澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「日の丸・君が代」強制の有無は被害者の立場で判断されなければならない

私は、「東京君が代訴訟」弁護団の弁護士として、文科省でこの問題を担当しておられる11人の皆様に一言申しあげたい。

先ほどから、国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」という、あなた方の説明の文言をめぐっての応酬が膠着状態に陥っている。教育現場にいる人たちから見れば、「実際のところ内心にまで立ち入って強制しているではないか」「言っていることとやっていることがまったく違う」と言いたいのだ。私もそのとおりだと思う。

これから私が申しあげることは少し違う角度からのものだ。あなた方は、「国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、あくまで教育指導上の課題だ」という。しかし、それはあなた方の独善的な立場においての主観的な言い分に過ぎない。問題は、あなた方がどのような意図や趣旨で指導をおこなっているかではない。国旗や国歌を強制される児童・生徒およびその保護者の側がどのようにとらえるかなのだ。精神的自由にかかわる人権侵害という微妙な問題の有無を考えるにあたって、学校や教委、国は加害者としての当事者だ。生徒が、被害者としてもう一方の当事者となっている。加害者側の意図や趣旨がどうであるかは、実はさしたる問題ではない。あくまで思想・良心・信仰を傷つけられたとする被害者の側に立って問題を考えなければならない。これは、いじめの問題と同じ構造だ。いじめの有無は何よりもまず、いじめられたとする被害者の声に真摯に耳を傾けなければならない。今、あなた方はいじめの加害者側なのだ。自分の意図や趣旨だけを語って済む問題ではない。

よく知られているとおり、神戸高専剣道授業拒否事件においては、最高裁はこのことを明らかにした。確かに、剣道の授業を受けさせようという学校側に、一般論として生徒の思想・良心・信仰を抑圧する意図や趣旨があったとは考えられるところではない。しかし、ある信仰を持つ生徒の側に立てば、問題はまったく違って見える。信仰に反する行為の強制として到底受け入れがたいのだ。学校側の意図や趣旨がどのようなものであろうとも、強制される生徒側の思想・良心・信仰が傷つけられることは珍しくなくあるのだ。

この事件で最高裁は、剣道の授業を強制した学校の行為を、生徒の信仰と相容れない行為を強制したものとして違法だと認めた。「日の丸・君が代」の強制もまったく同じ構造で問題を考えることができる。しかも、最高裁は、「日の丸・君が代」の強制が間接的にもせよ強制される者の思想・良心を侵害するものであることまでは認めたのだ。もっとも、最高裁は司法消極主義の立場から、違憲の判断にまでは踏み込まなかった。懲戒が実害のない戒告を超えて減給以上の現実的な不利益を伴う処分となれば過酷に失するとして違法、取り消すというにとどまっている。これは、ひとえに行政権に対する司法の遠慮でしかない。

文科省が、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」と言っても、児童生徒の側から見れば、内心にまで立ち入っての強制として、思想・良心・信仰を侵害されることは大いにあり得ることなのだ。被害者がいじめを訴え、加害者が「これはいじめではない。愛のムチによる指導だ」と開き直っているのと変りがない。あなた方の説明は、児童・生徒の立場に立ってものを見る姿勢が見られない。おそよ配慮に欠けているとの批判を免れない。

あなた方が、本当に「内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」というのなら、そしてそのことを信用して欲しいというのなら、児童生徒やその保護者に対して、「日の丸・君が代」に対する起立・斉唱はけっして強制ではないことを周知徹底すべきではないか。これが最低限必要な配慮だ。

憲法における至高の価値は、一人ひとりの個人の尊厳なのだということを児童生徒にも保護者にも周知しなければならない。個人が不本意にも国旗国歌への敬意表明を強制される事態があってはならないと国も真剣に考えていることを明らかにしなければならない。個人の尊厳の方が、国旗国歌が象徴する国よりも、あるいは社会よりも大切なのだということを教え、実践しなければならない。私たちの社会は、一人ひとりの思想・良心・信仰の自由を保障している。しかも、国家による強制からの自由を保障しているのだ。だから、けっして国家への忠誠や敬意表明が強制されてはならない。国家を象徴する国旗や国歌への敬意表明が強制されることはあり得ない、と徹底して教えなくてはならない。国旗国歌を儀式に持ち込むとしても、「強制をしようとする趣旨でない」というからには、誤解を招かぬよう、そこまで周知徹底しなければ論理は貫徹しない。

自由主義社会とは、全体主義や国家主義、軍国主義とは違うのだ。戦前の天皇制日本やナチスドイツなどのように、国旗国歌に対する敬礼によって国家への忠誠や団結を誓うような国にしてはならない。

是非とも、個人の尊厳や自由の尊さを教育の根幹に据えていただきたい。そのためにはまず、国旗国歌強制は国の立場ではないことを明確にすることだ。一部の自治体が行っている強制は、本来あってはならない違憲違法なことと明らかにしていただきたい。

本日(1月29日)午後参議院議員会館で行われた、「『日の丸・君が代』強制に反対し、国連勧告実現を求める院内集会」での、文科省の出席者11人に対しての私の発言。もっとも、私の発言予定はなく、とっさのことだったので、こんなに整理された内容ではなかったが、趣旨は変わらない。
(2015年1月29日)

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