澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

防衛政策の大転換も、原発回帰への大転換も、どうして国民置き去りで決めてしまうのか。

(2022年12月23日)
 岸田文雄内閣成立以来、この内閣は正体を見極めにくい厄介な代物、と思い続けてきた。当然のことながら、安倍晋三内閣の分かりやすさに比較してのことである。

 安倍晋三は、極右陣営の取り巻きに担がれた存在で、立憲主義をないがしろにした改憲論者で、歴史修正主義者で、古典的ナショナリストで、復古的伝統論者で、極端な新自由主義者で、かつ人事を壟断した権力の亡者で、政治を私物化し、官僚に忖度させ、質問議員に意味不明の野次を飛ばす品位に欠けた人物。自分でも、「私を右翼の軍国主義者と呼びたいのなら、そう呼んでいただきたい」とも言っていた、その危険性の分かりやすさにおいてこの上ない貴重な政治家だった。だから、「ゆ党」までふくむ野党の面々が、「危険な安倍が唱導する改憲には反対」でまとまっていた。

 ところが岸田には、多少の人の良さの幻影があり、本当のところは危険人物ではないのではと思わせる雰囲気がある。もともとが宏池会の出身、ハト派の面影が消せない。総裁選に打って出たときの印象も悪くなかった。「成長よりは分配重視の『新しい資本主義』」だの、「国民の言葉に耳を傾けるのが特技」だの、なかなかのもの。その後の豹変ぶりも、あのときの言葉こそが彼の本音で、いずれ本音を言えるときが来るのではないか、と思わせられる。岸田は本性を出せずに、自民党の安倍・麻生・茂木・二階派などに面従腹背せざるを得ないのだろうとも思わせる憎めないキャラクターなのだ。

 ところが、次第にこの政権どうもおかしいと思わざるを得ない事態が進展している。参院選挙あたりからだろうか。国葬を言い出したのが決定的だった。そして何よりも、臨時国会閉幕直後の「安保3文書の閣議決定」(12月16日)である。戦後の安全保障政策の大転換、とうていハト派のやれることではない。内心がどうであろうとも、これだけのことをやってのける岸田政権。タカ派と評せざるを得ない。

 さらにもう一つの大転換、「原発回帰」である。岸田が議長を務める「グリーントランスフォーメーション(GX)実行会議」は、昨日(12月22日)新たな基本方針を決定した。政府自身の「原発依存度を低減する」としてきた、これまでの立場から、原発再稼働の加速、老朽原発の運転期間延長、そして新規原発建設という原発推進への大転換である。福島第1原発事故の悪夢消えやらぬ今、核のゴミの処理方針もないままにである。何よりも、政策決定の手続がおかしい。事前に民意を聞こうという姿勢がない。今や口癖になっているのが、「ていねいに説明する」。民意に反する決定をしておいて、「丁寧に説得して、反論を封じたい」ならまだマシ。じつは、できない説明を先送りしているだけ。

 民主主義とは、政策決定のプロセスにおける理念である。政策決定に実質的な意味で、どれだけの国民が参加するかが民主主義成熟度のバロメータなのだ。国民にとって、決定された政策が、どれだけ自分が決めたものという実感をもつことができるか。それが問われている。

 「人の話を聞くのが特技」言った岸田政権に期待した国民が、いまや国民の声も、国会の声も聞かない政権を見離しつつある。12月18日の毎日新聞世論調査結果、岸田内閣を支持する25%、支持しない69%は、このことを物語っている。

 下記は、私も所属する自由法曹団東京支部の「安保3文書の閣議決定に対する抗議文」である。この第4項にも、民意を顧みない岸田政権の非民主的な姿勢が批判されている。

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安保3文書の閣議決定により敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有することは許されない

1 2022年12月16日、岸田内閣は、反撃能力という名目で敵基地攻撃能力の保有を明記した国家安全保障戦略、国家防衛、防衛力整備計画の3文書(以下「安保3文書」という。)を閣議決定した。
  しかし、閣議決定により敵基地攻撃能力を保有することは日本国憲法に反し許されない。

2 日本国憲法は、二度に亘る世界大戦の悲惨な戦争体験を踏まえた深い反省に基づき平和主義を基本原理として採用し、第9条において、一切の戦争と武力の行使及び武力による威嚇を放棄し、戦力の不保持を宣言するとともに、国の交戦権を否認している。
  これら日本国憲法が採用した平和主義は、世界史的に見て比類のない徹底した戦争否定の原理を打ち出したものと評価されてきた。
この徹底した平和主義原理に基づく日本国憲法の枠組みの中で、歴代内閣は、日本が保持できる自衛力は、専守防衛の理念の下での最小限のものでなくてはならないとの立場をとり、敵基地攻撃能力の保有は否定してきた。閣議決定で採用された安保3文書は、歴代内閣が堅持してきた従来の専守防衛の理念の立場をかなぐり捨てるものである。

3 今般、閣議決定された安保3文書には、敵基地攻撃能力を保有するために外国製のスタンド・オフ・ミサイルを導入することが明記されている。同ミサイルの導入は、専守防衛の理念の下での最小限の自衛力保持の限界を超えてしまうものであり、到底認められない。
  射程距離の長いスタンド・オフ・ミサイルを導入することは、近隣諸国との軍事的緊張を一層高め、際限のない軍拡競争に日本を巻き込む事になり、かえって国民の生命・財産を危険にさらしかねない。

4 安保3文書には、敵基地攻撃能力を保有するための防衛費として、今後5年間で総額43兆円もの税金を投入することが明記された。
  ロシアによるウクライナ侵略等の影響に基づくエネルギー価格の上昇や、新型コロナウィルスによる経済的打撃等により国民が苦しむ中で、多額の税金を投入することに対し国民の納得は得られていない。

  5兆円の国庫資金は年間の医療費自己負担分を無料にできる、3兆円あれば大学の学費を無償化できること等も報道されており、今般政府が費やそうとしている莫大な防衛費を医療・教育・福祉等に投入すれば、国民の生活を豊かにする実効的な政策を実施することができる。
  国民の代表者で構成される国会での議論を経ずに閣議決定のみにより、従来の憲法解釈を覆し多額の税金の投入を決定することは、国民主権、国会中心主義、及び、財政民主主義にも反するものである。そのことによる国民の不信は、岸田内閣の不支持率が7割にも迫っているという世論調査結果によく表れている。

5 以上のとおり、岸田内閣による安保3文書の閣議決定は、立憲主義および平和主義を破壊する重大な暴挙であり、歴史に禍根を残すものと言わざるをえない。
  自由法曹団東京支部は、岸田内閣による敵基地攻撃能力の保有を認める安保3文書の閣議決定を即刻撤回するよう求める。
   2022年12月21日


自由法曹団東京支部幹事会

「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」? 憲法擁護と憲法遵守と。

(2022年4月2日)
 メールやメーリングリストの普及によって、仲間同士の情報や意見交換は実に便利になった。さらに、最近はズームやチームのオンラインの活用。電話とファクスの時代に長く過ごした身には、今昔の感に堪えない。

 ところで、自由法曹団には、テーマ別に幾つかののメーリングリストがある。そこでの意見交換は、にぎやかで楽しい雰囲気。その内の一つに、最近ある弁護士がこんな書き込みをした。

 知り合いの(定年後)再任用の教員から、こんなことを尋ねられました。
 「毎年、一年ごとに任用されることになり、その都度教育委員会に誓約書を提出するのですが、その文言が以前は「憲法を遵守し」だったのに、今年の書式には「憲法を擁護し」となっていました。これって、どう違うんでしょうか。変更には悪しき意図がありませんか。弁護士さんの感覚はどうですか。」
 さて、皆さんのご意見はいかがでしょうか。

