澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「学校に自由と人権をー今こそ子どもたちを戦場に送るな 10・25集会」

恒例の「学校に自由と人権を」集会。今年は、「今こそ子どもたちを戦場に送るな」という副題がつけられた。安倍政権発足以来まことにきな臭い。ヘイトスピーチデモの跋扈、特定秘密保護法、武器輸出3原則の放擲、国家安全保障会議、NHK人事、集団的自衛権行使容認の閣議決定、そして「従軍慰安婦」問題バッシング。「子どもたちを戦場に送るな」という、古めかしいはずのスローガンが、にわかにリアリティを持ち始めたのだ。

「日の丸・君が代」は、子どもたちを戦場に送る小道具として重要な役割を果たすだろう。この旗と歌に対する条件反射的な尊崇の念の植えつけとセットになってのことである。

本日の私の発言は20分。「君が代訴訟の現段階と今後の展望」と題して、詳細なレジメを提出した。が、発言の大意は以下のとおり。

「10・23通達」が発せられてから11年になります。この間、学校における国旗国歌への敬意表明の強制とは、一体どのような意味を持つことなのだろうかと考え続けてきました。解答が出せたわけではありませんが、私なりに4つの問題領域に分けて考えられるのではないかと思っています。

1番目の問題領域は、権力的な強制と、強制を受ける人の精神の内面との衝突あるいは葛藤の問題です。人が人であり、自分が自分であるために、あるいは教員が教員であるために、精神の内面の核となっているものは不可侵でなければならない。「日の丸・君が代」の強制は、このような人間の尊厳を破壊するものとして許されざるものではないだろうか。

「日の丸・君が代」は国旗国歌とされています。日本という国家の象徴です。目に見えない日本国が「日の丸・君が代」というデザインや歌詞・メロディとなって、目の前に形をなします。また、「日の丸・君が代」は戦前の大日本帝国と極めて緊密に結びついた歴史を背負っています。「日の丸に正対して君が代を斉唱する」行為は、現在ある日本国に敬意を表明することでもありますが、天皇を神とした時代の国家主義・軍国主義・侵略主義・差別思想を肯定し、その時代の国家を丸ごと肯定する要素を含むものと理解せざるを得ません。人によっては、自分が自分である限り到底服することができない、という思いがあって当然だと思います。

2番目の問題領域は、教育というものの本質や、憲法・教育基本法が想定する教育のあり方に照らして、「日の丸・君が代」の強制が許されるはずがなかろう、ということです。
本来、教育とは公権力の思惑とは無縁のところで、行われなければなりません。これが近代市民社会での基本原理といってよいと思います。しかし、例外なく、全ての権力は権力に都合のよい従順な国民の育成のための教育をしたくてならないのです。
その悪しき典型が、戦前の天皇制日本でした。天皇を神とし、神なる天皇のために生きることこそが臣民の幸せだと、靖国の思想を教育として説いたのです。その教育の結果が、戦争の惨禍であり、敗戦であったことは国民全てが骨身にしみたところです。

敗戦後は、その失敗の反省から国を作りなおし、原理の異なる憲法を制定しさらに教育のあり方を180度変えたはず。とりわけ、権力が教育の内容に介入してはならないとする大原則を打ち立てたはずなのです。にもかかわらず、どうして教育の場で、「日の丸・君が代」強制という権力による国家主義イデオロギーの刷り込み強制が許されるのか。重大な問題といわねばなりません。

3番目の問題領域は、そもそも権力というものには、できることの限界があるはずではないか。「日の丸・君が代」あるいは国旗国歌を国民に強制することは、立憲主義の大原則からなしえないことなのではないか、という問題です。

国家は、主権者国民によって権力を付与された存在です。主権者国民が主人で、国家はその僕、ないしは道具でしかありません。国民に役立つ限りで存続し運営されるに過ぎないものです。ところが、国民から委託を受けたその国家が、主人である主権者国民に向かって、「我に敬意を表明せよ」と強制することは、倒錯であり背理であるはずなのです。そのような権能は、公権力のなし得るメニューにはいっていないと指摘せざるを得ません。

最後4番目の問題領域は、直接には国家や権力の問題ではなく、社会の同調圧力の問題です。社会の多数派は少数派に対して、同じ思想、同じ行動をとるよう求めます。これに従わない異端者を排斥しようとします。極端には、国賊、非国民ということになります。今、社会の多数派は、「国旗国歌に対して敬意を表明することは国際儀礼ではないか」「社会人としての常識ではないか」「起立・斉唱くらいはすべきではないか」という態度です。

この多数派の意思が、民主主義の名の下に権力に転化して、「日の丸・君が代」強制となっています。政治的な権力を支え、「日の丸・君が代」強制を合理化しているものが、実は社会の多数派の意思であり同調圧力なのです。

本来一人ひとりの人権は、多数派の圧力からも、権力的な強権の発動からも守られねばなりません。むしろ、少数者の人権だからこそ脆弱で侵害から守られねばなりません。「日の丸・君が代」強制は立憲主義の原則上、公権力のなし得る権限を越えたものであることを厳格に指摘しつつ、教育への権力の介入を阻止するために、今後とも「日の丸・君が代」強制と闘っていかねばならないと思います。

厳しい現場で教育者としての良心を貫いて懲戒処分を受けている皆様には心から敬意を表明いたします。私たち弁護団も、ご一緒に訴訟活動に邁進する覚悟です。
(2014年10月25日)

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