澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

自民党総裁岸田文雄、党大会でかく語りき。

(2023年2月28日)
 自由民主党総裁、岸田文雄です。本日、2月26日という特別に意義の深い日を選んでの第90回党大会であります。まずは、我が党が依拠する国民の代表として経団連十倉会長のご臨席を賜っていることをご報告し、しっかりと丁寧に、御挨拶を申し上げます。

 昨年7月、安倍晋三元総裁が、選挙期間中に銃撃され、お亡くなりになるという未曽有の事件が起こりました。安倍元総裁の下「日本を取り戻す」なんて大袈裟なことを言いつつ、当時の民主党から政権の座を奪還したのは今から10年前のことです。

 この「日本を取り戻す」という訳の分からぬスローガンによれば、当時日本は誰かに奪われていたのです。奪われていた「日本」とは、安倍晋三元総裁が本来あるべきと考えた富国強兵の日本であり、軍事大国の日本であり、中国や朝鮮を侮蔑する傲慢な一等国日本であったかと思われます。少なくも、戦後民主主義に汚染される以前の、美しい帝国日本であったことには間違いありません。

 だからこそ、この10年、安倍元総裁の強力なリーダーシップの下、私たちは多くの仲間とともに「平和」や「民主主義」や「人権」と闘い、憲法改正のために死力を尽くしてまいりました。もちろん、闘う相手は「国民」です。頑迷に憲法改正に反対する勢力との闘いの道半ばで倒れた安倍元総裁のご遺志を継いで、私も憲法改正に邁進する覚悟であります。

 さて、遺憾ながら、アベノミクスの失敗は誰の目にも明らかで、この10年、日本の国力は大きく低下しました。「日本には未来がないのでは」とささやかれた時代は過ぎ、今や誰もが大っぴらに経済政策の失敗を語り合う事態を迎えています。しかし、こういうときにこそ、安倍元総裁の得意技を思い出していただきたいのです。そうです、「ご飯論法」と「嘘とゴマカシ」、「あるものもない」という安倍流政治手法です。どこかいいとこだけの統計数字を拾ってきて、あたかも全体がうまく行っているように印象操作をするあの悪徳商法まがいの得意技。虚心坦懐にこれを見習い、実行し、頑張って、統一地方選挙も、衆議院の補選も乗り切っていこうではありませんか。

 選挙での訴えの基本は二つだけ。一つは、なんでも悪いことは、あの悪夢の民主党時代の悪政の結果と決めつけることです。もう一つは、なんでも良いことは、我が党の努力による「前進の10年」の成果だと断言すること。照れたり、恥ずかしがって小さい声で言うのではなく、堂々と大声で、安倍晋三さんをお手本に、ウソでも平気で「アンダーコントロール」と自信ありげに言うことがコツなのです。

 とは言え、現実には日本が置かれている状況は厳しく、課題は満載です。コロナ後の日本経済再生、かつてないエネルギー危機、その中でのエネルギー安定供給と脱炭素の両立、変化する国際秩序の中での外交安全保障、最大の未来への投資であるこども・子育て政策。正直なところ、安倍さんの責任は重大ですが、そう言っていけません。

 われわれなら克服できる、いや、われわれにしかできない。皆さん、そう思いませんか? なぜなら、われわれ自由民主党には良き伝統があるからです。議論を尽くし、知恵を持ち寄り、そしていったん決めたなら、一致団結して成し遂げる。そう、「民主集中制」という組織運営の大原則です。この良き伝統の下、難題に一つ一つ答えを出し、着実に実行していこうではありませんか。

 真っ先に取り組まなければならないことは、アメリカの指示に従っての防衛力の抜本的強化。そして、そのための経済的な裏付けです。即ち、大軍拡・大増税。これを断固として実現しなければなりません。もちろん、財布の大きさには限りがありますから、当然のことながら、大軍拡・大増税は、福祉や教育、子育てへの予算に皺寄せを及ぼします。でも、正直にそう言ってしまっちゃあオシマイですから、「異次元の少子化対策」「教育費倍増」「子供予算倍増」などと、中身がなくてもいいのです。口先だけで吹聴してください。みんなで、口を揃えて、繰り返し言うことが大切です。そうすれば、確実に票がとれます。なに、選挙までの、短い期間のことです。これで乗り切りましょう。

 そして、物価高を乗り越え、経済成長を実現するため、新しい資本主義の柱である、「投資と改革」にも全力を挙げます。GX、DX、科学技術・イノベーション、スタートアップ等の分野に、官の投資を呼び水に、民の投資を集めてまいります。地域の未来を創る、地方創生の取り組みも加速化させていきます。何のことだかよく分からぬことを、早口で喋ることが大切です。私も中身はよく分からないのですが、この頃口だけは回るようになりました。

 そして、子供たちに「取り戻した日本」を着実に引き継ぐため、憲法改正に取り組んでまいります。自衛隊の明記、緊急事態対応、合区解消、教育の充実。いずれも先送りのできない課題ばかりです。時代は、憲法の早期改正を求めています。維新や国民は、改憲の同志的政党ですから、その力もお借りしながら、国会の場における議論を、一層積極的に行ってまいります。

 また、伝統右翼の皆様が大切だと思っていらっしゃる皇室問題も待ったなしです。このままでは、大切な皇位の絶滅を危惧しなければなりません。安定的な皇位継承を確保するための方策への対応は先送りの許されない課題であります。国会における検討を進めてまいります。

