(2021年2月27日)
私が、いま巷の話題を独占している「時の人」、あの有名キャリア官僚。もと総務審議官で、首相秘書官の経歴もある。今は内閣広報官。有名になったら、ヤメロ、引っ込めという理不尽な声や、「続投はあり得ない」という野党や与党の一部のご意見もあるけど、どこ吹く風ね。私から辞表は考えられないし、なんと言っても内閣総理大臣ご自身が私の続投を望んでいらっしゃる。
育鵬社っていう教科書会社ご存知でしょう。右翼偏向だとか政権ベッタリと言われるけど、私は立派な教科書を出していると思っている。安倍政権支持という教科書も珍しいし、安倍さんと私を載せているんだもの。育鵬社版中学公民教科書に「憲政史上初の女性首相秘書官(2013年)」という光栄な見出しを付けてね、「安倍晋三首相から辞令を受ける山田真貴子氏」という写真が掲載されているのよ。だから、まっとうな教育を受ける機会に恵まれた若い方には、私はお馴染みだと思うの。
自己紹介はここまで。これからの私のお話、若い人たちに、とりわけ女性に聞いていただきたいの。皆さん、よくお勉強なさいね。何のための勉強なんて考える暇があったら勉強すること。成績を上げれば、ちゃんとした大学に行けるわ。ちゃんとした大学で、学業に精を出せば、キャリアの官僚にもなれる。そこからの前途は洋々。いま、官僚志望の若い方が減っているんだけれど、官僚って魅力的な職業ですよ。
でも、官僚としてのやり甲斐は、出世をしてからのことね。官僚は出世しなくちゃあね。出世には官僚としての処世術が肝要なのよ。私のように出世して、2代の総理のおぼえめでたく、高給を食む地位に達するには、幸運を引寄せる力がなければならないの。この力は、勉強だけでは身につかない。青くさい理想を語っていてもだめね。
出世は、誰かに目を留めてもらい、その人に信頼され、引き立ててもらわなければならない。つまり、勉強しただけで出世はできないってこと。出世は、そういう人やチャンスに巡り会わなければならないのね。誰もが、自分にチャンスをくれる人に出会ったり、実績をあげられるプロジェクトにめぐりあったり、そういう幸運に恵まれたいと思うでしょう。そういう、プロジェクトや人にめぐりあう確率が人によってそう違うはずはありません。違いはどれだけ多くの人に出会い、多くのチャンレジをしているか。イベントやプロジェクトに誘われたら、絶対に断らない。まぁ飲み会も断らない。
断る人は二度と誘われません。幸運に巡り合うそういう機会も減っていきます。私自身、仕事ももちろんなんですけど、飲み会を絶対に断らない女としてやってきました。お高くとまっていてはだめなのよ。ポッキーゲームだってやったのよ。楽しそうなフリをして。勉強、プロジェクト、人、多くのものに出会うチャンスを愚直に広げていってほしいと思います。
こうして出会いのチャンスを広げることで、自分を引き立ててくれる人が見つかる。そういう人を見つければ、その人に対する忖度一直線。それこそが、出世の秘訣ね。
総務省を牛耳っていた菅さんが官房長官になり、首相になった。菅さんが、私に出世のチャンスをくれた。その菅さんの長男を、出世のためのアンテナを張り続けていた私が意識しなかったはずはないでしょう。菅さんは私に出世のチャンスをくれた。私は、自分の権限の範囲内で菅さんの喜ぶことをして恩を返し、さらなる出世を確実なものとする。これって、麗しいウィンウィンの関係じゃないですか。
電波行政の責任者だった私ですよ。菅さんの長男が衛星放送事業者の幹部社員になっていたことを知らないはずはないじゃないですか。放送事業者の幹部から接待を受ければ当然に公務員倫理に違反する。そんなことは分かっていますよ。それでも、「東北新社」側から接待を持ちかけられれば、菅さんのご長男が接待役なのですから断れるわけがない。1人あたり7万4203円の接待だったと言いますが、そのくらいの金額、大袈裟にいうほどのことでもないでしょう。
この接待が、たまたま公になったのは誤算でしたが、少ししおらしく、「心の緩みであって、利害関係者かどうかのチェックが十分でなかった」くらい言っておけば、大丈夫なんですよ。
そして、会席に菅さんの息子がいたことを明確には言わない。ぼかしてみせるのが、出世する官僚のマナー。国会で、「5人の会食で、首相の息子がいたかどうか分からないのか」と聞かれて、「私にとって大きな事実だったかというと、必ずしもそうではない」と少し笑いながら答えたのは、首相2人の身近に仕えた自分の大物ぶりをアピールしただけではなく、私を引き立ててくれた菅さんの恩義への報い方なのですよ。
つまり、憲法15条を本気で信じて「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」なんて、融通のきかないのは出世をしない人。出世をしようと思ったら、引き立ててくれる上司や政治家を見極めて奉仕する心構えが必要なのね。しっかりとこう心得て、菅さんや安倍さんに引き立ててもらい、恩を返してながら、出世の階段を昇ってきたのが話題の私です。是非、若い皆さんも、参考にしてくださいね。
おや、どうしたの? 少し白けた雰囲気ではないですか。皆さん、気色ばんで何か言いたそうな面もち。そんな態度では出世はできそうにありませんね。ご質問は受け付けますが、一人一問に限らせていただきます。業界では「更問(さらとい)」と言いますが、重ねて質問を畳み込むような無作法なことはやめてくださいね。
(2021年2月27日)
私が総理の器ではないというご指摘…。そりゃあ、私には、あのう、なんて言うんですか、高邁な理想も政治哲学もありませんよ。国民の心に響くような語るべき言葉を持っていない。でも、前任者をよく見てきましたが、あの人だって理想や哲学を持っていなかったというのが事実ではないでしょうか。それでも、7年8か月も総理が務まった。器なんて、誰にでもあるといえばある、ないと言えばない。そんなもんではないでしょうか。
えっ? 一国の総理たるものが、落ち着きなくイライラしてどうしたんだ、と言うんですか。総理だろうと、天皇だろうと、人間ですよ。面白くないことが重なれば、イライラするのは当然でしょう。そういうことも事実ではないでしょうか。
