澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

本日で、当ブログの《毎日更新》を終了します。今後は《時折の掲載》に。これまでのご愛読を感謝し、引き続きよろしくお願いします。

(2023年3月31日)
 本日で、当ブログの連載が満10年となった。2013年4月1日からの連続更新が、本日3652回目。10年の間に、閏年が2度あったことになる。この間、一度の休載もなく毎日書き続けてきた。盆も正月も日曜も休日も、出張も海外旅行も無関係に、例外なく一日一稿を書き続けてきたことになる。幸いにして、大病を患うことも、大きな事故に遭遇することもなかった。

 誰に命じられたことでもない。経済的見返りを求めたわけでもない。業務の宣伝を意識したことも一切ない。むしろ、人との軋轢を生じるタネと意識しつつのことであった。それでも書き続けたのは、もの言わぬは腹ふくるる業だからというしかない。

 ではあるが、相当の負担でもある。齢もとった。目も霞んできた。考えを纏めるにも文章を整えるにも時間がかかる。減らしてはきたが本業も抱えており、これに差し支えることもないわけではない。満10年を期にいったん筆を擱きたい。毎日必ずこのブログを書くという自分への拘束を解いて、今後は気の向いたときに、本業に差し支えないように不定期の掲載としたい。

 連続更新を広言してこのブログを書き始めた当時、3年も続ければなにかが見えてくるかと思った。しかし、何も見えてこなかった。5年なら、3000日なら、などと思い続けて10年経ったが、やはり同じこと。とりたてて新しく見えてきたものはなく、世の中の動きを見る目が変わったなどということもない。その点では十年一日である。

 10年のブログ。人に誇るべきほどのことではない。何か価値あることを達成したという感慨もない。それでも、自分に課したことを、自分なりにやり遂げたという、小さな達成感がないわけではない。怠惰な自分をすこしだけ褒めてもよいという甘い気持はある。

 ところで、10年は一昔である。このブログを書き始めたのは、第2次安倍晋三政権が始動した時期だった。復活して、またぞろ出てきたこの唾棄すべき右翼政治家の改憲策動に抗わねばならないという思いからであった。思いがけなくも安倍政治が長期に続いて、ブログの連載も長期となった。そして、ようやくアベ政権が崩壊したものの、アベスガ政権となり、さらにアベスガキシダ政権となって、安倍以後もしばらくは連載をやめるわけにはいかないという心情になった。その安倍晋三も、人の恨みを買って横死した。10年の区切りは適切なようでもある。

 この10年、改憲の危機は去らないものの、幸いにも保守勢力が悲願とする改憲のたくらみは実現していない。当ブログも、改憲阻止の一翼を担ったと言えなくもないのは、それだけで喜ばしい。

 喜ばしいことばかりではない。10年は短くはない。この間に、このブログをめぐっていくつもの「事件」があった。実は、「十年十色」なのだ。印象に残るその最初のものが、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズである。2013年の暮れから正月を挟んでの連日33日間。私は、渾身の怒りを込めて「おやめなさい」と書き続けた。批判の対象は、小さな権力を理不尽に振りかざした熊谷伸一郎(岩波書店)であり、上原公子(元国立市長)であり、人権感覚の鈍い宇都宮健児(都知事選候補者)であった。読み直すと、良く書けている。当時の怒りがよみがえってくる。

 また、吉田嘉明を批判した私のブログが名誉毀損だとして、まったく唐突にDHC・吉田嘉明からのスラップ訴訟の被告とされた。損害賠償請求額は2000万円。これこそ典型的なスラップと批判するシリーズをこのブログに書き始めたら、損害賠償請求額が6000万円に跳ね上がった。前代未聞のことではないか。このスラップ訴訟に勝訴し、さらに反撃訴訟を提起してこれにも勝訴が確定した。こちらの方は、終わり良ければすべて良しの心もちである。

 この10年、すべてのブログに目を通してくれている妻は、「怒ってばかりで読むのに疲れる。気が滅入る」と言う。確かに、10年の持続は怒りのエネルギーがあったればこそである。理不尽なものへの怒りである。しかし、それだけでもない。10年の自分のブログをパラパラと読み返してみると、懐かしいだけでなく、結構面白いし楽しい。けっして無駄なことをしてきたとは思わない。

 妻からは「毎回、長すぎる」という批判も受け続けてきた。これに、反省の意も、恭順の意も見せぬままの10年であった。これからは、「気合いを入れて書こう」とか、「それなりの水準のものを」などという邪念をサラリと捨てよう。気の向いたときに、気楽な文章を書いてみたい。お付き合いをよろしく願いたい。

 なお、満10年で一旦擱筆を当ブログに告知して以来、少なからぬ方から、ありがたいご意見やご感想をいただいた。もし、当ブログへのご意見やご感想があれば、下記メールアドレスまでご連絡をください。よろしくお願いします。
sawatoichiro@gmail.com

「自由は死せず」 ー 板垣退助や安倍晋三の生死にかかわらず。

(2023年3月30日・連日更新満10年まであと1日)
 時折、産経新聞が私のメールにも記事を配信してくれる。友人からの紹介で、ネットの産経記事を読むこともある。他紙には出ていない、いかにも産経らしい取材対象が興味深い。そして独特の右側に寄り目でのものの見方が面白い。営業成績の苦境を伝えられている産経だが、メデイアには多様性があってしかるべきだ。

 下記は、3月26日19:30のネット記事である。藤木祥平という記者の署名記事。

https://www.sankei.com/article/20230326-42GTY2H7FBKP7PRKWKKAROYUSM/

「板垣死すとも?」死せぬ自由誓い安倍氏慰霊祭、憂国の遺志「重ねずにはいられない」

 この見出しだけでは何のことだか分からない。が、板垣退助と安倍晋三とを重ね併せて、両人ともに「自由を死なせずに擁護した」立派な政治家と持ち上げるイベントを取材し、なんともクサイ記事にまとめたもの。いかにも、産経らしさの滲み出た興味津々たる記事である。

 この記事のリードを引用するのが分かり易い。「板垣死すとも自由は死せず」?。明治15(1882)年、自由党の党首として自由民権運動を推進していた板垣退助は岐阜で遊説中に暴漢から襲われた際、こう叫んだとされる。昨年7月、奈良市で参院選の演説中に安倍晋三元首相が銃撃され死亡したのは、板垣の「岐阜遭難事件」から140年の節目。命がけで国を憂いた2人の政治家を「重ねずにはいられない」として26日、板垣の玄孫(やしゃご)らが大阪市内で安倍氏の慰霊祭を営み、彼らの精神を受け継ぐ決意を新たにした」

