澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

卒業式は、日の丸掲揚・君が代斉唱儀式ではない。

本日(3月31日)は、「日の丸・君が代」強制に抵抗する諸運動体による、恒例の「卒業式総括集会」だった。

悪名高い「10・23通達」が発せられて以来、17度目の憂鬱な春である。本来胸おどる卒業式・入学式の希望の季節が、日の丸・君が代強制と思想弾圧の季節と化して17星霜を数える。

当初は、極右の知事石原慎太郎の特異なキャラクター故の暴走と考え、この知事さえ交替すればと思っていたのが甘かった。石原後継の知事も、保守の中では良識派と見えたその次の知事も、そして、ダイバーシティを口にする自分ファースト現知事もこの異様な事態をなんとも考えてはいないのだ。精神の自由についても、教育が権力の支配に服してはならないとする基本理念にも、なんの関心もない。歴代の凡庸なお飾り教育委員たちも同様なのだ。

そうこうしているうちに、安倍晋三が国政に君臨するようになった。こういう歴史修正主義者であり復古主義者でもあり、憲法に敵意を剥き出しにする輩を国政のトップに押し上げる勢力が幅を利かせる時代なのだ。次第に、日の丸・君が代を強制している、われわれが闘う相手の大きさが見えてきた。

日の丸・君が代強制勢力にとっは、大きな抵抗にぶつかって、思うようにはその思惑の進捗はない。しかし抵抗するわれわれも、日の丸・君が代強制を阻止し得ていない。事態が膠着した状況で17年目の春を迎えている。

本日の集会での現場からの報告によれば、今年の都立校の卒業式はコロナ対応に追われたものだったという。それでも、知事と教委は、「国歌斉唱」の実行にこだわった。

2月26日に、各校長に対して、「新型コロナウィルス感染症に関する学校における対応について(通知)」が教育長名で出された。以下のとおり、卒業式に関しては、「参列者の制限及び時間短縮」が述べられている。

1 令和元年度卒業式の実施
(1)参列者の制限及び時間短縮
 ア 参列者の制限
   附属中学校、中等教育学校及び高等学校においては、保護者及び来賓は参加せず、教職員、卒業生及び式に関係する在校生とする。
   特別支援学校においては、来賓は参加せず、教職員、卒業生及び関係する在校生並びに介助を必要とする児童生徒等の保護者とする。
 イ 時間の短
   知事メッセージと都教育委員会挨拶は校内に掲示するとともに、卒業生に配布する。なお、卒業式の挨拶業務に係る都教育委員会からの派遣は行わない。
   祝電は掲示のみとし、祝電の披露は行わない。

翌27日には、都教委から各校に卒業式の式次第からカットする項目の例示がメールで送信され、各校では都教委からの指示に基づき、式次第の手直しがされた。

更に28日、都教委は「更なる感染防止拡大」のため卒業式は「参列者の制限や時間の短縮により実施」とする「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応(第49報)」を発表するとともに、「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施」に関わって、同日立て続けに二つの事務連絡を各学校長宛に出した。

この経過と「二つの事務連絡」については、下記の当ブログを参照されたい。

生徒たちへのコロナ感染防御よりも、「日の丸・君が代」強行が大切なのか。
https://article9.jp/wordpress/?p=14522(2020年3月19日)

国旗を「式典会場内掲揚せず」や国歌「斉唱せずメロディも流さず」を不適切な状況として取り扱わない」とした「事務連絡?」と、「都立高校における国旗国歌の取り扱いについては『国旗掲揚の下に、体育館で実施する。』『国歌斉唱を行う。』という方針に変更ありません。」という「事務連絡?」は明らかに矛盾している。コロナ対応に追われる中で、都教委の職員の間に認識の違いや混乱があったことは間違いない。

このような都教委の指示によって、都立高校では様々な式次第で卒業式が実施された。
保護者代表謝辞、都教委挨拶、祝電披露は全ての学校でカットされた。
校歌斉唱、卒業生代表答辞、在校生代表送辞、式歌(卒業の歌)斉唱については、各学校の判断に任された。
結局、?国歌斉唱、?校長式辞、?卒業証書授与だけは、カットを許されず、この3点のみに縮小して式を実施した学校が多くあった。中には、卒業証書授与の際の呼名までカットした学校もあった。

 コロナ対策としての飛沫感染防止を目的に校歌や式歌をカットしながら、国歌だけは斉唱するという異様な式が行われた。今年の卒業式は、生徒や教職員の命や健康よりも国旗掲揚や国歌斉唱を優先する都教委の異常さを浮き彫りにした。

卒業式は、国旗を掲揚したり国歌を斉唱したりするために行われるわけではない。生徒のための卒業式を取り戻すために、「10・23通達」を撤回させる取り組みを今後もあきらめず続けていかなければならない。そのような決意を新たにした集会だった。
(2020年3月31日)

「この低劣な品性に命を預けられるか」 ー 赤木俊夫さんの死に対する責任の問い方

昨日(3月29日)付毎日新聞の「声」欄に掲載された短文の投書に目を惹かれた。
「自民党支持の皆さんへ」という表題。投書者は、広島の年金生活者、75才の男性である。

 森友学園への国有地売却に関する財務省の決裁文書を巡り、改ざんを強いられて2018年3月に自殺した近畿財務局の男性職員。「僕の契約相手は国民」が口癖だったというこの人の「遺書」を読み、キャリア官僚の傍若無人さに怒りを覚え、筆を執りました。

 この投稿者の文体は常連のものではない。自殺した近畿財務局の男性職員の手記に心を打たれ、この人を死に追いやった者の傍若無人さに怒りを抑えきれずに、投書したのだ。

 改ざんの詳しい経緯をつづった男性職員の手記が公表されても、安倍晋三首相と麻生太郎財務相は「再調査は必要なし」との姿勢です。自民党の国会議員と自民党を支持する皆さんにうかがいます。これでよいと思っていますか。