  これに、にぎやかに意見が寄せられた。
 
 「誓約書としてはその言葉の変更自体で特段の差はないように思う」「99条の条文をよく見たら『遵守』ではなく『擁護』となっていたことに気付いたから、『擁護』の方がふさわしいと考えた。その程度のことではないでしょうか」という以外は、次のように、概ね好意的・肯定的な意見が多かった。

 「直感的に、『遵守』より『擁護』の方は改憲を許さん的な意味でむしろ奮っているのではないかと思いました。辞書を調べると、『遵守』は単に厳格に守るということですが、『擁護』はやはり危害から庇い護る事とあります。これは教育委員会の中のどなたかの計らいだとすると、かなりメッセージ性の強い変更のように思います。悪しき意図を感じるものではありません。」

 「『遵守』は98条の最高法規性の条文で、『擁護』は99条の憲法尊重擁護義務の条文なんですね。誓約書には、もちろん99条の方がしっくりきますね。これを変更した方は、この2つの条文の意味を理解したのかもしれません。私は賛成です!」

「文言変更の意図がどこにあるのかわかりませんが、結果的には良い方向になっているということですね。この教育委員会を訴訟の相手にしている立場としては、それほど立派な組織とは思われませんが、誓約書の件については結果オーライといったところではないでしょうか。」

「これが弁護士的感覚かというと自信はないですが、すごくいいじゃんと思います」

 私も意見を述べたが、少数派であった。少し敷衍して、改めてコメントしておきたい。

 憲法学者・佐藤功の名言として、「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」というフレーズが知られている。子ども向けに書き下ろした『憲法と君たち』の中の一節だという。「憲法が国民を守り 国民が憲法を守る」「憲法が市民を守り 市民が憲法を守る」と言い換えてもよい。

 「憲法は君たちを守る」は、憲法が国民の人権や民主主義を守る根拠となるという法的な作用を語っている。そして、「君たちが憲法を守る」は、国民が憲法の命じるところに従うべきという意味ではない。主権者である国民に憲法改悪を阻止し、憲法の理念を実現する努力を求める呼びかけとしての政治的メッセージと読むべきだろう。この後者の国民の政治的な作用として「憲法を守る」を、憲法擁護というにふさわしい。縮めれば、「護憲」である。

 他方、「国民が憲法の命じるところに従うべきという意味での『憲法を守る』義務」は存在しない。国民の憲法遵守義務というものは観念しがたい。が、むろん、公務員には憲法遵守義務がある。

 憲法の条文を意識せずに「憲法を守る」というときには、
 「現行憲法の定めに従う」という意味と、
 「現行憲法の条文や理念を改悪させない」という意味の
両義がある。

 前者を『遵守』、後者を『擁護』と使い分けると意味がはっきりする。前者は法的な概念で、後者は政治的概念だと言うしかない。

 この言語感覚からは、憲法99条の公務員の「憲法を尊重し擁護する義務」という用語の使い方が国語とズレている。本来、99条は『擁護』ではなく『遵守』がふさわしい。

 現に公務員の採用時には、「憲法遵守」と宣誓している例も多いようで、この言葉づかいは条文上間違い、などと言われることがある。しかし私は、国語としては「遵守」の方が正しいのだと思っている。

 この県教委が、教員に対して、「日本国憲法を遵守するのみならず、(改憲を阻止して)憲法を擁護する」という宣誓文言がふさわしい、との含意での誓約を求めているとすれば素晴らしいことだろうが、それはあり得ない。憲法99条の条文の文言のとおりに、公務員の「憲法を尊重し擁護する義務」という用語を使うように変更しただけのことであろう。

 問題は国民皆の憲法意識にある。国民が憲法遵守の義務を負うことはない、権力者や天皇に憲法を遵守させなくてはならない。そして、この日本国憲法とその理念を飽くまで擁護しようと意識すべきなのだ。

ウラディミール・プーチン、ロシアの《法治主義》を論ず

(2021年1月29日)
ロシアにだってね、《法の支配》も《法治主義》もあるんだよ。《立憲主義》って考え方もね。えっ? 「ウッソー」とは失礼な。ちゃんと「ロシア憲法」だってある。その憲法には、思想・表現の自由も、「平穏な集会・デモの自由」も書いてある。本当だよ。だから、国民誰もが政権に反対して「平穏に」集会やデモをする自由を持っている。驚いちゃいけない。ロシアって、ツァーリ独裁の帝政時代とは違うんだ。

だから、私が、ずーっと権力を掌握し続けるための法をつくるには一苦労だった。憲法を改正しなくちゃならなかったし、それに、大統領経験者が罪を犯しても生涯にわたり訴追されない権利を保障する法律を作るのも楽じゃなかった。その楽じゃない手続を、全て完了したのだから、もう何の問題もない。ツァーリ独裁ならそんな面倒なことをしなくてもよかったんだけど、いや、文明とは面倒なもの。

アレクセイ・ナワリヌイ? 彼はなんにでも反対するヘンな奴でね。憲法改正についても、大統領終身不訴追の立法にしても、「クーデターだ」とか、「憲法違反だ」と騒いでいた。明らかに、人民の意思に反した行動ではないか。おかしいだろう。もちろん、彼にも人権はある。それは否定できない。でも、人権があるってことはだね、なんでも勝手にできるってことではないんだよ。人は、厳格に法が認める範囲でしか行動できない。どこの国でも、おんなじだろう。

昨年(2020年)8月、彼は国内を旅客機で移動中に体調が悪化してベルリンの病院に入院した。問題がこじれたのは、ドイツ政府の仕業さ。ナワリヌイに神経剤ノビチョクによる毒殺が図られた「明確な証拠」があると発表したんだからね。それで、ナワリヌイも調子に乗って、「ロシア当局が自分を暗殺しようとした」「プーチンの指図だ」と主張を始めた。冗談じゃない。私が指図したのなら、今ごろ彼が生きているはずはないじゃないか。

ドイツから帰国した彼が、モスクワの空港で待ち構えていた官憲に逮捕され拘束されたが、これは私の指示によるものではない。法が命じたからだ。彼は、有罪の判決を受けて3年半の禁固刑を言い渡され執行猶予中の身だ。しかも執行猶予期間中、定期的に出頭義務を課せられている。この義務に違反したからの身柄拘束だ。法治国家として当然のことじゃないか。どうして出頭できなかったか? そんなことに私は興味はない。

ナワリヌイの身柄拘束に対して、彼の釈放を求める抗議集会とデモが起こった。1月23日のことだ。「少なくとも全国約125都市で」「全国で25万?30万人が参加」「プーチン政権下の抗議活動では過去最大規模」などと報道されているが、これは不許可の違法集会だし、違法デモだ。違法は、断固取り締まらなければならない。それが、《法治主義》だ。だから、治安当局が3700人以上を逮捕したっていうのは当然だろう。

治安当局が参加者を警棒で殴打するなどの映像が流され、外国からの非難の声も上がったが、あれはためにするものだ。「米連邦議会議事堂乱入事件の容疑者には最長禁錮20年となる重罪の容疑で捜査が進んでいる」というじゃないか。違法行為が許されないのは、どっちもどっち。違法なデモを取り締まるのは平穏な社会秩序を維持するためには当然のことだろう。

ナワリヌイは、自らの政治的な野心を押し通すために違法を重ねているんだ。違法を断固取り締まるのが、法治主義ではないか。しかも、このデモは、合法的な政権に対する危険をもたらすものとしても徹底して取り締まらねばならない。

それからもう一つ。ナワリヌイは、黒海沿岸にプーチン宮殿なるものがあると吹聴している。私が、「1000億ルーブル(約1400億円)相当の宮殿などを所有している」として、その宮殿の動画を公表している。あまつさえ、特定の実業家の名を上げて、この宮殿を「史上最大の賄賂」とまで言っている。明らかに、市民を洗脳しようとしているのだ。

