本日は、久しぶりの大学時代の同窓会。東大教養学部で第2外国語に中国語履修を選択した「Eクラス」の先輩後輩がちょうど50人参集して和気あいあいのうちに歓談した。
最古参は、1951(昭和26)年入学組。49年が学制改革だから、旧制高校の雰囲気が色濃いなかでの学生生活を送った世代。その中の一人に、高名な石川忠久さんがいて、お元気に15分間のミニ講演「漢詩の面白味?その味わい方」を語っていただいた。
素材は、まず李白の「静夜思」。日本では明代の李攀竜が編纂したとされる「唐詩選」掲載のテキストが流布しているが、本場の中国では「唐詩選」の普及はないとのこと。もっぱら清代の孫洙が成した「唐詩三百首」が普及し、一般の中国人はそこからのテキストしか知らない。両テキストには、二文字の違いがあるという。
(唐詩選版)
床前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
(唐詩三百首版)
床前明月光
疑是地上霜
挙頭望明月
低頭思故郷
両詩を比較しての「味わい方」解説のポイントは概ね次のとおり。
「唐詩三百首版を推す意見もある。『明月光』『望明月』と意識的に言葉を重ねたところに面白みがあるというもの。しかし、私は、この詩の眼目は『山月』にあると思う。山の端から出る月に目が行き、昇る月に見とれて自ずと頭を上げたものの、昇る月を見るうちに故郷を思うところとなって頭を低(た)れるというのがこの詩の趣。頭を上げるには山の端から昇る月が重要で、転句は『名月』ではなく『山月』でなくてはならない」
何しろ、斯界の権威の解説である。しかも大先輩の言。賛嘆して傾聴あるのみである。そのほかに、孟浩然、王維、杜甫の詩を一首ずつ。何ともぜいたくな15分間であった。
次いで、現役の教養学部教授の任にある後輩から、中国語クラスの現状を聞いた。
教養学部のクラス編成は第2外国語の選択で編成されている。私が在籍した当時、文系の第2外国語は独・仏・中の3語だけ。ドイツ語の既修クラスがA、未習がB。フランス語既修がC、未習がD。そして、中国語が未習のみでEクラスを作っていた。なお、理系には中国語はなく、ロシア語のFクラスがあった。1963年入学者のEクラス総勢は27名。ほぼ3000名の入学者の内、中国語を学ぼうという者は1%に満たなかったということになる。当時中国語を学ぼうという学生の多くは中国革命に大きな関心をもつ者であった。かなりの部分がその思想や実践を肯定的にとらえていたと思う。
ところが、現状の報告ではまったくの様変わりだという。理系の学生も第2外国語で中国語を選択できる。その数は今年の入学生のうちの651名と聞いて驚いたが、実はこの数は大きく減ったものだという。
中国が改革開放路線に転じて以来、大学での中国語履修者の数が飛躍的に増加した。「日中貿易の拡大に相関して中国語履修希望者が増加した」という。1994年に641名となったのが画期で、95年以後はほぼ800人台をキープ。2011年には928人になった。この年がピーク。もちろん、他の外国語履修者数を圧して中国語クラスの学生数がトップとなった。一学年の学生のほぼ30%が中国語履修を選択したことになる。かつての1%弱とは天と地の開き。
ところが、尖閣問題を契機とする日中間の軋轢と友好の冷え込みで、12年は833名、13年721名、そして今年(14年)が651名なのだという。中国語に代わって、今履修者数トップはスペイン語なのだそうだ。
学生たちの機を見るに敏なことに驚く。こんなにも、日中間の政治経済情勢が履修者数に反映するものなのだ。かつては、履修語学が教養の核を形成したとまで言われた。昔の語りぐさでしかない。日中関係の冷え込みがこんなところにまで影響しているのを残念と思わずにはおられない。
また、「東大北京事務所長」の任にある後輩から「最近の北京事情」と題しての報告もあった。これにも驚いた。中国の大学生が、いかに大規模に世界に進出しているか。うすうす感じてはいたことを、数字を上げて突きつけられた。
「最近の北京事情」の第4項目が「中国の大学生・留学生」というテーマ。レジメにこのテーマの副題として「青年層の動向は国の将来を示唆」と付されている。これは聞き捨てならない。
2013年の統計で、海外留学中の中国人留学生は110万人。日本人全留学生数の20倍の人数だという。中国学生の最大の留学先はアメリカ。最新統計で在米中国人留学生は27万人余、他国を圧してダントツの人数。在米全留学生のうち、中国人は31%を占めている。これに比較して日本はわずか0.2%。彼我の格差は62倍である。しかも、中国はなお増加傾向にあり、日本は2002年の4.7%から絶対数も割合も低落し続けている。
一方、アメリカから中国への留学生の数は、日本への留学生に比較して12.2倍。フランスから中国への留学生の数も、日本への留学生に比較してちょうど12.2倍。これがアフリカからだと28倍の差になるという。
これら国外への留学生や、外国からの留学生に接した若者たちが、将来は各国との太いパイプになるだろう。私は、現在の中国の政治体制には大いに不満であり、言いたいことは山ほどある。しかし、批判はあるにせよ。この圧倒的な存在感は否定しようがない。日本の中国敵視や中国無視は非現実的な愚策ではないか。
来年は、同窓会有志で北京に行こう、と盛りあがった。幸いに、北京大学や北京外国語大学などに有力な伝手があるというのがありがたい。彼の地で日本語を学ぶ大学生や院生と日本語で交流ができるという。政治的思惑やビジネスと離れた忌憚のない意見交換は両国の民間外交として貴重なものではないだろうか。
久しぶりに、中国の文化と、日中問題に触れたひとときであった。
(2014年11月30日)
本日(11月29日)の毎日新聞・オピニオン面の「メディア時評欄」に目が留まった。筆者は阪井宏、その肩書は「北星学園大教授(ジャーナリズム倫理)」。
標題が、「大学脅迫問題、問われるのは『覚悟』」とある。これを読んで、心強く思うとともに、あらためて私自身の覚悟も問われていることを自覚した。具体的な行動を起こさねばならない。
阪井論文は、次のように状況を説明する。
「朝日の慰安婦報道にかかわった元記者が教壇に立つ大学が、相次いで脅迫を受けた。脅されたのは、帝塚山学院大学(大阪狭山市)と、私の勤める北星学園大学だ。両大学は今春以降、文書、電話、メールで脅迫を受けた。『辞めさせなければ、学生に痛い目に遭ってもらう』と学生への危害をほのめかす文書もあった。」
「帝塚山の元記者は自ら辞職した。北星は当初、脅しに屈しない姿勢を示した。全国から応援の声が寄せられた。市民団体『負けるな北星!の会(通称・マケルナ会)』が東京と札幌で生まれた。大学教員、ジャーナリスト、弁護士らが名を連ね、学生5000人足らずの私大がにわかに注目の的となった。」
「しかし10月31日、学長が元記者の本年度での雇い止め方針を表明すると、空気が変わった。報道には弱腰の大学を嘆くかのようなニュアンスも漂う。」
