韓国憲法裁判所の平和的生存権
久しぶりに、李京柱さんを囲んでの一献。とはいえ、私はアルコール類は一切嗜まない。李さんは、席を設けた斉藤・佐藤ご夫妻が勧める自慢のワインや日本酒を味わいつつ、私は専ら冷茶での非対称の酒席。肴は、憲法談義。貴重な韓国の憲法裁判事情を伺った。外国憲法の現実の運用についてお話しが聞けるのは視界が広がってたいへんにありがたい。しかも、最良の講師からの最良の講義を聴けるのはこの上ない幸運。
韓国憲法第5条は、「大韓民国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する。国軍は国家の安全保障と国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される」と記す。第39条「全ての国民は法律が定めるところにより国防の義務を負う」という条項もある。国軍の存在は自明の理としてある。日本国憲法9条とは根本的に異なるし、「平和的生存権」にあたる文言も見出しえない。
その韓国で、果敢に「平和的生存権訴訟」が提起されている。憲法上の根拠条文は、第10条の幸福追求権規定であるという。「全ての国民は人間としての尊厳と価値を有し、幸福を追求する権利を有する。国家は個人が有する不可侵の基本的人権を確認し、これを保障する義務を負う」という条文は、日本国憲法13条に相当し、新しい人権はここから導かれる。また、第37条「国民の自由と権利は憲法に列挙されない理由により軽視されてはならない」も活用されているとのこと。
李さんが紹介された「平和的生存権訴訟」は2件。
その1が、1032名の住民による「平澤米軍基地移転違憲訴訟」(2006年2月23日)。長沼ナイキ訴訟と似た事件である。
韓国が米国と締結した基地移転協定によって、全国の米軍基地を統合して平澤に配置されることになったことに対して、基地周辺住民が「戦争に巻き込まれる可能性があり、平和的生存権が侵害される」として憲法訴願審判を請求した。ここでは、平和的生存権は「武力衝突と殺傷に巻き込まれず平和に生きる権利」と構成された。
これに対して、憲法裁判所は、「今日、戦争とテロ、又は武力行為から自由でなければならないことは人間の尊厳と価値を実現し、幸福を追求する前提になるものであるので憲法第10条と第37条第1項から平和的生存権という名でこれを保護することが必要であり、その基本内容は侵略戦争に強制されずに平和的生存ができるように国家に要請できる権利である」と平和的生存権を基本権として実質的に認めた。
しかし、同判決は「米軍基地の移転の条約締結によって住民が戦争に巻き込まれたとはいえず、権利侵害があったとは言えない」として請求を斥けた。
その2が、「戦時増員演習(RSOI)違憲確認訴訟」(2009年5月28日)
2007年の韓国全土にわたる米韓連合軍事訓練としての「戦時増員演習」について、請求人たちは「本件演習は、北朝鮮に対する先制的攻撃演習で、朝鮮半島の戦争勃発危険を高めて東アジア及び世界平和を脅威するので、請求人たちの平和的生存権を侵害する」と主張して、本件憲法訴願審判を請求した。ここでは平和的生存権は「侵略戦争への加担を強制されることなく平和的に存在することを国に要求する権利」と構成されており、我が国での市民平和訴訟やそれに続く一連の「平和訴訟」に似ている。
憲法裁判所はこの請求を斥けた。平澤米軍基地事件とは異なり、「平和的生存権は理念ではあるが人権ではなく裁判規範ではない」としたのだ。
結局のところ、韓国憲法裁判所は平和的生存権の裁判規範性を否定した。この点についての再挑戦は続けるとして、政治規範としての平和的生存権は否定しようもない。つまりは、平和のうちに生きる権利についての民衆の確信は、政治的に大きな意義を有する。そのようなものとして、国連における平和権宣言の準備が続いており、平澤の平和宣言や、済州島・江汀村の平和宣言などが、内容を豊かにしつつ平和構築のためのビジョンの一つとして有効性を発揮している。
