てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行つた
作者が高名な詩人なのだから、これは一行で完結した詩になっているのだろう。
もっとも、詩であろうとなかろうと、どうでもよいことだ。
題名が「春」とされているが、これがふさわしいかどうか。「美しい蝶の、希望への春の飛翔」などと解したのでは、まことにつまらぬ駄文でしかない。題は無視しよう。作者の意図もどうでもよいことだ。このわずか一行の文字の連なりの重さと激しさを、自分なりにときどき反芻する。
詩人の心象の中で、蝶は自身の姿だ。たった一匹、群れることを拒否した魂。
暗い北の海辺の蝶は、敢えて沖へ羽ばたく。海の果ては見えない。はたしてこの海が海峡であるか大海であるのか、それすら蝶は知らない。
海が果てるまでの波濤の連なりに飲み込まれることなく羽ばたき続けられるだろうか、蝶に確信はない。明日は雨やも知れず、向かい風が吹くやも知れない。突然に波が高くなることもあろう。疲れても休む場所はなく、見渡す限り、花も蜜もない。海を渡った新たな天地に希望があるのか。それすら分からない。
それでも、蝶は敢えて海を渡ろうと羽ばたくのだ。無謀、これ生きる証しのごとくに。
私は、この詩の作者に一度会っている。1957年のことだ。私は、大阪府下の中学校の3年生だった。そのときに、校歌ができた。その作詞者が、隣町・堺に住んでいた高名な詩人、安西冬衛その人だった。
作詞者を迎えて、1500人の全校生徒による校歌の発表会がおこなわれた。私は生徒会長として、詩人に謝辞を捧げる一場の演説をおこなった。隻脚で杖をついた白髪の老人の温厚な雰囲気をよく覚えている。詩人もうれしそうだった。
私がしゃべった内容はよく覚えていないが、校歌に読み込まれた校訓を引いて、それらしいことを言ったのだと思う。その安西冬衛作詞の校歌とは、次のようなもの(のはず)だ。
峰の青雲
秀ずる金剛
仰ぐこの門
我らが母校
つとに尊ぶ
自主の精神
この山
この川
われら学ばん
眉健やかに
望み豊かに
富田林第一中学校
温厚な老詩人の風貌にも校歌の歌詞にも
「てふてふが一匹革達革旦海峡を渡つて行つた」
という、伝説となった詩の切れ味はなかった。
一番だけ覚えている校歌に読み込まれた校訓は、「自主の精神」だった。終戦から10年余のこの時期の戦後民主主義の空気をよく表しているのではないか。「忠君愛国」や「滅私奉公」の類の反対語が校訓となっていたのだ。
なお、私は富田林小学校に2年在籍している。その小学校にも校訓があった。
自主自立
共同親和
勤労愛好
この3語が、やはり校歌の各番に読み込まれている。
筆頭に挙げられた「自主」・「自立」は、紛れもない戦後民主主義のスローガン。「共同親和」は戦前型道徳の残滓を感じさせる。「勤労愛好」は両方に読める。
自主性・主体性の確立は、この時代の教育スローガンのトレンドだったのだ。「君が代」なんぞよりは、格段に立派なものではないか。
なお、安西冬衛「春」の初出は、1926年だという。詩人にとって、時代の雰囲気が「韃靼海峡」の暗さだったのだろうと私は思う。この時代の暗さが海をこえて羽ばたかざるを得ないとする心象を形成したと解釈したい。戦後、「眉健やかに 望み豊かに」と中学生とともに詠うことができる時代への転換は、老詩人の幸福でもあったのだと思う。
詩人の心象風景に中のてふてふは、戦後ようやくにして、春の明るい日ざしの中で希望に向かって羽ばたいたのではないだろうか。
(2015年4月23日)