しかし、「私も近親者もここで示された財産のどれも所有していない。過去に所有したこともない」。これで、この話は終わりだ。では、いったいあの建物は、誰が何のために建設したか、調べれば分かるだろうって? 私には、そんな無意味なこと時間を費やす暇はない。

最後にはっきりさせておこう。表現の自由を行使する権利は誰にもある。しかしそれは、飽くまで「法が認める枠」の中でのことだ。その枠外に出るものはすべて危険なものとして、禁じられる。それが、ロシアの《法治主義》だが、私の見るところ、世界中を見わたしてどこの国もおんなじだ。大して変わるところはない。そうだろう。

安倍政権の国会召集拒否は「国民への説明責任を回避」ー「立憲デモクラシーの会」が見解

(2020年8月14日)

誰の目にも、いま国会審議が必要である。新型コロナ対策が喫緊の重要課題である。審議すべきテーマは多岐に及んでいる。豪雨災害への対応も必要だ。イージスアショア計画の廃棄に伴って敵基地先制攻撃能力論などという物騒なものが浮上してきた。アメリカからの思いやり予算拡大要求問題も、中国の香港弾圧問題もある。

通常国会を閉じずに会期延長すべきところ、政権・与党は強引にこれを打ちきって臨時国会を開会しようとしない。そこで7月31日、立憲民主党、国民民主党、共産党、社民党の野党4党は、憲法53条の規定に基づく臨時国会召集の要求書を提出した。

憲法第53条は、こう定めている。
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」

要求書の内容は「安倍内閣は、新型コロナウイルス感染症への初動対応を完全に誤り、『Go Toトラベル』に象徴される朝令暮改で支離滅裂な対応を続けて、国民を混乱に陥れているにもかかわらず、説明責任を果たしていない」というものと報道されている。しかし、問題はその内容の如何や正当性ではない。「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時国会の召集を決定しなければならない」というのが憲法の定めである。安倍内閣の、憲法尊重の意思の有無が問われているのだ。

今のところ、安倍内閣には、憲法尊重の姿勢は見えない。このことを巡って、憲法学者や政治学者でつくる「立憲デモクラシーの会」が昨日(8月13日)、衆議院議員会館で記者会見し、厳しく批判する見解を表明した。記者会見するに出席したのは、中野晃一・上智大教授、石川健治・東大教授、高見勝利・上智大名誉教授、山口二郎・法政大教授の4人。

同見解は、憲法53条の条文設置の趣旨を、「国会閉会中の行政権乱用防止のため一定数の議員の要求で、国会を自律的に召集する制度を設けている」「憲法違反が常態的に繰り返されている」「内閣の準備不足などとして、召集時期を合理的期間を超えて大幅に遅らせるのは、悪意すら感じさせる」と厳しく指摘している。

6月10日、那覇地裁で「憲法53条違憲国家賠償請求事件」一審判決言い渡しがあった。同判決は、「内閣には通常国会の開催時期が近かったり、内閣が独自に臨時国会を開いたりするなどの事情が無い限り、「合理的期間内」に召集する法的義務を負うもので、単なる政治的義務にとどまるものではない」としている。しかし、7月末の野党の召集要求に対し、政府・与党は早期召集に応じない方針を示している。つまり、敢えて違憲を表明しているのだ。これは、15年と17年の前科に続いて、安倍政権3度目の憲法違反行為である。

政権のこうした姿勢について、石川健治・東大教授(憲法学)は、「憲法改正手続きを経ずに、53条後段の削除と同じ効果が生まれている」と危惧を呈したという。また、中野晃一・上智大教授(政治学)は、「言葉の言い間違いではなく、安倍首相が『立法府の長』であることが現実化しつつある」と述べたとも言う。なるほど、そのとおりである。

なお、下記のとおり、同見解では「憲法上重大な疑義のある『敵基地攻撃能力』が政権・与党内で軽々しく論議されていることも、現政権の姿勢を示すもの」と言及されている。安倍政権、問題山積ではないか。一日も早く臨時国会を開催せよ。

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立憲デモクラシーの会が8月13日発表した見解の全文は以下の通り。

安倍内閣の度び重なる憲法第53条違反に関する見解

2020年8月

 新型コロナウイルスの感染拡大と経済活動の大幅な収縮に歯止めが掛からず国民生活が深刻な危機に見舞われるさなか、国会は閉じる一方で、来月にも国家安全保障会議で「敵基地攻撃能力」の保有に向けた新しい方向性を示す安倍晋三政権の意向が報じられている。

コロナ対策の当否など火急の案件だけでなく、国政上の深刻な課題が山積しているにもかかわらず、安倍首相は国会の閉会中審査に姿を現さず、記者会見もまともに開かず、何より憲法53条に基づく野党による臨時国会開催要求にさえ応じない。これは、主権者たる国民に対する説明責任を徹底して回避していると言わざるをえない。

そもそも憲法53条後段は、国会閉会中における行政権の濫用を防止する目的で、一定数の議員の要求により国会が自主的に集会する制度を設定したものであり、「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とするのは、衆参どちらかの少数派の会派の要求がありさえすれば、国会の召集の決定を内閣に憲法上義務づけたものである。

また、議員からの召集要求があった以上は、召集のために必要な合理的期間を経た後は、すみやかに召集すべきであるとするのが学説の一致した見解であり、近年は政府でさえ「合理的期間を超えない期間内に臨時国会を召集しなければならない」(2018年2月14日横畠裕介内閣法制局長官答弁)と認めている。さらに、本年6月10日那覇地裁判決は、「内閣が憲法53条前段に基づき独自に臨時会を開催するなどの特段の事情がない限り、同条後段に基づく臨時会を召集する義務がある」とする。議員の要求によって召集される臨時国会での審議事項は、上記の自律的集会制度の本質上、内閣提出の案件の存否にかかわらず、各院において自ら設定しうるものである。内閣の準備不足などとして、召集時期を必要な合理的期間を超えて大幅に遅らせようとするのは、憲法53条後段の解釈・適用に前段のそれを持ち込もうとする悪意すら感じさせる。

2015年と2017年につづいて2020年にもまた、このような憲法違反が常態的に繰り返されようとする事態は看過できない。そうした中、憲法上重大な疑義のある「敵基地攻撃能力」が政権・与党内で軽々しく論議されていることも、現政権の姿勢を示すものと言える。敵基地攻撃は国際法上preemptive strike すなわち先制攻撃と見なされるのは明らかで、政権内の言葉遊びですまされるものではない。安倍政権はいずれ終わるとしても、その負の遺産は消えない。これ以上、立憲主義や議会制民主主義を冒瀆することを許してはならない。

ルイ16世の不運と、アベ晋三の好運と。

(2020年6月13日)
今国会のヤマ場であった検察庁法改正審議大詰めの5月15日。松尾邦弘元検事総長ら検察OBが、法案に反対の意見書を法務大臣宛に提出した。長文のその意見書中の次のくだりが話題となった。

 本年2月13日衆院本会議で、安倍晋三首相は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 言うまでもないことだが、私は無邪気に検察の正義を信ずる立場にはない。実務の中で、幾度となく検察の横暴にも検察の不作為にも苦い思いを繰り返してきた。しかし、この切所とも言うべき局面で、権力に対峙すべき検察の役割を適切に語って時の総理大臣をたしなめる、この検察OBの言には感動を禁じ得ない。

思いもかけぬ賭けマージャン報道で、時の人黒川弘務・東京高検検事長が辞任したその直後の5月22日衆院厚労委員会で、この「朕は国家」問題が取り上げられた。共産党の宮本徹が、ルイ14世に例えられた安倍晋三に、こう問うた。

