澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

負の記憶をよみがえらすものー「日の丸」と「南軍旗」

本日は、東京「君が代」裁判・第4次訴訟の弁護団会議。7月3日提出期限の原告準備書面(5)を作成のための内容討議。私を除いて、同僚各担当者の進捗状況は順調だ。みんなよくやる。実に頼もしい。

多くのテーマが議題に上ったが、その一つが「国家が国旗国歌を強制することのイデオロギー性」、あるいは「国旗国歌を強制する儀式のイデオロギー性」。国家が特定のイデオロギーを持つことによって、それと抵触する国民の精神的自由を侵害することになる。憲法の条文を引用すれば、19条の思想良心の自由侵害、20条の信教の自由の侵害。そもそも国旗国歌というものが、国民を国家に統合する機能をもつ以上、国家主義のイデオロギーと無縁ではない。それが、「日の丸・君が代」であることは、無色な国家への統合ではなく、旧天皇制国家の理念への統合という特定のイデオロギーを持つことになるのではないか、という問題意識。

旗や歌が、特定の価値観やイデオロギーの象徴となることについては、最近のアメリカで再確認されている。米南部サウスカロライナ州チャールストンの黒人教会で起きた銃乱射事件を契機として、犯人が所持を誇示していた「南軍旗」を公共の場所から撤去すべきだという意見が世論の支持を獲得しつつあるというのだ。

6月26日同市内で催された犠牲者の葬儀では、オバマ大統領が追悼演説をして、「南軍旗」の掲揚を「組織的な抑圧と人種に基づく支配の記憶をよみがえらすものだ」と主張し、撤去を呼びかけたと報じられている。シンボルとしての旗の取扱いの問題として興味深い。当然に「日の丸・君が代」問題と重なる。

伝えられているところでは、南部諸州では白人保守層を中心に、旧南部の魂を表すものとして、あるいは南北戦争の南軍側戦没者に敬意を示すものとして「南軍旗」(The Battle Flag)への支持が根強いそうだ。大統領は、同旗の撤去は「南軍の兵士の勇気を侮辱するものではなく、奴隷制(の維持)という戦争の目的が間違っていたと認めるだけのことだ」と訴え、さらに「癒えていない傷を抱える多くの人々にとっては、控えめだが、意味のある癒やしとなる」と述べ、黒人らの人種差別への不満解消にもつながるとの認識を示した(毎日)という。また、大統領は、同演説の最後で、黒人の心の支えになってきた賛美歌「アメージング・グレース」を歌い出し、参列者数千人が合唱したという。旗だけでなく、シンボルとしての歌の出番もあったわけだ。

1861年アメリカ合衆国からの分離独立を宣言した南部諸州によってアメリカ連合国(Confederate States of America)の建国が宣言された。その陸軍旗が「南軍旗」である。赤地の正方形にX状の青い帯を交差させ、その帯に連合国参加13州を表す13個の星を配したデザイン。この軍旗のもと、将兵の士気もモラルもプライドも高かったとされる。

南北戦争は夥しい犠牲を払って1865年に終結。南軍は敗れて、軍旗もなくなった…はず。ところが、南軍旗はさまざまな形で南部各州に温存され受継されてきた。それぞれの州のアイデンティティを象徴するものとしてであるらしい。サウスカロライナ州では州議会の議事堂前に掲げられたままになっているという。27日には、南軍旗掲揚に反対する黒人活動家の女性がポールをよじ登り、旗を降ろすという「事件」がおきた。同女性は逮捕されたが、「白人優位を取り除き、真の人種的正義と平等の実現を真剣に考えるべき時だ」と掲揚の中止を訴え、反対派は「これは憎しみの旗ではなく(歴史的)遺産の旗だ」と語っているという。どこも、よく似た話しとなるようだ。

旗も歌もシンボル(象徴)である。何をシンボルしているのか、明確な場合もあるが、不明確なこともある。人によってイメージが食い違い、社会的に理解が分裂していることも少なくない。

南軍旗は白人保守層には、南部のアイデンテティや勇気の象徴でもあり、南北戦争の戦没者への敬意のシンボルでもあるようだが、差別をする側にとっての威嚇のシンボルとしても作用し、差別される側には恐怖と困惑のシンボルともなっている。

日の丸も、事情はよく似ている。1945年8月まで日の丸は、大日本帝国と深く結びついて、皇国のシンボルであった。皇国の臣民であることに疑問を持たない者にとっては、皇国の精強と繁栄のシンボルでもあったろう。しかし、同時に対外的には近隣諸国への侵略と植民地支配のシンボルであり、国内的には天皇制による思想弾圧と宗教統制のシンボルでもあった。要するに、南軍旗と同様の負の歴史の象徴なのである。日の丸の「負」の意味は、日本国憲法の普遍的な諸理念に照らしてのものである。

70年前に、日本は原理的な転換を遂げ、まったく理念を異にする新たな国に生まれ変わった。日の丸のシンボライズの対象であった「大日本帝国=皇国」は消滅した…はずであった。ところがいま、国旗国歌として法定されたものが、戦前とまったく同じ「日の丸・君が代」なのである。

南軍旗と同様、ある人にとっては、戦前戦後を通じての「日本」のシンボルとして愛着の対象であるが、別の人にとっては日本の軍国主義による侵略戦争と植民地支配の象徴として到底受容できない。「君が代」も同じ。戦前戦後の断絶など意識しない人々にとっては、戦前と同じ国歌に抵抗感がない。しかし、戦後の理念的大転換にこだわる人々にとっては、その歌詞が明らかに天皇の御代の永続をことほぐ内容であることから国民主権の世にふさわしからぬとして、受け入れがたいことになる。

信仰を持つ者にとってはさらに事態は深刻である。「日の丸」は太陽神アマテラスのシンボルであって、ある信仰にとっての忌むべき偶像に当たりうる。一般的にどのように思われているかが問題ではなく、信仰者一人ひとりにとってのシンボルの理解が重要なのである。「君が代」も、祖先神の子孫であり、かつ自身も現人神であるとされている天皇への讃歌として歌うことができないとする人が確実に存在する。

要は、特定の旗や歌を、どのような理念のシンボルと把握するかということなのだ。ハーケンクロイツも、南軍旗も、そのシンボライズする理念が受け入れがたいものとなったとき、旗も廃絶されあるいは撤去されることになる。

理念への対処は目に見えない。理念を象徴する旗や歌の扱いで、理念を受容するか排斥するかを示すことが可能となる。南軍旗の掲揚拒否の動きがそれを教えている。本来、70年前の敗戦時に、あるいは日本国憲法制定時に、「日の丸・君が代」は廃絶宣言をされてしかるべきだった。南軍旗撤去問題の報道に、あらためてそう考える。

にもかかわらず、廃絶宣言を免れて生き延びた「日の丸・君が代」を、あろうことか権力的に強制しようというのが東京都教育委員会の立場なのだ。到底是認し得るはずもなかろう。
(2015年6月30日)

「言論封殺の恫喝に屈してはならない」 7月1日結審法廷での被告本人陳述確定稿ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第46弾

私自身が被告とされているDHCスラップ訴訟は、明後日(7月1日・水曜日)午後に結審予定となっています。公開の法廷で裁判を受けることは国民の権利ですし、法廷傍聴も国民の権利です。どなたでも法廷にお入りください。身分証明も不要ですし、名前を登録する必要もありません。但し、今回も抽選はありません。傍聴席が満杯になればご遠慮いただかざるを得ません。その場合は、報告集会にお越しください。こちらは立ち見でも、参加可能です。

その7月1日(水)の予定は以下のとおり。
  15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
          被告本人(澤藤)意見陳述(10分)。
          その後に弁論終結、判決期日指定。
  15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室 報告集会
          弁護団長 本日までの経過説明(常任弁護団から補充)
          田島泰彦上智大教授 ミニ講演
           本件訴訟の各論点解説とこの訴訟を闘うことの意義
          弁護団・支援者・傍聴者 意見交換
           ・感想意見の交換
           ・判決報告集会の持ち方
           ・他のDHCスラップ訴訟被告との連携
           ・原告や幇助者らへの制裁など
          被告本人 お礼とご挨拶

