憲法96条先行改正問題を機に、「立憲主義」というやや固い法的概念が人口に膾炙することになった。「国民が権力を縛るのが立憲主義本来の姿。縛られるべき立ち場にある権力が拘束を嫌って、『縛りを緩くせよ』と要求することは本末転倒も甚だしい」と、至るところで述べられるようになった。国民的な憲法学習の効果として、日本国憲法とその理念が国民に確信として定着することはまことに喜ばしい。
「96条改憲の先には9条改憲が控えている」というフレーズも、ごく当然なものとして社会が受け入れるようになった。「9条改憲」のなんたるかについても、国民的な学習効果を期待したい。ここが、正念場だ。
「日本をめぐる国際環境が険悪になってきたから9条の平和主義の拠って立つ土台が崩れ、その実効性が薄らいできた」という論調が多少なりとも幅を利かすのは、平和主義についての国民的な学習効果が未熟だからだ。9条の平和主義は、国際紛争が現実化するときにこそ生きた規範となる。国際紛争のないときには、その解決手段としての「武力による威嚇」も「武力の行使」もそもそも必要がない。どんなに国際環境が悪化し、たとえ国際紛争が現実化しようとも、けっして武力に訴えることはしないと、予め覚悟をもって決めたのだ。それが、日本国憲法9条の平和主義だ。領土問題が深刻化したときにこそ出番の9条なのである。
いま9条は、「明文改憲」においてだけでなく、その内容を崩壊させる「立法改憲」と「解釈改憲」という形においても攻撃されている。具体的には、「国家安全保障基本法案」の提案と、集団的自衛権の行使を可能とする政府解釈変更の策動である。
昨日(7月30日)の毎日新聞は、「政府は、憲法解釈で禁じている集団的自衛権の行使について、秋の臨時国会での答弁で容認を表明する検討に入った。複数の政府関係者が明らかにした。安倍晋三首相の私的懇談会『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(安保法制懇)が秋に報告書をまとめるのを受け、首相か関係閣僚が解釈変更を表明。あわせて行使の具体的な範囲を巡る議論を加速し、法的裏付けとなる『国家安全保障基本法案』などの来年の通常国会への提出を目指す」と報道している。
恐るべき事態であって今後当面の憲法問題の焦点は、「安保法制懇報告⇒集団的自衛権解釈変更⇒新防衛大綱策定⇒国家安全保障基本法」となるだろう。そして、この動きと並行して、軍事機密擁護を主目的とする「秘密保全法」制定が目論まれ、その阻止が独立の重要課題となる。
これが、「自民圧勝」がもたらした結果。「躍進共産」に、反対運動の先頭になっての活躍を大いに期待したい。
少し心強いのは、安倍自民や安保法制懇などの集団的自衛権についての憲法解釈の見直し策動は、けっして世論の支持を受けていないことだ。一昨日(7月29日)の毎日新聞世論調査報道は、「集団的自衛権『行使容認に反対』51% 『景気優先を』35%」という見出し。「現在は憲法解釈上行使できないとされる集団的自衛権について、行使できるようにした方がいいと『思わない』とした人が51%に達し、『思う』の36%を大きく上回った。一方で、安倍晋三首相に一番に取り組んでほしい国内の課題は『景気回復』が35%と最多で、首相がこだわる『憲法改正』は3%にとどまった。首相は改憲や集団的自衛権の行使容認など保守色の強い政策に意欲を示しているが、世論の関心は経済に集中している」というのが記事の内容。
安倍自民の「圧勝」の内実は、実のところ「景気回復期待票」に過ぎない。安倍がはしゃいで出過ぎたことをすれば、たちまち民意は離れ政権は瓦解する。国民が平和主義について十分に学習して、学習効果が目に見えるようになるまで、けっして時間がないわけではない。平和を大切に思う人々の努力次第である。
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『ヘルマン・ヘッセの百日草』
昔の田舎の庭にはかならず百日草(ヒャクニチソウ)が植わっていた。花の少なくなる真夏につぎつぎと咲き続ける、あの強靱な花。蕾のときは、花びらが固く集まって、アルマジロの背中のような模様をした、コロンとした緑色のボール状になっている。花開けば、裏と表の色の違う厚紙で作られたような花びらが、ドライフラワーのように、何日間も色と形を保ちつつける。蕾が後から後からでてくることと、開いた花がいつまでも色あせないので、百日草と名付けられた。また、そのせいで、ちょっと野暮ったい花として軽んじられてきた感がある。
その花がヘッセに賞賛されると次のようになる。
「私は百日草の花束の、とりたての新鮮なときから枯れるまでの変化を、この上ない幸せな気持ちと好奇心を持って見守るのです。花の世界でも、切り取ったばかりの1ダースもの多種多様な色彩の百日草ほど晴れやかで、はつらつとしたものはありません。この花の色彩はもう強烈に内部から輝きを発し、色彩そのものが歓声をあげているのです。この上もなく派手な黄色と橙色、無類に陽気な赤と比類なく素晴らしい赤紫色、それらは、よく素朴な田舎娘のリボンや日曜日の民族衣装の色のように見えることもあります。私はこれらの強烈な色彩を望みのままに並列したり、互いに混ぜ合わせたりするのですが、それらはいつもうっとりするほどの美しさです。」
「花瓶の中でゆっくりと色あせて枯れてゆく百日草を見ていると、私はひとつの死の舞踏を、無情との半ば悲しい、半ば甘美な合意を体験するのです。まさにこの上なくはかないものが最も美しく、死んでゆくことさえこんなに美しく、こんなに華麗で、こんなに愛すべきものだということがあるからです。愛する友よ、一度、切り取ってから8日、ないし10日たった一束の百日草を観察してみてごらんなさい!・・新鮮なうちはきわめて派手で強烈な色彩をもっていたこの花たちが、今や比類なく上品で、きわめてもの憂げな、この上もなく繊細なニュアンスをもった色彩になってゆくのをごらんになるでしょう。一昨日のオレンジ色は、今日はネイプルズイエローになります。明後日には淡いブロンズ色を帯びた灰色になるでしょう。」
「花弁の裏側もよく注意してごらんなさい!・・この陰になった側で、このような色彩の変化の戯れが演ぜられるのです。この昇天が、死んでますます霊的なものになっていく過程が、花冠そのものにおけるよりもいっそう薫り高く、いっそう驚異的に演じられるのです。ここでは他の花の世界では見られない失われた色彩が、独特の金属的で鉱物的な色調が、灰色、灰緑色、ブロンズ色などの変わった色が見られるのです。」
「あなたは、高貴なヴィンテージワイン独特のほのかな芳香や、桃の皮とか美しい女性の肌のうぶ毛の光沢を高く評価なさるのとまったく同じように、このようなものをきっと評価してくださるでしょう。私が枯れてゆく百日草の色彩や、野の花の優美な、消えてゆく色調への愛に燃えたとしても、あなたから感傷的なロマンチストだといって笑われることはないと思います。」
もしあなたが百日草をまだ知らなければ、ヘッセの魔術にかかったまま、ほんものの百日草を見ない方がいいかもしれない。花屋では切り花として売っていないかもしれないほど、田舎くさい花なんですから。
(2013年7月31日)
