(2023年3月17日)
昨日の東京新聞朝刊トップに、「日本はLGBTQ法整備を」「2月に首相宛促す書簡 差別禁止訴え」「先進6カ国+EU駐日大使」という大見出し。
東京新聞のネット版では、「日本除いた『G6』からLGBTQの人権守る法整備を促す書簡」「首相宛てに駐日大使連名 サミット議長国へ厳しい目」という見出しになっている。いずれにしても、日本は「G7」の中で、たった一国の人権後進国扱いなのだ。G6とEUからの「議長国なんだろう。恥ずかしくないのか。この際何とかしろよ」という苛立ちが伝わってくる。
日本の政府は、この申入に「内政干渉だ」と条件反射してはならない。それでは中国政府並みの政権の実態が見透かされてしまうのだから。「我が国の醇風美俗を害する申入れ」と無視してはならない。それでは、文明国の仲間に入れてもらえないのだから。「うつくしい日本を壊そうとする陰謀だ」などと反発して見せる必要はない。「うつくしい日本を取り戻そう」と目を光らせている人は既に世にないののだから。そして、「同性婚を認めても、LGBTQ差別禁止法を認めても、けっして社会が変わることはない」のだから。
記事の概要は、以下のとおりである。
「先進7カ国(G7)のうち日本を除く6カ国と欧州連合(EU)の駐日大使が連名で、性的少数者(LGBTQ)の人権を守る法整備を促す岸田文雄首相宛ての書簡を取りまとめていたことが、分かった。元首相秘書官の荒井勝喜氏の差別発言をきっかけに、エマニュエル米大使が主導した。G7で唯一、差別禁止を定めた法律がなく、同性婚も認めていない日本政府に対し、今年5月の首脳会議(広島サミット)で首相が議長を務めることも踏まえ、対応を迫る内容だ。」
「日本でLGBTQの権利を守る法整備が遅れていることを念頭に『議長国の日本は全ての人に平等な権利をもたらすまたとない機会に恵まれている』と指摘し、国際社会の動きに足並みをそろえることができると求めた。」
「『差別から当事者を守ることは経済成長や安全保障、家族の結束にも寄与する』と強調。ジェンダー平等を巡り『全ての人が差別や暴力から守られるべきだ』と明記した昨年のG7サミットの最終成果文書に日本が署名したことにも触れ、『日本とともに人々が性的指向や性自認にかかわらず差別から解放されることを確かなものにしたい』と訴えた。」
「大使らは当初、公式な声明を出すことを検討したが、内政干渉と受け取られることを懸念し、非公式に各国の意向を示すことにした。書簡のとりまとめに先立ち、エマニュエル氏は2月15日に日本記者クラブで会見し『(LGBTQの)理解増進だけでなく、差別に対して明確に、必要な措置を講じる』ことを首相や国会に注文した。」
さて、「日本はG7で唯一、婚姻の平等を認めていない。LGBTQの差別禁止法も持たない」ことが、あらためて浮かび上がっている。これまで、「人権や民主主義という共通の価値観」を基盤に、自由主義陣営や民主主義同盟が形作られてきた。いま日本は、その一員であるという資格が問われている。
同日の東京新聞2面の「核心」欄に、「同性愛者を公表している日系のマーク・タカノ米下院議員は首相秘書官(荒井勝喜)の発言に反応し『日米は同盟を動機づける共通の価値観を忘れてはならない。LGBTQの権利に敵対的なのは専制主義者だ』とツイッターに書き込んだ」とある。
選択性夫婦別姓さえ認めないのが自民党の保守派である。さあ、岸田文雄よ。ここがロードスだ、跳べ。ここがルビコンだ、渡れ。自民党保守派総帥の亡霊と決別して、独自の路線に踏み切らねば、政権に明日はない。いや、日本に明日はないのだから。
(2023年2月7日)
昨年末までの臨時国会は「統一教会国会」だった。年が明けの今通常国会は、思いがけなくも「LGBT国会」の趣を呈しつつある。明らかに、前国会の空気と通底してのこと。まことに結構なことではないか。
統一教会の正式名称は「世界平和統一家庭連合」、略称を「家庭連合」としている。「家庭」は「反共」とともに、教団の教義を支えるキーワードの一つである。統一教会と自民党右派勢力は、いずれも「家庭」を旧社会の秩序を支える基礎単位と見た。その共通の理解によって、両者は緊密に癒着した。
この両者にとっての「家庭」とは、「伝統的・家父長制的家族像」と結びつき、個人の人権や自由、平等を抑圧する場でしかない。このような前世紀の遺物である特殊な家庭観からは、「LGBTへの理解」も「選択的夫婦別姓制度」も、あるべき社会の秩序を破壊するものとして、容認しえない。
統一教会とそのイデオロギーが強く糾弾された今、冷静に「『家庭』重視に藉口したLGBT差別や選択的同姓強制制度の不合理」を考える好機とすべきであろう。同性婚にも、選択的夫婦別姓制度にも、いまや反対しているのは、統一教会と癒着していた自民党右派だけなのだから。
混乱を招いている自民党の中心に岸田文雄という人物がいる。この人、何の信念も持たない人の典型に見える。あっちにおもねり、こっちに忖度しているうちに、今や自分が何者であるかを、完全に見失っている。防衛問題しかり、経済政策しかり、そして「LGBT」や「同性婚」「選択的夫婦別姓制度」問題においてしかりである。
彼は、2月1日衆院予算委で、同性婚の法制化を求める立場からの立憲民主党西村智奈議員質問に対して、こう答弁している。
「極めて慎重に検討すべき課題だ」「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だからこそ、社会全体の雰囲気にしっかり思いをめぐらせたうえで判断することが大事だ」
つまり、同性婚を認めれば、「社会が変わってしまう」と述べたのだ。これが、彼の信念から出た言葉なのか、党内安倍派へのおもねりによるものであるかは、おそらく彼自身にも分からない。そして、どちらでもよいことだ。
その2日後、荒井勝喜首相秘書官が、オフレコの会見で性的少数者や同性婚をめぐり問題発言に及ぶ。
「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」「秘書官室もみんなが反対している」「同性婚を認めたら国を捨てる人がでてくる」
