ナッツ姫ではなく、ドリル姫こと小渕優子議員の話題。
各紙の報道によれば、「4月28日東京地検特捜部は、政治資金規正法違反(虚偽記載など)容疑に関し、小渕氏については、認識していた証拠がないなどとして不起訴処分(嫌疑不十分)とした」という。報道は、殆どが地検の発表をそのまま伝えるだけだからもどかしいが、このニュースは明らかにオカシイ。
4月27日の各紙は、一斉に「特捜は小渕優子本人に任意で複数回、事情聴取していた」と報道していた。そして、「小渕氏は自身の関与を否定したもよう」というのも、各紙一致した内容。その翌日には、一転して不起訴報道である。起訴されたのは、いずれも元秘書の2人だけ。特捜は、「小渕についても一応は調べは尽くした」という形作りを処分直前になってリークしたのだろう。すべては筋書き通りとの印象。
この件については、「群馬県の市民団体」が告発したと報じられているが、告発状の内容までは報道されていない。常識的には、小渕の行為については、まずは政治資金収支報告書の会計責任者としての記載者本人との共同正犯として虚偽記載罪が成立するという容疑を主位的な被告発事実とするだろう。しかし、捜査の結果その立証が困難である場合に備えて、予備的に過失犯である政治資金規正法第25条2項の政治団体の責任者の罪を被告発事実としたはずである。
この規定は、政治家常套の「すべては秘書のやったこと」「知らぬ存ぜぬ」というシッポ切り逃げ切り術を封じるための歯止め条項である。この活用が、政治資金規正法をザル法とすることを防ぎ、政治をカネの汚濁から救う光明となる。
本件の場合、元秘書の2名は、会計責任者として「法第12条第1項の報告書又はこれに併せて提出すべき書面に虚偽の記入をした者」にあたる。
法25条2項は、会計責任者に虚偽記入罪が成立した場合、「政治団体の代表者が当該政治団体の会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたときは、50万円以下の罰金に処する」と定める。
分かり易く翻訳すれば、「政治資金管理団体・未来産業研究会の代表者である小渕優子は、元秘書2名を未来産業研究会の会計責任者に選任するについても、あるいは選任後適正に収支報告書を作成するよう監督するについても、十分な注意をすべきであったのにこれを怠ったと認められるときには、罰金刑を科せられる」ということなのだ。
この法第25条2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯である。しかも、重過失を要せず、軽過失で犯罪が成立する。会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。
小渕において、特別な措置をとったにもかかわらず会計責任者の虚偽記載を防止できなかったというなにか特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督に過失があったとして刑事責任も生じるものと考えなければならない。そうでなくては、政治家本人に責任を持たせようとした法の趣旨は失われ、政治資金規正法はザル法となって、政治の浄化は百年河清を待たねばならないことになる。
なお、小渕が25条2項によって起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から5年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を失う。その結果、小渕は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失う。そのような結果は、法が当然に想定するところである。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ない。選挙でミソギが済んだなどという言い訳は利かないのだ。
だから、「小渕氏については、認識していた証拠がない」などの理由で「不起訴処分(嫌疑不十分)とした」という報道は的外れでオカシイのだ。本件では、小渕は政治資金収支報告を全面的に元秘書に任せていたことが明白である。まさしく、選任及び監督に関して、政治家として払うべき注意を怠ったことが明々白々ではないか。
たまたま、この時期、小渕の資金管理団体「未来産業研究会」には「収支報告書に記載していない支出が計1億円近くに上ったことが取材で分かった」などとと報じられてもいる。政治資金規正法をザル法にしてはならない。ドリルでの証拠隠滅も許しがたい。
告発をされたグループには敬意を表する。と同時に、さらに徹底した追求をされるよう要望したい。政治資金規正法25条2項を死文にしてはならない。まずは、是非とも検察審査会への審査申し立てをお願いしたい。
(2015年4月30日)
昨4月28日は、サンフランシスコ講和条約発効の日。1952年に日本が独立を回復した日でもあるが、片面講和によって日本が東西対立の一方に組み込まれた日でもある。また、沖縄にとっては、本土から切り離されて、アメリカの施政下に置かれることになった「屈辱の日」にほかならない。
この日、那覇では「4・28県民屈辱の日」に超党派の県民大集会が開催された。本日の琉球新報が報じる見出しは、「辺野古新基地拒否 2500人結集 『屈辱に終止符を』 4・28県民大集会 」というもの。
「県議会与党5会派と市民団体らの実行委員会による『止めよう辺野古新基地建設! 民意無視の日米首脳会談糾弾! 4・28県民屈辱の日 県民大集会』が28日、那覇市の県民広場で開かれた。約2500人(主催者発表)が集まった。日米首脳会談で名護市辺野古の新基地建設推進が再確認される見通しであることについて登壇者が『新基地建設は絶対許さない』と強調すると歓声や拍手が鳴り響き、日米両政府による新たな『屈辱』の阻止に向け思いを一つにした。」
ときあたかも、オバマー安倍の日米両首脳が満面の笑みをもって「新たな屈辱」をつくりつつある。
よく知られているとおり、63年前の「沖縄の屈辱」には、昭和天皇(裕仁)が深く関わっている。「天皇の沖縄メッセージ」あるいは「昭和天皇の琉球処分」といわれるものだ。
この天皇の愚行は、1947年9月22日のGHQ政治顧問シーボルトから本国のマーシャル国務長官宛書簡に公式記録として残されている。標題は、「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」というもの。寺崎英成がGHQを訪問して伝えた天皇の意向が明記されている。寺崎は当時宮内省御用掛、英語に堪能でマッカーサーと天皇との会談全部の通訳を務めたことで知られている。
シーボルトの国務長官宛て書簡のなかに次の一文がある。
「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。」
ややわかりにくいが、「疑いもなく私利に大きくもとづいている希望」の原文は、次のとおり。
a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest.