 投書者の怒りは、男性職員を死に追いやった最高責任者に向けられている。この期に及んで、「再調査は必要なし」というその姿勢のこの二人が元兇、この二人こそ糾弾すべき真の対象である。しかし、投書の呼びかけは、この元兇の二人ではなく、この二人を政治的に支えている「自民党の国会議員と自民党を支持する皆さん」に向けてなされている。

 男性職員の奥さんがコメントした通り、2人は「調査される側」であり、再調査は不要と発言する立場にはありません。また、改ざん問題で処分を受けた当時の財務省幹部はそれぞれ駐英公使や横浜税関長などになったとのこと。国民をばかにしていると思いませんか。今の不条理な政治を変えられるのは自民党支持者しかいないと思います。議員の方は正義感を発揮してください。

 投書者は、安倍・麻生への怒りを抑えて、静かに自民党支持者に問いかける。決して、その責任を追及する口調ではない。飽くまでも、問いかけである。良識や理性をもつ人間にとって否定しようのない問をもっての訴えである。

この投書者は、心の底から、「今の不条理な政治を変えられるのは自民党支持者しかいない」と思っているのだ。それは、裏返せば、「今の不条理な政治をもたらした責任は、安倍や麻生を支持したあなた方にある」ともなるが、直截にそうは言わない。

問題点を的確に指摘して、穏やかに語りかけること。実は、このような姿勢が、人を説得し、政治を転換するために最も有効なのかもしない。この投書者の、冷静さ、穏やかさ、礼儀正しさを学びたい。

同日の「松尾貴史のちょっと違和感」が同じ問題をテーマに取りあげている。こちらは、直截で歯切れがよい。タイトルが「職員自死の質疑中ニヤニヤ私語 この品性に命預けられるか」というもの。松尾貴史も、安倍・麻生に心底憤っている。以下は、その抜粋である。

 自身の発した「私や私の妻が関わっていたのであれば総理大臣も国会議員も辞める」という言葉が引き金になって、改ざんや隠蔽を強いられた近畿財務局職員の赤木俊夫さんが自死を選ばざるを得ないと思ってしまったことに、ひとかけらの罪の意識も感じない安倍晋三総理大臣や、組織のトップである麻生太郎財務大臣の、あれこれ言い訳を作って面会や墓参から逃げる様を見て、「こんなひきょう者たちに生命と生活を預けなければならない」という憤りは、日に日に高まり募る一方だ。

 赤木さんの死に関する質問をされているときに、当の安倍氏はニヤニヤ笑いながら麻生氏と私語を交わしていたのが、彼の人柄、品性を象徴的に表している。

 世界の危機が訪れている今、国民の命を守らなければならない立場に、こんな不誠実な人物を据えていていいはずがない。国民には休校や卒業式の中止をさせている中、自分は自民党総裁としてではなく、内閣総理大臣として防衛大学校の卒業式に出席し、祝辞に憲法改定の意欲を盛り込むという憲法99条違反の越権行為をする。もういいかげんに彼を辞めさせなければならない。

 まったく同感であって、付言することもない。真っ当な政治の要諦は、国民からの信頼にこそある。自分に深く関わるこの件で、一人の官僚が自ら死を遂げたのだ。その死に関わる質問の場で、「ニヤニヤ笑いながら麻生氏と私語を交わし」ていたという。こういう政治指導者の品性の低劣は許しておけない。もういいかげんに彼を辞めさせなければならない。もちろん、その通りなのだ。

先に引用した投書子のように、穏やかに自民党支持者に問いかける姿勢も学びたいし、松尾貴史のように、安倍・麻生本人にストレートな手痛い批判をする、その切れ味も学びたい。心して、二兎を追うこととしよう。
(2020年3月30日)

桜の受難、安倍と小池とコロナと雪と。

驚いた。花の盛りを過ぎて、東京に雪である。ソメイヨシノは散り始めてはいるが、まだ見頃といってよい。その花に、ぼた雪である。花のついたままの枝折れもあったろう。今年の桜は御難だ。

月に叢雲、花に風。のどかなはずの春にコロナの災厄。これに、時ならぬ雪までが桜をいじめた。新宿御苑の桜にも、上野の桜にも罪はない。罪はもっぱら、安倍晋三と小池百合子にある。責められる桜が哀れではないか。

東京でのコロナ蔓延急浮上の原因の一つに、先週彼岸の連休での人出が数えられている。とりわけ、上野の花見が目の仇だ。こうなると、桜の味方をしたくなる。花見は屋外でのものだ。密閉された空間ではない。今年の上野では、しゃべったり歌ったりもない。酒宴もなく、ごった返すほどの人混みもない。そんなささやかな花見の楽しみ、なんぞ非難さるべきや。

ところが、目立ちたがり屋の無風流都知事は、自分の力を誇示したい。上野公園の桜通りを封鎖するという。えっ? ほぼ毎日散歩している私に相談もなく? いったい何故、小池百合子が上野の桜を封鎖するなんてことができるのか私には理解し難いが、こちらの力は足りない。争う手段もなさそうだ。せめて、その封鎖の場面を見届けようと散歩がてら現場に赴いた。

一昨日(3月27日)、午後3時。ロープがめぐらされ、立ち入り禁止の札が貼られた。30分近くかかって、桜通りから人影が消えた。そうして、なんとも景色がすっかり変わった。花だけではない、人がいてこその上野の春の景色なのだ。通行人がいない見頃の桜だけの景色は不気味以外のなにものでもない。

上野東照宮のヤマザクラや、輪王寺の名物・御車返しの見事な満開の様を堪能して元に戻ると、テレビのレポーターが、封鎖の場所で何やらしゃべっていた。そして、「この封鎖をどう思いますか」と聞いてきた。

 「行政が何をするにも、権力をふりかざしてうまく行くはずはない。市民の納得を得る工夫と努力が必要だ。この封鎖が必要な根拠と理由を丁寧に説明しなければならないのに、そんなことにはお構いなし。こういう、小池百合子のやり方は都民の一人として不愉快だ」。妻が、少しマイルドに付け加えた。「私たち近所ですから、ほぼ毎日散歩しているんです。楽しみにしてきた桜の開花時期はとても短いので、この封鎖はとても残念です。せっかく咲いた桜も見てもらえなくて、とてもかわいそう」

