田母神俊雄が逮捕された。一瞬驚いたが、所詮は政権とは無縁の人。甘利逮捕ならビッグニュースだが、田母神逮捕ではさしたるニュースバリューはないのかも知れない。それでも、田母神を応援した石原慎太郎や百田尚樹らの言を聞きたいところ。
政治的影響はともかく、政治とカネ、選挙とカネについての貴重な教訓を提供する事件だ。選挙運動は無償だ。これにカネを支払えば犯罪となるとの警鐘として心しなければならない。似たような話は身近にいくつもある。
田母神逮捕の被疑事実は公職選挙法の運動員買収である。条文を抜粋すれば以下のとおり。
第221条(買収)「次に掲げる行為をした者は、3年(候補者がした場合は4年)以下の懲役若しくは禁錮又は50万円(100万円)以下の罰金に処する。
一 当選を得、若しくは得しめ又は得しめない目的をもって、選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益の供与、その供与の申込み若しくは約束をしたとき。」
公選法上の買収には2種類ある。選挙人買収と運動員買収である。選挙人(有権者)を買収することは、直接に票をカネで買うことだ。運動員の買収はカネで票を集めること、間接的にカネで票を買うことにほかならない。選挙運動は無償が大原則なのだから、選挙運動員にカネを渡してはならない。カネを渡せば運動員買収罪が成立する。受けとった運動員も処罰対象となる。買収だけでなく供応も同じだ。
田母神の被疑事実は、「都知事選後の14年3月中旬ごろ、東京都内の事務所で、事務を統括し選挙運動をしたことへの報酬として島本順光元事務局長に200万円を支払ったほか、島本元事務局長らと共謀し、同3月中旬?5月上旬、同事務所などで運動員だった5人に対し、投票を呼びかけて練り歩いたことなどに対する報酬として、現金計280万円を供与したと」と報道されている。
候補者であった田母神だけでなく、島本順光元事務局長も逮捕された。島本は、5人の運動員買収について田母神との共犯(共同正犯)とされたほか、自らが田母神から200万円を受領したことが別の独立した犯罪とされている。
選挙運動は、判例において「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為」と定義されている。選挙運動は飽くまで、自発的な意思によって行われるべきもので、報酬はない。選挙運動は無償が原則である。選挙運動者に報酬を支払えば、運動員買収として処罰対象となるのだ。もっとも選挙運動には当たらない純粋な労務の提供や事務作業者に対しては、予め届け出た者に限って決められた範囲の額の対価を支払うことができる。気をつけなければならないのは、たとえ労務者として届出があっても、単純労務の提供の範囲を超えて「選挙運動をした者」となれば報酬を支払ってはならないということだ。
私は、2013年の暮れから14年の1月にかけて、連続33日間「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズを書き続けた。その中で、12年暮れの都知事選における宇都宮陣営の田母神類似問題について、詳細に報告した。
金額の大小の差はあれども、宇都宮選対事務局長と選対本部長とは、田母神陣営と似たことをしている。この報告は、下記のURLでお読みいただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=6
この私の指摘に対して、宇都宮陣営の3人の弁護士が連名で「反論」している。2014年1月5日付(公表は6日)の「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」というもの。公平に見て、駄文の域を出ないものであるが、そのなかに、見過ごせない次の一文がある。
「澤藤氏は、『公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています。』とか『市民選挙における選挙カンパとは、選対事務局員への報酬へのカンパではないはずと思うのです。』との一方的な思い込みに基づく論理で、あたかも選対事務局員に公選法違反の報酬が支払われたかのごとき主張をなしているのである。これらの支払いは単純労働への対価の支払であり、何らの違法性もないものである。」
この文章の非論理はともかく、これを普通の読み方をすれば、「公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています」という私の指摘を、「一方的な思い込みに基づく論理」として非難するものにほかならない。これは、恐るべき認識というほかはない。この文章が書かれたのは、2014年都知事選の直前のこと。14年都知事選での宇都宮陣営は、「選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています」という指摘を真剣に受け止めることなく、選挙戦に突入したと考えるほかはない。この3弁護士の「論理」で選挙運動をしたのでは、田母神陣営と同様の違法を犯した可能性を否定し得ない。
革新陣営の選挙に参集する選挙運動者に対しては、飽くまで「選挙運動は無償(ボランティア)でするもの」と確認し強調しなければならない。これを「一方的な思い込みに基づく論理」などと揶揄するようでは、田母神陣営の感覚と変わるところがない。14年選挙についての違法は可能性しか指摘できないが、12年選挙に選対事務局長や選対本部長の違法があったことは、既述のとおりである。
このような感覚だから、12年選挙における宇都宮選対の打ち上げの「会食費」が政治資金収支報告書に計上されたり、宴席で突然に「労務者報酬」が配られたりするようなことになる。このようなやり方で、善意の選挙運動参加者を違法行為に巻き込んだ選対事務局長の責任はとりわけ大きい。
その他の反論は、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその17」をお読みいただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=1834
あらためて当時のことを思い出す。今回の田母神逮捕は、私の運動員買収の指摘が杞憂でなかったことを裏付けるもの。再度しっかりと確認しておきたい。選挙運動は飽くまで無償でやることなのだ、と。
(2016年4月14日)
西川公也農相の政治献金問題がおさまりつかず辞任にまで発展した。これに安倍首相の「ニッキョーソはどうした!」ヤジ事件のおまけまでついて、政権への震度は思った以上に大きくなりつつある。
これまで何度も聞かされた言葉が繰り返された。「法的には問題ないが道義的責任を感じてカネは直ぐに返還した」「あくまで法的に問題はないが、審議の遅滞を招いては申し訳ないので辞任することにした」。要するに、「カネを返せば問題なかろう」「些細なミス、訂正すれば済むことだ」「やめて責任を取ったのだからこれで終わりだ」。終わりのはずを蒸し返し執拗に追求するのは、些細なことを大袈裟にしようという悪意あってのこと、という開き直りが政権の側にある。
しかし、既視感はここまで。今回は、世論もメデイアも野党も、この「カネを返したから、訂正したから、辞めたから、一件落着」という手法に納得しなくなっている。トカゲのシッポを切っての曖昧な解決を許さない、という雰囲気が濃厚に感じられる。問題の指摘を続ける野党やメディアへのバッシングも鳴りをひそめている。
本日(2月24日)の各紙夕刊に「首相の任命責任、国会で追及へ」「野党首相出席要求」「衆院予算委が空転」の大見出し。野党各党の国対委員長が国会内では、「西川氏辞任の経緯や、首相の任命責任をただす考えで一致した」と報じられている。何が起こったのかを徹底して明らかにし、問題点を整理して、不祥事の再発防止策を具体化する。刑事的制裁が必要であればしかるべき処分をし、制度の不備は改善し、責任の内容と程度とを明確にして適正な世論の批判を可能とする。そのような対応がなされそうな雰囲気である。
今朝の朝刊6紙(朝・毎・読・東京・日経・産経)の社説がこの問題を取り上げている。世間の耳目を集める問題では、おおよそ「朝・毎・東京」対「読売・産経」の対立となり、日経がその狭間でのどっちつかずという図式になる。ところが今回は違う。産経の姿勢がスッキリしているのだ。少し驚いた。
まず標題をならべてみよう。
朝日「農水相辞任 政権におごりはないか」
毎日「西川農相辞任 政権自体の信用失墜だ」
東京「西川農相辞任 返金で幕引き許されぬ」
産経「西川農水相辞任 改革に水差す疑惑を断て」
日経「農相辞任で政策停滞を招くな」
読売「西川農相辞任 農業改革の体制再建が急務だ」
標題はほぼ内容と符合している。朝日・毎日・東京が、徹底した疑惑の解明を求め、安倍政権の責任を論じている。それぞれ的確に問題点を指摘し、首相の責任の具体化を求める堂々たる内容。読売と日経が明らかに立場を異にし、「切れ目のない政策継続」に重点を置き、安倍政権を擁護してその傷を浅くする役割を演じようとしている。
