亡父の誕生日が1914(大正3)年1月1日。五黄の寅の元日の生まれは、易では運気が強いとされるようだ。が、父は特に名をなすこともなく、市井に生き市井に埋もれた。2度招集され、極寒のソ満国境で関東軍の下士官として越冬している。その間母は心細くも銃後を守った。父母ともに、まともに戦争と向かいあった「割を食った世代」だった。それでも、父が一度の戦闘に参加することもなく敗戦を内地で迎えることができたのは、もって生まれた運気のお蔭だったのかも知れない。加えて、戦後は3男1女を一人も欠けることなく育てる平穏に恵まれている。これ以上望むべきことがあろうか。人生の後半は平和の恩恵を噛みしめた世代でもあった。
その父が生きていれば、今年の正月で満100歳。その生年の100年前とは、はるかに遠い昔のような、案外にそれほどでもないような。その100年前の世界の国際情勢が、今話題となっている。波紋を呼んだ、安倍晋三のダボスでの記者会見によってである。
巧みに書かれているので、本日の「毎日」の福本容子論説委員の記事の一節を引用する。
「世界経済フォーラムのためスイスのダボスに集まった各国の有力な経済人や政治家やメディアは、安倍さんの発言に安心の材料を見つけたかったのだと思う。だから怖くなった。『あるわけないでしょ』が当然返ってくると思いイギリスの記者が聞いた『日中の武力衝突は考えられますか』に、即全面否定がなく、世界大戦に発展した100年前のイギリスとドイツの関係を自分で話題にしたのだから。いくら同じ失敗はしない、が真意だったとしても、米ウォールストリート・ジャーナル紙は、『世界経済を動かす人たちが、全面戦争を本物のリスクとして語りだしたこと自体、心配な動き』と書いた。」
亡父が極東の島国で生を受けた100年前。ヨーロッパでは、国際経済交流の活発化と相互依存の経済関係が意識されるようになり、もう戦争は起こらないのではとさえ囁かれていたのだという。にもかかわらず、偶発的な事件の連鎖がヨーロッパを二分する大戦争になり、やがてはアメリカをも巻き込んだ。日英同盟を締結していた日本も参戦して、「日独戦争」を戦っている。
ダボスで安倍晋三の口から語られたことは、その二の舞はあり得ないという否定としてではなく、第1次大戦と同様、日中の戦争はあり得るというメッセージと受けとめられた、というのだ。
おなじ福本容子論説委員の記事に次の一節がある。
「『ものの1時間で、経済と政治の方程式は、アベノミクスからアベゲドンのリスクに変わった』。安倍晋三首相の靖国神社参拝後、香港の英字紙、サウスチャイナ・モーニング・ポストに載った論評だ。」
「アベゲドン」(あるいはアベマゲドン)という造語は、アベノミクスの行きつく先に予想される経済の破局を意味するものだった。名付け親は、世界的な投資銀行として知られるUBS銀行の最高投資責任者アレックス・フリードマンという人物だと聞く。投資家ならずとも、アベノミクスの破局的終焉は多くの人が危惧するところ。ところが、同じ言葉が、経済のみならず、政治的な破局、あるいは平和の終焉をも意味する用語として使われ始めている。
福本が引用する香港紙に語られているのは、経済ではなく「政治の方程式」、あるいは「戦争と平和の方程式」である。安倍の靖国神社参拝は、政治的な破局としてのアベゲドンにつながるリスクをもった行動として論評されている。
第二次大戦後の国際秩序の基本構造は、ファシズムの枢軸側と反ファシズムの連合国との争いに、反ファシズム勢力の勝利をもって決着したところから出発している。ナチスはニュールンベルグで、天皇制日本は東京裁判で、その平和に対する罪を裁かれた。その結論を承認することが、敗戦国の国際社会への復帰の通過儀礼となった。そのようにして、日本は国際社会に復帰し国連にも加盟した。
靖国史観は、この戦後世界の国際秩序を認めない。アジア太平洋戦争が侵略戦争であったことを否定し、植民地支配への反省もない。東京裁判を勝者の裁きとして、その正当性を認めようとしない。安倍が参拝したのは、そのような軍国神社なのである。これまでの安倍の言動と相俟って、この靖国参拝は、戦後の国際秩序の基本構造への挑戦であり、新たな戦争準備であると各国に映っているのだ。それが、政治的意味でのアベゲドンのリスクと認識されている。
父の生きている間に、世界は2度の大戦と無数の小戦争を経験した。人類の進歩を信じたい。100年前に戻って、再びの戦争の歴史を繰り返したくはない。アベゲドンはまっぴらだ。安倍のような危険人物にこの国の運命を委ねていてはならない。人がこの世に生を受けて、その貴重な人生を戦争に蹂躙されることがないよう、揺るがぬ平和を築くために微力を積み重ねたい。
(2014年1月31日)
本日の東京新聞に、「NHK、脱原発論に難色 『都知事選中はやめて』」と見出しを付けた下記の記事がある。
「NHKラジオ第一放送で30日朝に放送する番組で、中北徹東洋大教授(62)が『経済学の視点からリスクをゼロにできるのは原発を止めること』などとコメントする予定だったことにNHK側が難色を示し、中北教授が出演を拒否したことが29日、分かった。NHK側は中北教授に『東京都知事選の最中は、原発問題はやめてほしい』と求めたという。」
「中北教授の予定原稿はNHK側に29日午後に提出。原稿では『安全確保の対策や保険の費用など、原発再稼働コストの世界的上昇や損害が巨額になること、事前に積み上げるべき廃炉費用が、電力会社の貸借対照表に計上されていないこと』を指摘。『廃炉費用が将来の国民が負担する、見えない大きな費用になる可能性がある』として、『即時脱原発か穏やかに原発依存を減らしていくのか』との費用の選択になると総括している。」
「中北教授によると、NHKの担当ディレクターは『絶対にやめてほしい』と言い、中北教授は『趣旨を変えることはできない』などと拒否したという。」
「中北教授は『特定の立場に立っていない内容だ。NHKの対応が誠実でなく、問題意識が感じられない』として、約二十年間出演してきた『ビジネス展望』をこの日から降板することを明らかにした。」
東京新聞は、「公平公正 裏切る行為」と題する解説を書いている。
「NHKが、再稼働を進める安倍晋三政権の意向をくんで放送内容を変えようとした可能性は否定できない。」「選挙期間中であっても、報道の自由は保障されている。」「NHK側が問題視した中北教授の原稿は、都知事選で特定の候補者を支援する内容でもないし、特定の立場を擁護してもいない。」「原発再稼働を強く打ち出している安倍政権の意向を忖度し、中北教授のコメントは不適切だと判断したとも推測できる。」としたうえ、「原発政策の是非にかかわらず受信料を払って、政府広報ではない公平公正な報道や番組を期待している国民・視聴者の信頼を裏切る行為と言えるのではないか」と結んでいる。常識で考えれば、この解説のとおりだ。
オリンピックは、都知事選の焦点のひとつのテーマだ。「最高のオリンピックを成功させよう」という政権に近い候補者もいれば、「オリンピックは中止」「東京五輪返上」という候補者もいる。「オリンピックに金をかけるのは止めよう」という公約もある。NHKが都知事選の公平に配慮して、オリンピックの話題に関しては放送を遠慮しているとは聞かない。明らかに、原発問題だから、政権側の候補者に不利になるから、発言を規制しているのだ。新会長のもとでの、「忖度効果」が早くも現実化していると指摘せざるを得ない。
会長も会長なら、ディレクターもディレクター。現場で真摯な努力を積み上げている人もいるのだろうが、「原発再稼働を強く打ち出している安倍政権の意向を忖度し」て、出演依頼者のコメント内容に介入しているのがNHKの実態なのだ。
多くの視聴者が、「受信料を払って、政府広報ではない公平公正な報道や番組を期待しているのに、信頼を裏切られた」と思うに違いない。信頼を裏切られたと思う人のうちの一定数が、受信料を支払いたくないと考えることは自然の成り行きで、支払い率の低下は免れない。安倍政権が任命した籾井新会長と、新しいアベトモの経営委員、そして『ビジネス展望』担当デイレクターの功績である。
現在の所帯数あたりの受信料支払率は、最高が秋田県の94.6%,最低は沖縄県の42.0%と幅が広い。全国平均は72.5%。この数値の低下が、国民のNHK批判のメルクマールとなる。
放送法第32条1項(受信契約及び受信料)は、不思議な規定だ。噛み砕いて表現すると次のとおり。
「NHKの放送を受信することのできるテレビを設置した者は、NHKと放送の受信についての契約をしなければならない」
NHKチャンネルのないテレビを売り出せば、えらく売れるだろうと思うのだが、今、巷にそのような商品はない。新品でも中古でも、テレビを備え付けると、「オレは、NHKの番組は嫌いだ。絶対に見ていない」と言っても通らない。「受信契約の締結」を強制されることになっている。契約自由が大原則なのに、どうして、契約の締結が強制できるのか、よくは分からないが、契約の締結と受信料支払いが強制されることになっている。しかし、それはNHKが、放送法に則ったまともな組織であって、まともな放送業務を行っている限りでのことではないか。
「NHKの親安倍政権的偏向は、放送法が予定する『不偏不党』、『公正中立』の姿勢から著しく逸脱している。だから、受信料を支払わない」という、視聴者側の理屈が通らねばおかしい。NHKは自らは放送法の精神を投げ捨て、法が要求する政権から独立した放送をなすべき義務を怠っておきながら、一方的に視聴者からは受信料徴収を強制できるとすることには納得しがたい。受信料を原資とする籾井会長の年間報酬額が3000万円を越すと聞けば、なおさらのことである。
憲法の次元でものを考えてみたい。視聴者の一人が、籾井会長が就任記者会見で発言した、政権との一体性や歴史認識の反憲法性に深く憤って、「NHKの現状は自分の思想に照らして到底容認できない」との動機から、受信料の支払いを拒絶できるか、という問題設定が成立する。
