澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ムーミンとDHC、まったく似合わない、釣り合わない。

(2021年8月31日)
 富士には、月見草がよく似合う。ムーミンにDHCは似合わない。ムーミンの穏やかな雰囲気と、吉田嘉明の野蛮なヘイト体質。両者のコラボは、心あるムーミンファンには幻滅の極み、うまくいくはずもなかろう。

 トーベ・ヤンソンはスウェーデン語系フィンランド人だったという。言語的マイノリティーだった。そして、レスビアンとして人生を過ごした。性的マイノリティーでもあった。デマとヘイトとステマとスラップというDHC・吉田嘉明とは、所詮住む世界が異なるのだ。
 
 そのトーベ・ヤンソンがその生き方において、また作品で示した価値観とはまったく相容れないDHCとのコラボのたくらみ、発表されるやムーミンファンの声がこれを阻止した。

 8月27日付で、下記の「ムーミン公式サイトより重要なお知らせ」がネットに掲載されている。掲載したのは、ムーミンのライセンスを日本で管理するライツ・アンド・ブランズ社。

ムーミンを大切にしてくださる皆様へ
平素より、ムーミンをご愛顧いただきありがとうございます。
この度、当社がライセンス管理をする一部製品に関しまして、皆様へ不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。

本国フィンランドのムーミンキャラクターズ社は、“いかなる差別も、助長ないし許容するものではない”との強い見解を持っており、当社も同一認識を持っております。これは、お互いを認め合い、共存することを尊重していた原作者トーベ・ヤンソンの思想が包摂されています。

今後は、ライセンス許諾時点において、反社会勢力に対する確認に加えて、人権関連についても厳しく審査をし、仮に認識がなく契約された場合においても、それらが判明した時点において、速やかに契約更新停止や生産終了等の働きかけをしていきます。
ムーミン公式サイトを通じ、様々なお声をいただきましたこと、真摯に受け止めております。
ムーミンとムーミンを愛する方々の気持ちを大切に、皆様とともにムーミンの世界観を伝えるために邁進してまいります。
今後とも何卒皆様の温かいサポートをよろしくお願い申し上げます。」

 このネットの「お知らせ」で経過についてはあらかたの理解が可能である。今後ムーミンキャラクターの使用を認めるに際しては、「反社会勢力(=暴力団)だけでなく、DHCのごとき反人権企業も厳しくチェックをしていく」と言っているのだ。

 問題視されたのは、DHCが8月23日に発売を告知した商品。ムーミンなどの絵柄があしらわれた「薬用リップクリーム」「薬用ハンドクリーム」「オリーブホイップハンドクリーム」の3商品。ムーミンの公式サイトとツイッターでこのことが告知されると、「ブランドにそぐわない」「ショック」などの声が相次ぎ、24日までに告知文は削除されたと報じられている。上記のネットでの「お知らせ」は、「皆様へ不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます」というとおり、ムーミンファンへの謝罪なのだ。

 ムーミンキャラクターズ社では「いかなる差別も、助長ないし許容するものではない」「これは、お互いを認め合い、共存することを尊重していた原作者トーベ・ヤンソンの思想が包摂されています」と説明しているという。DHCの企業体質については、今さら繰り返すまでもない。ムーミンとDHCとは、水と油、氷と炭、月とスッポンなのだ。

 ムーミン社側は、「公式サイトを通じ、様々なお声をいただきましたこと、真摯に受け止めております。ムーミンとムーミンを愛する方々の気持ちを大切に、皆様とともにムーミンの世界観を伝えるために邁進してまいります。」と言っているが、DHC広報部は、取材の各社に「本件に関するコメントは差し控えさせていただきます」と、いつものとおりだ。

 DHCという企業は、オーナー会長吉田嘉明の迂闊なヘイトコメントを中心に、デマとステマとスラップで、企業イメージを著しく損ねて、経営的には大きなダメージを受けている。

 これを回復するために最も望ましいことは、吉田嘉明が全面的に非を認め、悔い改めることである。まずは自社の公式サイトで在日差別に謝罪し、スラップ被害者にも反省と謝罪文を送ることだ。従業員のためにそのくらいのことをしてみてはどうだ。

香港の「法治(法の支配)」と「司法の独立」を揺るがせにしてはならない。

(2021年8月30日)
 香港の事態にこだわり続けざるを得ない。1989年に天安門で起きたことが、今形を変えて香港で進行しつつあるのだ。民主主義崩壊の現実は、とうてい他人ごとではない。目をそらしてはならないと思う。

 伝えられているとおり、8月24日、香港弁護士会(ソリシター(事務弁護士)の団体)は年次総会を開催して、新理事を選任した。理事会は20人で構成されており、今回はそのうち5人が改選となった。

 この小さな選挙が注目されたのは、香港政府の露骨な介入があったからである。もちろん、香港政府の背後には中国共産党の存在がある。中国共産党の恫喝に屈しない「リベラル派」が、どれだけ健在で勢力を維持できるかに関心が集まった。

 林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、香港弁護士会に対して「政治に関与すれば関係を絶つ可能性がある」と警告していた。「関係を絶つ」の具体的な内容は理解し難いが、これが脅し文句になるのだ。「弁護士会は政治に関与せぬのが利口だ」と脅されたのだ。この局面で「政治に関与」と言えば、中国共産党の支配に対する批判の言動意外にはあり得ない。

 本来、弁護士とは反権力・在野の存在、こんな脅しに屈するはずもない、という見方は甘い。「リベラル派」の中心と目されていた現職の候補者ジョナサン・ロスは、「自身や家族の安全を守るため」として立候補を辞退した。「リベラル派」を堅持することは、「自身や家族の安全への危害をも覚悟せざるを得ない」ほどに、厳しいことなのだ。こうして、理事改選は、「親中派」が5議席全部を獲得する結果になった。

 しかし、香港弁護士会、決して抵抗の姿勢を失ったわけではない。同じ総会で、法曹界の大物・馬道立氏(香港最高裁判所の前首席判事)を招聘して記念講演をさせている。

 この人、2010年から21年1月まで最高裁首席判事を務めた人だという。日本で言えば、最高裁長官を10年続けたという稀有な経歴の人。かつての田中耕太郎並みなのだ。これまで、「司法の独立」こそが香港の法制度の肝で、香港の「一国二制度」の核心は「司法の独立」にあると説いてきたのだという。この人の講演が素晴らしい。

 林鄭月娥行政長官とその背後の中国共産党は、「香港弁護士会の政治への関与」を牽制し、「弁護士会は、政治的行動をするな」と恫喝した。馬講演は、これを意識して、《法治や司法の独立は「政治的概念ではない」》という内容だったという。

赤旗(北京=小林拓也)によれば、講演の要旨は以下のとおりである。

「馬氏は「法治は政治的概念ではない。司法の独立も法治の一つに含まれ、これも政治的概念ではない」と強調。また、「法治の側面として、法律の前では公平と平等が求められる」と訴えました。その上で、「香港の法治を支持する発言をすることは、正しいことであり、公共の利益にかなう」と指摘。弁護士会や法律に携わる者は「公共の利益のために活動すべきだ」と述べ、法治や司法の独立のために発言するよう呼びかけました。」

 これを、私流に解釈してみたい。

 「法治」(法の支配)は、合理的な法に従って権力の行使が行われなければならないという大原則である。国家も、党も、党幹部も、法を逸脱することも法を恣意的に枉げることも許されない。司法は、その「法治」の最後の砦である。権力の横暴に毅然として対処しうる「独立した司法部」あればこそ、法治は貫徹される。

