澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

6月4日に思う。かつての「人民に依拠した中華人民共和国」と「国民党による強権支配の台湾」という関係は完全に逆転した。いまや、「一党独裁個人崇拝の専制国家・中国」と、「人権と民主主義の先進社会・台湾」との対比の構図である。これは、野蛮と文明の対比ではないか。

(2024年6月4日)
 6月4日、忘れてはならぬ日であるが、到底忘れられぬ日でもある。
 あの日、私の中で崩壊したものは、中国共産党や中華人民共和国への期待や肯定的な評価だけではない。人類の進歩への楽観や希望も崩れたのだ。あれから35年、中国共産党の野蛮と危険は、さらに深刻化している。彼の地に、人権と民主主義が根付くには、百年河清を俟つがごとき感を拭えないが、やむを得ない。百年を俟つ覚悟をしようではないか。そう、百年批判の声を挙げ続ける覚悟を。

 例年6月4日には、弾圧されて声を失った中国本土の民主勢力に代わって、香港の市民が大規模な追悼と抗議の集会を続け、亡き人たちの志を継いできた。が、今や、香港の文明は中国の野蛮に完全に呑み込まれ、いまこの志を継いでいるのは台湾である。

 かつての「人民に依拠した中華人民共和国」と「国民党による強権支配の台湾」という関係は完全に逆転した。いまや、「一党独裁個人崇拝の専制国家・中国」と、「人権と民主主義の先進社会・台湾」との対比の構図である。

 さらに深刻なことは、野蛮の側が腕力において圧倒的に強盛なことである。文明の側、人権や民主主義の旗を掲げる側は、軍事力において劣勢を免れない。

 その台湾では、就任まもない頼清徳総統が、本日「天安門事件の記憶は歴史の奔流の中で消えることはない」と発言した。さらに、「(天安門事件は)民主主義と自由が簡単には手に入らないことを思い知らせてくれる。私たちは、自由によって独裁政治に対応し、勇気をもって権威主義の拡大に立ち向かわなければならない」「民主や自由があってこそ人民を守ることができる」とも述べたという。そして、台北市内では民主団体によって天安門事件犠牲者を追悼する集会が開催された。

 習近平共産党指導部は、事件を「動乱」と認定して民主化要求運動を武力で抑え込んだ対応をいまだに正当化し、さらに国内民主化運動をおさえこもうと躍起である。4日早朝、天安門広場やその周辺には制服姿の警察官や武装警察官が多数配備された。厳戒態勢を敷き、市民の追悼や抗議活動を監視しているという。強権を発動しなければ、治安を維持することのできない脆弱さを抱えているのだ。

 一見、中国と台湾が対立しているように見えるが、実は、民主主義を求める勢力と、これと敵対し弾圧する勢力とが対立している。民主主義を求める勢力は中国本土では劣勢で弾圧されている。台湾では、民主主義を求める健全な勢力が多数派を占めており、虐げられている中国の民主主義勢力に手を差しのべているのだ。

 周知のとおり、中国指導部の頼総統に対する非難のボルテージは高い。先月の総統就任時には祝辞を送らず、《台湾に『戦争と衰退』をもたらす『危険な分離主義者』》との物騒なメッセージを送って、台湾周辺をぐるりと取り囲む形での軍事演習の実施で威嚇をしている。《中国に逆らうと『戦争と衰退』が待っているぞ、中国からの台湾分離など唱えることの『危険』を知れ》と恫喝しているのだ。これこそ、野蛮な反社の姿勢ではないか。

 「天安門」から、「08憲章」・「チベット・ウイグル」・「香港」、そして台湾と矛先は広がっている。自由に発言のできる立場にある者は、「天安門の母」や香港の市民に代わって民主勢力を弾圧する野蛮な中国共産党を批判しなければならない。小さな声も、無数に集まれば力になる。そうすれば、百年待たずして河清を実現できるかも知れない。

トランプは、アメリカの民主主義の健全さを示すリトマス試験紙となった。彼が、有罪の宣告を受け、さらに受刑者として収監されることが、アメリカの民主主義の成熟性の証しとなる。それが「トランプ有罪評決」の爽やかさの理由である。

(2024年6月1日)
 昨日の朝は、久々に爽快だった。言うまでもなく、「トランプ有罪」の報が飛び込んできたからである。この上なく耳に心地よい、市民による正義実現のニュース。法廷には、「ギルティ」の言葉が34回繰り返されて響いたという。12人の陪審員が、34件の業務文書偽造の各訴因について、全員一致で「有罪」と認定したのだ。

 伝えられるところでは、検察はこの公判で、犯罪の動機を「2016年大統領選に不利な影響が生じないための被告人(トランプ)の工作」と強調したという。単なる「ポルノ女優との不倫の〈口止め料隠し〉」ではなく、民主主義の根幹を揺るがす「公正な選挙を冒涜する犯罪」と構成してのことである。アメリカ合衆国大統領候補者が、大統領選挙に不利と見て自らのスキャンダルを隠蔽するために金を積み、そのカネの使途を隠すために文書を偽造したのだ。12名の市民は、厖大な証拠に基づいてこの大統領候補の犯罪の成立を認め、前大統領に「ギルティ」を宣告した。

 有罪の評決は、トランプにも意外だったのだろう。夕刊各紙に掲載された判決言い渡し直後のトランプの形相が凄まじい。血走った目が、衝撃の深さを物語っている。それでも彼は、型のとおり「恥ずべき不正な裁判だ」「民主党による政治的迫害だ」「バイデンが裏で糸を引いている」とコメントしている。いや、恥ずべきはトランプ自身ではないか。カネとウソと居丈高。みっともないこと、この上ない。共和党は、こんなのをまだ大統領候補にしておくのか。

 一方、バイデンは落ちついて、「法を超越する存在はないという米国の原則が再確認された」「他の裁判と同じように選ばれた12人の陪審が、5週間証拠を調べ、慎重に検討した後、全会一致で評決に至った」「トランプは弁護の機会を与えられたし、上訴の機会もある。それが米国の司法制度のあり方だ」と述べたという。余裕綽々、この点はそのとおりである。バイデンも決して立派な政治家とは言えないが、トランプとの比較の限りでは、月とスッポン、提灯に釣り鐘である。

 バイデンの言のとおり、いかなる権力者も服さざるを得ないのが、民主主義社会における「法」である。王も、皇帝も、大統領も、党も、主席も、総統も領袖も、金持ちも、人気者も、一人として例外はあり得ない。前大統領であり次期有力大統領候補であるトランプの「有罪」は、米国の民主主義いまだ地に落ちずという図柄である。これが、このニュースの心地よさの所以である。

 私は、アメリカ帝国主義こそ人類最大の害悪だと思い続けてきた。が、同時にアメリカ市民の民主主義の良き伝統には敬意を払ってきた。中国共産党は大嫌いだが、中国の風土と文物、人々には畏敬の思いを拭いがたい如くに、である。

 この度の「トランプ有罪」は、アメリカの市民社会に根差した民主主義の伝統の発露として敬意を評したい。さらに、トランプが起訴されているその余の3件のいずれにも、有罪の評決と厳しい科刑を期待したい。トランプとは、今やアメリカの民主主義の健全さ如何を示すリトマス試験紙である。彼が、受刑者として収監されることによって、アメリカの民主主義の成熟性を示すことになる。中国やロシアでは考えられない、権力を抑制してこその法の存在であり、民主主義なのだ。そのような目で、今後のトランプの刑事裁判に注目したい。

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