よくご存知でしょう。面白くないことだらけですよ。内閣支持率は下がりっぱなし。コロナ対策はうまく行かない。この頃、専門家が政治家の言うことを聞かなくなってきた。ワクチンの供給がどうなるか私も不安でたまらない。東京五輪は風前の灯だし、私の長男の総務官僚接待問題で話題持ちきりだし、首相広報官の7万4000円接待問題が庶民感情をいたく傷つけている。うまく行ってることは一つもない、こんな状態で選挙も近い。世論にもメディにもトゲがある。みんな遠慮をしなくなっている。それでも、国会で野党の質問に答弁しなければならないし、意地悪な記者の取材にも応じなければならない。イライラして当然というのは、これも事実ではないでしょうか。
昨日(2月26日)、新型コロナ緊急事態宣言の首都圏以外は先行解除をようやく決めた。当然国民の多くが記者会見を行うと思ったでしょうが、そんなこと、できるわけがないでしょう。内閣記者会から会見を開くよう申し入れを受けたが、これを断って、「ぶら下がり取材」とした。立ったまま記者からの質問に答えたんですけど、これが特別にイライラのイヤイヤでした。
官邸の記者会見では、広報官が作成したペーパーを読んでりゃいいんだし、嫌な質問は広報官がブロックし、広報官が「次の日程がありますので」などと適当な口実で切り上げてくれる。でも「ぶら下がり」では、その広報官がいない。山田広報官、会見に出てこれないんだ。出て来りゃ、私の話よりも「一食7万4000円ごちそう問題」に質問が集中するのは目に見えている。そのことも事実ではないでしょうか。
それでも、案の定礼儀を弁えぬ記者からは「緊急事態宣言の6府県解除をしたのに、なぜ記者会見を行わなかったのか? 高額接待を受けた山田内閣広報官の問題が影響したのか」という質問。ああいう記者の顔と名前はよく覚えておかなくては。
用意していたとおり、「山田広報官のことはまったく関係ありません。昨日、国会で答弁されてきたことも事実じゃないでしょうか」と言ってはみたけど、我ながら迫力に欠ける。ついつい、イライラが声に表れる。
その後も記者たちは遠慮がない。「山田広報官から接待の詳細は聞いたのか」「山田広報官を続投させる方針に変わりないか」「政治責任をどう考えるか」と矢継ぎ早の質問だ。イライラは募るばかり。
さらには「会見を行わずに(コロナ対策に)国民の協力が得られると思うか?」と聞かれて、「だから今日こうして、ぶら下がり会見を行っているんじゃないでしょうか」という声が震えた。これが、「総理キレた」とか、「気色ばんだ」とか、あるいは「台本ないとダメだね」「素の菅さんはこんな感じなのか」と、意地悪く報道されてしまった。支持率70%のころにはこんなことはなかったのに。
最後の質問は、「今度の会見では最後まで質問を打ち切らずにお答えいただけるのか?」だというんだ。もう、総理に対するイジメじゃないか。「いや、私も時間がありますから。みなさん、出尽くしてるんじゃないですか。先ほどから、同じような質問ばっかりじゃないでしょうか」とようやく終わることができた。
中に、こんな質問があって驚いた。
― 先ほど東北新社が社長の退任と幹部の処分を発表した。総理の長男も役職を解任され、人事部付となりました。受け止めは。
「私は承知していません。会社としてのけじめだと思います」と答えるしかなった。しかし、長男解任を「けじめ」と言ってよかったのか、長男の責任を認めたことになるのかな。
いずれにせよ不愉快極まる。なんだ、手のひらを返したような、この東北新社の態度は。目を掛けてやった恩を忘れたのか。それが、総理の長男に対する処遇だというのか。「人事部付き」って何もやることがないってことではないのか。総務省接待以外には、使いようがないということなのか。それよりも、総理の権威はどうなった。もう誰も総理の意向を忖度しないというのか。だれも私を恐れないというのか。
これじゃ、世も末ではないでしょうか。あ?あ、「総理なんかになるんじゃなかった」と愚痴をこぼすにも一理あるのではないでしょうか。だから、私がイライラしてることも、事実なのではないでしょうか。
(2021年2月26日)
1936年2月26日、東京は雪であったという。降雪を衝いて陸軍青年将校のクーデターが決行された。反乱軍は、首相官邸を襲撃し「君側の奸」とされた政府要人を殺害したが、陸軍上層部の同調を得られなかった。海軍は一貫して叛乱鎮圧に動いた。結局、クーデターは失敗し首謀者の主たる者は銃殺、その他多数が厳罰に処せられた。
歴史の展開はこれで終わらない。この皇道派クーデターを押さえ込んだ統制派の「カウンター・クーデター」を担った統制派の手によって、軍部独裁への道が切り開かれていく。これが「2・26事件」である。
「2・26事件」とは何か。大江志乃夫の簡明な記述を引用しておきたい。
「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。」
「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』(北一輝)の実現をめざすクーデターが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』(統制派)にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」
北一輝『日本改造法案大綱』の冒頭に、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」とある。当時の欽定憲法でさえ、軍部にはなくもがなの邪魔な存在だった。この邪魔な憲法を押さえ込む道具として、「天皇大権」が想定されていた。
軍隊は恐ろしい。独善的な正義感に駆られた軍隊はなお恐ろしい。傀儡である天皇を手中に、これを使いこなした旧軍は格別に恐ろしい。
軍事組織は常に民主主義の危険物である。軍隊のない国として知られるコスタリカを思い出す。彼の国では、国防への寄与という軍のメリットと、民主主義に対する脅威としての軍のデメリットを衡量した結果として、軍隊をなくする決断をしたという。軍を維持する費用を、教育や環境保全や、新しい産業に注ぎ込んで、国は繁栄しているというではないか。
かつてのチリ・クーデーが衝撃的だった。1970年代初め、南米各国はアメリカの軛から脱して民主化の道を歩み始めていた。中でも、チリが希望の星だった。アジェンデ大統領が率いる人民連合政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権と称されていた。それが、ピノチェットが指揮する軍部の攻撃で崩壊した。ピノチェットの背後には、米国や多国籍企業の影があった。憎むべき軍隊であり、憎むべきクーデターである。