 「板垣退助先生顕彰会」なるものがあるという。1968年、板垣の50回忌に佐藤栄作が名誉総裁となって設立された団体だそうだ。土佐の板垣退助の顕彰を長州出身の佐藤がなぜ? ではあるが、その説明はない。そして、2018年の100回忌に合わせ位牌を新調する際、当時の自民党総裁であった安倍晋三に依頼した。こうして、「板垣ゆかりの高野寺(高知市)に奉納されている位牌には、彼の不屈の精神を表すあの叫びが刻まれている。その言葉を揮毫したのが安倍氏だった」という。

 「あの叫び」というのが、「板垣死すとも自由は死せず」という独り歩きしている例のフレーズである。本当に板垣がそう言ったのかは大いに疑わしい。捏造説の方が随分と説得力があるが、それはさて措く。明らかなのは、板垣退助を「自由民権を希求した政治家」と持ち上げるのは、何らかの魂胆あってのフェイクに過ぎないことである。

 岐阜で暴漢に襲われた1882年4月当時、確かに彼は自由党の総理として高揚する「自由民権運動の旗手」であった。しかしすぐに変節する。本来の彼に戻ったというべきかも知れない。

 同年11月から翌年6月まで、彼はヨーロッパに外遊してしまうのだ。自由党に対する弾圧事件が頻発する中で、闘わずして逃げ出したと言ってよい。当時の彼に洋行の費用の工面ができたはずはない。政府の仕掛けに乗り、三井の金で懐柔されたのだ。もちろん、帰国後に板垣が反体制の立場で奮闘したわけではない。解党論を説いて、1884年には自由党を解散させている。

 その後、板垣は伯爵となり、政治家としては2度の内務大臣にもなっている。自由民権の活動家ではなく、藩閥政治の保守政治家になりさがったのだ。だから、どっぷり保守の佐藤栄作や安倍晋三とは相通じるところがあるのだろう。それだけではない。板垣については、こんなエピソードが残っている。

 板垣洋行の直前に、洋行資金の出所に疑惑ありと世に騒がれた自由党は、「板垣退助総理の外遊反対」を決議している。この決議を突きつけられた板垣は、党の幹部連に対して、「他日若し今回の事件にして、余に一点汚穢の事実の確証する者あらば、余は諸君に対して、其罪を謝するに割腹を以てせん」と誓約している。

 割腹は大仰だが、「私はけっして悪くない。政治家としての命を賭ける」という言い方は、安倍とおんなじだ。森友事件発覚初期における安倍晋三の17年2月17日国会答弁、「繰り返して申し上げますが、私も妻も一切、この認可にもあるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして…、私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい」は、板垣の誓約となんと酷似していることだろう。

 もちろん、その後の板垣が腹を切ることはなく、安倍晋三も職を辞していない。板垣と安倍晋三、高潔さを欠く点でも自分の言葉に無責任な点でもよく似た人物なのだ。もともと、反権力とも自由とも無縁の人物。ちょっと気取って、似合わぬながらの「自由の旗手」のポーズをとって見たことがある程度。

 とはいうものの、この産経記事の中には次のような関係者の言葉が連ねられている。「(安倍晋三)総理の優しいお人柄を垣間見ることができた」「板垣は肉体としては亡くなったが、その精神は滅びない」「自由民権運動は終わってなどいない。今の政党政治に受け継がれている」「民意を問う選挙の最中に行われたこの暴力的行為を許すことはできない」「(安倍氏は)客観的にも、国民から最も愛された首相だ」「事件の重大さを今一度思い返してほしい」。さすが産経である。

日本は、けっして「明日のベラルーシ」になってはならない。

(2023年3月29日・連日更新満10年まであと2日)
 ロシアがウクライナに侵攻して以来の1年有余。この両国がウクライナ全土を戦場とする戦争当事国となってきた。驚いたことに、唐突にロシアがベラルーシへの「戦術核配備」を発表し、ベラルーシが「準・戦争当事国」となった。ロシアとベラルーシとの合意によって、ことし7月1日までにベラルーシ国内に戦術核兵器を保管する施設が建設される予定だという。

 昨28日、ベラルーシ外務省は、戦術核の配備は北大西洋条約機構(NATO)などの圧力が原因と主張する声明を発表したという。同声明は、ベラルーシが米国や英国、NATO加盟国などから近年、政治・経済的に「これまでにない圧力にさらされてきた」と西側諸国を非難。「自国の安全保障と防衛能力を強化して対応することを余儀なくされている」と説明している。

 ロシアもウクライナも、それぞれの友好国から戦争遂行のための有形無形の支援を受けてきた。むろん通常兵器の提供も受けている。しかし、核配備の受け入れとなれば、話は次元を異にする。この戦時に戦争当事国の一方に対して、対立国を標的とする「戦術核配備」を提供するというのだ。これ以上の威嚇はない。一方当事国への「支援」の域を超えて、対立当事国への敵対関係を宣告するに等しい。それだけの覚悟を必要とすることなのだ。しかも、ロシアとの関係深く、ウクライナとは長い国境を接するベラルーシにおいてのことである。ウクライナ友好国の全てに対する敵対宣言ととられても不自然ではない。

 考えるべきは、ベラルーシの決断のメリットとデメリットである。ロシアの「戦術核配備」を受け入れることが、果たして「自国の安全保障と防衛能力を強化して対応すること」になるものだろうか、同国の国際的な威信を高めることだろうか。さらには、ロシアにとっても、有利な戦況をもたらすものとなるだろうか。

 ベラルーシ内の「戦術核」発射施設は、戦況がエスカレートした際の第1攻撃目標となる。ウクライナとしては、目と鼻の先に位置する、このとてつもない危険物の存在を見過ごしてはおられないからだ。ウクライナ軍の砲門は、常時この発射施設に向けられる。岸田文雄が言う「敵基地攻撃」の対象施設になるのだ。しかも、いざというときには一瞬の逡巡があっても取り返しのつかないことになるのだから、「自衛的先制攻撃」の誘惑を捨てきれない。「戦術核」配備は、ベラルーシの戦争被害リスクを確実に大きくする。

 それだけではない。「西側諸国は、劣化ウラン弾をウクライナに提供する。西側の同盟が核を用いた兵器を使い始めるということになる。そうなればロシアは対応する必要がある」というのがプーチンの理屈である。「劣化ウラン弾提供には、戦術核配備で対抗するしかない」というわけだ。また、ベラルーシとしては、「これまでにない圧力に『対抗』するための戦術核配備」だという。しかし、西側諸国の側から見れば、「ベラルーシへの戦術核配備には、ウクライナへの戦術核配備で対抗するしかない」と言うことにならざるを得ない。明らかに、危険な核軍拡競争の負のスパイラルに足をすくわれている。安全保障のジレンマに陥ってもいる。ベラルーシの安全保障は損なわれることになるだろう。