レポーターは、「それをカメラの前でしゃべってくれませんか。『せっかく咲いた桜がかわいそう』というのが胸に刺さります」。桜と封鎖された無人の通りを背景に妻がしゃべった。「去年は、新宿御苑の桜。今年は、上野の桜。罪のない桜が、安倍や小池に罪を着せられてかわいそう」というトーンでのコメント。さて、放送になったかどうか、うちにはテレビがないから分からない。

  憂かりける人を みやこのコロナ風
       はげしかれとは いのらぬものを

(2020年3月29日)

当世恐ろしきもの ー 地震・原発・アベ・コロナ

今も昔も、恐いものの筆頭は地震である。動かぬはずの大地の揺らぎほど恐ろしいものはない。3・11のあの衝撃と傷痕が癒えない今、必ず起こるという次の大地震はひたすらに恐い。

次が原発である。安全神話が脆くも崩壊して以来、観念的な原発事故の脅威とそれに伴う放射線被害の恐怖は、リアルな肌感覚に染みこんでいる。戦後保守政権は放射性廃棄物処理方法を確立しないままに原発稼働を開始し、いまだに状況変わらぬままに再稼働だという。地震は天災であるが、原発は明らかに人災。恐いだけでなく、腹だたしい。

さらに恐るべきは、アベ政治である。苛政は虎よりも猛しという。アベ政権の国政私物化と、嘘とごまかしの政治手法はことさらに恐い。真の恐怖は、こんな政権を支持する勢力が幅を利かせ、こんな政治手法に国民が甘んじていることにある。日本の民主主義は、いったいどこに行ったのだ。

そこにコロナ禍の登場である。誰も免疫をもっていない感染症なのだから当然に恐い。しかし、コロナの真の恐さは、アベ政治によって増幅されているところにある。本来国家的難局に対処するときには、リーダーの誠実さや正直さが鍵となる。アベ政権にはその点が決定的に欠けている。しかも、あわよくば、この難局を改憲に利用しようという思惑が見え透いているだけに、いっそう恐いのだ。

安倍晋三にしても、自分ファーストで目立ちたがり屋の小池百合子にしても、到底信頼できる人物ではない。知事は大仰に、東京は「感染爆発の重大局面」にあると言った。欧米の事態を見れば、そうなのかも知れない。しかし、為政者たちは何かを隠しているのだろうか。東京の感染者数の急増が、都民の行動の自粛を求める根拠だと言われても、材料が不足だ。得心できようはずはない。

根拠となる具体的な数値は以下のとおりである。
(東京都のホームページ https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/ 掲載データから)

これによると、最近の都内での陽性患者確認人数とPCR検査の実施件数の各推移は以下のとおりである。(なお、「医療機関が保険適用で行った検査は含まれていない 」と(注)がある。どうしてそれくらいの集計をしないのか、もどかしい)

17日  12   84
18日   9  112
19日   7   50
20日  11   16
21日   7   55
22日   2
23日  16   77
24日  17   86
25日  41  105
26日  47  100
27日  40(うち15人が永寿総合病院関係者)
28日  63(うち29人が永寿総合病院関係者)

このデータの的確な読み方の説明はない。このデータを根拠として将来をどう予測し、今を「感染爆発の重大局面」であるとの評価する理由の説明が放棄されているのだ。

このデータを見て誰しもが持つ疑問は、検査実施件数の極端な少なさである。

検査に到達する患者は厳重なスクリーニングを経なければならない。掛かり付け医の判断で検査を受けられるわけではない。「新型コロナ外来(帰国者・接触者外来)」なる機関で受診し、医師が検査の必要ありと判断した場合にのみ、(東京都健康安全研究センター等)でPCR検査実施となる。掛かり付け医のない場合は、発熱4日(リスク患者は2日)で、保健所に電話し問診を受けた上、スクリーニングされて、「新型コロナ外来(帰国者・接触者外来)」にまわされることになる。つまり、感染者のうち、重症者だけを把握しようというコンセプトなのだ。感染はしているが、無症状の者あるいは軽症者の把握は意図されていない。

おそらくは、日本の医療体制の脆弱さから余儀なくされている事態なのだろうが、そのことは率直に語られていない。東京都は、この期に及んでもなお、都立病院の独立法人化の方針を変えず、世論に逆らって強行しようとしているのだ。

対照的な戦略を採っているのが、韓国である。
「世界で賞賛される『韓国』コロナ対策の凄み―行動制限を課すことなく増加曲線を抑制」という下記のネット記事が興味深い。「東洋経済オンライン」翻訳して紹介する The New York Timesの記事である。
https://toyokeizai.net/articles/-/340150

韓国は大規模なアウトブレイクが発生しながら、新規感染者数の増加曲線を抑えることに成功した。しかも、中国のように言論や行動に厳しい制限を課すことなく、またヨーロッパやアメリカのように経済に打撃を与える封鎖政策を行わずにである。無症状の人を含む最大限の検査態勢を整え治療を保証しているという。

世界保健機関の事務局長テドロス・アダノム・ゲブレイェソスは、ウイルスの封じ込めは難しいものの「可能である」ことを示したとして、韓国を称賛した。テドロス氏は各国に「韓国その他で得られた教訓を応用する」よう促した。

韓国はほかのどの国よりもはるかに多くの人を検査してきた。そのため、多くの人を感染後すぐに隔離・治療することが可能となった。 同国では30万回以上の検査を実施し、1人当たりの検査率はアメリカの40倍となっている。

首脳陣の結論は、「アウトブレイクの制圧には国民に対し完全な情報共有を続けること」、そして「国民の協力をお願いすることが必要」ということだった。世論調査では大多数が政府の取り組みに賛同を示しており、パニックは少なく、買いだめもほとんど起こっていない。

韓国のすべてが理想的とは言わないが、見習うべき点が多々あるのではないか。徹底した情報公開と、受診・治療体制。その前提となる検査キットの開発や普及のスピードなど。

そして、学ぶべきは何よりも「コロナ禍の制圧には国民に対し完全な情報共有を続けること」という政権の基本姿勢である。アベ政権には望むべくもないが。
(2020年3月28日)