自分の金が、自分の意に反して、自分の思想において容認し得ない組織に強制的に徴収されることはない。たとえば、最高裁は南九州税理士会臨時会費強制徴収事件判決(1996年3月19日)において、この問題を憲法19条から考察して、次のとおりに述べている。事案は、政治団体への寄付に充てるための税理士会の臨時会費徴収が許されるか、という問題である。
「税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。
法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。
特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。
そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。
以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として5000円を徴収する旨の決議であり、税理士会の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。」
これは、NHKの受信料強制徴収を否定する法理として、次のとおり応用可能である。
「NHK受信契約が、すべてのテレビ設置者に強制されており、テレビ設置者には実質的に契約からの脱退の自由が保障されていないことからすると、受信契約における受信料支払い強制の可否を判断するに当たっては、視聴者である国民の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。
視聴者は、NHKとの間に、放送法と所定の約款にしたがった受信契約の締結を強制される結果、受信料支払いの義務を負う。しかし、法がすべての視聴者を契約強制の対象としている以上、視聴者には様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、NHKが契約と約款に基づいてする活動の在り方にも、そのために視聴者に要請される支払い義務にも、おのずから限界がある。
特に、NHKが、双務契約の履行として歴史観や政治観に関わるテーマに関して番組を作成する基本姿勢において公平・中立、不偏不党であること、並びに会長や経営委員等の人的構成において政権への独立性に疑問を抱かしめるようなことがあってはならない。NHKが放送法の精神を十分に体現しているものとして、その信頼の下に受信料を支払えるに足りるものと判断するか否かは、政治参加の自由と表裏を成すものとして、視聴者各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、NHKの在り方は、戦前の大本営発表に象徴される戦争協力の苦い歴史に対する痛苦の反省から、放送法が規定したもので、法からの逸脱は厳に戒められなければならない。
したがって、NHKが厳格に放送法に準拠した放送業務を実行することこそ、法の予定するところであって、内閣総理大臣の私的な友人や、歴史観を同じくする者を充てる偏頗な人事や、政権与党の選挙に有利になるような番組の編成によって、その権力からの独立性に世人からの疑義を生ぜしめることなどは、法の全く予定していないところである。NHKが、そのような法に背馳する現状を放置しながら、視聴者に対して受信料の請求をすることは、たとい外形的に契約が成立しているとしても、憲法19条の理念に鑑み信義則に反する行為といわざるを得ない。
以上の判断に照らして本件をみると、NHKから各視聴者に対する請求は棄却すべきものと解するほかはない。」
現実に訴訟になった場合に、司法の現状に鑑みて政権寄りの判決になる可能性の高いことは否定し得ないにせよ、上記の法理は基本的に成立しうる。
なお、土屋英雄筑波大学大学院教授に「NHK受信料は拒否できるのかー受信料制度の憲法問題」(2008年明石書店)の著作がある。是非参照されたい。
(2014年1月30日)
「営」の旧字は營。その冠はかがり火の象形なのだそうだ。篝火を焚いた軍隊の所在地を指す。兵営、陣営、野営、入営、営倉などの熟語に本来の意味が表れている。総司令官が所在する営が「本営」。これに大を付けた大仰な造語が「大本営」。大元帥である天皇が所在する陣営、くらいの意味であったろう。
平凡社の世界大百科事典によると、大本営とは「戦時または事変において天皇の隷下に設置された第2次大戦前の最高統帥機関。最初に法令化されたのは1893年5月の〈戦時大本営条例〉で,1年後の日清戦争時に初めて設置された」という。
太平洋戦争開始以来戦況に関する情報は一元的に管理され、「大本営発表」としてNHKから放送された。それ以外の情報は流言飛語とされて、厳重な取り締まりの対象となった。
第1回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時の対米英開戦を告げるもの。同7時に、NHKラジオによって以下のとおり報道された。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
この日、NHKは「ラジオのスイッチを切らないでください」と国民に呼び掛け、9回の定時ニュースと11回の臨時ニュースを大戦果の報で埋めつくした。そのほかに、「宣戦の詔書」や、東条首相の「大詔を拝し奉りて」などが放送された。こうして「東条内閣と軍部はマスコミ(NHK)を最大限に利用し、巧みな演出によって国民の熱狂的な戦争支持熱をあおり立てた」(木坂順一郎「太平洋戦争」)。
その後、NHKの大本営発表は846回行われたという。発表の形式はアナウンサーが読み上げるものと、陸海軍の報道部長が読み上げるものとの2種類があった。いずれにせよ、戦争遂行にNHKはなくてはならぬものとなり、NHKと大本営発表との親密な関係は、戦時下の日本国民の意識に深く刻みこまれた。
大本営発表は、今は「インチキ情報」の代名詞。主権者としての国民に対する真実の情報提供ではない。戦争遂行に国民を鼓舞する目的のプロパガンダであった。情報を握る地位にある者は、そのすべてをそのまま伝達すべき時に、他の方法をとりうる。握りつぶす、改変する、誇張する、取捨選択して一部だけを出す。自分に都合のよいように操作が可能なのだ。権力を持つ者に情報が集中し、集中した情報を操作することによって権力は維持され強化される。
特定秘密保護法反対運動の中で再確認したとおりである。権力が、情報操作を行うことによるプロパガンダを行ってはならない。権力に不都合な情報を、刑罰をもって秘匿するようなことがあってはならない。国民は、正確な情報を知る権利がある。
民主的な運動が、権力の大本営発表的プロパガンダを指弾し、再びこのようなことがあってはならないとするのは、主権者たる国民を対象とした情報操作が民主主義の拠って立つ土台を揺るがすからである。戦前のNHKも、その積極的共犯者として指弾されざるを得ない。
戦前のNHKは、形式は国営放送ではなく社団法人日本放送協会ではあったが、国策遂行の役割を担った事実上の国営放送局であった。大本営発表に象徴される戦争加担の責任は免れない。その反省から、1950年成立の放送法は、NHKを国策追従から独立した公共放送と位置づけた。
敗戦を挟んで、戦前と戦後との比較において、権力の集中から分立へという視点が重要だ。富国強兵がスローガンだった時代、あらゆる局面での権力の集中が国策に合致するものであった。戦後は、議会も行政も司法も天皇大権から独立した存在となった。教育も国家の統制を排する建前の制度となった。放送もそうだ。公共放送は、国営放送でない。国家との一体性を否定し、国家からの統制に服することなく、戦前大本営発表の垂れ流し機関であった愚を繰り返してはならないとするのが、放送法の精神である。
1月25日の籾井勝人新会長の就任記者会見における「政府が右というときに、左というわけにはいかない」という発言は、NHKの戦前戦後の歴史や教訓に学ばず、再びの大本営発表の時代を招きかねない危険を露呈したものである。今後は口を慎めばよいという類の問題ではない。籾井氏が、およそNHKの会長職にふさわしからぬ人物と判明した以上は、辞職していただく以外にはない。この重責は、それにふさわしい人格が担うべきなのだから。
(2014年1月29日)
ボク、新米の国営放送協会の会長。今まであまり知られていなかったけど、三井物産から、日本ユニシス、そしてとうとうNHKの会長になっちゃった。嬉しくってしょうがない。隠そう隠そうとはしたんだけども、就任記者会見でついつい地金を出しちゃった。失敗しちゃったとは思うけど、ボクは思いっきり政権におもねってみせたんだ。だから、まさか政権がボクを見殺しにすることはないはず…だよね。
安倍政権が、ボクを国営放送の会長にしてくれたんじゃないか。だから、ボクが安倍政権を擁護して、政権の意向を忖度した放送内容の実現に邁進してお返しする。これが美しい人の道というものだろう。信義といっても仁義といってもよい。ボクは九州男児だ。筑豊の出なんだから、義理人情には厚い。だから、精いっぱい政権に感謝の気持ちでおもねってみせたんだ。だからって、ボクを切るとしたら、そりゃ人としての道にはずれるってもんだ。幸い、安倍さんも、官房長官も、人情の分かる人のようで胸をなでおろしている。閣僚や連立与党の中には、物わかりの悪い連中もいるようだけどね。
えっ、NHKは、国営放送ではありません? そんな、揚げ足を取るようなことを言うなってこと。公共放送であろうと国営放送であろうと、実際たいした違いはないじゃないか。どちらにしたって、「政府が右ということを、左というわけにはいかない」だろう。
