一昨日の土曜日(11月28日)に、明治大学の集会で西川伸一さん(政治学・明大政経学部教授)のレポートを聞いた。レポートというよりはレクチャーを受けた印象。「『安保法制=戦争法』の採決は正当に行われたのか? メディア報道の在り方を問う」というタイトル。これが滅法面白かった。これに続いて、私も「採決の不存在」について法的視点からのレポートをしたのだが、こちらは面白い報告とはならなくて残念。
西川さんのレポートは、事実にまつわる「記憶」と「記録」の関係についてのもの。民主主義社会における討議の前提となる事実は、「記録」によって確認するしかない。正確な「記録」こそが民主主義成立の前提として重要であることを公文書管理法などを引用して強調し、最後は「記憶に頼るな、記録に残せ」という野村克也(生涯一捕手)の言葉で締めくくられた。
その重要な「記録」が、今回の戦争法案審議ではいかに杜撰な扱いをされたか。参議院規則に照らしていかに大きな違反をし、ねじ曲げられたか。具体的で興味深いレクチャーとなった。
最も印象的だったのは、記録の改ざんをジョージ・オーウェル「1984年」の次の一文を引いて批判したこと。
「すべての記録が同じ作り話を記すことになればーーその嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンはいう。『過去をコントロールするものは、未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする』と」
西川さんのレクチャーの導入は、「1984年」の「真理省」のスローガンの紹介から。記憶を正確に記録しようとしない安倍政権とその膝下の議会とを「真理省的状況」と憂いてのことである。
「真理省」のスローガンを想い起こそう(高橋和久訳)。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
この3つのスローガンの解釈はいく通りにも可能だろう。
全体主義が完成した社会における支配者にとっては、矛盾した命題を何の疑問を提示することなく、素直に受容する国民の精神構造こそが不可欠なのだ。このスローガンは、そのような国民意識の操作道具として読むことができるだろう。その点では、旧天皇制政府やナチスのスローガンと酷似している。
もう少し、意味のあるものとしても理解できそうだ。
「戦争は平和なり」とは、あまりにも長く継続する戦争を国民に納得させるためのスローガンと読むことができる。「戦争に慣れよ。慣れ切ってしまえば、これが正常な事態で、平和と変わらない平穏な状態なのだ。戦争継続のこの状態こそを日常であり平和であると受容せよ」という思考回路の押しつけ。
「自由は隷従なり」も同様。国民が権力に抵抗するから弾圧を受けて自由でないと感じることになるのだ。国民が自由でありたいと願うなら、権力に自発的に隷従する精神を形成すればよい。そうすれば、隷従することこそ自由であって、自由は隷従となる。
「無知は力なり」は分かり易い。なまじ国民個人が知をもてば、主体を確立した個人が形成される。そうすれば、権力を批判することにもなる。それは国家の力を弱めることにほかならない。国家が欲するものは無条件に絶対服従する国民であって、それこそがつよい国家形成の礎なのだ。
一般論を離れて、この3本のスローガン。まさしく、非立憲・反知性アベ政権のスローガンそのものではないか。
「戦争は平和なり」とは、アベ政権の積極的平和主義のことである。
消極的に平和を望むことでは平和は実現できない。平和の実現のためには武力による抑止力が必要であり、その武力は想定される敵国を制圧するに足りる強力なものでなくては役立たない。しかも、抑止力としての武力は保持しているだけでは不十分。武力による威嚇も武力の行使も辞さない姿勢あって初めて平和のための抑止力となる。いや、戦争を辞さない覚悟があって、初めて平和が実現する。だから、我が国は平和の実現のための戦争をいとわない。戦争こそ平和のためのために必要なのだ。これが、積極的平和主義の真骨頂。
「自由は隷従なり」における自由の一は、権力からの自由。自由の要諦は徹底して権力に隷従することである。「日の丸・君が代」を内心において受容せよ。さすれば、その内心に従って起立し斉唱する自由が認められているではないか。なまじ権力に抵抗する精神をもつものだから、沖縄県や名護市やその支援者の如く、自由ではいられないのだ。仮にの話しだが、「久辺三区」が隷従すれば、ムチではなくアメにありつく自由を獲得することになるのだ。
もう一つの自由は、資本からの自由。企業には世界一の経営環境を確保するのが、政権の方針。実質的に企業の側には、解雇の自由も、雇い止めの自由も、サービス残業を命じる自由も保障する。ひるがえって、労働者の権利は可及的に切り捨てる。労働者の人間性の確保や労働条件の改善などを求める自由は、企業に隷従する者についてだけ、隷従の範囲において認められる。
そして、何よりも「無知は力なり」である。現政権・与党の開き直った反知性主義を象徴するスローガン。無知蒙昧で自主性自立性を欠いた操縦しやすい国民の育成こそが政権の大方針。「国民の無知」が政権の支えであり「国家の力」の源泉なのだ。このアベ政権の大方針は、教育政策とメディア政策に反映している。
小学校から大学まで、自分の頭で批判的にものを考えようとしない国民をどう作り上げるか。これが教育政策の根幹である。政府批判の世論を押さえ込む報道の姿勢をどう作り上げるか、これがメデイア政策の根幹である。教育基本法の改悪から、教育委員会制度改悪、大学の自治への介入、教科書採択介入や道徳教育の強行まで、教育政策全般が「無知は力なり」の大原則に則って進められている。そして、メディア対策の基本は、特定秘密保護法の制定とNHKの政権支配とによく表れている。
そのアベ政権の支持率が今、持ち直しているという。「無知は力なり」「自由は隷従なり」を支える国民が一定程度存在する現実があるのだ。無念の気持で、ジョージ・オーエルの慧眼と警鐘にあらためて敬意を表しなければならない。嗚呼。
(2015年11月30日・連続第974回)
「札付き」という言葉がある。「折り紙付き」の「折り紙」とはちがう、よからぬ「札」が付いている連中のこと。その札付き連中が、TBSの看板番組『NEWS 23』でアンカーを務めている岸井成格を攻撃している。これは看過できない。この攻撃を成功させてはならない。
私は本日の赤旗「潮流」で初めて知った。11月14日産経と翌15日読売に、「私達は、違法な報道を見逃しません」と題した異様な全面意見広告が掲載されている。岸井成格を攻撃して、その報道姿勢を変えようというのだ。その攻撃の理由が、「番組で岸井氏が『メディアは安保法案の廃案に向けて声を上げ続けるべきだ』と発言したのは、放送法4条『政治的公平』に違反すると言うのです」。この真っ当な発言が攻撃対象とされているとは穏やかでない。戦戦争法廃止運動をつぶそうという動きの一環だ。舞台は国会の場から、平和と戦争をテーマとしたメディアの自由をめぐる論争に移された。