産経の「改革に水差す疑惑を断て」という標題だけが、「改革の継続」と「疑惑を断て」のどちらに重点が置かれているのかわかりにくい。ところが、その内容は、安倍政権に手厳しい。「改革や農業政策の継続」の必要は殆ど語られていない。普段の安倍晋三応援団の姿勢とはまったく趣を異にしている。この産経の論調は、日経・読売2紙の安倍政権ベッタリ姿勢を際立たせることになっている。これは、一考に値するのではないか。
以下、主要な部分を抜粋する。
「国の補助金を受けた会社から寄付を受けてはならないことなど、政治家としてごく基本的なルールを軽視していた。その結果、職務遂行に支障を来す事態を自ら招いたのであり、辞任は当然だ。安倍晋三首相の任命責任も重い。…閣僚らに厳格な政治資金の管理を求めるのはもとより、『政治とカネ』の透明化へ具体的措置をとるべきだ。
問題視されたのは、日本が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉に参加する直前、砂糖業界の関係団体から西川氏が代表の政党支部に100万円が寄付されたことなどだ。西川氏は自民党TPP対策委員長だった。しかも、業界団体である精糖工業会は国から補助金を受けていた。政治資金規正法は1年間の寄付を禁止しており、別団体からの寄付の形がとられた。こうした行為に対し、脱法的な迂回献金との批判が出るのは当然だろう。同支部は補助金を受けた別の会社からも300万円の寄付を受けた。
首相や西川氏の説明は『献金は違法なものではない』ことを主張するばかりで、不適切さがあったとの認識がうかがえない。砂糖は日本にとってTPPの重要品目であることからも、政策判断が献金でゆがめられていないか、との疑念を招きかねない。
形式的には別の団体が寄付を行っても、実質的に同一の者の寄付とみなされるものは、規制をかける必要が出てくるだろう。脱法的な寄付を封じる措置を、政治資金規正法改正などを通じてとるべきだ。」
おっしゃるとおり。まことにごもっとも、というほかはない。とりわけ、「脱法的な寄付を封じる措置を、政治資金規正法改正などを通じてとるべきだ」には、諸手を挙げて賛成したい。8億円もの巨額の裏金を、明らかに政治資金として政治家に交付しておいて、「献金なら届けなければ違法だが、貸金なら届出を義務づける法律はない」と開き直っている大金持ちがいる。このような「脱法を封じる法改正」を実現すべきは当然ではないか。
各紙の社説を通読して、その全体としての批判精神に意を強くしたが、いくつかコメントしておきたい。
東京新聞は、次のようにいう。
「業界との癒着が疑われる政治献金はそもそも受け取るべきではなく、返金や閣僚辞任での幕引きは許されない。与野党問わず『政治とカネ』をめぐる不信解消に、いま一度、真剣に取り組むべきだ」「カネで政策がねじ曲げられたと疑われては、西川氏も本望ではなかろう」
具体的事例を通して、政治資金規正法の精神を掘り下げようとする論述である。
「業界との癒着が疑われる政治献金は受け取るべきではない」というのは、もちろん正論である。「カネで政策がねじ曲げられてはならない」とする民主主義社会の大原則がある。「業界との癒着が疑われる政治献金」は、「カネで政策がねじ曲げられているのではないか」という疑惑を呼び起こすものである。つまりは、政治の廉潔性や公正性に対する信頼を傷つけるものとして、授受を禁ずべきなのだ。
企業や金持ちから政治家に渡されるそのカネが、現実に廉潔なものか、あるいは政治をねじ曲げる邪悪なものであるかが問題なのではない。国民の政治に対する信頼を傷つける行為として禁止すべきなのだ。「私のカネだけは廉潔なものだから、献金も貸金もなんの問題ない」という理屈は、真の意味で「いくら説明してもわからない」人の言い分でしかない。
なお、「カネで政策がねじ曲げられているのではないか」という疑惑を呼び起こす政治献金は、「業界との具体的な癒着が疑われる政治献金」に限らない。企業や団体、富裕者の献金は、すべからく財界や企業団体の利益となる政治や政策への結びつきをもたらすものとして、政治の廉潔性や公正性に対する社会の信頼を傷つけるものである。献金にせよ、融資にせよ、本来一般的に禁ずべきが本筋であろう。少なくも、上限規制が必要であり、透明性確保のための届出の義務化が必須である。
毎日が、社説の文体としては珍しい次のような一文を載せている。
「『いくら説明をしてもわからない人はわからない』。自ら疑惑を招いての辞任にもかかわらず、まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って記者団に語る西川氏の態度に驚いてしまった。」
私も、自らの体験として、「まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って語る態度」に思い当たる。
2012年12月都知事選における宇都宮候補の選挙運動収支報告書を閲覧して、私は明らかな公選法違反と濃厚な疑惑のいくつかを指摘した。当ブログで33回にわたって連載した「宇都宮君立候補はおやめなさい」シリーズでは、この公選法違反の指摘は大きな比重を占めている。「自らの陣営に法に反する傷がある以上、君には政治の浄化などできるはずもない。だから宇都宮君、立候補はおやめなさい」という文脈でのことである。
この指摘に対して、2014年1月5日付で、宇都宮陣営から「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」なるものが発表された。中山武敏・海渡雄一・田中隆の3弁護士が、まさしく「まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って」の居丈高な内容だった。
同「見解」は、まことに苦しい弁明を重ねた上、「選挙運動費用収支報告書に誤った記載があることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である」と開き直った。3弁護士は、「陣営に違法はなかった」ことを主張するばかりで、自ら資料収集ができる立場にありながら、具体的な説明を避け、資料の提示をすることもなかった。
宇都宮君も、中山・海渡・田中の3弁護士も、もちろん違反の当事者である上原公子選対本部長(元国立市長)も熊谷伸一郎選対事務局長も、今、野党とメディアが政権に求めているとおりに、経過を徹底して明らかにして自浄能力の存在を示し、謝罪すべきである。そのうえで、「2014年1月5日・3弁護士見解」を撤回しなければ、選挙の公正や政治資金規制について語る資格はない。
私は、「保守陣営についてだけ厳格に」というダブルスタンダードを取らない。宇都宮君らが選挙についてどう語るかについてこれからも関心をもち、その言動に対しては保守陣営に対するのと同様に、批判を展開したいと思っている。
自浄能力のない政権へは、野党とメディアの批判が必要である。革新陣営が広く社会的な信頼を勝ちうるためにも、私の批判が有用だと信じて疑わない。
(2015年2月24日)
趙顕娥(チョ・ヒョンア・前大韓航空副社長)という名前は日本では覚えられにくい。誰のことだかわかりにくくもある。失礼ながら、分かり易く「ナッツ姫」で通させていただく。
昨日(2月12日)ナッツ姫にソウルの地方裁判所が、懲役1年の実刑判決を言い渡した。航空保安法における「航空機航路変更罪」と、業務妨害罪の観念的競合を認めたとのことだ。実刑を選択した裁判所の「量刑理由」の説示が興味深い。
韓国の(保守系)有力紙「中央日報(日本語版)」の見出しが、韓国民の関心のありかをよく伝えている。「大韓航空前副社長に懲役1年…裁判所『職員を奴隷のように働かせた』」というのだ。以下は、その記事の抜粋である。(大意であって、原文のママではない)
「ナッツ・リターン事件で逮捕され起訴された趙顕娥(チョ・ヒョンア、41)前大韓航空副社長に懲役1年の実刑が宣告された。
ソウル西部地方裁判所刑事12部(オ・ソンウ部長)は12日、航空保安法上の航空機航路変更などの罪で起訴された趙前副社長に対して『被告人が本当の反省をしているのか疑問』として上記刑を言い渡した。」
「裁判所は量刑の理由の説示において、趙前副社長が提出した反省文の一部を公開した。趙前副社長は反省文で『すべてのことは騒動を起こして露骨に怒りを表わした私のせいだと考え、深く反省している。拘置所の同僚がシャンプーやリンスを貸してくれる姿を見て、人への配慮を学んだ。今後は施す人になる』と話したという。続けて、オ・ソンウ部長判事は『この事件は、お金と地位で人間の自尊心を傷つけた事件で、職員を奴隷のように働かせていなかったら決して起きなかった』と述べ、さらに当時のファーストクラス席の乗客の『飛行機を自家用のように運行させて数百人の乗客に被害を与えた』という陳述も引用して、実刑の宣告理由を明らかにした。また『趙前副社長は、乗務員と事務長から許しを受けることができていない』とも述べ、『趙亮鎬(チョ・ヤンホ)韓進(ハンジン)グループ会長(66)が、事務長の職場生活に困難がないようにすると言ったが、同事務長には「背信者」のレッテルが貼り付けられていると思われる』と付け加えた。」
「パク事務長」とは、パーサーあるいはチーフパーサーの職位に当たる人なのだろう。2か月前の中央日報日本語版が次のとおりに伝えている。