【宮本徹】検察庁法の問題については、元検事総長の方々も初めて連名で意見書を出されました。総理もお読みになられましたかね。本会議で総理が検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにしたと述べた、このことについて、法律改正の手続を経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ十四世の言葉として伝えられる、朕は国家であるとの中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢だと。絶対君主、絶対王政の時代と同じ姿勢だというふうに批判されているんですよ。こういう批判について真摯に耳を傾けるべきじゃありませんか。

 さすがに、宮本はことの本質をよくとらえている。
従来一貫して、検察官には国家公務員法の定年制の規定は適用されないと理解されてきた。ところが、今年1月31日回突然に黒川検事長定年延長の閣議決定に及び、これを追及されるや、2月13日衆院本会議で、「検察官にも国家公務員法の定年延長規定を適用する旨、従来の解釈を変更することにした」旨述べたのだ。

この重大な解釈変更は、国権の最高機関であり唯一の立法機関でもある国会をないがしろにして、内閣が恣意的に立法に及んだに等しい。その政権の姿勢が、『朕は国家である』と言った絶対君主の言葉を彷彿とさせると批判されたのだ。

しかし、批判は、知性を欠いた人物には意味をもたない。馬耳は、東風だけではなく、北風も疾風も感じないのだ。批判の文脈を理解する能力のない人物には、なんの痛痒も生じさせない。検察官OBの言葉も、宮本の質問も、アベ晋三には届いていないのだ。

ここでの予想される答弁のパターンは、こうであろうか。

A(真っ当受けとめ型)
委員ご指摘のとおり、法律専門家の皆様からの私に対する厳しいご叱責には、真摯に耳を傾けざるを得ません。近代の法治主義も、立憲主義も、権力分立も、そして人権尊重の法思想も、『朕は国家である』という絶対王政の思想と国家体制を克服するところから、出発しているものと心得ています。その根底のところでの私に対する批判なのですから、深く自省して、再び同様なことがないよう、この戒めを今後の行政府の長としての心構えといたします。

B(受け流し型)
政権の運営には、さまざまな観点からのさまざまなご批判があることは当然であろうと考えているところでございます。いただいた厳しいご指摘を、けっして無視するということではございません。立場によってはそうも見えるものであるのかという、貴重なご指摘として、参考にさせていただきたいと考えているところでございます。

C(反発型)
せっかくのご指摘と批判ですが、的はずれと受け取らざるを得ません。安倍内閣は、法解釈の変更でできることと、その範囲を超えて法改正をしなければならないこととの区別は十分に承知しておるところでございます。1月31日黒川検事長定年延長の閣議決定は法解釈変更のレベルでできること、そして今国会で審議をお願いしております検察庁法改正案は法解釈を超えているものです。検察OBの皆様には、そのあたりの誤解があるようで残念です。これまでの経緯の詳細を虚心に精査していただけば、誤解も曲解も氷解するものと自信をもっております。

これに対するアベの答弁は、以上のパターンのどれでもなかった。次のとおりである。

【安倍晋三】ルイ16世(14世の間違い)と同じとまで言われると、多くの方々がそれは違うのではないかというふうに思われるのではないかと思うわけでございます。私がここに立っているのも、民主的な選挙を経て選ばれた国会議員によって選出をされた、その多数によって選出をされてここに立っているわけでございますから、この根本的なところをよく見ていただかなければならないんだろう、こう思うところでございます。共産党はどのように党首を決められるのか、よく私は承知をしておりませんが、そのようになっている、総理大臣や、また我が党においても、選挙において総裁を選んでいるということでございます。

 この答弁はムチャクチャである。噛み合わないとか、論点からずれている、などというレベルではない。およそ、何を聞かれているかの理解がないのだ。このレベルに達すると、無知はこの上ない強みである。

アベは、「検察OBから、ルイ16世と同じとまで言われた」と思い込んでいるようなのだ。もしかしたら、アベは、比喩とか、暗喩とか、隠喩とか、メタファーとか、アナロジーなどという言語技法を知らないのかも知れない。あるいは、「彷彿」の意味が本当に分からないのかも知れない。さぞや、宮本も面食らったであろう。

宮本対アベの遣り取りでは、「募るも、募集も同じことでしょう」という珍問答を思い出さざるを得ない。やむなく、宮本が、アベにこう解説をしている。

【宮本徹】民主国家だからこそ、こういう声を上げて批判されているわけですよ。私たち一人一人は、選挙で選ばれた国民の代表です。立法府は、国権の最高機関なわけですよ。だからこそ、その立法府で定めた法解釈を一方的に捻じ曲げるのは、「朕は国家なり」と同じだ、と批判されているわけですよ。その点を理解されない、受けとめない、大変問題だということを厳しく指摘して、質問を終わります。

 アベ晋三、まったくものが分かっていない。自分がものの分からない人物であることもまったく分かっていない。会話が成立しないのだ。困ったことだ。

質問でのルイ14世が、答弁でのルイ16世となっていることが示唆に富んでいる。言うまでもなく、ルイ16世は、フランス革命高揚の中で「国民を裏切った」として断頭台の露と消えた不運な王である。

民主主義国家では、アベ晋三の人権も保障されている。たとえ、彼が国民を裏切った数々の違法が暴かれたとしても、それで「断頭台の露と消える」ことはあり得ない。アベ晋三の嫌いな日本国憲法が、その罪刑法定主義をもってアベ晋三の人権を擁護しているのだ。その好運を噛みしめるべきである。

憲法理念を大切にし続けた松本光寿君の逝去を悼む

(2020年6月3日)
松本光寿君が亡くなったという連絡を受けて茫然としている。50年前、23期の同期司法修習生として司法制度の在り方や法律家の使命などを語り合った仲。享年76、まだ逝くには早すぎる。彼のことだ。此岸には、大きな未練があったはず。

彼は鳥取の人。修習を終えて、郷里鳥取で弁護士となった。登録間もなく、社共統一の鳥取市長選に立候補し、当選には及ばなかったが善戦している。その後、弁護士らしい弁護士として生涯を貫き常に革新の立場を堅持した。

修習生時代の彼は、性温和、大言壮語することも激することもない飄々たる風貌と物腰だった。その彼が、いつの頃からか隠すこともなく検察官志望を口にし、いつの頃からか隠すでもなく青年法律家協会会員ともなった。

当時、裁判所の内部には、憲法擁護を掲げる青年法律家協会裁判官部会の勢力が強く、右翼と自民党と最高裁当局とが、一体となって潰そうと策動していた。これを「ブルーパージ」と言った。われわれ23期修習生活動の共通スローガンは、この策動に対抗して「同期の裁判官志望者のなかから、任官拒否者を出すな」というものだった。青年法律家協会の会員が、最高裁から疎まれ、その思想故に、あるいは団体加入故に、差別されて任官を拒否されるのではないか。憲法を護るべき裁判所にそのような自殺行為があってならない。その運動のボルテージは高かった。

当然のこととして、裁判官志望者は青年法律家協会の会員であることを秘匿した。その雰囲気の中で、松本光寿君は、ただ一人、青年法律家協会会員として検察官志望者であり続けた。彼は、「憲法の理念実現を掲げる青年法律家協会の会員であることと、検察官であることとに何の矛盾もあるはずはない」と言っていた。

それは、まことに真っ当な見解であった。が、問題は、裁判所も法務省も、けっして真っ当ではないことにあった。彼は、何度か、青年法律家協会からの脱退を勧告されたという。それでも、飄々たる風貌と柔らかい物腰に見えた彼は、けっして動揺しなかった。頑固だったと評することもできよう。

そして、彼は検察官としての任官を拒否された。もしかしたら、彼こそは、その思想故に検察官任官を拒否された、歴史上たった一人の人物、なのかも知れない。

松本光寿君が検察官への任官を拒否されたと同じ時期に、同期の裁判官志望者7名も任官を拒否された。そのうち6名が青年法律家協会の会員だった。当局は、どのような手段でか正確に司法修習生の個人情報を把握していたのだ。