本日(7月30日)韓国釜山高等裁判所は、戦時中、三菱重工業に強制徴用された韓国人らが同社に未払い賃金と損害賠償を求めた裁判の差し戻し控訴審で、原告らの主張をほぼ全面的に認め、三菱重工業に賠償を命じる判決を言い渡した。今月10日には、ソウル高裁が新日鐵住金に対して同様の判決を言い渡している。認容額は、新日鐵訴訟が労働者4人に対して1人当たり1億ウォン(約880万円)、三菱重工訴訟が労働者5人に対して1人当たり8000万ウォン(約700万円)である。
この戦時徴用被害者に対する日本企業の責任を認める判決は、2012年5月24日の大法院(最高裁)差し戻し判決に添うものとして予想されていた。おそらくは、再上告審でも覆ることはあるまい。同判決の内容紹介については、簡にして要を得た下記の国会図書館報告(菊池勇次氏執筆)がある。是非参照されたい。
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3507790_po_02520114.pdf?contentNo=1
事案の概要は以下のとおり。
日本の植民地支配の時期、韓国人は日本人としての義務を負担し、原告らは戦時中の国家総動員法下で徴用工として日本に渡航、日本企業に就労した。戦後賃金未払いのままの帰国を余儀なくされ、未払賃金の支払と、過酷な扱いを受けたことに対する損害賠償を求めて、まずは日本の裁判所に提訴した。最高裁での敗訴が確定の後、韓国の裁判所に救済を求め、1・2審敗訴となったが、上告審である大法院で逆転、破棄差し戻しとなった。その差し戻し審の判決が、ソウルと釜山の今回の高裁判決である。なお、三菱重工で就労した5人は1944年8?10月から終戦まで広島にあった同社の機械製作所と造船所で働いて被爆している。帰国後も後遺症としての身体の障害に苦しんだという。
大法院の判決においては、本件の争点は、以下の4点とされた。
?原告の請求を棄却した日本の判決を承認するか否か、
?旧三菱重工と三菱重工、旧日本製鉄と新日本製鉄の同一性、
?日韓請求権協定の締結により、原告の請求権が消滅しているか否か、
?損害賠償の消滅時効が成立しているか否か
韓国大法院は、以上の4点についていずれも原告の主張を認める判断をした。
?については、日本の判決は植民地支配が合法であるという認識を前提に国家総動員法の原告への適用を有効であると評価しているが、日本による韓国支配は違法な占領に過ぎず、強制動員自体を違法とみなす韓国憲法の価値観に反していることが明らかであると指摘し、日本の判決を承認して原告らの請求を棄却した原判決は、外国判決の承認に関する法理を誤解していると判示した。
?は、さほどの重要論点ではないが、原判決において請求を棄却した理由となっていた。大法院判決は、両社は実質において同一性を維持しており、法的には同じ会社であると評価するのに十分であるとした。
?は最重要論点である。大法院判決は「日韓請求権協定は、日韓国家間の債権債務関係を政治的合意によって解決したものであり、…日本の国家権力が関与した強制動員などの違法行為に対する損害賠償請求権は、日韓請求権協定によっても消滅していない」と判示した。さらに、注目すべきは、「条約の締結により、国民個人の同意なくその請求権を消滅させることができると見るのは、近代法の原理に反する」と指摘していること。原告の未払賃金も損害賠償も、個人請求権は請求権協定により消滅していないと判示した。
?については、1965年の協定成立まで日韓の国交が断絶しており、1965年以降も日韓請求権協定の関係文書がすべて公開されず、個人の請求権が包括的に解決されたという見解が韓国内で一般的に受け入れられてきたため、「原告が請求権を事実上行使することができない障害事由があったと見るのが妥当であり、被告が消滅時効の完成を主張し、原告に対する債務の履行を拒絶することは、著しく不当かつ信義誠実の原則に反するもので許されない」と判示し、消滅時効の完成を認めた原判決を破棄した。
この大法院の見解(とりわけ上記?)は、韓国政府とは明らかに異なる。これまで同政府が日韓請求権協定の対象外としていたのは日本軍慰安婦、原爆の被害者、サハリン残留韓国人の請求権を数える。2012年大法院判決は、徴用された労働者などにも対象を広げたもので、韓国政府の従来の主張を超えている。韓国憲法裁判所だけでなく、大法院も、政府見解におもねることなく、「司法の独立」を堅持していると言えるだろう。日本で人権訴訟に携わる立ち場としてはうらやましい限り。
当然のことながら、この判決の影響は大きい。植民地支配下、朝鮮半島から日本の炭鉱や工場に動員されながら賃金をもらえずに帰国した朝鮮半島出身者は、少なくとも約17万5千人(日本の法務省2010年調査)に上るという。戦争とは、植民地支配とは、かくも悲惨でかくも大規模に人を苦しめる。いまだに、戦後は終わっていないのだ。
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「ハスの花咲く極楽世界の王様金魚」
植物の不思議には、びっくりさせられることばかり。
まずは、ユリやシャクヤクなどの芽だ。ここいら辺に植えてあるのだから、もうそろそろ出てきてもいいのにと、毎日毎日、目を皿のようにして見ていても、見ている間は絶対に出てこない。忘れたことも忘れた頃に、赤みがかった、むっくりした芽がずいぶん伸びているのを見つけてビックリさせられる。チャワンバスの花の蕾もおんなじ。たくさんとはいいません、たった一輪でいいんです、今年こそは咲いてください、と心に願って見張っている。一日に何回も見ていたつもり。先日、チャワンバスの赤紫のとんがった蕾が、水から30センチも伸びているのを見つけてびっくりした。どうして水から蕾の先っちょが出てくるところに気がつかなかったのか。我が儘なことに、蕾を付けてくれた嬉しさが半減してしまう。そして今朝、ピンクの八重の花が開いた。生意気に真ん中に、小さな蜂の巣状の花托を付けている。蜂の子のような、クリーム色の種もちゃんとはいっている。いい匂いとはいいがたいけれど、ほのかな香りまである。
動物にだって不思議なことがある。
このチャワンバスの植えてある水鉢の中には金魚がたった一匹泳いでいる。ラッキーと名付けている。5匹いた小さな和金の生き残りだ。3年ほど前のある日、たった独りになってしまってか、世をはかなんで空中に躍り出てしまった(らしい)。外出から帰って、ふと見ると、半乾きの金魚の干物が砂まみれになっているのを見つけた。全く息をしていない。手に持ってもピクリともしない。シャベルで穴を掘って葬ろうとした時、この世の名残にもう一度水につけてやろうとふと思った。ラッキー。文字通り、水を得た魚となったのです。きっとラッキーは鯉のDNAが強くて、「まな板の鯉」のふりをしていたんだと思う。
それからは、心を入れ替えて、狭い水鉢に安住している。人間の足音がすると、しっぽをふって愛想を振りまくようになった。一回りも二回りも大きくなって、狭い鉢のなかを元気に泳ぎ回っている。ラッキーはハスの花咲く極楽世界の王様だ。
(2013年7月30日)
久しぶりに、李京柱さんを囲んでの一献。とはいえ、私はアルコール類は一切嗜まない。李さんは、席を設けた斉藤・佐藤ご夫妻が勧める自慢のワインや日本酒を味わいつつ、私は専ら冷茶での非対称の酒席。肴は、憲法談義。貴重な韓国の憲法裁判事情を伺った。外国憲法の現実の運用についてお話しが聞けるのは視界が広がってたいへんにありがたい。しかも、最良の講師からの最良の講義を聴けるのはこの上ない幸運。
