大韓航空前副社長の趙顕娥(チョ・ヒョナ)被告の「ナッツリターン事件」に興味津々である。もちろん、韓国財閥事情への関心ではなく、国は違えど同じようなことはよく起こるものだという身近な事件に引きつけての興味である。「ナッツ姫の横暴ぶり」は、権力や金力を笠に着た傲慢で品性低劣な人間に往々にしてある振るまい。ところで、世の中には、なんの権力も権限もないのに、自分には人に命令する権限があると勘違いで思い込む、愚かで横暴なはた迷惑な人物もいる。こちらの手合いも始末に悪い。
共同通信など複数のメディアが、韓国紙京郷新聞が起訴状を基に事件を再現した記事を転載している。その中の次の部分が目を惹いた。
「趙被告は乗務員がナッツを袋のまま出すと『ひざまずいてマニュアルを確認しろ』と激怒。客室サービス責任者に『この飛行機をすぐ止めなさい。私は飛ばさない』と迫った。責任者が『既に滑走路に向かっており、止められません』と答えると『関係ない。私に盾突くの?』と激高した。」
「私に楯突くの?」という言葉は、聞き捨てできない。かつての都知事選宇都宮選対本部長上原公子(元国立市長)が2012年12月11日午後9時過ぎに、四谷三丁目の選対事務所に私の息子を呼びつけて投げつけた「この人、私の言うことが聞けないんだって」という言葉と瓜二つ、いやナッツ二つなのだ。
私の息子は宇都宮けんじ候補の随行員として、およそ1か月間献身的によく働いていた。選挙戦をあと4日残すだけの最終盤のこの時、ナッツ上原はなんの理由も告げずにいきなりその任務を取り上げたのだ。もうひとりの随行員だった誠実な女性ボランティアともどもに。秘密のうちに二人の後任が準備されていた。
このことへの抗議に対して、ナッツ上原は、熊谷伸一郎選対事務局長(岩波書店社員)と顔を見合わせて冷笑したうえ、「この人、私の言うことが聞けないんだって」というナッツフレーズを吐いたのだ。
その傲慢さ、人格の尊厳への配慮のなさ、品性の低劣さにおいて、日韓両国のナッツ姫は甲乙つけがたい。もっとも、韓国のナッツ姫は一応は労働契約上の労務指揮権を持っている。リターン命令はその労務指揮権の「権限の逸脱・濫用」にあることになる。一方、日本のナッツ上原は、革新陣営の選挙活動にボランティアで集う仲間に対して調整役の責務を負う立場にあって、なんの権力も権限も持つわけではない。ナッツ上原は、より民主的でなければならない立場にありながら、その理念に反する点で際立っており、見方によっては韓国のナッツ姫よりもタチが悪い。
このような事件が起きたときに、関係者の人権感覚と対応能力が浮き彫りになる。宇都宮健児君は任務外しについて上原や熊谷との共犯者ではなかった。しかし、この横暴を知りながら事後に黙認したことにおいて、人権感覚・対応能力ともにまったく評価に値する人物ではないことを露呈して、私は友人としての袂を分かつことにした。
なお、私の息子は、ナッツ上原に対して、「対等な関係のボランティア同士。権力関係にはない。あなたに私に対する命令の権限があるはずはない。ましてやまったく不合理な命令は聞けない」と抗議している。
ところが、その後公開された選挙運動収支報告書において、上原が「労務者」として報酬10万円を受領していると届け出ていることが判明した。「労務者」とは「選挙運動員」の指示を受けて機械的な業務のみに従事する立場。ボランティアとして一銭の報酬も受けとっていない選挙運動員である私の息子と対等ではない。ところが、この局面では労務者上原が、選挙運動員に権力的な指示を押しつけている。あり得ないはなしなのだ。
もっとも、選対本部長が「労務者」であろうはずはない。この10万円は選対本部長としてのお手盛り選挙運動報酬と考えざるをえず、明らかな公選法違反に当たるものである。
この私の指摘に「反論」した三弁護士(中山・海渡・田中)による「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」(1014年1月5日付)の中身が、真摯さを欠いたお粗末極まるものだった。およそ「法的見解」などと言える代物ではない。もっと真剣に事実に肉薄し、自陣営のカネの動きの不透明さについて明確化する努力と謝罪をしていれば、自浄能力の存在を証明して、「三弁護士」の権威を貶めることもなかったと思われるが、結局は「何らの違法性もないものである」「記載ミスを訂正すれば済む問題である」とごまかしの論理に終始した。繰り返される保守陣営の公選法違反が摘出される度に聞かされてきたことと同じセリフしか聞くことができなかった。
当ブロクでの公選法違反の指摘に、宇都宮陣営は報告書の当該記載の抹消をしただけでこと終われりとしている。もちろんそれでは、添付書類と辻褄が合わないことになる。いまだに、放置されたままだ。その他にも、宇都宮選挙には多々問題があった。詳細は、このプログに「宇都宮君、立候補はおやめなさい」シリーズとして33回連続して掲載したので、是非ご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=6
そのほか、選対内部で随行員二人の任務外しに加担した労務屋同然の働きをした人物が何人もいる。何が正しいかではなく、なりふり構わず何が何でも組織防衛を優先する、「革新」を標榜する人々の常軌を逸した行動パターンを思い知った。さらに驚くべきことに、このブラック選対で労務屋同然のダーティーな働きをした人々が、「ブラック企業大賞」選考企画の中心にいたようだ。深刻なブラックジョーク現象というほかはない。
聞くところによると、「今年、宇都宮健児が大きく運動を展開させる注目のテーマ」を「選挙制度」としているそうだ。ちょっと信じがたい。仮に宇都宮君が選挙制度について語るのであれば、何よりも都知事選でのカネの動きの不透明さや、明らかに合理性あるルールに違反したことへの反省と謝罪から始めなければならない。それなくして、彼が公職選挙法の不備や不当について語る資格はない。
ところで、韓国のナッツ姫。現地の報道では、大弁護団が話題となっているようだ。「趙前副社長が雇った弁護団は数十億ウォン(数億円)を受け取っているはず」「執行猶予を勝ち取れば、弁護団は大富豪になるだろう」などと揶揄されている。
ナッツと弁護士。日韓両国において切っても切れない縁のようだが、けっして美しい縁ではない。腐ったナッツに集まるハエと悪口を言われるような関係となってはならない。
(2015年1月31日)
昔、一揆に起ち上がった農民を「立百姓」と呼んだ。起てない者が「寝百姓」だ。前者には畏敬の念が込められており、後者にはやや軽侮のニュアンスがある。しかし、現実に自分の問題となったときに、起つことの決意はなまなかなものではない。
だからこそ、理不尽を見て見ぬふりをすることなく、すっくと起つ百姓が尊敬された。理不尽をなす者は、領主だったり、代官だったり、その手下の者であった。また、権力と結託する豪商でもあった。今も昔も、権力と経済力が理不尽権化であり、闘わざるを得ない敵対者なのだ。
岩手沿岸の浜の一揆は本日第3次申請となり、参加者数は113名となった。100人を超える漁民が、困難な中で「起ち上がった」ことに敬意を表したい。
第3次の申請に至って、私自身にようやく問題が見えてきた。その申請書の冒頭部分「申請の趣旨」と「申請の概要と理念」を掲載するのでお読み願いたい。そして、地方行政が、一般住民のためではなく、実は地元のボス支配と癒着し、地元のボスの利益を擁護するためのものになっていること、その変革の闘いが必要であることをご理解いただきたい。
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漁業許可申請書