今、ミャンマーの事態が軍事組織の危険性を証明している。民主化を求める勢力が選挙で大勝すると、これを看過できないとして、軍部が政権を転覆する。国民の税金が育てた軍が、国民を弾圧しているのだ。
そして本日、旧ソ連構成国アルメニアでクーデターのニュースである。
アルメニアの軍参謀総長らは25日、パシニャン首相の辞任を求める声明を出した。
パシニャン氏は「クーデターの試み」と反発し、参謀総長を解任。辞任を拒否して支持者に団結を呼び掛けた。AFP通信によると、パシニャン氏の支持者は約2万人が集結という。
世界の至る所で、繰り返し、軍事組織が民主主義を蹂躙している。2月26日、日本人にとっての軍隊の持つ恐ろしさを確認すべき日である。
(2021年2月25日)
昨日(2月24日)の最高裁大法廷判決。「那覇市・孔子廟事件」で、政教分離に関するやや厳格な判断が積み上げられた。
那覇市の公園の一角に「孔子廟」がある。市は、相当の使用料月額48万円の全額を免除していた。判決は、この那覇市の無償提供を「違憲」と判断したもの。最高裁による政教分離の「厳格な」判断として評価し、歓迎したい。
もっとも、この住民訴訟の原告となったのは、那覇の「右翼オバサン」である。弁護団も明白な右寄り人脈。本来、政教分離規定はリベラル・人権派、ないしは天皇制に弾圧された宗教者にとっての金科玉条。右翼が政教分離の旗を掲げての訴訟には、大きな違和感を禁じえない。どのような思惑で提訴に至ったのか理解し難いところは残る。それでも、誰が原告であろうとも、政教分離の「厳格な」判断を歓迎すべきことに変わりはない。
政教分離とは何か。今朝の毎日新聞社説は、こう言う。
「憲法の政教分離の規定は、戦前に国家と神道が結びついて軍国主義に利用され、戦争に突き進んだ反省に基づいて設けられた。」
沖縄タイムス社説はもう少し踏み込んで、説明している。
「かつて(日本は)国家神道を精神的支柱にして戦争への道を突き進んだ。政教分離の原則は、多大な犠牲をもたらした戦前の深い反省に立脚し、つくられたのだ。」
政教分離の「政」とは国家、あるいは公権力を指す。「教」とは宗教のこと。国家と宗教は、互いに利用しようと相寄る衝動を内在するが、癒着させてはならない。厳格に高く厚い壁で分離されなくてはならない。
この原則を日本国憲法に書き込んだのは、戦前に《国家と神道》が結びついて《国家神道》たるものが形成され、これが軍国主義の精神的支柱になって、日本を破滅に追い込んだ悲惨な歴史を経験したからである。国家神道の復活を許してはならない。これが、政教分離の本旨である。
《国家神道》とは、今の世にややイメージしにくい言葉となっている。平たく、『天皇教』と表現した方が分かり易い。天皇の祖先を神として崇拝し、当代の天皇を現人神とも祖先神の祭司ともするのが、明治以来の新興宗教・天皇教である。
天皇の祖先を神と崇め、その神のご託宣によって、この日本を天皇が統治する正当性の根拠とする荒唐無稽の政治的宗教。睦仁・嘉仁・裕仁と3代続いた教祖は、教祖であるだけでなく、統治権の総覧者とも大元帥ともされた。
この天皇教が、臣民たちに「事あるときは誰も皆 命を捨てよ 君のため」と教えた。天皇のために戦え、天皇のために死ね、と大真面目で教えたのだ。直接教えたのは、学校の教師だった。教場こそが、天皇教の布教所であった。目も眩むような、一億総マインドコントロール、それこそが国家神道であり、その反省が政教分離である。
もちろん、戦前の体制に対する徹底した反省のありかたとしては、天皇制の廃絶が最もふさわしい。しかし、戦後改革の不徹底さが日本国憲法における象徴天皇制となった。この象徴天皇を、再び危険な神なる天皇に先祖がえりさせないための歯止めの装置が政教分離なのだ。
だから、リベラルの陣営は厳格な政教分離の解釈を求め、歴史修正主義派は緩やかな政教分離の解釈を求めるということになる。靖国神社公式参拝・玉串料訴訟、即位の礼・大嘗祭訴訟、護国神社訴訟、地鎮祭訴訟、忠魂碑訴訟等々は、そのような立場からの訴訟であった。
もっとも、憲法の政教分離に関する憲法規定は、神道だけでなく宗教一般と国家との癒着を禁じた。そこで、仏教やキリスト教との関係でも、政教分離問題は生じうる。今回の判決も、神道に限らず儒教でも宗教性が認められれば、憲法に抵触しうることを確認したものとなっている。儒教と自治体の関係を問う訴訟は、二の丸、三の丸での闘いである。しかし、その結果は本丸としての神道と国家との関係に影響を及ぼさずにはおかない。今回の判決、リベラル派としては、喜んでよい。
本日の産経社説(「主張」)が、この点に言及していて興味深い。
表題が「那覇の孔子廟判決 『違憲』の独り歩き避けよ」というもの。右派の産経にとって、好もしからぬ判決であり、その影響を限定しようという「主張」なのだ。
同社説の立場は、はっきりしている。靖国神社公式参拝や玉串料・真榊奉納などを違憲と判断されては困るのだ。何とか、限定的に解釈しなければならない。
「違憲」が独り歩きしては困る。今回の判決を盾に、社寺の伝統行事などにまで目くじらを立てるような「政教分離」の過熱化は避けたい。
孔子廟は全国にあるが、湯島聖堂(東京)や足利学校(栃木)のように国や自治体が所有する歴史的施設もあり、設立経緯などが異なる。今回の違憲判決の影響は限定的とみるのが妥当だろう。
政教分離規定の厳格な適用は好ましくない。たとえば、地域社会に伝わる文化、行事は伝統的な宗教と密接な関係にある。
北海道砂川市の「空知太(そらちぶと)神社訴訟」で最高裁は、市有地を神社に無償提供したことを違憲とした。だが、このとき合憲とした裁判官の反対意見が「神社は地域住民の生活の一部になっている」などと指摘し、違憲とした多数意見について「日本人の一般の感覚に反している」と述べていたのはうなずける。
首相ら公人の靖国神社参拝や真榊(まさかき)奉納に「政教分離」を持ち出す愚も避けるべきだ。
産経の当惑している様子が伝わってくる。しかし、判例というものは、独り歩きをするものである。独り歩きを止めようとて、止められるものではない。その意味で、大法廷の厳格な政教分離解釈は、リベラル陣営にとっての財産なのだ。
(2021年2月24日)
「愛知県知事リコール・署名偽造事件」で、本日県警が初めて動きを見せた。各地の選管に保管されていた署名簿を押収したのだ。大きく動き出した事態を、朝日はこう伝えている。