東京高裁「君が代不起立」処分取り消しの逆転判決

一昨日(3月25日)、東京高裁(第9民事部・小川秀樹裁判長)で「河原井・根津09年停職事件」の控訴審判決言い渡しがあった。同判決は、東京地裁判決を主要な部分で変更し、根津公子さんに対する停職6月の懲戒処分を取り消す旨の「逆転勝訴」となった。

2009年3月、都立学校の教員だった河原井さん・根津さんは、ともに卒業式での「君が代・不起立」を理由に、東京都教育委員会から停職6月の懲戒処分を受け、その処分取り消しを求めて人事委員会審査を経て、提訴していた。原審東京地裁判決は河原井さんの処分を取り消したが、根津さんの処分取消請求を棄却した。これを不服とした根津さんの控訴審で、小川秀樹判決は処分を取り消したもの。河原井純子さんの一審判決勝訴の部分は既に確定済みで、河原井さん・根津さん揃っての勝訴がほぼ確実となった。もっとも、まだ都教委側の上告受理申立はあり得ないではない。

なんとなく、安倍政権の天が下どこもかしこも忖度だらけとの印象が強いが、まだマシな裁判官も健在なのだ。まずは、めでたい。
とは言え、小川秀樹裁判長がリベラルで憲法の理念に親和的な立派な裁判官かと言えば、そうとも言いがたい。ちょうど1か月前の2月26日、夫婦同姓の強制は違憲との主張を斥けて、現行制度を合憲とした判決を言い渡したのが、同じ小川秀樹コートなのだ。

この根津さんの事件は、東京「君が代」弁護団の受任事件ではなく、私は関与していない。河原井さん・根津さんは、信頼する弁護士・弁護団を選んで、訴訟を追行し成果を上げた。根津さんを支える運動体によれば、根津さんの最近の「君が代」不起立に対する処分と判決は以下のとおりだという。
・2006年3月卒業式の不起立に、3か月の停職処分
   ?処分取消請求棄却の敗訴
・2007年3月卒業式の不起立に、6か月の停職処分
   ?処分取消請求に一審は棄却、東京高裁で逆転勝訴(須藤判決)
   ?最高裁で確定
・2008年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分
   ?ゼッケン着用などを理由に取り消されず
・2009年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分(本件処分)
   ?地裁は、処分取消請求を棄却(敗訴)

同判決主文の主要部分は、以下のとおりである。

1 原判決主文第2項のうち,控訴人根津の請求に係る部分を次のとおり変更する。
(1) 東京都教育委員会が平成21年3月31日付けで控訴人根津に対してした懲戒処分を取り消す。
(2) 控訴人根津のその余の請求を棄却する。

 根津さんが求めたのは、停職6か月の懲戒処分の取消しと、慰謝料の支払いとである。慰謝料の支払いは棄却されたが、この判決で懲戒処分の取消支払い認められた。最高裁が、これを覆すことは考え難い。

同判決理由の主要部分は、以下のとおり。

 原審(東京地裁判決)は,控訴人ら(河原井・根津)の憲法及び教育基本法違反の主張を排斥する一方で,本件河原井懲戒処分については,懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱してされた違法なものであるとして,同処分を取り消し,本件根津懲戒処分については,社会観念上著しく妥当を欠くものとはいえず,停職期間も裁量権の範囲内ということができ,適法であるとして,同処分の取消しの請求を棄却し,損害賠償請求については,本件根津懲戒処分は違法とはいえず,本件河原井懲戒処分については国賠法上の過失は認められないなどとして,控訴人らの請求をいずれも棄却する旨の判決をした。

しかし、「本件根津懲戒処分」については控訴審判決の判断は地裁判決とは違った。

…停職期間を6月とする停職処分を科すことは十分な根拠をもって慎重に行わなければならないものというべきであるところ,控訴人根津の過去の懲戒処分等の対象となったいくつかの行為は平成18年(06年)の懲戒処分において考慮され,その後同種の非違行為が繰り返されて懲戒処分を受けてはいないこと,本件根津不起立は,それ以前のような積極的な式典の妨害行為ではなく,控訴人河原井と同様の国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為であること,平成20年の停職6月の懲戒処分がされた後は,本件トレーナー着用行為のような行為はしていないこと等によれば,都教委の判断は,具体的に行われた非違行為の内容や影響の程度等に鑑み,社会通念上,行為と処分との均衡を著しく失していて妥当性を欠き,裁量権の、合理的範囲を逸脱してされたものといわざるを得ず,違法なものというべきである。したがって,控訴人根津の本件根津懲戒処分の取消請求は理由がある。

問題は、「積極的な式典の妨害行為」か、「国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為」かの分類にある。判決の認定するところでは、「平成17年5月の懲戒処分の後に実施された再発防止研修において,日の丸,君が代強制反対と書かれたゼッケンの着用を巡る抗議等を行ったこと」「平成19年3月の停職6月の懲戒処分を受けた後には、勤務時間中に『強制反対日の丸君が代』等と印刷されたトレーナー着用」などが「積極的な式典の妨害行為」にあたる。

一審は、この過去の「積極的式典妨害行為」を今につながる重大事と見たが、控訴審は「本件は、単に起立しなかったという消極的行為。過去の行為は既に相当な処分を受けており、本件で斟酌すべきではない」と判断した。これだけの判断を獲得するために、多大な努力が必要だったのだ。

なお、君が代不起立は、基本権としての思想・良心・信仰を防衛するためには最低限必要不可欠な受動的行為である。「式典を妨害しない単なる不起立という消極的行為」であれば、何度繰り返しても戒告どまりで、減給以上の懲戒処分とはならない。これが、強権的な都教委と、思想・良心を擁護しようという教員集団とのせめぎ合いの膠着線。

都教委は、累積加重の懲戒処分を重ねることによって教員の転向をたくらみ、非転向の教員を追い払おうとしたが、失敗した。徒然に現状に不服である。教員の側は、戒告とは言え懲戒処分を容認しえない。本来、戒告処分も違憲違法のはずと不満を募らせての、膠着状態である。