2015年1月30日
岩手県知事 達増拓也殿
別紙申請人目録記載12名代理人
弁 護 士 澤 藤 統 一 郎
第1 申請の趣旨
1 各申請人について、別紙申請人目録に記載の各「申請する漁業許可の内容」のとおりの許可を求める。
2 なお、本件各申請はいずれも「さけ漁」の許可を求めるものであるが、求める許可の内容について、自主的に漁獲量の制限を設け、年間漁獲量の上限を10トンとする許可を求めるものである。
3 また、本許可申請は、2014年9月30日付でなされた38名の同内容の申請を第1次申請とし、同年11月4日付でなされた63名による第2次申請に続く第3次申請にあたるものである。
累計113名が、求める許可の内容(固定式刺し網によるさけ漁の許可)とその理由を同じくするもので、行政においてもこれを一体のものとして取り扱われたい。
第2 本件申請の概要と理念
1 岩手県三陸沿岸の漁業においては、秋から冬を盛漁期とする「さけ」を基幹魚種とする。ところが、一般漁民には基幹魚種であるさけを採捕することが禁じられている。信じがたいことだが、一般漁民の不満を押さえつけての非民主的で不合理極まる水産行政が行われてきた。
岩手県沿岸のさけ漁は、もっぱら大規模な定置網漁の事業者に独占されており、零細な一般漁民は刑罰をもってさけ漁を禁止されている。事実上、大規模定置網事業者保護のための水産行政であり、浜の有力者の利益を確保するために刑罰による威嚇が用意されているのである。一方に大規模なさけの定置網漁で巨額の利益を得る者がある反面、零細漁民は漁業での生計を維持しがたく、後継者も確保しがたい深刻な現実がある。
宮城県においても青森県においても、当然のこととして一般漁民が小規模な固定式刺し網によるさけ漁の許可を得て漁業を営んでいる。県境を越えて岩手県に入った途端、突然に「さけ漁禁止」「違反は処罰」となるのである。
本件申請は、このような不合理な水産行政に反旗を翻す「浜の一揆」の心意気をもっての権利主張である。
2 定置網漁業を営む大規模事業者は2種類ある。そのひとつは漁業協同組合であり、他のひとつは漁業界の有力者の単独経営体である。
漁業協同組合における民主的運営は必ずしも徹底されておらず、漁協の利益が組合員の利益に還元されない憾みを遺す現実がある。こと、「さけ漁」に関しては、一部の漁協と漁民の利益は鋭く相反している。
また、漁協以外の定置網事業者は例外なく業界の有力者であって、その不当な利益をむさぼる制度として定着し、行政がこの不合理を是正することなく、むしろ業界の有力者と癒着し庇護する体制を確立して今日に至っている。
申請人らは、いずれも岩手県三陸沿岸において小型漁船を使用して小規模漁業に従事する者であって、予てから岩手県三陸沿岸海域においては一般漁民に「さけ」の採捕が禁止されていることを不合理とし、岩手県の水産行政に不信と不満の念を募らせてきたが、「さけ漁禁止」の不合理は、3・11震災・津波の被害からの復興が遅々として進まない現在、いよいよ耐えがたいものとなって、本件申請に至った。
本来は、岩手県の水産行政や、県政が、漁業の振興と漁村集落の維持を図るため大規模定置網事業者のさけ採捕独占を問題としなければならない。具体的には大規模事業者によるさけ漁の上限を画して、小型漁船漁業を営む一般漁民の生計がなり立つようにな水産行政を積極的に展開しなければならない。県にその姿勢がないばかりに、申請人らは、県行政や県政と闘って、自らの権利を実現することを余儀なくされているのである。
岩手県の水産行政は三陸沿岸漁民全体の利益のためにこそある。大規模定置網漁事業者にさけ漁の利益独占を保障するための行政であってはならない。
3 本来、海域の水産資源は誰にも独占の権利はない。わけても沿岸海域における漁場の水産資源は沿岸漁民全ての共有財産である。
漁業法の理念からも、漁は合理的な制約には服するものの原則は自由である。制約の合理性の内容は「民主化」「実質的な公平」でなくてはならない。しかし、三陸沿岸の漁民は生活に困窮しながら、目の前の漁場において一尾のさけも獲ってはならないとされているのである。しかも、他方では巻き網漁船や底引き網漁で混穫されたさけは、雑魚扱いされて事実上黙認されているなど、強者に甘く弱者にはこの上なく厳しい事態の不合理は、誰の目にも明らかというべきである。
都道府県の水産行政には、漁業法にもとづいて負託された漁業許可の権限があるものとされている。しかし、漁民の許可申請に対しては、飽くまで許可をなすべきことが原則であって、不許可は格別の事情ある場合の例外に限られる。
申請人らは、3・11震災・津波被災後の生活苦の中で、さけ漁禁止行政の継続は、生業の維持と生活再建を破壊するものとの認識のもと、小規模漁民において可能な固定式刺し網による「さけ」漁の許可を求めるものである。
4 申請人らの本件許可申請を拒否する合理的理由はおよそ考えがたい。
(1) 仮に不許可処分がありうるとすれば、岩手県漁業調整規則23条1項3号に該当して、本件申請の許可が「漁業調整」あるいは「水産資源の保護培養」に抵触して、不許可がやむを得ないというものとなろうが、いずれもその失当が明らかである。
(2) 「漁業調整」とは、必ずしも明確な概念ではないが、「広義には、漁場を総合的に利用し、漁業生産力の民主的発展を図るとの漁業法の目的を表す。狭義には、漁場の使用に関する紛争の防止又は解決を図ること」と説かれる。いずれにせよ、「漁業調整」それ自身は無内容であって、行政がその無内容を恣意的に不許可理由として援用することは許されない。
もっとも、有限な水産資源利用における漁業者間の利益配分の合理的な調整が必要であることは当然である。本件申請に許可を与えることが、漁業者間の利益配分の合理的な調整に著しく反するとなれば「漁業調整の必要からの不許可」はあり得るであろう。
しかし、本件においてかような事情はあり得ない。漁業者間の利益配分の合理的な調整とは、「漁業の民主化を図ることを目的とする」という漁業法1条の目的規定に則って考察しなければならない。「公平」が一般的な行政の理念であるが、「漁業の民主化を図る」ことを目的として掲げる漁業行政の理念は「実質的公平」でなくてはならない。強者と弱者との形式的平等が実質的な公平に反することが往々にして問題となる。実質的な公平とは、強者の利益を抑えても弱者の生存を確保するということにほかならない。ところが、岩手県のさけ漁に関しては現状はまったく逆である。経済的強者の利益を確保するために、弱者を切り捨てているのだ。大規模定置網事業者の利益を擁護するために零細な一般漁民のさけ漁を禁止するごときが「漁業調整」の名において許されてはならない。
今申請人らが求めているものは、経済的弱者の側からの、形式的平等にもおよばないささやかな要求なのである。
(3) 「水産資源の保護培養」の必要性は、概念としては分かり易い。乱獲によって水産資源が枯渇するような事態は避けなければならない。漁業者だけでなく広く消費者の不利益ともなるからである。仮に本件許可申請が三陸沿岸におけるさけという魚種の乱獲を招き、資源の枯渇に至る恐れがあるとすれば、不許可も考えられないではない。
しかし、本件申請への許可がそのような資源の枯渇をもたらす恐れはなく、漁業の持続性確保への不安を考える余地はない。本件は零細漁民の固定式刺し網漁の許可を求めるもので、その漁業規模が極めて小さいことと、網を設置している時間が短いことから、回遊魚であるさけの回帰への影響が極めて小さい。大規模にさけの回遊路を遮断し、常時網を設置したままにしておく定置網漁とは到底比較にならない。