これが時代の空気なのだろうか。卑劣な輩が群れをなして、弱いところを狙って理不尽な攻撃を仕掛けているのだ。大学は学生の安全に配慮しなければならない立場。文書、電話、メールでの脅迫には弱い。「学生に痛い目に遭ってもらう」などという脅迫を無視することなど到底できない。大学の苦境はよく分かる。経営陣も、第一線の職員も、そして学生も、不安でもあろうし面倒でもあろう。学生の家族の憂慮もさぞかしと思われる。学長の「元記者の本年度での雇い止め方針を表明」も、現実的な対応として、深く悩んだ末のことであったろう。(その後、この学長の方針表明は、決して確定的なものではないとされている)
この状況を踏まえての阪井宏意見に耳を澄まさねばならない。
「毎日は今月8日、全国の弁護士380人が脅迫の容疑者を本人不詳のまま刑事告発するという動きを社会面準トップで取り上げた。地元紙はマケルナ会のシンポジウムを紹介し、『大学が間違った選択をしないよう応援する』との北大教授の発言を伝えた。ありがたい応援である。ただ、この事件は北星だけの頑張りで済む話ではない。あらゆる組織が、いつ何時、同様の脅迫によって活動を阻害されるかも分からない。ところがそんな事態の深刻さが報道からは伝わってこない。」
渦中にある人でこその言葉である。多数の弁護士や他大学教授らの行動に対して「ありがたい応援」と敬意を払ってはいる。しかし、「大学(北星)が間違った選択をしないよう応援する」という姿勢に苛立ちが感じられる。「自分のこととしてとらえきれていないのではないか」という鋭い指摘と読み取らねばならない。
阪井が当事者としては言いにくいことを私なりに解釈すれば、「この事件は北星だけの頑張りで済む話ではない。この時代に、人権や平和を語ろうとするあらゆる組織が、いつ何時、同様の脅迫によって活動を阻害されるかも分からない。それぞれにとって、自分自身の問題なのだ。その深刻な事態をみんな良くわかっていないのではないか。『応援する』『頑張れ』というだけでは、自分の問題としてとらえたことにならない。この事態の困難さを、少しずつでも、自ら引き受ける覚悟が必要ではないのか」ということなのだ。
そこで、阪井は次のように具体的な提案をする。
「志ある大学教員に提案したい。自らが勤務する大学に、元記者を講師として招く授業をぜひ検討してほしい。マスコミ各社にもお願いしたい。多彩なカルチャー講座の一コマに、元記者を呼んではどうか。市民の方々にも問いたい。集会所の会議室を借り、元記者と語る手があるではないかと。」
そのとおりだ。匿名性に隠れて卑劣な脅迫状を送りつけ、インターネットで記者の家族を誹謗する輩、そして歴史を偽ろうとする者とは果敢に闘わねばならない。いま、北星学園が余儀なくされている孤立した闘いに具体的な援助が必要なのだ。まずは警察や司法当局の本腰を上げての真剣な対応が必要だが、それだけではない。これまで北星学園独りが前面に立って受けている圧力を分散することを考えなければならない。元記者と北星支援の声を全国で上げようではないか。それは、北星への卑劣な攻撃を許さないとする大きな世論があることを示すことでもあり、またさらに大きな世論を形成する運動でもある。
「自らのフィールドでテロと戦う。その決断は口で言うほどたやすくはない。単独ではきつい。しかし、大きなうねりとなれば話は別だ。元記者を招く動きが全国に広がれば、脅迫者は的を絞れない。」
集会を組織することは、右翼の標的になることかも知れない。だから、「自らのフィールドでテロと戦う」決断が必要ということになる。だからこそ、いま、北星学園ひとりが標的となって孤立している「テロとの戦い」の一部を引き受ける意味がある。阪井は、「応援する」と口先だけで言うのではなく、「テロとの戦い」の一部を自ら引き受けよ、その覚悟を示せ、と具体案を提示しているのだ。
阪井は、最後を次のように結んでいる。
「この国の民主主義を人任せにしてはいけない。試されているのは我々一人ひとりの当事者意識と覚悟だろう。」
私も、全国の弁護士380人とともに脅迫の容疑者を本人不詳のまま威力業務妨害罪で刑事告発したひとりだ。告発人となった弁護士団の共同代表の一人でもある。これまで「頑張れ北星」と言っては来た。しかし、指摘されてみれば、なるほどそれでは足りない。提案の通り、東京で「集会所の会議室を借り、元記者と語る市民集会」を周囲に呼び掛け企画したいと思う。
もう、「元記者」などと言わなくてもよいだろう。北星学園大学講師の植村隆氏のスケジュールを管理し調整する手立てを講じてもらいたいと思う。「負けるな北星!の会(通称・マケルナ会)」のホームページが適当てはないか。マケルナ会で具体的な招請方法を練っていただき、募集していただきたい。私は、仲間を語らって必ず応募する。
(2014年11月29日)
廃棄物処理のすべも知らぬまま 垂れ流し覚悟で進む再稼働の愚
直ちには とりあえずは 目に見えず じわじわと忘れたころの被曝の恐怖
汚染水ブロックしてます スタップ細胞はあります ハテ似たような
舌の根もかわかぬうちのダダ漏れは バレバレの嘘 総理大臣の嘘
御嶽も阿蘇の噴火も知らんふり 度胸は満点再稼働推進派
炉心融け ふるえあがったはずなのに 想定外はまたも考慮外
子々孫々迷惑かける廃炉処理 あとは野となれ山となれ
「今」だけ「おれ」だけ「金」だけと とりつく亡者 原発へ
究極のもったいないを引き起こす 老朽原発再稼働の論外
規制委の胸三寸でどうにでも
規制委は踊る政権のたなごころ
政権が規制委を操る猿回し
責任をたらいまわして再稼働
あろうこと 安全神話の復活だ そんな政権 選挙で縁切り
あろうこと 原子力村の再建だ そんな政権 選挙で縁切り
あろうこと 住民避難にほおかむり そんな政権 選挙で縁切り
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昨日(11月27日)、大津地裁が、原発再稼働の差し止めを求めた仮処分申立事件でこれを却下する決定を出した。
事案は、いずれも停止中の大飯原発3、4号機と高浜原発3、4号機についてのもの。近隣住民178人が関西電力を相手取って再稼働の差し止めを求めた、人格権に基づく民事上の請求権にもとづく仮処分申立。大津地裁(山本善彦裁判長)は27日、「早急に再稼働が容認されるとは考えにくいとして、申請を却下する決定を出した」と報じられている。この報道は、一般にはやや分かりにくいのではないか。
同日、関電は「妥当な判断をいただいた。安全が確認された原子力プラントは一日も早い再稼働を目指したい」とのコメントを発表している。しかし、「早急に再稼働が容認されるとは考えにくいとして、申請を却下する決定」が、関電にとって「妥当な判断」とは言い難い。ましてや「安全が確認された」とは無縁である。
一方、同日の弁護団声明は、「本決定は、却下決定ではあるが、実質的には、勝訴決定に等しい」と言っている。この点について、世論に説明が必要であろう。
仮処分と仮差し押さえを併せて「保全命令」という。判決確定までの間、とりあえず現状の維持を命じるもの。その発令には、「被保全権利の存在」と「保全の必要性」の2要件が必要である。今回の却下決定は被保全権利については言及せず、保全の必要のみを問題として、その疎明(証明と同義だが、その程度は証明ほどの厳格さを要求しない)がないとした。問題は、必要性の存在を否定した理由である。