「首相だけではなく、僕だって(LGBTは)見るのも嫌だ」というのだ。「首相だけではなく、秘書官室もみんなが(同性婚に)反対している」だけでなく、「同性婚を認めたら、首相が『社会が変わってしまう』と言った通り、日本を捨てる国民が出てくる」とも言う。つまり、すべては秘書官として、首相の発言をフォローしたつもりだったのだろう。あるいは、徹底しておもねりの姿勢を見せたとも言うべきだろう。これが、岸田の言いたかった本音と読むこともできる。
このオフレコでの発言が記事になって、世の空気が変わった。事態を重く見た首相は4日に荒井を更迭。その差別発言について「不快な思いをさせてしまった方々にお詫び申し上げる」と陳謝した。「まったく政府の方針と反しています。国民に誤解を生じたことは遺憾だ」「言語道断」とも言ったが、何とも白々しい。
この事態への対応策として、自民党は一昨年お蔵入りしていた「LGBT理解増進法案」を、埃を払って持ち出してきた。茂木幹事長は会見で、「一昨年の場合、国会の日程で(LGBT理解増進法案の)提出には至らなかった。(今国会で)法案提出に向けた準備を進めていきたい」と語ったという。さて、そんな程度で治まるものか。
なお、一昨年5月自民党が法案提出を見送ったのは、国会の日程の都合ではない。「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」とする目的と基本理念に、右派の議員が声高に反対したからだ。安倍晋三亡き今、どうなるだろうか。
なお、首相の念頭には、今年5月のG7サミットが消えない。同性婚を認めていないのは、G7の中で日本一国だけである。理念ではなく、信念からでもなく、ただただ面子のために何とかしたいところのごとくである。
ところで右翼とは、個人の自立や自由、多様な生き方を否定する立場を言う。秩序が大好きで、常に権力的統制に親和性を示す。この人たちは、同性婚や選択的夫婦別姓の制度が出来ると、社会が崩壊すると心配するのだ。岸田も、荒井も、社会が壊れる、国民が国を見捨てると心配している。
この心配性の人たちに、「明日も太陽は昇る」と訴えたニュージーランド議会の名演説が今また、日本のネット上で再び注目されて話題になっている。その人、モーリス・ウィリアムソン議員はこう言っている。
「社会の構造や家族にどのような影響を与えるのか心配し、深刻な懸念を抱く人たちがいるのは理解できる」。しかし、「法案は愛し合う2人が結婚でその愛を認められるようにするという、ただそれだけのことだ」「(法案が成立しても)明日も太陽は昇る。あなたの十代の娘は何でも分かっているように口答えするだろう。あなたの住宅ローンは増えない。世界はそのまま続いていく。だから大ごとにしないで」
ニュージーランドには、今日も太陽が昇っている。日本を除くG7の国々にも。
(2021年3月18日)
昨日(3月17日)、札幌地裁(武部知子裁判長)が、「同性婚訴訟」判決で民法規定を違憲とする判断を示した。正確には、「同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしていることは,立法府の裁量権の範囲を超えたものであって,その限度で憲法14条1項に違反する。」(裁判所作成の判決要旨)という言い回し。
同性での結婚を望む同性愛者に婚姻を認めない民法の規定は、異性間婚姻者と比較しての差別であって、許容される立法府の裁量の限度を越えたものとして憲法(14条1項)違反であるというこの判断。インパクトが大きい。画期的な判決と言ってよい。
裁判所が作成した【判決要旨全文】が、ネットの各サイトで紹介されているが、これもA4・8頁のかなりの分量。これを要約しなければならない。
事件は国家賠償請求事件である。行政訴訟ではない。3組6名の原告が、国を被告として、《同性間の婚姻を認める規定を設けていない民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定》(判決が「本件規定」と呼んでいる)の違憲を前提とする国家賠償請求をしたもの。
原告の違憲の主張は、「本件規程」が、憲法24条1項(婚姻は両名の意思にのみ基づいて成立する)及び2項(婚姻における個人の尊厳)に違反し、憲法13条(個人の尊重)に違反し、憲法14条1項(法の下の平等)にも違反しているというもの。
以上の主張に対する判決の骨子は以下のとおり。
1 「本件規定」は,憲法24条1項及び2項には違反しない。
2 本件規定は,憲法13条には違反しない。
3 本件規定が,同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしていることは,立法府の裁量権の範囲を超えたものであって,その限度で憲法14条1項に違反する。
4 本件規定を改廃していないことが,国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではない。
以下は、共同通信が配信した、「判決要旨」の要約である。
民法や戸籍法は、婚姻は異性間でなければできないと規定している。憲法24条は「両性の合意」「夫婦」など異性の男女を想起させる文言を用い異性婚について定めたもので、同性婚に関して定めたものではない。民法などの規定が同性婚を認めていないことが、憲法24条に違反すると解することはできない。
婚姻とは当事者とその家族の身分関係を形成し、種々の権利義務を伴う法的地位が与えられ、複合的な法的効果を生じさせる法律行為だ。
民法などの規定が同性婚について定めなかったのは1947年の民法改正当時、同性愛が精神疾患とされ社会通念に合致した正常な婚姻を築けないと考えられたためにすぎない。そのような知見が完全に否定された現在、同性愛者が異性愛者と同様に婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合、規定が一切の法的保護を否定する趣旨・目的まであるとするのは相当ではない。
性的指向は自らの意思にかかわらず決定される個人の性質で、性別、人種などと同様のものと言える。いかなる性的指向がある人も、生まれながらに持っている法的利益に差異はないと言わなければならない。