しかも、本件各申請は漁獲高の上限を自主的に設定して許可を求めるものである。各漁業者に漁獲量を割当て、各人の漁獲量の上限を設けるべき(IQ制)ことについては、これまで申請人らが組織的に県に提言してきたところである。
申請人らは、自らに漁獲量の制限を設けることによって、本申請をIQ制導入の契機としたいと願うものである。いずれは定置網漁における漁獲量制限が実現して、真正な意味での「行政主導による漁業調整」が実現することを期待し、まず自らからに漁獲量の制限を課すものである。
県の水産行政が一般漁民の言に耳を傾け、真に持続的で公平な、漁民のための水産行政に転じるよう願ってやまない。…以下略
(2015年1月30日)
私は、「東京君が代訴訟」弁護団の弁護士として、文科省でこの問題を担当しておられる11人の皆様に一言申しあげたい。
先ほどから、国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」という、あなた方の説明の文言をめぐっての応酬が膠着状態に陥っている。教育現場にいる人たちから見れば、「実際のところ内心にまで立ち入って強制しているではないか」「言っていることとやっていることがまったく違う」と言いたいのだ。私もそのとおりだと思う。
これから私が申しあげることは少し違う角度からのものだ。あなた方は、「国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、あくまで教育指導上の課題だ」という。しかし、それはあなた方の独善的な立場においての主観的な言い分に過ぎない。問題は、あなた方がどのような意図や趣旨で指導をおこなっているかではない。国旗や国歌を強制される児童・生徒およびその保護者の側がどのようにとらえるかなのだ。精神的自由にかかわる人権侵害という微妙な問題の有無を考えるにあたって、学校や教委、国は加害者としての当事者だ。生徒が、被害者としてもう一方の当事者となっている。加害者側の意図や趣旨がどうであるかは、実はさしたる問題ではない。あくまで思想・良心・信仰を傷つけられたとする被害者の側に立って問題を考えなければならない。これは、いじめの問題と同じ構造だ。いじめの有無は何よりもまず、いじめられたとする被害者の声に真摯に耳を傾けなければならない。今、あなた方はいじめの加害者側なのだ。自分の意図や趣旨だけを語って済む問題ではない。
よく知られているとおり、神戸高専剣道授業拒否事件においては、最高裁はこのことを明らかにした。確かに、剣道の授業を受けさせようという学校側に、一般論として生徒の思想・良心・信仰を抑圧する意図や趣旨があったとは考えられるところではない。しかし、ある信仰を持つ生徒の側に立てば、問題はまったく違って見える。信仰に反する行為の強制として到底受け入れがたいのだ。学校側の意図や趣旨がどのようなものであろうとも、強制される生徒側の思想・良心・信仰が傷つけられることは珍しくなくあるのだ。
この事件で最高裁は、剣道の授業を強制した学校の行為を、生徒の信仰と相容れない行為を強制したものとして違法だと認めた。「日の丸・君が代」の強制もまったく同じ構造で問題を考えることができる。しかも、最高裁は、「日の丸・君が代」の強制が間接的にもせよ強制される者の思想・良心を侵害するものであることまでは認めたのだ。もっとも、最高裁は司法消極主義の立場から、違憲の判断にまでは踏み込まなかった。懲戒が実害のない戒告を超えて減給以上の現実的な不利益を伴う処分となれば過酷に失するとして違法、取り消すというにとどまっている。これは、ひとえに行政権に対する司法の遠慮でしかない。
文科省が、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」と言っても、児童生徒の側から見れば、内心にまで立ち入っての強制として、思想・良心・信仰を侵害されることは大いにあり得ることなのだ。被害者がいじめを訴え、加害者が「これはいじめではない。愛のムチによる指導だ」と開き直っているのと変りがない。あなた方の説明は、児童・生徒の立場に立ってものを見る姿勢が見られない。おそよ配慮に欠けているとの批判を免れない。
あなた方が、本当に「内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」というのなら、そしてそのことを信用して欲しいというのなら、児童生徒やその保護者に対して、「日の丸・君が代」に対する起立・斉唱はけっして強制ではないことを周知徹底すべきではないか。これが最低限必要な配慮だ。
憲法における至高の価値は、一人ひとりの個人の尊厳なのだということを児童生徒にも保護者にも周知しなければならない。個人が不本意にも国旗国歌への敬意表明を強制される事態があってはならないと国も真剣に考えていることを明らかにしなければならない。個人の尊厳の方が、国旗国歌が象徴する国よりも、あるいは社会よりも大切なのだということを教え、実践しなければならない。私たちの社会は、一人ひとりの思想・良心・信仰の自由を保障している。しかも、国家による強制からの自由を保障しているのだ。だから、けっして国家への忠誠や敬意表明が強制されてはならない。国家を象徴する国旗や国歌への敬意表明が強制されることはあり得ない、と徹底して教えなくてはならない。国旗国歌を儀式に持ち込むとしても、「強制をしようとする趣旨でない」というからには、誤解を招かぬよう、そこまで周知徹底しなければ論理は貫徹しない。
自由主義社会とは、全体主義や国家主義、軍国主義とは違うのだ。戦前の天皇制日本やナチスドイツなどのように、国旗国歌に対する敬礼によって国家への忠誠や団結を誓うような国にしてはならない。
是非とも、個人の尊厳や自由の尊さを教育の根幹に据えていただきたい。そのためにはまず、国旗国歌強制は国の立場ではないことを明確にすることだ。一部の自治体が行っている強制は、本来あってはならない違憲違法なことと明らかにしていただきたい。
本日(1月29日)午後参議院議員会館で行われた、「『日の丸・君が代』強制に反対し、国連勧告実現を求める院内集会」での、文科省の出席者11人に対しての私の発言。もっとも、私の発言予定はなく、とっさのことだったので、こんなに整理された内容ではなかったが、趣旨は変わらない。
(2015年1月29日)
先日、「文京の教育」が通算499号だとご紹介した。本日配達された「靖国・天皇制問題情報センター通信」が、これまた通算499号。これも本日届いた「法と民主主義」が495号。「青年法律家」が527号。マスメディアに情報の独占を許してはいない。内容も充実している。ミニコミ誌、それぞれに大健闘ではないか。
「センター通信」の巻頭言となっている横田耕一さん(九大名誉教授・憲法)の「偏見録」が連載45回目。今回は「安倍内閣の改憲暴走を許した衆院選挙」という標題。護憲に徹した立場からの選挙総括の典型と言えるだろう。いつものとおり、誰にも遠慮しない筆致が小気味よい。毎回貴重な問題提起として敬意をもって拝読しているが、今回は多少の異論がないでもない。
「昨14年12月の衆議院総選挙では安倍自民党が大勝した。投票率が低かったこととか、その中での自民党の獲得票数は全有権者の過半数にもはるかに及ばないなどということで選挙の結果がもっている意味を矮小化してはならない。」
この点は、私と強調点こそことなるものの、意見が異なるというほどではない。
「私見では、このたびの選挙の最大の課題は、多数にものをいわせて強引に特定秘密保護法を制定したり、閣議決定等で9条の意義を骨抜きにしようとしたり、マスメディアを牛耳りネット右翼なみのデマ・暴論を振りまいて国民意識を一元化しようとしている安倍内閣・自民党の暴走を止めることであった。」