「self-interest」を「保身」と訳すれば理解しやすい。
これにシーボルト自身の「マッカーサー元帥のための覚書」(同月20日付)が添付されている。こちらの文書が文意明瞭で分かりやすい。以下、全文の訳文。
「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来にかんする天皇の考えを私(シーボルト)に伝える目的で、時日を約束して訪問した。
寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役だち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような『事件』をひきおこすことをもおそれている日本国民のあいだで広く賛同を得るだろうと思っている。
さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借?25年ないし50年あるいはそれ以上?の擬制(fiction)にもとづくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心をもたないことを日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。
手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の二国間条約によるべきだと、考えていた。寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講話という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解をあやうくする可能性がある。
W・J・シーボルト」
この天皇(裕仁)の書簡を目にして怒らぬ沖縄県民がいるはずはない。いや、まっとうな日本国民すべてが怒らねばならない。当時既に天皇の政治権能は剥奪されていた。にもかかわらず、天皇は言わずもがなの沖縄の売り渡しを自らの意思として積極的に申し出ていたのだ。「疑いもなく私利(保身)にもとづいた希望」として、である。沖縄が、4月28日を「屈辱の日」と記憶するのは当然のことなのだ。
沖縄の心を知ってか知らずか、無神経に「主権回復の日」に舞い上がる輩もいる。稲田朋美自民党政調会長などがその典型。昨日(4月28日)、天皇の神社であり軍国神社でもある靖国に参拝している。特に、この日を選んでのことだという。米国に滞在中の安倍にエールを送っているつもりなのか、それとも風当たりが強くなることを無視しているのだろうか。
安倍政権では、高市早苗総務相、山谷えり子拉致問題担当相、それに有村治子女性活躍相が、春の例大祭に合わせて靖国参拝をしている。これに稲田が加わって「靖国シスターズ」のそろい踏みだ。
靖国とは、「侵略戦争を美化する宣伝センター」(赤旗)である。これはみごとに真実を衝いた言い回しだ。「そこへの参拝や真榊奉納は同神社と同じ立場に身を置くことを示すもの」(同)という指摘は、政治家がおこなえばまさしくそのとおり。
私の手許に「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編)がある。初版が1950年8月15日で、私の蔵書は1980年の第9版。「唯一の地上戦」の沖縄県民の辛酸の記録だが、450頁のこの書の相当部分の紙幅を割いて、県民が日本軍から受けた惨たる仕打ちが克明に報告されている。靖国神社とは、沖縄県民の命とプライドを蹂躙した皇軍兵士を神として祀るところでもある。「沖縄屈辱の日」を敢えて選んでの稲田の参拝は、さらに沖縄県民を侮辱するものと言わねばならない。
独立を回復した記念の日に、広島でも長崎でも、東京大空襲被害地でも、摩文仁でもなく、なぜことさらに軍国神社靖国参拝となるのだろうか。主権回復のうえは、何よりも軍事施設への関心を示すことが大切だというアピールと解するほかはない。これは戦争を反省していない証しではないか。
しかも、である。朝日によれば、「参拝後、稲田氏は『国のために命を捧げた方々に感謝と敬意、追悼の気持ちを持って参拝することは、主権国家の責務、権利だ』と語った。」という。これは看過できない。
稲田の言う『靖国参拝は、主権国家の責務、権利だ』は、問題発言だ。憲法は、国家の宗教への関わりを厳しく禁じている。公党の要職にある人物の政教分離への無理解に呆れる。これが、弁護士の発言だというのだから、同業者としてお恥ずかしい限り。
菅官房長官よ、安倍晋三の靖国への真榊奉納については、「私人としての行動であり、政府として見解を申し上げることはない」と言ったあなただ。「靖国参拝は主権国家としての権利」と言ってのけた稲田発言をどう聞くのか。
明けて今日(4月29日)が、最高位の戦争責任を負うべき立場にあり、戦後においても自らの保身のために(based upon self-interest)沖縄に屈辱をもたらした、その人の誕生日である。
この日を「昭和の日」として奉祝するなどは、沖縄の屈辱をさらに深めることにほかならない。せめて、歴史を省みて、辺野古基地新設反対の県民世論に寄り添う思いを固める日としようではないか。
(2015年4月29日)
私は、国のつく言葉が嫌いだ。国威・国体・愛国・憂国・国士・国粋・挙国・国富・国益・国母・国是・国策・国論・国賊・売国・国禁…。どれもこれも嫌なイメージがつきまとう。
中でも、「国辱」が大嫌い。「我が誇るべき国家の名誉を傷つけた。許せぬ」という、思い込み激しい罵り言葉として使われる。多くの場合、ウルトラナショナリストが激情赴くままに議論を拒絶した発語だから始末に悪い。
しかしときに、なるほどこれこそは「国の恥」にあたる「国辱的行為」ではないかと思いあたることがある。それが国自身のなせるわざで、政権に強く突き刺さる鋭さをもつのであれば、敢えてこれは「国辱もの」と言ってよいのではなかろうか。
本日(4月28日)の朝日が報道する「特派員『外務省が記事を攻撃』 独紙記者の告白、話題に」という記事の内容がまさしくそれ。安倍政権と外務省が挙国の態勢で、憂国の志から碧眼の賊徒を懲らしめ、国威を発揚せんとした愛国美談の一幕。しかし、これこそまぎれもなく国恥であり国辱ではないか。そのような批判の語として用いるのが、「国辱」の正しい使い方であろう。
その記事には、メインの見出しのほかに4本のサブの見出しがついている。「政権批判 総領事が独本社訪れ抗議」「東京滞在5年 離日に際し告白」「記者『昨年あたりから変化』」「識者の人選にも注文」というものだ。紙面に勢いがあふれている。権力批判のジャーナリズム健在を示す記事だ。これは下記のURLで読める。是非とも拡散して、多くの人に読んでもらおうではないか。再びの「国辱」が繰り返されることのないように。
http://www.asahi.com/articles/ASH4P6GZ3H4PUHBI02T.html?iref=comtop_6_06
記事は「昨年来、日本の外務官僚たちが、日本に批判的な外国特派員の記事を大っぴらに攻撃している」と指摘するもの。有り体に言えば、日本の国家総掛かりでの言論への介入である。それも、ドイツやアメリカの有力紙へのもの。おそらくは氷山の一角として明らかになった、ドイツ有力紙元東京特派員の驚くべき告白がメイン。そして、「米主要紙東京特派員」への在米日本大使館からの批判メール事件を紹介している。さすがに、よく行き届いた直接取材で信憑性はきわめて高い。由々しき問題と、憂国せざるを得ない。
主要部分を引用しておきたい。
注目されているのは、独紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)のカルステン・ゲルミス記者(56)が書いた英文の寄稿「外国人特派員の告白」だ。日本外国特派員協会の機関誌「NUMBER 1 SHIMBUN」4月号に掲載された。これを、思想家の内田樹(たつる)さんがブログに全文邦訳して載せ、ネット上で一気に広がった。
ゲルミス氏は2010年1月から今月上旬まで東京に5年余り滞在した。発端となる記事をFAZ紙に掲載したのは昨年8月14日のこと。「漁夫の利」と題し、「安倍政権が歴史の修正を試み、韓国との関係を悪化させているうちに、中韓が接近して日本は孤立化する」という内容の記事だった。これに対し、中根猛・駐ベルリン大使による反論記事が9月1日付のFAZ紙に掲載された。
ここまではよくある話だが、寄稿が明かしたのは、外務省の抗議が独本社の編集者にまで及んでいた点だった。記事が出た直後に、在フランクフルト日本総領事がFAZ本社を訪れ、海外担当の編集者に1時間半にわたり抗議したという。
寄稿によると、総領事は、中国が、ゲルミス氏の記事を反日プロパガンダに利用していると強調。さらに、総領事は「金が絡んでいると疑い始めざるを得ない」と指摘した。また、総領事は、ゲルミス記者が中国寄りの記事を書いているのは、中国に渡航するビザを認めてもらうために必要だからなのでしょう、とも発言したという。