以上が、シンポジウム発言と本日の酒席講義を総合してのまとめ。困難な条件の中で果敢に挑戦して、9条を持つ国よりも優れた成果をあげている韓国の法律家たちに敬意を表するしかない。また、平和的生存権を国際的な民衆の確信とし、さらに実定法上の権利とし、裁判規範にまで高める運動という、「連帯の課題」をみた思いである。
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イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(平凡社)
イギリス人の見本のような人だ。好奇心のかたまり、あくなき冷徹な観察、そのための頑固さ不退転さ。世界中嘗め回すように知り尽くすまではやめないその強固な精神。
ビックリするのは、このイザベラが病弱な47歳の独身女性であること。若い時、脊椎の病気をして、その治療をかねて、世界中を旅して回っている。しかし、この日本の旅には、病気治療に役立つとはとうてい思えない苦労と困難がつきまとう。
1878年(明治10年)6月から9月まで、東京から日光、会津、新庄、秋田、青森を経て、北海道にわたり東京に戻る行程である。イギリスでその旅行記を出版し人気を博する。たぶん女性のひとり旅として、特別に明治政府によって許された、外国人としては最初の道筋をたどる旅だ。案内書などは無論なく、行き当たりばったりの、文字通り草分けの旅。自分で選んだ18歳の日本人青年を、たったひとりの通訳兼案内者として連れて行く。
どこを読んでも興味深く、克明に忌憚なく記された明治初期の日本のありのままの姿は、現在の日本人の心を打つ。イザベラを感嘆させる都市(たとえ田舎であつても)住民の物心両面における洗練された文化と生活ぶり。そして、都市を一歩離れた農村の人々の想像を絶する疲弊、貧しさ、不潔さ。そんなくらしのなかでも惜しみなく子どもを可愛がる親たち。黒山になって外国人女性に押し寄せる人々の健康な好奇心。日本人は、ここから出発して150年、曲がりなりにも民主主義や平和憲法を語るまでになってきたのだ。そう思えば、自分たち自身に対する愛しさで胸が締め付けられるではないか。(少々大げさだけれど)
西日本を大雨の被害が襲った今日、イザベラも惨憺たる苦労を味わった旅行記中の大雨の記述について紹介する。8月2日青森県碇ガ関への道中。「6日5晩の間雨はやまない。ベッドは湿り、着物は湿り、なんでも湿って、靴やかばん、本は黴ですべて緑色になっている。それでもまだ雨は降る。道路も橋も、水田も樹木も、山腹もみな同じように津軽海峡の方に向かってめちゃめちゃに押し流されている。」「膝まで泥につかりながら、水の中を渡り、山腹をよじ登っていった。谷間全体にわたって大きな地辷りがあり、山腹も道路も消えていた。」「いたるところに烈しい水音が聞こえ、大きな木が辷り落ち、他の木もまきぞえをくって倒れた。岩石が崩れて、落ちながら他の樹木を流した。地震のときのように音を響かせながら山腹が崩れ、山半分が、その気高い杉の森とともに、前に突きだし、樹木はその生えている地面とともに、真っ逆さまに落ちてゆき、川の流れを変えた。今まで森におおわれていた山腹は、大きな傷痕を残し、そこから水が奔流となって下り、半時間で大きな峡谷を掘り、下方の谷間に石や砂を雪崩のように運んでいった。」
やっとのことで、馬や鶏、犬などと一緒の泥だらけの宿の屋根裏の部屋にたどりつく。そこで、落ち着く間もなく、今渡ってきた橋が落ちる様を大雨の中で見物することになる。
300本以上の丸太が流れてきて、とうとう「30フィートは充分にある2本の丸太がくっついて下ってきて、ほとんど同時に、中央の橋脚に衝突した。橋脚が恐ろしく震動したかと思うと、この大きな橋は真っ二つに分かれ、生き物のような恐ろしい唸り声をあげて、激流に姿を消し、下方の波の中に姿をまた現したが、すでにばらばらの木材となって海の方向へ流れ去った。下流の橋は朝のうちに流されたから、川を歩いて渡れるようになるまで、この小さな部落は完全に孤立した。30マイルの道路にかかっている19の橋のうちで2つだけが残って、道路そのものはほとんど全部流失してしまった。」
さて、このつづきはまたの機会に。
(2013年7月29日)