日本では同性カップルに対する法的保護に肯定的な国民が増え、異性愛者との間の区別を解消すべきだという要請が高まりつつあるのは考慮すべき事情だ。同性愛者に対し婚姻の法的効果の一部ですら受ける手段を提供しないのは、合理的根拠を欠く差別的取り扱いで、憲法14条が定める法の下の平等に違反する。
国内では、画期的な判決だが、海外では、同性婚を認める国が増えている。とりわけ、先進諸国では既に常識となっており、約30の国や地域が同性婚を認めている。2019年には、台湾がアジアで初めて、同性婚を法制化した。南アフリカやブラジル、米国や台湾では、司法の判断が切っ掛けとなって同性婚が認められた。
人の生き方は多様である。多様な個性を認め合う寛容な社会においてこそ、人権の尊重が実現される。多様な個性に適合した選択肢の提供が必要なのだ。日本でも、今回の判決によって同性婚の議論が盛んになり、この問題について考えていこうという機運につながるだろう。制度改革への第一歩となりうる。
原告らの痛切な訴えが、3名の裁判官の胸に熱く響いたのだ。原告の真剣さ、切実さに共感する裁判官を素晴らしいと思う。原告である人間の心の痛みの訴えに、人間として共感する裁判官。このハーモニーが、新たな地平を切り拓く第一歩を刻んだ。
(2021年3月8日)
本日は「国際女性デー」。森喜朗という功労者のおかげで社会の関心が高い。ところで、かつては「国際婦人デー」と言っていたはず。いったいいつころから、「女性デー」となったのだろうか。「婦人」から「女性」へ。その変化は、何を物語るのだろうか。
ネットを検索していたら、たまたま広井多鶴子(実践女子大学教授)の《「婦人」と「女性」?ことばの歴史社会学?》という論文に出会った。これが、すてきに面白い。いろんなことを教えてくれる。
http://hiroitz.sakura.ne.jp/resources/%E8%AB%96%E6%96%87/woman.pdf
この論文を読んでなるほどと思う。「婦人」という言葉の使われ方は、時代の社会意識を映してきたのだ。納得できる内容だし、何よりも「ことばの歴史社会学」というタイトルがピッタリではないか。
以下に、A4・8枚のこの論文の一部を引用させていただき、「婦人」という語彙の生成・発展・衰退の経過を追ってみたい。やや荒い整理とはなることはお許しいただきたい。
明治以前、「女性」の一般呼称としての語彙は、「女」であった。「長幼の序、男女の別」が道徳の基本とされ、「女三界に家なし」「三従の教え」を女性の処世訓と教え込まれ、「男尊女卑」を疑うべくもない身分制秩序の時代。その中では、「男」に対する「女」は、差別にまみれた社会意識を表現する言葉でしかなかった。
近代以後、自我に目覚めた女性を語る文脈で「婦人」が登場する。1885年に初めて「婦人」をタイトルとする書籍が登場したという。この時代を、広井論文はこう説明している。
「一婦一夫制や男女同権、女子教育の振興を主張した明治初期の啓蒙思想家の言論では、女よりも女子や婦人が好まれたものと考えられる。それは、言論・評論の場が公共空間として形成されていくにつれて、女ということばの持つ日常性や蔑視、さらには性的な意味合いが忌避されたからではないだろうか。」
こうして、「婦人」は、主として運動の用語として市民権を獲得してゆく。
「木下尚江『社会主義と婦人』(1903 年)、平民社同人『革命婦人』(1905年)、堺利彦『婦人問題』(1907年)、山川菊栄『婦人の勝利』(1919年)のように、社会主義関係の著書が好んで婦人を用いるようになる。」「平民社の西川文子らによる『真新婦人会』(1913年)、平塚らいてうの『新婦人協会』(1920 年)、市川房枝らの『婦人参政権獲得期成同盟』(1924年)といった社会改良を目指す婦人団体も結成される」
一方、『帝国婦人協会』、『愛国婦人会』『国防婦人会』『愛国婦人会』『大日本婦人会』など体制的な女性団体名も「婦人」を冠した。「女性の団体は運動や思想の内容を問わず、その多くが婦人を名乗ったのであり、こうして婦人は、婦人団体や婦人運動の用語ともなったのである。」
しかし、「婦人」は廃れて「女性」にその地位を譲ることになる。この点について、広井論文は、「婦人」の持つ言葉としてのイメージの限界を以下のように明晰に指摘する。
婦人はまた、男-女、男子-女子という対義語を持たず、妻という原義を払拭しえないために、女や女子という言葉以上に、女としての特殊性や独自性を強調することばである。戦前、婦人記者、婦人運動、婦人参政権といったことばが次々に作られていったが、女性の社会的な活動を意味するこれらの言葉ですら、結婚や家庭、妻、母、主婦といったイメージを拭い去れなかった。婦人は外で活躍しつつも、常にどこか家庭に拘束されている存在なのである。おそらく、婦人の持つこうした限界ゆえに、新たに「女性」という言葉が普及したのだろう。
「おわりに」として、広井教授はこう語っている。なるほど、なるほどと頷くしかない。
婦人は、結婚や家庭での女性の新たな役割と尊厳を模索した明治啓蒙思想の中で使われ始め、そうした言論や運動の中で広がっていった新しいことばであった。既婚女性を意味した婦人は、娘を意味した女や女子よりも、結婚生活における女性の地位を高め、女性に対する社会的・公的敬意を得るための用語としてふさわしいものだったにちがいない。1880 年代から1920年代は、婦人ということばが最も精彩を放ち、その力を発揮した時期であった。
しかし、婦人はまた、ようやく獲得した社会的・公的な敬意と裏腹に、女性を家庭や結婚に拘束し、よき妻、よき母たることを女性に求めることばでもあった。だからこそ言論や運動の用語として、さらには行政の用語として広く普及することになるのだが、そのことが逆に、婦人ということばの一般性・普遍性を喪失させることにもなった。一方、より客観的・普遍的な女性-男性ということばが創出され、1930年代になると、女性の代表的な呼称は、婦人から女性に移っていく。
戦後、経済成長とともに専業主婦が一般化する中で、婦人は『婦人画報』や『婦人公論』の読者層が示すように、中流階層の主婦をイメージさせる言葉として生き延びる。だが、このことは、婦人が女性の一般呼称としても、また言論や批判の言葉としても、すでにその力を減じていたことを意味する。…そして、性別役割分業自体を批判する1970年代の女性解放運動では、もはや婦人を名乗ることはなかったのである。