この異様な広告の「広告主は“視聴者の会”なる団体。呼びかけ人として7人が名を連ねています。いずれも安倍首相の応援団を自負する面々です。あの手この手でメディア支配をねらう政権。今回の広告は視聴者を装い個別番組と一放送人を標的にしています。異常です」
この7人とは、以下のとおり。
すぎやまこういち/代表(作曲家)
渡部昇一(上智大学名誉教授)
渡辺利夫(拓殖大学総長)
鍵山秀三郎(株式会社イエローハット創業者)
ケント・ギルバート(カリフォルニア州弁護士・タレント)
上念司(経済評論家)
小川榮太郎(文芸評論家)
この7人に付いているのは、「極右」という札だけではなく、「安倍応援団」という札だ。代表となっている、すぎやまこういち(作曲家)とは、安倍晋三の政治団体である晋和会に毎年150万円の法が許容する最高額を寄附し続けている人物。安倍晋三に、「我々日本人が直面している難局を乗り切るリーダーは安倍晋三氏しか考えられません。私達の子孫にこの素晴らしい日本国をしっかりと残して行く責任は重大です。音楽家のひとりとしても、氏の“美しい国を目指す”という宣言にも感動しております」とエールを送ってもいる。
この「安倍応援団」の札付きが、あからさまに「メデイアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という岸井の発言を攻撃のターゲットに定めている。ここが問題の核心だ。
政権と与党には目の上のコブの反戦争法(案)運動の盛り上がり。できることなら、これを弾圧し制圧したいところだが、民衆の反作用も恐ろしい。官邸や自民党が前面には出にくいところ。そこで、官邸主導で使いっ走りを集めたか、パシリの方からその役目を買って出たか、あるいはアウンの呼吸でのことであったか、その辺は定かでない。定かではないものの、官邸の言いたいこと、やりたいことを、この札付き連中が代わってやっているのだ。権力に奉仕の重宝なパシリたち。
いま、TBSという有力な電波メディアの表現の自由が攻撃を受けている。攻撃の尖兵になっているのは社会的勢力としての右翼だが、その背後には明らかにアベ政権の存在がある。さらに重大なことは、攻撃の対象とされているものが、けっしてTBS一社ではなく、我が国の表現の自由そのものであることだ。平和・戦争・安全保障・立憲主義等々のシビアなテーマにおいて、時の政権に批判の立場の言論は許さない、というシグナルが送られているのだ。事態は深刻である。
表現の自由とは、何よりも権力に対峙するものとしてその存在が保障されなければならない。権力を賛美し同調し、あるいは迎合する表現や言論に権力による制約はあり得ない。だからその自由や権利性を論じる意味はない。意味があるのは権力を批判し、権力を攻撃することによって、権力から憎まれる表現についての自由や権利だけである。
すぎやまこういち以下「権力の手先7人衆」が求めているものは、偏向のレッテルを貼り付けることでの、政権批判の自重・自制・自粛にほかならない。この攻撃に屈して、TBSに萎縮があってはならない。そのようなことがないように、全メディアが、いま、こぞって岸井成格とTBSを擁護し支援しなければならない。むしろ、局・各メディアが、より政権批判を強めることで、「権力の手先7人衆」とその背後の政権の意図を挫かなければならない。
読売と産経も同様だ。広告料収入に頬を緩めて傍観していたのでは、明日は我が身のこととなりかねないのだから。
(2015年11月29日・連続第973回)
古今を通じて、力なき者が権力と闘うための第一の武器は団結と連帯である。権力者が反抗する人民を統治する手段の第一は、分断と各個撃破である。これも、古今東西を通じてのこと。沖縄の県民はこのことを知悉してオール沖縄の団結を作ろうと努力を重ね、安倍政権もこのことをよく弁えて、県民の分断工作に余念がない。
昨日(11月27日)防衛大臣は、「再編関連特別地域支援事業補助金」制度新設を発表した。「再編」とは聞き慣れない言葉。「再編関連」もよく分からない。「特別地域」とはいったいなんぞや。そして、「支援事業補助金」とは?
辺野古新基地建設に対する地元反対闘争を分断するための「つかみ金」制度の創設と言い、その「ばらまき第一弾」と言えば分かり易い。県民に受け入れがたい政策を押しつけるための「ばらまき」も醜いが、これはまた露骨な反対運動に対する分断と各個撃破策。感じ悪いよね?、アベ政権。
この補助金支出の対象は、今話題の久辺三区。各区に1300万円、合計3900万円を上限とする補助金を交付するという。今年は、もともとの予算措置がないところを「在日米軍等の駐留関連諸費」からひねり出す。来年からはきちんと予算措置をするという。よい子にしていれば増額もあり得る、そういうイヤな含みを隠そうともしない防衛大臣会見である。
この「区」あるいは「行政区」というものの性格が分かりにくい。もちろん、特別区とはまるっきり違って公的な存在ではない。飽くまでも住民の自治組織。防衛省ブリーフィングのレジメでは、補助金支出先は「円滑な駐留軍再編に寄与する地域の地縁団体(自治会)」となっている。防衛省も各「行政区」を「地縁団体(自治会)」ととらえた。都市部での「町内会」や「自治会」に相当するものである。
沖縄では、地方自治体行政の補助組織として、集落単位の行政区を活用しているようだ。人口61,500人の名護市は、合計55の行政区をもっている。その内、久志地区(人口4400人)と言われる地域に13行政区があり、その内の久志(274世帯、611人)、豊原(189世帯、419人)、辺野古(1104世帯、1869人)の3行政区をひとかたまりに「久辺三区」と呼ぶのだそうだ。ここが、辺野古新基地建設の地元中の地元となる。(数字は本年3月末現在。名護市のホームページから)
この、400人から1800人ほどの集落の各自治会にそれぞれ、まずは1300万円ずつを注ぎ込もうというのだ。今のところ、その補助金の使途は特定の事業に限定されている。記者会見での大臣説明ではこうだ。
「対象事業と致しましては、まず日米交流に関する事業、例えば伝統芸能に資する事業、またスポーツ大会などであります。もう一点は住民の生活の安全に関する事業ということで、交通安全講習会、また防災・防犯教育啓発、また防犯灯設置などであります。もう一点はその他ということで、生活環境の整備に関する事業ということで、集会施設の改修・増築など、こういった対象のメニューをあげておりますが、事業につきましては今後、確定をしていく予定でございます。」
防衛大臣の、沖縄県や名護市に対する接し方とはおよそ異なる、歯の浮くような久辺三区へのサービスぶりはどうだ。これぞ、世辞の見本というところ。
「久辺三区につきましては、…移設事業の実施に当たりましては、直接最も大きな影響を受けることから、同区が実施する米軍再編の影響を緩和をし、生活環境の保全、また住民の生活の安定に資する事業に対しまして、直接補助が可能となるわけでございます。防衛省としては、今回の交付要領の制定を機に、今後とも久辺三区からの御要望につきまして、きめ細かく応えて参りたいと思っております。」
