(2023年1月19日)
本日は憲法も人権も民主主義も無関係。私の故郷の話題である。「それがどうした?」と言われれば、「いえ、どうもしません。つまらぬ話題で済みません」と謝るしかない。
あのニューヨークタイムズが、毎年の年頭に独自の情報を集め独自の基準で旅行先を紹介しているのだそうだ。今年も、1月12日に「2023年に行くべき(世界の)52カ所」を発表した。そのトップは、イギリスの首都ロンドン。世界に知られた大都会、歴史に溢れた街でもある。これには驚かない。さもありなんと思わせる。
これに続く第2位が、なんと盛岡だという。私の故郷だ。これは驚くべきことではないだろうか。東京・大阪ではない。奈良・京都・鎌倉でもない。札幌・小樽・函館でも、倉敷・津和野・日田でもなく、那覇・金澤・静岡でもない。いったい、どうして盛岡なのだろうか。
盛岡、けっして印象深く目立った街ではない。NHKラジオで全国の天気予報を聞いていると、仙台の次は秋田に飛び、その次は札幌となる。土地の人のプライドは高いが、全国では認めてもらえない。東北では、仙台以外は、なべて「その他」の街でしかない。
盛岡市が選ばれた理由の第一は、「大正時代に建てられた和洋折衷建築や、現代的なホテルのほか伝統的な旅館もある。城跡も公園になっていて、歩いて楽しめる街」との評価だという。なんという薄弱な世界第2位の根拠。これなら、仙台も、会津若松も、山形も、二本松も、みんな2位ではないか。
もっとも、推薦理由はそれにとどまらず、東京から新幹線で数時間で行ける便利さや、山に囲まれ川が流れる風景を紹介し「混雑を避けて歩いて楽しめる美しい場所」「完全に見落とされてきた街」と、盛岡を再評価する内容になっているともいう。そうか、「完全に見落とされてきた街の魅力」なのか。やや複雑な評価。褒められているのやら貶されているのやら。
さらに、名物の「わんこそば」やコーヒー豆にこだわった喫茶店など、食についても紹介されているという。結局はその程度なのだ。その程度なのだが、訪れた人に、文章にはしにくい他にない魅力を感じさせるものなのだと理解しておきたい。
52都市の中には、19番目に福岡市が選ばれているという。「焼き鳥やラーメンだけでなくワインやコーヒーなども屋台で楽しめる」と博多の中洲を紹介しているとか。これも、大した推薦理由とは思えないが、博多も魅力的な街である。どうして、2位と19位かは分からない。定量的評価は難しいのだ。
ニューヨークタイムズのホームページには、秋の紅葉の時期に盛岡城跡公園で撮影したと見られる動画が掲載されている。これを「人混みを避けて歩いて楽しめる美しい場所」と言われれば、まったくその通りである。世界で何番目かは問題ではない。
この山に囲まれ川が流れる美しい穏やかな街の風景は、乱開発から守られなければ維持できない。また、ここに住む人々の生業の持続なくしては維持できない。人々の文化的営みなくしては訪れる旅人を楽しませる街の空気の醸成もあり得ない。
人々の経済活動と、環境の保護と、住民自治と…。やっぱり、こんな話題にも、人権や民主主義が関わらざるを得ないようだ。
それにしても、盛岡の5月は、生命の息吹にあふれた地上の天国である。いや、盛岡に限らない。東北のすべてがそうだろう。いや、そう言えば秋も捨てがたい。
汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも(啄木)
方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭三日 そらはれわたる(賢治)
(2023年1月1日)
元日には、父と母のことを語りたい。
私の父澤藤盛祐は、1914年1月1日に黒沢尻に生まれた。尋常小学校6年を飛び級で旧制黒沢尻中学の2期生に合格している。将来を期するところがあったろうが、家業の零落で中学卒業後の進学の夢がかなわなかった。株屋に就職して真面目に働いたが樺太の支店長の時代に株式不況で株屋が倒産。その後盛岡市の吏員として職を得たところで徴兵され、敗戦まで合計7年余の兵役と徴用を余儀なくされる。満州にも送られているが、幸いに実戦に参加することなく帰還して内地で終戦を迎えた。戦後はある宗教に帰依し、盛岡市職員の地位を捨てて教団の布教師となった。後半生は教団に奉仕し尽くした生涯だった。