まったく同感である。横田さんがこう言うと迫力がある。
「選挙は世論調査ではないから、小選挙区においては、自分の考えと一番近いからといって当選の可能性の無い野党候補者に投票し死票を累積することは無意味であり、極端に言えば自分の考えと違う候補者であってもその者に投票し、一人でも自民党議員を減らすことが必要であった。」
一般論としては、そのとおりなのだろう。しかし、現実にはなかなか難しい選択となる。横田意見を純粋に貫けば、非自民票を第2党に集中せよということになり、選挙区選挙での第3党以下の出番はないことになる。しかも、非自民、必ずしも反自民ではない。第三極という積極的自民補完勢力もある。小選挙区制を所与の前提にしている立論に、違和感を持たざるを得ない。
「その観点からすれば、野党間で候補者が乱立競合して自民党候補が当選することとなる結果は最悪であった(状況は異なるが、反原発が主要矛盾であったはずのこの前の東京都知事選挙でも、党利が優先したようにみえる)。」
国政選挙での選挙協力の困難さを知りつつの苦言として受け止めるべきだろう。今回選挙の沖縄現象を全国規模で実現できていれば、国政を揺るがせたはず。そのような提言と承っておきたい。なお、かっこ書きの内容にはまったく異論がない。「党利が優先したようにみえる」の「党」とは共産党のことで、宇都宮候補に指示して細川護煕氏を反原発統一知事候補に押し立てることができる立場にあったことを前提にしての「党利優先」というものの見方だ。党利優先ではなく、都民優先あるいは反原発政策優先であれば、その後の政界の景色が相当に変わったものとなっていただろうにとは思う。
「したがって、特定の反対政党の議員数が多少増えたということで喜んでも、結果的に自民党が大勝しては、自己満足はあっても、大局的には何の意味もないだろう。」
いや、これは手厳しい。「特定の反対政党」とは共産党のことだろうが、「多少増えたところで、大局的には何の意味もない」とはニベもない切り捨て。もう少し婉曲なものの言い方もあろうに、とは思う。
「『アベノミクス推進』の影でひっそりと公約に記されていた、『戦後レジームからの脱却』の象徴である『憲法改正』の動きが加速化するのは確実である。もとより、現実に改憲が国民に諮られるには数年かかるであろうが、改憲の発議に必要な各議院の3分の2以上の多数は、9条改正を含めて、ほぼ達成しつつあり、さしあたりは次の参議院選挙が決定的意味を持つだろう。その際、朝日・毎日両新聞のアンケート調査によれば、このたび当選した衆議院議員の83?84%が改憲に賛意を示していることは軽視されるべきではない。もとより、これらの議員の改憲目的は9条に限られないが(天皇制度廃止のための改憲論者はまずいないが)、改憲を行うことに抵抗感がなくなったことは明らかである。しかも、維新の党はもとより、民主党の相当部分も『自民党憲法改正草案』とほぼ同様の改憲構想をもっていることを忘れてはならない。」
以上は、極めて重要な指摘。忍びよる改憲というだけではなく、既に改憲派に乗っ取られた国会と化しているという指摘なのだ。そのことを踏まえての必死さが要求されるし、戦略や戦術も必要になるのだという。
さらに、横田さんの指摘は、これにとどまらずに続いている。国会が改憲派に乗っ取られた状態にあるだけではない。改憲を先取りした違憲状態が既成事実化しつつあるというのだ。
「より重要な点は、改憲の目的とするところは、憲法を変えるまでもなく既成事実として実現しているか、実現されようとしており、改憲はそれら既成事実の追認に過ぎないことである。安倍内閣ないしその亜流内閣が継続するかぎり、『憲法改正草案』が目指す改憲案のモデルになるであろうが、例えばこの案の『天皇』の章に書かれていること(元首化、公的行為、国旗・国歌、元号等)は既に憲法運用の中で実現しており、改憲はそれらを憲法上明確にするに過ぎない。また、9条については、現在のところは公明党の反対もあって限定的にとどまっているが(やがて全面展開が予想される)、集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障剥度のもとでの武力行使も、改憲を待つまでもなく、解釈変更によって進められている。」
横田さんは、「したがって、単に『閣議決定による改憲反対』といった手続きを問題にするだけでは、9条改憲は阻止できない」と言い、「安倍内閣・自民党が暴走し、それに歯止めがかかりそうもない今日、日本国憲法は、もはや狼少年の言い草ではなく、戦後最大のピンチを迎えている」と結論する。
なるほど、このように事態を見れば、「共産党が21議席を得たなどは、大局的には大した意味がない」ことに思えてくる。しかし、横田さんの見方では改憲阻止の展望が見えてこない。国会の議席数の分布だけに着目すれば絶望せざるを得ないが、改憲の最終判断は国民に委ねられている。今回選挙の投票行動に表れた国民の意識状況の分析なしには改憲阻止の展望は拓けてこない。
国民の意識状況は、議席数よりは得票数の分布に表れる。投票者の動機や意識状況などの分析を経ずしての絶望は早いのではないか。「戦後最大のピンチを迎えている」とのシビアな認識は必要としても、小選挙区制のマジックを捨象しての国民の意識状況や投票行動はけっして絶望に値するものではない。
今号の巻頭言の最後は、「9条改悪どころではない根本問題のありかについては、稿を改めて述べてみたい」となっている。このテーマは、来月号に続くという予告。通算500号の「センター通信」を楽しみにしたい。
(2015年1月28日)
本日の朝刊に掲載された小さな記事。朝には見落として、夕方に気が付いた。世間の耳目を引かないようだが、私にはいささかの関心がある。
「慰安婦報道:『朝日新聞は名誉毀損』8749人が賠償提訴」というベタの見出し。
「朝日新聞の従軍慰安婦報道によって『日本国民の名誉と信用が毀損された』などとして、渡部昇一・上智大名誉教授ら8749人が26日、同社を相手取り、1人1万円の賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した。訴状によると、原告側が問題視しているのは、朝日新聞が1982〜94年に掲載した『戦時中に韓国で慰安婦狩りをした』とする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事など13本。『裏付け取材をしない虚構の報道。読者におわびするばかりで、国民の名誉、信用を回復するために国際社会に向けて努力をしようとしない』などと訴えている。
朝日新聞社広報部の話 訴状をよく読んで対応を検討する。」(毎日)
世の中は狭いようで広い。こんな訴訟の原告団に加わる「名誉教授」や、こんな提訴を引き受ける弁護士もいるのだ。この奇訴にいささかの興味を感じて、訴状の内容を読みたいものとネットを検索したが、アップされていない。靖国関連の集団訴訟などとの大きな違いだ。
それでも、「『日本国民の名誉と信用が毀損された』として、朝日を相手取り、賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した」というメディアの要約が信じがたくて、当事者の言い分で確かめたいと関連サイトを検索してみた。