これに対する稲嶺・名護市長のコメントは次のようなものだ。
「全国でこの地域だけを対象としたものだということを考えると、公共のために使う補助金として本当に妥当なものか理解を超える」「補助金の対象事業として挙げられているものは、すべて地方自治体が地域住民に対して支援をしていく内容のものと解釈される。それからすると、当該自治体の頭越しに直接やるということは、地方自治をないがしろにするもの以外、何ものでもない。この地域だけ対象となると、分断工作というか、“アメとムチ”の最たるものだ」
沖縄タイムスは、次のように報道している。
「防衛省は3区からの事業申請を受け、早ければ年内にも交付を開始する。新基地建設に反対する名護市を介さず頭越しに支援する異例の措置。辺野古に反対する稲嶺進市長や県をけん制する狙いもあり、県内から強い反発が上がっている。
一方、辺野古区の嘉陽宗克区長と久志区の宮里武継区長は菅氏の『地元は(辺野古移設に)条件付き賛成』との認識を否定しているほか、久志区は受け取りの可否で賛否が割れているなど、3区の認識は一致していない。」
政府必死の分断工作も、その成否はまだ定かならずというところ。では、もっと餌を撒くか、あるいは恫喝という奥の手も使うことにするか。アベ政権のことだ、どんな汚い奥の手を使うことになるのか分からない。
政治家が、政策の実行のためとして有権者にカネをバラマケば、疑いもなく公選法違反の「買収」となる。金でなくても、一切の利益の供与が買収罪の犯罪行為を構成する。政府の税金を使ってのバラマキは、お咎めなしなのだろうか。法にのっとり、適正手続が確保され、平等原則が確認されて初めての補助金支出でなくてはならない。
よこしまな動機から、まず補助金支出先を久辺三区と決めておいて、久辺三区だけに支出ができるような要件を作っての補助金支出。もちろん、立法措置もないままである。政府主体の有権者買収と言われてもしかたあるまい。辺野古新基地反対運動の分断と各個撃破策だと言われても、だ。
(2015年11月28日・連続第972回)
植村さん、「韓国カトリック大学校」に招聘教授として就任とのこと、昨日の記者会見の報道で知りました。おめでとうございます。
記者会見の記事は以下のようなものです。
「慰安婦報道に携わった元朝日新聞記者で北星学園大(札幌市)の非常勤講師、植村隆氏(57)が来年春にソウルのカトリック大の客員教授に就任することになった。植村氏が26日、北星学園大の田村信一学長と記者会見して明らかにした。
植村氏をめぐっては昨年、朝日新聞記者だった頃に執筆した慰安婦関連の記事について抗議が北星学園大に殺到。退職を要求し、応じなければ学生に危害を加えるとする脅迫文も届いていた。」(共同)
私は、植村さんやご家族へに対する常軌を逸した人身攻撃に胸を痛めていた者の一人です。煽動する者と煽動に乗せられる者一体となっての、植村さんへの陰湿で卑劣な攻撃の数々は、日本社会の狭量と非寛容をこの上なく明瞭に露呈しました。この国と社会がもっている、少数者に冷酷な深い暗部を見せつけられた思いです。また、この国のナショナリズムがもつ凶暴さを示しているようにも思います。残念ながら、私たちはけっして開かれた明るさをもった国に住んではいません。卑劣な匿名の攻撃やいやがらせを許容する雰囲気はこの社会の一部に確実にあるといわざるを得ません。
しかしまた、私たちの国や社会は、そのような卑劣漢だけで構成されているわけではありません。陰湿な北星学園に対する攻撃や、ご家族への攻撃を中止させ、防止しようという良心を持つ多くの人々の存在も明らかとなりました。不当な攻撃を許さないと起ち上がる人々の勇気を見ることもできました。その良心と勇気こそが未来への希望です。
昨日(26日)の記者会見が、北星学園大学の田村信一学長と植村さんとの共同で行われたことが、両者に祝意を贈るべきことを示しています。北星学園大は、右翼の卑劣な攻撃に屈することなく植村さんの雇用を護りぬき、そのことを通じて建学の理念と大学の自治とを護り抜きました。韓国カトリック大学校は、北星学園の提携大学で、植村さんの招聘には、今は韓国に在住の植村さんの教え子たちの尽力があったとのこと。すばらしいことではありませんか。
もっとも、北星学園に来年度も植村さんの雇用を継続するかどうか迷いのあったことは聞いていました。最大の問題は、警備費用の負担だとか。その額は年間3000万円とも、3500万円になるとも。右翼の直接攻撃は目に見えて減ってはきたけれど、大学としては学生の安全を守るために手を抜くことができない。そのための費用は、この規模の大学としては大きな負担になるといいます。大学の苦労はよく分かる話。
植村さんに対するいわれなき攻撃はそれ自体不当なものですが、攻撃の矛先をご家族や大学に向けるという陰湿さには、さらにやりきれない思いです。大学が経済的に追い詰められているのなら、応援団は金を集めねばなりません。
脅迫を告発した弁護士グループの仲間内では、「カンパを呼びかけなければならないようだ」「そのためには、まず自分たちが応分の負担をしなければならない」「民族差別を広言する右翼のための出費は馬鹿馬鹿しいが、これが民主主義のコストというものだろう」「卑劣な右翼に、『人身攻撃して、植村を大学からヤメさせた』という成功体験を語らせたくない」「雇用継続を可能とする程度のカンパ集めは可能ではないか」「カンパを集めること自体が差別や暴力と闘う世論を喚起する運動になるのではないか」などと話しあっていました。
暫定的にではあるにせよ、植村さんの雇用がハッピーな形で継続することを大いに喜びたいと思います。
本日(11月27日)朝日新聞が、「本紙元記者、韓国で教鞭へ」という、暖かく、希望を感じさせる見出しであることにもホッとしています。
なお、産経の報道で知りましたが、植村さんは一連の経過について「来年手記の出版を目指している」とのこと、また北星学園は、「再発防止のために経験を検証総括し、広く社会に問いたい」としておられるとのこと。いずれも大事なこととして、完成を期待いたします。
もう一つ、植村さんの札幌地裁提訴事件移送問題での緒戦の勝利おめでとうございます。たまたま、記者会見の11月26日のマケルナ会事務局からの連絡ですと、「植村さんが桜井良子氏などを名誉毀損で札幌地裁に訴え、桜井氏ら被告が東京地裁で審理するよう最高裁に不服を申し立てていた移送問題は、26日、最高裁から被告らの抗告をすべて棄却するとの連絡がありました。これで札幌地裁での審理が確定しました。」とのこと。
櫻井良子(本名)被告らは訴訟を東京地裁へ移送するよう申立をし、札幌地裁は東京に在住する被告らの応訴の都合を重視する立場から、いったんは移送を認めました。これを札幌高裁の抗告審が逆転して札幌地裁での審理を認めました。その高裁の決定がこれで確定したということ。
この種の事件遂行は、意気に感じて集まる弁護士集団によって担われます。せっかく、札幌の若手弁護士諸君が情熱をもってやる気になっているのに、訴訟を東京に移すことになれば、弁護士たちの腰を折ることになってしまいます。それに、もしこの手の事件が、被告の都合を優先して原告の居住地でできないことになるとしたら、同種の被害者が裁判を起こせず、泣き寝入りを強いられることにもなりかねません。