 権力にあるものが、「法治」や「司法の独立」を嫌うことは当然である。が、司法の職責にある者の使命は、権力に疎まれることを覚悟して、「法治」や「司法の独立」を全うすることにある。司法が、権力の横暴を許してはならない。弁護士会も司法の一翼を担っている。自らの使命を自覚していただきたい。

 司法の崇高な使命を快く思わぬ権力者は、「法治」や「司法の独立」を、「政治的」として攻撃する。しかし、「法治」や「司法の独立」の原則を敢えて放棄することこそ、まさしく「政治的偏向」なのだ。権力者の言に一歩譲歩すれば、際限なく権力の横暴を許し、人民の権利や自由の抑圧を看過することになる。「法治」も「司法の独立」も、断じて「政治的概念」ではない。権力者の詭弁を許してはならない。

 また当然のことながら、「法治」は、法律の前での公平と平等を求める。権力をもつ者にももたざる者にも同じように法を適用することを形式的平等という。権力をもつ者には厳格に、もたざる者には寛容に法を適用することを実質的平等と言い、公正という。権力者に寛容に、非権力者に厳格に法を適用することは、権力者には望ましいことではあろうが、法律家としては恥ずべきことである。

 あらためて確認しよう。法とは正義である。正義の本質は、多数人民の権利と自由と尊厳を擁護することにあり、その正義は権力の横暴を抑制することによって貫徹される。

 今、世界が注視する中で香港の「法治(法の支配)」や「司法の独立」の原則を守ることは、歴史的な課題となっている。崇高な法律家の使命として、今こそ勇気をもって声を上げよう。「法治」も「司法の独立」も揺るがせにしてはならない。

テロの土壌は「手術では治らない」ー 中村哲医師の名言

(2021年8月29日)
 アフガンから米軍が撤退を開始して、現地にはタリバンの支配が戻りつつある。あらためて、武力による他国への侵攻や支配の当否が話題となり、アフガンという地域の歴史や風土、そして中村哲医師の業績に関心が寄せられている。

 毎日新聞8月27日の「金言」欄に、「手術では治らない」との標題で小倉孝保論説委員が中村医師を回顧している。「手術では治らない」は、中村医師が国会で述べた言葉だ。「手術」とは武力の行使、あるいは武力による威嚇のこと。この場合は、自衛隊のアフガン派兵を意味している。「手術」を必要とする疾患は、「テロ」である。アフガンのテロ組織を根絶するために、自衛隊を現地に派遣してはどうかという議論に対して、現地を最もよく知る中村が、「手術では治らない」と言ったのだ。「自衛隊派遣は、有害無益」とも。

 以下、「金言」の抜粋である。

「米同時多発テロから約1カ月後の2001年10月13日、衆院特別委員会が開かれた。政府は当時、自衛隊が米軍の対テロ活動を支援できるよう法整備を急いでいた。

 軍事評論家らとともに参考人として出席したのが医師の中村哲だった。1983年に国際NGO『ペシャワール会』を設立し、アフガニスタンで農地を作ろうと井戸を掘って水路を通し、隣国パキスタンでも医療活動をしていた。

 中村はアフガンの状況について、『私たちが恐れるのは飢餓』と述べ、テロを抑え込むため自衛隊を派遣することを、『有害無益』と明言する。

 浮世離れした発言と受け止められたのか、議員席には嘲笑が広がった。『有害無益』発言を取り消せとの自民党議員の要求を中村は、『日本全体が一つの情報コントロールに置かれておる中で、率直な感想を述べただけ』と突っぱねている。

 テロを防ぐには敵意の軽減が必要で、武力によってそれは成し遂げられない。『このやろうとたたかれても、報復しようという気持ちが強まるばかり』と述べている。

 国の荒廃や混乱の背景には教育や医療の欠如、貧困や飢えがある。それを人道支援で予防、改善することで、最後の手段であるべき『外科手術』を回避できると中村は考えていた。

 米軍によるアフガン侵攻から20年。飢餓や貧困は改善されず、崩壊したタリバンが勢力を盛り返し、ほぼ全土を掌握した。世界一の「外科医」である米軍をもってしても、アフガンの患部は治癒しなかった。

 中村は2年前、アフガンで武装勢力に銃撃され命を落とした。タリバンが戻ってきた今、この国とどう向き合うか。中村が嘲笑を浴びながら残した言葉にこそ、貴重な答えがある。」

 当日委員会の議事録で、次のような中村の発言を読みとることができる。

○中村参考人 自衛隊派遣が今取りざたされておるようでありますが、当地の事情を考えますと有害無益でございます。かえって私たちのあれ(現地支援活動の成果)を損なうということははっきり言える。笑っている方もおられますけれども、私たちが必死でとどめておる数十万の人々、これを本当に守ってくれるのはだれか。私たちが十数年間かけて営々と築いてきた日本に対する信頼感が、現実を基盤にしないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去るということはあり得るわけでございます。

○中村参考人 現地は対日感情が非常にいいところなんですね。これは世界で最もいいところの一つ。その原因は、日本は平和国家として、戦後、あれだけつぶされながらやってきたという信頼感があるんですね、我々の先輩への。それが、この軍事的プレゼンスによって一挙にたたきつぶされ、やはり米英の走り使いだったのかという認識が行き渡りますと、これは非常に我々、働きにくくなるということがあります。

○中村参考人 私は、テロの発生する土壌、根っこの背景からなくしていかないと、ただ、たたけたたけというげんこつだけではテロはなくならないということを言っているわけです。本当に人の気持ちを変えるというのは、決して、武力ではない。私たち医者の世界でいえば、外科手術というのは最後の手段…。

 中村を嘲笑し、発言を取り消せ、とまで言った自民党議員とは誰だつたのだろうか。特定はできないが、出席議員として衛藤征士郎、下村博文、鈴木宗男などの名が見える。

 中村は、その後2008年11月5日の参院外交防衛委員会でも、要旨次のように述べている。

「ヒロシマ、ナガサキのことは現地の皆が知っており、かつては親日的であった。
 最近は、日本が米軍の軍事活動に協力していることが知れ渡り、日本人も危険になってきた。
 以前は日の丸を付けていれば安全だったが、今は日の丸を消さざるを得ない。」

 「外国軍隊の空爆が治安悪化に拍車をかけている。自衛隊の現地派遣は『百害あって一利なし』。また、現在の給油活動について『油は空爆に使われない』と言っても現地の人には通用しない」

 以上は、中村哲が語る、日本国憲法9条のリアリティである。同医師の早すぎた逝去が惜しまれてならない。

弾劾裁判所は、岡口基一裁判官を罷免してはならない。

(2021年8月28日)
 三権分立の目的は、統合された強力な権力を望ましからぬものとして権力機構を分散させることであり、立法・行政・司法の各部のチェック・アンド・バランスを適切に保つことで、権力機構の一部門への過度の権力集中を抑制することでもある。

 現実には、立法・行政・司法という3部門の中では、得てして行政が肥大化し易く、司法が弱体化しがちである。そこで、「司法の独立」というスローガンが重要な意味をもつ。直接には立法権・行政権からの、そしてその背後にある政治権力からの、「司法の独立」がなくては、法の支配も民主主義政治も人権の擁護も実現し得ない。「司法の独立」あればこそ、数の力を恃む立法府や、強力な権力機構として国民個人と対峙する行政府の専断・暴走を阻むことが可能となる。