言葉は社会的存在である。社会が言葉の意味とイメージを作る。旧時代の「女」の意味は、「差別に甘んじる性」であったろう。これを克服すべきとする社会意識の形成の中で、「女」は嫌われ「婦人」が用いられた。しかし「婦人」は、女性の権利獲得運動が進展して、性別役割分業自体を否定すると、たちまち限界を露呈する。新たに形成された社会意識は、良妻賢母型女性像と離れがたいイメージの「婦人」を嫌って「女性」を選択することになる。
運動が社会意識を変え、変えられた社会意識による取捨選択によって、言葉が変遷していくのだ。「国際婦人デー」って、いつころまで言っていただろうか。そりゃ大昔のことなのだ。
(2021年2月14日)
コロナ蔓延の終熄はまだ遠い。原発事故処理もできぬ間に新たな地震も重なった。財政は逼迫している。国民生活は弱者ほど疲弊が厳しい。とうていオリンピックどころではない。アベ晋三の大ウソとワイロとで誘致した東京五輪が、いま主催組織幹部の女性差別と旧態依然たる体質暴露で世界に恥を晒している。いったい、どこに開催の意義があるというのだ。もともとが、為政者の統治の具に堕した国威発揚の舞台。しかも、意図的に小さな予算から出発して、途方もない金食い虫に変異したこのイベント。行政とつるんだ企業に食い物にされた、カネまみれの商業主義の化け物。こんなものは、さっさとやめてしまえ。その予算を、コロナ対策と震災からの復興にまわすべきが当然ではないか。
これが、これまで私が語ってきたこと。私は、この程度にしか東京オリンピックを批判してこなかった。今、その不徹底な姿勢を反省しなければならない。「五輪ファシズム」論に接してのことだ。
2月11日、毎日新聞デジタルが、「女性蔑視発言の根底に潜む『五輪ファシズム』の危険性」という記事を掲載した。かなり長文の鵜飼哲(一橋大名誉教)インタビューである。まことに時宜を得た適切な論説。
https://mainichi.jp/articles/20210210/k00/00m/040/185000c
鵜飼によれば、「オリンピックには、その根底に市民の生活を脅かす危険な『五輪ファシズム』がある」という。私はこれまで、「オリンピックは素晴らしい」という言説を懸命に否定してきた。しかし、鵜飼はオリンピックの積極的な害悪を主張する。「五輪ファシズム」という切り口で。
クーベルタンは、女性蔑視で優生思想の持ち主だった。ブランテージも、サラマンチもファシズムに親和性を持っていた。IOCは今も王族や貴族のサロンで、そこに元オリンピアンが「新貴族」として入るという愚にもつかない忌むべき構造がある。JOCの評議員63人中女性はたった2人…。さて、「五輪ファシズム」とは何か。
オリンピックは最初から全体主義的なイベントになりがちな傾向を強く持っていました。1936年にナチス・ドイツが挙行したベルリン大会を、IOCは今も最も成功した大会と評価しています。
68年のメキシコ大会では開催に反対した学生が開会式直前に何百人も殺されました。2016年のリオデジャネイロ大会の開催中も、警官による民間人の射殺が激増するなど人権侵害が多発したことを、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルが報告しています。しかし、IOCは全て主催国の問題にして責任を引き受けることはありません。21世紀に入ってテロ対策が強化され、ロンドン大会(12年)、リオ大会では地対空ミサイルが配備されました。当然、日本も開催されれば同じことになります。憲法が改正された後の状態を先取するような形で五輪期間中の警備が構想されているのです。顔認証システムも初めて導入予定で、日本在住者にはマイナンバーカードの提示が求められる。監視テクノロジーのこのような浸透が五輪を通じてグローバルに展開するところに現代のファシズムの特徴があります。
クーベルタンが考えていた「平和」とは、弱体化したフランスにイギリスやドイツのような体育教育を導入し、民衆にもスポーツを教えて軍隊を再建し、欧州にバランスを回復することでした。日本国憲法が理想としている第二次大戦後の世界平和とはまったく意味が違います。
安倍さんはあわよくば五輪を使って改憲まで持っていくつもりだったと思います。福島のことを忘れさせ、開催予算を自民党の支持基盤に流し、祝祭の勢いで改憲まで持っていく。このシナリオはコロナによって崩れましたが、五輪の歴史の中でも最悪の政治利用計画の一つでしょう。
最後は、次のように締めくくられている。まったく同感である。
黙っていたら「わきまえている国民」にされてしまいます。さまざまな表現方法を工夫して異論を発し続けることが大事です。
なお、以下の重要な指摘もある。
次の五輪開催地は来年冬季大会が予定される北京ですが、北京は欧米諸国のボイコットの可能性もありIOCは大変警戒しています。東京、北京とも開催できないのは避けたいでしょうから、IOCは東京開催に固執するでしょう。私の見通しでは、ぎりぎりまで開催強行を狙うでしょう。
しかし、森発言以来、ボランティアの辞退が増えています。今後は選手たちから抗議の声が上がることが、主催者側には最も手痛いはずです。
明確に「東京五輪を中止せよ」と声をあげたい。さらに、中国の人権政策に変化ない限りは、「北京冬季五輪も中止を」とも。
(2021年2月9日)
本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所のみなさま。私が最後のスピーチを担当いたします。コロナ風吹く中のお騒がせですが、もう5分と少々の時間、耳をお貸しいただくようお願いします。
森喜朗という、昔首相だった化石のような人の東京五輪の組織委員会会長としての女性蔑視発言が話題となっています。この人の発言の不適切なことは、誰にも分かり易いところですが、今大きな問題とされているのは、この人がJOCの評議員会で発言していたとき、誰もこの発言を問題視せず、むしろ男性会員からの笑い声さえ漏れていたと報じられていることです。