その理由を弁護団声明から引用すれば、「原子力規制委員会が高浜原子力発電所3、4号機及び大飯原子力発電所3、4号機について新規制基準に適合して再稼動を容認するとは到底考えられない」からなのである。有り体に言えば、「今停止中の原発4基が、原子力規制委員会の新規制基準に適合することは考えられない」「だから再稼動容認の事態はないものと考えるしかない」「それなら、放っておいても再稼働による危険はなく、仮処分を発令する必要もないじゃないか」と言ったのである。関電の「妥当な判断をいただいた。一日も早い再稼働を目指したい」とのコメントに適合する内容ではない。
しかも、同決定は、規制委が再稼動を容認することは考えられないという根拠として、「基準地振動の策定問題について、我々(弁護団)が根本的な欠陥があると主張したことに対して、関西電力が全く反論できなかったことを正当に認定し」、「田中原子力規制委員会委員長が規制基準に適合しても安全であるとは言わないと述べたことを規制基準の合理性に対する疑問の表れであると評価し」、さらに「合理的な避難計画が策定されていないこと等を指摘」したとある。
原発再稼働の是非は、総選挙の主要争点のひとつである。「司法も再稼働推進派を支持する判断をした」「電力会社に妥当な判断をいただいた」「この決定を梃子に一日も早い再稼働を」などという悪宣伝に乗じられることのないよう、注意が肝要だ。
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平成26年11月27日
原告団、弁護団声明
本日、大津地方裁判所は、我々の申立を却下するという不当な決定を下した。我々はこれに強く抗議するものである。
却下の理由は、保全の必要性がないというものであるが、高浜原子力発電所も大飯原子力発電所も規制委員会の審理が進行し、近く設置変更許可がなされうると見込まれている今日において、保全の必要性がないという判断は、社会の一般的な認識に反するものである。さらに、本件決定は、最終的な判断を規別委員会に丸投げするものであり、裁判所は、市民の司法に対する期待を裏切った。
他方で裁判所は、基準地振動の策定問題について、我々が根本的な欠陥があると主張したことに対して、関西電力が全く反論できなかったことを正当に認定し、さらに田中原子力規制委員会委員長が規刑基準に適合しても安全であるとは言わないと述べたことを規制基準の合理性に対する疑問の表れであると評価し、さらに合理的な避難計画が策定されていないこと等を指摘し、原子力規制委員会が高浜原子力発電所3、4号機及び大飯原子力発電所3、4号機について新規制基準に適合して再稼動を容認するとは到底考えられないと述べた。これは裁判所による現行規制基準や、規制委員会の審理の在り方、あるいは、再稼動に邁進しようとしている政府・電力会社の姿勢に対する根底的な不信と批判を述べたものということができる。
本決定は、却下決定ではあるが、実質的には、勝訴決定に等しい。関西電力及び原子力規制員会は、この決定の趣旨を厳粛に受け止め、再稼動に向けての手続きをいったん停止し、規制基準の在り方から、根底的に見直すべぎである。関西電力は、裁判所が認定したとおり、我々の主張に対する反論もすることができなかった。このような状態のまま、再稼動の準備手続きを進めるべきではない。ましてや、老朽化した高浜原子力発電所1、2号機の再稼働など論外と言わざるを得ない。
我々は、本年5月21目の福井地裁判決に示された新しい流れが本流となるよう、原発ゼロ社会の実現に向けて、現在争っでいる福井原発群運転差し止め訴訟勝利に向けて、引き続き全力をあげることを決意するものである。
(2014年11月28日)
本日(11月27日)、弁護士や学者、子どもの権利に関する市民運動家ら有志205名が、「道徳『教科化』に関する中教審答申への反対声明」を発表した。私もその呼びかけ人のひとりとして、記者会見に臨んだ。
「東京・君が代強制拒否訴訟」の弁護団という立場で教育問題に関わっている澤藤から申し上げます。
本日の声明は、多くの反対理由に触れ相当にボリュームの大きなものになっています。とりわけ、道徳教育必要の口実にされているいじめ問題について、「いじめの構造を分析しての適切な対応になっていない、むしろ逆効果である」との切り口に紙幅が割かれています。ここには十分にご留意ください。
私自身は、この声明のなかの「日本国憲法は、『個人の尊厳』を中核的価値と位置づけ幸福追求権を保障し(13条)、思想良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、教育を受ける権利(26条)を保障している」という部分に強く共鳴する者です。
国家よりも社会よりも、「個人の尊厳」こそが根源的な憲法価値です。その尊厳ある個人の主体を形成する過程が教育です。公権力は、教育という個人の人格形成過程に国家公定の価値観をもって介入をしてはならない。これが当然の憲法原則であるはず。国民の価値観は多様でなければなりません。学校の教科として特定の「道徳」を子どもたちに教え込むことが許されるはずはありません。
とりわけ、多様な考え方が保障されなければならない国家・集団と個人との関係について、道徳の名の下に特定の価値観を公権力が子どもたちに刷り込むことには警戒を要します。
国家は、統御しやすい従順な国民の育成を望みます。「国が右といえば右。けっして左とは言わない人格」がお望みなのです。国民を主権者としてみるのではなく、被治者と見て、愛国心や愛郷心、社会の多数派に順応する精神の形成を望んでいるのです。このような、権力に好都合な価値観の注入が道徳教育の名をもって学校で行われることには反対せざるを得ません。
戦後民主主義の中で、道徳教育は、修身や教育勅語の復活に繋がるものとして忌避されてきました。それが、少しずつ、しかし着実に、進行しつつあります。今回の中教審答申もその一歩。学習指導要領における国旗国歌条項も同じように、一歩一歩着実に改悪が進み、今や「日の丸・君が代」強制の時代を迎えています。道徳教育も、このような道を進ませてはならないと思います。
記者から、質問が出た。「学校で特定の価値観の注入を強制してはならないという、その主張は分かりましたが、では子どもたちはどのようにしてあるべき道徳を身につけるべきだとお考えなのでしょうか」
私見ですが、子どもたちは、家庭で地域であるいは学校という集団で、大人と子どもを含めた人と接する内から自ずと市民的道徳を学び取り価値観を形成するのだと思います。旭川学テ最高裁大法廷判決は、十分な内容とまでは思いませんが少なくとも真面目に教育というものを正面から向かい合って考えた内容をもっていると思います。その判決理由では、教員を、教育専門職であるとともに良質の大人ととらえています。教育とは、そのような教員と子どもとの全人格的な触れあいによって成立する、「内面的な価値形成に関する文化的な営為」とされています。道徳についても、子どもに教科として教え込むのではなく、教師との触れあいのなかから子どもが自ずと学びとるものということでしょう。子どもは、教師からだけではなく、友だちとの触れあいのなかからも市民道徳を学び取っていくものと考えられます。基本的には、これで十分ではないでしょうか。
