「憲法を暮らしに生かす」ことの意味
憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各会連絡会議」)のホームページには、冒頭に、「憲法をまもり暮らしに生かしましょう」というスローガンが掲げられている。
「憲法をまもり」とは、保守勢力による改憲策動に反対して日本国憲法を改悪させないことを意味するものと理解される。また、「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、憲法を画に描いた餅にせず、その理念を現実化することに力を併せようという呼びかけであろう。
「憲法をまもり」は、比較的意味明瞭である。まずは「日本国憲法」と名称を持つ成文憲法典の改正を許さないこと。つまり、明文改憲に反対の立場である。さらに、形式的に改憲を阻止しても、憲法解釈が変更されて違憲の立法や行政がまかり通る事態を招いてはならない。そこで立法改憲や、解釈改憲を許してはならないことになる。今喫緊の課題は、集団的自衛権行使容認への憲法解釈変更阻止であり、国家安全保障基本法の制定への反対である。
これに比して、「憲法を暮らしに生かしましょう」という呼びかけは、必ずしも意味明瞭ではない。憲法の理念が最終的には暮らしに生かされなければならないことに異論はないが、それでは気の利いたスローガンとはならない。憲法会議がいう「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、暮らしの隅々にまで、憲法の理念を生かそうという呼びかけと理解したいものだ。
近代的な意味における憲法は、自由主義を基調とするものである。国家権力を必要ではあるが危険なものと見なして、国家権力の恣意的発動から国民個人の自由を守ることを憲法の第一任務としている。換言すれば、憲法の名宛て人は国家なのだ。主権者国民が国家に宛てて、その権力発動を規制する命令の体系が憲法だという理解である。
しかし、現代の現実社会においては、このような考え方だけでは「憲法を暮らしの隅々に生かす」には不十分だ。「会社の敷地には憲法はない」「校門をくぐれば、憲法などと言っておられない」「家庭に憲法は無縁」「市民運動内部に憲法なんて持ち出すな」…。憲法会議は、「憲法を暮らしに生かしましょう」というスローガンで、暮らしの隅々にまで、人権や民主主義や平和の理念を生かそうと呼びかけているものと解される。企業も、私的な団体も、もちろん民主運動も、憲法の理念を護らねばならない、というメッセージである。さすがは憲法会議である…と思っていた。昨年の暮れまでは。
ほかならぬその憲法会議が私の言論を封じたのである。「憲法を暮らしに生かしましょう」とモットーを掲げる団体にあるまじきことではないか。
その経過は繰り返さない。下記2件のブログを参照していただきたい。
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28(2014年1月17日)
本日は、その事後処理である。先ほど、下記の書面とともに、8000円の為替を書留便で憲法会議に返送した。意のあるところを酌んでいただきたい。
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2014年1月24日
憲法会議御中(平井正事務局長殿)
澤藤統一郎
本年1月22日付貴信を翌23日夕刻に拝受いたしました。
拝受した貴信の全文は次のとおりです。
「前略
澤藤統一郎先生には、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いいたしましたが、残念なことにその後の事情で掲載断念のやむなきに至りました。
同封した為替(額面8,000円)はご執筆謝礼相当分です。ご査収ください。
領収書を添付しましたので、お手数ですがご返送いただければ幸いです。
それでは失礼いたします。
早々」
貴信の文面では、「掲載断念のやむなきに至りました」となっていますが、これは貴会の責任を糊塗した不正確な表現で納得いたしかねます。「やむなきに至りました」とは、あたかも貴会自身は一貫して拙稿の掲載を希望したにもかかわらず、その希望実現に支障となる外部的な客観的事情が生じたとでも言いたげな物言いです。しかし事実は、私の抗議と説得を敢えて無視して、貴会ご自身の意思において、一方的に貴誌への拙稿掲載の合意を破棄したものであることをご確認いただきたいと存じます。
貴会の否定にもかかわらず、実は、貴会が特定の団体や個人の意向を忖度して拙稿掲載の拒否に至ったのではないかということが、私の推察するところです。そのことが「やむなきに至りました」という表現に表れているのではないかとも感じられます。しかし、この点については、貴会事務局長は1月8日面談の際には、強く否定され、自主的な判断だと言われています。そのとおりであれば、「やむなきに至りました」ではなく、「当会の意思を変えました」と言わねばならないのではありませんか。
同じ理由から、「掲載断念」も不正確です。正しくは、貴会の意思によるものであることを明確にして、「掲載拒否」あるいは「掲載拒絶」「掲載謝絶」「掲載峻拒」と言うべきでしょう。
従って、「いったん、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いしご了承を得ましたが、その後に当会の意思を変更して、一方的に掲載を拒否いたしました」というべきところです。