 本音を言えば、何ごとも行き詰まり、うまく行きそうもありません。戦後長く続いた保守政権の無策の結果がこの事態です。そう思っても、口に出してはなりません。「この歴史の転換点に臨み、今一度、10年前の政権奪還の原点、野党転落のどん底から毅然と立ち上がった原点に立ち戻りたいと思います」と言いましょう。こうして、選挙を乗り切れば、あとは気楽な「黄金の2年」が待っています。

 支持率の低迷の岸田政権ですが、なんとかなります。統一教会問題やら、選択的夫婦別姓の問題やら、LGBT問題やら、税制の不均衡やら、原発増設やら、都合の悪いことにはできるだけ口をつぐみましょう。これまでも、我が党に投票した国民ではありませんか。大切なことを忘れっぽく、同調性が高くて体制順応の国民性を信頼しましょう。こうやって、何とか選挙と危機を乗り越えましょう。ご支援、よろしくお願いいたします。

「はだしのゲン」は、なにゆえに行政に疎まれるのか。

(2023年2月27日)
 私は、爆心地近くの広島市立幟町小学校に入学している。「原爆の子の像」のモデル佐々木禎子さんの母校。小学校一年生だった私は、原爆ドームの瓦礫の中で遊んだ。広島が被爆して4年目のこと。そして、同じ広島市内の牛田小学校に転校し、さらに三篠小学校から、宇部の小学校に転校した。どこの小学校だったか、集合写真が1枚だけ残っている。もう、70年以上も昔のこと

 私は、戦争のさなかに盛岡に生まれ、盛岡で終戦を迎えたのだから被爆の体験はない。が、原爆の爪痕の残る広島の姿は、おぼろげながらも記憶している。市民の「ピカ」に対する無念と恐怖の感情も。

 私の平和志向は、あとで聞かされた戦時中の母の苦労と、この広島での生活体験が原点となっている。原爆こそは絶対悪である。けっして人類と共存することはできない。原爆を無くさなくては、人類が滅亡する。6歳での被爆体験を持つ中沢啓治の思いも同様であったろう。そして、はるかに強烈なものであったろう。

 私は「はだしのゲン」には、思い入れが強い。感情を移入せずには読むことができない。広島市教育委員会が、平和教育の小学生向け教材から「はだしのゲン」を外す方針を決めたという報道が無念でならない。広島市よ、おまえもか。

 広島市教委は2023年度、市立の全小中高の平和教育プログラム「ひろしま平和ノート」を初めて見直す。その際、小学3年向けの教材として、これまで採用していた漫画「はだしのゲン」を削除。別の被爆者の体験を扱った内容に差し替えるという。

 「ゲン」を教材として採用した趣旨は、「被爆前後の広島でたくましく生きる少年の姿を通じて家族の絆と原爆の非人道性を伝える狙いで、家計を助けようと路上で浪曲を歌って小銭を稼いだり、栄養不足で体調を崩した身重の母親に食べさせるために池のコイを盗んだりする場面を引用している」(中国新聞)と報道されている。

 これについて、教材の改訂案を検討した大学教授や学校長の会議で「児童の生活実態に合わない」「誤解を与える恐れがある」との指摘が出たという。市教委も同調。その上で、漫画の一部では被爆の実態に迫りにくいとして、もう1カ所あった、家屋の下敷きになった父親がゲンに逃げるよう迫る場面も新教材には載せないという。

 戦争は悲惨である。原爆の被害は、その最たるもの。悲惨な場面の描写は避けて通ることができない。被爆者の団体も教材としての使用の維持を求めている。

 市教委の今回の措置は実のところ、「悲惨な描写」が理由ではあるまい。「ゲン」がもつ「反戦」の姿勢が不都合なのだ。あるいは『反日』のしせい。戦争とは、加害と被害がないまじったものである。永く続いた日本の保守政権は、過去の戦争の被害の訴えには積極的だが、加害の反省にはまことに消極的である。地方自治体も、戦争の被害者性の訴えには寛容だが、戦争における日本の加害者としての描写には極めて非寛容となる。南京大虐殺にも、シンガポールの大検証にも、三光作戦にも、平頂山事件にも、731部隊にも、従軍慰安婦にも…。

 広島・長崎への原爆投下を、それ自体としてだけ見れば、明らかなアメリカの過剰な加害行為で、日本の市民は甚大な被害者である。だから、原爆の被害を訴える展示や集会には、広島市に限らず地方自治体は寛容である。

 しかし、「はだしのゲン」は、原爆被害だけを描いていない。原爆被害を素材としながらも、侵略戦争を引き起こした日本の加害者としての戦争責任にも遠慮なく踏み込んでいる。天皇への怨嗟も、軍部の横暴も描いている。戦時下の言論統制にも異議を唱えている。そして、アメリカの戦後責任にも。これが「反戦」の基本姿勢である。そして、ある種の人々から見れば『反日』でもある。これこそが、「ゲン」が単なるマンガを超えて多くの市民から支持された理由であり、同時に右翼や政府や自治体からは疎まれ煙たがられてきた原因なのだ。真実を語ればこその受難というべきであろう。