7月1日法廷では、私が口頭で10分間の意見陳述をします。本日は、その原稿を掲載します。10分間の朗読原稿なので、意を尽くしているとは言い難いのですが、が、短くて読み易く、何がどのように問題なのか、要点を把握しやすいと思います。ぜひ、ご一読ください。

この日、結審となって次回は判決期日となります。この判決は、主文だけでなく、判決理由が注目されるところです。問題は、憲法上の言論の自由に関わるだけではありません。政治とカネの問題にも、消費者問題の視点からの規制緩和問題にも関連しています。

ところで、「昔武富士、今DHC」。悪名高いスラップ訴訟の常連企業です。武富士はつぶれて過去の存在となりましたが、スラップ受任常連弁護士は健在です。DHCもその受任弁護士も健在。今後もスラップ訴訟が繰り返される恐れは払拭できません。これを防止するためには、ひとつひとつのスラップ事件で提訴の不当を明確にする判決を積み上げていくことが重要だと思います。

DHCは労働組合運動に対する恫喝訴訟などの前歴もありますが、「8億円裏金事件」批判に対するものとしては10件のスラップを提訴しました。そのうち1件は取り下げ、2件で一審判決が出ています。もちろん、DHC側の完敗。関連した仮処分事件が2件あり、これも地裁と抗告審の高裁で、DHCは完敗しています。今のところ、DHCは6戦6敗。おそらくは、私の判決が7敗目となるはず。ご注目をお願いいたします。

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H26年(ワ)第9408号
            被 告 本 人 意 見 陳 述
 東京地方裁判所民事24部御中
                     被告本人 澤 藤 統一郎
 口頭弁論終結に際して、意見を申し述べます。
 私は、突然に被告とされ、心ならずもの応訴を余儀なくされています。当初は2000万円、途中請求の拡張があって6000万円の支払いを請求される立場とされています。当然のことながら、心穏やかではいられません。不当な提訴と確信しつつも、むしろ不当な提訴と確信するからこそ、このうえなく不愉快な体験を強いられています。理不尽極まる本件提訴を許すことができません。
 私に違法と判断される行為や落ち度があったはずはありません。私は、憲法で保障されている「表現の自由」を行使したに過ぎないのです。むしろ、私は社会に有益で有用な言論を発信したのだと確信しています。提訴され被告とされる筋合いはありえません。
 本件で問題とされた私の言論の内容は、「政治をカネで歪めてはならない」という民主主義社会における真っ当な批判であり、消費者利益が危うくなっていることに関しての社会への警告なのです。この点について、十分なご理解をいただきたいと存じます。
なお、もう一点お願いしておきたいことがあります。私の書いた文章が、原告の訴状ではずたずたに細切れにされています。原告は、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけをして、「違法な文章」に仕立て上げようとしています。貴裁判所には、原告が違法と非難する5本の各ブログの文章全体をお読みください。そうすれば、各ブログ記事が、いずれも非難すべきところのない言論であることをご理解いただけるものと確信しています。

 私は、40年余の弁護士生活を通じて、政治とカネ、あるいは選挙とカネをめぐる問題には関心を持ち続けてきました。また、消費者問題にも強く関心をもち、消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験してきました。弁護士会内の消費者委員会活動にも積極的に関与し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤めています。消費者問題に取り組む中で、官僚規制の緩和や規制撤廃の名目で、実は事業者の利益拡大の観点から消費者保護の社会的規制が攻撃され、その結果消費者保護行政が後退していくことに危機感を募らせてきました。そのことが本件各ブログの内容に反映しています。
 私の「憲法日記」と標題するインターネット・ブログは、弁護士としての使命履行の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。現在継続中のものは、2013年4月1日に自前のブログを開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めたもので、昨日で連続更新記録は821日となりました。公権力や社会的強者に対する批判の視点で貫かれています。そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。

 2014年3月に「週刊新潮」誌上での吉田嘉明手記が話題となる以前は、私はDHCや原告吉田への個人的関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金規正のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについての、公益目的でのブログ記事であることに、一点の疑義もありません。

 本件訴訟では、原告両名が、私の言論によって名誉を侵害されたと主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものにほかなりません。誰をも傷つけることのない言論には、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。原告両名は、まさしく私の権利行使としての言論による名誉や信用の毀損という「被害」を甘受しなければならない立場にあります。
 このことを自明という理由の第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。しかも、原告吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「私人性」を放棄し、「公人性」を獲得したのです。
 もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与した人物なのです。しかも、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのです。週刊誌を利用して自分に都合のよいことだけは言いっ放しにして、批判は許さないなどということが通用するはずはないのです。
 その第2点は、私の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマにおけるものだからです。原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱しているというのが、私の批判の内容です。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまいます。民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
 さらに、第3点は、私の言論がすべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、常識的な推論をもとに論評しているに過ぎないことです。意見や論評を自由に公表し得ることこそが、表現の自由の真髄です。私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材として、常識的に推論し論評したに過ぎないのですから、事実の立証も、相当性の立証も問題となる余地はなく、私の論評がどんなに手厳しいものであったとしても、原告吉田はこれを甘受せざるを得ないのです。

にもかかわらず、吉田は私を提訴しました。カネをもつ者が、そのカネにものを言わせて、自分への批判の言論を封じようという濫訴が「スラップ訴訟」です。はからずも、私が典型的なスラップ訴訟の被告とされたのです。原告吉田が私をだまらせようとして、2000万円の損害賠償請求訴訟を提起したことに疑問の余地はありません。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、もっともっと大きな声で、何度も繰りかえし、原告吉田の提訴の不当を徹底して叫び続けなければならない、そう決意しました。

 その決意の結果が、同じブログへの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。昨日までで46回書き連ねたことになります。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、請求原因を追加し、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。

 原告吉田嘉明の週刊新潮手記が発表されると、渡辺喜美だけでなく原告吉田側をも批判する論評は私だけでなく数多くありました。原告吉田はその内の10件を選び、ほぼ同時期に、削除を求める事前折衝もしないまま、闇雲に訴訟を提起しました。明らかに、高額請求訴訟の提起という恫喝によって、批判の言論を委縮させ封じこめようという意図をもってのことというべきです。

 本件は本日結審して判決を迎えることになります。
 その判決において、仮にもし私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。
 貴裁判所には、このような提訴は法の許すところではないと宣言の上、訴えを却下し、あるいは請求を棄却していただくよう要請いたします。
(2015年6月29日)

敵に塩を送るの話ーー松村包一さんの詩とパロディ

つまらね? ??じいじの昔話

昔々、この国が未だ幾つもの領国(くに)に分かれて
互いに戦をしていた頃の話じゃがの
海辺の領国の領主じゃった謙信公はの
内陸の敵国の領主じゃった信玄公の陣営に
大事な塩をたっぷり送り届けたそうじゃ
みみっちい経済封鎖なぞ考えもせんかったと

それから幾百年もの時がたち、この国は
一つの国となり、いろいろあっての揚句だが
自由だの平和だのと叫んでも一人も掴まらず
民主主義の独立国と威張っておったが
何の、何の、独立国とは名ばかりで
実は亜米利加という大国の属国じやったと

その頃、海の向こうの半島の一角には
何々人民民主主義共和国なんたらかたら
名前だけは滅法、民主主義風の国があっての
そこの恐怖の独裁的首領様、兼将軍様は
原爆を開発したり、ミサイルをうちあげたりして
日本や亜米利加の戦狂いやら武器商人やらを
めっちや喜ばせ、活気づかせたんじゃと
つまり敵陣に塩を送っちまったわけさ

一方日本は世界第二の経済大国となり
トョタやらキヤノンやらの大企業がひしめき
ボロ儲けをした揚句、若い働き手を数千数万と
師走の巷や河辺に放り出したんじゃと
アコギなことよ、ところがそれがの
奴等の強敵共産党に元気の源(もと)を吹き込んで
ますます強い相手にしちまったんだと
ここでも 敵陣に塩 と言ったわけさ

世の中とは斯ういうもんじゃて……
何? つまらね?