 さらに強調すべきは、ロシアもベラルーシも、核拡散防止条約(NPT)の締約国であることである。NPTは、核兵器禁止条約の厳格さを持たない。しかし、米、露、英、仏、中5か国の「核兵器国」からの核拡散を防止し、「核兵器国」にも「非核兵器国」にも核不拡散義務を課し、締約国には誠実に核軍縮交渉を行う義務を規定している。ロシア、ベラルーシ両国ともに、国際条約を誠実に遵守する姿勢を持たない非文明国として、国際的な権威を失墜することになろう。

 この事態は、ロシアにも跳ね返る。戦術核の配備や使用にこだわることは、戦争遂行への自信のなさの表れと見透かされることになろう。そして、国際的な威信の失墜は覆うべくもない。この戦争を見つめる多くの中立国から見離される、あらためての契機となるに違いない。

 いま、保守陣営からは、「今日のウクライナは明日の日本だ」「だから侵略に備えて、軍備の増強が必要だ」との声が上がっている。その声が、既に防衛予算の増額に反映し、今後の「大軍拡・大増税」も招きかねない。

 しかし冷静に、まずは「明日の日本を今日のベラルーシにしてはならない」と考えるべきだろう。軽々に、核抑止が有効だなどと単純に考えてはならない。いまベラルーシが直面している核配備の大きなデメリットに注視しなければならない。戦術核配備に限らない。実は、戦争当事国の一方に対する通常兵器の提供も、これと同等の有形無形の支援もリスクのあることなのだ。リスクの大きな「大軍拡・大増税」路線に舵を切ってはならない。

 そのことは、「明日の日本を今日のウクライナにしてはならない」という平和の道を探ることに通じる。ウクライナにも、ロシア侵攻を避ける途はあったはずである。軍備を固めるのではなく、国連を通じ誠実な外交の通じての平和を確立する道。そのことを徹底検証して教訓を生かさねばならないと思う。

「(憲法24条のおかげで)日本の女性のいいところが失われてきた」ー 扇千景かく語りき

(2023年3月28日・連日更新満10年まであと3日)
今月7日に亡くなった扇千景の葬儀が昨日行われた。皇族やら、政治家やら、芸能人の参加で、大いに「盛り上がった」ようだ。

 伝えられているところでは、「本葬に先立ち、遺骨を乗せた車が国会正門前を通過し、議員や関係者が整列して見送った」「祭壇には、天皇、上皇からの花も供えられた」「旭日大綬章、桐花大綬章、24日に叙されたばかりの従二位の勲章も並んだ」という俗物ぶり。

 弔辞は小泉純一郎。こう述べたという。
「女性が活躍される社会を目指し、その先頭に立って切り開いてこられた道には、続々と後輩達は続いております。政治家として全身全霊で走り抜けられた先生。改めて心から敬意と感謝を申し上げます」

 そりゃちがうだろう。扇千景という人、いかにも保守の顔をした自民党の議員となり、「女性初の参議院議長」にもなった。だから打たれざるを得ない。一昔前の私のブログを再掲しておきたい。「憲法日記」の前身である、「事務局長日記」の時代。日民協のホームページに掲載していた当時のものである。

http://www.jdla.jp/jim-diary/jimu-d.html
澤藤統一郎の事務局長日記  2005年07月03日(日)

ベアテさんと、ある女性議員  

ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、1945年暮れから、GHQの民政局で調査専門官として日本国憲法の草案起草に携わった。当時22歳。ウィーン生まれで5歳から15歳までを日本で過ごしている。ジェームス三木シナリオの演劇「真珠の首飾り」や、映画「ベアテの贈り物」で、その活躍がよく知られている。

「贈り物」というニュアンスは、日本の民衆が勝ち取ったというものでないことを物語るが、残念ながら事態はそのとおり。しかし、その後これを自らの血肉としたときに、勝ち取ったと同様の誇りを手にすることができる。

そのベアテさんは、参議院の憲法調査会に招かれて、参考人として報告し意見を述べている。00年5月2日のこと。その議事録によると、彼女が起草した憲法24条の原案は次のとおりであったという。

「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである」

個人の尊厳、両性の平等の理念が、旧弊な日本の現状を批判する文言となって条文化されている。これが、紆余曲折を経て、現行の条文となった。

ベアテさんの基調意見に対して、笹野貞子、吉川春子、大脇雅子、佐藤道夫らの委員が、さすがにそれなりの水準の質疑をしている。ところが、ある女性委員の質問が不得要領、さっぱり何を言っているのやら‥。速記者も困ったろうが、こう書き留められている。

「私は、女性の権利をこれだけ高めていただいたことには感謝申し上げますけれども、現実に日本の今の我々の生活、日本が今日あるということに関しては、この憲法の中から、これは日本国でなければならないという、女性というものが、女性の創造が見えてこないんですね。それは、日本の伝統文化というものが、今の日本の中でいかに伝統文化が重んじられていないかという点、そして義務と権利の民主主義のあり方等々も私は女性としては大変問題点もやっぱり今現実には起こっているであろうと。
ですから、権利は与えられたけれども、それに対する本来の、ゴードンさんが先ほどおっしゃった、女性の虐げられたという言葉をお使いになりましたけれども、虐げられただけではなくて、日本の女性のいいところがこの五十五年の中で失われてきたということも私どもは大いに勉強しなければならない、また私たち自身も反省しなければならないことだと思います」

「(憲法24条のおかげで)日本の女性のいいところが失われてきた」「そのことを反省しなければならない」と言ってのけているこの程度の人物が、国会議員となり、憲法調査会委員となり、そして今は参議院議長として、憲法調査会報告書を受領する立場にある。その人の名を、扇千景という。

これが、高市早苗の言う「捏造」文書だ。

(2023年3月27日・連日更新満10年まであと4日)
 本日午前の参院本会議での答弁で、岸田首相は、野党からの高市早苗に対する罷免要求を改めて拒否した。今のところは、高市のクビはつながっている。しかし、これからどうなるかは分からない。首がつながったところで、高市に対する国民のイメージは地に落ちた。とりわけ保守派の高市見限りは避けられない。自民と有力者の高市を見る目は一様に冷ややかだという。さもありなん。右派高市ののダメージは大きい。安倍の負の遺産の一角が崩れつつある現象の一部と見てよいだろう。

