澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「被爆者の情念の迫力」と「コピペの薄っぺら」

8月9日、「祈りの長崎」に、国民すべてが、いや世界の人々が、ともに頭を垂れ心を寄せるべき日。

その「長崎原爆の日」の今日、平和祈念式典が行われ、田上富久市長の平和宣言が集団的自衛権に触れた。つぎのとおりである。

「いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。
長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。
被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。」

市長の発言である。安倍首相の面前でこれだけのことを言ったと評価すべきだろう。また、安倍首相を前にしてこれを言わなければ、何のための平和祈念式典か、と問われることにもなろう。

圧巻は、被爆者代表の城臺美彌子さんの発言。ネットで複数の「全文文字化」が読める。ありがたいことと感謝しつつ、その一部を転載させていただく。

「山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。おとなりの同級生、トミちゃんが、『みやちゃーん、遊ぼう』と外から呼びました。その瞬間、キラッ!と光りました。
その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。暫く経って、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんは、その時何の怪我もしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。

たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなる。たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で、多くの被爆者が命を落としていきました。

原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは、人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい、非人道的な核兵器を、世界から一刻も早く、なくすことです。

そのためには核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府はその役割を果たしているのでしょうか。今進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。

日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。一旦戦争が始まると、戦争が戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。

日本の未来を担う若者や、子どもたちを脅かさないで下さい。平和の保障をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないで下さい。

福島には、原発事故の放射能汚染で、未だ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けて、怯え苦しんでいる親子もいます。
このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討して下さい。

被爆者は、サバイバーとして残された時間を命がけで語り継ごうとしています。小学1年生も、保育園生さえも、私たちの言葉をじっと聞いてくれます。このこと、子どもたちを、戦場へ送ったり、戦火に巻き込ませてはならないという思い、いっぱいで語っています。

長崎市民の皆さん、いいえ、世界中のみなさん。再び、愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被曝の実相を語り継いで下さい。

日本の真の平和を求めて、共に歩きましょう。私も被爆者の一人として、力の続く限り、被爆体験を伝え残していく決意を、皆様にお伝えして、私の平和への誓と致します。」

この凄まじい迫力。安倍晋三の耳にはどう響いたか。

この日の式典でも安倍は挨拶文を読み上げた。それが、中ごろを除いて、昨年と同じ。今はやりのコピペだと指摘されている。

さすがに、昨年の「せみしぐれが今もしじまを破る」は、今年はなかったという。「式典は昨年は炎天下だったが、今年は雨の中だった。」から(朝日コム)。

6日の広島市での平和記念式典の安倍首相の挨拶文を「昨年のコピペ」と指摘したメーリングリストでの投稿にその日の内に接した。そういうことに気づく人もいるのだと感心していたら、各紙の社会面ネタになって拡散した。これでは、長崎は書き下ろしで行くのだろうと思ったが、さすが安倍晋三、すごい心臓。長崎でもコピペを繰り返した。今年の流行語大賞は「コピペ」で決まりではないか。安倍には、「コントロール」と「ブロック」に加えて、「コピペ」も、イメージフレーズとして定着した。

コピペは、借り物、使い回しの文章。抜け殻で、装いだけの文章。かたちだけを整えたもので、魂のないスピーチ。安倍晋三は、広島も長崎でも、そんなコピペの文字の羅列を読みあげればよいと考えたわけだ。

かたや、自らの体験と情念が吹き出した言葉の迫力。こなた、コピペのごまかし。それでも、支配しているのは迫力に欠けた薄っぺらのコピペ側なのだ。複雑な思いとならざるを得ない。
(2014年8月9日)

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