《美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長らによる愛知県の大村秀章知事へのリコール署名問題で、愛知県警は24日、地方自治法違反(署名偽造)の疑いで、署名簿が提出された県内の複数の自治体の選挙管理委員会に容疑者不詳で強制捜査に入った。署名簿を押収したとみられる。
署名活動を担ったボランティアからは憤りの声があがる。「筆跡が似ているのがいっぱいあった。おかしいと感じた」という。「僕らは真面目にやった。民主主義を守るために行動したのに、これ(不正)はない」》
この「署名偽造事件」は、決してローカルな話題にとどめ置くべき些細なものではない。ようやくにして、この国の民主主義のレベルを映し出す深刻な問題として、全国紙報道テーマとなりつつある。軽忽な人物群のドタバタ劇と看過せずに注目しなければならない。こんな輩に、日本の民主主義が掻き回されているのだ。
一昨日(2月22日)、大村知事が記者会見で、この事件を「組織的で隠蔽の意思があり極めて悪質。誰が指示し、誰のお金でやったのか追及されなければならない」と述べたとおり、この「署名偽造」は極めて悪質である。大村知事のコメントを補えば、真意はこんなところであろうか。
「愛知県知事リコールに関わる大量の署名偽造は、多数の人と資金と資料がなければできないことだ。これが明らかにスケジュールされた期間に計画的に実行されていることから、組織的な犯罪行為であることに疑問の余地はない。」「しかも、この組織的な犯行に及んだ複数の犯罪者には、犯行隠蔽の強い意図が窺える。」「民主主義に対する挑戦ともいうべきこの犯罪行為は、その態様、その組織性、その計画性、そして隠蔽を決めこむ諸点において、極めて悪質である。」「捜査機関は、この組織的・計画的犯罪の首謀者、共犯者、実行者、支持者、そして金銭提供者と汚いカネの流れを徹底して捜査して明るみに出し、刑事訴追しなければならない。」
まずは事実の追及、これが第一歩である。その上で、捜査によって明らかになった諸事実をもとに、この犯罪の動機や背景や影響、そして教訓を考えなければならない。なにゆえに、かくまでして、犯罪者グループは、愛知県知事の追い落としにこだわったのか。
極めて大がかりな組織的で計画的な犯罪、しかも民主主義を冒涜する悪質な犯罪が行われたことに疑問の余地がない。この犯罪者グループが、大村知事リコール運動の主導者たちだったことについての確たる証拠は今のところない。従って、疑惑は疑惑でしかないが、リコール運動の主導者たちは、疑惑の対象とされる資格を十分に備えている。だから、自ら疑惑を晴らす努力をつくすべきことが求められている。彼らには、そのことの自覚に乏しいことを率直に指摘しなければならない。
「彼ら」とは、醜悪なトライアングルを指している。署名活動団体「愛知100万人リコールの会」の代表を務めたのが高須克弥というネトウヨ、事務局長を引き受けたのが田中孝博という維新の地方政治家。そしてこの両者をつないだのが、河村たかし名古屋市長である。
高須には、お馴染みの極右の面々が応援団として取り巻いていた。が、この事態にほとんどが逸早く身を引いた。さすがに変わり身が早く、状況をよく見て賢い選択をしている。田中には、吉村洋文という大阪府知事が付いている。あの、イソジンが新型コロナによく利くという、「ホントみたいにイイカゲンな」記者会見で話題をさらった人物。が、吉村も最近はこの件に発言をしていない。そして、歴史修正主義者同士として高須と意気投合した河村である。彼は、高須や田中と違って、この件で失うべきものがあまりに大きい。政治生命の危機を多少は認識しているようだ。
さて、人は、その支配が及ぶ範囲で生じた不祥事には責任を持たなければならない。少なくも説明責任は免れない。誠実に説明責任を果たそうとしない者には、疑惑の目が向けられる。これは当然のことなのだ。
事態を確認しておこう。メディアが次のように整理している。「リコール運動では、県選挙管理委員会が、提出された約43万人の署名のうち83%にあたる約36万人分を無効と判断。同じ人が書いたと疑われる署名が90%、選挙人名簿に登録のない署名が48%などとされ、県選管や名古屋市は地方自治法違反容疑で刑事告発し、県警が捜査を進めている。」(毎日)、「県選管の調査によると、有効でないと判断された約36万2千人分の約24%は、選挙人名簿に登録されていない受任者が集めた署名だった。」(共同)
人を手配し配置してリコール署名を集め、整理し、点検して、県内各選管に提出した責任者は高須である。その事務作業は田中が担当した。こうして、堂々と高須・田中が選管に有効なものとして提出した署名の大部分が、一見して明らかな偽造だったというのだ。署名集め・整理・点検・提出の全過程に関わった高須、田中の両名が「知らなかった」はまことに不自然で信じられず、常識的に通じるものではない。
「私が不正するわけがない、陰謀だと感じる」などという児戯にも等しい強弁は片腹痛い。
一昨日(2月22日)、高須・田中・河村が記者会見をして、それぞれに発言をしている。これが興味深い。
まず高須。
「リコール署名は河村たかし市長から成功させたいので手伝ってほしいと頼まれた。田中事務局長は河村市長が紹介してくれた人材。事務局長を信じます」。〈この運動の首謀者は河村で自分ではない。自分は頼まれて手伝っただけ〉〈事務局長も河村の手配によるもので自分はこれを信じるしかない〉と明らかに腰が引けてきた。
それだけではない。「(自分は)なんの関係もありません。佐賀県は一度ヘリコプターで行ったことがあるだけで、それ以来一度も行ったことはありません」という高須の力んでの発言には驚いた。
この人、医師としての判断能力に心配はないのだろうか。患者の症状を正確に把握して疾患を特定し適応のある治療を的確に実施するという、医師に要求される高度な論理判断の能力を持っているのだろうか。「佐賀に行ったことがない」ことが、高須の偽造関与の否定の根拠になりようもないことは分かりそうなものなのだが。
次いで田中。
16日の記者会見で署名簿の一部が「佐賀で作成されたのは間違いない」と話したが、22日は「佐賀県で作成されたものかはわからない」とした。
高須、田中とも、佐賀が遠方であることなどから「調査はほとんど何も進んでいない」とも話した。
事務局長として具体的な偽造関与否定の根拠を挙げることができないのは、致命的である。手掛かりはいくつもある。潔白を主張するなら、メディアの前に、全てのカネの流れを明らかにすることだ。そして、署名の獲得に携わった関係者全員の名簿を明確にして、メディアの徹底取材に応じることだ。この事態での無為無策は、疑惑を晴らそうという意欲の欠如にほかならない。