 「はだしのゲン」を読み継ぐということは、日本の加害者としての責任を自覚し続けるということであり、反戦の思想を守り続けることでもある。「はだしのゲン」を大切に読み続けよう。

忘れてはならない。忘れさせられてはならない。ビキニも第五福竜丸の被ばくも、そして「2・26」も。

(2023年2月26日)
 昨日、公益財団法人第五福竜丸平和協会の役員懇談会。来年2024年は、ビキニ事件・第五福竜丸被ばくから70年になる。その翌々年2026年は、展示館開館50周年。どのような基本理念で、どのような企画をなすべきか。「ビキニ事件を直接知らない世代が圧倒的多数となる時代に対応する取り組み」についてのフリートーキング。

 最初に、奥山修平代表理事から語られたのが、「核兵器の使用も原発への攻撃も、今差し迫った問題となっており、終末時計が1分30秒前まで進行している現状。一方、ビキニ事件を直接には知らない世代が圧倒的多数となっている。こんな時代の節目の時に、どのような事業をなすべきか率直にご意見を伺いたい」という問いかけ。

 この冒頭挨拶の中に、こんなエピソードが添えられた。「ある大学の教員が、学生に三つのキーワードでの作文を求めた。『英霊』『真珠湾』『B29』。もちろん日本の戦争への加害と被害の認識を問うたものだが、期待した反応は少なかったという。中には、『英霊とは英国の幽霊』『真珠湾とは、伊勢の養殖真珠産地』『B29とは特別に濃い鉛筆』というコメントもあって、愕然としたという。大切な戦争体験の承継ができていない。ビキニ事件も、記憶を失ってはならないし、失わされてはならない」

 この冒頭発言に続く提案として、「映像世代の若者をターゲットに、動画やユーチューブサイトの活用を」「若者には、アニメが訴える力を持っている。自主作成援助の企画を」「平和の折り鶴という固定観念を打ち破るドラゴンの折り紙はできないか」「来年は辰年、ドラゴンのオブジェに、ウロコにたくさんのメッセージを書いてもらう参加型イベントはどうだろうか」「フィールドワークの充実を」と意見が飛び交う。いちいちもっともで、私なんぞが口出しのしょうもない。

 ところで、本日は2月26日。1936年の今日、雪の降る東京で陸軍の一部がクーデターを起こしている。翌2月27日「戒厳」が宣せられ、同月29日に鎮圧されている。この事件で陸軍の統制派が権力を掌握して軍部独裁を確立し、国家総動員法(38年)から大政翼賛会(40年)、そして太平洋戦争(41年)へと転げ落ちていくことになる。

 5・15事件も、2・26事件も、しっかりと記憶を新たにし、教訓を噛みしめておかねばならない。若者が『英霊』も『パールハーバー』も『B29』もよく分からないというのでは、戦前の過ちを繰り返さぬような社会を作れるのか、心もとない。2・26事件では、戒厳令の危険を知ってもらわねばならない。

 戒厳令問題は、過去の話ではない。自民党改憲草案(2012年4月27日)の緊急事態条項(「第9章」98条・99条)には、国家緊急権発動の一態様として「緊急事態宣言」が書き込まれている。戦争・内乱・大災害等の非常時に、憲法を一時停止して政権の専横を可能とするもの。自民党は、明文会見によって「戒厳令」の復活をたくらんでいるのだ。

 大江志乃夫「戒厳令」(岩波新書・1978年)は、今読み直されるべき書である。戒厳令についての詳細を理解し、自民党改憲案の危険に警鐘を鳴らすために。

 この書では、2・26事件の顛末を次のとおり、簡明にまとめている。

 「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁錮刑多数という大量の重刑者を出した。」

 この書の冒頭に、2・26事件を起こした反乱青年将校たちが自分たちの政治綱領として信ずることの厚かった『日本改造法案大綱』の第一条が紹介されている。

 「天皇ハ全日本国民ト共二国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲ布ク」

 これは、初めてクーデターの手段としての戒厳を公然と主張したものだという。天皇親政を実現するために、憲法を停止する。具体的には、「貴衆の両院を解散し、全国に戒厳令を布く」というのだ。これが、皇道派青年将校が企図したクーデターだった。

 自民党改憲草案も読み較べておきたい。
 第99条1項 「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」

 緊急事態宣言下、内閣は国会を無視して独裁者として振る舞うことができる。国民は内閣のいうことを聞かねばならなくなる。内閣は、政令を作って「集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト」ができる。もちろん、テレビの放送の停波など簡単なこと。

 広島も長崎も、ビキニも第五福竜丸も、そして5・15も2・26も、忘れぬようにしよう。国民が忘れたと見るや、為政者は欺しにかかってくるのだから。 

中国政府の「ウクライナ停戦」提案に期待を寄せる。

(2023年2月25日)
 プーチンとは唾棄すべき人物である。いずれ、ヒトラー・スターリンとならぶ悪名を歴史に残すことになるだろう。習近平も、チベット・ウイグル・モンゴル・香港の大規模人権弾圧で名を馳せた人物。これに加えて、将来台湾を侵略するようなことがあれば、堂々プーチンと肩を並べてヒトラー・スターリン級の悪名を轟かすことになる資格は十分である。

 ウクライナ戦争開戦1週年となった今、プーチンの戦争に、習近平が「対話と停戦」を呼び掛けている。なんとなく釈然としない。釈然としないながらも、停戦が実現するのなら、誰が呼び掛けたものであれ結構なことだと考えなければならない。