これを超えて、学校で教科として道徳を教え込むことについては、二つの極端な実践例を挙げることができます。そのひとつが戦前の天皇制国家において、臣民としての道徳を刷り込んだ教育勅語と修身による教科教育です。天皇制権力が、自らの望む国民像を精神の内奥にまで踏み込んで型にはめて作り上げようとした恐るべき典型事例と言えましょう。
もう一つが、コンドルセーの名とともに有名な、フランス革命後の共和国憲法下での公教育制度です。ここでは、公教育はエデュケーション(全人格的教育)であってはならないと意識されます。インストラクション(知育)であるべきだと明確化されるのです。インストラクションとは客観的な真理の体系を次世代に継承する行為にほかなりません。真理教育と言い換えることもできると思います。意識的に「徳育」を排除することによって、一切の価値観の注入を公教育の場から追放しようとしたのです。価値観の育成は家庭や教会あるいは私立学校の役割とされました。公教育からの価値観注入排除を徹底することによって、根深く染みついている王室への忠誠心や宗教的権威など、アンシャンレジームを支えた負の国民精神を一掃しようとしたものと考えられます。
おそらく、この天皇制型とコンドルセー型と、その両者を純粋型として現実の教育制度はその中間のどこかに位置づけられるのでしょう。私自身は、後者に強いシンパシーを感じますが、戦後の現実は、一旦天皇制型教育を排斥してコンドルセー型に近かったものが、逆コース以来一貫して、勅語・修身タイプの教育に一歩一歩後戻りしつつあるのではないか。そのような危機感を持たざるを得ません。
とりわけ、第1次安倍内閣の教育基本法改悪、そして今また「戦後レジームからの脱却」の一環としての「教育再生」の動きには、極めて危険なものとして強い警戒感をもたざるを得ません。
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以下は独白。以前にも書いたが、この機会に要点を繰り返しておきたい。私は「道徳」という言葉の胡散臭さが嫌いだ。多数派の安定した支配の手段として、被支配層にその時代の支配の秩序を積極的に承認するよう「道徳」が求められてきた歴史があるからだ。
強者の支配の手段としての道徳とは、被支配者層の精神に植えつけられた、その時代の支配の仕組みを承認し受容する積極姿勢のことだ。内面化された支配の秩序への積極的服従の姿勢といってもよい。支配への抵抗や、権力への猜疑、個の権利主張など、秩序の攪乱要因が道徳となることはない。道徳とは、ひたすらに、奴隷として安住せよ、臣下として忠誠を尽くせ、臣民として陛下の思し召しに感謝せよ、お国のために立派に死ね、文句をいわずに会社のために働け、という支配の秩序維持の容認を内容とするのだ。
古代日本では、割拠勢力の勝者となった天皇家を神聖化し正当化する神話がつくられ、その支配の受容が皇民の道徳となった。支配者である大君への服従だけでなく、歯の浮くような賛美が要求され、内面化された。
武士の政権の時代には、「忠」が道徳の中心に据えられた。幕政、藩政、藩士家政のいずれのレベルでも、お家大事と無限定の忠義に励むべきことが内面化された武士の道徳であった。武士階級以外の階層でもこれを真似た忠義が道徳化された。強者に好都合なイデオロギーが、社会に普遍性を獲得したのだ。
明治期には、大規模にかつ組織的・系統的に「忠君愛国」が、臣民の精神に注入された。その主たる場が義務教育の教室であった。また、軍隊も権力の片棒を担いだマスメディアもその役割を担った。荒唐無稽な「神国思想」「現人神思想」が、大真面目に説かれ、大がかりな演出が企てられた。天皇制の支配の仕組みを受容し服従するだけではなく、積極的にその仕組みの強化に加担するよう精神形成が要求された。個人の自立の覚醒は否定され、ひたすらに滅私奉公が求められた。
恐るべきは、その教育の効果である。数次にわたって改定された修身や国史の国定教科書、そして教育勅語、さらには「国体の本義」や「臣民の道」によって、臣民の精神構造に組み込まれた天皇崇拝、滅私奉公の臣民道徳は、多くの国民に内面化された。学制発布以来およそ70年をかけて、天皇制は臣民を徹底的に教化し臣民道徳を蔓延させた。今なお、精神にその残滓を引きずっている者は恥ずべきであろう。この経過は、馬鹿げた教説も大規模に多くの人々を欺し得ることの不幸な実験的証明の過程である。
戦後も、「個人よりも国家や社会全体を優先して」「象徴天皇を中心とした安定した社会を」などという道徳が捨て去られたわけではない。しかし、圧倒的に重要になったのは、現行の資本主義経済秩序を受容し内面化する道徳である。搾取の仕組みの受容と、その仕組みへの積極的貢献という道徳といってもよい。
為政者から、宗教的権威から、そして経済的強者や社会の多数派からの道徳の押しつけを拒否しよう。そもそも、国家はいかなるイデオロギーももってはならないのだ。小中学校での教科化などとんでもない。
(2014年11月27日)
したたり落ちるしずく無し とほうにくれてじっと手を見る
待てど暮らせどこぬしずく がまんがまんと 未来永劫
富む者でブロック万全アベノミクス 一滴たりともしずく落さじ
アベノミクス 成果はほんとにあるのやら しんぼう足りぬとしかる晋三
失政のそしりに対し大声で株価あげたと叫ぶ晋三
あろうこと 金持ち優遇庶民に増税 そんな政権 選挙で縁切り
あろうこと 貧困格差は見えぬ振り そんな政権 選挙で縁切り
あろうこと 非正規雇用は本人希望 そんな政権 選挙で縁切り
もってのほか 年金運営株でやれ アベノリスクは選挙で縁切り
うまく行くはずない政治 アホノミクスは選挙で縁切り
株高の今のうちなら勝てそうだ? その判断はアベノミス
(「アホノミクス」は浜矩子氏、「アベノミス」は鎌田慧氏からの借用)
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昨日(11月25日)、自民党が「重点政策2014」を発表した。
https://www.jimin.jp/news/policy/126585.html
「衆院選で訴える政権公約」という位置づけ。「政調会設置の各部会から寄せられた個別の政策を約300項目にわたって、幅広く掲載したもの」だという。それゆえであろう、体系性が見えてこない。脈絡に乏しい300項目の政策の断片を読ませられるのは苦痛。それでも、自民党が選挙に勝てば、「この公約に盛り込まれている以上は民意の支持を得た」として、独断政治の大義名分とするつもりなのだ。
その典型が公約の最後第6節に位置する憲法改正についての2項目である。
「? 憲法改正<時代が求める憲法を>
○憲法改正国民投票法一部改正法が施行されたことに伴い、国民の理解を得つつ憲法改正原案を国会に提出し、憲法改正のための国民投票を実施、憲法改正を目指します。