「『ナッツ・リターン』事件当事者の一人、パク・チャンジン大韓航空事務長(41)が(2014年12月)12日、口を開いた。5日(現地時間)に米ニューヨーク発仁川行きの大韓航空KE086航空機に搭乗し、趙顕娥(チョ・ヒョンア)前大韓航空副社長(40)の指示で飛行機から降ろされた人物だ。
パク事務長はこの日、KBS(韓国放送公社)のインタビューで、マカダミアナッツの機内サービスに触発された『ナッツ・リターン』事件当時、『趙顕娥前副社長から暴言のほか暴行まで受け、会社側から偽りの陳述も強要された』と主張した。
放送に顔と実名を表したパク事務長は『当時、趙前副社長が女性乗務員を叱責していたため、機内サービスの責任者である事務長として許しを請うたが、趙前副社長が激しい暴言を吐いた』とし『サービス指針書が入ったケースの角で手の甲を数回刺し、傷もできた』と話した。また『私と女性乗務員をひざまずかせた状態で侮辱し、ずっと指を差し、機長室の入口まで押しつけた』と当時の状況を伝えた。」
以上で、事件と裁判の概要は把握できると思う。刑事裁判であるから、罪刑法定主義の大原則に則って、あくまで起訴事実の存否とその構成要件該当性が主たる審理の対象となる。しかし、本件についての主たる審理対象は、むしろ情状にあったのではないか。ナッツ姫のパーサーやキャビンアテンダントに対する「人間としての自尊心を傷つけた行為」が断罪されたという印象が強い。両被害者からの赦しを得ていないことが実刑判決の理由として語られていることが事情をよく物語っている。実質において、一寸の虫にもある「五分の魂」毀損罪の成立であり、これに対する懲役1年実刑の制裁である。
それにしても思う。偽証まで強要されたこの被害者2名が勇気ある告発をせず、長いものに巻かれて泣き寝入りしていればどうだったであろうか。何ごともなかったかのごとく、ナッツ姫は、わがままに優雅な生活を送っていたのではないだろうか。財閥一家の傲慢さ横暴さが曝露されることもなく、韓国社会の健全な世論の憤激も起こらなかったであろう。勇気ある内部告発は、公益に資する通報として社会に有用なのだ。
日本の上原公子元国立市長の名は、覚えにくいわけではない。しかし、その行為を弾劾する意味で、失礼ながら敢えて「ナッツ上原」と言わせていただく。事情が、日韓まさしく同様なのだから、その方が分かり易い。ナッツ上原の「五分の魂毀損」事件の顛末は既に詳しく書いたから繰り返さない。かなりの長文だが、下記のブログをお読みいただきたい。
「韓国のナッツ姫と日本のナッツ姫ーともに傲慢ではた迷惑」
(2015年1月31日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4305
「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその6」
(2013年12月26日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1776
「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその7」
(2013年12月27日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1783
ナッツ上原にも、肝に銘じていただきたい。「あなたの行為は、自分に権限あるものとのトンデモナイ勘違いによって、上から目線で人間の自尊心を傷つけたもの。ボランティアとして選挙運動に誠実に参加した仲間を大切にする気持ちが少しでもあれば、決して起きなかったこと」なのだ。もちろん、ナッツ上原の行為は、陣営の選挙運動に具体的な支障をもたらしている。そして、主犯熊谷伸一郎ともども、いまだもって五分の魂を傷つけられた二人に謝罪もしていなければ赦しを受けてもいない。
私は、自浄能力のない組織における内部告発(公益通報)は、その組織や運動にとっても、社会全体に対しても有益なものであると信じて疑わない。本日の記事を含め、当ブログは、公共的な事項に関して、公益をはかる目的をもって、貴重な情報を社会に発信し、革新共闘のあり方に有益な問題提起をなしえているものと確信している。
私が宇都宮陣営に「宣戦布告」をしたのは、2013年12月21日である。
「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。」
https://article9.jp/wordpress/?p=1742
その日のブログに書いたとおり、私の闘いは「数の暴力」への言論による対抗手段としての事実の公開である。典型的な内部告発であり、公益通報である。力のない者が不当・無法と闘うための王道は、何が起こったかを広く社会に訴え多くの人に知ってもらうこと以外にない。幸いに、私にはささやかなブログというツールがあった。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、33回を毎日連載して望外の読者の反響を得た。もちろん、覚悟した反発もあったが、その内容は説得力に乏しいお粗末なもので、その規模は事前の想定よりも遙かに小さなものだった。むしろ、多数の方から予想を遙かに超える熱い賛意をいただいて、「私憤」だけでない公益通報の公益的な意義を確信した。
「念のために申し上げれば、開戦は私の方から仕掛けたものではありません。宇都宮君側から、だまし討ちで開始されました。だから、正確には私の立ち場は「応戦」なのです。しかし、改めて私の覚悟を明確にするための「宣戦布告」です。」これが、シリーズ冒頭の一節。その宣戦布告はいまだに講和に至っていない。
(2015年2月13日)
大韓航空前副社長の趙顕娥(チョ・ヒョナ)被告の「ナッツリターン事件」に興味津々である。もちろん、韓国財閥事情への関心ではなく、国は違えど同じようなことはよく起こるものだという身近な事件に引きつけての興味である。「ナッツ姫の横暴ぶり」は、権力や金力を笠に着た傲慢で品性低劣な人間に往々にしてある振るまい。ところで、世の中には、なんの権力も権限もないのに、自分には人に命令する権限があると勘違いで思い込む、愚かで横暴なはた迷惑な人物もいる。こちらの手合いも始末に悪い。
共同通信など複数のメディアが、韓国紙京郷新聞が起訴状を基に事件を再現した記事を転載している。その中の次の部分が目を惹いた。
「趙被告は乗務員がナッツを袋のまま出すと『ひざまずいてマニュアルを確認しろ』と激怒。客室サービス責任者に『この飛行機をすぐ止めなさい。私は飛ばさない』と迫った。責任者が『既に滑走路に向かっており、止められません』と答えると『関係ない。私に盾突くの?』と激高した。」
「私に楯突くの?」という言葉は、聞き捨てできない。かつての都知事選宇都宮選対本部長上原公子(元国立市長)が2012年12月11日午後9時過ぎに、四谷三丁目の選対事務所に私の息子を呼びつけて投げつけた「この人、私の言うことが聞けないんだって」という言葉と瓜二つ、いやナッツ二つなのだ。
私の息子は宇都宮けんじ候補の随行員として、およそ1か月間献身的によく働いていた。選挙戦をあと4日残すだけの最終盤のこの時、ナッツ上原はなんの理由も告げずにいきなりその任務を取り上げたのだ。もうひとりの随行員だった誠実な女性ボランティアともどもに。秘密のうちに二人の後任が準備されていた。
このことへの抗議に対して、ナッツ上原は、熊谷伸一郎選対事務局長(岩波書店社員)と顔を見合わせて冷笑したうえ、「この人、私の言うことが聞けないんだって」というナッツフレーズを吐いたのだ。
その傲慢さ、人格の尊厳への配慮のなさ、品性の低劣さにおいて、日韓両国のナッツ姫は甲乙つけがたい。もっとも、韓国のナッツ姫は一応は労働契約上の労務指揮権を持っている。リターン命令はその労務指揮権の「権限の逸脱・濫用」にあることになる。一方、日本のナッツ上原は、革新陣営の選挙活動にボランティアで集う仲間に対して調整役の責務を負う立場にあって、なんの権力も権限も持つわけではない。ナッツ上原は、より民主的でなければならない立場にありながら、その理念に反する点で際立っており、見方によっては韓国のナッツ姫よりもタチが悪い。
このような事件が起きたときに、関係者の人権感覚と対応能力が浮き彫りになる。宇都宮健児君は任務外しについて上原や熊谷との共犯者ではなかった。しかし、この横暴を知りながら事後に黙認したことにおいて、人権感覚・対応能力ともにまったく評価に値する人物ではないことを露呈して、私は友人としての袂を分かつことにした。
なお、私の息子は、ナッツ上原に対して、「対等な関係のボランティア同士。権力関係にはない。あなたに私に対する命令の権限があるはずはない。ましてやまったく不合理な命令は聞けない」と抗議している。
ところが、その後公開された選挙運動収支報告書において、上原が「労務者」として報酬10万円を受領していると届け出ていることが判明した。「労務者」とは「選挙運動員」の指示を受けて機械的な業務のみに従事する立場。ボランティアとして一銭の報酬も受けとっていない選挙運動員である私の息子と対等ではない。ところが、この局面では労務者上原が、選挙運動員に権力的な指示を押しつけている。あり得ないはなしなのだ。
もっとも、選対本部長が「労務者」であろうはずはない。この10万円は選対本部長としてのお手盛り選挙運動報酬と考えざるをえず、明らかな公選法違反に当たるものである。