 習近平提案が成功するか否かは定かではない。むしろ欧米では非観的な見方が圧倒的だというが、ロシアもウクライナも関心を寄せていることは間違いない。プーチン・王毅会談は既に済み、ゼレンスキーは習近平との会談を望んでいるという。習近平、嫌な奴ではあるが、戦争をやめさせることができるのなら、応援の声を惜しんではならない。

 中国政府が発表したのは、「ウクライナ危機の政治的解決に関する中国の立場」と題する文章。「ロシアとウクライナが互いに歩み寄り、早期に直接対話を再開し、最終的には全面的停戦で合意することを支持する」と表明した。「対話はウクライナ危機を解決する唯一の道だ」と訴え、国際社会にも協力を求めている。

 ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を示唆するなか、「核兵器の使用や威嚇に反対」「原子力発電所などの核施設の攻撃に反対」とも記した。「主権や独立、領土保全は尊重されるべきだ」とする原則的な立場も盛り込んだ。

 この方針説明書は、以下の12項目の提案となつている。
?各国の主権の尊重
?冷戦思考の放棄
?停戦
?和平交渉の開始
?人道的危機の解消
?民間人や捕虜の保護
?原子力発電所の安全確保
?戦略的リスクの提言
?食糧の外国への輸送の保障
?一方的制裁の停止
?産業・サプライチェーンの安定確保
?戦後復興の推進

 これだけではよく分からない。主要な項目の要旨は次のとおりとされている。

?「各国の主権の尊重。国連憲章の趣旨と原則を含む、広く認められた国際法は厳格に遵守されるべきであり、各国の主権、独立、及び領土的一体性はいずれも適切に保障されるべきだ」

?「冷戦思考の放棄。一国の安全が他国の安全を損なうことを代償とすることがあってはならず、地域の安全が軍事ブロックの強化、さらには拡張によって保障されることはない。各国の安全保障上の理にかなった利益と懸念は、いずれも重視され、適切に解決されるべきだ」

?「停戦。各国は理性と自制を保ち、火に油を注がず、対立を激化させず、ウクライナ危機の一層の悪化、さらには制御不能化を回避し、ロシアとウクライナが向き合って進み、早急に直接対話を再開し、情勢の緩和を一歩一歩推し進め、最終的に全面的な停戦を達成することを支持するべきだ」

 戦争当事国の両者に呑ませようという提案が玉虫色のものになることは避けがたい。一項目ずつ、細かくあげつらえば、けっしてできのよい提案ではない。しかしそれでも、仲裁は時の氏神。赤い氏神でも黒い氏神でも、役に立つならなんでもよい。せめて停戦のための対話実現の、その糸口にでもなることを期待したい。

 戦争が長引けば、取り返しのつかない惨禍が拡大することになるのだから。

プーチン・ロシアのウクライナ侵略開始から1年。

(2023年2月24日)
 先日のとある日。寒さは緩み風もなく、青空に春の陽の光がきらめく素晴らしい日。都心にありながら、深山幽谷と見まごうばかりの小石川植物園。梅園は、6分から7分咲きの今が見頃。しかも、訪れる人もまばらで、赤い梅、白い梅、目を愉しませる花の下で、ウトウトとしていると、極楽もかくやと思われる心地よさ。

 ではあるけれど、思い起こさざるを得ないのがウクライナのこと。この瞬間にも街々では砲弾が飛び交い、多くの人々が殺され、焼かれ、家を壊され、電力や飲み水を断たれて、地獄絵図さながらの様相であるということ。眼前の風景と彼の地の惨状との、何という大きな隔たり。結局、素晴らしい梅を見ても、彼の地の戦争を思うと、何とも心穏やかではおられない。

 美味しいものを食べても、馴染んだ曲に耳を傾けても、近所の公園に遊ぶ保育園の子どもたちを眺めても、やはり心穏やかではいられない。こちらが長閑であればあるほど、ウクライナが思いやられる。彼の地では、人が殺されている。心ならずもの殺し合いが強いられている。人の平穏な暮らしが奪われ、恐ろしい不幸が蔓延している…。しかも、ウクライナに起こったその不幸が、我が国に起こらないという保証はない。もしかしたら、今日のウクライナの景色は、明日の我が国のものであるかも知れないのだ。

 人は、何のために生まれてきたのか。人を殺すためではない。人に殺されるためでもない。せめて穏やかに、つつましく、平和に生きたい。寿命を全うしたい。誰にも、そのささやかな望みを断つことができるはずはない。にもかかわらず、プーチンはロシアの若者に命じた。「人を殺せ、そのために自分の命を惜しむな」と。もとより、彼にそんな権限はあり得ない。

 1年前の今日、何とも理不尽極まる戦争が始まった。戦争を仕掛けたのは、ロシアだ。国境を越えて、ロシアの軍隊がウクライナに攻め込んだのだ。ロシアとプーチンは、永久に侵略者の汚名を雪ぐことはできない。この戦争によってウクライナの多くの軍人も民間人も、命を失い、負傷した。家族と離れ離れになり、住むところを奪われた多くの難民が生まれ。侵略された側の悲惨な戦禍。