母・光子(旧姓赤羽)は盛岡の人。兵役にあった父の求婚に応じた。結婚式など望めぬ時代、挙式は40年後になっている。敗戦直前、小規模ながら盛岡にも空襲があった。母は、ハシカで泣き止まぬ私を背負って、防空壕で心細い思いに耐えたと繰り返し語った。戦後は父の転身を受け容れ、教団の中で4人の子を育てている。
二人が相次いで亡くなって25年になる。私たち兄弟の父と母への感謝の気持ちを「歌集 『草笛』 澤藤盛祐・光子 追悼」の巻頭に記した。
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お父さん
お母さん
まことに遅ればせではありますが、
お二人に感謝の言葉を捧げます。
何よりも命を授けていただいたことに。
健康な身体と心とを育んでいただいたことに。
そして、この上なく慈しんでいただいたことに。
お父さん
お母さん
きっと私たちは、
お二人を選んでこの世に生まれました。
私たちがものごころついたころには、
お二人と私たち兄弟が世界のすべてでした。
私たちは、その温かい世界でのびのびと
それぞれの自分をつくりました。
生きていくための芯となるものを得たのです。
お父さん
お母さん
私たちはよく覚えています。
お二人の手のひらの温もり
ゆっくりと語りかけるその声や
まなざしのやさしさ。
お二人が亡くなった後も、
私たちは決して忘れることはありません。
あらためて、心からの感謝を捧げます。
お父さん
お母さん
若くはつらつとしていたお二人も。
齢を重ね、やがて老いを見せて、
そして生を全うされました。
私たちはお二人の後を追い
その後姿を見ながら齢を重ねてきました。
常に、お二人の昔の姿に、
今の自分を重ねています。
お二人を忘れることのないよう、想い出の歌集をつくろう。
そう提案して作業を進めてきたのは、次男の明でした。
その作業が完成せぬまま、
明はお二人の後を追って帰らぬ人となりました。
残された私たちは無念でなりません。
明の作業を完成させて、今、この「草笛」をお二人に捧げます。
お二人が生きてこられた証しを残すために。
私たちの尽きせぬ感謝の気持を表すために。
そして、明の遺志を生かすためにも。
2022年 万緑の頃
(2022年12月31日)
よく晴れた大晦日だが、時代は視界の開けない昏い印象である。世界も、国内も、どんよりと重苦しい。だれもが望んできたはずの平和が蹂躙されている。大量の兵器が世に溢れ、核の脅威さえ払拭できない。軍需産業とその手先の政治勢力が、不気味にほくそ笑んでいる。18世紀のスローガンであった、『リベルテ、エガリテ、フラテルニテ(自由・平等・友愛)』が、いまだに虚しいスローガンのままだ。明日の元日が、一陽来復とか初春の目出度さを感じさせるものとなろうとは思えない。
それでも、今年の私生活は比較的順調だった。身内の不幸がなかったことだけでもありがたいと思う。この夏には、「DHCスラップ訴訟」(日本評論社)を上梓した。表現の自由についてだけでなく、民事訴訟のあり方や、政治とカネ、消費者問題についても、それなりの言及が出来ていると思う。
そして、この夏にもう一冊、兄弟で父と母を偲ぶ歌集(兼追悼文集)を自費出版した。数年前に兄弟4人で作ることを決め、次弟の明(元・毎日新聞記者)が選句し編集していたが、昨夏突然に没した。そのあとを三弟の盛光が完成させた。明の遺した歌も入れ、編集後記は生前に明が書いた通りのものとなった。
B6版で88ページ、装幀と印刷は株式会社きかんし(東京都江東区辰巳2-8-21 TEL03-5534-1131)にお願いしたところ、手際よく手頃な値段で立派なものを作ってくれた。できあがってみると感慨一入である。200部の非売品である。
表題は「歌集 『草笛』 澤藤盛祐・光子 追悼」。歌集の題は、「草笛」という。歌集冒頭の父の一首からとった。
校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ
この校庭は旧制黒沢尻中学(現黒沢尻北高)のもの。父にも、多感な「少年のころ」があったのだ。そのことを書き留めておく意味はあろうかと思う。
11月12日に、縁者が秩父の小鹿野町に集まって、このささやかな「追悼歌集」の出版記念会を開いた。盛祐・光子の子・孫・ひ孫と、その配偶者27名の賑やかな集いとなった。楽しいひとときではあったが、次弟・明の姿はなく、小鹿野に家を建てた妹の夫も鬼籍に入っている。時の遷りに、さびしさも感じざるを得ない。
