(2023年1月31日)
私の手許に、三宅勝久著「絶望の自衛隊:人間破壊の現場から」(花伝社・2022/12/5)という新刊書がある。三宅さんと私は、共にスラップの被告とされた被害者という仲。同病相憐れむではなく、どちらかと言えば「戦友」に近い。とは言え、被告体験者としては三宅さんの方が10年も先輩。スラップ常習の武富士とスラップ常習弁護士を相手に、苦労は大きかったろう。
三宅さんの仕事は、武富士追及のルポばかりではない。『悩める自衛官』『自衛隊員が死んでいく』『自衛隊員が泣いている』(いずれも花伝社)『自衛隊という密室』(高文研)などに続いての「絶望の自衛隊」である。「自衛隊の腐敗を追って20年、第一人者がとらえ続けた現場の闇に迫る」という惹句。
この本の帯に、「隠蔽と捏造の陰で横行する暴力、性犯罪、いじめ。そして自殺…」「理不尽に満ちた巨大組織・自衛隊から、苦しむ者たちの声が聞こえるか?」「悪しき“伝統”と不条理がはびこる旧態依然の25万人組織、自衛隊─」とある。そう、この書は、「横行する、暴力、性犯罪、いじめ。そして自殺…」という理不尽に苦しむ隊員の声を集めたルポ。まさしく、「絶望の自衛隊」の姿が描かれている。
しかし、帯の最後には、希望につなげてこう結ばれている。「ついに立ち上がった隊員たち、その渾身の告発を私たちはどう受け止めるべきか?」
「ついに立ち上がって渾身の告発に及んだ隊員」の典型例として、五ノ井里奈さんが取りあげられている。「まえがき」と「あとがき」においてのこと。何とも、ひどい事件である。なるほど確かに「絶望の自衛隊」というほかはない、その隊員虐待体質と隠蔽体質。これは、輝かしい皇軍の伝統継承者という自衛隊の特殊な事情によるものだろうか、それとも日本社会の後進性を反映したものなのだろうか。
五ノ井さんは、陸上自衛隊員として勤務中の21年8月、男性隊員から集団的な性暴力を受けた。その他にも、日常的なセクハラ行為も絶えなかったともいう。被害届を出して強制わいせつの罪名での書類送検までは漕ぎつけたが、被疑者らは否認。証拠不十分として不起訴となる。傷心の五ノ井さんは離隊やむなきに至るのだが、事件10か月後の22年6月、意を決して被害を世に訴える。
インターネットで、実名を公表し顔を出しての告発。たった一人での、果敢な闘いを始めたのだ。その勇気、その志に、敬意を表せざるを得ない。
局面は転換した。署名が始まって世論が動き、国会議員も支援に働いた。陸自と加害者は事実を認めての謝罪に追い込まれ、実行犯5人が懲戒免職となったほか、訴えを受けたのに十分な調査をしなかったなどとして上司にあたる中隊長ら4人が停職などの懲戒処分ともなった。なお、昨年9月、検察審査会が不起訴不当を議決してもいる。闘いは、既に五ノ井さんが勝利したと言ってよい。
その五ノ井さんが、昨日(1月30日)、横浜地裁に性暴力加害者の元隊員と国を被告として提訴した。概ね下記のように報道されている。
「陸上自衛隊内で性被害を受けた元自衛官の五ノ井里奈さん(23)が30日、国と加害者の元隊員5人を相手取り、計750万円の損害賠償を求める訴訟を横浜地裁に起こした。国に対しては、性被害を訴えた際に適切な調査をしなかった責任などを問う。提訴後に記者会見した五ノ井さんは『再発防止につなげ、自衛隊が正義感を持った組織になってほしい』と求めた。
代理人弁護士によると、国が性被害の訴えを放置したことは安全配慮義務違反にあたるとして200万円の損害賠償を請求し、元隊員の男性5人からは性的暴行などにより精神的苦痛を受けたとして計550万円を支払うよう求めた」
五ノ井さんとしては、加害者5人にも、国(陸自)にも、損害賠償を認めさせたい。が、加害者5人とその代理人は、「賠償は国がする。それで十分ではないか」という態度だったようだ。そこで、加害者個人には民事不法行為責任を、国には雇用契約関係を根拠とする民事責任を求めたのだろう。金さえ支払ってもらえば良いのではなく、責任を明確にして再発防止につなげたいという意思がよく見える。
なお、本件を機に防衛省が全自衛隊を対象に実施した特別防衛監察では、パワハラやセクハラなど約1400件の被害申告があったという。記者会見で、五ノ井さんは「加害者たちは、本当には反省していないと感じた。このままではハラスメントの根絶は不可能だと思った」と強調している。
下記は、NHKに投稿された、視聴者からの感想の一部である。
「こういったことは表沙汰にされない。今までは国を支えてくれている隊という漠然としたイメージを持っていましたが、今回の訴えでイメージは一気に暗転しました。こういったことは組織的に軽く受け止められてきたのではないでしょうか。最終的に実名まで出さなくてはならなかった…調べてみればざくざく同じような問題が掘り起こされた…どこか裏切られたような気持ちです。日本の社会の性暴力などの問題に対する甘さが見られます」
「彼女を復職させ、自衛隊のパワハラ、モラハラ根絶のための養成、管理をさせたらいいと思います。彼女はそれらをよく知っており、被害者の側を蔑ろにすることのない優しさとそれに闘う強さを兼ねていると思います。本当に自衛隊の幹部が反省し、変わりたいと思うのなら彼女のような人を起用して頂きたいです」
なるほど、もっとも至極なご意見。あらためて思う。自衛隊には絶望だが、この事件を通じて見えてきた日本の社会の反応には、明るい希望も見えるのではないだろうか。
(2023年1月30日)
旧友小村滋君から、『アジぶら通信?』第10号(2023年1月25日号)が届いた。
彼とは1963年と64年の2年間を、大学の教養課程中国語クラス(Eクラス)の同級生だった仲。学生時代に勇ましいことを言う人ではなかったが、卒業後は朝日に就職し、新宮支局時代に大逆事件の調査と紹介にのめり込んだ。それだけでなく何度も沖縄に足を運び、今やすっかりウチナーンチュの心情である。
友人はありがたい。分けても、昔と変わらぬ姿勢を持ち続けている友は。自分を映す鏡として、これ以上のものはない。
彼は、朝日退職後に、ネット配信の極ミニ紙『アジぶら通信』の発刊を始めた。「編集発信・小村小凡」として、「アジアは広くニホンは深く」という標語を掲げ続けている。飽くまで沖縄を中心とする視点で、アジアを見つめ、日本を見つめ直そうという姿勢が窺える。
『アジぶら通信?』のシリーズとなって、発刊がちょっと途絶えていたが、目出たく復刊したようだ。下記のメッセージが添えられている。
「小村滋です、こんにちは!
