季刊『Fraternity フラタニティ』が創刊され、明日(2月1日)が発行日となる。
フラタニティとは友愛のこと。フランス革命のスローガンとして知られている「自由・平等・友愛」の内、「自由・平等」は普遍的原理として世界に定着したものの、友愛が不当に軽視されている。日本国憲法の理念として友愛を根付かせることによって、憲法をよりよく活かそう、というコンセプト(だと思う)。雑誌のモットーが副題として「友愛を基軸に活憲を!」となっている。私も賛同して、編集委員のひとりとなった。編集長が村岡到、編集委員に西川伸一、吉田万三などの名がある。
資本主義社会の「競争」に対峙する原理としての「協同」の奥あるいは基礎に「友愛」がある。私は個人的にそう理解している。「友愛」を理念とする市民が、「競争」を行動原理とする企業をコントロールすることが、夢想ではなく可能ではないか。その基本は民主主義による企業統制だが、それ以外にも現実にいくつかの手法が成功しているように思う。
創刊号が刷り上がっているが、なかなかの出来だと思う。読ませるこの内容で、一冊600円は割安感がある。
ぜひ、下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
http://logos-ui.org/fraternity.html
創刊号の特集が「自衛隊とどう向き合うか」で、次の3本の記事がメインとなっている。
村岡 到 「非武装」と「自衛隊活用」を深考する
松竹伸幸 護憲派の軍事戦略をめぐって
泥 憲和 安保法制批判側が国民の支持を得られない理由
そのほかに、
編集長インタビュー 孫崎 享 東アジア共同体が活路
TPPを何としても止めよう! 山田正彦
沖縄は今
脱原発へ
高野 孟 ジャーナリストの眼?
地域から活憲を? ねりま9条の会
ロシアの政治経済思潮 ?
友愛を受け継ぐ人たち? 友愛労働歴史館
わが街の記念館? 賢治とモリスの館 等々
創刊号の裏表紙に、編集長の「季刊『フラタニティ』創刊アピール」が掲載されている。「季刊『フラタニティ』は、「友愛を基軸に活憲を!」をモットーに刊行されます。」ではじまる創刊の辞は、かなりの長文で意気込みに溢れたもの。最後が「ともに〈活憲〉の時代を切り開いていきましょう」に収斂する。しかし、何よりもこの雑誌の性格をよく物語っているのは、欄外に小さな活字で書かれた編集長自身の次の文章である。
「〈付〉上記のアピールは小さな編集委員会でもいろいろ異論があります。一つの方向として、深く考える素材として発せられたものです。」
こういう、まとまりのなさを率直に明示しているところがこの雑誌の魅力である。多様な書き手のそれぞれの個性が、まとめられたり整理されたりすることなく、素のまま表れているのだ。
私も連載を引き受けた。「私がかかわった裁判闘争」というタイトル。5頁というスペースをもらっている。執筆を引き受けて、自分のこれまでの弁護士生活を振り返るよい機会だと思っている。編集長からの注文があって、その第1回で「岩手沿岸の『浜の一揆』訴訟」を取り上げた。自分で読み直してみて、結構面白いと思う。
その連載第1回の冒頭に、「私はいかにして弁護士となったか。」を書いた。
フラタニティ創刊号の予告編として、その一部を抜粋して引用しておきたい。抜粋でなく全文に興味が湧けば、ぜひ雑誌の購読をお願いしたい、という魂胆。
実は、私こそが法が求める弁護士であると自負している。密かに自負していれば穏当なのだが、執拗に広言してやまない。
「資格を持っているだけの弁護士」と「法が想定する弁護士」とは一致しない。「基本的人権の擁護と社会正義の実現」は、在野・反権力に徹し、かつ資本の支配に抗することによって初めて可能となる。それだけではない。この社会においては、権力は社会の多数派によって担われる。だから、社会の多数派が形づくる常識が、権力のイデオロギーとなる。毅然として権力と対峙するには、社会の常識に絡めとられてはならない。私は、意識的にこの社会の常識を排する。「和の精神」も、愛国心や国旗・国歌も大嫌い。民族の歴史・伝統・文化には馴染めない。その中核をなす國體思想には生理的嫌悪を禁じ得ない。
そのような私だからこそ、最も弁護士らしい弁護士なのだ。現行法制度は人権擁護のために「弁護士という国家権力から独立した法技術者の職能集団」をつくった。その法の趣旨にもっとも適合的な弁護士像が、在野に徹し、資本に抗い、天皇制批判に躊躇しない私だと思っているのだ。
啄木の「一握の砂」に、「わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く」という一首がある。啄木が詠んだから「歌」になっているが、散文にすれば唯物論の基本に過ぎない。「この社会において人が抱く思想は、すべて金なきに因する」か、あるいは「金あるに因する」かのどちらか。私が抱いた思想も、基本的に「金なきに因する」ものだった。
「苦学生」とは今は死語になっているのだろうか。私はまさしく古典的な苦学生だった。高校卒業後はいっさいの仕送りなしの生活。奨学金とアルバイトだけでの自活だった。
今はなき東大駒場寮に居住していた当時、寮生の自治運営だった寮食堂は格安だったが、その安い食費の捻出ができない寮生も多かった。そのような寮生に、「残食」という制度があった。夜8時頃だったろうか。ダンピングの「残食」にありつこうという寮生が列をなすのだ。経済的下層の学生が、「残食」グループを形成する。ところが、下には下がある。私ほか数名は、その列を尻目に、自由に掬える汁類をごっそりと漁るのだ。こちらは一汁だけだがタダの夕食。これを咎められた覚えがない。誰もが暖かく見守ってくれていたはずはないが、大目には見てくれていた。
そんな学生だった私には、自分が企業への就職活動をするなどとイメージできなかった。公務員になることも考えられなかった。「資本の走狗にも、権力の尖兵にもならない」などと言えば格好は良いのだが、務まりそうはないというのがホンネのところ。芸術や文筆の才能あれば、その道で生きていきたいところだが、所詮は夢のまた夢。アルバイトで明け暮れた大学生活4年間が過ぎるころに、弁護士になろうと腹を決めた。
志望の動機の最大のものは消去法である。他人に使われての勤めは自分には無理だ、と思い込んでいた。その自分にも、弁護士という自由業なら務まるのではないか。憧れたのは、飽くまで自由な生き方。誰にも束縛されず、他人におもねることなく生きる自由である。
1969年3月に6年間在学した大学を中退し、4月に最高裁管轄下の司法研修所に入所して司法修習生、つまりは法曹の卵になった。当時の司法研修所は牧歌的で、少なからず学生生活の延長の雰囲気があった。私は、正規のカリキュラムよりは、課外の自主活動で有益な研修をした。その過程で、世の中の紛争はさまざまであり、弁護士も誰の利益を代弁するか、実にさまざまであることを知った。
こうして、いくつかの「別の道」の選択もあったのだが、結局「金なきに因するわが抱く思想」に忠実であろうと心に決めて弁護士実務に就くことになった。権力の側、資本の側には就かない。強い側、多数派には与しない。こう心に決めての職業人生の出発だったが、しばらくして気が付いた。権力も資本も、私に事件の依頼などして来ない。だから、格別改めての決意など不要で初心を忘れずにいられる。こうして45年が過ぎ、いつの間にか、過去を語る齢になった。
これまで私が携わってきた分野は比較的広い。それだけ、専門性は低いとも言える。労働・労災職業病・消費者・医療過誤・薬害・差別・政教分離・選挙運動の自由・教育・平和訴訟・「日の丸君が代」強制反対等々。なんとなく、「思想・良心の自由」のフィールドがライフワークとなっている感がある。その中から、今後いくつかの事件を拾って報告の連載をしてみたい。第一回は、私の故郷岩手で、始まったばかりの「浜の一揆」訴訟である。
(2016年1月31日)
多くの方から、一昨日(1月28日)の「DHCスラップ訴訟控訴審勝訴判決」に、祝意のご挨拶をいただいた。あらためて御礼を申し上げます。
ほとんどの方が、「当然の勝訴とは思いますが、よかったですね」「当たり前の判決ですが、おめでとう」というもの。そして、「DHCや吉田嘉明は、こんなスラップを提起した責任をどうとるつもりなのでしょうか」というご意見も。
なかに、「判決主文には訴訟費用はDHC・吉田の負担とされている。具体的には、どのくらいの金額を支払わせることが出来るのか」というありがたい問合せもあった。残念ながら、これはDHC・吉田が訴状と控訴状に貼った印紙の代金について、「澤藤からはとれません」というだけのもの。私(澤藤)には1円もはいってこないのだ。これが、スラップのスラップたる所以。スラップの標的とされたものが、その訴訟に勝訴しただけではなんの見返りもない。弁護士費用も、応訴の時間消費も、その間の減収の補償もない。そこが、スラップを起こす者の付け目でもある。
もっとも、「こんなことをする、DHCの製品は決して購入しません」という声もあった。これは嬉しいことだし、本質を衝いた問題提起でもあると思う。
弁護士は別として、DHC・吉田の私に対する訴訟によって、「スラップ」「スラップ訴訟」という言葉を初めて知ったという方が、ほとんどのようだ。「スラップ」の陰湿でダーティーなイメージと、こんな提訴をする企業や経営者への社会的評価の低下は避けがたい。大きな規模でDHCの化粧品やサプリメントの商品イメージの低下にまでつながれば、再度のスラップの抑止効果を期待出来るところ。
「スラップに成功体験をさせてはならない」だけではなく、スラップ提起者への法的、社会的な制裁が必要である。そのために、まずは「スラップ」「スラップ訴訟」の実態と、社会的被害を世に知らしめなければならない。
そのような試みは、着実に始まっている。たとえば、本日発売の『消費者法ニュース』が「スラップ訴訟(恫喝訴訟・いやがらせ訴訟)」の特集を組んでいる。
『消費者法ニュース』は季刊誌である。消費者問題に携わる研究者・弁護士・司法書士・消費生活相談員・消費生活コンサルタント・市民活動家・消費者被害者らが寄稿して支えている。
2015年10月発行の前号(105号)の概要をご覧いただけば、その充実振りがご理解いただけよう。
特集1:不招請勧誘規制(Do Not Call制度、Do Not Knock制度)
特集2:公益通報者保護法の改正
シリーズ1:消費者庁・消費者委員会・国民生活センター・地方消費者行政、以下15の各テーマについてのシリーズが連載されている。続いて、学者の目、相談員の目、Q&A、判例・和解速報、国民生活センター情報、政府・政党・国会議員の声、消費者運動の歴史、判決全文紹介…とならぶ。