 ところで、高市罷免要求の根拠となった今回の事件を何と呼ぶべきだろうか。けっして「高市早苗クビ賭け事件」ではない。「高市早苗・捏造固執事件」でも、「高市早苗落ち目の始まり事件」でもない。閣僚のクビの問題ではなく、民主主義の問題なのだ。「放送法解釈変更事件」であり、「権力による『政治的公平』濫用事件」でもあり、「安倍政権のメディア介入手口暴露事件」なのだ。

 放送法の政治的公平を巡っては、第2次安倍政権当時の官邸幹部が、解釈を巡り総務省と協議したことなどが記された行政文書が公表されている。当時総務相の高市氏が官僚のレク(説明)を受けたとの記述もあるが、高市氏は記載内容を一貫して否定している。

 高市早苗が捏造と非難している行政文書は、高市自身に関わるもので4枚ある。以下にそのうちの一枚である、「高市大臣レク結果」と題する文書の全文を正確に転載してみる。是非お読みいただきたい。高市自身は、「受けたはずがない」とレクそのものを否定していたが、総務省は調査の結果「レクは行われた可能性が高い」としたものである。

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                                                        [取扱厳重注意]

【配布先】桜井総審、福岡官房長、今林括審、局長、審議官、総務課長、地上放送課長 ←放送政策課 

            

高市大臣レク結果(政治的公平について)

日時 平成27年2月13日(金)15:45?16:oo
場所 大臣室
先方 高市大臣(O)、平川参事官、松井秘書官
当方 安藤局長(×)、長塩放送政策課長、西がた(記)

 安藤局長から資料に沿って説明。また、補佐官からの伝言(下記のほか、「今回の整理は決して放送法の従来の解釈を変えるものではなく、これまでの解釈を補充するものであること」、「あくまで一般論としての整理であり特定の放送番組を挙げる形でやるつもりはないこと」)について付言。質疑等主なやりとり以下のとおり。

○)「放送事業者の番組全体で」みるというのはどういう考え方なのか。
×)例えば「総理と語る」や「党首と語る」番組はどの局でもあり得るところ、国民の二?ズに応えるものでもあり、これだけをもって政治的公平を欠くとすることは不適当。むしろ、与野党も含め、いろいろな番組を通じて多様な情報提供を期待するもの。
○)放送番組の編集に係る政治的公平の確保について、これを判断するのは誰?
×)放送番組は放送法による自律の保障のもと放送事業者が自らの責任において編集するものであり、一義的には放送事業者が自ら判断するもの。
○)「一つの番組」についてはどう考えるのか。
×)(このペーパーでいう「一つの番組」は、)報道ステーションなら報道ステーション、モーニングバードならモーニングバードの1回の番組を指しでいる。
×)大臣のご了解が得られればの話であるが、礒崎補佐官からは、本件を総理に説明し、国会で質問するかどうか、(質問する場合は)いつの時期にするか、等の指示を仰ぎたいと言われている。
○)そもそもテレビ朝日に公平な番組なんてある?どの番組も「極端」な印象。関西の朝日放送は維新一色。維新一色なのは新聞も一緒だが、大阪都構想のとりあげ方も関東と関西では大きく違う。(それでも政治的に公平でないとは言えていない中)「一つの番組の極端な場合」の部分について、この答弁は苦しいのではないか?
x)「極端な場合」にづいては、「殊更に」このような番組編集をした場合は一般論としては政治的公平が確保されていないとい。う答弁案になっている。質問者に上手に質問され、その質問を繰り返す形の答弁を想定しているが、言葉を補う等した上で答弁を用意したい。
○)苦しくない答弁の形にするか、それとも民放相手に徹底抗戦するか。TBSとテレビ朝日よね。実際の答弁については、上手に準備するとともに、?(カツコつきでいいので)主語を明確にする、?該当条文とその逐条解説を付ける、の2点をお願いする。
○)官邸には「総務大臣は準備をしておきます」と伝えてください。補佐官が総理に説明した際の総理の回答についてはきちんと情報を取ってください。総理も思いがあるでしょうから、ゴーサインが出るのではないかと思う。

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 高市は、この文書を「捏造」と言明し、「捏造が事実でなければ、大臣、議員を辞職する」とまで言及した。さすが自称の安倍後継。安倍と同様、食言を気しない。自分の言葉に責任をもとうとしないのだ。「総理も議員も辞める」と言って、けっして辞めない姿勢は、右翼に共通のものなのだろう。

 文書の「捏造」とは、権限のない者が勝手に文書を作ったり、あるいは事実無根の内容をデッチ上げたりという意味である。正確性に疑問があるという程度のことを「捏造」とは言わない。ましてや、官僚がその職掌の範囲で作成した行政文書を「捏造」というのは、文書の作成者に無礼であり、失礼極まる。本来なら、発言を撤回して謝罪しなければならないが、そうすると「大臣も議員も辞める」と言った手前、それができない。自業自得ではあるが、進退窮まったというところ。

 だが、この問題はけっして高市事件ではない。前記の文書によれば、高市レクの日付は2015年2月13日である。世は、安倍第2次政権の集団的自衛権行使容認の方針をめぐって、大きなせめぎ合いのさなかにあった。安保法制成立に向けて、安倍内閣は安保法制懇を作り、内閣法制局長の首をすげ替え、強引に法案の閣議決定に至ったのが、15年5月14日である。そして、法案成立強行に至ったのが同年9月19日。安倍政権は、世論操作に躍起になっていた。安倍のメディア操作は硬軟両面に及んだ。硬派を受け持ったのが、タカ派高市にほかならない。

 この時期、放送界に思いがけないことが起こっている。テレビ朝日「報道ステーション」でコメンテーターだった古賀茂明が15年3月に降板。降板理由を「首相官邸のバッシングがあった」と述べている。その後に、NHK「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターや、TBS「NEWS23」アンカーの岸井成格、「報ステ」の古舘伊知郎など相次いで番組を降板した。いずれも安保法制など安倍政権に批判的な立場を示していた点が共通していたとされる。

 表現の自由とは、メデイアの自由とは、権力を批判する自由である。権力を批判するメディアは、国民の支持あってこそ育つ。政治の質も、ジャーナリズムの質も、実は国民次第なのだ。

 貴重な政権運営の裏側を国民に見せてくれた、「安倍政権のメディア介入手口暴露事件」である。幾重にも、教訓を読みとらなければならない。

天皇に「もう来るな 」の横断幕は、思想良心の自由、表現の自由として、保障されなければならない。

(2023年3月26日・連日更新満10年まであと5日)