なお、今年も365日このブログの連続更新は1日も途切れなかった。あと3か月、来年の3月末で、満10年の連続更新となる。その10年を一区切りにして、しばらく擱筆しようと思う。第2次安倍晋三政権の危険性に触発されて連載を始めた当ブログである。幸いに、明文改憲だけは許さずに、10年になろうとしている。そして、安倍晋三は、既に世に亡い。
目も歯も悪くなった。腰は痛い。筆が遅い。それでも、気力だけが健在である。あと3か月このブログを書き続けて、その後しばらくは今引き受けている仕事に専念しようと思う。
(2022年8月15日)
この夏、父盛祐と母光子の遺作を集めて追悼歌集を作った。B6版で88ページ、パンレット程度のものだが、できあがってみると感慨一入である。印刷製本は「株式会社 きかんし」にお願いしたもの。数年前に、兄弟4人で作ることを決め、次弟の明(元・毎日新聞記者)が選句し編集していたが、昨夏突然に没した。そのあとを三弟の盛光が完成させた。明の遺した歌も入れ、編集後記は生前に明が書いた通りのものとなった。
歌集の題は、「草笛」という。父の冒頭の一首からとった。
校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ
1914年生れの父と15年生れの母の人生には、戦争が大きく関わっている。父の回顧の歌には召集されての兵役の生活を詠んだものが多い。その中から、終戦時の歌を紹介したい。父は、2度目の召集で配属された弘前の聯隊で終戦を迎え、同年9月12日に召集解除・除隊となっている。
玉音放送畏め受くと兵われら直立不動に姿勢正せり
玉音はさだかならねどポツダムの宣言受くと宣らしたるらし
玉音放送終る即ち兵ぬちに湧き立つ号泣嗚咽の声も
神風が吹くなど言いし妄想はついにあえなく潰え去りたり
召集にまた徴用に閲したる七有年の意義は何ぞも
わが前に南に征きし部隊はも沖縄沖に沈みしと聞く
もし敵が攻めきたりなば詮はなし肉弾のみと隊長は言う
朝早く刀振る性となりており戦い敗けて日は経たれども
菊の紋刻せし銃を廃品の如くに捨てて隊を解きたり
兵われが人を撃つなく斬りもせで戦さ止みしはみ恵みなるよ
妻と子が日ごと詣でし氏神に無事の帰還を礼申しける
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なお父は、1941年8月から翌年11月まで、当時の満州国黒河省愛琿(アイグン)守備隊の兵営にあって、その頃の軍隊生活の歌が多い。いくつかを掲載しておきたい。
新妻と語るいとまもあらなくに大陸指して海渡りゆく
足音をしのばす如く兵どちが輸送列車に乗せられし夜
わが軍の機密漏れじと汽車の窓夜昼閉じて指すは北満
アンペラを敷きたる貨車に揺られつつゆさぶられつつ幾日過ぎけむ
妻の文開くに惜しく背嚢に秘めて炎熱の行軍に発つ
一杯の水で顔ふき口すすぎ今日も炎天の演習に発つ
行軍の小休止にも故郷の家族のことを語り合いにき
陽炎の原を這いつつ幾百里かなた故郷の空を思えり
北満の昼は灼熱夜に入ればよろず声なき厳寒の底
夜深み空襲警報と聞きたるは狼の群の遠吠えなりき
暁になりて知れりと立哨のまわりに狼の足跡あるを
朝おそく昇りし陽早やうすづきて演習の野に寒気せまり来
小休止のうたた寝終えて目ざむれば防寒外套に霜の立ちおり
対岸のソ連の動きただならず厳戒せよと命をうけたり
黒竜江(アムール)に氷の張れば危ぶめりソ連の軍が襲いこずやと
指揮官の過ちありて水死せる屍(かばね)ならべり十余の兵の
大太鼓叩くが如くとどろかせ黒竜江(アムール)の氷ひび割れにつつ
一木も無き野に伏すときいぶかしもみんみん蝉の鳴くが聞こゆる
蝿ほどの蝉を見しかば絵にかけり妻へ宛てたる軍事葉書に
三味線を持ち込みきたり演芸に津軽ジョンガラ弾く兵のあり
「休日」と小店に貼れる文字だに美しかりき文字の国にて
足に合う軍靴さがせばどなられき靴に足を合わせるのだと
動作にぶく気回らずて古兵からとられしビンタ幾つなりしか
時過ぎて還らぬ兵あり捜さむと戦友(とも)の出でゆく暗き雪夜に
黒竜江(アムール)ゆ昇りて大き仲秋の血の色の月を二度仰ぎける
(2022年4月9日)
コロナもありウクライナ侵略もあれども、季節はよし天気もよい。本日の鎌倉、早朝より晴れわたってまことに爽快だった。若宮大路の二の鳥居にある阿吽の巨大な獅子が、コロナ蔓延以来大きなマスクをしている。このマスク、いつになったら取れるやら。
ここから、鶴岡八幡宮境内までの参道が段葛。頼朝が、妻政子の安産祈願に寄進したものと伝えられ、桜の名所として高名だった。もっとも、近年の改修でかつての風格はない。