さて、本日(1月30日)発売の106号は、スラップ訴訟について30頁を超す盛りだくさんの特集。下記9本の論稿が並んでいる。もちろん、私も執筆者のひとり。
1 「スラップ概論」 弁護士(福岡)青木歳男
2 「伊那太陽光発電スラップ訴訟」 弁護士(長野)木嶋日出夫
3 「スラップに成功体験をさせてはならない─DHCスラップ訴訟の当事者として─」 弁護士(東京)澤藤統一郎
4 「ホームオブハート事件─ 消費者被害者に対する加害者側によるSLAPP事例─」MASAYA・MARTHこと倉渕グループ問題を考える会代表・山本ゆかり
5 「第一商品株式会社からの不当訴訟について」 弁護士(東京)荒井哲朗
6 「スラップ訴訟と名誉毀損の法理について」 弁護士(東京)飯田正剛
7 「カルト問題とスラップ」 やや日刊カルト新聞主筆・鈴木エイト
8 「スラップとメディア」 フリージャーナリスト・藤倉善郎
9 「アメリカにおける『戦略に基づく公的参加封じ込め訴訟』(SLAPP)」 創価大学法科大学院教授・藤田尚則
スラップに深く関心を持っている、当事者・弁護士・ジャーナリスト、そして研究者の深刻な問題提起と貴重な提言が持ち寄られている。消費者問題の切り口を主とする特集で、必ずしもスラップ全体をカバーするものではないが、これからスラップを語る出発点としての貴重な基本文献となっている。ようやくにして、スラップは人々の口の端に上るようになり、スラップの提起は唾棄すべき愚行であるとの社会通念が着実に形成されつつあると実感する。
スラップはさまざまに定義されているが、私は、「強者の側からの民事訴訟の濫訴を手段とした、表現の自由や市民活動の自由に対する侵害の試み」と考えている。弁護士費用・訴訟費用の負担を厭わない公権力や経済的強者の側の武器として、極めて有効なのだ。表現の自由・市民活動の自由に、重大な脅威をもたらし、我が国の民主主義を変容させかねない。
司法本来の主たる役割は、法がなければ守られない社会的弱者の権利救済にある。しかし、スラップは、その正反対の望ましからぬ役割に利用された提訴である。しかも、強者が弱者を提訴するそのことだけで、大半の目的を達する。被告とされた本人だけではなく、被告以外の多くの者、つまりは社会に対する表現や行動の萎縮効果をもたらすからである。スラップを默過し放置することは、司法の悪用を認めることにほかならない。
巻頭論文となった、青木歳男「スラップ概論」の中に「便利でお得なスラップ」という一節がある。これが、「スラップの社会学」であり、「スラップの費用対効果」である。だから、スラップがはびこり、スラップが根絶されないのだ。
(1)組織力と財力に優れた大規模な組織から訴訟を提起されるという事態は、一個人からすれば経済的・心理的に大きな負担であり、確実に被告への過大な負担を与えることが可能となる。
(2)被告の周囲の者に対しても、提訴の可能性を示唆することができ、被告への協力を躊躇させることができ、反対運動のような場合であれば反対運動自体を抑制することが出来る。
(3)加えて、他の言論機関に対しても名誉毀損訴訟の可能性を示唆することができ、メディア全般への牽制にもなる。
(4)スラップを防ぐ手立てがなく、一度被告とされると、原告が納得するまで訴訟に付き合わなければならない(米国の反スラップ法では予備審にて却下という救済制度があることと対照的である)。
(5)提訴は合法な行為であり、表面上それ自体非難されるものでない。反訴により違法性を認定されなければ不当性を指摘されることは少ない。
(6)特に名誉毀損訴訟での提訴の場合、日本の判断基準は曖昧であるから、不当であるかどうか名誉毀損が成立するかどうか(考え方としては名誉毀損が成立してもスラップと考える場合もあるが)ハッキリしないので、不当だと批判されにくい。
(7)多くの被告は訴訟の長期化を避けるため(負担が増えるため)反訴提起は起こりにくいし、反訴において不当訴訟として認定されるための要件は大変厳格である。
(8)スラップを提起したことが広く社会に知られた場合、原告が社会的非難を受ける危険性はあるが、スラップが報道される例は多くない。
(9)原告は、社会的評価を低下させる表現を見つけて訴訟を弁護士に委任すればよく、その費用は大規模組織のメディア対策費とすれば極めて低廉である。不当訴訟と認容を受けても賠償額は弁護士1名分程度の費用が上積みされたに過ぎない(幸福の科学事件判決の認容額は100万円、武富士事件の認容額は120万円、伊那太陽光発電スラップ訴訟は50万円)。
(10)現実に言論の萎縮が生じており、大変効果的な手段であると考えられる。
オウム真理教は江川昭子さんを訴え、幸福の科学は山口廣さんを訴え、DHC・吉田は係争中の労組員や私を含む批判者多数を訴えた。提訴側は、スラップに敗訴したところで何の失うものもない。負けてもともと、やり得なのだ。負けても得るものがある。スラップ常連者は、自らを厄介な存在と社会に認識させることで、自らに対する社会からの批判の言論をブロックできるのだ。
スラップ提起によるイメージの悪化が、客離れや自然発生的なボイコットあるいは不買運動などによって、スラップ提起者に経済的な打撃が生じる状況が生じれば、抑止的な効果を期待することが出来る。しかし、そのことは常に期待できることではないし、スラップの主体が、顧客を抱えているとも限らない。何らかの法的あるいは制度的な制裁の仕組みが必要である。
この点については、カリフォルニア州の「反スラップ法」が典型として参考になる。「消費者法ニュース」の藤田尚則論文は、大要次のように紹介している。
「同法は、SLAPPの標的(被告)を訴訟から早期に解放するための手続を定め、『裁判所が、原告は請求において勝訴する蓋然性があることを立証したものと決定しない限り、特別の削除申立てに服さなければならない。』と規定し、特別の削除申立ては『原告の訴状の送達から60日以内に提起することができるものとし、又は裁判所の裁量で当該裁判所が適切と決定するその後の適切な時期に提起することができるものとする。申立ては、裁判所書記官によって申立ての送達後30日以内に裁判所の未決訴訟事件表の状況が後の審尋を要求しない限り審尋に付されるよう訴訟日程表に登載されなければならない。』と規定している。更に同法は、ディスカバリー(日本法にはない証拠開示手続)による負担から被告を保護するため、訴訟における全てのディスカバリー手続は…申立ての通知の提出まで停止される。…そのうえ被告の経済的負担軽減のために『特別の削除申立てに勝訴した被告は、彼又は彼女の弁護士費用及び訴訟費用を回収する権利を付与される。』と規定している。」
さらに、「ワシントン州反SLAPP法」がスラップ被害者の救済を強化したものとして、次のように紹介されている。
「原告が明白且つ確信を抱かせるに足る証拠に基づいて申立てに成功し得る蓋然性を立証できなかった場合、裁判所は『訴訟費用及び相当の弁護士費用を含まない10,000ドル』の支払いを原告に命じ、『裁判所が応答当事者〔原告〕の行為及び同様の立場に置かれた他者によるそれに匹敵した行為の反復を抑止するに必要と決定した、応答当事者及び当該当事者の弁護士又は法律事務所に対する制裁を含む付加的救済』を命ずると規定している」
このような立法例を参考にして、我が国の「反スラップ法」「民事訴訟におけるスラップ抑制制度」を創設したいものと思う。
「消費者法ニュース」の購読申込みは下記URLで。
http://www.clnn.net/form/order.html
(2016年1月30日)
昨日の私のDHCスラップ訴訟控訴審判決法廷に、徳岡宏一朗さんが私の代理人のひとりとして出廷してくれた。記者会見にも出席して、著名ブロガーとしての自らの体験から、ブロガーの表現の自由の大切さを語った。
徳岡さんは、私の「万国のブロガー団結せよ」という呼びかけに呼応して、「リベラルブロガーの団結」の機会を作ろうと具体的プランを練っている。その彼が、記者会見の席で、ブロガーの表現の自由を守り通すことの困難な状況をも語った。
その困難な状況のエピソードのひとつとして、日弁連会長選挙に関連した彼のブログ記事が、「選挙管理委員会から削除を要請された」と報告された。その理由は、「候補者以外の会員による選挙活動は禁止されている」からだという。徳岡さん自身は、会見の場では選挙管理委員会の措置を不当とも不満とも言わなかったが、これは看過できない問題ではないか。
私は、これまで刑事弁護活動に際して公職選挙法に目を通す機会は多く、「べからず選挙」となっている選挙活動の制約過剰を批判し続けてきた。かなり以前のことだが、「戸別訪問禁止は憲法(21条)違反」という判決を勝ち取ったこともある。(もっとも、無罪は一審段階限りで、検事控訴によって覆り最高裁でも上告棄却で終わったが)
日弁連会長選挙が、公職選挙法に類する「べからず」選挙とは知らなかった。今回、初めて会長選挙規定を一読して、首を傾げた。なるほど、これはおかしい。社会正義と人権の擁護者としての弁護士の組織が行う選挙である。選挙における民主主義や人権は、国の法律よりも抜きん出て重んじられなければならない。にもかかわらず、なんと古色蒼然たる理念に基づく規定であろうか。
関連規定は、以下のとおり(読み易く一部省略)である。
第56条の2(ウェブサイトによる選挙運動)
1項 候補者は、ウェブサイトを利用する方法により、選挙運動をすることができる。
2項 選挙運動のために利用するウェブサイトは、選挙運動の期間中に限り開設される選挙運動専用のものでなければならない。
第58条(禁止事項)
候補者及びその他の会員は、選挙運動として次に掲げる行為をし、又は会員以外の者にこれをさせてはならない。
第4号 第56条の2の規定に違反してウェブサイトを利用する方法による選挙運動をすること。
要するに、ウェブサイトを利用する選挙運動は、候補者だけに可能とされ、一般会員有権者には禁止されているのだ。規定がこうなっている以上、任務に忠実を心掛ける謹厳な選管委員氏が、徳岡さんのブログを看過できないとしたわけだ。だが制裁措置は予定されていない訓示規定。どう運営するかは選管次第。看過したところでなんということもないのだ。むしろ、規定の方に大いに問題があり、異議ありなのだ。
