが納得せざるを得ない。これとの対比で、アベノマスク製造業者の非公表は、ますます不自然となっている。

このマスク論争の発端は、朝日嫌いの軽忽な右翼評論家の「朝日新聞が2枚で3300円のぼったくりマスクを販売中! 買っちゃダメだよ!」というツイートに、安倍晋三が乗ってしまったことであったという。情けなや、みっともなや。これが、日本国首相のレベルである。

天下の愚策として配布されたアベノマスク。その製品としての欠陥と製造元の秘匿は、実はアベ政権そのものの欠陥と秘密主義を象徴するものとなっている。
(2020年4月21日)

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