ともかく、これで張り切って、札幌訴訟が動き出すことになります。幸先のよい裁判のスタートに、良い結果が期待されるところです。
(2015年11月27日・連続第971回)
神社新報(週刊・毎月曜日発行)は、株式会社神社新報の発刊だが、まぎれもなく神社本庁の広報紙。「神社界唯一の全国的メディア」を称し公称発行部数5万部という。全国の神職の数は2万人余とのことだが、神職を読者とした業界紙でもある。
その「神社新報」11月23日号の第2面に、「一万人大会を終へ 一千万署名と参院選に集中を」という表題の論説が掲載されている。部外者には、「何をスローガンとした一万人大会」であるか、「何を求めての一千万署名」であるか、また、なにゆえの「参院選に集中」であるか分かりにくいが、読者にはそんなことは言うまでもなく分かりきっているというタイトルの付け方。これすべて、日本国憲法改正を目指してのことなのだ。「安倍政権任期のあと3年が憲法改正のチャンスだ」、「今のうちになんとか憲法改正の実現に漕ぎつけなければならない」という、彼らなりの必死さが伝わってくる。
以下その抜粋である。論説だけでなく、記事全体が歴史的仮名遣いで統一されている。
「『今こそ憲法改正を!一万人大会』が十一月十日、東京・九段の日本武道館で開催された。当日は衆参両院の国会議員や全国の地方議会議員なども含め一万一千人以上の改憲運動推進派の人々が参集し、憲法改正を求める国民の声を真摯に受け止めてすみやかに国会発議をおこなひ、国民投票を実施することを各党に要望する決議をおこなった。
昨年十月一日に『美しい日本の憲法をつくる国民の会』が設立されて以来、日本会議や神道政治連盟が中心となって国民運動を推進してきたが、すでに賛同署名は四百四十五万人に達し、国会議員署名も超党派で四百二十二人を獲得するに至ってゐる。これは大きな運動の成果であるが、今後なほ一千万の賛同署名の達成と、国会議員署名及び地方議会決議の獲得を目指して邁進していかねばならない。」
改憲署名運動が445万筆に達しているとは知らなかった。もっとも、署名簿にどのような改憲案に賛成なのかは記載されてなく、かなりいい加減なものという印象は否めない。とはいうものの、今後の目標が「1000万人署名」「国会議員署名」そして「地方議会の決議獲得」と、具体的に提案されている。護憲の運動は、確実に彼らの「この目標」と衝突することになる。
彼らなりの情勢分析は下記のとおりで、なかなかに興味深い。
「自由民主党は立党六十年を迎へた。…国会の憲法審査会での早期の審議促進を誓ひ、立党以来、変はらぬ党是としてきた『現行憲法の自主的改正』を再確認し、安倍晋三総裁のもとで必ず憲法改正を実現することの決意表明をぜひともおこなってもらひたい。
先の国会における憲法審査会では、こともあらうに自ら選んだ参考人の憲法学者に安保関連法案は憲法違反と言はせる大失態を演じた。緊張感の欠如と言はざるを得ない。一連の安保法制は何とか成立を見たが、これは憲法九条改正までの、現在の厳しい国際情勢下におけるいはば緊急避難的措置に過ぎない。一方、これに反対してきた市民団体などが、『総がかり実行委員会』をつくって『戦争法』の廃止を求め、憲法を守る二千万人署名の活動を開始してゐる。勢ひを増してきた共産党がこれを応援し、同党で半分の一千万人署名を集めると表明してゐるのである。来年夏の参議院議員選挙が、改憲の大きな勝負時となってくるであらう。」
「来年夏の参議院議員選挙が、改憲の大きな勝負時となってくる」のは、まことにそのとおりだ。この勝負、負けてはならない。この点について神社新報のボルテージは高い。
「現在、憲法改正の秋がやうやく到来した。すでに衆議院では改憲派の勢力が三分の二に達してをり、安倍総裁の任期も三年ある。あとは来年七月の参院選で改憲派の勝利を目指して全力を集中することだ。参議院で改憲派が三分の二の議席を確保できれば、いよいよ国民投票に持ちこめる。」
しかし、論説の最後はややしまりなく終わっている。
「神社界の中には未だ、なぜ神職が憲法改正の署名活動までやらなければならないのか、といった疑問を抱く人もゐると聞く。しかし、もしも神職が宮守りだけを務め、国の大本を正す活動に従事しなかったら、この国は一体どうなるのか。心して考へてみなければなるまい。我々自身の熱意と活動努力によって憲法改正はぜひとも実現しなければならないのである。」
「なぜ神職が憲法改正の署名活動までやらなければならないのか」。神社界の中にさえ、疑問はあるようだ。部外者にはなおさら分かりかねる。
この論説では、「神職が国の大本を正す活動に従事しなかったら、この国は一体どうなるのか」「憲法改正はぜひとも実現しなければならない」という。さて、「国の大本」とはなんだろうか。
安倍晋三の言う、「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」とよく似たものの言いまわし。漠然としていて、分かる人だけにしか分からない。
神道政治連盟のホームページに次のような組織の解説がある。
「世界に誇る日本の文化・伝統を後世に正しく伝えることを目的に、昭和44年に結成された団体です。戦後の日本は、経済発展によって物質的には豊かになりましたが、その反面、精神的な価値よりも金銭的な価値が優先される風潮や、思い遣りやいたわりの心を欠く個人主義的な傾向が強まり、今日では多くの問題を抱えるようになりました。神政連は、日本らしさ、日本人らしさが忘れられつつある今の時代に、戦後おろそかにされてきた精神的な価値の大切さを訴え、私たちが生まれたこの国に自信と誇りを取り戻すために、さまざまな国民運動に取り組んでいます。」
ここに述べられている「世界に誇る日本の文化・伝統」「精神的な価値」「日本らしさ」「日本人らしさ」とは何なのだろう。この人たちにとって、取り戻すべき「自信と誇り」とはなにを指すのだろうか。
それが、どうも次の5項目らしいのだ。
・世界に誇る皇室と日本の文化伝統を大切にする社会づくりを目指します。
・日本の歴史と国柄を踏まえた、誇りの持てる新憲法の制定を目指します。
・日本のために尊い命を捧げられた、靖国の英霊に対する国家儀礼の確立を目指します。
・日本の未来に希望の持てる、心豊かな子どもたちを育む教育の実現を目指します。
・世界から尊敬される道義国家、世界に貢献できる国家の確立を目指します。
キーワードは、天皇・改憲・靖国・教育・道義の5項目。だが、さっぱり具体的なことは分からない。むしろ、神職たちは次のように言うべきではないだろうか。
・現行憲法は、天皇の公的地位を、政治権力や宗教性から徹底して切り離すことで、天皇制を維持し安定したものとしています。私たち神職は、この象徴天皇制を擁護いたします。
・戦場に散った兵士だけでなく、敵味方を問わぬすべての戦争犠牲者を等しく慰霊することが神職たる私たちの務め。戦没者の慰霊を通して平和な社会の建設を目指します。