 司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。裁判官は、政治権力からも、社会的同調圧力からも、行政府からも、立法府からも独立していなければならない。そのために、裁判官には、憲法上の身分保障がある。

 にもかかわらず、現実の裁判官には、独立の気概に乏しい。その中にあって、司法行政の統制に服することなく意識的に市民的自由を行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。

 そのような貴重な存在としての裁判官として、岡口基一裁判官が目立った存在となっている。明らかに、司法当局の目にも、政権・与党の目にも、目障りな存在となっている。いま、この貴重な裁判官が訴追され、国会の弾劾裁判所にかけられている。その成り行きは、我が国の「司法の独立」の現状を象徴することになる。

 裁判官の身分剥奪は、衆・参議員各7人で構成される裁判官弾劾裁判所の罷免判決以外に手段はない。判決は罷免か否かである。中間の判断はない。
 
 岡口基一裁判官の罷免は、裁判官を萎縮させ、物言わぬ裁判官、政治権力に忖度する裁判官を再生産することにつながる。司法の独立の核心を揺るがすことであり、政治権力による司法部に対する統制を許すことにもなる。けっして岡口罷免の判決をさせてはならない。
 
 下記は、最近立ち上がった、「不当な訴追から岡口基一裁判官を守る会」の共同声明、そして、青年法律家協会・自由法曹団の各抗議・要請の声明である。

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 岡口基一裁判官の罷免に反対する共同声明

 本年6月16日、仙台高等裁判所判事である岡口基一氏が、裁判官訴追委員会により裁判官弾劾裁判所に罷免訴追された。訴追状によれば、都合13件にわたる訴追事由が挙げられているところ、いずれも職務と関係しない私生活上の行状であり、その全てがインターネット上での書き込み及び取材や記者会見での発言という表現行為を問題とする訴追となっている。
 訴追事由13件のうち10件は、殺人事件被害者遺族に関するものであり、その中には遺族に対してなされたものもあり、内容的あるいは表現的に不適切なものもないわけではなく、この点同判事にも反省すべき点があるのかもしれない。しかしながら、弾劾裁判による罷免は、裁判官の職を解くのみならず退職金不支給、法曹資格の剥奪という極めて厳しい効果をもたらす懲罰であり、裁判官の独立の観点から、軽々に罷免処分がなされてはならない。重大な刑事犯罪により明らかに法曹として不適任な者に対してなされてきた従前の罷免の案件とは異なり、本件には刑事犯罪に該当する行為はなく、行為そのものも全て職務と関係しない私的な表現行為であって、従前の罷免案件に比べ明らかに異質である。このような行為に対する罷免は過度な懲罰であり、岡口氏個人としての人権上も極めて問題であるばかりか、裁判官の独立の観点から憂慮すべき事態である。また、本件が先例となることにより、裁判官の表現行為その他私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。本件行為に不適切性があるとするなら、話し合いや直接の謝罪等で解決されるべきであり、罷免とすることは相当ではない。

 私たちは、裁判官弾劾裁判所に対し、従前の案件との均衡や弾劾裁判所による罷免の重大性等を十分考慮の上、罷免しないとする判決をされるよう要請する。

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岡口基一裁判官に対する裁判官訴追委員会による訴追に抗議し、
弾劾裁判所に対し、岡口裁判官に対する罷免の宣告を行わないことを強く求める決議

1 岡口裁判官に対する訴追
 報道によれば、2021年6月16日、国会の裁判官訴追委員会(委員長・新藤義孝衆議院議員)が、岡口基一裁判官(以下「岡口裁判官」という)について、裁判官弾劾裁判所に対して罷免を求めて訴追することを決定したとのことである(以下「本件訴追」という)。

2 弾劾裁判のあらまし
(1) 身分保障の限界としての弾劾
 裁判官の独立(憲法第76条3項)を実効性あるものにするために、裁判官には強い身分保障が認められており、裁判官の罷免は、心身の故障のために職務をとることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない(憲法第78条)。
 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設けている(憲法第64条1項)。裁判官を罷免等する手続きは裁判官弾劾法に定めがあり、まず訴追委員会が開催され、訴追委員会の訴追に基づき、弾劾裁判が行われる。
(2) 訴追委員会の訴追と弾劾裁判
 裁判官弾劾法に基づき設置され衆・参議員各10人で構成される裁判官訴追委員会は、裁判官弾劾裁判所への訴追権を独占する機関である(裁判官弾劾法第5条、第14条)。
 衆・参議員各7人で構成される裁判官弾劾裁判所が、訴追された裁判官に罷免事由があると判断して罷免の裁判を宣告した場合には、当該裁判官は裁判官としての職を失うとともに(裁判官弾劾法第37条)、事実上法曹資格も失う(弁護士法第7条2号、検察庁法第20条2号)。
 弾劾による罷免事由は?職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったとき?その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき、のいずれかに該当する場合にのみ認められる(裁判官弾劾法第2条)。

3 過去の罷免事例
 日本国憲法制定後現在に至るまで、弾劾裁判所への訴追事件は9件である。
 そのうち罷免となったのは、?事件記録を放置して395件の略式命令請求事件を失効させたり知人の相談を受けて逮捕状を発したりした事案(1956年)?調停の申立人から酒食の饗応を受け、相手方の親戚の調停委員に酒を持参したりした事案(1957年)?検事総長の名をかたって内閣総理大臣に電話をかけた謀略電話の録音テープを新聞記者に聞かせた事案(1977年)?担当する破産事件の破産管財人からゴルフクラブ等の供与を受けた事案(1981年)?現金の供与を約束して児童買春した事案(2001年)?裁判所職員にストーカー行為をした事案(2008年)?電車内で下着を盗撮した事案(2013年)の7件である。
 いずれも重大な犯罪行為や違法行為もしくはそれに類する著しい不正行為が問題とされたものである。