この会長選挙規定をおかしいという根拠の一つは、選挙運動主体についての理念を古色蒼然で戦前型といわねばならないことにある。私は、民主主義社会の選挙運動の主体は候補者でもその取り巻きでもなく、主権者国民であることを疑わない。かつて、普通選挙法(1925年改正衆議院議員選挙法)成立後敗戦までの間は、「演説又は推薦状による場合を除き、候補者、選挙事務長、選挙委員又は選挙事務員でない第三者は選挙運動をすることができない(第96条)」と規定された。この「第三者」とは有権者国民のことである。選挙運動の主体は、候補者と、登録された運動員に限られ、「第三者」たる一般国民には選挙運動が禁止されていた。国民は選挙運動の主体ではなく、もっぱら選挙運動の受け手に留め置かれたのだ。可能な限り臣民に民々主義的な政治感覚を育てたくないとする天皇制政府の(悪)知恵の所産である。日弁連の会長選挙規定がこの思想を受継しているかにみえることに一驚せざるを得ない。
選挙とは、本来的に有権者相互間の言論戦である。選挙運動としての言論の規制を合理的だというためには、カネがかかりすぎるか、虚偽や詐術の場合以外には考えがたい。しかし、ブログこそは最も金のかからない言論手段ではないか。また、虚偽や詐術には反論を第一とすべきであろう。後見的に選管が注意や勧告をするのはよくよくのことがなくてはならない。
徳岡さんのケースを具体的に見る必要があるだろう。彼の1月25日付ブログに次の記事がある。
「さっき、日本弁護士連合会選挙管理委員会の副委員長さんから、わざわざお電話をいただきました。わたくし、なんかの選挙にも出た覚えがないので、ビックリしたのですが、なんと私のブログ記事が日弁連の選挙管理規定に違反するので、削除して欲しいと言うのです。」
問題となったのは以下の記事。2016年1月17日付け記事で、
「【悲報】日本弁護士連合会の執行部側○○○○候補が、稲田朋美自民党政調会長に何度も献金していた。」というもの。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/91b8d2267e07171d450b4c1dd6ab2c65
選管は、同候補が稲田朋美に献金をしていたことが事実かどうかを問題にするのではなく、形式的に「日弁連の選挙管理規定違反」だけを削除要求の理由に挙げたようだ。
私は、今回の候補者のひとりが稲田朋美という極右の政治家に政治献金をしていたという事実を知らなかった。徳岡ブログによって、貴重な私自身の投票行動の判断基準となるべき重要事実を知ることとなった。明らかに、候補者以外の会員が発するブログ記事は有益である。
もっとも、今回は、選管が動いたということが大きな話題となって、末端会員である私も、某候補者と極右稲田との関係を知るところとなった。選管の徳岡ブログ削除要求は話題作りの高等戦術なのか、あるいは単なるオウンゴールなのかは判然としない。
稲田朋美が何者であるか、いったんは私も情報を整理しようとしてみたが、その必要はない。徳岡さんが、これ以上はないという綿密さで、見事なプロファイリングをしてくれた。これを読めば、稲田が政治家としても、弁護士としても、いや市井のひとりしても、人間性を疑問視されるべきトンデモナイ人物であることが一目瞭然である。これも、選管介入の賜物であろうか。ぜひとも多くの人に読んでいただきたい。大いに拡散したいものである。
「日本弁護士連合会会長候補が献金していた稲田朋美政調会長とは、こんな極右政治家。」
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/db48f4b75b6bf719015cffa4eb8f2d57
公正を期すために、稲田との関係を指摘された候補者の釈明(抜粋)を記載しておきたい。
「年数万円の政治献金だけが事実で、あとはみなでたらめです。しかも、私が献金しているのは、稲田議員だけではありません。
稲田議員は、私と同じ大阪弁護士会に所属しており、旧知の間柄であるだけではなく、給費制やTPPの弁護士に関する条項の問題では、弁護士会と同じ立場に立って活動しています。法曹人口問題や法曹養成問題、給費制など、弁護士をめぐる様々な問題は、政治問題でもありますので、政治家への働きかけは欠かせません。私はこう考え、弁護士議員を中心に、与野党を問わず、幅広い議員に政治献金をしています。ここで個人名を挙げるのは控えますが、憲法問題でおよそ稲田議員と対極の立場にある野党議員にも献金しています。それを言わないで、稲田議員のみを取り上げるのは、ためにする議論としかいえません。」「弁護士の立場を守る議員は与野党を問わず応援するが、個別の政見については是々非々で対応する。これが私の立場です。もっとも、今までは一人の弁護士として献金してきましたが、公的な立場である日弁連会長となった暁には、全議員に対して献金を控えることといたします。」
稲田への「年数万円の政治献金だけが事実」と認めた上で、堂々とその理由を述べている。これはこれで見識と言えよう。「極右稲田もいまや有力な与党政治家なのだから、これと上手に付き合う必要がある」「弁護士会の利益のために、清濁併せ呑むべきは当然」「良い人とだけつきあっていたら選挙落ちちゃうんですね」「濁の濁たる稲田とでも付き合わなくては」との考え方である。他方「こんな輩とエールを交換することは断じてあってはならない」とする潔癖な批判は当然にある。考え方は、いろいろあってよい。が、「某候補者に対稲田献金あり」との事実摘示のブログを削除せよとする選管のやり方は穏やかではない。
必要にして十分な情報の交換とともに、批判と反批判の応酬の場を保障して、判断は有権者に任せればよいだけのことではないか。いずれ、この首を傾げざるを得ない日弁連会長選挙規定は変わらざるをえない。それまでの間、この点についての四角四面の厳格運用は野暮ではないか。野暮とは、法形式のみにとらわれて、民主主義の本質についての理解に欠けるという程度の意味合いである。
(2016年1月29日)
DHCと吉田嘉明が私を被告として提起したDHCスラップ訴訟、本日その控訴審判決が言い渡された。当然のことながら、「控訴棄却」。私の全面勝訴である。
「スラップに成功体験をさせてはならない」。これが何よりの重要事。私にスラップを仕掛けたDHC・吉田の成功体験を阻止し得たことは、私個人にとっても、また、表現の自由という基本権擁護の立場からも、まずは良い結果となったことが喜ばしい。政治的民主主義や、規制緩和問題、消費者問題、健康食品・サプリメントの安全性の問題など、さまざまな視点から訴訟を支援していただいた方々に厚く御礼を申し上げます。
勝訴判決は当然のこと、当然勝訴とは思いつつも、判決言い渡しあるまでは、一抹の不安を禁じ得なかった。この被告に対する心理的な圧迫感や負担感が、スラップ訴訟特有の効果でもあろう。
弁護士の私においてさえ、スラップを起こされたことの不快感と圧迫感は否定し得ない。6000万円という金額を「バカみたい」と笑えるのは、第三者の立場にあればこそ。当事者とされた身には、高額請求という手法の効果と、それ故のやり口のあくどさを実感してきた。訴訟の世界に縁の薄い方が、スラップの標的となった場合の驚愕と焦慮は察するにあまりある。この裁判が確定すれば、攻勢に転じて、スラップ防止の具体的な策を講じなければならない。
本日の判決は、一審判決の結論を維持したが、DHC・吉田の請求を棄却する理由について、一審判決より、やや踏み込んだ判断をしている。この点において、判例としての価値のあるものと考えられる。
訴訟における最大の争点は、最高裁が採用している判断枠組みを前提として、名誉を毀損するとされている表現が「事実摘示」か、あるいは「意見・論評」かの分類判断基準についてである。前者であれば、摘示事実の真実性について証明責任が被告に負わされることになる。後者であれば、そもそも真実性の問題が生じない。
DHCと吉田は、私のブログのなかの16個所(???)が名誉を毀損するものと主張した。これに対して、原判決は1個所だけを除いた15個所につき、その表現が原告らの名誉を毀損することを認めた。しかし、その15個所の全部について、これは「事実摘示ではなく、論評である」として、違法性を欠くという判断をした。この枠組みは、本日の控訴審判決も是認した。
DHC・吉田は、その判断が最高裁判決(いずれもロス疑惑についての「夕刊フジ事件」「朝日新聞事件」)を根拠として、???はいずれも事実摘示だとする控訴理由を主張した。これに、判決は丁寧に応えている。
たとえば、次のようにである。
イ 本件記述?及び?について
控訴人らは,「吉田嘉明なる男は(中略)自分の儲けのために,尻尾を振ってくれる衿持のない政治家を金で買った」(本件記述?),「大金持がさらなる利潤を追求するために,行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す」(本件記述?)との記載が,8億円の貸付けに係る控訴人吉田の動機という事実を摘示するものであると主張する。
しかしながら,本件記述?及び?は,控訴人吉田が様々な規制を行う官僚機構の打破を求め,特に,控訴人会社の主務官庁である厚生労働省の規制について煩わしいと考えていた事実,控訴人吉田が渡辺議員に合計8億円を貸し付けた事実,控訴人吉田が雑誌に本件手記を掲載し,渡辺議員との関係を絶った事実を前提にするものであるが,これらの事実は,いずれも平成26年4月3日号の週刊新潮に掲載された控訴人吉田の手記(本件手記)に記載されている事実であり,それ以外に,例えば被控訴人が独自に入手した情報など,本件手記の記載以外の情報を付加して推論を行ったものではなく,このことは,ブログの記事の記載から理解可能である。そして,このような場合には,読み手としては,本件記述?及び?に記載された本件貸付けの動機は,前提事実を元にした推論であると理解するものと考えられる。また,ブログの記事によって取り上げられた本件貸付けは,政治の過程における政治と金銭の問題に関係するものであり,国民の立場から重大な関心事になり得ることからすれば,控訴人吉田が本件貸付けに当たり真実どのような動機を有していたかという事実の問題とは別に,前提事実の組合せに対する社会的な評価や推論・解釈ないしこれに基づく議論が存在し得るものであって,本件記述?及び?はそのような性質のものと理解することも可能である。これらからすれば,本件記述?及び?は被控訴人の意見ないし論評であるとの評価に結び付きやすいといえる。
また,控訴人らは,本件手記や控訴人会社のウェブサイトに控訴人吉田が8億円を貸し付けた動機が記載されており,その真否は控訴人吉田の供述の信用性判断により確定できるから「証拠等をもってその存否を決することが可能な事項」であるとも主張するが,ここで問題とされている本件貸付けの動機は,飽くまで人の内心に係る一般的な行為の動機であり,本件手記等に控訴人吉田の動機に関する記載があるからといって容易にその真否を判定できるものではないというべきである。控訴人らが指摘する前掲最高裁平成10年1月30日第二小法廷判決は,犯罪の嫌疑を受け公訴提起された者について,被告事件(犯罪)を犯したとして犯行動機を推論する新聞記事が事実を摘示するものであるとされた事案であり,本件は,刑事手続において犯罪行為の動機が犯罪事実そのものと共に証拠等をもって認定され,その存否を決することができるとされるものとは異なるものである。