そして河村。
「署名活動団体の会議に自身がほとんど入っていなかったなど複数の理由を挙げ、署名が偽造された疑いに関与していないことを強調した」という。これも逃げ腰。高須への責任転嫁。
ただ、注目すべきは、「何者かによって全く分からないようにやられていた、それでも『気づいていない河村はたわけ』と言われれば、もう少し真実を明らかにしてから評価は自分でする」という言葉。「何者か」とは、高須・田中を念頭においてのことなのだろうか。
われわれも、愛知県警の捜査の進展を見守りたい。その上で、『気づいていない高須・田中・河村はたわけ』のレベルで済むのか、実はそれ以上であるのかを見極めねばならない。そして、相応の責任の取り方を要求しよう。大切な民主主義を擁護するために。
(2021年2月23日)
本日は、まだ国民の意識に定着してはいないが、天皇(徳仁)の誕生日である。祝日法第2条には、「天皇誕生日 二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。」と意味不明の文章がある。分明ではないが、少なくとも「天皇の誕生日を祝え」「祝わねばならない」「祝うものとする」「祝うべき日」などと、国民に祝意を強制する文意ではない。
もちろん私は、天皇(徳仁)との面識はないし、この人の一族郎党とも何の交誼もない。本日が、格別にめでたいとも、祝うべき日であるとも思えない。天皇とその係累には、いささかの怨みこそあれ、その誕生日を祝う振りをする恩義も義理もない。
むしろ、主権者の一人として、「天皇誕生日」の正しい過ごし方は、社会の同調圧力に屈することなく、「天皇」や「天皇制」の過去の罪科をしっかりと見極め、その罪科が現在に通じていることを再確認することであろう。
そのような、本日の「正しい過ごし方」として、コロナ禍のさなかではあるが、「wamセミナー 天皇制を考える(3)」に出席した。「wam」とは、安倍晋三によって番組改竄されたNHK放映「女性国際戦犯法廷」の後継団体、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」のこと。この「戦犯法廷」では、「ヒロヒト有罪」の判決が言い渡されたが、放映はされなかった。当然に天皇制にも安倍晋三にも怨みは大きい。その「wam」のホームページの中に、次の印象的な言葉がある。
日本の近代は侵略と戦争の歴史でした。天皇は、軍の最高責任者・大元帥でしたが、敗戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では免責されました。天皇の侵略・戦争責任を批判する声は、戦中は「大逆罪」「不敬罪」などで処罰され、戦後も暴力の対象となって不可視化されてきました。この小さな抗う民衆の声を伝えることからその忘却を問います。
「wamセミナー 天皇制を考える」連続セミナーの趣旨は、以下のように語られている。
「女性国際戦犯法廷」(2000年、東京)から20年の節目にあたって、天皇の戦争責任・植民地支配責任を問い続けるwamは、天皇由来の「祝日」のうち4日間を「祝わない」ために開館し、天皇制を維持してきた私たちの責任を見つめなおし、議論する場を作っていくことにしました。
天皇由来の4祝日とは、以下のものである。
文化の日 11月3日 明治天皇(睦仁)の誕生日
建国記念の日 2月11日 初代・神武の即位の日
天皇誕生日 2月23日 現天皇(徳仁)の誕生日
昭和の日 4月29日 昭和天皇(裕仁)の誕生日
「wamセミナー 天皇制を考える(1)」は、2020年11月3日。講師は池田浩士さんで、テーマは「叙勲・お言葉・思いやり・・・天皇と「国民」を結ぶもの―『明治節』に考える―」
社会や文化、様々な視点から天皇制を研究してきた池田浩士さんをお招きし、明治憲法と戦後憲法とを貫く「象徴天皇制」に焦点を合わせて、天皇制国家の支配制度と「国民」のありかたを再考します。
同(2)は、石川逸子さん。
桜の国の悲しみ、菊の国への抗い―「紀元節」に伝えておきたいこと
石川逸子さんは2008年、明治天皇の父・孝明天皇に亡霊として語らせる『オサヒト覚え書き―亡霊が語る明治維新の影』という大著を上梓、2019年には台湾・朝鮮・琉球への追跡編も出版されています。日本の近代と天皇制を問い続ける石川逸子さんからお話を聞きます。
そして、本日が、歌人内野光子さんの「『歌会始』が強化する天皇制―序列化される文芸・文化」という講演。
「歌会始(うたかいはじめ)」とは、年始に皇居で開催される歌会(集まった人びとが共通の題で短歌を詠む会)で、あらかじめ天皇が出した題にそって「一般市民」が歌を送り、秀でた作品を詠んだ人びとが皇居に招かれる「儀礼」です。毎年テレビでも中継され、2万ほどの「詠進」(一般からの応募)された短歌から選ばれた10首、短歌を詠むために選ばれた「召人」の歌、短歌の「選者」に選ばれた歌人の歌、天皇皇后をはじめ皇族の歌が詠まれます。
内野さんの天皇制批判の立場は揺るぎがない。天皇制とは本質的に国民の自覚に敵対し、個人の思考を停止させるものという。その天皇と国民をつなぐものとしての短歌として、明治天皇(睦仁)、昭和天皇(裕仁)、平成時の天皇(明仁)・皇后(美智子)、現天皇(徳仁)らの短歌を85首抜き出し、そのいくつかを解説された。
印象に残るのは、明仁・美智子夫妻の11回の沖縄行で詠んだ歌。父親(裕仁)の沖縄に対する負の遺産を清算することに懸命になった夫妻の姿勢が窺える。そして、その試みはある程度の成功を納めたと評することができるだろう。実は、何の解決もないままの県民の慰撫。天皇制の、そして歌の作用の典型例と言えるのではないか。
内野さんの講演の主題は、象徴天皇制の「国民」への浸透の場としての「歌会始」の解説と批判である。
1947年に始まった「歌会始」は、当初応募歌数数千から1万程度と低迷していたが、1959年の「ミッチーブーム」を機に応募歌数が激増した。1964年には4万7000首にも達している。その後は、ほぼ2万首で推移しているが、選者の幅を拡げ、毎年10名の入選者に中高生を入れるなどの工夫を重ねてきている。
戦後の現代歌壇が持っていた、天皇制への拒絶の姿勢や雰囲気は、いつの間にか懐柔されて、現代歌壇全体が天皇制を受容している。「歌会始」の選者になることに、歌人の抵抗がなくなったどころか、選者になることを切っ掛けに、褒賞を授与され、芸術院会員となり、文化功労者となり、叙勲を受けている。