4 本件訴追の問題点
(1)  本件訴追は裁判官の表現の自由を侵害するもの
 憲法第76条3項が、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めているのは、裁判の公正を保つために、裁判官に対する不当な干渉や圧力を排除し、裁判官の独立を実現するためである。
 裁判官に強い身分保障を認めることで裁判官の独立を確保しようとした憲法の趣旨からすれば、国会議員により構成される弾劾裁判所によって恣意的な裁判官の罷免がなされることはあってはならず、罷免事由としての「職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったとき」「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」は極めて厳格に解釈されなければならない。
 本件訴追の対象となった具体的事実は未だ明らかではないが、報道等によれば、SNSでの発信やラジオ番組での発言が対象となったようである。対象となった言動が重大な犯罪行為や違法行為を構成するものであるということは現時点では認められず、各種報道および岡口裁判官自身の発信からすれば、過去の罷免事由に匹敵するような「裁判官としての威信を著しく失うべき非行があった」事実はうかがえない。
 そもそも、裁判官であっても、一市民として憲法上の権利を有することは当然であり、裁判官にも表現の自由は保障される(憲法21条1項)。SNSでの発信やラジオ出演といった表現行為も、当然憲法上の権利としてすべての裁判官に保障されるものであり、岡口裁判官以外にもSNSを利用している裁判官や書籍を出版している裁判官、テレビ出演をする裁判官は存在している。
 従前罷免事由に該当するとされた事案は主として重大な犯罪行為や違法行為等一見して明白な非行行為というべき事案であったところ、そのようなものに該当しない岡口裁判官の表現行為について本件訴追の対象とされたのであれば、訴追委員会の決定は岡口裁判官の表現の自由を侵害するものである。
 SNSやラジオでの発言等について、一般的には表現の自由の範囲内にとどまるものであるにもかかわらず、当該発言者が裁判官であるということをもって罷免事由とされ失職し法曹資格を失うという先例ができれば、裁判官の表現行為に対する絶大な委縮効果となり、他の裁判官の表現の自由も侵害される結果となる。
(2)  裁判官の独立を犯し市民の裁判を受ける権利の侵害につながること
 岡口裁判官の表現行為は、これまでの過去の罷免事由と比べても、「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」に該当するとは言い難く、表現行為そのものを理由としてなされた本件訴追は、恣意的・濫用的なものと言わざるを得ない。
 このような裁判官に対する弾劾制度の濫用がまかりとおれば、裁判官の独立は画餅に帰し、市民の人権を擁護すべき裁判官としての使命を十分に果たすことができなくなるのは必至である。その結果として犠牲になるのは市民の裁判を受ける権利である。
 これまでも、平賀書簡事件や宮本裁判官再任拒否事件、寺西判事補事件など、最高裁判所がその人事権を利用して裁判官の独立を侵害する行為が繰り返されてきた。岡口裁判官についても、その表現行為に対する戒告処分が最高裁判所によりなされているが、この戒告処分については、当部会は2018年12月1日、岡口裁判官の表現の自由を不当に侵害するとともに、裁判官の独立をも脅かすものであるとして「岡口基一判事に対する戒告処分に対し、強く抗議する決議」を挙げているところである。しかし今回の事態は、国会議員により構成される訴追委員会が裁判官の表現行為を問題視し、弾劾裁判所を通じて恣意的に露骨な統制を行おうとしているという点で、これまでとは次元が違うものであり、裁判官の独立を侵害する極めて深刻な事態である。
 とりわけ岡口裁判官は、2020年の検察庁法改正問題について政府・与党の立場とは異なる見解を法律家として発信したり、LGBTQなどの少数者の人権保障を推進する立場からの発信等をしたりしているが、本件訴追にはそのような岡口裁判官の存在について疎ましく思う勢力の意向が強く反映されている疑念を抱かざるを得ない。
 これは、岡口裁判官個人の問題にとどまらず、すべての裁判官、ひいてはすべての市民の人権にかかわる重大な憲法上の問題である。

5 結論
 当部会は、訴追委員会による本件訴追に対して、強く抗議をするとともに、弾劾裁判所に対し、岡口裁判官に対する罷免の宣告を行わないことを強く求めるものである。

2021年6月27日

青年法律家協会弁護士学者合同部会
第 5 2 回  定  時 総 会

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岡口判事に対する訴追及び職務執行停止決定に抗議し、
裁判官の独立の保障を求める声明

2021年8月27日

自 由 法 曹 団 
団長  吉田健一

1 国会の裁判官訴追委員会は、本年6月16日、岡口基一判事(以下「岡口判事」という)について、裁判官弾劾裁判所に対し罷免を求め訴追し、これを受理した裁判官弾劾裁判所は、本年7月29日、岡口判事の職務を停止する決定をした。これらは、いずれも憲法の保障する裁判官の独立を侵害するものであり、自由法曹団は裁判官訴追委員会、及び裁判官弾劾裁判所に対し、厳重に抗議する。
2 憲法は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定め(憲法76条3項)、裁判官の独立を保障すると共に、それを実効あるものとするため、強い身分保障を定めている。そのため、裁判官は、心身の故障のために職務をとることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない(憲法78条前段)。弾劾による罷免事由は?職務上の義務に著しく違反し、または職務を甚だしく怠ったとき、?その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき、のいずれかに該当する場合にのみ認められる(裁判官弾劾法2条)。
3 このように裁判官の独立が認められ、身分が強く保障がされているのは、裁判が公正に行われ人権の保障が確保されるためには、裁判官がいかなる外部からの圧力や干渉をも受けずに職責を果たすことが必要であるからである。さらに司法権は非政治的権力であり、もともと政治権力からの干渉の危険が大きく、それを許すと司法の本来的役割である少数者の人権保障を図ることができなくなる。したがって、とりわけ政治権力からの独立を確保することが重要だからである。
4 弾劾裁判所への訴追権を独占する訴追委員会の委員も、罷免の判断をする弾劾裁判所裁判員も衆参両議院の議員のみで構成されるので(裁判官弾劾法5条1項、16条1項)、これが三権の相互抑制機能の一つとして国会に認められた権限(憲法64条)であるとしても、裁判官の独立が特に政治権力からの独立を強く要請されていることに鑑みれば、その権限行使は自ずと慎重かつ抑制的であることが求められる。
そのため、これまで弾劾裁判所へ訴追され罷免となった事案は、検事総長の名を語って内閣総理大臣に電話をかけた謀略電話の録音テープをメディアに提供したものや、児童買春、裁判所職員へのストーカー行為、電車内での下着の盗撮等の明白かつ重大な犯罪行為や違法行為等に限られているのである。
5 今回、訴追の対象となったのは、報道等によれば、岡口判事の自ら担当していない民事事件及び刑事事件のSNSや自らのブログへの投稿内容が問題とされたようである。しかし、その発言についても、少なくとも明白かつ重大な犯罪行為や違法行為、あるいはそれに匹敵するものは見当たらず、これまでの罷免事由とされたものと同等のものは存在しない。むしろ、裁判官であっても市民としての表現の自由は当然保障されるものであり、今回の訴追は、表現の自由の侵害という意味で重大であると共に、また当該表現内容についての評価が分かれるとしても、このような問題について弾劾の対象とすることは、政治権力からの干渉を呼び込む余地を常に残すものとなり、裁判官の独立は重大な危機に瀕することとなる。ひいては公正な裁判の実現が阻害され、司法による国民の人権保障そのものが機能しなくなることさえ危惧される。
6 職務の停止についても同様である。弾劾裁判所は「相当と認めるとき」に、訴追を受けた裁判官の職務を停止することができる(弾劾裁判所法39条)が、この「相当と認めるとき」についても、裁判官の政治権力からの独立が強く要請されていることに鑑みれば、当該裁判官が職務を行うことそのものが「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」と同視できる場合に限定されると解すべきである。そうでなければ罷免の結論が出る以前に、安直に同等の効果を及ぼすことが可能となり、裁判官の身分保障に真っ向から反することになるからである。
岡口判事は、犯罪行為を行ったものでも、違法行為を行ったわけでもないのであるから、同人が職務を行うことそのものが「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」と同視できる場合に該当しないことは明らかであろう。
7 裁判官の独立、身分保障は、公正な裁判を実現するための不可欠の前提である。これまで述べてきた通り、その中でも、とりわけ重要なのが政治権力からの独立であり、これが担保されなければ、国民の人権保障は実現されない。
岡口判事に対する今回の訴追、及び職務停止は、いずれも罷免事由としての合理性・相当性を欠き、結果として裁判官への政治的干渉となっており、到底看過することはできない。
 自由法曹団は、弾劾裁判所に対し、岡口判事の職務停止を直ちに撤回するよう求めると共に、罷免の裁判をすることのないよう強く求める次第である。
                              
以上

いま、教育現場はどうなっているのか。久保敬校長の「提言」に真摯に耳を傾けよう。

(2021年8月27日)
 8月23日の当ブログで、維新の松井一郎を、傲慢で愚かな市長と批判した。が、どうも言葉が足りない。もっと、ことの本質に立ち入って論じなければならない。