BCCでお送りしています。2021年の秋以来ですから、2年ぶりですかね。
2、3か月おきになると思いますが、復活したいと思っています」
その【アジぶら通信? 第10号】は、A4・3頁。記事は一本だけ。大きな見出しで、「東アジアを戦場とする勿れ」「沖縄に自決権を」という長文のもの。あらためて思う。今沖縄は、たいへんな事態なのだ。沖縄を、先島を、「台湾有事」の際の軍事拠点としてはならない。
小村君の問題意識は、次のように語られている。
「『プーチン・ロシアのウクライナ侵攻』の無法で乱暴な戦争の衝撃は大きい。しかし、それに便乗、平和憲法を無視して戦争できる軍事大国になろうという岸田政権は、いつか来た間違った道へ進んでいないか」
そのための方策として何が考えられるだろうか。彼が挙げるのは、「先住民族の権利に関する国連宣言」の活用である。
「国連は日本政府に対して『アイヌと琉球の人々を先住民族として認め、その権利を保障するように』との勧告を5回も出した。日本政府は、08 年アイヌ民族については勧告を受け入れ、同年6月6日、国会でアイヌ民族を先住民族とする決議をした。福田康夫内閣の時だった」
さらに、国連はめげずに、「昨年11月3日、国連の自由権規約委員会(B規約人権委員会)は、『沖縄の人々を先住民族と認めて人権保障を』と日本政府に勧告した」という。
この勧告の実現にどのような意味があるのか。沖縄国際大学講師の渡名喜守太さんの解説が次のように、紹介されている。
「『先住民族の権利に関する国連宣言』30条では、『先住民族の土地で軍事活動の勝手な使用が禁止されている』として『東アジア共同体構想など多国間による地域の安全保障も考慮されるべき』としている」
沖縄が国際人権規約に掲げられている意味での「先住民族」になり、自決権を回復することは、日本全体の平和に関わることなのだ。「先住民族」とは、植民地にされたために自決権を奪われた民族、つまり人権を奪われた人たちであり、ファースト・ピープルとして尊敬されるべき民族だ。
以下は、「アジぶら」の記事の一節。「沖縄は、どのようにして日米の植民地になったか」という部分。今、沖縄は「日米の植民地」としてある、という認識での要領の良い歴史的解説である。
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中山王の世子(世継ぎ)だった尚巴志が1429年、初めて三山を統一して「琉球国王」となった。江戸時代初め 1609 年 3 月、幕府の了解を得た薩摩藩島津氏が兵3千人と軍船 100 隻で琉球王国に侵攻、1 か月余りで降伏させた。尚寧王と重臣約 100人は薩摩に 2 年間抑留された。以降、琉球王国は明・清の中国とヤマトに両属だった。明治になった 1872 年、琉球処分と称して琉球藩を置き、尚泰王を華族として東京に迎えた。こうして沖縄は日本の一県にされた。
日本は太平洋戦争で連合国に敗れ、米国に占領された。沖縄は 1945 年 6月 23 日までに米軍に占領され、米軍の本土への出撃基地となった。52 年 4月 28 日、サンフランシスコ講和条約3条で「南西諸島(琉球諸島および大東諸島を含む)と南方諸島(小笠原群島、西之島および火山列島を含む)並びに沖の鳥島および南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は……以下略」と書かれている。第二次大戦後アジア・アフリカの植民地は次々に独立した。米国は信託統治制度の下におく提案を国連にしなかった。奄美大島と南方諸島は日本に返したが、沖縄本島以南は返さなかった。米軍にとって沖縄はアジア支配の要だった。信託統治領はいづれ独立するから、米軍は放さなかったのだ。だが沖縄の反基地運動に手を焼いた米軍は、日本に返して、安保条約で自由に使うことを選んだ。沖縄は基地のない平和憲法の日本に帰りたかったのに、自己決定権(以下、自決権)がないまま 72 年に本土復帰した。沖縄は、こうして日米の植民地にされた。
(2023年1月29日)
大寒であるが立春は近い。寒い中で、梅が咲き始めている。この時季は梅祭り準備中の湯島天神がよい。梅は風流でもあるが、なによりも観梅無料が魅力。
とは言え、境内の混雑ぶりに驚かされる。けっして善男善女の梅見の参詣というわけではない。合格祈願・学業成就祈願なのだ。昇殿参拝の順番を待つ人々が長蛇の列を作っている。そして奉納の絵馬の数に圧倒される。「○○大学合格祈願」「孫の△△が、××中学に合格できますように」の類いの庶民の願いが、この社に渦巻いているのだ。
何やら真剣にお祈りしている人がいる。祈願をし絵馬を奉納すれば、願はかなうと本気になって信じているような雰囲気。そんな姿はいじらしくもあるが、一面不気味でもある。
境内で放送が繰り返されている。こう聞こえたのだが、空耳でしかなかったかもしれない。
「合格祈願・学業成就祈願は、けっして神さまが結果を約束するものではございません。万が一不合格となっても、神さまは責任をもちません。祈願の際の奉納金の返還はいたしません。不合格は自己責任とおあきらめいただき、自助努力の上、次の祈願をされ、次の奉納金をお納めください」
「各学校の入学試験合格者には定員の枠があり、合格を祈願する方は定員の何倍もいらっしゃるのですから、天神様と言えども、合格祈願の皆様全員を合格させるのはもとより無理なことでございます。皆様、そんなことは百も承知で、願を掛け奉納金をお納めいただいていることと存じます。もちろん、天神様も、お祈りの効果などを過大に吹聴したりはいたしません」
