澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

女性・女系天皇を実現することで天皇制の存続をはかろうという立場は、「男女の別」を是正することで「身分の差」を維持しようという論法ではないか。

(2024年9月5日)
東京新聞の書評欄(9月1日)に原武史の[評]がある。酒井順子『消費される階級』を取りあげて、『「差」と「別」に鋭い視点』とタイトルを付けている。

原武史が『「差」と「別」』と述べれば天皇制についてのこと。「鋭い視点」での、天皇制批判に期待したが、さほどの切れ味はない。

原は、こう言う。『うならされたのは、皇室に対する著者の視点である。「上る」「下る」という京都の地名が示すように、天皇はもともと空間的に「上」の存在だった。明治以降、天皇は日本社会の頂点に君臨するとともに、京都から東京に移ることで「上京」の意味も変わった。そして皇室は戦後もなお、身分制の「飛び地」として維持されたのだ。』

『日本社会にまだ「差」や「別」が多く残っていた時代には、皇室の地位も比較的安定していた。しかし「差」や「別」があってはならないという見方が広がるにつれ、その安定に揺らぎが生じるようになる。
 現行の皇室典範は、皇位継承資格を「男系の男子」に限定し、女性天皇も、母親しか皇統に属さない女系天皇も認めていない。一方で世論調査では、国民の8割以上が女性天皇はもちろん、女系天皇にも賛成という結果が出ている。』

酒井の「さらなる平等化に向かっている今、皇室内に冷凍保存されている様々な『差』や『別』は、世間の感覚とかなり乖離しつつあります。皇室を存続させるのであれば、そろそろそのズレをどうにかする時が来ているように思えてなりません」という一文を引いて、原はこう結論する。

「著者のこの言葉は、まさに問題の本質を突いている。身分の「差」と男女の「別」。この「差」と「別」を抱えたまま皇室が首都東京の中心に存在していることの負の側面を、見事に言い当てているからだ。」

ハテ? そうだろうか。 身分の「差」と男女の「別」の対比は、やや分かりにくい。身分の「差」は野蛮な社会が拵えたものとしてその存在自体が不合理なものだが、男女の「別」は生物学的なものでその存在自体が不合理であるはずはない。「夫婦別あり」の「別」は、不合理な社会意識のなせる業ではないか。

身分の「差」を維持しつつの平等の実現はあり得ないが、男女の「別」は必ずしも平等を害しない。身分「差」は絶対悪として身分を廃棄しなければならないが、男女の「別」については、両性の平等を害している不合理な現実を是正しなければならない。

この点に関して、原は「国民の8割以上が女性天皇はもちろん、女系天皇にも賛成という結果が出ている」ことを根拠に、皇位継承資格を「男系の男子」に限定し、女性天皇も女系天皇も認めていない現行の皇室典範を批判する。つまりは、皇室における男女の「別」の存在を批判して、皇室の存在という身分の差を批判せず、むしろ国民世論に追随して存続させようという立論になっている。

原が紹介する酒井の著書の立場は、もっと明瞭に「皇室を存続させるために、世間の感覚とのズレをどうにか修正して、女性・女系天皇を認めるべきだ」と読める。それでよいのか。

憲法14条2項は、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と明記する。人はすべて平等である。一方に「華族・貴族」を認めれば、他方に「賤民・被差別者」を認めることにならざるを得ない。生まれながらの貴い血も、汚れた血もあろうはずはない。人の差別を必要とする社会勢力が、不合理な差別を作り出しているに過ぎない。憲法14条はこれを否定して「華族も貴族も認めない」という。これが日本国憲法の1丁目1番地。

ところが憲法は、「華族・貴族」の存在を否定しながら、その頭目である天皇の存在を認めた。誰が考えてもおかしい、甚だしい矛盾。これが日本国憲法の「飛び地」であり「番外地」。もちろん、憲法起草者としては人畜無害の限りでの天皇の存在を認め、政治的な権能を剥奪された形式的存在に過ぎない、としたつもりではあろう。しかし、身分制度とは、その存在自体が絶対悪と言わねばならない。

結局、酒井も原も、「男女の別」を是正することで「身分の差」を維持しようという論法なのだ。女性・女系天皇を実現することで天皇制の存続をはかろうという立場。私は、その論法に与しない。差別の根源としての天皇制の矛盾は、もっともっと大きくなればよい。誰の目にも耐えがたい不合理として映るまで。国民の大多数が、天皇制そのものを廃棄することによって解決するしかないと考えざるを得なくなるまでに。

ウソつき百合子の「災害死と虐殺死を同列に置く詭弁」を許してはならない。

(2024年9月1日)
経歴詐称のウソつきとして天下に知らぬ者とてない小池百合子。本来、立候補の資格すらないこんなウソつきが平然と首都の知事の座に納まっている不思議、不気味、そして不合理。こんな事態を許してしまった都民の一人として、恥ずかしい限り。

そのウソつきが、毎年9月1日には見えすいた詭弁を弄して、排外主義者の正体を露呈している。この事態は、「恥ずかしい」では済まない、危険極まりないと言うしかない。本気になって、このレイシストを弾劾しなければならないと思う。

事件から50年に当たる1973年以来、東京・横網町公園で毎年行われている「関東大震災 朝鮮人犠牲者追悼式典」。実行委員会の呼び掛け文には、「虐殺された犠牲者 朝鮮の人、中国の人、日本の社会運動家を追悼します」と記載されている。台風の余波の中で、参加者数を絞って今年も行われた。同公園に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼碑があること、その碑の前で毎年継続して追悼式がおこなれることの意味は、とても大きい。まずはそのことを確認しておきたい。