 問題は、大阪市教委が市立木川南小の久保敬校長を文書訓告としたことで世間の耳目を集めることとなった。この文書訓告の根拠とされたのが、同校長が大阪市長松井一郎に宛てた本年5月17日付の「大阪市教育行政への提言」である。これは単に、松井一郎の「思いつき」「気まぐれ」によるオンライン授業を巡る現場の混乱を告発すだけのものではない。「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」という副題のとおりの、堂々たる教育論なのだ。いや、堂々たるというよりは、現場から発せられた、悲鳴にも似た切実な教育論というべきだろう。しかも、教育に対する熱い情熱が胸を打つ。

 当時、朝日デジタルがその全文を掲載した。あらためてこれを末尾に転載させていただく。まずは、名指しされた松井一郎は、真摯にこれに答えなければならない。大阪市の教委も、その事務局も、市議会もこの「提言」を素材に、公教育の現状とあるべき方向を真剣に議論しなければならない。

 市教育委員会は久保敬校長を招聘して議論を尽くすべきだし、市議会各派は久保敬校長から教育現場の現状と教育行政の問題点について意見を聴くべき場をつくるべきだ。聞く耳もたず、文書訓告とはどういうことだ。松井に至っては「文句を言う校長は辞めろ」と言わんばかり。世の中、おかしいのだ。

 「提言」が提起した問題は、大阪市に特有のものではない。府下の学校も、全国の学校も共通の問題を抱えているはずだ。久保敬校長の危機意識が共有されなければならない。議論が巻き起こらねばならない。

 虚心に提言を読んでみよう。この提言は、大阪市教育行政の現状を根底から批判している。表題が、「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」である。大阪の学校現場には、「豊かな学校文化」が失われているのだ。「学び合う学校」にもなっていない。

 「提言」は、学校の現状について、「学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している」、ずばりそう表現している。子どもたちは商品となって、テストの点によって品質管理されている。やがて商品は買い手によってテストの点を品質の基準として選別される。そのため、子ども同士は、日々の「点数競争」に晒されている。

 教職員は、商品工場の品質管理担当者となっている。子どもの成長にかかわるべき教育の本質に根ざした働きができず、何のためかわからないような仕事に追われ疲弊し、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。というのだ。

 その結果、子どもの幸せはどうなっているのか。

 「虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。」「グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが『がんばった人間』として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。」


 ここで語られているのは、社会が求める型に合わせて人を作ろうという教育への疑問である。そのための、点取り競争の教育が、子どもを不幸にしているというのだ。こういう叫びが、教育現場の校長から発せられていることを重く受けとめねばならない。そして、「提言」の最後はこう結ばれている。

「根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。」

 これが、直接には、市長・松井一郎に宛てた「提言」となっている。残念ながら、松井は、この提言を咀嚼する意欲も能力もない。教育とは何であるか、子どもの成長とはどういうことであるか。本来学校は、社会は、どうあるべきか、社会と個人の関係は…。そして、教育行政は何をなすべきで、何をしてはならないのか。これらのことを考えたこともないようだ。

 松井は、この提言に関する感想を、「校長なのに現場が分かってない」「社会人として外に出たことはあるんか」などと述べたという。まったく、何にも分かってはいないのだ。分かろうともしていない。実は、教育には何の関心もなく、考えているのは、自分の地方政治家としての評判のことだけ。虚しい願望かもしれないが、せめて現場の声に耳を傾け、現場を尊重し、現場とともに考え悩む市長であって欲しい。

 あらためて嘆かざるを得ない。こんな人物を市長にしていることが、大阪の悲劇であり、市民の不幸なのだ。教育を変える運動は、市長を換える課題と結びつかざるを得ない。

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大阪市長 松井一郎様

大阪市教育行政への提言
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために

 子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。
 学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。
 今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。
 現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。
 また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
 つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚(むな)しく、わたしたちの教育への情熱を萎(な)えさせるものか、想像していただきたい。
 子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。
 あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

 間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

 「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

 コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

 根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。

令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校 校長 久保 敬

愚者・愚問・愚答のぐしゃぐしゃ

(2021年8月26日)
(以下は、すべてフィクションである。このフィクションに多少のリアリティがあるとすれば、登場人物に多少の責任があるからである)

記者  二階幹事長に伺います。横浜市長選では、首相のお膝元で首相ご自身が全面支援した小此木氏が大差で敗れましたる。ご感想を。

二階俊博幹事長  選挙の結果については、我々は謙虚に受け止めたいと思っております。一方で、コロナ禍で国民の不満が政権政党に向かうのは当然で、菅首相はしっかりやっていると思いますよ。

記者  自民党の党内には、菅首相では総選挙は戦えないとの声がで広がっているとの報道もありますが。

二階  それは党内には、いろんな意見がありますよ。しかし誰々さんでは選挙を戦えないというのは、失礼な話だよ。

記者  焦点となっている自民党総裁選ですが、菅首相再選支持の考えに変わりはありませんか?

二階  もちろん変わりはありません

記者  二階派としても支持されるお考えですか?

二階  当然のことではありませんか。愚問だよ!

記者  えっ? 愚問ですか。どうして愚問なんですか。

二階  理由など述べる必要はない。答の分かりきった問いを愚問という。

記者  そんなに分かりきったことなのですか。

二階  それこそ愚問だ! 答える必要はない。

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 菅義偉や小池百合子など40人が、パラリンピックの開幕前夜「歓迎の夕べ」とするパーティーを開催した。

記者  組織委広報担当の高谷さんに伺います。5人以上の会食は控えるように要請をしている方たちのパーティーですが、感染リスクはお考えにならなかったのでしょうか。

高谷正哲・組織委広報担当  あいさつの場をもつことは社会の慣習で、適切な対応ではないでしょうか。

記者  多人数の会合で、感染リスクはお考えにならなかったのかと。

?谷  質問の意図するところが分かりませんね。

記者  意図はともかく、感染リスクはお考えにならなかったのかと。

?谷  愚問ですよ!

記者  えっ? 愚問ですか。どうして愚問なんですか。

?谷  理由など述べる必要はありません。答える必要のない問いを愚問という。

記者  どうして答える必要がないのですか。

?谷  それこそ愚問だ! 答える必要などない。

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記者  小池百合子知事に伺います。9月1日の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に追悼文を送らないのでしょうか。

小池百合子都知事  出しません。その必要がないからです。

記者  でも、以前の歴代都知事は追悼文を送っていましたし、都知事に対して、追悼の気持ちを表してほしいという都民の要望も強いのではありませんか。

小池  反対のご意見もございますし、その日に東京都は全ての犠牲者に哀悼の意を示す慰霊祭を挙行しますから、個別の追悼文は控えさせていただきます。

記者  人の手で命を奪われた犠牲者の追悼には、謝罪の気持ちや責任への言及が伴うと思うのです。自然災害の犠牲者の慰霊と一緒にすると謝罪も責任も不問となりはしませんか。

小池  愚問ですね。

記者  えっ? 愚問ですか。どうして愚問なんでしようか。

小池  愚問はあくまで愚問。なぜ愚問かなんて質問は、それこそが愚問。

記者  それでは、記者会見にならないのではありませんか。

小池  そうよね。もうやめましょう。

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記者  菅総理にお伺いします。どの世論調査も、内閣支持率は低迷しています。横浜市長選挙では、総理の推す候補が惨敗しました。世論の菅内閣を見る目はたいへん厳しくなっていますが、その原因はどこにあるとお考えでしょうか。