このようにしてみると,本件記述?及び?の記載は,一般の読者の普通の注意と読み方をもってすれば,証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張するものと理解することはできず,控訴人吉田の本件貸付けの動機についての事実の摘示を含むものと解することはできないというべきである。
また、控訴人が「目的の公益性の欠如を主張する点について」の判決の次の指摘も重要である。
控訴人らは,?披控訴人のブログ記事において,攻撃的な表現,控訴人らを嘲笑し馬鹿にする記述,控訴人らに対する敵意ないしは反感に満ちた表現があること,?ブログ記事の掲載に当たり事実関係の調査がされなかったこと,?披控訴人が控訴人会社について「元祖ブラック企業」と記載したチラシを配布していたこと,?経済的強者=悪という個人的な信念ないしは偏見のもと,大企業である控訴人会社及びその代表取締役会長である控訴人吉田を悪人に仕立て上げたいというのが披控訴人のブログ記事掲載の隠れた動機であること,?披控訴人が,本件に便乗して控訴人会社の商品の安全性に対する一般消費者の不安を煽り,その信用をおとしめることも隠れた動機として有していたことから,その執筆態度に真摯性がなく,公益性の否定につながる隠れた目的も存したのであるから,本件各記述について,専ら公益を図る目的に出たものとは認められないと主張する。
しかしながら,本件各記述については,確かに,上記?の指摘のように受け取られる部分があることは否定できないが,原判決の説示のとおり,その内容が,政治家への資金提供の透明性を確保し,民主主義の健全な発展のためには,金員の提供を受ける政治家だけでなく,金員を提供する私人についても監視,批判が必要であるということを訴えるもの,サプリメントの販売については,規制緩和の要請があることや,機能性評価が不十分であること,さらに,有害物質の含有や健康被害の例など安全性の問題等があることを指摘するもの,本件訴訟の提起について,経済的強者等が自らの意に沿わない意見について,訴訟により相手方に精神的,経済的負担を負わせ,当惑させ,論評を封じ込める目的で訴訟を提起するという訴権の濫用及び言論の自由に関する主張を行うものであり,いずれも,その内容に照らし,専ら公益を図る目的に出たものと認められるものである。
控訴人らのこの点の主張は採用できない。
私のブログでの表現は、吉田嘉明の人身攻撃にわたるものではなく、彼自身が手記で語った行為に対する批判である。私の表現は、典型的な「公共に関わる事項に関して、もっぱら公益を目的とする」言論であり、前提とする事実の真実性にいささかの疑問もない。
ところが、DHC・吉田は、私がブログを書いた意図をこう邪推する。
「経済的強者=悪という被控訴人(澤藤)独自の価値判断に基づき,従前から悪の権化と考えてきた控訴人会社(DHC)の代表取締役会長である控訴人吉田をおとしめて懲らしめるという隠れた目的のもとにされたものであり,控訴人吉田の行為等への批判ではなく,個人本人に向けられた人格攻撃であって,控訴人吉田の名誉感情を不当に侵害し,侮辱するものである」
これに対する判決の判断は、「その主張に係る被控訴人の目的を認めるに足りる証拠はないことに加え,上記各記述は,原判決の説示するとおり,控訴人吉田の行為や言動に向けられたものであり,社会通念上許される範囲を超えて人格的価値を否定するものとまでは認められないというべきである。したがって,控訴人らのこの点の主張も採用できない。」というもの。
当然の判断ではあるが、表現の自由にとって重要な判断である。私のブログによって、いかに吉田嘉明とDHCの名誉が傷つけられようと、私のブログは、決して吉田嘉明個人の人格攻撃を目的としたものではなく、その行為に対する批判として「表現の自由」の旗に守られているのだ。吉田とDHCは「身から出たサビ」として、名誉の侵害を甘受しなければならない。
昨日のブログにも、こう書いた。
表現の自由とは、人畜無害の表現を保障するだけのものであるだけなら、憲法にわざわざ規定するだけの意味に乏しい。一審判決はこのことを認めた。その一審判決の認定が覆ることは、万に一つもあり得ない。
実際に控訴審判決は、この立場を踏襲しただけでなく、さらに明確にしたといえよう。
本日の記者会見は、山本さんの司会で進行した。冒頭私から、判決の概要とスラップ被害の深刻さを説明し、阪口さんが「政治とカネの癒着を批判する言論の重要性」を、徳岡さんが「ブロガーの言論の自由の重要性」を、塚田さんが「規制緩和が及ぼす消費者被害を告発する言論の重要性」を、最後に中川さんから「サプリメントにおける安全性についての警告の重要性」について、それぞれの発言があった。
上告ないし上告受理申立の考慮期間は2週間。「印紙代も弁護士費用も無駄だよ」と言ってみても、聞く耳はないだろうな。私が確定的に被告の座から離れることができるのは、もう少し先のことになりそうだ。
(2016年1月28日)
明日(1月28日)が、私自身が訴えられているDHCスラップ訴訟の控訴審判決。
係属裁判所は、東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)。
時刻は、午後3時。
法廷は、東京高裁822号法廷(庁舎8階)。
司法記者クラブで、5時からの記者会見が予定されている。
私のブログでの表現は、吉田嘉明の人身攻撃にわたるものではなく、彼自身が手記で語った行為に対する批判である。私の表現は、典型的な「公共に関わる事項に関して、もっぱら公益を目的とする」言論であり、前提とする事実の真実性にいささかの疑問もない。だから、私のブログによって、いかに吉田嘉明とDHCの名誉が傷つけられようと、私のブログは、「表現の自由」の旗に守られているのだ。吉田とDHCは「身から出たサビ」として、名誉の侵害を甘受せざるを得ない。表現の自由とは、人畜無害の表現を保障するだけのものであるだけなら、憲法にわざわざ規定するだけの意味に乏しい。一審判決はこのことを認めた。その一審判決の認定が覆ることは、万に一つもあり得ない。
注目すべきは、私の控訴審判決が、実にタイムリーな時期に巡り合わせたということである。この事件は、憲法上の表現の自由をめぐる裁判であるが、問題とされている私の表現の内容は、「政治とカネ」「規制緩和」「消費者」「サプリメント」そして、「スラップ」に関わる問題提起である。各テーマが、今つぎつぎと話題になっているではないか。
まずは、「政治とカネ」である。甘利明の「1200万円賄賂収受疑惑問題」が沸騰した時点での判決。「吉田・渡辺8億円授受」と、「甘利・S興業1200万円授受」事件、その薄汚さにおいて、それぞれが兄たりがたく弟たりがたし、である。もう一度、「吉田嘉明・渡辺喜美8億円授受事件」の記憶を整理して思い出してもらうのに絶好のタイミング。私は、「吉田が資金規正法を僣脱する巨額の『裏金』を政治家に提供して『カネの力で政治を買おうとした』ことを批判した。このような批判が封じられてよかろうはずがない。
それだけでない。吉田嘉明は週刊新潮に寄せた自らの手記に、経営者の立場でありながら自らの事業に対する主務官庁(厚労省)の規制を「煩わしい」と無邪気に広言している。通常の国語解読能力を持つ読者が、普通の感覚でこれを読めば、吉田嘉明は行政規制の緩和ないし撤廃を求めて8億円の「裏金」を提供した動機を語っていると理解できる。経営者が、行政規制からの経営の自由を求めて政治に介入したことを、私は批判した。
15人が亡くなった、傷ましい長野県での夜行バス事故は、行政規制遵守に徹しようとしない業者の姿勢から生じた。「廃棄カツ横流し」に端を発した「“ごみ”が“食べ物”に逆戻り」の事態も、コンプライアンス軽視の姿勢が批判されている。吉田嘉明は、コンプライアンス対象の規制自体を緩和ないし撤廃しようと広言しているのだ。誰の目にも、私の批判の真っ当さが明らかではないか。
さらに、吉田嘉明の規制緩和要求は、口に入れるサプリメントと肌に塗る化粧品を製造販売する事業者の言として、とうてい看過できない。行政規制を煩わしいとする行動原理を持つ経営者は消費者にとってとてつもなく危なっかしい。その姿勢は、消費者被害に直結するものとして批判されて当然ではないか。
これについても、「サプリメントカフェイン過剰摂取死亡事故」が現実に生じ、内閣府食品安全委員会が「『健康食品』の検討に関する報告書」を発表したばかりのタイミングである。機能性表示食品制度など、健康食品・サプリメントの規制緩和が健康被害に及ぼす具体的警告のインパクトは大きいが、その内容は、私の吉田への批判そのものと重なる。
そして、「スラップ訴訟」問題である。DHC吉田の貢献もあって、スラップ訴訟という用語とイメージが、ようやく人口に膾炙し、社会に浸透してきた。いま、スラップ訴訟は社会に蔓延しその弊害が話題となっている。私が取材される機会も増えてきた。ドールフーズからスラップ訴訟を仕掛けられた顛末をドキュメントとしたスウェーデン映画『バナナの逆襲』もこれから封切られる。
この絶好のタイミングで、DHCスラップ訴訟は、明日(1月28日)控訴審判決言い渡しとなる。乞うご期待、である。
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明日(1月28日)の「DHCスラップ訴訟」控訴審判決。私自身が被告とされ、いまは被控訴人となっている名誉毀損損害賠償請求訴訟の判決です。
関心のある方は、ぜひ傍聴にお越しください。
ただし、これまで毎回欠かさず行ってきた報告集会は省略いたします。1回結審(12月24日)で、判決日が1月28日。この間の日程があまりに短く、集会参加が困難なことと、場所の確保ができません。しかも、当日は在京の三会とも弁護士会の役員選挙期間中とあって、会議室は全部選挙事務のために塞がっています。ご了解ください。
報告集会に代えて、近くの待合室で簡単なご報告を申しあげ、希望者には直ちに判決書きをご送付いたしますので、メールアドレスかファクス番号を登録してください。
なお、少し日をおいて、十分な準備のもとに、スラップ訴訟撲滅を目指すシンポジウムを開きたいと思います。ご期待ください。
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なお、これまでの経過の概略は以下のとおりです。
《DHCスラップ訴訟経過の概略》