ボクだって、まったくものを考えない訳じゃない。就任記者会見は、「放送法遵守」の一本でやり過ごすつもりだったんだ。これなら無難で文句の付けようがないだろう。だから、やたらにこの言葉を繰り返した。だけど、「放送法遵守」の具体的な中身を聞かれると、ついついホンネが出ちゃう。それはしょうがない。もちろん、ボクが考えている「放送法遵守」っていうのは、安倍政権が私に期待しているとおりに、NHK内部のタガを締め直すことなんだから。
「タガを締める」じゃ古くさいから、「ボルトとナットを締め直す」と言ってみたんだ。そしたら、生意気などこかの記者が、「会長から見て、どこがゆるんで、どこを締めなければならないとお考えですか」と聞いてきた。あすこから調子が狂ったね。今どき、政府や国営放送の会長にたてつくような記者がいるとは思わなかったものね。まさかNHKの記者じゃなかろうが、ここは確認をして、もしそうなら特別にきっちりと「締め上げて」おかなきゃならない。人事権は我が手にあるのだから。
ボクは、会見前に「放送法」ってものに一応は目を通してみた。その第1条3項には、本法の目的を「放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」と書いてある。だから、タチの悪い記者が、「安倍政権の思惑に沿うことを重視するのか、それとも健全な民主主義の発達に資することに重きをおくのか」などという意地悪な質問をするんだ。法律を盾にとっていやな奴だ。ボクのホンネが「安倍政権の思惑に沿うことを重視する」って知っているくせに。もう少しで、ホンネのとおりを口にするところだった。危ない。危ない。
それから、放送法の第4条は「放送事業者は、…放送番組の編集に当たつては、政治的に公平であること」と定めている。ボクが言いたいのはこのことだ。NHKは、政治的に中立で不偏不党でなくてはならない。いささかも偏向していてはいけないのだ。そう言って、文句のつけようはなかろう。だから、NHKスペシャルでも、クローズアップ現代でも特定秘密保護法について取りあげることはしていない。これが正しい在り方だ。うっかり取りあげたら、安倍政権批判になっちゃうものね。安倍政権批判は、偏向報道に決まっている。また、取りあげたところで、賛否両論あるのだから混乱するだけじゃないか。
ところが、秘密保護法をもっと取りあげて報道・論評すべきではないかと質問した記者がいたな。あいつは、明らかに偏向している。政治的に中立で、不偏不党というのは、時の政権の意向を尊重することに決まっているじゃないか。民主主義の世の中だ。民意が政権をつくっているんだ。安倍自民からみて、もっと右もあり、もっと左もある。政権にあるものこそが中正なんだ。だから政権の意向に沿うことがNHKの役目ではないか。安倍政権から委託を受けたボクにとっては、安倍政権へのご奉公こそが大切。それこそが、政治的に中立で不偏不党ということなのさ。
僕があまりうまくないのはね、若干その、自分の考えまで言っちゃうもんだから話がコンフューズしちゃうんだ。整理して言えば、国営放送会長としては、歴史認識や従軍慰安婦問題については、村山談話や河野談話の線でNHK内部をまとめなければならないのが本来だろう。こちらが政府の公式見解なんだものね。でも、ボクは安倍政権から委託されたんだから、政府公式見解ではなく、安倍政権の歴史観にしたがって頑張らなければならない。それこそがボクの役割なんだ。
国家や政権の側に顔を向けるのではなく、国民や視聴者の側を向けって言われるが、ボクには理解できない。国家と国民は別物かね。国民なんててんでんばらばらじゃないか。そちらを向けって言われても、どこを見たらよいのやら。ばらばらの国民を束ねているのが、政権であり国家なんだろう。だから、国家を代表する人の言うことを聞いておけば間違いがないのさ。
それにだ。「会長としての職はさておいてって」って、記者会見で言ったろう。私にも、個人としての表現の自由はあるはずじゃないか。なぜ、従軍慰安婦や靖国について、あの程度のことを喋ってこんなに叩かれなけりゃならないのかね。
えっ、表現の自由の問題ではないって? ボクの、NHK会長としての資質の問題だって? でもね。国営放送協会の会長は、時の政府の信任があって初めて務まるんだから、ボクが適任だと思うよ。「ボクが政府に近いと思われるのは、それはまあみなさんのご自由」でございますし、安倍さんも、「ぼくを右翼の軍国主義者と呼びたければそう呼べ」と言っているでしょう。要するに、似た者どおしで気が合い、コンビを組むにぴったりなんだ。
えっ? それがいけない? ジャーナリズムの本領は、権力からの独立にあるって? そんな考え方からすれば、ボクは会長として不適格だよ。素直にそれは認める。
だけどね、NHKってジャーナリズムなの? 国営放送に権力からの独立なんてあり得るの? それに、今ごろ「権力からの独立」なんて偏った考え方ははやらないとおもうよ。絶対に…。
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チューリップ・バブル(チューリップ狂時代)
チューリップ150球を植えたことについて、スペースと必要経費についてつけ加えます。チューリップは品種改良が早くからすすんで、八重咲きや花弁の縁がギザギザに裂けたパロット系など、形や色も多岐にわたり、2,000種の園芸種があるといわれています。珍しい新種は高価だけれど、12月になってホームセンターなどでバーゲン品を求めれば、一球20円ぐらいで入手できます。そんな球根でも、じゅうぶん立派な花が咲き、お散歩途中の保育園児が立ち止まって、「咲いた咲いたチューリップの花が」と可愛らしい唄を歌ってくれます。スペースは、150球植えても、せいぜい一坪でしょうか。間をあけず植えつけた方が、咲いたときの見栄えがいいものです。プランターや鉢植えを並べてもすてきです。
チューリップといえば17世紀のオランダでおきた、世界最初のバブル・投機で有名です。チューリップは16世紀にトルコからヨーロッパに異国情緒溢れる花として伝えられました。特にオランダの気候が栽培に適しており、希少価値もあって人気が出ました。当時ヨーロッパの混乱のなかで、スペインから独立したオランダのアムステルダムには商取引が集中して、金持ちも貧乏人も一攫千金を夢見ていました。
そんな時、突然変異で、美しい斑入りの花が咲きました。後の20世紀になって、ウィルスによるモザイク病が原因だと解りました。しかしそんなこととは知らない、当時の人々はその球根を手に入れようと、狂ったように投機に走りました。金持ちだけでなく、貧しい者も参加して、先物取引が盛んに行われました。その球根一つと邸宅一軒が交換される始末でした。
ところが1637年2月3日、3年あまり続いたバブルは突然はじけてしまいました。球根の買い手がパタリといなくなったのです。チューリップ狂時代の終わりです。
そんな植物バブルは日本にも繰り返し起こっています。日本では、花ではなく、葉の形や色の変異に興味が集中したようです。斑入りであるとか葉の縁にフリルがついているとか、そうした渋めの点が競われたようです。特にオモト(万年青)は一芽百両で取引され、天保の改革の引き金になったといわれています。明治の初めには一鉢千円、今の値段にすれば一億円の記録もあるそうです。
そうした流れとは別に、キク、アサガオ、サクラソウなどは「連」ができて、優雅な花合わせ(品評会)の伝統もあります。本草書、図譜、番付などが盛んに出版されました。
こうした植物愛も高ずると、心穏やかにとはいかなくなるようです。先日、ロンドンのキューガーデンから世界最小のスイレンの株が盗まれたと伝えられています。葉も花も直径わずか一センチ、絶滅危惧の希少種のようです。もともとが英帝国のプラントハンター(地球規模植物窃盗団)により成り立っているキューガーデンでも、自分が盗まれるのは悔しいのかと思われます。盗んだ者は責任をもって、たくさん増やしてキューガーデンに返すべきだとは思いますが。
日本でも、藤原定家の花盗人が有名です。紫宸殿の前の八重桜の一枝をつぎ木にしようと切りとって、袍に隠して持ち帰ったと「古今著聞集」に記されています。土御門帝に知られて、「暮ると明くと 君に仕うる 九重の 八重さく花の 陰をしぞ思う」(朝に晩にお仕えする宮中の八重桜の見事な花陰をしのんでいます)と詠んで、お詫びしたそうです。(小川和佑「桜と日本人」)
もうすぐ、永遠に巡り来る花の季節をむかえます。心を放って、憂きを忘れて春を楽しみましょう。
石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも (志貴皇子)
梅の花今盛りなり百鳥(ももどり)の声の恋しき春来るらし (田氏肥人)
(2014年1月28日)
特定秘密保護法の問題点は無数にある。そのひとつとして、同法違反の刑事被告事件において被告人の防御権を保障できるのかという難問がある。185臨時国会では、政府はこの問題にフタして強引に押し切ったが、本日の「毎日」が、「秘密のまま裁判、困難」「法案検討時 警察庁など懸念」と、同紙が情報公開請求で入手した資料をもとに、改めてこの問題を提示している。今通常国会では、同法の廃止法案が論戦の舞台に上る。毎日の姿勢を大いに評価したい。
周知のとおり、特定秘密保護法の原型を形つくったのは、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」である。同会議のメンバーは以下のとおり。ことあるごとに記して記憶を新たにしておかねばならない。
縣公一郎(早稲田大学)
櫻井敬子(学習院大学)
長谷部恭男(東京大学)
藤原静雄(中央大学)
安富潔(慶應大学)
同会議は、2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。