以上の詩は、松村包一さんの「詩集 夜明け前の断絶?テロと国家と国民と?」(2013年1月29日刊)の一編。詩集は158頁、54編の詩が掲載されている。
「英霊に捧ぐ」「テロの源流」「ガザの子どもたち」「言葉の綾」「日米同盟とオスプレイ」「愛国心」「安全と主権の行方」等々。題名から内容の傾向は推測できるだろう。徹底して民衆に寄り添い、徹底して国の無責任を追求する「叛骨詩」である。

松村さんは、私の学窓の大先輩。「1931年水戸市で出生。茨城中学(旧制)、水戸高校(旧制)、茨城大学文理学部を経て1957年東京大学文学部卒」とある。その後の職歴は「劇団東演に所属して演劇活動。川崎市立中学校教諭」である。

この詩集は、松村さんご自身から同窓会の席でいただいた。滅法面白いので、既に何編かを抜き出して紹介した。今回は、3度目になる。
https://article9.jp/wordpress/?p=4502
https://article9.jp/wordpress/?p=4680
上記「じいじの昔話」に、僭越ながら続編をつなげてみたい。ごく最近の話題で。松村さんのことだ。笑って許していただけるだろう。

つまらね? ??じいじの「昔は今の話」

亜米利加の属国の日本という国にな
安倍晋三という戦狂いがおってな
ご主人様に気に入られたいの一念で、
属国根性丸出しにこんな約束をしおったと

「お国の兵隊が攻撃されたその折には、
 世界の果てのどこまでも、及ばずながら駆けつけて
 一緒に戦(いくさ)をいたします
 必ず今年の夏までに、
 我が国のうるさいきまりを変えまして、
 ご意志に沿うてみせまする」

で、それ以来日本という国は、戦争法案の審議をめぐって
国内での大戦(いくさ)じゃ

一応日本は、自由で平和で民主主義の独立国というタテマエだからの
安倍晋三が一人声を張り上げても、すごんでも、領国の民を説得しなければ
きまりを変えることはできんのじゃ

そこで、安倍はの、丁寧な説明を心掛けると言わなきゃならないんじゃが、
この男は元々頭が高い。しゃべれば上から目線になっちまう
丁寧に説明すればするほどボロが出る
人気はガタガタ支持率は下がりっぱなし

そこで安倍の家来の37人がイラだっての
城の本丸で秘密の作戦会議を開いたんだと
みんな首相兼総裁様へのおべっか使いだが、こいつら少し思慮が足りなくての
相談相手に百田という札付きの右翼作家を呼んだんじゃ
そりゃ38人は話が合うのさ 大いに盛りあがったということじゃ

「法案審議に国民の反対が多いのは新聞のせいだ」
「怪しからん新聞は懲らしめにゃならん」
「不買運動と広告収入日干しで締め上げろ」
「沖縄の新聞は潰さなあかん」

とまあ、勇ましくぶち上げての、
これが全部明るみに出た

城代家老の谷垣は怒ったな
おまえたち敵陣に塩を送りおって と言ってさ
謙信公がやれば格好良いがの
安倍の家来がやればタダのバカ

いやいや、塩を送ったどころの話しではなかろう
コメも野菜も鉄砲も弾薬もさあどうぞ ということじゃろう

とりあえずは37人については中心人物をお仕置きしてな
家来ども一同には「一切外でしゃべるな」とお触れを出したそうだ 
よっぽどこたえたんじゃろうな

ところがだ 谷垣が頭を抱えたことがある
客として呼んでしゃべらせた百田の口の封じかた
何しろ安倍のお友だちなんじゃから難しい
結局ここだけは口封じができない 
それで、百田は相変わらず反対陣営に塩を送り続けているそうじゃ

もしかしたら「永遠のシオ」
あるいは「安倍にとっての青菜に塩」

そんなこんなで、奴等の強敵共産党だけでなく
護憲勢力全体に元気の源(もと)を吹き込んで
ますます強い相手にしちまったんだと

世の中とは斯ういうもんじゃて……
何? つまらね? いや、そんなはずもなかろう

(2015年6月28日)

民意の怒風を巻き起こし、驕れる安倍政権を塵として吹き飛ばそう。

平家物語の名文句「驕れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し」は、いくつものバリエーションで語られる。そのなかに、「驕る平家は内より崩る」というものがある。奢侈に慣れ驕慢が染みついた一族の愚行から、さしもの権勢も滅びた。滅びの原因は外にではなく内にあったのだという戒めとされる。

遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。

異朝の故事ではなく今の世のこととして置き換えて読めば、「憲法の定めるところに従わず、議席の数に驕って学者やメディアの提言を無視し、戦争を準備して近隣諸国との軋轢・緊張関係を高めながら、これを世論の憂いと受け止める自覚に欠け、結局は民意と乖離して政権は崩壊する」と示唆している。既に安倍政権は、「偏に風の前の塵に同じ」状態ではないか。平家物語作者の洞察力や恐るべし。

「内より崩る」を「一族の中の突出した愚か者の行為を発端にして瓦解する」と読むこともできよう。平家一族の権勢を笠に着た一門の愚行の例は、その末期症状としていくつも語られている。安倍政権でも、いくつもの末期症状が窺えるではないか。

一昨日(6月25日)の、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席上発言は、典型的な末期症状の露呈だ。失言としても冗談としても、到底看過し得ない。むしろ、非公開だからとしてホンネが語られたとみるべきだろう。こういう本性をもった輩が、勇ましく先頭に立って戦争法案成立に旗を振っているのだ。

勉強会出席の議員数は、37人だという。この「37人+百田尚樹」の38人衆が、「内より崩る」の愚行の尖兵だ。「安倍政権の内側からの墓堀人」にほかならない。そして、大切なことは、内側からだけでなく外側からも大いに働きかけて、内外相呼応して戦争法案を葬りさるとともに安倍内閣を早期に崩壊させねばならない。

朝日・毎日・東京だけでなく、さすがに読売までもが本日(6月27日)社説を掲げて、自民党・安倍内閣の「異常な異論封じ」「批判拒絶体質」を批判し、報道規制発言に苦言を呈している。産経だけが様子見である。明日の社説を注視したい。メディアとしての矜持を保つか、あるいは自ら墓堀人グループの一員として名乗りを上げるか。

「異常な『異論封じ』―自民の傲慢は度し難い」と題する朝日の社説は最近珍しく、ボルテージが高い。「これが、すべての国民の代表たる国会議員の発言か。無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。」と言葉を飾らない。毎日も、東京も遠慮するところがない。

この3紙の社説を読んだあと、百田のツイッターを見て驚いた。「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です(^_^;)」と言っている。開き直りも甚だしい。さすがに、内側からの墓堀人の名に恥じない。

当事者性から言えば、まずは「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない」(読売だけは、「あの二つの新聞社はつぶさなあかん」と表現している。録音を持っているのではないか)と言われた、沖縄タイムスと琉球新報とである。

沖縄タイムス編集局長・武富和彦、琉球新報編集局長・潮平芳和両名による「百田氏発言をめぐる沖縄2新聞社の共同抗議声明」は、押さえた筆致で、ジャーナリズムの基本姿勢を語って格調が高い。「戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した。戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道姿勢のベースにある。」という一節が印象深い。ジャーナリストとしての理念を立派に貫いているからこその権力側からの逆ギレ批判であることが良くわかる。

「百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出している。その経緯も含め、看過できるものではない。」とは正鵠を射たもの。安倍政権全体の問題であることが明らかではないか。