参照 https://article9.jp/wordpress/?cat=12
2014年3月31日 違法とされたブログ(1)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日 違法とされたブログ(2)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日 違法とされたブログ(3)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
同年4月16日 原告ら提訴(当時 石栗正子裁判長)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
以下本日(1月27日)の第68弾まで
8月20日 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 書面提出
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月 1日 第8回(実質第7回)弁論 結審(阪本勝裁判長)
2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
9月15日 DHC・吉田控訴状提出
11月 2日 控訴理由書提出
12月17日 控訴答弁書提出
12月24日 控訴審第1回口頭弁論 同日結審
2016年1月28日 控訴審判決言い渡し(予定)
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訴訟の概要は以下のとおりです。
株式会社DHCと吉田嘉明(DHC会長)の両名が、当ブログでの私の吉田嘉明批判の記事を気に入らぬとして、私を被告として6000万円の損害賠償請求の裁判を起こした。正確に言えば、当初の提訴における請求額は2000万円だった。不当な提訴に怒った私が、この提訴を許されざる「スラップ訴訟」として、提訴自体が違法・不当と弾劾を開始した。要するに、「黙れ」と言われた私が「黙るものか」と反撃したのだ。そしたら、2000万円の請求額が、3倍の6000万円に増額された。「『黙るものか』とは怪しからん」というわけだ。なんという無茶苦茶な輩。なんという無茶苦茶な提訴。
一審判決は、「(澤藤の)本件各記述は,いずれも意見ないし論評の表明であり,公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図ることにあって,その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており,前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない」。だから、DHC・吉田の名誉を毀損しても違法性を欠く、として不法行為の成立を否定した。
おそらくは、控訴審判決も同じ判断になるだろう。
スラップの訳語は定着していないが、「恫喝訴訟」「いやがらせ裁判」「萎縮効果期待提訴」「トンデモ裁判」「無理筋裁判」…。裁判には印紙代も弁護士費用もかかる。普通は、この費用負担が濫訴の歯止めとなるのだが、金に糸目をつけないという連中には、濫訴の歯止めがきかない。スラップ防止には、何らかの制裁措置にもとづく、別の歯止めが必要だ。たとえば、高額の相手方弁護士費用の負担をさせるとか、スラップ常連弁護士の懲戒などを考えなければならない。この判決が確定したあとに、私はこの件について徹底してDHC吉田の責任を追及し、そのことを通じて社会的な強者によるスラップの撲滅のために、問題提起を続けていこうと思う。
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《仮にもし、一審判決が私の敗訴だったら…》
私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
何度でも繰り返さなければなりません。
「スラップに成功体験をさせてはならない」と。
(2016年1月27日)
本日の要請行動は、これからの卒業式・入学式のシーズンを前にして、「日の丸・君が代」強制の職務命令を発令しないように要請するものです。具体的な要請内容とその理由については、要請書に記載されたとおりであり、いま「被処分者の会」や「五者卒業式・入学式対策本部」の責任者から補充して説明があったとおりです。
私は、要請者の代理人弁護士としての立場で、教育情報課長を通じて東京都教育委員会に対して、各要請事項に通底している問題点として特に3点を申しあげたい。
第1点は、都教委が数多く抱えている裁判について、その判決の重みを十分にご認識いただきたいということ。既に、65件55人の処分取消の判決が確定しています。都教委は、10・23通達関連訴訟でこれだけの敗訴判決を受けているのです。負け続け判決のその深刻さについて認識が足りないと言わざるを得ません。三権分立を建前とする我が国の法制度において、行政が、司法から「その処分は違法だ」「行政の行為が人権を侵害している」と1件なりとも指摘されることの重大性を自覚してもなわねばなりません。それが、65件も重なっているとなれば、事態を重く受け止めて、どこに原因があったか、誰の責任か、さらにどうしたら同じ過ちを繰り返さないようにすることができるか、真剣に考えなければなりません。もちろん、違法な行為によって被害を受けた教員には、心からの謝罪と、誠実な被害回復措置が必要です。傲慢な態度をとり続けることは、決して許されないと知るべきです。
都教委から見ての勝訴判決についても、その内容をよく吟味していただきたい。裁判所は行政に甘い。行政裁量の範囲をとてつもなく広く認めています。だから、ぎりぎりセーフで、「違憲・違法とまではいえない」という判決をもらって喜んでいてはいけません。勝訴判決だからよしとするのではなく、教育を担当する行政機関として、これでよかったのか十分に判決の意とするところを汲んでいただきたい。最高裁判決は、「日の丸・君が代の強制は、間接的には思想良心の侵害に当たる」と言っています。間接的にもせよ、思想良心の侵害となるような強制を続けておいてよいのでしょうか。また、違憲・違法とはいえないけれど、当不当は別問題とまで、わざわざ書き込んでいる最高裁判決もあります。これらのメッセージをしっかりと受け止めて、教育をつかさどる行政が、この違憲違法すれすれのレベルでよいのか、ぜひ反省していただきたい。
第2点は、都教委という行政機関が、法が想定した組織のあり方から大きく逸脱していることを指摘しなければなりません。東京都における教育行政の主体は、飽くまで行政委員会としての教育委員会です。行政機関としての意思形成における判断主体は6名の教育委員による合議体のはず。そして、東京都の教育庁は、教育委員会の事務局として、教育委員会と各教育委員をサポートするための組織でしかないのです。教育というものの重要性に鑑みて、教育行政の主体を行政からは独立した合議制の教育委員会としたことの意味をもう一度、認識していただかなければなりません。
私たちは、これまで何度も本日のような場を持ち、申入れ・陳情・要請を繰り返してきました。しかし、私たちの要請書が教育委員の手に渡ることはないという。教育委員は、事務方の情報コントロールの結果、判断能力の無いお飾りになりさがっています。これは、下克上による逆転現象というべきか、あるいは事務方の委員会権限乗っ取りと言わざるを得ません。
おそらくいま都教委が抱えている最大の問題が、この「日の丸・君が代」強制問題です。その問題に関して、私たちが提出した教育委員会宛の要請が教育委員に届かないとはどういうことか。「要望を吟味し検討したが、ご期待には添いかねる結果となった」というのならまだしも。要望が事務方の段階で握りつぶされ、教育委員には届かないということにはとうてい我慢がならない。請願は憲法上の権利でもある。ぜひとも、われわれの要請を教育委員に正確にお伝えいただき、会議の議題としていただきたい。
おそらく、お飾りとされていることは、各教育委員にとっても本意ではないはず。みなさん、給料にふさわしい実質を伴った仕事をしたいと望んでいるのではないでしょうか。
第3点。10・23通達、そしてそれに基づく「起立・斉唱」を命じる職務命令、そして懲戒処分。こういう繰りかえしはそろそろ終わりにしていただきたい。
2003年の10・23通達は、異常な環境において生じたものです。何よりも、トンデモナイ知事が君臨していた時代のこと。憲法に敵意を剥き出しにした恐るべき石原慎太郎知事、その知事のお友だちとして提灯持ちを務めた米長邦雄、鳥海厳などの右翼教育委員、そして突出した数名の都議会内右派議員。この人たちがつくり出した異常な産物と言わざるを得ません。
もう、知事は代わり、教育委員も全員が入れ替わっています。10・23通達は見直されて当然でありませんか。卒業式・入学式のたびに、「日の丸・君が代」を処分の恫喝で強制することは、なんの益するところもありません。このことも、分かってきたではありませんか。さらに、判決は負けつづけ。明らかに、事情が変わってきています。ぜひとも、「日の丸・君が代」強制という方針を見直していただく時期に来ていると思います。
ぜひとも、教育委員の皆さんでご検討いただくようお願いいたします。
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要 請 書
2016年1月26日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 A B
東京都教育委員会教育長 中井 敬三 殿
<要請の趣旨>
1.卒業式・入学式等で「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の10・23通達(2003年)とそれに基づく校長の職務命令により、2015年4月までに懲戒処分を受けた教職員は延べ474名にのぼります。この通達発出以降、東京の学校現場では命令と服従が横行し、自由で創造的な教育が失われています。
2.一連の最高裁判決(2011年5月?7月)は、起立斉唱行為が、「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、処分取消訴訟の最高裁判決(2012年1月、2013年9月)では、「間接的制約」に加え、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」「処分の選択が重きに失するものとして、社会観念上著しく妥当を欠き、…懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法」として減給処分・停職処分を取り消しました。最高裁が、都教委による累積加重処分に歯止めをかけたのです。