○憲法改正のための投票権年齢が4年経過後に18歳になることを踏まえ、選挙権年齢を前倒しして18歳以上に引き下げます。」
要約ではない。これが全文なのだ。これを読んだ有権者は、まさか今回選挙が改憲選択選挙だとは思わない。しかし、「憲法改正原案を国会に提出し、憲法改正を目指します」とはしっかり書き込まれている。その原案の内容は、「天皇をいただく国」をつくり、「自衛隊を国防軍にして、自衛の範囲を超えた海外での戦争もできる」ようにし、「公序・公益によってあらゆる権利の制限を可能とする」自民党改憲草案ということになる。安倍自民への投票は、あとから改憲容認票と主張されかねないのだ。
大義なき解散に関して、「アベノズルサ」「アベノコソク」を指摘する声は高い。目立たぬよう、公約に「憲法改正」をもぐり込ませた「アベノテグチ」についても大いに批判をしなければならない。
(2014年11月26日)
昨日(11月24日)、「九条の会」が初めて街頭に打って出た。「安倍内閣の改憲暴走を許さない! 九条の会集会&パレード」という画期的な企画。日比谷公会堂で2500人の集会をしたあと、賑々しく銀座へ繰り出した。
これを、今朝の東京新聞と毎日新聞が写真入りで報道している。東京新聞の見出しは、「九条守る意思示そう 日比谷から銀座2500人デモ」。毎日は、「九条の会:集団的自衛権行使容認に反対 都内で集会」。どういうわけか、朝日は黙殺。萎縮してるのでなければよいのだが。
毎日の記事の冒頭が以下のとおり。この時期当然ことながら、総選挙を意識した報道になっている。
「憲法9条の堅持を訴える市民団体『九条の会』は24日、東京都千代田区の日比谷公会堂で集会を開き、12月2日公示、同14日投開票の衆院選に向けて、憲法改正に意欲を示す安倍晋三政権に対抗する勢力の結集を呼び掛けた。全国各地から約2500人が参加。集会後はJR東京駅近くまでの約2キロをパレードし、集団的自衛権の行使を認めた閣議決定の撤回などを求めた」
そして、「九条の会」呼びかけ人二人のスピーチが紹介されている。いずれも総選挙に触れている。
「集会では呼び掛け人で憲法学者の奥平康弘・東大名誉教授が『アベノミクスという限られた観点から総選挙に出たことは驚き。支配層の思惑に対し我々の政治的努力が問われている』と強調。同じく呼び掛け人で作家の澤地久枝さんは『安倍内閣に反対の一点で戦えないか』と訴えた。」
最後は、「東京都小平市のNPO理事長、木村重成さん(68)は『党派を超えて世界に誇る憲法9条を守っていきたい』と話した。」と締めくくられている。
毎日の記者は、「選挙直前の今、九条の会が党派を超えた護憲勢力の総結集を訴えた」ととらえたのだ。澤地の『安倍内閣に反対の一点で戦えないか』は各党に候補者調整を呼びかけたものであろう。護憲の立場からは、安倍退陣を実現しなければならない。安倍退陣のためには、護憲の各政党が乱立して共倒れになってはならない。大同団結して安倍に対峙する「護憲の選挙」を構想しなければならないとする必死の訴え。
興味深いのが本日の赤旗の報道ぶり。もちろん九条の会の「集会&パレード」を無視してはいない。取材記事の掲載はある。しかし、一面の記事ではなく15面(社会面)左下の位置。写真もない。2500人の大集会の護憲集会の扱いとしてはまことにもの足りない。しかも、澤地の「安倍内閣に反対の一点で戦えないか」との訴えはまったく報道されていない。また、赤旗ホームページの25日欄には16本の記事がアップされているが、そこには昨日の九条の会の集会に関する記事の転載はない。
本日の赤旗トップは、「青年の力で暴走ストップーともに政治動かす共産党ー東京・新宿駅東口 山下書記局長訴え」である。「近づく総選挙。青年の力で日本共産党を躍進させ、青年の声が生きる政治を実現しようと、『暴走政治ストップ 国民の声で動く政治を! 若者×日本共産党 大カクサンDay』が24日、東京・新宿駅東口で行われました」という内容。大きなカラー写真は、「たくさんの青年を前に訴える山下芳生書記局長と笠井亮、池内さおり両衆院東京ブロック比例候補と吉良よし子参院議員」とキャプションを付けたもの。
明らかに共産党は「政党選択の選挙」に走り出している。党勢拡大の選挙といってもよい。今さら「一点共闘」だの「候補者調整」だのという呼び掛けに付き合う気持はないということなのだろう。この今の時期だからこそ、「護憲の選挙」か「政党選択の選挙」がが問われている。
常に定数1の首長選では、大同団結を目ざしての候補者調整はときに大義となる。現に沖縄知事選では共産党も保守の候補者を推して当選させた。では、同じ定数1の小選挙区制の選挙ではどうなのか。悩ましいところ。
遙か昔を思い出す。私が初めて選挙権を得た頃のこと。安保闘争の余韻の残る世の空気のなかで、私は当然に共産党の候補に投票すると口走った。これに、訳知り顔の級友が渋い顔をしたのを覚えている。「今、何をもって投票の基準とすべきか。最も重要なのは憲法改正を阻止する国会の3分の2の壁を崩さぬよう守り抜くことではないか。護憲の社会党に投票を集中しないのは利敵行為だと思う」「直情径行に支持政党に投票する前に、自分の投票行動がどのような客観的効果をもたらすか見つめ直した方がよい」「せっかくの一票、死票にしてはもったいない。よりマシな選択として野党第1党への投票として生かすべきだろう」というのだ。
釈然としないものの、的確な反論ができなかった。当時の社会党をそれなりに、評価していたこともあったからだろう。今また、『護憲の大義をもって、安倍内閣の改憲に反対の一点で大同団結して総選挙を戦えないか』という澤地の真摯で切実な呼び掛けに悩まざるを得ない。安倍自民に勝たせるよりは、まだマシの選択が現実に可能だとすれば…。
このような葛藤は、比例代表制の選挙では生じない。かつての中選挙区制でも死票が生じたが、小選挙区制の不合理はその比ではない。死票を避けようという有権者心理につけ込んで、二大政党制に誘導する目的から小選挙区制ができあがった。第1党に圧倒的に有利で、第2党にも利益があり、第3党以下には極端な不利益がもたらされる。この支持政党の如何によってもたらされる不平等は違憲だと思う。
小選挙区制は、有権者から政党選択の自由の権利を奪い、有権者の意見分布を正確に映すべき国会の議席構成を歪めてしまう。糺すべきは、まず小選挙区制にある。
とはいえ、今回の選挙に制度改革論を対置させても間に合わない。澤地の訴えは、結局は実ることがないだろう。どの政党どの団体を護憲勢力として、どのように調整すべきかを具体的に考えると、共闘や調整の環境が熟していないと判断せざるを得ない。沖縄のように、政党の枠を超えて重要な共通の課題が存在するとの、認識の共有と信頼関係がなければ、候補者調整は難しかろう。
しかし、澤地の問題提起は重要だと思う。いつか、「憲法擁護統一戦線」あるいは「憲法改悪阻止国民連合」が、ファシスト的な保守連合と選挙戦を戦わねばならないときが来ることの予感がある。
そのとき、否応なく、大同団結をしなければならない。いまは、悩みつつも、それぞれが反安倍の立場を最も有効に貫く方法の選択をするしかない。
(2014年11月25日)
