澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「はだしのゲン」が叫んでいる-『ずるいぞ! 教育委員会』『えらいぞ! 図書館協会』

日本の、いや 、世界の「はだしのゲン」を、松江市教育委員会が市内の学校図書館から追い払おうとした。昨年12月、書庫に収めて目に触れないようにする閉架措置を校長会で求めた。理由は、内容に過激なところがあるから、というもの。全10巻を保有する39校すべてがこれに応じて、いま、松江市の子どもは容易には「はだしのゲン」に会えない。

市教委がこのような措置をしたきっかけは、松江市議会に昨年8月、1人の「市民」から「誤った歴史認識を子供に植え付ける」と学校の図書館から「撤去」を求める陳情があったことだ。市議会はこの陳情を不採択にしたにかかわらず、「教育委員会(事務局)」と「校長会」は、その陳情に従ったということらしい。

陳情した「たった1人の市民」がいう「誤った歴史認識」とは、明らかに「はだしのゲン」の核心をなしている反戦・反核の思想のことだ。当然に描かざるを得ない、日本のアジア侵略の実態や、平和を求める人たちへの弾圧の描写を、「誤った歴史認識」として、隠したいのだ。問題は深く、大きい。

伝えられるところでは、陳情の内容は、以下のとおりである。
「『はだしのゲン』には、天皇陛下に対する侮辱、国歌に対しての間違った解釈、ありもしない日本軍の蛮行が掲載されています。このように、間違った歴史認識により書かれた本が学校図書室にあることは、松江市の子どもたちに間違った歴史認識を植え付け、子どもたちの『国と郷土を愛する態度の涵養』に悪影響を及ぼす可能性が高いので、即座に撤去されることを求めます。」

安倍政権が喜んで飛びつきそうな陳情内容ではないか。市議会はこの陳情を不採択にしたが、校長会はどれだけの議論をしたのか。問題の大きさ、深刻さをどれだけ認識していたのだ。「教育委員会」事務局のひと言で「校長会」はご無理ごもっともだったのか。

その措置が17日に世間に明らかになると、市教委には全国から抗議や苦情が寄せられた。そのうち全世界から抗議が押し寄せるだろう。1人の陳情に即応する機敏な教育委員会のことだから、22日に開かれた市教育委員の定例会で何らかの結論を出したと思いきや、26日の次回会議で継続審議するのだそうだ。5人の教育委員は事務局の言いなりの「おかざり」か。事務局は問題発覚後、全49小中学校校長にアンケートをした。結果は、「閉架の必要は無い」が16校。「再検討すべきだ」が8校。「必要性はあり」が5校、「その他・記載なし」が20校だった。

菅官房長官は21日に「設置者である地方公共団体の教育委員会の判断によって学校に対して閲覧制限等の具体的な指示を行うことは、通常の権限の範囲内だろう」と述べた。これはおかしい。地教行法には教育委員会の権限が書いてあるが、子どもたちの知る権利を奪う措置に、事務局限りでの判断の権限はない。
下村文科相も、同日、「学校図書館は子どもの発達段階に応じた教育的配慮の必要がある」として、市教委の権限に基づく行為で問題がないと述べた。これも、歴史修正主義派なればこその「はだしのゲン」憎さの表れに過ぎない。
お先走りのはしごを外されなかったと、松江市教育委員会はさだめしホッとしていることだろう。

学校図書館だけではない。この騒動の中で、鳥取市立中央図書館も2年前から、見えないところに「別置き」していたことがわかった。22日、日本図書館協会はこれらの措置に抗議する要望書を、松江市の教育委員会と清水伸夫教育長充てに送った。子どもたちの自主的な読書活動を尊重し、閲覧制限を再考、撤廃するよう求めている。