この私の指摘に「反論」した三弁護士(中山・海渡・田中)による「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」(1014年1月5日付)の中身が、真摯さを欠いたお粗末極まるものだった。およそ「法的見解」などと言える代物ではない。もっと真剣に事実に肉薄し、自陣営のカネの動きの不透明さについて明確化する努力と謝罪をしていれば、自浄能力の存在を証明して、「三弁護士」の権威を貶めることもなかったと思われるが、結局は「何らの違法性もないものである」「記載ミスを訂正すれば済む問題である」とごまかしの論理に終始した。繰り返される保守陣営の公選法違反が摘出される度に聞かされてきたことと同じセリフしか聞くことができなかった。
当ブロクでの公選法違反の指摘に、宇都宮陣営は報告書の当該記載の抹消をしただけでこと終われりとしている。もちろんそれでは、添付書類と辻褄が合わないことになる。いまだに、放置されたままだ。その他にも、宇都宮選挙には多々問題があった。詳細は、このプログに「宇都宮君、立候補はおやめなさい」シリーズとして33回連続して掲載したので、是非ご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=6
そのほか、選対内部で随行員二人の任務外しに加担した労務屋同然の働きをした人物が何人もいる。何が正しいかではなく、なりふり構わず何が何でも組織防衛を優先する、「革新」を標榜する人々の常軌を逸した行動パターンを思い知った。さらに驚くべきことに、このブラック選対で労務屋同然のダーティーな働きをした人々が、「ブラック企業大賞」選考企画の中心にいたようだ。深刻なブラックジョーク現象というほかはない。
聞くところによると、「今年、宇都宮健児が大きく運動を展開させる注目のテーマ」を「選挙制度」としているそうだ。ちょっと信じがたい。仮に宇都宮君が選挙制度について語るのであれば、何よりも都知事選でのカネの動きの不透明さや、明らかに合理性あるルールに違反したことへの反省と謝罪から始めなければならない。それなくして、彼が公職選挙法の不備や不当について語る資格はない。
ところで、韓国のナッツ姫。現地の報道では、大弁護団が話題となっているようだ。「趙前副社長が雇った弁護団は数十億ウォン(数億円)を受け取っているはず」「執行猶予を勝ち取れば、弁護団は大富豪になるだろう」などと揶揄されている。
ナッツと弁護士。日韓両国において切っても切れない縁のようだが、けっして美しい縁ではない。腐ったナッツに集まるハエと悪口を言われるような関係となってはならない。
(2015年1月31日)
共同通信などの複数メディアが伝えるところによると、
「江渡聡徳防衛相の資金管理団体(「聡友会」)が2009年と12年、江渡氏個人に計350万円を寄付したと政治資金収支報告書に記載していたことが9月26日に分かった。江渡氏は同日の閣議後記者会見で『事務的なミスだった』と述べ、既に訂正したと明らかにした」「江渡氏や訂正前の報告書などによると、09年に100万円を2回、12年5月と12月にも100万円と50万円を寄付したことになっていた」
という。
明らかな政治資金規正法違反。条文上は、法第21条の2「何人も、公職の候補者の政治活動(選挙運動を除く)に関して寄附(政治団体に対するものを除く)をしてはならない」に違反する。個人及び政党以外の政治団体は、公職の候補者(国会議員や首長など現職を含む)に対して、選挙運動に関するものを除き、金額にかかわらず政治活動に関する寄附を行うことが禁止されている。
ましてや、資金管理団体とは政治家個人の政治資金を管理するために設置される団体である。法は、政治家を代表とする資金管理団体を一つだけ作らせて、政治家個人への政治資金の「入り」も「出」も、この団体を通すことによって、透明性を確保し量的規制を貫徹しようとしている。だから、資金管理団体から政治家個人への寄付などという形で資金の環流を認めたのでは、政治資金の取り扱い権限を個人から資金管理団体へ移行しようとする制度の趣旨を没却することになってしまう。
総務省のホームページで、「政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書」を検索してみた。残念ながら09年の報告は期限が切れて掲載されていない。12年の報告だけは閲覧可能である。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/131129/1306400032.pdf
確かに、「聡友会」(代表者江渡聡徳)の収支報告書の支出欄に、
2012年5月25日 「江渡あきのり」への寄付100万円
2012年12月28日 「江渡あきのり」への寄付 50万円
と明記されていたものが、本年9月2日に「願により訂正」として、抹消されている。これに辻褄を合わせて、「支出の総括表」における「寄付」の項目が150万円減額となり、人件費が150万円増額となっている。これも、「9月2日 願により訂正」とされている。
記者会見による弁明の内容については、「江渡氏は『350万円は寄付ではなく、聡友会の複数の職員に支払った人件費だった』と説明。担当者が領収書を混同し、記載をミスしたとしている」(共同)と報じられている。
弁明の内容については、朝日の報道がさらに詳しい。
「江渡氏は『私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成していたため、(報告書を記載する)担当者が(江渡氏への)寄付と混同した』と説明。人件費は数人分で、江渡氏が仮領収書にサインするのは『お金の出し入れの明細がわかるようにするため』と述べた」という。
この江渡弁明を理解できるだろうか。弁明が納得できるかどうかの以前に、どうしてこのような主張が弁明となり得るのかが理解できないのだ。
人件費としての支出には、その都度に受領者からの領収証を徴すべきが常識であろう。政治団体の場合は常識にとどまらない。政治資金規正法は、刑罰の制裁をともなう法的義務としている。
「第11条(抜粋) 政治団体の会計責任者又は、一件五万円以上のすべての支出について、当該支出の目的、金額及び年月日を記載した領収書を徴さなければならない。ただし、これを徴し難い事情があるときは、この限りでない。」
この領収証を徴すべき義務の対象において人件費は除外されていない。そして、その領収証について3年間の保管義務も法定されている。例外を認める但し書きはあるものの、職員への人件費の支払いに関して「領収証を徴し難い事情」はおよそ考えられるところではない。この11条の規定に違反して領収書を徴しない会計責任者には、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処せられる(24条3号)。政治資金規正法をザル法にしないための当然の規定というべきだろう。
江渡弁明を報告書訂正の内容と合わせて理解しようとすれば、職員に支払った人件費の支出を事務的ミスで江渡個人への寄付による支出と混同したということになる。しかし、いったいどのような経過があってどのような事情で、混同が生じたというのだろうか。職員に支払う際の義務とされている領収証を受領しておきさえすれば「混同」は避けられたはずではないか。それすらできていなかったということなのか。
なによりも、「私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成した」ということが意味不明だ。「仮」のものにせよ、人件費の支払いを受けた資金管理団体の職員の側ではなく、支払いをした資金管理団体の代表が「領収証」を作成したということが理解できない。
政治資金収支報告書の届け出によれば、同年の「聡友会」の支出のうち、「寄付」はわずかに16件である。問題の2件を除けば14件。そのうち12件は、毎月定期的に行われる、各月ほぼ100万円の地元「江渡あきのり後援会」への寄付(合計1260万円)が占めている。他は、自民党青森県連へのものが1件と、靖国神社へ1件だけ。「江渡あきのり・個人」への2件150万円は、異色の寄付として目立つものとなっている。たまたま紛れがあって、事務的ミスが原因で報告書に記載されたとはとうてい考えがたい。直ぐには目にすることができないが、きちんと作成され保管されていた「江渡聡徳名義の領収証」があったに違いない。これを、苦し紛れに「仮の領収証」と言い訳をしたものとしか考えられない。これだけの疑惑が問題となっている。
この「事務的なミス」とする弁明は不誠実でみっともない。きちんと誤りを認めて謝罪し、再発防止を誓約することこそが、政治家としての信頼をつなぎ止める唯一の方策であろう。問題の「仮領収証」を公開することもないまま、「報告書を訂正したのだから、もう済んだ問題」として収束をはかるなどはとうてい認められない。
よく似た例はいくらでもある。たとえば、2012年都知事選がそうだった。
「上原氏の‥交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである」「上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って『労務費』と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である」
