澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

沈黙による共犯者となってはいけない。ー 本郷三丁目交差点で

(2021年2月9日)
本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所のみなさま。私が最後のスピーチを担当いたします。コロナ風吹く中のお騒がせですが、もう5分と少々の時間、耳をお貸しいただくようお願いします。

森喜朗という、昔首相だった化石のような人の東京五輪の組織委員会会長としての女性蔑視発言が話題となっています。この人の発言の不適切なことは、誰にも分かり易いところですが、今大きな問題とされているのは、この人がJOCの評議員会で発言していたとき、誰もこの発言を問題視せず、むしろ男性会員からの笑い声さえ漏れていたと報じられていることです。

森喜朗のあからさまな女性蔑視発言を批判する人が一人もいなかったということは、評議員会参加者が、その沈黙によって差別を肯定し賛同し加担したということにほかなりません。外部からそのように見られるというだけではなく、そのような方針で組織が動いていくことになるのです。評議員会出席者一人ひとりの責任は、まことに重大と言わねばなりません。

このことは、私たち一人ひとりに問題を投げかけています。時として沈黙は、権力者や社会的強者の大きな声に賛同したことになるということです。女性差別、民族差別、宗教差別、思想差別、家柄による差別、職業や収入による差別…、あらゆる差別を許してはなりません。許してはならないということは、差別を傍観してはならず、明確に反対だということを表明しなければならないということです。

かつて、日本は暴走して侵略戦争の過ちを犯し、外には2000万人、内には310万人もの犠牲者を出しました。その重大な責任はどこにあるのか。もちろん、誰よりも天皇がその責任を負うべきで、次いで天皇を操り人形として戦争遂行に利用した軍部や政治家やメディアの責任を曖昧にしてはなりません。しかし、多くの国民の加担なしには戦争はできません。自分は決して戦争に賛成ではなかったというのが、大多数の国民のホンネであったと思います。しかし、戦争に反対と声をあげたのは一握りの人々に過ぎませんでした。大多数の人々は、沈黙することで、戦争に賛成し、侵略に加担したのです。

東京オリパラや、原発政策は、聖戦完遂に似ているように思えてなりません。きちんと反対の意思表示をせず、沈黙していることは、結局のところ、政府の政策に賛成とみなされてしまうのです。いま、「森喜朗発言を許さない」「あらゆる差別に反対する」と、一人ひとりが声をあげることが大切だと思うのです。

さらに別の角度からも問題が指摘されています。森喜朗の女性蔑視発言を批判する世論に抗して、政権や与党から、森擁護の声が上がっていることです。

圧倒的な世論が「こんな発言をする人物は、組織委員会会長として不適任」「森さんは辞任すべきだ」「東京オリンピックもやめた方がよい」となっています。この世論に抵抗するように、多くの政治家や保守の言論人が、こう言っています。

「森発言は不適切ではあったが、既に本人は反省し謝罪し発言を撤回しているではないか」「いまは、批判しているときではない。オリンピックをどうしたら成功に導くことができるのか、皆で知恵を出すべきだ」

その代表が、菅義首相、萩生田文科大臣、二階自民党幹事長、などの面々。そして肝心のIOC自身が、これに同調するようないいかげんな姿勢なのです。果たして、これでよいのでしょうか。

JOCだけではなくIOCも、このようにいいかげんで、清潔さを欠いた組織であることが明らかになってきました。私たちは、黙っていることはできません。いま沈黙をすることは、森発言を許す、菅・萩生田・二階・JOC・IOC発言に賛同したことになってしまいます。何らかのかたちで、声をあげようではありませんか。

「私は、女性蔑視を許さない」「性差別だけでなく、あらゆる差別に反対する」「差別発言の責任を明確にして、森喜朗は組織委員会会長の職を辞任せよ」「森喜朗が辞職しないのであれば、組織委員会は解任せよ」「政府や与党は、森を擁護するな」「差別者が推進する東京オリパラを返上せよ」

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