東京弁護士会は、受理した人権救済申立事件において今月20日付で警視庁に対する下記警告を発した(ホームページへの掲載は23日)。

事案は、天皇制に反対する40代男性が天皇夫妻の自動車に沿道で「もう来るな」などと書いた横断幕を掲げたところ、警視庁の警察官(複数)から執拗な尾行、嫌がらせをうけたというもの。天皇制反対の思想が怪しからんはずもなく、その表現が規制される言われはない。当然のことながら、東京弁護士会は、警視庁の行為を人権侵害と断じて、再発のないよう強く警告をした。その警告書の全文を、転載しておきたい。

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2023(令和5)年3月20日

警視庁 警視総監 小 島 裕 史 殿

東京弁護士会 会 長 伊 井 和 彦

人権救済申立事件について(警告)

 当会は 、 申立人V氏からの人権救済申立事件について 、当会人権擁護委員会の調査の結果、貴庁に対し下記のとおり警告します。

第1 警告の趣旨
 貴庁所属の警察官らは、貴庁の職務活動として、2013(平成25)年10月11日から2014(平成26)年4月17日までの間に、別紙1記載のとおり、少なくとも5名(A、B、C、D、Fと表記)のうち1人または複数により申立人を公然と尾行・監視する等の行為を行った(以下、「本件尾行行為等」という。)。
 貴庁の警察官らによる上記職務活動は、申立人のプライバシー権、表現の自由、思想・良心の自由を侵害する違法な行為であり、重大な人権侵害行為である。
 よって、当会は貴庁に対し、貴庁自身が上述のような人権侵害行為の重大性を十分に認識・反省した上で貴庁所属の警察官への指導・教育を徹底するなどして、今後、貴庁の警察官がこのような人権侵害を行わないよう強く警告する。

第2 警告の理由
1 認定した事実
(1)申立人について
 申立人は、W市に在住する者であり、日本に天皇制があることに反対する旨の意見をもち、また、「X」と称する市民団体に所属する者である。
(2)本件尾行行為等に先立って、次の事実があった。
 2013(平成25)年10月、申立人は国民体育大会が開催された「Y」から天皇皇后夫妻(当時。現在の上皇、上皇后)が車で帰路につく際、その沿道で、1人、平穏な態様で「もう来るな W市民」とマジックで書いた横断幕を掲げた(以下、「本件抗議活動」という。)。
 本件抗議活動 は、天皇制 に 批判的な考えをもつ申立人が自由な表現行為として行ったものであり、 天皇皇后の帰途 や警備活動を妨げるものではなかった。
ところが 、申立人は 、私服刑事に両腕を掴まれて待機を命じられた。その後 、数十人の私服刑事に取り囲まれ 、その場に拘束されたほか 、質問を浴びせられたり 、非難等 をされた りした 。申立人 が 、大声で抗議し続けたところ 、20分ないし30分後に解放された。
(3)本件尾行行為等
 申立人の供述によれば、本件抗議活動の後、貴庁所属の警察官ら少なくとも5名(A、B、C、D、Fと表記)は、貴庁の職務活動として、別紙1記載のとおり2013(平成25)年10月11日から2014(平成26)年4月17日までの間、少なくとも21日にわたり1人又は数人により申立人に対し尾行したり、つきまとうなどの行為をした。その態様は、遠くから尾行・監視する場合もあれば、申立人が認識しうる形で申立人のすぐ近くに迫るなどして尾行・監視することもあった。また、申立人の行動を監視している旨告げたり、必要もないのに申立人の就業先をわざと訪ねたり、申立人やその家族である幼い娘の写真を撮影する等の行為を行った。
(4)上記の申立人の供述は、以下の点において、申立人から提出された資料及び当会の調査に基づく資料による 客観的な裏付けがあり、信用することができる。
ア Aは、貴庁が所有し久松警察署が管理する自動車登録番号「Z」の車両に乗車しながら本件尾行行為等を行っている(別紙1?、別紙2、別紙3)。
イ Aが行った本件尾行行為等は、別紙1?、?、?、?について、
申立人、申立人の妻、申立人の協力者が撮影した画像、動画の裏付けがある。
ウ Bが行った本件尾行行為等は別紙1?、Dが行った本件尾行行
為等は別紙1?について、申立人、申立人の協力者が撮影した画
像、動画の裏付けがある。
(5) 当会は貴庁に対し、 申立人の上記供述 及び客観的な裏付け資料等に基づき、本件について平成27年9月4日付け照会書 により、事実関係等について詳細な照会を行った。
 しかし 、これに対し貴庁は、 同 年10月2日付回答書において 、
「ご依頼の照会事項につきましては、貴意に沿いかねます。」と回答し、全ての照会事項について回答を拒否した。このような貴庁の回答拒否は、当会の行う人権救済活動の目的、趣旨に照らし、きわめて遺憾であるといわざるをえない。
(6) 以上のとおり、 当会は、申立人からの事情聴取、申立人から提出された 資料、当会の調査による資料 、貴庁による本件の回答拒否等を含めて、本件に関する事情等を総合的に検討して 、貴庁所属の警察官であるA、B、C、D、F が職務行為として本件尾行行為等を行ったことを事実認定したものである。
 なお、申立人は、 本件尾行行為等を行った 者の氏名を知ることができないためにA ?Fとして特定した。当会も本件警告をするにあたって上記 A ? Fをそのまま用いることとし、その上で貴庁の警察官とは認定できなかったEを除外したものである。
2 本件尾行行為等の違法性及び人権侵害性
(1)本件尾行行為等の違法性
ア 大阪高裁昭和51年8月30日判決(判例時報855号115頁)は、当該事案において、警察官が尾行している対象者に気付かれ、抗議を受けた後も尾行行為を継続したこと自体は違法とはいえないが、「如何なる態様、程度の尾行行為をも許されるわけ
ではないことは、警察法二条 二項、警職法一条 二項の趣旨に照らして明らかであり、どのような態様、程度の尾行行為が許されるかは、いわゆる警察比例の原則に従い、必要性、緊急性等をも考慮したうえ、具体的状況の下で相当と認められるかどうかによっ
て判断すべきものと解すべきである」と判示して、最高裁昭和51年3月16日決定(判例時報809号29頁)を引用し、警察官が対象者の後方わずか数メートルの至近距離範囲内を尾行(密着尾行)した行為は、「実質的な強制手段とはいえないにしても、前記のような判断基準に照らし相当な尾行行為であるとは到底認め難く、違法であるといわなければ ならない。」と結論づけている。
イ Aら警察官は申立人に対して捜査する必要を有していたわけではないと考えられる。このことは、 ?本件尾行行為等のきっかけは、申立人の本件抗議活動であることは明らかであること、? 申立人は本件尾行行為等の前、本件尾行行為等の 期間中 、犯罪行為
は行っていないこと、 ? Aら警察官は申立人の事情聴取を全く行っていないこと等から認められる。
 そして、本件尾行行為等の態様、回数、頻度、期間等からすれば、本件尾行行為等の目的は、?本件抗議活動への報復・いやがらせ、?申立人に対して将来的に本件抗議活動のような反天皇制の表現活動をさせないために心理的圧迫を加えること、?申立人に関する情報収集活動、の3点であると考えられる。
 以上よりすれば、 上記裁判例に照らしても、 本件尾行行為等には、正当な目的や 必要性、相当性は 到底認められず、違法であることは明らかである。
(2) 申立人の プライバシー権、表現の自由、思想・良心の自由に対
する侵害