韓国憲法第5条は、「大韓民国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する。国軍は国家の安全保障と国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される」と記す。第39条「全ての国民は法律が定めるところにより国防の義務を負う」という条項もある。国軍の存在は自明の理としてある。日本国憲法9条とは根本的に異なるし、「平和的生存権」にあたる文言も見出しえない。
その韓国で、果敢に「平和的生存権訴訟」が提起されている。憲法上の根拠条文は、第10条の幸福追求権規定であるという。「全ての国民は人間としての尊厳と価値を有し、幸福を追求する権利を有する。国家は個人が有する不可侵の基本的人権を確認し、これを保障する義務を負う」という条文は、日本国憲法13条に相当し、新しい人権はここから導かれる。また、第37条「国民の自由と権利は憲法に列挙されない理由により軽視されてはならない」も活用されているとのこと。
李さんが紹介された「平和的生存権訴訟」は2件。
その1が、1032名の住民による「平澤米軍基地移転違憲訴訟」(2006年2月23日)。長沼ナイキ訴訟と似た事件である。
韓国が米国と締結した基地移転協定によって、全国の米軍基地を統合して平澤に配置されることになったことに対して、基地周辺住民が「戦争に巻き込まれる可能性があり、平和的生存権が侵害される」として憲法訴願審判を請求した。ここでは、平和的生存権は「武力衝突と殺傷に巻き込まれず平和に生きる権利」と構成された。
これに対して、憲法裁判所は、「今日、戦争とテロ、又は武力行為から自由でなければならないことは人間の尊厳と価値を実現し、幸福を追求する前提になるものであるので憲法第10条と第37条第1項から平和的生存権という名でこれを保護することが必要であり、その基本内容は侵略戦争に強制されずに平和的生存ができるように国家に要請できる権利である」と平和的生存権を基本権として実質的に認めた。
しかし、同判決は「米軍基地の移転の条約締結によって住民が戦争に巻き込まれたとはいえず、権利侵害があったとは言えない」として請求を斥けた。
その2が、「戦時増員演習(RSOI)違憲確認訴訟」(2009年5月28日)
2007年の韓国全土にわたる米韓連合軍事訓練としての「戦時増員演習」について、請求人たちは「本件演習は、北朝鮮に対する先制的攻撃演習で、朝鮮半島の戦争勃発危険を高めて東アジア及び世界平和を脅威するので、請求人たちの平和的生存権を侵害する」と主張して、本件憲法訴願審判を請求した。ここでは平和的生存権は「侵略戦争への加担を強制されることなく平和的に存在することを国に要求する権利」と構成されており、我が国での市民平和訴訟やそれに続く一連の「平和訴訟」に似ている。
憲法裁判所はこの請求を斥けた。平澤米軍基地事件とは異なり、「平和的生存権は理念ではあるが人権ではなく裁判規範ではない」としたのだ。
結局のところ、韓国憲法裁判所は平和的生存権の裁判規範性を否定した。この点についての再挑戦は続けるとして、政治規範としての平和的生存権は否定しようもない。つまりは、平和のうちに生きる権利についての民衆の確信は、政治的に大きな意義を有する。そのようなものとして、国連における平和権宣言の準備が続いており、平澤の平和宣言や、済州島・江汀村の平和宣言などが、内容を豊かにしつつ平和構築のためのビジョンの一つとして有効性を発揮している。
以上が、シンポジウム発言と本日の酒席講義を総合してのまとめ。困難な条件の中で果敢に挑戦して、9条を持つ国よりも優れた成果をあげている韓国の法律家たちに敬意を表するしかない。また、平和的生存権を国際的な民衆の確信とし、さらに実定法上の権利とし、裁判規範にまで高める運動という、「連帯の課題」をみた思いである。
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イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(平凡社)
イギリス人の見本のような人だ。好奇心のかたまり、あくなき冷徹な観察、そのための頑固さ不退転さ。世界中嘗め回すように知り尽くすまではやめないその強固な精神。
ビックリするのは、このイザベラが病弱な47歳の独身女性であること。若い時、脊椎の病気をして、その治療をかねて、世界中を旅して回っている。しかし、この日本の旅には、病気治療に役立つとはとうてい思えない苦労と困難がつきまとう。
1878年(明治10年)6月から9月まで、東京から日光、会津、新庄、秋田、青森を経て、北海道にわたり東京に戻る行程である。イギリスでその旅行記を出版し人気を博する。たぶん女性のひとり旅として、特別に明治政府によって許された、外国人としては最初の道筋をたどる旅だ。案内書などは無論なく、行き当たりばったりの、文字通り草分けの旅。自分で選んだ18歳の日本人青年を、たったひとりの通訳兼案内者として連れて行く。
どこを読んでも興味深く、克明に忌憚なく記された明治初期の日本のありのままの姿は、現在の日本人の心を打つ。イザベラを感嘆させる都市(たとえ田舎であつても)住民の物心両面における洗練された文化と生活ぶり。そして、都市を一歩離れた農村の人々の想像を絶する疲弊、貧しさ、不潔さ。そんなくらしのなかでも惜しみなく子どもを可愛がる親たち。黒山になって外国人女性に押し寄せる人々の健康な好奇心。日本人は、ここから出発して150年、曲がりなりにも民主主義や平和憲法を語るまでになってきたのだ。そう思えば、自分たち自身に対する愛しさで胸が締め付けられるではないか。(少々大げさだけれど)
西日本を大雨の被害が襲った今日、イザベラも惨憺たる苦労を味わった旅行記中の大雨の記述について紹介する。8月2日青森県碇ガ関への道中。「6日5晩の間雨はやまない。ベッドは湿り、着物は湿り、なんでも湿って、靴やかばん、本は黴ですべて緑色になっている。それでもまだ雨は降る。道路も橋も、水田も樹木も、山腹もみな同じように津軽海峡の方に向かってめちゃめちゃに押し流されている。」「膝まで泥につかりながら、水の中を渡り、山腹をよじ登っていった。谷間全体にわたって大きな地辷りがあり、山腹も道路も消えていた。」「いたるところに烈しい水音が聞こえ、大きな木が辷り落ち、他の木もまきぞえをくって倒れた。岩石が崩れて、落ちながら他の樹木を流した。地震のときのように音を響かせながら山腹が崩れ、山半分が、その気高い杉の森とともに、前に突きだし、樹木はその生えている地面とともに、真っ逆さまに落ちてゆき、川の流れを変えた。今まで森におおわれていた山腹は、大きな傷痕を残し、そこから水が奔流となって下り、半時間で大きな峡谷を掘り、下方の谷間に石や砂を雪崩のように運んでいった。」
やっとのことで、馬や鶏、犬などと一緒の泥だらけの宿の屋根裏の部屋にたどりつく。そこで、落ち着く間もなく、今渡ってきた橋が落ちる様を大雨の中で見物することになる。