「頑張れ日本!全国行動委員会」という運動体が提訴の委任状を集めており、姉妹組織「朝日新聞を糺す国民会議」が訴訟の運動主体のようでもある。これらを手がかりに検索を重ねても訴状を見ることができないだけでなく、請求原因の要旨すら詳らかにされていない。法的な構成の如何にはまったく関心なく、原告の数だけが問題とされている様子なのだ。勝訴判決を得ようという本気さはまったく感じられない。
ようやく3人で結成されている弁護団のインタビュー動画にたどり着いた。3人の弁護士が語ってはいるが、その大半は「訴訟委任状の住所氏名は読めるようにきちんと書いてください」「郵便番号をお忘れなく」「収入印紙は不要です」「委任の日付は空欄にしてもかまいません」などと細かいことには熱心だが、請求原因の構成については語るところがない。「朝日がいかに国益を損なったか」という政治論だけを口にしている。ここにも、真面目な提訴という雰囲気はない。
永山英樹という右派のライターが、次のように提訴記者会見での原告団の言い分をまとめている。おそらくは、訴状を読んでのことと思われる。
「日本の官憲による慰安婦の強制連行という朝日の宣伝により、旧軍将兵、そして国民は集団強姦犯人、あるいはその子孫という汚名を着せられ、人格権、名誉権が著しく損なわれた。日本の国家、国民の国際的評価は著しく低下して世界から言われなき非難を浴び続けている。たしかに虚報を巡って朝日は「読者」に対し反省と謝罪の意は表明した。しかし捏造情報で迷惑を被ったのは「読者」だけではないのである。国際社会における国家、国民の名誉回復の努力も一切していない。そこで朝日新聞全国版で謝罪に一面広告を掲載することと、原告に対する一万円の慰謝料の支払いを求めるのがこの訴訟なのだ」
どうやらこれがすべてのようだ。これでは、そもそも裁判の体をなしていないといわざるを得ない。
この提訴は、訴権濫用により訴えそのものが却下される可能性が極めて高い。訴訟の土俵に上げてはもらえないということだ。訴え提起が民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き信義則に反する場合には、訴権濫用として、訴えを却下する判決は散見される。このような信義則に反する場合としては、?訴え提起において、提訴者が実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするのでなく、相手方当事者を被告の立場に立たせることにより訴訟上または訴訟外において有形・無形の不利益・負担を与えるなどの不当な目的を有すること、および?提訴者の主張する権利または法律関係が、事実的・法律的根拠を欠き権利保護の必要性が乏しい、ことが挙げられている。
今回の集団による対朝日提訴は、まさしくこの要件に該当するであろう。
さらに、提訴が訴権の濫用に当たることは、却下の要件となるだけでなく、提訴自体が朝日に対する不法行為を構成する可能性もある。そのときは原告すべてに不法行為による損害賠償責任が生じることになる。通常8749人に損害賠償の提訴をすることは事務の繁雑さと郵送料の負担とで現実性がないが、本件では反訴なのだから好都合だ。反訴状は正副各1通だけで済むし、送達費用はかからない。当事者目録は原告側が作ったものをそのまま利用すればよい。朝日にとってはお誂え向きなのだ。
朝日を被告としたこの訴訟は不法行為構成であろうが、何よりも各原告に、「権利または法律上保護される利益の侵害」がなくてはならない。「国益の侵害」や「日本国民の名誉と信用が毀損された」では、そもそも訴えの利益を欠くことになって、私的な権利救済制度としての民事訴訟に馴染まないことになる。この点で訴訟要件論をクリヤーできたとしても、法律上保護される利益の侵害がないとして棄却されることは目に見えているといってよい。
さらに誰もが疑問に思うはずの、時効(3年)と除斥期間(20年)について、原告側はどのようにクリヤーしようとしているのか、とりわけ除斥期間は被告の援用の必要はない。訴状に何らかの記載が必要だし、原告を募集するについて重要な説明事項でもある。しかし、この点についてはなんの説明もないようだ。
この訴訟は新手のスラップだ。勝訴判決によって権利救済を考えているのではない。ひたすらに朝日に悪罵を投げつける舞台つくりのためだけの提訴ではないか。本来の民事訴訟制度は、こんな提訴を想定していない。
朝日は、早期結審を目指すだけでなく、提訴自体を不法行為とする反訴をもって対抗すべきではないか。負けて元々の提訴で、相手を困らせてやれ、という訴訟戦術の横行を許してはならないと思う。
(2015年1月27日)
憲法第52条は「国会の常会は、毎年1回これを召集する」と定めている。今日が、戦後70年となるこの年の常会(通常国会)開会の日。多事多難な中で、波乱含みの第189通常国会が始まった。会期は6月24日までの150日間である。
今日は、例のごとく参議院本会議場で天皇出席の開会式が行われる。大日本帝国時代の貴族院での開会式と少しも変わらない。天皇は主権者の代表を見下ろす「お席」から「お言葉」を述べる。そのあと、衆議院議長が「お席」まで階段を登り、おことばを受け取った後、後ろ向きに階段を降りるのだという。天皇に背を向けてはならないからというばかばかしさ。蟹のヨコ歩きを拒否した松本治一郎の気概をこそ見習うべきではないか。議席を増やして存在感を増した共産党議員団はこの奇妙な開会式をボイコットしているはず。それでこその共産党。ものわかりよく、開会式に出席して行儀よく「お言葉」を聞くようになってはならない。
いつも通常国会の前半は、予算審議がメインで経済政策の論議が中心になるのだが、何しろ今年は戦後70年である。歴史認識問題や集団的自衛権行使、安保法制をめぐっての憲法論議が焦点となるだろう。
この通常国会終了後の8月には、村山談話(戦後50年)・小泉談話(60年)につづく、戦後70年の安倍談話が出る模様だ。今国会の歴史認識や憲法論議がその談話に収斂するものと思われる。当時の小泉純一郎をずいぶんな「変人」と思ったが、小泉談話を見る限り常識的な内容となっている。安倍晋三は「変人」の枠には収まらない。既に「危(険)人」である。小泉の支持は保守層にあったが、安倍の支持は右翼層で、危険ラインを踏みはずしている。
本日の朝刊各紙が、昨日のNHK番組での「戦後70年安倍談話」の内容についての安倍自身のコメントを紹介している。
安倍は、「(村山談話や小泉談話など)今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍内閣としてどう考えているかという観点から談話を出したい」と述べ、過去の植民地支配と侵略を謝罪した戦後50年の村山富市首相談話などの文言は、そのままでは使わないことを明言したと受け止められている。
「『植民地支配と侵略』『痛切な反省』『心からのお詫び』などのキーワードを同じように使うか問われると、『そういうことではない』と明言した」(毎日)とのことである。
「キーワード」とは、まさしく文章を読み解くための「キー」となる重要語である。「キーポイント」は和製語だそうだが、まさしく「キーポイントとなることば」。新明解なら気の利いた語釈があろうかと引いてみたが、「問題の解決や文の意味の解明にかぎとなる重要語(句)」と、広辞苑と大差ない。
いずれにせよ、両談話の文意を決定している重要語は、「植民地支配」「侵略」「反省」「お詫び」である。これらのキーワードを用いることなく、談話の趣旨を踏襲するなど不可能ではないか。また、わざわざそのようなアクロバティックな文章を練り上げる必要もまったくない。
憲法前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とある。まさしく、日本国憲法は、歴史認識の所産である。侵略戦争と植民地支配への痛切な反省と謝罪を土台に、不再戦の誓約をしているのだ。