われわれ同期は、この裁判官任官拒否に大いに怒った。その怒りが、修習修了式の阪口徳雄君の研修所長への一言の質問となり、阪口君罷免にまで発展した。一方、松本君の検察官任官拒否事件には、抗議はしたものの大きな運動のテーマにはならなかった。裁判官志望者に対する任官拒否と、検察官志望者への任官拒否とは、自ずと重要さが異なるという暗黙の共通理解があったからであろう。

裁判所は、また裁判官は、独立していなければならない。右翼や自民党の攻撃に屈して、憲法の理念に忠実であろうという裁判官を攻撃してはならない。そのような裁判官志望者を排除してはならない。その強い思いは共通していた。しかし、検察官志望者について同じレベルの問題とはとらえられていなかった。

黒川弘務検事長の定年延長問題で、検察官の準司法機関としての役割が強調されている今、松本君の検察官任官拒否の問題について、もっと深く考えるべきだったかと思う。

その後、ときたまに会った。会えば、あの頃のことに話が弾む。印象に残る2度の機会があった。

その1は、私も彼も、スモン訴訟に携わった。どちらも、第3グループの投薬証明皆無の地元患者の立証に苦労を重ねた。私は盛岡から彼は鳥取から、東京に出て会議に参加してその都度顔を合わせた。

その最初のころの機会だったと思う。「ボクもとうとう自分の顔に責任をもたねばならない齢になった」と彼が言うのだ。リンカーンの言葉を引用しての、40歳になった感慨の述懐。とすると、あれは、36年前のことか。

2度目は、憲法制定60周年の日弁連人権擁護大会である。開催場所が鳥取だった。松本君は、地元鳥取県弁護士会の会長だったと思う。受け入れ側を代表する立場だった。私は、日弁連の憲法問題対策本部の一員として、憲法制定60周年を記念するにふさわしい宣言案の起草に携わっていた。

何しろ、全弁護士が加盟する日弁連の宣言である。紆余曲折いろいろあったが、日弁連の対策本部から最終的な成案としてまとまったのが、下記の宣言案である。これに、かなり長文の提案理由が付されている。今、読み直して、なかなかよくできたものだと思う。

実は、この宣言案の採択は、議場で大いに揉めた。簡単には議決とならなかった。2時間半の「激論」が続いたと記録されている。右からの攻撃を想定していたが、議論は改憲派との間では起こらなかった。左からの攻撃を受けた。「9条2項の戦力不保持に関する姿勢が曖昧」というのが主たる問題点とされた。「これでは、自民党の提案と変わるところがない」とまでの発言があったと記憶する。

予定にはなかったが私も発言した。「個人的な憲法観を宣言に持ち込むよう要求してはならない」「特定の立場からの憲法観を盛り込んだ日弁連の宣言は、国民に対する影響力を弱めることになる」などという趣旨だった。

思いがけなくも、松本君も発言した。地元会を代表する立場での発言として、満場が注目した。彼は、落ちついた態度で、力強く語った。「この宣言案を弱いとか、不十分とする意見は、世の常識とかけ離れている」「これを自民党案と同様などと言うのは、ためにする議論で児戯に等しい」「日弁連はこの宣言案を満場一致で採択して、世に憲法理念の大切さを訴える責務を果たさねばならない」という内容と記憶している。大きな拍手を得た演説だった。

ああ、松本君。髪の色は変わったが、こと憲法に関する姿勢は、あのときから変わっていないのだと感動を覚えた。その松本君が5月初旬に亡くなったという。冥福を祈るばかり。

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立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言

日本国憲法制定からまもなく60年を迎える。

基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする当連合会は、1997年の人権擁護大会では「国民主権の確立と平和のうちに安全に生きる権利の実現を求める宣言」を行うなど、全国の弁護士会、弁護士とともに、日本国憲法と国際人権規約などを踏まえて人々の基本的人権の擁護に力を尽くしてきた。

ここ数年、政党・新聞社・財界などから憲法改正に向けた意見や草案が発表され、本年に入り衆参両院の憲法調査会から最終報告書が提出され、自由民主党が新憲法草案を公表するなど、憲法改正をめぐる議論がなされている。

そこで、当連合会は、自らの責務として、また進んで国民の負託に応えるべく、本人権擁護大会において、日本国憲法のよって立つ理念と基本原理について研究し、改憲論議を検討した。

日本国憲法の理念および基本原理に関して確認されたのは、以下の3点である。

憲法は、すべての人々が個人として尊重されるために、最高法規として国家権力を制限し、人権保障をはかるという立憲主義の理念を基盤として成立すべきこと。
憲法は、主権が国民に存することを宣言し、人権が保障されることを中心的な原理とすべきこと。
憲法は、戦争が最大の人権侵害であることに照らし、恒久平和主義に立脚すべきこと。

日本国憲法第9条の戦争を放棄し、戦力を保持しないというより徹底した恒久平和主義は、平和への指針として世界に誇りうる先駆的意義を有するものである。

改憲論議の中には、憲法を権力制限規範にとどめず国民の行動規範としようとするもの、憲法改正の発議要件緩和や国民投票を不要とするもの、国民の責任や義務の自覚あるいは公益や公の秩序への協力を憲法に明記し強調しようとするもの、集団的自衛権の行使を認めた上でその範囲を拡大しようとするもの、軍事裁判所の設置を求めるものなどがあり、これらは、日本国憲法の理念や基本原理を後退させることにつながると危惧せざるを得ない。

当連合会は、憲法改正をめぐる議論において、立憲主義の理念が堅持され、国民主権・基本的人権の尊重・恒久平和主義など日本国憲法の基本原理が尊重されることを求めるものであり、21世紀を、日本国憲法前文が謳う「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」が保障される輝かしい人権の世紀とするため、世界の人々と協調して人権擁護の諸活動に取り組む決意である。

以上のとおり、宣言する。

元検察トップ14氏の「検察庁法案反対意見書」に励まされる。

本日(5月15日)元検察トップ14氏が連名で、法務大臣宛に提出した話題の意見書。下記URLで全文が読める。
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200515002893.html

一読して驚いた。わくわくするような躍動感あふれる語り口で、感動的ですらある。よく練れた文章で、具体的なエピソードにも富み、とても読みやすい。法の支配や立憲主義、権力分立などの理念を大切にしようという真摯さに溢れている。検察官の政権からの独立を大切なものと訴えながら、検察独善とならぬよう戒めてもいる。これは素晴らしい。

とは言え、かなりの長文である。まずは、私の抜粋(4パラグラフ)から、お読みいただくのが、楽だろう。

まずは、結論部分は以下のとおりである。この文書は、形式上14氏が作成した「法務大臣宛意見書」だが、実は全国民に宛てた檄文でもあるのだ。そのような趣旨として、私たちはこの意見書を受けとめなければならないと思う。

 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない
 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

なんという直截で飾らない訴えであろうか。「検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動き」を看過してはならないという。そんなことを許せば、私たちの国家社会は、正しいことが正しく行われる社会ではなくなってしまう。内閣が法案を撤回すればよし、さもなくば「多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出る」べきだと言うのだ。この悲痛な声が、かつて検察幹部だった人たちから発せられているのだ。

今、検察制度に関して、国民の眼前に大きな二つの問題がある。その一つは、黒川検事長定年延長の閣議決定である。この閣議決定について意見書は、法的根拠ないものと断じている。

 この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

そして、もう一つの問題が、黒川検事長定年延長合法化に端を発した検察庁法改正問題である。改正法案の検察官定年延長導入について、意見書はこう言う。

 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長を可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。
 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

 まことに明快で、分かり易い。では、「検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め」ようという法案が、どうして提案されるに至っているのだろうか。その背景事情について、意見書はこう述べている。