・日本の未来に希望の持てる心豊かな子どもたちを育むために、立憲主義・民主主義・平和主義、そして人権尊重の理念に徹した教育の実現を目指します。
・武力に拠らず平和主義の道義に徹することで世界から尊敬される国際的地位を目指すとともに、世界の貧困や差別の解消に貢献できる国家の確立を目指します。
・平和という日本の歴史と国柄をよく踏まえるとともに、世界の文明諸国と価値観を同じくする国家としての誇りを堅持するため、現行憲法を断固として護り抜きます。
そう。神職こそ、命と平和と自然を愛する立場から、断固として日本国憲法を擁護する立場を採るべきなのだ。そういえば、僧侶も同じだ。真摯な宗教者には、なべて護憲の姿勢がよく似合うではないか。
(2015年11月26日・連続第970回)
当ブログでの記述が名誉毀損とされ、私を被告として6000万円の損害賠償請求がなされている。これが、「DHCスラップ訴訟」。
本年9月2日、その一審判決の言い渡しがあって、請求は全部棄却された。被告の私が勝訴し、原告のDHC吉田は完敗となった。DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))に控訴事件が係属している。控訴審の事件番号は平成27年(ネ)第5147号。
その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日午後2時に指定された。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。地裁庁舎と同じ建物の上階8階に法廷がある。なんの手続も不要で傍聴が可能だ。ぜひ傍聴にお越し願いたい。表現の自由をめぐる闘いの現場で訴訟の推移を見守っていただきたい。表現の自由を守ろうとする被控訴人側の弁護団に心の内での声援をお願いしたいし、DHC・吉田側で代理人として出廷する弁護士の顔などをよく見てやってもいただきたい。
恒例になっている閉廷後の報告集会は、次のとおり。
午後3時から、東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・B
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
被控訴人弁護団の会議では、この口頭弁論期日で結審を求める方針。一回結審で来春に判決期日を迎えるということになるだろう。たった一回の口頭弁論期日である。この貴重な機会に、光前弁護団長と被控訴人本人の私の二人が法廷意見陳述ができるよう裁判所に要請している。支援の傍聴が満席であれば、心強いことこの上ない。
「DHCスラップ訴訟」とは、DHC(会長吉田嘉明)によるスラップ訴訟である。DHCは、サプリメント・化粧品販売の大手企業。その企業とそのオーナー会長である吉田嘉明の両者が、私の言論を封じようとして訴訟を提起している。提訴の狙いは、単に私の言論を封じることだけにあるのではない。むしろ、私を被告に訴訟の脅しをかけることで、社会全体に「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と恫喝して萎縮の効果を狙っているのだ。このような提訴をスラップ訴訟という。はからずも私は、典型的なスラップ訴訟の被告とされた。
スラップというこの言葉が、少しずつ社会に認知され浸透されてきた。このような形での訴権の行使は、形式的には裁判を利用する国民の権利の行使だが、実質において法が想定している権利擁護のための提訴ではなく、濫用として違法なものではないのか。金持ちが、カネに飽かせて汚いことをやる、というイメージも次第に形成されつつある。
「スラップ」という言葉の存在が有益だ。DHCがやっているこの訴訟を「スラップ」と呼称することによって、その表現の自由に対する挑戦としての性格と狙いを的確に伝えることができる。そして、スラップと言えばDHCであり、DHCといえばスラップなのだ。何ゆえ企業イメージをかくも貶める愚策を採ったのか理解に苦しむところだが、企業体質が冷静に衆知を集めるという作用機序の働く余地がないのだろうと考えざるをえない。
「スラップ訴訟」とは、「自分に不都合な言論を妨害し萎縮させることを狙った訴訟」と定義して差し支えない。ここで「妨害の対象となる言論」は、一般人の政治的・社会的強者に対する言論が想定されている。政権批判、政治家批判、政策批判、大企業批判、有産者批判、社会的影響力を行使しうる立場にある者への批判、そして政治と金にまつわる厳格な批判である。
無色の抽象的な言論一般は現実には存在しない。現実に存在する言論は、具体的な対象と内容とをもっている。表現の自由として保障(憲法21条)を受けるべきは言論一般ではなく、この世の政治的社会的強者を批判する具体的言論である。スラップ訴訟が嫌悪し封殺の対象とする言論は、このような政治的社会的強者に対する批判の言論にほかならない。したがって、スラップ訴訟の主体は、必然的に政治的権力か、社会的権力そのものである。
当然のことながら、表現の自由は無制限ではあり得ない。その表現が社会的な影響力を持つ以上は、誰かの名誉や信用、名誉感情を必ず侵害する。誰の権利も侵害しない表現について権利性を論じる実益はなく、表現の自由とは侵害される他者の権利を想定したうえでの、表現者の権利の原則的優越を宣言したものである。それでもなお、表現による被侵害権利を無視してよいことにはならない。
問題は、批判の言論の自由と、その言論によって侵害される批判対象の人格的利益との、二つの法的価値の調整である。言論の自由に原則的優越が認められるとしても、それは当該言論の社会的有益性を前提とする。もっぱら他人の人格的利益を侵害するだけの言論に、自由も権利も論じる必要はない。
この調整原理は、シチュエーションによって変わってくる。言論のテーマと、言論が批判の対象とする人の属性が、基本的なファクターと言うべきであろう。当該言論の影響力を加味してもよいかも知れない。
市井のできごとをテーマに、一般人を批判する言論には、相手を傷つけないような相応の配慮が必要である。そのような言論を格別に権利として保障をすべき必要は乏しい。さらに、匿名の「ネトウヨ言論」やヘイトスピーチのごとき弱者に対する差別的言論からは、原則的に権利性を剥ぎ取ってしかるべきである。
しかし、政治的テーマや社会的なテーマに関して、政治権力や社会的権力を持つ者に対する批判の言論は、最大限に保障されなければならない。それこそが、憲法21条「表現の自由」の真骨頂である。そして、この真骨頂としての表現の自由に、真っ向から挑戦するものが、スラップ訴訟なのである。
いま、スラップに対応策が考えられ始めているが、緊急に制度的な対応策の策定はなかなかに難しい。最も現実的な対応策は、スラップに対する社会的非難の世論形成である。スラップ提起を汚いことという社会的な批判を定着させることにより、スラップ訴訟提起者のイメージに傷がつき、到底こんなことはできないという社会の空気を形成することである。