300本以上の丸太が流れてきて、とうとう「30フィートは充分にある2本の丸太がくっついて下ってきて、ほとんど同時に、中央の橋脚に衝突した。橋脚が恐ろしく震動したかと思うと、この大きな橋は真っ二つに分かれ、生き物のような恐ろしい唸り声をあげて、激流に姿を消し、下方の波の中に姿をまた現したが、すでにばらばらの木材となって海の方向へ流れ去った。下流の橋は朝のうちに流されたから、川を歩いて渡れるようになるまで、この小さな部落は完全に孤立した。30マイルの道路にかかっている19の橋のうちで2つだけが残って、道路そのものはほとんど全部流失してしまった。」
さて、このつづきはまたの機会に。
(2013年7月29日)
7月26日に、防衛省の「検討委員会」が「防衛力の在り方検討に関する中間報告」を発表した。6月末までに公表となるとされていたものだが、参院選が終わるまで時期をずらしたとの印象を免れない。さっそく、防衛省のホームページでプリントアウトして読んでみた。表紙を含めて12頁、さほどの分量ではない。北朝鮮と中国とが、我が国を取り巻く安全保障環境の不安定要因とされている。いつものことながら、敵の脅威が存在するから防衛力が必要なのか、防衛力がある以上は敵の脅威をあげつらわねばならないのか、奇妙な印象を払拭し得ない。
各紙が注目し問題としているのは、「専守防衛路線を踏み外し、日本の軍事政策の重大な転換となる」のではないかという重大な懸念。具体的には、「敵基地攻撃能力の保有を検討課題とする考え方を示した」「自衛隊の海兵隊的機能の整備を明記」の2点。
まずは、「敵基地攻撃能力の保有検討」の件。
中間報告の記載は、「北朝鮮による弾道ミサイルの能力向上を踏まえ、我が国の弾道ミサイル対処態勢の総合的な対応能力を充実させる必要がある」というもの。これを「北朝鮮を念頭に置いた『弾道ミサイル対処強化』の一環として『総合的な対応能力を充実させる必要がある』と明記することで、敵基地攻撃能力の保有が検討課題との考え方を示した(日経)」と読まねばならない。
赤旗は、もう少し丁寧に、「北朝鮮を念頭に『弾道ミサイル攻撃への総合的な対応能力を充実させる必要がある』と強調。この記述について同省は『打撃力も検討の対象に入っている』と説明し、戦闘機やミサイルなどで敵の発射基地をたたく『敵基地攻撃能力』の保有を検討する姿勢を示しました」と報道している。
なるほど、能力向上した弾道ミサイルへの「対処態勢の総合的な対応能力を充実」策としては、ミサイル基地の攻撃が最も手っ取り早く確実な方法に違いない。しかし、このことは、「専守防衛」という概念の成立に根本的な疑念を投げかける。「自衛」とは、相手国からの攻撃あって初めて成立する。相手国の攻撃がないうちの「自衛行為」はありえない。ところが、「相手国の攻撃能力が迅速で強大だから、攻撃を待ってからの自衛権の行使は手遅れで成立し得ない」となれば、先制的な武力攻撃が自衛の名において実行されることになる。双方が、「武力の保持は自衛のため」「先制攻撃はしない」との誓約のもと、武力対峙の中の「平和」が保たれるはずが、「自衛的先制攻撃」あるいは「先制的自衛権行使」を認めた途端に、「先にボタンを押した者が勝ち」となる。今回の中間報告は、世論の顔色を窺いながら、そのような危険水域に踏み込もうというのだ。
次いで、「自衛隊の海兵隊的機能の整備」である。こちらは、明記されている。
中国からの島嶼部への攻撃を想定して、「島嶼部への攻撃にたいして実効的に対応するためには、あらゆる局面において、航空優勢及び海上優勢を確実に維持することが不可欠である。また、事態の推移に応じ、部隊を迅速に展開するため、機動展開能力や水陸両用機能(海兵隊的機能)を確保することが重要となる」「事態の迅速な対応に資する機動展開能力や水陸両用機能(海兵隊的機能)の着実な整備のため、…水陸両用部隊の充実・強化等について検討する」という。
「水陸両用機能(海兵隊的機能)」は敵国上陸を任務とする外征専門部隊である。これまで、専守防衛に徹する自衛隊にはふさわしくないとされてきた。「島嶼防衛」を口実として、それを持とうという。「自衛」隊の性格や国際的なイメージを転換することになるだろう。
自衛隊の9条合憲性は、「自衛のための最小限の実力」であることによって、かろうじて保たれている。だからこそ、日本は弾道ミサイルも持たず、空母も、戦略爆撃機も、原子力潜水艦も持たない。当然のことながら、9条2項の存在は、外国基地攻撃能力や外征部隊の保持を許さない。憲法を改悪して、9条2項を削除し、自衛隊ではなく国防軍を持とうという安倍自民党にとっては、この「中間報告」は実質的な改憲の先取りにほかならない。
参院選が終わって、しばらくは選挙がない。傲った自民党はこれから本性を表してくる。秘密保全法案の議会提案もしかり。集団的自衛権についての解釈の変更もしかり。そして、「中間報告」で世論の動向を窺いつつ、今年暮れの「防衛大綱」の策定もしかりである。声を上げねばならない。
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『上野動物園のイクメン・ゴリラ』
上野動物園では、パンダ舎は素通りしてゴリラ舎に直行するという熱心なファンが大勢いる。そのゴリラ舎では、母親モモコが生後三ヶ月の女の子モモカを片時も離さず、幸せそうに育児に励んでいる。ファミリーは威厳にみちみちた父親ハオコと母親のモモコ、三歳のお姉ちゃんのコモモ、赤ちゃんのモモカ、面倒みが良すぎるおばさん(といっても血は繋がっていない)のトトとナナの6人で構成されている。
動物園の動物飼育に感情移入はいけないというコンセプトもあるが、ファンが自分の人生に引きつけて物語を作るのを止めるわけにはいかない。父親のハオコがシルバーバックの大きな背中を観客に見せて、どっしりと座っているのを見れば、「うちのお父さんより、頼りになるわ」とうっとり。モモコが、いとおしそうにモモカにおっぱいをやって抱きしめているのを見れば、立派なお母さんぶりだと感心しきり。モモカがお母さんの腕の中からキラキラ輝く目つきでまわりを見回したり、生後3月なのに移動するお母さんの腕にしっかりと「だっこちゃん」のようにしがみついているのを見れば、「まあ、ずいぶん賢こそうで、すばらしい運動能力をお持ちですこと」とうらやましくもなる。
檻のこちら側ではなく、内側にはいって、あれこれ話してみたい気分。「こんな狭い檻の中に閉じ込めて申し訳ない」と謝罪したり、「お国では軍事紛争があって、生活が大変そうですよ」と世間話もしてみたい。それを実践してしまったのが「霧の中のゴリラ」(早川書房)という著書のあるダイアン・フォッシーさん。シガニー・ウィルバー主演の映画は好評だった。
今、話題の中心は、父親ハオコの「イクメン」ぶり。やんちゃ盛りの長女のコモモの育児を一手に引き受けている。1歳ぐらいまで、体のでかい、強面の父親が近づくと、怖がっていたコモモも今ではお父さんべったり。友達のいないコモモのわがままをトトとナナがあやして、ゆったりと仲良く暮らしている。ファンにとっては心が慰められる風景である。