ゲルミス氏は寄稿で、「金が絡んでいる」との総領事の指摘は、「私と編集者、FAZ紙全体に対する侮辱だ」と指摘。ゲルミス氏は「私は中国に行ったことも、ビザを申請したこともない」とも記している。
当事者たちに、現地で直接取材した。昨年8月28日、FAZ本社を訪れたのは坂本秀之・在フランクフルト総領事。対応したのは、ゲルミス氏の上司に当たるペーター・シュトゥルム・アジア担当エディター(56)だった。
シュトゥルム氏によると、同紙に政府関係者が直接抗議に訪れたのは、北朝鮮の政府関係者以来だったという。シュトゥルム氏は「坂本総領事の独語は流暢だった」と話す。総領事は中国のビザ取得が目的だったのだろうと指摘したうえで、「中国からの賄賂が背後にあると思える」と発言したという。シュトゥルム氏は「私は彼に何度も確認した。聞き違いはあり得ない」と話す。
現在勤務する独北部ハンブルクで取材に応じたゲルミス氏は、「海外メディアへの外務省の攻撃は昨年あたりから、完全に異質なものになった。大好きな日本をけなしたと思われたくなかったので躊躇したが、安倍政権への最後のメッセージと思って筆をとった」と話した。
ゲルミス氏が、機関誌に寄稿したのは「日本政府の圧力に耐えた体験を書いてほしい」と、特派員協会の他国の記者に頼まれたからだ。その後、記事への反応を見ると、好意的なものが多かったが、「身の危険」をほのめかす匿名の中傷も少なからずあったという。「日本は民主主義国家なのに歴史について自由に議論できない空気があるのだろうか」と語る。
シュトゥルム氏もこう話した。「我々は決して反日ではない。友好国の政府がおそらく良いとは思えない方向に進みつつあるのを懸念しているから批判するのだ。安倍政権がなぜ、ドイツや外国メディアから批判されるのか、この議論をきっかけに少しでも自分自身を考えてもらいたい」
もう一つは「日本大使館、識者の人選に注文」というもの。記事のコメンテーターへのクレームという話題だ。
米主要紙の東京特派員は、慰安婦問題に関する記事で引用した識者(コメンテーター)について、在米日本大使館幹部から人選を細かく批判する電子メールを受け取った。同特派員は「各国で長年特派員をしているが、その国の政府からこの人を取材すべきだとか、取材すべきでないとか言われたのは初めて。二度と同じことをしないよう抗議した」と話したという。
外務省が嫌ったコメンテーターとは、中野晃一・上智大教授であり、代わって外務省国際報道官室幹部が政権御用達として秦郁彦を推薦するメールを送信しているという。このメール全文までは報道されていないが、メールの存在と内容は外務省が認めているという。
はたして日本に、権力の干渉を受けることなく表現する自由は健在なのだろうか。
おなじみになった、「国境なき記者団」の「世界報道の自由度ランキング 2015」では、日本は180カ国(地域)中の61位である。かつては11位と高位にランクされた時代もあったが、安倍政権になって以来急速に評価を下げ、「先進諸国」中の最下位に甘んじている。アジアでは、台湾(51位)、モンゴル(54位)、韓国(60位)の後塵を拝しする立場。この日本の自由度ランキングは、安倍政権が続いている限りのことだが、来年さらに顕著に順位を落とすことが確実である。
なお、このランキングでは北朝鮮が179位である。ドイツ有力紙の編集者が、日本の総領事の行為について「政府関係者からの直接抗議は北朝鮮以来」と言っているのは示唆に富む。安倍政権は、北朝鮮に比肩されているのだ。
この事態は、安倍政権の末期症状として見るべきなのか、あるいは恐るべき言論弾圧時代の幕開けなのか。憂国の情に堪えない。
(2015年4月28日)
統一地方選が終わった。政治状勢に大きな変化はないままである。共産党の健闘、維新や次世代の衰退はけっこうなことだが、自民党は大過なくこの選挙戦を乗り切った。
これで、政局の焦点は戦争法案の提出とその審議に移ることになる。憲法改正の手続を経ることなく憲法の平和主義を眠り込ませ、戦争準備の態勢を整備するたくらみの進行である。加えて、日米新ガイドラインも、日本の武力行使肩代わりに大きく踏み出すことになるだろう。憲法に由々しき事態。
もう一つ。今日から「大阪・夏の陣」が始まる。本日(4月27日)、大阪市の「特別区設置住民投票」が告示になる。これも大きな問題。安倍自民に擦り寄った維新が、「大阪都構想」の実現と改憲への協力をバーターにしているから、看過できない。
全国的には落ち目の維新だが、大阪での勢いは侮りがたい。いったんは葬られたはずの大阪都構想が、不可解な経過で復活しての住民投票である。もっとも、正確には大阪都を作る住民投票ではない。「大阪市解体」住民投票なのだ。
400年前の元和元年(1615年)大坂夏の陣の前哨戦の始まりが4月26日。短期決戦で5月7日には落城している。2015年5月、維新の党が落城するだろう。
私は、小学5年から高校3年までの8年間を大阪府民として過ごした。大阪という土地柄に愛着もあり、人々の気持ちもある程度は分かっている。
大阪人気質とは、何よりもアンチ東京であり、アンチ中央である。ジャイアンツ何するものぞ、阪神こそ最強でなくてはならないという大阪ナショナリズムの心意気なのだ。なんで東京だけが、エラソウに「都」なんやねん。大阪かて、「都」でええやんか。というノリの勢いは無視し得ない。
ところが、このノリは挫折した。大阪都構想が、歴史的に形成されてきた街=コミュニティを破壊する構想でもあることが分かってきたからだ。堺市長選がその転機だった。堺は、これまた独自の地域ナショナリズムに支えられた大都市(人口84万人)である。この街は、アンチ中央だけでなく、アンチ大阪の気質も色濃くある。大阪都構想では、堺という街の統一性が乱暴に失われ、特別区に分割され再編されることになる。当然に反発が噴出した。「堺はひとつ。堺をなくすな」というアンチ都構想派のスローガンに、橋下維新は敗れた。これが天下分け目の関ヶ原であったろう。
本日の毎日社説が、いかにも「公平」らしい筆で、次のように書いている。
「橋下氏は『府と市の二重行政を解消すれば活性化できる』と訴え、反対派は『知事と市長の調整で事足りる』と大阪市の存続を求める。
業務の効率化が(住民投票提案の)理由だが、逆に府と区、事務組合の三重行政が生まれるという指摘もある。再編効果額について府・市の試算では17年間で累計約2700億円だが、市を残したままでも実現できる市営地下鉄民営化などを含めており、反対派は再編効果はほとんどないと反論する。
構想の中身を十分に理解したうえで票を投じたいと思う市民は多いはずだ。しかし、内容がよくわからないという声は今でも少なくない。維新は広報費に数億円をかけて既にテレビCMを流しているが、イメージ戦略に終始するのは望ましいことではない。都構想のメリットとデメリットをきちんと示す責務は一義的には提案した橋下氏らにあることを忘れないでもらいたい」
賛否を問われる「特別区設置協定書」の説明パンフレットに目を通した。一読して、出来がよくない。これはだめだ。これでは市民の心をつかむことはできまい。多くの市民が「よく分からない」と言っている。本当のところは、「よくは分からないままに、イメージで投票してもらいたい」のだろう。
よく分からないという人には、次のようないくつかのポイントを理解してもらえば、よもや大阪人がこの案を支持するはずはないと思う。
※賛成票を投ずれば、大阪市はなくなる。跡形もなくなるのだ。自治体としての大阪市や大阪市議会がなくなるだけではない。大阪市という統一体としてのコミュニティをなくそうということなのだ。もちろん、住居表示からも「大阪市」は姿を消す。政令指定都市としてのメリットも返上することになる。それでよいのか。
※賛成票が過半数に達しても、「大阪都」ができるわけではない。住民投票で「大阪府」の名称を変えることはできない。だから、今回の住民投票は、「都構想を問う」ものではない。「大阪市解体の是非を問う」ものなのだ。この点の理解が重要ではないか。
※財政的なメリットは皆無である。むしろ、財政負担は重くなる。当たり前のことだ。
270万の大阪市を解体して、50万規模の5つの特別区に再編しようというのだ。「大・大阪市」が分割されて、「小・特別区」群に変身する。その是非が、今回の住民投票で問われている。「平成の大合併」のコンセプトとは真反対のことをやろうというのだ。効率や負担の軽減を求めて日本中で自治体の合併がおこなわれたが、自治体分割の例は聞かない。自治体が細分化されれば、確かに自治体と議会は、住民との距離を縮めることになる。しかし、財政的にはコスト高になることは避けられない。
「住民の皆さまには財政的に大きなご負担をおかけします。しかし、その代わりにきめ細かい住民サービスができるようになります」というのなら、それは一理ある。ところが、これを「二重行政の無駄を解消する」「財政メリットがある」施策と強調するから「分からない」のだ。
※現実にかかるコストは借金でまかなうだと?