これらの最高裁判決には、都教委通達・職務命令を違憲として、戒告を含むすべての処分を取り消すべきとの反対意見(2012年1月宮川裁判官)を始め、都教委に対し「謙抑的な対応」を求めるなどの補足意見(2012年1月櫻井裁判官、2013年9月鬼丸裁判官)があり、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めています。
また、2015年12月4日、東京高等裁判所(第21民事部中西茂裁判長)は、東京「君が代」裁判第三次訴訟において、最高裁判決及び一審東京地裁判決(2015年1月)を踏襲し、東京都の控訴を棄却し、8件・5名の減給・停職処分を取り消しました。都教委は最高裁への上告を断念し、自ら敗訴を認めました。
更に、2015年12月10日、東京高裁(第2民事部柴田寛之裁判長)は、卒業式等における「君が代」不起立・不斉唱による懲戒処分を理由とする定年退職後の再雇用拒否を「違法」として、東京都の控訴を棄却し、原告22名に総額約5370万円の損害賠償を命じました。
3.最高裁、東京高裁、東京地裁で確定した処分取消の総数は、65件・55名に上ります(別紙参照)。東京都教育委員会が、最高裁・東京地裁に・東京高裁で「違法」とされた処分を行ったことは、教育行政として重大な責任が問われる行為です。今すぐ原告らに謝罪し、その責任の所在を都民に明らかにし、再発防止策を講じるべきです。その上で、10・23通達などの「日の丸・君が代」強制に係わる従来の都教委の施策を抜本的に見直すべきです。
4.しかるに、都教委は、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の「議決」を根拠に、従来の姿勢を改めることなく最高裁判決にも反した減給を含む懲戒処分を出し続け、更には「服務事故再発防止研修」を質量共に強化しています。現在の研修は、明らかに内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与えるものであり、東京地裁決定(2004年 民事19部、須藤典明裁判長)に反しています。
また、違法な処分を行ったことを原告らに謝罪しないばかりか、2013年12月及び2015年3月?4月、最高裁判決・東京地裁判決で減給処分が取り消された都立高校教員計16名に新たに戒告処分を科し再処分を行うという暴挙を行いました。
これらは最高裁などの判決の趣旨をねじ曲げないがしろにするもので断じて許すことはできません。猛省を迫るものです。
5.「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」は、一連の最高裁判決で校長の職務命令が、思想・良心の自由の「間接的制約」であること、「減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」だとして減給・停職処分が取り消されたこと、反対意見、補足意見が多数出されていること等をことさら無視して、都教委に都合の良い部分だけを取り出して「日の丸・君が代」強制を合理化しています。
6.貴教育委員会が、一連の司法の判断を重く受け止め、責任ある教育行政としての立場を自覚するとともに、問題解決のため下記申し入れを誠実に検討し、回答することを強く要求します。
<要請事項>
1 東京都教育委員会が2003年10月23日に発出したいわゆる「10・23通達」を撤回すること。
2 同通達に基づく一切の懲戒処分・厳重注意等を取り消すこと。
3 最高裁判決(2012年1月、2013年9月)及び東京高裁判決(2015年12月4日)に従い、10・23通達に基づく全ての減給・停職処分を即時取り消すこと。
4 2013年12月及び2015年3月?4月の現職教職員16名に対する戒告という再処分を撤回し、該当者に謝罪すること。
5 同通達に基づく校長の職務命令を発出しないこと。
6 卒業式、入学式で同通達に基づく新たな懲戒処分を行わないこと。
7 同通達に係わり懲戒処分を受けた教職員に対する「服務事故再発防止研修」を行わないこと。
8 卒・入学式等での「君が代」斉唱時に生徒の起立を強制し、内心の自由を侵害する「3・13通達」(2006年)を撤回すること。卒業式、入学式での生徒への内心の自由を告知などの各学校の創意工夫に介入しないこと。
9 「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」を撤回すること。
10 最高裁判決に従い、「紛争を解決する」ための具体的改善策を策定すること。
11 都教育庁関係部署(人事部職員課、指導部指導企画課、教職員研修センター研修部教育経営課など)の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すること。
12 本要請書を教育委員会で配付し、慎重に検討し、議論し、回答すること。
<回答期限> 2016年2月9日(水)。
「労働運動は場末のパブから始まった」とは社会史が語るところ。「労働組合は、安酒の麗しき結晶である」とは、私ひとりの語るところ。資本主義の勃興期に、法の保護なく過酷な搾取に喘いだ工場労働者たちがパブで不満を語り合う。これが労働運動と労働組合の起源なのだ。
だから、私が弁護士になった当時、労働運動に寄与したいと志す若手の弁護士には、「労働者と酒を飲め」「団結も信頼も、アルコールから生まれる」などと教えられ、実際によく飲んだ。私の付き合いの範囲では、組合費で幹部が酒を飲むことはなかった。もちろん接待もない。すべて自腹の割り勘の「団結と連帯の酒」だった。
酒食をともにし語り合うことで信頼関係が生まれる。同じ席で同じものを飲みかつ喰うことが、仲間と認めあう儀礼となっているのだ。「同じ釜の飯を喰う」「一宿一飯の恩義」などの言葉のニュアンスがよく分かる。「俺の酒が飲めないっていうのか」という酔漢の気持ちも、だ。
多くの「一流」マスコミ人が、安倍ら「二流」政治家と酒食をともにしているという。こちらは場末の安酒ではない。豪勢な料亭や寿司屋、あるいは一流のレストランでの話し。アベ友、スシ友、フグ友、飲み友の会席。この席で、政権とメディアとの「団結と信頼」「個人的な友情」あるいは「醜い癒着」の関係が育まれているのだ。勘定は誰が持っているのか、などと問題にするのは「ゲスの勘繰り」の類。
その効果は着実に現れている。NHKや産経・読売だけにではない。私の愛読する「毎日新聞」にもである。
本日の毎日新聞朝刊2面の「風知草」。このコラムは毎週月曜日に掲載されるが、この空間には他の記事とは違う風が流れている。「アベ風」の匂いである。本日のタイトルは、「ゲスの極み」。二流政治家と酒食をともにする「一流記者」山田孝男の筆になるもの。
「風知草」とは、風のまにまになびく草。疾風の中の勁草の対極である。もっとも、風向きを知る草に罪があるわけではない。風はいろんな方向から吹く。権力から吹く風もあれば、民衆が起こす風もある。そよ風も、突風も、爆風もある。いったい「風知草」はどこからの風を読もうとしているのか。風の向きを知って、覚悟を決めてこの風に抗おうというのか、それとも風に流されようというのか。
本日の「ゲスの極み」は、政権からの風を知って、暖かい迎合の風を返しているようだ。「一飯の恩義」を感じて、「スシ友へのエール」として書いた記事。
甘利明事務所に「1200万円のワイロが流れたという『週刊文春』特報」に関して、「違法な金銭授受は間違いなさそうだが、その意味と背景について、正確に見定める必要がある」という趣旨。こんな記事は、サンケイか夕刊フジに任せておけばよい。毎日新聞の紙面に、どうしてこんな「アベへのヨイショ」が躍るのか。
暴かれた「甘利スキャンダル」の威力は、アベ政権直撃のメガトン級。いまやその影響は激震となっている。アベの取り巻き連中が、この衝撃を緩和し、過小評価しようとして躍起になっている。
その典型が山東昭子の「ゲスの極み」発言であり、高村正彦の「わなにはめられた」論である。山東の発言はとりわけ悪質である。「ゲスの極みというような感じで、まさに、両成敗でただしていかなければならない気がする」。これは、告発者に対する「おまえも無傷では済まないぞ」という威嚇である。この威嚇は、今回の告発者に限られたものではなく、今後同様の例を抑止しようという効果を狙ったものである。
覚悟の告発を「ゲスの極み」とする山東に、「政権の疑惑を隠す暴言」などと批判が集中しているのは当然のことだが、アベと酒食をともにする「スシ友・山田孝男」は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という。山田は、「ワイロは、もらう側も渡す側も、どだいゲス(下種(げす)=心卑しき者)の極み。だから両成敗……。いかにも芸能界出身の山東らしい機知だ。」と、山東の言わぬことまで付け加えて山東を持ち上げている。
それはおかしい。山田孝男の言の意味と背景を吟味すれば、政権擁護の弁でしかない。
山田は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という理由を「なぜなら、一見、捨て身と見える告発者の所属企業は実態不明、あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである。」という。これは、高村の「わなにはめられた」論とまったく同じである。
「告発側も疑え」? いったい何をどう疑えというのだ。「政敵の陰謀にはめられた」とでも言いたいのだろうか。あちらこちらでの陰謀説には食傷だが、仮に陰謀であつたとしても、甘利の罪責が軽減されることにはならない。陰謀であろうとなかろうと、現金700万円を収受しているのは犯罪である。甘利は、50万円の現金を2回にわたって、自らのポケットに入れたと具体的に告発されて、これを否定できないのだ。
もしかしたら、今回の件は陰謀であれはこそ、表に出てきたのかも知れない。甘利に限らず、多くの政治家が、口利き料をポケットに入れて、「陰謀でないから裏に隠れたままになっている」のかも知れない。それなら、陰謀バンザイだ。
賄賂罪は、「公務員の職務の公正」と「公務員の職務の公正に対する国民の信頼」を保護法益とするものとして、贈賄も収賄もともに犯罪とされている。この犯罪は表に現れにくい。「アンダー・ザ・テーブル」といわれるように、賄賂の収受は隠密裡に行われるからである。疑惑ありとの指摘に対しては、贈賄側も収賄側も、団結固く口裏を合わせて否認することが通例で、立件は難しい。摘発には、リニエーションの制度導入が効果的だ。これは裏切りの奨励である。どちらか、先に犯罪を申告した方の立件を免除する制度である。賄賂罪摘発を容易にすることで、賄賂の収受をなくそうという発想である。