とは、江渡弁明とよく似た言い分。
自らの手の内にあるはずの根拠となる資料を示すことなく、「この記載ミスを訂正すれば済む問題」とし、今は「既に訂正したのだから、もう済んだ問題」として押し通そうとしている。このようにして収束をはかろうなどはとうてい認められない。
誤りを認めず、反省せず、真摯に批判に耳を傾けようとしない。こういう体質は改めなければならない。でなければ、この陣営に参集した者には、石原宏高や猪瀬直樹、渡辺喜美、そして江渡聡徳らを批判する資格がないことになるのだから。
(2014年10月6日)
今日の毎日川柳欄に、次の一句。
管理職経験生きぬ町内会 (のびた)
企業にせよ役所にせよ、部下との関係では管理職は気楽なものだ。上司としての管理職には、業務命令だの職務命令だのという武器が与えられている。この強力な武器を振りかざして、部下には専制君主として振る舞うことができるのだ。
長く管理職をやっているうちに錯覚に陥る人がある。「自分には、生来他人に命令をする力が備わっているのだ」と。誰かに命令できるのが当然だと勘違いし、それに従わない人間を「けしからぬ奴」と見ることになる。
だから、元管理職氏が町内会の役員になると往々にしてギグシャグが生じる。人を説得し納得ずくでことを運ぶことが非能率としか考えられない。そんな面倒なことをしてはおられないと、長年なじんだ強権をふるうことにもなる。これでうまくいくはずはない。上命下服で動くはずのない町内会では、元管理職の肩書きが生きないばかりか、その強権体質が町内会運営の邪魔になるのだ。結局は、会員の参集を蹴散らすこととなる。
元市長などが、ボランティアチームのリーダーになって悪かろうはずはない。しかし、たまたまこの人物が、「自分には他人に命令をする力がある」という錯覚派だと、悲惨なことになる。共通の理念に賛同して、運動に参加した仲間を対等な人格とみることができない。同じボランティア仲間に、命令ができると大きな勘違いをしてしまう。さらには、「事務局長と目を合わせて、にやにやしながら、『この人、私の命令を聞けないんだって』」などと、傲慢な態度をとることにもなる。
「民主的」選対の本部長や事務局長が、権力や企業内の組織にいるのと同じ発想であることが恐ろしい。しかも、周囲が、このような本部長や事務局長をたしなめることさえせず、自浄能力の欠如をさらけ出したことはいっそうの悲惨と言わざるを得ない。
もっとも、取締役であれ首長であれ、「管理職」は部下との関係では気楽だが、所属する企業や自治体との関係では責任は大きい。第三者との関係でも、ときには身銭を切って責任を全うしなければならない。そのときには、管理職はつらい立場となる。「管理職」に違法があって、被害者に損害を与えれば管理職個人の責任が追求される。企業や自治体が目をつぶっても、違法を見逃せないとするたった一人の株主あるいは市民の提訴の権利を法は認めている。「管理職」が、会社や自治体に開けた穴について、「違法をおかした責任者に身銭を切って埋めさせる」という責任追及の制度である。これが、株主代表訴訟であり、住民訴訟なのだ。
今日の毎日川柳欄から、もう一句。
手は打つが行政指導と云う無力 (岩田規夫)
この句が指摘するとおり、行政指導とは本来強制力のない無力なものなのだ。公権力の行使が強制力をもつためには、厳格に定められた法的根拠をもたなければならない。また、無力であればこそ、法的根拠のない行政指導も許される。しかし、市長が公約に掲げたテーマだからとか、市民の支持のある問題だからとかの理由で、強引な行政指導が許されることにはならない。市長に行き過ぎた行政指導があって第三者に損害を与えた場合には、まず市が損害を賠償しなければならない。次いで、市長に故意または重過失あれば、市長個人が市の財政に開けた穴を埋めなければならない。そのような文脈で国立市の住民が住民訴訟を提起し、2010年12月22日東京地裁判決(確定)は、「被告国立市は、元市長に対し、3123万9726円及びこれに対する遅延損害金の支払を請求せよ」と命じた。国立市は、この判決に従って、元市長に対する請求の訴訟を提起した。
ところが、その3年後、国立市議会は市が有する元市長に対する損害賠償請求権を放棄する決議をしたのだ。14年9月25日東京地裁判決は、この決議の効果を認め、国立市から元市長に対する請求を棄却した。この判決は、貴重な住民訴訟制度の機能を無にしかねないという意味で、悪しき前例になりかねない。。
市町村長や知事の横暴は、あちこちにあふれている。ところが、通常彼らは議会内多数派とは親密な関係にある。大阪府や大阪市の首長と、議会との関係を想起するとわかりやすいのではないか。せっかくの住民訴訟で、首長の責任が確定しても、議会の多数派が請求権放棄の議決をしてしまえば、元の木阿弥になってしまう。それでよいのだろうか。
ダブルスタンダードはいただけない。これまでは住民訴訟の機能を大切にし、活用を心がけていた人ならば、今回の判決のこの論点について、納得できるはずがないと思うのだが。
(2014年10月4日)
東京都知事選は、とうとう明日が告示日。明日から選挙運動期間である。
念のために、今日また東京都選挙管理委員会に足を延ばした。2012年12月16日施行の東京都知事選挙における宇都宮健児候補の選挙運動資金収支報告書を閲覧してきたが、本日(1月22日)午後の時点で、何の訂正も変更もなされていないことを確認した。宇都宮陣営は、前回選挙における選挙運動収支報告書の重大な届出ミスを認めながら、これを放置して次の選挙に突入しようとしている。
上原公子選対本部長(元国立市長)の労務者報酬10万円受領の届出も、添付の選挙運動報酬受領証も何の変更もなくそのままであった。服部泉出納責任者についても同じこと。合計29名に及ぶ疑惑の「労務者」「事務員」についての届出訂正もない。宇都宮陣営の1月5日付文書「法的見解」では、随分と簡単に「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言っておきながら、何の訂正もせずに次の選挙に突っ込もうというのだ。誰の目にも、「コンプライアンス意識に問題あり」が明白ではないか。あるいは、「記載ミスを訂正すれば済む問題」と言ってはみたが、実は「労務者報酬受領」と届出を脱法しての運動員買収の事実は訂正のしようがないということなのであろうか。
私が指摘した数々のリスクを抱えながら、それでもなお宇都宮君には、立候補を断念する気配が見えない。私は、「宣戦布告」直前に、いくつかのメーリングリストに、「宇都宮君への批判を始めるからには徹底してやる」と宣言した。宇都宮君への警告を意識してのこと。その上で、今日まで33日間にわたって「宇都宮君、おやめなさい」と言い続けてきた。宇都宮君を立候補断念に追い込むことはできなかったが、その宣言のとおり、本日まで私のできる限りでの言論による批判は、やり通した。
この「おやめなさい」シリーズを書き始めた当初の覚悟は相当なものだった。以前にも書いたとおり、悲壮感をもってルビコンを渡るの心境だった。宇都宮君とともに自分も傷つくことは重々承知の上でのこと。だが、ルビコンを渡った向こう岸にも、広々とした天地があることを知った。花は咲き、鳥も歌っている。真摯にものを考える、新たな友人との出会いもあった。驚くべきことに、このブログをきっかけに、新たな業務の依頼さえあったのだ。私は、感動している。この世には、「自分の他に主人を持つまい」とし、「民主主義的理性」を磨こうとしている多くの真っ当な人々がいるのだ。
「悲しき玩具」の啄木の歌を思いおこす。
人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横よりみてゐる心。
私は、隊列を組むがごとくして皆と同じ方角に向かっていくことが苦手なのだ。啄木もそうだったのだろうが、自らの歌を「悲しき玩具」と言った啄木には、皆と同じ方角に向かっていくことができない自分を哀れむ心があったのではないか。
私は違う。人みなと違う方角に歩き出したことを、今は爽快に思っている。
もちろん、私に反省すべき点があるのは明らかだ。まずは、「徹底した批判」に踏み切るのが遅きに失したこと。私自身が「人にやさしい東京をつくる会」の情報開示と運営の透明性の徹底に鈍感だったこと。もっと以前に、問題が起こる都度、躊躇することなく、徹底批判に踏み切るべきだった。そうしていれば、問題がここまでこじれる以前に、宇都宮選対や「人にやさしい東京をつくる会」の体質を、修正できた可能性があった。
学んだことは、組織原則としての民主主義のあり方である。とりわけ、批判の言論の大切さ。組織の幹部は、自分の耳に痛い批判の言論に寛容でなくてはならない。これを、鬱陶しいからと強権を発動して報復に出たり、それへの抗議を問答無用でだまし討ちに切り捨てるなどしてはならない。
昔から英語が達者だった次弟が、私のブログを読んで、次のようにメールをくれた。
「昔、英語の参考書の中で覚えたヴォルテールの言葉が思い出されます。
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.