しかし、被侵略国、被植民地国の国民からは、常に日本の為政者に対して、反省と謝罪の自覚の真摯さが問われ続けてきた。ファシズム同盟国であったドイツが徹底した反省と謝罪によって、近隣諸国からの信頼を勝ち得たことと好対照なのである。
さて、安倍談話。「近隣諸国への植民地支配と侵略」「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」「その痛切な反省」「心からのお詫びの気持」などの言葉を使わずして、いったい村山談話の何を継承できるというのだろうか。
民主党の岡田克也代表は「植民地支配や侵略を『細々としたこと』と言った首相の発言は許せない。過去を認め、戦後70年日本がやったことを伝え、未来志向と、この三つがそろわなければならない。過去の反省が飛んでは、戦後70年の歩みを否定することになりかねない」と批判した。
公明党の山口那津男代表は同じ番組で、「キーワードは極めて大きな意味を持っている。それを尊重して意味が伝わるものにしなければならない」と語り、表現の変更に慎重な姿勢を示した。(毎日)
岡田民主党も、山口公明党も、安倍自民に較べれば、すこぶる立派ではないか。最近「安倍話法」のずるさを感じる。原発問題で原子力村に住む人たちの「東大話法」が話題となっているが、安倍話法はこれとよく似ている。誰かが教え込んでいるのだろう。
安倍話法の特徴として、「聞かれたことにはけっしてまともに答えない」。「はぐらかして、自分にとって都合のよいことだけをまくし立てる」。それから、「社会的な理解とはまったく別の意味で言葉を使う」、などがある。
安倍晋三流の「平和」も「積極的平和」も、「安倍話法」の典型。憲法が定める国際協調主義や武力によらない平和との接点がない。武力を整備し、集団的自衛権行使を容認し、武器輸出三原則を骨抜きにし、停戦前の機雷の除去もできるようにし、A級戦犯にも額づいて近隣諸国を挑発することが、「平和を築くための積極的な方法」だというのだ。
この安倍の姿勢での戦後70周年談話とは、背筋が寒くなるほど恐ろしい。その前段階としての今国会の議論における安倍発言のロジックを、じっくりと注視し見極めよう。権力者に対する監視こそ主権者の任務なのだから。
(2015年1月26日)
危惧していたことが現実になった。イスラム国に拘束されていた湯川遥菜氏が殺害された模様だ。まことにおぞましく傷ましい限り。
ところで、安倍首相は「人命第一に私の陣頭指揮の下、政府全体として全力を尽くしていく」と語ったではないか。72時間+αの間に、「私」はいかなる陣頭指揮をし、政府全体としてはどのように「全力を尽くした」のか。
問題が起きてから、政府は湯川・後藤両氏がイスラム国に拘束されており、身代金交渉もあったと知っていたことが明らかになった。たとえば、毎日の1月21日記事が、「昨年11月に『イスラム国』側から後藤さんの家族に約10億円の身代金を要求するメールが届いていたことが分かった。政府関係者が明らかにした」と伝えている。要求金額はその後20億円となったようだが、政府は、昨年11月以来、後藤氏の家族から相談を受けていた。身柄拘束だけでなく、身代金要求の事実も事前に把握していたのだ。
にもかかわらず、首相はわざわざ中東まで出かけて、イスラム国の名を出して関係国への支援を約束して見せた。最初から、人質見殺しの意図があったのではないかと疑問視せざるを得ない。到底、「想定外」などと言い訳できる事態ではないのだ。
直接の問題となったのは、1月17日に、安倍首相がカイロでした政策スピーチである。その内容は、たとえば産経新聞ではこう報道されている。
「(安倍首相は)中東地域の平和と安定に向け、人道支援やインフラ整備など非軍事分野へ新たに25億ドル(約3000億円)相当の支援を行うと表明した。内訳としては、…イスラム教スンニ派過激派組織『イスラム国』対策としてイラクやレバノンなどに、2億ドル(約240億円)の支援を行うとした」
安倍スピーチでの2億ドル支出は、しっかりと「イスラム国対策」と位置づけられたものなのだ。イスラム国側から見れば、人道支援であろうと経済支援てあろうと、自国を敵視してのカネによる介入と映ることにもなろう。「8000キロのかなたからの十字軍参加」と言われる口実を与えたのだ。
このような安倍内閣の外交感覚を疑わざるを得ない。日本人人質が捕らわれていることを知りながら、敢えて挑発をしたと受けとられてもやむを得ないではないか。こんな杜撰な感覚や危機管理能力で、到底集団的自衛権行使などの判断を任せられるはずもない。
このような事態を招いたことの責任だけではなく、ことが起きてからの対応の責任も大きい。問題の72時間の政府の動きはわれわれにはまったく見えない。無為無策だったのではないか。もしかしたら、人命第一ではなく、米英と協調して断固テロと闘って米英ら有志連合からの信頼を得ることに優先順位があったのではないか。
人命救助のためには政府を信頼して任せるしかない、当面は安倍批判の時ではない、多くの人がそう考えていた。しかし、湯川氏が殺害された今、人命救出への政府の本気度は極めて疑わしい。残る後藤健二氏救出のためにも安倍批判が必要ではないか。
1月22日のハッサン中田孝氏(元同志社大学教授・イスラム法学者)緊急記者会見では、この点は次のように語られている。
「今回の事件は安倍総理の中東歴訪のタイミングで起きた。総理自身はこの訪問が地域の安定につながると考えていたようだが、残念ながらバランスが悪いと思う。訪問国が、エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナとすべてイスラエルに関係する国に限定されている。イスラエルと国交をもっている国自体がほとんどないことを実感していないのではないか。そういう訪問国の選択をしている時点で、日本はアメリカとイスラエルの手先とみなされ、難民支援・人道支援としては理解されがたい。現在、シリアからの難民は300万人といわれ、その半数以上がトルコにいる。そのトルコが支援対象から外れているということもおかしい。」
「日本人2人がイスラム国に拘束されていることは政府も把握していた。それなのにわざわざイスラム国だけをとりあげて、対イスラム国政策への支援をするという発言は不用意といわざるをえない。中東の安定に寄与するという発言は理解できるが、中東の安定が失われているのはイスラム国が出現する前からのこと。」(1月23日Blog「みずき」から引用)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-category-32.html
1月23日、後藤さんの母・石堂順子さんが、「息子救って」と声を上げた。その訴えの最後に、「健二はイスラム国の敵ではない」「日本は戦争をしないと憲法9条に誓った国です。70年間戦争をしていません」と訴えている。
「殺す」「殺される」「捕虜」などは、戦争を前提としての論理である。日本が真に平和国家としての真摯さを貫いていれば、そして平和国家としての国際的認知を獲得していれば、今回のような事態は起こらなかったのではないか。これまで、中東では日本は米やヨーロッパ諸国とは異なる平和志向の国と見なされてきたと聞いてきた。その評判に陰りが見えてきているのではないか。大戦後に不再戦の誓約を遵守してきたはずの日本のイメージを、安倍政権が破壊しつつあるのではないか。だから、アメリカやイスラエルの手先として金をばらまいているというイメージを与えてしまったのてはないか。