かつて、「歌会始」を痛烈に批判していた「前衛歌人」が歌会始の選者になっている。あるいは「歌会始」の選者が「赤旗」歌壇の選者を兼ねている例さえもある。
天皇制の陥穽におちいる「リベラル」派の例は短歌界に限らない。金子兜太、金子勝、内田樹、白井聡、落合惠子、石牟礼道子、長谷部恭男、木村草太、加藤陽子、原武史等々、程度の差こそあれ、「平和を求める天皇」「護憲の天皇」を容認する人々が多数いることに驚かざるをえない。
講演後に質疑応答があり、最後に「ではこれからどうすべきなのか」という問があった。これに、内野さんはこのような趣旨の回答をしている。
天皇制に関して昔とすこしも意見が変わらない私は、歌壇において、「非寛容」だとか「視野狭窄」だとさえ言われるようになっています。でも、自分の頭で考えた、自分の意見を語り続けることが大切なことだと考えています。それ以外の選択肢はありません。
この言葉を聞けたことだけで、本日は「天皇誕生日」にふさわしい有意義な日であったと思う。
(2021年2月22日)
3月1日ビキニデーが間近である。
1954年3月1日、アメリカはマーシャル群島ビキニ環礁での水爆実験をして、大気中に大量の放射性物質を撒き散らした。焼津を母港とするマグロ漁船・第五福竜丸は爆心から160キロ離れた海域で被爆し、23人の乗組員全員が急性放射線障害との診断で入院。その年の9月、最高齢だった通信士の久保山愛吉さんが亡くなって、多くの国民の怒りと悲しみを誘った。そして、この事件を契機に、国民的な原水爆禁止運動が高揚し、現在に至っている。
第五福竜丸平和協会にとって、3月1日は最も重要な日。毎年3・1ビキニデー前後に集会を企画する。ことしは、「3.1ビキニ記念のつどい2021『ふね遺産』認定記念 オンラインシンポジウム」というイベント。この集会が、昨日(2月21日)開催されてたいへん充実していた。今年は核兵器禁止条約発効の国際的な核廃絶運動の高揚の中で迎える3・1ビキニデーではあるが、「ふね遺産」シンポは面白かった。
「ふね遺産」は、公益社団法人日本船舶工学会が認定する。「歴史的で学術的・技術的に価値のある船舟類とその関連設備を『ふね遺産(Ship Heritage)』として認定し、文化的遺産として次世代に伝え、船舶海洋技術の幅広い裾野の形成を目的とする」「なお、『ふね』の表記は、「船」や「舟」も含める意味で、平がなにするものである」という。
また、「『ふね遺産』を通じて、国民の「ふね」についての関心・誇り・憧憬を醸成し、歴史的・文化的価値のあるものを大切に保存しようとする国民及び政府・地方自治体の気運を高め、我が国における今後の船舶海洋技術の幅広い裾野を形成することをこの活動の目的とする。」ともいう。
このような趣旨を持つ「ふね遺産」にはこれまで24件が認定され、現存する船体としては11隻。第五福竜丸は、認定第25号で現存船としては第9号である。ちなみに、現存船賭して認定を受けた他の10隻は、以下のとおり。
日本丸・ガリンコ号・氷川丸・海王丸・徳島藩御召鯨船「千山丸」・コンクリート貨物船「武智丸」・雲鷹丸・明治丸・マーメイド・遠賀川五平田舟(かわひらた)
第五福竜丸は、『西洋型肋骨構造による現存する唯一の木造鰹鮪漁船』として貴重なものなのだという。認定された同船は、以下のとおりに紹介されている。
第五福龍丸は和歌山県の古座造船所で鰹漁船として1947年に進水した後、1951年に清水市の金指造船所で鮪延縄漁船に改造された。本船は1954年にビキニ環礁水爆実験で被災したことでも知られる。
木造鰹鮪漁船は戦後の食糧難の時代に数多く建造されたが、本船は良い状態で保存された現存する唯一の実船である。肋骨を有する西洋型木造船の構造を今に伝える貴重な遺産でもある。
保存展示されている同船の搭載エンジンは新潟鉄工所製250PSで、141台製造された中で唯一現存するのものとして貴重である。
シンポジウムは、昨日2月21日(日)の13:00?15:00に行われ、講師は日塔和彦氏(文化財建造物修理技術者,第五福竜丸平和協会評議員,保存検討委座長)、古川洋氏(安芸構造設計事務所主宰,建築構造)、庄司邦昭氏(東京海洋大学名誉教授,造船学)、中山俊介氏(東京文化財研究所特任研究員,近代文化遺産)。いずれも専門性の高い講演で、聞かせた。第五福竜丸保存の意義についてだけでなく、具体的なその方法について示唆に富むものだった。
第五福竜丸は、核による脅威に警鐘を鳴らす船として保存され、多くの人に語り継がれることによって、核なき世界を目指す航海を続けてきた。今回のテーマは、被爆船第五福竜丸ではなく、この船の持つ木造船としての産業歴史的価値に着目するもの。どのような角度からでも、この船の保存の意義を確認していただくことはたいへんにありがたい。
今年の3.1記念シンポジウムは、いつもは地味で表に出ない船体等保存検討委員会の専門的知見を聞くこともできた貴重な機会となった。
(2021年2月21日)
かつて上野の山のほとんどは、徳川将軍家の菩提寺である東叡山寛永寺の境内だった。寺領1万2000石を拝領して権勢を誇った寛永寺だったが、幕末上野戦争で多くの伽藍を焼失し、明治政権に境内を取りあげられた。今その過半が都有地となり、公園や動物園、博物館・美術館の敷地になっている。
昔の権勢はないが、宗教法人寛永寺(天台宗)は今も健在である。そして、かつては東叡山寛永寺の一角にあった上野東照宮も、神社本庁に属する宗教法人となってこれも健在である。東照大権現徳川家康を神として祀った権現信仰は神仏習合の典型とされるが、明治政府は厳格な神仏分離令を発し、今も両者の法人格は独立している。
その上野東照宮の敷地の一角に、「広島・長崎の火」が灯されていた。《上野の森に「広島・長崎の火」を永遠に灯す会》の発案に、当時の宮司・嵯峨敞全(さがひろなり)氏が賛同して実現したことである。
http://uenomorinohi.com/yurai.html
この「火」には、以下のとおりの感動的な由緒を語る銘板が添えられていた。
「広島・長崎の火」の由来
昭和20年(1945)8月6日・9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下され、一瞬にして十数万人の尊い生命が奪われました。そして今も多くの被爆者が苦しんでいます。広島の惨禍を生き抜いた福岡県星野村の山本達雄さんは、叔父の家の廃墟に燃えていた原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として密かに灯し続けました。しかし、長い年月の中で、核兵器をなくし、平和を願う火として灯すようになりました。