ア プライバシー権の侵害
 本件尾行行為等は、申立人を尾行するか、尾行を伴わないものであっても申立人の行動を注視するものであるから、申立人の私生活を公権力が意図的にうかがい知るものであり、プライバシー侵害の可能性がある。それがプライバシーの侵害にならないとい
えるためには、本件尾行行為等を正当とする理由が必要である。
 しかし、上述のように、A らが行った本件尾行行為等には正当な理由、必要性、相当性等は 認められない。したがって、本件尾行行為等により、正当な理由等がなく申立人の日常生活が公権力に監視されたのであるから、プライバシー権の侵害があったことが明らかである。

イ 表現の自由の侵害
 申立人は、天皇制に反対の考えをもっており、天皇はそのような市民がいることを知るべきだ、との思想(考え)のもとに、 2013( 平成25 ) 年10月、「もう来るな W 市民」とマジックで書いた横断幕を天皇・皇后の乗る車両から見えるようにして
掲げるという本件抗議活動を行った。
 本件抗議活動は 表現の自由の1つの形態である。 また、本件抗議活動は、警備活動を妨げるものではなかったし、また、どのような法令に抵触するものでもなかった。
 ところがAらの警察官は執ように本件尾行行為等を行った。本件尾行行為等は、客観的にみて、同様な行為を今後行うことをためらわせるのに十分な威迫力をもつ。申立人も、つきまとわれることによる精神的苦痛を感じており 、 既に萎縮的効果が十分に発生している。
 他方、上述のとおり、Aら警察官による本件尾行行為等には正当な理由や必要性、相当性等は認められない。

 したがって 、本件尾行行為等は申立人の表現の自由 の侵害にあたる。

ウ 思想・良心の自由の侵害
 申立人は、天皇制に反対の考えをもっており、天皇はそのような市民がいることを知るべきだ、との思想をもっている。この申立人の思想は憲法で保障されるものである。
ところが、この思想の表現行為として申立人が本件抗議活動を行ったところ、本件尾行行為等が行われたものである。
 上述のように、本件尾行行為等には 、正当な理由や必要性、相当性等は認められず、 本件抗議活動と同様の 表現行為をすることをためらわせるに十分な威迫力を有するものである。
 そもそも、本件尾行行為等の目的は、上述のように、 ?本件抗議活動への報復・いやがらせ、?申立人に対して将来的に本件抗議活動のような反天皇制の表現活動をさせないために心理的圧迫を加えることであると考えられる。
 したがって、本件尾行行為等は、申立人の思想・良心の自由の侵害にあたる。

3 結論
 以上のとおり、本件尾行行為等は、重大な人権侵害行為である。
 また、本件尾行行為等が、申立人のみならず申立人以外の国民に対しても行われるとすれば、国家による監視社会の形成・思想統制につながりかねず、民主主義の根本を揺るがす深刻な事態を招くことになる。

 よって、当会は貴庁に対し、警告の趣旨記載のとおり警告する。

第3 添付書類
別紙1 尾行・監視行為等の一覧表
別紙2 貴庁警察官のうちA、B、Dの写真、車両の写真
別紙3 原簿情報照会
以上

核軍事国家ロシアの、危険な核依存・核威嚇体質。

(2023年3月25日・連日更新満10年まであと6日)
 昨年の2月24日以後、ウクライナでの戦争が頭を離れない。大規模な殺戮と破壊が繰り返されていることに、怒りと苛立ちが治まらない。1日も早い平和の回復を祈るしかないが、その和平が難しい。人が平和に暮らすことが、どうしてこんなにも困難なのだろうか。

 とりわけ、侵略軍であるロシアがウクライナの民間人に危害を加える報に感情が昂ぶる。ウクライナ東部バフムートの戦況について、優勢なロシア軍の攻撃が激しいと言われてきたが、ここ数日、ロシア軍が勢いを失いつつあるとのニュースに、すこしホッとし、しかしなお戦闘はおさまらず、両軍に死者が絶えないことにむねがふたぐ。

 そんな折、ロシア前大統領から、「クリミア攻撃なら『核兵器使用の根拠に』」という発言が飛び出した。またまた、落ち込まざるをえない。いや、激怒せざるをえない。

 メドベージェフ前大統領は、現在ロシア国家安全保障会議副議長なのだという。その彼が、24日ロシアの記者らとのインタビュー動画をSNSに投稿して、ロシアが実効支配するウクライナ南部クリミア半島の奪還を目指してウクライナ軍が攻撃した場合の対応策として、こう語ったという。

 「(ウクライナ軍のクリミア攻撃が)核抑止のドクトリンで規定されたものを含むすべての防衛手段を使用する根拠になるのは明白だ」「国家の一部を切り離す試みは、国家の存在自体への侵害だ」「そのことを、大洋の向こうの『友人』(アメリカ)が理解してくれることを願う」

 ウクライナがクリミアを攻撃するなら、核兵器を使用して反撃するぞ、という威嚇である。ロシアは、2014年にはウクライナからクリミアを奪った。そして、2022年には首都キーウに侵攻を開始した。しかし、1年余を経て新たな侵略に失敗し、却ってウクライナにクリミア半島の奪還を許す恐れなしとしない状況とみるや、露骨に核兵器の使用を広言して威嚇しているのだ。

 ベドメージェフが言う「核抑止のドクトリン」とは、プーチンが署名した「核抑止の国家政策の基本」(2020年6月2日、大統領令355号)なる文書。通常兵器で攻撃を受けた場合でも、国の存在が脅かされるならロシアは核兵器で反撃できる、と明記されている。