それでも、植え替えられた桜の若木がよく花を咲かせている。これはこれでなかなかの桜並木。本日は、ちょうど散り盛りの花が、時折の風に花吹雪となった。青い空に、舞う花びらがひときわ映えての見事な風情。
ところが、この風情をぶち壊す不粋なものが現れた。右翼の街宣車が若宮大路を行ったり来たり。車体に団体名が書いてあり、その中に「皇」の字があつた。この不粋な「皇」結社が、日の丸を立てている。その「日の丸」が勢いよく翩翻と翻っていた。ものには似合い・釣り合いということがある。「右翼」と「皇」と「日の丸」と、なるほどよく似合う。そのどれもが、今日の風情をぶち壊している。
驚いたことに、その右翼街宣車が、「日の丸」とならベてウクライナ国旗を掲げていた。かつてのソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の一部だった旧社会主義国の旗をである。そして、右翼のスピーカーが、ロシアよりはむしろソ連の過去の蛮行をなじって、ウクライナを持ち上げている。ウクライナのように戦える日本を、日本の軍備増強を、というわけだ。今の世、桜を楽しむ余裕すら乏しい。
この神社にも、参詣者が願い事を書いて奉納する絵馬が並んでいる。微笑ましい庶民の願い事が綴られているが、この願掛をした日付が西暦か元号かを見るのが、私の趣味。圧倒的に「西暦」が多い。「令和」は少数派なのだ。それを確認することが私の密やかな楽しみ。
たくさんある絵馬の内、アトランダムの一角を選んで、「西暦」の日付がはいっているものを順に20枚まで数えてみる。それまで「元号」派は何枚あるだろうか。圧倒的に日付のないものが多いのだが、これを除いて日付のあるものだけを数えてみた。
結果は、「西暦」20に対して、「元号」が8。興味深いのは、「元号」8のうち「R」とだけの表記が5、漢字で「令和」という表記はわずかに3。若い世代には、完全に西暦使用が定着しているという印象。そして、「令和」と表記するのは、手間のかかる面倒な作業なのだ。
さて、全国に数多くある「八幡神社」。その祭神の起源はよくわからないながらに武神ないしは軍神とされ、武家が信仰の対象とした。鶴岡八幡宮も同様である。その本殿正面の掲額の「八」の字が2羽の鳩の抱き合わせとなっているのは、鳩が軍神の使いとされたからだ。ノアの箱舟伝説以来、西洋では鳩は平和の象徴だが、日本では軍事につながるイメージ。軍記物では、鳩が戦での勝運を呼ぶ縁起ものとされている。鎌倉幕府時代鳩の絵柄を家紋に使う武将も少なくなかったという。
若宮大路に面して、「鳩サブレー」の本店がある。「鶴岡八幡宮を崇敬していた初代は、かねてから八幡様にちなんだお菓子を創りたいと考えていました。本殿の掲額の「八」の字が鳩の抱き合わせで、境内の鳩が子ども達に親しまれていたことから、このお菓子を鳩の形にし「鳩サブレー」と名付けました」というのが、店側の説明。
その菓子の製造は120年前からだとか。戦前、軍国主義華やかなりし時代には、「鳩」はいったい、どんなイメージだったのだろうか。
(2021年11月17日)
2009年5月27日
社団法人日本将棋連盟御中
澤 藤 統 一 郎
お 願 い と ご 質 問
私は将棋愛好家のはしくれです。
余暇に恵まれず対局の機会はほとんど持てないのですが、新聞の将棋欄を楽しみにしています。当然のことながら、将棋愛好家の一人として、貴連盟の発展を祈念して已みません。
しかし、不幸なことに、私は貴連盟の会長である米長邦雄氏には好感が持てません。婉曲な物言いを避けて率直に申し上げれば、虫酸が走るほどに大嫌いなのです。
氏のアナクロニズムで品性に欠けた言動には以前から眉をひそめていましたが、在野から発言する限りでは「言論の自由の行使」であって、「虫酸が走るほど大嫌い」にはなり得ません。ところが、氏は石原慎太郎都知事から、教育に関する見識ではなくその蛮勇を期待されて東京都教育委員に起用されました。行政権力を行使しうる立場となった氏は、教育にも憲法・教育基本法にも無知・無理解のまま、教育現場を混乱させ萎縮させる尖兵として大きな役割を果たしました。「大嫌い」の所以です。
近々米長氏が貴連盟会長の任期を終えるものと心待ちにしておりましたが、本日、あと1期・2年の続投が決まったとの報道に接しました。そこで、やむなく、次のお願いと質問を申し上げます。
私は、貴連盟にアマチュア段位申請の予定です。毎日新聞の紙上段位認定テストに連続10週応募し、200点満点のところ190点を得て、規程のうえでは5段位までの申請資格があるとされています。その段位の免状に、連盟会長としての米長氏の署名を拒否したいのです。
