澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

靖国創建150年に再論 ― 「天皇と国家に子の命を奪われ、靖国に死後の子の魂まで奪われた『九段の母』の二重の悲劇」。

私は、産経は読まない。が、産経人士が何を言っているかには関心がある。もちろん、批判の対象としてのことである。都合の良いことに、右翼言論を丹念に拾って配信してださる奇特な方が、何人かいらっしゃる。まことにありがたい。そのルートで、産経の[正論]欄(2月28日)に、「靖国150年に聴く鎮魂の曲」という記事があることを知った。「文芸批評家、都留文科大学教授」の肩書をもつ新保祐司の記事である。これを抜粋して引用させていただく。

「今年は、靖国神社創立150年である。改めて英霊に深く思いを致す機会とすべきである。その思いをさらに深いものにする一助として、英霊に関係した名曲を2つ紹介したいと思う。これを聴くことによって靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念は極まるであろう。」

「靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念」は右翼や安倍晋三の常套句であるが、大きな違和感を禁じえない。「愚かな為政者の愚策によって貴重な命を失った戦没者と遺族の無念さへの共感」なら分かるが、「感謝と崇敬」はまったく分からない。しかし、戦没者遺族には「靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念」と言われることが、少しでも心安まることになろう。これが、靖国の仕掛けである。

「こういう音楽が貴重なのは、戦争を経験した人間が少なくなっていく中で、真正の芸術によって表現されたものの裡(うち)に英霊の記憶は受け継がれていくからである。今後、日本人はこのような音楽を聴くことによって、民族の歴史としての戦争を回想することができるであろう。2曲とも「海ゆかば」と交声曲「海道東征」を作曲した信時潔の作品だが、これも何か宿命的なものを感じさせる。」

「民族の歴史としての戦争」「真正の芸術によって表現されたもの」「英霊の記憶は受け継がれていく」などの表現には、被侵略国の民衆の被害は眼中にない。靖国神社は戦争と戦没者を意識的に美化する装置である。産経の記事などは、靖国を美化することによって、無反省に戦争と戦没者を美化するものである。

「1つ目は、「やすくにの」という昭和18年9月に作られた曲である。作歌は大江一二三である。
 靖国の宮に御霊は鎮まるも をりをり帰れ母の夢路に
この歌は、若くして戦死を遂げた孝心あつい立山英夫中尉の英霊に捧(ささ)げられたもので、当時の部隊長だった大江一二三少佐が、中尉の郷里で町葬が行われる日に電報に託して届けたものである。これを紹介した津下正章著『童心記』がJOAKより朗読放送され、これをたまたま聴いた信時が、感激して直ちに曲をつけたものである。
 当時、東京音楽学校の教師であった信時は、政府をはじめとしてさまざまなところからの依頼で作曲することが普通であったが、この「やすくにの」は自発的に作曲した稀(まれ)な例で、信時の「感激」がいかに深かったかが分かる。
 『童心記』には、「この歌こそは、中尉に捧げられたものであるが、同時に靖国の神とまつられた全将兵に捧げられたものであり、またその全母性に寄せられた涙の感謝である。しかも一部隊長大江少佐の美しい温情であり熱祷(ねっとう)であると共に、全将校全部隊長が寄せる亡き部下とその母への『武人の真情』なのである」と書かれているが、信時は、この「武人の真情」に深く感動したに違いない

この大江一二三の歌については、かつて私のブログで2回にわたって取りあげたことがある。そのときの見出しは、「国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー『九段の母』の二重の悲劇」というものである。これこそが、母の心情であったに違いない。

http://article9.jp/wordpress/?p=7419
(2016年9月4日)
http://article9.jp/wordpress/?m=201608
(2016年8月31日)
これを、以下に抜粋して再掲したい。新保祐司の記事と併せ読んでいただきたい。

靖國神社には、月毎の「社頭掲示」というものがある。2008年8月の靖國神社社頭掲示は以下のものであった。

           遺 書

陸軍歩兵中尉 立山英夫命  熊本県菊池郡隈府町出身
昭和十二年八月二十二日歩兵第四七聯隊支那河北省辛荘附近にて戦死

若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ

お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん

これは、「覚悟の遺書」ではない。母にも他人にも読まれることを想定して書いたものではない。斥候として偵察に出た初陣で戦死した若い見習い士官のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモである。

メモ前半の長歌は、当時よく知られていた「感恩の歌」の一部をとって、独自の創作を付け加えたもの。そして、24回繰り返された「お母さん、お母さん、お母さん……」。母を思う子の心情が溢れて胸を打つ。ここには、「大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」などというタテマエや虚飾が一切ない。

私は、このメモを読むたびに、不覚の涙を禁じ得ない。我が子の死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