 この大統領令は、《I. 総則、II. 核抑止の本質、III. ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件、IV. 核抑止における連邦政府機関の機能及び任務》の4章、20か条から成る。

 その基本思想は、「2. 仮想敵がロシア連邦及び(又は)その同盟国に対する侵略を確実に思いとどまるようにすることは国家の最優先課題の一つである。侵略の抑止は、核兵器を含めたロシア連邦の全軍事力の総体によって確保される」「9. 核抑止とは、ロシア連邦及び(又は)その同盟国を侵略すれば報復が不可避であることを仮想敵に確実に理解させるようとするものである」「10. 核抑止を担保するのは、核兵器の使用による耐え難い打撃をいかなる条件下でも確実に仮想敵に与え得るロシア連邦軍の戦力及び手段の戦闘準備並びにこの種の兵器を使用することについてのロシア連邦の準備及び決意である」というものである。ロシアとは、その安全保障の基本を核抑止におく、核依存軍事国家なのだ。

 そして、『III. ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件』を、次のように定める。「17. ロシア連邦は、自国及び(又は)その同盟国に対する核兵器及びその他の大量破壊兵器が使用された場合並びに通常兵器を用いたロシア連邦への侵略によって国家の存立が危機に瀕した場合において核兵器を使用する権利を留保する」

 読み易いように抜き書きすれば、「ロシア連邦は、通常兵器を用いたロシア連邦への侵略によって国家の存立が危機に瀕した場合において核兵器を使用する権利を留保する」というのだ。

 メドベージェフは、ウクライナのクリミヤ攻撃を「通常兵器を用いたロシア連邦への侵略」とし、しかも「国家の存立が危機に瀕した場合」というのだ。なんという、身勝手で理不尽な理屈。そして、核兵器という存在そのものの危険性。

 また、メドベージェフは、ICCのプーチンに対する逮捕状発付に触れて、「想像してみよう。核保有国の首脳が、たとえばドイツを訪問して逮捕されたとする。これは何になるか。ロシアに対する宣戦布告だ」「ロケット弾などありとあらゆる物が、独連邦議会や首相府に飛来するだろう」とも述べている。ここでも品位に欠ける露骨な核の脅しである。およそ、真っ当な国の高官の発言ではない。

 あらためて思う。核兵器と人類の共存はない。

君が代不起立に対する懲戒処分には、理由付記不備の違法という取消事由もある。

(2023年3月24日・連日更新満10年まであと7日)
 昨日、東京「君が代」裁判・5次訴訟の第9回口頭弁論期日が開かれ、原告は準備書面(12)を陳述した。これが、新しい処分違法事由の主張となっている。

 「行政手続法」上、公権力の行使としての不利益処分には処分理由の付記が要求される。その理由付記に不備があれば、それだけで当該の不利益処分は違法とされ、取消されることになる。そのような制度の趣旨を、最高裁は「行政庁の判断の慎重と合理性を担保してその恣意を抑制するとともに、処分の理由を名宛人(処分対象者)に知らせて不服申立てに便宜を与える趣旨に出たもの」と説明している。

 問題は、どこまでの理由付記が求められるかである。理由付記の制度の趣旨に鑑みて、最高裁は抽象的にはこう言っている。「当該処分の根拠法令の規定内容、当該処分に係る処分基準の存否及び内容並びに公表の有無、当該処分の性質及び内容、当該処分の原因となる事実関係の内容等を総合考慮して決定すべきである」。こう言われても、よく分からない。

 しかし、同じ最高裁が、一級建築士に対する免許取消の処分についての具体例において、必要とされる付記理由の範囲を、「処分の原因となる事実及び処分の根拠法条に加えて、本件処分基準の適用関係が示されなければ、処分の名宛人において、上記事実及び根拠法条の提示によって処分要件の該当性に係る理由は知り得るとしても、いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかを知ることは困難であるのが通例であると考えられる」(第3小法廷2011年判決)との判断を示した。

 つまりは、付記すべき理由としては「処分の原因となる事実及び処分の根拠法条」だけでは足りない。これに加えて、「本件処分基準の適用関係」を示さなければならない。そうでなくては、「いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかが分からない」という。換言すれば、「いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかが分かるように、本件処分基準の適用関係まで理由を付記せよ」と言っているのだ。その観点から、最高裁は一級建築士に対する免許取消処分を、理由付記に不備の違法があるとして取り消した。

 もっとも「行政手続法」の当該条項は、公務員の懲戒処分には直接適用はないこととされている。しかし、行政機関が公務員に対して懲戒処分をおこなうに際し、その手続的な適正・公正が同様に確保されなければならないことは、憲法31条(適正手続の保障)に照らして、当然のことというべきである。

 最高裁判決が説く処分理由付記が求められる根拠と具体的な範囲は、君が代・不起立で懲戒処分を受けた本件原告ら各教員の件においても、「処分の名宛人において、当該処分が選択された理由を知ることができる程度の理由の記載が求められる」とした前記最高裁2011年判例の判示が妥当するものというべきである。

 ところで、都教委が公表している服務事故に対する「懲戒処分及び措置の基準」としては、大別して、「措置(文書訓告)、指導、懲戒処分(免職、停職、減給、戒告)」により行政責任が問われるとされている。

 ということは、本件原告ら教員に対する処分理由として、「なにゆえに、措置(文書訓告)でも、指導でもなく、地公法上の『懲戒処分』が必要と判断されたか」まで付記しなければならないが、それはない。したがって、原告らがその理由を読み取ることはできない。このことは、明らかな最高裁が求める理由付記の不備であり、手続上の違法である。

 整理をすれば、こんなところである。
 公務員に対する地方公務員法上の懲戒処分においても、「処分の名宛人において、上記事実及び根拠法条の提示のみならず、いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかを知ることができる程度」の理由の記載が要求されているとところ、本件において原告らに交付された各処分説明書においては、これが欠けることが明らかである。原告らは、いかなる考慮を踏まえて文書訓告や指導に止まらない懲戒処分が選択されたかを知り得ず、理由付記として十分ではない。したがって、本件各懲戒処分は理由付記不備の違法があり、手続的に公正・適正を欠くものとして取り消されなければならない。

 準備書面(12)は以上の主張を前提に、いかなる考慮を踏まえて、文書訓告や指導に止まらない懲戒処分が選択されたかを中心に、被告都教委に対して詳細な求釈明をしている。

 この訴訟では、君が代不起立に対する処分を違憲違法とし、また処分権限の逸脱濫用と主張してきた。それに加えて、本準備書面において、理由付記不備の手続き的違法を主張するものである。