その場合、まずはスラップの被害を受けた当事者が大きな声を上げることが重要である。いま、私はそのような立場にある。社会的な責務として、DHC吉田の不当を徹底して批判しなければならない。その不当と、被害者の心情を社会に訴えなければならない。
そのような責務に照らして、私のブログはどうか。私の批判はまだ足りない、生温い。質的にも量的にも、もっと批判を徹底し、もっと多くの人々にDHCと吉田嘉明の不当・違法を知ってもらい、天下に周知させなければならない。世の中の隅々にまで、「DHCといえば、あのスラップ訴訟の常習者」という常識を広げたい。連想ゲームで、「DHC」といえば、条件反射的にまずは「スラップ」と言わしめなければならない。続いて、「巨額政治資金提供」「裏金」「スラップ」「言論封殺」「厚生行政規制も消費者行政規制大嫌い」「社会的規制の緩和」「敗訴に次ぐ敗訴」などと誰もが口を突いて負のイメージの言葉を発するまでにさせたい。「スラップ訴訟とは天に唾するもの、結局は自らに報いを招くもの」と身に沁みさせて、今後の戒めになるようにである。
だから私は、経過を詳細に当ブログで報告して、多くの人に知ってもらい、言論弾圧の一手段たるスラップ訴訟に対する闘いの一典型を示そうとしている。何よりも、DHC吉田のごときスラップ提訴の常習者に対しても批判の言論の萎縮があってはならないことを示さなければならない。そして、社会悪としてのスラップ訴訟をどうしたらなくすることができるのか、スラップ訴訟提起者や加担者の責任と制裁はどうあるべきか考えていただくよう、問題提起し材料を提供しなければならない。
当ブログに掲載すべきテーマは種々あるが、何よりも「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズの充実が第一である。
(2015年11月25日・連続第969回)
「安保関連法賛成議員の落選運動を支援する・弁護士・研究者の会」(略称 落選運動を支援する会)は、本日ホームページを正式に起ち上げ、活動を開始した。
下記URLを開いてご覧いただきたい。
http://rakusen-sien.com/
その運動の趣旨とご協力を依頼する呼びかけ文は以下のとおり。
2015年9月19日、安倍内閣は安保関連2法を強行採決により「成立」させました。日本国憲法の平和主義を直接に蹂躙するだけでなく、立憲主義や民主主義をも破壊する立法であります。
この法案に反対する国民運動は大きな高揚と広がりを見せましたが、結局のところ国会議員の数の力で衆参両院において賛成多数で「可決」されました。この運動の中から、安保法制賛成議員を落選させようとの声がおこりました。
私たちも、立憲主義、民主主義に違反した議員はそれ自体で国会議員としても失格であると同時に今後の国政に関与することは有害であると考えます。
そこで、この法律に賛成票を投じた議員を次の選挙では落選させようという運動を支援するために「安保関連法賛成議員の落選運動を支援する・弁護士・研究者の会」(略称 落選運動を支援する会)を立ち上げます。
この会の具体的な当面の活動は
?落選対象議員の収支報告書などが総務省や都道府県の選管で公開されているのを一元管理するサイトを立ち上げ、広く有権者が閲覧できるHPを立ち上げることにあります。当面は2016年7月参議院選挙の「選挙区」議員の42名に絞っています。比例区の安保法制賛成議員についても順次公開していきたいと思います。
?上記の落選対象議員の収支報告書の調査の過程で、不透明な収入や支出があれば、その情報をHPに公開していきます。もし法に違反する場合は刑事告発等の法的手続を会のメンバーや市民と共同で行うこともあり得ます。
?落選対象議員の情報の提供を広く市民に呼びかけ、調査の上で問題事例があれば、HPに公表するとか、公開質問状を出すとか、又は市民が告発などを行うことを支援したりします。
?市民の落選運動の中で具体的な問題が生じたときには法的なアドバイスやサポートをすることも検討中です。
?この会は安保法制に賛成議員の落選運動のみに関与し、特定の政党、特定の候補者などの支援、選挙活動を行うことは一切ありません。
ぜひ皆さま、積極的にご参加くださるようお願いします。
公職選挙法の選挙運動と誤解されないために、賛同者の中で、特定の政党や特定の候補者、野党統一候補者が決まった時に支援、選挙活動を予定されている方はせっかくですが、ご遠慮されたくお願いします。
この会に賛同される方は
弁護士の方は、氏名、期 所属会 事務所、メールアドレス、選挙権がある地区
研究者の方は、氏名、所属大学、メールアドレス、選挙権がある地区
お書き下さり、呼びかけ人にご連絡下さい。
なお、賛同者が一定の人数に達したときは氏名はこの会のHPに公表することを予定しています。賛同するが氏名の公表が不味い方も参加歓迎です。
2015年11月
呼びかけ人
阪口徳雄(大阪弁護士会)・澤藤統一郎・梓澤和幸・(以上東京弁護士会)
郷路征記(札幌弁護士会)
上脇博之(神戸学院大学法学部教授)
そして本日、告発第1号事件として、カレンダー配布で有名になった、島尻安伊子議員(沖縄県選挙区)を那覇地検に告発した。
告発状は下記URLをご覧いただきたい。
http://rakusen-sien.com/topics/2982.html
告発理由は以下のとおりである。
第1 安保法制に賛成した議員であること(立憲主義を理解していないこと、その反省もないので今後も同様に憲法に違反する可能性が高く今後の日本の政治にとって有害であること)
第2 2010年7月の参議院選挙に際して普天間基地などを国外移転と公約に掲げながら、自民党の石破幹事長から詰められ、公約を踏みにじり国内移転に転換したこと(公約を破る議員は国会議員として失格であること)
第3 政治とカネについて告発状の通り「違法」「不透明」であること
さて、当面の落選運動ターゲットは下記の42名である。サイトでは、次のとおり指摘している。
憲法の最高法規性を否定する安保法制に賛成し、民主主義、立憲主義を蹂躙した国会議員はそれだけで議員として失格で今後の政治家としても有害です。当面は2016年7月の参議院議員選挙における「選挙区」更には「比例区」議員の情報を集め、順次このサイトに掲載予定です。多くの情報の提供を呼びかけます。
北海道 長谷川岳
青森 山崎力
宮城 熊谷大
秋田 石井浩郎
山形 岸宏一
福島 岩城光英
茨城 岡田広
栃木 上野通子
群馬 中曽根弘文
埼玉 関口昌一
西田実仁
千葉 猪口邦子
東京 竹谷とし子
中川雅治
松田公太
神奈川 小泉昭男
新潟 中原八一
富山 野上浩太郎
石川 岡田直樹
長野 若林健太
岐阜 渡辺猛之
静岡 岩井茂樹
愛知 藤川政人
京都 二之湯智
大阪 北川イッセイ
石川博宗
兵庫 末松信介
和歌山 鶴保庸介
鳥取 浜田和幸
島根 青木一彦
岡山 小野田紀美
広島 宮澤洋一
山口 江島潔
徳島 中西祐介
香川 磯崎任彦
愛媛 山本順三
福岡 大家敏志
佐賀 福岡資麿
長崎 金子原二郎
熊本 松村祥史
鹿児島 野村哲郎
沖縄 島尻安伊子
下記のURLを開いていただきたい。
http://rakusen-sien.com/rakusengiin