特別区の新庁舎を建築し新たな議会も作らねばならない。当然にイニシャルコストもランニングコストも嵩むことになる。当たり前だ。市の説明では、これを「再編コスト」と名付けている。新庁舎建設などの当面のコストが600億、その後の運用経費を年20億円と試算している。この再編コストを含めて、「平成29年度から33年度の5年間で、858億円の収支不足が見込まれる」という。
さて、これをどうまかなうか。
「こうして財源をひねり出すことができるからご安心を」として、次のごとく言っている。
「財源対策(例)
土地の売却
各特別区の貯金の取り崩し
大阪府からの貸付
地方債の発行」
おいおい、こんなプランで大丈夫なのか。
※「再編効果」に疑義あり
資産を取り崩し借金をして、これをどう穴埋めをするのか。これが魔法の「再編効果」だ。「信じなさい。信じるものは救われる」の類の話。眉に唾を付けて聞いてみよう。
「府市再編の効果額の試算にあたっては、
?府市統合本部における事業統合や民営化などの取り組み(地下鉄、一般廃棄物、病院など)、市政改革における事業見直し
?職員体制の再編
による効果を算定しています」
この額が、「平成29年度から45年度までの累計では、特別区(現大阪市)分で2630億円、大阪府分で756億円」という。ゴミ収集や地下鉄・バス事業の民営化を前提にしての計算。府市再編を機として職員は削減し、議員の定数は増やさず報酬は3割減とする、などでの積み重ねで「効果」が見込めるというのだ。
話しがおかしい。きめ細かい住民サービスをするのなら人員も予算も嵩むことになる。提案者が説明する「再編効果」は、自治体サービス民営化による合理化というだけのこと。職員の削減もサービスカットというだけのことではないか。「市をなくして特別区にすることによる」財源捻出策ではない。大阪市分割による財政的メリットもまったく語られていない。これは、一種の詐術ではないか。
※結局のところ、「再編コスト」は確実だが、「再編効果」の方はサプリメント誇大宣伝並みのイメージ的効能の説明でしかない。これで、確実に大阪市はなくして、大阪都ができるわけでもない。大阪都構想に巻き込まれる他の都市は反対だ。経済効果は大阪都構想と結びつくものではない。住民投票における賛否の結論は自ずから明らかではないか。
都構想について自民、民主、公明、共産は反対している。オール沖縄の勝利に続いて、オール大阪の勝利を期待したい。そして、もちろん維新の落城を。
(2015年4月27日)
「俳人・9条の会 新緑の集い」にお招きを受けて、報告した。テーマは、9条ではなく「『思想の自由』と『表現の自由』の今ー権力と社会的圧力に抗して」というもの。準備の過程で、なるほどこのテーマであれば私こそ語るにふさわしい、と考えるようになった。
「日の丸・君が代」強制と靖国問題とで思想・良心・信仰の自由の問題に触れ、DHCスラップ訴訟で表現の自由を語った。いずれも、私自身が関わる問題である。聞いてもらわずにはおられない。
精神生活の基礎を形づくるものとして、思想は自由である。人が人であるために、自分が自分であるために、憲法によって保障される以前から、思想は本来的に自由なのだ。
思想のほとばしりである言論も本来的に自由でなくてはならない。表現の自由を侵害するものは、公権力と社会的圧力である。公権力は法的強制をもって言論を封じ、社会多数派はその同調圧力で個人の言論を封じる。
フォーマルには、社会的多数者の意思が権力の意思となり、国や自治体が言論を規制する。インフォーマルには、社会的多数派の圧力が、個人の言論を萎縮させ、非権力的に言論を抑制する。
個人の言論が、多数者の意思によって圧迫を受けてはならない。表現の自由とは、本来的に少数者の権利であって、多くの人にとって不愉快で耳障りな表現こそが権利として保障されなければならない。民主々義社会では、多数派が権力を構成するのだから、社会的な圧力は容易に公権力による規制に転化する。だからこそ、権力が憎む表現、多数が眉をしかめる表現の自由が権利として守られねばならない。
社会的な言論抑圧のレベルでは、
多数派の意思→圧力→少数派の萎縮→多数派の増長→圧力の強化→さらなる萎縮
という負のスパイラルを警戒しなければならない。言論の萎縮は、さらなる圧力をもたらし、さらなる後退を余儀なくさせる。
社会的多数派の耳に心地よくない言論とは、政権に対する批判、与党勢力に対する批判、天皇や皇族の言動に対する批判、「日の丸・君が代」強制への批判、ナショナリズムへの批判、最高裁の判決に対する批判、ノーベル賞の権威などに対する批判等々の言論である。このような権力や権威に対する批判の言論の自由が保障されなければならない。
そして、ダブルスタンダードなく、反体制内権力や革新内部の多数派にも批判が必要だ。たとえば、選挙をカネで歪める動きについて、保守派だけを批判するのは片手落ち、革新陣営の選挙違反にも遠慮のない批判の言論が保障されなければならない。それなくしては緊張感を欠くこととなり、革新陣営の腐敗が免れないことになる。いかなる組織にも、運動にも、下から上への批判が不可欠なのだ。
このようなときであればこそ、表現者は萎縮してはならない。自主規制して言論を躊躇してはならない。社会的圧力に抗して、遠慮することなく、いうべきことをはっきりと言わねばならない。でないと、今日の言論の保障は、明日には期待できなくなるかも知れないのだから。
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懇親会にまでご招待いただきありがとうございます。本席では、天皇の発言が話題となっていますので、この点についてもう少しお話しさせてください。
私は、本来人間は平等だという常識的な考えもっていますから、天皇という貴種が存在するなどとは思いもよりません。天皇を特別な存在とし、血筋故に貴いとか、文化的伝統を受け継いだ尊敬すべき人格だとかという虚構を一切認めません。
「象徴天皇は憲法的存在だから認めてもよいのではないか」という議論は当然になり立ちます。制度としては天皇の存在を認めざるを得ません。しかし、天皇が象徴であることから、天皇をこのように処遇すべきだという、法的な効果は何もないのです。「象徴」とは、権限や権能を持たないことを意味するだけの用語に過ぎません。天皇の存在を可能な限り希薄なものとして扱うこと、最終的にはフェイドアウトに至らしめること、それが国民主権原理の憲法に最も整合的な正しい理解だと私は思っています。
「象徴天皇は、存在しても特に害はないのではないか」というご意見もあろうかと思います。しかし、私は違う意見です。今なお、象徴天皇は危険な存在だと思うのです。その危険は、国民の天皇への親近感があればあるほど、増せば増すほどなのです。国民に慕われる天皇であればこそ、為政者にとって利用価値は高まろうというものです。
先ほど、高屋窓秋という俳人のご紹介の中で、嫌いなものは「奴隷制」というお話しがありました。奴隷制とは、人を肉体的に隷属させるだけでなく、精神的な独立を奪い、その人の人格的主体性まで抹殺してしまいます。
奴隷根性という嫌な言葉があります。奴隷が、奴隷主に精神的に服従してしまった状態を指します。客観的には人権を蹂躙され過酷な収奪をされているにかかわらず、ほんの少しのご主人の思いやりや温情に感動するのです。「なんとご慈悲深いご主人様」というわけです。奴隷同士が、お互いに、「自分のご主人様の方が立派」と張り合ったりもすることになります。