憲法をないがしろにしてでも、好戦的な米英やイスラエルとの友好国として国際的な認知を得たいという安倍政権の姿勢が、今回の傷ましい事態を招いたものと批判されなければならない。
残念ながら、われわれの力量が十分ではない。憲法嫌いで武力大好きな安倍政権の姿勢をもって、日本国内が一色になっているととらえられているのだ。多くの日本国民が、「WE ARE NOT ABE!」と声を上げなければならない。さらにその先の「アベ NO THANK YOU!」を旗印にしたい。
後藤健二氏を見殺しにしてはならない。何をなすべきかは、今回は具体化されている。安倍政権が本気になってヨルダンの政府と国民に、訴えなければならない。安倍政権に本気で国民の生命第一の姿勢を貫かせるために、いま、安倍政権への批判が必要だと思う。
(2015年1月25日)
ピケティ「21世紀の資本」をパラパラめくっている。文京区立図書館への借入申込み予約順位は、現在357人中の72番である。この浩瀚な書物の予約の順番を待っていたのでは、今年中に読むことは絶対に無理。来年中も危うい。
手許にあるこの本は、知人が貸してくれたもの。とても読んだなどとはいえないが、ページをめくって、なんとなく「まあ、こんなものか」とつぶやいている。
この本を手にとると袴に「r>g」と大書されている。rとは資本の収益率、gとは所得の成長率を表す。一握りの者の私的所有となっている「資本」の増加と、社会全体の「所得」の増加との比較がテーマだ。だから、「r>gという法則がある」というのなら、分かり易い。資本の所有者が社会全体の成長に抜きん出て富を増やしていくことになり、格差は拡がることになる。
ところが、この不等式の下に、「資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続可能な格差を生み出す」と書かれている。ピケティの頭が悪いのか翻訳が下手なのか、この命題は意味をとりにくい。というか、こんな不完全な日本語では読み手が理解できるはずはない。「r>g」は、結論ではなく仮定条件とされている。この仮定が真ならば、「資本主義は格差を生み出す」というのが結論のようだ。しかし、「自動的に」も、「恣意的で持続可能な格差」も何を言っているのか、さっぱりわからない。
本文28ページに次の記載がある。
「もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば、富の分配で格差が増大するリスクは大いに高まる」
「この根本的な不等式をr>gと書こう(rは資本の平均年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ)。…この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ」
こうして、この書物はこの命題の証明のためのものという体裁なのだ。
わかりにくいのは、r>gを、資本主義が固有に持つ法則とはしていないことだ。
「私が提案するモデルでは、格差拡大は永続的ではないし、富の配分の将来の方向性としてあり得るいくつかの可能性のひとつでしかない」と言っているのだから。
r>gは、資本主義生成以来今日までのありとあらゆる時代と地域の「現象」として語られる。r>gは、統計的に語られ、その差は大きくも小さくもなってきたが、歴史的には常になり立つものであったという。しかし、その必然性や法則性が語られることはない。
マルクスが、資本主義の「本質」として剰余価値を語り、これを資本主義社会における格差・貧困の源泉とした鮮やかさはない。ピケティ流を実証主義あるいは統計学的手法というのだろうか。天体運航の観察からニュートンが到達したごとき、原理や法則の提示はない。「傾向」が語られるだけなのだ。
脚気の原因についての陸海軍論争を彷彿とさせる。吉村昭が「白い航跡」で描くところの海軍軍医高木兼寛は、英国留学中にヨーロッパに脚気がないことを見聞する。そのことをヒントに、日本海軍将兵の脚気対策ととして、強い反対を押し切って艦内の兵食を白米から麦飯に切り替えて脚気を撲滅した。機序や学理についてはわからないままに、「現象」を「統計的に」把握しての対処に成功したのだ。一方、当時世界に冠たるドイツ医学を修めた陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は、海軍の方策を「学理の伴わない謬論」と斥け、結局日露戦争の陸戦では脚気の兵の大量死をもたらす。
おそらくピケティ流は、海軍高木兼寛派に親和的なのだ。マルクスやニュートンの切れ味はなくとも、陸軍森林太郎派の間違いは犯していないのだろう。パラパラとめくった限りでのピケティ論である。
なお、既に旧聞に属するが、ピケティはフランス政府からの叙勲を辞退した。私には、それだけで好感をもつに十分である。
仏政府は勲章レジオン・ドヌールの授章を今月1日付の官報で発表した。しかし、ピケティは受章辞退を表明して、フランスで大きな話題となった。「だれが名誉に値するかを決めるのは政府の役割ではない」というのが辞退の弁。オランド政権の経済政策への批判も込められているという。
我が国では、天皇制の残滓として、国事行為・公的行為・皇室外交・宮中祭祀などが重要であるが、国民生活への浸透においては、「日の丸・君が代」、元号、休日、国体などとならんで、叙勲や褒賞が大きな意味を持つ。どういうわけか、勲章を欲しい人たちはたくさんいるのだ。そのさもしさが、天皇制の付け入る隙となる。
富の格差の拡大を語るピケティが喜んで勲章を受けていたのでは、学者としての姿勢のホンモノ度が疑われることになるだろう。皇帝や国王のいない共和国でのことだが、批判の対象とする政府からの叙勲を辞退したとは小気味がよい。もう少し時間の余裕ができたら読み通して、ピケティの姿勢も学んでみたいものと思う。
(2015年1月24日)
「文京の教育」というミニコミ紙が毎月届く。発行人は元家庭裁判所調査官の浅川道雄さん、発行所は文京教育懇談会となっている。タブロイド版で4頁。いかにも地域に密着した手作り感のある紙面構成。教員中心ではなく地域住民が編集主体。保育・幼稚園から地域の子育て、小中高のあり方まで、テーマは広い。まったく元号を使わないところも私のお気に入りである。
その「文京の教育」の2015年新春号が届いた。なんと、巻を重ねて499号である。次号が500号の記念紙となるという。1970年創刊で、営々と45年間続けて到達することになる500号。この積み重ねはたいしたものだ。
実は、日民協の機関誌「法と民主主義」も今月(15年1月)に495号を発行する。もうすぐ500号なのだ。いま、その記念号のプランを練っているところ。継続が難事であること、それだけに称賛に値するものであることが身に沁みてよくわかる。
発行人の浅川さんが、創刊号の想い出を語っている。1970年暮れに、ガリ版刷り2頁での発行だったという。そのとき以来、題字は東京教育大学教授であった和歌森太郎氏の筆になるものを使っているそうだ。
家永教科書訴訟の一審杉本判決が1970年7月だから、教科書運動の盛り上がりがこのミニコミ誌を産み、以来営々45年も地域の教育運動が受け継がれているのだ。この間、無償の編集や発送の作業担当者が途絶えなかったということだ。たいしたことではないか。
私も執筆を依頼されて何度か寄稿した。自分の寄稿記事を読むと、固くてくどくて七面倒で少しも面白くない。それに較べて、「文京の教育」の他の記事は、軽やかで読みやすい。