森喜朗のあからさまな女性蔑視発言を批判する人が一人もいなかったということは、評議員会参加者が、その沈黙によって差別を肯定し賛同し加担したということにほかなりません。外部からそのように見られるというだけではなく、そのような方針で組織が動いていくことになるのです。評議員会出席者一人ひとりの責任は、まことに重大と言わねばなりません。
このことは、私たち一人ひとりに問題を投げかけています。時として沈黙は、権力者や社会的強者の大きな声に賛同したことになるということです。女性差別、民族差別、宗教差別、思想差別、家柄による差別、職業や収入による差別…、あらゆる差別を許してはなりません。許してはならないということは、差別を傍観してはならず、明確に反対だということを表明しなければならないということです。
かつて、日本は暴走して侵略戦争の過ちを犯し、外には2000万人、内には310万人もの犠牲者を出しました。その重大な責任はどこにあるのか。もちろん、誰よりも天皇がその責任を負うべきで、次いで天皇を操り人形として戦争遂行に利用した軍部や政治家やメディアの責任を曖昧にしてはなりません。しかし、多くの国民の加担なしには戦争はできません。自分は決して戦争に賛成ではなかったというのが、大多数の国民のホンネであったと思います。しかし、戦争に反対と声をあげたのは一握りの人々に過ぎませんでした。大多数の人々は、沈黙することで、戦争に賛成し、侵略に加担したのです。
東京オリパラや、原発政策は、聖戦完遂に似ているように思えてなりません。きちんと反対の意思表示をせず、沈黙していることは、結局のところ、政府の政策に賛成とみなされてしまうのです。いま、「森喜朗発言を許さない」「あらゆる差別に反対する」と、一人ひとりが声をあげることが大切だと思うのです。
さらに別の角度からも問題が指摘されています。森喜朗の女性蔑視発言を批判する世論に抗して、政権や与党から、森擁護の声が上がっていることです。
圧倒的な世論が「こんな発言をする人物は、組織委員会会長として不適任」「森さんは辞任すべきだ」「東京オリンピックもやめた方がよい」となっています。この世論に抵抗するように、多くの政治家や保守の言論人が、こう言っています。
「森発言は不適切ではあったが、既に本人は反省し謝罪し発言を撤回しているではないか」「いまは、批判しているときではない。オリンピックをどうしたら成功に導くことができるのか、皆で知恵を出すべきだ」
その代表が、菅義首相、萩生田文科大臣、二階自民党幹事長、などの面々。そして肝心のIOC自身が、これに同調するようないいかげんな姿勢なのです。果たして、これでよいのでしょうか。
JOCだけではなくIOCも、このようにいいかげんで、清潔さを欠いた組織であることが明らかになってきました。私たちは、黙っていることはできません。いま沈黙をすることは、森発言を許す、菅・萩生田・二階・JOC・IOC発言に賛同したことになってしまいます。何らかのかたちで、声をあげようではありませんか。
「私は、女性蔑視を許さない」「性差別だけでなく、あらゆる差別に反対する」「差別発言の責任を明確にして、森喜朗は組織委員会会長の職を辞任せよ」「森喜朗が辞職しないのであれば、組織委員会は解任せよ」「政府や与党は、森を擁護するな」「差別者が推進する東京オリパラを返上せよ」
(2021年2月8日)
私が、モリ・ヨシロウ。東京五倫の組織委員会会長だ。えっ? 「五倫」とはなんだって? 大切な五倫を知らんのか? それは、少し無知。
教育勅語は知ってるだろう。それさえ知っておればよい。神の国の天皇である明治大帝が、日本の臣民に賜った永遠不滅にして普遍的な、有難くも貴い教訓だ。どうして有難いかって? つまらぬ質問をするんじゃない。天皇の教えだから、有難くて貴いに決まっている。
勅語自身が、「この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民のともに遵守すべきところ。これを古今に通じて誤らず、これを内外に施して悖らず」と、こう語っている。つまり、勅語に書いてあることは絶対に間違いがない。時代を超え、国を超えて、普遍的な真理ということだ。
その真理を文字にした勅語の中に、こういう有難い一節がある。
「なんじ臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、…一旦緩急あれば義勇公に奉…ずべし」。これが、五倫だ。
元号もそうだが、悔しいけれどもこの辺りは全て漢籍からの借り物だ。もともとの五倫は『孟子』に由来する。
「君臣の義,父子の親,夫婦の別,長幼の序,朋友の信」この五つが、儒教で説かれる、それぞれの立場での処世の徳目。
問題は、「夫婦の別」だ。「別」とは、「夫には外における夫のつとめ、妻には内における妻のつとめがあって、それぞれその本分を乱さないこと。」(『新釈漢文大系』)と説かれる。勅語では「夫婦別あり」を、少しやんわりと「夫婦相和し」としているが、同じことだ。当時もそう教えられている。
さらに、「礼記」には、人の踏み行なうべき道として、五倫を敷衍した十箇条の「十義」というものがある。「父の慈、子の孝、兄の良、弟の悌、夫の義、婦の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠」だ。婦人の徳としての「聴」とは、「夫の言うことをよく聴いてしたがう」こととされる。
「婦」とは、妻でもあり女性でもある。夫に、あるいは男性に従順であることこそが、永遠不滅にして普遍的な女性の美徳なのだ。それを男尊女卑というなら、我が国の歴史や習俗はまさしく、男尊女卑だ。それで何の不都合があろうか。
だから、もうよくお分かりだろう。会議では女性は、もっぱら「聴」に徹しておくべきなのだ。発言や質問を控えて、決まったことには素直に従う。これが、万古不易の婦徳ではないか。
えっ、キミたち、なんとなく不満そうな表情じゃないか。これが封建道徳の押しつけであるとでも思っているのかね。だとすれば、戦後教育嘆かわしや、というほかはない。
もしかして、キミたち。「『教育勅語』は全てが間違っている」なんて、思っているんじゃないだろうね。そうだとしたら、それこそがたいへんな間違いだ。神の国の陛下の言に間違いがあろうはずはないじゃないか。
だから私は、首相在任中に教育改革を説いて、教育勅語の一部復活を提案したんだ。この国が天皇の国であり神の国なんだから、教育勅語の復活は当然だろう。これに反対する偏向した一部の国民やマスコミの気が知れない。