核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。
核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる緊急のものとなっています。
第二のヒロシマを
第二のナガサキを
地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。
これは「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」(1885年2月)の一節です。
昭和63年(1988)3,000万人のこのアピール署名と共に「広島の火」は長崎の原爆瓦からとった火と合わされて、ニューヨークの第3回国連軍縮特別総会に届けられました。
同年(1988)4月、「下町人間のつどい」の人々は、この火を首都東京上野東照宮境内に灯し続けることを提唱しました。上野東照宮嵯峨敞全(さがひろなり)宮司は、この提案に心から賛同され、モニュメントの設置と火の維持管理に協力することを約束されました。
被爆45周年を迎えた1990年8月6日に星野村の「広島の火」が、8月9日に長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」が、このモニュメントに点火されました。
私たちは、この火を灯す運動が、国境を越えて今緊急にもとめられている核兵器廃絶、平和の世論を強める全世界の人々の運動の発展に貢献することを確信し、誓いの火を灯し続けます。
1990年8月 上野東照宮に「広島・長崎の火」を灯す会
それから30年、いま、上野東照宮に「広島・長崎の火」のモニュメントは、あとかたもない。「火」のモニュメントは撤去され、原発事故の被災地である福島県双葉郡の楢葉町に移ることになっている。先に挙げたURLを開くと、「灯す会」からのメッセージがある。
「上野の森に「広島・長崎の火」を永遠に灯す会は、2021年3月11日をもって解散します。」
「上野東照宮境内の『広島・長崎の火』が移設され、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』として、2021年3月11日午後2時から、福島県楢葉町の宝鏡寺の境内に建設されるモニュメントに点火する式典が開催されます。
【宝鏡寺】
〒979-0605 福島県双葉郡楢葉町大字大谷字西代58?4」
何度も上野東照宮に足を運んで、その都度この「火」に感銘を受けてきた私としては、残念でならない。どういう事情なのだろうか。昨年7月の東京新聞は、こう伝えている。
「原爆の火」上野から福島に移設へ 「核」の惨禍でつながる
核廃絶を願って30年間灯ともされてきた上野東照宮(東京都台東区)境内のモニュメント「広島・長崎の火」が年内に撤去され、来年春に福島県楢葉町に移設されることが分かった。社殿など国指定の重要文化財(重文)の防火対策のため、上野東照宮が長年移設を求め、楢葉町で原発避難者を支援する宝鏡寺が引き取ることになった。
◆重要文化財の前は「危険」と移設求められて…
…90年にモニュメントが完成。管理団体として、現在の「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」が発足した。
灯す会は毎年8月、被爆や戦争体験を語り継ぐ集会などを開いていたが、上野東照宮の宮司が代替わりしたこともあり、2006年から「重文の前で火が燃えているのは危険」と移設を求められてきた。会は台東区役所や区内の寺に移設を打診したが断られ、移設先探しは難航した。
◆原発事故10年の3・11に点火式
弁護士で灯す会の小野寺利孝理事長(79)が、東京電力福島第1原発の避難者訴訟で原告団長を務める宝鏡寺の早川篤雄住職(80)に相談し、受け入れを快諾された。上野からモニュメントと種火を運んだ上で、原発事故から10年となる来年3月11日に点火式を行う計画という。
小野寺さんは「移設は残念だが、今回を機に核兵器の惨禍と原発の被害をつなぐモニュメントにしたい。単に火を移すのではなく、核なき世界を目指す運動も引き継ぎたい」と話す。
上野東照宮嵯峨敞全宮司は1924年生まれ。硬骨の革新派宗教人として知られ、皇国史観を批判する著作もある。この方の生前は、上野東照宮は神社庁に所属してはいなかった。嵯峨敞全宮司逝去の影響の大きさを無念と思わざるをえない。
上野の森から「広島・長崎の火」が消えることはさびしいが、新たな地で「核なき世界を目指す運動」の火として灯し継がれることを期待したい。
(2021年2月20日)
話題の桐野夏生「日没」を先ほど読み終えた。読後感を求められれば、「この本を手にするんじゃなかった」というのが正直なところ。まだお読みでない人に、親切心から警告しておきたい。これは、読み始めたら途中で止められない。普通の神経の持ち主には耐え難いほどの精神的苦痛をもたらす。希望も救いもない。「日没」に、明日の夜明けの気配はまったくないのだ。それでも、恐い物見たさの誘惑に克てない人には、「自己責任でお読みなさい」と言うしかない。
小説の冒頭、主人公の作家が正体不明の施設に収容されるまでの展開は不自然で、出来のよくない平凡な小説風。時代や社会という背景がまったく描かれていないから、ここまではリアリティに欠けるのだ。ところが、このデストピア施設での生活が始まると巻を置けなくなる。読み進むのが苦痛なのだがやめられない。結局、最後まで引っ張られることになる。
「私」が収容されるのは、千葉と茨城の県境近くにある「療養所」。実は、国家が運営する反体制・反道徳の作家を「更生」させる施設。被収容者は、読者からの「告発」によって選定される。被収容者は徹底して他人と切り離され、孤立した状態で、圧倒的な力を持つ弾圧者と対峙する。弾圧者は、「私」について、私も知らない隠された事実をいくつも知っている。監視社会・管理社会・密告社会の極限状態が、この小説の舞台設定となっている。
章立ては以下のとおり、みごとなタイトル付けである。
第一章 召喚
第二章 生活
第三章 混乱
第四章 転向