 本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)させるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 これも分かり易い。確かに、アベ政権には「朕は国家である」と口にした亡霊が憑依している。立憲主義も、三権分立も、法の支配も、まったく理解していないのだ。意見書は、「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告を発している。この文脈での「法の終わり」は、《黒川検事長の違法留任の放置》と《検察の人事に政治権力介入を許容する仕掛けの定年制導入》である。このアベ政権の法の無視を許せば、いよいよ本格的な「アベの暴政が始まる」ことになりかねない。「検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出る」しかないではないか。
(2020年5月15日)

憲法記念日に訴える ? 「憲法を活かしてこその有効なコロナ対策だ」

例年のごとく、はつなつの風薫る季節に憲法記念日である。しかし、今日吹く風にはコロナの臭気が混じっている。そのコロナ風のおかげで、メーデーも改憲反対大集会も「オンライン集会」となった。

正式な集会名は、「平和といのちと人権を!5.3憲法集会2020」。当初は有明公園での大集会を予定していたが、本日13時からの国会前集会をネット中継することに。主催者の御苦労と無念は察するが、気勢を殺がれること甚だしい。

今年も、憲法の受難を意識しながらの憲法記念日である。現行の日本国憲法を理想の憲法と持ち上げるつもりはさらさらないが、その根幹が人類の叡智の結実であることに疑いはない。天皇教の教典である大日本帝国憲法などとは、比較すべくもない。

本来なら、この根幹を大事にしつつも、より良い憲法を求めて正しい意味での「憲法改正」運動が展開されてしかるべきなのだが、如何せん革新陣営にはその力量に欠ける。保守勢力の「憲法改悪」の策動を阻止する運動を積み重ねて、ようやく日本国民はいま日本国憲法を自らのものとしつつある。

憲法の危機が叫ばれる都度、日本国民は、日本国憲法が想定する主権者として鍛えられてきた。いままた、その危機のさなかにある。考えてみれば、日本国憲法の基本精神は権力者性悪説である。もとより、近代立憲主義が権力を危険視し、危険な権力を規制しようとするものである。権力は、常に腐敗の危険を内包してというだけではなく、腐敗せぬ健全な権力も危険なのだ。

権力者から嫌われ、疎まれ、煙たがれ、何とか「改正」しようとの標的とされる憲法であってこそ、まともな近代憲法として存在価値がある。改悪阻止運動の高揚も必然となる。

治者としての権力と、被治者としての国民とは、常に緊張関係にある。憲法をはさんで、両者は対峙しているのだ。権力は憲法によって与えられた権限を最大限活用し、あわよくば暴走をしてでも国民を押さえ込もうとする。国民は憲法を武器として、危険な権力に対峙し規制しようとする。この対立の関係は永久運動である。

しかも、今権力を握っているのは、政治と行政を私物化し、嘘とごまかしの正真正銘の性悪政権、安倍内閣である。この安倍を権力に押し上げている勢力が、改憲をねらっている。日本国民が、こぞって危険な改憲阻止に立ち上がって当然なのだ。

そして、今や「新型コロナ感染対策」という「緊急事態」にあって、憲法の有効性が攻撃を受けている。もとより、感染症蔓延を阻止するための、合理的な私権の制約はありうることである。しかし、例外的な私権の制約は、合理性が確認された最低限のものでなくてはならず、国民の納得と同意がなくてはならない。また、厳密に時限的な措置でなければならず、事後の検証も不可欠である。これらは、すべて現行「日本国憲法」が当然とするところである。

特措法に基づく緊急事態宣言の効果として行政権力がなし得ることは万能ではなく限定的ではある。しかし、非常時において行政権が立法権の干渉を排し権力を行使して私権を制約し得るという「緊急事態条項」の基本形の具備は明確である。この事態での政府や自治体の暴走に対する警戒を軽視してはならない。

この事態に、「非常の事態なのだから政府の権限を強化すべきだ」「いまは権力批判のときではなく、一致して政府の施策を支持すべきだ」という類いの言論に与してはならない。非常時における国民の同調圧力に迎合してもならない。

考えてもみよ。合理的な「新型コロナ感染対策」が、強権から生まれることはあり得ない。強権の発動は施策の合理性を阻害するものでしかない。明らかに、専門家の知見を含む国民の意見の総意のみが、最も合理的な対策を形作る。そして、常に施策実行の過程は徹底した透明性を確保された検証にさらされなければならない。不十分であれば直ちに変更するためである。最も合理的な施策が、私権を制限することになることはありうる。国民が民主的に参加して合理性を確認した施策であればこそ納得が可能であり、スムーズな実行が可能となる。また、当然のことながら、全体のために個人の利益が犠牲になるときには、適正な補償が必要となる。

「現行憲法の立場でも、十分に新型コロナ蔓延の事態に対処できる」のではない。現行憲法の立場を十分に活かすことによってこそ、新型コロナ蔓延の事態に対処できる「信頼できない政権にお任せしたら、国民の命と家計は取り返しのつかないこととなる」のだ。この事態を改憲へのステップとして利用しようなどとは、見当違いも甚だしい、とんでもないこと。しっかりと眼を見開いて、危険な政権の暴走と、改憲策動に歯止めを掛ける言論が必要である。
2020年の憲法記念日。薫風心地よけれども、風波は高い。
(2020年5月3日)

「緊急事態宣言」とは、かくも危険なものである。

昨日(3月13日)、新型コロナウイルス感染症を適用対象に加える「新型インフルエンザ特措法」の改正法が成立した。3月11日の審議開始からわずか3日間での成立である。内容は、新型コロナを法の適用対象に加えるだけで、ほかの規定は変えなかった。

衆参両院の決議はいずれも全会一致ではなかった。賛成は、自民・公明・維新と、立憲民主・国民民主・社民の共同会派。共産・れいわ・碧水会・沖縄の風が反対。その他の野党の中からも数人の反対・棄権・欠席があったことがせめてもの救い。

どさくさ紛れの火事場泥棒的法改正だが、新型コロナ感染症への適用に関しては、政令で対象期間を来年(2011年)1月31日までと定めた。それまで、緊急事態宣言の発動を阻止しなければならない。

言うまでもないことだが、近代憲法とは、個人の人権を権力の侵害から擁護するために、主権者が与えた権力規制の命令体系である。憲法の命ずるところに従って、権力の行使は人権侵害のないように制約される。ところが、国家緊急の事態においては、その例外がまかり通らねばならないとする考え方がある。その例外を憲法自体に書き込む例もあり、個別の法にそのような例外を設ける例もある。2012年成立の「新型インフルエンザ特措法」は、「緊急事態宣言」時には、そのような「立憲主義の例外」を安易に認める。危険な立法と言わざるを得ない。

大日本帝国憲法には、いわゆる「国家緊急権規程」が満載であった。第14条(戒厳大権)、第8条(緊急勅令)、第31条(非常大権)、第70条(緊急財政処分)などである。条文は以下のとおりである。

第14条(戒厳大権)
1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第8条(緊急勅令)
1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス

第31条(非常大権)
本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ

第70条(緊急財政処分)
1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得

戒厳が宣告されれば、こんなことになる。
戒厳令第十四条 戒厳地境内於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス
但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
第一 集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト
第二 軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルコト
第三 銃砲弾薬兵器火具其他危険ニ渉ル諸物品ヲ所有スル者アル時ハ
之ヲ検査シ時機ニ依リ押収スルコト
第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト
第五 戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルコト
第六 合囲地境内ニ於テハ昼夜ノ別ナク
人民ノ家屋建造物船舶中ニ立入リ検察スルコト
第七 合囲地境内ニ寄宿スル者アル時ハ時機ニ依リ其地ヲ退去セシムルコト