 だが、悲惨はこの戦争に動員されたロシアの若者の側も同様。心ならずも訓練未熟のまま戦場に駆り出され、戦闘の技倆なく、多くの若者が殺された。ウクライナ兵に殺されたと言うよりは、プーチンに殺されたと言うべきではないか。

 どうすればこの戦争を終わらせることができるのか。世界は無力のまま、無為に1年を過ごした。国連安保理の常任理事国5か国のうち、1国が侵略戦争を起こし、もう一国が、事実上これを支援している。世界は良識で動いていない。

 この現実の中で、世界は戦争終結の方法を見出すことはできないままだが、侵略者ロシアは多くのものを失っている。この国を偉大な国だと思う者はもういない。もはや尊敬される国ではなくなっている。世界に印象づけられた「道義に悖る国」という刻印は容易に消えない。この国を見捨てて国外に逃亡する若者はあとを絶たない。国民からも見離されつつあるのだ。

 そして、世界中に平和を願う多くの人がいる。多くの人の声がロシアを弾劾している。多くの人が、ウクライナの平和のために尽力している。国連総会では多くの国が、ロシア非難決議に賛成している。平和を願う世界の良識はけっして微力ではない。この良識の声を、力を、行動を積み重ねるしか、今は方法がない。

 いつか、心おきなく、ウメを愛でることができる日が来る。きっと来る。 

「竹の檻」に閉じ込められた気の毒な人たちを思う。

(2023年2月23日)
 天皇誕生日である。もちろん、目出度い日ではない。国民の権威主義的社会心理涵養を意図したマインドコントロール装置に警戒を自覚すべき日である。人を生まれながらに貴賤の別あるとする唾棄すべき思想や、血に対する信仰や世襲制度の愚かさを確認すべき日でもある。

 我が国の民主主義も個人の自立も、天皇制との抗いの中で生まれ、育ち、挫け、またせめぎ合いを続けている。普遍的な近代思想を徹底できなかった日本国憲法は「象徴天皇制」を認めている。これは、コアな憲法体系の外に、憲法の中核的な理念の邪魔にならない限りのものとして存在が許容されているに過ぎない。その役割と存在感と維持のコストを可能な限り最小化し、漸次消滅させていくことが望ましい。

 ところで、天皇や皇族という公務員職にある人もその家族も、気苦労は多いようだ。最近は、あからさまなメディアのイジメにも遭っている。自分の生まれ落ちたところの宿命を、この上ない不幸と呪っているに違いなく、時に同情を禁じえない。もっとも、この人たちに、いささかの知性があればの話だが。

 私は、国語の授業で教えられた「竹の園生」という言葉を、長く「竹製の檻」のイメージで捉えていた。中国古代の、なんとかいう皇帝の庭に竹林があったという故事からの成語だとは聞いた覚えがあるが、最初のイメージは覆らない。「編んだ竹でしつらえた頑丈な檻」に閉じ込められた、形だけ名ばかりの王。鉄の檻でも、木製の檻でもなく、しなやかな美しい竹で作られた檻の中の、自由を奪われた「籠の鳥」。

 高校一年で徒然草を習ったと思う。その第1段の冒頭は次のとおりである。

 「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ。帝の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやむごとなき」

 私は、この第一段で、長く吉田兼好とは知性に欠けた人だと思っていた。が、今は必ずしもそうでもない。「面従腹背」という言葉の積極的意味合いを呑み込んで以来のことである。反語とか逆説などという技法を知って、多少は文章の陰影を読むことができるようになったということでもある。兼好はこう言ったのではなかろうか。

 はてさて、たった一度の人生である。もし、願いがかなうとなれば、いったい何になって何ができれば、最も幸せだろうか。まず思いつくのは天皇である。その血筋に生まれて天皇になれたとしたら、これに勝る幸せはないのではなかろうか。とは一応は思っても、あれは万世一系、子々孫々に至るまで人間とは血筋が別物とされている。読者諸君よ、人間として生きたいか、人間じゃないものになりたいか。天皇なんてものは、奉って『いともかしこし』『やむごとなし』とだけ言っておけばよい。敬して遠ざけるに限るのさ。実際あんなものになってしまったら、人としての喜びなんて、無縁のものになってしまう。

 おそらく、今の天皇・皇室・皇族の多くが、そう思っているに違いない。はやりの言葉を使えば、「最悪の親ガチャ」である。皇室・皇族の人権など、憲法上の大きなテーマではないが、あらためて思う。天皇制は誰をも幸せにしない。

プーチンの演説に耳を傾け、違和感なく受け容れるロシア国民。

(2023年2月22日)
 もうすぐ、ロシア軍がウクライナに軍事侵略を開始して1年になる。昨21日、プーチン大統領は、戦争開始後初めての年次教書演説をした。

 そこで彼はこう語ったと報道されている。

 「彼らが戦争を始めたのだ。ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側にある。そしてもちろん、キエフ(キーウ)の現政権にも」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りのことをした」「戦争を引き起こしたのは彼らであり、私たちはそれを止めるために武力を行使し続けている」

 これは、逆説でも隠喩でもない。プーチンは、ためらいなく国民に語りかけ、ロシア国民の多くは違和感なくこの言に耳を傾けて共感し、受容している。これは奇妙なことなのだろうか。