その報告書の23?24ページに、「第7 立法府及び司法府」という節がある。国会議員や裁判官に、「特別秘密」(これが法制定時には「特定秘密」となる)の守秘義務をどう課するべきか、罰則の適用をどうするかが、以下のとおり検討されている。
「立法府及び司法府がそれぞれの業務上の必要性から特別秘密の伝達を受け、国会議員や裁判官等がそれを知得することが想定し得るため、然るべき保全措置が取られることが本来適当である」
この業界語を日本語に翻訳すれば、以下の如くである。
「国会議員や裁判官には、特定秘密を触らせたくはない。だから、できるだけ議員や裁判官には特定秘密を明かすことなく仕事をしてもらう。しかし、国会や裁判所の業務の必要から、やむなく特別秘密を明かさねばならないこともあるだろう。そのときのために、国会議員や裁判官にも罰則を設けてそれ以上は秘密が漏れないようにしなければならない」
これを前提として、
「司法府については、裁判官には罰則を伴う守秘義務が設けられていない一方、弾劾裁判及び分限裁判の手続が設けられている。特別秘密に係る裁判官の守秘義務の在り方を検討するためには、上記のことも踏まえ、司法府における秘密保全の在り方全般と特別秘密の保全の在り方との関係を整理する必要があると考えられる。しかし、このような検討は、行政府とは独立の地位を有する司法府の在り方に多大な影響を及ぼし得るため、司法制度全体への影響を踏まえて別途検討されることが適当と考えられる。」
ここには、秘密の保護に性急なあまり、司法本来の役割への配慮を見ることができない。裁判官は、うっかり特定秘密に触れると、その漏えいが厳罰の対象となってしまう。それなら、公判で特定秘密を明らかにするような訴訟指揮は、できるだけしたくはないということになるだろう。その結果、国民は、特定秘密保護法違反に関しては、被疑事実をヒ・ミ・ツとされたまま、逮捕され、捜索差押えされ、勾留され、そして刑事公判においてもヒミツを明らかにされないまま有罪判決を受ける虞を払拭できないこととなる。
極論すれば、「被告人を懲役10年に処する。その理由はヒミツ」という判決が危惧されるのだ。このようなことがあってはならないとして、憲法37条は「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」とされ、さらに82条1項は「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」、同条2項は「裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない」としている。公開とは、当然のこととして実質的な意味での公開であるのだから、傍聴者やメディアを含めた誰にも、被告人がどのような罪で訴追されているかが分からなければならない。公訴事実秘密のままで国民の基本権に関わる裁判をすることは許されないのだ。
このことは、特定秘密保護法の法案提出以前から問題点として意識されていた。
日本弁護士連合会2013年(平成25年)9月12日「『特定秘密の保護に関する法律案の概要』に対する意見書」では、次のように指摘されている(22ページ)。
「国家秘密を秘匿したままの裁判では,被告人がどのような事実で処罰されるのか分からない状態で裁判を受けることとなり,実質的な防御権・弁護権を奪われるおそれがある。弁護人は,弁護活動のため秘匿された国家秘密にできるだけ接近しようとするであろうが,関係者への事情聴取等の調査活動,資料の収集活動も教唆,共謀等に問われるのだとすれば,弁護活動も著しく制約されることになる。これは弁護人選任権,公正な裁判の否定である。
基本的人権侵害の最後の救済が裁判を受ける権利であるが,これはあくまで事後的救済であり,犯罪として捜査,起訴されただけでも回復不可能な重大な人権侵害となる。その上さらに,特定秘密の保護に関する法律に違反した犯罪では,裁判を受ける権利が否定されかねず,事後的救済すら不十分なものとなる」
この点について、国会審議では、森雅子担当大臣は、くり返し「外形立証」で足りることを口にした。たとえば、次のように。
「森雅子国務大臣 先ほどから申し上げている通りですね、刑事訴訟法上のですね、秘密の立証というのは外形立証で足りるとされております。例えばですね、その秘密文書のですね、立案、作成過程、秘密指定を相当とする具体的理由等々を明らかにすることにより、実質秘性を立証する方法が取られております。」
こんな答弁で納得できようはずもない。被告人の権利はどうなる。弁護権はどうなる。裁判の公開の原則はどうなってしまうのか。この人にかかると、すべてのことがあまりに軽くなってしまう。憲法上の重大な原則を、こんなに軽んじられてはたまらない。
今日の「毎日」の調査報道は、警察庁が開示した文書によるもの。「法案検討時に、警察庁や法務省が、特定秘密保護法違反の刑事裁判について、『秘密の内容を明らかにせずに有罪を立証をすることは困難』と指摘していたことが分かった」という趣旨。「憲法が定める裁判公開原則との整合性についても結論が先送りされており、同法が司法制度との間に矛盾を抱えたまま成立した実態が浮かび上がった」としている。
興味深いのは、「法務省刑事局が『弁護人の争い方や裁判所の考え方次第では、外形立証では対応しきれず、特別秘密(現特定秘密)の内容が法廷で明らかになる可能性がある』などとする意見書を、法案を作成した内閣情報調査室(内調)に提出していた」というのだ。
「内調の橋場健参事官は取材に「従来も外形立証は行われており、特定秘密の漏えいも外形立証で証明可能と考えている」と説明。また、法務省刑事局は外形立証への見解に関し「警察庁の文書について回答する立場にない」、警察庁警備企画課は「公判手続きに関わる事柄なので答える立場にない」と回答した」とのこと。
まだ特定秘密保護法施行前の今だから、情報公開請求でこれだけの事実が浮かびあがってくる。記者の取材も可能だ。特定秘密保護法施行後には、こんなことも「特定秘密」に指定されることにならないだろうか。
いずれにしても、この日下部聡記者の署名記事。よく切り込んでいるではないか。記者冥利に尽きる記事と言えよう。
(2014年1月27日)
2013年12月26日の安倍靖国参拝については、12月26日と27日のブログで意見を述べておいた。
https://article9.jp/wordpress/?p=1776(26日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1783(27日)
この安倍参拝の違憲性を、集団訴訟で明確にしようという動きが各地であるようだ。その一つの動きとして、私の許にも下記の文書が回ってきている。「転送歓迎」となっているので、発信者の役に立ちたいと思う気持ちから、全文を転載する。
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安倍内閣の危険な体質を危惧されているすべての皆様へ
安倍靖国参拝違憲訴訟の原告になりませんか
(仮称)安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京
2013年12月26日、安倍晋三首相は靖国神社を参拝しました。
礼装し、公用車で靖国神社に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳し、正式に昇殿参拝しました。これは公式参拝であり、日本国憲法20条(政教分離)に明らかに違反をしております。私たちは具体的な形で安倍首相に批判の声を届けなければなりません。安倍靖国参拝違憲訴訟を起こしたいと思います。
この訴訟は違憲確認、将来にわたる公式参拝差し止めを求める裁判ですが、「政教分離」だけでなく、平和的生存権はもちろん、「秘密保護法」成立の強行、「集団的自衛権」「武器輸出」推進、その他社会全般に及ぼうとしている安倍内閣の危険な政治を総合的に問う訴訟にしたいという考えも出ております。
私たちは、この訴訟提起が、市民が法的な面から直接に安倍内閣に異議申し立てができる数少ない道の一つではないかと考えております。
この訴訟に多くの方が加わってくださること(原告、支援の会)が訴訟を強力にする道と思い、呼びかけを送ります。訴訟は4月21日(靖国神社春季例大祭の日)に提訴することを予定しています。
訴訟の内容(会の代表、原告代表、事務局、費用など)は、現在協議中ですが、この訴訟に加わりたい方、関心のある方、下のmailアドレス・FAXにて連絡ください。今までの資料や原告募集等の書類などお送りいたします。もちろん訴訟関係の事務局会議に参加くださることも歓迎します。
安倍首相は「平和を祈って参拝した」などと述べています。今回、安倍首相は、靖国神社の中にある「鎮霊社」にも参拝しました。鎮霊社は、1853年(ペリー来航)以降の全世界の戦争の死者のうち、靖国神社に合祀されていない人々を「慰霊するための施設」としてつくられたものです。そこは、ヒトラーもアウシュビッツの死者も、靖国神社に合祀されていない空襲や原爆の死者も、等しく「慰霊」する場所なのです。もし靖国神社に合祀されていない故人があなたの親族にいれば、ヒトラーと等しく勝手に「慰霊」されています。
この会は東京で立ち上げましたが、東京や首都圏だけの方でなく、全国どこからでも原告になれます。外国籍の方も原告になれます。
<呼びかけ人>(アイウエオ順)
蒲信一(僧侶)・辻子実(平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動)・関千枝子(ノンフィクションライター)・坂内宗男(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)・山本直好(ノー!ハプサ・合祀絶止訴訟事務局長)・吉田哲四郎(神奈川平和遺族会共同代表)