それに引き替え、人間社会は格段に厳しさを増している。厚労省の2012年度調査によると、男性の育休取得率は1.89%、女性は83.6%となっている。お父さんの育休取得者は50人に1人、しかもほんの短期間。41.3%が5日未満だという。お母さんも12ヶ月未満が33.8%、12ヶ月?18ヶ月未満が22.4%。安倍首相がノーテンキに「赤ちゃん抱き放題3年」といったけれど、そんな幸せな母親はわずか0.7%。出産前にやむを得ず退職した人は数に入れていない。育休後退職した人も10%いる。派遣社員の取得率は71.4%と低くなっている。
なぜ育休をとる人が少ないかは、分かりきったこと。収入が少なくなるから。そのうえ、へたをすれば、職自体を失う恐れがあるからだ。子どもが1歳になるまで、「育児休業給付金」として、休業前の賃金の5割が、雇用保険から出るだけだからだ。上限は21万円。これでは母親は、ましてや父親も、おちおち休んでなどいられない。
誰だって赤ちゃんはかわいい。ゆっくりと「抱き放題」していたい。それができるのは、安倍首相とハオコ・ファミリーに代表される特権階級だけなのかもしれない。
(2013年7月28日)
本日は日本民主法律家協会の第52回定時総会。かつてない改憲の危機の存在を共通認識として、国民的な改憲阻止運動の必要と、その運動における法律家の役割、日民協の担うべき任務を確認した。そのうえで、この大切な時期の理事長として渡辺治さんの留任が決まった。
総会記念のシンポジウム「東アジアの平和と日本国憲法の可能性」が、有益だった。パネラーは、中国事情報告の王雲海さん(一橋大学教授)と、韓国の事情を語った李京柱さん(仁荷大学教授)。お二人とも、達者な日本語で余人では語り得ない貴重な発言だった。その詳細は、「法と民主主義」に掲載になるが、印象に残ったことを摘記する。
王さんは、中国人の歴史観からお話を始めた。「近代中国の歴史はアヘン戦争に始まる」というのが共通認識。以来、帝国主義的な外国の侵略からの独立が至上命題であり続けている。だから、中国における「平和」とは、侵略を防いで独立を擁護することを意味している。改革開放路線も、「外国に立ち後れたらまた撃たれる」という認識を基礎とした、中国なりの「平和主義」のあらわれ。
1972年の国交回復後しばらくは、「日中蜜月」の時代だった。9条を持つ日本の平和主義への疑いはなく、日本の非平和主義の側面は米国の強要によるものという理解だった。それが、90年代半ばから、日本自身の非平和主義的側面を意識せざるをえなくなり、「尖閣国有化」以後は、「核武装して再び中国を侵略する国となるのではないか」という懐疑が蔓延している。一方、日本は予想を遙かに超えた経済発展の中国に対して、「中華帝国化」「海洋覇権」と非難している。
今、日中相互不信の危険な悪循環を断たねばならない。民主々義は衆愚政治に陥りやすい。ナショナリズムを煽る政治家やそれに煽動される民衆の意思の尊重ではなく、憲法原則としての平和主義が良薬となる。民主主義の尊重よりは、立憲主義を基礎とした平和主義の構築こそが重要な局面。「市民」ではなく、法律家や良識人の出番であり、その発言と民意の啓蒙が必要だと思う。
李さんは、「たまたま本日(7月27日)が朝鮮戦争停戦協定締結60周年にあたる」ことから話を始めた。朝鮮戦争当時南北合計の人口はおよそ3000万人。朝鮮戦争での戦争犠牲者は、南北の兵士・非戦闘員・国連軍・中国軍のすべて含んで630万余名。産業も民生も徹底して破壊された。当時マッカーサーは、「回復には100年以上かかるだろう」と言っている。朝鮮半島の平和の構築は、このような現実から出発しなければならなかった。
それでも、南北の平和への努力は営々と積みかさねられ、貴重な成果の結実もある。南北間には、1991年の「南北基本合意書」の締結があり、南北の和解の進展や不可侵、交流協力について合意形成ができている。92年には「韓半島非核化に関する共同宣言」もせいりつしている。そして、国際的な合意としては、2005年第4次6者会談における「9月19日共同声明」がある。ここでは、非核化と平和協定締結に向けての並行推進が合意されている。一時は、この合意に基づいた具体的な行動プログラムの実行もあった。
しかし、今、南北の関係は冷え切ったどん底にある。平和への道は、9・19共同声明と南北基本合意書の精神に戻ることだが、それは日本国憲法の平和主義を基軸とする「東アジアにおける平和的な国際関係構築の実践過程」である。その観点からは、日本における9条改憲と集団的自衛権容認の動きは、朝鮮半島の平和に悪影響を及ぼす。
王さんも李さんも、日本国憲法9条の平和主義にもとづく外交の重要性を語った。平和主義外交とは、相互不信ではなく、相互の信頼に基づく外交と言い換えてもよいだろう。会場から、浦田賢治さん(早稲田大学名誉教授)の発言があり、「日本外交の基本路線は、アメリカ追随の路線ではなく、独自の軍事力増強路線でもなく、憲法9条を基軸とした平和主義に徹した第3の路線であるべき」と指摘された。
中・南・北・日のすべての関係国が、「他国からの加害によって自国が被害を受けるおそれがある」と思い込む状況が進展している。ここから負のスパイラルが始まる。これを断ち切る「信頼関係の醸成」が不可欠なのだ。憲法9条墨守は、そのための貴重な役割を果たすことになるだろう。9条の明文改憲も、国家安全保障基本法による立法改憲も、そして集団的自衛権行使を認める解釈改憲も、東アジアの国際平和に逆行する極めて危険な行為であることを実感できたシンポジウムであった。
(2013年7月27日)
1941年に太平洋戦争開戦直後に日本軍は当時英領だったボルネオ島に上陸、1942年から1645年まで北ボルネオに軍政を敷いて占領軍として現地を支配した。その中心の街が当時の名称でアピ、現在のコタキナバルである。日本軍占領の記憶の残る街がTPP交渉の開催地となり、初めて日本が参加した。
日本の参加は、23日から25日まで、わずか3日間。この間何が行われ、交渉がどう進展したか、皆目分からない。日本代表団がどう発言したかすら、秘密のベールに包まれている。確かな情報は、交渉団の情報隠しの姿勢のみ。
いつもは歯切れの良い赤旗の特派員もお手上げの体だ。
【26日付赤旗】マレーシアのコタキナバルで15日から行われていた環太平洋連携協定(TPP)第18回交渉は25日、日本向けの説明会である2日目の「日本セッション」を開いて閉幕しました。次回の第19回交渉は8月22日から30日までブルネイで開かれます。
鶴岡公二首席交渉官ら日本政府関係者は、交渉参加時に署名した「守秘契約」を理由に、日本が主張した内容をいっさい明かしませんでした。
12カ国の首席交渉官は会合終了後、共同記者会見を開きました。日本がコメなどの関税撤廃除外を主張したかについて、鶴岡氏は「何を言ったかを明らかにすることは適切ではない」と言及を回避。一方、主催国マレーシアのジャヤシリ首席交渉官は「包括的な自由化が目標だ」と言明しました。
日本政府は25日も、利害関係団体に対する説明会を開催。しかし、「日本政府が何を主張したかを明らかにすることも、交渉内容を話すことになる」の一点張り。農業団体代表は「対策の立てようがない」と途方に暮れたようすでした。
「こんなの有りかよ」というのが偽らざる感想。なにゆえ、こうまで守秘の殻にこもらねばならないのか。本来行政には透明性が確保されなければならない。よほど、都合の悪いことが進行しているのだと推察せざるを得ない。100人の交渉団の中に、一人のスノーデンもいないのか。