オリンピックは世界の祭典だが、開催地は我が国の東京だ。わが国固有の歴史や伝統や風習を主張することを遠慮してはならない。何よりも神と天皇が宣らせたもうた男女の別については、人倫の大本として世界に発信しなければならない。キミたちも、天皇と神の国の「東京五倫」であることを、よく弁えていただきたい。
(2021年2月6日)
森喜朗よ、あなたは早稲田のラグビー部推薦入学者だというではないか。ラグビーこそは男のスポーツだ。あなたこそ、男の中の男。あなたの男としての精神は、ラグビーで培い、ラグビーで磨き上げたもの。あなたの女性蔑視発言は、スポーツで鍛えたあなたの精神を多くの人々が誤解しているだけだ。自信をもって、今の地位にしがみつけ。
森喜朗よ、今をまさにラグビーの試合中と思え。つかんだボールをしっかりと持って走るのだ。多くのタックルをものともせずにトライを目指す。このことに、一筋の迷いもあってはならない。
森喜朗よ、あなたは男だ。東京五輪組織委員会会長職をいったん引き受けた上は、弱音を吐いて逃げ出したりはしない。途中で職を投げ出して、敵に後ろを見せるのは男の恥だ。毛ほども女々しさを見せてはならない。
森喜朗よ、ものには釣り合いというものがある。富士には月見草がよく似合う。鳩にはオリーブの葉。靖国には軍服姿の進軍ラッパ。そして東京五輪には、誰よりもあなたがよく似合うのだ。かつては、ウソとゴマカシと政治の私物化を象徴していた安倍晋三が東京五輪に最も似合う男だった。その安倍が跡を濁しながら退陣した今、森喜朗よ、あなたこそが東京五輪とピッタリのイメージだ。とうてい余人をもって換えがたい。
本日の毎日新聞朝刊社会面のトップには、無責任な「都内100人調査」という次の記事が掲載されている。
「東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)による女性蔑視発言を人々はどう見ているのか――。毎日新聞が5日、東京都内4カ所で100人に聞いたところ、「森会長は辞任すべきだ」と答えた人は全体の約8割に上った。国際オリンピック委員会(IOC)と政府は森会長の謝罪と発言の撤回をもって「幕引き」としたい考えだが、国民感情との「ズレ」が浮かび上がった。」
正確には、「辞任すべきだ」と「辞任の必要はない」の回答者は、78人対18人だ。森喜朗よ、100人中の18人もあなたの味方がいる。心強い限りではないか。2割に満たない少数派ではあるが、少数者の意見を尊重することこそ、民主主義の本領ではないか。
もっとも、「森会長の言っていることに異論はない」と発言を擁護する人は、100人中のたった一人だけだったそうだが、それがどうした。百万人といえども我行かんの精神を発揮せよ。
「街頭取材からは、辞任を求める人の多くが、森会長が国際的な祭典における「顔」にふさわしくない、と考えている様子が浮かんだ。」
毎日の記事は、そう締めくくられているが、これは明らかに誤解に基づくものだ。そうではないか、森喜朗よ。「日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国であるということを国民のみなさんにしっかりと承知していただく。」というのが、あなたが首相の時代に宣言した真理ではないか。
誰もが知っているとおり、日本の国とは男系男子の天皇の国。女子は男子を立てるところに婦徳を示す。このことをしっかりと承知していただかねばならない。日本で行われるオリンピックでは、日本の歴史や風俗や日本の国柄を尊重していただき、日本の国情にしたがって行われるべきが当然ではないか。天皇の国では、男が中心、日本民族が中心、天皇を戴く神の国であることをしっかりと承知している人が中心で、そのためには森喜朗よ、あなた以外に東京五輪にふさわしい顔はない。
また、オリンピックを、神聖なもの、世界の良識を結集した立派なものと考えていることがおかしい。カネと権力の誇示の舞台でしかないと現実を認識すれば、森喜朗よ、あなたとオリンピックはお似合いなのだ。
森喜朗よ、あなたのこれまでの数々の「失言癖」を指摘し、会長職辞任を求める声が巷に渦巻いている。しかし、あなたは決して「失言」をしているのではない。このことに自信をもたねばならない。あれは全て、あなたの信念の発露なのだ。
森喜朗よ、あなたが辞任を否定したことで、批判の矛先は政府やIOCに向かっている。これは、素晴らしいことではないか。日本の政府も、IOCも、そしてあなたも、どっこいどっこい、カネと国威発揚に汚れた者どおしとして、お似合いなことがみんなの目にはっきりと見えるようになってくる。
森喜朗よ、そのあなたが、「元々、会長職に未練はなく、いったんは辞任する腹を決めた」という報道に落胆した。が、間もなく辞任を翻意したとの報道に安心した。
辞任翻意の理由は、「みんなから慰留されました」「武藤敏郎事務総長らの強い説得で思いとどまった」「いま会長が辞めれば、IOCが心配するし、日本の信用もなくなる。ここは耐えてください、と」
そのとおりだ。森喜朗よ。あなたは、男だ。もとはラグビーの選手じゃないか。国内外からの、女性蔑視発言バッシングに堪えるだけでなく、反撃せよ。記者会見では、とことん、やり合え。「もう、発言は撤回したから文句はないだろう」「もう、謝ったじゃないか」「いったい何度謝ったらいいんだ。」「不可逆的に解決済みのはずだ」「面白おかしく報道するための質問には答えない」とがんばれ。
また、ときには、こうも言うべきではないか。
「私の発言に、反省すべきところはない」「キミたちは、人の口を封じて言論を弾圧しようとするのか」「この天皇の国では、男性と女性の在り方に区別あって当然なのだ」「男尊女卑、夫唱婦随、女は男を立てる、これが日本の麗しい伝統だ」「世界の人に、日本の国情を理解してもらわねばならない」
森喜朗よ、あなたが語ったとおり、「報道はされていませんが、たくさんの(保守系の)国会議員からも激励され」ているのだ。あきらめるな。今の地位にとどまれ。そして、東京五輪と日本精神の何たるかの両者を、あなたの発言と行動を通じて世に知らしめよ。
(2020年12月16日)