旧憲法下の、天皇と臣民は、よく似た関係にありました。天皇は、臣民を忠良なる赤子として憐れみ、臣民は慈悲深い天皇をいただく幸せを教え込まれたのです。これを「臣民根性」と言いましょう。明治維新以来、70年余にわたって刷り込まれた臣民根性は、主権者となったはずの日本国民からまだ抜けきっていないと判断せざるを得ません。
天皇制とは、日本国民を個人として自立させない枷として作用してきました。臣民根性の完全な払拭なくして、日本国民は主権者意識を獲得できない。天皇制の呪縛を断ち切ってはじめて、個人の主体性を回復できる、私はそう考えています。
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本日の私の報告の中で、「権力を信頼することは権力を腐敗させること、権力には猜疑の目をもっての批判が不可欠だ。それあってこそ、健全な権力を維持することができる」「この理は、たとえ民主勢力が政権を取っても、あるいはいかなる民主的な政府が成立したとしても変わらない」というくだりがあった。
これに対して、「本当に民主的な政府にも、批判が必要なのか」という質問があって、時間切れとなった。一応、追加して触れておきたい。
完全に「民主的な政府」となどというものはありえない。より民主的な政府を目ざさなければならない。また、いかなる権力も、権力が成立した瞬間から腐敗の進行を始める。従って、ある政府を、より民主的にするためにも、腐敗を防止するためにも、民衆の忌憚のない批判が絶対に必要なのだ。選挙は大きな国民の政府への批判の機会であるが、これだけに限られない。日常的な批判の言論が実質的に保障されなければならない。
国民の批判を実質的に保障するとは、権力運用の透明性が確保されていなければならず、権力が批判に寛容でこれを受容し生かす制度を完備していなければならない。
そこまでしても権力が腐敗を免れれることができるか、おそらくは無理だろう。そのときには、政権交代の受け皿が用意されていなければならない。こうしたサイクルで、民主主義は命永らえていくのではないだろうか。
(2015年4月26日)
明日(4月26日)は、統一地方選後半戦の投票日。安倍自民党の暴走へ歯止めをかけるチャンスである。
憲法9条をないがしろにし、集団的自衛権行使容認だけでなく、戦争法制を整備して、切れ目なく、つまりはいつでもどこでも戦争ができる国を作ろうという安倍自民の目論見が公然化しつつあるこの時期の選挙。その自民党と、下駄の雪の公明党への批判を期待したいのだ。そのような視線で、地元文京区議会議員の選挙公報を眺めている。
定員34に立候補者が46名。14人が落選する選挙。政党別の候補者数は以下のとおりだ。
自民 10
共産 7
公明 5
民主 4
維新 2
社民 1
次世代 1
ネット 1
生活 0
諸派 1
無所属 14
地域に根差した政党としての活動がなければ、立候補者数の確保はできない。民主の4、社民の1、生活の0は寂しい。また、維新2、次世代1は、おそらくは早晩消えていくことになるのだろう。
自民の10人は、公報での訴えを見る限り、政党としてのまとまりがあるとは到底思えない。もっとも、そこが強みなのかも知れない。安倍自民の公約や政権の動向とは無関係に集票して議席を獲得し、自民党議員団としての勢力を誇示して都政と国政の基盤を形成する。柔軟といえば柔軟、したたかといえばしたたかな、草の根からの民意掠めとり構造が透けて見えてくるではないか。
自民の誰一人として、安倍晋三の名も安倍政権中枢に位置する政治家の名も挙げていない。むしろ意識的に避けているのではないかという印象。地元商店街の振興は叫んでも「アベノミクス」は一言も出てこない。教育の充実は語られても、「教育再生」は出てこない。もちろん、戦後レジームも、靖国も、日の丸・君が代も、原発再稼働も、歴史修正主義も、集団的自衛権も一切触れられていない。安倍政権のメインスローガンとは無縁な候補者の当選が、安倍自民の暴走の護符となる。この奇妙さをどう理解すればよいのだろうか。
たとえば、自民党公認の男性45歳候補。公報のスペースには、ラグビー選手であることをアピールする大きなイラスト。意味がある表現はそれだけと言ってよい。殆ど意味のない「政策」が2行だけ並んでいる。そのうちの一つが「不動産業で培った知識とノウハウで暮らしやすい活気あふれる『まちづくり』『都市計画』を進めます!」というもの。もちろんこの人現職の不動産屋さん。生活者の視点からではなく、事業者の視点で「まちづくり」をしようというのだ。どういった区民がこの人に投票するのだろうか。
共産党の10人すべての候補者が、地元の問題とともに、「安倍暴走ストップ! 地方政治で審判を」「戦争立法・原発再稼働反対」と掲げている。もちろんバリエーションはあるが、政党としてのまとまりが目に見える。
公明党の5名は、およそ政権与党の一員であることを押し出すところがない。代わっての押し出しは、「現場第一主義」であり、「生活相談」であり、ひたすらドブ板に徹した姿勢。これも、中央政界とは一線を画したいという意識的なアピールとの印象。
維新の2人は、党の政策を一応掲げてはいる。が、それ以外は、かなりの個性派。その一人の次のような公約に目がとまった。
「武力で他国を守る集団的自衛権の行使を可能にする(事態法)改正反対」
念のため、党の政策を確認してみた。「自国への攻撃か他国への攻撃かを問わず、我が国の存立が脅かされている場合において、現行憲法下で可能な『自衛権』行使のあり方を具体化し、必要な法整備を実施」というもの。
「集団的自衛権行使を可能とする法整備の推進」が党の政策で、この立候補者の公約は、「集団的自衛権の行使を可能にする法整備反対」である。まったく逆。おそらくは、この候補者には「集団的自衛権行使容認反対」が世論にウケが良く、集票に役立つものとの思惑がある。しかし、党の基本政策と真逆のことを掲げて、どうして党の公認候補者なのだろうか。
次世代の党からの立候補者は歯医者さん。元はみんなの党に所属していたようだ。禁煙運動に取り組んでいることをアピールしているので、個人的には好感が持てるのだが、もちろん私はこの政党が大嫌い。「次世代」らしいのは、「文京区を想い、国を想う」というフレーズと、「外国人地方参政権は反対。参政権を行使するためには国籍を取得すべき」という政策。レイシストに落選の憂き目あれ。
やはり、「自・共対決」の時代となりつつあるのだろう。自共以外の政党の存在感が薄い。もっとも、中央政界での一強を誇る自民党も、地域まで下りてくると案外たいした勢力ではない。けっして、イデオロギーや基本政策でまとまった自民党地域組織や集団があるわけではないことがよく分かる。地域では、安倍人気もなければ、安倍政策の魅力も語られてはいないのだ。
地域の自民党とは、意外に何の色も着いていない殆ど透明の存在なのだ。何の色もない候補者に有権者が投票し、当選した議員が区議団自民党を形づくると、かなりの色が着いてくる。これが都議会自民党となると殆ど真っ黒の「自民党色」となる。さらに中央政界では、安倍カラーの戦争色にまでになり、キナくさい臭いまでも撒き散らすことになる。草の根と安倍政権とをつなぐ、魔法の糸が紡がれているのだ。