TPPによる「包括的な自由化」は、けっして国民全体の利益にはならない。むしろ、国際的大企業の利益のための開国となることが目に見えている。あらゆる部門で関税障壁のみならず、「非関税障壁」の撤廃が求められる。これまで労働者や消費者の利益を擁護するためとして設けられた社会的規制のすべてが、外国資本からのクレームの対象となる。農業は壊滅的打撃を受け、医療保険は崩壊し、雇用の不安はいっそう促進し、消費生活の安全も環境行政も大きな後退を余儀なくされる。それでもなお、いったいなにを求めてのTPP参加なのだろうか。まったく理解に苦しむ。
とりわけ、司法に携わるものにとっての関心事は、TPPに付随することが確実なISD条項である。日本国内に投資した外国企業の法的権利として、実体法的な権利と、国内の裁判所をスルーして国際仲裁に付する手続的権利とが保障されている。そして、この仲裁の裁定がどのような結論となるかは予想がつかない。これは大ごとだ。
仮にの話し。自民党大勝で原発再稼動有りと読んだ海外投資家が、日本国内の原発に投資したとする。しばらくは、投資が実を結んで利益を出していたが、自民党の正体ばれて政権がひっくり返り、新政府が「即時原発ゼロ政策」をとったとした場合の問題。常識的には、その海外投資家は、「投資にはリスクが付きもの」と己の不明を恥じて出資の回収を諦めることになる。ところが、ISD条項は、この海外投資家が日本国に損害賠償を請求できるとするのだ。投資資金の元本だけでなく、期待した利益の回収もあり得る。国に、政策を転換して投資家の利益ないしは期待を侵害した責任をとれというコンセプトである。ISD条項とは、「これあるから、安心して遠慮なく他国に投資をしなさい」という投資誘導策として機能する。原発政策だけではない、消費者保護も、環境保全も、実例があるから恐ろしい。
そのようなときに、「TPPに反対する全国の弁護士のネットワーク」が作られることになったという呼び掛けが回ってきた。7月29日付で、「TPP交渉参加からの撤退を求める弁護士の要望書」への署名の要請もある。
呼びかけ人の筆頭に、宇都宮健児君の名があるが、要望書の起案者は愛知の岩月浩二さんだろう。これまでのISD条項を中心とするTPP問題での岩月さんの発言には刮目してきた。岩月さんの論文で多くのことを学んだ。論文の完成度が高いと評価もしてきた。TPP参加を鋭く糾弾する岩月説には最大限の敬意を評する。その方向に賛意を惜しまない。しかし、岩月説そのままの要望書に賛同の署名を求められると躊躇せざるを得ない。
他の弁護士が起草した案文に、賛同を求められることの機会は多々ある。しかし、私は軽々には賛同署名はしない。内容に責任が持てると確信した場合にだけ、賛同し署名に応じる。その事情は、他の弁護士も同様だ。弁護士だけでなく市民運動全体の常識でもあろう。私自身が起草して、他の弁護士への賛同を求めることも少なくないが、簡単に賛同署名は得られない。
昨年暮れの都知事選では、私が起案した宇都宮君推薦を内容とする「在京弁護士共同アピール」に賛同署名を求めたが、賛同者は400人に達しなかった。まことに難しいものだ。
岩月さんなどの先進的啓蒙活動の成果として、多くの弁護士がISD条項を中心とするTPP協定を、究極の新自由主義的政策の表れと理解している。消費者問題・労働問題などに携わる弁護士として、「TPP交渉参加反対」あるいは「TPP交渉からの即時撤退」のレベルであれば、多くの賛同者を得ることができよう。しかし、呼び掛けられた要望書の内容は、ISD条項を、憲法76条1項(「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」)に違反すると断定し、憲法41条(「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」)に違反する疑いがある、ことの論証に紙幅が費やされている。そこまでの合意を求めるのは、賛同者が少なくても内容のインパクトを求めるものであろう。
TPP問題は年内勝負。弁護士の世界にもようやく巻き起こった反対運動に期待したい。呼びかけ人の皆様に、お骨折りをお願いしたい。
7月までのネコが、8月にはオオカミになる。選挙後の自民党の変身が心配される。まずTPP交渉であり、原発再稼動であり、そして集団的自衛権の解釈変更である。中でも焦眉の急の問題として、8月15日の靖国参拝問題が懸念される。
本日、複数のメディアが「安倍首相 終戦記念日の靖国参拝見送りへ」「中・韓に配慮」と報道している。参院選での圧勝による政権基盤強化の余裕なのかも知れないが、取りあえずは結構なこと。
たまたま本日、〔ソウルー時事〕が次の記事を配信している。
「27日の朝鮮戦争休戦60周年を前に、北朝鮮・平壌で25日、朝鮮戦争に参戦した兵士の墓地『祖国解放戦争参戦烈士墓』が完成し、竣工(しゅんこう)式が行われた。金正恩第1書記がテープカットを行い、黙とうをささげた。朝鮮中央通信など北朝鮮メディアが伝えた。」
日本の靖国神社と、北の「祖国解放戦争参戦烈士墓」。似ているようでもあり、ちがうようでもある。
安倍晋三と金正恩とは、ともに「国のために戦った方々に敬意と尊崇の念を表し、冥福を祈るのは当然だ」と考えている似たもの同士。「お国ための戦死者を国が祀らないで、誰が国に命を捧げるか」という点でも、「これから兵士には危ないことをさせるのだから、安心して死ねるよう死後の安住の設備を整えておかなくては」という思いでも、きっと意気投合の間柄。この点は瓜二つのそっくりさん。
しかし、靖国と烈士墓とは、神社と墓地という決定的な違いがある。いうまでもなく靖国神社は特定の宗教施設だが、墓地は宗教宗派を超えた存在で、必ずしも宗教と結びつかない。
我が日本国憲法の厳格な政教分離原則は、戦前の国家神道が国民の精神支配の道具となった点の反省から生まれている。とりわけ、「天皇への忠死者を神として祀る」という軍国主義的信仰を廃絶するための憲法原則である。だから、首相の靖国神社参拝は、「外交上賢明な対応として避けるべき」という筋合いのものではない。我が国の根本規範としての憲法が、「国の代表者が公的資格において靖国神社を参拝することを許さない」としているのだ。参拝の対象が、神社ではなく、一切の宗教色を排した墓地となるとずいぶん話しが違ってくる。
では、北の烈士墓には宗教性がない(あるいは希薄)から問題はないのか。報道の画像を見る限り違和感を禁じ得ない。まるで、天皇の行幸の雰囲気。墓地の竣工式は戦前の臨時大祭に相当するのだろう。墓地といえども、あれはやはり事実上の「ヤスクニ」だ。
おそらく問題の本質は、戦死という国民個人の悲劇を、個人次元のものから国家が取りあげて、国家目的遂行に適合するよう再構成してしまうところにある。「戦死者の魂の国家管理」と言ってもよい。戦死は個人的に悼むべきものではなく、お国のための名誉の戦死と意味づけられる。戦死がもたらす死者の周囲への反戦・厭戦の心理は払拭される。戦争の悲惨さ、戦争の犯罪性は捨象され、聖戦における皇軍兵士の忠死として、戦争への批判を許さない。