連絡先 「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京」
FAX 03・3207・1273
mailアドレス;noyasukuni2013@gmail.com
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このような運動を立ち上げている方々には、敬意を惜しまない。が、私自身が参加するするかどうかは判断しかねている。もう少し考えてみたい。
首相の靖国神社参拝は、外圧への対応や国益擁護の観点から論じられるべき問題ではなく、なによりも憲法原則に関わる問題である。歴史認識の所産として主権者が確定した日本国憲法を、権力者が遵守するか否かが問われている。靖国を語ることは歴史認識を語ることであり、この国が侵略戦争や植民地支配の歴史を反省しているのか否かを問うことでもある。
安倍首相の靖国神社参拝が、日本国憲法が定める政教分離原則(憲法20条3項)に違反することは疑いの余地がない。にもかかわらず、裁判所に提訴して違憲判断の判決を獲得することは、けっして容易ではない。そのような訴訟の類型が予定されていないからだ。そのことで私は提訴を躊躇している。「自分自身が勝訴の確信を得ることができないままでの提訴では、十分な運動とすることはできないのではないか」。訴訟を立ち上げようとされている人々は違う。「そんなことは承知の上で、できる手段を追及するしかない」と覚悟を決めておられる。
憲法の政教分離原則が最も関心を寄せる対象として、かつての別格官弊社靖国神社があった。靖国神社こそが、「天皇制」と「軍国主義」の両者を結節する存在であった。現在の宗教法人靖国神社は、いまだに戦前の靖国史観をそのままに、歴史修正主義の拠点となっている。また、露骨に国家との象徴的な結びつきを求める姿勢を変えてはいない。東京裁判で刑死した東条英樹以下14人のA級戦犯を合祀する場でもある。首相も天皇も、けっしてこのような宗教施設と関わりを持ってはならない。公的資格における参拝は明らかに違憲違法。しかし、だからどんな裁判ができるかというと、簡単に答は出てこない。
これまで、政教分離違反を争う訴訟の類型としては、「住民訴訟」と「違憲国賠訴訟」が試みられている。前者の典型が、津地鎮祭訴訟、岩手靖国訴訟、愛媛玉串料訴訟である。いわゆる客観訴訟として、原告の権利・利益侵害が提訴の要件とならない。この中で、岩手靖国参拝違憲訴訟が、唯一公式参拝の違憲性を住民訴訟で主張した事案で、高裁判決で主文では請求棄却ではあったが、理由中で明確な「公式参拝違憲」の判断を得た。
岩手靖国が住民訴訟として成立したのは、特殊な事情があったからで、国家機関である首相や天皇の靖国神社参拝を地方自治法上の住民訴訟で争うことはできない。結局、靖国参拝違憲訴訟は違憲国賠訴訟とならざるを得ないが、これまで「中曽根参拝違憲訴訟」(3件)と「小泉参拝違憲訴訟」(7件)の実績がある。国家賠償訴訟を提起するには、首相の参拝行為の公務性、違法と過失だけでなく、原告となる者の権利または法律上保護される利益侵害の存在が必要とされるというのが、最高裁の立ち場である。違憲確認請求、公式参拝差し止め請求とするのはなおのこと難しい。
国家賠償請求においては、宗教的人格権の侵害という構成が工夫されてきた。「静謐な環境の下で、特別の関係のある故人の霊を追悼する法的利益が侵害された」と表現されるものである。最高裁は、小泉参拝に関して、「上告人らが侵害されたと主張する権利ないし利益が法律上の保護になじむものであるか否かについて考える」とした上で、「本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。したがって、上告人らの損害賠償請求は、その余の点について判断するでもなく理由がないものとして棄却すべきである」(第二小法廷・2006年6月23日判決)としている。これが克服の対象である。「最高裁判決は間違っている」と言っているだけでは済まされない。最高裁を正面から説得し、あるいは側面から迂回して、このハードルを乗り越えねばならない。
現在進行中の各地での提訴準備が活発化するなかで、このハードルを乗り越える工夫が積み重ねられるだろう。その工夫の成果をもって、反憲法的姿勢を隠そうともしない安倍政権への反撃を試みたいものだ。
(2014年1月26日)
本日の赤旗「潮流」欄は、次の一文から始まっている。
「人権の侵害は、相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ。この権利にかんする限り、妥協の余地はないー。」
今の私の気持ちにぴったりだ。一瞬、赤旗が私のブログを引用したのかと思ったが、そうではない。「元レジスタンス闘士のステファン・エセルさんが、93歳のときに記した『怒れ! 憤れ!』の一節」だという。「フランスで出版され、30カ国で翻訳された著書は、多くの若者の心を動かし、世界中の大衆運動に火をつけました。ナチの強制収容所を生き延びたエセルさんは戦後、外交官になって、国連の世界人権宣言の起草に加わりました」と続く。
浅学にして、ステファン・エセル氏(1917?2013)が、どのような文脈で「相手が誰であれ」と言ったのかは知らない。潮流でも説明がなく冒頭の引用の一節は、その後の本文とうまくつながっていない。もしかしたら、潮流子は、私のブログを読んで、密かにエールを送ってくれたのかも知れない…、なんてことはあり得ないか。
『怒れ! 憤れ!』は、貴重な提言だ。『怒りと憤り』に満ち満ちた人権侵害の訴えを、「私憤、私怨に過ぎないから耳を傾けるに値しない」と言い放つ人には、ステファン・エセル氏と同氏の言を引用した赤旗の「権威」をもって反論することにしようか。少しは効き目があるかも知れない。
「相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ」は、当然に、その先に怒りの対象を糾弾する行動に立ち上がるべきことが想定されている。実は、これが、場合によっては相当の覚悟を要する難事なのだ。
安倍自民に怒って、赤旗と口をそろえて政権批判をしている分には安楽だ。しかし、「味方」陣営に人権侵害の事実があった場合には、やはりこれを「怒りの対象」として、楽ではなくても、批判の声を上げなければならない。民主勢力の誤りに対する批判や告発なくして、その発展はない。民主主義とは、自浄作用の繰り返しによる永久革命ではないか。民主勢力内部には、幹部批判の言論を保障しこれを貴重なものとして耳を傾ける作風がなければならない。組織や幹部に耳の痛い批判に、「私憤」「私怨」とレッテルを貼って無視することは、民主勢力無謬論の誤りに加担することではないか。
私の『怒りと憤り』の対象の一つが、前回都知事選における宇都宮候補の選挙運動費用収支報告書の記載で明らかになった、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者らに対する運動員買収事案。買収された者は、この2名に限らず「労務者」「事務員」届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収した者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反し、法定刑の最高量刑は懲役3年である。
宇都宮陣営は、この私の指摘に対して、「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言った。ネットテレビの発言としては暮れの12月31日に、文書では1月5日付のもので。ところが、訂正すれば済むはずの選挙運動費用収支報告書のミスの訂正を行わないまま、今回選挙に突入している。私の指摘に対する、宇都宮陣営の真摯な対応を欠く態度にも、私は『怒り憤って』いる。
宇都宮陣営のいう「単なるミス訂正」の実例が問題視されて報道されている。まずは、昨日(1月24日)の神奈川新聞の次の記事。
「昨年10月の川崎市長選で、福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書に、選挙運動に携わったスタッフ11人に「労務者報酬」を支出したとの記載があることが23日、分かった。公選法ではビラ配りなどを行う選挙運動員への報酬を禁じている。後援会事務所の担当者は「実際には金銭の支払いはなく記載ミス」と説明、早急に同報告書を訂正するとした。
同報告書によると、投開票日前日の10月26日に学生、アルバイト、無職の男女11人にそれぞれ7万?14万円(おおむね1日当たり1万円)を支給した。一方で、収入欄には同日、同じ11人から同額の寄付をそれぞれ受けたとも記載、相殺した形を取っている。
事務所担当者は「報告書作成者の認識の誤り。11人が(単純な事務作業を行う)労務者に該当すると思い込み計上してしまった」と違法性を否定。記載する必要がない内容だったとして、収入、支出欄からそれぞれ削除する方針を示した。
公選法では、労務者やいわゆるウグイス嬢、手話通訳者などには法定額の報酬を支給できると規定。しかし、特定の候補者への投票を呼び掛ける選挙運動員には、交通費などの実費弁償を除き無報酬としなければならない。神奈川新聞の取材に対し、福田市長は「認識不足だった」と述べた。」
福田紀彦市長陣営は、「認識不足だった」として、翌1月24日に市選管に訂正届け出をしたようだ。そのことが、本日(1月25日)の朝日と毎日(いずれも地方版)の記事となっている。宇都宮陣営とは違った、「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」という誠実な対応ではある。しかし、訂正自体が問題であり、訂正はまた新たな問題を生むことになる。