「もっとも、祈祷料などにランクを付けさせていただいてはおりますが、祈祷料の多寡と合格率との相関関係については、あるともないとも申し上げようはございません。ですから、『高額祈祷料を奉納したのに何の効果もなかった。せめて半額を返せ』などいうクレームは受け付けておりませんので、予めご承知おきください」
「むしろ、当社ではなく、この世の不幸禍は、すべて先祖の因縁によるもので、この因縁を解いて家族の幸福を獲得するためには、何千万円もの高額寄附が必要という、マインドコントロールの宗教もございますので、お気をつけください」
だれもが、気休めとは思いつつ、それでも合格祈願・学業成就祈願に人が押し寄せる。これは宗教だろうか、ビジネスだろうか。はたまた悪徳商法では。庶民の願いや悩みを上手に掬い取った、このビジネスモデルの成功に驚嘆するしかない。
なお、湯島天神の梅の見頃予想は2月中旬以降とのこと。2月8日?3月8日までの「文京梅まつり」の舞台となる。
なお、この神社で祀られている「天神」は、怨霊となって醍醐天皇を殺した王権への反逆神である。民衆は、天皇を呪い殺した天神を崇拝した。これは、興味深い。
右大臣菅原道真は藤原時平らの陰謀によって、謀反の疑いありとされてその地位を追われ大宰府へ流される。左遷された道真は、失意と憤怒のうちにこの地で没する。彼の死後、その怨霊が、陰謀の加担者を次々に襲い殺していくが、興味深いのは最高責任者である天皇(醍醐)を免責しないことである。
道真の祟りを恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、993(正暦4)年には贈正一位左大臣、さらには太政大臣を追贈している。
もっとも、宗教は時の権力に擦り寄って生き抜いてきた。今、ネットで読める社伝には、反逆の影もない。
(2023年1月28日)
仙台高裁の岡口基一判事は、ものを言う裁判官として知られる。ものを言う裁判官は、最高裁当局のお好みではない。そのことを十分に知りつつ、岡口判事はSNSでものを言い続けてきた。最高裁当局の統制に服さない裁判官として、貴重な存在である。
しかし、ものを言い続けることはリスクを背負うことでもある。今、彼は、これ以上はない大きなリスクに直面している。しかも、彼が向き合っているリスクは、司法の独立のリスクでもあり、民主主義のリスクでもあって、とうてい傍観してはおられない。
昨日、岡口判事を被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の判決があった。東京地裁(清野正彦裁判長)は、請求の一部を認容して彼に計44万円の支払いを命じた。
裁判官たる者の民事訴訟での敗訴判決である。不名誉なことではあろう。しかし、裁判官とて訴えられることがあり、その結果として敗訴判決を受けることがあったとしても、けっして騒ぐほどのことではない。問題は、民事訴訟の帰趨にはなく、彼がいま受けている国会議員で構成される弾劾裁判の判決への影響を懸念せざるを得ないということなのだ。その 弾劾裁判 3回目の期日が2月8日に予定されている。
弾劾裁判における訴追事由13件のうち10件は殺人事件被害者遺族に関するもので、昨日の判決もこの殺人事件被害者遺族に関するものであった。このSNS発信が名誉毀損と認定されて民事訴訟に敗訴しても「44万円を支払え」というレベルの負担に過ぎない。ところが、同じSNSが罷免事由にあたると認定されれば、彼の裁判官としての職業生活が断たれる。のみならず、退職金は不支給となり、法曹資格も剥奪される。つまり、弁護士に転職することもできなくなる。表現行為への制裁として、量定の均衡を逸脱した明らかに苛酷に過ぎる措置。弾劾裁判の結論は、「罷免の可否」だけで中間段階の判断はない。これが、この上ないリスクである。
岡口個人について苛酷というだけでなく、裁判官の表現行為や市民的自由を束縛し、私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。司法行政による、全国の裁判官に対する統制も強まることを懸念せざるを得ない。
ところで、昨日の判決、私は判決書きをまだ見ていない。報道されている限りでのことだが、大いに疑問のある判決だと考えざるをえない。この判決は、判例が積み上げた法理に照らして間違っていると思う。民主主義社会に不可欠な表現の自由をないがしろにしているとも思う。担当裁判官が、司法行政当局の意向を忖度してのものと考える余地もある。
この民事訴訟の原告は、東京都江戸川区の女子高校生殺害事件被害者の両親。岡口裁判官の3件の投稿で侮辱されたとして、計165万円の損害賠償を求めた。そのうち2件は請求棄却となったが、残る1件について名誉毀損と認定された。
2019年11月に岡口判事がフェイスブックに投稿した「遺族は俺を非難するようにと、東京高裁事務局及び毎日新聞に洗脳されてしまい」との文言について、判決は「遺族の名誉を毀損し、人格を否定する侮辱的表現」と認定した。さらに、裁判官として「一般のSNS利用者と一線を画する影響力があった」とし、原告である両親に各20万円の慰謝料を認めた。
私は間違った判決として、上級審で覆るとは思うが、仮にこの判決が確定するようなことがあったとしても、それゆえに岡口判事を罷免するようなことがあってはならない。司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。裁判官は、政治権力からも、社会的同調圧力からも、行政府からも、立法府からも独立していなければならない。そのために、裁判官には憲法上の身分保障がある。