しかし、安倍政権を支える基盤は存外に脆弱なのだ。安倍政権とは、「実は張り子の虎だった」といわれる時代が早晩訪れるのではないだろうか。そんなことを考えさせられる選挙前日である。
(2015年4月25日)
社民党の福島瑞穂議員が、参院予算委員会での安倍首相に対する質問の中で「14?18本の戦争法案」との発言にクレームをつけられている。クレーマーとなっているのは、政権であり、これに追随する院内自民党である。両クレーマーとも明らかにおかしい。この問題は民主主義の本質に関わるといってよく看過し得ない。全面的な福島議員応援の手段として、これからは、「安全保障関係連法案」「安保関連法案」などと言うのをやめよう。躊躇することなく、「戦争法案」と言おうではないか。
法に対するネーミングは重要だ。呼称者がその法律をどう把握しているかを表すものとして、である。正式な法の名称はたいていは長過ぎる。しかも、実態を表わさず明らかに誤解を期待するごときものも少なくない。
「日本国憲法の改正手続に関する法律」を「国民投票法」と呼べば、「主権者・国民の意思を国政に反映させる法律」というイメージだが、「改憲手続法」と言った方が穏やかならざるこの法律の本質がよく分かる。
1985年に、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」が国会に上程され国民的な反対運動の盛り上がりの中で廃案となった。上程者側は、この法案を「スパイ防止法」と略称し、「スパイ天国日本において国益に反するスパイの跳梁を防止する法律」と宣伝した。メディアは、これを「国家秘密法」と呼び、反対の運動体は「国家機密法」と呼んだ。戦前の軍機保護法や国防保安法を連想させる本質を衝いた上手なネーミングであった。
ところで、現行憲法の第2章の標題は「戦争の放棄」である。ご存じのとおり、第9条が1か条あるだけ。自民党改憲草案の第2章は「安全保障」と名称を変更する。「平和主義」の第9条のあとに、「国防軍」を定める第9条の2をおいている。安全保障とは、「戦争の放棄=武力によらない平和」に対立する用語なのだ。
名は体を表す、どのような「体」と見るかは人によってさまざまであるから、呼び「名」も異なることになる。ある立法の真の目的や、役割をどう把握するかは、国民一人ひとりの評価の問題で、これを他からとやかく言われる筋合いはない。国会議員であれば、あるいは政党であればなおさらのことである。しかも、政府与党のいう安全保障法制とは、武力による威嚇あるいは武力の行使によって、わが国の安全を保持しようというスタンスに間違いはない。これを「戦争法」「戦争立法」「戦争準備法」「戦争挑発法」と呼んでいささかの違和感もない。
もし、安倍や自民がこれを気に入らないとすれば、論戦の中で反論すればよいだけのこと。「そのような評価が怪しからん」「そのような法の呼び方をやめろ」「議事録からの抹消を承諾せよ」というのは、思想良心の自由に対する挑戦に等しい。討論拒否体質をむき出しにしたもので、あまりに大人げないし、乱暴極まる。
このことについての最初の報道は4月18日の朝日だったと思う。「社民党の福島瑞穂氏が参院予算委員会で安倍晋三首相に質問した際、政府が提出をめざす安全保障関連法案を『戦争法案だ』などと述べたことについて、自民党の理事は17日、一方的な表現だとして修正を求めた。…政治的な信条に基づく質問の修正を求めるのは異例で、論議を呼びそうだ。」というもの。
今日(4月24日)の赤旗が、志位委員長の発言として、「恥ずべき傲慢 撤回を」「『戦争法案』自民の修正要求」という記事を載せている。注目すべきは、「かつて日本共産党が、周辺事態法(1999年)を『戦争法』と呼び批判の論陣を張ったときには、自民党から同様の要求はなかった」と言っている。
実際にはどのようなやり取りだったか確認してみたいと思っていたら、福島議員が自分のブログ「福島みずほのどきどき日記」(4月2日)に未校正稿を掲載している。
要旨を引用すれば以下のとおり。
○福島みずほ君 安倍内閣は、五月十五日、十四本から十八本以上の戦争法案を出すと言われています。集団的自衛権の行使や、後方支援という名の下に戦場の隣で武器弾薬を提供する、このことを認めようとしています。
誰が戦争に行かされるのか。奨学金を払えない、仕事がない、資格を取りたい、大学に行きたい、そんな若者が行かされるのではないでしょうか。若者の過酷な労働条件の延長線上に本物の戦場がある、そのことが出てくると思います。格差拡大、貧困と戦争はつながっていると思いますが、総理、いかがですか。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 我々が今進めている安保法制について、戦争法案というのは我々もこれは甘受できないですよ。そういう名前を付けて、レッテルを貼って、議論を矮小化していくということは断じて我々も甘受できないと、こんなように考えているわけでありまして、真面目に福島さんも議論をしていただきたいなと、これは本当にそう思うわけでございます。
我々が進めている安保法制は、まさに日本人の命と、そして平和な暮らしを守るために何をすべきか、こういう責任感の中から、しっかりと法整備をしていきたいと、こういうものでございます。
○福島みずほ君 問いに答えていないですよ。格差拡大、貧困と戦争がつながるかと質問しました。
戦争法案、これは集団的自衛権の行使を認め、後方支援という名の下にまさに武器弾薬を提供するわけですから、戦争ができることになる、そういうふうに思います。これを戦争法案、戦争ができるようになる法案ですから、そのとおりです。
今、日本国憲法下の下にそれをやろうとする安倍内閣は退陣すべきだということを申し上げ、私の質問を終わります。
○委員長(岸宏一君) 先ほどの福島みずほさんの御発言中、不適切と認められるような言辞があったように思われますので、後刻理事会において速記録を調査の上、適当な処置をとることといたします。
安倍自民。あまりに狭量ではないか。あまりに余裕がない。安倍晋三の狭量は以前からおなじみだが、岸宏一委員長の政権追随ぶりもいただけない。立法府の矜持と見識はどこに行ったのか。国会は討論の府ではないか。「戦争法案」と主張する質問者にも、「戦争法案ではない」という答弁者にも、それぞれが把握した法の本質を存分に語らせ、議を尽くさせたらよいのだ。
安倍は、「あなたは戦争法というが、それはあたっていない。なぜなら、これは平和を求めた法律なのだ。けっして戦争のため立法ではない」としたうえで、格差・貧困の拡大と戦争とのつながりの有無について答弁すればよい。もちろん、重ねての議論がここから続くことになる。説得力の有無は、国民が判断することだ。それを、質問者の見解を封じ、議論もしようとしないからおかしくなるのだ。
福島議員のいうとおり、若者の命が奪われる事態が現実に起ころうとしているのだ。なんの遠慮がいるものか。さあ、これからは「戦争法」の用語を使って大いに議論をしよう。そして、この危険な違憲の諸法案を廃案に追い込もうではないか。
(2015年4月24日)
作者が高名な詩人なのだから、これは一行で完結した詩になっているのだろう。
もっとも、詩であろうとなかろうと、どうでもよいことだ。