そして、本日の両紙の社説の舌鋒が鋭い。憤懣やるかたないという怒りがほとばしり出ている。
 琉球新報は、「ものを書くのをなりわいとする人間が、ろくに調べず虚像をまき散らすとは、開いた口がふさがらない。あろうことか言論封殺まで提唱した。しかも政権党の党本部でなされ、同調する国会議員も続出したのだ。看過できない。」と言い、沖縄タイムスは「政権与党という強大な権力をかさにきた報道機関に対する恫喝であり、民主的正当性を持つ沖縄の民意への攻撃である。自分の気に入らない言論を強権で押しつぶそうとする姿勢は極めて危険だ。」「一体、何様のつもりか。」といずれも手厳しい。

政府に批判的な2紙を潰せと言っただけではない。「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。」「文化人が経団連に働きかけてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」「広告を取りやめるように働きかけよう」とまで、政権政党の議員が発言したのだ。報道の自由侵害の問題として、全マスコミの怒りが沸騰しなければならない。たとえば、北海道新聞が「自民の勉強会 マスコミ批判は筋違い」「耳を疑う発言が、また自民党から飛び出した。」というが如く。

愚かな読売社説のように、「地元紙に対する今回の百田氏の批判は、やや行き過ぎと言えるのではないか。」などと、生温く政権におもねっていてはならない。

そして、メディアの怒りを国民全体の怒りとして受け止めなければならない。メディアの自由は、国民の知る権利に奉仕するためにあるのだから。

沖縄は渾身の怒りを表現するだろう。この沖縄の怒りを孤立させてはならない。日本全土の国民が沖縄の怒りを我が怒りとしなければならない。沖縄の平和は、そのまま日本全土の平和なのだから。

自民党・安倍政権は、まぎれもなく2本の虎の尾を踏んだ。一本はジャーナリズム、もう一本が沖縄である。その痛みは、虎の本体としての日本国民全体のものである。国民の圧倒的な怒りの風を起こして、安倍政権を塵として吹き飛ばそうではないか。
(2015年6月27日)

産経社説《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》に異議あり

「右翼」の定義は難しい。もしかしたら、不可能かも知れない。あれこれ考えた末の暫定結論は、「アンチ『左翼・リベラル』の立場」というほかはない。月は自身で光らず、太陽光を反射するだけの存在。右翼も同様、自らに積極的な思想らしい思想の体系があるわけではない。左翼・リベラルの主張や発言への反発を口にする反射神経を持ち合わせているだけ。結局はそれだけで、それ以上のなにものでもない。

太陽光がなければ月の存在は目に見えない。社会に左翼・リベラルの行動や発言がなければ、右翼の存在もなきに等しい。不可思議な共棲関係、あるいは片面的な寄生関係というほかはない。なお、私自身はリベラルを徹底した先に左翼が位置するという理解なので、「左翼・リベラル」とひとくくりにすることに抵抗感はない。

左翼・リベラルの特性の一つとして個人主義がある。個人の自立・自立した主体の自由・個性の輝きを基底的な価値とする。ひとくくりに他と束ねられることを拒否して、自分が自分であることを大切にする。右翼はそのアンチを主張して、国家・民族・社会秩序などを重んじるという。

個人の自由に敵対する主要な存在は二つある。一つは、国家権力であり、もう一つは社会の同調圧力である。「個人対国家」、「個人対社会」の自立・自由をめぐるせめぎ合いを象徴するものとして、国旗・国歌の取扱いがある。左翼・リベラルは、個人を束ね、絡めとり、個の自立や自由に敵対する作用をものものとして国旗・国歌を基本的に受け入れがたい。これを受け入れるよう期待する社会の圧力にも反発せざるを得ない。

また、左翼・リベラルは、国家や民族を単位としてものを考えないから、日本の負の歴史を直視することを躊躇しない。その目でみた、「日の丸・君が代」は、旧天皇制とのあまりに深い結びつきを払拭し得ない。天皇主権・軍国主義・超国家主義・権威主義・思想統制と異端に対する弾圧・差別容認・監視国家体制等々の日本の負の歴史を背負った存在として、「日の丸・君が代」を受け入れがたい。右翼は、「左翼・リベラルに反対」だから、「国旗国歌」にも「日の丸・君が代」にも大賛成なのだ。

昨日(6月25日)の産経社説が、《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》という社説を掲げている。右翼の心性丸出しである。もう少しまともな議論ができないのだろうかと嘆かざるを得ない。とはいうものの、まともに産経社説を相手にする真っ当な識者もなかろうから、私が反論を認めておくこととしたい。

まず、表題からおかしい。《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》というが、自然な姿がよいなら、現状あるがままの大学の自然の姿に放っておけばよいのだ。ところが、大学の自治への権力的介入という不自然をけしかける内容になっているから、きわめて不自然で分かりにくい主張であり表題となっている。

国旗国歌に敬意を払うべきだと考える思想があってもよい。しかし、国家を敬意の対象とすべきとする思想は、けっして「自然」なものではない。むしろ、権力に好都合な思想として、警戒を要する思想と言わねばならない。また、当然のことではあるが、国旗国歌に敬意を払うべきだと考えない人々に、この思想を押しつけることはできない。

《国旗、国歌はその国の象徴として大切にされ、互いに尊重するのが国際常識だ。》
これは不正確。「国家が民意を反映している限りにおいて、あるいは、国家が国民から支持されている限りにおいて、その国の国旗・国歌は、国民によって大切にされる。」というべきである。さらに正確には、「国旗、国歌は国家の象徴として大切にされることもあれば、ないがしろにされることもある。」「国家への抵抗の象徴的行為として、国旗が抗議の対象となることもしばしばある。」「国家への抗議の表現として、国旗が焼かれることも踏みつけられることもあり、分けても人種差別が顕著なアメリカ合衆国では、黒人による国家への抗議行動において星条旗受難の歴史がある」と続けなければならない。

《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》であることは、大学における「日の丸・君が代」強制と何の関係も持たない。まったく、これっぽっちも、である。運動会に万国旗を飾ることの理屈に役立つ程度であろう。しかも、《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》と言い切るのは実は困難なのだ。独裁国家、極端な人権弾圧国家の国旗国歌の尊重は、人権侵害に手を貸していると見られる恐れを拭えない。また、国旗国歌の尊重が国際紛争の一方当事者への加担と見られることすらある。台湾の国旗・チベット国旗・アイシル国旗、イロコイの国旗、ラコタの国旗、南オセチアの国旗…、その尊重には難しさがつきまとう。要するに、「自国が認めている範囲での相互主義の反映」に過ぎないのだ。

また、産経の文章は、国旗国歌の尊重が、「現実にそうなっている」というのか、「そうなるべきだ」と言っているのかはよく分からない。意識的に避けているようにも読める。

《ましてや国民が自国の旗などに敬意を払うのは自然な姿だ。》
驚いた。これは、一種の信仰告白である。根拠や理由についての一切の説明なく、どうしてかくも安易に断定できるのか。しかも、なにゆえ自分の意見を他人に押しつけることができると考えているのか。まったく理解に苦しむ。

私はまったくの別意見だ。国旗国歌とは国家という人工的組織の象徴である。国家とは暴力に支えられた権力構造体である。うかうかしていると、いつ国民に襲いかかってくるやも知れぬ危険きわまりない代物。暴発せぬよう、押さえつけておくべき警戒の対象でこそあれ、敬意を払うべき対象ではあり得ない。「敬意を払うのは自然な姿だ」とは、アンチリベラルの右翼、あるいは全体主義者・国家主義者に特有の心性でしかない。このような産経流の国家観・国旗国歌観には、70年前の日本国民が別れを告げたはずではなかったか。

《下村博文文部科学相が、国立大の入学式や卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を適切に行うよう学長会議で要請した。妨げる方がおかしい。学長らは国旗、国歌の重要性を認識し、正常化を進めてほしい。》
ここで論理がとんでもなく飛躍した。《敬意を払うのは自然な姿だ》というなら、それぞれの大学の自然に任せれば良いこと。どうして、札付きの右派である文科大臣が、大学の自治への介入という批判を押し切ってまで、不自然極まる「要請」をしなければならないのか。大学の財布の紐を握っている国の「要請」は、実は「強要」にほかならない。