菅義偉首相  政府としては国民に対する安全安心な生活の確保を責務とし、コロナに対する医療態勢の整備を最優先で取り組んでおります。この急激な感染拡大を阻止して安定したかつての日常を一日も早く取り戻せるように、しっかりと全力で取り組んでまいります。今、明かりははっきりと見えはじめています。

記者  そのような、コロナに対する政府の方針が具体策を欠いて、国民からの信頼を得られていないというご認識はお持ちでしょうか。

菅  政府としては国民に対する安全安心な生活の確保を責務とし、コロナに対する医療態勢の整備を最優先で取り組んでおります。この急激な感染拡大を阻止して安定したかつての日常を一日も早く取り戻せるように、しっかりと全力で取り組んでまいります。今、明かりははっきりと見えはじめています。

記者  政府の方針を楽観的すぎるとして、不満・不安を述べる国民の声は日増しに高まるばかりです。至急に野党が求めている臨時国会を開いて、野党とともに効果的な対策を講じていこうというお考えはありませんか。

菅  政府としては国民に対する安全安心な生活の確保を責務とし、コロナに対する医療態勢の整備を最優先で取り組んでおります。この急激な感染拡大を阻止して安定したかつての日常を一日も早く取り戻せるように、しっかりと全力で取り組んでまいります。今、明かりははっきりと見えはじめています。

記者  別の質問です。そのペーパーは引っ込めてください。必ずしも、菅再選を望む国民の暖かい声があるとは思えないなかで、近づく総裁選への出馬の意思は変わらないでしょうか。

菅  これまでも申し上げたとおり、時期がくれば出馬をさせて頂くのは当然ではありませんか。

記者  自民党や公明党の内部には、菅総理を与党の顔として次の総選挙は戦えないという意見があるやに伺っていますが、後進に道をお譲りになる気持ちはありませんか。

菅  愚問だね!

記者  えっ? 愚問ですか。どうして愚問なんですか。

菅  失礼じゃないですか。理由など答える必要もない。

記者  世論の風は厳しい。いま総理は、どう身を処すべきとお考えか。国民の関心事です。それをどうしてお答えの必要がないとおっしゃるのでしょうか。

菅  それこそ愚問だ! 答える必要などない。

記者  総理、総理。まだ、質問があります。逃げないで、お答えください。総理、総理……。ダメだこりゃ…。

「明治天皇の玄孫」を自称の竹田恒泰、重ねてのスラップ敗訴。

(2021年8月25日)
 竹田恒泰という「右翼言論人」が起こした典型的なスラップ訴訟、東京地裁でみっともない負け方をしたのが今年の2月5日。下記URLで判決全文が読めるが、この判決を読む限り、当然に負けるべくして負けた請求棄却判決。明らかな無理筋の提訴なのだ。

https://yamazakisanwosien.wixsite.com/mysite/%E8%A3%81%E5%88%A4%E8%B3%87%E6%96%993

 その後のことを知らなかったが、竹田は控訴していた。昨日(8月24日)東京高裁で、控訴棄却の判決言い渡しとなったという報道である。当然の判決で、竹田には恥の上塗りとなった。

 時事の配信記事では、「作家の竹田氏、二審も敗訴」「差別指摘は『公正』 東京高裁」と見出しを付けている。この報道が要約する高裁判決の内容は、以下のとおりだ。

「ツイッターで『差別主義者』『いじめの常習者』などと指摘されたのは名誉毀損だとして、作家の竹田恒泰氏が紛争史研究家の山崎雅弘氏に550万円の損害賠償と投稿の削除などを求めた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であり、高橋譲裁判長は『各ツイートは公正な意見論評の表明』とし、竹田氏側の控訴を棄却した。
 
 判決などによると、山崎氏は2019年11月、竹田氏が富山県朝日町教育委員会主催の講演会に講師として招かれることについて、中高校生に『自国優越思想』を植え付けるなどと批判する投稿をしていた。

 高橋裁判長は、竹田氏が書籍やツイートで中国や韓国に対し攻撃的、侮蔑的表現を多数使用したと認定。山崎氏の投稿は『(竹田の)言動や表現方法から導かれる意見論評として不合理と言えない』と結論付けた。」

 時事の報道では、「控訴審判決は、竹田の言論を中国や韓国に対し攻撃的、侮蔑的表現」と認定。これを根拠としての竹田に対する「自国優越思想」「差別主義者」「いじめの常習者」という批判は許容されることが明らかになった。竹田は、藪を突いて蛇を出した。あるいは、啼いたばかりに撃たれたのだ。

 とは言え、スラップは言論の自由に対する敵対行為である。スラップの被害は被告とされた特定の人だけにとどまるものではない。多くの表現者の言論を萎縮させる。自由な言論に支えられている民主主義社会全体が被害を受ける。

 竹田は心の底ではこう思っているかも知れない。「裁判には負けたが、山崎には労力も時間も金も使わせた。竹田を叩けば本当に裁判をかけてくるという実績を作ったのだから、提訴は無駄ではなかった」と。

 だから、スラップ訴訟には反撃が必要なのだと思う。この点については、この訴訟の一審判決の直後に下記の記事を書いたので繰り返さない。

竹田恒泰のスラップ完敗判決から学ぶべきこと(2021年2月7日)
https://article9.jp/wordpress/?p=16267

 前回触れなかったこと、2点についてコメントしておきたい。

 山崎雅弘のツィートに、下記の記事がある。

「先方の意図はよくわかりませんが、(スラップの)訴状に『原告(竹田恒泰)は、作家で明治天皇の玄孫にあたり、』と書いてあります。作家は職業なので普通だと思いますが、誰々の子孫という家柄の話は本人の能力と関係ない偶然の産物ですから、裁判の訴状に書く人はあまりいないのでは、と想像します。」

 山崎という人は実に慎み深い。「先方の意図はよくわかりません」「誰々の子孫という家柄の話は…訴状に書く人はあまりいないのでは」という程度で筆を納めている。私は、竹田も竹田だが、こんなことをわざわざ書いた代理人弁護士の感覚を疑う。

 「差別主義者」「自国優越思想」の適否を問題としている訴訟である。原告自ら、天皇の係累であることをひけらかしてどうする。墓穴を掘るに等しい。本気で勝つ気のない裁判であることを自白しているのではないか。

 天皇こそが差別構造の象徴であり、その頂点に位置するものである。竹田の寄る辺は、前世紀の遺物としての血筋・家柄しかないのだ。最も恥ずべき、最も唾棄すべき人格としての家柄自慢。これ、「差別主義者」の心理以外のなにものでもない。

 そして、もう1点。下記の一文をお読みいただきたい。誰の文章で、誰に宛てたものか、すぐにお分りだろうか。

「私の経験上、弁護士の多くは負けることが分かっていても訴訟したがります。負けてもお金になるから。あなたの知り合いの弁護士は、負けるリスクについても説明したのですかね? 私の弁護士は、勝ち目のない訴訟はやめるように助言してくれます。それが本当に信頼できる弁護です。」

 常識的には、「私」は山崎雅弘で、「あなた」は竹田恒泰のように読めるだろう。スラップを提訴したのは、竹田恒泰の方なのだから。しかし、事実は奇であり、常識でははかれない世界の話。これは竹田恒泰のツィート(2019年11月29日午後11:42)である。「あなたの知り合いの弁護士」は、原文では「山崎雅弘氏の知り合いの弁護士」となっている。