関東大震災時の、朝鮮人・中国人・社会主義者らの虐殺は、震災に伴って必然的に生じたものでは決してない。震災をきっかけにして起こった虐殺は、当時の帝国日本が基本国策としていた、近隣諸国に対する侵略戦争と植民地支配の副産物であった。帝国日本の膨張主義の所産と言ってもよい。関東大震災は自然災害としての大事件である。その際に生じた、朝鮮人・中国人に対する虐殺は、別の大事件なのだ。対処や反省の仕方、再発防止のあり方、教訓の捉え方はまったく異なる。この点を曖昧にしてはならない。

膨張主義の国策を持つ国家は、侵略や植民地支配を正当化すべく国民心理を操作する。そのために、自国を賛美し対象国を侮蔑して排外主義を煽動する。根拠のない自国民の選民思想を吹聴し、近隣諸国の国民を故なく差別する。我が国の近代においては、そのための小道具として荒唐無稽な国体思想が一役も二役も果たしている。国民の大多数が、この天皇制国家の洗脳と煽動に乗せられた。本気になって、「日本は神国」で、近隣諸国は隷属すべきだと思い込んだ。国家が主導する教育の恐ろしさの実例である。

遅れた帝国主義国としての日本が、朝鮮・中国に侵略を開始して以後、その国の民衆からの抵抗を受けたのは当然のことである。それを苛酷に弾圧し、弾圧にさらなる反発があり…、という過程を経て、日本国民の心理に、中国人・朝鮮人に対する、潜在的な敵愾心や憎悪や恐怖が醸成されていった。

朝鮮全土での「3・1独立万歳運動」も、中国の「五四運動」も1919年に起きている。そのような緊張関係の中で、きっかけとなる大震災が起きたのだ。虐殺の本質的原因は、日本の侵略政策にあった。しかし、事件後100年に至るも、国はそのことを絶対に認めようとはしない。レイシストである東京都知事はなおさらのことなのだ。その状況の中での追悼式の継続は、日本と近隣諸国民の民衆間の友好と平和を築く礎としての高い意義を有している。この追悼の輪が国内に広がれば、平和と国際協調主義の基礎がそれだけ強固なものになる。

今や、排外主義をめぐってのせめぎ合いは、この追悼文送付をめぐる攻防に集約した感がある。

せめぎ合いの一方は、歴史的事実を直視して朝鮮人・中国人虐殺の事実を謙虚に認め、真摯に謝罪のうえ、今からでも真実を掘り起こす調査を開始し、その調査結果を各国で共有するとともに、その原因を国際的な叡智をもって究明して、絶対に同様の事態を繰り返さぬ再発防止の策を定めることを要求する。そして、それがアジアの平和につながるものと考える。

他方は、歴史的事実を無視し、あるいは偽造し、隠蔽して、朝鮮人・中国人虐殺の事実はなかったとし、あるいは正当防衛として、謝罪も調査も必要ないとする。排外主義と民族差別を肯定して、憎悪を煽る。保守陣営の中に、このような勢力が確かに存在する。いまや、小池百合子がその勢力の代表者となりつつある。

小池百合子は、毎年9月1日に横網町公園で開かれている朝鮮人犠牲者追悼式典に2017年以降、追悼文を送っていない。日朝協会など市民団体でつくる式典実行委員会は追悼文の送付を小池百合子に求めたが、「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」との理由で拒否し続けている。

本日、追悼式典の宮川泰彦実行委員長は小池都知事の姿勢を念頭に「過去の悲惨な歴史は恥ずかしいことだが、そこから逃げ回ることはもっと恥ずかしい。過ちを繰り返さないために子や孫、周りの人に語り継ぐことが我々の責務ではないか」とあいさつしている。そのとおりではないか。

「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」は、ウソつき百合子の詭弁に過ぎない。

虐殺犠牲者は震災で亡くなったのではない。震災の被害を免れて生き延びたのに殺害されたのである。災害死ではなく、無惨な虐殺死を遂げたのだ。人が人に対して加えたこれ以上はない残酷さで。その悲惨さ、無念さを同一に捉えることはできない。

人の死は哲学的にはすべて同じかも知れない。しかし、社会的、政治的、法的には、死は一様ではない。冤罪による刑死と、家庭内虐待死と、イジメによる自殺と、交通事故死とは、明らかに違う。最も異なるのは、原因と責任と社会としての対策の点である。ことさらに、すべてを同一の死と見ることは、それぞれの死の原因と責任を曖昧にすることを狙ってのこと以外にはない。

災害死には加害者が考えられないが、虐殺死は集団での殺人罪該当行為である。必ず、犯人がいる。文明社会では、責任の所在を明確にしなければならない。恥ずべき犯罪を煽動した国家と、軍と警察と、国家の煽動に乗せられた国民の、それぞれの責任を。

だから、災害死と虐殺死を同一視して「関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」と言うのは、ことさらに虐殺者の加害責任を隠蔽しようという、ウソつき百合子の姑息な詭弁と言わざるを得ないのだ。

また、これまでの歴代知事(あの石原慎太郎でさえも)が送付を続けてきた知事としての追悼文を突然中断したことについて、小池百合子は本当のところを説明しなければならない。右翼のデマ宣伝を根拠としていること、自分を支持する政治勢力の中心に歴史修正主義者がいること、実は自分は排外主義者だということ、などなどを。

真実を語ることができないウソつきだから、災害死と虐殺死を同列に置く詭弁を弄せざるを得ないのだ。このことは、何度でも繰り返さなければならない。

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