国家は特定の思想や価値観を持つことを禁止される。国民の多様な思想や価値観に寛容でなくてはならないからである。「カネを出すから、国の言い分に随え」と言ってはならない。これがあらゆる部門にわたっての国家の基本的なルールである。ましてや大学とは、大学の自治、学問の自由が貫徹されなければならない場である。公権力のイデオロギーに左右されることのない、自由な学問の研究と教授の自由こそが、社会に不可欠だと確認されている。これは、憲法原則(憲法23条)ともなっているのだ。恐るべき、文科相と産経のタッグを組んでの憲法原則への挑戦というほかはない。

《文科省によると、国立大86校のうち今春の卒業式で国旗を掲揚したのは74校、国歌斉唱は14校にとどまっている。東大、京大のように国旗掲揚、国歌斉唱とも行っていない大学が10以上ある。下村文科相は要請にあたって「各国立大の自主的な判断に委ねられている」と配慮したうえで、「大学の自治や学問の自由に抵触するようなことは全くない」と述べた。その通りである。》
何とも愚かしい文章である。《各国立大の自主的な判断に委ねられている》のなら、口を出してはならない。文科省がスポンサーとして口を出すことが、「大学の自治や学問の自由に抵触する」ことは自明ではないか。愚かな文部行政を、愚かな右翼メディアが支えているの図である。

《国旗と国歌の適切な取り扱いは、大臣がわざわざ要請する以前に、各大学の学長の判断で行うべきことだ。できないのは一部教職員らの反対を恐れるからだ。》
いやはやとんでもない。大学人とは、知性を持つ集団である。「大学に国旗と国歌を持ち込むことに賛成」などという知性を欠いた人物は、皆無ではなかろうが圧倒的少数にとどまる。戦争法案違憲論が圧倒的な憲法学者の中で、3人だけの合憲論者がいた。このくらいの比率でしかなかろう。にもかかわらず、「国旗掲揚74校」と聞けば、驚かざるを得ない。スポンサーへのおもねりの結果というほかはない。

《スポーツの国際大会で選手、観客とも対戦相手の国旗、国歌を含め敬意を払う態度は自然であり、国旗、国歌に背を向ければ非難される。》
何度も出て来る「自然」。「自然」であるべきことに国が口出しすることはない。「自然」と言いつつ、不自然に口を出し、介入し、さらには強制を合理化しようというのだ。スポーツをナショナリズム高揚の手段に使おうという意図が透けて見える。スポーツを国旗国歌強制の口実とし続ければ、スポーツ自体の問題性が国民的な議論の対象にならざるを得ない。

《ところが日本の教育現場では小中高校などの入学、卒業式で国歌斉唱であえて起立せず、国旗掲揚や国歌斉唱を「強制」などと批判する教師らが相変わらずいる。大学での反発が強いことは予想されたことではある。海外から多くの留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない大学がある現状は恥ずかしい。》

ようやくのホンネである。要するに、「大学人は、国家に服従する思想に自発的に転向せよ。でなければ、大学に対して徹底して国旗国歌を強制せよ」という産経の主張なのだ。こんな「強制」を行っているのは、人権後進国である北朝鮮と中国しか実例を知らない。人権尊重を掲げる文明国ではあり得ないことなのだ。むしろ、留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱などを行う大学がある現状は、恥ずかしいことこの上ない。

《しかし国際的な常識や儀礼を否定してまで、特定の政治的主張を押し通そうとすることこそ、学問の自由などをゆがめるものではないのか。》
めちゃくちゃな「論理」である。特定の政治的主張を押し通そうとしているのは、文科省であり、産経である。これは水掛け論ではない。国民には多様な思想が許容されており、その多様性を保障するために国家は価値中立でなければならない。そして、国民の多様な思想の共存を妨げる権力の行使が禁止される。だから、国旗国歌に敬意を表明すべきという思想を強制してはならない。明らかに違憲・違法なのだ。

国家は、特定の価値観を持ってはならず、ましてや国民にこれを押しつけることはできようもない。国民個人の思想・良心の自由は保障されている。産経主張は、国家主義者・全体主義者の目から見た、逆さまの世界観である。こんなまやかしの論理で、国家の思想統制を許してはならない。

《さまざまな機会を捉え国旗、国歌を大切にしたい。》
産経のボルテージの高さは、経営政策上このような主張で購読部数は減らない、と読んでのことである。このように思わせている一定の読者層の存在があるのだ。右翼メデイアは右翼購買者に支えら、また右翼を再生産もする。この文科省の愚行を礼賛する産経の論調は、国家主義が危険水域に達しつつあるのではないかとの不気味さを覚える。さまざまな機会を捉えて、国旗・国歌強制の動きにプロテストしなければならない。

たいした問題ではないと高をくくって看過していると、既成事実の積み重ねが取り返しのつかない大変なことになりかねない。ここにも「既に戦前」の影が忍びよっている。
(2015年6月26日)

「首相の談話」も「安倍の談話」もいらない。「国民の良識の声」を上げよう。

「富士の白雪」「荒城の夜半の月」と使われる「の」は、連体の格助詞として所有や所属の関係性を表すと説明される。
  ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
と詠われれば、その美しさが引き立って、「の」も本望であろう。これに反して、「違憲の法案」「首相の野次」「こけの一念」「バカの一つ覚え」という最近の使われ方では、「の」が泣いている。

言葉は生き物である。この「の」が時に、思いもかけない役割を演じる。かつて、紀元節を「建国記念日」として復活しようという目論見が難航したとき、反対派国民を宥めるために「の」が動員された。「建国記念の日」として祝日になったのはご存じのとおり。漢語と漢語の間にはさまった「の」は、両漢語の一体感や連結度を緩和する働きをもつようである。ごつごつとした語感を、若干なりともマイルドにもする。

いままた、安倍首相は、この「の」働きに期待し利用しようとしていると伝えられる。戦後70年の「首相談話」を「首相の談話」にしようというのだ。

本日(6月25日)の毎日新聞トップ記事に次の一節がある。
内閣総務官室によると、「首相談話」には閣議決定が必要だが、「首相の談話」は首相の決裁で出すことができる。首相が13年末に靖国神社を参拝した際に出したのは「首相の談話」だった。政府関係者は「党や役所が嫌がっていると『首相の談話』になる。障害がなければ『の』が取れる」と解説する。

「首相談話」と「首相の談話」。ちょっと似てるが大きく違うというのだ。国民には何とも分からない情けない話。96条先行改憲から始まって、官邸人事による内閣法制局長官の首のすげ替え、そして集団的自衛権行使容認を認める解釈改憲まで、安倍晋三のやることなすことすべてが姑息極まるというほかはない。もっとも、姑息な「首相の談話」発表は、「首相談話」発表に政権内部の異論があることの自認だと明らかになった。さあ、勇躍「首相談話」とするか、それともひっそり「首相の談話」しか出せないと割り切るか。「安倍の思案のしどころ」だ。「国民の反対の声の大きさの読み方の如何」にかかってもいる。

同じ毎日の記事の見出しは、「戦後70年談話:首相、前倒しで独自色 過去の談話に縛られず」というもの。当然に8月15日に発表と誰もが思っていた談話の時期を、8月上旬に前倒しするという。そして、内容に「安倍カラーの独自色」を出したいというのだ。「内容のフリーハンドを確保しようという思惑が透ける」「8月15日には政府主催の全国戦没者追悼式が東京都内で開かれ、首相が式辞を述べる。首相官邸関係者は、この日と70年談話の発表が重なることを懸念した」「閣議決定をしないことで、首相自身の歴史観を談話に反映する判断をしたものとみられる」とも報じられている。