もう、ずいぶん昔のことですが、盛岡に住まいしていたころに、日本将棋連盟岩手支部の推薦で初段位の免状をいただきました。その免状には、大山康晴・中原誠・二上達也という、尊敬に値する3名の棋士のお名前が連署されており、感動したことを覚えております。
しかし、尊敬に値しない米長邦雄氏署名の免状では感動の余地はなく、むしろ、不愉快極まるものと言わざるを得ません。一将棋愛好家の、「米長邦雄氏の免状では、まっぴらご免」の気持を汲んでいただきたいのです。
棋風について好みの棋士や、尊敬する幾人かの棋士を特に選んでお願いという我が儘は申しません。米長氏でさえなければ、棋士のどなたの署名でもありかたく頂戴いたします。
なお、もう一点のお願いがあります。免状における段位允許の日付の表記が平成という元号でされた場合には大きな違和感を禁じ得ません。初代天皇・神式の即位を元年とする「皇紀」という年号表記にも、当代天皇の即位を元年とする「元号」表記にも、どうしても馴染めません。
将棋と天皇制とは何の関連性もなかろうと思います。ぜひとも、国際的に通用する西暦表示で免状をいただきたいのです。
以上の2点についてよろしくお願い申し上げ、承諾のご回答を得て、段位の申請手続きに及びたいと存じます。あらためて申し上げれば、
(1)段位の免状から、米長氏の署名を外していただきたい。
(2)免状の日付の表記を、元号ではなく西暦でお願いしたい。
将棋愛好家として、貴連盟からの快諾のご返事をお待ち申し上げます。
なお、この質問書と貴連盟からのご回答については、何らかの方法で公開させていただきますので、ご承知おきください。
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澤 藤 統一郎 様
平成21年6月2日
社団法人 日本将棋連盟
普及推進部支部免状課
浅 見 章 安 印
前略 初夏の候、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。
日頃は大変お世話になっております。
さて、先日は免状の署名ならび発行日付の表記について、お手紙をいただきました。この2点についてご返事させていただきます。
社団法人日本将棋連盟発行免状は会長,名人,竜王の署名にて発行しています。 現会長の署名を外して免状の発行は,過去にはございませんので大変申し訳けございませんがお受けできません。
支部免状課職員一同,一枚の大高檀紙の丹精をこめて署名された現在の免状に対して誇りを持っています。
澤藤様には色々な感情があると思いますが,澤藤様が毎日紙上にて五段位認定の点数を取得された過程が大事と思われます。
日付の表記は通常は平成ですが,西暦の記入については考慮いたします。
以上,2点の問題についてお知らせいたします。
今回の件におかれましてはご賢察の程,お願い申し上げましてご通知にかえさせていただきます。
草々
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2009年6月4日
社団法人 日本将棋連盟
普及推進本部支部免状課
浅 見 章 安 様
澤 藤 統 一 郎
先に、段位免状の申請に関して下記2点のお願いを申し上げ、諾否の回答を求めた者です。
(1)段位授与の免状から、米長邦雄氏の署名を外していただきたい。
(2)免状の日付の表記を、元号ではなく西暦でお願いしたい。
この不躾なお願いと質問に対して、貴職名でのまことに迅速で丁寧なご回答に接しました。その真摯な対応に敬意と謝意を表します。
将棋愛好者の一人として、会長人事を別とすれば、貴連盟が社会的な良識を堅持されていることを知り、たいへん嬉しく思いました。
第1点のご回答は、「現会長の署名を外した免状の発行はできない」とのこと。私的な団体の取り決めであれば、ご無理を申し上げるわけにはまいりません。
第2点については、「日付の表記は、通常は平成ですが、西暦の記入については考慮いたします」とのこと。この点にっいては、心から感謝申し上げます。
ご回答に接して、米長氏が会長職を辞することを心待ちにし、米長氏の署名のない段位授与免状がいただけるようになった時点で、速やかに段位の申請手続きをして、西暦表記の免状をいただきたいと存じます。その際によろしくお願いします。
