澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

戦時国策標語に見る権力の本質と怖さ

何とも凄い題名の書が出たものと驚いた。
  「黙って働き 笑って納税」(里中哲彦著・現代書館)というのだ。
一瞬、消費税の本質暴露本かと思ったのは大間違いで、戦時中の国策標語を集めた著作だという。税務署がつくったというこの凄い標語を書名にしたセンスが光る。

国策の二大領域は、徴税と徴兵。その徴税における国家の本音を実によく表現している。この本音、実は戦時に限らず、平時の今にも通じるもの。平時には言えず、戦時だからこそあからさまにしえたこの標語は、今読み返すに十分な値打ちがある。今は表面慇懃でにこやかな税務署であるが、その本音は国民に対して「文句など言わずに黙々と働け。そして、喜んで稼いだ中から国家に納税したまえ」と言いたいのだ。戦時国策標語は、今に通じる「権力の本音」と読むことによって、今なおその強い生命力を失わない。

本日の東京新聞(朝刊)に、大きくスペースを割いて同書が紹介されている。同書は「傑作百選」を掲載しているそうだが、同紙は11の標語を転載している。どれも、権力のホンネを語るものとしてすこぶる興味深い。

徴兵に関するものは次の三つ。
  「りつぱな戦死とゑ(え)がほの老母」(名古屋市銃後奉公会)
  「産んで殖(ふ)やして育てて皇楯(みたて)」(中央標語研究会)
  「初湯(うぶゆ)から 御楯と願う 国の母」(仙台市)

言うまでもなく、皇楯(御楯)は、「醜の御楯」を意味する。皇軍の兵士のことだ。軍国主義の国家では、国民の命に価値はない。国民が、天皇に役立つ存在になることではじめて価値あるものとされる。天皇のために死ねば、立派なこと、名誉なこと。靖国にも祀ってやろう。遺族を褒賞してやろう。だから、「九段の母たちよ、子の死を笑顔で喜べ」というのだ。

自民党の改憲草案が「日本は、天皇を戴く国家である」ということの実質的な意味がここにある。安倍晋三が「取り戻そう」という日本がここにある。人が国のためにあるのか、国が人のためにあるのか。これらの標語は、本質的な問題と倒錯とを表現している。

勤倹スローガンが、次の5本。
  「欲しがりません 勝つまでは」(大政翼賛会、42年)
  「嬉(うれ)しいな 僕の貯金が弾になる」(大日本婦人会朝鮮慶北支部)
  「酒呑(の)みは 瑞穂(みずほ)の国の寄生虫」(日本国民禁酒同盟)
  「飾る心が すでに敵」(中央標語研究会)
  「働いて 耐えて笑つて 御奉公」(標語報国社)

これは息苦しい。お節介極まる社会。趣味も嗜好も倫理も道徳も、個人的なものは一切許されない。社会的同調圧力が極限まで個人を支配した。これこそ草の根ファシズムであろう。

好戦標語もあふれた。転載されているのは次の2本。
  「米英を消して明るい世界地図」(大政翼賛会神戸市支部)
  「アメリカ人をぶち殺せ!」(主婦之友)

いくつもの教訓を読み取ることができる。このようなスローガンの大半は、権力に繋がる立ち場の者ではなく庶民が考えたもの。シニカルにではなく、大真面目にである。今にして思えば、精神の内奥まで権力に取り込まれていたのかと、慨嘆せざるを得ない。

著者の里中さんは、東京新聞にこう語っている。
「日本を取り戻すと訴えた自民党。良いことのようだが、取り戻されるべき肝心の日本の中身は何か」「保守化が進むことが良いことなのか。国策標語に踊らされた戦中の先達を他山の石とし、政治家が振りまく標語の分かりやすさにとらわれず、政策の是非を議論していかなければならない」

恐るべきは教育のなせる業であり、批判を失った国民精神頽廃の哀れな末路である。戦争のもたらす国民の一体感や高揚感を拒絶しよう。他国や他国民・他民族へのヘイトスピーチは、開戦への国策に乗せられた結果と知るべきである。
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  8月の園芸家(「園芸家12カ月」カレル・チャペックより)
「さて、自然に生えている植物なら、園芸マニアはどこからでも掘ってきて、自分の庭にとりいれることができる。しゃくなのは、それ以外の天然物だ。(ちくしょう!)園芸家はそう思って、マッターホルンやゲルラッハシュピッツェを見上げる。この山がおれの庭にあったらなあ。そしてあの物凄く大きな木のはえた原生林の一部分と開墾地、それからこの谷川、いや、それよりもむしろこの湖のほうがいいな。あそこのみずみずしい草原もうちの庭にわるくないな。それから、ほんのちょっぴり海岸があってもいいかもしれない。荒れ果てたゴシック式の尼寺も一つぐらいほしい。それから、千年ぐらいたったこのボダイジュもほしいな。この古めかしい噴水もうちの庭にわるくないな。それから、どうだろう、鹿が一群れに、アルプスカモシカが一つがいいたら。でなきゃ、せめてこの古いポプラの並木があったら。さもなきゃ、あそこのあの岩か、さもなきゃ、あそこのあの河か、さもなきゃ、このカシワの林か、さもなきゃ、あそこに青白く見えている滝か、でなきゃ、せめてこの静かな緑色の谷があったらなあ」

私はカレル・チャペックのような高望みはしない。小さな山が二つとその間を結ぶ小川が一本、その両脇に小さな草原があれば満足だ。
一つの山には早春に白い花をつけるタムシバを5,6本。煙るようなクリーム色の花で木が覆われるクヌギを4,5本。ヤマザクラは欲張りません、大きな奴を3本。その下に、アカヤシオとシロヤシオ、ヤマツツジをちりばめる。その下草には一面のヤマブキソウ、ヤマシャクヤクとレンゲショーマ。

小川のほとりにはリュウキンカ、ショウジョウバカマ、黄色と紫色のツリフネソウがあればいい。

片方の草原は春の花。カタクリ、エンゴサク、アズマイチゲ、イカリソウ、オキナグサ。
もう一方は秋草の原。ヤマユリ、ササユリ、アヤメ、キキョウ、オミナエシ、ナデシコ、ニッコウキスゲ、ワレモコウ、リンドウ。傍若無人なススキはいらない。
そしてもひとつの山はモミジ山。春のえんじ色の花がひときわ美しいハウチワカエデとヤマモミジ5,6本。黄葉するブナ、これは大木になるので2本。端っこに赤いヤブツバキを3本ほど。この林の下にはクマガイソウとエビネの大群落を。

ほんのささやかな望みです。
(2013年8月26日)

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