首相がこだわる安倍カラーとは国防色のことだ。軍服の色、軍靴の色、銃の色、火薬の色、砲弾の色、戦車の色である。もしかしたら、どす黒い血の色も交じっている。沖縄慰霊の日の行事では「帰れ」コールを浴び、沖縄戦で肉親を失った82歳の県民から「戦争屋は出て行け」と怒声を浴びせられた(琉球新報など)安倍晋三ではないか。今の世に安倍カラーを押し出せば、当然のことながら歴史修正主義談話とならざるを得ない。

「首相(の)談話」も、「安倍(の)談話」も要らない。安倍晋三に勝手なことを言わせておいてはならない。これを批判し、これに対抗して、「戦後70年 国民の良識の声」をこそ上げようではないか。

曇りのない目で過去を見つめ、我が国がおかした植民地政策と侵略戦争の過ちを率直に認めるところからしか、アジアの諸国民との揺るぎない友好関係を築くことはできない。そのような声を上げる場を緊急に作ろう。今年の8月15日までに。
(2015年6月25日)

西修参考人意見「強弁」の無力

戦争法案が違憲であることは、既に国民の常識となっている。斎藤美奈子の表現を借りれば、「いまや違憲であることがバレバレになった安保法制」(東京新聞・「本音のコラム」)なのだ。「違憲の法案を国会で成立させてはいけない」という正論も過半の国民の確信だ。大勢決したいま、敢えてこれを合憲と言い繕おうという強弁は、蟷螂の斧に等しい。

そのような蟷螂の役割を勇ましく買って出たのが西修(駒澤大学名誉教授)である。6月22日の安保特別委員会での参考人発言だ。しかし、どんなに勇ましいポーズをとろうとも、蟷螂は所詮蟷螂。その斧をいかに振りかざそうとも、天下の形勢にはそよ風ほどの影響もない。

6月22日参考人意見では、宮?礼壹、阪田雅裕の元内閣法制局長官両名の発言が話題となった。「学者だけでなく、官僚も違憲の見解なのだ」と。西の発言内容はほとんど話題にもならなかった。とはいえ、他にない珍らかなる蟷螂の言である。それなりの注意を払うべきだろう。報道されている限りで、その発言を整理してみたい。

西参考人発言は、次の10項目を内容とするものである。
1 「戦争法案」ではなくて「戦争抑止法案」だと思う。9条の成立経緯を検証すると、自衛権の行使はもちろん、自衛戦力の保持は認められる。
2 比較憲法の視点から調査分析すると、平和条項と安全保障体制、すなわち集団的自衛権を含むとは矛盾しないどころか、両輪の関係にある。
3 文理解釈上、自衛権の行使は、全く否定されていない。
4 集団的自衛権(国連憲章51条)は、個別的自衛権とともに、主権国家の持つ固有の権利、すなわち自然権である。また、両者は不可分であって、個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体がおかしな話。
5 集団的自衛権の目的は抑止効果であり、その本質は抑止効果に基づく自国防衛である。
6 我が国は、国連に加盟するに当たり、何らの留保も付さなかった。国連憲章51条を受け入れたと見るのが常識的だろう。
7 個別的自衛権にしろ集団的自衛権にしろ、自衛権行使の枠内にある。国際社会の平和と秩序を実現するという憲法上の要請に基づき、その行使は政策判断上の問題であると思います。
8 政府は、「恒久の平和を念願し」「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」などという国民の願いを真摯に受けとめ、国際平和の推進、国民の生命、安全の保持のため、最大限の方策を講ずるべき義務を負っている。
9 国会は、自衛権行使の範囲、態様、歯どめ、制約、承認のありようなどについて、もっと大きな視点から審議を尽くすべきである。
10 今回の安全保障関連法案は、新3要件など、限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲である、このように思うわけであります。

私の要約は、大きく間違ってはいないはず。ところどころ、テニオハが少しおかしいが、これは、西の発言の原型を尊重しているからだ。以上をお読みになって、はたして蟷螂の斧の威力の有無以前に、そもそも西製斧の形状や素材を認識できるだろうか。主張への賛否や、説得力の有無の判断以前に、主張の筋道や論理性を理解できるだろうか。

論証の対象は、「安全保障関連2法案(戦争法案)の合憲性」「法案の9条との整合性」、少なくとも「違憲性の否定」である。上記10項目がそのような論証に向けての合目的的な立論となっているとはとても考えられない。これを聞かされた自民党・公明党の委員も、さぞ面食らったのではなかろうか。

以上の、理屈らしい理屈を述べようとした部分はきわめて分かりにくい。というよりは、合憲論の論証としてはほとんど体をなしていない。分かり易いのは、西が最後に述べたところである。大意は以下のとおりだ。

「我が国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、我が憲法9条は、我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないのである。」

これは分かり易い。要するに、「主権国家は平和と安全を維持するために、国際情勢の実情に即応して適当と認められることなら何でもできる」というのである。おそらくは、このあとに、「主権国家が平和と安全を維持するために国際情勢の実情に即応して適当と認められることをすることが違憲となることはありえない」「本法案は、そのような『適当と認められる』範囲内の法律を定めるものだから違憲ではない」ということになるのだろう。要するに、「国を守るためなのだから憲法の字面に拘泥してはおられない」という分かり易く乱暴な「論理」である。この「論理」で前述の10項目を読み直すと、なるほど了解可能である。もちろん、了解可能とは意味内容の理解についてだけ。けっして同感や賛同などできる訳がない。

西の立論では、憲法9条の文言が具体的にどうであるかはほとんど問題にならない。「比較憲法学的に」、一般的な安全保障のあり方の理解や、国際情勢のとらえ方次第で、憲法の平和条項はどうとでもフレキシブルに解釈可能というのだ。およそ、憲法が権力の縛りとなるという発想を欠くものというほかはない。

また、西の主張では、自衛権に個別的だの集団的だのという区別はない。どちらも国家の自然権として行使が可能というのだ。時の政権の判断次第で、我が国の存立のためなら何でもできる。憲法よりも国家が大切なのだから当然のこと、というわけだ。

これはまたなんと大胆なご主張、と驚くほかはない。あからさまな立憲主義否定の立論である。主権者が憲法制定という手続を経て、為政者に対して課した権力行使に対する制約を認めない立場と言ってよい。

立憲主義を認め、9条の実定憲法上の規範性を認めた上で、問題の法案を合憲というには、きわめて精緻でアクロバティクな立論が要求される。西流の乱暴な議論では、どうにもならないのだ。

やはり、自民党は今度も参考人の人選を誤ったようだ。とはいうものの、敢えて蟷螂たらんとする者は他になく、手札は底を突いていたのだろう。西参考人推薦は、与党側にとって合憲論での巻き返しの困難さをあらためて示したというほかはない。
(2015年6月24日)

「違憲のウワサも75日、95日でなんとかなるさ」は許さない。

95日(!!)の会期延長だという。これは戦争法案成立に向けた安倍政権の並々ならぬ執念の表れ。しかし、この非常識というべき延長日程は、安倍内閣存立の非常事態宣言ではないか。論戦での劣勢を自認し、数を恃んでの強行突破はできないという自白でもあるのだ。

世論を宥める時間が必要だ。人の噂も75日。法案違憲で沸騰している世論も、75日もあれば治まるだろう。「95日も延長すれば、説明が足りないなどとは言わせない。」「これでなんとか成立に漕ぎつけるだろう」との背水の陣とも読める。

しかし、これは政権にとっての大きな賭けでもある。時間がたてば立つほど、反対世論が大きく強固なものになっていく可能性も大きい。当然、廃案時の傷はより大きくなる。政権そのものを崩壊させることにもなるだろう。安倍の心中穏やかであるはずがない。

幸い今のところ株価の推移は順調だ。これが内閣支持率の頼みの綱。もう少し時間をかけて、法案について「丁寧な説明」を尽くせば世論はやがて変わるだろう。別に合憲と考えていただかなくても結構。強行採決をしても大きな反発を招くことにはならないという程度でよいのだ。もちろん、「丁寧な説明」とは内容についてのものではない。世論の危惧と噛み合った説明をしていたのでは、次々とボロが出る。さらに世論を刺激してしまう。そのくらいのことを心得ない私ではない。