あっせん利得罪は、「賄賂罪」ではない。が、口利きをしてその報酬として利得を収受する政治家(甘利)だけでなく、政治家に口利きを依頼して利得を供与する者(S社)の行為も犯罪になる。S社は、このことをよく知りながら、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切っている。山田の「あざとい印象」よりも、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切ったことでの政治家の犯罪暴露を積極評価すべきが当然ではないか。
また、「告発者の所属企業は実態不明」はなかろう。政治資金収支報告書から社名も所在地も直ぐに分かる。新聞記者が可能な調査を手抜きして「実態不明」と「印象」を語るのは怠慢の誹りを免れまい。「あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである」とは驚いた。海千山千の政治家を相手に、このくらいのことをしても少しの不思議もない。この程度の「印象」で、山東を弁護し、甘利の罪責を薄めて政権を擁護しようというのだ。
山田のコラムに漂っているものは、政権中枢に位置する者に対する「捨て身の告発」への不快感である。そして、極端な言を避けつつ、告発者を誹ることで、被告発者を相対的に弁護し、告発の影響をできるだけ小さくしようとの政権への配慮が見える。この不快感は、アベ政権の不快感を毎日新聞の紙上に映したものといわざるを得ない。
なるほど。一緒に飯を喰うことの効果はあるものだ。信義に厚い。さすがは高級店での「君子の交わり」である。
(2016年1月25日)
今年(2016年)は4年に一度の閏年で、オリンピックイヤーにあたる。8月5日がリオデジャネイロ五輪の開会式。このところ、問題ばかり多くて盛り上がらないオリンピックだが、ビッグイベントであることに疑いはない。巨額のカネが動き、国家の威信がこれ見よがしに喧伝される。騒々しいまでの商業主義とナショナリズムの祝祭である。
寡聞にして知らなかったが、そのリオの五輪にクウェートが出場停止処分を受けているという。そして、インドも危ないという。我が国では大きな話題になっていないが、興味をそそられる。
1月14日「ロイター・時事」が次の記事を配信している。
「クウェート政府は、今夏開催されるリオデジャネイロ五輪の参加を国際オリンピック委員会(IOC)から差し止められた問題で、クウェート・オリンピック委員会を相手に巨額の賠償を求める訴訟を起こした。IOCは、同国政府のスポーツ界への干渉が五輪運動の妨げになることを理由に、昨年10月に資格停止処分を決めた。」
この報道だけでは何のことだか分からない。とりわけ、なぜ政府が国内オリンピック委員会を訴えているのか見当もつかない。しかし、「IOCが昨年10月にクウェートの五輪参加資格停止処分を決めた」ことだけは、間違いなさそうだ。
本日(1月24日)の「朝鮮日報日本語版」寄稿記事が、その理由に触れている。そして、インドも危ない。韓国も気をつけねばならないと警告を発している。各国政府のオリンピック憲章違反への警告である。これを読むと、日本だって大いに危ういのではないだろうか。
その寄稿のタイトルは、「韓国もリオ五輪から追放されかねない」というもの。寄稿者は「イ・ダルスン」なる人物。「ハロースポーツ発行人(元KOC常任委員)」の肩書が付されている。知らない人だが、「朝鮮日報」掲載記事なのだから信頼に足りるのだろう。
これによると、IOCの対クウェート処分は、「国際サッカー連盟(FIFA)が昨年10月『クウェートが法律改正を通じ、政府がスポーツ行政に介入できるようにした』として、資格停止処分を下した」ことがきっかけだという。
なお、「クウェートは2010年にも、政府が自国の五輪委員会委員長などを直接選任したことが問題になり、国際オリンピック委員会(IOC)から懲戒処分を受けている」という。
要するに、政府のオリンピックへの介入が、今回の出場停止の理由なのだ。政府が各国オリンピック委員会(NOC)委員長を直接選任するなどは、不当な介入の典型行為というわけだ。クウェートが今年のリオデジャネイロ五輪に出場できないだけでなく、「さらにインドもクウェートの二の舞になる可能性が出てきている」という。
「このようにIOCは、サッカー・ワールドカップ(W杯)やアジア大会に至るまで、オリンピック憲章やIOCの指針に反するスポーツ行政に対し、強大な権威をもって容赦ない懲戒処分を下している。」
オリンピック憲章は「政府は支援はしても、干渉はしない」としており、国際スポーツの潮流は「スポーツ団体の主体は、非政府の純粋な民間による自主・自立団体でなければならない」というもの。そのように、寄稿は力説している。
ところが、韓国で新たに制定された「統合体育会定款」なる規定が、文化体育観光部(日本の文科省に当たるもの)長官が承認する項目が24もあることを問題視している。これは憲章違反になりかねないという。「韓国にも今年のリオ五輪に出場できなくなる危機が迫ってこないという保障がないわけではない。この事態の深刻さを、政府やスポーツ指導者たちは見過ごしている」と警告されている。
私は、IOCにこんなに厳格に憲章を守ろうという姿勢があろうとは思ってもみなかった。「国際サッカー連盟(FIFA)の幹部連中はカネまみれだった。IOCだって同じ穴のムジナだろう」というのが私の認識。IOCは多面的な顔を持っているということなのだろう。
国民は選手団のメダルの色と数には関心をもつが、五輪の理念にも憲章にも、組織原則には関心を持たない。報道もなく、ほとんど無知である。今回の競技場建設とエンブレム問題で、巨額のカネが動くことに唖然としているだけの状態ではないか。
寄稿者は、こう言っている。
「韓国の統合体育会の定款は、あたかも体育会が政府傘下の公営企業のような錯覚を覚える。統合体育会の結成を推進した政府や国会、スポーツ指導者たちは、国際スポーツの潮流を全く知らないでいる。推進委員たちはできるだけ早く、このような事実からまず確認し、国際スポーツ界からつまはじきにされることのないよう、対策を急がなければならない。」
日本とて、事情はまったく同様ではないか。官民一体というよりは、政府が主導する東京五輪には、落とし穴が待ち受けてはいないか。
オリンピックは、既にぎらつく商業主義に汚れている。それだけでなく、国威発揚の舞台となり、ナショナリズム高揚の機会とされている。どこにでも国旗が掲げられ、幾たびも国歌を聞かされることになるだろう。しかし、実は政府介入は五輪憲章違反ということなのだ。
オリンピック憲章が「政府は支援はしても、干渉はしない」としていることは、政府と教育の関係によく似ている。政府(自治体)は、教育条件整備の義務を負うが、教育の内容に介入してはならない。権力とは、そのような自制を求められるのだ。
アベ晋三の「福島原発の汚染水は、完全にブロックされ、コントロールされている」という大ウソから始まった東京オリンピック。攻めて静かにやってくれ。うっとうしく押しつけがましいことはやめていただきたい。国威の発揚やナショナリズム涵養への利用は御免こうむる。それが遵守できないなら、むしろ日本の出場停止処分を期待したい。
(2016年1月24日)
「週刊新潮」2014年4月3日号が、「8億円裏金疑惑」を暴露するDHC吉田嘉明の手記を載せた。そして今回「週刊文春」16年1月28日号が、「甘利大臣1200万円賄賂疑惑」の記事である。
私は、「8億円裏金疑惑」事件の、吉田嘉明と渡辺喜美の関係を「大旦那と幇間 その蜜月と破綻」と喩えた。いまにして、まことに適切な比喩だったと思う。政治資金としての8億円は巨額である。そのカネを、小なりとはいえ政党の党首に渡して政治を動かそうとしたスポンサーの側と、頭を下げてこのカネを所望した政治家の関係は、「大旦那と太鼓持ち」でピタリだろう。幇間は所詮幇間、旦那の機嫌を損じてしくじったのだ。蜜月は破綻し、旦那が裏金を暴露して一騒動となった。
さて、この度の政治家甘利と千葉のS社との関係はどうだろう。立場の強さは、甘利の方がはるかに上だ。Sの側が頭を下げ菓子折をもって、甘利に口利きをお願いしている。とうてい、大旦那と太鼓持ちの関係ではない。
定めし、甘利は悪代官の役どころ。そして、とらやの羊羹に添えて50万円を持参したSは、エチゴヤの役回りだろうか。強勢な政商としての越後屋ではなく、政治家に小金を渡して、その上手な利用をたくらむ、小ずるい小悪党としてのエチゴヤ。大悪党対小悪党の、持ちつ持たれつの図である。
週刊文春の記事を読んで、保守の政治家とは、このような小ずるい小悪党との付き合いを常態としているのであろうとの印象をもたざるを得ない。そして、政治家のポケットに収まる現金の額は、50万円が相場なのだろう。もらい慣れているカネの収受であればこそ、「印象にない」「記憶を整理してみる必要がある」と言うことではないか。こぞって、甘利をかばおうとしている面々の対応を見て、ますますそうした印象を強くしている。
「DHC・渡辺事件」も、「甘利・S社」事件も、問題は光の届かない陰の世界でカネが動くということである。政治や行政が、見えない裏のカネで動かされてはならない。裏のカネで動かされているという疑惑で、政治や行政の公正の信頼を傷つけてはならない。
DHC吉田嘉明から渡辺喜美に渡った8億円の授受の趣旨は、明らかに政治資金としてのものであったにかかわらず、政治資金収支報告書への記載がない。にもかかわらず、その不記載が処罰されないのは「政治献金」ではなく「政治貸金」だったからということ。献金ではなく貸借なら、巨額のカネが動いても、これを裏のカネとしておいてお咎めなしなのだ。これこそ、政治資金規正法をザル法とする不備の最たるものではないか。
しかし、「甘利・S社」事件では、授受あったカネはすべて報告書に記載しなければならない。文春記事には、政治資金規正法違反を意識した次の一文がある。
「政治資金収支報告書によれば、S社名義で自民党神奈川県第十三選挙区支部には八月二十日付で百万円、神奈川県大和市第二支部には、九月六日付で百万円の政治献金がなされている。一色氏が(8月20日に)渡した五百万円のうち、少なくとも三百万円は闇に消えたのだ。」
また、本日の赤旗一面トップの「深まる甘利大臣疑惑 裏付け事実が次々・本人説明せず 首相の任命責任は重大」の記事には、「週刊文春」記事を丹念に読み込んで作られた一覧表が掲載され、記事にあらわれた具体的な金銭の授受と収支報告書の照合をしている。