 不思議に思う。竹田恒泰が、自分が代理人として選任した弁護士から、敗訴のリスクを聞かされなかったはずはない。「勝ち目のない訴訟はやめるように助言」を受けたはずなのだ。敗訴によるダメージは決して小さくはない。現実に、敗訴を重ねた今、弁護士との信頼関係はどうなつているのだろうか。

 もし、適切な助言なしに竹田のいう「勝ち目のない訴訟」に敢えて及んだとすれば、代理人弁護士の責任は大きい。この点は、下記の当ブログを参照いただきたい。

澤藤統一郎の憲法日記 ? スラップの提訴受任は、弁護士の非行として懲戒事由になり得る ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第193弾 (article9.jp)

 控訴審判決書を受領した日の翌日から起算して14日以内であれば、敗訴者側は上告・上告受理申立が可能である。負けることが分かっていても、竹田は上訴することになるのだろうか。3度目の恥の上塗りは、おやめになった方がよいのだが。 

菅義偉は地元横浜市で大敗した。野党共闘の実績が一つ積み上げられた。

(2021年8月24日)
 「20時当確」という言葉は聞いていたが、「ゼロ打ち」は知らなかった。8月22日20時。横浜市長選の投票箱が閉まると同時に、メディア各社は一斉に山中竹春当確と報じた。開票率ゼロパーセントで当確を打ったのだ。この瞬間に、小此木八郎の大敗が確実となり菅政権が大きく揺れた。

 この選挙では、誰が当選するかではなく、もっぱら小此木八郎の勝敗が焦点だった。菅政権の命運を占うものとして注目されたのだ。菅義偉の政治家としての出身地、いまだに地元とも、お膝元とも言われる横浜である。菅と小此木との関係は、切っても切れない間柄。しかも、小此木八郎は現役閣僚を辞しての出馬。菅も、ここは自分の政治生命に直結する踏ん張りどころと、なりふり構わず前面に出た。その結果が、「ゼロ打ち」である。菅から見れば「ゼロ打たれ」。自業自得とは言え、菅の衝撃やいかばかり。

 「ゼロ打ち」は、小此木ではなく、明らかに菅内閣への不信任である。とりわけ、コロナ対策への無為無策に対する市民の苛立ちの表明。コロナ禍の中で、市民は政権のあり方が自分の命や暮らしに直結することを実感し始めているのだ。だから、投票率も上がった。だから、次の総選挙、決して菅義偉安泰ではないのだ。

 菅の選挙区は神奈川2区、横浜市の西区・南区・港南区がその区域。今回の山中票と小此木票の出方を較べてみると以下のとおり。

 西 区 (山中)13,103票 30.79% (小此木)9,362票 22.00%
 南 区 (山中)23,765票 31.84% (小此木)18,275票 24.10%
 港南区 (山中)31,246票 33.72% (小此木)21,016票 24.10%

 1994年の小選挙区制導入以来、8回の選挙で菅義偉は連続当選を果たしている。その菅の選挙区で、小此木は圧倒的に負けているのだ。闘い方次第では、次の選挙で菅落選もあり得なくはない。

 カジノ(IR)問題はやや影が薄くなった感があるが、本日の朝日社説がこう論じている。これは、重要な指摘だと思う。

 首相は安倍前政権の官房長官当時からIRの旗振り役を務め、地元横浜市は候補地として有力視されていた。にもかかわらず、今回、(IR反対に転じた)小此木氏支持を打ち出したのは、市民の間に反対が強いとみて、野党系市長の誕生阻止を最優先したのだろう。
 IRには、ギャンブル依存症の増加やマネーロンダリング(資金洗浄)、治安の悪化などの懸念がある。推進の林氏の得票率は13%にとどまった。首相はこの機会に、IR政策全体の見直しに踏み込むべきだ。でなければ、小此木氏支援はご都合主義の極みというほかない。
 本来であれば、IR誘致をどうするのか、方針を転換するならするで、党内論議を重ね、意思統一をしたうえで有権者に提示するのが、政党としてあるべき姿だろう。自民党のガバナンスもまた問われている。

 そして、もう一つの注目点が、「カジノ反対の市長を誕生させる横浜市民の会」などの市民運動とも連携した野党共闘の成果である。朝日社説は、こう触れている。

「当選した山中氏は、共産、社民両党も支援する、事実上の野党統一候補だった。内閣支持率が下がっても、野党の支持率は低迷が続くが、しっかりした受け皿を用意できれば、政権への批判票を呼び込めることが示された。総選挙でも有権者に認められる選択肢を示せるか、野党の協力が試される。」

 野党は4月の衆参3補選・再選挙で「全勝」し、東京都議選でも議席を伸ばしている。共闘ができれば大きな勝利の展望が開けることの実証を、また一つ積み上げた。共闘は難しいが、総選挙目前の今喫緊の課題なのだ。

松井一郎はん、間違うてんのはあんたや。人の言うこと、よう聞きなはれ。

(2021年8月23日)
 世の中は広い。考えられないほど傲慢で愚かな市長がいるし、わけの分からぬ教育委員会もある。そして、何と硬骨な校長もいるものだ。なるほど、この混沌が大阪なんだ。

 《『混乱極めた』オンライン授業巡り、大阪市長批判の小学校長処分》という報道。教育行政のあり方や、言論の自由の意味、そして言論の自由を抑圧することの深刻な意味などについて考えさせられる。あわせて、ものの言えない鬱屈した教育現場の惨状があぶり出されてもいる。なるほど、これが大阪の教育の実態なんだ。維新の勢力が跋扈しているうちは、大阪はアカンとちゃうか。

「大阪市立小中学校が4?5月の緊急事態宣言下に実施したオンライン学習を巡り、「学校現場が混乱した」などと指摘した提言が地方公務員法が禁じる信用失墜行為に当たるとして、市教育委員会は8月20日、市立木川南小(淀川区)の久保敬校長を文書訓告にした。

 市教委は4月、松井市長による突然の方針表明を受け、原則としてオンライン学習を実施するよう各校に通知した。しかし、多くの学校でネット環境が整っていなかったため、授業動画の視聴にとどまるなど満足に実施できず、学校現場や保護者から不満の声が上がっていた。

 久保校長は5月に松井市長や市教育長に実名で提言書を送付した。「市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈した」と指摘。「学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている」とし、教育行政の見直しを訴えた。

 これに対し、松井市長は「言いたいことは言ってもいい」としたうえで「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」と批判していた。」

 以上が、報道されている経過の概要である。文書訓告は地方公務員法上の懲戒処分ではないが、その前段階。もう一度同様のことがあれば懲戒するぞ、という警告の意味をもつ。教委の訓告の理由は、「他校の状況を把握せず、独自の意見に基づいて市全体の学校現場が混乱していると断言したことで市教委の対応に懸念を生じさせた」「さらにSNSで拡散されたことが信用失墜行為に当たる」というもの。

 誰が見てもこの訓告理由はおかしい。言外にこう言っているのだ。

「長いものには巻かれろ、出る杭は打たれる言うやおまへんか。もの言えばくちびる寒しでっせ。あんさんも校長や、子らには上手な世渡り教えなならん立場や。市長に逆ろうてもどないもならんことはようお分かりのはずやし、子らにも分を弁えるよう、手本をみせなならん。わしらも、教育委員いうたかて名ばかりや。何の権限もおませんのや。ここは、文訓程度でおさめるのがええとこや。腹も立とうが、何とか呑み込んでいただきとうおますのや」

 松井は、この校長に「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」と言っている。多様性を否定し、批判を封じ、教育を「一つの方向性」に引っ張っていこうという危険な発想。「組織を去るべきだ」は、『非国民』思想の復活ではないか。