にもかかわらず、現実の裁判官は、独立の気概に乏しい。その中にあって、司法行政の統制に服することなく意識的に市民的自由を行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。
そのような貴重な存在としての裁判官として、岡口基一裁判官が目立った存在となっている。明らかに、司法当局の目にも、政権・与党の目にも、目障りな存在となっている。いま、この貴重な裁判官が訴追され、国会の弾劾裁判所にかけられている。その成り行きは、我が国の「司法の独立」の現状を象徴することになる。
けっして、岡口基一判事を罷免させてはならない。
(2023年1月27日)
一昨日(1月25日)午後、稲葉延雄・NHK新会長が就任の記者会見に臨んだ。その一問一答が報道されている。各紙の見出しは、概ね以下のとおり。
NHK・稲葉新会長、政治と適切な「距離」を保つ姿勢強調(毎日)
稲葉新会長 前会長の改革「私の目から検証、見直しを」(朝日)
NHK、稲葉新体制発足「デジタル活用が改革の本丸」(日経)
記者会見は全体にそつのない印象。かつて安倍政権ベッタリの姿勢を隠そうともしなかった籾井勝人などとの同類ではない。だが、前任者前田晃伸と自民党族議員との仲はすこぶる険悪だったという。その前田の再任を阻んでの不自然な「元日銀理事」からの人選。本当にこの人が適任なのか、どうしても疑問を拭えない。
彼が言いたかったのは、冒頭の下記発言で尽きるだろう。
「◆稲葉 前田晃伸前会長がこれまで取り組んできた改革では、業務の効率化を大胆に進めることで、受信料値下げに伴う収入の減少を収支均衡に持っていく道筋におおむねメドをつけていただいた。この先、想定通りに財務の数字が表れてくるかどうか、しっかり見極めながらこの秋の受信料の値下げを実現していきたい。
その上で、私の役割は改革の検証と発展。かなり大胆な改革なので、若干のほころびやマイナス面が生じている部分があるかもしれない。もしそうであれば丁寧に手当てをしながら、ベストな姿に持っていく。特に、人事制度改革については検証・見直しを行っていきたい。ひとりひとりが能力を最大限発揮してもらうために、多様なキャリアパスを示して、安心して職務に専念できる温かみのある人事制度にしたいと考えている」
さて、幾つかの注目すべき発言がある。
――これまでNHKという組織を外からどう見ていたか。
「◆私は日銀時代に経緯があって放送法を勉強するチャンスがあった。放送法第1条には放送の目的として「健全な民主主義の発達に資する」などとうたわれていて、非常に感銘を受けた。そういう組織があるんだというふうにNHKについては受け止めていた」
そつのない発言の典型のようでもあるが、この人、本当に放送法を勉強したのだろうか。やや心もとない。放送法第1条はNHKに関しての規定ではなく、放送一般についてのものだからだ。放送法第1条を引いて、NHKを「そういう組織があるんだ」というのはちょっとヘン。
放送法の第1章「総則」と第2章「放送番組の編集等に関する通則」は、民間放送を含む放送事業一般についての規定で、第3章「日本放送協会」で初めてNHKが出て来る。彼が「感銘を受けた」という「健全な民主主義の発達に資する」ことを理念とする組織は、NHKに限らないのだ。
――政権との距離について。会長選出時に多くの社が岸田文雄首相側の意向が働いたと報じていた。選出前に、実際首相側から打診が何かあったか。
「◆私にそういう動きがあったかということか? それはない」
「それはない」は、あまりに素っ気ない。では、いつころ、誰から、どのように「日銀出身者」に打診があったというのか、知りたいところ。本当に、首相側から打診がなかったとは、にわかに信じがたい。
――NHKにはこれまでも政治的圧力があったと指摘されている事例がたくさんある。会長として政権と今後どう向き合うのか。
「◆NHKは放送法に基づいて運営されている。放送法では自主自律・公平公正な立場を堅持して、何人からも干渉されない対応をしていくべきものだとうたわれているし、そのように行動すべきだと思っている。報道機関として自主的な編集判断に基づいて、不偏不党の立場から報道している。できるだけ真実を掘り下げて、見つけ出す努力をすることは不可欠。それでも真実が見つからない場合には、多様な見方を等しく取り上げてお伝えする。そういう姿勢を維持していけば、結果として不偏不党の報道姿勢になると思っている」
これは、まことに微妙な言い回しである。端的に、「NHKが政治的圧力に屈することはない」とも、「会長として、政権からの干渉を拒否する姿勢で向き合う」とも言わない。「放送法がある以上、不偏不党の立場から報道しているはず。今のままで、結果として不偏不党の報道姿勢になると思っている」と、まことに頼りない。ほんとに大丈夫なのだろうか。この人。
なお、記者からの発問にある「会長選出時に多くの社が岸田文雄首相側の意向が働いたと報じていた」。その内の一つを再録しておきたい。
昨年12月7日配信の「東洋経済オンライン」の抜粋である。
「NHKの経営委員会は12月5日、2023年1月24日で任期満了となる前田晃伸会長(77)の後任として、日本銀行元理事の稲葉延雄氏(72)の任命を決めた。同日、稲葉氏は「突然のご指名で大変驚いておりますが、できるだけ早く実情を把握し、公共放送の使命にふさわしい仕事をしていきたい」とのコメントを出した。
事情に詳しいNHK関係者によれば、直前まで別の人物が最終候補として挙がっていた。前田晃伸会長の出身母体であるみずほフィナンシャルグループと親密で、個人的にも親交のある大手総合商社の元会長だった。「商社で社長や会長を歴任し、経済界のみならず幅広い人脈と知見を持っていた点が評価された」(NHK関係者)とされ、別のNHK関係者は「本人もやる気だったようだ」という。