題名が「春」とされているが、これがふさわしいかどうか。「美しい蝶の、希望への春の飛翔」などと解したのでは、まことにつまらぬ駄文でしかない。題は無視しよう。作者の意図もどうでもよいことだ。このわずか一行の文字の連なりの重さと激しさを、自分なりにときどき反芻する。
詩人の心象の中で、蝶は自身の姿だ。たった一匹、群れることを拒否した魂。
暗い北の海辺の蝶は、敢えて沖へ羽ばたく。海の果ては見えない。はたしてこの海が海峡であるか大海であるのか、それすら蝶は知らない。
海が果てるまでの波濤の連なりに飲み込まれることなく羽ばたき続けられるだろうか、蝶に確信はない。明日は雨やも知れず、向かい風が吹くやも知れない。突然に波が高くなることもあろう。疲れても休む場所はなく、見渡す限り、花も蜜もない。海を渡った新たな天地に希望があるのか。それすら分からない。
それでも、蝶は敢えて海を渡ろうと羽ばたくのだ。無謀、これ生きる証しのごとくに。
私は、この詩の作者に一度会っている。1957年のことだ。私は、大阪府下の中学校の3年生だった。そのときに、校歌ができた。その作詞者が、隣町・堺に住んでいた高名な詩人、安西冬衛その人だった。
作詞者を迎えて、1500人の全校生徒による校歌の発表会がおこなわれた。私は生徒会長として、詩人に謝辞を捧げる一場の演説をおこなった。隻脚で杖をついた白髪の老人の温厚な雰囲気をよく覚えている。詩人もうれしそうだった。
私がしゃべった内容はよく覚えていないが、校歌に読み込まれた校訓を引いて、それらしいことを言ったのだと思う。その安西冬衛作詞の校歌とは、次のようなもの(のはず)だ。
峰の青雲
秀ずる金剛
仰ぐこの門
我らが母校
つとに尊ぶ
自主の精神
この山
この川
われら学ばん
眉健やかに
望み豊かに
富田林第一中学校
温厚な老詩人の風貌にも校歌の歌詞にも
「てふてふが一匹革達革旦海峡を渡つて行つた」
という、伝説となった詩の切れ味はなかった。
一番だけ覚えている校歌に読み込まれた校訓は、「自主の精神」だった。終戦から10年余のこの時期の戦後民主主義の空気をよく表しているのではないか。「忠君愛国」や「滅私奉公」の類の反対語が校訓となっていたのだ。
なお、私は富田林小学校に2年在籍している。その小学校にも校訓があった。
自主自立
共同親和
勤労愛好
この3語が、やはり校歌の各番に読み込まれている。
筆頭に挙げられた「自主」・「自立」は、紛れもない戦後民主主義のスローガン。「共同親和」は戦前型道徳の残滓を感じさせる。「勤労愛好」は両方に読める。
自主性・主体性の確立は、この時代の教育スローガンのトレンドだったのだ。「君が代」なんぞよりは、格段に立派なものではないか。
なお、安西冬衛「春」の初出は、1926年だという。詩人にとって、時代の雰囲気が「韃靼海峡」の暗さだったのだろうと私は思う。この時代の暗さが海をこえて羽ばたかざるを得ないとする心象を形成したと解釈したい。戦後、「眉健やかに 望み豊かに」と中学生とともに詠うことができる時代への転換は、老詩人の幸福でもあったのだと思う。
詩人の心象風景に中のてふてふは、戦後ようやくにして、春の明るい日ざしの中で希望に向かって羽ばたいたのではないだろうか。
(2015年4月23日)
本日(4月22日)の「DHCスラップ訴訟」法廷傍聴に、そしてまた法廷後の報告集会にも多数ご参集いただき、まことにありがとうございます。
前回2月25日の法廷から今日までの間に、二つのできごとがありました。
その一つは、3月24日に、民事第23部の合議体(宮坂昌利裁判長)でDHCスラップ訴訟の二つ目の判決が言い渡されました。もちろん原告の請求を棄却した判決。DHCと吉田両名の完敗です。裁判長の名をとって宮坂判決ということにしましよう。私は、まだ宮坂判決の全文を読んではいません。しかし、何度か記録を閲覧して、双方の主張をよく把握しています。また、内容を伝え聞いてもいます。
この事件で被告にされた方は、ツイッターで相当に遠慮のない発言をしています。趣旨は、私のブログとほとんど同じ。しかし、吉田や渡辺に対する舌鋒の鋭さは私の及ぶところではありません。これに較べれば、私のブログなど温和しいもの。あるいは生温いもの。その手厳しいツイッターでの発言について、宮坂判決は、なんの躊躇もなく、名誉毀損も侮辱も否定して、原告の請求を棄却しています。
注目すべきはこの判決の中に次のような趣旨の判示があるとのことです(正確な引用ではありません)。
「そもそも問題の週刊誌掲載手記は、原告吉田が自ら『世に問うてみたい』として掲載したもので、さまざまな立場からの意見が投げかけられるであろうことは、吉田が当然に予想していたはずである」「問題とされているツイッターの各記述は、この手記の公表をきっかけに行われたもので、その手記の内容を踏まえつつ、批判的な言論活動を展開するにとどまるもので、不法行為の成立を認めることはできない」
私の事件の被告準備書面では、吉田が週刊新潮に手記を発表して、「自ら政治家にカネを提供したことを曝露した」という事実を捉えて、「私人性の放棄」と主張しました。これに比較して、宮坂判決ではむしろ、吉田は「自ら積極的に公人性を獲得した」と判断したと言ってよいと思います。
1月15日の折本判決、そして3月24日の宮坂判決と、当然のことながらDHC・吉田側全面敗訴の判決が重なりました。この流れの中で、私の事件も万が一にも敗訴はありえないものと確信するに至っています。
但し、これを喜んでばかりはおられません。先ほどの法廷後の報告集会における烏賀陽弘道さんのミニ講演にあったとおり、スラップ訴訟提起の重要な狙いとして、「論点すりかえ効果」と、「潜在的言論封殺効果」があることを考慮しなければなりません。
本当は、吉田嘉明が政治家に対して8億円もの政治資金を拠出していたこと、しかもそれが表に出て来ないで闇にうごめいていたことこそが、政治資金規正法の理念に照らして問題であったはずです。ところが、その重要な問題が、いまは澤藤のブログの記載が名誉毀損にあたるか否かという矮小化された論点にすり替えられてしまっています。この論点すりかえを声を大にして、問題にし続けなければならないと思います。
そして、スラップ訴訟が言論封殺を目的とするものであることは明らかですが、けっして澤藤の言論だけを封殺の標的にしているのではありません。澤藤に訴訟を仕掛けることによって、同じような発言をしようとした無数の潜在的表現者を威嚇し萎縮させて、潜在的言論封殺効果を狙っているのです。ですから、自分が勝訴の見通しをもつに至ったというだけで喜ぶわけにはまいりません。このような不当訴訟を仕掛けたことに対するDHC・吉田に対する相応のペナルティがなければ、スラップ訴訟の効果を払拭し、再発の防止をすることができないのです。是非、皆さまとこの点についてよく相談し、実効性のある対応策をとりたいと思います。
さて、二つ目のできごとです。
法廷を傍聴された方はお気づきのとおり、裁判長が交代となりました。前任の石栗正子裁判長は4月1日付で東京家裁に転出となり、後任は、前大阪地方裁判所の総括裁判官だった阪本勝判事です。
新裁判長は明らかに、訴訟の終結を見通して本日の法廷に臨んだという印象です。発言の端々から、書面を十分に読み込んだという自信が感じられました。次回までに、原被告各一通の準備書面と、原告吉田の陳述書、そして被告本人である私の陳述書を提出して、次回結審と決まりました。