(口語訳)戒厳令が敷かれた地域内では、通常の立法・行政・司法は停止して、司令官が以下の専権をもつ。仮に、これによって誰かに損害が生じても、賠償はしない。
1 不都合な集会や、新聞雑誌広告の発行は停止する
2 軍が必要な諸物品を調査して、その輸出を禁止する
3 銃砲弾薬兵器火具などの危険物の所在を検査して取り上げる
4 郵便電報は開封し船舶や諸物品を検査し陸海の交通路を遮断する
5 やむを得ない場合は、人民の家屋や財産を破壊し焼却する
6 昼夜の別なく人民の住居・建物・船舶に立ち入って検査する
7 必要あれば住民を追い出すこと

関東大震災直後の1923年9月3日の関東戒厳令司令官通知万世一系なにごと以下のとおりである。
(同司令部は、9月2日緊急勅令による「行政戒厳」によって設置されたもの)
一 警視総監及関係地方長官並ニ警察官ノ施行スベキ諸勤務。
1 時勢ニ妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
2 兵器弾薬等其ノ他危険ニ亙ル諸物晶ノ検査押収。
3 出入ノ船舶及諸物晶ノ検査押収。
4 各要所ニ検問所ヲ設ケ
通行人ノ時勢ニ妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機ニ依り水陸ノ通路停止。
5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中ニ立入検察。
6 本命施行地域内ニ寄宿スル者ニ対シ時機ニ依リ地境外退去。
二 関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開緘ス。

また、ヒトラーが政権簒奪の手段としてまず用いたのが、以下のワイマール憲法第48条2項である。
「ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。
この目的のために、大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。

そして、悪名高いナチスドイツの「授権法」(全権委任法)は、わずか全5条だった。これが、ヒトラー独裁の法的根拠となった。
正式名称 「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月23日成立
1.ドイツ国の法律は、ドイツ政府によっても制定されうる
2.ドイツ政府によって制定された法律は、憲法に違反することができる
3.ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。
4.ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
5.本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日までの時限立法である。

日本国憲法には一切の緊急事態条項がない。その理由を制憲国会(第90帝国議会)における政府(担当大臣金森徳次郎)答弁は、こう語っている。

緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法(重宝)ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス、ソコデ若シ国家ノ伸展ノ上ニ実際上差支ヘガナイト云フ見極メガ付クナラバ、斯クノ如キ財政上ノ緊急措置或ハ緊急勅令トカ云フモノハ、ナイコトガ望マシイト思フノデアリマス

「民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス言葉ヲ非常ト云フコトニ藉リテ、其ノ大イナル途ヲ残シテ置キマスナラ、ドンナニ精緻ナル憲法ヲ定メマシテモ、口実ヲ其処ニ入レテ又破壊セラレル虞絶無トハ断言シ難イト思ヒマス、随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、…コトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」

70年余以前の、この日本国憲法制定の初心を、今噛みしめる必要があるだろう。新型インフル特措法改定案に反対した山添拓議員(共産)の、昨日(3月13日)参院本会議での反対討論(要旨)を紹介しておく。

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 新型コロナウイルス感染症に、多くの人が不安を感じています。今求められているのは、感染拡大を防ぎ、検査体制と医療体制をいっそう充実させるとともに、くらしと経済を守る政治責任を果たすことです。ところが政府は、本法案を通すことを最優先にしています。
 特措法の最大の問題は、緊急事態宣言の下で行政に権力を集中させ、広範な権利制限が可能となることです。
 外出自粛の要請が可能とされます。学校や保育所、介護老人保健施設など、多くの人が利用する施設の利用の制限・停止を要請し、指示できるとされます。医療施設建設のために土地や建物を同意なく使用できるとされます。
こうした多岐にわたる措置は、憲法が保障する移動の自由、経済活動の自由、集会の自由や表現の自由などの基本的人権を制約し、くらしと経済に重大な影響を及ぼします。
 特措法は、自由と権利の制限は「必要最小限度」としていますが、その保証はありません。さまざまな措置により市民に生じる経済的な損失について、補償する仕組みもありません。
 幅広い人権制限が発動されれば、市民生活と経済活動に広範な萎縮効果が及びます。
 自由と権利の重大な制約を可能とするにもかかわらず、法律上の歯止めが曖昧です。
都道府県知事にこうした強力な権限をもたせるのが、首相による「緊急事態宣言」です。ところが、その発動要件は法律上不明確です
 「重篤」とは何か、「相当程度高い」とはどの程度か、「まん延」とは何か、これらを誰が、いかなる根拠で判断するのかの定めがありません。科学的根拠について、専門家の意見を踏まえる仕組みがありません。
 「宣言」の発動や解除に際し、国会の承認は求められていません。私権制限を一時的かつ一部とはいえ行政権に集中させるのに、国会の事前承認すら求めないのは重大です。
 さらに「宣言」下では、「指定公共機関」であるNHKに対し首相が「必要な指示をすることができる」とされ、その内容や範囲に限定はありません。これでは、政府にとって都合の悪い事実は報道させないことも可能となり、国民の知る権利を脅かしかねません。
 本法案は、衆議院で3時間、本院でも参考人質疑を含め4時間20分の質疑時間で委員会採決に至り、十分な審議すら行われていません。政府は本日の質疑でも、現状は緊急事態宣言を発する状況ではないとしています。急いで審議・採決を進める必要はありません。
 憲法改定に前のめりの安倍首相の下で、自民党議員が「緊急事態条項を改憲項目に」と発言しています。安倍政権に緊急事態宣言の発動を可能とすることは容認できません。

(2020年3月14日)

新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する緊急声明

お集まりの記者の皆様に、二つのことを申しあげます。
一つは、原理的な問題。いったい今、憲法原則に関わるどのような問題が起きようとしているのかということ。そしてもう一つは、ほかならぬ安倍内閣が手がけようとしているからこその危うさです。安倍内閣に、こんな危険なたくらみをさせてはならない。とんでもないことになってしまうということ。

言うまでもないことですが、近代憲法の最重要のテーマは、人権と権力の対抗関係の調整です。すべての個人に備わる人権こそが憲法上の最高価値です。権力の行使には、人権を侵害せぬよう抑制が求められます。権力は強大にならぬよう分立され、その行使には厳重な手続が課されます。主権者は、権力を生み、同時に権力を規制します。これが、近代立憲主義にほかなりません。

しかし、その例外を強調する考え方があります。「国家緊急権」といわれるものです。確かに権力には人権を侵害せぬよう配慮をすべき義務があることは認めざるを得ない。が、それは飽くまで平時の場合の原則であって、国家存亡の緊急時には例外が認められなくてはならない。国家存亡の緊急事態に、国民の人権への配慮などと悠長なことは言っておられない。平時の憲法秩序を一時停止し、権力に対する制約を解除してこれを強化し、人権に対する制約を許容しなければならない、というのです。

《国家がもつ権力》と《国民個人の人権》とが、対抗関係にあるのですから、権力を強化すれば人権が危うくなります。権力を与る者は、国民の人権を危うくする権力を誇示したいという衝動をもちます。国家の緊急事態には、権力は最大限化するとともに、人権の保障は最小限化されることになりますから、権力者にはたいへん魅力的な事態なのです。

今、目の前にあるのは、感染症の蔓延という災害を理由にした、「緊急事態」の発動です。その要件は限りなく曖昧で、その人権制約の効果には恐るべきものがあります。

「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点を、再確認しなければなりません。

そして、二つ目。安倍政権が特措法を改正して、新型コロナウィルスの蔓延を適用対象とし、緊急事態宣言を行おうとしていることです。

2012年4月の自民党憲法改正草案に、詳細な緊急事態条項の構想が、条文化されています。民主主義と人権にとって死活的な内容と言って過言ではない代物。おそらく、これが、安倍政権の本音だと思います。国権の最高機関である国会をないがしろにして内閣が制定する政令で法律に代えることができる、人権の制約は顧慮されません。これを、今やろうとしているのではないか。