 松井一郎の間違いは、大きく2点ある。事前に教育現場の教育専門家の意見を聴いていないこと。だから現場は混乱し、だから校長からも批判の声が上がるのだ。さらに、事後にも現場からの批判の声に耳を傾けようという姿勢のないことだ。

 この経過は看過しがたい。民主主義とは、選挙での為政者への白紙委任ではない。誰もが、常に、為政者を批判できる。為政者は批判の声に謙虚に耳を傾け、政策の修正に努めなければならない。久保校長の提言は「通信環境の整備など十分に練られること(が)ないまま場当たり的な計画で進められ」「保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている」というもの。この見解は、保護者へのアンケート調査までしての結論。松井はこの提言に聴く耳を持たない。聴く耳を持たないどころか、「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」というのは、言語道断。これが維新の体質と理解するしかない。維新に権力を握らせることは、恐ろしい。

久保校長はこうも述べているという。

「37年間大阪で教員として育ち、本当に思っていることを黙ったままでいいのかなと。お世話になった先生方や保護者、担任をした子どもを裏切ってしまう感じがした」「今まで黙ってきた自分はどうなんやろうっていうのを、自分自身に問いかけた」

ものを言いにくい現場の空気と、意を決しての発言であることが伝わってくる。また、こうも報じられている。

「60代の市立小学校長は『声を上げにくい中でよく言ってくれた』と提言書の内容を支持した。区内の校長の間でも共感する声が多いという。『これまでも教育現場の声を聞かずに色んなことが決められてきた』。今回のオンライン学習の方針も同じだと感じるという。」

 「阿倍野区の市立小学校の50代男性教諭は通信環境が整わない中でオンライン学習を進めざるを得ず、児童の学習に遅れが出ていることに危機感を抱く。「私たちは決まった方針に対して何も言えず、従うしかない。諦めていたが、この提言に心から賛同したい」と話した。

 声を挙げることの困難な教育現場。声を押し潰そうという傲慢な小さな権力と、それに抗って発言しようとする良心の角逐。今、どこにもある光景であるが、実は深刻な光景なのだ。

香港に際限なく拡大し続ける「The Nothing」(無)

(2021年8月22日)
 香港情勢の報道には胸が痛む。民主的な運動に携わっていた人々が、野蛮な権力に次第に追い詰められている。歴史は、必ずしも進歩するものではなく、正義は必ずしも勝利するものでもない。この理不尽が、現実なのだ。
 
 ドイツの作家ミヒャエル・エンデのファンタジー「はてしない物語」(ネバーエンディング・ストーリー)を思い出す。「The Nothing」(無)の膨張によって崩壊の危機に瀕した異世界の物語り。あの異世界は中国のことであったか、「The Nothing」(無)とは中国共産党のメタファーであったか、今にしてそう思う。

 国家安全維持法施行以来、じわじわと香港での「The Nothing」(無)の膨張は続いている。民主派メデイアの「リンゴ日報」が廃刊になり。最大教員組合の「香港教育専業人員協会」(教協)が解散となり、今度は、「民陣」への弾圧。そして、弁護士協会も危ない。

 以下は、赤旗【北京=小林拓也】の報道である。見出しは、「香港民主派団体「民陣」が解散」「大規模デモ主催 弾圧で運営不能に」「主要幹部相次ぎ逮捕 『市民に感謝』と声明」

 香港で大規模デモを主催してきた民主派団体「民間人権陣線(民陣)」が15日、解散を宣言しました。昨年6月末の国家安全維持法(国安法)施行後、主要メンバーが次々逮捕され、事務局の機能が維持できなくなったのが理由。民陣は解散を宣言した声明で「香港人がんばれ。人がいれば希望はある」と呼び掛けました。

 民陣は2002年、民主派政党や団体によって創設。毎年7月1日の香港返還記念日デモなどの大規模デモを主催。「平和、理性、非暴力」を掲げ、デモによる市民の政治的意見表明を主導してきました。03年7月には50万人デモで「国家安全条例」案を撤回に追い込みました。19年6月には「逃亡犯条例」改定案に反対するデモを呼び掛け、最大で200万人が参加。その後の反政府行動でも重要な役割を果たしました。

 国安法が施行された直後の昨年7月1日にもデモを呼び掛けました。しかし同法による弾圧が強まる中、今年の7月1日は創設以降初めてデモを行いませんでした。昨年来、民陣の元代表4人が逮捕され、実刑判決を受けた人もいます。弾圧により事務局の運営が不可能になったとして、13日の会議で解散を決めました。

 香港警察は、民陣やそのメンバーが国安法などに違反していないか全力で追及すると表明。中国政府で香港政策を所管する国務院香港マカオ事務弁公室と出先機関の中央駐香港連絡弁公室は、民陣について「反中国で、香港を混乱させた」組織だとし、法によって責任追及すべきだと主張しました。

 民陣は15日の声明で、19年間共に歩んできた香港市民に感謝を表明。大規模デモで「世界が香港に注目し、自由や民主の種を人々の心に植え付けた」と強調しました。その上で、「民陣がなくなっても、別の団体が理念を堅持し、市民社会を支援していくと信じている」と訴えました。」

 さらに、弁護士会の自治も危うい。英国流の法制度をもつ香港には、2種類の資格の弁護士があり、《香港大律師公会》(法廷弁護士(バリスター)の弁護士会)と、《香港律師会》(事務弁護士(ソリシター)の弁護士会)の2会がある。その両者とも法の支配や人権、民主主義に親和的だが、《香港大律師公会》の方がより尖鋭だという。香港大律師公会のポール・ハリス会長は、民主派政治家への懲役刑を批判し、中国政府高官から「反中国」政治家と批判されている。

 この弁護士会の姿勢を「政治主義」と攻撃するのが、中国共産党である。党の方針に忠実でなければ、偏向した政治主義なのだ。『人民日報』(中国共産党機関紙)8月14日付は、香港律師会に関する、大要以下の論説を掲載したと報じられている。

 「香港律師会は会員に対して責任を持ち、専業を選び政治を行うべきではない。市民に対して責任を持ち、建設を選び破壊を行うべきでない。香港律師会の重要な役割は香港の法治精神を守ることで、香港法治の盛衰と存亡がその盛衰と存亡に直接の関係がある。」「反中乱港分子と一線を画せば、香港教育専業人員協会(教協)のように特区政府の認可を失うことはない。1国2制度の方針を擁護し、基本法を順守すれば、香港大律師公会のように中国本土との交流・協力を断絶し活路を失うことはない」「8月末(24日)の理事会改選で選出される新たな指導層が建設的役割を発揮するよう求める」

 これは、明らかな権力による恫喝である。民主主義を標榜する国家では到底考えがたい。ここでいう「香港の法治精神を守る」とは、中国共産党の指導に服従するということで、法によって権力の横暴を縛るという立憲主義への理解の片鱗もない。民主制国家では、国民世論がこのような権力の暴言を許さない。敢えてすれば、次の選挙でこのような野蛮な政権は潰えよう。しかし、中国共産党のこのような横暴に歯止めはかからない。

 先には、「香港民主主義の父」といわれた弁護士・李柱銘氏が、民主化集会開催をめぐり有罪判決を受けて、弁護士資格を剥奪されることになった、という報道もあった。「The Nothing」(無)の拡大は止まるところを知らぬように見える。果たして、本当に「人がいれば希望はある」だろうか。
  

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