そのような戦死者の取扱いとしては、かつての日本では神道形式による「魂の管理」が国民心理に適合的であった。今、北では「将軍様にお参りいただける烈士墓」の形式が適合しているのだろう。いずれも、これから戦没者となりうる兵士やその家族に、死を公的なものとして覚悟させ、戦死を意義あるものとして受容させる国家的心理装置なのだ。
安倍首相の靖国神社公式参拝が実現すれば、それは過去の戦没者たる祭神に対する礼拝の要素は希薄である。むしろ、これからの戦没者を意識してのものといわねばならない。国防軍を作り集団的自衛権を認めて、専守防衛を超えた戦争をする国としようという安倍にとっては、新たな戦争による新たな戦没者を合祀する施設としての靖国が不可欠であり、その靖国への国家的な権威付けが必要なのだ。当然のことながら、天皇の利用も念頭にあるに違いない。
改憲・国防軍・戦争、その三題噺を見据えての靖国神社公式参拝への執念なのだ。
(2013年7月25日)
本年6月にサンオノフレ原発(カリフォルニア)が廃炉になった。それに伴う三菱重工の賠償責任問題に関心を持たざるを得ない。原発輸出リスク顕在化の実例としてである。
7月19日付で、三菱重工のホームページ「株主・投資家の皆様へ」欄に、「米国サザンカリフォルニアエジソン社・サンオノフレ原子力発電所廃炉について」と題する記事が掲載された。要約すると以下のとおりである。
「2013年7月18日、米国サザンカリフォルニアエジソン社(SCE)は、サンオノフレ原子力発電所(SONGS)の取替用蒸気発生器の供給契約上の責任上限を超えて多額の損害賠償を請求する意思を記載した紛争通知を、三菱重工業に送付した旨発表しました。
SONGS 2号機と3号機は、(三菱重工が納入した)蒸気発生器の冷却水が漏えいした2012年1月から運転を停止しており、2013年6月7日、SCEは2号機、3号機の廃炉を決定しました。漏えいの直接的原因となった事故は、これまで発生したことのないものです。
SCEが紛争通知の中で述べている主張および要求は、交渉の経緯、契約履行の事実を正確に反映していない不適切な内容であり、根拠のないものです。
契約上の当社の責任上限は約1億3,700万米ドルであり、間接損害は排除されています。現時点で当社業績への影響はないと考えております。」
これだけだと分かりにくいが、今朝の毎日の「米電力会社 三菱重工に全額賠償請求」という見出しの記事が要領よく事情を伝えている。
『廃炉が決まった米カリフォルニア州のサンオノフレ原発を運営する電力会社のサザン・カリフォルニア・エジソン社(SCE)が、トラブルを起こした蒸気発生器を納入した三菱重工業に対し、原発停止で生じた損害全額を賠償するよう求めている。三菱重工側は「責任上限額を超える賠償責任はない」と反論しているが、米国では「懲罰的賠償のリスク」(業界筋)もあるだけに事態の行方は予断を許さない。事故発生時に巨額賠償を迫られることになれば、原発輸出を推進する日本政府や三菱重工など大手メーカーに冷や水を浴びせそうだ。
SCEは今月18日、「蒸気発生器の欠陥は基本的かつ広範。三菱重工はSCEや顧客が被った損害全額の責任を負うべきだ」とする文書を三菱重工宛てに送付したと発表。賠償請求額は明らかにしていないが、SCEは原発停止中の代替電力確保に関わる費用の支払いなども求めている模様。現地メディアでは請求額は数十億ドル規模とも報道されている。SCEと三菱重工が機器納入時に結んだ責任上限額(約1億3700万ドル)を上回るのは確実だ。協議で90日以内に解決できなければ、SCEは裁判所に仲裁手続きを求める意向だ。
これに対し、三菱重工は19日「SCEの主張は不適切で根拠がない」とのコメントを発表。原発停止に伴う代替電源確保などの間接的な損害は請求されない契約だとして、全面的に争う構えを示す。三菱重工は責任上限額分は業績に織り込んでいるが、それを大幅に上回る賠償を迫られれば、業績への打撃は必至だからだ。
東京電力福島第1原発事故後、国内で原発新増設が困難となる中、三菱重工や東芝、日立製作所など原発メーカーは政府の後押しを受けて海外ビジネスに活路を求める。ただ、原発需要が高まるアジアでは、インドのように事故の際、メーカーが巨額の製造物責任を問われかねない国もある。今回は契約で責任が明記された米国で多額の賠償を求められかねない事態で、業界には波紋が広がる。大手メーカー幹部は「電力会社側の保守や運用にも問題があるはず。メーカーだけに事故責任を負わされてはたまらない」と話すが、原発輸出のリスクが浮き彫りになった形だ。』
またまた、原発に関して「想定外の事故」が起こって、廃炉を余儀なくされた。想定外の事故の原因となったのは、三菱重工の納入部品。想定外の事故だから、あるいは予見不可能な事故だから免責されるなどということはありえない。同社は、損害賠償の責めを負う。ここまでは当然のこと。問題は、賠償損害の範囲と金額である。
米国サザンカリフォルニアエジソン社(SCE)も三菱重工も、幾らの賠償請求をしたのか明らかにしていない。毎日の報道では、「損害全額」「現地メディアでは請求額は数十億ドル規模」という。三菱重工はこれを不当として、「契約上の当社の責任上限は約1億3,700万ドル」と主張している。
この事件はいろんなことを考えさせる。
まず、地震や津波、テロ、戦争などの「異常」に起因しない平常時にも原発事故は起こりうるということ。文字通り、「想定外の事故」とは、どんな想定をも易々と乗り越える。ネズミ一匹での大惨事も現実にあり得るのだ。
原発というシステムの脆さ危うさは、物理的なものだけでなく、社会的ないしは社会心理的な要因を考慮せざるを得ない。三菱重工は「冷却水漏れは微量」とコメントしている。もしかしたら、同社が言うように火力発電設備であれば許容範囲といえる程度のものであるのかも知れない。しかし、スリーマイル島や福島の事故を経験している社会は、「微量」を絶対に許容し得ない。
今回の事故は、現実の災害にまで至らずに済んだが、廃炉による損害賠償債務というリスクをクローズアップさせた。「契約上の賠償額の限定」の主張が認められるかは定かでない。場合によれば、とてつもない巨額の賠償義務もあり得る。
アベノミクス「3本目の毒矢」である成長戦略には「原子力規制委員会の規制基準で安全性が確認された原発の再稼働を進める」とされている。安倍首相がトップセールスで売り込んでいる先は、ベトナムだけでなく、トルコ・アラブ首長国連邦、サウジアラビア・インド・ポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリーなどに及ぶ。「日本は世界一安全な原発の技術を提供できる」というブラックジョークを武器にしてのこと。
しかし、原発輸出は、道義的にあってはならないというだけでなく、あらゆる意味でリスクが大き過ぎる。そのリスクは、サンオノフレの廃炉と、三菱重工が受けている賠償請求によって既に現実のものとなっている。国家が原発輸出セールスをするということは、国家がそのリスクを引き受けるということでもある。とんでもない。直ちにやめていただきたい。
(2013年7月24日)
参院選の東京の票を出方を見ておどろいた。
各党の比例代表の獲得票は以下のとおり(万未満四捨五入)。
1 自民党 180万
2 共産党 77万
3 みんな 71万