だから、過去のことを聞かれたら未来のことで切り返す。昨日のことを聞かれたら一昨日の話しで煙に巻く。明日の天気について質問されたら、明後日の空模様を答弁する。左が問題になっていても得意の右を論じる。白ではないかと問い質されたら、黒ではないようだと答える。噛み合っていないではないかという再質問には、再び丁寧に同じことの説明を繰り返す。この洗練された「忍法・はぐらかし」で、のらりくらりと時間を稼げばよいのだ。こうして時間稼ぎをしているうちに、攻め手は疲れる。世論は飽きる。どこかで強行採決のタイミングというものが熟してくる。そんなものさ。これが安倍流逃げ切りの術。

そうは問屋が卸さない。日本の命運が掛かった根競べだ。世論の追求が勝つか、安倍が逃げ切るか。その95日レースの中間指標が、各紙の世論調査だ。法案への賛否や、内閣支持率。その数値の騰落が、政権の行動を縛りもし煽りもすることになる。

本日の朝日が、世論調査の結果を公表している。ここがスタートだ。これに続く世論調査の結果次第で、安倍を追い詰めることにもなり、安倍の逃げ切りを許すことにもなる。このスタートの状況を確認しておきたい。

朝日が20・21の両日に行った全国世論調査(電話)によると、安倍内閣の支持率は39%で、前回(5月16、17日調査)の45%から下落し、第2次安倍内閣発足以降最低に並んだ、という。
◆安倍内閣を支持しますか。支持しませんか。(かっこ内は5月調査時の数値)
  支持する   39%(45)⇒6%の下落
  支持しない  37%(32)⇒5%の上昇
1か月間で、安倍内閣支持から不支持への鞍替え組が少なくとも5%である。日本の有権者総数はほぼ1億人。およそ500万人の大移動だ。これで、支持不支持層の差は13%→2%と減じて、ほぼ差がなくなった。女性だけに限れば逆転(支持34、不支持37%)しているという。ここがスタートラインだ。

戦争法案への賛否は、「賛成」29%に対し、「反対」は53%と過半数を占めた。
 ◆安全保障関連法案に、賛成ですか。反対ですか。
   賛成 29(29)
   反対 53(43) ⇒10%の上昇、過半数に。
この「10%≒1000万人」の戦争法案反対への1か月の大移動が内閣支持率を変えたのだ。

さらに、法案をいまの国会で成立させる必要があるか聞くと、「必要はない」が65%を占め、「必要がある」の17%を大きく上回る。延長してでも今国会での成立を目指す政権に賛同する世論はきわめて少数なのだ。
 ◆この法案を、今の国会で成立させる必要があると思いますか。今の国会で成立させる必要はないと思いますか。
 今の国会で成立させる必要がある17(23)⇒6%の減
 今の国会で成立させる必要はない65(60)⇒5%の増

今国会で成立させる「必要がない」というのが、「ある」の3倍に近い圧倒的世論と言ってよい。強引にこの世論をねじ伏せようというのが、政権の95日会期延長である。明らかに、議会内の議席配分と議会外の民意とは大きく乖離しねじれている。もしかしたら、安倍は、この上なく危険な虎の尾を踏んでしまったのではなかろうか。

さらに朝日は、いくつか興味深い設問をしている。まずは、戦争法案の合違憲についての意見調査。
憲法学者3人が衆院憲法審査会で「憲法違反だ」と指摘したが、こうした主張を「支持する」と答えた人は50%に達した。他方、憲法に違反していないと反論する安倍政権の主張を「支持する」という人は17%にとどまっている。
 ◆法案について、3人の憲法学者が「憲法に違反している」と主張しました。
  これに対して安倍政権は「憲法に違反していない」と反論しています。
  どちらの主張を支持しますか。
   3人の憲法学者  50% ⇒ほぼ3倍の圧勝。
   安倍政権      17% ⇒ほぼ3分の1のボロ負け。

安倍晋三首相は法案について「丁寧に説明する」としているが、首相の国民への説明は「丁寧ではない」という人は69%。「丁寧だ」の12%を大きく上回った。
 ◆安倍首相の安全保障関連法案についての国民への説明は、丁寧だと思いますか。
  丁寧ではないと思いますか。
   丁寧だ        12%
   丁寧ではない    69%⇒「丁寧だ」派の5.75倍

もうひとつ。
◇(安倍内閣を「支持する」と答えた39%の人に)これからも安倍内閣への支持を続けると思いますか。安倍内閣への支持を続けるとは限らないと思いますか。
 これからも安倍内閣への支持を続ける    47%
 安倍内閣への支持を続けるとは限らない   49%
◇(「支持しない」と答えた37%の人に)これからも安倍内閣を支持しないと思いますか。安倍内閣を支持するかもしれないと思いますか。
 これからも安倍内閣を支持しない       60%
 安倍内閣を支持するかもしれない       33%

つまり、安倍内閣支持派の支持の度合いは不確かなのだ。浮動的といってよい。けっして確信にもとづく支持ではない。「安倍内閣への支持を続けるとは限らない49%は、支持から不支持への予備軍が大量に存在していることを物語っている。安倍不支持派拡大の「のりしろ」が大きいということなのだ。一方、安倍不支持派は、遙かに固定性が高い。しかも、留意すべきは、1か月で500万?600万人の「支持⇒不支持・意見大移動」を経てなお、この数字なのだ。

政権の説明は、国民への説得力を持っていないことが明らかとなっている。安倍内閣が戦争法案を閣議決定したのが5月14日、国会上程が翌15日。以来、1か月間の「丁寧な説明」の結果が、この世論調査結果である。これから、95日間安倍の「丁寧な説明」はさらに国民の不支持を拡げるだろう。

国民一人ひとり、のみならず子々孫々の運命に関わる大問題だ。安倍の敵失を待っているだけでは、95日レースの勝利を確実なものとはなしえない。戦争をできる国への変身の危険と愚かさをあらゆる手段で発信し続けよう。既に、「潮目が変わった」のレベルは通り越した。もはや、世論は止めて止まらぬ「大きな竜巻」になりつつある。自信をもって戦争法案を吹き飛ばそう。
(2015年6月23日)             

戦争法案を廃案に。戦争法を支える教育行政の暴走にも歯止めを。

「安倍政権の教育政策に反対する会」を代表して開会のご挨拶を申し上げます。月曜日の正午スタートという、ご都合つきにくい日程にもかかわらず、参議院議員会館での教育を考える集会に多数ご参集いただきありがとうございます。

本日の集会のメインタイトルは、『いま、教育に起っていること』であります。
まことにさまざまなことが、いま、教育に起こっております。到底見過ごすことができないことばかり。ひとつひとつのできごとをしっかりと見つめ、見極めなければなりません。この教育分野のできごとは、けっして教育分野独自の問題として独立して生じているわけではありません。当然のことながら、教育問題も政治的・経済的・社会的な全体状況の一側面であります。他の政治や経済や社会状況と切り離して論じることはできません。そのような問題意識が、サブタイトル『戦争法とも言われている安保法制下での教育、ふたたび』として示されています。

国会の内外は、戦争法案審議の成否をめぐって、いま騒然たる状況にあります。その騒然たる状況は、全国津々浦々の教育現場の状況と密接に関連しています。初等中等教育に、政権が、あるいはその意を受けた地方権力が、乱暴な介入をしているだけでなく、いよいよ大学教育にも政権の介入が及ぼうとしています。

その政権が、昨年7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定に続いて、いま戦争法案を国会に上程しました。衆議院での審議は紛糾し、政府与党は本日にも大幅な会期延長で、なんとか今国会での法案の成立を画策しています。これまでは我が国の外交にも内政にも、戦争・参戦という選択肢はありませんでした。自衛隊ありといえども、専守防衛の原則を厳守するというタテマエから踏み出すことはできなかったのです。ところが、いま、世界のどこにでも日本の武装組織が出かけていって戦争をする、戦闘に参加する、そういう選択肢をもつ、国に変えようというたくらみが強引に推し進めらようとしています。