この to the death と言うところが味噌です。フランス語は知らず、英語では『あくまで』ということが『死をかけてでも』と同義語になっているわけです。『死をかけてでも』言論の自由を守るべき立場の人々の行動としては、まあ何とも『懐の狭い』を通り越して『滑稽さ』まで感じられます。大方の人がそう思ったことでしょう。」
そうだ、民主主義とは、「命をかけても」他の人の言論の自由を守ることなのだ。宇都宮君と宇都宮君につながる向こう岸の人々には、それが分からなかったのだ。次弟が即座に深い理解を示してくれたことが本当に嬉しかった。
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ところで、昨日話題にしたメルマガ「宇都宮けんじニュース」は「希望のまち東京をつくる会」から配信されている。おそらく今回の選挙では「希望のまち東京をつくる会」が宇都宮候補を擁立する確認団体となるのだろう。しかし、「希望のまち東京をつくる会」とは何なのか、誰がどのように関わり、誰が決定権をもって会の運営に携わっているのか、外からは分からない。「会」のホームページには記載がない。念のため、「宇都宮けんじニュース」を第1号(1月1日)から本日付の22号まで全部目を通してみたが、ここにもなんの記載もない。私は、今にして思う。市民選挙の主宰団体がブラックボックスであってはならない。きちんと公表すべきではないか。著しく、公共性も公益性も高い事項なのだから。公表されて困ることでもあるまい。
前回選挙の確認団体となったのは、「人にやさしい東京をつくる会」だった。
その意思決定機関(運営会議)のメンバーは以下のとおりである(敬称略)。
宇都宮健児(候補者)
中山武敏(会代表)
上原公子(選対本部長)
熊谷伸一郎(事務局長)
岡本厚
海渡雄一
河添誠
澤藤統一郎
高田健
豊田栄一郎(会計責任者)
服部泉(出納責任者)
渡辺治
以上の「人にやさしい東京をつくる会」の運営会議委員は、選挙期間中は選対委員となった。選挙終了後は4回の運営会議(2012年12月23日・2013年1月6日・2月28日・12月20日)が開催されている。その最後の2013年12月20日第4回運営会議において、宇都宮君は「運営会議全員解任」「再任は宇都宮・中山に一任」という、澤藤追放の「だまし討ち」決議をやってのけた。議事録上は、私以外の全員の賛成でのこととなっているはず。
しかし、「人にやさしい東京をつくる会」の解散決議はされていない。520万7907円のカンパ残額の処理をどうするかをうやむやにしたまま解散はできない。
しかも、第2回運営委員会(2013年1月6日)の議事録では、次のとおりに確認されている。
「6.会の今後の方向性について
・会として、次回の都知事選挙の母体とはならないこと、また今夏の参議院選挙を含む選挙運動に関わらないことを確認した。
・会計の問題もあるために、会としては当面存続させる。3月31日のシンポジウムと、その後の期間(一年程度)をおいての集会を経て、活動自体は休止状態にしていく。完全に解散するか、解散するとして現在のメンバーで何らかの運動を展開していくかは、今後検討していく。」
もちろん、この確認は私も参加した席でのこと。問題の選挙カンパは、2012年都知事選についてのものだったのだから、次回都知事選挙や他の選挙への「流用」は筋が違うとの考えによるもの。「人にやさしい東京をつくる会」が、「次回の都知事選挙の母体とはならない」「今夏の参議院選挙を含む選挙運動に関わらない」ことを正式に確認している以上、今回選挙でこの前回選挙カンパの残金520万円に手を付けることは許されない。
なお、「人にやさしい東京をつくる会」の政策には次のとおりのことが明記されている。
「尖閣諸島購入のために集めた寄付金は返却します。
1. 都が集めた寄付金は寄付者に返金します。寄付者が不明の場合には、早急に検討します。
2. 返金作業にかかる経費については、当時の都の責任者に請求します。」
ダブルスタンダードは望ましくない。「人にやさしい東京をつくる会」は、前回選挙でカンパに応じた人にだけでなく、社会に納得を得るような残金の処理をしなければならない。
前述の決議がある以上、「人にやさしい東京をつくる会」は、今回都知事選挙の母体とはなりえない。新たに登場した「希望のまち東京をつくる会」が今回選挙の確認団体となるのだろうが、最低限次のことを明確にすべきだろう。
1 「希望のまち東京をつくる会」は、「人にやさしい東京をつくる会」とはどのような関係になるのか。「人にやさしい東京をつくる会」の残余財産は、どう処理される予定なのか。
2 「希望のまち東京をつくる会」の代表者は誰なのか。どのようなメンバーが、意思決定に参画しているのか。会の規約などはどうなっているのか。
3 「希望のまち東京をつくる会」と「支援・支持の関係にある政党や政治団体」との間に政策協定その他何らかの共闘についての取り決めはあるのか。あるとすれば、どのような内容なのか。ないとすれば、支援・支持の具体的な内容はどのようなものか。
私は、開かれた市民選挙を標榜して、広く市民に賛同を求め、寄付を募る以上は、「希望のまち東京をつくる会」には上記3点について回答すべき道義的責任があるものと考える。私自身が、「人にやさしい東京をつくる会」の運営に関わりながら、積極的に情報を開示し会の運営の透明性を高める努力をしなかったことを自己批判しなければならないと思っている。
もっとも、宇都宮陣営が、「市民に開かれた選挙など標榜していない」「情報公開も運営の透明性の確保も、私的な組織には無縁なこと」というのであれば、それはそれでやむを得ない。しかし是非、そのようなお考えを社会にあきらかにすべきだろう。
(2014年1月22日)
宇都宮陣営のメルマガ、「宇都宮けんじニュース」が私にも配信されている。その第14号(2014年1月18日号)に、「宇都宮けんじ・一本化で吠える!」と標題した下記の記事が掲載されている。1月16日(木)の拡大選対会議での発言とのこと。
「普段は温厚な宇都宮さんが、この日は半ば涙を浮かべながら、『(細川氏が)橋下徹みたいに変節したら、どうするのか』『知事選は人気投票ではいけない』『(細川氏に会って)どの程度の人間なのか確かめることもせず、降りろとはふてえ考えだ』『とにかく政策論争を!』『これは、勝てる選挙だ』と、あらためて決意と覚悟を語りました」
宇都宮君が吠えたのか泣いたのか、この記事ではよく分からないが、とにもかくにも、陣営にとっての動揺がよく伝わって来る。確認しておくべきは、宇都宮君自身も「一本化とは、宇都宮降ろしと同義」と心得ていること。つまりは、細川を降ろしての一本化はあり得ないという認識なのだ。だから、「降りろとはふてえ考えだ」という品性を欠いた表現になっている。「ふてえ考えだ」と言われたのは、「脱原発都知事を実現させる会」(共同代表 鎌田慧・河合弘之氏)の面々。後の報道で、瀬戸内寂聴・広瀬隆・村上達也・村田光平・柳田眞・湯川れい子・吉岡達也・宮台真司・木村結・三上元・高木久仁子・高野孟・川村湊などの諸氏が含まれていることを知った。宇都宮君のような、「3・11後の脱原発運動参加者」ではない。これまでの人生を脱原発運動に懸けて来た筋金入りの方々。これまで、脱原発運動の中核を担ってきた人々と言っても間違っていない。やはり、インパクトは大きい。