だが、次期会長人事が表面化すると、官邸や自民党から横やりが入る。総務省関係者によれば、総務大臣経験者をはじめとする自民党の総務族が、この人選に「ノー」を突きつけた。理由は「前田会長に近い人物だったから」(総務省関係者)というものだった。
そして、声がかかったのが稲葉氏だった。打診があったのは12月最初の週末。12月6日の会見で稲葉氏が「迷っている暇なく(任命の)昨日が来た」と口にしたのもそのためだ。関係者の間では「“前田憎し”の官邸や自民党は、前田会長との距離が近いことを理由に(商社元会長の人選を)認めず、経営委員会に稲葉氏を推薦した」との見方がもっぱらだ。
そもそも前田会長と官邸、そして自民党との間には、埋めがたい溝があった。NHKの経営委員会の委員は衆参両院の同意を経て任命され、業務執行の責任者であるNHK会長はその経営委員らが決めている。NHKに関する重要な施策は総務省や政治の意向を仰ぐのが不文律でもある。
だが、前田会長のやり方は違った。2020年1月の就任後、「スリムで強靱な新しいNHK」をテーマに管理職の3割削減や、職員の昇進や昇格プロセスに関する人事制度改革に着手。その目的や経緯について官邸や自民党などに説明することなく進めたため“不評”を買った」
すべては、公共放送NHKにおける権力からの独立性欠如の結果なのだ。新会長、果たして、この重い課題に取り組む意欲有りや無しや。
(2023年1月26日)
森喜朗とは、元ラグビー選手であり、元首相である。元ラグビー選手にふさわしくいかにも身体は重そうだが、元首相だけにいかにも口は軽い。口の軽さは、特に責められるべきことではない。なにせ、誰にも言論の自由は保障されている。それにしても、「元首相」とは、こんな程度のものなのだ。
昨日、森は東京都内のホテルで開かれた「日印協会」の会合に出席して、こんなことを口走ったという。
「こんなにウクライナに力を入れてしまって良いのか。ロシアが負けることは、まず考えられない」「せっかく積み立てて、ここまで来ている」
ウクライナに肩入れが過ぎれば、これまで構築してきた日ロ関係が崩壊しかねないとの認識を示したものという。
昨年の11月18日にも、よく似た発言があった。このときは、維新の鈴木宗男(参院議員)のパーティーでのあいさつだった。内容は、以下のとおりのゼレンスキー批判である。
「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」「戦争には勝ちか、負けかのどちらかがある。このままやっていけば(ロシアが)核を使うことになるかもしれない。プーチン氏にもメンツがある」「(岸田政権は)米国一辺倒になってしまった」
このときは、鈴木宗男も口を揃えて「ロシアが悪く、ウクライナが善だというのは公平ではない。先に手を出したのが悪いが、原因を作った者にも一抹の責任がある」と言っている。
森の失言で有名なのは、例の「神の国」発言。首相を務めてい2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会においてのことである。
「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た」
現職の首相がこう言ったのだ。この人の頭の中には「国民主権」も「政教分離」も「日本国憲法」もない。神なる天皇がしろしめす大日本帝国憲法があるのみ。
21年2月には、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長だった森は、日本オリンピック委員会(JOC)の評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と述べ、会長辞任に追い込まれた。
こういう「失言」前科を持つ森に対して、ネット上最も多く飛びかった呟きの内容は、「これが元首相の発言なのか。恥ずかしい」というもの。「怪しからん」「愚かな」という森非難ではなく、「失言」を聞かせられる側が「恥ずかしい」というのだ。どうしてなのだろうか。
日本国民は、こんな人物を首相にしてしまった。仮にも民主主義を標榜する国の首相である。間接的にもせよ、国民が我が国の政治上のトップリーダーとして選んだのだ。自分は投票したのではないとは言え、こんな人物を首相にしてしまう政治風土に無責であるはずはない。このことが「恥ずかしい」。
他国の民衆に対しても、過去の国民に対しても、そして自分自身に対しても、「身体は重そうだが、口は軽い」こんな程度の人物を首相にしてしまった、このあるまじきことことが、国民の一人として恥ずかしいのだ。
思い起こせば、安倍晋三・菅義偉官・麻生太郎・野田佳彦・小泉純一郎等々が皆、こんな程度の人物を首相にしてしまったことで、日本国民は慚愧に堪えないのだ。
首相経験者諸氏よ、口の軽さは特に責められるべきことではない。誰にも言論の自由は保障されている。ではあるがその軽口の罪はけっして軽くはない。なにせ、我々が選んだ「元首相」とは、こんな程度のものだったのかという強い自責の念を国民に強いることになるのだから。
(2023年1月25日)
立法・行政・司法、各部門のトップを「三権の長」と呼ぶ。立法府である衆院と参院に上下関係はないから、「三権の長」とされる人物は4人いることになる。勘違いしてはならない。 「三権の長」 だからエラいわけではない。責任が重いということなのだ。行政と司法の長は天皇からの任命というバカげた手続を経ることになるが、衆参両院の議長は言わば主権者国民による任命。その地位はもっと重んじられてしかるべきである。