なかでも、優れた教育実践の記事が面白い。いま、「元小学校教諭 山崎隆夫」さんが、「心はずむ学びの世界」を連載中、今回が第23回。国語の時間も、理科の時間も、算数の時間も、文字どおり「心はずむ」教師と生徒との交流が描かれている。子どもたちの瞳の輝き、胸の躍りが目に見えるような授業の面白さ。「小学校の先生ってなんて素敵なお仕事だろう」「私もこんな授業を受けてみたかった」と思わせる。
戦争体験記あり、被爆体験記もある。福島の被災地の子どもたちについてのレポートもあり、教育の市場化の問題点や地教行法「改正」問題もある。封切り映画の紹介もなかなかのもの。そして、吉田典裕さん(出版労連教科書対策部長)のような、その世界での著名人の寄稿もある。「今、教科書を考える」シリーズの第7回。今号は「実は大問題の教科書価格」というタイトルの記事。この内容を抜粋してお伝えしたい。
「教科書問題」と聞くと、ほとんどの方は「検定」や「採択」を連想するでしょう。しかし「価格」も「教科書問題」の大きな位置を占めるのです。価格問題はきわめて政治的な性格をもっています。
教科書は民間の発行者がつくり、文部科学省がそれを買い取り、その価格は文部科学省が決めます。文部科学省は、教科書は公共料金的なものなので、できるだけ安い方がよいのだとして、教科書価格を低く抑えてきました。
実は、そのねらいは教科書の種類を減らして国による統制をしやすくすることです。1963年6月衆議院文教委員会で暴露された、「文部省(当時)が自民党文教部会に渡した資料」の内容は、「国定教科書にすると莫大な費用が掛かる、それよりも制度の規制を強化して縛り上げれば、1教科あたり5種程度に絞れるので、安上がりに統制できる」というものでした。
「無償措置法」が導入された1963年以降、教科書の種類は激減してきました。たとえば1965年と2015年用の小学校教科書発行者教(=教科書の種類)を比べると、
国語 8→5
書写 7→6
算数 9→6
社会 6→4
理科 9→6
音楽 8→2
図工 9→2
家庭 8→2
と、軒並み減っています。自民党政府と文部科学省のねらいは、残念ながら実現したといわねばなりません。
私はまったく運営に関係していない。宣伝を頼まれたこともない。が、応援したくなる紙面なのだ。このようなミニコミ紙、このような教育運動が民主々義を支え、未来の希望につながるのではないかと思う。年10回刊の月刊紙、年間購読料は郵送料込みで2500円。「ご連絡は下記へFAXでお願いします」とある。心ある人に、ぜひ、ご購読をお薦めしたい。
03?3690?7440(内田)
(2015年1月23日)
「日本人人質事件」には胸が痛む。この事態を招いた責任の所在については言いたいことは山ほどあるが、今は人質の解放が最優先の課題であろう。
安倍首相は、1月20日事件発覚直後のイスラエルでの内外記者会見で「今後とも人命第一に私の陣頭指揮の下、政府全体として全力を尽くしていく考えだ。国際社会は断固としてテロに屈せずに対応していく必要がある。」と語った。今なお、これが政府の方針に変更はない。
安倍首相といえども「人命第一」と口にせざるを得ない。このスローガンを外せば安倍内閣は国民の支持を失うことになるからだ。国民のための政府であり、政府は在外邦人の救出に法的な義務を負う(外務省設置法第4条9号)以上当然といえば当然なのだが、問題はその本気度である。
誰が考えても、「人質の人命第一」と、「断固としてテロに屈せずに対応する」とは両立し得ない。矛盾している両原則をならべただけでは、無策・無内容というしかない。
たとえば、典型的には本日の東京新聞社説である。
一方で、「『イスラム国』とみられるグループが日本人二人の身代金を要求し、殺害を警告した。許し難い脅迫だが、人命尊重が第一だ。日本政府は、二人の救出に向けた糸口を、全力で探ってほしい」と言いつつ、他方「不当な要求に応じれば、日本は脅しに弱い国とみなされ、同様の事件が繰り返されかねない。それでは『イスラム国』側の思うつぼだ。」ともいう。
そして、結論が「手段も時間も限られた難しい交渉だが、二人の解放に向けて、政府はあらゆる可能性を追求すべきである。」ということになる。「2策を足して2で割る」ですらない。「漫然と二兎を追え」では、なんの方針を定めたことにもならず、具体策は出てこない。
「テロに屈せず」は表面的な建前としておいて、水面下で「人命救出」の実を取る交渉を展開することになるだろうというのが常識的なとらえ方だ。人質の救出に失敗すれば、世論は安倍政権の失態を強く批判することになるだろうから。
しかし、「あらゆる外交ルートを最大限活用し、二人の解放に手段を尽くす」という政権のことばの繰りかえしは次第に空疎な印象となっている。どうやら成算はなさそうな模様。もしかしたら、「テロに屈せず」の方がホンネで、「人命第一」は表面的なタテマエに過ぎないのではないか。人質の救出に失敗したところで、相手が悪いのだという弁明で世論の批判を躱せると思ってのことなのかも知れない。
局面を打開する現実的な具体策がないものか。具体的な方針の提言者はいないか。ネットを探してみた。こういうときに、情報提供サイトとしての、Blog「みずき」が頼りになる。はたして、ヒントが見つかった。「みずき」の下記ブログ。
「緊急! 日本人ムスリム・ジャーナリストの常岡浩介さんの声明―「日本人人質」救出のために」
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-category-32.html
そこに紹介されていた日本外国人特派員協会での中田考氏(元同志社大学客員教授)の記者会見(1月22日10時?)を見た。
https://www.youtube.com/watch?v=N60G4SEhTLs
非常に説得力のあるものだった。なお、下記で全文が読める。
http://blogos.com/article/104005/
最も印象に残るのは、ISを狂気の集団とは見ない姿勢である。
氏と交友のあるイスラム国の「友人」を「教養も高い、正直で、信頼できる人たち」という。そして、「これまでも人道援助、経済援助の名のもとに日本も国際社会も、多くの援助を行ってきたが、それが的確な人に届いていなかった。そういった因果が今回の事件の根源にある」「他の軍閥や民兵集団と違って、イスラム国が支持を広げた大きな理由は、彼らが援助金、援助物資を公正に人々に分配した。その実績があるからだ」という。
氏は、ISの「友人」にアラビア語で話しかける。
「日本の人々に対して、イスラム国が考えていることを説明し、こちらから新たな提案を行いたい。しかし、72時間というのは、それをするには短すぎます。もう少し待っていただきたい。もし交渉ができるようであれば、私自身、行く用意があります。」
氏の提案の内容はこういうことだ。
「赤新月社はイスラム国の支配下の地域でも人道活動を続けている。トルコ政府に仲介役にはいってもらって、日本政府の難民支援2億ドルを、赤新月社に厳格に難民支援、人道支援として使ってもらう。これなら、日本の名目も立つし、ISも納得するはずだ。これが最も合理的で、どちらの側にも受け入れられるギリギリの選択ではないか」
また、具体的な支援は食料や暖房器具など、民生以外に転用できないもののかたちですべきだと、よく練られた案であることが窺える。数少ない極めて貴重なパイプ役ではないか。
「みずき」には、「ハッサン中田先生を三顧の礼で官邸に迎えること。できることはすべてすること」という池田香代子さんのツィッターが紹介されている。
常岡・中田ライン以外に、今われわれが目にするパイプはない。政府が、同氏らに接触するか否か。本気度の試金石であろう。
(2015年1月22日)