これも「宇都宮けんじニュース」第12号(1月16日)によれば、「実現させる会」は両陣営に宛て、「脱原発を明確に掲げる候補が二人いるということで脱原発票が分散し、結果として原発推進候補を利するのではないか」「お二人が虚心坦懐にお話合いになり、脱原発候補を統一してくださるよう申し入れます」と文書を発したとのこと。「会」の顔ぶれに品性を欠く人物はまったく見えない。長期にわたって真摯に運動を支えて来た人ばかり。申し入れの内容にも格別に礼を失しているところはない。これに対して、「ふてえ考えだ」との言葉の乱暴さは際立っている。宇都宮陣営の苛立ちを表しているのだろうが、こんな言葉を投げつけられて、「実現させる会」の諸氏はさぞ驚いたことだろう。
有権者は多様だ。命と健康を守るためになによりも脱原発が最重要課題と考える人は少なくない。脱原発だけが重要課題とは考えないが、現在の政治や社会の矛盾を象徴するものとしてこの一点を争点化すべきと考える人もいる。また、極右勢力としての安倍自民に政治的打撃を与える格好のテーマとして、「良心的保守層」を巻き込んだ幅広い勢力結集のために「脱原発都知事を実現」させたいという人もいるだろう。宇都宮君は、そのような人々の「脱原発候補統一」の申し入れを拒否しただけでなく、「ふてえ考えだ」と悪罵を投げつけた。その意味は小さくない。
「一本化」が不調となれば、脱原発を願う有権者は残った2候補のどちらかの選択を迫られる。「ふてえ考えだ」と悪罵を投げつけられた人々は、既に宇都宮君に背を向けて細川支持を明確にした。情勢のしからしむるところ。
前回惨敗の惨めな候補でなければ、脛に傷持つダーテイーな候補でなければ、事態は大きく違ったものとなっていただろう。革新共闘選挙の候補にふさわしい清新で魅力溢れる候補が力強く脱原発を含む運動をつくっていたら、反原発を看板とする細川の出る幕はなかっただろう。たとえ細川が出たとしても、こんなに右往左往することはなかったはず。革新側の拙速な候補者選びが今日の事態を招いたのだ。
宇都宮君、きみは、当初は「推す人があれば出馬する」と言いながら、その直後、推す人もないままに、他を制して都知事候補者として手を上げて飛び出した。その君のあさはかな行為の責任は大きい。告示まではもう少しの時間がある。やはり、立候補はやめた方がよかろう。
(2014年1月21日)
吉田万三さんは、人間的な魅力に溢れた人である。
話し相手を笑顔で包み込み、耳に痛い言葉も心を傷つけないような配慮を感じさせる。構えることなく、誰とでも胸襟を開いて会話のできる、できそうでなかなかできない特技の持ち主。
その万三さんと、昨日は都知事選をめぐってのスピーチによるバトル。とはいえ、ディベートではない。主催者の配慮で、各10分間のスピーチの交換だけ。私の発言は、昨日ブログに掲載したとおり。万三さんは、「澤藤は理想を求める余り人に厳しすぎる。不完全な人が集まって、よりより社会をつくるべく模索しているのだから、もっと寛容になるべきだ。そして、もっと高い次元から、最も優れた候補者である宇都宮当選のために力を尽くしてもらいたい」という趣旨を述べた。私の問題提起に応える内容として噛み合ってはいないが、万三さんがそう言えば、それなりの説得力があるから不思議なもの。さすがに、革新派から足立区長に当選し、都知事候補にもなった人だけのことはある。
ところが、その席で万三さんが配布したメモの下記の記載にちょっと驚いた。万三さんが口頭で言及していたことでもある。
「夏の参院選では、5人区の東京で明確な脱原発の候補が2人当選している。要するに、舛添だけでは(保守派は)勝利を確信できないのだ。このままでは脱原発の票がかなり宇都宮に流れる危険性もあるからこそ、多少のプラス・マイナスがあったとしても保守系脱原発候補が必要だったのではないか」
つまり、「細川護煕は、脱原発派有権者の票がそっくり宇都宮に流れ込むのを阻止するために、宇都宮の足を引っ張る目的で保守派が送り込んだ候補者だ」という論法。「謀略論」の一種だが、これはいただけない。我田引水というしかなく、万三さんのあの柔らかい滑らかな口調で喋られても説得力はない。
万三さんの気持ちが分からないではない。
世間は、脱原発を掲げた細川の出馬宣言に湧いている。前回選挙では宇都宮君を応援した文化人・著名人が、今回は成り行きを見つめて鳴りをひそめている。宇都宮陣営のウェブサイトの「宇都宮けんじへ応援の声!」ページは、今に至るも「只今、更新作業中です」として沈黙を続けている。わけても脱原発政策に重きを置く人々は、公然と「候補者一本化」という「宇都宮下ろし」の声をあげている。一本化の工作が不調となれば、今度は細川支持を打ち出すしかなかろう。宇都宮では勝てっこないが、細川なら勝てる見込みがある。しかも、細川には、小泉・菅・小澤等がついている。「脱原発の都政を築く千載一遇のチャンス」「脱原発に国政を動かすこれ以上ない好機」なのだから。
万三さんは、なんとか、そのような「脱原発派票の宇都宮離れ」を防ぎたいというわけだ。それが、「細川出馬は、保守派による謀略」という立論の動機。やや痛ましいという印象を否めない。
私が、初めて選挙権を手にしたころ、投票先に悩んだ。当時は中選挙区制。社会党は強かった。当選しそうにない共産党候補に投票するか、当選の可能性が高い社会党候補に入れるべきか。周囲の友人も様々だった。共産党を支持する友人は、「議席獲得よりも一票の積み上げが大切だ。どうせ当選できないからと票を社会党に流していたのでは、永遠に共産党の議席獲得はなくなる」という。これは党勢拡大の立論。社会党を支持する友人は、「今、現実的に最も大切なものは、国会の中に築かれている憲法擁護のための3分の1の壁を守ることだ。そのためには、社会党に投票を集中するしかない」と説得する。こちらは議席獲得最優先の立論。
おそらくは、多くの有権者が今同じような悩みを抱えているのだろう。知事の椅子はひとつ。脱原発シングルイシュー派の有権者にとっては、喉から手が出るほどに、そのひとつの椅子が欲しいのだ。「党勢拡大」や「運動の前進」のために選挙をやっているわけではない、と叫びたくなる気持ちであろう。この人たちは、もしかしたら、雪崩を打って細川支持にまわるかも知れない。万三さんとしては、なんとかそれを食い止めたいのだ。
その気持ちは分かるが、しかし、細川が、宇都宮の足を引っ張るために立候補したというのは、説得力に乏しい。むしろ逆効果だろう。そんなことをいえば、他の卓見まで、眉に唾を付けての吟味が必要と思われてしまう。
前回選挙の2012年12月時点では、現在よりも遙かに脱原発の世論が大きかった。宇都宮陣営の脱原発の足を引っ張るための立候補と言われる候補者はなかった。それでなお、宇都宮候補は惨敗した。いま、保守陣営が、舛添を勝たせるために、細川をぶつけねばならないとする理由はない。
「夏の参院選では、5人区の東京で明確な脱原発の候補が2人当選している」というのも一面的である。「夏の参院選では、5人区の東京で明確な非脱原発の候補が3人当選している。しかも、1位・2位がともに非脱原発派だ」と言い換えねばならない。繰り返すが、都知事選の当選者は1人だけ。ひとつの椅子を目指す選挙戦をしているのだから。
5人の当選者のうち、脱原発派は吉良・山本の両名、合計得票は137万。非脱原発派は、丸川・山口・武見の3名、合計得票数は247万票。この数字だけからは、脱原発派に勝算はない。にもかかわらず、いま俄然「脱原発」のスローガンが争点化しているのは、明らかに細川・小泉両名による発言のインパクトである。宇都宮君では脱原発を都知事選の争点とする力量に欠けていることを認めざるを得ない。