もし、政権の思惑通りにことが成就するとすれば、まさしく憲法の平和主義からの大きな逸脱であり、これこそ「戦後政治の総決算」であり、「戦後レジームからの脱却」というほかはありません。この政権の動きと軌を一にして、教育も、そのような政策に奉仕する人材を育成する内容に変更されようとしている、と考えざるをえません。

戦争を政策選択肢とする国とは、いつもいつも効率よく戦争を遂行できるよう、万全の準備を怠らない国です。いざというときには、政権の呼びかけに応じて全国民が一丸となって戦争に参加しなければなりません。そのような国を支える教育とは、いったいどんなものなのでしょうか。

自らものを考え行動する自立した主権者を育てる教育とは対極にある教育。権力が望む批判精神を欠いた国民を育成する教育。結局のところ、権力の意思を子どもたちに刷り込み、国家の言いなりに動く人材を育成する教育。その政策の根底には、国民個人を軽んじる国家主義ないしは軍事大国化の志向があり、大企業の利益に奉仕する新自由主義があります。

本日は、何よりも教育の分野総体が、いったいどうなっているかを正確に把握したいと思います。そして、その背景を煮詰めて考える手がかりを得たいと思います。冒頭に総論として世取山洋介さん(新潟大学教授)の基調講演をお願いしています。「教育情勢全般の状況について」という世取山さんならではのご報告に耳を傾けたいと思います。そのあと、各論として、まず俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)から重大な局面を迎えている教科書採択状況についてのご報告。また、近時新たに大きな問題となってきました政権の大学の自治への攻撃をめぐる問題について岩下誠さん(学問の自由を考える会事務局長・青山学院大学准教授)から、さらには教育の歪みの端的な表れである学校でのいじめ問題について武田さち子さん(ジェントルハート理事)に、それぞれ20分ずつのご報告をいただき、その後ご参加いただける議員や会場の皆さまを交えての意見交換をいたしたいと存じます。

目指すところは、戦争法案と同じ根っこから顔を出している政権の全面的な教育介入に対する摘発です。戦争法案とともに、政権の教育への不当な介入も吹き飛ばすにはどうすればよいのか。教育を「ふたたび」戦前に戻してしまうような愚かさを繰り返すことのないよう自覚しなければならないと思います。そのために、本日の集会が充実した実りある議論の場となりますように、皆さまのご協力をよろしくお願いいたします。
(2015年6月22日)

カート・ヴォネガットとともに、サイコパス安倍に怒りを

1945年2月13日、ドレスデンは連合軍の無差別爆撃で文字どおり焼き尽くされた。英空軍所属のランカスター重爆撃機800機に続いて米空軍のB17「空の要塞」450機が、高性能爆弾と新型焼夷弾を投下した。さらに、P51ムスタングが、廃墟をさまよう市民に機銃掃射のとどめを刺したという。一晩で13万5000人が焼死したというのが公式記録となっている。爆弾・焼夷弾の投下量において東京大空襲を遙かに上回る規模の市民殺戮。

そのドレスデンに、当時無名だったカート・ヴォネガットがいた。アメリカ兵として対独戦に参戦し、この町で捕虜になっていたのだ。奇跡的に生き延びた彼は、後年ドレスデン大空襲を素材に「スローターハウス5」を執筆する。

彼はこの空襲を、「とことん無意味で、不必要な破壊だった」「あれは一種の軍事実験で、焼夷弾をばらまくことによって全市を焼き尽くすことが可能かどうか試してみたかったのだろう」と言っている。ドイツ系アメリカ人として対独戦に参加し、英・米の無意味な空襲で死にかけた彼にとって、国家とはいったいなんだったのだろうか。

英米のドレスデン爆撃以前に、ナチス・ドイツのゲルニカ爆撃があり、皇軍の重慶無差別空襲があった。そして、ドレスデン大空襲の直後に、東京大空襲の惨劇となった。いずれも、「とことん無意味で、不必要な破壊」であり、国家による市民大殺戮でもある。

アメリカを代表する作家となったカート・ヴォネガットは、2005年に82歳で、「A Man Without a Country」というエッセイのような、回顧録のような、評論集とも言える書物を著す。この書は「ニューヨーク・タイムズのベストセラーとなり、また最後の著作となった」と紹介されている。

2007年にNHK出版から刊行された訳本の表題は「国のない男」。「Without a Country」とは、「国にとらわれず、国と為政者を徹底して批判し、国を相対化し、国をおちょくった」という語感が込められている。「国を拒絶した」が意訳としてふさわしいのではないだろうか。

国と、国をなり立たせている人や仕掛けに対して、その欺瞞性や俗悪性をえぐり出す批判精神の強靱さには一驚せざるを得ない。NHK出版からの訳本(訳者は金原瑞人)だが、「政府が右と言えば、左とは言えない」とのたまう心性とはおよそ対極にある知性が躍動している。

さらに驚くべきは、彼の怒りが、今のわれわれの怒りとまったく質を同じくしていることだ。その書の中のブッシュを安倍に、アメリカ憲法を日本国憲法に置き換えれば、「Without a Country」はそのまま日本に通用する。パロディにすらならない。たとえば、こうだ。

これが理想だよ、と言って掲げたらだれもが納得してくれるものがある。それは、日本国憲法だ。わたしはこの憲法のために、正義の戦いを戦った。しかし、その後この国は、どこかからの侵略者に一気に乗っ取られてしまったのではないだろうか。

安倍晋三は、自分のまわりに上流階級の劣等生たちを集めた。彼らは歴史も地理も知らず、自分が差別主義者であり歴史修正主義者だということをあえて隠そうともしない。何より恐ろしいことに、彼らはサイコパスだ。サイコパスというのはひとつの医学用語。賢くて人に好印象を与えるものの、良心の欠如した連中を指す言葉だ。

世の中には生まれながらに目が悪い人や耳が聞こえない人などがいる。だが、いまここで言っているのは、生まれつき人間的に欠陥のある人、この国全体を最悪の場所に変えてしまった元凶ともいうべき連中のことだ。生まれつき良心の欠如している人々、ともいえる。そういう連中が、いま、世の中のすべてを一気に乗っ取ろうとしている。サイコパスは外面がいい。そして自分たちの行動がほかの人にどんな苦しみをもらたすかもよくわかっているが、そんなことは気にしない。というか、気にならない。なぜなら頭がイカレているからだ。ネジが一本ゆるんでいる。

サイコパス。これ以上にぴったりくる言葉がなさそうな種類の人たち。自分たちは清廉潔白なつもりでいる。だれに何を言われようと、どんな悪評が立とうと、少しも気にしない。

こういう多くの冷酷なサイコパスがいまや、政府の中枢を握っている。病人ではなく指導者のような顔をして。彼らはいろんなものを統括している。報道機関も学校も。われわれはまるで大日本帝国占頷下の朝鮮状態だ。

これほど多くのサイコパスが政府に巣くってしまった原因は、彼らの迷いのなさだと思う。彼らは毎日、目標に向かって何かをこつこつとやり続ける。恐れることを知らない。普通の人々と違って、疑問にさいなまれることがない。これをしてやろう。あれをしてやろう。自衛隊を動員してやろう。学校教育を私物化してやろう。政府を秘密の壁で守っておこう。正規労働者をなくして大企業にサービスしよう。医療・介護をカットしてやろう。国民全員の電話を盗聴してやろう。金持ちの税金を安くして貧乏人から取り立てよう…。

われわれが大切に守るべき日本国憲法には、ひとつ、悲しむべき構造的欠陥があるらしい。どうすればその欠陥を直せるのか、わたしにはわからない。欠陥とはつまり、頭のイカレた人間しか首相や閣僚になろうとしないということなのだ。
(2015年6月21日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2015. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.