また、「その後の事情で」掲載断念とされていますが、私がブログ「憲法日記」で、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズの掲載を始めたのは12月21日です。貴会からの執筆依頼は12月27日。そして、一方的な違約の申し出は1月8日でした。「その後の事情」とは私の宇都宮君への批判それ自体ではなく、私の宇都宮君批判が貴会内であるいは貴会の周囲で、話題となり問題として受けとめられるようになったこととしか理解できません。ことは、表現の自由、批判の言論の自由に関わる問題です。もっと率直に、どのような議論があってのことか明らかにしていただかない限りは到底納得できません。
なお、当該合意の履行における私の利益は、靖国問題に関する拙稿を掲載していただくことによって、私の考えや情報を憲法問題に高い関心を寄せている貴誌の読者に知っていただくことにあります。貴会の執筆依頼も私の執筆承諾も、けっして経済的取引の次元における契約ではありません。
私の執筆承諾の動機が執筆謝礼8000円の受領にあるものではないことを明確にし、併せて貴会の一方的な違約によって失われた私の利益が拙稿の貴誌掲載自体にあることを強調するために、さらにはこの問題は重大な教訓を含むものでありながら未解決であることを確認する意味も込めて、「執筆謝礼相当分として送られてきた損害金8000円」は受領を拒絶いたします。そのままご返送いたします。
貴信には、貴会が憲法の理念を擁護することを使命とする運動体でありながら、自らが憲法理念を蹂躙したことへの心の痛みや反省を感じ取ることができません。
また、私の憲法上の権利を侵害したことへの謝罪の言葉もありません。むしろ、「8000円の送付で問題解決」と言いたげな文面を残念に思います。私は、国家権力だけではなく、私的な企業や団体における憲法理念の遵守が大切だと思ってまいりました。本件は、その問題の象徴的な事例だと捉えています。
繰り返しますが、貴誌への掲載論稿は岩手靖国訴訟に関わるものであって、宇都宮君批判の論稿ではなかったのです。貴会は周囲を説得して、私の表現の自由を擁護すべきだったのです。私は、貴会に反省していただきたいという気持を持ち続けます。この問題はけっして終わっていないことをご確認ください。
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早春の妖精スノードロツプ(まつゆきそう)
「庭が雪の下に沈んでしまった今頃になって、急に園芸家は思い出す。たった一つ、忘れたことがあったのを。それは庭をながめることだ。
それというのもーまあ、聞きたまえー園芸家にはそんなひまがなかったからだ。夏、花の咲いているリンドウをとっくりながめようと思うと、芝生の雑草をぬくために、途中で立ち止まることになる。花の咲いたデルフィニウムの美しさを楽しもうとすると、支柱をあたえることになる。アスターが咲くと、根もとにはえたカモジグサをぬく。バラが咲くと、台芽をとるか、ウドンコ病のしまつをする。キクが咲くと鍬をもって駆け付け、踏み固めた土をほぐして柔らかにする。どうしたらいいのだ?いつもなにかしら、しなければならぬことがある。両手をポケットに突っ込んで庭をながめてなどどうしていられよう?」(カレル・チャペック著「園芸家12カ月」 12月の園芸家より)
「『園芸家にとっては、1月という月も けっしてひまではない』と、園芸の本には書いてある。たしかにそうだ。1月は、天候の手入れをする月だから。天候ってやつは妙なものだ。ぜったいに順調ということがない。・・・園芸家がいちばんおそれるのはブラック・フロストの襲来だ。(黒い霜といっても霜ではない。乾燥した猛烈な寒さがおそってくると、植物の葉や芽が黒くなるからだ。)大地はこわばって、骨まで干上がる。日ごと夜ごとに寒さが激しくなる。園芸家は、石のようにかちかちになった、死んだような土の中で寒さにふるえている根を思い、からからに乾いた氷のような風が、骨の髄までしみ込んでくる枝を思い、秋のうちに持ち物全部をふところにしまいこんだまま、こごえるように寒がっている球根を思う。」(同著 1月の園芸家より)
日本の冬は、カレル・チャペックの生きたチェコの冬と較べると、まるで天国のようだ。特に南関東では、真冬でも、アオキやセンリョウ、マンリョウはつやつやとした赤い実をつけ、青々とした葉を茂らせている。ヤブツバキは赤い花をこぼれるように咲かせている。ロウバイは蝋細工のような黄色い花から、清々しいかおりを大気に放っている。秋に植えた球根も、寒さなんかどこ吹く風とばかり、日本水仙はもう花を咲かせている。日当たりでは、もうチューリップもクロッカスもむっくりと芽をだしている。
それらの中で小さいがゆえに、特に可愛らしいのが、スノードロツプ(まつゆきそう)だ。秋に植えた球根は大豆を二回りほど大きくしたぐらいのサイズで、こんな小さなもののなかに花を咲かせる力がつまっているのかと疑わしくなる。暮れから小さな芽はだしていたが、今日よく見れば、長細い葉がはじけて、花の蕾をつけた茎がこぼれ出ている。高さは10センチに満たない。うっかりしていれば、見過ごす。一球に一茎、その先に一花がプランとぶら下がって咲く。春を告げる高貴で尊い花だ。外向きに開いた細長い3枚の白い花弁の内側に3枚の花弁が小さなカップを作っている。カップの下端に渋いグリーンのハート模様が浮き出る。乳白色の陶器で作られた、さわるとこわれそうな小さな花。固まった雪の雫が落ちてきて、乙女の耳飾りになったかのようだ。早春の妖精のようではあるが、人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」というメッセージになるので注意とは、恐ろしいではないか。
昨秋、チューリップを150球植えてあるので、春の来るのが例年にもまして待ちどおしく楽しみである。準備無ければ花も咲かずである。
(2014年1月24日)