 戦前の日本人の多くが、同じ意識構造ではなかったか。まさか自国が非道徳的な不義を働き、皇軍が不当な侵略戦争を行うとは考えたくもないのだ。だから、自国の外に軍隊を侵攻させ、遠い他国の地で戦闘を開始しても、これを侵略とは思わない。不逞鮮人を掃討し、暴支を膺懲する正義の武力行使だと信じて疑わなかった。自国の武力行使は正義で、これに抵抗する「敵」の武力行使は不正義だった。この信念を否定する情報も意見も、意識的に受け付けなかったのだ。

 ロシア国民も同じ心理なのだろう。昨年2月24日、ロシア軍の戦車隊が国境を越えてウクライナ領土に進軍したことは紛れもない事実である。しかし、それを「自国軍隊の侵略」とは認めたくない。「彼らが戦争を始めたのだ」と言ってもらいたいし、そう信じたいのだ。

 「ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側とゼレンスキーにある」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りを尽くした」「今も、私たちは戦争を止めるために、やむなく武力を行使し続けている」というのは耳に心地よい。そう言う指導者の演説を聞きたいし、信じたいのだ。

 「米欧はロシア国境付近に軍事基地や秘密の生物研究所をつくっている」「欧米の包囲網は第2次大戦のナチスドイツの攻撃そのものだ」「西側は19世紀から、今ではウクライナと呼ばれる歴史的な領土を我々から引きはがそうとしてきた」「西側の目的は、ロシアを戦略的に敗北させることにある。我が国の存続がかかっている」

 こういうプーチンの根拠の乏しい演説にも、聴衆は何度も立ち上がって拍手を送った。問題は、演説内容の真実性ではない。自国の正義を信じたい国民への慰めの言葉が欲しいのだ。

 一方のバイデンも、21日ポーランドで演説した。ウクライナへの侵攻の正当化を試みるプーチンに対抗して、その主張は虚構にすぎないと切り捨てた。彼の描く図式は、「ロシアの専制から自由や民主主義を守る戦い」である。

 バイデンはこう言った。「プーチンが今日話したような『西側がロシアへの攻撃をたくらんでいる』などということはありえない」「今夜はもう一度、ロシア国民に語りかけたい。米国と欧州各国は、ロシアを支配しようとも破壊しようとも思っていない。隣国との平和な暮らしを望むだけの何百万人ものロシア国民は敵ではない」「プーチンはいま、1年前には起きえないと思っていたことに直面している。世界の民主主義は強くなり、独裁者たちは弱くなった」

 また、プーチンを「専制君主」「独裁者」と呼び、その予測や期待がことごとく外れてきたことを列挙した。戦争が続くのはプーチンが選んだ結果だとして、「彼は一言で戦争を終わらせられる。単純だ」とも語った。

 バイデンの演説の聴衆は3万人とされている。ポーランドやウクライナ、米国の国旗を持った人たちが時折歓声を上げながら耳を傾けたという。

 両人の演説は、いずれも100%の嘘ではない。誇張や願望のいりまじった内容。しかし、どう考えても、プーチンの側に分が悪い。相対的にバイデンが真実を語っている。かつては、世界の紛争の元兇であったアメリカである。いったいいつから、アメリカが正義面して、民主主義や人権を語れるようになったのだろうか。中国やロシアにおける「専制君主」「独裁者」の「功績」というほかはない。

 そしてもう一点強調しておきたい。真実ではなく、心地よい言葉を聞きたいという国民の心理は、ロシア国民や戦前の臣民に限らない。少なからぬ現在の日本人も同様なのだ。今なお、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦の存在もデマだ」「関東震災後の朝鮮人虐殺も嘘だ」という類いの言説の基礎にあるものとして無視し得ない。

スペインでは性別変更が自由になった。我が国の「性同一性障害特例法」では…。

(2023年2月21日)
 BBCと共同が伝える記事に驚いた。スペイン議会は、今月16日に「16歳以上の国民が法律上の性別変更の手続きをする際に診断書を不要とする法案を賛成多数で可決した。表決は191対60だった」という。

 つまり、16歳になれば、スペイン国民は自由に自分の性を選択できるのだ。診断書は不要。未成年者も両親の同意は不要。スペインの事情はよく分からぬながら、これで社会的混乱は生じないのかと訝る自分の感覚に自信が持てない。

 私がよく知らなかっただけで、この種法案の成立はけっしてスペイン独特のものではないという。1972年にスウェーデンが初めて性別変更を合法化し、2014年デンマークが初めて自己申告のみでの性別変更を可能としたという。現在では9か国が同様の制度を採用しており、スペインは10番目の性別選択自由化国なのだとか。

 スペインでは、これまで法律上の性別変更手続きには「性別違和(生物学的な性別と性自認に違和感がある状態)の診断書」に加え、「2年間のホルモン治療」が必要とされてきた。新法成立後は、「診断書」も「治療」も不要となる。なお、対象者が12?13歳の場合は裁判所の関与が、14?15歳の場合は保護者の同意が必要となるという。

 「性別変更 16歳から自由に スペインで法案可決」との見出しでの報道のとおり、今後スペインでは16歳以上の国民だれもが、裁判所の手続も医師の診断も必要なく、自分の意思だけで性別の変更が可能になる。国民全てに、性別の自己決定権を認めたということなのだ。もっとも、性別変更回数制限の有無についての報道はない。