己の無力を自覚せざるをえない状況で、プライドを堅持して抵抗するか、あるいは屈するか。「私」は、その両者の間で、揺れ動くことになる。「面従腹背」や「転向のフリ」が、奏功するような状況ではない。初め、反抗すれば「減点」が加算され、減点1ごとに、収容期間が1週間延長されることを宣告される。それでも、「私」は抵抗を試みもするが、また空腹から従順になったりもする。
やがて、この施設から「娑婆」へ戻ることは不可能なことがほのめかされ、多数の自殺者があることも分かってくる。権力側は収容者の自殺をむしろ歓迎しているしいう。「私」は、渾身の抵抗を試みるが、成功はしない。そして…。
小説の巧拙に関わりなく、この小説にリアリティを与える状況のあることが恐怖の源泉なのだろう。体制を礼賛し、反中・嫌韓の表現には寛容でありながら、反体制・反日・反道徳というレッテルを貼られた作家や作品にについての「表現の不自由」という現実をこの社会は現出している。学術会議の任命拒否問題しかり、である。
作中の設定では、「ヘイトスピーチ法」の成立とともに、「有害図書」の作家の更生の必要を定める法律が制定されたという。以来、国家が有害作家の更生に乗り出し、何人もの作家が消されていくことになる。これは絵空事ではない。権力をもつ者には、羨望の事態だろう。
恐怖に震えた「私」が、この施設の精神科医に「先生、転向しますから、許してください」と懇請する場面がある。これに対して、精神科医が笑って言う。「転向って小林多喜二の時代じゃないんだから、人聞きが悪い」。この小説は、多喜二の時代の再来が、夢物語ではないことを語っている。
この「落日」が描いているのは、作家に対する弾圧である。しかし、文学や芸術が権力から攻撃される以前に、政治活動や社会的活動、あるいは労働運動、ジャーナリズムや学術・教育に対する弾圧が先行しているに違いない。「日没」の描く風景が恐ろしいだけに、あらためて自由を擁護しなければならないと思う。
(2021年2月19日)
S君、長くお目にかからないが、久しぶりにご意見のメールをいただくと50年前の修習生時代を思い出す。真っ直ぐな問題提起の仕方に、つくづくと、人は変わらないものと思う。
弁護士生活50年を記念する出版にともなう集会をどう持つか。私は、「戦後75年の司法を俯瞰する」ものとしようと提案した。「われわれが経験したのは、この50年の司法だが、その出発点を見据えるには、戦後からの分析というスパンが必要ではないか」という趣旨だ。
それに対して、貴君から、「澤藤意見では、出発点を見据えるには戦後からの分析というスパンが必要と述べているが、本質的な点を明らかにするためには、天皇制下の司法の分析と『戦前』(特に昭和)からのスパンが必要と思う。」「裁判官の意識・考え方は旧憲法のままだと感じている。」と、ご意見をいただいた。これは、貴君の受任事件を通じての切実な見解ということがよく分かる。
「戦前の裁判官の意識(考え方)がそのまま引き継がれているものとして、公権力の行使による加害に対しては責任を負わないとする『国家無答責論』(判例法理)が問題」「戦後補償訴訟では、裁判所は、反人道的不法行為事実を認定しながら、国家無答責論を無批判に適用して重大な基本的人権の蹂躙行為を免罪した」「私は、担当裁判官の公権力の行使による加害行為を安易に免罪するという考え方が、他の事件を判断する場合でも、権力や強者の責任を免除する方向に繋がっていることを強く感じる」
なるほど。事件を通じての、皮膚感覚の裁判所論は、痛いほどよく分かる。「本質的な点を明らかにするためには、天皇制下の司法の分析と「戦前」(特に昭和)からのスパンが必要と思う。」とのご意見には、私も異論がない。
私たちの修習生時代に長官だった「石田和外」などは、戦前の「天皇の裁判官」の精神構造を、そのまま戦後に引き継いだ裁判官群の代表だった。大日本帝国憲法に馴染んだ戦前の裁判官が、パージのないことを奇貨として、そのまま戦後の日本国憲法下の裁判官になりおおせたことを記憶に留めておかなくてはならない。
とは言え、天皇制下の司法がどう現在に引き継がれているかについての認識には、多少の齟齬があるようだ。あれから50年。70年代以後現在につながる司法のありかたを、「その本質において戦前と同じ」という切り口で評することが有効だろうか、疑問なしとしない。
天皇制下の司法は、イデオロギー的には「天皇の裁判所」であり、「天皇の裁判官」が担った。組織的にも司法省に従属した裁判所であった。違憲立法審査権はなく、国家は悪をなさずの思想のもと、国家賠償は認められず、国家無答責は言わずもがなの大原則であった。
戦後の新憲法は、戦前の司法を清算し、人権の砦として新たな出発をしたはず。私は、ここが出発点と思っている。戦後75年、憲法が想定する司法はできていない。これを、戦前を引き摺っているからと捉えるべきだろうか。
修習生時代から、「所詮司法といえども権力の一部」「司法の独立なんぞは幻想に過ぎない」というシニカルな意見はあり、私は「権力機構の一部としての司法の独自性を理解しない極論」「人権や民主主義擁護の運動に有害」と反発してきた。
言うまでもなく、法には、国民支配の道具としての側面と、権力抑制の側面とがある。司法にも、権力機構としての国民支配の道具として作用する一面と、権力を抑制して人権を擁護する側面とがある。
私たちは、その後者を大切なものとし、国民の人権意識や民主主義の発展とともに、「人権の砦」としての裁判所の実現は可能と考えて、「司法の独立」というスローガンを掲げてきた。
しかし、それは残念ながら、現在のところは見果てぬ夢に過ぎない。権力機構の一部としての司法がまかり通っているのが現実だ。問題は、その憲法との乖離という現実が司法だけのことではないということ。保守政党が支配する立法府にも、粗暴に権力を振るう行政府にも、さらには自治体にも社会全体の法意識にも当てはまることではないか。
「所詮司法といえども権力の一部」という論を、シニカルにではなく、もう一度捉え直す必要もあるのではないか。日本の社会全体に人権や民主主義が根付かぬ限りは、司法だけが憲法の想定する理念を実現することは現実には困難ではないだろうか。
とはいえ、そのことが司法に関する独自の運動を否定することにはならない。権力機構の中で司法部には、独自の役割や機能をもっているはず。
「憲法の砦としての司法」「司法の民主化」「司法の独立」「裁判官の独立」「司法官僚の現場裁判官操作を許すな」というスローガンの有効性は揺るがないと思う。
少し長くなった。その後のことは、次のメールにしよう。