自民党内の夫婦別姓論議が熱い。もっとも、熱いのは一方的に右翼・守旧派の面々の発言だけのこと。そろそろ自民党も世論の良識に耳を傾けざるを得ないかと思わせる事態だったが、危機感を感じてか、頑迷固陋の守旧派が巻き返した様子。やれやれ、自民党の本質はしばらく変わることはなさそうである。
自民党の「女性活躍推進特別委員会」(委員長・森雅子)が、政府の第5次「男女共同参画基本計画」の改定案をめぐる議論を開始したのが12月1日。焦点となったのは選択的夫婦別姓採用の可否である。昨日(12月15日)の結論は、政府原案が大きく後退してしまったと報じられている。
朝日の見出しは、「夫婦別姓の表現、自民が変更 反対派の異論受け大幅後退」
毎日は、「夫婦別姓、自民保守派抵抗 『更なる検討』で決着 男女共同参画計画案」
時事は、「自民、選択的夫婦別姓削除し了承=男女参画計画」
法制審議会が選択的夫婦別姓の制度を提案して、「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申したのが、1996年2月のこと。以来、20余年も寝かされっぱなしの課題となっている。この法改正を阻んでいるのは、守旧派の家族観をめぐるイデオロギーにほかならない。
別姓推進派の見解については、法務省がホームページに次のようにまとめている。
現在の民法のもとでは,結婚に際して,男性又は女性のいずれか一方が,必ず氏を改めなければなりません。そして,現実には,男性の氏を選び,女性が氏を改める例が圧倒的多数です。ところが,女性の社会進出等に伴い,改氏による社会的な不便・不利益を指摘されてきたことなどを背景に,選択的夫婦別氏制度の導入を求める意見があります。
選択的夫婦別姓とは、全員に別姓を強制するわけではない。同姓を選びたい人は同姓でよい、別姓を選択したい人の意向を尊重しようという、個人の人格尊重の立場からはまことに当然の制度である。これに対して、どの夫婦も同姓でなくてはならないというのはお節介にもほどがある。現実に、不便・不利益が顕在化しているのだから、現行法を改正すべきが理の当然であろう。
ところが自民党内には、明治以来の「伝統的な家族観」を重視する議員が多いのだという。今回の自民党委員会でも、「別姓の容認は家族観を根底から覆す」という声高な発言があったようだ。
その結果、現行の第4次基本計画に入っている「選択的夫婦別氏制度の導入」の文言が削られ、「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史を踏まえ」という記述がこれに代わった。さらに、第5次案を策定するにあたっての原案には盛り込まれていた、「実家の姓が絶えることを心配して結婚に踏み切れず少子化の一因となっている」などの意見や、「国際社会において、夫婦の同氏を法律で義務付けている国は、日本以外に見当たらない」との記述は、反対派の指摘を受けて削除されたという。自民党って、こりゃダメだ。
私は、選択的夫婦別姓制度に対する反対理由として、「伝統的な家族観に反する」以上の説明を聞いたことがない。「伝統的な家族観」とは、儒教道徳における「修身斉家治国平天下」の「斉家」である。統治者は「家」になぞらえて統治機構を作った。「家」の秩序の崩壊は、国家秩序の崩壊でもあった。国家秩序維持の手段として、女性は「家」に閉じ込められた。自民党守旧派のイデオロギーは、その残滓以外のなにものでもない。
選択的夫婦別姓制度の実現を阻んでいるものは、自立し独立した対等な男女の婚姻観とは、まったく異質な「伝統的な家族観」であり、「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史」なのだ。
さらに、古賀攻(毎日新聞元論説委員長)が、本日(12月16日)の朝刊コラム「水説 出口のない原理主義」で、こう言っている。
どんな形でも夫婦別姓は、家族の解体へと導く個人の絶対視であり、ひいては家系の連続性や日本人の精神構造を崩す、と彼ら(注ー自民党右派)は訴える。この硬直的なロジックは、実は本丸での攻防につながっている。天皇制のあり方だ。
皇統は男系男子以外ない。旧皇族の皇籍復帰で守れ、という思考からすると、夫婦別姓は女系天皇をもたらすアリの一穴になる。
なるほど、「伝統的な家族観」とは「天皇制を支える家族観」ということであり、「夫婦別姓は伝統的な家族観に反する」とは「夫婦別姓が現行天皇制の解体を招くアリの一穴」だというのだ。これは興味深い。つまりは、現行の天皇制とは、同姓を強制する家族制度を通じて、個人の自立や両性の対等平等の確立、女性の社会進出の障害になっているということなのだ。
天皇制は罪が深い。夫婦別姓の実現を阻むだけではない。個人の自立や両性の平等、そして女性の社会進出の敵対物となっている。
(2020年10月14日)
本日の毎日新聞夕刊に「ベルリンに少女像設置、二転三転、区当局『当面認める』」の見出し。共同通信記事を引用の各紙は、「少女像設置『当面認める』 撤去要求の独首都自治体」としている。
これは朗報。真の当事者は、加害者としての日本なのだ。日本の保守層と政権の、ドイツに対する圧力が一時は功を奏しそうになったが、土俵際で形勢が逆転したというところ。理性的な解決への筋道が見えてきたと言ってよいようだ。
舞台は、ベルリン市中心部ミッテ区の公有地。9月下旬、ここに韓国系市民団体「コリア協議会」が従軍慰安婦を象徴する少女像を設置し、9月28日に除幕式を行った。もちろん、同区の許可を得てのことである。これに不快感をあらわにした茂木敏充外相が今月1日にドイツのマース外相とオンライン会談した際に、像の撤去を要請した。この会談が政治的圧力となって、区は10月8日、設置許可を取り消し、10月14日までに像を撤去するよう命じていた。「日韓間の複雑な政治的、歴史的な対立をドイツで扱うのは適切ではない」というのが、その理由だった。
「コリア協議会」側は、直ちに区の取り消し決定の効力停止をベルリンの裁判所に申立て、区にも異議を申し出た。その成り行きが注目されていたが、ミッテ区のフォンダッセル区長は13日の声明で「コリア協議会と日本側双方の利益となる妥協案を望む」とし、今後すべての関係者の意見を慎重に検討する考えを表明した。