前回2012年に続いての、師走総選挙で慌ただしい。
私は、2013年1月1日まだ日民協ホームページの軒先を借りていた頃のブログで、前回12年総選挙の結果をまとめてみた。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/sawafuji/index.cgi?no=204
その大要を紹介しつつ、12年選挙における、第3極なるものの役割について論じたい。
ここ10年ほどの総選挙結果に表れた有権者の投票行動は、小泉劇場を舞台とした郵政選挙(2005年)で自民党に走り、一転してマニフェスト選挙(2009年)で民主党に向かい、前回自爆解散による総選挙(2012年)で自民党に戻ったかの印象を受ける。議席の推移からだけだとそう見えるが、しかし実は前回12年選挙では、民主党から自民党への票の回帰はなかった。自民党政権は、見かけほどに強くはないのだ。この点の見定めが肝要である。
2009年夏の第45回総選挙において、民主党が獲得した比例代表区での総得票数は3000万票である。圧倒的なこの票数は、自公政権批判の民意を示して余りあるものであった。その3年後2012年第46回総選挙での民主党得票数は1000万票を割った。09年選挙での民主党投票者3000万人のうち2000万人に見限られたのである。では、その2000万票は、どこに行ったか。おおよそ次のように考えて間違いはない。
まず、1000万票が消えた。1000万人が棄権したのだ。12年選挙の投票率は09年選挙に比較して10%低下し戦後最低となった。有権者総数1億人の10%は1000万人。その多くが、前回民主党への期待を込めての投票者であったことが想像に難くない。
では、棄権票を除いた1000万票は自民党に回帰したか。否である。自民党も得票数を減らしている。自民党の過去3回の比例得票数の推移は、2100万票(05年)→1900万票(09年)→1700万票(12年)と、着実に票を減らし続けている。政権を奪取した12年選挙でも、民主党から離れた票の受け皿とはならず、200万票を減らしたのだ。なお、公明も民主党離れ票の受け皿とはなっていない。公明の過去3回の比例得票数の推移は、900万票→800万票→700万票と、こちらも着実に票を減らしている。自公政権への国民の評価は、意外に厳しいといわねばならない。
では、09年選挙での民主党投票から離れて12年選挙で棄権しなかった有権者はどこに投票したか。自民党ではなく第3極に向かった。その多くは維新であった。民主党離れの2000万から棄権者数1000万を差し引けば、他党への乗り換えが1000万票。これに自民票から流出した200万票を足せば1200万票。この数字が09年初めて総選挙に登場した維新の獲得票1200万票とぴたりと符合する。
つまり、09年選挙で民主党が獲得した3000万票は、12年選挙では3分されて、
(1) 1000万票は律儀に民主党に再投票した(あきらめず、民主党支持にとどまった)。
(2) 1000万票は棄権票となって消えた(政治への期待を失った)。
(3) 1000万票は維新に移った(政治への期待をあきらめきれず、今度は維新に望みを託した)。
となったと見てよいと思う。「未来」(現生活)や「みんな」に行った票もあるはずだから以上は大まかなところ。
この票の動きから、次のように言えるだろう。
郵政選挙までは自民にとどまっていた有権者の民意は、いったん熱狂的に民主に向かって政権交代を実現したが、民主に裏切られた民意は民主党から離れたものの自民には戻っていない。12年選挙の結果を見る限り、有権者の自民離れの長期傾向は一貫して継続しており、民意はけっして自民を支持してはいない。12年総選挙間の自民の「大勝」は、有権者の積極的支持によるものではないのだ。にもかかわらず自民が圧倒的多数の議席を獲得したのは、民主が沈んだことによる相対的な有利を、絶対的な議席数の差に反映した小選挙区制のマジックの効果である。その、民主の凋落をもたらした大きな要因として、民主離れの票の受け皿となった第3極の存在を無視し得ない。
安倍自民を右翼政党と表すれば、12年選挙における石原・橋下の「維新」は極右というほかはなく、中道・民主から極右・維新への1000万票の流れは、政治の重点を右に傾けた片棒をになっている。
しかし、彼ら第3極の基盤も脆弱である。12年選挙で54議席を獲得した「日本維新の会」は、「維新の党」と「次世代の党」に分裂した。既に当時の勢いはない。18議席を獲得した「みんなの党」も分裂し、このほど解党を決議した。みんなを割って出た「結いの党」が維新の党と合流したが、到底党内の統一が保たれているようには見えない。
あきらかに、有権者は戸惑っている。
自民の長期低落傾向は、自公政権の新自由主義的政策への批判の表れである。目先を変えての集票にも限界があり、いったんは雪崩を打って民意は民主党政権を作り上げた。しかし、民主党の裏切りに、民意は第3極に期待した。その結果が、民主党の凋落と、小選挙区効果による自民党圧勝であった。
安倍自民の延命も、第3極の議席の維持も、真に民意の望むところとは考えがたい。とりわけ、自覚的な安倍政権批判票を第3極に流出させてはならないと思う。第3極とは、日本の軍事大国化をさらに推し進める輩と、経済格差や貧困をさらに深めようとする新自由主義者の連合体ではないか。けっして、安倍政権への批判の受け皿たりうる資格はない。
自民はだめだから民主へ、民主もだめだったから第3極へ、というのが前2回の総選挙に表れた民意漂流の姿である。この流れを断ち切ろう。幸いにして、第3極は四分五裂の状態である。このような無責任政治集団に、貴重な票を投じてはならない。
(2014年11月24日)
私のブログは転載転用自由。引用元の表示も不要。一部の引用も改案改変もけっこう。時に、丁寧に転載引用の許可の申し入れを受けることがあって恐縮してしまう。律儀なご報告も要らない。労働組合の「分会ニュース」や「職場新聞」のネタに、あるいは民主団体の通信の穴埋めなどに使える記事はそれなりに拾えると思う。少しでも利用していただけたらありがたい。
さて、既に衆議院が「大義なき解散」をした。目前に総選挙がある。言うまでもなく、今回総選挙は日本の岐路に関わる重大な政治戦である。平和か緊張か、国民生活の充実か格差拡大か、脱原発か原発依存継続か、そしてこんな人物を首相にしておいてよいのか、という選択が目の前にある。
菅義偉官房長官は19日の記者会見で、衆院選のテーマについて「何を問うか問わないかは、政権が決める」と述べた。安倍政権の傲りと挑発の姿勢が見てとれる。当然のことながら総選挙のテーマは国民が決める。今回総選挙は、何よりも安倍自民2年間の政治に対する国民の審判である。私は、民主党政権が成立したときには、全面的にではないにせよその評価を惜まなかった。改憲が遠のいたということだけでも胸をなで下ろした。しかし、安倍自民については評価ゼロである。安倍政権がやろうとしていること、やってきたことに、プラス評価すべきところは一つとしてない。この危険な政権は、国民の批判によって一日も早く退陣に追い込まなければならない。今回総選挙はそのチャンス。すくなともその第一歩としなければならない。