なお、私の毎日新聞紙上段位認定テスト応募は1248回から1257回まで、合計190点です。段位甲請手続きが、米長氏退任まで遅延することをご丁解ください。
末筆ながら、(米長氏を除く)貴連盟のますますの発展を祈念申し上げます。
(2021年10月12日)
私は4人兄弟の長男で、下に妹・弟・弟と続いている。その次弟が、この夏突然に亡くなった。本日が2回目の月命日となる。肺がんを患い、小康を得たとの連絡だったが間質性肺炎が進行して死因となった。今年(2021年)の8月12日夕刻のこと。無念でならず、喪失感が大きい。
次弟・明は、その名のとおり、子どもの頃から周囲を明るくする快活な性格だった。京都大学経済学部を卒業後、毎日新聞の記者となり、山口や佐賀や小倉などの支局に勤務した。文章は達者で、自分から「軟派の澤藤と虚名が立っているんだよ」などと言っていた。
労働組合運動にも熱心で、西部本社の委員長も務め、小倉から東京本社までの新幹線往復を重ねた時期もあった。定年を待たずに退職し、その後は福岡県の苅田に住んでいた。
私が、DHC・吉田嘉明から、6000万円請求のスラップをかけられたときは、心配してくれた。私は、弟妹に配慮すべき立場だったが、この時ばかりは配慮される側になった。弟妹の様子を見て、あのとき父母が存命だったら、その心痛はいかばかりであったろうとも思った。
そして、DHCスラップ訴訟の勝訴には喜んでくれた。私の勝訴が確定したあと、明からメッセージが届いた。訴訟の経過をまとめた文集をつくるという連絡への返事のメールに添付されていたもの。このメッセッージは嬉しかった。
◎メッセージ(2017年1月16日)澤藤明(福岡県苅田町在住)
「豊かな髪よ 再び
旦那さん、髪の量が豊かですネ。羨ましい限りですよ」。散髪屋に行くたびに、決まってこう褒められる。
「子供の頃からよく言われましたネ。他に自慢することとてないけれど、髪の量と男振りはね…。こればっかりは、親から授かったもので感謝しているのですよ」。
鏡に映った顔を確かめながら、決まってこう答えることにしている。そして決まって、元被告、兄・統一郎のあまり豊かとはいえない頭髪の顔が浮かんでくる。
兄も若い頃は、フサフサしていた。私の二歳下の弟がよくこんな事を言っていた。
「親戚にハゲは一人もいない。癌で死んだという話も聞かない。俺はハゲにも癌にもならない。兄貴たちも安心していていい」。そんなものなのかと思っていた。
ところが兄は、四十歳を超えたころから頂上の方から薄くなり始めた。母が言った。「なんで統一郎だけが…。明も気を付けなさいよ」
通説では、男性ホルモンの過多が薄毛につながるという。その男性ホルモンは、闘争心が旺盛で、仕事がエネルギッシュなほど豊富に分泌されるらしい。
兄の仕事ぶりについては「季刊・フラタニティ」(ロゴス刊)に現在連載中の「私が関わった裁判闘争」でその一端を知ることができる。また毎日欠かすことなく発信し続けている「憲法日記」からも知ることができる。
これだけ闘争心をもってエネルギッシュに仕事をしていれば、いくら髪の豊富な家系に連なるといえども、その恩恵にあずかることは困難だと誰もが納得できるのではなかろうか。
薄毛が進行し始めた事を嘆いた母も泉下で、むしろ「男の勲章」と思ってくれているような気がする。
その兄が、六十歳代半ばで今度は癌を患った。肺の患部摘出手術が済んだ直後に、いきなり「今千葉の癌センターにいる」と電話してきた時には驚いた。
「うちの家系は、癌とは無縁」のはずではなかったのか。なぜ、酒も煙草も嗜まない兄が癌の病に襲われたのか、少し理不尽で腑に落ちない。しかし術後の経過は順調で既に完治している。
思えば幼いころから「長男として、妹・弟を思いやらねば」というような雰囲気を感じさせる兄であった。
薄毛にも癌にもなってくれて一家の苦難を全て引き受けてくれたのであろう。
DHCからのスラップ訴訟も、誰かが買って出て受けなければならない苦難を統一郎が引き受けた。そして多くの弁護士の支援で勝った。そんな運命的な巡り合わせのような気がする。
今まで経験したことの無い「被告の座」にまで立ったのだから、ある意味では「私が関わった裁判闘争」の中でも出色の勝利といえるのでは。
今後は仕事を出来るだけ減らし、願わくば再びフサフサの髪の毛を取り戻さん事を!」
8月15日、行橋で行われた告別式で私はこのメッセージを読み上げたが、涙が止まらず、最後までは読めなかった。
(2020年11月19日)