まずは、福田陣営は、訂正前の収支報告の届出が虚偽であったことを認めたことになる。収入の部で、11人からの寄付がなかったのに、あったように記載したこと。支出の部で、11人の「労務者」への支出がなかったのに、あったように記載したこと。その両記載が、福田陣営の出納責任者における「選挙運動に関する収入及び支出の規制違反」(公選法246条5号の2)にあたる。その法定刑の最高量刑は禁錮3年である。
毎日新聞は、「市選管によると、事務作業などをする単純労務者が無報酬で作業を行う場合は、収支報告書に本来支払われるべき労務費と、その相当額を寄付したと記載する必要」と報道している。とすれば、福田紀彦市長陣営は「無報酬で労務を提供した単純労務者」の有無を再点検しなければならない。宇都宮陣営でも同じこととなるはず。
さらに、もう一つの問題がある。収支報告書に記載された者が労務者ではなく選挙運動者とすれば、未成年者の選挙運動規制の問題が出てくる。未成年者を単純労務者として使用することには問題がないが、公選法137条の2は未成年者の選挙運動を禁止している。違反した未成年者も使用した者も処罰の対象となる。最高刑は禁錮1年である(公選法239条1項1号)。
朝日新聞の報道では、報告書に労務者と記載された選挙運動員を「学生ら11人」と表現している。11人の大半が学生なのだろう。大学の1年生・2年生は未成年であろう。3年生・4年生は就活に忙しいのではないか。いずれにせよ、その確認の必要が出てくる。
宇都宮陣営も、早急に「ミスの訂正」を届けるべきだ。私は、形式的な届け出ミスがあったのではなく、届出のとおり実質的な運動員買収の公選法違反行為があったものと考えている。「ミスの訂正」の届け出が真実と異なれば、新たな虚偽記載罪が成立する。しかも、川崎市長選事案とは違って、宇都宮事案では、「記載ミス」の訂正届出には、新たな届出内容を証する領収証の添付を必要とする。その領収証は、公選法(189条1項、191条1項)で徴収と3年間の保存を義務づけられている。「領収証はありません」は通用しないのだ。
いずれにせよ、宇都宮陣営が「記載ミスを訂正すれば済む問題である」というからには、速やかに届出をすべきだろう。私は、その届け出内容を精査して運動員買収の有無を追及するつもりだ。
本日の赤旗の「潮流」欄は、冒頭のエセル氏の名言の引用のあと次のように続けている。
「生涯を人権のためにたたかったエセルさんは呼びかけます。『歴史の脈々たる流れは、一人ひとりの力で続いていくものである。この流れが向かう先は、より多くの正義、より多くの自由だ。正義と自由を求める権利は誰にでもある』」
赤旗に励まされる。私の追求も「より多くの正義、より多くの自由」につながっているはずだ。正義と自由を求める権利は私にもある。
(2014年1月25日)
憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各会連絡会議」)のホームページには、冒頭に、「憲法をまもり暮らしに生かしましょう」というスローガンが掲げられている。
「憲法をまもり」とは、保守勢力による改憲策動に反対して日本国憲法を改悪させないことを意味するものと理解される。また、「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、憲法を画に描いた餅にせず、その理念を現実化することに力を併せようという呼びかけであろう。
「憲法をまもり」は、比較的意味明瞭である。まずは「日本国憲法」と名称を持つ成文憲法典の改正を許さないこと。つまり、明文改憲に反対の立場である。さらに、形式的に改憲を阻止しても、憲法解釈が変更されて違憲の立法や行政がまかり通る事態を招いてはならない。そこで立法改憲や、解釈改憲を許してはならないことになる。今喫緊の課題は、集団的自衛権行使容認への憲法解釈変更阻止であり、国家安全保障基本法の制定への反対である。
これに比して、「憲法を暮らしに生かしましょう」という呼びかけは、必ずしも意味明瞭ではない。憲法の理念が最終的には暮らしに生かされなければならないことに異論はないが、それでは気の利いたスローガンとはならない。憲法会議がいう「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、暮らしの隅々にまで、憲法の理念を生かそうという呼びかけと理解したいものだ。
近代的な意味における憲法は、自由主義を基調とするものである。国家権力を必要ではあるが危険なものと見なして、国家権力の恣意的発動から国民個人の自由を守ることを憲法の第一任務としている。換言すれば、憲法の名宛て人は国家なのだ。主権者国民が国家に宛てて、その権力発動を規制する命令の体系が憲法だという理解である。
しかし、現代の現実社会においては、このような考え方だけでは「憲法を暮らしの隅々に生かす」には不十分だ。「会社の敷地には憲法はない」「校門をくぐれば、憲法などと言っておられない」「家庭に憲法は無縁」「市民運動内部に憲法なんて持ち出すな」…。憲法会議は、「憲法を暮らしに生かしましょう」というスローガンで、暮らしの隅々にまで、人権や民主主義や平和の理念を生かそうと呼びかけているものと解される。企業も、私的な団体も、もちろん民主運動も、憲法の理念を護らねばならない、というメッセージである。さすがは憲法会議である…と思っていた。昨年の暮れまでは。
ほかならぬその憲法会議が私の言論を封じたのである。「憲法を暮らしに生かしましょう」とモットーを掲げる団体にあるまじきことではないか。
その経過は繰り返さない。下記2件のブログを参照していただきたい。
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28(2014年1月17日)
本日は、その事後処理である。先ほど、下記の書面とともに、8000円の為替を書留便で憲法会議に返送した。意のあるところを酌んでいただきたい。
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2014年1月24日
憲法会議御中(平井正事務局長殿)
澤藤統一郎
本年1月22日付貴信を翌23日夕刻に拝受いたしました。
拝受した貴信の全文は次のとおりです。
「前略
澤藤統一郎先生には、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いいたしましたが、残念なことにその後の事情で掲載断念のやむなきに至りました。
同封した為替(額面8,000円)はご執筆謝礼相当分です。ご査収ください。
領収書を添付しましたので、お手数ですがご返送いただければ幸いです。
それでは失礼いたします。
早々」
貴信の文面では、「掲載断念のやむなきに至りました」となっていますが、これは貴会の責任を糊塗した不正確な表現で納得いたしかねます。「やむなきに至りました」とは、あたかも貴会自身は一貫して拙稿の掲載を希望したにもかかわらず、その希望実現に支障となる外部的な客観的事情が生じたとでも言いたげな物言いです。しかし事実は、私の抗議と説得を敢えて無視して、貴会ご自身の意思において、一方的に貴誌への拙稿掲載の合意を破棄したものであることをご確認いただきたいと存じます。
貴会の否定にもかかわらず、実は、貴会が特定の団体や個人の意向を忖度して拙稿掲載の拒否に至ったのではないかということが、私の推察するところです。そのことが「やむなきに至りました」という表現に表れているのではないかとも感じられます。しかし、この点については、貴会事務局長は1月8日面談の際には、強く否定され、自主的な判断だと言われています。そのとおりであれば、「やむなきに至りました」ではなく、「当会の意思を変えました」と言わねばならないのではありませんか。
同じ理由から、「掲載断念」も不正確です。正しくは、貴会の意思によるものであることを明確にして、「掲載拒否」あるいは「掲載拒絶」「掲載謝絶」「掲載峻拒」と言うべきでしょう。
従って、「いったん、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いしご了承を得ましたが、その後に当会の意思を変更して、一方的に掲載を拒否いたしました」というべきところです。
また、「その後の事情で」掲載断念とされていますが、私がブログ「憲法日記」で、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズの掲載を始めたのは12月21日です。貴会からの執筆依頼は12月27日。そして、一方的な違約の申し出は1月8日でした。「その後の事情」とは私の宇都宮君への批判それ自体ではなく、私の宇都宮君批判が貴会内であるいは貴会の周囲で、話題となり問題として受けとめられるようになったこととしか理解できません。ことは、表現の自由、批判の言論の自由に関わる問題です。もっと率直に、どのような議論があってのことか明らかにしていただかない限りは到底納得できません。
なお、当該合意の履行における私の利益は、靖国問題に関する拙稿を掲載していただくことによって、私の考えや情報を憲法問題に高い関心を寄せている貴誌の読者に知っていただくことにあります。貴会の執筆依頼も私の執筆承諾も、けっして経済的取引の次元における契約ではありません。
私の執筆承諾の動機が執筆謝礼8000円の受領にあるものではないことを明確にし、併せて貴会の一方的な違約によって失われた私の利益が拙稿の貴誌掲載自体にあることを強調するために、さらにはこの問題は重大な教訓を含むものでありながら未解決であることを確認する意味も込めて、「執筆謝礼相当分として送られてきた損害金8000円」は受領を拒絶いたします。そのままご返送いたします。
貴信には、貴会が憲法の理念を擁護することを使命とする運動体でありながら、自らが憲法理念を蹂躙したことへの心の痛みや反省を感じ取ることができません。