この判決が現状の打開をもたらすものとは考えにくいが、闘いを継続する姿勢を学びたいと思う。
(2020年3月27日)

コロナ感染の危機を、民主主義の危機にしてはならない。

新型コロナウイルス感染をめぐる世の雰囲気が、尋常でない。昨夜(3月25日)、小池都知事が緊急の記者会見を開き、現状を「感染爆発の重大局面」と表現した。「このままの推移が続けば、ロックダウン(都市の封鎖)を招いてしまう」とも言った。唐突な説明に、違和感を禁じえない。

私は、安倍も小池もまったく信用していない。安倍や小池が何かを言えば、まずはウソだろうと否定する。ウソとまでは思わぬ場合にも、裏があるだろう、どんな思惑でしゃべっているのだろう、引用のデータはおかしい、と身構える。眉に唾して聞かなければならないという、その姿勢が間違っていたことはなく、確信に揺るぎはない。

このような時期に、このような政治家しか持ち合わせのない日本の民主主義を心底情けないと思う。コロナ感染が本当に危険なら、何を今さら、オーバーシュートだのロックダウンなどと言い出したのか。オリンピック開催の強行に差し障りがあるからとしてこれまでは感染の危険性を過小に発表して騒がないようにし、オリンピック延期やむなしとなったとたんに権力を振り回す。安倍も小池も、国民からそう見られることを、不徳の至りとして甘受しなければならない。

こんなときにこそ、あらためて肝に銘じておきたい。人権や民主主義の危機は、常にもっともらしい理由を伴って登場する。ブレない醒めた理性が必要なのだ。「非常事態」を口実とした立法権の行政への白紙委任を警戒しなければならない。

ウィルス感染蔓延の防止という、容易には反対しがたい名目での権力の万能化が企図されている。軽々にこれを許容してはならない。「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点をこういうときにこそ、思い出さなければならない。

議論の出発点となつているデータが信用しがたい。毎日、いったい何人の検査を行ったのか。そのサンプルはどうして選定したのか。感染死者数は、どうして確定しているのか。肺炎死者やインフルエンザ死者の中に、コロナ感染死がないことは確認できているのか。結局は、PCR検査の受診者をどう選定するか次第で、感染者数も、重症者数もコントロールされているのではないか。蔓延している疑問に誠実に答える姿勢に欠けているのではないか。

さらに、述べておきたい。いかなる場合にも、議会を無視した行政府の専横を許してはならない。行政が非常の事態だからとして人権を制約しようとするときには、納得できる根拠を国民に示してその同意を得る努力をしなければならない。コロナ感染症についての疫学的基礎データの徹底した情報公開と国民への説明によって、採ろうとする方策への積極的同意を獲得しなければならない。それなくして、感染症蔓延防止に成功することはあり得ない。

哀しいかな、嘘とごまかしにまみれ、国民からの信を失った安倍晋三政権である。自分ファーストに徹して都民の支持を失った小池都政のやることである。国民・都民の積極的同意を得ることは、たいへんに困難であることを肝に銘じて、これまでとは違った真摯な姿勢でことに臨んでいただきたい。
(2020年3月26日)

「こんな日本に誰がした」 ー いま、切実に問わなければならない。

本日(3月25日)の毎日新聞第8面「みんなの広場」欄に、市民感情を代表する投書が掲載されている。タイトルが、「こんな日本に誰がした」というもの。大阪の主婦・岡田マチ子さんの叫ぶがごとき文章である。

このタイトルだけでおよその見当がつく。「こんな日本」とは、「ウソとゴマカシが横溢し、正直者が苦しむ日本」である。「誰がした」か? 今さらいうまでもなく、「ウソとゴマカシが横溢した、こんな日本のトップ」である。もっとも、この『誰』は、一人とは限らない。投書は2人の名を挙げている。佐川宣寿と安倍晋三である。

 もう我慢できない。平気でうそをつき、権力者の顔色をうかがい、国税庁長官に上り詰めたその人物に。

 まったく同感だ。私も我慢ができない。「平気なうそ」にも、「権力者の顔色をうかがう」その卑屈な姿勢にも。そして、そのような人物の一群が、この国の権力者を支えていることにも。

 森友学園への国有地売却を巡る財務省の決裁文書改ざん問題で2018年3月に自殺した近畿財務局の男性職員の奥さまが、真実を求めて国と元国税庁長官の佐川宣寿氏を相手取り訴訟を起こした。

 権力を持つ者に不都合な真実は常に隠されている。厚いベールに覆われて、容易に真実に近づくことができないのだ。そのベールを剥ぎ取って、権力を持つ者に不都合な真実を明るみに曝け出すことが提訴の狙いである。そうしてこそ、亡くなった人の無念を晴らすことができようというもの。

 17年2月17日、国会中継を見ていた。森友疑惑に関して安倍晋三首相は「私や妻が関係していたら首相も国会議員もやめる」と語気を荒らげた。首相の奥さまが学園の予定する小学校の名誉校長に就任していたというのに。

 佐川宣寿の背後に安倍晋三がいる。安倍が佐川に不都合な文書の改竄を指示したのか、あるいは佐川が安倍の意向を勝手に忖度したに過ぎないのか。いずれにせよ、安倍の私益を擁護するために、佐川が文書改竄を指示し末端職員が違法行為の実行を余儀なくされたのだ。

 男性職員の手記によるとその9日後、上司から改ざんを指示される。指示の大本は当時、財務省理財局長だった佐川氏だという。新聞記事にある「『僕の契約相手は国民』が口癖だった」のくだりで活字がにじむ。

 この手記は涙なくしては読めない、というのが真っ当な市民感情。安倍や麻生には、血も涙もない。手記で名前を上げられた佐川も、中村も、田村も、杉田も、そして美並も池田も、その後はみんな見事に出世している。公文書改竄で自ら命を断った者と、悪事をともにして出世した人びととのなんたるコントラスト。