次回期日は、7月1日(水)午後3時。631号法廷です。
この法廷で、私が被告本人としての陳述書を要約して朗読します。スラップ訴訟の不当性と表現の自由の重要性を、民主主義になりかわって裁判所に訴えることになります。そして、この法廷で判決言い渡し期日が決まることになります。是非皆さま、法廷を満席にして、ご声援をお願いいたします。
そして、閉廷後の報告集会も賑やかに盛大にやりましょう。多くの皆さまのご発言をお願いいたします。
あらためて思います。DHCスラップ訴訟とは、政治的言論の封殺であり、カネで政治を動かそうという策動批判の抑止であり、また規制緩和による消費者利益侵害への批判の制圧でもあり、さらには司法を言論弾圧に悪用することでもあります。多くの方が、それぞれの問題意識から、このDHCスラップ訴訟に関心をもって、ご支援いただいていることとは思います。今回は直接の被害者の立場に立たされた私が、攻撃されている民主主義的諸理念を代理して、DHCスラップ訴訟の不当を訴えなければならないと思っています。
皆さま、お忙しいとは存じますが、7月1日(水)15時のご予定を確保していただきますよう、よろしくお願いいたします。
(2015年4月22日)
なんと私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論期日は明日4月22日(水)となった。13時15分から東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。私は、多くの人にこの訴訟をよく見ていただきたいと思っている。そして原告DHC吉田側が、いかに不当で非常識な提訴をして、表現の自由を踏みにじっているかについてご理解を得たいのだ。
DHC会長の吉田嘉明は、私の言論を耳に痛いとして、私の口を封じようとした。無茶苦茶な高額損害賠償請求訴訟の提起という手段によってである。彼が封じようとした私の言論は、まずは、みんなの党渡辺喜美に対する8億円拠出についての政治とカネにまつわる批判だが、それだけでない。なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供してたのか、という動機に関する私の批判がある。私は当ブログにおいて、吉田の政治家への巨額なカネの拠出と行政の規制緩和との関わりを指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げた。
この制度は、アベノミクスの第3の矢の目玉の一つである。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたものだ。企業は利潤追求を目的とする組織であって、往々にして消費者の利益を犠牲にしても、利潤を追求する衝動をもつ。だから、消費者保護のための行政規制が必要なのだ。これを桎梏と感じる企業においては、規制を緩和する政治を歓迎する。これは常識的なものの考え方だ。
私は2014年4月2日のブログを「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」との標題とした。以下は、その一節である。これが問題とされている。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものだ。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が消費者主権ではなく、生産者主権の下にあることを指摘した。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響をもった。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ー常識となった。
また、消費者法の草分けである正田彬教授は次のように言っている。
「賢い消費者」という言葉が「商品を見分け認識する能力をもつ消費者」という意味であるならば、賢い消費者は存在しないし、また賢い消費者になることは不可能である。高度な科学的性格をもつ商品、あるいは化学的商品など、複雑な生産工程を経て生産されたものについてだけではない。生鮮食料品についてすら、商品の質について認識できないのが消費者である。消費者は、最も典型的な素人であり、このことは、現在の生産体系からすれば当然のことである。必然的に、消費者の認識の材料は、事業者―生産者あるいは販売者が、消費者に提供する情報(表示・広告などの)ということにならざるを得ない。消費者は、全面的に事業者に依存せざるをえないという地位におかれるということである。
このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生した。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきた。被害を追いかけるかたちで、消費者保護の法制が次第に整備されてきた。私は、そのような時代に弁護士としての職業生活を送った。
それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」である。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」というもの。企業にとって、事業者にとって消費者規制は利益追求の桎梏なのだ。消費者の安全よりも、企業の利益を優先する、規制緩和・撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというのだ。
アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度、まさしく経済活性化のための規制緩和である。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者は賢くなればよい」「消費者被害には事後救済でよい」ということ。
本日発売のサンデー毎日(5月3日号)が、「機能性表示食品スタート」「『第3の表示』に欺されない!」という特集を組んでいる。小見出しを拾えば、「国の許可なく『効能』うたえる」「健康被害どう防ぐ」「まずは食生活の改善 過剰摂取は健康害す」などの警告がならぶ。何よりも読むべきは、主婦連・河村真紀子事務局長の「性急すぎ、混乱に拍車」という寄稿。「健康食品をめぐる混乱は根深く、新制度によるさらなる被害」を懸念している。これが、消費者の声だ。
この問題で最も活発に発言している市民団体である「食の安全・監視市民委員会」は4月18日に、「健康食品にだまされないために 消費者が知っておくべきこと」と題するシンポジウムを開催した。その報道では、「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」との指摘があったという(赤旗)。まさに、企業のための規制緩和策そのものだ。
あらためて「合点が行く」話しではないか。消費者の安全の強調は、企業に不都合なのだ。私は、そのような常識をベースに、サプリメント製造販売企業オーナーの政治資金拠出の動機を合理的に推論したのだ。消費者の利益を発言し続ける私の口が、封じられてはならない。
(2015年4月21日)