また、私の憲法上の権利を侵害したことへの謝罪の言葉もありません。むしろ、「8000円の送付で問題解決」と言いたげな文面を残念に思います。私は、国家権力だけではなく、私的な企業や団体における憲法理念の遵守が大切だと思ってまいりました。本件は、その問題の象徴的な事例だと捉えています。
繰り返しますが、貴誌への掲載論稿は岩手靖国訴訟に関わるものであって、宇都宮君批判の論稿ではなかったのです。貴会は周囲を説得して、私の表現の自由を擁護すべきだったのです。私は、貴会に反省していただきたいという気持を持ち続けます。この問題はけっして終わっていないことをご確認ください。
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早春の妖精スノードロツプ(まつゆきそう)
「庭が雪の下に沈んでしまった今頃になって、急に園芸家は思い出す。たった一つ、忘れたことがあったのを。それは庭をながめることだ。
それというのもーまあ、聞きたまえー園芸家にはそんなひまがなかったからだ。夏、花の咲いているリンドウをとっくりながめようと思うと、芝生の雑草をぬくために、途中で立ち止まることになる。花の咲いたデルフィニウムの美しさを楽しもうとすると、支柱をあたえることになる。アスターが咲くと、根もとにはえたカモジグサをぬく。バラが咲くと、台芽をとるか、ウドンコ病のしまつをする。キクが咲くと鍬をもって駆け付け、踏み固めた土をほぐして柔らかにする。どうしたらいいのだ?いつもなにかしら、しなければならぬことがある。両手をポケットに突っ込んで庭をながめてなどどうしていられよう?」(カレル・チャペック著「園芸家12カ月」 12月の園芸家より)
「『園芸家にとっては、1月という月も けっしてひまではない』と、園芸の本には書いてある。たしかにそうだ。1月は、天候の手入れをする月だから。天候ってやつは妙なものだ。ぜったいに順調ということがない。・・・園芸家がいちばんおそれるのはブラック・フロストの襲来だ。(黒い霜といっても霜ではない。乾燥した猛烈な寒さがおそってくると、植物の葉や芽が黒くなるからだ。)大地はこわばって、骨まで干上がる。日ごと夜ごとに寒さが激しくなる。園芸家は、石のようにかちかちになった、死んだような土の中で寒さにふるえている根を思い、からからに乾いた氷のような風が、骨の髄までしみ込んでくる枝を思い、秋のうちに持ち物全部をふところにしまいこんだまま、こごえるように寒がっている球根を思う。」(同著 1月の園芸家より)
日本の冬は、カレル・チャペックの生きたチェコの冬と較べると、まるで天国のようだ。特に南関東では、真冬でも、アオキやセンリョウ、マンリョウはつやつやとした赤い実をつけ、青々とした葉を茂らせている。ヤブツバキは赤い花をこぼれるように咲かせている。ロウバイは蝋細工のような黄色い花から、清々しいかおりを大気に放っている。秋に植えた球根も、寒さなんかどこ吹く風とばかり、日本水仙はもう花を咲かせている。日当たりでは、もうチューリップもクロッカスもむっくりと芽をだしている。
それらの中で小さいがゆえに、特に可愛らしいのが、スノードロツプ(まつゆきそう)だ。秋に植えた球根は大豆を二回りほど大きくしたぐらいのサイズで、こんな小さなもののなかに花を咲かせる力がつまっているのかと疑わしくなる。暮れから小さな芽はだしていたが、今日よく見れば、長細い葉がはじけて、花の蕾をつけた茎がこぼれ出ている。高さは10センチに満たない。うっかりしていれば、見過ごす。一球に一茎、その先に一花がプランとぶら下がって咲く。春を告げる高貴で尊い花だ。外向きに開いた細長い3枚の白い花弁の内側に3枚の花弁が小さなカップを作っている。カップの下端に渋いグリーンのハート模様が浮き出る。乳白色の陶器で作られた、さわるとこわれそうな小さな花。固まった雪の雫が落ちてきて、乙女の耳飾りになったかのようだ。早春の妖精のようではあるが、人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」というメッセージになるので注意とは、恐ろしいではないか。
昨秋、チューリップを150球植えてあるので、春の来るのが例年にもまして待ちどおしく楽しみである。準備無ければ花も咲かずである。
(2014年1月24日)
第186通常国会は、明日(1月24日)召集される。会期は6月22日までの150日間。
24日には首相の施政方針演説があり、28〜30日に衆参両院で与野党の代表質問が行われる。政府・与党は首相がソチ冬季五輪の開会式に出発する2月7日までに補正予算案を成立させ、その後、早期に14年度予算案の審議に入る方針。安倍政権は、「好循環実現国会」を掲げて成長戦略関連法案32本の提出を予定し、4月の消費増税による景気の腰折れ防止に全力を挙げる構え。これに対し、民主、共産両党は先の臨時国会で成立した特定秘密保護法の廃止法案を用意し、安倍政権との対決姿勢を強めている、と報じられている。衆参両院の憲法審査会も動き出すだろう。4月には、安保法制懇の答申を受けての集団的自衛権論議が白熱することになるだろう。教育委員会制度を見直す地方教育行政法改正案、労働者派遣法改正案、原発再稼動問題、原発輸出問題などもある。けっして、無風、平穏な通常国会となるはずはない。
ところで国会の招集は天皇の国事行為(憲法7条2号)である。第186通常国会の招集も天皇の「詔書」によって行われる。以下が、天皇の国会召集を伝える本年1月14日付「官報」(号外)の全文。
「詔書」
日本国憲法第7条及び第52条並びに国会法第1条及び第2条によって、平成26年1月24日に、国会の常会を東京に招集する。
御名 御璽
平成26年1月14日
内閣総理大臣臨時代理
国務大臣 麻生太郎
「詔書」などという言葉が今も生きているのだ。それにしても、ことさらに主語を省いて、「国会の常会を東京に招集する」とは、何とも間の抜けた不思議な文章。
もしかして、「御名 御璽」(ぎょめい・ぎょじ)が分からぬ人がいるのではないだろうか。オリジナルの文書には、「明仁」の自署と、天皇印の印影がある。何故かは分からぬが、「明仁 印」とあからさまにしたのでは畏れ多いのだという。そのような配慮から、名前と印に尊敬語の「御」を付けて、「原文には、ここに天皇のお名前が書いてあり、ご印が押されているのですよ」とする約束事なのだ。戦前から少しも変わっていない。
なお、この天皇印たる「御璽」は金製で3寸四方の角印、重量は約3.55?あるのだという。昔、大学の講義でこのことを聴いたときのことを思い出す。当時は、裕仁が天皇であった時代。「必ず裕仁氏自らこの3キロ半の印を手にして押捺する」のだという。天皇の仕事はけっして楽ではない。「重」労働ですらあるという。大教室に満ち満ちた、当時の学生たちのトゲのある冷笑の雰囲気が懐かしい。
なお、この「詔書」に、内閣総理大臣臨時代理として麻生太郎が副署しているのは、安倍首相が外遊中だったため。
明日1月24日午後1時から10分間の予定で、開会式が行われる。この通常国会を招集した天皇が、自ら招集の「おことば」を述べる。場所は参議院本会議場。かつての貴族院である。その本会議場正面の議長席背後に玉座がしつらえてある。議場を見下ろすこの位置で、天皇は衆参両院の議員を見下しつつ、おことばを述べるのだ。国民の代表が、天皇を見上げつつ、その「おことば」をありがたく「うけたまわる」ことになる。
この玉座、正式には参議院で「御席」というそうだ。旧憲法時代、今の参議院は貴族院だった。天皇は、貴族院の玉座に臨席し、統治権の総覧者として、立法の協賛者である帝国議会の各議員を睥睨した。この建物の構造は、当時の主権者と臣民の位地関係を象徴するものであった。いま、同じ場所が参議院本会議場となり、同じ「玉座」から「象徴である天皇」が、「主権者である国民の代表」に「おことば」を発している。敗戦を挟んで、我が国は本当に変わったのだろうか。
「国会を召集すること」は天皇の国事行為の一つではあっても、「国会の召集」は「詔書」に署名捺印すれば済むことで、国会まで出向いて開会式に臨席し「おことば」を述べるなどは憲法に記されたことではない。
天皇の行為には、憲法に厳格に制限列挙された国事行為と、純粋に私的な行為との2類型がある。本来、この2類型しかなく、「おことば」や「皇室外交」はそのどちらでもない。憲法上の根拠を欠くものである以上、本来行うべきものではない。
ところが、天皇の国事行為と、純粋に私的な行為とは別に、天皇の「公的行為」という中間領域の範疇を認める立ち場があり、開会式のお言葉はこの範疇に属するものとして行われている。皇室外交や、園遊会の主催、国民体育大会、植樹祭への出席等々も同様。当然に、憲法違反だという批判がある。批判があるが、やめようとはしない。
やめようとしないのは、為政者が、天皇の権威主義的国民統合作用を統治の具として重宝と考えているからだ。為政者は、常に「民はもって之を由らしむべし。知らしむべからず」と考えている。天皇制下の擬似家族的連帯意識と家父長の権威に寄りかかる権威主義、そして序列感覚の涵養が、統治しやすい国民の育成にこの上なく便利だからである。
象徴天皇制は、憲法上の制度として軽々に改変することはできない。しかし、天皇の影響力の範囲は一寸たりとも拡大してはならない。また、「内なる天皇制」については、これを克服することが可能である。臣民根性を排して、主権者意識を育てよう。この主権者意識の育成を阻害するものこそ、「前主権者」である天皇制なのだ。まずは、政権による天皇の政治利用、天皇自身による天皇の政治利用をきちんと批判しよう。
開会式への意識的欠席は、議員の見識である。その反対に、国会開会式で天皇に平身低頭する国民の代表がいないか、明日はよく目を光らせようではないか。
(2014年1月23日)