 森友問題、加計問題、桜問題、東京高検検事長定年延長問題……。こんな日本に誰がした。安倍氏をおいて他にない。

 安倍晋三の罪は重い。国政を私物化し、国政をウソとゴマカシで固めたのだ。「こんな日本」「こんな総理」に、国民の支持がいまだに4割を超える。その国民の責任も大きい。森友、加計、桜、検事長定年延長…、これだけあって何ゆえ「こんな総理」が生き延びているのだ。「こんな日本に誰がした」は、今切実な発問である。
(2020年3月25日)

NHKの良心的番組続編制作を妨害した4悪の面々。署名運動にご協力を。

昨日(3月23日)の毎日新聞朝刊1面に、【NHK問題取材班】の記事。お上の発表を鵜呑みに文字にすることが記者の仕事ではない。精力的にNHKと経営委員会に肉薄してお上の嫌がる真実を記事する、こういう記者の存在は貴重である。

見出しは、「郵政から取材圧力、認識か NHK経営委員長代行『不満は内容』」というもの。これだけでは、事情を追っていない者には分かりにくい。敷衍すればこうなろうか。

「現NHK経営委員長代行が『日本郵政側の不満は番組の内容にある』と発言していた事実が判明した。この発言からみて、(NHK経営委員会は、)日本郵政からNHKに対する申し入れが番組制作の取材に対する圧力であったと認識していたはずである」

一日遅れたが、本日(3月24日)朝日も続いた。こちらの見出しは、「経営委トップ2批判主導 NHKかんぽ報道『極めて稚拙』」。これも敷衍すればこうなろうか。
「NHK経営委員会の『トップ2(当時の委員長と代行)』が、番組制作の責任者であるNHK会長批判を主導して、『NHKかんぽ報道の番組は《極めて稚拙》』とまで発言していた」

この件については、何度か当ブログに取りあげた。最近のものは、以下のとおりである。

森下俊三NHK経営委員長の辞任を求める署名にご協力をー(転載・拡散のお願い)
https://article9.jp/wordpress/?p=14502(2020年3月16日)

事件の概要は、NHK経営委員会が日本郵政の手先となって、NHKの番組制作に干渉するという禁じ手をおかしたというもの。具体的には、日本郵政の「かんぽ生命保険」販売の悪徳商法を暴いた「クローズアップ現代+」の良心的番組に驚き、その続編の制作を妨害したのだ。ことは、報道の自由、国民の知る権利に関わる大問題。

この「クロ現+」の番組制作に対する妨害行為には何人もの悪役が登場する。まずは、経営委員会に抗議して番組の続編制作妨害を働きかけた日本郵政の鈴木康雄・上級副社長。元は総務事務次官で、郵政のドンといわれた実力者。批判されるべき立場でありながら、批判の報道を押さえもうとしたこの人物が元兇。次いで、その意を受けて動いたNHK経営委員会委員長・石原進(当時)。さらに、その配下で実務を担当した森下俊三経営委員会副委員長(当時)。これが3悪である。そのうちの石原と森下は、当時の上田良一NHK会長を厳重注意処分にまでして圧力をかけた。

以上の3悪のうち、鈴木と石原は辞めた。森下だけが残って、いまや経営委員長におさまっている。実は森下の果たした役割と責任は大きく、森下に経営委員の資格はない。そう考えての辞任要求署名活動を展開中なのだ。

そのさなかの毎日記事が、第4の悪役を登場させた。その人の名は、村田晃嗣。同志社大学教授で、2018年当時はヒラの経営委員。現在は、経営委員長代行である。村田の所為について、毎日の記事はこう述べている。

かんぽ生命保険の不正販売を報じた番組を巡り、日本郵政グループの抗議に同調したNHK経営委員会が2018年10月、当時の上田良一会長を厳重注意した会合で、経営委員だった村田晃嗣(こうじ)・現委員長代行(同志社大教授)が、郵政側の抗議について「本来の不満は(取材)内容だが、手続き論の小さな瑕疵(かし)(不備)で言っている」と説明していたことが判明した。その上で、経営委として郵政側に返答すべきだと主張した。郵政側の抗議が言い掛かりで、狙いは取材への圧力と認識しながら郵政側への対応を促したとみられ、関係者は「経営委ナンバー2として資質が疑われる」と批判する。

経営委員会の議事録作成は、放送法の命じるところである。同法第41条は「委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない。」と定めている。ところが、問題の2018年10月28日経営委員会で何が起こったか。誰がどのような発言をしたか。公表された簡易な「議事録」には一切記載がない。毎日の取材はここに切り込んだもの。村田の実名を挙げて、「経営委ナンバー2として資質が疑われる」との批判にまで言及したのだ。

「複数の関係者への取材で判明した」という毎日の報道では、「当時委員長代行だった森下俊三・現委員長が『番組の作り方に問題がある』などと番組を批判し、石原進委員長(当時)と共に厳重注意を主導。森下氏は『郵政側が納得していないのは本当は取材内容』と明かしていた。
 こうした発言を受け、村田氏は「郵政側の本来の不満は(取材)内容で、それでは話がつかないから手続き論の小さな瑕疵で言っている」と説明。その上で「文書が来た以上、経営委のメンツとしても返答しないわけにいかない。返事する際に『(NHK内で)ガバナンスが利いている』だけでは火に油を注ぐ」と指摘。経営委として郵政側に対応するよう主張した。会合では『経営委が返答すべきなのか』との反対も出たが、経営委は会合後、郵政側に厳重注意を報告し、理解を求める文書を送った。」という。

一方、朝日の記事の抜粋は下記のとおりである。こちらには、村田晃嗣の名は出て来ないで、「2トップ」の名のみが出てくる。そして、森下俊三委員長代行(現委員長)の悪役ぶりが際立っている。