 スペイン新法は、人の性別とその登録の制度を残してはいる。自分で「男性」「女性」のどちらか一方の性を選択することとしているわけだ。しかし、自由に性別を変えることができるとすれば、結局のところ、性別を無意味とし法から性別の概念を取り払うことにつながることになるのではないだろうか。

 同性婚の制度が違和感なく確立している社会では、人の性別は限りなく必要性の小さなものとなるのだろう。スペイン新法のさらに先には、どちらの性に属することも拒否するという権利を認める社会が開けるのかも知れない。十分に成熟した社会が実現しての未来のことではあろうが。

 ところで、日本の事情は相当に立ち後れている。戸籍の性別変更は、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(2003年成立・04年施行、通称・「性同一性障害特例法」)が定める要件と手続による。

 この法の名称にある「障害者」という語が目に痛い。この法案提案の趣旨には、冒頭以下の一文がある。「性同一性障害は、生物学的な性と性の自己意識が一致しない疾患であり…」。 「性同一性障害」は、明確に「疾患」として捉えられている。

 これに比して、スペインの事情は大いに異なる。議会の採決前にイレーネ・モンテロ平等担当相は議員に対し、「トランスジェンダーの人々は病人ではない。ただの人間だ」と語ったと報じられている。出生時の性別と自己認識の性別が異なるトランスジェンダー問題を、当事者の人権に関わる問題と捉えての法改正なのだ。

スペインとは対照的に我が法の性別変更要件は、まことにハードルが高い。「性同一性障害特例法」第3条1項は、次のとおり定める。

「家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
一 二十歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。」

 一読して明らかなとおり、とうてい人権を実現しあるいは擁護するための規定ではない。その憲法適合性が争われて当然である。何度か、違憲判断を求めて最高裁に特別抗告がなされたが、いずれも斥けられている。同性婚を認めない現行法制による秩序との不適合が主な理由とされている。

 しかし、もしかしたらこの判例が覆るのではないかという特別抗告事件が話題となっている。昨年12月7日に、2年間寝かされていた最高裁係属事件が、大法廷に回付されたのだ。おそらくは、弁論が開かれ、これまでとは異なる判断となる公算が高い。

 事案は、男性として生まれ、女性として社会生活を送る人が、戸籍の性別変更を求めたもの。性同一性障害特例法の規定は、生殖腺を取り除く手術を必要とすることになるが、「手術の強制は重大な人権侵害で憲法に違反する」と主張して、手術を受けることなく、性別変更を認めよと申し立てている。

 最高裁が、人権の砦としての役割を果たすことができるのか、あるいは現行秩序の番人に過ぎないのか。注目しなければならない。
 
 なお、2004年の特例法施行以来今日まで、司法統計に公表されている限りで、全国の家庭裁判所で性別変更が認められた審判件数は1万1000を超えているという。判例変更となれば、この数は急増することになるだろう。だが、それでもなお、全ての人に性別選択の自由を認めるスペイン型法制度には違和感を払拭し切れない。

多喜二虐殺から90年。忘れまい、多喜二と母の無念を。

(2023年2月20日)
 90年前の今日1933年2月20日、小林多喜二が築地署で虐殺された。権力の憎悪を一身に集めてのことである。特高警察による野蛮極まる凄惨な殺人事件であった。母セキは多喜二の遺体にすがって、「もう一度立たねか」と泣き崩れた。29歳で殺害された多喜二と、その母の無念を忘れてはならない。そして、多喜二とセキに連なる、無数の無名の犠牲者のあることも。

 一年前の当ブログにも多喜二のことを書いた。ぜひお読みいただきたい。

 本日が多喜二の命日。多喜二を虐殺したのは、天皇・裕仁である。
 https://article9.jp/wordpress/?p=18590

 有名作家だった小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道した。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけのものであった。

 そればかりか、特高は、東大・慶応・慈恵医大に圧力をかけて遺体解剖を拒絶させた。さらに、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束した。これが、天皇制権力のやりくちであった。そのような権力の妨害にも拘わらず、詳細な多喜二の死体の検案ができたのは、安田徳太郎(医学博士)や江口渙(作家)ら友人の献身があったればこそである。

 時事新報記者・笹本寅が、検事局へ電話をかけて、多喜二の死因を「検事局は、単なる病死か、それとも怪死か」と問い合わせると、「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の一人が大喝して電話を切ったという。

 「これ以上文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」という脅しは、空文句ではない。1928年改悪の治安維持法は、新たに、目的遂行罪を創設した。「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」である。平たく翻訳すれば、「何であれ、共産党の目的遂行のために力を貸すようなことをした者には、最高2年の懲役または禁錮の刑を科す」という条文。要するに、警察・検察の一存で、共産党に関わったら、誰でもしょっぴくことができるとされていた時代のことなのだ。

 この天下の悪法による逮捕者数は数十万人にのぼるとされる。司法省調査によると、送検された者7万5681人、うち起訴された者は5162人に及ぶ。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人。多喜二の虐殺もそのうちの1件であった。

 警察も検察も報道もグルになって多喜二の虐殺を隠した。天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲し、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じた。何という狂った時代だったのだろうか。