今夕、衝撃的なニュースに接することになった。「一本化」の調整工作に携わっていた河合弘之・鎌田慧さんらは、「原発ゼロを最優先政策として掲げる細川氏を支持する」と決めたという。「有志に名を連ねたのは河合、鎌田両氏、作家の瀬戸内寂聴氏、音楽評論家の湯川れい子氏ら31人。近く事務所を構え、インターネットを使って細川氏支援を勝手連として呼びかけるという」と報道されている。一個の雪片の崩落から雪崩は始まる。これは雪崩の始まりだ。
選挙とはそういうものだろう。当選の可能性のある候補に票は集中する。理念を語る者より、当選の可能性を語ることのできる候補者が強いのだ。当然の政治力学が、人の目に触れるようになったまでのこと。
宇都宮君、やっぱり君の先走った出馬宣言自体が大きな間違いだったのだ。残念ではあろうが、立候補はおやめなさい。
(2014年1月20日)
本日は、「活憲左派」の集会で10分間だけ「立候補をおやめなさい」の理由を語った。ブログ以外で語る唯一の例外の機会。私に続いて吉田万三さんが、やはり10分間の宇都宮陣営からする「反論権」行使のスピーチをした。
下記が、私のスピーチの原稿。主張の全体象のまとめとなっている。
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※私は「澤藤統一郎の憲法日記」(https://article9.jp/wordpress/)を毎日執筆している。いま、そのブログに「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズを連載中。
12月21日に「宣戦布告」して書き始め、今日が30回。まだまだ続く。
宇都宮君と選対のダメで汚い実態と、公選法違反疑惑を指摘している。
私の表現手段はブログだけ。唯一の例外が、今日のこの10分間の発言。
口を揃えての安倍批判は楽だ。宇都宮批判は、相当の覚悟の上でのこと。
今、私は覚悟して宇都宮批判に踏み切った意味があったと考えている。
反響は大きい。共感・共鳴の声が寄せられている。
私自身が、民主主義を自分の問題として深く考えるきっかけとなった。
民主運動や組織の、非民主的な体質を見直す問題提起となっている。
※ほかならぬ私が宇都宮君を批判していることの重みを知っていただきたい。
私は、彼とは同期の弁護士で、修習生以来40年余の付き合い。
前回選挙では誰よりも熱心に彼を支持した。「素晴らしい候補者」と歯の浮くような、無責任な推薦をしてまわった。家族総出で選挙運動もした。
しかも、今なお、私の都政改革に対する願望は誰よりも強い。
その私が、自分の「人を見る目のなさ」に臍を噛んでいる。ダメでダーティな候補者を推薦したことお詫びし、「宇都宮君、立候補はおやめなさい」と言い続けている。
私の内部批判は約1年間。彼は聞く耳持たず、無反省のママ再出馬しようとしている。
※私が宇都宮君を批判する具体的理由は次のとおり。
(1) 候補者として不適格。都知事候補としての資質・能力に著しく欠ける。
有権者を惹きつける魅力がない。「惨敗」実績の候補。勝負にならない。
論争・対話・交渉・調整の政治手腕に無能。これでは知事は務まらない。
(2) 「勝てなくても推すべき候補」ではない。
人権侵害に対する感度の鈍さ。弱者へ共感し寄り添う姿勢を持たない。
負けを覚悟で次のために橋頭堡をつくる選挙の候補者としても不適格。
(3) 批判を封殺する反民主主義的体質。「だまし討ち」手口の汚さ。
前言を翻して恥じない無責任な品性は、革新共闘候補者に不適切。
(4) 法律家にあるまじきコンプライアンス意識の欠如。法への無理解。
その結果、4点の公選法違反疑惑のリスクを抱えている。
*上原公子選対本部長他の「労務者」報酬名義での運動員買収疑惑。
*宇都宮君自身による法律事務所職員への運動員買収疑惑。
*岩波書店の熊谷選対事務局長(岩波勤務)への運動員買収疑惑。
*選挙運動員慰労会での供応(飲ませ喰わせ)疑惑。
そのリスクは、候補者だけではなく、推薦した政党や団体・個人にも及ぶ。
公選法には言論活動に対する「弾圧法規」部分と、経済力で選挙や選挙運動を歪めてはならないとする「民主的」側面とがある。両者を混同してはならない。
革新陣営は、公選法の「民主的」側面を活用して、保守の金権・企業ぐるみ選挙を批判してきた。批判する革新の側には、徹底したクリーンな選挙が要求される。
私が指摘する4点の疑惑は、弾圧とは無縁。徳洲会と同質なもの。
※私が宇都宮君を批判する本質的理由
(1) 人として譲ることの出来ないものは、「一寸の虫にも五分の魂」の矜持。
この「人間の尊厳」が、憲法上の人権(13条)として究極的な価値なのだ。
人権侵害の主体が、国家権力であろうと、企業・暴力団・市民運動組織、また「宇都宮ブラック選対」であろうとも、断固として闘わねばならない。
宇都宮君と選対は、私と私の息子の、人間としての尊厳を傷つけた。
だから私は徹底して闘う。妥協の余地はない。人権侵害を受けた者は、声を上げなければならない。これを私憤と切り捨ててはならない。
(2) いかなる組織にも幹部批判の自由は絶対に必要。批判のないところに組織の発展はない。民主主義を標榜する組織において批判の言論封殺はもってのほか。
宇都宮選対と宇都宮君は、汚い手口でそれをやった。私は徹底して闘う。
※私が闘う手段は言論のみ。不当な仕打を社会に知ってもらうことが対抗手段。
どのような理由であろうとも、対抗手段としての言論の封殺は許されない。
ブログは、言論の自由が重んじられる社会における素晴らしいツールだ。
相互批判の自由を尊重しなければならない。宇都宮陣営は、3弁護士連名の「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」(1月5日付)を公表している。私の主張と読み較べていただきたい。
http://utsunomiyakenji.com/pdf/201401benngoshi-kennkai.pdf
※私のブログ発言に、裏から聞こえる批判のパターン。
★大所高所に立つべきだ。大局を見誤るな。
⇒被害者は「大所高所」論に怯んではならない。叫ぶべきである。
⇒人権侵害への抗議に耳を傾ける寛容こそ「大所高所」に立つ姿勢。
★利敵行為ではないか。「敵」に塩を送るな。
⇒「敵」とは人権を侵害する加害者である。
人権侵害を放置し、被害者の声を封殺する行為が「利敵行為」。
★選挙とは「よりマシな候補」を選ぶもの。宇都宮は「よりマシ」だ。
⇒被害者にとって、人権侵害者が「よりマシ」ではあり得ない。
⇒「よりマシ」論は、「脱原発候補一本化」につながる。
★批判は結構だが、今はまずい。選挙が終わってからやるべきだ。
⇒無力の被害者が声を上げるのだ。最も効果的な時期を選んで当然。
⇒私は前回選挙後問題提起を1年続けて無視され、だまし討たれた。
☆どれもこれも、権利侵害された弱者の側に「泣き寝入りせよ」との立論。
批判・異論を許さぬ「小さな権力と、それに迎合するミニ翼賛体制」という、
運動の体質が問われている。批判の自由のない組織・集団は衰退する。
☆さらに、一人一人の個としての自立の姿勢が問われている。
小さな権力を支えるミニ翼賛体制に与するのか、拒絶するのか。
※私は、意義のある問題提起をしえたと考えている。
詳しくは、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」(https://article9.jp/wordpress/)を参照ください。
(2014年1月19日)