会長を注意した10月23日の経営委の議事録は、議論の概要を示した議事経過が公開されているだけで、誰がどんな発言をしたかは明らかにされていない。複数の関係者への取材をもとに当日の議論を再現すると、上田氏の面前で森下氏が「クロ現+」について、「郵政に取材を全然していない」と批判の口火を切る。続編に向けて情報提供を呼びかけるネット動画についても「現場を取材していない。ネットを使う情報は極めて偏っている」と批判を続けた。ほかの委員から「若干商品の説明に誤解を与えるような説明がある」「一方的になりすぎているような気がする」などと批判が続き、石原氏も「(かんぽの販売手法について)詐欺とか押し売りとか、非常に抵抗感があります」と述べた。郵政側に会長名の文書で回答することなど、具体的な対応方法についても話していた。

 あらためて、森下俊三氏に辞任を求める署名運動にご協力をお願いいたします。
 森下氏はNHK経営委員長としてばかりか、NHK経営委員としても不適格であることは明らかですから、私たちは、NHKの自主自律、番組編集の自由を守るために、森下俊三氏に、経営委員の辞任を求めます。
 署名運動のあらましは下記のとおりです。
*署名の第一次集約日:2020年月4月5日(日)
 第二次集約日:2020年月4月30日(木) 必着
*署名は用紙かネットのいずれかでお送りください。
・用紙の郵送先:
〒285-0858 千葉県佐倉市ユーカリが丘2?1?8
      佐倉ユーカリが丘郵便局留
 「森下経営委員の辞任を求める署名運動の会 醍醐 聰」宛て
・署名用紙のダウンロードは→ http://bit.ly/33gfSET から。
*ネット署名: http://bit.ly/2TM7pGj
<ネット署名です>のところにご氏名を記入して「送信」をクリック。
 できるだけ、メッセージもお願いします。
*この署名に関するお問い合わせは、
メール:kikime3025-dame18@yahoo.co.jp
(2020年3月24日)

防衛大学校の卒業式での、あらまほしき首相訓示。

安倍晋三は昨日(3月22日)、防衛大学校の卒業式に臨んで訓示をした。卒業生「諸君」にではなく、彼らを「諸官」と呼んで、幹部自衛官の使命を語った。防衛大学校の伝統としての上級生から下級生への陰湿なイジメが世の話題となる中でのことだが、もちろん、そんなことはおくびにも出さない。「真剣なまなざし、凛々しい姿。本当に、頼もしく思います」という調子で、聞くだに恥ずかしい。

かなり長い、冗長な訓示。まとまりに欠け、切れ味はよくない。大学校側の起案か官邸側の作文かは知らないが、コロナ禍のこの時期の屋内大人数イベントでの長広舌は、危機管理上望ましくない。むしろ、なくもがなの訓示の内容。

それでも、この時期に安倍が何をいうのか。メディアは聞き耳を立てた。各紙の見出しは以下のとおり。彼が何を言ったか。この見出しでつかめる。実は、それ以上の中身はない。

朝日 首相、自衛隊の憲法明記に改めて意欲 防衛大卒業式で
毎日 首相が防衛大卒業式で訓示 クルーズ船防疫「完璧な任務遂行」と賛辞
日経 首相、日米同盟の強化強調 防衛大卒業式で訓示
読売 憲法9条に自衛隊明記、首相が改めて意欲
産経 首相、防大卒業式で憲法改正で自衛隊明記に意欲
赤旗 派兵抗議行動を非難 防大卒業式 首相、9条改憲執念

 私が、興味を惹かれた2個所を抜粋して引用しておきたい。

「本年は、日米安全保障条約の改定から60年となります。日米同盟は、外交・安全保障の主軸となり、日本の平和国家としての歩みを確かなものとし、安定した成長を実現する基盤となりました。
 当時、条約の改定を巡っては、戦争に巻き込まれるといった激しい批判がありました。それでも、先人たちは、50年、100年先を見据え、敢然と行動しました。
 平和安全法制の制定を巡っても、同様の議論がありました。しかし、互いに助け合える同盟は、その絆を強くする。この法制によって、日米同盟は、かつてなく強固なものとなり、厳しい国際環境にあって、大きな抑止力となっています。
 日米同盟は、これまでも、これからも、我が国の外交・安全保障の基軸です。日米同盟を真に実効あるものにできるかは、諸官の双肩にかかっています。地域の公共財としての日米同盟の更なる強化に向けて、我が国の果たし得る役割の拡大を図っていく。各自が常に、その高い自覚の下に職務に邁進し、日米の紐帯を揺るぎないものとしてください。」

「本年1月からは、中東海域において、情報収集活動が始まりました。2月2日、私は、護衛艦『たかなみ』に乗艦し、中東の地に向かう隊員たちを直接激励する機会を得ました。使命感に燃え、整然と乗り込む隊員の姿を、大変、誇らしく思いました。
 一点、残念だったのは、御家族が見守る一角に、憲法違反、とプラカードが掲げられていたことです。隊員の幼い子供たちも、もしかしたら、目にしたかもしれない、どう思うだろうか。そう思うと、言葉もありません。隊員たちが、高い士気の下で、使命感を持って任務を遂行できる。そうした環境を作っていかなければならない。改めて、強く感じています。」

Aは、私にはこう聞こえた。

「本年は、日米安全保障条約の改定から60年となります。当時は戦後20年、戦争を悪とし絶対の平和を求める世論が、わが国に満ちていました。好戦的なアメリカとの条約の改定は、戦争に巻き込まれる危険を引き受けることである。あるいは再び加害国になる恐れも覚悟しなければならない、といった圧倒的な世論の反対がありました。それでも、政権を握っていた岸信介や自民党内の保守派は、敢然とこの世論を抑え込み、封じ込めました。今も論争は続いていますが、結局は日米同盟が、外交・安全保障の主軸となり、日本の安定した成長を実現する基盤となりました。日米同盟は、これまでも、これからも、我が国の外交・安全保障の基軸です。あのとき、連日の国民的なデモの鎮圧に自衛隊は出動寸前で踏みとどまりました。しかし、将来、同様の事態があったときは、諸官は国民世論の如何にたじろぐことなく、自信をもって暴徒の鎮圧にあたらなけれはなりません。そうして,日米の紐帯を揺るぎないものとしてください。