上記の落選運動対象議員関係団体の政治資金収支報告書がすべて分かるようになっている。公開資料だが、これが武器だ。それぞれの報告書をよくよくお読みいただきたい。その上で、「これはおかしい」という情報を会までご連絡いただきたい。会への連絡方法はサイトに掲載してある。
憲法と民主主義と平和をないがしろにする候補者を、主権者の手で落選させよう。
選挙運動の自由を制限すること厳しい「べからず公職選挙法」も、落選運動を規制対象とはしていない。すばらしい理念に基づいた、すばらしい運動ではないか。
われわれに権力はない。しかし、法を味方につけることは可能だ。情報を寄せ合い、落選運動対象議員の違法を告発し、告発を通して世論を喚起し、本気になって反憲法、反民主主義、そして反平和の候補者を落選させ国会から一掃しよう。
(2015年11月24日・連続第968回)
毎日新聞に毎日掲載の「仲畑流万能川柳」欄。時事ネタ・政治ネタは必ずしも、この川柳欄の得意分野ではないが、世事万端に多様多彩、眺めて楽しいし感心すること頻り。高踏趣味でなく庶民の目線であることが誇らしげである。毎日18句掲載のうち1句を秀逸句として筆頭に挙げるが、「秀逸」句の選定にはおそらく誰も得心しない。ということは、厖大な没句の中に、多くの秀句が隠れているのだろう。この点、人生模様と変わらない。
句の感想や解説など野暮は承知で、11月19日から本日(23日)まで最近5日の掲載句から、各日1句を牽強付会に引用して紹介する。はからずも、常連ばかりの作となった。
19日 絶対に票入れぬよう名をメモる 愛知 舞蹴釈尊
これは、落選運動支援句である。戦争法に賛成し、我が国の立憲主義・民主主義・平和主義をないがしろにした、自民・公明両党を中心とする国会議員を落選させなければならない。安倍政権との親密さを隠さず改憲勢力の一端をなす大阪維新の候補者も「絶対に票入れぬよう、名をメモって」おかなければならない。
「安保関連法賛成議員の落選運動を支援する・弁護士・研究者の会」(略称 落選運動を支援する会)は、満を持して明日(11月24日)活動を開始する。ホームページも正式に起ち上がる。もちろん、落選運動対象議員を具体的に特定して、「絶対に票入れぬよう」呼びかける。票入れぬよう呼びかけるだけでなく、それぞれの予定候補者について、徹底した「身体検査」の実施に参加するよう呼びかける。違法を確認できたものから、順次告発を続けていく。
ぜひご注目いただきたいし、積極的に運動にご参加いただきたい。最低限、票を入れてはならない議員・候補者を、会のホームページからメモしていただきたい。そして、大いに拡散していただきたい。
20日 見るからに社会の縮図組体操 和歌山 破夢劣徒
運動会での組み体操は、昔もあった。が、規模は小さいもので、崩れることは滅多になく、仮に崩れたところで、やり直せば済むだけのものだった。それが今組み体操は、観客からの見映えよろしき大規模なものに進化し、それ故に危険なものになっているという。この句は、これを「社会の縮図」と着眼している。
段数を増し規模を拡大することによって、下層にあって上層を支える者の重圧は増すことになる。上層に位置する者は高みにあって安定感に乏しく、落下したときの被害は大きくなる。何よりも組み体操全体が、規模の拡大に伴ってリスクも増大する。崩壊の危険が増し、崩壊時のダメージが修復不能なものとなる。これこそ、社会の縮図ではないか。言い得てまことに妙である。
21日 抑止力最後は核に辿りつく 矢板 次男坊
この句は限りなく替句の応用範囲が広い。抑止力というものの本質が、実にファジーだからなのだ。
抑止力最後は憎悪に辿りつく
抑止力最後は増税に辿りつく
抑止力最後は徴兵に辿りつく
抑止力最後は国家総動員に辿りつく
抑止力最後は密告社会に辿りつく
抑止力最後はファシズムに辿りつく
抑止力最後は戦争に辿りつく
抑止力はなから戦争狙ってる
22日 桃太郎鬼のいる島侵略し 取手 崩彦
桃の実伝承はともかく、鬼ヶ島征伐説話は戦前日本の対外進出と符節を合わせたものなのだろう。1930(昭和5)年初版発行の柳田国男「日本の昔話」(108話)の中には桃太郎話しは採話されていない。昔から不思議に思っていた。鬼はどんな悪事を働いたというのだろうか。鬼の宝物を奪ってくれば、明らかに強盗ではないか。桃太郎が押し入ったのは、本当に「鬼」の住む島だったのだろうか。
川柳子は、桃太郎一味を一国になぞらえて「侵略」と喝破した。軍事大国とその目下の同盟国による、集団的自衛権行使を名目とする侵略行為。その侵略行為が、侵略する側の国民には、童話や説話として抵抗感なく子どもたちにも語られるのだ。鬼の子どもたちには、恐るべき侵略者へのジハードが語られているかも知れない。
23日 経験が邪魔な上司と足りぬ部下 八尾 立地Z骨炎
本日の秀逸句である。面白い句であるような、ないような。
作者は常連中の常連。大阪府八尾の人。大阪なればのパロディいくつか。
経験が邪魔な橋下と足りぬ吉村
経験が邪魔な維新の衣替え
大阪人欺される経験まだ足りぬ
経験が邪魔して進まぬ都構想
(2015年11月23日・連続967回)
借り物でない、自分の言葉を語れる人は少ない。実体験から滲み出た、そのような人の言葉は重く、聞く人の心に響く。張本勲の言葉などはその実例であろう。
彼の本名は張勲(チャン・フン)、在日2世である。幼少の大火傷と右手の後遺症、被爆体験、父の死と貧困、そして差別。それを乗り越える原動力となった家族愛、あまりに重い体験の数々。
その人が、昨日(11月21日)の毎日夕刊「レジェンドインタビュー」で、実に率直にこう語っている。
「野球で有名になろうというのには、二つ大きな目的があった。一つはおいしいものを腹いっぱい食べたい。もう一つは、お袋をトタン屋根の6畳一間から連れ出して、小さな家でも作ってあげたい。僕はお袋の寝た顔を見たことがないんだ。朝早く起きて、夜遅くまで働いているから。お袋を楽にしたいと思えば、人の2倍、3倍、練習せざるを得ない。」
また、やはり毎日新聞の「夕刊ワイド」(2015年5月)でこうも語っていた。
「私が野球を通して学んだのは『いい時ほど自分を疑え』です。
今日、ホームランも打ったとなれば、誰だって有頂天になる。だが、ちょっと待てよ。たまたま打てただけで明日は分からない、と自分を疑うから、私は人より努力しないとダメだと思っていた。人間、誰でも間違いますから。自分を疑うくらいでちょうど良いんです。最近は、自分を疑うことのできない人が増えているように感じます。」
「(インタビュアー)最近の政治家などもそうですね。
その政治家を選んだのは有権者ですから。自分の選択が本当に正しいのか、疑う必要がありますね。政治家といえば国を左右する船頭です。それなのに、『テレビで見たことがある有名人だから』などの理由で投票する人がいる。政治家が国会で歌を歌うんですか? 野球するんですか? 有名人を政治家に選ばないでください。この国をダメにする。選挙は、政治をちゃんと学んだ人を選ばないと。」