文春記事のタイトルが「賄賂1200万円を渡した」となっており、S者側の発言として「口利きの見返りとして甘利大臣や秘書に渡した金や接待で、確実な証拠が残っているものだけでも1200万円に上ります」とされている。しかし、公表されている政治資金収支報告書と照合の対象となる、記事中の現金の授受として特定されている主なものは、次の4回である。
13年8月20日 公設秘書に 500万円
11月14日 甘利本人に 50万円
14年 2月1日 甘利本人に 50万円
11月20日 公設秘書に 100万円
以上の合計700万のうち収支報告書に記載されたのは、37回で合計394万円に過ぎない。トータルとしてみても300万円余が不記載なのだ。
自民党議員の中には、「こんなことは日常茶飯事。騒ぐほどのこともなかろう」という思いが強いのだろう。おそらくは、この程度の収入の不記載はありふれたこと。政治家の口利きと口利き料の収受もありふれた雑事でしかないと思われる。しかし、口利き料を支払った側が、これだけ肚をくくって証拠を集め、政治家に対する「覚悟の告発」におよぶという事例はきわめて珍しい。その意、その覚悟は壮とするに値する。一寸の虫にも五分の魂ではないか。せっかくの覚悟を実られたいものと思う。そのことが、政治とカネの浄化につながるでもあろうから。
(2016年1月23日)
アベ晋三です。衆参両院本会議で、両院の議員の皆さまに、ややホンネの施政方針を申しあげたいと存じます。
(軍事大国へ挑戦する国会)
改憲か、護憲か。
戦後70年間、日本は、その基本方針すら決められませんでした。終わらない議論、曖昧な結論、そして責任の回避。憲法にこだわって衰退していく国家を見つつ、ワタシは、こう嘆いています。
「一言以て 国を亡ぼすべきもの ありや、
『憲法は不磨の大典、それゆえこれを拳拳服膺すべし』と云う一言、これなり
戦後の国家が衰亡の一途をたどったるは この一言にあり」
国民から富国と強兵の負託を受けた私たち国会議員は、「憲法を変えてはならない」「憲法を守ろう」「憲法99条の憲法順守義務を大切にしよう」などという退嬰的な態度ではいけません。自分たちの手で、強い日本、繁栄する日本、そして一億国民が一体の火の玉となる強固な国民統合をなし遂げるためには、「どうにでもして憲法を破る」努力をしなければならないのです。既に、ワタシが手本を示したとおりにです。
憲法にそぐわない現実を直視し、憲法を現実に服せしむべく解決策を示し、そして実行する。憲法の解釈を変え、さらには憲法自体を変えていく、そのような大きな責任があるのです。「憲法守って国亡ぶ」ような愚かな事態は、絶対に避けなければなりません。
自由の美名による人権の濫用を押さえ、個人尊重に隠れた国家の軽視に警鐘を鳴らし、中国や北朝鮮の脅威に備える武力の整備を万全にし、韓国や台湾にも侮られてはならないのです。
厳しさを増す安全保障環境については、どんなに強調しても足りないと言わざるを得ません。自由も人権も、民主主義も平和も、強固な国家が存続していればこそではありませんか。精強な軍事力、精強な軍隊、精強な武器、そして軍隊や軍人に対する国民の尊敬や協力、さらには可能な限りの軍事予算が、この国を護り国民の安全と安心を守るのです。
報道も、教育も、学問も、産業も、文化も、スポーツも、すべては国家あってのその一分枝に過ぎないことを、国民は以て銘すべきなのです。
いま、この国会に求められていることは、こうした新たな政権の方針を真正面に掲げて「挑戦」することであり、その答えを出すことであります。
口先の批判だけに明け暮れ、対案を示さず、何かと言えば、「日本国憲法にはこう書いてある」「政府は憲法軽視だ」「危険な反立憲主義」などと政権に反対ばかりする、そういう態度は、国家と国民に対して誠に無責任といわねばなりません。
私たち自由民主党と公明党の連立与党は、断固として改憲を掲げて、決してぶれることはありません。「憲法軽視」「反知性主義」という悪罵に怯みません。逃げません。安定した政治基盤の下、そして、この三年間の大きな違憲の政策を積み上げた実績の上に、改憲がいかに困難な課題であるとしても果敢に「挑戦」してまいります。
(新しい成長軌道への挑戦)
いままさに、アベノミクスの化けの皮が剥がれようとしています。世界経済の不透明感が増し、いくら政府資金の投入をしても、金融市場の操作が困難になってきています。その煽りで株価連動内閣が危うくなっているのです。
安倍政権は、これまで3本の矢を的に当てると喧伝して、国民の支持率を確保して参りしたが、結局は格差と貧困をつくり出す結果に終わっています。しかし、こんなときほど、慌ててはなりません。泰然自若を装って知恵を出さねばなりません。「3本の矢」が折れたら、「新3本の矢」を作ればよいのです。これも的を外れたら、「新々3本の矢」さらには、「新々々30本の矢」でもよいではありませんか。要するに、目先を変えて、国民の皆さまの目眩ましが続くところまで頑張ればよいのです。どうせ皆さん、「餅を食ったら去年のことは忘れる」人たちではありませんか。
こうして、イノベーションによって新しい付加価値を生み出し、持続的な成長を確保する。「より安く」ではなく、「より良い」に挑戦する、イノベーション型の経済成長へと転換する、二十一世紀にふさわしい経済ルールを世界へと広げる、などと、私自身もよく分からない無内容なことを「大いなる挑戦」と言っておけばよいのです。
経済になんの関係もありませんが、唐突に「伊勢神宮、美しい入江。日本の長い伝統や文化、豊かな自然を感じられる」と前振りして、伊勢志摩の地で開く五月のサミットを「基本的価値を共有する主要国のリーダーたちと、世界経済の未来を論じ、新しい「挑戦」を始める。そのようなサミットにする決意であります」。多分こんな程度で、国民は十分気分をよくするのだと思います。
(TPPは大きなチャンス)
「TPPによって農業を続けることができなくなるのではないか」。多くの農家の皆さんが不安を抱いておられます。これはもっともなことです。建前としては、「米や麦、砂糖・でん粉、牛肉・豚肉、そして乳製品。日本の農業を長らく支えてきた重要品目については、関税撤廃の例外を確保いたしました。2年半にわたる粘り強い交渉によって、国益にかなう最善の結果を得ることができました。」と言っておきましょう。もちろん、誰も信じてはくれません。私自身も、信じてはいません。
「生産者の皆さんが安心して再生産に取り組むことができるよう、農業の体質強化と経営安定化のための万全の対策を講じます」とは一応申し上げますが、これは農家の皆さまの自助努力なしにできることではありません。「美しい田園風景、伝統ある故郷、助け合いの農村文化。日本が誇るこうした国柄をしっかりと守っていく」これは、ひとえに皆様のの努力にかかっています。努力が実らない場合はやむを得ません。今の農家の皆さまには総退場していただくしかありません。
農業に参入して、生産性の高い農業経営をしたいという、新規参入希望者は国の内外にたくさんいるのです。結局その方々に、農業をお任せいただくのが、国家全体の利益になるものと考えざるをえません。実は、TPPはこのような新規参入希望者へのチャンスなのです。この辺のところをよくお考えください。
TPP交渉は担当の甘利大臣が、よくやってくれました。週刊誌では、政治力を利用しての口利きで1200万円をもらったことが、何か悪いことをしたように書かれています。しかし、彼ほどの政治家が1200万円程度のはした金をもらったことで騒ぐ方がおかしいのです。山東昭子議員がいみじくも言ったとおり、「ゲスの極み」のしわざで、有能な政治家を失脚させてはなりません。
(希望の同盟)
我が国の外交の基軸は、日米同盟にあります。
目下の同盟国である我が国は、強大な米国の核の傘を借りる身として分を弁え、その意に従わざるを得ないのです。アメリカ様が、普天間基地を返してくださるというのですから、ありがたく返していただけばよろしいのです。代わりに、辺野古に新基地を作れと言われれば、その指示に従わざるを得ないのです。思いやり予算にしても同じこと。オスプレイの配備も、オスプレイの購入も、アメリカ様の言いなりにならざるを得ないのです。
それをこともあろうに、「沖縄の民意は基地のたらい回しを許さない」などと、身の程知らずの沖縄現地は、親の心子知らず、と言うほかはありません。どんな手を使ってでも、徹底して押さえつける覚悟を申し述べておきます。
(積極的平和主義)
自衛隊は、積極的平和主義の旗の下、国際平和に力を尽くすという名目で、これから世界に展開いたします。これを可能にした戦争法は、「平和安全法制」と呼ぶべきなのです。軍事力を世界に展開するということは、当然に敵である武力を向ける相手が、世界に存在するからであります。我が国と利害を共通にする同盟国からは歓迎されますが、それ以外の多くの国からは疎ましいと思われることでしょう。
でも、軍隊は平和のためにあるのです。戦争は平和のためにするのです。軍隊を大きくすればするほど、世界に展開する武力の規模が大きくなればなるほど、それは平和を意味するのです。日本の不景気も、軍需産業の復興で息を吹き返すことができるでしょう。
先般、北朝鮮が核実験を強行したことは、アベ政権の僥倖です。よくぞやってくれた。これで、改憲の世論も大きくなり、内閣の支持率も上がることが確実です。天敵同士が実は共存関係にあることはよく知られたこと。アベ政権としては、瀬戸際政策をとり続ける北朝鮮の現政権がいつまでも存続することを願わざるを得ません。同様の意味合いで、テロも大歓迎なのです。
(おわりに)
継続こそ力。改憲策動も三年間を経過し、今後もぶれることなく、この道をまっすぐに進んで行きます。明文改憲のための、両院の3分2、国民の過半数という、困難な課題にも真正面から「挑戦」し、結果を出してまいります。
戦後初めて、内閣法制局長官のクビをすげ替えてまでして閣議で解釈改憲をし、戦争法を強行成立させたワタシは、これからは明文改憲の「挑戦」に、その一身を捧げます。いかなる困難に直面しても、決して諦めず、不退転の強い信念で、明文改憲への「執念」と「挑戦」を続けます。
「為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必らず成らん」
アベ内閣は、諦めません。明文改憲による「戦後レジームからの脱却」の目標に向かって、諦めずに進んでいきます。
皆さん、共に改憲に「挑戦」しようではありませんか。そして、改憲の「結果」を出していこうではありませんか。それが、私たち国会議員に課せられた使命であります。
御清聴ありがとうございました。
(2016年1月22日)