Bについては、彼は本来こう言うべきだったろう。

「本年2月2日、私は護衛艦『たかなみ』に乗艦し、中東の地に向かう隊員たちを直接激励する機会を得ました。その際、見送りをされる隊員のご家族とならんで、抗議の意思を表明される少なからぬ人びとをお見受けしました。その人たちは、「中東派遣反対」「中東へ行かないで」「むりやり行かすな自衛隊」「自衛隊員の命をまもれ」などと、横断幕やプラカードを掲げていらっしゃいました。もちろんその方たちは「自衛隊は憲法違反」「自衛隊の海外派遣は違憲」との信念をお持ちと拝察いたします。
 言うまでもないことですが、勇躍して中東に向かう自衛隊員も、自衛隊を海外に派遣すべきではないと抗議をされる人びとも、同じ日本国民です。我が国は、民主主義と自由を国是としており、いかなる政治的な思想・信条もその表現も自由なのです。諸官は、「自衛隊の存在は違憲だ」という表現が自由に行われる日本であればこそ、この国を守る価値があることを肝に銘じなくてはなりません。
 隊員の幼い子供たちも、『自衛隊は違憲』という見解をもった同胞にも献身する自衛隊であることの誇りを伝えていただかねばならない。改めて、そう強く感じています。」

(2020年3月23日)

「こんにゃくえんま」境内の「汎太平洋の鐘」と「南洋群島平和慰霊像」。

コロナ風の吹くさなかではあるが、昨日(3月21日)は上野に、本日(22日)は小石川植物園に花を見に出かけた。明日の夕方は六義園の予定。今年は、新宿御苑にだけは、絶対に行かない。

上野は、例年とはうって変わった「宴会禁止」「席取り無用」「アルコール不可」。騒々しさのない、常の花見らしからぬ花見。やたらと多いマスクの人びと。そして、激減したインバウンド客。日本語ばかりが聞こえてくるのが新鮮な印象。好天に恵まれて、青い空に映えた花が実に美しい。「長屋の花見」や「花見の仇討ち」のイメージからはほど遠いが、清潔な花見も悪い趣向ではない。

小石川植物園は、まったく例年と変わらない。もともとが、アルコールとは一切無縁の異界。会社のグループはもともとない。町内会も、長屋連中の花見もない。もっぱら家族連れか老夫婦の穏やかな花見。コロナどこ吹く風のしばしの別世界である。

上野公園は、寛永寺境内の跡地である。戊辰の上野戦争で戦場となって焼失した広大な境内の跡地を、新政府は大病院建設の敷地とする計画だった。これが、オランダ人医師ボードウィンの献言によって、1873年に西洋式公園に指定されたという。「上野恩賜公園」として1876年に完成・開園されたというが、何ゆえ「恩賜」であるかの説明に接したことはない。戦後も、この馬鹿馬鹿しい正式名称は生き残って今日に至っているが、この正式名称は死語になっているといってよい。

小石川植物園の正式名称は、「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」という。もとは、館林藩主だった当時の徳川綱吉の別邸「白山御殿」のあったところ。綱吉が五代将軍に就任後、御殿は幕府の「小石川御薬園」(薬草園)となった。これが、明治維新後、帝大の植物園となる。こちらには、「帝大」の尊大さの残滓はあっても、「恩賜」の臭みはない。

ところで、植物園から我が家への帰途の途中に、「こんにゃくえんま」で知られた、浄土宗源覚寺がある。さして広くはない敷地に、「汎太平洋の鐘(PAN PACIFIC BELL)」と、「南洋群島平和慰霊像」がある。その由来について、書き留めておきたい。

この釣り鐘は元禄年間に鋳造されたもの。それが、1937(昭和12)年にサイパン島ガランパン市郊外の「南洋寺」に贈られた。海外植民地には神社だけでなく、佛教寺院も建立されたのだ。サイパン守備隊は1944年6月に玉砕する。多くの民間人が犠牲となり、この寺も焼失した。

ところが、戦後20年を経て、この鐘がテキサス州オデッサ市にあることが判明した。「市内の金属商の倉庫にある」とのことだった。当初は、経済的事情から躊躇したものの、新住職が鐘を寺に戻そうと決意を固める。
「戦争の悲哀に泣き、さまよえる鐘、砲弾に傷つける鐘は、我が手許に在れば、『ノー・モア・ウォー』即『平和の偉大なシンボル』となる。これが寺の姿勢でなければならない」と。

多くの人の努力が実を結び、鐘は源覚寺に里帰りすることになり、1974年4月サンフランシスコでの「桜まつり」の期間ここに展示公開され、日米の関係者が集まって、法要が営まれたという。その後、オークランドからの船便で鐘は太平洋を渡り、「汎太平洋の鐘(PAN PACIFIC BELL)」と命名されて源覚寺に復山した。

さらに、同寺の歴史はこう語っている。

「サイパンの鐘、寺に帰る」の事実は、更に原覚寺境内「南洋群島平和慰霊像の開眼」を促すことになった。サイパン島玉砕の悲劇の丘「スーサイド・クリフ(自殺の断崖)」頂上に現存する「十字架を背にしたみろく菩薩青銅立像」は、1972年1月、…「太平洋戦争の際最も激しい戦場となった」地に、「国籍の如何を問わず、亡くなられた方々の霊を慰め、この世に再びおろかで悲惨な戦争が起りませんように、永遠の平和を祈願するため」に建立されたものである。これら善意の人々は、このとき「日本内地にも場所を選んで遥拝所を」と願って、同形一体を更に同時製作してこれを保管して居り、新聞報道を誘因に、原覚寺に代表を差向けて「平和慰霊像」の境内安置を要請したのであった。ときに1974年12月、同じ目的を以て「サイパンの鐘」に執心した寺側に異存のあろうはずはなく、1975年7月「南洋群島平和慰霊像」が源覚寺境内の「サイパンの鐘」の傍らに開眼した

上野大仏は顔面だけあって胴体がない。戦時中に金属回収の資源として供出したからだという。桜の時期ではあるが、どこを歩いても、まだまだ戦争の爪痕に突き当たることになる。

(2020年3月22日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2020. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.