「私は広島生まれの広島育ちです。韓国籍ですが、外国人だというような感覚は一切ありません。僕はね、もう、モンゴルあたりから日本まで全部同じ民族だと思っているんです。日本は島国だし、多くの人はどこかしら『渡来人』です。だから日本人を語る時、私は同じ日本人の立場で語っているつもりです。」
私が膝を打ったのは、昨日のインタビューでの次の彼の言葉。
「例えば戦争ね。(戦没者は)犠牲者じゃない、身代わりなんだよ。たまたま(原爆の落ちた)長崎におった、広島におった。私たちの身代わりになってくれたんだ。それでこんな裕福な国になったと思えばね、後ろめたいことはできませんよ。」
彼は、原爆で姉を失っている。自身も被爆者健康手帳を持つ身。「身代わり」という言葉には、実感がこもっている。彼のいう「戦没者は、生き残った者の身代わり」という表現と感覚。実に的確でよく分かる。
戦没者の死をどう見るか。対極的な二つの立論がある。一つは「国の礎」論であり、もう一つは「犬死」論である。
「国の礎」論は、「戦没者の尊い犠牲の上に、今日の我が国の平和と繁栄があります。その国の礎となられた御霊に心からの感謝と尊崇の誠をささげます」、あるいは「先の大戦では、多くの方々が、祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは戦後遠い異国の地に亡くなられました。この尊い犠牲の上に、今日の平和は成り立っていることに思いを致し、衷心からの感謝と敬意を捧げます」などという、政府定番の言い廻し。軍人軍属については「英霊」と置き換えられる。遺族会は「国の礎となられた英霊」という言葉遣いをしている。
要するに、戦死戦没の美化であり、戦没者への賛美である。もちろん、戦没者や遺族の心情に思いやらぬ者はない。だから、「戦没者は国の礎である」とか、「靖国には英霊が祀られている」などという言い方に、表立っては反対しにくい。
その反対しにくいところを、敢えてズバリと「侵略戦争での侵略軍側の死は無意味な犬死以外の何ものでもない」「戦没者は、天皇制日本に殺されたのだ」と、言い切るのが、「犬死」論である。そして、「戦没死の無意味さを美化することなく認めるところが、反戦平和の思想の立脚点でなければならない」「犬死にをもたらす戦争を再び繰り返してはならない」と論理は明快である。
私は、けっして「国の礎論」「英霊論」には立たない。基本的には「犬死」論の立場だが、戦死を「犬死」と言いきることにためらいを感じる。この微妙な問題で遺族の心情に配慮しなければならないという戦術的配慮としてではなく、犬死論には、決定的な何かが欠けているという感覚を捨てきれないのだ。
戦争の惨禍の上に、ようやく我が国が神権天皇制から脱却し得た。はじめて、理性にもとづく国家の建設が可能となった。将兵が、君のため国のために勇敢に闘ったからではく、厖大な個別の戦死の積み重ねによって敗戦にいたって、敗戦がこの国を真っ当な国としたのだ。そう考えるときの戦没者の死は、犬死にと呼ぶべきなのだろうか。
その二論の中間に、張本の言う「身代わり」論は位置する。
彼が、「(戦没者は)犠牲者じゃない」とつよく否定するのは、国策遂行過程での犠牲者としての英雄視や顕彰への違和感からだろう。また、それを通じての戦争への批判封じを警戒しているものと理解したい。「国のために犠牲になられた立派な方への批判は許せない」「むしろ国の礎を築いた方として感謝申し上げなければならない」。そのような戦没者観は、あの戦争の性格を侵略戦争とは認めがたいし、皇軍の蛮行の批判を許さないことにもなる。
戦没者を国との関係での犠牲と理解するのではなく、「死者は生者の身代わりとなった」と戦没者を自分との関係で考えることに積極的な意味があるのではないだろうか。自分の身代わりとしての戦没者の死は、自ずから自分の死と置き換えて考えることにつながる。自分の問題として、「あんな戦争で死んでもよいのか」と考えることにもなる。けっして戦争を美化することなく、「戦没者の死を我がこととして悼む」ことも、「死を無駄にしない社会を作ろうと決意をする」ことにもつながることになるだろう。
それが、張本自身の「(戦争を生き延びた者は、身代わりとなって亡くなった戦没者に)後ろめたいことはできませんよ。」という言葉になっている。そのように理解して、噛みしめたいと思う。
(2015年11月22日・連続966回)
「疾風に勁草を知る」という。
風が疾い時にこそ勁い草の一本でありたい、強くそう思う。
戦争が近づいてくるほどに、声高く平和を叫ばなければならない。ナショナリズムが世を席巻するときにこそ、近隣諸国との友好を深めねばならない。憲法が攻撃されているときにこそ、これを擁護しなければならない。「テロを許すな」「テロと戦え」の声が満ちているいまであればこそ、自由や人権の価値を頑固に主張し続けねばならない。この事態に乗じようとする不逞の輩の妄動を許してはならない
11月19日と20日、フランス下院と上院は、パリ同時多発テロ直後にオランド大統領が宣言した非常事態の期間を3カ月間延長して来年2月25日までとする法案を可決した。フランスの基本理念である「自由」を犠牲にしてでも「イスラム国」打倒を目指す決意を鮮明にしたもの、と報道されている。
オランドは、今回のテロ直後から、大統領権限強化のための憲法改正を要求しており、バルス首相は20日の上院で「内外でテロとの戦いを強化する。テロの危険に目を閉ざしてはならない」と述べている。
今、バルスのいう「内外でテロとの戦いを強化する。テロの危険に目を閉ざしてはならない」の言は、誰の耳にも入りやすい。場合によっては、憲法改正の糸口ともなりかねない。そのような風が吹くときだけに、これに抗して姿勢を崩さない勁さをもたねばならない。
我が国でも、当然のごとく出てきたのが、どさくさに悪乗りしての「共謀罪」構想。
「自民党の谷垣禎一幹事長は17日、パリの同時多発テロ事件を受けて、テロ撲滅のための資金源遮断などの対策として組織的犯罪処罰法の改正を検討する必要があるとの認識を示した。改正案には、重大な犯罪の謀議に加わっただけで処罰対象となる『共謀罪』の創設を含める見通しだ。」(朝日)
これまで3度廃案になっている共謀罪。自民党には、「好機到来」というわけだ。
自民党憲法改正草案には、「緊急事態」制度の創設も盛り込まれている。この具体的改憲案の必要性をアピールすべきはまさしく今、ということになろう。治安の強化とは、人権を制約すること。テロの脅威は、政権にとっての神風である。政権への神風は、草民には禍々しい凶風なのだ。
思い起こしたい。憲法がなぜ本来的に硬性であって、慎重な改正手続きを要求しているかの理由を。国民の意思は、必ずしも常に理性的とは言えない。一時の激情で、後に振り返って見れば誤ったことになる判断をしかねない危うさをもっている。だから、憲法改正には、落ち着いて、冷静な議論を重ねるための十分な時間が必要なのだ。でなければ、権力を強化し人権を制限する、取り返しのつかない事態を招きかねないことになる。
勁い草になろう。「テロを許すな」の風に翻弄されるだけの存在であってはならない。
(2015年11月21日・連続第965回)