国民の側から鋭い矢を放ち、安倍自民を撃たねばならない。射貫くべき的は4個あると思う。この的を的確に射貫く4本の矢が必要である。
4個の的とは、?政治分野の的、?経済問題の的、?原発再稼働阻止の的、そして?安倍晋三という人物の資質についての評価の的である。
国民の側から放つべき、それぞれの的を射貫く矢は、?「平和の矢」、?「生存権の矢」、?「脱原発の矢」、そして?「総理おかわりの矢」でなくてはならない。
?政治分野では、問題山積である。まずは改憲策動から始まって、歴史修正主義、安保防衛問題、非友好的な近隣外交、憲法違反の靖国参拝、沖縄基地拡張、オスプレイ導入、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、NHK経営陣人事問題、教育再生などなど…。一口に言って、これまでの保守政権とは次元を異にした安倍政権の「右翼的好戦姿勢」が際立っている。世界中で戦争のできる国を作るための立法が目前にある今、この安倍政権の好戦的政治姿勢を撃つ国民の側からの矢は、国民がこぞって望む「平和の矢」である。
平和の矢は、「9条の矢」でもある。国際協調の外交の智恵を尽くして、安倍政権の戦争準備、緊張増強の政策を批判しなければならない。
?経済問題は、言わずと知れたアベノミクスへの批判である。新自由主義の基本発想は「経済活動は規制のくびきを解いて自由に放任せよ。そうして富者をしてより富ませよ。さすればいつかは貧者にもおこぼれがしたたるであろう」というもの。「企業にとっての天国を作ろう」という政策は、労働者と消費者の犠牲をいとわないということである。非正規雇用を増大させ、首切りを自由とし、残業代踏み倒しの放任による労働者イジメは、消費の低迷をきたし、中小企業と地方の冷え込み、農漁業の切り捨ての悪循環をもたらす。租税負担を応能主義の原則によるものとし、格差貧困を克服しなければならない。国民の側からのアベノミクスへの批判の矢は、「生存権の矢」である。国民の生存権をかけて、アベノミクスと対決しなければならない。
?原発再稼働阻止は、喫緊の大問題として独立して取り上げなければならないテーマである。再びの安全神話が作られつつあり、安全を無視した再稼働への動きが急である。それだけでなく、原発プラントの輸出に血眼になっている安倍政権を徹底して批判しなければならない。国民の側から、あらためて安倍政権へ「脱原発の矢」を射込まなければならない。
さらに、?安倍晋三という人物の資質を問題にしなければならない。この人、到底総理の任にあるべき人ではない、私は長年悪徳商法被害救済に取り組んできた経験から、安倍政権の手法を悪徳商法の手口とよく似ていると指摘してきた。
たとえば、2013年9月10日の「嘘で掠めとった東京五輪招致」をご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=1154
彼は、IOC総会で、福島第1原発事故の放射能被爆の影響について、「状況はコントロールされている」「汚染水による影響は湾内で完全にブロックされている」と言ってのけた。嘘は人を不幸にする。一国の首相の嘘は、その国の国民の信用を落とすことになる。悪徳商法の被害者は、誠実そうなセールスマンを信用したことをあとになって後悔する。世界も日本も、あとになって、「アベノダマシ」に臍を噛むことになる。
それだけでない。最近の首相の言動の幼児性と精神の不安定性に言及する論者は少なくない。本日の東京新聞「本音のコラム」欄の山口二郎「総理の器」は、辛辣というよりは、深刻で恐ろしい指摘である。首相にあるまじき、逆ギレ、いら立ち、市民にいちゃもんなどの具体例を引いたあと、「こんな不安定な人物を国の最高指導者に据えていることを日本人は認識した方がよい。衆院解散のスイッチを押して権力を維持できれば、次は戦争のスイッチを押すかも知れない」と言う。私も当たっていると思う。首相には、そう思わせるものが確かにある。国民の側から、大きな声とともに「総理おかわりの矢」を放たねばならない。
(2014年11月23日)
当「憲法日記」が日民協の軒先間借りから独立して新装開店したのは、2013年4月1日。以来、毎日更新を続けて、昨日(2014年11月21日)のブログで600回を重ねた。この間、1日の途切れもなく書き続けてきた。今日が、連続第601号のブログである。
これまで、格別に連続更新を広言したわけでもなく、600回を目標にしたわけでもない。書き続けてきたのは、内から吹き出すマグマがあったからだ。気がついて勘定してみれば、積み重なって600回。さすがに、それなりの達成感がある。まあこれで、私もブロガーの仲間入りができたと言ってよいのではないか。
もっとも、誰も何とも言ってくれないから、一人で「600日連続更新」に祝意を表すとしよう。私はアルコールは一切嗜まないから、ビターなチョコを肴に、ウーロン茶で乾杯でもしておこう。そして、次は連続1000回を目標に書き続けることにしよう。
書き続けることに何の意味があるのか。実はよく分からない。これまでは、内なるものの趣くままに書き綴ってきた。同じテーマも執拗に書き連ね、それなりの一貫性は保たれていると思う。お読みいただいた方から励ましを受けることも、貴重な情報の提供を受けることも少なくない。この反応が、書き続けているブロガーの醍醐味であろう。
また、当ブログの論評に対する宇都宮陣営(及びその付和雷同者)からの舌足らずな批判や、DHCとこれに類する輩からの過剰な反応も、それなりの彩りである。思いがけなくも、批判よりは、激励や連帯のエールを得ている。ありがたいことだ。そのような反応に接して、いささかの充実感を得ている。
600回を省みて、多少は思うところがある。「文章の分量が長過ぎる」「まだるっこしくて分かりにくい」「写真も絵もなく、親しみにくい」「読み手へのサービス精神に乏しい」…。いろんなことを言われたが、これまでは不器用に自分流を貫いてきた。これをほんの少しは改めたいと思う。読んでいただだかねば書く意味がない。少しは短めに、もう少しは読みやすく分かり易い、こなれた文章を心掛けよう。
権力や権威、強者に対する批判の姿勢は変えようもない。とりわけ、天皇や天皇制とそれを支える心情、そしてナショナリズムには切り込まねばならないと思う。そして、人権の侵害があれば、たとえ「民主運動」といえども批判に遠慮があってはならないと思う。
ときに「もの言えばくちびる寒し」と思わぬこともないではない。しかし、常に感じるのは、「もの言わぬは腹ふくるるわざ」の方である。
さて、いまだ途はなかば。新たな一歩を踏み出そう。ときあたかも、総選挙目前の時期である。「憲法日記」のネタは尽きない。
(2014年11月22日)
今回の準備書面では,国旗国歌に関する一連の最高裁判決について批判的に論じました。代理人の白井から、その要点を口頭で陳述いたします。