「日本図書館協会」は資料収集の自由、資料提供の自由、利用者の秘密を守る、すべての検閲に反対する、という「図書館の自由に関する宣言」を1979年の総会で決議している。この宣言は全国の図書館に掲げられ、「司書」の誇りとなっている。「図書館の自由が侵される時、われわれは団結して、あくまで自由を守る」とする宣言を実践した「日本図書館協会」に惜しみない共感と拍手を送りたい。

また、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)も、23日松江市教育委員会あてに、「はだしのゲン」閲覧制限をすみやかに撤回するよう求める要請書を送っている。
同要請書は、日本被団協が原爆の残酷さ、あの日の地獄、今日までつづく苦悩を語り続けてきたことを述べ、「私たちと同じ体験を誰にも味わわせないためです」と強調。「『はだしのゲン』は原爆の実相を伝える作品です。国の内外で、原爆を知る本、必読の本として高く評価されています」とのべ、「閲覧制限しなければならない理由はありません」と指摘しているという(24日付赤旗)。

こういうとき、何が出来るだろうか。閲覧制限を企てたことに抗議して、多くの人に、「はだしのゲン」を勧めよう。「はだしのゲン」を図書館から借りて読もう。せっかくの機会だから、全巻揃えるのも良かろう。中澤啓治さんがいないのが寂しいが、再びの「はだしのゲン」フィーバーを起こしたいもの。

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  『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』

ご存じ、寺山修司の歌。「身捨つるほどの祖国はありや」のフレーズは、作者よりも遙かに有名になってしまった。

歌作の背景の事情は一切知らない。素直に読めば、「霧深し」は作者内面の心象であろう、晴れやらぬ思いの中で「祖国はありや」との作者の煩悶が詠われている。これが、戦前の兵士の歌であれば、とりわけ出陣学徒の歌であれば、その心情がよく分かる。「身を捨てよ」と迫る祖国の実在を問うことの煩悶はあり得たはず。天皇制の教説は嘘っぱちとしても、自分と自分を取り巻く小さな社会と自然とは確実に存在した。ことここに至っては、そのために身を捨てることを選ぶべきではないか…、という煩悶。「きけ、わだつみのこえ」所収歌としてふさわしく、せいぜいが、生き残り兵の終戦直後の煩悶として共感が可能であろう。

しかし、この歌が終戦時10歳に達していなかった人物の作となると、すっかりしらけてしまう。まことに不自然で、心情を吐露した歌とは到底思えない。私は、寺山よりは少し若い世代だが、「祖国」なんぞへの思い入れはまったくなく、「祖国はありや」などという煩悶は思いもよらない。この歌への共感は無理というものだ。物心ついたころから、「愛国心」などというものの嘘くささは自明のものだったではないか。もっとも、寺山の父は外地で戦没しているそうだ。父の思いをこの歌に仮託したのかも知れない。

集団が成立するとその集団の維持のために、集団存立の正当性が語られなければならない。集団が成員にもたらす利益だけでなく、感性に訴える大義が求められる。いわば、ウソが必要になるのだ。

集団が争いを抱えると、集団内での団結強化のために、集団の美化や紛争における主張の正当性が強調されることになる。ウソの上塗りが必要となる。ヤクザの出入りも、祭りのケンカも、国家間の戦争も基本は変わらない。集団内部だけで通じる、自国の優越や祖国愛などのフィクションが語られることになる。神の恩寵や、建国神話までが総動員される。

おそらくは、常に「愛国心はゴロツキの隠れ家」である。愛国心や祖国愛は、一種の信仰だが、有害な信仰であって、愛国者を尊重するに値しない。

いかなる国も、国民がそのために身を捨てるほどのものではありえない。自分たちが作った国が、国民のために、どれだけ有用かだけを考えればよいこと。国のために身を捨てよなどとは、本末転倒、倒錯も甚だしい。

  『霧は晴れて山影はさやか 捨つには惜しき国ならざるや』
(2013年8月24日)

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Published in 土曜日, 8月 24th, 2013, at 15:12, and filed under 未分類.

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