私(澤藤)が、この事件を初めて知ったのは、10月9日の21時過ぎ、「産経ニュースメールマガジン」によってのこと。「韓国の手法、もはや国際社会で通じず 独の慰安婦像設置撤去要請」という、勝ち誇った見出しの下記産経記事(一部引用)の紹介だった。これが、日本の右翼勢力のホンネであり、願望である。
【ソウル=名村隆寛】ドイツの首都ベルリン中心部に設置された慰安婦像の撤去を地元当局が求めたことは、戦時下における女性への性暴力を非難し、女性の人権を訴える名目で、慰安婦像設置を続けてきた韓国側の手法が、国際社会では通じなくなってきたことを示す。
設置したのは韓国系の市民団体であり、製作費は韓国の慰安婦支援団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)」が支援した。米国各地に設置された慰安婦像と同様、実際には韓国が地元自治体や市民を2国間の問題に巻き込む形で設置を強行したに過ぎない。
韓国では日韓の問題と関係ない第三国で慰安婦像設置を拒絶されたことで「像を守れるか」(聯合)との危機感が出ており、メディアでは設置を続けようとする市民団体の姿勢が強調される一方、反日意識を強引に世界で広めることによる韓国のイメージダウンを懸念する声は聞かれない。」
これを追いかけるように、複数の友人から、下記の「★菅首相及び茂木外相宛の抗議文」への署名依頼のメールが送信されてきた。これは、格調が高い。
「ベルリンの『平和の少女像』撤去問題における『記憶の闘争』。問われているのは、日本政府であり、日本人である私(たち) なのだ。」という表題がついている。
日本軍『慰安婦』問題解決全国行動
http://www.restoringhonor1000.info/2020/10/blog-post_11.html?m=1
**************************************************************************
★菅首相及び茂木外相宛の抗議文(抜粋)
「これまでは「日本政府の立場を説明していく」という表現に留め、妨害の事実についても認めようとしなかった政府が、菅政権になって初めての今回の碑に対しては、露骨に「撤去を要請する」と官房長官が言い切り、外相が当該国の外相に電話会談で撤去を要請したと臆面もなく発言することに恐怖すら感じます。
今からでも、このような姿勢を正すべきです。日本軍「慰安婦」を生んだ加害国として、誰よりも事実を正面から直視し、心から反省し、この教訓を人類が生かしていくことができるよう、率先して記憶し教育し継承していく姿を被害者たちに、被害国に、そして世界に示してこそ、日本は尊敬され尊重される国となり、日本軍「慰安婦」問題も解決することができるでしょう。
あったことを無かったことにはできません。日本軍「慰安婦」問題を記憶することで性暴力のない平和な社会をめざそうとする各国市民の動きも止めることはできません。できないことに邁進するのではなく、なすべきことに力を尽くすよう求めます。」
…………………………………………
幾つかの韓国からの報道が、興味深い。
★ドイツの大学教授が「日本の戦争犯罪否定」を批判
https://news.yahoo.co.jp/articles/4719faf6543c8d8243229436510f411e35dcb204
独ボーフム大学社会学科元教授のイルゼ・レンツさん(72)は11日、ハンギョレの電子メールインタビューで、なぜ少女像がドイツになければならないのかという質問に対し、「植民地主義と戦争暴力の歴史を持つドイツは、日本と似た問題に直面している」と説明した。レンツさんは「少女像は戦時性暴力と植民地主義を記憶しようとする記憶運動の象徴」だとし、「この暴力的な植民地時代の過去と、第2次世界大戦当時に東欧とロシアで起きた無数の性暴力を把握することこそ、私たちの課題」と述べた。レンツさんはまた「少女像の設置承認取り消しは、日本政府の外交的圧力に加えて、ベルリン市が慰安婦問題と戦時性暴力問題をきちんと知らないために起きた容認できない事件」と強く批判した。
★ハンギョレ新聞「裁判所に行った少女像」
http://japan.hani.co.kr/arti/international/37981.html
★ 市民が阻止した「ベルリン少女像」撤去…ドイツ、碑文修正など妥協案か
https://news.yahoo.co.jp/articles/483d57894e3e54e55b7f95f47d648beb2eb03826
ミッテ区のシュテファン・フォン・ダッセル区長は「我々は十分に時間をかけて論争の当事者と我々の立場を検討する」とし「コリア協議会と日本側の双方の利益を公正に扱うことができる妥協案を用意したい。みんなが共存できる方式で記念物が設置されることを望む」と明らかにした。続いて「ミッテ区は時間と場所、理由を問わず、女性に対するあらゆる形態の性暴力と武力衝突に反対する」とも強調した。
これに先立ちダッセル区長はミッテ区庁前で開かれた撤去反対集会に予告なく姿を現し、「裁判所に撤去命令中止仮処分申請が出され、時間が生じた。調和が取れた解決策を議論しよう」と述べた。
これに対しコリア協議会側は、少女像設置の趣旨が反日民族主義でなく国際的・普遍的な女性人権問題であることを強調した。
ダッセル区長の立場の変化は、現地同胞と市民の反発に加え、自身が所属する緑の党の内部でも撤去命令を取り消すべきという声が出たからだ。ただ、少女像撤去命令を完全に撤回したというより、今後の裁判所の判断を待って妥協点を見いだそうという意味と解釈される。現地では、少女像の碑文に慰安婦被害者問題の普遍的価値を強調する内容を追加する方向で妥協するという可能性が高いという見方が出ている。
茂木外相の政治的圧力は、どうやら藪を突いて蛇を出したごとくである。勝ち誇った産経ニュースの思惑も裏目に出たようだ。事情をよく知らなかったドイツの世論が、この事件を切っ掛けに、日韓の植民地処理問題未解決の現状に関心をもつことになった。ドイツと日本のその歴史的な責任の記憶と反省のありかたについて比較して、大いに意見を述べてもらいたいと思う。まさしく、国際的・普遍的な人権問題の立場から。