一般には、千代田、中央、港を都心3区という。あるいは、新宿を加えて都心4区。不動産業界では、これに渋谷・文京を加えて、都心6区ともいうそうだ。文京区はギリギリ「都心」だが、都心のはずれに位置している。ここは、ギリギリ人が住める場所で、ギリギリ生き物も生活している。
その文京区本郷の私の事務所にネコの額ほどの庭があり、そのネコの額ほどの庭にホンモノの猫がしばらく住み着いた。明らかに野良猫である。毛並みは良くない。目つきは悪い。しかし、片耳に切れ込みのある、いわゆる桜猫。地域猫として不妊手術を受けているシルシ。都会の中で人と関わりつつも、野生の誇りを失わないなかなかの面構え。
この猫の出現が、ちょうど緊急事態宣言の出た4月7日直後のこと。それで、この猫を「コロナ」と名付けた。近所の飲食店の余り物をもらっていたのが、コロナ禍で店が閉まって食い詰め、餌場を探してこの庭まで来たのではないか。
人に対する警戒心が強い。軒下に置いたキャットフードを食べ、ミルクも飲む。時にはじっと食餌を待っているようにもなったが、貪るように食べたり飲んだりはしない。常に、食べ残していた。これは野生ゆえの習性なのだろうか。夜は、段ボールの寝床で寝るようになり、明らかに家の中に入ってみたいという素振りも見せたが、ペットからの感染のおそれが噂されていたとき。直接手を触れることも、家に入れることもしなかった。
少しなついた頃に、「コロナ」ではかわいそうと「ノラ」と呼び名を変え、さらに特に訳もなく「ネコ」となった。ネコとなった頃に緊急事態宣言が解除され、その後ネコは外泊を繰り返して、やがて姿を見せなくなった。まだ、段ボールの寝床は残されているが、ネコは戻らない。今ごろ、どこでどう暮らしているのやら。
ネコがいたのは、プラムの木の下。このプラムが実る夏にはハクビシンがやって来る。ネコは、ハクビシンに追われたのかも知れない。ハクビシンは、徒党を組んで行動する。独身のネコの敵う相手ではないのだ。
3日前の朝、玄関前の道端でアオスジアゲハを拾った。どんな宝石もかなわない、美しいデザインと色。神々しいまでの鱗粉の光彩。季節外れの孵化なのだろう。弱ってはいたが、事務所の中で安穏に過ごしている。
蘭の蜜を吸うのではないか、菊の花はどうだ。図鑑ではキバナコスモスがよいようだ。突然に、無風流な私の仕事場が、「蝶よ、花よ」の環境と化した。
少し元気になったアゲハは、窓ガラスで羽ばたいて、外の世界にあこがれを示す。外は寒い、危険だ、と言い聞かせても聞く耳を持たない。
ネコは家の中に入りたくて入れてもらえず、アゲハは外に出たくて、出してもらえない。人生、なかなかに難しい。
(2020年6月16日)
関東は6月11日に梅雨入り。平年より3日遅れだという。梅雨の晴れ間の早朝には、不忍池をめぐらねばならない。まず目につくのは、咲き誇る盛りの紫陽花。なんとも多種多様、色とりどりが楽しい。
アジサイは、日本の固有種とのこと。語源はいろいろあるようだ。「あづさあい(集真藍)」が転訛したものというのが、万葉かなの表記を根拠にした有力説らしい。ほかにも、「あづ(集まって)咲く」が語源との説も、「厚咲き」が転じたものとの説もあるという。
かつて、「紫(ムラサキ)」とは、「群れて咲く」花のことだと教えられて衝撃を覚えた。どうしてそれまで、気付かなかったのだろう。万葉の昔、関東平野には、「ムラサキ」が群生していたのだ、「ムラサキ」の花は白いが、その根から取れる染料の鮮やかな色を「紫」と名付けたのだ。今は、そのムラサキを目にすることはない。梅雨の季節、紫陽花にこそ「ムラサキ」の名がふさわしい。紫陽花の色をこそ、「紫」と呼ぶべきではないか。
いま、蓮池にはびっしりと蓮の葉が敷き詰められている。蓮の葉群落の、密生・密集・密叢である。蓮の華はまだ咲かない。目を凝らして、昨日(6月15日)一本の茎に小さな固い蕾があるのを見つけた。珍しげに見ていると、…「出たー」。噂の薀蓄おじさんである。「私は、今日は7つのツボミを見つけましたよ」「3日前からツボミが出ていますね」「最初の開花は、あと4?5日でしょう」「昨年よりもずいぶん遅れています」「一昨年は、記録的に早い開花で6月6日でした」と、貴重な情報。親切な薀蓄おじさんに教えられた場所で、15日には合計5個の蕾をメーッケた。そして本日(6月16日)は11個。中には、もうすぐ咲きそうな薄く紅がかった蕾も。
自宅から不忍池に直行するには、赤門から入って鉄門に抜ける、東大キャンパス横断コースが便利なのだが、今このコースがとれない。コロナ自粛以来赤門は、学外者通り抜け禁止となっている。加賀藩上屋敷の時代さながらに通行人は誰何される。遠回りの面倒はこの上ない。生協への買い物にも行けない。いつまで続く、東大自粛。