ところがいま、衆院議長となっている細田博之の、その地位にふさわしからぬ疑惑が公然たる話題となっている。セクハラ疑惑、公選法違反(運動員買収)疑惑、そして統一教会との癒着疑惑である。もちろん、「火のないところに煙は立たない」は必ずしも真ではない。しかし、報じられているところの具体性や細田の対応を見る限りでは、いずれの疑惑も限りなくクロに近い。
どの疑惑についても、「重んじられるべき地位にある人に対しては、その地位にふさわしい敬意があるべきで、単刀直入の追及は控えるべき」だというのは、どこかの国の倒錯した論理。民主主義を標榜する社会では、重要な立場にある人ほど徹底した疑惑の解明が必要である。
安倍晋三に近い立場にあった細田博之の統一教会癒着疑惑である。2019年10月教団トップの韓鶴子総裁が出席した名古屋での関連団体イベントでは、満面の笑みでお世辞をたれて「きょうの盛会、会の内容を安倍首相に早速報告したい」と述べてもいた。
この衆院議長と統一教会との癒着の実態解明は、既に国民の一大関心事となっている。にもかかわらず、細田はこれを明らかにすることを拒み続けてきた。逃げおおせると思ってきたようである。脛に傷持つ自民党も隠し通したい。逃走の幇助を続けてきた。
「昨年9月に自民党が公表した党所属国会議員と教団との接点調査については、自民党員でありながら、議長就任に伴って国会の自民会派を抜けていることを理由に調査対象外となった」と報じられている。細田の説明責任をめぐり、自民党総裁としての対応を問われた岸田文雄は「三権の長に、総裁が何か指示や働きかけをするのは三権分立の考え方からしても問題を含む」とした経緯もあるという。細田自身も「衆院議長」の立場を「隠れみの」として、説明はしない姿勢。ご冗談は、ほどほどに。
これまで細田は、統一教会との関係として、「集会参加8回と会合への祝電3件」だけは認めてきた。が、本当にそれだけか。その具体的な関わりの内容についての説明は頑なに拒んできた。疑惑を追及する側は、国会で質問に答えよ、少なくとも記者会見で記者の質問に答えよ、と要求してきた。
その綱引きにおける暫定措置として、昨日、細田は議長公邸で衆院議院運営委員会の6会派代表による「懇談」形式の質疑に応じ、統一教会と自身の関係について語った。質疑は約1時間、冒頭の写真撮影を除き非公開で行われた。非公開だから、彼が何をどう語ったのか、よく分からない。これを知る手段としては、出席した衆院議運の委員がそれぞれに記憶を述べた内容をつなぎ合わせる以外に、方法はない。
こうして、「細田博之、かく語りき」とされる幾つかの内容が報道されている。例えば、次のような内容。
「教団との関係は、何をどうしてくれだとかそういう要望はなかった。淡々としたもので、具体的な要望はなく、やましいような付き合いではなかった」
「議長就任前も後も支援の見返りに政策をゆがめることは決してありません」
「自民党清和会(現安倍派・当時細田派)会長だった2016年の参院選で、教団票を差配したとの指摘があるが、思い当たる事実はない」
「安倍と教団との関係の近さについて実感はしていたが、誰から聞いたということではない」
「教団と安倍氏は、大昔から関係が深い。こちら(自分)は最近だ」
「これまで公表している以上の接点はない」
「呼ばれた会合には行ったが、具体的な要望はなかった」
「19年の関連団体イベントで、『きょうの盛会、会の内容を安倍首相に早速報告したい』と述べたのは、安倍氏と近い団体と知っていたのでリップサービスで言った。実際は報告していない」
共産党の塩川鉄也は「反社会的団体である旧統一教会にお墨付きを与えたことへの反省」をただしたが、細田からの直接の答えはなかったという。
各会派の質問は、事前に細田に通告されていた。「質疑」というよりは、「弁明の機会を与えただけ」という印象。「懇談」終了後、細田は今後も記者会見はしない考えを示し、自民党もこれでおしまい、という態度。維新が自民を支持している。
疑惑はさらに深まった。とうてい、これで幕引きとしてはならない。国権の最高機関とされる議会の、それも衆院の議長の疑惑である。密室の「懇談」で、不透明のままお茶を濁して終わりとすることができようはずはない。
細田博之よ、公の場で堂々と語れ。説明責任を果たせ。記者の質問にも誠実に応えよ。逃げおおせると思うな。このままでは国民が納得しない。こんな情けない議長のもとでの国会の審議には信が措けない。民主主義の権威に傷が付くばかりではないか。
(2023年1月24日)
昨日、第211通常国会の開幕となった。今朝の新聞で、岸田首相による施政方針演説に目を通して、その大上段ぶりに驚いた。この人、こんな人だったかしら? それだけではない。言ってることがどうもおかしい。大丈夫だろうか、この人。
冒頭こう言っている。この人の日本語、なんだかおかしい。
「政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです」
そうではない、こう言わねばならない。
「政治とは、国会の場に集まった国民の代表が慎重な議論と検討を積み重ねて方針を決断し、その決断された方針を政府が実行に移す、そうした営みです」
これが、三権分立の立場である。こうでなくては、憲法によって国権の最高機関とされている国会の立場を貶めることになる。
「私は、多くの皆さまのご協力の下、さまざまな議論を通じて、慎重の上にも慎重を期して検討し、それに基づいて決断した政府の方針や、決断を形にした予算案・法律案について、この国会の場において、国民の前で正々堂々議論をし、実行に移してまいります」
