澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

ことの本質は「批判の自由」を守り抜くことにある-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第20弾

同期の友人から、便りをいただいた。ワープロで印字したものではない。「水茎うるわしく」とは言えないものの、手書きの便りは暖かい友情を感じさせる。内容は、『DHCスラップ訴訟』の被告準備書面に目を通しての感想。大局を見る視点の参考に値するものと考え、了解を得てその一部を紹介する。

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先日は、久しぶりにお目にかかって楽しかった。お元気そうでなにより。

私も弁護団の一員だが、東京には遠いし、若くもない。パソコンの操作も不得手だ。訴訟の方針は優秀な若手にお任せでよいと思っている。信頼できる学者のアドバイスも期待できるようだし、安心はしている。

それでも、もちろん気になって原被告双方の書面はよく読んでいる。今回の被告の反論を展開した準備書面も拝読した。その感想を述べておきたい。

結論的には、説得力のある精緻な内容の展開になっているし、訴訟としては圧倒的に有利な立場にあることを確認できて喜んではいる。しかし、正直のところ、今回の準備書面は私の考えていた内容とは少し違う。違和感がある。

ことの本質は、澤藤君の批判が果たして違法と烙印を押されるようなものなのかという一点にあるのだと思う。君は、財界の一端を担う吉田が政治家渡辺に多額のカネを渡したことを「カネで政治を買うもの」と批判した。いったいこの批判を違法などといえるのだろうか。最終的には、それだけが論点だ。

吉田の行動が違法か合法か、君の指摘が正確か否かは、二の次、三の次の問題に過ぎない。吉田が渡辺にあれだけの大金を渡したのだから、「カネで政治を買う」ものと批判されて当然ではないか。むしろ、君の問題提起は、違法どころか、重要で意義のあるものだと思う。そのことをもっと前面に押し出してもらいたい。

訴訟の争点が、大金を拠出したことについての吉田の意図や動機、あるいは吉田の行為の違法性の有無に絞り込まれるようなことがあってはならない。吉田の意図や動機がどうであろうとも、吉田のカネの出し方が政治資金規正法上適法であったとしても、澤藤君の批判を違法として封じることはできないと思う。この点を十分に意識してもらいたい。

今回の準備書面への違和感はその点にある。民主主義を守る土台としての「批判の自由」の意義をもっと前面に出してもらいたかった。少し、横着に言えば、吉田の行為が合法か否かは問題にならない。君の批判の内容が真実であるか否かも本来問題にはならないはずではないか。吉田が自らの手記で発表した行為が、君のような批判の対象となることは当たり前のことで、仮に君の批判の表現に誤った推測が含まれていたとしても、批判が許されないことにはならない。

民主主義を守るためには君がしたような批判が必要なのだ。その批判をきっかけに、真実の解明が進んだり、国民の議論が深まることが期待できるのだから、批判の言論そのものに保護すべき意義がある。けっして、批判が全面的に正確であることを要求すべきではないと考える。

そのような立場から、裁判所に「批判の自由」の意義や尊さを理解してもらえるように、この点を整理した書面を作成して提出してもらいたい。それが私の意見だ。参考にしていていただけたらありがたい。(後略)
(2014年8月22日)

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