「人がみな 同じ方角に向いて行く」 ー WBC過熱を憂うる。

(2023年3月23日・連日更新満10年まであと8日)
 連日のメディアにおけるWBCの扱い方が異常である。過剰なナショナリズムに不気味さを感じざるをえない。本日の報道の中に、「列島歓喜」という見出しを打ったスポーツ紙があった。「列島」は歓喜しない。「列島に暮らす人々皆が歓喜した」というのなら、日本チームの応援をしない者は非国民と言わんばかり。ならば、喜んで非国民となろうではないか。

 皇室に慶事があったからとて、祝意の強制なんぞまっぴらである。皇室の弔事にも安倍国葬にも、弔意の強制は御免を蒙る。たかが野球で「列島歓喜」という感性が理解しかねる。いや、うす気味悪いというしかない。
  
 古代ローマの支配者は、人民にパンとサーカスを与えておくことで、支配の安泰をはかった。いまも事情はたいして変わらない。皇帝がしつらえた円形闘技場での見世物が、今は資本の提供する「オリンピック」「ワールドカップ」「WBC」に形を換えられているに過ぎない。

 為政者にとっては、野球にせよサッカーにせよ、スポーツに夢中になる国民は大歓迎なのだ。ウクライナでの戦争を忘れ、大軍拡大増税も忘れ、南西諸島への軍備配置も、統一教会と政権与党との癒着も忘れての「列島歓喜」。さながら「鼓腹撃壌」で世は事もなげではないか。現行の社会秩序の維持のために、これ以上のお膳立てはない。

 先日、「九条の会」の街宣活動で、私より前にマイクを取った仲間がこう言った。「私は野球が大好きです。毎日WBCを楽しんでいます。こういう楽しみも平和があればこそ。戦争が始まれば、いや戦時色が強まれば野球どころではなくなります。そんな世の中は御免です。野球を楽しむためにも、平和を壊すような動きには、一つひとつ反対していこうではありませんか」

 なるほど、そう言った方が人の耳に入る言葉になるとも思ったが、私は一切テレビを見ない。「野球を楽しむためにも平和を」などと無理に言うと、きっと舌を噛んでしまうに違いない。

 「侍ジャパン」というチーム名も面白くない。「侍」とは人斬りである。人を斬る技術を錬磨したテロリスト集団ではないか。常時凶器を携帯した危険人種でもある。支配階級の一員として、政治機構を独占し被支配者に君臨する存在。自らは生産に従事せず、人民を搾取し収奪する一員である。そして、自らの君主には絶対服従して腹を切ってみせる狂人でもある。

 そんな「侍」たちの活躍に、大多数の日本人が喝采を送っている。そんなときには、誰かが冷ややかな発言をしなければならない。そう、石川啄木のように。

 人がみな
 同じ方角に向いて行く。
 それを横より見てゐる心。
      
 (「悲しき玩具」より)

岸田文雄はモスクワを訪問せよ。プーチンとも会談をすべきだ。

(2023年3月22日)
 岸田文雄はウクライナを訪問し、習近平はプーチンを訪ねた。両者ともに安易な訪問先の選択である。本来の外交は、その逆であるべきではないか。

 岸田がモスクワに足を運べば、世界を驚かす「電撃訪問」となっただろう。たとえ成功に至らずとも、プーチンに撤兵を促し、和平の提言をすることで日本の平和外交の姿勢を示しえたに違いない。国際政治における日本の存在感を世界にアピールすることにもなったろう。訪問先がキーウでは、インパクトに欠ける。平和へのメッセージにもならない。NATO加盟国首脳のキーウ訪問に必然性はあろうが、日本の首相がいったいなぜ、何のための訪問だろうか。

 また、習がプーチンより先にゼレンスキーと会談していれば、停戦仲介の本気度をアピールできたであろう。しかし、落ち目のプーチンと会うことで、恩を売ろうとの魂胆丸見えの訪露は、やはりインパクトは薄い。

 チャップリンの「独裁者」を思い出す。徹底的に俗物として描かれたヒトラーとムッソリーニ、その両者の会談の場面。お互いにマウントをとろうとする所作の滑稽さが、「独裁者」の内面を炙り出す。この映画の公開が、ヒトラー死の5年前、1940年の公開だというから驚かざるをえない。言うまでもなく、習もプーチンもその同類でしかない。

 米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは「きょうのウクライナは、あすの東アジアかもしれない」との岸田の発言を引用。「ウクライナ侵攻や中露接近が、台湾有事を警戒するアジアの米同盟国をより結束させている」と報じている。岸田のウクライナ訪問は平和を求めてのものではなく、軍事同盟強化のための外交と受けとめられているのだ。

 【ワシントン時事】の報道では、米欧メディアは、岸田と習の動きを、「自由民主主義陣営と専制主義陣営との対比」として描いているという。「日本はウクライナ政府への多額の援助を約束したが、中国は孤立を深める戦争犯罪容疑者のプーチンを支える唯一の声であり続けた」と。岸田も習も、それぞれのブロック強化のために動いているに過ぎず、けっして和平のための戦争当事国訪問ではない、という理解なのだ。

 外交は難しいが、戦争よりはずっと容易である。そして、戦争を避けるためには外交を活発化する以外にない。小泉純一郎は、北朝鮮との国交回復に意欲を見せ、日朝ピョンヤン宣言の成立まで漕ぎつけた。今振り返って、あの宣言内容の到達点を立派なものと称賛せざるをえない。惜しむらくは、その後の信頼関係の継続に失敗した。無念でならない。

 あのとき、北朝鮮との信頼関係構築のチャンスだった。これを潰したのは、右翼勢力を背景とした安倍晋三である。以来北朝鮮との関係を硬直せしめ、拉致問題解決に進展が見られないことの責任の大半は、安倍晋三とその取り巻きにある。

 北朝鮮は、人権思想も民主主義も欠いたひどい国ではあるが、それゆえ外交がなくてもよいことにはならない。積極的に接触を試み、相互に対話を積み上げていく努力を重ねなければ、常時軍事的衝突を憂慮しなければならない不幸な関係に陥るばかりである。

 中国も同様である。野蛮な中国共産党・習近平体制を肯定してはならないが、外交は活発にしてしかるべきである。媚びることなく、へつらうことなく、もちろん見下すこともなく、対等平等に意見交換を重ねなければならない。合意のできることをみつけ、協働の実績を積み上げなければならない。官民を問わず、あらゆるレベルで、頻繁に。それこそが、常に安全保障の基本である。

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