岸田君、頭が高い。これでは、勝手に閣議で決めた政府方針を正々堂々貫くぞという国会軽視宣言ではないか。行政府が立法府に持つべき謙抑性や謙虚さのカケラもない。民主主義というものへの理解に欠けるのではないか。
岸田文雄、どうやら舞い上がってしまっているようだ。すべては、もう自分が決めた。あとは、国会での「議論」が残っているが、正々堂々と受けて立とうではないかと息巻いている。国会での議論によって、内閣の「決断」の変更はないという大上段。
「外交には、裏付けとなる防衛力が必要です。戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に対峙していく中で、極めて現実的なシミュレーションを行った上で、十分な守りを再構築していくための防衛力の抜本的強化を具体化しました」
「5年間で43兆円の防衛予算を確保し、相手に攻撃を思いとどまらせるための反撃能力の保有、南西地域の防衛体制の抜本強化、サイバー・宇宙など新領域への対応、装備の維持や弾薬の充実、海上保安庁と自衛隊の連携強化、防衛産業の基盤強化や装備移転の支援、研究開発成果の安全保障分野での積極的活用などを進めてまいります」
「こうした取り組みのためには、2027年度以降、裏付けとなる毎年度4兆円の新たな安定財源が追加的に必要となります。行財政改革の努力を最大限行った上で、それでも足りない約4分の1については、将来世代に先送りすることなく、27年度に向けて、今を生きるわれわれが、将来世代への責任として対応してまいります」
この人、自民党内のハト派と言われていなかったっけ? ハトのぬいぐるみを脱ぎ捨てたら、タカの正体が現れたという変身ぶり。これまでは、「聞く力」を特技としていたはずだが、「意見を聞いて決めた後は『聞かない力』を発揮する」と開き直っているという。そこのけそこのけキシダが通るという、エライ鼻息。
「今回の決断は、日本の安全保障政策の大転換ですが、憲法、国際法の範囲内で行うものであり、非核三原則や専守防衛の堅持、平和国家としてのわが国としての歩みを、いささかも変えるものではないということを改めて明確に申し上げたいと思います」
確かに、日本の安全保障政策の大転換だ。憲法、国際法遵守の姿勢を危うくし、非核三原則や専守防衛は投げ捨てて、平和国家としてのわが国の歩みを根本的に変更してしまうものではないか。さらに、演説では「廃炉となる原発の次世代革新炉への建て替えや、原発の運転期間の一定期間の延長を進める」と宣言もした。ほかにも「決断を実行に移す」と肩に力が入り過ぎ。
かれは、演説で「『検討』も『決断』も『議論』も、全て重要であり必要だ。それらに等しく全力で取り組むことで、信頼と共感の政治を本年も進めていく」と語った。しかし、「等しく全力で取り組む」印象からはほど遠い。「『検討』と『決断』はもう終わった。事後報告としての『議論』が残ってはいるが、『決断』は変えない」としか、聞こえない。
この姿勢では、「国民の信頼と共感」は得られない。岸田内閣の支持率低迷はむべなるかな、と言うほかはない。
(2023年1月23日)
目出度くもない今年の正月だった。目出度いと言った人も、もう正月気分ではない。が、今年の正月のビックリ体験を書き留めておかねばならない。
宗教紙というべきか政治紙というべきかは微妙だが「神社新報」という出版物がある。その本年1月1日号の「杜に想ふ」というコラムを、山谷えり子が書いている。「参議院議員、神道政治連盟国会議員懇談会副幹事長」という肩書が付いている。その書き出しを引用させていただく。なんともアナクロ極まる、右翼文章の典型。無意味、無内容、無味乾燥というほかはない。
「皇紀二千六百八十三年、令和五年、謹んで新春のお慶びを申し上げます。新年を迎へるにあたり、皇室の弥栄と天下泰平、国土安穏、聖寿無窮、万民豊楽を祈念いたします。
癸卯の本年は、これまでの努力が花開き、実り始める年と言はれてゐる。とくに、筋を通していけば繁栄していく年回りとされる。国際情勢は厳しく、物価上昇による家計への影響など不安も長引いてゐる中だからこそ一日も早く日々の暮らしが穏やかな希望の光に満ちた年となるやう願ひ、行動していきたい。
それにしても、初詣の皆さまのお顔に接すると、長く紡がれてきた歴史、文化、地域のつながりの確かさを感じ、新たな決意を固くするのは私だけではないと思ふ。国民こぞって神社で心を清め、力をいただく、日本に生まれたありがたさである。(以下略)」
えっ? 「皇紀二千六百八十三年、皇室の弥栄」ですか? 「聖寿無窮を祈念」ですって? 目も眩むようなことをのたまう国会議員、いったいあなたはいつの時代の御仁なのか。
山谷えり子といえば、国家公安委員長の経歴を持ちながら、統一教会との特別の親密さで知られた人物である。そのような立場で、神社新報の元日号に伝統右翼としてコラムを書くのだ。「世界日報」のインタビューで話題となった人の、神社新報元日号のコラム。
一方では、韓国の民族意識を基調とする統一教会信仰と緊密な関係を持ちつつ、神社神道にも秋波を送り、「日本に生まれたありがたさ」を語る。また、国民の福利ではなく真っ先に「皇室の弥栄」を述べる感性の持ち主でもある。この人の精神や頭脳は、いったいどんな構造となっているのだろう。
もちろん、人には信教の自由がある、二股掛けた信仰だって咎めることはできない。「国民生活よりも皇室の弥栄が重要」という政治信条も結構だ。しかし、政治家には選挙人に対して、自分が何者であるかを説明する責任がある。隠してはならない。ウソをついてはならない。