最高裁の各判決は「事案の把握」をしています。「原審の適法に確定した事実関係等の概要」に続く部分です。「『日の丸』・『君が代』の果たした役割に関する上告人ら自身の歴史観・世界観を理由に起立斉唱命令を拒否した事案である」そのように最高裁は事案を把握しました。
個人の歴史観等と職務命令とが対置されています。この二つの対置おいて事案を把握しているのです。
このように事案を把握したからでしょう。最高裁判決は,思想良心の自由に対する制約かどうかを判断するにあたっても,個人の歴史観等と職務命令とを対置させて,両者の関係を論じました。そして,起立斉唱命令は個人の歴史観等を直接に制約するものではないとしました。そのうえで、直接の制約ではない、「間接的な制約」という判断枠組を示しました。
しかし,対置されるものが,個人の歴史観等ではなく,ほかの別のものであれば,直接の制約かどうかの判断も変わるものと考えられます。
2007年2月27日の最高裁ピアノ判決に付した反対意見で,藤田宙靖裁判官は,こう述べています。「君が代」を否定的に評価するかどうかにかかわらず,「公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得る」と。そして,この考えは,「(多数意見がまとめた)歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信条・信念そのものに対する直接的抑圧となることは,明白である」と。
職務命令と何を対置させて事案を把握するのかによって,直接的な制約になる場合もありうるはずですし,そうすれば判断枠組も変わるはずなのです。
本件がどのような事案であるのかを考えるうえで,職務命令と個人の歴史観等とを単純に対置させるのは間違いです。それでは,事案を的確に把握したことにはなりません。
2011年3月10日,東京高裁第2民事部の判決は,10・23通達関係の167名全員の懲戒処分を取り消しました。「大橋判決」と呼ばれています。大橋判決は,職務命令と個人の歴史観等とを単純に対置させてはいません。
もちろん,大橋判決も,「日の丸」・「君が代」の果たした役割に関する個人の歴史観等を無視したわけではありません。しかし,それとは区別される別の側面が,教職員の思いの中にあることを指摘しています。同判決は控訴人らの主張をこう整理しました。
「?日本の近代の侵略の歴史において日の丸,君が代が果たした役割等といった歴史認識から,かつての天皇制国家の象徴である日の丸・君が代を日本国の象徴とすることに賛成できない,
?これまでの教育実践の中で,正義を貫くこと,自主的判断の大切さを強調していたのに,これに反する行動はできないなどの思いから,国旗に向かって起立し,国歌を斉唱できないという信念を有するものである」
そして,?の方を「教職員としての職業経験から生じた信条」と表現しました。
さらに、こう判示しています。
「控訴人らの不起立行為等は,自己の個人的利益や快楽の実現を目的としたものでも,職務怠慢や注意義務違反によるものでもなく,破廉恥行為や犯罪行為でもなく,生徒に対し正しい教育を行いたいなどという前記のとおりの内容の歴史観ないし世界観又は信条及びこれに由来する社会生活上の信念等に基づく真摯な動機によるものであり,少なくとも控訴人らにとっては,やむにやまれぬ行動であったということができる」
大橋判決が明らかにしたものは,最高裁による「事案の把握」とは,明らかに異なります。「生徒に対し正しい教育をおこないたい」という側面に光が当てられています。
最高裁が職務命令に対置させたものは,個々人の歴史観・世界観です。大橋判決はそうではありません。教育条理に従って教育をおこない,学校における自らの教師としての言動のひとつひとつを教育条理に従って考えるということです。教職員としての職責意識と呼ぶべきものです。
大橋判決は,教職員らの思いのなかに,「日の丸」「君が代」に関する歴史観等の側面があることは肯定しつつ,それとは異なる,もうひとつの別の側面として,誠実で強烈な職責意識があることを鮮やかに指摘したのです。
最高裁が描いたのは、職務上の義務に対して自己の自由を主張する人たちの事案です。これに対し大橋判決が明らかにしたのは,自身が教職員であることの意味を突き詰めて考え,その職責意識ゆえに上司の命令に従うことのできなかった人たちの事案です。
ひらたく言いなおせば,最高裁が描くのは,「やりたくないことをやらなかった」人たちです。大橋判決が明らかにしたのは,「教員としてやってはならないことをやれと言われて悩み苦み,できなかった」人たちなのです。
この訴訟で原告らが主張するものは,前者ではなく後者です。
本件がどのような事案であるのか。職務命令と何を対置させるべきなのか。裁判所には,ぜひ原告らの主張に充分に耳を傾け,的確に事案を把握していただきたいと思います。そのことをくれぐれもお願いして,本日の代理人弁論といたします。
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「日の丸・君が代」強制の違憲性をどのように把握するか。常識的には、まず強制される個人の基本権の侵害ととらえることになる。憲法19条で保障させる思想良心の自由が、公権力によって侵害されている。この侵害された権利の救済を求めるとするシンプルな構成が、最も分かり易い。
ことは、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制である。国家観・歴史観・世界観に関わる重要なテーマである。むしろ、憲法が最も関心をもつテーマではないか。日本国憲法は、大日本帝国憲法体制への反省から、そのアンチテーゼとして生まれた。「日の丸・君が代」とは、大日本帝国憲法体制のシンボルである。日本国憲法は、国民に「日の丸・君が代」の強制はあってはならないとする自明の前提でできている。憲法19条の「思想良心の自由」とは、当然に「日の丸・君が代を強制されない権利」のことであるはず。
しかし最高裁は、苦労のすえに、「国旗国歌への敬意を表せよという公務員に対する職務命令は、思想良心に抵触することは否定し得ないが、間接制約に過ぎない」との「理論」を編み出し、躊躇しつつも違憲ではないとした。この最高裁の躊躇は、「実害を伴わない戒告は許容されるが、減給以上の処分は裁量権の逸脱濫用として違法」となって生きている。
もちろん、我々はこれで満足できない。なんとかして、違憲の最高裁判決を獲得したい。本日の4次訴訟の法廷は、その試みの一端である。
最高裁は、本件を「公権力」対「私人の精神的自由権」の対峙と把握した。その論理的な帰結が、間接制約論を媒介とした、緩やかな違憲審査基準を適用しての違憲論排斥となった。 ならば、本件の「事案の把握」の観点を変え、別の側面に光を当ててみよう。「公権力」と対峙し、公権力によって侵害されているものは、私人の自由だけではなく、「教員としての職責」「教員としての職業倫理としての良心」ではないのか。主観的な思想良心ではなく、法体系が客観的なものとして教員に課している職責というべきではないか。
白井剣弁護士渾身の弁論は、「東京君が代裁判」弁護団の現時点での到達点の一端である。
(2014年11月21日)