東京都知事選は、とうとう明日が告示日。明日から選挙運動期間である。
念のために、今日また東京都選挙管理委員会に足を延ばした。2012年12月16日施行の東京都知事選挙における宇都宮健児候補の選挙運動資金収支報告書を閲覧してきたが、本日(1月22日)午後の時点で、何の訂正も変更もなされていないことを確認した。宇都宮陣営は、前回選挙における選挙運動収支報告書の重大な届出ミスを認めながら、これを放置して次の選挙に突入しようとしている。
上原公子選対本部長(元国立市長)の労務者報酬10万円受領の届出も、添付の選挙運動報酬受領証も何の変更もなくそのままであった。服部泉出納責任者についても同じこと。合計29名に及ぶ疑惑の「労務者」「事務員」についての届出訂正もない。宇都宮陣営の1月5日付文書「法的見解」では、随分と簡単に「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言っておきながら、何の訂正もせずに次の選挙に突っ込もうというのだ。誰の目にも、「コンプライアンス意識に問題あり」が明白ではないか。あるいは、「記載ミスを訂正すれば済む問題」と言ってはみたが、実は「労務者報酬受領」と届出を脱法しての運動員買収の事実は訂正のしようがないということなのであろうか。
私が指摘した数々のリスクを抱えながら、それでもなお宇都宮君には、立候補を断念する気配が見えない。私は、「宣戦布告」直前に、いくつかのメーリングリストに、「宇都宮君への批判を始めるからには徹底してやる」と宣言した。宇都宮君への警告を意識してのこと。その上で、今日まで33日間にわたって「宇都宮君、おやめなさい」と言い続けてきた。宇都宮君を立候補断念に追い込むことはできなかったが、その宣言のとおり、本日まで私のできる限りでの言論による批判は、やり通した。
この「おやめなさい」シリーズを書き始めた当初の覚悟は相当なものだった。以前にも書いたとおり、悲壮感をもってルビコンを渡るの心境だった。宇都宮君とともに自分も傷つくことは重々承知の上でのこと。だが、ルビコンを渡った向こう岸にも、広々とした天地があることを知った。花は咲き、鳥も歌っている。真摯にものを考える、新たな友人との出会いもあった。驚くべきことに、このブログをきっかけに、新たな業務の依頼さえあったのだ。私は、感動している。この世には、「自分の他に主人を持つまい」とし、「民主主義的理性」を磨こうとしている多くの真っ当な人々がいるのだ。
「悲しき玩具」の啄木の歌を思いおこす。
人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横よりみてゐる心。
私は、隊列を組むがごとくして皆と同じ方角に向かっていくことが苦手なのだ。啄木もそうだったのだろうが、自らの歌を「悲しき玩具」と言った啄木には、皆と同じ方角に向かっていくことができない自分を哀れむ心があったのではないか。
私は違う。人みなと違う方角に歩き出したことを、今は爽快に思っている。
もちろん、私に反省すべき点があるのは明らかだ。まずは、「徹底した批判」に踏み切るのが遅きに失したこと。私自身が「人にやさしい東京をつくる会」の情報開示と運営の透明性の徹底に鈍感だったこと。もっと以前に、問題が起こる都度、躊躇することなく、徹底批判に踏み切るべきだった。そうしていれば、問題がここまでこじれる以前に、宇都宮選対や「人にやさしい東京をつくる会」の体質を、修正できた可能性があった。
学んだことは、組織原則としての民主主義のあり方である。とりわけ、批判の言論の大切さ。組織の幹部は、自分の耳に痛い批判の言論に寛容でなくてはならない。これを、鬱陶しいからと強権を発動して報復に出たり、それへの抗議を問答無用でだまし討ちに切り捨てるなどしてはならない。
昔から英語が達者だった次弟が、私のブログを読んで、次のようにメールをくれた。
「昔、英語の参考書の中で覚えたヴォルテールの言葉が思い出されます。
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.
この to the death と言うところが味噌です。フランス語は知らず、英語では『あくまで』ということが『死をかけてでも』と同義語になっているわけです。『死をかけてでも』言論の自由を守るべき立場の人々の行動としては、まあ何とも『懐の狭い』を通り越して『滑稽さ』まで感じられます。大方の人がそう思ったことでしょう。」
そうだ、民主主義とは、「命をかけても」他の人の言論の自由を守ることなのだ。宇都宮君と宇都宮君につながる向こう岸の人々には、それが分からなかったのだ。次弟が即座に深い理解を示してくれたことが本当に嬉しかった。
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ところで、昨日話題にしたメルマガ「宇都宮けんじニュース」は「希望のまち東京をつくる会」から配信されている。おそらく今回の選挙では「希望のまち東京をつくる会」が宇都宮候補を擁立する確認団体となるのだろう。しかし、「希望のまち東京をつくる会」とは何なのか、誰がどのように関わり、誰が決定権をもって会の運営に携わっているのか、外からは分からない。「会」のホームページには記載がない。念のため、「宇都宮けんじニュース」を第1号(1月1日)から本日付の22号まで全部目を通してみたが、ここにもなんの記載もない。私は、今にして思う。市民選挙の主宰団体がブラックボックスであってはならない。きちんと公表すべきではないか。著しく、公共性も公益性も高い事項なのだから。公表されて困ることでもあるまい。
前回選挙の確認団体となったのは、「人にやさしい東京をつくる会」だった。
その意思決定機関(運営会議)のメンバーは以下のとおりである(敬称略)。
宇都宮健児(候補者)
中山武敏(会代表)
上原公子(選対本部長)
熊谷伸一郎(事務局長)
岡本厚
海渡雄一
河添誠
澤藤統一郎
高田健
豊田栄一郎(会計責任者)
服部泉(出納責任者)
渡辺治
以上の「人にやさしい東京をつくる会」の運営会議委員は、選挙期間中は選対委員となった。選挙終了後は4回の運営会議(2012年12月23日・2013年1月6日・2月28日・12月20日)が開催されている。その最後の2013年12月20日第4回運営会議において、宇都宮君は「運営会議全員解任」「再任は宇都宮・中山に一任」という、澤藤追放の「だまし討ち」決議をやってのけた。議事録上は、私以外の全員の賛成でのこととなっているはず。
しかし、「人にやさしい東京をつくる会」の解散決議はされていない。520万7907円のカンパ残額の処理をどうするかをうやむやにしたまま解散はできない。
しかも、第2回運営委員会(2013年1月6日)の議事録では、次のとおりに確認されている。
「6.会の今後の方向性について
・会として、次回の都知事選挙の母体とはならないこと、また今夏の参議院選挙を含む選挙運動に関わらないことを確認した。
・会計の問題もあるために、会としては当面存続させる。3月31日のシンポジウムと、その後の期間(一年程度)をおいての集会を経て、活動自体は休止状態にしていく。完全に解散するか、解散するとして現在のメンバーで何らかの運動を展開していくかは、今後検討していく。」
もちろん、この確認は私も参加した席でのこと。問題の選挙カンパは、2012年都知事選についてのものだったのだから、次回都知事選挙や他の選挙への「流用」は筋が違うとの考えによるもの。「人にやさしい東京をつくる会」が、「次回の都知事選挙の母体とはならない」「今夏の参議院選挙を含む選挙運動に関わらない」ことを正式に確認している以上、今回選挙でこの前回選挙カンパの残金520万円に手を付けることは許されない。
なお、「人にやさしい東京をつくる会」の政策には次のとおりのことが明記されている。
「尖閣諸島購入のために集めた寄付金は返却します。
1. 都が集めた寄付金は寄付者に返金します。寄付者が不明の場合には、早急に検討します。
2. 返金作業にかかる経費については、当時の都の責任者に請求します。」
ダブルスタンダードは望ましくない。「人にやさしい東京をつくる会」は、前回選挙でカンパに応じた人にだけでなく、社会に納得を得るような残金の処理をしなければならない。
前述の決議がある以上、「人にやさしい東京をつくる会」は、今回都知事選挙の母体とはなりえない。新たに登場した「希望のまち東京をつくる会」が今回選挙の確認団体となるのだろうが、最低限次のことを明確にすべきだろう。
1 「希望のまち東京をつくる会」は、「人にやさしい東京をつくる会」とはどのような関係になるのか。「人にやさしい東京をつくる会」の残余財産は、どう処理される予定なのか。
2 「希望のまち東京をつくる会」の代表者は誰なのか。どのようなメンバーが、意思決定に参画しているのか。会の規約などはどうなっているのか。
3 「希望のまち東京をつくる会」と「支援・支持の関係にある政党や政治団体」との間に政策協定その他何らかの共闘についての取り決めはあるのか。あるとすれば、どのような内容なのか。ないとすれば、支援・支持の具体的な内容はどのようなものか。
私は、開かれた市民選挙を標榜して、広く市民に賛同を求め、寄付を募る以上は、「希望のまち東京をつくる会」には上記3点について回答すべき道義的責任があるものと考える。私自身が、「人にやさしい東京をつくる会」の運営に関わりながら、積極的に情報を開示し会の運営の透明性を高める努力をしなかったことを自己批判しなければならないと思っている。
もっとも、宇都宮陣営が、「市民に開かれた選挙など標榜していない」「情報公開も運営の透明性の確保も、私的な組織には無縁なこと」というのであれば、それはそれでやむを得ない。しかし是非、そのようなお考えを社会にあきらかにすべきだろう。
(2014年1月22日)