 1933年の2月と言えば、日本が国際連盟を脱退したとき(24日)であり、ベルリンで国会放火事件が起きたとき(27日)でもある。日本も世界も、戦争とファシズムへの坂を転げ落ちていたとき。その時代のもっとも苛烈な弾圧の矢面に立ったのが、多喜二であったと言えよう。とても真似はできないが、せめて、「あの時代にも困難であったけれど、多喜二のように抵抗する生き方があったと知ることは重要」という言葉を噛みしめたい。
(参考記事・07年2月17日、09年2月18日付「しんぶん赤旗」)

靖国美化論・靖国公式参拝促進論は、好戦派の妄言である。

(2023年2月19日)
 橋下徹が、2月16日にこうツィートしている。
「首相や天皇が靖国参拝もできない国が、いざというときに自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令などしてはいけない」

 やや舌足らずで稚拙な一文ではあるが、言っているのはこういうことだ。
 「いざというときに、果敢に自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令ができる国にするためには、首相や天皇の靖国参拝を実現しておかねばならない」

 これは法律家の言ではない。典型的な伝統右翼扇動者の思考パターンである。こうもあからさまにものを言う人は、最近は少ない。

 もう少し敷衍し忖度して、橋下ツィートの真意を解説すれば、こうでもあろうか。

 「近い将来において我が国が戦争当事国になる事態はけっして絵空事ではない。その、いざというときには、国家は躊躇することなく、果敢に自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令ができなければならない。およそ、戦争に勝利するためにはそのような苛烈な国家意思の貫徹が必要なのだ。戦時において、自衛隊員や国民の命を犠牲にする果敢な指揮命令が可能な国家にするためには、平時から首相や天皇の靖国参拝を実現して、国民の精神を『国家のために死ねる』という精神構造を培っておかねばならない。首相や天皇の靖国参拝は、そのような手段として有効なのだ」

 これは、戦前の天皇制国家公定の思想であり、戦後は伝統右翼のナショナリズムや大国主義・軍国主義の願望の中に、連綿と引き継がれてきた想念である。

 靖国への対応は良識ある国民に重い課題である。過去の問題であるはずが、清算されずに積み残されて、「再びの戦前」といわれる時代に、靖国神社礼賛論が必ず蒸し返される。橋下ツィートもその類いの一文。

 橋下は、続くツィートでは「命を落とした兵士に尊崇の念を表すると口で言うだけの政治家たち、首相の立場ではない気楽な身分で靖国参拝して自己満足している政治家たち、もうそろそろ首相や天皇が靖国参拝できるような環境を命をかけて作れ」とけしかけている。その具体策として、「首相や天皇が靖国参拝するためには、戦争指導者を祀る施設と兵士のそれを分けることが必要不可欠だ」との提案が持論のようだが、「宗教上の分祀か否かに踏み込まなくていい。首相や天皇は戦争指導者に参拝しないというメッセージで必要にして十分。兵士のみにしっかり参拝」とも言っている。いずれにせよ、靖国神社公式参拝推進派であり、戦争推進派の言にほかならない。

 靖国とは、「君のため国のために命を捧げた戦没者を神として祀る」宗教施設であった。もちろん、伝統的な神道に基づく神社ではない。明治政府が発明した「天皇教」という新興宗教の教義に基づく創建神社である。

 靖国神社は、天皇の意向で創建され、天皇への忠死の軍人を顕彰する施設であり、新たな祭神を合祀する臨時大祭の招魂の儀には、必ず天皇自らが「親拝」した。徹頭徹尾、天皇の神社であった。

 また、戦前靖国神社は陸海軍の共管とされ、陸軍大将と海軍大将とが交替で宮司を務めた。徹底した軍国神社であり、戦争神社であった。だから靖国神社とは、宗教的軍事施設でもあり、軍事的宗教施設でもあった。

 統一教会の伝道教化活動の報道が、世論にマインドコントロールという言葉を思い出させている。オウムの報道の際も同様だった。しかし、天皇教のマインドコントロールの規模の壮大さや、その成功に較べれば、統一教会もオウムも、チャチなものではないか。権力による一億臣民のマインドコントロールに成功した天皇教体制の軍国主義的、侵略主義的側面を代表するものが、靖国の思想であり、靖国神社という宗教施設であり、国定教科書を通じて全国民(臣民)に「忠義のために死ね」と教えた教育である。マインドコントロールの極致というべきであろう。

 敗戦後の日本の民主化は不十分で、天皇という有害な存在を廃絶することができなかった。しかし、憲法は天皇を人畜無害とする幾つかの制度を調えた。その一つが政教分離原則(憲法20条)にほかならない。天皇も首相も、靖国神社に関わってはならないのだ。

 保守派は、かつては靖国の国家護持運動に取り組んだ。憲法上の政教分離原則から、その実現は困難と悟って、靖国神社公式参拝促進運動を本流としている。これもはかばかしい成果を上げ得ていない現状で、手を替え品を替えて、戦争準備としての靖国再利用に余念がないのだ。

 靖国神社礼賛論や、その一端としての公式参拝促進論は、戦争への地ならしである。「戦死者をどう追悼し、どう扱うべきかを定めずにして、戦争突入はできない」「国家が、戦死者を厚く悼む施設も儀式も用意せずに、戦死を覚悟せよとは言えない」という意識が権力側にあるからである。

 「戦争が近いことを覚悟せよ」「そのための準備が必要だ」との立論ではなく、「絶対に戦争を避けなければならない」という議論をしなければならない。橋下流の好戦論に惑わされてはならない。

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