靖國神社には二面性がある。その一面は、上から見おろした、国家が拵え上げ国民に押しつけた側面。戦没将兵を顕彰することで、戦争を美化し国民を鼓舞して、君のため国のための戦争に国民精神を総動員する装置としての側面。飽くまでこちらがA面である。

だがそれだけではない。国家によって拵え上げられた擬似的「宗教」装置ではあっても、夥しい戦没者の遺族にとっては、故人の死を意味づけ、これを偲ぶ場でありえている。確実に民衆が下から支える側面がある。こちらがB面。B面あればこそのA面という関係ができあがっている。

「お母さん、お母さん…」のメモは、B面に徹した遺品。A面だけではなく、B面も靖國にとっては、なくてはならない存在なのだ。

私は、B面に涙する。同時に、この涙する心情をA面に掠めとらせ利用させてはならないとの痛切の思いを新たにする。A面は擬似的にもせよ宗教的に構成されているのだから、政教分離とはA面の国家利用を絶対に許さないとする法原則と理解しなければならない。

戦争の犠牲者は自国民だけではない、軍人軍属だけでもない。戦没者の追悼のあり方は、祭神として靖國の社頭に祀ることだけではない。「お母さん…」と書き付けて亡くなった子と母の痛切な心情を、国家や靖國に囲い込ませてはならない。

戦死者を顕彰したり戦争を美化するのではなく、再びの戦争犠牲者を絶対につくらないと決意すること。いかなる理由によっても、いかなる戦争も拒否すること。国際協調と平和主義を貫徹する誓約をすること。これこそが真に戦死者を悼み、戦死者と遺族の心情を慰めることになるのだ。(以上、2016年8月31日)

国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー「九段の母」の二重の悲劇
8月31日の当ブログで紹介した、2008(平成20)年8月靖國神社社頭掲示の立山英夫「遺書」には後日談がある。

陸軍歩兵見習士官立山英夫は、日中戦争開始直後の1937年8月、初陣での斥候任務の途中で戦死した。その血まみれの軍服のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモには、天皇陛下も万歳も、「大君の辺にこそ死なめ」もなく、ひたすら「母恋し」の心情に溢れた歌が書き込まれ、そのあとに「お母さん お母さん お母さん…」と24回書き付けてあった。撃たれてから書いたのではなく、書き付けたものをポケットに忍ばせていたのだ。我が子の戦死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

死んだ兵の上官は、大江一二三(後に大佐)。この「遺書」に心を揺さぶられた大江は、立山の葬儀に弔電を送る。この弔電が、
「ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモヲリヲリカヘレハハノユメヂニ」
(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に)
という歌になっていた。これに、当時の著名な作曲家である信時潔が曲をつけて国民歌謡となり、全国で歌われた。

この歌の意味は、当時の国民にはよく分かったのだろうが、今では解説なくしては理解しえない。野暮は承知で解釈してみれば、
「故人の魂は神となって靖国の宮に鎮座してはいるが、ときどきは恋しい母のもとに帰って、その夢にあらわれたまえ」
というところであろうか。

靖国の祭神となった子の魂は母の許にはない。国家が魂を独占し管理しているのだ、母の夢路に「をりをり帰れ」と言うのが精一杯なのだ。

わたしはこの話を、大江一二三の長男である大江志乃夫さんから聞いた。岩手靖国訴訟で、大江さんに学者証人として盛岡地裁の法廷に立っていただいた1983年夏のこと。このことは、法廷に提出された陳述書をもとに上梓された大江志乃夫『靖国神社』岩波新書(1984年3月)の終章にまとめられている。抜粋して引用しておきたい。

この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は1936(昭和11)年6月から放送がはじめられ、翌年10月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。
「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。1937年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の7月27日に動員が下命され、ただちに出動した。おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の8月20日、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に「お母さんお母さんお母さん……」と二四回もくりかえし書かれていた。
立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「12・11・17」の日付となっている。…
作曲家の信時潔は1963年11月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューアーにたいして-彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、-信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。

父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。

「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。

「戦死者の魂を国家が独占する」ことについては、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)がこう言っている。(「偕行社記事 特別号」)

「人霊をそこへお招きする。此の時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。…一方に親しみという方の点が加わるものですから、なんとなく神様の前の拝礼あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。…それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」

これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということなのだ。大江一二三は「せめて、をりをりは母の許に」と言ったが、靖国の宮司はこれをも、「何時までも自分の息子という考えがあってはいけない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないか」と叱責の対象にしかねない。

「九段の母」とは、子の命を天皇と国家に奪われ、さらには死後の魂までも国家に奪われた「二重の悲劇」の母なのだ。(以上、2016年9月4日から)
(2019年3月5日)

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