そういえば、6月15日の山本太郎出馬記者会見の見せ場。記者から、小池百合子の学歴詐称疑惑への感想を聞かれてサラリとかわし、「凄いですねー。カイロ大学の首席卒業だなんて。今度の都知事選立候補は、東大卒が二人(宇都宮と小野)でしょう。私だけが中卒」と笑い飛ばした。さすがに役者である。
私には、「れいわ」も「新選組」も、とても真面目なネーミングとは思えない。しかし、難しい記者の質問を逸らさず真面目に答え、ときには困ってみせる、山本の態度を好もしく思う。宇都宮陣営や野党の批判をせずに、周りの者を陽気に元気づける雰囲気を持っている。
2012年の都知事選。宇都宮陣営のキックオフ集会は、中野ZEROホールで開いた。このとき、山本太郎がゲストとして挨拶している。舞台の上で、彼は持ち前の明るい声で、「宇都宮さん、原発は全部止めなきゃだめですよね。止めましょうね」と語りかけた。そのきっぱりとした物言いが印象的だった。どう返答したらよいのか、さっぱり要領を得ない宇都宮とのコントラストが際立っていた。あれからもう8年に近い。
(2020年6月14日)
山口県田布施町職員の内部告発が話題になっている。正確に言えば、職員の内部告発に対する町当局の報復措置が話題となっている。この職員の告発内容は、固定資産税の過剰課税である。町民の利益のための公益通報者が不当な報復を受けているとの報道なのだ。公益通報者保護法の実効性が問われている。
事案の内容は比較的単純である。2年前、税務課に在籍していた男性職員が、固定資産税の徴収ミスを発見。上司に報告したが公表されなかったため、町役場に内部告発をしたという。ところが、徴収ミスの公表は2年も遅れた。公表のないまま、報復が始まった。その年度に役場側が出した男性職員の業務評価は最低の0点とされたという。それだけではなく、男性職員は2年間で3回の異動となり、今年(2020年)4月以降は、役場の建物から40m離れた公民館の一室に一人だけ隔離されているという。
人はその属する組織の上を伺ってヒラメとなり、忖度怠らず組織の論理に忠誠を尽くしておれば無難に世過ぎができる。今や、ヒラメを出世魚というのだそうだ。しかし、組織の論理を超える、高次の義務を意識すると、途端に面倒なことになる。公益通報者保護の制度とは、このような場合の拠り所を示すものである。
忠誠や忠実という言葉には、手垢にまみれた負のイメージがつきまとう。忠義となればなおさらのイヤーな感じ。かつて忠は身分社会の倫理とされ、その対象は主君であった。「君が君たらずといえども、臣は臣たらざるべからず」とは、何とムチャクチャな。近代日本では、臣民の忠の対象は天皇であり国家とされた。忠君愛国・滅私奉公…、支配者にとってこんな好都合な道徳はない。
この忠の身分的感覚は、象徴天皇制とともに戦後も生き残って、現在も払拭されていない。一人の人に幾層にも重なる社会構造のそれぞれが個人に忠誠を求めている。その主たるものは、従業員や公務員にとっての上司であり、また全国民にとっての国家でもある。忠誠や忠実が支配する側にとって好都合な徳目である事情は相変わらずなのだ。押しつけがましい愛社精神やら、愛国心やらには反吐が出る。
しかし、身分の上下や権力関係を捨象して、人が人に対し互いの人格を尊重し合うことや、人が社会に対して誠実に向かい合うべきことに疑問の余地はない。この普遍的な人の誠実義務が、組織の求める
森友案件での文書改ざんを命じられて自責の念から自死に至った赤木俊夫さんは「ぼくの契約相手は国民です」を口癖にしていたという。国民のために誠実であろうとする生来の心情と、所属する組織が要求する忠誠との板挟みとなって、国民への誠実を貫けなかったことの悔恨が死をも招いたのだ。
この社会の幾重もの組織の中で生きていかねばならない人は、組織の求める忠誠と普遍的な誠実さとの間での矛盾に晒され続けている。公益通報者保護は、このような矛盾の解決手段である。内部告発者を擁護することは、個人の誠実さを尊重することであり、個人の尊厳を護ることでもある。そして、さらに社会的な公益をも擁護することになるのだ。
当該職員だけの問題ではない。田布施町だけの問題でもない。日本社会全体の問題として、経過を明らかにし問題点を明確にしたうえ、然るべき救済措置と責任者への相当処分、さらに再発防止措置とその公報が行われねばならない。