安倍晋三とは、国政を私物化しようという人物。安倍内閣とは、嘘とごまかし、文書の破棄・改竄を厭わない政権。決して国民に対する説明責任を果たそうとはしません。このような人物、このような政権に、危険な刃物をもたせてはなりません。それは、国民を傷つけることになる。

真に有効な感染症対策をしょうとするなら、なによりも専門知を結集して現状を正確に認識して科学的な検証に耐える対策を建てるとともに、これを国民に十分に説明して、その納得を得ることです。場当たりな素人判断で事態を悪化させ、緊急事態宣言の条件を作ろうなど、もってのほかと言わねばなりません。

そのような視点から、この声明に目をお通しください。

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新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する緊急声明

新型コロナウイルスの感染拡大が深刻さを増すなか、安倍政権は現行の「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下「特措法」と略記)の対象に新型コロナウイルス感染症を追加する法改正(ただし、2年間の時限措置とする)を9日からの週内にも成立させようと急いでいる。
しかしながら、特措法には緊急事態に関わる特別な仕組みが用意されており、そこでは、内閣総理大臣の緊急事態宣言のもとで行政権への権力の集中、市民の自由と人権の幅広い制限など、日本国憲法を支える立憲主義の根幹が脅かされかねない危惧がある。
そのような観点から、法律家、法律研究者たる私たちは今回の法改正案にはもちろん、現行特措法の枠内での新型コロナウイルス感染症を理由とする緊急事態宣言の発動にも、反対する。あわせて、喫緊に求められる必要な対策についても提起したい。

1 緊急事態下で脅かされる民主主義と人権
特措法では、緊急事態下での行政権の強化と市民の人権制限は、政府対策本部長である内閣総理大臣が「緊急事態宣言」を発する(特措法32条1項。以下、法律名は省略)ことによって可能となり、実施の期間は2年までとされるものの、1年の延長も認められている(同条2項、3項、4項)。
問題なのは、絶大な法的効果をもたらすにもかかわらず、要件が明確でないことである。条文では新型インフルエンザ等の「全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがあるもの」という抽象的であいまいな要件が示されるだけで、具体的なことは政令に委ねてしまっている。また、緊急事態宣言の発動や解除について、内閣総理大臣はそれを国会に報告するだけでよく(同条1項、5項)、国会の事前はおろか事後の承認も必要とされていない。これでは、国会による行政への民主的チェックは骨抜きになり、政府や内閣総理大臣の専断、独裁に道を開きかねず、民主主義と立憲主義は危うくなってしまう。
緊急事態宣言のもとで、行政権はどこまで強められ、市民の自由と人権はどこまで制限されることになるのか。特措法では、内閣総理大臣が緊急事態を宣言すると、都道府県知事に規制権限が与えられるが、その対象となる事項が広範に列挙されている。例えば、知事は、生活の維持に必要な場合を除きみだりに外出しないことや感染の防止に必要な協力を住民に要請することができる(45条1項)。また、知事は、必要があると認めるときは、学校、社会福祉施設、興行場など多数の者が利用する施設について、その使用を制限し、停止するよう、施設の管理者に要請し、指示することができる。また施設を使用した催物の開催を制限し、停止するよう催物の開催者に要請し、指示することができる(同条2項、3項)。
外出については、自粛の要請にとどまるとはいえ、憲法によって保障された移動の自由(憲法22条1項)を制限するものである。また、多数の者が利用する学校等の施設の使用の制限・停止や施設を使用する催物の開催の制限・停止という規制は、施設や催物が幅広く対象となり、しかも要請にとどまらず指示という形での規制も加え、強制の度合いがさらに強められており、憲法上とりわけ重要な人権として保障される集会の自由や表現の自由(憲法21条1項)が侵害されかねない。
また、特措法の下で、NHKは、他の公共的機関や公益的事業法人とならんで指定公共機関とされ(2条6号など。民放等の他の報道機関も政令で追加される危険がある)、新型インフルエンザ等対策に関し内閣総理大臣の総合調整に服すだけでなく(20条1項)、緊急事態宣言下では、総合調整に基づく措置が実施されない場合でも、内閣総理大臣の必要な指示を受けることとされている(33条1項)。これでは、報道機関に権力からの独立と報道の自由が確保されず、市民も必要で十分な情報を得られず、その知る権利も満たせないことになる。
さらに、知事は、臨時の医療施設開設のため、所有者等の同意を得て、必要な土地、建物等を使用することができるが、一定の場合には同意を得ないで強制的に使用することができる(49条1項、2項)。これも私権の重大な侵害であり、憲法が保障する財産権にも深く関わる措置である(憲法29条)。

2 政府による対策の失敗と緊急事態法制頼りへの疑問
政府は、特措法改正の趣旨を、新型コロナウイルス感染症の「流行を早期に終息させるために、徹底した対策を講じていく必要がある」(改正法案の概要)と説明している。
しかし、求められる有効な対策という点から振りかえれば、中国の感染地域からの人の流れをより早く止め、ダイヤモンドプリンセス号での感染を最小限にとどめ、より広範なウイルス検査の早期実施と実施体制の早期確立が必要であった。にもかかわらず、国内外のメディアからも厳しく批判されてきたように、初期対応の遅れとともに、必要な実施がなされない一方で、専門家会議の議論を踏まえて決定されたはずの「基本方針」にもなかった大規模イベントの開催自粛要請、それにつづく全国の小中高校、特別支援学校に対する一律の休校要請、さらに中国と韓国からの入国制限などが、いずれも専門家の意見を聞かず、十分な準備も十分な根拠の説明もないまま唐突に発動されることによって、混乱に拍車をかけてきた。
本来必要な対策を取らないまま過ごしてきて、この段階に至って緊急事態法制の導入を言い出し、それに頼ることは感染の抑止、拡大防止と具体的にどうつながるのか、大いに疑問である。根拠も薄弱なまま、政府の強権化が進み、市民の自由や人権が制限され、民主主義や立憲主義の体制が脅かされることにならないか、との危惧がぬぐえない。現に、特措法改正を超えて、この際、今回の問題を奇貨として憲法に緊急事態条項を新設しようとする改憲の動きさえ自民党や一部野党のなかにみられることも看過しがたい。

3 特措法改正ではなく真に有効な対策をこそ
今回の特措法改正はあまりにも重大な問題が多く、一週間の内に審議して成立させるなどということは、拙速のそしりをまぬかれない。私たちは、政府に対し今回の法改正の撤回とともに、特措法そのものについても根本的な再検討を求めたい。加えて、次のことを急ぐべきである。すなわち症状が重症化するまでウイルス検査をさせないという誤った政策を転換し、現行感染症法によって十分対応できる検査の拡大、感染状況の正確な把握とその情報公開、感染者に対する迅速確実な治療体制の構築、マスクなどの必要物資の管理と普及である。感染リスクの高い満員通勤電車の解消、テレワークを可能にする国による休業補償、とりわけ中小企業への支援、経済的な打撃を受けている事業者に対するつなぎ融資や不安定雇用の下にある人々や高齢者、障がい者など生活への支援を必要とする人々への手厚いサポートが必要である。そのため緊急にして大胆な財政措置が喫緊である。
強権的な緊急事態宣言の実施は、真実を隠蔽し、政府への建設的な批判の障壁となること必至である。一層の闇を招き寄せてはならない。

2020年3月9日

梓澤和幸 (弁護士)
右崎正博 (獨協大学名誉教授)
宇都宮健児 (弁護士、元日弁連会長)
海渡雄一 (弁護士)
北村 栄 (弁護士)
阪口徳雄 (弁護士)
澤藤統一郎 (弁護士)
田島泰彦 (早稲田大学非常勤講師、元上智大学教授)
水島朝穂 (早稲田大学教授)
森 英樹 (名古屋大学名誉教授)  (*あいうえお順)

(2020年3月9日)

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