4 公明党 69万
5 維新 64万
6 民主党 59万
7 生活 12万
8 社民党 12万
共産党が第2党の座を占めている。その得票率は13.71%。既に、政策内容だけでなく獲得票数の上でも自共対決時代の幕が開いている。これまで自民党と対抗してきた民主党は、第6党に凋落した。おそらく、回復の目はない。
回復の目があるまいという理由の一つが、民主党比例代表当選者7名のうちのたったひとり(大島九州男)を除く、下記6名の顔ぶれである(括弧内は主たる経歴)。
磯崎哲史 (自動車総連特別中央執行委員)
浜野喜史 (電力総連会長代理)
相原久美子(自治労組織局次長)
神本美恵子(日教組教育文化局長)
吉川沙織 (NTT労組特別中央執行委員)
石上俊雄 (東芝グループ労組連合会副会長)
この当選者たちは連合の組織内候補。要するに、自動車総連・電力総連・自治労・日教組・情報労連・電機連合等々の幹部なのだ。それぞれの業界の利益代表でもある。圧力団体としての連合や単産はあれども、民主党という政党がはたして存在していると言える状態なのだろうか。
東京選挙区から出馬して落選した鈴木寛候補も電力総連との因縁が深い。前回選挙の際に鈴木寛候補の選対本部長を務めたのは小林正夫(電力総連副委員長)だった。それあらんか、鈴木寛の4本の重要政策のうち3本は、「現実的な卒原発」「TPP賛成。超党派で経済成長」「必ず、オリンピック招致」というもの。もう1本の「自民党の戦前に戻る憲法草案を止める」が取って付けたよう。これが民主党の政策のレベルなのだ。
参院選の開票を終えたいま、改めて革新の共闘(あるいは共同行動)の成立条件を考える。
共闘は、アプリオリに重要でも必要でもない。政党や民主団体単独では力量が不足し、達成し難い課題について共闘の必要が生じる。脱原発・消費増税反対・秘密保全法成立阻止・雇傭規制緩和反対・教科書検定強化反対等々のシングルイシュー共闘と、首長選挙のごとき包括的な共闘、そして改憲阻止・安保廃棄共闘のごときその中間的なものが考えられる。シングルイシュー共闘は比較的成立が容易であるが、包括的な共闘は信頼関係の醸成なくして成立が格段に困難となる。取りあえずは、もっとも困難な首都の知事選の共闘を念頭に置くこととする。
革新共闘の主体についてはどう考えるべきだろうか。政治を動かすに足りる規模の「革新共闘」には、共産党の参加が不可欠となっている。好むと好まざるとにかかわらず、共産党を除いた革新的な共同の事業の成功はおぼつかないし、おそらくは意味がない。
改めて東京選挙区の「非保守系」候補の得票は以下のとおり。
吉良佳子(共・当選)70万票
山本太郎(無・当選)67万票
鈴木 寛(民・落選) 55万票
大河原雅子(無・落)24万票
これを見る限り、今後の革新共闘の主体は、共産党と無党派市民運動の共闘を軸にするものとなるのだろう。山本太郎の脱原発シングルイシュー票の中に、社民支持票も生活支持票も、そして緑の党も埋没した。各政党とも主体となって、総合的に選挙戦を戦うという構図を描く力量を失っていることを意味する。
これまで、共闘の成立を最優先の課題とする傾向があった。どんな形でも、だれが主導するものにせよ、「とにもかくにも共闘が成立したことそれ自体」を貴重なものとして評価するという傾向である。市民運動が先行して走り出し、各政党に共闘参加を呼び掛ける「この指とまれ」方式しか、共闘成立はないという現実も否定しえなかった。しかし、今、客観状況は変化している。
共闘の成立を真摯に望む関係当事者間において、透明性の高い協議を尽くして共闘の合意に達するという本来のあり方が可能となっている。正攻法を尽くすことなく無理な形での共闘を作りあげる必要に乏しく、成果も期待しがたい。
2016年に猪瀬知事の任期が切れ、次の都知事選を闘う時期がやって来る。12年東京都知事選のような惨敗を繰り返してはならない。泥縄選挙の無力は体験済みである。今回の吉良選挙・山本選挙を見ていると、熱気の度合いにおいて次元が異なることを痛感する。付け焼き刃ではない都政の分析と選挙政策の策定、革新の要にふさわしい候補者の選定、そして戦略や戦術を描くことのできる有能な選対スタッフを、可及的早期につくる努力に着手しなければならない。そして、革新都政実現を願う広範な人々の熱意を生かしきって、革新共闘にふさわしい相乗効果をもたらす都知事選を期待したい。
(2013年7月23日)
昨日の投票の結果、予想がほぼそのまま現実になった。改憲(壊憲)政党・自民党の「大勝」である。改めてたいへんな事態になったと思う。まことに気が重い。
不戦兵士・市民の会の機関誌に、「オオカミが七月まではネコかぶり」(極楽とんぼ)という川柳が掲載されている。衆参のねじれが解消して、いよいよネコはオオカミの正体を現すことになろう。勝ちに傲った政権与党が、数の力で原発再稼動・TPP・辺野古移転・福祉切り下げ・消費増税・教育制度改悪、そして国家安全保障基本法・秘密保全法の制定に邁進することになるだろう。さらに、問題は改憲の発議にある。
衆議院480議席総数の3分の2は320。自・み・維改憲3党の議席合計は366で、既に3分の2ラインを上回っている。参議院242議席総数の3分の2は162であるが、新議席の配分では、自・み・維3党の議席合計は142、新党改革(非改選の荒井広幸)を加えても143で届かない。但し、「加憲」派公明の議席20を加えると163となって、かろうじて発議要件に届くことになる。
今回改選の議員総数121のうち、3分の2は81であるがそのうち自・み・維3党の議員数はちょうど81、これに公明の11を加えれば92となって、3分の2のハードルを十分に超える数になる。今後の衆参両院の憲法審査会の審議と、集団的自衛権をめぐる安保法制懇の答申から目を離せない。防衛大綱もだ。しっかりと監視し、しっかりと批判しなければならない。
それにしても、本当に自民は民意をつかんだのだろうか。自民党の最近の国政選挙における比例得票数の推移は以下のとおりである。
2100万票(衆院2005年)→1650万票(参院2007年)→1900万票(衆院2009年)→1400万票(参院2010年)→1700万票(衆院回2012年)→1800万票(参院2013年・今回)。
歴史的大敗といわれた、第一次安倍内閣時代の2007年参院選でも、自民党は1650万票を獲得していた。今回の1800万票は、それと比較して大差のある得票ではない。「大勝」の要因は、得票増によるものであるよりも、対立政党が多数分立したことによる議席増の要素が強い。
今回選挙の一服の清涼剤は、共産党の8議席獲得である。非改選と合わせての11議席は、自民暴走への強力な歯止めとして期待しうる。個人的には、弁護士出身の共産党国会議員として仁比聡平さんの当選を祝し活躍を大いに期待したい。
比例区共産党515万票は、自民党1846万票に堂々対抗しうる票数である。今後の議会内論戦において、院内外の運動において、この票数は劇的に変化しうる。自民党の構造改革政策で潤う国民は本来一握りしかないはずなのだから。自民党の数を恃んでの暴走は、たちまち民意を失うことになるだろう。そして、自民党から離れた有権者の票の受け皿が共産党となる。それが、自共対決時代の対抗関係なのだ。
(2013年7月22日)