ところがこの人、統一教会から、重点候補として選挙運動の支援を受けてきたことを、一貫して否定し隠してきたことで有名になっている。
おそらくは、この人の主たる票田は「皇紀二千六百八十三年・皇室の弥栄・聖寿無窮」などと言ってみせれば喜ぶ種類の人たちなのだろう。しかし、それでは票数が足りない。当選ラインに達するには、統一教会票が喉から手の出るほどに欲しい。 統一教会 運動員の支援も欲しい。さりとて、あからさまに韓国ナショナリズムに身を擦り寄せれば、皇国ナショナリズムに抵触することになる。だから、統一教会票を取り込んでいること、統一教会から選挙運動支援を受けていることは、大っぴらには語れないのだろう。
安倍晋三銃撃事件の後はなおさらである。これまでも隠してきたのだ。今後も隠し続けることができる、とお考えのようだ。
ところで、統一教会信仰者にも、真面目な人は多かろう。こんな二股の山谷えり子を支持し、応援することができるだろうか。
(2023年1月22日)
スラップとは、自分に対する批判の言動を嫌って、これを牽制し萎縮させる目的で提起する民事訴訟を言う。侵害された自分の権利を回復しようという提訴ではなく、提訴自体で被告やその周辺に対する言動の萎縮効果を狙うものとして、ダーティーなイメージ甚だしい。
そのスラップを多発する常習者と言われる者がいる。かつては武富士、つい先日まではDHC・吉田嘉明、そして今は統一教会など。それぞれにスラップ専門弁護士が付いている。その責任は、弁護士という職責に照らして重大である。
スラップの本場はアメリカだったが、スラップの猛威を食い止めるために、アメリカの各州に反スラップ法が制定された。そのため、アメリカではスラップは過去のものかという印象があった。が、必ずしもそうではないようだ。やはり、うさんくさい人物がスラップの常習者となっている。その典型人物が、懲りずに再度の大統領の座を狙っているドナルド・トランプ。彼にとって、スラップは麻薬のごとき、妖しい魅力があるもののごとくである。
そのトランプが、フロリダの地方裁判所から、スラップ提起を理由に、1億円超の支払いを命じられたという。一昨日(1月19日)のこと。トランプとスラップ、なるほどイメージがよく似合う。それにしても、1億円である。日本とはケタが違う。
「トランプ氏は訴訟乱用 フロリダ地裁が1億円超支払い命令」(共同)、「訴訟は『政治目的の乱用』 1億円超の支払い命じられ」(朝日デジタル)、などと報じられている。
問題のスラップは、トランプが2022年3月にフロリダ州の連邦地裁に提起したもの。「16年の大統領選で、自分の陣営がロシアと共謀したという虚偽情報を広げた」などと主張し、その大統領選を争ったヒラリー・クリントンや、ロシアの動きについての捜査を指揮したコミー元連邦捜査局(FBI)長官らを被告としたもの。裁判所は、わずか半年後の同年9月トランプの請求を退けた。
おそらくは、その後に反スラップ法に基づく審理が進行したものと思われる。4か月で裁判所は、トランプと代理人となった弁護士らに、賠償を命じた。その迅速さに驚かざるを得ない。
朝日デジタルはこう伝えている。
「19日の決定で、裁判所は『訴訟は、最初から提起されるべきではなかった。常識的な弁護士なら提訴しなかった。(提訴は)政治目的であり、訴状には理解できる法的主張が一つもない』と指摘。また、『トランプ氏とその弁護士たちによる裁判の乱用は、法の支配を損なう』と厳しく批判した」
共同は、判決の説示を「理性的な弁護士であれば提訴することはなかった」と伝えている。その上で支払いを命じられた賠償額は、「約93万8000ドル(約1億2000万円)だという。この金額の根拠はよく分からないが、この金額なら、十分に応訴費用をまかない、さらに抑止効果も期待できよう。「トランプ氏はこれまでも、他の政治家やメディアを相手に訴訟を乱発してきたが、こうした行動に影響を与える可能性もある」と報道されている。
なお、私(澤藤)の、DHC・吉田嘉明に対する、(スラップ被害の)損害賠償請求での認容額は、165万円に過ぎなかった。これでは、訴訟費用実額にも足りない。予防効果も十分ではない。
報道は、いずれも短い記事で十分には分からない点が多い。フロリダ州の反スラップ法の内容もよく知らないし、それが、本事件でどう機能したか、よく知りたいところである。
それでも、注目に値するいくつもの点を指摘できる。
まず、裁判所の判断の迅速性に驚かされる。
トランプ側の提訴が2022年3月、これを裁判所が「退けた」のが同年9月。そして、トランプ側に100万ドルに近い支払いを命じたのが、今年の1月19日。おそらくは、通常の訴訟手続ではない。反スラップ法あればこその迅速な審理なのだろう。この迅速性は、スラップがもたらす社会の言論の萎縮効果を減殺するために、不可欠というべきであろう。
次いで、トランプだけでなく担当弁護士にも賠償が命じられていることに注目せざるを得ない。
これが、反スラップ法による効果なのか、一般法での共同不法行為なのか、興味を惹くところ。いずれにせよ、弁護士の専門家としての倫理に反した行為の責任は重い。
そして、1億円を超える賠償金額である。
おそらくは、懲罰的損害賠償が働いているのだ。日本ではこの高額賠償は、考えられないが、このような高額判決あってこそ、表現の自由が守られることになる。
さらに、「トランプ氏とその弁護士たちによる裁判の乱用は、法の支配を損なう」という地裁の決定が興味深い。
日本の最高裁判決では、「裁判を受ける権利」(憲法32条)の濫用論での違法性認定にとどまる。これに比較して、「法の支配を損なう」は、最大級の違法非難ではないか。
日本にも反スラップ法が欲しい。喉から手が出るほどに欲しい。